2026年5月30日土曜日

●「こういうことを言った人」に対する偏見■社会※2026/05/29 7:26

「社会のせいにする」という言い方も、「人のせいにする」という言い方とおなじ問題を抱えている。個別性を考えないのだ。「社会のせいにしている」ように見える人は、みんな、こうだと決めつけてしまう。

だれかが、だれかを「社会のせいにしている」と思っているだけで、それは、神様視点での、決定事項ではない。

まず、これが肝心なんだよな。

AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っている人だとする。

Cさんは、Bさんのことを「社会のせいにする人だ」と思っていない人だとする。Bさんが難からの発言をしたり、何らかの行動をした場合、Aさんは「Bさんは社会のせいにしている」」と思ったわけだ。

そして、Cさんは「Bさんは社会のせいにしていない。Bさんの主張はあっている」と思ったわけだ。Aさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」であり、Bさんは「社会のせいにした」ということになる。

Cさんのなかでは、Bさんは「社会のせいにする人」ではなく、Bさんは「社会のせいにしたわけではない」ということになる。Bさんのことなのだけど、Bさんに対して、別の個人が、それぞれ、ちがった判断をくだしたということだ。

神様視点の個人などは、存在しない。神様視点は、神様しかもてない。みんな、『自分は、だれだれさんが社会のせいしていると思っている』ということを、表現しているにすぎない。

しかし、本人のなかでは、それは、「正しいこと」なのである。本人のなかでは、「決定事項」なのである。

だから、その「決定事項」にしたがって、そのあとの意見を言うようになる。そして、Bさんというような個別具体的な例について語っているときも、個別具体的なBさんのことについて語っているという意識だけではなくて、Bさんのような人全体について語っているという意識が成り立っている。

たとえば、Aさんは「Bさんは社会のせいにした」「Bさんは社会のせいにする人だ」と決めつけたわけだ。

ほんとうに、Bさんが「社会のせいにした」のかどうかは、わからない。

かりに、Bさんが社会のせいにしたとして、ほんとうに、社会側に責任があった場合はどうなのだ。

Bさんが言ってることは「Bさんが、社会のせいにしている」ということで、しりぞけていいことではない。「せいにする」という言い方には、「本当は、対象となる存在のせいではないのに、だれかが、その対象のせいだと言っている」というニュアンスが含まれることになる。

実際に……「だれだれ(1)が、だれだれ(2)のせいにした」と(だれだれ3が)言っている場合は、言っている主体(だれだれ3)が、ほんとうはだれだれ(2)の責任ではないことを、だれだれ(1)が、だれだれ(2)の責任だと考えて、「だれだれ(2)のせいだ」と表現したと……だれだれ3が考えているということを意味している。

Aさんの言っていることを考えると、Aさんは「ほんとうは、Bさんのせいなのに、Bさんが社会のせいにしている」という認識か成り立っている。

そして、Bさんが言っていることは、不適切なことだという認識が成り立っているのだ。Bさんが言っていることが間違っているという判断が、「Bさんが社会のせいにした」という言い方に、まぎれこんでいるのである。

集合的一括思考が成り立ってる場合、さらにやかっいなことに、Bさんのようなことを言ってる人は、みんな、Bさんとおなじだと考えてしまうのである。

しかし、「社会のせいだ」と言った人には、別々の人生があるのである。ようするに、おなじではない。「社会のせいだ」と考えだ場合の、「社会」というものについて、「社会のせいだ」と言っている人が、みんなおなじ考え方をもっているとは限らない。

「社会」と言ったって、具体的に思い浮かべている「社会」がちがうのだ。

けど、これらのことについても、捨象して、一般化した集合的一括思考が成り立っているのだ。

たとえば、神様視点で決定してしまうけど、Bさんが実際に「社会のせいにした」とする。これは、悪い例だ。ほんとうは「Bさん」のほうに責任の所在があるとする。

しかし、Bさんは、「社会」のせいにしたとする。しかし、この社会という言葉は、問題なんだよね。

まあ、それには触れずに、話をすすめることにしよう。

悪い例に合わせて、一般化してしまう。悪い例に合わせて、集合的一括思考をしてしまうとしよう。その場合……「ほんとうは、たしかに社会のほうに、責任がある」場合の人についても、「社会のせいにした」と判断して、Bさんとおなじ存在だと思うようになるのである。

どういう表現を使うかどうか、迷うのだけど、行動による一般化が成り立ってしまう。たとえば、無職の人に対する偏見は、無職の人に対する偏見なのだけど、「こういうことを言った人」に対する偏見は「こういうことを言った人」に対する偏見として成り立つのである。

