よくわかっていない人に、ちょっとだけ付け足して言っておこう。
Bさんが、努力をして解決した場合、Aさんは、「努力の方向が間違っている」と決めつけ、「努力の量がたりない」と決めつけ、「熱心に努力しない」と決めつけるだろうか?
Bさんの努力が、どれだけ、小さな努力でも、解決に成功してしまったら、「努力不足だ」と言えないことになる。裏を返せば、Bさんの努力が、どれだけ大な努力でも、解決に成功していないなら、AさんはBさんに「努力不足だ」と言えることになる。
だから、努力の量のは、ここまで努力すれば成功するとか、ここまでの努力では成功しないということが、決まっていることではないのだ。
Aさんが、Bさんに「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言った時点で、Aさんが、必要な努力量を知っているわけではないのだ。
そんなことは、まったくわからずに、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という言葉が心地よいので、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」と言っているだけだ。
まあ、Aさんは、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」ということを信じているのだろう。だから、「成功しなかったなら、努力不足だ」ということにしてしまう。
なお、努力不足で説明したけど「努力の方向が間違っている」という説明についても、おなじことが成り立ってしまう。
Aさんは、知っているわけではないのだ。
ほんとうは、Bさんの努力の方向があっているかもしれないのだ。
しかし、Bさんの悪い条件が、方向があっている(Bさんの)努力をうちまかして、成功できない状態になっているのかもしれないのだ。
ところが、AさんにとってBさんの問題は、ひとごとなので、Aさんは、Bさんの条件について「軽く考えてしまう」か、あるいは、無視してしまう。
Bさんが、努力をしても、努力の量に関係なく、失敗したら「努力が不足している」「努力不足だ」とAさんに言われることが決まっているのである。Bさんが、努力といえるような努力をしていなくても、Bさんが成功したら、Aさんは「Bさんはじゅうぶんな努力をした」と評価し「努力をしたから成功した」と断定してしまう。
あらかじめ、必要な努力量が決まっているわけではないのだ。
これは、重要なことだ。Aさんが、あらかじめBさんの必要な努力量を知っていて、努力が足りなかったとか、努力がじゅうぶんだったとかと言っているわけではないのだ。
そして、これは、Aさんが勝手に言っていることだ。Bさんがどのくらい努力をしたかなんてAさんはまったく知らないのである。
別の努力論者であるCさんも、Bさんがどのくらい努力をしたかなんて知らない。
けど、Cさんも、Bさんが成功したなら、じゅうぶんに努力したと思い、Bさんが失敗したなら、Bさんの努力はじゅうぶんにではないと思うのだ。
Cさんも、Bさんに必要な努力量がどのくらいの量なのか、事前に知っているわけではない。
努力論者が、勝手に、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。
最初から、「努力をすれば、成功する」という命題が、偽なのである。最初から、「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という命題が、偽なのである。
Aさんは、「(はずした)言い訳」をしているにすぎない。しかも、「人のせい」にしている。
Bさんが、少しでも努力すれば、成功しているはずなのである。
最初から「解決するように努力すれば、解決することに成功する」という一〇〇%構文をもつ文が、間違っているのである。それを、Aさんが、正しいと思っているだけなのだ。
最初から間違っているのは、Aさんなのに、Aさんは、Bさんの努力不足だと、Bさんをせめるのだ。
どっちが、言い訳をしているのか、よく考えたほうがいい。
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ほんとうは、一〇〇%詐欺構文がまちがっているのに、一〇〇%詐欺構文に合致しない結果が出ると、対象者のせいにしてしまうのである。しかし、最初に提示された一〇〇%詐欺構文が間違っている。合致しない結果が出て当然なのである。合致しない人が出てきて、当然なのである。最初から、一〇〇%詐欺構文が間違っている。
努力論者であって、「人のせいにするな」と人に言う人たちは多い。努力論自体が、自助努力を前提にしているので、「人のせいにするな」人に言いやすい状態になるのである。しかし、(一〇〇%詐欺構文が)間違っていることに気がつかない努力論者は、デフォルトで、成功しなかった人のせいにしてしまう。