「暗いのは悪い。明るいのはよい」という考えにとらわれている人たちがいる。そういう人たちの心はたぶん、暗い。「暗いのは悪い。明るいのはよい」というのは、一般傾向としては、肯定できる。しかし、それはあくまでも、一般的な傾向があるということにすぎない。それから、「暗いのは悪い。明るいのはよい」と言っている人たちは、「受け手」として発言しているという問題がある。
まず、「暗いのは悪い。明るいのはよい」というのが、単なる一般的な傾向にすぎないということについて語っておこう。人間はさまざまな事情を抱えている。人それぞれに違った環境のなかで生きている。
家族が精神病質的な意地でデカイデカイ音で騒音を鳴らし続けて、なおかつ、デカイデカイ音で騒音を鳴らしたということ自体を認めないというような場合だってあるのだ。毒親のもとに生まれて、虐待され続けて生きている子供だっている。虐待され続けている人が、『明るく』振る舞うのは無理だ。
その子供が、『明るく』振る舞うようにしても、それは、つくられた明るさで、本来の明るさじゃない。「「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわる人たちが「もとめている」のは、そういう人工的な切羽詰まった教条主義的な明るさではない。本来の明るさ、ほんとうの明るさなのだ。つらい状態にいる人が、むりやりつくる『明るさ』ではない。
だから、虐待されている子供が明るく振る舞ったとしても、「暗いのは悪い。明るいのはよい」と日頃から思っている人が、『あの子は明るくていい』と思うかどうかは疑問だ。『なんかひきつっている』『無理をしている』『わざとらしい』と思うかもしれない。
「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわっている人が求めているのは、「自分の心も明るくなるような!」明るさなのだ。天然の明るさなのだ。強烈につらい思いをした人が、「暗いのは悪い。明るいのはよい」という『教義』にしたがって、つくった明るさではない。
「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわっている人は、実は、人を見てない。個々人が抱えている問題、個々人の環境というものをまったく無視してしまっている。「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわるひとは、一種の全体主義で、個々人の事情というものを無視している。
「暗いやつは悪い人だ」「明るいやつはいい人だ」という価値観だけで、『全体的に』……人を見ているのである。だから、暗い人の事情を一切合切考慮しない。
「そりゃ、そんな状態で暮らしているのであれば、暗い顔にもなるよな」というような気持ちがそもそもない。そういう『例外』を認めていない。個々人の事情を考えてやるという『思いやりがない』。『どれだけ、虐待されている子供だって明るく振る舞える』……『どんな状態でも、明るく振る舞える人は明るく振る舞えるのだから、明るく振る舞え』……というような、ネガティブな気持ちを抱えているのである。
ほんとうによい人は、実は『暗い顔をしている人』のことも考えてやることができる人なのである。「暗いのは悪い。明るいのはよい」という考えにこだわって人を判断するということ自体が基本的に言って、ネガティブなことなのだ。
そこには、特殊な環境にいるものに対する思いやりが最初からない。「一括判断」なのである。「暗いやつと明るいやつがいる。暗いやつはだめだ」……こういう基準だけで物事を見ている。こういう基準で人を判断している。
そして、一度判断したら、「その人」が、明るい顔をしないかぎり、受け入れてやらないのである。受け入れてやらないということだけで、済めばよいけど、「その人」が明るい顔をしないということについて、文句を言い出す。
「明るい顔をしたらどうなんだ」「暗い顔をするな」「明るいのと暗いのと、どっちがよくて、どっちが悪いのか区別がつかないのか? そんなこともわからないのか?」と文句を言い出す。そうやって人を責める。これが、『明るい』ことなのかね。こういうことを言うのが、ポジティブ? なことなのかね。
こういうことを言うのは、実は、愚痴とおなじであり、不満の表明なのである。だから、暗い行為だ。その人たちのスケール(価値判断基準)にしたがって言うなら、ネガティブ行為なのである。『だめ出し』が明るい行為であるはずがないだろ。明るい行為というのは、人の気持ちを明るくするんだろ。
『だめ出し』をして、言われた人が、明るい気持ちになるか?
「自分はおまえが暗い顔をしているから不愉快な気持ちになった。おまえは俺の気持ちを考えて明るく振る舞うべきだ」ということを言っているだけではないか。これは、ネガティブな感情の表現じゃないの? 愚痴じゃないの?
