2018年3月29日木曜日

「すべては自己責任」は「すべては他己責任」

起きた。どうしてもヘビメタ騒音がくるしい。ヘビメタ騒音で頭がくるしい。どうしても、くるしい。

どうしたものかな? これ、ほんとう、くるしいんだよな。

ヘビメタ騒音を一〇年以上毎日経験した人じゃないとわからない。至近距離の、気違いによるヘビメタ騒音を一四年以上経験した人じゃないとわからない。わかるわけがない。

「ハナシデキク」のと、実際に毎日やられるのとでは、天と地の差がある。どれだけ、がんばって明るく前向きに生きていたとしても……毎日、あの頑固さで、気違いの音をずっと聴かされ続ければ……爆音で聴かされ続ければ……元気じゃなくなる。暗くなる。この、「元気がない」とか「暗い」というのは、たとえば、就職活動をする上で、ものすごくデカイ欠点となるのである。

その欠点を、一四年以上かけて、作っていたことになる。

醸成、っていい言葉なんだけど、悪いことに使って言えば、ヘビメタ騒音の憂鬱、ヘビメタ騒音の不安、ヘビメタ騒音による体力不足、ヘビメタ騒音による学力不足が一四年以上かけて醸成された。

これは、一日でできあがるものじゃないのである。騒音とか言うと、なんか、一日のことを考えてしまう人がいるのである。

たとえ、一四年以上毎日と言われても、その人のなかでは「一日の騒音」のあるシーンしか思い浮かばないので、そういう場合のことしか考えられない。一四年も続いた場合のことなんて絶対に考えられない。

だから、「たとえ、鳴ってたとしても(仮定)過去のことは過去」などと言ってしまう。

こいつは知らないだけなんだ。

俺のいまの状態がわかってない。そりゃ、「うるさいな」と感じたシーン、体験しか思い浮かばないのであれば、それをもとにして考えるわけで、一四年間実際に続いた場合のことに関しては、考えることさえできない。

だから、現在に影響がないものだと勝手に仮定してしまう。けど、それは、違う。しかも、自己責任とか頭がおかしい。自分が、自分のことに関して自己責任だと考えるというのは、よくわかる話だ。

「すべては、自己責任」というのはそういう話しなのだ。

しかし、そういうことを軽々しく口にする人間は、そういう意味でこの言葉を使っているわけではない。他人の話をしているのである。他人の身の上に起こったことは、すべてその他人の責任だと言っている。

意味が違う。すべてが自己責任であるのなら、法律も裁判所もいらない。どうしてなら、すべての人が、「すべては自己責任」と言って、自分のみにしょうじたことは、自分のせいだと思ってあきらめるからだ。

けど、自分がなにもその他人に悪いことをしてないのに、その他人が自分を包丁で刺したら、自分の責任ではないと考えるはずだ。自分に落ち度がある場合はある。

その場合は、その落ち度に関しては自己責任なのだと思う。

しかし、落ち度がないのに、自己責任だと考えればいいという考えのもとに法律や社会制度が作られているわけではない。ということは、自分の責任と他人の責任をわけて考えるのが一般的だということを意味している。

すべては、自己責任なら、犯罪なんてしょうじようがないのである。みんな、好き勝手にやりたいことをやって、やられたやつはやられたやつが悪いと思っている状態になってしまう。やられたやつはやられたやつが悪いというのは、自分を中心としてみた場合の「自己責任」じゃない。

それこそ、すべては、他人の責任という意味での「自己責任」になってしまう。「すべては自己責任」などという言葉を他人に押しつけてくるやつは、なぐっておけばいいんだよ。なぐられたのはそいつの責任だとそいつは考えるのだろうから。

そいつにとって、「すべては自己責任」なのだからなぐられた責任は、自分にあると考えるはずだ。自分のせいで!なぐられたのである。他人は悪くない。「すべては自己責任」なんて軽々しく口にするやつは、なにも悪いことをしてないのに、なぐられたすべての人に対して、それは、「おまえの責任だ」と言っているに等しい。

