2018年6月20日水曜日

「あたりまえ」と「知らない」が同時に成り立っている

頭がモヤモヤして何が何だかわからないぜ。
ほんとうにヘビメタがくるしかったなぁ。これは、どれだけ言っても他人にはわからないことだ。あの連続がどれだけくるしいか? 体験してない人がわかるわけがない。あの日々の連続がどれだけくるしいことかわかるはずがない。あの日々の連続がどれだけ人生を破壊するか? 本人じゃなければわからないところがある。簡単な問題じゃない。そりゃ、「うち」が普通のうちで、気違い兄貴に、「静かにしてくれ」といったら、静かにしてくれるなら問題はないけど……そうじゃないわけだからこまる。で、気違い兄貴は自分に催眠術をかけてしまっているところがあって、気違い的な意地で、こだわってこだわってこだわって、こだわりつくしてやったことは、「自分」がやったことじゃないと思っているところがある。何度もいうけど、これが!親父のやったことなんだよ。親父が一五年間……ちょうど一五年間毎日そうしていたから、兄貴もまねして、そうした。もっとも、ほんとうに頭の作りがおなじじゃないと、まねしようと思ってもまねはできない。そりゃそうだろ。もし、ほんとうに頭の作りがおなじでなければ、自分がこだわってやったことは、自分がこだわってやったことだということを知っている。意識の点では……意識のレベルでは、ほんとうに知らないことになっている。もちろん、無意識のレベルでは「そうした」「そうしてやった」ということは、わかっているのだろうけど、無意識のレベルだから、普段、気がつかない。普段気がつかないかたちで、頑固にやるんだよ。それ以外にすることはないという状態で、ほんとうに一〇〇%そうする。一〇〇%そうすることにこだわりぬいて、一〇〇%そうする。だから、一〇〇%やったにもかかわらず……どれだけ反対されてもそれを無視してやってやった!!……にもかかわらず、ほんとうにやったつもりがないままでいられるのだ。だから、さいちゅうもそうだ。さいちゅうというのは、まさに鳴らしているあいだ、そういう気持ちが成り立っていて、「やっているのにやってない」ということになってしまう。「でづっぱり」。「でづっぱり」は、この場合、ぼくが作った造語だけど、頂点の状態がずっと続くことだ。ずっと、劇に出ていたいうことを「でづっぱり」という人もいるんじゃないかな。「あの役者は最初から最後まででづっぱりだった」とか。これは、普通に共有されている表現だと思うけどな。だから、まあ、「でづっぱり」でいいや。別に、造語でも造語じゃなくてもいいけど、ともかく、ピークの状態がずっと続いているというような意味で使っている。気違い兄貴にしてみれば一〇〇%、自分が思ったとおりにやることが、決まっている。最初から決まっている。一%だろうが、絶対ゆずる気持ちがない。けど、わけのわからないことで怒り狂っていた親父とおなじで、そうしているのにもかかわらず、そうしている気持ちがない。認知がない。認識がない。だから、どれだけやっても、本人は「しらない」ということになっている。「あたりまえ」と「知らない」が同時に成り立っている。「あたりまえだから、ずっとやった(やってあたりまえのことだから、問題がない)」という認識と、「そんなのまったく関係がない(自分がやったことじゃないからそんなことは一切合切関係がない」という認識が「常に!!」共存している。ずっと、おなじ状態で成り立ち続ける。だから、やり終わってしまえば、「そんなんじゃない」と言える状態になってしまう。で、終わったのであれば……たとえば、鳴らし終わったのであれば……鳴らし終わったわけだから、「いまは鳴らしてない」と言うことになる。「いまは鳴らしてないのに」「やめてくれ」といってくるのはおかしいという感覚が成り立つ。毎日、午後一一時一一分にはそうなる。「もう、今日のぶんはやっちったから」……な。もうやってしまったので、本人は、満足だ。それに、いまさら、過去にもどって鳴らさないようにすることはできない。「明日、鳴らさないでくれ」ということは、認めない。明日もおなじように鳴らすつもりなのである。だから、鳴らし終わったあと、どれだけ言っても無駄だということになる。で、鳴らしているあいだにどれだけ言っても無駄だという状態も成り立っている。これは、いままで説明したように、「やめてやるつもり」なんてまったくない状態で、頑固にやり続けるからだ。親父が理由のないことで絶叫して怒り狂っているのとおなじだ。親父本人は、怒り狂うだけの理由があると思っているのである。これも、ほんとうに……「理由もなく怒り狂う人なんていない」なんて、言う人が出てくる。親父のそのままの状態を説明すれば、そういう常識的な人たちは、俺が言っていることを信じない。否定する。人によっては「父親の悪口を言うのはよくない」と思うだろう。これも、ほんとうに、……そんなのほんとうに、……。そんなのは、ほんとうに、間違った認識だ。
話をもとに戻すと、気違い兄貴がうちにいる限り、毎日おなじなんだよ。それは、気違い兄貴が、ヘビメタをはじめた一五歳の時から、気違い兄貴が引っ越した三〇歳の時まで、毎日おなじなんだよ。おなじ態度で絶対に鳴らす。

