2019年7月20日土曜日

だれにとってやってはいけない行為なのか (アドラー心理学の闇)(京都アニメーション事件含む)(主観の問題)(道徳観の問題)


ほんと、つまんない。つまんない。つまんない。
まあ、起きてられるということだけでいいか。
しかし、つまんない。

コンビニに行って手延べ素麺でも買ってくるかな。なんか知んないけど、素麺がマイブーム。はは、マイブームねぇ? 死語か。なんか知んないけど、素麺を食べたいんだよね。どーするかな。

むかしは、もうちょっと楽しかったんだけどね。もうなんか疲れ果てて、楽しくない。いろいろと、興味がなくなっている。興味がうせた。うせたー。

まあ、世の中にはいい人もいるけどな。

それにしても、ヘビメタ騒音以降、くるしい。起きているということ自体がくるしい。寝ているときもくるしいんだけどね。だから、生きていること自体がくるしくなった。ヘビメタ騒音以降、生きていること自体がくるしくなった。で、くるしいなかでなんとかやっているだけで、あんまり希望がない。楽しみがない。

まあ、そういうことを言うと、「なんか、興味があることを見つけて」と助言されるわけだけど、興味が摩耗している。

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ところで、アドラーが言っていることはわりと、高度な道徳観の上に成り立っているんだよ。自分の問題と他人の問題をごちゃ混ぜにしないとということも、きらわれる勇気を持つということも、実は高度な道徳観の上に成り立っている。高度な道徳観を持っている人を前提にして話をしている。けど、そういう前提があるということは、無視してしまっている。

だから、「きれいごと」でしかない。

たとえば、気違い兄貴が、きらわれる勇気を持って、自分がやりたいことをやるとする。そのやりたいことというのが、自分が満足できるデカイ音でヘビメタを鳴らすことだとする。

で、自分が満足できるデカイ音でヘビメタを鳴らすことだけを考えて、ヘビメタを鳴らすと、鳴らされた俺はこまる。気違い兄貴の部屋が真横にあるからだ。気違い兄貴のヘビメタが俺の部屋にガンガン響いてくるからだ。

そこで、たとえば、俺が「うるさいからやめてくれ」と言いに行ったとする。その場合、気違い兄貴が、「うるさいから、やめてくれ」というのは弟の問題であり、自分の問題ではないと判断したら、そのまま気違い的にデカイ音で鳴らし続けるわけだから、問題があるのである。

けど、もちろん、やりたいことをやっている気違い兄貴にとっては、問題はないということになる。

京都アニメーションのビルに放火した人だって、自分の気持ちというのがある。「自分の気持ちだけ」で行動してしまうと人に迷惑がかかる場合がある。人を殺してしまったり、人を自殺に追い込んでしまう場合がある。

しかし、その人にとっては……つまり、行為者にとっては……それはそういう行為ではないのである。行為者にとっては、「迷惑行為ではない」のである。

自分の気持ちがたいせつだからだ。「自分の気持ちしかない」からだ。「いまここ」の自分の気持ちしかない。

京都アニメーション事件の場合、行為者は夢中になって放火するわけだから、夢中になってやるということ自体が(なんの前提もなく)正しいことだとすると、京都アニメーション事件の犯人(行為者)も正しいことをしたということになってしまうのである。

放火した人は「きらわれる勇気を持っている」人なのである。だから、「きらわれる勇気を持っているかどうかということはそういうことではない」と思う人は、ほんとうは『道徳観』を問題にしているのである。絶対に道徳観が問題になる。

しかし、普通アドラー心理学について説明する人は、道徳観の問題には言及しない。そういった場合の道徳観というのは、無前提に設定されているものなのである。

だから、「きらわれる勇気を持った人が犯罪をする場合」に関しては、語られないか、あるいは、「ぜんぜんちがう問題」として無視される。

しかし、何度も言うけど「ぜんぜんちがう問題」ではないのである。それは、主観の問題があるからだ。「自分がやりたいことをやる」「きらわれる勇気を持つ」ということは、すべての場合において正しいことではないのである。