すべての他人においてしょうじることは、すべてその他人のせいだと言っているのである。これが、「自己責任」の中身だ。

それではどうして、「すべては自己責任」などという言葉が、すがすがしく感じられるのであろうか? それは、自分の範囲に限定して「自分の身に起こったことは、すべて自己責任だ」と言っているように感じるからである。

この場合は、自分というのが、話者だけに限定されているように感じるから、聞いた人はなんとなく、すがすがしく感じる。

けど、話者は本当は、そういう意味で言っているのではなくて、「すべては他人の責任だ」と言っているのである。こういうことを言う人は、実際に自分が理由なく不利益をこうむると途端に怒る。

自分に非ががある場合ですら、怒って、他人の責任を追及する。そういう人間が多い。「すべては自己責任」などと言っておきながら、自分の不愉快を他人のせいにするやつが多い。

たとえば、「すべては自己責任」という考え方について批判されたとする。そうなると、怒る。ムッとする。「なんだこんにゃろう!!」という気持ちになる。「こいつは、へんなりつくをいって」と怒る。自分が怒ったのは、批判した人のせいなのである。ぜんぜん「自己責任」じゃない。

しかし、やはり、人は「すべては自己責任だ」というような言葉を「すがすがしく」感じてしまうときある。どうしてかというと、それが一種の理想像としてひびくからだ。

たとえば、Aさんが「すべては自己責任だ」と言っているところをBさんが聞いたとする。そうすると、BさんはAさんが一種の決意表明をしているように思ってしまうのである。

「どんなことがあっても、自分は人のせいにはせず、自分の責任だと考える」と言っているように思ってしまうのである。実際にAさんの気分はそういうものなのだろう。けど、実際にはAさんは決意表明だけをしているという場合がある。

自己責任だと言った場合の「自己」、自分の責任だと言った場合の「自分」というのが、実は「話者自身」ではなくて、「ある他者」であるばあいがある。すべては自己責任なのだから、ある他者の身に起こったことは、その他者の責任なのである。

これが、話者を「自分」だとすると、この話者は、他人のことについて話しているのである。

しかし、Aさんが「すべては自己責任」と言っている場合、AさんはAさんことについて述べているとBさんは、認識してしまうのである。実際に、Aさんも決意表明をしているときは、そういう意味で言っているつもりなのだろう。

けど、Aさんが「すべては自己責任」という言葉になれてしまうと、実は「ある他者の身に起こったことは、すべてその他者の責任」という意味での「自己責任」にすりかわってしまう。

たとえば、だれもが安全だと考える道を、だれもが安全だと考える時間に歩いていたら、通り魔にさされたとしよう。ようするに、危険な地帯の道を、深夜二時など危険な時間に歩いていたわけではなくて、普通の時間に普通の道を歩いていたとする。その場合は、さされた側の責任はかなり少ない。ゼロと言ってもいいのではないかと思う。

「すべては自己責任だ」と言っている人は「すべてはあなたの責任だ」と言っているわけで、「すべては自分の責任だ」と言っているわけではないという問題が発生する。

「あなたの身に起こったことは、すべて、どんなことでも、あなたの責任」なのだ。「すべては自己責任」という言葉は実はそうやって、他者を責めるための言葉であって、「自分の身に起こったことはすべて自分の責任だ」という意味ではないのである。

むしろ、「あなたの身に起こったことは、すべてあなたの責任であるが、私の身に起こったことは、私の責任ではない」と言っているのに等しい。そういうふうに感じないのは「自分」という言葉が原因だ。

なんとなく、「自分自身」という言葉が「私自身」を意味しているように思っているのである。実際の場面では、実はそういうふうに思ってない。

「すべては自己責任」などと言っている人は、具体的な場面では「自己責任」だとは思ってない。具体的な場面では、自分に責任がないことに対しては、「そんなのは私の責任じゃない」と言う人たちなのである。

