たとえば、一〇〇人の村があるとする。その一〇〇人がみんな、「人がいやがることはするべきではない」と考えていたとする。
そうなると、人がいやがることをする人がいないような感じになるのだけど、そうとは、限らないのである。
たとえば、「仕事の場合は、人がいやがることをしてもいい」ということになっていると、仕事をしている人は、仕事中は、人がいやがることをしてもいいということになるので、人がいやがることをする場合もあるということになる。
「何時から何時まで仕事をしなければならない」というルールがあるとする。そうすると、その仕事をしたくない人も、仕事をおしつけなければならなくなるのである。
そして、「仕事中は、部下に命令をしてもいい」というルールがあるとする。
そうすると、部下がいやがる仕事をおしつけてもいいということになるのである。何時までにこの仕事をやってくれと命令してもいいということになるのである。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。AさんもBさんも「人がいやがることはするべきではない」と考えているとする。AさんがBさんの上司だとする。
Aさんは、仕事中であれば、Bさんがいやがることを命令してもいいということになるのだ。Bさんがこの仕事はやりたくないと思っていても、そんなのは、関係なしに命令するだろう。
いちいち、Bさんがいやがっているかどうかということを、気にしていたら、仕事ができないということになるのであれば、Bさんがいやがることだって、命令するだろう。
個々の具体的な「お題目」がどれだけきれいで、どれだけ、人を納得させるものであったとしても、実際の場面では、それが成り立たないということはある。
あるカルト宗教の人が、「教祖は、悪い人だけど、教えは正しい」と言ったとする。教えというのが、一〇項目ぐらいあったとする。その一〇項目を、すべての人が理解したとしても、いいことにはならないのだ。
この人たちは、実際の認知や、実際のメタ認知を無視している。
ようするに、場面的に成り立っているルールだ。
「仕事中なら、部下に命令してもいい」というルールがあるなら、「人がいやがることはしないようにしよう」と思っている人だって、部下がいやがることをする場合がある。
これが、例外かというと、そうでないのだ。
さまざまなところに、「きれいごとのルール」よりも、重要なルールが成り立っていて、重要なルールのほうが優先されると、「きれいごとのルール」は、無視されることになるのである。
その場面で、無視されることになる。
「(きれいごとのルールに関して)これは、正しい」と心底思っていたとしても、別の上位のルールがあるなら、ちゃんと、その(きれいごとのお題目)は無視されることになるのだ。
だから、みんながみんな、心底、きれいごとのルールを理解すれば、いい世界になるというのは、間違った考え方なのである。
その場面場面で、もっと優先されるルールが成り立っていると、きれいごとのルールは、無視されることになるので、「きれいごとのルールについて」どれだけ、説教をしても無駄だということになる。「きれいごとのルールを」理解した人がどれだけ、増えても無駄だということになる。
実際には、説教をするほうだって、メタ認知的に優先するルールを優先して、きれいごとのルールを無視することがある。無視する状態が、普通の状態であり、きれいごとのルールにこだわって、優先するルールを優先できないのであれば、社会不適合になってしまうのである。
どうしてかというと、社会の場面というのは、現実的な場面の組み合わせだからだ。
現実的な場面において、まわりの人が普通に優先しているルールを優先せずに、きれいごとのルールを優先すると、その場面に適応できなくなってしまう。
適応できない場面が増えれば、社会不適合になってしまう。そして、仕事というのは、そういう個別的な場面の連続を含んでいるものなので、(きれいごとのルールにこだわっている人は)社会不適合になってしまうのである。
きれいごとのルール(きれいごとのお題目)について、人に説得をしている人が、社会不適合にならないのは、鈍感力が優れているからなのである。社会の場面で、実際には、きれいごとのルールを本人が無視しているのに、無視しているということ自体に気がつかないので、本人は、適応できるのある。
だから、いやがっている人にも、宗教の宣伝ができるのである。きれいごとを実行していないからこそ、宗教の勧誘ができるのである。
しかし、今回言いたいのは、宗教の勧誘のことではない。ありとあらゆる仕事のことだ。
ありとあらゆる仕事にも、宗教の勧誘のように、きれいごとのルールを無視しなければならない状態がある。
その状態を無視しているから、本人はきれいごとのルールについて……『これは正しい』と思っている状態を保持できるのだ。
これが、感づいてしまう人だったら、すぐに、疑問を感じて、場面に適応できなくなってしまう。
運用レベルで実行するつもりである人であって、なおかつ明晰な人(鈍感力がない人)は、すぐに、自分がきれいごとのルールを無視しなければ、場面に適応できないということに気がついてしまう。