2018年1月10日水曜日

言霊に凝っている人は伝染病にかかっている人に優しくできるか?

ぼくは「利他的であれ、利己的なのはよくない」というとを言わない。スピリチュアリズムにこっているひとは、「利他的であれ」ということを言う。けど、ネガティブな人を忌み嫌う人が、利他的な行動をとれるとは思えない。まあ、いいか。


まあ、ぼくは、たとえば、伝染病にかかった人を看病したりしない。空気で伝染する病気にかかった人がいたとしたら、なるべく避けたいと思う。それは、自分がおなじ病気になりたくないからだ。

で、それが利己的なことだと知っている。利己心からそう思っていると言うことを知っている。自分がその病気になりたくないから、悪いけど、その病気にかかっている人を避ける。それは、スピリチュアル的に言えば、いいことじゃない。

けど、伝染病じゃない人の場合は、別に避けたいとは思わない。スピリチュアリズムに凝っている人は、実は、伝染病にかかってない人でも、避けたがる。ただ単に、顔色が悪いだけで、避けたがる。それは、顔色の悪い人が「負の気」を持っていると信じているからだ。「負の気」も「うつってしまう」のである。だから、スピリチュアリズムに凝っている人は、ただ単に顔色の悪い人を、必死になってさける。それは、ただ単に「(自分は)うつりたくない」という利己心から出ている行動だ。

ところで、スピリチュアリズムに凝っている人は、言霊にも凝っていることが多い。「思いは実現する」と思っている人も多い。こういうのは、「系をなしている」と思う。

言霊に凝っている人は、「(私は)病気にかからない」と言えば、病気にかかることはないのだから、ものすごく伝染力の強い伝染病の人を看病してやるべきだ。かりに病気にかかったとしても「この病気は絶対に治る」と言えば、絶対に治るのだか問題はない。言霊に凝っている人が「この病気は絶対に治る」と言ったのに、治らないなんてことはない。絶対に治る。病気の人は、病気と仲良くしている人で、自分は病気を追い出すという決心をすれば、絶対に病気を追い出すことができるのだから、伝染病にかかっても平気だ。だいたい、「(私は)病気にならない」と言った時点で、絶対に病気にはならないようになっているのだから、病気になった場合のことを心配する必要はない。言ったことは、どんなことがあっても、実現化されてしまうのである。なので、「病気にならない」と言えば絶対に病気にならないのである。だから、こういう人は、ものすごく伝染力が強い伝染病の患者の世話をするには、適切な人だと思う。

けど、言霊に凝っている人は、説教はするけど、世話はしない。言霊に凝っている人は、差別はするけど、世話はしない。言霊は、実は「けがれ」信仰とペアになっている。実は病気の人は「けがれている」のである。

これは、ぼくがそう言っているわけではなくて、「けがれ信仰」をもってるひとがそう言っている。病気というのは「け」(気)……が枯れている状態なのである。「けがれはうつる」ので、けがれているひとにはさわってはいけないのである。

なので、世話はできない。実際に病気である人だけではなくて、顔色が悪い人も、けがれている状態なのである。なので、顔色が悪い人にも近づくべきではないのである。実際には、病気でない人まで、そのように、あつかわれてしまうのだから、けがれ信仰者が看病なんてできるわけがない。病気と言っても、うつる病気とうつらない病気がある。うつらない病気でも、「けがれ信仰者」にとっては、うつる病気なのである。なので、区別なく、さける。

また、繰り返しになるけど、顔色の悪い人にも近づかない。顔色が悪い人のもっている「悪い気」をうつされてしまうからである。なので、彼らが「まずい」と感じる人は、徹底的にさけるようになる。これは、利己心から出ていることなのである。ほんとうは、利己心のかたまり。自分がうつされたくないという気持ちだけ。相手のことなんて関係がないのである。けがれ信仰者はスピリチュアルなことも言う。というより、たぶん、けがれ信仰者とスピリチュアル信仰者はかさなる。

