まあ、俺がこまっているだけと言えば、俺がこまっているだけなんだよなぁ。けど、俺がこまっているということは、俺にとって大問題だ。
そりゃ、そうだろ。
しかし、こまったなぁ。
どうするかな。
タイムリミットをこえてしまった。
しかし、動きたくないときは、動きたくないんだよな。「いま動くなら、死んだほうがましだ」という感じになる。眠ったあと、動けるような感じがするときはあるから、それを待っていればいいということになる。
けど、眠ったあとも、やりたくないことはある。考えただけで憂鬱になることはある。
「もう、つかれたよ」と何回、こころのなかで、言っているかわからない。
ヘビメタ騒音期間中に、つかれはて、ヘビメタ騒音後は、まったく回復していない。ヘビメタ騒音期間中のつかれが、そのまま続いているような感じだ。多少回復したときも、ヘビメタ騒音四〇〇〇日目のつかれに復活しただけなんだよな。
ヘビメタ騒音五〇〇〇日目のつかれから、ヘビメタ騒音四〇〇〇日目のつかれに復活したとしても、たいして、復活していないわけ。ヘビメタ騒音〇日目(ヘビメタ騒音なし)つかれには、復活しないわけ。
ところが、「過去は関係がない」とか「過去は記憶の中にしかない」とか「鳴り終わったら関係がない」というような、アホなことを言う人たちが、俺のつかれを認めないんだよ。
これも、迷惑な話だ。こいつらは、関係がないと思っている。だから、つかれはないわけだ。ヘビメタ騒音〇日目のつかれになっていると思っている。
ところが、ヘビメタ騒音〇日目のつかれを感じるようにはならない。ヘビメタ騒音が鳴り終わっても、ならない。
こういうことが、自分の体を通してわかっていないということは、わかっていないということを意味している。自分の経験を通してわかっていないということは、わかっていないということを意味している。
けど、こいつらは「ヘビメタ騒音でつかれたんだろ。そんなのは、わかっている」と言う。
けど、「過去は関係がない」と思っているので、ぼくの体が、ヘビメタ騒音〇日目のつかれに戻ったと思ってるのだ。だから、わかっていない。
こいつらは、ほんとうに、なにもわかっていない。
となりの部屋で、きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で、ずっと、「自分がきらいな音を」ガンガン鳴らし続ける生活がどういう生活か、ぜんぜんわかっていないのである。自分というのは、俺のことだ。
一日のなかでも、何時間も鳴っていたということが、そのあとの状態に影響を与えないわけがないのだ。経験としてわかっていないから「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言っているだけだ。
こいつらは、ほんとうに、なにもわかっていない
* * *
「過去は記憶の中にしかない」と言っているやつだって、自分が交通事故にあい、足が動かない状態になったら、「交通事故にあったという過去の出来事が、今の状態に影響を与えている」と思うのだ。
「過去は関係がない」と言っているやつだって自分が交通事故にあい、足が動かない状態になったら、「交通事故にあったという過去の出来事が、今の状態に影響を与えている」と思うのだ。
本人が、あたりまえに思いすぎているから、自覚がないだけだろ。交通事故にあったから、足が動かなくなった」という認識が、あまりにも、本人にとってあたりまえだから「過去は記憶の中にしかない」と思わないようになっているのだ。
「過去は記憶の中にしかない」と他人に言っていた時の自分と、「足が動かなくなっている」自分の姿が、むすびつかないのだ。自分が一倍速で実際に経験したことに関しては、もちろん、「過去は関係がある」「過去は記憶の中にしかないという考え方は間違っている」と思っているのだ。
ただ、鈍感力があるので、その状態に気がつかない。「ぬけぬけ」なのである。
「過去にこだわるのはよくない」という意味で 「過去は関係がない」と言う場合もあるだろう。けど、「過去にこだわるのはよくない」と言いたいなら、「過去にこだわるのはよくない」と言うべきなのだ。「過去にこだわるのはよくない」という文がもつ意味と、「過去は関係がない」という文がもつ意味は、おなじではないんだよ。
そして、ここでも、他者に対する発言だという問題がある。勝手に、自分に対して、そう言っていればいいんだよ。「足が動かなくなったなら、足が動かなくなった」のだ。足が動かないなら、足が動いていた時よりも、不便になる。
その状態を(他人である人が)「足が動かないということにこだわっている」と評しているだけなのだ。
これも、他人事だから、「こだわっている」ように見えるだけだ。「過去にこだわるのはよくない」と言う人も、自分が一倍速で経験したことについては、人並みに?こだわっているのである。
ただ、自分のことだから、「こだわっている」と思っていないだけなのだ。
これに関しても、「こう思うのがあたりまえ」と思っているから、あたりまえだと思っていることに関しては、特に、意識しないだけだ。
とても言いにくいけど、「過去にこだわる」ということも、「自分のことについて言っているのか」「他人のことについて言っているのか」ということを、考えなければならないのである。
