tag:blogger.com,1999:blog-32508084418850807542024-03-19T15:08:06.774+09:0030年引きこもり貧乏生活現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comBlogger2066125tag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-1402477635287452432024-03-19T14:32:00.008+09:002024-03-19T15:07:32.636+09:00その時間の長さ、ぼくは憤まんやるかたない気持ちで、いたんだ。<p> ほんとうに、きちがい家族にやられたことがない人はわからないみたいだな。どれだけ、異常な感覚が成り立っているかわかってない。頭がおかしいから、できることなんだぞ。普通の人は、できない。だから、普通の人が家族である、普通の人は、自分のこととして経験してない。自分の状態として経験してない。自分の状態として経験していなかったら、どれだけ言われたって「そんなのは、関係がない」と思えることなんだよ。どれだけ俺が、正確に記述したとしても、「そんなのは、影響がない」と思えることなんだよ。けど、時間の長さがある。たえて、たえて、たえた時間の長さがある。その時間の長さ、ぼくは憤まんやるかたない気持ちで、いたんだ。</p><p>学校から帰ってくると、おなじことが繰り返されてしまう。毎週日曜日はおなじことが繰り返されてしまう。これ、鳴り終わったあと、どんな気持ちになると思っているんだ。</p><p>「鳴り終わったら、関係がない」……本当に、殺してやる炊くなるようなセリフだな。</p><p>たえてきた怒りが、一気に爆発する。どれだけ長い時間、たえてきたと思っているだ? たえたから、おかしくなっている。たえたから、症状が出ている。たえたから、楽しい感情がない状態で暮らしている。なにもわかってない。</p><p>やられた次の日、からだを動かすのが、くるいんだよ。からだを動かしたくない気持ちになる。いま、起きて、動くのであれば、死んだほうがましだという気持になる。そういう時間をすごしたあと、気力を出して、がんばって、出ていく。家を出ていく。</p><p>けど、そういうがんばりが、からだをこわす。睡眠回路をこわす。感情回路をこわす。こわしまくり。注意力がなくなる。注意力がなくなれば、トラブルが生じる回数が多くなる。きちがいヘビメタでトラブルにまみれているのに、さらに、トラブルが発生してしまう。</p><p>きちがい兄貴とのトラブルだけで精一杯なのに、ちがい兄貴のとのトラブルの結果しょうじた、自分のからだの状態が、他人のとトラブルを引き起こすことになる。</p><p>これ、どれだけ、失敗しないように注意してたってむだなんだよ。</p><p>ほんとうに、できないことが多くなるんだよ。</p><p>あんなことやられて、平気なわけがない。鳴り終わったあと、めちゃくちゃになるんだよ。もちろん、鳴っているあいだはめちゃくちゃだ。いま、幼稚園で工事をやっているけど、そういう普通の音とは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音はちがうんだよ。質がちがうんだよ。どうやっても、無視できない音なんだよ。どうやっても、無視できない距離で鳴っている音なんだよ。 </p><p>不可避的にできくなるのに、「そんなのは関係がない」という他人がいっぱい出てくる。そういう他人と、人生のなかで出会うことになる。そりゃ、その他人にしてみれば、ぼくのことは、まさしく他人事だし、自分が経験してないことなので、どれだけ影響をうけるかわからないことなのだ。</p><p>きちがい兄貴にしたって、自分がきらいな音をあの音でかさで鳴らされたら、一〇秒で、かんかんに腹がたつような音なんだよ。一〇秒で「やめろ!!!」と怒鳴り込むような音なんだよ。そういう音で鳴らしているのに、本人は、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりでいる。ぜんぜんちがう。音のでかさがぜんぜんちがう。</p><p>きちがい兄貴だって、ほかの人に、ほかの音でやられたわかることなんだよ。きちがい兄貴は、自分が鳴らしたいという気持ちがあるから、絶対にわからない。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、こっちがこまるということを、無視する。その無視のしかたが、普通の人間の無視のしかたではないのである。ほんとう、きちがいの無視のしかたなのである。</p><p>ほかの音でやられたら、きちがい兄貴にも、自分がどんだけでかい音で鳴らしているかということがわかる。けど、催眠術にかかったように、自分がやっているときはわからない。</p><p>きちがい兄貴も、きちがい兄貴以外の人も、「つみかさなったとき」のつらさがわかってない。どうしても、できなくなる状態が、わかってない。ほかのやつらは……九五%ぐらいのやつらは、みんな、俺がさぼっているように言いやがる。ほんとうにむかつく。</p><p>そして、まったく役に立たない言霊のようなアドバイスをしてくる。そんなことで、解決できたら、苦労してないんだ。そんなことじゃ解決できないから、苦労しているんだよ。</p><p>だれでも、すぐに思いつくようなことを有効な解決策として口にする人は、だれでも、すぐに思いつくようなことを、俺が、思いつかないと思っている。</p><p>だれでもすぐに思いつようなことは、もうすでに、初期の段階でやっている。</p><p>きちがい兄貴という壁がある。きちがい兄貴という壁は、きちがいの壁だ。ちがうのである。「お兄さんに言えばいい」という解決方法があるとする。その解決方法で、解決できたかというと、解決できないのである。</p><p>言霊……その解決方法で解決できたかというと、できないのである。</p><p>言霊的な解決方法を口にする人は、ぼくが、言霊的な解決方法では、解決できなかったと言うと、みんな、あとだしの妄想きちがい理論を口にする。言霊的な解決方法を口にする人は、ぼくが、言霊的な解決方法では、解決できなかったと言うと、みんな、不機嫌になる。腹をたてる。腹をたてたいのは、こっちなんだよ。ほんとうに、こどもだな。ほんとうに、ガキだな。</p><p>「いいアドバイスをしてやったのになんだ!!」という気分になるんだよな。</p><p>けど、本当に、役に立たない方法なの!! きちがい家族が、意地になってやっていることなんだよ。そんなのぼくがどれだけ、「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」なんて言ったって、鳴りやまない。</p><p>きちがい騒音にやられて、めちゃくちゃにつかれて、眠りたいのに眠れないとき「すぐに眠れる」「すぐに眠れる」と言っても、眠れないんだよ。</p><p>「兄貴は、すぐに、ヘビメタにあきて、鳴らしたくなくなる」と言っても、きちがいの気持ちがかわらなかった。そりゃ、一五年後に鳴りやんだ。きちがい兄貴が引っ越したから、鳴りやんだ。一五年後でも、鳴りやめばいいのか?</p><p>そんなことはない。</p><p>これ、言霊の人たちというのは、時間制限を無視するところがある。「鳴りやんだなら、鳴りやんだんじゃないか」と言いやがる。一五年後に、鳴りやんでも、そのころには、ぼくの能力がなくなって、人生がズタボロになっているのだから、意味がないんだよ。</p><p>「一秒で鳴りやむ」と言ったのに、一秒じゃ鳴りやまなかった。「一分以内に鳴りやむ」と言っても「一分以内に鳴りやまなかった。一五年後に鳴りやめばいいのか?</p><p>そんなことじゃない。</p><p>きちがい兄貴! 俺の若い時間をかえせ!!</p><p>きちがい兄貴!! 俺の人生をかえせ!!!</p><p>やめようと思えば、いつでもやめられたんだぞ。絶対にやめなかった、一五年間はなんなんだ。一五年間、毎日は、なんなんだ。小学六年生の後半から、高校三年生までの六年と半年で、ぼくの人生は終わっている。<br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-50061112888626370312024-03-18T16:04:00.002+09:002024-03-19T14:27:11.262+09:00「できなくなる」という現実を認めず、無理難題を吹っ掛けてくる人が多かった<p> きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴が鳴らした音量とおなじ音量で、きちがい兄貴が鳴らした時間、きちがい兄貴が鳴らした期間、ずっとずっとずっと、その人がきらいな騒音をずっと聞かされ続けたら、「できなくなる」のに、実際に自分が経験したことではないので「できなくなる」ということがわからないままなんだよなぁ。</p><p>だから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言ってしまう。言霊主義者は言葉に出して言うけど、言葉には出さないけど、そう思う人もたくさんいる。時間があるんだよ……。やられた時間がある。どうしようもない時間がある。その時間の積み重ねで、できなくなったんだよ。</p><p>それを、「できないと言うからできない」と言われたときの、気持ちがわかるか? 兄貴が、ずっと鳴らしていた。よそのうちでは、絶対に鳴らせないような音でずっと鳴らしていた。</p><p>どれだけ「しずかにしろ」と言ってもしずかにしなかった。</p><p>その積み重ねでできなくなった。</p><p>原因は「言うから」ではないのである。</p><p>ヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、つみかさなったから、できなくなったのだ。「から」がまちがっている。理由を想定して言っていることなのだけど、想定がまちがっている。まちがった理由を想定しているのである。</p><p>こういうことを言う人は、きちがいヘビメタ騒音相当の困難を経験したことがないから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言えるんだよ。こういうことを言う人は、「理解した」と言う。「ヘビメタがうるさかったんだろ」と言う。</p><p>たしかにそうなんだけど、「できなくなる」ということは、理解してない。</p><p>一日分のヘビメタ騒音でも、怒りが頂点のまま何時間も経過して、心身ともにボロボロになってしまうのに、それが、わかってない。</p><p>影響があるに決まっている。宿題をする能力があっても、鳴っていたら、宿題ができなくなるんだよ。</p><p>それを、「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」と言ったりする。</p><p>これ、どれだけ、くやしい気持ちになるかわかるか? わからないと思う。</p><p>「できると言えばできる」も「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」も、おなじように腹がたつ言葉なんだよ。無理解ぶりを発揮した言葉なんだよ。</p><p>「できない」ということを認めず、「できなくなる」という現実を認めず、無理難題を吹っ掛けてくる人が多かった。</p><p>俺だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、できたのぉ!!</p><p>それが、ヘビメタ騒音が鳴り始めて、できなくなったのぉ!!</p><p>ヘビメタ騒音相当の苦難がなかった人ができる」のは、むしろあたりまえなのである。ところが、「自分はできる。エイリさんはできない」という立場でものを言ってくる。ヘビメタ騒音相当の苦難があったら、あなただってできなくなっている。</p><p>それが、わからない。どうしてかというと、経験がないからだ。それを「俺だって困難はあった」「俺だって苦難を経験した」と言えば、同量の苦難を経験したことになってしまうのである。その人の頭のなかでは……。</p><p>言っておくけど、同量の苦難を経験したら「できると言えばできる」「できると言えばできる」「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」なんて言えなくなる。</p><p>どうしてかというと、できなくなっているからだ。</p><p>そんなのがまったく無意味だということを、きちがいによる騒音のなかで思い知らされているからだ。</p><p>これ、俺が騒音のなかで、なんとかがんばってやろうとした時間を、なんだと思っているんだよ?</p><p>その時間、ずっとくるしかったんだぞ。 </p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-77927020521357513742024-03-18T11:51:00.002+09:002024-03-18T11:51:53.649+09:00見積もりの量がちがうんだよ。見積もりと偏見。<p> ヘビメタ騒音のハンディを無視する人間やヘビメタ騒音のハンディを過小評価する人間のことを、クソ凡人と呼ぶことにした。クソ凡人は、ほんとうに、クソ凡人だ。