2018年1月23日火曜日

「心臓をください」と言われた場合 (このあいだの続き)



親父にとって、使えないハンダゴテを出してきてやったということが、最大限の譲歩だということは言った。最大限の譲歩が譲歩になってないのである。兄貴もおなじだ。兄貴にとって、最大限の譲歩は、自分が静かにしてやりたいぶんだけ静かにしてやるということなのである。

一分でも、自分が静かにしてやりたい範囲で静かにしてやれば、静かにしてやったことになってしまうのである。

その時間も含めて、静かになってない。

兄貴は、よそのうちでは一分だって鳴らせない音で鳴らしている。その、「最大限譲歩して静かにしてやった時間」も「よそのうちでは、でかすぎて一分だって鳴らせないような音で」鳴らしている。だから、譲歩になってないのである。

けど、本人は、一分間でもそういう譲歩をしてやったら、もう譲歩をしてやったのだから、譲歩しなくてもいいという気持ちになる。「そんなの譲歩じゃない。ぜんぜん静かにしてないじゃないか」ということは、死んだって認めないのである。

親父が使えないハンダゴテだということを認めないのとおなじだ。

どれだけ俺が「ぜんぜん静かにしなってない。ちゃんと静かにしてくれ」「ヘッドホンをして静かにしてくれ」と言っても、自分の譲歩がまったく役に立たない譲歩だということを認めない。普通の基準で言えば、ものすごくデカイ音で鳴らしているということを認めない。

兄貴が「静かにしてやったつもりの音」がでかい音だというのは、一秒聞けば、だれもがわかるようなことなのに、(兄貴は)絶対の意地で(でかい音だというとを)認めない。さらに、認めないということも認めない。死んだって、認めない。認めたら死ぬと思っているような態度で認めない。

気違い兄貴のなかでは、「ちゃんと静かにしてやった」ということになっているのである。親父がハンダゴテならちゃんと出してあげたのだから、ハンダゴテのことは解決している(買ってやる必要がない)と思っているのとおなじだ。

兄貴が、ぜんぜん静かにしないのに、静かにしてやったと思っているのは、親父が、使えないハンダゴテを使えるハンダゴテだと思っているのとおなじだ。

親父の場合、どれだけ「使えないハンダゴテだ」ということを説明されても、絶対に認めないのである。永遠に認めない。そりゃ、認めたら死ぬと思っていたら認められるわけがない。自分が金を出してやるということは、そのくらいに、いやなことなのである。心臓をとられてしまうような、いやなことなのである。そんなことは、するはずがない。

普通の人は、「心臓をください」と言われた場合、あげないでしょ。AさんとBさんがいて、Bさんが、Aさんに「心臓をくれ」と言ったら、Bさんは、「あげられるわけがないだろ」と答えるでしょ。「わかりました。あげましょう」なんて言う人はいないでしょ。Bさんが本気だったら、「そんなの冗談じゃない」「あげられるわけがないだろ」と言うでしょ。

怒るでしょ。親父にとって、ハンダゴテを買ってやるということはそういうレベルのことなんだよ。

兄貴の場合も、まったくおなじなんだよ。相手が言うとおりに、本当に静かにしてやるというのは、自分の動いている心臓をあげるようなことなのだよ。だから、必死になって抵抗する。絶対に、あげない。絶対に、認めない。

この心臓のたとえは、突飛だけど、気違い親父や気違い兄貴の思考スタイルを普通の思考スタイルに変換して説明するには、もってこいだと思う。

「心臓をください」と本気で言われて、「はい。わかりました。あげましょう」という人は、いない。冗談だと思っていればそういうふうに言うかもしれないけど、相手が冗談で言っているのではなくて、ほんとうに、自分の心臓を取り出すつもりだったら、絶対に、「いいですよ」などと言わない。

認めない。相手の言い分を認めない。

相手が言っていることを認めて、譲歩するというとはない。もちろん、自殺するつもりの人は、「いいですよ」と言うかもしれない。けど、それは、例外だ。普通の人であるならば、絶対に、「心臓をください」と言う相手に、心臓をあげるとは言わない。

で、言いたいことは、普通の人は、相手に「心臓をあげる」と言わなかったことを反省するだろうかということだ。それから、一〇回中三回ぐらいは、心臓をあげることができるだろうかということだ。

まず、普通の人は、相手に「心臓をあげる」と言わなかったことを反省するだろうかということについて考えてみよう。見知らぬ相手から、いきなり、心臓をくれと言われて、「いいですよ」と言わなかったことについて、反省する人はない。相手がぶしつけで失礼なことを言ってきたのだから、応じる必要がないと普通の人は考えるだろう。

