2018年6月20日水曜日

ケーキを食べられない現実は、おまえらがつくっている現実だ


引き寄せはあるが、引き寄せることを意識してはいけないということについて、ちょっとだけぼくの考えを書いておこう。引き寄せはあるが、引き寄せることを意識してはいけないというのは、渇望すること……引き寄せることを強く求めることによって……欠乏を意識してしまうというような意見だ。

ようするに、すでにあると思うところから出発しないと、欠乏を引き寄せてしまうというわけだ。こういう話を聞くたびに、「おいおい」と思う。「この人たちはほんとうに坊さんだな」と思う。

この人たちは認めないかもしれないけど、ほんとうに「差」がある。この差は、この人たちがよく使うレトリックで乗り越えられるものではない。まあ、そういうふうに言うと「乗り越えられるものではない」と考えているなら、乗り越えられないものになるでしょう……などとこたえるとは思うけど。

だから、そういうのがレトリックなんだよ。けっきょく、この世の差は、その人が望んだものとして片付けられる。けど、生まれ育った環境の差というのはあるぞ。そういう大事なもの……無視できないものを平気で無視してしまうのが、引き寄せ思考だ。似非スピリチュアリズムだ。

似非スピリチュアリズムは、はじめから、その人が抱えている問題を無視している。あるいは、軽視している。そんなのは、あったってないようなものなのである。同時に、なくたって、あるようものだというようなことも言えるというようなことが暗示されると思うけど。

ようするに、ないのに、その人が勝手にそういうものだと思ってそのつらい現実を作り出している。だから、だめなのだと、暗示する。だめ出しは、かなり、スマートだ。

だから、だめ出しをされているということすら、気がつかない信者がいる。結論からいうと、すべては、現実から導き出されたことだ。結論がまず先に来ている。結論を説明するのが、似非スピリチュアリストが採用する方法だ。実際にこうなっているということについて、もっともらしい説明をするというのが、似非スピリチュアリストが採用する方法だ。

現実から出発するので、普通の思考力しかないものは「あっている」ように感じてしまうのである。そして、普通の思考力以上の思考力を持っているものも、現実を認めざるを得ないということになる。

だから、正しそうなことを言っているように思えるのだけど、結果から、原因を導き出しているにすぎない。そして、それは、フィクションなのである。

原因を導き出すところに、いろいろなフィクションを使うので、それらのフィクションも現実のものだと思い込まされてしまうのである。まずもって、ほんとうは生まれの差を無視しているというところから出発する。これは、ひどい話しだよ。ほんとうは!

ほんものは、この生まれの差を無視してない。偽物は、この生まれの差を無視する。ほんものは、だれの人生においても、生まれの差はでかいものだということをちゃんと引き受けている。生まれの差はでかいものだということをちゃんと引き受けていない人が、間違った?言い方で間違った考えを流布する。

ほんとうにこれ、どれだけの傲慢な無視があるか。無考慮、無配慮があるか。これじゃ、言ったもん勝ちの、血で血を洗うような世界が現実化してしまう。実際そうだけどな。それじゃ、まずいだろ。生まれの差を引き受けて、考慮しなければならないだろ。生まれの差を無視して、わかったようなことを言うのは、傲慢。

けど、渇望系と渇望しない系だと、渇望しない系のほうが「正しい」。この正しさは、仮の正しさだ。渇望系というのは、強く思うことが重要だと主張する派閥のことだ。成功法則系だとこういう人たちが多い。強く強く思うことで成功するというわけだ。

一方、渇望しない系は、「強く思う」ということは、「ない」ということを強く意識することになるから良くないということを言う。すでに満ちたりていると思うところから出発するべきだというようなことを言う。

ところで、実際に、不幸な人?が、満たされていると思うことができるかとそうではないのだ。これは、ほんとうに〇歳の時から経験してきたことが影響している。前節で「生まれの差」と言っているのは、そういうこと。

不幸な人のうしろにクエスチョンマークがついているのは、不幸とか不幸な人ということは言えないということが常に問題になるので、クエスチョンマークをつけておいた。不幸かどうかも、その人が作り出している「世界」にすぎないから、不幸かどうかはわからないという意味だ。

けど、これも、レトリックなんだよな。レトリック、多すぎ。それも、いつも!トリッキーなレトリックなんだよなぁ。

   *   *   *

マリー・アントワネットが、「パンがなければケーキを食べればいい」となにも知らずに言ったこととおなじなんだよな。マリーアントワネットには民衆の状態がわからない。ケーキなんてなおさら食えない(手に入れることができない)ということがわかってない。似非スピリチュアリストの考えは、世間知らずのマリー・アントワネットの考えとおなじなんだよ。

けど、それでもまた、その人が作り出している「世界」にすぎないというレトリックがあるから、マリー・アントワネットが言っていることの方が正しいような気がしてしまうのだ。マリー・アントワネットふうに言うなら「パンがない現実はおまえらがつくっている。ケーキを食べられない現実は、おまえらがつくっている現実だ」ということになる。似非スピリチュアリストの主張というのはそういうところに落ちつく。

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わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。