2026年4月11日土曜日

●「一〇〇%構文」が、「人(ひと)」というレベルで成り立ってしまう■社会※2026/04/11 1:16

自己責任論についてちょっとだけ言っておく。

自己責任論というのは、ほんらい責任を問うべき人の責任を問わない理論なのである。

たとえば、政治家が悪い政策をしたとする。その場合、その政治家の責任だということになる。

ところが、自己責任論になると、悪い政策の被害を受けた人の責任だということになってしまうのである。どうしてかというと、悪い政策の被害者は、その政治家が悪い政策をするとき、反対しなかったから、自己責任だということになるからだ。

そして、「なんでも、自分の身に起こったことは、自分の責任だ」ということになるので、悪い政策の被害を受けた人たちの責任だということになってしまうのである。

そうなると、「ほんとうは、責任がある人」をせめずに、「ほんとうは、責任がなく、被害を受けた人」をせめるということになってしまうのである。

この特徴は、いろいろなところであてはまる。

言霊の「できると言えばできる」ということも、これとおなじことが成り立っている。

それらの言葉は、社会のしくみのなかで機能しているわけだから、言ったもの勝ちだということになってしまう。

「すべては自己責任」とか「できると言えばできる」という言葉は、社会のなかで機能しているのである。

だから、運用の問題が発生する。

ところが、「正しそうなら、正しい」と確信してしまう人たちが出てくる。

この人たちは、悪い政治家の責任は問わずに、悪い政治家がやったことによって被害を受けた人たちの責任を問うということになってしまうのである。

しかし、自己責任論を信じている人たちは……つまり、自己責任論で洗脳されている人たちは……「自分がいいことをしている」「自分が言っていることは正しい」と思ってしまうのである。

ほんとうは、責任がない人たちの責任を問い、ほんとうは、責任がある人の責任を問わず……ほんとうは責任がある人の側に立ち、責任がある人をかばっているにもかかわらず、「自分が正しいことをしている」と思ってしまうのである。

これが、社会における自己責任論のほんとうの存在理由だ。

逆算して、こういう『社会的な雰囲気』をつくるために、自己責任論をはやらせたのだ。

しかし、「ほんとうは、責任がない人たちの責任を問いましょう」「ほんとうは、責任がない人たちに責任をおしつけましょう」「ほんとうは、責任がある人の責任を問わずに、責任がある人のことをかばいましょう」とは、言わない。

そんなことを言っても、「これは正しい」と思う人は少ないからだ。

だから、アンガーコントロール論としての、自分を対象とした自己責任論を、まずは、はやらせるのである。

これだと、『これは正しい』と思う人たちが、出てくるからだ。多くの人が、自分を対象とした、アンガーコントロール論としての、自己責任論は正しいと感じてしまうのである。

しかし、一度、自己責任論を受け入れた人たちの多くがが、他人を対象とした自己責任論を語りだすのである。どうしてかというと、自分を対象とした自己責任論限定で、自己責任論が正しいとは、思えない傾向があるからだ。

自己責任論は『論』として正しいと思ってしまうのである。だから、他人を対象とした自己責任論も正しい理論だということになってしまう。ここで、抽象的なジャンプをおこなっているのである。

対象が、拡張してしまう。

「宇宙を貫く絶対法則」ではないにしろ、『これは正しい』と思った人は、他人を対象とした自己責任論を語るようになるのである。

なぜかというと、『これは正しい』と思っているからだ。

なので、冒頭に戻ると、「悪い政治家」の責任は、なぜか追及されず、悪い政策の被害者が、責任を追及されるということになってしまうのである。

そして、責任を追及するほうも、一般人だという「いやらしさ」がある。

一般人が、被害者である一般人の責任を追及し始める。これは、やばいだろ。

数で言えば、一般人のほうが、圧倒的に多いのである。

少数の「悪い政治家」ではなくて、多数の「一般人」が、批判の対象になるのである。

多数の一般人が、多数の一般人の「責任」を追及し始める。

しかも、えん罪なのだ。

この場合、悪い政治家のほうが悪いわけだから「悪い政治家の責任」を追及するべきなのに、悪い政策の「被害者の責任」を追及し始めるということになってしまうのだから、えん罪だ。一般人のなかで、「被害者」のほうに責任がなすりつけられているのである。

他人を対象とした自己責任論者は、一括思考をして、被害者のほうの責任だと決めつけ、被害者のほうの責任を追及し始めるのである。

たとえば、実際に一般人のなかに、その人の責任で、うまくいかないことが発生したということがあるとする。

けど、それは、個別に考えるべきことなのである。

ようするに、一括思考はよくない。

これ、一括思考をしているのだ。

たとえば、無職のなかには、たしかに、その人の責任で無職になったという人もいる。けど、その人の責任ではなく、いたしかたがない理由で無職になった人もるのだ。無職のなかには、とりあえず、この二種類がいるとする。

