2016年2月25日木曜日

「日記の魔力」 読書中感想文……「日記などというもので一つの本を書けてしまうのか?」と思って、手にした本

「日記などというもので一つの本を書けてしまうのか?」と思って、手にした本。


「日記の魔力」 この習慣が人生を劇的に変える 
表 三郎

引用開始

「親が叱った瞬間、たしかにあたなはだらしがない格好をしていたのかもしれない。だかそれは、あなた自身が「だらしない人間である」ということとは違う。それなのに、子供は自分で自分に「だらしない人間」というレッテルを貼ってしまうのだ。別に親が悪いわけではない。もちろん子供が悪いわけでもない。

引用終了

これ、健常者と精神病質者では違うんだよね。親が健常者の場合と、精神病質者の場合では違う。精神病質者のメッセージは破滅的だ。だいたい、毒親の攻撃は、毒親の中のものすごい問題から出ていることだ。で、毒親自身も、それがわかってない。

世間の人は、毒親が「家のなかで!!!」どういう状態かまったく知らないので、毒親に育てられたことがない人は、この苛酷さがわからない。健常者の親の場合は、「別に親が悪いわけではない」ということに、賛成だけど、毒親の場合は「親が悪い」わけで、「別に親が悪いわけではない」とは言えない。毒親の場合は、子供が優れていても、怒ってしまう。

たとえば、徒競走で一等賞を取ったとしよう。そうしたら、怒ってしまう。「なんだあいつは!!」「あんなやつより俺のほうが速い」と。もっとも、まわりにいる人が自分の妻とか「うち」の人である場合しかそういうことは言わないのだけど、ともかく、面白くないのである。子供が一等賞を取って、他の人に褒められたら、ものすごく面白くないのである。これが、子供が他の人から褒められた場合の基本的な態度だ。「自分のほうが速い」「自分のほうができる」……こういう病にかかっているのである。

そりゃ、相手は小さな子供なのだから、「自分のほうが速い」に決まっている。特筆すべきは、そういうことを思わずにはおれない、親父の自尊心が、どれだけ傷つけられていたかということだ。めちゃくちゃなのである。親父は、二歳になった時には、両親とも他界していたので、「よそ」のうちで育てられたんだけど、基本的に「いらない子供」だったので、虐待されていたのである。

親父の方の自尊心がめちゃくちゃだから、けなすことで、浮かび上がろうとしているのである。もちろん、浮かび上がりたいから、子供をけなすということを、親父が、意識的に選択していたわけではない。けど、いつもそうなる。親父にとって、そういう物事の解決方法が、自我に乗っていないからこそ、子供に計り知れないほどの影響をあたえるのである。ここらへん、ちょっと違うのである。

普通の親が子供を叱って、それを、自覚している場合とは、ぜんぜん違う。ぜんぜん違う心の機制がある。あとは、子供が失敗をした時は、勝ち誇ったように、なじるということがある。これも、親父の傷ついた自尊心が問題なのだ。こういうのも、親父の側の問題なんだけど、子供の側がそれを「ひきうけない」ことが可能かというと、そうでない。

服に関して言えば、「おまえは、こじきみたいだ」って親父から言われたことがあるよ。俺が乞食みたいな格好をしているのは、親父の稼ぎが悪いからだろ」とは、言い返さなかったけど、そう思った時がある。それから、これは、まったくわかってないのだろうけど、親父にかかわると、こじきみたいな格好をさせられることがある。きちがい親父の「服装に関する」感覚自体がおかしいので、本人はまったく気がついてないのだけど、一つ一つが、思い通りには行かない大変なことになる。

親父が、会社の人から子供用の帽子をもらってきてしまったことがある。そして、その帽子を俺にかぶせようしたことがあるのだけど、それが変な帽子で、絶対にかぶりたくなかったのである。それこそ、普通のTシャツを着てズボンを履いて、その帽子をかぶったら「ちんどんや」みたいなかっこうになる。ぜんぜん、トータルコーディネートができてないのである。変な格好なのである。友達に、バカにされてしまうような格好なのである。変な帽子だから。

けど、きちがい親父が、「もらってきた」となったら、もう、絶対にかぶせないわけにはいかないのである。だから、親戚のうちに行く前も、「かぶれ」「かぶらない」で喧嘩になる。その変な帽子をかぶって外に出るということが、ものすごく、ものすごーーく、屈辱的なことだった。で、よそのひとから、へんだと言われても、知らんぷりだよ。きちがい親父が、発狂して、かぶせたから、……かぶることを強要したから、こっちが恥をかいてるんだろ。まったくわかってない。