</p><p>どうしてかというと、想像力がないから、ハンディの大きさを無視してしまうのに、ぼくのことを、バカにしてくるからだ。</p><p>これ、バカにしているんつもりがないのかもしれないけど、ヘビメタ騒音を鳴らされたにしても、できると思っている人間は、ぼくのことをバカにしていることになる。</p><p>ようするに、自分だったら、ヘビメタ騒音のハンディがあったにしろ、そのくらいのことは、できるはずだという前提のもとに、発言をしているのである。バカにしていると言える。<br /><br />できると書いたけど、なにができるかということについて、書いておこう。</p><p>たとえば、「遅刻をしないで通勤することができる」ということや「そのくらいの騒音のなかで勉強することができる」ということや「騒音にさらされていたとしても、宿題ぐらいできる」ということや「そのくらいの騒音にさらされ続けたとしても、通勤して働くことができる」ということだ。 </p><p>あるいは、「そういう騒音にさらされたとしても、楽しいと感じる能力をうしなわずに生きることができる」ということだ。全部、自分の人生に、なかったことだから、そういうふうに思えることなのである。見積もりの量がちがうんだよ。<br /><br />一瞬一瞬のハンディだけを考えたとしても、きちがいヘビメタの音はひどすぎる。きちがい兄貴の態度は、ひどすぎる。きちがい兄貴の感覚はひどすぎる。腹がたたないわけがないだろ。そういう、きちがい的な感覚で、自分がやっていることを認めずに、きちがい的にでかい音を出し続ける家族がいるということ自体が、たえられないことだ。頭にくることだ。</p><p>きちがい兄貴が、つねに、ぼくの能力をうばっているのに、きちがい兄貴がいない人間が、そのことを過小評価したり、そのことを無視して、「できる」という前提でものを言ってくることは、ぼくにとって、くやしいことであり、腹だたしいことだ。</p><p>ほんとうに、できないからだ。ほんとうに、できなくなるからだ。</p><p>こいつらが、ほんとうにできないということや、ほんとうにできくなるということを、理解してないだけなのだ。</p><p>どうして理解しないかというと、経験がないからだ。そりゃ、こいつらの家族は、うちのきちがい家族とはちがう。うちのきちがい家族とはちがう感覚をもって生きている。</p><p>だから、うちのきちがい家族が、絶対の意地で、やるようなことを、やらない。やられてないから、わからない。やられてないから「できない」状態になってない。それだけだ。ところが、偏見があると、バカにしてくるのである。 <br /><br /><br /><br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-65359651796024952312024-03-18T11:34:00.001+09:002024-03-18T11:34:13.433+09:00経験していなければ、「遅刻するようになる」ということは、わからないことなので、<p> 実際の量がすごいんだよ。量がすごい。なんの量かというと、ハンディの量だ。これ、一日でも、ものすごいハンディになる。自分がきらいな音が、あの音量で鳴っているということは、ハンディなんだよ。</p><p>けど、ほかの人には、ハンディの大きさがわからない。ハンディの量がわからない。そうするとどういう反応をするかというと、「そんなのは関係がない」「鳴ってたって関係がない」「鳴ってたってできる」と言うような反応をしてくる。</p><p>これ、経験がないから、そういうふうに言っているだけで、おなじことが起こったら、やはり、ハンディがでかいので、できなくなる。</p><p>けど、きちがい家族がいないから、その人たちにはぼくとおなじことが起こらない。おこらなければひとごとなので、ハンディの量を無視して「できる」と言うことになる。</p><p>けど、できない。</p><p>けど、できないということを、関係がない一般人は認めない。<br /> </p><p>そうすると、たとえば、「無職は劣っている人間だ」「無職は、ダメ人間だ」と思っている人は、無職のぼくをバカにしてくることになる。ぼくのほうが、ある分野において一〇〇倍能力があっても、バカにしてくることになる。</p><p>学生時代で無職というようなことが関係ない場合も、たとえば「遅刻をする人間はダメ人間だ」と思っているやつは、遅刻するぼくを、ダメにしてくるのである。きちがい兄貴の、普通の家ではしょうじない、きちがい行為によって、ぼくがバカにされるようになるのである。</p><p>ヘビメタが鳴っていると、どうしても、遅刻するようになる……ということが、普通の人にはわからない。経験的に、自分の嫌いな音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っている毎日というのを、経験してない。自分の嫌いな音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っている毎日、経験すれば、そのバカにしてきた人だって、遅刻するようになって、「遅刻しないと言うことはできない」ということがわかるのだ。</p><p>けど、その人にはきちがい兄貴がいないので、きちがい兄貴のような態度で、きちがい兄貴のような感覚で、きちがい行為を横の部屋でずっとやられるということが「ない」わけだ。</p><p>だから、経験しないで、すむということになる。</p><p>経験していなければ、「遅刻するようになる」ということは、わからないことなので、その人は、ご自然に、ぼくのことを、自らの偏見に基づいて、バカにしてくるようになる。まさしく、きちがいにやられて、バカにバカにされるということになる。まさに、きちがい家族にやられて、きちがい的な家族に至近距離で何時間も鳴らされる騒音というものを経験しなかった普通の人に、バカにされるということになる。</p><p></p><p>たとえばの話だけど、その人が……遅刻するという理由でぼくをバカにしたとが……別の機会において、「人がどう思うかなんて、気にしなくてもいい」と言ったとする。</p><p>ぼくは、「おまえは、なにを言っているんだ」と思うわけだ。そりゃ、そうだろ。人をバカにしておいて、「人が言うことなんて気にしなくてもいい」と言うわけだから、「こいつ、ふざけるな」と思うわけだよ。</p><br />taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-30700166358139339732024-03-18T06:19:00.000+09:002024-03-18T06:19:34.330+09:00きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。<p> ともかく、大音響でヘビメタをきかされているときの、ぼくの頭のなかの状態というのは、ヘビメタが好きな人や、ヘビメタをきいたことがない人にはわからないと思う。</p><p>あんな大音響でずっと鳴らしていいわけがない。</p><p>きちがい兄貴だって、うち以外のところでは、鳴らせない音なのである。</p><p>あれは、きちがい親父とおなじで「うちならなにをやってもいい」「うちなら、外ではやれないことを、がんがんやっても、ゆるされる」という無意識的な自動思考がある人間なのだ。</p><p>これ、ほんとうに、きちがい兄貴しても「うちだから」やったことなのだ。</p><p>「うちだから」どれだけ言われても、認めずにやったことなのだ。</p><p>自分がやっていることを認めないというやり方で、やりきるという方法を採用した。けど、無意識的にそういう方法を採用したので、意識では、そういう方法を採用したつもりがないことになっている。意識では、「やってない」ことになっているのだ。</p><p>けど、無意識的に「うちでなら、どれだけやってもいい」「うちでなら、自分の意地をとおしても当たり前だ」と思って、やった。</p><p>何度も言うけど、それが無意識的な過程なので、意識にはあがってこない。意識のほうは、「そんなことやってないのに、なんだ!!」と思うだけなのである。</p><p>どれだけ言われたって、言われたときに、いかり狂って、はねのければ、はねのけたとたんに、関係がない人になってしまう。ようするに、やっているのかやっていないのか知らないけど、ともかく、自分には関係がないと思ってしまう。そういう態度でやりきる。</p><p>だから、意識的には、「ものすごくでかいとで鳴らしている」つもりがない状態なのである。だから、文句を言われたら、文句を言ってくるほうが悪いと思うだけなのである。なので、腹をたてて、やりきる。</p><p>けど、本人は、やったつもりがない。</p><p>そりゃ、大音響で鳴らしているつもりがないなら、大音響で鳴らしたことはないということになってしまう。意識では、そうなる。</p><p>そして、相手の言い分を無視する力が、ものすごく強い。これは、きちがいだからなせるわざだ。これ、普通の人は、まったくちがうのである。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない虫の無視たなのである。</p><p>けど、うちのなかで、きちがい的な無視を、きちがい兄貴がしたとしても、うちのなかにいない人にとっては、なんでもないことだ。</p><p>ぼくが学校に行った場合、学校に集まってきている人というのは、きちがい兄貴がうちのなかでしたことを、知らない人たちばかりなのである。うちの兄貴の状態を、うちのなかで知っている人じゃないのである。</p><p>なので、ズレがある。</p><p>普通の人は、普通の家族と住んでいるので、きちがい家族がやることにかんしては、まったく理解がない。大きな音でステレオを鳴らすといっても、封の家族がやることだ。無意識に問題があるきちがい家族がやることではないのである。だから、普通の人は、きちがい家族がいるうちのことについて、常に、過小評価をしてしまう。</p><p>「言えばどうにかなるんじゃないか」と思ってしまう。</p><p>けど、きちがいはきちがいだから、きちがい回路が発動して、「ちゃんと言っても」どうにもならない。そのままの状態が続く。普通の家では、そのままの状態がずっと続くということがない。</p><p>だから、普通の家に住んでいる人は、人生のなかで、そういうことを経験したことがないということになる。ひとごとだ。完全にひとごとだ。別の個体に起こったことだ。自分は、痛くもかゆくもない。自分は、ぜんぜん、(そのことで)つらくない。</p><p>なので、必然的に過小評価をしてしまうのである。影響を無視してしまう。</p><p>影響は、想像するしかないのだけど、自分の人生経験から言って、想像できないものなのである。あるいは、想像しにくいものなのである。</p><p>だから、ほかの人のなかにある「ヘビメタ騒音」と、ぼくが実際に経験した「ヘビメタ騒音」は、そういうレベルで、異なるものなのである。異なるもなのだけど、これがまた、異なるということが、ほかの人にとってはどうでもいいことなのである。</p><p>この、どうでもいいというような態度は、きちがい兄貴にもある。</p><p>これ、きちがい兄貴が張本人で、「やめてくれ」と言われれば、発狂して怒って、意地になってやるのに、まったくやってないという意味で、まったくまったく、関係がないことなのである。関係がない他人のように、きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。</p><p>鳴らされているときからだのつらさは並じゃないのけど、鳴らされていない他人は、つらくないのである。だから、わからない。鳴らされ終わったあとの、からだのつらさは並じゃないのだけど、鳴らされてない他人は、他人ごとなので、わからない。わからないからわからない。だから、「鳴り終わったら関係がない」などと言う。けど、影響をうけている。 <br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-72802422333725748542024-03-17T16:47:00.002+09:002024-03-17T18:30:17.588+09:00自分が、条件の悪い人をののしっておいて、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言うのだ<p> たとえば、アドラーは、条件が悪い人のことを悪く言うことにたけている。アドラーは条件を無視して、「コツコツと努力すれば、成功する」というようなことを言う。条件を無視している。条件を無視している。条件のちがいが、成功するかどうかに影響をあたえるということを、積極的に無視している。</p><p>そして、成功してない人を、努力をしなかったダメ人間のように言うのである。成功しなかったなら、その人は、努力をしてないという決めつけをする。</p><p>努力をしたけど成功しなかった人は、存在せず、努力をしないような怠け者だから成功しなかっただけなのであるという印象を、アドラーは人々にあたえる。条件を無視している。</p><p>そんなの、どれだけ努力したって、失敗する人間だっている。</p><p>条件が悪ければ、どれだけ努力しても、失敗することはある。</p><p>条件について言及する人間に対しては「負け犬の遠吠えだ」とか「泣き虫が泣きごとを言っているだけだ」とかというののしりの言葉を用意しておく。