具体的な場面でなく、自分がひとりで家にいるときなど……自省の時間があるときに、現実世界をはなれて「すべては自己責任(自分も含む)」などと思っているだけなのである。

現実の場面では、自分に責任がないことを、自分のせいにされたら、激しく「ことあげ」をして、激しく相手を責める。

「すべては自己責任」などと他人に対して軽々しく口にする人は、実際の場面では、やはり他人を責めることが多い。これは、エビデンスはない。

けど、「すべては自己責任」「すべては自己責任」と瞑想の時間に思っている人は、実際の場面では、自分に責任がないことに関して、自分に責任があるとされたら、怒る人たちなのである。

これは、「すべては自己責任」などと言いつつも、日常のさまざまなことで、怒っている人たちの日記を読んで、思ったことだ。

そういう人たちが、多い。経験的に多いと思う。

「すべては自己責任」などと軽々しく口にする人たちは、実に、細かいことで怒っている。人のせいにして怒っている。人に原因があるとその人が考えている場合は、人を責めたり、人に対して怒りをぶつけたりする。

あるいは、自分に疑いがかかれば、激しく抵抗する。(これは、ほんとうに自分がやったことではないのに、自分に疑いがかかって、他人から責任追及をされたというようなエピソードだ)。

すべては自己責任なら、他人から疑われたということも、自己責任であり、すべては自己責任なのだから、甘んじて受け入れなければならないのである。そこで、不愉快になったり怒ったりすることは、「すべては自己責任だ」と考えている人にはないことなのである。

「すべては自己責任」という言葉を発している人がどういう意味で「すべては自己責任」という言葉はを使っているかというと、「あなたの身に起こったことはすべてあなたの責任」という意味で使っているのである。「私の身に起こったことはすべて私の責任」という意味で使っているわけではない。「私の身に起こったことはすべて私の責任」という意味も含まれている場合は、自省の時間や瞑想の時間に限られる。

すべては自己責任という言葉には、三つの意味がある。

(1)私の身に起こったことはすべて私の責任
(2)あなたの身に起こったことはすべてあなたの責任(自分のことに関しては考えられていない)
(3)私の身に起こったことはすべて私の責任であって、かつあなたの身に起こったことはすべてあなたの責任

瞑想したり、自省している時間は(1)の意味か(3)の意味で「すべては自己責任」という言葉を使っている人がほんとうに、具体的な場面で(1)の意味や(3)の意味でその言葉を使うかどうかということを考えると、(1)の意味や(3)の意味では、その言葉を使わないと思う。現実の場面で使われる場合は常に(2)の意味なのである。

そして、(2)の意味でその言葉を使っているということは、他者に対して無限の責任追及をしているのであって、(他者に対して)責任追及をしやすい傾向があるということを暗示している。(1)の意味で「私の身に起こったことはすべて私の責任」という言葉を使っている人は、他者の出来事に対して一切合切言及してない。つまり、他人の責任を問うてない。

(1)の意味で「すべては自己責任」という言葉を使っている人は、実際に自分の範囲に「責任」を限定している。しかし、(1)の意味で決意表明をしている人の多くは、実際の場面では、(2)や(3)の意味で、「他人の責任」を追及している。

そして、(2)や(3)の意味で、「すべては自己責任」という言葉を使っている人は、やられたほうの他者にすべての責任を押しつける。かならず、やられたほうのせいにするわけで、なぜかは知らないけどやったほうの責任を問わない。

たとえば、なにもしてない相手を包丁でさしたひとを、やった人(第一者)だとする。また、その行為者に包丁でさされた人を(やられた人・第二者)とする。その場合、(2)や(3)の意味で「すべては自己責任」と言っている人は、かならず、第二者の責任を追及する。「すべては自己責任」という言葉自体は、第二者に対して無限の責任を追及する「道具」として機能している。なぜか、第一者の責任は、追及しない。こういうところで、おかしい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。