兄貴に言っておきたいことがある。兄貴の態度は親父の態度とおなじだ。親父がわけのわからないことで怒り狂っていたときとおなじ態度だ。自分が発狂して、意地になってやっていることを、一切合切
認めない。認めないと鳴ったら認めないんだよ。「やめてくれ」なんて言って、話が通じるわけがないだろ。

話が通じるようだったら、そんなことで!!悩んでない。言ってもつうじないから、相手がやることでこまる。言ってやめてくれるようだったら、こまらないんだよ。ほんとうに、他の人には、こういうことがとことんわからないんだよな。芝居で「知らないふりをしている」と思っている。そんなんじゃない。そんなんじゃない、もっとホネの髄から出てくるものだから、こまるんだよ。で、これは、「あたりまえの状態」だから。うちだったら、つねにそうなんだよ。うちだったら、つねに、かわらずに、息を吸うようにそうなんだよ。特別に腹が立ったことが怒ったときだけそうするというのではないんだよ。だいたい、ひとに八つ当たりしているひとは、どこかで、八つ当たりしていることを知っている。うちの連中は、毎日、うちにいれば絶対の意地で、つねに八つ当たりしているようなものなのだけど、本人はまったくつもりがない。普通なら、どこかで、「八つ当たりをしている」ということを知っている。「ほんとうはそれは、起こるようなことじゃない」ということを知っている。けど、そうしてしまう。で、そうしてしまっているということは、うすうす気がついている。普通の人間だとそうだ。けど、うちの連中は普通の人間じゃないので、八つ当たりしているというような意識がまったくない。だから、どれだけ言っても、話が通じない。で、八つ当たりしているときのしくみと、八つ当たりしたということを否定しているときのしくみがおなじなんだよ。だから、本人は絶対に「つきあたることがない」。なににかというと現実に突き当たることがない。自分がやっているという現実に突き当たることがない。自分がやりきったという現実に突き当たることがない。「言われたら」言われたときは、一〇〇%の意地で否定するわけで、絶対に認めない。その場合、話している場面では絶対に認めないけど、ほんとうはそうしたということに気がついているということではないのである。普通の悪い人は、どれだけ否定しても、気がついている。やったつもりがある。けど、うちの連中はやったつもりがない。そして、そうやって、否定して荒れたあと、すぐに、その当のことをやって、平気だ。そういうところがあるんだよ。だから、どの時点で、どれだけ強く言っても、まったくつたわらない。こたえない。やったと思ってない。やっていると思ってないままやり続ける。ずーーっと、でづっぱりで、そうだよ。一日の最初から、一日の終わりまでずっと、そうだよ。気違い兄貴よ。気違い兄貴は、そういう意地で、ヘビメタを(すべての可能な)時間、鳴らしまくった。途中でやめてくれるわけがないだろ。親父の「やってやる」とおなじで、気違い兄貴の譲歩は、まったく意味がない譲歩なんだよ。そんな譲歩をしてもらったら、よけいにこまるとというような(こっちが切羽詰まった気持ちになる)譲歩なんだよ。けど、親父とおなじ頭のしくみだから、やってやったら、「最大限の譲歩をしてやった(ものすごいことをしてやった)(ほんとうはゆずってやりたくないのに、ものすごくゆずってやった)」と思う。まったく意味がない譲歩しかしてないのに、ものすごい譲歩をしてやったと思われるときの、気持ちの悪さがわかるか? そんなの、頭にくることでしかないんだよ。気違い兄貴だって、親父にそういうことをされて、腹を立ててただろ。気違い兄貴の譲歩は気違い親父の譲歩とおなじなんだよ。腹が立って腹が立って、しかたがない譲歩だ。「あんなことをしてやって譲歩してやったと思っているなんて、ほんとうに気違いだな」と思うような譲歩だ。こっちが、そういうふうに思ってみじめな思いをするような譲歩なんだよ。兄貴の譲歩は、気違い親父の譲歩とおなじで、はらわたが煮えくりかえるような譲歩だ。そもそもが譲歩になってない。屈辱的なことを、屈辱的な態度でやりきるということなのである。譲歩をしてやるほうにしてみれば、譲歩してやったと思ってしまうわけだけど、譲歩?された方にしてみれば、腹が立って腹が立ってしかたがない譲歩なんだよ。そんなのが毎日続いてみろ!! 耐えられるわけがないだろ。で、これも、ほんとうに他の人にはわからない。家族に気違いがいて、おなじように、屈辱的な譲歩?をされたひとじゃないと、わからない。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。