</p><p>これは、ようするに、アドラーが、条件が悪くて失敗した人のことを、悪く言っているということだ。</p><p>ところが、アドラーは「人がどう思うかなんて気にしなくていい」というようなことも、言うのである。自分が、条件の悪い人をののしっておいて、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言うのだ。</p><p>悪口を言っておいて、「人がどう思うかなんて気にするな」と言うのである。</p><p>こういうことを、やるのは、アドラーだけではない。 </p><p>たいして成功してない人間でも、自分より条件が悪い人には、こういうことをしがちなのである。自分を中心にして、比較優位とか比較劣位があると言ったでしょ。</p><p>たいした成功をしてない人でも、自分を中心にして考えて、比較劣位にある人には、そういうことを言いがちなのである。本人だって、たいして成功してないのけど、相手よりは、成功していると思うと、相手にそういうことを言いたくなる人がいる。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-9480991394787569132024-03-17T15:33:00.001+09:002024-03-17T16:20:35.754+09:00ヘビメタ騒音のことがわからないということと、無職であることをゆるさない文化が、両方とも影響している<p> ほんとう、いろいろな連鎖で不愉快な思いをすることになっているのだ。きちがい家族が、自分の苦手な音を大音響で、十数年にわたって、毎日鳴らし続けたという……人生経験がない人には、ヘビメタ騒音の影響がわからない。そんなの、毎日、ヘビメタ騒音をあびていたとしても、就職ぐらいできるだろ。通勤ぐらいできるだろと、考えてしまうのである。ようするに、多くの人は、ヘビメタ騒音の影響を無視するのだ。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのだ。なので、「話があわない」というとになる。これ、ヘビメタ騒音の影響を無視する人だって、自分が苦手な音を、家族が、至近距離でずっと鳴らし続けたという体験があれば、わかることなんだよな。どれだけ、被害を受けるかわかるはずなんだよな。けど、普通の家族は、そんなことをしないので、普通の人は、わからない。わからないから、無職である俺に対して、文句を言ってくる。ヘビメタ騒音のことがわからないということと、無職であることをゆるさない文化が、両方とも影響している。</p><br />taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-71288250258466303932024-03-17T12:55:00.006+09:002024-03-17T12:55:35.999+09:00ちゃんちゃらおかしいね。<p> 現実の世界で発生する出来事といのは、すべて、現実の世界で発生した個別の出来事なんだよ。だから、現実の世界で発生した出来事について考えるなら、個別の出来事として考えなければならないんだよ。個別・具体的な出来事なのに、個別・具体的な出来事だということを無視するのはよくないことなんだよ。出来事における、個別具体性を無視するのはよくないことなんだよ。</p><p>個別具体性を無視して、やられたほうに問題があると決めつける。こんなのは、おかしい。しかも、おかしいということに、本人(自己責任論者)が気がついてないということもおかしい。どんな場合であれ、やられたほうが悪いということを言っているのとおなじだ。</p><p>どうしてなら、やられたほうに落ち度があると決めつけているからだ。落ち度があるということは、悪いということだ。はたすべき責任をはたさなかったから、そうなったと決めつけているのである。はたすべき責任というのが、あとだしの責任なのである。あとだしの空想的な責任なのである。架空の責任を後からつくりだし、その架空の責任を果たさなかったから、悪いのだと決めつけているのである。これで、精神世界。これで、道徳的なことをしているつもり。ちゃんちゃらおかしいね。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-70420452807697289142024-03-16T15:21:00.066+09:002024-03-17T13:14:04.150+09:00自己責任論というのは、こまっているほうをいじめる思想なのである<p> これ、顰蹙を買うかと思うけど、言っておく。自己責任といっても、打っちゃったら、責任がとれないことがしょうじる。打っちゃったら、責任をとれないことがしょうじる。</p><p>自己責任論者は、自分の身に、マイナスであることが生じたら、それは、自己責任だと言っているわけだ。</p><p>けど、じつは、打ってしまうことで、他人の身にマイナスであることがしょうじる。その場合、自己責任論者は、自分の責任だとは思わないので、まったく責任なんてとらないのである。とろうと思うということが、まったくないのである。</p><p>どうしてかというと、「他人の身にマイナスであることがしょうじる」と考えてないからだ。</p><p>けど、他人の身にマイナスがしょうじる場合だってあるのである。 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじることがある。</p><p>けど、自分が、 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじたということを認めないのであれば、あるいは、意識にすらのぼらないのであれば、そのままなのである。責任なんてとれるわけがないだろ。責任があると思わないわけだから、責任なんてとれるわけがない。</p><p>それから、責任をとることが、可能なのかどうかという問題もある。責任をとることが、そもそも、可能なことではない場合は、いかに自己責任論者だとしても、責任なんてとれない。可能ではないのだから、とれない。自己責任論者というのは、だまされている。即席・洗脳だ。<br /></p><p>自己責任論というのは、ワクチンのためにはやらせておいた考え方なんだよなぁ。</p><p>* * *</p><p>フラットアースという考え方は、陰謀論のためにはやらせておいた考え方だ。これは、根が深い。 </p><p>* * *</p><p>自己責任論というのは、こまっているほうをいじめる思想なのである。こまっているやつがいたら、「そんなのは、こまっているやつの自己責任」と言って、こまっている人をさらにこまらせるのだ。こんなの、悪質なあおりとおなじだ。「どんな場合だって、自己責任」なのだから、こまっている人に責任がない場合は、こまっている人は、不愉快な気持になる。「どんな場合だって、自己責任」というのは、架空の話。こまっている人にとっては、こまっているのは、現実の話。わからないかな? 勝手に、「こまっている側に責任がある」「やられた側に責任がある」と決めつけているだけなのである。現実世界で発生したことを考えず、現実の状態を考えずに、「どんな場合だって自己責任だから、あなたの場合も自己責任」と勝手に、決めつけているだけなのである。仮想、架空の、クソ理論なのである。架空の前提で、現実に起こったことについて、勝手に決めつけている。自己責任論を振り回すやつの頭のなかに、「架空の現実」があって、その架空現実のなかでは、すべて、やられたほうの責任だということになっているのである。なので、どの現実的な出来事にも、「やられたほうの責任だ」ということを、あてはめることになる。けど、現実的な出来事は、現実的な出来事なのである。個々の具体性をもつもなのである。架空の出来事ではないのである。頭のなかで、だれかがだれかになにかをするというタイプの出来事を考え出し、頭のなかで、抽象的に「それは、なにかされたほうの責任であるにちがいがない」と考えているのである。実際には「責任にちがいがない」という推量の部分がとれて、「責任だ」という断定の部分に置き換わっている。</p><p>* * * <br /></p><p>自分を対象とした自己責任論ならいいけど、他人を対象にした自己責任論を振り回すなということを書いたけど、自分を対象にした自己責任論も、すべての場合において、肯定されるわけではない。</p><p>たとえば、一億二〇〇〇万人のうち、一億人が被害を受けたとしよう。一億人が「すべては自己責任だ」と訴えることをあきらめたら、残りの二〇〇〇万人も影響がある。国が一億人にひどいことをした場合、ひどいことをされた一億人が、みんな、「すべては自己責任」と自分の責任だけを追及して、国の責任を追及しなかったらどうなるか?</p><p>二〇〇〇万人が傷つく。</p><p>だれかが、声をあげなければ、ほかの人たちが傷つく可能性がある。だれかが、声をあげなければ、傷つく人が、もっともっと、増える可能性がある。自己責任論というのは、声をあげさせないようにする、思想だ。 </p><p>* * *</p><p>自己責任論というのは、たしかに……「自分に落ち度があると考えると、怒らないですむようになる」……というような高尚な?考え方を含んでいる。あたかも、アンガーコントロールに有効なような感じがする。</p><p>けど、その光の部分は、ニセの光だ。</p><p>社会的にはやらせたのは、やられたほうをいじめ、声をあげさせないようにするためだ。社会的に、はやったというのが、問題なのである。だれかひとりが、勝手に自己責任論を思いついて、本人が思っているだけだったら、こんなことになってない。</p><p>よさそうな話というのは、ニセの光を放っている。ニセの光に弱い人たちがいるんだよなぁ。その人たちが、多数派であれば、世界は、闇に満ちてしまう。ニセの光を放っているものが、「人をひきつけ」「人をたきつけ」悪いほうに誘導する。 </p><p>* * *</p><p>だまされた一億人は、残りの二〇〇〇万人に対して、だまされた責任を感じてくれるのかというと、感じないと思う。だから、自己責任論者が、自己責任だと思える範囲というは、じつは、限定されている。ほんとうは、二〇〇〇万人に対しても、責任があるのに、一億人の自己責任論者が、残りの二〇〇〇万人に対して、まったく責任を感じなかったら、自己責任論者のなかでは、残りの二〇〇〇万人に対して、責任があることにならないのである。しかし、一億人がだまされてしまったことによって、国は、ますます、ひどいことができるようになる。一億人は、悪いほうにコマを推し進めてしまったのである。なら、悪いほうにコマを推し進めた責任がある。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-15110816514857304842024-03-16T14:42:00.064+09:002024-03-16T15:46:30.396+09:00俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!<p> からだがかゆいと、ネズミ対策工事のことで、「やらなくていい」と言った部分を対策業者がやってしまって、逆に穴があいて、被害を受けたということが思い出される。</p><p>からだがかゆいと、いろいろなことを思い出す。</p><p>ネズミ関係のいろいろなことを思い出す。この、工事に関しては、本当に、ねずみ対策業者が、いろいろな「へま」をしている。</p><p>しかも、ヘマがあきらかになったとき、こっちが連絡をしようとしたら、ネズミ対策業者の人が、電話に出なかった。あとで、わかったことなんだけど、脱腸で入院をしていた。</p><p>ぼくは、「お勝手のドアは、あかなくてもいい」何回も何回も言ったんだよ。そうしたら、ネズミ対策業者の人が「あけられたほうがいいだろ」と何回も言ったんだよ。</p><p>これ、カネを払うのはこっちなのだから、一回「やらなくていい」と言ったことは、やるべきではないんだよ。食い下がるべきではない。</p><p>けど、その人が、昭和一桁生まれの人で、ふるい人なんだよ。だから、「一度、関係ができたら、自分がやってあげたいことをやったほうがいい」と考えるような人なんだよ。「これは、こういうふうにしておいたほうがいいだろう」とその人が考えたら、そういうふうにしてやることに、こだわる人なんだよ。</p><p>これ、「してやる」という発想なんだよ。</p><p>「してやれば、相手はよろこぶにちがいがない」という発想なんだよ。</p><p>けど、「やらなくていい」と相手が言ったことは、相手にとって、やらなくていいことなんだよ!!!</p><p>きちがい親父が、こういうやつの性格を一〇〇〇兆倍したようなやつなのだから、こういうやつがかかわると、そっちのほうの心理的な問題も出てきてしまう。そっちのほうの心理的な問題というのは、親父がぼくにやってきたことを思い出してしまうという問題だ。そりゃ、記憶があるのだから……。俺がやってほしくないことを、親父が強引にやってしまうというトラブルが……それこそ、幼稚園時代から、たくさん、あったのだから、思い出してしまう。ひとつひとつが、トラウマだ。<br /> <br />* * *</p><p><br />ねずみ対策業者の人が「あけられたほうがいいだろ」と言ったあと、ぼくが、ネズミ防御力がさがるから、やらなくていい」と言ったら、「ネズミ防御力はさがらない。ちゃんと、やってやるからだいじょうぶだ」「ネズミがはいらないようにちゃんとやってやるからだいじょうぶだ」と言ったんだよ。