2018年4月7日土曜日

信仰とこころ ネガティブな言葉を使わないともっとネガティブなことが起こる場合がある

概要だけ書いておく。たぶん、反対意見を持つ人が多いと思う。
どんなにつらい状況でも、つらいと言わないようにするというのは、普通の人にはいいことかもしれないけど、燃え尽きてしまった人には、むいてない。つらいと言わないでがんばるというのは、いいことだとは思う。

けど、そういうことを一〇年間二〇年間毎日やってきた人が、燃え尽きてしまった場合は、その助言はあまりに意味がないと思う。意味がないどころか、逆にその人を追い詰めるものになってしまう。


それから、おどしがはいっている。しかも、言っている人は、おどしだとは思ってないわけで、実際にそうなると確信しているわけだよ。

たとえば「どれだけつらい思いをしていても、つらいと言うとますますつらいことが起こるから、つらいとは言わないで、楽しい楽しいと言わなければならない」というようなことが言われる。

つらいと言うことで、つらい出来事を、呼び込んでいると確信しているわけで、それは、だれのみにも起こることなのである。

ようするに、普遍的にだれもがそうだと言っているのである。

だから、そういう考えにとらわれた場合つらいとは言えないということになる。また、おなじ理由で、どれだけつかれていてもつかれたとは言えないということになる。

認知療法系の心理学では、「べきの暴君にはやられないようにしよう」という考え方がある。「べきの暴君」にやられている状態というのは、「こうするべきだ」「こうするべきではない」ということに強くこだわっている状態だ。

精神分析は「べきの暴君」は強すぎる「超自我」に相当する。超自我が強すぎると、いろいろな問題を引き起こす。いずれにせよ「こうするべきだ」「こうするべきではない」という考えにこだわりすぎている状態は、あまりいい状態とは言えない。

強く考えて、こだわりすぎるのは良くないということだ。
「つらいと言うからもっとつらい目に遭う、つらいと言うからもっとつらいことが起こる」というのは、一種の信仰であって、実際には一〇〇%そうなるものではない。

一〇〇%かならずそうなるというのは、宗教的な信仰心のあらわれなのである。「つらい」と声を上げることで、事態が改善することもある。「つかれた」と言ったあと、よく眠れば、つかれがとれて元気になることがある。

他人に「つかれた」と言うことで、その他人が、休憩を提案することもあるだろう。「つかれた」と言わずに、ずっと、不眠不休で働き続けたら、ある日、過労死てしまうかもしれないのだ。「つかれた」と言うことは、赤信号をともすことになる。SOSを出すことになる。

だから、「つかれた」と言うこと自体が「もっとつかれた状態」をかならず引き寄せる(かならず現実化する)とは言えない。

「あーつかれた」と言って、眠ることが「あーつかれた」と言わずに動き続けること(起きて動き続けること)よりも、つかれを減少させることがある。「あーつかれた」というネガティブな言葉を発したら、そのぶんだけ、※かならず※、もっとつかれると考えるのは間違っている。「あーつかれた」というネガティブな言葉を発したら、かならず、もっとつかれる状態が未来において発生すると考えるのは、間違っている。

そういうことになる場合もあるけど、そういうことにならない場合もある。ネガティブな言葉を発することによって、事態が改善する場合だってある。

ずっと動き続けることがよいことだというのであれば、いったいいつ眠るのだ? どこかで、眠る時間がくるのではないか。

もっとも、その時に「つかれた」と言わないという考えにこだわる人は、「つかれた」という(ネガティブな言葉)を言わないようにしてもよい。

しかし、それは、その人がその人の範囲でそう考えてそうするということであって、みんながみんな絶対にネガティブな言葉を使ってはいけないということを意味しているわけではない。ようするに、その人がやるぶんにはいいけど、他の人にすすめるのはどうかと思う。

自分に適応されることと、他人に適応されることはちがうということを肝に銘じておいた方がよいのではないか。自分の範囲に適応して、他人のことはほうっておけばいい。

しかし、ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブなことが実現化されると信仰している人は、すべての範囲においてそれは正しいと考える。あるいは、すべての範囲においてそれは成り立つし、それが成り立つということは、正しいと信じている。

なので、不可避的に、他人の行為に対して言及することになる。すべての範囲において成り立つということは、だれか、他人の範囲においても成り立つということを意味しているので、ほうっておけないのだろう。

だいたい、ほんとうのことを言うと、ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰している人ですら、本人は気がつかずにネガティブな言葉を使っている。本人が気がつかないだけだ。あとは、ほんとうに「ざまあみろ」という気持ちがないと否定できるだろうか。

ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰している人は、実際の他人が、実際の出来事で苦しんでいる場面を見たとき、「ネガティブなことを言うからそうなったんだ。ざまあみろ」と思うことがないのだろうか。

ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰している一部の人は、そういうところがあると思う。ネガティブなことを言った他人が気にくわないのである。ネガティブなことを言った他人は、ネガティブなことを言ったのだから滅べばいいと(無意識的に)思っているのである。

そりゃ、そうでなければ、自分が言ったことが正しくなかったということになってしまうからな。「すべての場合においてそうだ。そうならないことはない」と信じているわけだから……。信じているわけだから、そうではないことが起こると困る。

だから、ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰している人は、ネガティブなことを言った他人の身の上にもっとネガティブなことが起こることを『期待』している。そうでなければならないのである。だから、ネガティブなことを言った他人が、もっと困った状態になれば「ざまあみろ」と思うのである。

けど、そういうことがスピリチュアリズムに反することか、あるいは、スピリチュアリズムにのっとったことかということを考えると、そういうことは、スピリチュアリズムに反することだと思う。

なので、スピリチュアリズムに賛成?している人は、「ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰している」ということに関しては、自分の範囲に限定しておくのがいいと思う。だれにも成り立つ、絶対普遍の原理ではないということを肝に銘じておいた方がよいのではないかと思うのである。

結論としてはそうなんだけど、ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると信仰しているは、これは、絶対普遍の原理だ、どんなときも、だれにでもあてはまると断言したい気持ちがあると思う。

だから、その気持ちとのたたかいになるのではないかと思う。

もともとは、そういう人だって、他人のしあわせを願っているわけだろ。他人のしあわせのための『手段』あるいは『選択されるべき方法』の一つが、『ネガティブな言葉を使わないこと』であるわけだろ。

だから、ネガティブな言葉を使うかどうか……他人がネガティブな言葉を使うかどうかにかかわらず、他人のよい状態を望んだ方がよいのではないかと思う。

ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブなことが実現化されるというような言葉を言うときは、例外があるということを先に認めておいた方がよいのではないかなと思う。それから、自分はそう思ってネガティブな言葉を使わないようにしているということだけを言えばいいと思う。ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブなことが実現化される……ということは、普遍原理ではなくて、例外がある……こういうことを、先に言った方がいいと思う。

ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブなことが実現化されるということは、だれにでも成り立つことではなくて、自分に成り立つことなので、自分は、ネガティブな言葉を使わないようにしているというよな話しを事前にしておいた方がよいのではないかと思う。

もっとも、ネガティブな言葉を使うと、もっとネガディブナことが実現化されると考えている人であって、なおかつ、それが普遍的な原理だと考えている人もいる。普遍的な原理だと考えている以上、かならず、他人を責めるところが出てきてしまう。それは、理論的に必然的に発生する。それ自体が、ネガティブなことなのではないかと思うわけ。

だから、普遍原理なのではなくて、自分の範囲において自分がそう考えているからそうするということを事前に明確にしておいた方がいいなぁ。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。