だから、スピ系の「発信」として、けがれ信仰者の言葉が混じっていることがある。けど、スピ系は、すべて利己心を否定している。エゴイズムはスピリチュアリズムの対極にあるような扱いを受けている。

けど、スピ系であってなおかつけがれ信仰者の人は、自分の考えや行動を、利己的なものだとは思ってないのである。利他的なものだと思っているのである。だから、説教はするのである。その説教は、無茶がある説教で、元気づけてはいるけど、「そうではない人」を否定してしまう。そうではない人」というのは、たとえば、病気が治らない人だ。もっと正確に言えば「私の病気は治る」と言ったにもかかわらず、病気である人だ。

で、まあ、ぼくも、言霊やけがれ(信仰)の影響を受けている。だから、だから、ほぼ、言霊信仰者やけがれ信仰者と同じような行動をとるときがある。けど、それは、利己心からきている行動だと知っている。スピリチュアリズム的にはあんまりいいことじゃないのである。言霊という考え方やけがれという考え方は、実は「自分のことより他人のことを考えるべき」というような考え方とは相容れない。基本的に差別主義なのである。利他的じゃない。けど、言霊信仰者が言霊のことを語るときは、利他的なことを語っていると思っているところがある。けがれ信仰者が説教をしているときは、あたかも、利他的な行為をしていると思っているところがある。しかし、ほんとうは、考え方そのものが、利己的なのである。

言霊信仰者であって、なおかつけがれ信仰者である人は、説教のなかでしか「利他的」ではない。実際の人間にはつめたいのである。実際に接触する人間にはつめたいのである。説教をするときは、実際の他者に接触しなくてよいから、「利他的なことを言える」のである。あるいは、「利己主義はダメで利他主義じゃないとだめだ」というようなことを言えるのである。言うだけなんだけど。

説教の世界では、他者というのは「抽象的な他者」なのである。「集合的な他者」なのである。だから、「うつらない」「まもられている」。だから、利他的なことも言える。実際には、そういう人たちは、自分を守るために、病気の人や暗い人をさけまくる。実際の他者に対してはそういう行動しかしない。

で、そういう人たちは、すでにうまくいっている人たちによいことをしてあげようと思う人たちなのである。すでに、うまくいっている人たちは、「よい気」をもってるから、積極的に接触しようとする。これも、「利己的な行為」だ。だから、ほんとうは利己主義マッシグラーなんだけど、そういう気持ちはないんだよな。気持ちだけは。

かわいそうな人たち(にかんして)は、接触しないのであれば、説教のなかでやっつけることができる。説教して、いい気持ちになれる。それだけ。けど、これは、スピリチュアル的に言ってよいことなのだろうか悪いことなのだろうか。よいも悪いもないことなのだろうか。

   *   *   *

まあ、かなしい気持ちになるけどね~~。ぼくにはできないけど、理想像を書いておくと、言霊信仰やけがれ信仰の影響を受けながらも、ほんとうにスピリチュアル的な人というのは、相手のつらい状態を受けとめてやることができる人なのではないかと思うよ。相手の「負の気」なんてものには、まったく影響を受けない真の「陽気」がある人なのではないかと思うよ。一度は、ちゃんと、受けとめて、そして、明るい光でつらい人を包み込む。そういう人は滅多にいないけど、いるはいると思う。

気を気にしているのに「相手の負の気」に影響を受けるようじゃまだまだだね……と言っておこう。ほんとうに「気」のことがわかっている人は相手の「負の気」の影響は受けないと思う。

   *   *   *

これはあんまりよくまとまってない文章なので、あとで、書き直す。言霊信仰とけがれ信仰を一緒にしちゃっているのがまずいな。別々に論じて、あとで、言霊信仰とけがれ信仰の関係について述べよう。けがれは、差別と直接関係がある。日本の(風土的な)差別の土台は、縄文が弥生にやられてたところではじまっている。




わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。