だれか(4)が「社会のせいだ」と言ったとする。そうしたら、ほかの「社会のせいだ」と言っている(集合的他者)人も、だれか(4)とおなじだという偏見が成り立ってしまう。

職業的属性ではなくて、発言による属性、行動による属性によって、偏見が成り立つパターンがある。

だから、神様視点で、Bさんが「社会のせいにした」とする。

ほんとうは、Bさんが言っていることは間違っているとする。ほんとうは、社会のせいではなくて、Bさんのせいだとする。

つまり、実際にBさんに瑕疵があるのに、社会の瑕疵だとBさんが主張しているということになる。責任の所在が(神様視点で)Bさんにある場合だ。

社会にはBさんが主張するような責任がないという場合だ。こういう場合をひとつあげれば「社会のせいだ」と言っているやつは、みんな、実際に「社会のせいだ」と言っているやつに瑕疵があるのに、社会のせいにしているとみなしてしまう。

しかし、それは、適切なみなし方?ではないのである。一括思考をしたところで、間違った推論をしているということになる。

たとえば、Cさんが、ほんとうに、社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったとする。「社会のせいだ」と言ったという事実は、BさんとCさんでかわりがない。

たしかに、Cさんも「社会のせいだ」と言っている。たしかにCさんも「社会のせいだ」と言った。

言ったのだ。

なら、Cさんは「本当は社会に責任がないことについて」「社会のせいだ」と言ったということになるのかどうかだ。

この場合、Cさんは、ほんとうに社会に責任があることについて「社会のせいだ」と言ったわけだから、Bさんとはちがう。

しかし、Aさんは、Bさんが「社会のせいだ」と言ったこととと、Cさんが「社会のせいだ」と言ったことを、おなじように認識してしまう。

個別性は、はく奪されている。

Aさんのなかでは、「社会のせいだ」と言ったということが、重要なのだ。「社会のせいだ」と言った人は、みんな、ほんとうは、社会の責任ではないことについて、社会のせいだと言ったということになってしまう。

Cさんの場合は、ほんとうに社会に責任があることについて、「社会のせいだ」と言ったのだ。だから、CさんとBさんはちがう。しかし、Aさんにとっては、Cさんも「社会性だ」と言った人だということになっている。

その場合、Cさんも、Bさんとおなじように、「社会の責任ばないこと」を「社会のせいにした」と表現した人だということになる。

*     *     * 

「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう。ちがうけど、区別がついていない人たちがいる。この人たちにとっては「責任の所在について言及すること」と「なになにのせいにすること」はおなじことなのである。

責任の所在について、直接言及しない場合も、だれか(1)がだれか(2)によって「なになにのせいにしている」と判断されることはある。だれか(2)にとっては、だれか(1)が「なになにのせいにした」ということは、事実なのである。

ところが、だれか(2)が、ただ単に責任の所在について言及した場合は、だれか(2)は、「なになにのせいにした」ことにはならない。「責任の所在について言及すること」と、「なになにのせいにすること」はちがう、ちがうことだからだ。

「なになにのせいにした」ということは、「だから、だめなんだ」という思考と、簡単に結びつく性格をもっている。 「責任の所在について言及した」だれか(1)は、自動的に「ダメな人」になるのである。

だれか(2)のなかでは、「ダメな人」になる。こういうことが、広範な場所で、成り立っている。

ちなみにだけど、だれか(2)のようなひとは、自分が一倍速で感じていることに関しては、「こいつがこういうことをしたから、自分は腹を立てた」というような感情をもつことが、たびたびある。

そのときは、「なになにのせいだ」と言ったわけではないけど、自分が腹を立てたのは、こいつがこういうことをしたからだ」と思っているわけだ。

そして、じつは、口に出すこともあるのだ。

ところが、言霊主義者のように「ぬけぬけ」なので、自分が感情的に正しいと思っていることに関しては、『自分がだれだれのせいにした』という気持ちにはならないのだ。

自分の場合は、ちゃんとした理由があるのだから、「だれだれのせいにした」ということにはならないと思っていることが多い。まあ、ごく自然に、「だれだれのせいだ」ということにするのだけど、ごく自然に「あたりまえだ」と思って、『自分自身』がだれだれのせいにしたということを感じないような状態になっている。

だから、主観というのが、ものすごく重要で、他人のことなら、だれか(3)が、だれか(4)の責任を追及しているのであれば、そのだれか(3)は、「人のせいにする人だ」と認識するしまう人(だれか5)も、自分のことに関しては、自分は(外から見て)「人のせいにする」ような表現をしたとしても、(自分のことなので)「人のせいにする人だ」とは自分のことを思わないのである。