これ、何回もおなじ会話を繰り返している。 <br /><br />* * *<br /><br />一度!俺が「やらなくていい」と言ったことは、やらなくていいことなんだよ!! 食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!<br /><br />食い下がって、無理やりやったやつは、みんな、ヘマをする。みんな、ヘマをする。できあがったものがよくないのである。これ、みんな、そうなんだよ。これ、おしが強い、食い下がるやつってなんだ。</p><p>これ、あっちがプロで、こっちが依頼者なのだから、依頼者が「やらなくていい」と言ったことをやるのはおかしいだろ。俺が、見てないうちに、やっちゃって「あれは、やっておいたよ」なんて、事後報告だ。</p><p>自分のなかでやりたくなったら、エンジンがかかって、人がとめても、やってしまうやつがいるんだよな。これ、どうにかならないのか?</p><p>こういう、おしが強いやつは、みんな、みんな、ヘマをする。<br /><br />依頼者がたのんだことをやってやるのがプロなのに、自分がやりたいことをやってしまう。これ、なんなんだよ? しかも、自分では「相手のためになっている」「相手のためにしてやった」と思っているんだよ。そういう思考スタイルなんだよ。相手が「やらなくていい」とひとこと言ったら、それは、相手にとって不必要なことなんだよ。なんで、それがわからないのか? <br /><br />* * *<br /><br />「どうしても、気にくわなかったら、あとであなた(俺のこと)がつけなおせばいい」というようなことも言ってたんだよね。けっきょく、ネズミ対策業者の人がパティをとったら、ぼくがつけなおすことになってしまう。けど、ネズミ対策業者の人は、パティのことを知らないのだ。</p><p>これ、プロだから知っていると思ったのだけど、一度つけたパティは、とったらダメなんだよ。つけなおせないんだよ。時間がたったやつはつけなおせないの。まるでわかってないな。</p><p>どうしても気にくわないから、「やらなくていい」「とらなくていい」「ドアはあけられるようにしなくていい」と言っているのに、「ドア、あけられたほうがいいだろ」「あけられるようにしてやる」と言ってきかない。俺は、「ドアは、あけらなくてもいい」と言っているんだぞ。このドアというのは、お勝手のドアだ。使わない。<br /><br />俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!<br /><br />どうして、きちがい親父が起点だと、こういうことになるかな??<br /><br />かゆい!!!!!かゆ!い!!!!くそ、くそ、くそ。どうして、親父が起点だとこういうことになるんだ。 <br /><br />きちがい兄貴が起点でもそうだ。きちがい兄貴がやったことについて、対処しようとすると、次から次へと、起点が影響しているトラブルが発生する。<br /><br />* * *<br /><br />いま、衣類の熱湯消毒処理をしているけど、これも、どれだけ効果があるのかわからない。ともかく、この部屋に入られたのは、問題だ。最後の最後で、はいられた。あそこで、パティをネズミ対策業者が、とらなかったら、入らなかったネズミだ。 <br /><br />* * *<br /><br />ネズミに関しては、時間が問題なのである。侵入されている期間がのびればのびるほど、ひどいことになる。「侵入経路をふさぐしかない」と俺が言ったのに、きちがい親父が「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と絶叫して、ガン無視だ。</p><p>これも、何十回も、押し問答だ。</p><p>何十回、説明しても、「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と言いやがる。<br /><br />入ってきたやつを、ネズミシートで捕まえたって、あとからあとから、入ってくるわけだから、問題が解決しない。ネズミの糞が増え、ダニが増える。どれだけ、「それだと、ネズミの糞が増えちゃうだろ」とか「それだと、ダニが発生してたいへんなことになる」とかと言っても、きちがい親父が発狂して、 「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、無視だ。俺が言っていることを無視する。<br /><br />* * *<br /><br />まあ、ネズミのことは、俺の超個人的な問題だ。そして、あれのことは社会的な問題だ。けど、ネズミのダニも、あれのトランスミッションも、いやだなぁ。目に見えないけど、圧力になる。目に見えないけど、いろいろな病気や症状の原因になる。どっちもそうだ。実際、からだがかゆいというのは、こまった問題だよ。<br /><br />* * *</p><p>押しつけがましい人は、「やってやれば、相手がよろこぶはずだ」という考え方をずっと持っている。相手が「こまるからやめてくれ。やらないでいい」と言ったあとも、そういう考え方がずっと、頭のなかに成り立っている。自分がやったことで、相手がこまるということが、ぜんぜんわかってない。その場に対応した「理由」を(相手が)説明してもだめなのである。どうしても、どうしても、『自分がやってやりたいこと』が優先してしまう。</p><p>* * * <br /></p><p>手短に言うと、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人も、押しつけがましい人とおなじような状態になってしまう。人に親切にしようと「過剰」に思っている人は、自分が思いついた「親切」を他人にやってやりたくなる。その、やってやりたい度合いがあがっている状態なのである。</p><p>そりゃ、「人に親切にすれば、(自分が)しあわせになる」のであれば、しあわせになりたい人は、いろいろと理由をつけて、他人に親切なことをしたくなる。</p><p>けど、その「親切なこと」というのは、その人が考えたものなのである。その人が考えた親切は、相手の状態や、相手の考えを無視したものになりやすいのである。どうしてかというと、「やってやりたい」からだ。</p><p>本人のなかで「やってやりたい気持ち」がブーストアップされる。</p><p>「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人は、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということをまったく気にしてない人よりも、押しつけがましくなるのである。</p><p>自分が「親切にしてやりたいこと」に集中してしまうのである。</p><p>相手が、のぞんでいるものを吟味して、相手がのぞんでいるなら、やってやるという「かまえ」のほうが、相手がのぞんでいることを、やってあげられる確率があがる。「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じてしまうと、一時的にだけど、「押しつけがましい人」とおなじ性格になってしまうのである。おなじ思考スタイルになってしまうのである。</p><p>まあ、もともと押しつけがましい人のほうが、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを「一時的に」信じている人よりも、押しつけがましさの度合いがうえだとは思うけど。</p><p>「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人は、そのぶん、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じていない人よりも、トラブルが多くなる。自分が親切行為だと思っていることをやってしまう可能性がある。</p><p>自分がこうしてやれば、相手がよろこぶはずだということを、相手の感情や相手の状態を無視して、やってしまう可能性がある。「人に親切にすれば、しあわせになる」と強く思っている人は、普通の人よりも、より強く、親切行為を(他人に)やってあげたいと思うようになるわけだ。けど、その親切行為というのが、問題なのである。 </p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-91812659170996898462024-03-16T13:30:00.003+09:002024-03-16T13:32:06.085+09:00 きちがい兄貴は、融通が利かない<p> きちがい兄貴は、融通が利かないのである。どれだけ、こっちがこまっていても、ガン無視して、やり続ける。「一〇分間だけ、特別にゆずってやる」ということができない人間だ。一〇噛んだろうが、絶対に、自分が相手のために我慢するのは、いやなのだ。そして、こういう態度だと、どれだけ、ピンチなときも、やられるわけで、対処のしようがなくなる。それは、パニックになるようなことだし、普通の人であれば、その場で、きちがい兄貴を、殺しているようなことだ。普通の人は、たえられずに、殺している。そういうがまん力が、ぼくの場合、人並みすぐれて、あった。がまん力が強かった。けど、そのぼくですら、けっきょく、がまんのししすぎでだめになった。これ、突き付けられていることが、ちがうのである。普通の人が、「騒音」とか「うるさかった」という話を聴いて、想像するものと、実際にぼくが突き付けられたことが、ちがう。それは、たしかに騒音なのだけど、普通の人が思い浮かべるような騒音じゃない。普通の人は、普段きちがい兄貴が……うちのきちがい兄貴が……どういう感覚で、どういう意地で……ヘビメタを鳴らしているのか、まったくわかってない。融通が利かないということですら、殺人的な意味を持つということがわかってない。繰り返しで、がまん力が内向して、自分のからだがダメになってしまうということがわかってない。能力をうしなってしまうということがわかってない。</p><p>「鳴り終わったら、関係がない」なんて言うやつらのことは、殺したくなる。それで、当然だ。殺しはしないさ。だって、張本人のきちがい兄貴のことも、殺せなかった。殺せるわけがない。けど、「鳴り終わったら、関係がない」なんて言う人は、ほんとうに、なにも、なにも、わかってない。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-89410529544374391372024-03-15T17:33:00.009+09:002024-03-17T09:43:41.592+09:00X側の項目が「一意に決まらない」のであれば、その文は、無意味だ。<p> 人に親切にすれば、しあわせになれるということだけど、ちょっとだけ、説明しておく。</p><p>たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。で、Bさんがエクセルの使い方について質問してきたので、Aさんが、親切に使い方を教えてあげたとする。</p><p>そうしたら、Cさんが、Aさんに「ものすごく、くわしいんですね。エクセルやワードを教えてらっしゃるですか」と訊いたとする。</p><p>で、Aさんは、当時、無職だったので、「いや、無職ですよ」と簡潔にこたえたとする。そうしたら、Bさんが、無職にものを教えられたということにかんして、腹をたてたとする。</p><p>これ、ほんとうにあることなんだよ。</p><p>自分のプライドがゆるさないらしく、無職に教えられたということに(Bさんは)腹をたてた。腹をたてたとする。</p><p>で、「おまえは、気にくわない」とAさんに、言ったとする。Cさんは「自分がへんなことを訊いたから、へんなことなっちゃって」と言ったとする。</p><p>Aさんは、Bさんに親切にしたんだよ。親切に説明してあげた。</p><p>けど、どうだ? Aさんは、親切にしたことで、しあわせになったか?</p><p>しあわせになってないじゃないか。</p><p>無職に、教えられると、腹をたてる人というのは、わりといるんだよ。一定数いる。人に親切にしてあげたことで、トラブルが発生している。</p><p>これ、Bさんは、Aさんがパソコンの講師だったら、納得して、文句を言わないんだよ。なんだったら、「さすがパソコン講師の人ですね」とおべっかを使うかもしれない。</p><p>これだって、偏見のひとつだ。自分は、無職よりすぐれているはずだというプライドをもっていたのに、そのブライトをキズつけられた。だから、腹をたてている。</p><p>実際には、そういうことまで、「親切行為」に影響をあたえる。親切行為も、一意には決まらない。「XをすればYになる」というような構造をもった文において、X側の項目が「一意に決まらない」ということは、ものすごくでかい意味をもっている。</p><p>これがわからないのかな?</p><p>X側の項目が「一意に決まらない」のであれば、その文は……法則性がある文としては……無意味だ。あたかも、法則性があるようなことを言っているけど、法則性なんてない。X側の項目が「一意に決まらない」……これのもつ意味がわかってない。文としては、それは、たしかに、意味をもっていると言えるけど、法則性がある文としては、意味がない。