無職というレベルでラベリングをすると、無職は無職なので、いたしかたがない理由で無職になった人も、その人の責任で無職になったという人も、おなじだということになる。一括思考で、おなじような存在だとみなして、「無職になったのは、自己責任だ」と決めつけてしまうのである。

しかし、その人の責任で無職になったという人といたしかたがない理由で無職になった人は、ちがうのである。たとえば、ニートのなかには悪い人もいる。

だから、ニートは全員悪い人なのかというと、それは、ちがうのである。ところが、一括思考をしてラベリングをしてしまう人は、「ニートのなかに、悪い人がいるのだから、ニートは悪いやつらだ」と一括思考をしてしまうのである。

たしかに、被害者のなかにも悪い人がいるのだけど、それは、被害者が悪い人だということをいしていないのである。悪い政策の被害者のなかには、たしかに、「本人」に問題がある人もる。「本人」の行動によって、悪い状態が生じたということもあるだろう。しかし、そういう「本人」が、ひとりいるからと言って、「本人」全員に問題があるとは言えないのだ。

本人に問題がない場合も、被害を受けることがある。

ラベリングをして、一括思考をすると、個別性が失われるのである。

そして、自己責任論の場合、他者を対象とした自己責任論になるので、「他者全体」というレベルのラベリングがおこなわれることになる。

どこでおこなわれるかというと、一般人のなかにいる自己責任論者の頭のなかでおこなわれるのである。

一般人なのだよ。

多数の一般人なのだよ。

多数の一般人は、まず、アンガーコントロール論としての「自分を対象とした自己責任論」を正しい理論だと認識する。しかし、この人たちの頭のなかで、他人を対象とした自己責任論が付け加わるのである。

どうしてかというと、「抽象的に正しい理論だ」と思っているからだ。

抽象的なレベルで、「一括化」が発生する。自分を対象とした自己責任論は、「人(ひと)」というレベルで抽象されてしまうのである。

そうなると、「一〇〇%構文」が、「人(ひと)」というレベルで成り立ってしまう。

2026年4月10日金曜日

●働かないことを選んだわけではなくて、働けない体にされたのである■騒音※2026/04/08 9:29

ちょっとよくわからないことがある。それは、ぼくが(当時)無職だということに、コンプレックスをもっていると思う人たちがいるということだ。

これ、当時の話なのだけど、この人たちが想定している「無職コンプレックス」とぼくが、感じている「いらだち」はちがうのである。ぼくが感じているいらだちというのは、きちがいヘビメタ騒音のことをほかの人たちが認めないということなのである。

きちがいヘビメタの影響を、ほかの人たちが認めないのである。

そして、このようなほかの人たちは、(みんな)無職に対して偏見をもっているので、俺に対して、偏見を持つのである。

しかし、ぼくは、偏見を持たれるようなことをしていないのである。

こっちが不愉快だと感じる態度をとられると、腹が立つのである。こいつら……は、みんな、ヘビメタ騒音の影響がどれだけでかいかということを認めない。

こいつらが経験したような「騒音」とおなじレベルの騒音だと思っているのである。そして、「自分だって苦労した」という言葉で、すべてを、相対化してしまう。

いやーー。あなたが、苦労したということは認めるけど、ぼくと同等の苦労をしたとは認めていないのである。ぼくは……認めていないのである。けど、相手の頭のなかでは、「自分だって苦労した」と言うことで「同質・同量」の苦労をしたということになってしまうのである。「同質・同量の苦労をしたけど」自分はそれにたえて、働いている……。

……だから、エイリも働けるはずだという思い込みがあるのである。

ところが、この思い込みが間違っているのである。そもそも、この人たちは、ぼくと「同質・同僚」の苦労をしていない人たちなのだ。苦労はしたけど、「同質・同僚」の苦労は、していないのである。

どうしてかというと、家族がきちがい兄貴のような家族ではなくて、普通にしずかにしてくれる家族だったからだ。あるいは、そもそも、きちがい兄貴が鳴らすような音で、音楽を聴こうとしない家族だったからだ。

何度も言うけど、この人たちは、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがないのである。だから、きちがい的な家族がもたらす、苦労をしたことがないのである。家族関係の苦労に絞るなら、この人たちが経験した苦労というのは、普通の家族がもたらす苦労なのである。

きちがい兄貴と言ってるけど、うちの兄貴の感覚は、おかしいのである。狂人のそれなのである。

まず、あれだけの音で鳴らしても、まったく問題がないと感じてしまう感じ方がおかしいのである。

そして、あれだけの音で鳴らしていながら、なおかつ、聴力が正常なのであれるにもかかわらず、「普通の音で鳴らしている」と思ってしまう無意識的構造が、おかしいのである。異常なのである。

普通の頭の持ち主ではないのである。

異常な頭の持ち主なのである。

その異常な頭の持ち主が、こだわってこだわって、こだわって、やることが、ぼくに影響を与えたのである。

ほかの人たちは、ヘビメタ騒音の話を聴いたあとも、ぼくが、普通に働けると思っているのである。

ところが、ぼくは、普通に働くことができないのである。どうしてかというと、長期間、きちがい兄貴の騒音が毎日、鳴っていたからだ。この間位置の騒音というのは、毎日に影響を与える。