……そういうことの、羅列なのである。親父に関わっちゃったら、そういうことになる。いろいろなことでそういう思いをさせられる。それは、親父が、「間違いマシーン」で、「きちがい関数」なので、常に、間違った答えを出してるから、そうなる。

で、修正がないんだよな。何万回やったって修正がない。親父はもう、自分が帽子を「もらってきてやった」ということで、大得意になっているのである。すごいことなのである。「もらってきた」わけで、「買ってやった」わけじゃないというところにも、注目。もらってきてやったら、「どんなもんだ」というほど、誇らしい気持ちなのである。だから、トータルコーディネートはない。

普通の子供らしい格好で、あの帽子をかぶると明らかに変なのである。そういうことが、どれだけ言っても、通じない。妻が、「それは、おかしいから」「本当にちんどんやみたいで変だから……」と言っても、納得しない。「自分が、じ・ぶ・んがぁぁぁぁぁ、もらってきたやったのに、なんだぁぁぁ!!」ということになる。もう、かぶせたくなったら、かぶせたくなってしまうわけで、もう、かぶらなかったら、発狂発狂発狂、絶叫絶叫絶叫なのである。

そもそも、子供が、自分の思い通りにならないというのは、これがまた、発狂的に頭にくることなのである。どれだけ些細な事であっても、本当は、親父の方に問題があることであったとしても、親父の感覚のズレからしょうじることであったとしても、ともかく、現実に目の前にいる子供が、自分の思った通りに動かないとなったら、もう、発狂だ。

で、すべての細かいことで、そういうことになっているのである。きちがいの感覚に合わせなければならなくなる。そうしないと、発狂発狂だからだ。けど、合わせようとしても、親父の感覚がそもそも、おかしいので、どうしても合わせられないところが出てくるのである。

だから、常に親父が怒り狂っているということになる。あるいは、最初から、答えなどはなくて、子供が現実にそうであるということについて、その時、腹を立てるというのがある。これは、子供が立っていれば、「なんで立ってるんだ!」と怒り狂って、座っていれば「なんで座っているんだ」と腹を立てるというような方法なのである。だから、正解がない。

本当は、その時、相手がこうしてくれれば満足だ(腹を立てない)という状態がない。相手を見かけたら、なんだろうが、難癖をつけて、発狂するのである。怒り狂う。で、これも、また、親父の自我には乗ってないので、「そんなことはない」ということになる。これが、また、こっちにとって腹立たしいことになる。

親父が子供にやったことというのは、自分の不満をぶちまけるということだ。内部にある不満をぶちまけるということだ。対象は、どうでもよいのである。自分より目下で、自分の近くにいるものであれば、誰でも良いのである。ただ、親父にとっては、それが、「うち」の「子供」だったのである。「妻」も含まれている。「うち」では、「てっぺん」だから。

親父自身が、傷ついている。内部がズタボロなのである。だから、「見かけたら」かかっていかなきゃならないような衝動を感じる。「見かけた途端に」発狂する。そういう状態だ。きちがい親父が抱えている不満というのは、当時……親父が小さかったころ……よその家で親父が感じた不満なのである。親父が「みなしご」で、「よそ」の家で虐待されたときに感じた不満なのである。だから、死にものぐるいだ。どんな些細なことでも、死にものぐるいだ。本当に顔を真っ赤にして発狂する。

絶対に自分の言い分を通すわけで、その時に「おれる」ということがない。これは、子どもが小さいときは、ずっとそうやって押さえつけていたのである。(おれるというのは、相手の言うことを認めてゆずるということだ。)

で、兄貴がヘビメタ騒音を出して、本当は親として注意しなければならなくなったときは、ぜんぜん注意しない。兄貴は、体が大きくなって、アルバイトができるようになって、親父をはねのけることができるようになったから、今度は、親父並みの頑固さで、ヘビメタを「思った通りの音で」「やりたいときは常に」鳴らすことに、こだわったのだ。こだわりまくる。親父と同じような頑固さで、自分がやっていることを認めない。認めたら、静かにしなければならないので、認めない。

きちがい家では、ローシナジーが形成されやすいのだけど、ローシナジーとは関係なく、こういうことになる。ローシナジーといえば、それがローシナジーなんだけど、ちょっと違うんだよな。なんか、わかりやすいローシナジーとはちょっと違ったしくみがあるような感じがする。わかりにくいローシナジーか? うーん。ともかく、心的機制はともかくして、自我に乗っているかどうかは別にして、そういうところがある。