●なにごともに『感謝感謝』との関係
ところで、「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわる人は、同時に、なにごともに『感謝感謝』などという人たちなのである。こういう、精神世界の人が傾倒する考え方は一種の系をなしている。スローガンの組み合わせがだいたいおなじなのである。
「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということにこだわる人であって、なおかつ「なにごともに『感謝感謝』」ということにこだわる人でなるならば、暗い人にも感謝しなければならない。
感謝したくないというのであれば、感謝しなくてもいいけど、もし、「なにごともに『感謝感謝』」と普段から言っているのであれば、暗い顔をした人にも感謝しなければならない。
暗い顔をした人が、暗い顔をしているにもかかわらず『生きている』ということに感謝しなければならない。
けど、表面的に信仰しているだけの人は、暗い顔をした人に感謝せず、攻撃する。『そんなんじゃだめだろ』とだめ出しをする。『明るいのはいいけど、暗いのだめだ』という考えに支配されている人は「なにごとにも『感謝感謝』」というような考えにも支配されやすい。これは、系をなしている。
しかし、その都度『自分の感情』が出ているだけなので、両方とも同時に成立させようとはしていない。その都度、自分の都合で、「暗いのはだめだ。明るいのはいい」「なにごとにも『感謝感謝』」と言っているだけだ。
なによりも、自分の感情が優先しているのである。
相手がどうして暗い顔をしているのかということは、一切合切関係がないのである。「どんなにつらい思いをしていたとしても、明るい顔をするべきだ」と人には要求するのである。
しかし、本人は、実は、つらい思いをしたときは、暗い顔をしている。本人が、そのとき、本人の顔を見ることができないから、本人は気がつかないだけ。
実は、最初に述べたように『受け手』として、『明るいのはいい。暗いのはだめだ』と言っているという傾向がある。『送り手』ではなくて、『受け手』なのだ。
他人に対する要求であり、自分に対する要求じゃない。もちろん、最初は『いい話を聞いた』と思って『自分に対して要求する』のであろうけど、そのうちに、全体主義、教条主義におちいって、ただ単に、『他人に対して要求する』ということになる。
「どんなにつらい思いをしても、自分は明るく振る舞おう」と思って明るく振る舞っている人は、いい。自分に要求しているのであればそれでいい。
けど、「どんなにつらい思いをしても、他人は明るく振る舞うべきだ」というのは、他人にとって迷惑な考えなのである。それがわからないんだよな。全体思考だから。一般的な傾向だけを考えているから。
そして、こういう人は、実は一般的なことを言っているにすぎないということを忘れている。一般的なことというのは、一般的な傾向について言っているだけだということだ。『暗いのより明るい方が好ましい』というような一般的な傾向について言っているだけだ。
それぞれが抱えている特殊な事情は、この段階では、考慮されていない。
これは、全体的な判断で、個々人に対応した判断じゃない。しかし、個々人の上に適応されるのである。『どんな人も』『どんな事情を抱えていても』……『暗いのより明るい方が好ましい』ということになってしまう。これが、実は問題なんだということを、ここでは述べているわけだ。
個々人の事情がある。個々人が抱えているどうしようもない環境がある。そういう、事情や環境を度外視にして、「こいつはだめだ。あいつはだめだ」と決めつけてしまうのが、一般的な「暗いのはだめ」思考の欠点だ。
だいたい「明るい顔をしたらどうなんだ!」「暗い顔をするな!」「明るいのと暗いのと、どっちがよくて、どっちが悪いのか区別がつかないのか? そんなこともわからないのか?」と本人が言っているとき、本人はどういう顔をしているんだろうね? 明るい顔をしてこんなことを言うのか? それならそれで、問題がある。
●「暗いのは悪い。明るいのはよい」という言葉の三つの側面
「暗いのは悪い。明るいのはよい」というようなスローガンは一般的な傾向にすぎないのに、すべての他者に適応されてしまうので、このような問題がしょうじる。
「暗いのは悪い。明るいのはよい」というのは、実は、三つの側面を持っている。
ひとつは一般論としての側面なのだけど、これは、「他人が暗いのはよくない。他人が明るいのはよい」……ということの言い替えなのである。自分が「受け手」であるわけ。
