2026年4月23日木曜日

●くるしい時の神頼み■言霊※2026/04/19 14:01

まだ、思い付きの段階だけど……切迫度と現実感度が問題なのだと思う。

あまりにも、切迫度がありすぎると、逆に、言霊主義者は言霊思考になってしまうのである。命にかかわるような病気になったとする。

その場合は、切迫度が高すぎるので、「なおると言えばなおる」といったタイプの言霊にすがりつきたくなるのだ。

くるしい時の神頼みというのがあるけど、そういう気持ちになったときは、言霊でどうにかしたくなる。

だから、言霊に対する信頼度もあがるのである。もちろん、それは、望みとして、あがるのである。 

自分のことに関しては、現実感度が高いので、自分のことに関しては、現実的な解決法が採択されるのである。

この場合、言霊的な解決方法は、浮かんでこない。

言霊主義者なのに、言霊的な解決方法は、考えすらしないのだ。

かわりに、具体的で現実的な解決方法をためすのである。どこかに行きたい場所がある場合は、「近くの駅まで、徒歩で行って、駅から、なになに線の電車に乗って、なんとか駅で降りよう」というように、考えるのである。

「目的地まで、瞬間移動で移動しよう」とは思わないのである。

これは、どれだけ「瞬間移動することができる」と言っても、瞬間移動ができないということを、言霊主義者が、じつは認識しているので、無理なことはしないで、普通に、駅まで行くというような現実的な選択をするのである。

なになに線で、事故が起こって、電車が動かなくなったとする。そして、徒歩で移動しなければならなくなったとする。

その場合は、言霊主義者も普通に、徒歩で移動するのである。

「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」と言えば、動くようになるので、熱心に、何回も、「三秒以内に、なになに線の電車が動くようになる」とは言わない。

こういう現実的なことに関しては、たいていの言霊主義者は、現実的な選択をするのである。

自分の身体に関することなど、切迫度と現実感度が、高すぎる場合は、言霊思考になる。切迫度と現実感度が中程度のことに関しては、言霊主義者も現実的な対処をするのである。最初から、言霊主義的な対処が思い浮かばないのである。

*     *     * 

切迫度と現実感度が、低すぎる場合も言霊思考になる。切迫度と現実感度が、中程度である場合は、言霊思考にならないのである。

ようするに、日常生活のいろいろなことに関しては、言霊思考にならないのである。わずかな例外を除けば、日常生活のいろいろなことに関しては……言霊主義者といえども……言霊思考なんて完全に無視して解決策を探して行動するのである。

わずかな例外というのは、ほんとうに、狂っている場合や、現実的な解決法が、ぜんぜん見つからない場合だ。

ようするに、普通の状態で普通のことに対処している場合は、まったく、言霊思考にならない。

しかし、言霊主義者・本人は、自分が言霊的な考え方を無視しているという認識をもてないのである。言霊を無視しているつもりは、まったくない。

言霊自体に、注意が向かないので……無視しているということにも、気がつかないのである。 

●まあ、言葉の遊びだけどね■社会※2026/03/12 11:31

ちょっと、言葉の遊びをしてみよう。

「だけ」という言葉は、排他的な意味をもってしまうのである。なので、排他的な意味が付け加わってしまう。 

たとえば「掃除をすること(ほかのことをするかどうかは不明)」と「掃除だけをすること」は意味的に等価ではない。

「掃除をすること(ほかのことはしない)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをすることは」は意味的に等価になる。「掃除をすること(ほかのこともする)」場合は、「掃除をすること」と「掃除だけをする」ことは、意味的に不等価になる。

しかし、掃除だけをしたとしても、幸福になるのである。「掃除をすると、幸福になる」のだから、「掃除をする」ということは「掃除だけをする」ということを含んでいる。

たとえ「掃除だけをしても、幸福になる」のである。「掃除だけをする」ということは、掃除をするという条件を満たしている。 

「掃除をすれば、幸福になる」という言い方は、掃除をすることが、幸福か不幸かを決めるのだと……暗示的に主張しているのである。

たとえば、「掃除をして、人に感謝すると幸福になる」と言っているわけではなくて「掃除をすれば、幸福になる」と言っているので、「幸福になる条件」は「掃除という行為をすることだけ」なのだ。ほかの行為をすることは、「幸福になる条件」ではなく、掃除をすることが幸福になる条件だと考えているのである。

この場合「人に感謝する」という行為は、条件の中に含まれないのである。掃除以外のことをすることも、条件に含まれていないのである。

たとえば、食事をすることは、掃除をすることではない。掃除をすることは、幸福になることと、関係があるけど、食事をすることは、掃除をするとではないので、食事をすることは、幸福とは関係がないということになってしまうのである。