しかし、キレイゴトの世界では、まるですべての場合において正しいように言われる。思われる。アドラーと多くのアドラー心理学信仰者は疑問を持たない。

道徳観は人によって違うので、「なにをしてはいけないか」ということは、人によってちがう。気違い的にデカイ音でヘビメタを鳴らす人のなかでは「気違い的にデカイ音でヘビメタを鳴らすこと」はやってはいけないことではないのである。同様に、放火をする人にとっては「放火」はやってはいけないことではないのである。「放火」全般ではなく、「その人の放火(行為)」だ。

「その人の」「放火(行為)」はその人のなかでは「やってはいけないこと」ではないのである。むしろ、絶対の意地でやらなければならないことなのである。どれだけ他の人が反対しても、勇気を持って、やらなければならないことなのである。

少なくても、本人(行為者)にとっては、悪いことではない。本人が、「これをすると人に迷惑がかかる」ということを理解していなければ……認知・認識していなければ……その人のなかでは「その行為は人に迷惑がかかること」ではないのである。

だから、やる。

他の人が「迷惑だからやめてくれ」と言ってきた場合もやる。他の人が「迷惑だからやめてくれ」と言ってきた場合は、他の人の問題であって自分の問題ではないということが、ほんとうは、深いところで成り立つ可能性がある。

『そういうことをやるな』と他の人から言われたとき、『自分が気にしなくてもいいことについて、他人が気にしろと言ってきた』と考えたらどうなる? その人は「他人にきらわれることを恐れず」に、あるいは「言ってきた他人を無視して」やるということになる。

だから、「他人に迷惑をかけることは別だ」というような、言い方は、相対的な世界では、通用しない。それが、主観的な問題だ。この世は、相対的な世界なのである。

どうしてかというと、人それぞれが自分の頭で「世界」を理解しているからだ。あるいは、人それぞれが自分の頭で「世界」を感覚・認知しているからだ。だから、実際の世界では、主観の問題がある。

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「気にする必要があることか、気にする必要がないことなのか、よく考えて、気にする必要がないと判断したら、やる」ということについて考えてみよう。結論から言ってしまえば、それでは問題は解決しない。どうしてかというと、『よく考える』人が本人だからだ。本人である以上、本人の主観からはのがれられない。

障害者をむだな存在だと考えて、殺してしまおうと思った人がいたとする。ぼくは、障害者はむだな存在だとは考えない。けど、その人はそういうふうに考えてしまったとする。そこで、ぼくが「おまえの考えは間違っている」「殺すべきではない」と言ったとする。けど、その人が、自分のなかでよく考えて、殺すべきであると考えたら、俺の発言は特に意味がないことになってしまうのである。その人のなかでは……。

まるで、『よく考える』ようにうながせば、それでいいというような印象を与えるようなことを言うな! あるいは、よく考えれば、世間的に正しい結論にいたるというような印象を与えるようなことを言うな!

こういうのは、印象の問題なのである。

あたかも気にする必要があることなのか、気にする必要がないことなのか考えれば、「主観の問題」は問題にならないかのようなことを言う。

それは、そういうことを言う人の道徳観が問題なのである。そのひとには、所与の道徳観が成り立っているから、よく考えれば、(他の人も)道徳的に正しい結論にいたるはずだと(それこそ、よく考えもしないで)思い込んでいるのである。

けど、実際の世界には、その人が持っている所与の道徳観が欠落している人もいるのである。だから、そういう人が『勝手なこと』をやるかもしれない。そういう世界に生きているのである。

その場合、『勝手なことをやる人』のなかでは、どれだけ考えても、正しいと思えることなのである。

で、勝手なことをやる人の思いこみと、アドラーが言っていることは似ているところがあるのである。違いは、道徳観と主観(その人にとっての認知・認識)だ。似ているところがあると控えめに言ったけど、本質的にはまったくかわらないことなのである。正確に言えば『区別ができないこと』だ。道徳観の問題と主観の問題を考えなければ、両者は質的に違いがない。だからこそ、この世でいろいろな問題が起こっているのではないか。

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わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。