いちおう、「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないとする。神秘的な文字列なので、神秘的な力をもっているということはないとする。
けど、おっぺけぺと言うことと、いいことが起こるということのあいだには関係があると信じている人たちがいるとする。そして、その人たちの条件がちがっているとする。実際に、いいことが起こる確率は、条件によって決まっているとする。実際には、条件は複数あり、記述できない条件も存在しているとする。
しかし、モデルが複雑になるので、ひとつの条件が、「いいことが起こる確率」を決めているとする。
「おっぺけぺ」と言うことの神秘的な効果はないので、「おっぺけぺ」と言ったあとに、いいことが起こったとしても、「おっぺけぺ」と言うことと、いいことが起こったと言うことのあいだには、因果関係はない。ところが、いいことが起こったと考える人が、「おっぺけぺ」と言うといいことが起こる」と一般化・法則化してしまうのである。
その人のなかでは、『事実』そうなのである。
この場合、自分の場合は、「おっぺけぺ」と言うといいことがある……ということと、ほかの人間も含めて、人間の場合は「おっぺけぺ」と言うといいことがあるということは、ちがうことだ。
ところが、「おっぺけぺと言うと、いいことが起こる」と一般化してしまう人は、一般化してしまった時点で、人間というのは、みんなそういうものだと規定してしまうのである。
だから、本人において、一般化した時点で、もう、それは人類の法則なのだ。
しつこくなるけど……『自分の場合は、こうだ』ということと、『ほかの人の場合も……ともかく人間というのは、こうだ』というのは、ちがう。ちがうのだけど、本人のなかで、区別がついていないのである。
そして、たいていの場合、こういう人たちは、『区別』に書いたことを、区別していない。
なので、主語においてまず、間違っているし、一〇〇%構文の文で言っているということの意味もわかっていない。
最初から、でたらめなのだ。
ところが、人を救うために、「XをすればYになる」ということを言うのは、いいことだということになっている。だから、誤解が誤解を呼ぶと言うことになってしまう。そういう構造が成り立っている。