それとおなじように「静かにしてくれ」と言われて、「いいですよ」と言わなかったことについて反省するということはない。「静かにしてくれ」と言われたあと、気違い兄貴が静かにしなかったとしても、気違い兄貴は反省しない。他の人が「心臓をくれ」と言われて、ことわったのとおなじ心理が成り立っているからだ。

気違い兄貴にとっては、相手の言うとおりに、ヘッドホンをして静かにしてやるということは、心臓を持って行かれるようなことだからだ。死んだって、やってやりたくないことなのである。

だから、「静かにしてくれ」と言われたら、親父のように!怒って!!はねのけるわけで、「(実際に)静かにしてやらなかった」ということについては、反省するわけがない。あたりまえだと思っているのである。普通の人が「心臓をください」といわれて、「ことわった」のとおなじ状態なのである。だから、悪いことをしたとは絶対に思わない。


親父の場合を言っておくと、親父にとっては、自分の動いている心臓をあげたくないのとおなじレベルで、新しいハンダゴテを出す金をあげたくないのである。

「ハンダゴテならある。どうして、使わないんだ」という思いがある。

で、そういうふうに思ったら、相手がどれだけ「エレクトロニクス工作にはこのハンダゴテは使えない」と言っても、認めないのである。親父にとっては、そのハンダゴテが使えるかどうかに関係なく、使えるハンダゴテなのである。使えないということを認めてしまったら、金を出さなければならなくなる。それは絶対にさけなければならないことだから、事実に関係なく『使える』ということになる。

親父のなかでは、事実に関係なく使えるハンダゴテなのである。

だから、そのハンダゴテをもたせてあたりまえなのである。親父にとって『使えない』と言っている相手は、間違ったことをいっているだけなのである。使えるハンダゴテを使えないといっているだけなのである。使えないということを認めたら、金を出してやらなければならなくなるのだから、そのハンダゴテは絶対に使えるハンダゴテなのである。

使えるハンダゴテでなければならない。

使えるハンダゴテだという現実しか、受け入れることができない。最初から、現実を無視して決まっているのである。そして、現実を無視して決まっているからこそ、『使える』というのが親父にとっては現実なのだ。現実をそのように受けとめるしかないのである。

なんてたって、認めてしまったら、心臓をとっていかれるのだから、必死になって否定する。絶対の意地で認めない。事実に関係なく、(金を出してやるのがいやだから)そのハンダゴテは、絶対に使えるハンダゴテなのである。相手がどれだけなにを言っても、何万回言っても、絶対に『使えないハンダゴテだ』とは認めない。

命がかかっている。親父にとっては、使えないということを認めたら、心臓をえぐり取られてしまうのとおなじだから。心臓をえぐり取られてしまうようなことを認める人はいない。

親父にとっては、ハンダゴテが、気違い兄貴にとってはヘビメタが、心臓とおなじなのである。兄貴が、実際に自分が鳴らしている音がでかい音だということを認めるということは、親父が親父が出したハンダゴテが使えないハンダゴテだということを認めるのに等しい。

だから、命がかかっている。

たとえ一分だろうが、『でかい音だと言うことを認めて』ちゃん静かにしてやるのは、絶対にいやなのである。もちろん、認めたところで、死ぬわけではない。けど、兄貴にとっては『認めたら』心臓をもっていかれるようなことなのだ。一分間だろうが、ちゃんと静かにしてやるのは、命がけで阻止しなければならないことなのだ。認めたら、死んでしまうようなことなのだ。

だから、事実に関係なく、死のもの狂いで、認めない。自分の鳴らしている音が、でかい音だということを認めたら、本当に静かにしてやらなければならなくなるのだけど、本当に静かにしてやるのは、死んだっていやだから、やってやらないことなのだ。だから、本人は、たいしてデカイ音を鳴らしてないつもりで、実際にはデカイ音で鳴らしていた。そういう態度で常に暮らしていた。(静かにしてやるなら、自分の気持ちがこわれない程度に静かにしてやるということだから、実際には静かにしない。親父のハンダゴテとおなじで、現実的には、やったところでまったく意味がないことしか、しない。『自分の気持ちがこわれない程度』というのは、思いっきり鳴らしたい自分の気持ちがこわれない程度ということだ。ようするに、ふつうに静かにしてやるのは絶対にいやなのである。要するに、譲歩するにしろ、思いっきり鳴らすということは、ゆずりたくないのである。

