2018年4月10日火曜日

日本労働教徒は、自分の偏見に気がついてない

ほんとうに俺はいろいろなところで誤解されてるんだよな。これ、どれだけのことか。他の人にはわからない理由で、働けないからだを手に入れてしまったということが、どれだけのハンディになるか。

気違いヘビメタ騒音なんて、わからないやつはわからないわけだから。

俺が言ったって、それが、「働けない理由」にならないやつがいる。それを、働けない理由とは認めない人たちがいる。この人たちが、日本労働教徒であった場合は、俺に対して、説教をするわけで、俺が不愉快な思いをする。それは、決まっているんだよ。

だから、ヘビメタ騒音はうるさいというだけではなくて、俺の人生全部に多大な損害をあたえている。だいたい、俺が教師や講師をしていたら、この人たちは俺のことを無職だと思うということがない。

だから、説教してこない。労働の大切さを語り出さない。「それじゃ、だめだろ」ということを言わない。そりゃ、講師として働いていたら「働け」という人はいない。「ヘビメタ騒音で働けない」と最初に言っているのに、頭が悪い誤解をしやがって! こういう誤解をする人たちは、他のところではまともなんだからな。

ほんとうにいやだな。

たいていの日本人は、日本労働教徒で、日本労働教徒は、自分の偏見に気がついてない。自分が偏見を持っているとは思ってない。「正しいことを言っている」と思っている。働かないのではなくて働けないのだということをちゃんと言っているのに、(その人たちは)頭が悪いからわからない。

あるいは、ヘビメタ騒音がどういうものか経験してないからわからない。ヘビメタ騒音を、気違い兄貴の態度で一〇年間毎日やられて、通える人なんて、いない。通勤できる人なんていない。そういうことがわかってない。どれだけの努力で、俺が、いまの生活を維持しているかわかってない。まるまるまる。

   *   *   *

当時、俺に対して偏見を持った人と、付き合う気がしない。付き合う気になれない。そいつらは、俺がまた無職になったら、当時と同じような偏見を持つわけだから、付き合う気がしない。

だいたい、愚かな心理臨床家も言っているでしょ……「あるがままを認めるということはたいせつだ」と。

たとえば、あなたが無職だとして、無職であるあなたとは付き合えないという判断をした人は、あなたの「あるがまま」を認めなかった人だ。あなたが、無職ではない状態になったから、付き合いをはじめたとしても、それは、ほんとうのつきあいじゃない。

「有職」という言い方がほんとうにあるのかどうか知らないけど、「有職」だからあなたを認めて付き合うという思考の持ち主は、あなたが無職になれば、また、あなたを無職してしてあつかう。

要するに、あなたのことを、付き合う必要がない人間だと見なすことになる。そんな人間と付き合って楽しいかね?

たとえば、あなたが日本人だとする。そして、日本人に偏見を持っている人たちがいるとする。そして、その日本人に偏見を持っている人たちが主流派だとする。なので、日本人に偏見を持っている人たちが集まっているグループがそこらへんにあるとする。そのグループのなかにあなたがはいっていくとする。

そうすると、その人たちは、あなたが日本人であるということをせめる。「日本人は悪いやつだ」「日本人は全員犯罪者みたいなものだ」「日本人である以上付き合う気がしない」「日本人である以上、あなたのことは人間として認めない」「一人前の人間として認めない」ということを言ったとする。

そして、あなたは、努力して、日本人であることを捨て、他の国籍を取ったとする。他の国籍を取ったあなたは、その人たちに認められ、人間あつかいされる。けど、あなたは楽しいか? そんなやつらと一緒にいて楽しいか?

   *   *   *

それから、たとえば、そういう状況下で、日本人である人が日本人であることを認めたとしても、そんなにいいことにならない。「あるがまま」を認めたってしかたがない。働けない人が「働けない」ということを認めたってしかたがない。それでなにになる?