</p><p>文に意味があるとしたら、「その人が、そういうことを言いたい気持ちになっているんだなということが、わかる」というような意味なのだろ。しかし、すくなくても、「XをすればYになる」というような構造をもった文としては、無意味だ。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-28181889348601569872024-03-15T16:48:00.010+09:002024-03-15T17:11:38.880+09:00猛烈ないきおいで、嘘をつくんだよ。<p> さすが、きちがい親父、ダニでたたるとか、目の付け所がちがうよな。自分が死んだあともずっとたたることができるからなぁ。ダニのせいで、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? ネズミの糞で、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? こういうことをやっても、まったく気がつかない。</p><p>そういえば、思い出したけど、台所に、ネズミが出るから、台所から、いまのほうに出てこないように、いちいち、引き戸式のドアをしめていたんだよ。そうすると、いろいろと不便なんだけど、そうした。</p><p>それで、俺が引き戸式のドアを、引いて開けたら、ネズミが、ばばばばばはっと、びっくりしたように、ものすごい速度で、天井付近の横のところをかけたんだよ。だから、あけて、でかいものが動いたので、俺は、びっくりした。</p><p>ネズミもビックリしたのだろうけど、俺もビックリした。</p><p>そうしたら、きちがい親父が「びくつくな」とか言いやがったんだよ。ほんとうに、なぐりたくなったなぁ。そりゃ、あんだけ、でかくて、黒いものが、ばっばばばばばっ、ダッシュしたら、ビックリするだろ。</p><p>きちがい親父が、一日に二三(にじゅうさん)時間、粕漬の魚をテーブルの上に出しておくということにこだわったからこうなっているんだぞ。親父が、ねずみ対策工事をさせてくれないからこうなっているんだぞ。普通の人だったら、絶対に気にすることを気にしないんだよ。</p><p>これは、きちがい兄貴もきちがい親父もおなじだ。</p><p>こういうところで、頭がおかしい。</p><p>頭がおかしいから、自分の責任で、こうなったということがわかってない。それは、言われないからわからないのではなくて、どれだけ言ったってわからないのである。きちがい親父も、きちがい兄貴も、基本的なことを無視して、あれまくって、認めないんだよ。発狂して認めない。</p><p>発狂したいのはこっちなんだよ。</p><p>全部、こういうことなんだよ。</p><p>全部、こういうことなんだよ。</p><p>ほかの家だったら、絶対に起こりえないことなんだよ。</p><p>ちなみに、天井の横のことろと書いたのは、台所なので、天井と壁がくっついているところに、壁があるわけではなくて、扉がついた収納部分がついている。だから、ネズミが、走ったところは、扉のうえだ。</p><p>これ、ほんとうに、でかいネズミなんだよ。引き戸を引いて、開けたときは、開けたとたんに、なにか黒くてでかいものがすごい速度で移動したと認識したわけだから、普通に、反射的に、おどろく。</p><p>そりゃ、なにか黒くてでかいものが、ものすごい速度で移動したら、おどろくだろ。「ネズミだ」ということを認識するまでに、ものすごく短い時間だけど、時間がかかる。びくつくとか、そういうことじゃない。</p><p>自分が、ネズミを餌付けして、入れたのに、まるで反省しないんだよ。これ、粕漬の魚を出しておいたから、ネズミがきたんだぞ」ということを言うと、きちがい親父が「だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!」猛烈ないきおいで、嘘をつくんだよ。</p><p>これ、きちがい兄貴に「うるさいから、しずかにしてくれ」と言ったときの、兄貴の態度とおなじなんだよ。兄貴はさけんでないけど、おなじことが、起こっている。</p><p>おなじことが頭のなかで起こっている。</p><p>きちがい親父だって、無言バージョンがある。</p><p>ともかく、事実がなんであれ、発狂して否定して、それでのがれれば、それでいいという考えなんだよ。もちろん、熟考しているわけではないけど、そういうきちがい的な考えに支配されている。</p><p>「そのときだけ」認めずに、やりきれば、それで、本人のなかでは、すんでしまっている。「すんでしまったら」やってないことなのである。そんなの自分にまったく関係がないことなのである。</p><p>だから、そういうことが、時間的にネスト構造で成り立っている。</p><p>だから、「認める」ということがないんだよ。これ、普通の人だったら絶対にありえないことなんだよ。</p><p> 無言バージョンと、否定語絶叫バージョンのちがいは、無言バージョンの場合は「こまる」というようなことなんだよ。将来、相手がこまることになるとか、相手がすでにこまっているということだ。きちがい兄貴やきちがい親父は、こまっていない。きちがい兄貴やきちがい親父は、やりたいことをやめさせられるとこまってしまう。</p><p>だから、認めない。発狂して認めない。</p><p>発狂したいのは、こっちなんだよ。でっ、否定語絶叫バージョンは、自分がすでにやったことを認めない場合や、感覚器が正常であれば、絶対にわかることを認めない場合に、使われることが多い。あくまでも、傾向だ。</p><p>普通の人だったら絶対にやらないことをやって、相手がこまっているから、文句を言ってきているのに、反対語を絶叫して認めなかったり、無言のまま認めなかったりする。普通の人だったら、やるまえから「迷惑だ」ということがわかるから、絶対にやらないことなんだよ。</p><p>でも、やりたいからやったとする。相手が文句を言ってきたとする。相手が文句を言ってきた場合、相手の気持ちや相手がこまっているということが(普通の人は)わかるのでやめてやる。</p><p>けど、きちがい兄貴や、きちがい親父の場合、それがまったくない。頭がおかしいレベルでまったくない。</p><p>だから、そうなると、よその人が、きちがい兄貴の行為や、きちがい親父の行為について、誤解をするのである。常識的に考えれば「そんなことはない」ということになってしまう。実際自分が、家族に「そういうことを」やられたことがないので、やる人がいるということが、「経験的に」わかってない。</p><p>そうなると、そういうことをされたときの、影響のでかさがわからないのである。</p><p>特に、兄貴のヘビメタ騒音は、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もつづくことなので、「ヘビメタ騒音」という一つの行為なんだけど、影響が、計り知れないほどでかい。</p><p>きちがいヘビメタ騒音のなかで、宿題をするのはむりなんだということを言っても、ほかの人は、認めない。自分のことじゃないから、基本的に関係がない。自分のことじゃないから、基本的に関心がない。そんなへんな人(家族)の話なんて、自分にとっておもしろくないことだから、関心がない。</p><p>「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思ったり、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思ったりする。けど、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思っていられるのは、その人の家族が、きちがい家族ではなくて、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、大爆音で鳴らされないから、わかってないだけなんだよ。</p><p>きちがい親父や、きちがい兄貴もわかってないけど、普通の人もわかってない。普通の人は『きちがい親父の行為』や『きちがい兄貴の行為』不可避的に影響をうけるということがわかってない。その影響が、でかいということがわかってない。</p><p>普通の人が、考えている以上に、でかいでかい影響をあたえるのだけど、普通の人は、それがわかってない。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-48077666993791738652024-03-14T13:25:00.004+09:002024-03-14T13:45:57.591+09:00不可避的に影響をうけてしまうことがある<p> 親には真剣があるので、影響をうける。アドラーとか、きちがい的な親にたたられたことがない人は、「影響をうけないことが可能だ」と前提でものを言うのである。『影響をうけないぞと、かたい決心をすれば、影響をうけることがない」のである。けど、親は真剣をもっているので、子供側の人間は影響をうけることがある。「影響をうけないことが可能だ」というのは、どんな場合でも影響をうけないことが可能だと言っているのである。けど、実際には、未成年であるうちは、影響をうける。「親」というのは、一番みじかな「他人」だ。他人なのである。他者存在なのである。影響をうけないというのは、他者の影響をうけないということなのである。けど、親と言う他人の影響をうけることはある。親がやることでも、影響をうけないこともある。ようするに、「影響をうけないぞ! 断固無視して、影響をうけないようにするんだ!!」と思って、影響をうけずにすむこともある。けど、そうではないこともある。影響をうけることはゼロではないのである。不可避的に影響をうけてしまうことがある。なので、「他人の影響をうけないことは可能だ」というのは、嘘なのである。</p><p>* * *</p><p>他人、親という他人、子供側の人間ということについて考えてみよう。子供側の人間が未成年だとする。けど、きちがい的な兄の騒音を逃れるために、アパートを借りたいと思ったとする。けど、未成年なので、親の承諾が必要になる。たとえ、お小遣いをためたカネをもっていて、一年ぐらいは借りられるカネがあったとしても、親の承諾が必要になる。親が承諾しなければ、アパートを借りられないということになる。影響をうけるではないか。学生用のクレジットカードだってそうだ。親の承諾が必要になる。影響をうけるではないか。影響は、うける。なんで、「影響をうける必要はない」とか「影響をうけないことは可能だ」ということを言うのだ? それ、まちがってるぞ。嘘を言うな。</p><p>* * *</p><p>きちがいが、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為をするのか、ぜんぜんわかってないなぁ。わかってないやつが、「影響をうけないことは可能だ」と言う。そりゃ、人生のなかで、きちがい家族の影響をうけたことがないのだから、そういう感覚になるのだろう。そりゃ、きちがい家族といっしょに暮らしたことがなければ、きちがい家族にやられたことが一度もないというとになる。自分の人生のなかで「一回もしょうじなかったこと」については、想像するしかない。たしかに、そうだ。想像するしかない。なんてたって、自分の人生のなかで一度も経験したことがないことなのだからな。そして、自分は「一度も影響をけたことがない」ので、「影響をうけないことは可能」だと、思ってしまう。そりゃ、なかったことなのだから、あった場合のことよりも、なかった場合のことを、下地として考えてしまう。下地というのは、「考えの下地」だ。自分の経験になじみやすいことを下地として考えるので、本当は、きちがい家族の影響をうけないことなんて、可能じゃないのに、きちがい家族の影響を実際に受けなかった人は、「影響をうけないことは可能だ」と思ってしまうのである。そんなのは、きちがい家族と、実際に、一緒に暮らしたことがないから、どうしても影響をうけてしまうことがあるといこうとが、わかってないだけだろ。きちがいの意地が、そもそも、わかってないんだよ。きちがいの感覚が、そもそも、わかってないんだよ。きちがい的な意地でやっていることを「やってない」と思っているんだからな。きちがいだから、そういうことが可能なんだよ。常識的な考えで言えば、「そんなことはない」のである。だから、「そんなことはない」という前提で考えてしまう。「考えの下地」というのは、ひとつひとつの前提よりも、もっと大きなひろがりをもった……無意識的な「多数の前提」の集合体だ。「の」の重複は指摘しなくてもいい。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-38787314184718924052024-03-14T12:35:00.001+09:002024-03-14T12:35:15.598+09:00いっしょに住んでいれば、どうしても影響をうけてしまうというところがある<p> きちがい兄貴やきちがい親父が、やったことで、俺がへんな人間だと思われるのが、あまりにも多かった。ほかの人には、きちがい兄貴やきちがい親父がいないので、本当は、わかってない。俺が説明をしても、わかってない。わかってないまま、「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言いやがる。そういうことも含めて、ぼくは、きちがい家族にやられていない普通の人間から、誤解をうけている。本当に、きちがい家族が、どれだけの意地で、どれだけこまることをやるか、ぜんぜんわかってないんだよね。