ともかく、きちがい兄貴も、絶対に、自分の言い分を押し通して、絶対に、おれるということがない。で、そういうふうにして、やっていることは、無自覚で、やってないことになっちゃってるんだよな。だから、つもりがないまま???!!!頑固に全部の時間、やりきることになる。

ともかく、「別に親が悪いわけではない。もちろん子供が悪いわけでもない。」というのは、普通の意味では認める。この人が言いたいことは、わかる。だから、毒親と健常者の区別などはどうでもいい話だ。けど、ぼ・く・はぁ!!そういうことをまず第一に考えてしまうのである。というわけで、感想文なので、「感じたこと」をそのまま書く。

実際の自分と、自分が持っている自分に対するイメージというのはズレがちだ。毒親にやられてない場合も、ズレることがある。しかし、毒親にやられた子どものずれ方と、毒親にやられなかった子どものズレ方は、ちょっと違うと思う。程度が違うのである。毒親にやられた子供の、自己否定感、自己無価値感といったら、ものすごいものがある。

単純な誤解ではなくて、かなり病的な誤解?がしょうじる。「自分が人間に見えるというのが不思議だ」という感覚を持っていた。他の人から見て、ぼくが人間に見えると言うことが、不思議だったことがある。ぼくだけではなくて、「どうして、他の人たちは親父を人間扱いしているのだろう」と不思議に思っていた。「他の人から見れば、親父も普通の人間に見るのか?」ということが、信じがたいことだった。……そのくらいに、おかしなことになってしまうのである。

だから、女の子が、自分のことを好きになってくれたとしても、それが、信じられない。なにかの間違いだろう」とか「この子は本当のぼくの姿を知らないから、誤解して好きになっただけで、真実の姿を知ったら離れていってしまうのではないか」というような危惧が生じる。感覚的に、どうしても、信じられないのである。

だから、「そっけない」態度を取ってしまう。まるで、関心がないような態度を取ってしまう。けど、本当は、その女の子のことを、かわいいと思っていた。まあ、そういうことは、どうでもいいとして、ともかく、毒親にたたられた子ども(人間)の自己無価値感は、相当に根深いものがある。

で、それが、「発達障害」に見えてしまうこともあるのではないかと思う。「発達障害」は、いま、はやっているからね。なんでも、「発達障害」に結びつけて、考えようとする。現象を説明しようとする。けど、「発達障害」ではなくて、どちらかというと、神経症領域の問題なんだよ。これは~~。わかるかなぁ。まあ、これも、いい。


で、これが、自分がもっている自分に対するイメージが低い場合だけど、自分がもっている自分に対するイメージが高い場合もある。これは、あり得ないほど、理想的な自分のイメージにこだわりを持つと言うことだ。これも、一種の防衛機制なのではないかと思う。自己イメージが高い人と、自己イメージが低い人がいる……のだけど、そのほかに、自己イメージが低くて、高い人がいるのではないかと思う。

病的に否定された子供は、どこかに、高い自己イメージを持たなければやっていけない状態になる。もともとの自己否定の方が、病的なので、高い自己イメージも病的なものになる。あるいは、なりがちだ。まさに、「あり得ないほど理想的」なのである。超人とか天才とか、強烈な優位性とかそういうことにこだわるようになる。あるいは、道徳的にすぐれている人間像にこだわる。聖者のイメージか。神経症領域の人は、低い自己イメージと高い自己イメージの両方を持っている人が多い。どっちも、極端なのである。

で、この作者が言いたいことと言うのは、そういうこととは、まったく関係がないことなのである。この作者が言いたいことと言うのは、「やってみなきゃだめでしょ」ということなのだ。

で、これは、同意する。やってみなければだめでしょ」というのは、作者が言うように、たとえば、「俺は自転車に乗るのがうまい」といくら空想しても、実際に乗らなかったら、意味がないということだ。空想するだけで、実際には、自転車に乗ろうとしない、あるいは、練習しようとしない。それでは、いつまでたっても乗れるようにはならないので、「とりあえずやってみようか」ということになる。失敗したら、失敗したという現実を受け入れて、そのあとどうすればいいか考えれば良いということなのである。

しかし、まあ、これがなかなか踏み出せない場合がある。

「日記で進路を軌道修正したK君」の話は、なかなかすがすがしい話だ。普通の家の子は、いろいろな問題を抱えていても、こうやって成長できる。しかし、毒親がいる家では、これも、スムーズには進まないだろう。自分の将来を巡って、親と対立する、あるいは違った意見を持つという場合でも、普通の家と、毒親がいる家では、だいぶ話が違ってくる。……ぼくはそう思う。理想の親はいないのだから、それぞれが、それぞれの「問題」を抱える。進路に関する問題もそのうちの一つだろう。けど、ぼくは、毒親がいる家庭と普通の家庭では、違うと思う。程度の違いはあれ、同じようなものだろうと思うかもしれないけど、程度の差ではなくて質の差があるような気がする。