その本人(5)にとって、本人の主観的な感情があることに関しては、そとからみて、「人のせいにしているように見える場合でも」……本人の主観としては、「(自分は)人のせいにしていない」ということになっているのである。

だから、『自分は自己責任で生きている』と豪語するけど、実際には、あたりまえだと思うことに関しては、自己責任で生きていない人が、主観的には「自分は自己責任で生きている」と思っているようなことが、「人のせいにする」ということにも、しょうじてしまう。

かりに、他人同士のことであれば、ごく自然に、「とにかく、人の責任を追及しているほうが、人のせいにしている」と感じる人でも、自分と他人のことであれば、『自分が他人の責任を追及している場合』でも、自分が「人のせいにしている」ということにはならないのだ。こういうもたちがいる。

この「人のせいにする」というコンセプトは、言霊、思霊、引き寄せ、さまざまなXをすることの、サブルーチンとして、登場することがある。

2026年5月29日金曜日

●「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」

「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」という決めつけがもたらすものは、なんなのか、ということについて、ちょっとだけ言っておこう。

まず最初に言いたいのは、多くの……強烈にカネがない人は、別に「カネを憎んでいる」わけではないということだ。

ところが、カネがないのは、カネを憎んでいるからだ」と決めつけてしまうのである。人間には、おぎゃーーっと生まれたときから、格差がある。当然、生まれた家の状態によって、生まれた人のカネの状態というのは、ちがってくる。

最初から、格差があるのである。

「カネを憎んでいる」という心の状態が、最初から、格差を生み出しわけではないのである。最初から、カネがないところに生まれた人は、カネがなく、カネがあるところに生まれた人は、カネがあるのである。もちろん、ものすごくカネもちの親だけど、子どもには、カネをかけないようにする親だっている。しかし、それは、例外的な存在で、たいていの場合、カネがある家は、子どもにカネをかける傾向があり、カネがない家は、子どもにカネをかけられないという傾向がある。そりゃ、カネがないのに、どうやって、子どもにカネをかけるのか。もちろん、「カネがない」と言っても、さまざまな状態がある。しかし、たいていの場合、カネの量(金融資産の額プラス年収)は、子どもにどのくらいカネをかけられるかということを、決めてしまう。その家の「カネの量」がその子の「カネの量」を決めてしまう傾向がある。これは、「カネを憎む」ということとは、関係がないことだ。だいたい、「あるほうがいい」と思う傾向が強いはずの「おカネ」をどうして、「憎むのか」という問題がある。それには、「憎むに至る」ストーリーがあったということだ。そして、そのストーリーは個別のストーリーであり、ほかの人にはないストーリーかもしれないのである。そして、「カネを憎むような経験」「カネを憎むような出来事」というのが、どの程度の頻度で発生したかということも、じつは重要なことなのである。ところが、「集合的な一括思考」をするので、「カネがない人は」「カネを憎んでいる」と決めつけ、さらに、「カネを憎んでいる人は、おなじようにカネを憎んでいる」と決めつけてしまうのだ。そういう、訳の分からない決めつけが、重層的に成り立っている。この、ろくでもない決めつけをして、人に説教をしてしまうということは、よくないことだぞ。

「カネを憎んでいるから、カネがないのだ」という決めつけのほかに、「カネがきらいだから、カネがないのだ」という決めつけもある。これ、金持ちの成功者が、「カネがない人は、カネがきらいだから、カネがないのだ」と決めつけてしまうと、「それは正しい」と決めつけてしまう人が、大量に発生する。その「それは正しい」と思った人だって……たいして、カネをもっているわけではないのに……そう思ってしまうのだ。これ、まあ、「ぬけぬけ系」の人なのだろう。「道徳的であれ」とおなじように「カネを好きになれば、カネが入ってくる」というような妄想を……金持ちの成功者が言えば、それを信じてしまう人が、大量に発生する。いやーー。好きとかきらいとか言う前に、条件の差があるのである。生まれの条件の差は、時間経過とともに、つみかさなっていく。ようするに、生まれたときのことだけではなくて、それから、数十年のことに影響を与えるのである。

ところが、条件を無視するメンターが、心がけ次第でどうにでもなるということを言うと、条件に関係なく心がけ次第でどうにでもなるということを信じてしまう人たちが、大量に発生する。「おカネのことを好きになれば、おカネが入ってくる」と言った場合、心がけ次第で、おカネが入ってくるということになるのである。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。