2018年9月27日木曜日

微妙なサインを読み取る能力というのは、だれもが、努力すれば身につけることができるのだろうか?

相手が表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉で、なんらかの意思をしめそうとしたとき、その意思をうまく読み取れる人と読み取れない人がいる。

たとえば、健常者の母親のなかにも、赤ちゃんが出しているサインを読み取れない母親がいる。まったく読み取れず無関心なタイプと、読み違いをするタイプのふたつのタイプがある。赤ちゃんが出しているサインを読み取るのが苦手な母親もいるということは、おぼえておかなければならない。そりゃ、母親ならみんな、赤ちゃんが出すサインをちゃんと読み取ったほうがいいわけだけど、そうじゃない母親もいる。

問題なのは、明確な言葉によるサインではなくて、表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉によるサインだということだ。もともと、読み取ることが不得意な人は、練習をしても「表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉によるサイン」を正確に読み取ることができないかもしれない。


だれもが、注意を向ければ、不明瞭なサインしか出さない人の「意図」を正確に読み取ることができるのだろうか? 健常者であれば、注意を向ければ不明瞭なサインしか出さない人の「意図」を正確に読み取ることができるのだろうか?

健常者でも、不明瞭なサインを正確に読み取ることができない人は、いると思う。それは、赤ちゃんの不明瞭なサインを読み取れない母親がいるということから類推できる。

根性論や努力論に傾倒している人だと、練習をすれば、健常者ならだれでも、不明瞭なサインを読み取ることができるようになるというような前提でものを言ってしまうことがある。

たとえば、障害者の介護をする人は、障害者が出す不明瞭なサインを、読み取ることができるのだろうか? ということを問題にせずに、「できるに決まっている」という前提でものを言ってしまうのである。

不明瞭なサインであろうとサインは出しているのだから、そのサインを読み取るのは介護者の責任だろということだ。しかし、練習しても不明瞭なサインを明確に読み取れない人は、相当数いると思う。

たしかに、良い方法で練習すれば、多少は改善されるのかもしれない。しかし、良い方法で練習しても、根本的には少しも改善されない場合があるのではないかと思う。その場合、「根性論や努力論」を前提にして、あれこれ言うのは、良くないことなのではないかと思う。

もし、根性論や努力論が正しいのであれば、自閉症スペクトラム障害の人なんていないことになってしまう。良い方法で練習すれば、他人のサインを読み取ることができるということになってしまうのだから、自閉症スペクトラム障害の人ではなくなってしまう。また、知的障害者だって、良い方法で練習すれば、知能が高くなって、知的障害者ではなくなるのである。

それをしないのは、自閉症スペクトラム障害や知的障害者が努力不足だということになってしまう。良い方法で練習すれば、「克服」できることなのに、そういう努力をしないから、だめなんだということになってしまう。これは、ぼくが考えていることではなくて、「根性論や努力論が正しい」という前提に立つと、そう考えるしかないということになるということだ。

健常者のなかにも、サインがかなり不明瞭なサインである場合、読み取れない人がいると思う。そして、そういう人たちは、かなり明瞭なサインを読み取れない障害者とおなじで、良い方法で練習をしても、かなり不明瞭なサインは読み取れない状態にとどまるかもしれない。

健常者にも、各分野ごとに「健常者スペクトラム」のようなものがあるのではないかと思っている。要するに、健常者といっても連続的に、その分野のことが得意な人から不得意な人が存在しているのではないかと思う。

その分野というのは、たとえば、今回の場合は「かなり不明瞭なサインを読み取る分野」だ。分野ごとに、得意と不得意があるのではないかと思う。その場合、「健常者なのだから」練習をすれば絶対にできるようになるはずだと考えるのは、問題があるのではないかと思う。それを前提にしてしまうと、その人の「努力不足」をせめることになる。

障害者と健常者のふたつの値(二値)しか考えないでものを言うのは、やめたほうがいいのではないかと思う。おのおのの分野に得意な人と不得意な人がいると思ったほうがよいのではないかと思う。さらに、得意な人と不得意な人というような二値思考を避けて、得意さの程度、不得意さの程度が人格とあわさったかたちで、連続的に存在しいてると考えたほうがよいのではないかと思う。

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努力論という言葉をどういう意味で使っているかというと、ここでいう努力論というのは「がんばって練習をすればどんなことでもできるようになる」というような考え方のことだ。要するに「努力すれば、なんでもできる」という考え方のことだ。


根性論も、おなじだ。

しかし、根性論の場合は、根性が重要になるのである。「努力すればなんでもできるようになる」という意見に対して「できない場合がある」という反対意見が出た場合、「根性でやればできるようになる」と考えるのが根性論者だ。努力論者にしても、努力すればなんだってできると言っているのであって、根性論者とおなじなんだけど、まあ、根性論は努力論のパワーアップ版と言ったところか。

まあ、使い分ける必要はないか?


「根性でやればできる(根性を出せばできる)」と「努力すればできる」の差でしかない。


「努力すればできる」のであれば、そもそも、知的障害者や精神障害者はいないということになる。そういう人たちは「努力」がたりないだけだということになってしまう。「努力すればできる」ようになるというのは、間違った考え方だと思う。


   *   *   *

ところで、介護者はすべて、かなり不明瞭なサインを出す人の意図を正確読み取るべきだというような障害者福祉的な「べき論」と、俺の実の兄や実の父親の、どんな明確なサインも頭ごなしに否定して反対のことを叫ぶというような実態にどれだけの差があると思っているんだよ。「実の兄」が普通の人が想像することができないような意地で、普通の人が想像することができないような態度で、ヘビメタを鳴らすことにこだわっていたとき、兄は健常者として認知されているんだぞ。いまだって、そうだけど。「うち」での態度と「よそ」での態度がちがうから、「よそ」では発覚しないだけだ。案外、障害者福祉的な「べき論」を展開するやつが、兄や父親のような性格の人がいるということを認めなかったりするんだよな。そういう人は、障害者施設に入っているはずだと決めつけている。けど、本当にそうなりますかね? と言っておきたい。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。