じつは、「言えば、言ったことが、言霊の力によって、現実化する」というのは、妄想的な前提なんだよ。この前提が正しいなら、「なおる」と言えば、なおるんだよ。
ところが、多くの言霊主義者は、自分の歯がいたくなったら、歯医者に行くのだ。
「なおる」と言ってなおそうとしない。「なおる」と言ってなおそうとした場合だって、実際には、なおらず、歯が相当にダメになる。
けど、人には「言霊は絶対だ」「なおると言えばなおる」と豪語してゆずらない。ゆずらないんだよ。歯の痛みに関しては、多くの人が経験したことがあるいたみなんだよ。
もちろん、経験したことがない人だっている。
けど、経験したことがある人のほうが、多数派だ。
だから、わかる。しかし、「きちがい家族によるしつこい騒音」となると、経験者がぐっと減る。うちの兄貴のやり方が、きちがい的なほど、理解者が減ってしまうのだ。経験者が減ってしまうからだ。
そうなると、自分が経験した「普通の騒音」のことを考えて、俺の騒音について、いろいろと判断することになる。きちがいヘビメタ騒音がずっと続くのであれば、働けない体になる。
ところが、ほかの人は、そんなに長い間、きちがい家族によるしつこい騒音」を経験したわけではないので、「普通の騒音」について考えて……「そんなことはない」と考える。
「関係がない」と考える。「影響がない」と考える。そうなると、俺がヘビメタ騒音のことについて、どれだけ説明したって「そんなのは、言い訳だ」「そんなのは、あまえだ」と言ってくることになる。
きちがい兄貴の程度が、普通ではないほど、そうなる。
きちがい兄貴が、きちがい的なことだわりで鳴らした騒音の程度が、普通ではない程度になる。「普通の人」にはわからない。
「普通の人」には、「普通の騒音」の経験しかないから、わからない。
どうして、そうなるのか、自分の体で経験したことがないから、わからない。自分の体で経験したことがないからわからないだけで、こいつらが言っていることが、正しいわけではないのだ。
けど、こいつらのなかでは、「自分は正しいことを言っているということになる。きちがい兄貴のきちがい的な感覚がひどければひどいほど、ギャップがひろがるのである。
普通の人は、普通の兄貴を想像してしまう。だから、普通の兄貴が鳴らすような騒音でしかないと思っているのだ。ところが、普通の兄貴が、一日に一秒だって鳴らさないような騒音を鳴らしているのである。だから、実際にきちがい兄貴がやっていることと、普通の人が思い浮かべる「普通の兄貴」がやっていることのギャップがひろがる。
そして、これは、「影響の差」でもあるのだ。きちがい兄貴のやり方が、きちがい的にしつこければ、普通の人が思っている「騒音の影響」と、ぼくが実際に体感した「騒音の影響」のギャップがひろがるようになるのだ。
普通の人は、言霊主義者のように、「できると言えばできる」とか「できないというからできないのだ」とかというようなことを、付け足すことはない。
けど、普通の人の認識というのは、言霊主義者の認識とおなじなのだ。ようするに、普通の人は、ほんとうに、「そんなのは影響がない」と思って、「影響がない」と言い、「影響があると言っているエイリはあまえているだけなんだ」と言うわけだ。きちがい兄貴の、きちがいにしかできない「無視」というのが、これがまた、こたえるのだ。
よその人は、理解しないわけ。けど、よその人よりもずっとずっとずっとずっと、理解していないのが、きちがい兄貴なのだ。普通の人だったら、絶対にあんな音で、鳴らさないんだよ。普通の人だったら、どれだけ、思いっきり鳴らしたくても、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、あれだけの音で鳴らすということはないんだよ。
でっ、これが、親父の異常行動とおなじで、よその人には、理解できないことなんだよ。だから、「そんな音で鳴らしているわけがない」「そんな音で鳴らしているのに、ほかの家族が文句を言わないなんておかしい」と思って、ぼくが言っていることは、嘘だと判断する人たちが出てくる。
この人たちは、ぼくのすべての発言に対して、「嘘を言っている」と判断するようになるので、めちゃくちゃにいやな存在になる。
これも、本気で、「エイリは嘘を言っている」と思っている人にとっては、当然の行動であって、悪い行動ではない……ということになっている。
だから、絶対に反省なんてしない。つねに、意地悪な解釈をして、「ずれたこと」を言ってくるということになる。「ずれたこと」というのは、ぼくが嘘を言っているという前提で、相手がぼくの言ったことを、解釈した場合の「ずれたこと」なのだ。
これが、悪質なんだよ。「ぼくの言ったこと」というのは、ヘビメタ騒音に関することも、ヘビメタ騒音が関係ないことも、すべてが対象になるんだよ。こいつらの「推論」は間違っているのだけど、こいつらが、間違っているということを、認めることは、ほとんどない。
どうしてかというと、ぼくが「嘘を言う人間だ」という前提で、ぼくの言うことを聞いているからだ。きちがい兄貴のずれが大きければ大きいほど、きちがい親父のずれが大きければ大きいほど、ぼくが嘘を言っているということになってしまうのである。
これが、どれだけつらいか、ほかの人たちは、わかっていない。こういう人たちだって「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言えるのだ。
だから、「そんなのはなんでもない」という連想が働いてしまう。騒音について、同質化・同量化してしまうのは、ヘビメタ騒音の話を信じている人も、信じていない人もおなじだ。
信じていない人の場合は「もし、それが本当だったとしても」という仮定の前提が付け加わることになる。けど、これは、感覚として成り立っているものなので、エイリが嘘を言うという前提でも、考えることができるわけ。
ようするに、エイリが嘘を言う人だという前提を崩さずに、「たとえ、ほんとうに、エイリが言っているように、鳴っていたとしても」そんなのは関係がないと思ってしまうわけ。
「エイリが嘘を言っている」と思った時点で、そういう人間だと、ぼくを見下しているので、簡単に「たとえ、ほんとうに、エイリが言っているように、鳴っていたとしても、そんなのは関係がない」という気分的な意見が成り立ってしまう。そいつらのなかに、成り立ってしまう。