普通の人は……。どうしてかというと、自分がきちがい家族に、日常的にやられなかったからだ。自分が、きちがい家族と、日常生活のなかで、接触しなかったからだ。実際に、やられた時間がないのだから、やられた時間について、誤解をする。「ぜんぜんちがうんだ」と言っても、「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言う人は、自分がやられてないから、わからない。しくみがわからない。きちがいのしくみがわかるのかよ。不可避的に影響をうけると言っても、こいつらはわからない。「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言っている人はわからない。どれだけ、ちゃんと説明をしても「わからない」という点では、なんと、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじなのである。似ている。構造が似ているんだよね。わからなければ、そいつのなかでは、そのままだ。</p><p>* * * <br /></p><p>やっぱり、いっしょに住んでいれば、どうしても影響をうけてしまうというところがある。不可避的に、影響をうけるのである。ところが、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人は、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないので、きちがい家族特有の影響というのがわからない。きちがい家族にしかないような部分というのがわからない。きちがい家族にだけにあって、普通の家族にはない部分がわからない。きちがい家族の行動、態度、感覚……全部、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人にはわからない。けど、わからなくても、「判断」はするのである。完全に誤解をしている。 <br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-51656286128015454172024-03-14T09:13:00.002+09:002024-03-14T10:19:54.310+09:00あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。<p> まあ、うんと手短に言って、ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつとは、対立することになっている。<br /><br />きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしたら、「ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつ」と対立することになっている。<br /><br />もう、セットなんだよ。<br /><br />決まっていることなんだよ。<br /><br />あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。<br /><br />そして、本当に「できない」わけだから。「宿題をやってこない」ということにかんして、「不愉快な気持ち」になるものと、対立することになっている。<br /><br />こいつらはこいつらで、実際に、俺の部屋で暮らしているわけではないから、きちがいヘビメタ騒音のすさまじさが、わからない。経験してない。経験的にわからない。<br /><br />だから、ヘビメタ騒音が終わったあとも、眠れないということがわからない。そりゃ、午後四時から午後一一時一〇分まで、ヘビメタをあびていれば、そういう状態になるのだけど、これも、ぼくと同じ部屋にいて、ぼくとおなじぶんだけヘビメタをあびているわけではないから、ヘビメタを鳴らされたあと、眠れないというのがわからない。<br /><br />「ヘビメタが鳴りやんでいるのだから、眠れるだろ」と思ってしまう。こいつらは、こいつらで、「眠れない」というとを認めない。自分だって、眠れなくなる。</p><p>おなじことをやられたら、自分だって眠れなくなる。<br /><br />けど、そいつの家には、きちがい家族がいない。きちがい家族がいないから、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることの、影響をうけてない。自分の生活のなかで発生しないことだ。だから、経験的にわからない。<br /><br />わからなければ、「そんなのはどうでもいい」とか「鳴り終わったら眠れるだろ」とかと思うことになる。こいつらにしてみれば、「鳴り終わったあと眠れない」などと「わけのわからないことを言っている」ということになる。<br /><br />そして、俺に対して、「わけのわからないことを言っているやつ」という気持をいだくようになるのである。<br /><br />途中から、「眠れない」という話になったけど、その「眠れない時間に、宿題ができるかというと、できないのである。これも、俺ができないと言ったらできないんだよ。俺が、ものすごく努力して、やろうとしたけど、できなかったから、できないと言っているんだよ。一回だけではなくて、何回も何回もできなかったから、「できない」と言っているんだよ。<br /><br />けど、そういう、「どうしようもな状態」を経験してない人には、それがどういう状態なのかわからない。きちがいヘビメタ騒音を毎日、長時間あびるということは、そういうことなんだよ」と言ったって。経験がない人には、わからない。<br /><br />経験がない人にとっては、そういうふうに言われたあとも「そんなの、できるだろ」「根性、だせば、できるだろ」「努力をしたくないからそういうふうに言っているだけなんじゃないか」と思うようことなんだよ。<br /><br />ぼくの感想を言ってしまえば、ぼくにとってのヘビメタ騒音のような音を、あの音のでかさで、家族が、至近距離で、何時間も何時間も鳴らしていたら、そういうふうに言っているやつらだって、できなくなる。<br /><br />もう、俺にとっては、これも確定事項だ。<br /><br />もちろん、俺がそういうふうに確信しているだけだ。そういう状態に、そいつらが、おかれなければ、実際のところは、わからない。本人にとって、一番苦手な音が、あの音のでかさでずっと鳴っていたら、俺とおなじような状態になると思うけど、そんなのは、そういうことをやる異常な人間と一緒に暮らしていなければ、人生において生じないことだ。<br /><br />しょうじないのだから、確かめようがない。<br /><br />けど、ぼくは、そうなると思っているよ。<br /><br />けど、そいつらは、「そうならない」と思っているんだよ。これも、確信に近いわけ。だから、「そうなる」と思っている人間と、「そうならない」と思っている人間のあいだには、溝がある。革新における、溝がある。<br /><br />ならば、その核心について、特に、言及されなくても、確信しているのだから、確信している部分がいろいろな「その他の思考」に影響をあたえる。<br /><br />ようするに、前提として「そうなる」と思っている人間が考えることと、前提として「そうならない」と思っている人間が考えることは、必然的にちがってくる。<br /><br />なので、両者の間には、根本的な対立がうまれる。<br /><br />じゃあ、どうして、この対立が生まれるのかというと、きちがいきちがい兄貴が、よその家では、一分だって鳴らせないような・でかい音で、ヘビメタを鳴らすことにこだわって、そうしたからだ。<br /><br />これ、俺の人生のなかにでだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、「すべて」を無視して、鳴らすということをしなかったら、しょうじなかったことだ。<br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-11926194059555306172024-03-13T08:25:00.001+09:002024-03-13T08:29:46.537+09:00現実はちがうので、現実における意味が、まったく、ない。<p> 「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの法則性がありそうな文について、ちょっと述べておく。「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文は、その人の属性や相手の認知をまったく無視している。だから、現実的ではない。たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、無職だとする。そうすると、BさんがAさんのことを無職だと認知した場合、Bさんのなかにある無職に対する考え方の総体が、BさんのAさんに対する認知に影響をあたえるのである。人間として暮らしている以上、そういう、認知の影響なしにAさんを見ることはできないのである。その場合、Aさんが、どれだけ誠実な人であったとしても、Bさんが「無職者は信用できない」と考えているのであれば、Bさんは、Aさんを信用しないのである。「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文には、Aさんの属性も、Bさんの「属性に対する」考えの総体も、ぜんぜん、出てこない。なので、現実的な話ではないのである。無職だとしても、無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職と、一か月前まで働いていた無職とでは、ちがうと考える人が多いのではないかと思う。「無職」という属性に対する考え方と、無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職という属性に対する考え方と、一か月前まで働いていた無職という属性に対する考え方は、一般にちがうと思う。ようするに、多くの人の頭のなかで、この三つは、おなじものではない。たとえば、Aさんが無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職であった場合のBさんの認知からしょうじるAさんに対する態度と、一か月前まで働いていた無職であった場合のBさんの認知からしょうじるAさんに対する態度は、ちがうのである。さらに、たとえば、Aさんが一か月前まで働いていた企業が超有名な大企業である場合と、Aさんが一か月前まで働いていた企業が零細企業である場合は、また、ちがうのである。さらにまた、Aさんが一か月前まで非正規従業員として働いていたのか、Aさんが一か月前まで正規従業員として働いていたのか、Aさんが一か月前まで、経営者として働いていたのかということは、Bさんの認知に影響をあたえる。こういうことは、Aさんの話のなかに織り込まれていて、Bさんの認知に影響をあたえる。Bさんの認知というのは、「無職」というような大まかな認知ではなくて、もっと細分化された「無職」に対する認知なのだ。だから、「無職」という属性のなかにも、もっと細分化された属性があるということになる。だから、人の行動に影響をあたえる認知が、(対象となる)人全体に対する認知のちがいなのか、詳細化された属性に対する認知のちがいなのかは、わからない。詳細化された属性に対する認知というのは、まあ、経験によって、セットになっている認知なのである。<br /><br />で、まあ、実際にはだれかがもっている認知セット(偏見)は、だれか他人に関する認知に影響をあたえる。認知に影響をあたえるものは、その人の行動にも影響をあたえる。相手をそういうものだと認知することは、その人の相手に対する行動に影響をあたえる。なので、そういうことをまったく捨象した「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文は、まったく、意味がない。現実はちがうので、現実における意味が、まったく、ない。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-52706018820237416892024-03-12T08:43:00.006+09:002024-03-13T20:54:33.043+09:00フォークギターぐらいの音で聞いてくれたら、そういうこと自体が、そもそも、しょうじてないことなんだよ<p> きちがい兄貴にやられると、能力がさがる。なんていうのかな? ヘビメタの音は、勉強時間をうばっただけではなくて、ものすごく、能力がさがるものなんだよ。</p><p>そして、簡単にできる宿題ができなくなる。</p><p>どうしても、できなくなる。</p><p>どれだけがんばってもできなくなる。</p><p>きちがいヘビメタ騒音のなかで、教科書や問題集と、にらめっこしていることになる。で、その時間が、ただ単に、「勉強ができない時間」ではなくて、体力や思考力や睡眠力をうばっていく。明るい気持ちをうばっていく。明るい見通しをうばっていく。</p><p>ヘビメタで、見通しがないなかで、アファーメーションで、どれだけ「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と叫んでも、ぜんぜん、それは、意味がないわけ。