一括思考をする人は、「ほんとうに自業自得である場合」と「ほんとうは責任がない場合」を、区別しないのだ。
たとえば、就職氷河期においては、就職氷河期以外の期間にくらべて、あきらかに、就職しにくい状態だった。正規従業員(正社員)として、就職するということが、難しい時代(時期)だったのだ。これは、その年に生まれた人の責任ではない。
つまり、就職氷河期マイナス一八年・生まれの人や、就職氷河期マイナス二二年・生まれの人……の責任ではない。
そして、日本の商習慣についても、この人たちの責任ではないわけだ。
日本の商習慣というのは、この場合、学校を卒業してからの正社員歴がないと、いろいろと不利な扱いを受けるということだとする。不利な扱いを受けるほうに責任があるのかというと、ほんとうはない。
何年何月に生まれたということも、日本の商習慣にも、氷河期世代の人には責任がないわけだ。
ところが、「すべては自己責任」という考え方を他人に適応すると、何年何月に生まれたということも、日本の商習慣からしょうじることも、その人たち(氷河期世代の人たち)の責任だということになってしまうのである。
いっぽう、自分の行為については、責任がつきまとう。
たとえば、自分がでかい音で鳴らしたいからずっと、でかい音で音楽を鳴らすという行為は、迷惑行為なのだ。「自分」が選んでやったことだ。
もちろん、責任がある。でかい音で鳴らし続けたという責任がある。これを、わざわざ、自己責任という言葉で表現する必要はない。
あるいは、気分がむしゃくしゃするから、駅前に行って、駅前にいた人を包丁で刺した人がいたとする。とりあえず、Aさんだとする。Aさんには、責任がある。どうしてかというと、自分が、やりたくてやったことだからだ。
騒音とおなじように、迷惑行為を、自分の意思に従って、やったという責任がある。
これも、自己責任という言葉で表現するのは、問題があると思うけど、自己責任だ。本人に責任があるということを表現するなら、自己責任だ。
一括思考をしてしまうと、何年何月に生まれて(就職において)不利な扱いを受けたということも、自己責任であり、駅前にいた人を包丁で刺した結果、自分が捕まって死刑判決を受けたということも、自己責任だということになってしまう。
「すべては、自己責任だ」と考えるので、そうなってしまうのである。
しかし、何年何月に生まれて(就職において)不利な扱いを受けたということと、駅前にいた人を包丁で刺した結果、自分が捕まって死刑判決を受けたということには、明らかな「差」があるのである。
その差を無視するのが、一括思考だ。
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「すべては自己責任だ」という一括思考について語ってきたけど、これは、「すべては受け止め方の問題だ」という一括思考にもあてはまることだ。
「すべては、受け止め方の問題だ」という言い方も、個別具体性を無視した言い方なのである。
なので、条件が悪い人と……「すべては、受け止め方の問題だ」と考える人の「相性」は悪くなる。
基本的なことを言ってしまうと、「すべては……思考」が間違っているのだ。
一括思考は、個別具体性を考えない思考なので、個別具体性をもっていることに関しては、問題がしょうじる。「個別具体性をもっていること」と書いたけど、人間というのは、各人が各人の具体的な条件をもっている世界で生きているのである。
うまれた家がちがえば、条件がちがう。
うまれた家の「だいたいの経済レベル」がおなじでも、母親や父親の性格がちがえば、ちがう条件下に生まれたということになるのである。
だから、経済的に同レベルであったとしても、条件は、(人によって)ちがう。
人の人生に関係することや、人の生活に関係することにおいては、この条件の差というのは、結果の差を引き起こす原因になる。
ところが、「すべては自己責任だ」「すべては、受け止め方の問題だ」と言い張る人は、個々人の条件を無視して「すべては自己責任だ」「すべては、受け止め方の問題だ」と言い張っているわけである。
当然、条件が不利な人は、「一括思考で決めつけられて」いやな思いをするということになると思う。まあ、これも、一〇〇%の人がいやな思いをするとは決めつけられないので、多くの人が、いやな思いをするだろうと(わたしが)思うという言い方になる。
しかし、程度はどうであれ、いやな思いをすると思うよ。