しかし、通常の暮らしにおいて、「掃除をすれば幸福になる」と言った場合、ほかのことをして、さらに「掃除をすること」を想定して言っているのである。

なので、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人も、「掃除だけをすれば幸福になる」と言っているわけではないという、主観的な感覚がある。まあ、認識でもいい。

なら、「言う」ことのなかに「熱心に言うこと」が含まれているということも、「想定」の問題にしていいかというと、そうではないのだ。他分野への(意味的な)言及があるかということが重要になる。

たとえば、「掃除をすること」のなかに、たしかに、「熱心に掃除をすること」が含まれているのである。

それとおなじように、「掃除をすること」のなかには「掃除だけをすること」も、じつは、含まれている。

しかし、「掃除だけをすること」と言った場合には、ほかの分野についても、ほかの分野のことは一切合切しないということを、意味してしまうのである。

なので、集合的には、たしかに、掃除をするという集合のなかに「それだけをする」という集合が含まれているのだけど、「掃除だけをする」という言い方には、排他的な要素が含まれている。

「熱心に言う」という場合、他の分野における排他的な要素を含んでいないということと、対照的だ。「熱心に言う」という場合、おなじじ分野における排他的な要素を含んでいる。

しかし、「幸福になると言えば、幸福になる」と言った場合、「幸福になると言う」という集合のなかに「幸福になると言うだけ」という集合も含まれてしまう。しかし、「幸福になると言う」と言う場合は、特に(他分野における)排他的な要素がない。他分野のことは、関係なしに言っているのである。

ようするに、「だけ」をつけると「他分野における排他的な要素」が付け加わってしまうけど、「だけ」をつけないで言う場合は、「他分野における排他的な要素を含まない」ということになる。

「だけ」をつけないで言う場合は、「ほかの分野をしていても」「ほかの分野のことをしていなくても」関係がないのである。

ようするに、両方とも含んでいる。分野的に言って排他的ではない。だけをつけて言うと、分野的に言って排他的になる。ようするに、「だけをつけないで言う場合」は、他分野に関しては「不定」なのである。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで」と「Xだけをすれば」は、意味内容がちがう。「Xだけをすれば」のほうは、排他的な要素があり、「Xをするだけで」は、排他的な要素があるかどうかは、不明だ。

ほかのことをするのかしないのかは、特に、明確に示唆されているわけではない。

しかし、人間の生活は、Xをするだけでは、成り立たないので、「Xをするだけで、幸福になる」という文は、もともと、正しくない。「掃除をするだけで、幸福になる」……。

いや、食事をしないと、人間は生きてはいけないので、掃除だけをする生活だと、死んでしまう。幸福にならない。

そして、ほかのことをして、生活を成り立たせて、掃除をする場合は、掃除をするだけで、幸福になるという意味で使っている場合がある。

しかし、掃除をするだけでは、やはり、幸福にならない場合がある。どうしてかというと、人によって、なにに幸福を感じるかはちがうからである。生活を成り立たせたうえで、掃除をするだけで、幸福を感じる人もなかにはいるかもしれない。

しかし、ほかのことをしているということは、否定できない。ほかのことをしているのである。掃除をするだけで、生活しているわけではない。

まあ、言葉の遊びだけどね。

「Xをするだけで、幸福になる」というようなキャッチコピーを考える人もいるかもしれしれない。「Xをするだけで、幸福になるなら、Xをしてみよう」と思う人もいるかもしれない。

けど、「Xをするだけ」というのが、ほんとうに「Xをするだけ」ということを意味しているのであれば、それは、嘘だ。

あんまり書きたくないけど、排泄をしなければならない。しかも、排泄ができなくなっただけで、不幸になってしまうのである。食べたり排泄をするということをしないで、「Xだけをして」幸福になるかというと、幸福にはならない。

呼吸だってしている。

「Xだけをして」呼吸をしなければ死んでしまう。

だから、「Xをするだけで、幸福になる」という発言は、最初から嘘だ。 「Xをするだけで、幸福になる」という文は、「Xだけをすれば」という文と、意味的に等価になってしまう場合がある。不定なので、X以外のことをしている場合は、「Xだけをすれば、幸福になる」という文と「Xをするだけで、幸福になる」という文は、不等価になる。

「Xをするだけで、幸福になる」という場合、ほかのことをしているのかどうかは、不明なのである。「Xだけをすれば、幸福になる」という場合は、ほかのことはしないことになっている。

まあ、言葉の遊びだけどね。

まあ、Xをするだけで幸福感を感じるかどうかというのは、人によってちがうので、一〇〇%構文で言う場合は、嘘になる。命題として『偽』だ。

まあ、前にも指摘したけど、一時的に幸福感を感じることと、幸福な生活をすることはちがうことだ。

今回書いたことに関しては、あとで、意見をかえる可能性がある。備忘録として、残しておく。

 



毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。