</p><p>むしろ、逆効果なんだよね。</p><p>ヘビメタ騒音のなかで叫ぶと、怒りと不安が、ピークになるほど、増大する。アファーメーションと言ったけど、言霊と言ってもおなじだ。言霊について、いろいろと書いてきたけど、言霊信者というのは、アファーメーション、プラス、神秘的な力を期待しているわけ。</p><p>だから、「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と言っているのに、不安が増大するなんてことは、まったく考えてないわけ。自分の経験から言って、「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と言うと、安心して、だいじょうぶだと思えるようになったから、効果があると思っているわけ。</p><p>アファーメーションにも効果があるし、アファーメーション・プラス・神秘的な力をもつ言霊は、なおさら、効果があると思っているわけ。</p><p>で、そういうふうに思っている人は、きちがいヘビメタが鳴ってない、しずかな部屋で、アファーメーションなり、言霊宣言をしているわけ。しずかな部屋と言っても、ものすごく静かな部屋である必要はないわけ。</p><p>ようするに、ぼくの状態で言えば、きちがい兄貴が、まだ、エレキギターを買ってない状態で、ヘビメタに興味がない状態で、フォークギターを部屋で引いているような状態なら、じゅうぶん、しずかな部屋と言えるわけ。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすために、巨大なオーディオセットを買う前は、普通のステレオで、普通に(当時の歌謡曲)を聴いていたわけだけど、そういうふうに、普通の音で鳴らしてくれるなら、別に、兄貴が自分の部屋で、好きな音楽を聴いていても、よかったわけ。</p><p>そういう状態なら……フォークギターを鳴らしたり、普通のステレオを鳴らしている状態なら、特別に静かな部屋ではなくても、いろいろと聞こえる部屋でも、普通の部屋であるわけ。きちがい騒音部屋じゃないわけ。</p><p>みんな、ほんとうに、きちがい兄貴が、こだわってこだわってこだわってこだわって、鳴らしたヘビメタの音がわかってない。ヘビメタの音のでかさがわかってない。ちがうんだって言っているのに、フォークギターぐらいの騒音を想定して、ぼくの話を聴くというか、受け流すわけ。</p><p>これじゃ、俺が、たいしてうるさくない音に、こだわって、「うるさいうるさい」と言っているみたいじゃないか。ちがうんだよ。けど、まず、ヘビメタ騒音の話をされたということ自体が、不愉快に感じる人もいるわけ。</p><p>まあ、自分に関係がない「愚痴」を聴かされたと、強く思う人は、それだけで、不愉快な気持になるわけ。だから、そのとたんにというか、ほぼ同時に、ぼくに対して、「憎悪」の気持ちをいだくわけ。愚痴を聞かされたと思ったあとは、ぼくのことが「不愉快な人間」であるかのように、感じるわけ。</p><p>だから、「そんなやつが言うことは、まちがいにちがいがない」とか「そんなのは、お兄さんにしずかにしてと言えばすむ話だろ」と思って、基本的に、怒るわけなんだよ。まあ、すごく怒るわけじゃないけど、小さな怒りは発生するわけ。</p><p>で、そういうのも、きちがい兄貴が、こだわってこだわってこだわって、こだわりの音で鳴らさなかったら、しょうじてないんだよ。ヘビメタを聴くにしろ、フォークギターぐらいの音で聞いてくれたら、そういうこと自体が、そもそも、しょうじてないことなんだよ。</p><p>そして、たとえば、遅刻をしたとか、宿題を忘れたとか、そういう「ダメなこと」が発生していると、「なんだ、こいつは!!」と思う気持ちが強くなるわけ。</p><p>だから、基本的に、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを説明しても、そいつは、ぼくに腹をたてた状態になるわけ。</p><p>そういうことの繰り返しで、つかれたよ。きちがい兄貴がやっていることは、フォークギターぐらいの音で、ヘビメタを鳴らすというような、普通のことではないんだよ。</p><p>それが、ほかの人にはわからない。</p><p>「できない」と言っても、ほかの人は「できるはずだ」と考える。だから、溝がしょうじる。そして、こっちの能力がさがっていれば、そいつは、さらに、「えいりというやつは、本当にダメ人間だな」と思うわけだよ。</p><p>そういうふうに、見下げてくるわけ。だから、そういうのがいやだったから、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」ときちがい兄貴の部屋に行って、何度も何度も、言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい親父の感覚で、頭がおかしい人にしかできないような無視をして、やり続けるわけ。</p><p>だから、こまるんだよ。</p><p>けど、きちがい兄貴は、そんなのは、知らないわけ。どれだけ、言っても、まったくなにも、兄貴にはつたわらないわけ。その「つたわらない状態」というのが、また、きちがい的な状態で、普通の人にはわからないんだよね。</p><p>どうしてかというと、普通の人のうちには、きちがい的な状態で、無視する人がいないから。きちがい的な状態で、どれだけ言われても、言われた内容が、まったく理解できない状態になる人が、いないから、わからない。</p><p>言葉がわからないわけではないし、知能が低いわけではないのだけど、あたかも、言葉がわからないというような感じで、わからない。</p><p>俺が何回言っても、兄貴のほうは、言われた感じがしないのである。</p><p>俺が何回言っても、兄貴は、なにも言われてないと思っている状態が続くわけ。</p><p>俺が、何百回言っても、兄貴は、ゼロ回しか言われなかったと思っているわけ。</p><p>俺が、何百回言っても、兄貴は、一回も言われてないと思っている状態が続くわけ。</p><p>これだって、普通のうちの人にはわからないことだ。どうしてかというと、自分のうちにはそんな人がいないからだ。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-20347328833015641252024-03-11T22:11:00.002+09:002024-03-13T20:49:54.724+09:00きちがい家族に、毎日やられたことがないやつが、えらそうなことを言ってくる<p> なんで、ぼくだけ……。なんで、ぼくだけ……きちがい家族にやられなければならないんだ。きちがい兄貴の、きちがいヘビメタ騒音。きちがい親父のきちがい行為。</p><p>なんで、ぼくだけ。</p><p>きちがい家族がいないから、きちがい家族に、毎日やられたことがないやつが、えらそうなことを言ってくる。おまえらなんて、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていたら、六カ月で、廃人だ。ボロボロになって、布団にくるまって、再起不能になっているよ。</p><p>ヘビメタが好きなやつだって、自分が聴きたくない時間に、あの大音量でやられたら、頭にくるだろ。まあ、ヘビメタが好きなやつのことはどうでもいい。ヘビメタが好きな人は、なんか自分がきらいな音を思い浮かべてくれ。</p><p>まあ、そんなことを言っても、けっきょく、経験がなければ、わからない。みんな、好き勝手なことを言う。みんな、なめてかかってくる。</p><p>みんな、きちがい家族にやられたことがないから、被害の大きさがわからずに、俺のことを、なめてかかってくる。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-67951766576185726992024-03-11T11:47:00.004+09:002024-03-11T14:15:05.669+09:00「そんなことを言ったって、あたえられたカードを使って、努力するしかない」<p> 努力成功論について書いてきたわけだけど、多くの人は、「そんなことを言ったって、あたえられたカードを使って、努力するしかない」というようなことを思っているのではないかと思う。</p><p>ようするに、条件の格差はあるけど、しかたがないので、自分にあたえられた条件のなかで、努力するしかないということだ。</p><p>それは、それで、いい。そういう対処のしかたを、ぼくは認める。</p><p>けど、ぼくが言いたいのは、それでも、「わくぐみ」にかんして、考えるべきだということだ。現実的な対処として、あたえられたカードを最大限に利用して、自分がなるべくしあわせになることを優先して行動する……ということは、重要だ。</p><p>けど、そういうことをしているときも、「わくぐみ」に目をむけなければならないのである。「わくぐみ」を無視すると、この「わくぐみ」が維持されてしまう。この「わくぐみ」は、こわさなければならない。</p><p>だから、まあ、ぼくが、ほかの人にもとめていることというのは、「わくぐみ」に目をむけることだ。格差がありすぎる「わくぐみ」はよくないのである。</p><p>そのなかで、努力をすると、自分の首をしめて、他人の首をしめることになってしまうのである。そういう「わくぐみ」がある。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-71568092879517119592024-03-11T09:48:00.009+09:002024-03-11T10:43:43.546+09:00ところが、自己責任論者は、他人の責任を追及するのである<p> いろいろなことが、つみかさなって、いま、背中がめちゃくちゃに、かゆくて、いたい状態ができあがっているんだよなぁ。これ、ぼくのほうに、落ち度はないのである。通常、考えられる落ち度はない。</p><p>これ、ほんとうに、他人が勝手に動いて、あるいは、他人が頑固に動いて、そうなっている。連鎖があるんだよな。</p><p>たしかに、俺は食い止められなかったけど、最大限の努力をした。最大限の努力の結果がこれじゃあなぁ。最後のネズミが強烈に問題なんだよな。最後のネズミの影響を、大きく受けている。最後のネズミに到達するまでの連鎖。これ、普通の家だったら、絶対にないことなんだよな。<br /><br />ともかく、背中がいたがゆくて、いらいらする。破滅的な気分になる。連鎖を考えると、発狂しそうになる。<br /><br />まあ、こういうことを書くと、「自己責任、自己責任」とはやしたてるやつが発生する。<br /><br />こいつらは、自分が、自己責任、自己責任とあおって、不幸な他人を不愉快にした責任を、いつ感じるのだろう。こういうことにかんしては、自己責任を感じないんだろうな。</p><p>けど、言っておく。そういうことにこそ、自己責任を感じるべきだ。自分が悪い行いをしたのに、まったく責任を感じないなんておかしい。悪い環境に生まれた人の、自己責任を追及するなんて、悪い行為だ。だれがそういうことをすることを、ゆるされているのか?<br /><br />こいつらは、常にあおり行為をしているのに、本人は、あおり行為をしているつもりがないやつらだ。生まれながらの条件が悪い人の「責任」を追及するってなんだよ?</p><p>それが、いい行為なのか、悪い行為なのか、まったくわからないようになっているんだよな。こいつらには、良心がない。こいつらは、独自の道徳観をもっているのだろう。</p><p>けど、その道徳観は、悪い道徳観だ。洗脳されて、そういうことをすることが、いいことだと思っている。まさしく、自分が洗脳されたことに気がついてないわけだけど、自分が洗脳されてしまったということにかんして、「責任」を感じるべきだ。こいつらはみんな、悪い宗教の信者みたいなもんなんだよ。<br /><br />たとえば、しつこい勧誘をされた人は、不愉快な気持になる。ところが、しつこい勧誘をするほうは、しつこい勧誘が悪いことだとは思ってない。「善行」だと思っている。だから、そういうところに、ズレがあるわけ。 <br /><br />* * *<br /><br />何回も言うけど、不幸な家に生まれれば、不幸な出来事を経験するようになる。不幸な環境のもとに生まれれば不幸な出来事が発生する。不幸な環境をその人が選んだわけじゃない。</p><p>ところが、自己責任論者は、その人が不幸な環境を選んだのだと決めつけ、その人のせいにしてしまうのだ。自分のせいだと言うのであれば……すべては自己責任だと言うのであれば……その人が不幸な環境のもとに生まれたのは、まさしく、自己責任論者のせいだということになる。</p><p>そりゃ、すべのことが、自分の責任なのだから、自分の責任なんだよ。他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。自己責任論者が、そういうふうに言っている。</p><p>すべては、自分の責任だと言っているだろ。不幸な事故が起こったら、自己責任論者の責任だ。すべては、自己責任論者の責任だから、すべての出来事に対して、自己責任論者は、責任がある。そういうふうに自分で言っているのだから、そうだ。<br /><br />ところが、自己責任論者は、他人の責任を追及するのである。