他者が自分に対して暗い対応をするのよくない。他者が自分に対して明るい対応をするのはいいということを言っているにすぎない。
もうひとつは、自分の行動の指針としての側面だ。「暗いのは悪い。明るいのはよい」ので、自分は暗い気分のときでも(他人に対しては)明るく振る舞おうというような行動の指針を意味している。この場合は「暗い顔をしているのはよくないので、明るい顔をしよう」というような自分の行動に関する指針なのである。
もうひとつは、他者の行動の指針としての側面だ。他人は自分に対して明るく振る舞うべきだ」という他者の行動指針だ。しかし、これが、一般論の中に隠れているのである。だから、めんどうな話になる。一般論は、一般論としては肯定されがちだ。
一つの言葉の中に、三つの違った意味がこめられているのである。側面と言ったけど、実際には、おなじ言葉なのだけど違った意味を持っている。
(2)自分に対する行動指針
(3)他人に対する行動指針
たとえば、AさんとBさんがいるとしよう。AさんがBさんに対して「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということは正しいか間違っているかと訊いたとしよう。Bさんは「暗いのは悪い。明るいのはよい」ということは正しいと答えたとしよう。その場合、Aさんの前では、Bさんは『常に例外なく』明るく振る舞わなければならなくなる。
どうしてなら、Bさんが「暗いのは悪い。明るいのはよい」(という一般論)に賛成してしまったからである。Bさんが暗い顔をしたときは、Aさんは「『暗いのは悪い。明るいのはよい』ということにBさんは賛成したではないか。明るく振る舞え。明るくしろ」と言うことができるのである。
Aさんが明るい顔をしているかどうかは別にして、Bさんには、Aさんがいるところではいつも明るくしなければならないという縛りがしょうじてしまうのである。これは、Aさんが(1)一般論と(3)他人に対する行動指針を同様のものとしてあつかったから、しょうじたことだ。
(1)一般論と(3)他人に対する行動指針はちがったものなのだけど、おなじ言葉なので、おなじようにあつかうことができる。
また、一般論の適応の範囲は『人間すべて』といったものであるから、人間であるBさんは、自動的に適応範囲ないの存在だということになる。
実際、Bさんも、人間として、暗い人に対応されるより明るい人に対応された方が気持ちがいいというようなことを(受け手)として経験したことがあったとする。この場合、「暗いのは悪い。明るいのはよい」という一般論には、コウシガタイ魅力がある。自分の経験則をあてはめて考えてみても、「暗いのは悪い。明るいのはよい」という一般論が正しいと思えるのだから当然だ。
しかし、暗い人に対応されるより明るい人に対応された方が気持ちがいいという経験に関して言っておくと、この場合、Bさんは『受け手』だ。『送り手』ではない。
で、ぶっちゃけた話しなにを言いたいかというと、表面的な明るさよりも、『思いやり』のほうが大事だよということを言いたい。明るい顔をして他人を追い詰めるような思いやりがないことをしてはいけないし、暗い顔をしていても、他人に対する思いやりがあればよいのではないかと思う。
まとめ
・「暗いのは悪い。明るいのはよい」というのは一般傾向としてはわかるはなしだ。
・「暗いのは悪い。明るいのはよい」という考えに基づいて、本人が明るく振る舞うのはいい。
・しかし、「明るく振る舞え」と他人に要求するのはいいことではない。
・「暗いのは悪い。明るいのはよい」という一般的な考え方は、自分中心で、自分が受け手である場合の話しだ。本人が送り手である場合のことを考えてない。そういった意味では、『エゴ』のひとつにすぎない。他人が、自分に対して明るく接してくれることを望んでいるのである。他人が自分に対して明るく接してくれることを望むこと自体は悪くない。そういう意味では、「だれだってそう思う」のであろう。しかし、『エゴ』だ。
・「なにごとにも『感謝感謝』」と言うのであれば、暗い人にも感謝して、暗い対応にも感謝するべきだろう。
・「暗いのは悪い。明るいのはよい」という全体的な基準にとらわれないで、個々人のことを考えてやったほうがいい。
・「なにごとにも『感謝感謝』」というような考え方は、ほんとうは他者に対する愛から出ているのだけど、いままで見てきたように『自己愛』にひっくり返ってしまう地点がある。
・「だれだってそう思う」ことに関しては、一般傾向としてはさからいがたい。しかし、それがいつも正しいというわけではない。