やってやったところでまったく意味がない譲歩をしてやるということにこだわりつくす。そりゃ、ほんとうに譲歩してやったら、死んでしまうと考えているような状態だからだ。ほんとうの譲歩を一分でもしてやったら、心臓をとられて死んでしまうと考えているような人間の態度なのだ。

実際にはやってやったところで、まったく意味がないことにこだわる。

そして、「やったところで意味がないこと」を、してやったから、「やってやった」ということになる。「ちゃんとやってやった」つもりなのである。本人は!! 親父にしてみれば、相手が使えないといっているハンダゴテだけど、だしてやったら、それはものすごくえらいことなのである。で、だしてやったら、もうやってやったということになる。「ちゃんと」用意してやったということになる。『使えない』などと文句を言っている相手のほうが、おかしいのである。親父にとっては、『使えない』といっている相手がわるいということになる。いちゃもんをつけて、逆らっているということになる。ほんとうは、使えないハンダゴテなんだけどな。

兄貴の場合も、まったくおなじだ。自分が満足できる音で鳴らして、それで、譲歩してやるというとだから、ほんとうには譲歩しない。ほとんどまったくかわらない大きな音で鳴らす。それが、兄貴にとってできる最大限の譲歩だ。ほんとう譲歩は、一分だろうがやってやらないのである。ほんとうの譲歩を一分でもしたら、死んでしまうと考えている人間が、ほんとうの譲歩なんてするわけがない。

兄貴のなかでは、自分が!五分間、〇・一デシベルでも、静かにしてやったら、『ちゃんと静かにしてやった』ということになる。静かにしてやったらと搔くしかないので書いたが、そのあいだも、『よそのうちでは一分だって鳴らせないようなデカイ音で』鳴らしている。

だから、譲歩になってない。けど、本人は、譲歩してやったつもりになる。で、譲歩してやったのだから、あとはどれだけ鳴らしたってかまわない」という気持ちになって、入試一日前だろうが一日で一二時間鳴らせるのであれば、絶対の意地で一二時間鳴らし続ける。

それで、『譲歩してやった』と思っている。ぜんぜん悪いと思ってない。親父とおなじで、一日に、なんじゅっかい文句を言われても、まったくこたえない。一回目のおなじ反応しかしない。それに、自分はもう『静かにしてやったつもり』だからな。

親父がもってきたハンダゴテで、兄貴がひどい目に遭ったということを親父が認めなかったように、兄貴は自分のヘビメタ騒音で、弟がひどい目に遭ったということを認めない。親父にしみれば、ハンダゴテを物置からもってきてやった時点で「ちゃんと」たいしてしてやったということになっている。『使えない』という文句は認めない。使えるのに『使えない』と言ってくる相手が悪いと思うだけだ。『使えない』ということは最後の最後まで絶対に認めない。こういう態度だ。そして、実際にそうした。

兄貴は、自分の譲歩がまったく意味がない譲歩だということを認めない。兄貴にしてみれば、最初に五分間、〇・一デシベルだけ静かにしてやったら、その時点で『ちゃんと静かにしてやった』ということになっている。ちゃんと静かにしてやったのに、『ちゃんと静かにしてくれ』『もっと静かにしてくれ』と言ってくる相手が悪いと思うだけだ。実際は静かにしてないということは、最後の最後まで絶対に認めない。こういう態度だ。そして、実際にそうした。

   *   *   *




なんか俺が、好きでだらしがないことをやっているというように見られるんだよな。それは、いまだってそうだ。ひきこもり」なら、そういう目で見られるだろ。けど、これは、必然だ。気違いヘビメタ騒音の必然なんだよ。あんなの、たえられる人がいるわけがない。

兄貴は頭がおかしいからなにもやってないつもりで、すべての可能な時間、鳴らし続けたんだよ。親父とおなじ頭の持ち主なんだよ。親父とおなじ反応が返ってくる。兄貴になにを言っても、親父とおなじ反応が返ってくる。

で、そのことは、他の人には、理解できないこと、納得がいかないこと、不可解なこと、そんなことはあるはずがないこと、なんだよ。だから、板挟みになる。教師にヘビメタ騒音のことを相談してもむだだった。「ちゃんと言えばわかってくれるよ」という態度なのだ。教師は教師で、兄貴みたいな人がいるというとを認めないので、「ちゃんと言えばつたわる」「ちゃんと言わないからダメなんだ」という認識のままだ。『兄貴にちゃんと言ったけど、うるさくしている』ということをぼくが、教師にちゃんと言っても、教師にはつたわらない。まあ、家の中の、やっかいな問題には首を突っ込みたくなかったという理由もあるかもしれない。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。