もちろん、ぼくの毎日に影響を与える。「自分だって苦労した」と言った人の、毎日影響を与えたのではなくて、ぼくの毎日に影響を与えているのである。

*     *     * 

ぼくが「無職コンプレックス」をもっていると考える人が、考えている「無職コンプレックス」というのはなんなのかというと、「無職劣等コンプレックス」のことなのだ。ようするに、劣等感のことなのだ。

だから、ぼくは、この言葉に、ひっかかりを感じるのである。ぼくが持っているのは、無職劣等間ではないのである。コンプレックスというのは、複合体という意味で、こういう文脈では、心的な複合体のことを指し示すのである。

だから、当然、優位コンプレックスとか優等コンプレックスとかといわれるものもある。しかし、日本語では、コンプレックスと言えば、劣等コンプレックスのことを指すということになっている。 

コンプレックスということを言うのであれば、ぼくが感じているコンプレックスは、きちがい兄貴コンプレックスなのである。ぼくが感じているコンプレックスは、きちがい騒音の日々コンプレックスなのである。

きちがい騒音の結果、無職になった。「きちがい騒音の結果」という部分を、ごく少数の例外を除いて、よその人は、無視する。無視したよその人が、ぼくが言っていることを認める確率というのは、ほぼ〇%だ。これが現実なのである。

だから、「無職であることのコンプレックス」ではなくて、「ヘビメタ騒音によって無職にされたコンプレックス」なのである。自分が納得して、無職になったのではなくて、きちがいヘビメタ騒音によって、無職にされたのである。この「された」という部分を理解できる人は、ほんとうに少ない。たいていの人は、この部分を無視する。たいていの人は、この部分を理解しない。

働かないことを選んだわけではなくて、働けない体にされたのである。

長い年月をかけて、働けない体にされたのである。

この「長い年月をかけて」という部分を無視してしまう人がいる。その人たちのなかでの「騒音」というのは「鳴っているときの騒音」だけなのである。割と短い騒音時間を想定して「鳴っている時間」というものを考えるのである。だから、きちがい兄貴の騒音のことがわからないのである。どれだけの意地で、毎日、無視して鳴らしたか……ということがわかっていない。毎日のことなんだよ。通学していたとき、6年と半年間、続いたんだよ。そのあとも何年も何年も毎日、あたりまえのように続いたんだよ。どうしてかというと、きちがい兄貴が、鳴らしてはいけないレベルの騒音だということを、そのあいだずっと考えなかったからだ。

どれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度ではねのけて、耳が正常なら絶対にわかることを認めないのである。絶対に認めなければならないことを、認めないのである。この態度が、もたらす、不愉快な感じといったらない。そういう態度で鳴らしているやつが鳴らしている騒音なのである。これも、工事の騒音とは違う。工事の人たちは、でかい音を出しているということがわかっている。工事を計画した人も、それがわかっているから周辺住民に、だいたい、この時期には終わるということを告知するのだ。ところが、きちがい兄貴は、でかい音で鳴らしているのに、小さな音で鳴らしていると思っているのである。あんなでかい音で鳴らして普通の音で鳴らしていると思っているのだる。これが、感覚器を欺くことなのだ。普通の人であれば、芝居をしているだけなのである。ところが、きちがい兄貴は、自分がどでかい音で鳴らしたときは、それが普通の音に感じてしまうのだ。そういう脳の書き換えがある。感覚器自体は正常なのに、思いっきり鳴らしたいので、たいした音じゃないと思ってしまう。

感覚してしまう。思いっきり鳴らしたいから、無意識的な嘘がしょうじるのである。そして、そういう嘘を生じさせたということに、ほんにんがどこまでも、無自覚なのである。

こんな汚いやり方で、毎日、ものすごい損害がしょうじる騒音をやられたら、たまったものじゃない。「俺だって騒音ぐらいあった」と言っている人は、ちがうタイプの騒音について述べている。ぜんぜん、ちがう。

「俺だって騒音ぐらいあった」という反応しかたは、俺だって苦労した」いう反応とおなじで、ぜんぜんわかっていない人の反応なのである。

この人たちは、感覚器を書き換えてしまうタイプの嘘つき家族とは、一緒に暮らしたことがないということが、あきらかだ。

感覚器を書き換えてしまうタイプの人間が出している騒音を毎日聞かされたことがないということが明らかだ。ほんとうに、毎日、ほんとうに同じレベルの騒音が、ずっとずっと続いたら、こいつらだって、通勤して働けない体になる。

実際に、通勤して働けない体になっていないところを見ると、ずっと、軽症なのである。ぜんぜん、わかっていない。わかっていないということ自体が、この人たちが経験した騒音が、ぼくの経験した騒音とは全くレベルのちがう騒音だということを、如実に示しあらわしている。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。