あとは、マルクスにあれだけこだわっていたということは、多分だけど、人間の不平等とか経済的な格差と言うことにこだわりがあったんじゃないかなと思う。僕も、人間の不平等について考えているときに、マルクス読んだよ。もっとも、本屋に『資本論』の二巻目しかなかったから、二巻目しか読んでないけど。マルクスは、「小室直樹を読んだからいいや」ということになっている。廣松 渉の『マルクス主義の地平 』は、ものすごい勢いで立ち読みした記憶がある。あの難解な本を、正確に理解して読んでいるという自負があった。マルクスは予想をはずしたし、「疎外」について、正確に理解すると、やはり、マルクスの方が読み間違えたんじゃないかと思えるところがあったので、興味がなくなった。この作者が、マルクスを捨てた理由はわからない。

「経済的な不平等を解決するにはどうしたらいいか?」ということに関心を持って、ひとりで、勝手に経済学を学んでいたことがある。だから、経済学にこだわっていたのだけど、学部学科的には心理学科を目指すべきだったんだな。ヘビメタ騒音さえなければ……。本当に、毎日のヘビメタ騒音が、毎日、僕の足をひっぱった。とんでもなく、ひっぱった。まあ、ぼくの場合、いろいろなことを考えると、けっきょくそこに行くことが多い。おれ、本当に、人生の中で一番でかい記憶が、「兄貴のヘビメタ騒音」なんだよな。毎日、足をひっぱられた。どうしても、うまくいかなかった。どうしても、ヘビメタ騒音の中で、勉強することができなかった。ヘビメタ騒音で、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間まで、くずされてしまう。不可避的に……。で、そこでの葛藤が、半端じゃない。だれにもわからないことなのだけど、ぼくには、つらかった。

日記ということで、こんなに文章を書けるものなのか?と感心した。日記なんて……。この作者は三〇年、日記をつけ続けたそうだけど、ぼくも、三〇年、ヘビメタ騒音のことを書いている。最初は、手書きだった。鳴らされているときに書いた。いまも、もっている。あれ、本当に、どれだけ言っても、やめてくれなかった。あのとき悔しさや、破綻した気持ちはない。全部即座に倒される。鳴っていると、普通なら簡単にできることが、できない。どうしても、足踏み状態になる。イライラしたまま、発狂したまま、足踏み状態になって、疲弊する。これは、無意味な疲弊だ。で、全体的にそうなると、作戦の方も狂ってしまうのである。全体的って、「毎日」だから。毎日何年間も続いていることだから。

ぼくも、日記は嫌いで、夏休みの絵日記が、いやだった。小学生の時、作文が嫌いでなかなか、作文用紙のマスがうまらなかった。そういう意味では、日記は好きじゃない。この作者も、そういう日記は嫌いだったようである。

この作者は、「感じたままを書く」というやり方には、反感があるようだ。ぼくは、「感じたままを書く」というやり方は、好きだ。自分の精神活動を残しておきたいのである。だから、普通の日記とは違う。この作者の日記というのは、言ってみれば、行動の記録であるらしい。この日の、この時間に、こういうことがあったということを書き記す方法らしい。そういう日記に、「あーーんな使い方」や「こーーんな意味」があったのかぁ! メモメモ。


ぼくはやはりなんとしても、自分の精神活動を文章として残しておきたいという気持ちが強い。自分がこの世に存在したという……。自分は確かにこの世に存在して、こういうことを思っていたということを、残しておきたい。ぼくにとっての日記というのは、そういう日記だ。けど、この作者の日記というのは、自分の行動を記録するタイプの日記なのだ。で、ちゃんとそれが、生活の中で生きている。ぼくも「自分の行動を記録するタイプの日記」をまあ、つけてもいいかなという気持ちになった。というか、そこまで詳しくないけど、実際に書いてる。ときどき、読み返して、「へぇ~、こんなことをやってたんだ」「これは、あのときか~」「あのときは寒かったなぁ~」などと感じているので、「この作者と同じようなことはしてたんだな」と思った。

というわけで、みんな、どっちのタイプでもいいから、日記をつけましょう~~~
けど、日記といったらそれまでなんだけど、「日記」って、あんまり、興味が……。日記ということばに、込められている意味が違うんだな。



わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。