</p><p>他人が不可避的に不幸になったら、その他人のせいだと言うのである。</p><p>いや、自己責任論者のせいだろう。自己責任論者が「すべては、自分の責任だ」と言っているのだから、もちろん、その他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。</p><p>自己責任論者は、あらゆる意味で、他人の責任を追及してはいけないのである。</p><p>ところが、不幸な人がいれば、不幸なのは、その人のせいだと、なにも知らないのに、決めつけて、その人の責任を追及しはじめる。</p><p>自己責任論者にとって、その人は、他人なのだから、他人の責任を追及していることになる。</p><p>他人の責任を追及するな。</p><p>よく事情がわからないのに、とにもかくにも、不幸な人がいたら、その人が不幸なのは、その人の責任だと決めつけてしまうのである。こういうことにこそ、責任を感じるべきだ。 </p><p>* * *</p><p>しつこい勧誘をされて、不愉快な気持になった人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんに、しつこい勧誘をした人をBさんだとする。自己責任論者というのは、かならず、Bさんの責任を追及することになっている。</p><p>「不愉快な思いをしたほう」が悪いということになってしまう。「不愉快な思いをしたほうが、不愉快な思いをせずにすんだはずなのに、不愉快な思いをしたのだから、不愉快な思いをしたほうには、責任がある」と言って、不愉快な思いをしたAさんの、自己責任を追及する。</p><p>しつこい勧誘をしたほうの責任は、一切合切問わないのである。</p><p>どうしてかというと、しつこい勧誘をしたほうは、しつこい勧誘をすることで、一切合切、不愉快な思いをしてないからだ。</p><p>「本人」が不愉快な思いをしたら、不愉快な思いをしたということに、絶対的な責任があると考えるのが、自己責任論者なのだ。</p><p>そして、自己責任論者にとって他人である人間の責任を追及しはじめる。</p><p>しつこい勧誘をしたBさんが、自己責任論者だとしよう。自分が不愉快な思いをしていないのだから、勧誘をしたということについて、自己責任を感じるわけがない。Bさんは、自分が、Aさんを不愉快な気持にさせたことにかんしては、一切合切、責任を感じないのだ。それなのに、「すべては自己責任」なんて、言っている。</p><p>* * * <br /></p><p>「不愉快な思いをせずにすんだ」ということについて、ちょっとだけ言っておく。</p><p>「Aさんが、Bさんの勧誘をさいしょにぴしゃりと断っていれば、Bさんはそれ以上勧誘をしなかったはずだ。それなのに、最初にぴしゃりと断らなかったから、Bさんが勧誘を続けた。Aさんは、防衛できるのに、防衛なかった。だから、Aさんの自己責任だ」というふうに、勝手に、空想的な設定をつくりあげてしまうのである。</p><p>勝手に、そういうものだと、設定してしまう。</p><p>自己責任論者が勝手に、Aさんには、落ち度があるはずだと勝手に決めつけてしまうのである。</p><p>自己責任論者は、「最初にAさんがぴしゃりと断ったのに、それを無視して、Bさんが勧誘をした」という可能性は考えないのだ。</p><p>じゃ、ぼくは、作者だからそういうことにしておこう。</p><p>Aさんが、最初にぴしゃりと、Bさんの勧誘を断った。だから、その点において、Aさんは、責任をはたしている。ところが、BさんがAさんの言葉をガン無視して、勧誘を続けたのである。</p><p>当然、普通に考えれば、しつこい勧誘を続けたのは、Bさんの責任だということになる。Aさんが断ったのに、それを無視したのは、Bさんの責任だということになる。</p><p>ところが、無視したほうの責任は問わずに、「無視されないことわり方ができたはずなのにそれをしなかったのが、Aさんだから、Aさんの責任だ」ということになってしまうのである。「無視されないことわり方ができたはずだ」というのも、また、自己責任論者が、頭のなかで、かってにこしらえたものなのである。</p><p>勝手に考えついた前提なのである。</p><p>自己責任論者は、言霊主義者や努力論者とおなじで、あとだしジャンケンが得意なのである。事実、無視されたなら、無視されたほうの責任だということになってしまう。結果的に、無視されたなら、無視されたほうに、それ相応の責任があると考えてしまうのだ。</p><p>「結果的に無視された……自分なら無視されない方法で言うことができたはずだ……実際に無視された人は、無視される方法でいったからダメなんだ」……と自動的に考えてしまうのである。</p><p>「結果が、『黒』なら、やれたほうが、適切に回避しなかったから、やられたのだ」……と自動的に考えてしまうのである。</p><p>自己責任論者のなかでは、常に、防衛が可能なのである。</p><p>その可能な防衛をしなかったAさんの責任だということになってしまう。Bさんが、無視して、やったことなのに、Aさんの責任だということになってしまうのである。その可能な防衛というのは、防衛できなかったという事実(結果)から、自己責任論者が、空想的に考え出したことなのである。ほんとうは、なかみがないことなのである。</p><p>防衛できなかったからこそ、自己責任論者のなかで、防衛できたはずのことになってしまうのである。結果を知っている自己責任論者が、そういう結果をうみださなかった可能性について考えて、そういう可能性があったはずだと勝手に思ってしまうのである。</p><p>頭のなかで思っているだけだ。</p><p>現実世界で起こったことについて、どれだけのことを、(話を聴いただけの)自己責任論者が知っているのかということが問題になる。</p><p>自己責任論者が、頭のなかでひっくり返して、「正反対の結果があったはずだ」と思っているだけなのである。</p><p>結果から、そういう結果ではない結果について考えて、そういう結果ではない結果を選択できなかったのは、その人のせいだということにしてしまうのである。自己責任論者が、頭のなかで、そういうことにしてしまう。</p><p>ほんとうに、人のせいにばかりしている、自己責任論者なのである。</p><p><br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-26033084798663958092024-03-10T05:31:00.002+09:002024-03-10T05:31:39.212+09:00だからなんなんだ<p> もう、つかれた。「だからなんなんだ」っていうの……あるからなぁ。「だからなんなんだ」っていうの……あるよ。だからなんなんだ。だからなんなんだ。</p><p>もう、つかれたなぁ。つかれたよ。 <br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-78771317919818498832024-03-09T16:19:00.006+09:002024-03-10T05:01:46.309+09:00ときには、霧雨がふるというのと、毎日ずっと二四時間中二四時間、土砂降りの雨だというのは、ちがう<p>「俺だって苦労した」と言うけど、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」なんてことを、のんきに言えるような身分なんだよ。そんなこと、言えるわけがないだろ。そういうのんきな考え方を維持できるというのは、たいして、苦労してないということだ。「ぜんぜんちがう」と言ってるのに、本当に、わかってくれないなぁ。「ぜんぜん、ちがう」と言っているだろ。ときには、霧雨が降るというのと、毎日ずっと二四時間中二四時間、土砂降りの雨だというのは、ちがうんだよ。状況がちがう。ともかく、思霊、言霊、引き寄せ、努力論について、説明しはじめる人は、みんな、ヘビメタ騒音級の苦労をしてない。そういうことを、信じていられるということ自体が、ヘビメタ騒音級の(どうしようもない)苦労をしてないということを物語っている。証明している。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-54099155510961438522024-03-09T11:13:00.004+09:002024-03-09T11:21:35.482+09:00そもそも、認知・認識してないことなのだから、記憶には残らない。<p> ほんとうに、ひとごとだと思って、無視したり、ものすごい過小評価をして、好き勝手なことを言いやがって。「無理だ」と言っているのに、それを無視して、「無理だと言うから、無理なんだ。できると言えばできる」なんて言いやがって。これは、言霊主義者の反応だけど、言霊主義者じゃなくても、一般人は、そういう反応だったよ。まあ、九五%の一般人ということだけど……。本とんどの人が、そういう反応なんだよな。で、帰ってから、きちがい兄貴ともめる。けど、どれだけもめても、きちがいがきちがいの反応をして、一分間もしずかにしてくれない。きちがいがきちがい構造をとおして、「一分間もしずかにしてやらなかった」ということを、認知・認識しない。そもそも、認知・認識してないことなのだから、記憶には残らない。これは、普通の忘却ではない。普通の記憶障害ではない。最初から、認知・認識してない。最初から、そのことは、認知・認識されてない。きちがい親父とおなじ認知・認識なんだよ。やり方が、全部、いっしょだ。きちがい兄貴が、きちがい親父にやられたら、どんなこまかいことだって、認知・認識して腹をたてるのに、自分が、弟にやったことは、どんなにでかいことだって、認知・認識しないのだ。きちがい親父とおなじやり方で、認知・認識しない。だから、本人にとっては、「記憶にないこと」になっている。けど、ものすごく、意地をはって、それをやるのである。絶対にゆずらないのである。意地をはってそうしたのだから、意地をはってそうしたという記憶があって当然なのに、まったく、まったく、まったく、ないのだ。本人としては、正直に言って「おぼえてない」ということになる。本人のなかでは「そんなのやってない」「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」ということになる。きちがい兄貴のやることが、すべての使える時間を使って、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らすということなのだから、となりの部屋にいる俺は、影響をうけて当然だ。とろが、影響をけてないやつが……きちがい家族がいないからそういう影響をうけてないやつが……「そんなのは、気にしなければいい」ということを言う。「騒音にこだわるからダメなんだ」ということを言う。「俺だって騒音ぐらいある」ということを言う。「俺だって、朝はつらい」ということを言う。言う。言う。言う。けど、ちがうんだよ。</p><p>もう、ぼくの人生は、こういうことの、繰り返しだった。ずっとずっとずっと、繰り返しだった。もう、いいよ。 <br /></p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-3250808441885080754.post-14029227859365348012024-03-09T10:36:00.004+09:002024-03-10T19:23:25.527+09:00 ヘビメタ騒音がはじまってから、ほとんどの他人が、いやな他人になった<p> ヘビメタ騒音がはじまってから、ほとんどの他人が、いやな他人になった。これも、不可避的なことだ。すぐに鳴りやまなければ、そうなる。だれたって、そうなる。</p><p>ところが、だれも、俺以外、きちがい兄貴のきちがいヘビメタにさらされ続けたことがないので、「だれだってそうなる」という部分がまったくわからない。「だれだってそうなる」という部分がまったくわかってない他人は、ぼくにとって、不愉快な他人なんだよ。</p><p>そして、そういう他人は、かならず、不愉快なことを言ってくることになる。</p><p>そりゃ、そうだろ。</p><p>「だれだってそうなる」ということを理解せずに、「俺なら大丈夫だ」「私なら大丈夫だ」という前提で、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分が思いついたことを言うわけだから、それは、必然的に、俺にとって、不愉快な発言になる。</p><p>俺からすれば、相手が、めちゃくちゃに、無理解な、不愉快なことを言ってきたということになる。</p><p>そりゃ、三日で、完全に鳴りやむのなら、別だけど。それなら、「よくはある話」ですむけど。</p><p>きちがい兄貴が長期間にわたってやったので、そういうことにならない。そういうことではない。「そういうことではない」ということが、普通の人にはわからない。「そういうことではない」ということが、やられてない人には、まったくまったくまったく、わからない。</p><p>わからなければ、こっちには、あるヘビメタ騒音の影響を無視して、思ったことを言うことになる。ヘビメタ騒音の影響を無視しているので、ぼくにとっては、無理難題を言われたことになる。</p>taigahttp://www.blogger.com/profile/06391955255346843586noreply@blogger.com