「こだわる基準」「こだわりをもっていると判断するときの基準」が「自分のこと」と「他人こと」で、異なっているのである。
そして、「こだわる」という言葉が、こういう場合は「マイナス」の意味をもっているので、「こだわる必要がない」ことに、対象者である人が「こだわっている」という判断が、内包されているのである。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。
Aさんが「こだわり否定論者」だとする。そして、Bさんに「Bさんは、こだわっているからダメなんだ」と言ったとする。この場合、Aさんは、Bさんがこだわる必要がないことに、こだわっていると評しているのである。
それが、あたっているのか、間違っているのかは別にして、Aさんが「Bさんがそのことにこだわっている」と勝手に評して、そのうえで「そんなことはやめたほうがいい」と言っているのである。
間違っている場合は、相当に失礼な発言になる。
Bさんから見た場合、Aさんこそが、Aさんの過去において発生したことに「こだわっている」と思う場合だってある。自己中心的な人だと、「だれだれは、こだわる必要がないことにこだわっている」と思いがちなのである。
そして、自分のことに関しては、普通の人並に、こだわっている場合がある。神様視点で、Aさんが、Aさんのことに関しては、人並みにこだわっている人だとする。
けど、Aさんは、自分がこだわっていることに関しては、普通だと思っているのである。
Aさんにも、自分がこだわっていると思っていることがあるかもしれないけど、それは、Aさんにとってプラスに評価できるようなことなのである。Aさんにとって、マイナスに評価できることに関しては、「こだわっていない」と評価する傾向が強いのである。
Aさんが、自分は、このことについて特にこだわっていることではないと思っているけど、このことについて、普通に考えてしまうというのがある。
ようするに、自分の体調や、自分の障害に関しては、こだわっているとAさんは思っていないとする。けど、ほかの人から、Aさんのことを見た場合、Aさんは、こういうことにこだわっているように見えるのだ。
ほかの人と言っても、複数の人がいるのである。だから、ほかの人の見解が、全部正しいとは言えない。
ともかく、自分を対象とした「こだわり否定論」と他人を対象とした「こだわり否定論」を、天秤にかけた場合、他人に対する「こだわり否定論」は、よっぽどのことがない限り、やめたほうがいい。自己責任論とこだわり否定論には、おなじような問題がある。他人を対象とした自己責任論と他人を対象とした「こだわり否定論」おなじような問題がある。
たとえば、自分が事故にあって、足が動かなくなったとする。その場合、足が動かないという現実を受け入れて、足が動かなくても、できることをしていこう」と思ったとする。
このことを自分のなかで「こだわりをすてる」と表現したとする。
こういう場合は、勝手にやればいいのだ。ただ、他人に対しては、そういうことを押し付けないほうがいい。他人を対象にするのか、自分を対象にするのかで、ちがう部分がある。
それから、言霊主義との関連について述べておく。言霊主義者は「言えば言ったことが現実化する」と思っているのだから「足が元通りになる」と言えば、それでいいということになる。
だってそうだろ。
言霊主義者にとって言霊は絶対なので、絶対にそうなるのである。
言えば、言っただけで、元通りになるのである。
言えば、言っただけで、言霊の力によって、元通りになるのである。
その場合、「足が動かない」という現実を受け入れる(受けとめる)必要なんてない。
だって、言えば、言っただけで解決してしまうのだから……。
ところが、自分の現実的な問題に関しては「こだわりを捨てて受け入れる」などと言うのだ。いやーー。言霊で解決すればいいだろ。自分の現実的な問題に関しては、突然、絶対である言霊を捨ててしまって、「現実を受け入れる」という選択をするのだ。
現実を受け入れるということは、言うことによって、現実をかえられないということを意味しているのである。
矛盾している。
言霊主義者が、普段、どれだけでたらめなことを言っているか、よくわかる。自分の問題に関しては、現実的な選択をするのである。
そして、「受け入れて」「前向きにできることをする」のがよいことだという考え方があるわけだけど、それがほんとうによいことなのかどうかはわからない。
このように言うと、現実の不都合が軽減されるように思うかもしれないけど、現実の不都合が経験されるかどうかはわからないし、現実の不都合が改善されたと思うかどうかもわからない。
人によって、条件によって、現実の不都合が改善される度合いもちがう。
改善される場合の話だ。
改善されない場合だってあるんだよ。
自分が一倍速で感じたことと、他人が一倍速で感じたことを、鈍感な人が考える場合、他人が一倍速で感じたことを、過小評価してしまうのである。過小評価する人を、鈍感な人と言っているので、トートロジーになっているけど、一〇〇%詐欺はしていない。
じゃあ、まあ……。例外的な鈍感な人を除いて、鈍感な人が考える場合、他人が一倍速で感じたことを、過小評価してしまう傾向が非常に強いと書いておこう。