ほんとうのことを言ってしまえば、掃除をしていても不幸な人はいるし、掃除をしなくても幸福な人はいる。
ある人が、掃除をしたあと、すっきりしてしあわせを感じるということがあるということは、わたしは否定しない。
たしかに、しあわせを感じているのだから、「しあわせになる」と表現してもよいことになる。
しかし、それは、その人が、掃除をしあと、しあわせを感じるということを意味しているにすぎないのである。
「掃除をすれば、しあわせになる」という法則について、述べているのではなくて、あくまでも、個人的な感想を述べているにすぎない。
しかし、「方法」としての「掃除をすれば、しあわせになる」というのは、「方法」なので、一括思考になってしまうのである。
「掃除をすれば、しあわせになる」というのは、「Xをすれば、Yになる」という構造をもつ文なのである。この場合、意図せず?一〇〇%構文になってしまうので、一括思考になってしまうのである。
一度、抽象化されると、「例外なく」成り立つということになってしまうのである。
その場合、現実社会には、例外があるので、例外の人は、無理なことを言われて苦労するということになってしまうのである。
そして、掃除しない人であって、なおかつ、不幸せな人がいたとしたら、掃除をしないから不幸せなのだということになってしまうのだ。
これも、文の構造から導き出される「必然」だから、避けることができない。
言っているほうは、ぜんぜん、気にないけど、言われたほうは、たいていの場合、いやな気分になる。理由があるからだ。
言っているほうは、ニセの理由を考えだし、ニセの理由でそうなっていると断言することになるので、断言されたほうは、不愉快な気持ちになるのである。
しかし、言っているほうは、理論的に正しいと思っているので、相手が言っていること(言われたほうが言っていること)を認めないのである。
「掃除をしない」という理由で不幸になっているわけではなくて、ほかの理由で不幸になっている場合は、ほかの理由で不幸になっているのだから、「掃除をしない」という理由は、ニセの理由なのである。
本人のことについて、事情を知らない他人が、決めつけるので、不愉快な気持ちになるのだ。
そして、ほんとうの理由が、「掃除をしにくい状態」をつくりだしている場合は、さらに不愉快な気持ちになる。
言っているほうは、「掃除をしていないから不幸なのだ」ということを言ってくるわけ。
「掃除をすれば幸福になる」のだから、掃除をすれば、不幸な状態ではなくなるのだ。
しかし、ほんとうの理由によって、掃除ができない状態になっている場合、不愉快な気持ちになる。どうしてかというと、「掃除をしていないから不幸なのだ」と言ってるほうに誤解があるからだ。