あるがままを認めるということが、自分が普通の人間であり、普通の人間がするようなことをすればよいのだということを、認めるということなのであれば、多少の効果はあるだろう。

しかし、それは、「普通の人間がするようなことをできるならば」という条件付きだ。普通の人間ができることができないのであれば、「普通の人間がするようなことをすればよいのだ」と思っても、まったく意味がない。できないのだから、意味がない。

また、「自分は普通の人間がすることができない」ということを認めても意味がない。自分が普通の人間がすることができない人間だとする。それが「あるがまま」の姿だとする。そして、普通の人間がすることができない「あるがまま」の自分を認めれば、問題が解決するかというと、解決しない。

問題というのは、「普通の人間がすることができない」ということから派生する問題だ。「普通の人間がすることができない」のであれば、ある種の「生きがたさ」が発生するだろう。それがその人にとって問題であるのならば、その人が「あるがまま」を認めても、「生きがたさ(生きがたいという意識)」が続くことになる。

あるがままを認めることで問題は解決しない。

単に「普通の人間がすること」と言ったけど、「普通の人間が普通にすること」のほうがより正確だ。

   *   *   *

あるがままを認めるということが、「まるまるという感情をもった」ということを認めることである場合はそれでいい。しかし「まるまるという感情をもった」にもかかわらず、そこに居続ける(そこで日常的な行動をする)ということは、やはり、つらいことなのではないかと思う。

たとえば、日本人に偏見がある人たちによって構成されるグループに日本人である「自分」が入ったとしよう。

その場合、グループの構成員は、「日本人はバカだ」「日本人はひどいことをした」「日本人はひどいやつらだ」とかなんとか、常に悪口をいってくる。

あるいは、「日本人はバカだ」という先入観に基づいて、あなたのなんでもない行為をバカにしたとする。バカにされれば、傷つき、頭にくる。その場合、たしかにあなたは、「不愉快だという感情」を持ったのだとする。

その時、「不愉快な感情を持った」ということを認めながらも、なおかつ、その組織に居続けること(普通に暮らすこと)は、よいことだろうか? 悪いことだろうか?

そりゃ、毎日、日本人だということでバカにされ続ければ、反感を感じ続けるだろう。バカにされて怒ったという感情はそのままにして、そこで、日常のさまざまな業務を行えば、それでよいのだろうか? 生きがたさが減少するだろうか?

あるいは、バカにされることに慣れて、つまり、バカにされるということに対して鈍感になり、バカにされる自分というのを自我の一部として受け入れれば、楽になるだろうか? それとも、生きがたさは続くのだろうか?

   *   *   *

それから、睡眠不足による疲労などが、行きたくない気持ちとマッチしている場合について考えてみよう。この場合、行きたくないという気持ちを持ったということを認めたとしても、睡眠不足による疲労で起きれない?わけで、行きたくない気持ちを認めながらも、行くということは、できない。まず、眠らなければならないからな。身体症状と気持ちをわけておかないといけないのだけど、身体症状と気持ちがわけられないときがある。

「認める」ということにそんなに意味がない場合がある。「認め」ながらも、動くなんてことができないから、困っているという場合がある。「認め」ながらも動けるというのであれば、ストレスはある状態だけど動けるのだろう。

しかし、それを毎日一〇年も二〇年もやってきて、それで、燃え尽きてしまった場合は、「認める」ということで回復に向かうかというと、そうではないと思う。どちらかといえば「認めたってしかたがない」という状態が成り立つと思う。

「認め」ながらも、動けるのであれば、たしかに、ある程度「慣れる」場合もあるだろう。動けるのであれば。だいたい、動けるというのは、単に動けるということではなくて、適切な行動をすることができるということなのである。でたらめに動けばいいということではない。ちゃんと、スキーマがあって、スキーマに順応した行動が求められる。

常に「適切な行動」が求められるのである。

だから、「認めながらも」動けるという場合は、それほど問題ではない場合なのではないだろうか。

つまり、「認めながらも」動ける状態というのは、特に「認めることがないまま」動ける状態なのではないだろうか。認めるというのは、そういう感情を持ったということを認めるということであり、そのままにしておくということだ。

この「そのままにして」行動をするということが、ある種の「生きがたさ」を生み出しているのであれば、「そのままにして」行動することで「生きがたさ」は解消されない。むしろ、つもっていく場合がある。慣れる場合とつもっていく場合がある。どっちにしろ、学習する。

はっきり言ってしまえば、「認めたまま」……それはそのままにして……動くということができないから困っているのではないか?と思う。できない人は、「認めたまま」動くということができないから困っているのではないか。あるいは、できない人は、特に認めないまま、動くということができないから困っているのではないか。

ようするに、「すてておくことができない」から困っているのではないかと思う。「すてておくことができない」人に対して「そんなのは、すてておけばいい」と言っているだけということになる。ここでも、しっぽをかむ蛇のようにまわってしまう。円環。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。