もう、ほとんど、すべてのことに、やる気がなくなっている。薄いやる気しかない。
『なんとか、濃いやる気が復活してくれないかなぁ』と思う。
思っているのだけど、実際には、憂鬱になることが多く、つかれやすい状態で暮らしている。ヘビメタ騒音が鳴っている感じしか、しない。多くの人が無視する、きちがいヘビメタ騒音中の気持ちと、きちがいヘビメタ騒音後の気持ち……。
こんなの、わかるわけがない。
俺は、特別に、きちがいヘビメタ騒音がきらいなのである。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音がつもってつもって、俺の立場が悪くなった。
これ、ヘビメタ騒音がなかったとしたら、俺が勝手に、さぼっているだけに見えるのだよな。ところが、ヘビメタ騒音があった。この、きちがいヘビメタ騒音のやり方が、きちがいなのである。
みんな、兄貴の狂気がわかっていない。みんな、兄貴のきちがい感覚がわかっていない。
兄貴の感覚がわかっていないし、実際に、自分のきらいな音でやられたわけでもないので、わからないのだ。
そうなると、実際には鳴っていたのだけど、他人から見れば、「鳴っていないのとおなじだ」ということになる。。そして、これが奇妙なことなのだけど、きちがい兄貴が、その他人たちよりも、鳴らしたつもりがないのだ。
俺が、きちがい兄貴の騒音でこまっているということが、他人以上にわかっていないのだ。こんなの、ない。
ほんとうに、普通の人じゃない。普通の人なら、どれだけ、無視しても、わかることだ。ところが、きちがい親父とおなじで、きちがい兄貴にはわからないのである。
きちがい親父が竹を植えたとき、おかあさんに「いいだろ」「ほめてよ」と言ったことを書いたけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音終了後の気持ちというのは、「ほめてよ」という言葉を除けば、おなじなのである。
竹事件における親父の感覚が、そのまま、きちがい兄貴のヘビメタ騒音事件の感覚なのだ。ようするに、どれだけなにを言われても、「相手のことが」わからないのである。
おかあさんが、親父に、「竹を植えたら、ひどいことになるからやめて」「庭じゅうに、竹の根が伸びるからやめて」「隣の人に迷惑がかかるからやめて」と必死になって言っているのに、それが、まったくわからないのだ。親父が、ちょっとでも、竹の根が、地中で伸びるということを認めてしまったら、竹を植えられなくなってしまう。
それは、絶対にいやなのだ。だから、絶対に認めない。
そして、相手がこまっているということが、ほんとーーーに、ほんとーーーに、ほんとーーーに、わからないのだ。これ、無視しているとかじゃなくて、まったくわからない。どれだけ、なにを言われても、相手が言っていることがわからない。
自分の行為で、相手がこまるということが、わからない。
いちおう、わかって……わかっているけど、無視してやる切るということではないのだ。
親父がやっていることはそういうことではない。
どれだけ言われても、日本語がわかるのに、わからないのだ。相手のことが、きちがい親父の頭のなかに、まったく入ってこない状態になる。
どれだけなにを言われても、相手の状態だけは、まったくわからないままなのだ。認めたくないことは、どれだけ言っても、はねのけて認めないのだけど、意識的にはねのけて認めないようにしているわけではないのだ。
無意識的に、はねのけて、認めないようにしているので、はねのけて、認めないようにしているということ自体が、わからない。
親父の意識にのぼらない。親父がきちがい的な意地でやっていることなのだけど……はねのけて認めないということは、親父が、きちがい的な意地でやっていることなのだけど、意識は、自分がそうしているということを、認めない状態になっている。
自我は、自分がそうしているということを、認識していないのだ。
だから、全部が、すっぽぬけてしまうことになる。
これとおなじことが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に成り立っている。ほかの人がわかるわけがない。実際に、ほかの人は、自分がきらいな音を、あの至近距離で、あのでかさで、いっょに住んでいる家族に鳴らされ続けたことがない。
そりゃ、ちょっとはあるかもしれないけど、ぜんぜん、程度がちがうのだ。うちの場合は、程度がちがいすぎる。程度のちがいは、質のちがいになる。ぜんぜん、ちがう。