きちがいヘビメタ騒音で、夜眠るべき時間に眠れなくなってしまったのだ。
そして、これは、何度も言ってしまうことだけど……きちがいヘビメタ騒音がなければ、ほんとうに、そういう状態にはならなかったのである。
これを、普通の人は無視してしまう。
自分がやられてみればわかるのに、やられたことがないから、わからない。
俺や名前だけ店長のように、一日に二時間ぐらいしか眠れない人がいる。そして、それが、毎日ずっと続けば、つかれる。このつかれは、普通の人のつかれではない。
これは、ようするに、一日に「普通の時間」眠っている人たちの、つかれではないのだ。「普通の時間」と書いたけど、まあ、七時間から八時間ということにしておこう。
七時間と二時間のちがいはでかい。
そして、一日目と一〇〇〇日目のちがいもでかい。
そして、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいは、一日目と一〇〇〇日目のちがいよりももっとでかい。そして、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいは、一〇〇一日目と、二〇〇〇日目のちがいよりも、ずっとずっとずっと、でかい。
そして、三〇〇一日目と四〇〇〇日目のちがいは、二〇〇一日目と、三〇〇〇日目のちがいよりも、もっともっともっともっと、ずっとずっとずっと、でかい。疲労が蓄積してしまうのだ。
ところが、蓄積した疲労を経験したことがない人が、「俺だってつかれている」と言って、疲労を同レベル化してしまう。
そうなると、言霊主義者を含む疲労が蓄積していない人たちが、「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言するようになる。
実際には、「蓄積された疲労」のちがいがある。
「つかれている」と言ったって、つかれ方がちがうのだ。
ところが、つかれ方のちがいを無視して、「俺は、実際に元気だ元気だと言ったら元気になった。言霊理論は正しい」と言って、相手のつかれを認めない発言をする。
しかし、状態がちがうのだから……ようするに、蓄積の度合いがちがうのだから……そのような助言は意味をなさないのである。
しかし、「言えば言ったことが現実化する」という洗脳を受けていると、「言えば言ったことが現実化するのだから、相手だって、元気だ元気だと言えば、元気になるはずだ」という意見をもつことになる。
「相手だって、元気だ元気だと言えば元気になる」と思っているわけだ。
そして、「元気だ元気だと言えば元気になる」という考え方を否定されると、否定された人は「頭にくる」確率が非常に高くなる。
「元気だ元気だと言っても、元気にならない」と言ってくる相手には、言霊主義者は怒りを感じる可能性がある。
そして、言霊主義者にとって「元気だ元気だと言えば、元気になることは、もう、決まっていることなので……「元気だ元気だと言っても元気にならないと言っている相手は、あまえている」ということになってしまう。
あるいは、『やり方がへたくそなのに文句を言う、ダメなやつだ』ということになってしまうのである。
そして……たとえば、「元気だ元気だと言えば元気になる」という意見をもっている人のほうが、「元気だ元気だと言っても元気にならない」という意見を持っている人よりも、立場が上だと非常に厄介なことになるのである。
立場が上で「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人は、相手の「蓄積疲労」を見ていない。どのくらいの疲労が蓄積しているのかと言うことについて、まったく考えない。
この人たちは「疲労」と言えば「疲労」であって、ひとつの抽象的な疲労しか見ていないのである。「元気だ元気だと言えば元気になる」と思っている人だって、「つかれる」ということは、経験している。自分のみで知っているのだ。
しかし、この人たちは、単純だから、自分と関係なければ、一種類の「抽象的な疲労」しか頭に浮かばない。実際に、この人たちが、いろいろな出来事によって、つかれている場合は、出来事によって生じたつかれの「差」を知っているのである。
けど、「ぬけぬけ」なので、そういうことは、深く考えないのである。
自分が、ほんとうにつかれているときは、「元気だ元気だと言っても、元気にならない」ということを、ごく普通に無視してしまう。この人たちが、ほんとうに徹夜をしてつかれているときは、「休みが欲しい」「眠りたい」と思うのである。
ところが、そのときはそのときで、言霊のことなんて考えないのである。
そもそも、ほんとうにつかれはてているときは「元気だ元気だと言えば元気になる」ということは、考えない。もし、かりに考えて……「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないと言うことを経験した場合も「元気にならなかった」という現実的な結果を、無視してしまうのである。
「明日は、雨になる」と言って、次の日、晴れていた場合は、「言った通りにならなかった」ということを、軽く見て、忘れてしまう。
あるいは、無視してしまう。そうやって、自分にとって都合が良い結果だけ、覚えているのである。自分にとって都合が悪い結果は、意味をなさないものになっているのである。
軽く無視してしまう。そして、軽く無視したということも、無視してしまう。
ようするに、「ぬけぬけ」になる。この人たちは、「ぬけぬけ」な状態で暮らしている。
そうすると、自分が中立的な状態で、「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という記憶しか残らないので、「言霊理論は正しい」と思ってしまうのだけど、同時に、相手の疲労のレベルということについて考えることがまったくできないので、中立的な状態で感じた疲労をもとにして、「抽象的な疲労」を考えて、相手の疲労も、自分が考えている「抽象的な疲労」とおなじレベルの疲労だと考えてしまうのである。
中立的と書いたけど、ある程度、元気な時に「元気だ元気だ」と言っているのである。症状がひどい病気になって、寝込んでいるときに「元気だ元気だ」と言ったら、すぐに元気になったという体験はないのだ。
深刻な症状が出て、元気ではないときは、「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。けど、こういうことも、事前に無視されている。
「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という経験は、元気なときに経験したことなのである。あるいは、健康で中立的な状態で、経験したことなのだ。
どこもいたいところがなく、特にくるしいということもなく、健康な状態で、暇なときに「元気だ元気だ」と言ってみたら、「もっと元気になったような気がした」ということを意味しているだけだ。
しかも、ものすごく、元気になったわけではなくて、「なんとなく、言うまえより、元気になったような気がする」というレベルのことなのだ。
瀕死の重傷で横たわっているときに「元気だ元気だ」と言って、すぐに、ぱっと、元気になったわけではない。
言霊主義者ではなくても、普通の人は、自分のこと以外のことは、「想像して推し量る」ということをしているわけだ。
その場合、「ひとごと」なら、言霊主義者とおなじレベルの思考をしてしまうのである。
エンパスのような人だけが、人のことを、自分のことのように感じるとができるのである。
たいていの人は、「ひとごと」なら、自分のことではないので、いろいろなことを無視してしまうのである。
「程度のちがい」は、よく、無視されることだ。