一括思考ということについて書いたけど、「すべて」というような言葉を含んでいなくても、一括思考になってしまう場合がある。
たとえば、「運気」というような言葉は、その言葉自体が、一括思考を「さそう」言葉なのである。
運気というのは、実体の写し絵なのである。
悪い出来事が多いと、運気がさがったということになり、良い出来事が多いと、運気があがったということになるのである。
ようするに、「運気」というのは、「あとだしジャンケン」で決まることなのである。
そして、主体と客体(観察者)の問題がある。自分が自分自身についてどう思っているのかということと、自分が他人についてどう思っているのかということについては、わけて考えなければならないのである。
ところが、他人も自分も一緒くたになってしまう。自己責任論とおなじなのだ。
自分を対象にした自己責任論と、他人を対象とした自己責任論は、まったくちがうものなのに、特に、区別されないという特徴が(自己責任論には)ある。
それと同様に、「運気」も、自分が他人の「運気」についてどう思っているのかということと、自分が自分の「運気」についてどう思っているかということは、ちがうことなのである。
宇宙を貫く統一理論ではないけど、「運気」という言葉を使うことによって、あたかも、「運気の法則」がこの世を支配しているようなイメージを植え付けるのである。
この世と書いたけど、実際には、「運気の法則」が、「ひと」の「幸福」と「不幸」を支配しているようなイメージを与えてしまうのである。
運気の法則というのは、じつは、現実の写し絵でしかない。
自分自身のことについて考えた場合、よい出来事がたびたび起こると「運がいい」ということになり「運気があがった」ということになるのである。
そして、悪い出来事がたびたび起こると「運が悪い」ということになり、「運気がさがった」ということになるのである。
しかし、それは、実際の出来事が決まったあとの話なのである。
実利的に、「運気」というものがあり……「自分に、運気というものが宿っていて」その運気というものが、自立した性質をもっているように誤解をしてしまうのだけど、じつは、「運気」というのは、現実の写し絵でしかない。
具体的な性質をもったものではないのに、あたかも、具体的な性質をもったものとして扱われるのである。
どういうことかというと、たとえば、「運がいいから」よいことが起こると思ってしまうのだ。しかし、「よいことが(頻繁に起こったから)運がいい」と思うようになったのだ。
順番がちがう。
ようするに実際に起こったことを「記述しているだけのことば」なのに、あたかも、自立した性質を持つような言葉として扱われているのである。
たとえば、「運気」が身体に宿っているとする。
強い運気をもつものは、いいことが起こり、運気が弱い人は悪いことが起こるということになってしまうのである。これは、自立した性質を持つのとしてイメージされているということを意味している。
運気がまずあり、運気の「流れによって」いいことが起こったり、悪いことが起こったりするというプリミティブな感覚があるのである。
ところが、その運気というのは、実際に起こった出来事の「結果集計」でしかない。運気というのは、単なる「時間的な集計結果」でしかないのだ。
そして、時間的な集計結果というのは、条件によって、ほとんどが決まってしまうのである。
だから、ほんとうは、運気という言葉で表現されているものは、さまざまな条件が結果に影響を与えているということの、言い換えにすぎないのである。
ようするに、「運気」などはなく、「条件」しかない。
条件が悪いと、悪いことで起きやすくなるのである。
そして、条件がよいと、よいことが起きやすくなるのである。
運気は、関係がない。
条件がよいから、よいことが頻繁に起こる場合、「運気が強い」と表現されるようになって、条件が悪いから、悪いことが頻繁に起こる場合、「運気が弱い」と表現されることになっているだけだ。