2018年3月2日金曜日

『人は働くべきだ』という間違った幻想 事前に決められている例外について

常識的な人が持つ疑問はだいたい四種類ある。
一)「ほんとうに、そんなにでかい音でヘビメタが鳴っていたのかどうか」系統。
二)「ほんとうに、そんな人(お兄さんみたいな人)はいるのかどうか」系統。
三)「ほんとうに、そんな人(お父さんみたいな人)はいるのかどうか」系統。
四)「ほんとうに、ヘビメタ騒音にさらされただけで働けないからだになるかどうか」系統。

大きく分けるとこの四つだ。けど、各項目がもうちょっと詳細な項目をもつことかある。

俺に偏見の目を向ける人は……俺のことを偏見の色眼鏡で見る人は……だいたい、この四つ疑問のうち、四つの疑問を持っている。だから、一)、二)、三)を信じないまま「ともかく、働くべきだ」ということを言ってくる。もちろん、そういうことを言う人は、自分が正しいことを言っているつもりだ。実際に、日本は日本労働教が支配している国なので、小さいころからそういう偏見を教え込まれている。たぶんだけど、『自分』が間違っていることを言っているとは思わないだろう。けど、間違っている。

だいたいこういう人たちは、もわもわっとした考えをもっているにすぎない。けど、もわもわっとした考えをもっているにすぎないということにも、気がつかない。たとえば、『みんな、働くべきだ』『人は働くべきだ』と思っている。

けど、彼らが『人は働くべきだ』と言っているとき、彼らはあまり意識しないけど、人であるにもかかわらず、働かなくてもいい存在(人)を是認している。ようするに、最初から働かなくてもいいと思っている人たちがいる。たとえば、赤ちゃんは働かなくていいのである。人の赤ちゃんは、人なので、『人は働くべきだ』といった場合にも、本来は、含まれている存在なのだ。


けど、『人は働くべきだ』と言っている人が、『赤ちゃんも含めて』働くべきだと言っているわけではないというのは、自明だ。本人たちに聞けばわかる。常にアトダシになるけど、『人は働くべきだ』と公言している日本労働教徒は『赤ちゃんも働くべきだ』とは思ってない。『人は働くべきだ』と言っているとき、文字通りに、人ならば働くべきだと言っているわけではないのである。『例外が先に決まっている』。

しかし、例外が先に決まっているのだけど、先に決まっているわけではないのだ。例外は、その存在を明示されたきときに、その労働教徒が判断して、その存在は働かなくてもよいと、(あとで)決めるようなことなのだ。もやもやっと『人は働くべきだ』と言っているわけで、『人』の中にどのような『人』が含まれているのかは、労働教徒にしても、あまり意識していない。

例外の範囲は、先に決まっているように思われるのだけど、その都度、アトダシで、その日本労働教徒が判断しているだけだ。

教義には書いてない。

それから、ことわっておかなければならないことは、人は働かなければならないと言ったときの『人』というのは、すべての人を意味するということだ。どうしてなら、『人』ではない『人』はいないからだ。人ではない存在は、『人』にはふくまれないので、人ではない人はいない。

人は働かなければならないと言った場合、『人』というのは、『すべての人』を意味するということになる。もう一度言う、『人』ではない存在は、人ではないので、人のうちには含まれない。……たとえば、タヌキは人ではないので、人という集合の中には含まれない。また、たとえば、ネコは人ではないので、人という集合の中には含まれない。人ではない人は存在し得ないので、『人は働くべきだ』という命題は、『すべての人は働くべきだ』という命題と意味的にイコールになる。同様に、『人は働くべきだ』という命題は、『人はすべて働くべきだ』という命題と意味的にイコールになる。

しかし、人の赤ちゃんは、人の赤ちゃんなので、タヌキとはちがって、人だ。だから、なんのことわりもなく「人は働くべきだ」と言った場合、「人の赤ちゃんも働くべきだ」ということを言っているのである。もちろん、タヌキの赤ちゃんは、含まれていない。けど、人の赤ちゃんは、人なのだから、人の中に含まれている。

『人は働くべきだ』といいながらも、『赤ちゃんは働かなくてもよい』ということを言っているのである。これは、実は、人という集合を考えて、そのあとに、『赤ちゃん』という集合を考えて、『赤ちゃん』という集合は排除しておくという考え方をしているのではない。最初から『赤ちゃん』は除外されているのである。最初から、考えるまでもなく除外されている。

だから、労働教徒が『人』と言ったときには、最初から、赤ちゃんを含んでいないのである。個別に、『赤ちゃん』といった集合が考えられていて、その集合が、働くべきかどうかということがまず最初に考えられているのである。まず最初に、人という集合を考えているわけではないのだ。


   *   *   *
「赤ちゃんが働けないのはあたりまえだ」と思う人は多いだろう。『人は働くべきだというのは、そういう意味ではない』と言いたくなる人もいるだろう。では、訊く。『一〇歳の子供は働くべきだろうか』と。『一五歳の少年は働くべきだろうか』と。『二〇歳の学生は働くべきだろうか』と。学生という軸がはいってしまうと、問題があるのだけど、年齢の他に学生であるかどうかということは、案外関わってくるものなので、一応入れておく。現代では、一〇歳の子供は働くべきではない」という考えが一般的だと思うが、産業革命の頃は一〇歳の子供も働くべきであると考える人が多かった。こういうのも、時代によって考え方がちがってくるのである。実際、子供は、農業の手伝いをしたり、漁の手伝いをして働いていた。この労働は、シャドーワークだ。今回の論考では、実はシャドーワークは、労働には含まれていない。外で働いて、対価として報酬を得るというのが、今回の論考における『働く』ということ、あるいは、労働の意味だからだ。子供が男であるか女であるかとか、あるいは、学生であるか学生でないかは、それぞれ、労働教徒がなんとなく?『働くべきか働くべきではないのか』を考えるときの判断基準になっている。
学生ではない一五歳の男性が働くべきなのであるか、働かなくてもよいのか、それは、おのおのの労働教徒がどう考えるかによってちがってくる。働くべきだと考える労働教徒が多いと思う。学生である一五歳の学生は働くべきなのであるか、働かなくてもよいのか、それは、おのおのの労働教徒がどう考えるかによってちがってくる。
ただが、学生であるかどうかで、結論がちがってくる。『人は働くべきだ』という言い方は、いろいろな働かなくてもよい存在を含んでいるのである。そして、その項目(判断基準)は、人によってちがう。だから、『人は働くべきだよな』と言っても、おのおのちがうことを言っているのである。実際の内容がちがう。どのような人であれば働くべきなのか、どのような人であれば働かなくてもよいのかという詳細な基準が、人によってちがうのだから、最初から言っていることがそれぞれちがうということになる。おなじように「人は働くべきだ」と言っても、Aさんが「人は働くべきだ」と言うのとBさんが「人は働くべきだ」と言うのとでは、違いがある。






実は、

『六五歳以上の定年退職した人(たち)』
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。