たとえば、精神世界では、「感謝感謝、すべてに感謝」というようなことが言われる。
感謝をすれば、運があがっていいことがある感謝をすれば、運があがって幸福になる?と言うようなことが言われる。
一五年間の過労でつかれている名前だけ店長が「すべてに感謝」をしても、名前だけ店長の生活は楽にはならないのである。暗くてつらい生活が続くだけなのである。
むしろ、いままで働いてきた名前だけ店長に感謝するべきだ。感謝して、名前だけ店長の言い分を聞いて、名前だけ店長が適切な時間だけ働きたいと言っているのだから、適切な時間だけ働けるようにするべきだ。
ところが、名前だけ店長がつらいのは、感謝がたりないからだということになってしまう。
だから、名前だけ店長が、感謝をすれば……つらい生活がおわり……幸福になると言うのである。こんなの、ない。
たとえば、 名前だけ店長の部屋がきたなかったとする。
そりゃ、風呂に入る時間もおしいぐらいの忙しさで、毎日暮らしている。
土曜日持ちに曜日も、一日に二時間、三時間しか眠れないような状態だ。
そうしたら、部屋の掃除ができなくなるのは、あたりまえだ。
ところが、「きれいさが不足している」と言うのである。
なので、名前だけ店長にも「掃除をすれば、運があがって、しあわせに暮らせる」と言ってしまう。
名前だけ店長が、どれだけ忙しい日々をすごしているのかということを、聞いたあとでも、こうなのである。
名前だけ店長は、店の掃除を毎日欠かさずしていた。掃除をすることが不足しているから、不幸なのではないのだ。残業以外の労働と、残業部分の労働がくるしいから不幸なのだ。
睡眠時間が短いから、体調が悪く、顔色が悪く、憂鬱な顔をして暮らしている。
しかも、営業時間は無理やり笑顔をつくっているのである。
それなのに、そういうことでつかれているということを、無視して、「掃除をしていない」と「不足」を指摘して、「不足」をおぎなえば、しあわせになれるというのだ。こんなの、ない。
「靴をきれいにすれば、運があがって、幸福になる」ということについても言っておく。眠ったあと、二時間もしたら、次の出勤の用意をしなければならないという状態で毎日暮らしているのに、そりゃないよ。
そりゃ、靴ぐらいよごれて当然だ。靴を買いにいく余裕なんてないし、靴を磨く余裕なんてない。
けど、「靴をきれいに磨けばしあわせになれる」と言うのだ。
名前だけ店長が、朝のカツカツの時間を利用して、靴を磨くようにすると、それだけ、名前だけ店長の負担が増えるのである。よけいに、顔色が悪くなるのである。
しかし、「顔色が悪い人のところは、しあわせはやってこない」と言ったりする。「きれいではない靴を履いている人ところには、不幸がやってくる」と言ったりする。
すべてが、なんらかの「不足」に注目した発言なのである。
ところが、睡眠不足には、触れないのだ。残業でこまっているということにも触れないのだ。
名前だけ店長が、ちょっとでも「こういう状態でくるしい」ということを言えば、こいつらは「そんなのは、あまえだ」とか「そんなのは関係がない」とかと言う。
もし、「寝不足で、靴を磨く余裕なんてありません」と名前だけ店長が言えば、「そんなのは、言い訳だ」と(この人たちは)言うのである。
「睡眠不足にこだわるからダメなんだ」「睡眠不足を気にするからダメなんだ」と……この人たちは『ダメ出し』をするのである。
この人たちは、名前だけ店長がこまっている、ほんとうの理由を無視して、いろいろな不足を指摘して、不足を補えば、しあわせになるということを言う。
けど、名前だけ店長は、労働時間が長すぎるから、不幸だと感じる生活をしているだけなのだ。本当の理由は、長すぎる労働時間だ。
これを無視して、『こころがけの問題』にしてしまうのである。こんなの、ない。
しかも、「あれが不足している」「これが不足している」と言っているほうは、ほんとうに、いい助言をしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。
「あれをやれば運があがって、しあわせになる」「これをやれば運があがって問題が解決する」と言っているほうは、ほんとうに親切にしてやっているつもりなのだ。こんなの、ない。
* * *
感謝をすることは、いいことだけど、感謝をすることで「すべての問題」が解決するわけではないのだ。状態や構造がある。めちゃくちゃにひどい家族に、やられ続けているときは、その状態から抜け出さないと、どれだけほかの人に感謝をしても、いい状態にならない。
問題なのは、感謝をすることではない。問題なのは「感謝をすれば、すべての問題が解決する」というようなことを言うことだ。わざと、すべての問題という表現を使ったけど、文脈によれば、相手の問題は、感謝をすることで解決するということになってしまうのである。
どうしてかというと、「運があがる」ことによって問題が解決するからだ。とくに、すべての問題と言われたり、書かれたりしていなくても、けっきょくは、「相手の問題が、感謝をすることによって、解決する」という意味になる。
きちがい的な家族が、毎日、よその人がやらないようなひどい行為をするという場合は、ただでも、ほかの人から、誤解を受けやすい状態になるのである。きちがい家族にやられている人にとっては、「感謝をすれば、運があがって、しあわせになる」というような言葉ですら、凶器になる。
きちがい兄貴の騒音なら、騒音で、騒音問題が解決しないと、しあわせではないのである。
そして、「すべての場合において」「感謝をすることは、有効だ」という意識がある人の発言は、やはり、特殊な家族にやられている人の気持ちを傷つけるのである。
これも、ずっと言っていることなのだけど、感謝をすれば、問題が解決するとする。感謝をすると、運があがって、問題が解決するでもいい。そうなると、問題を抱えている人は、逆に言えば、感謝をしないからダメなのだということになってしまうのだ。
そういう見なし方をしているということになるに。 悪意なく「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、不幸な人や問題を抱えている人が「感謝をしない人だ」と見なしているということになる。
その感謝をしない人が、感謝をするようにすれば、感謝をしない人が抱えている問題は、解決するということを言っているのである。そういうことに、自動的になって、しまうのである。こういうことに、こだわる人は、少ない。
「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」と言っている人は、問題を抱えている人は、感謝をしない人だと「明言している」わけではない。ただ単に、軽い気持ちで、自分の考えを表現しているだけだ。
実際に、感謝をしたときに、自分だけではなくて、相手もいい気持ちになるのだから、感謝することは重要だと思うだろう。
たしかに、重要だ。
しかし、そういう効果を打ち消すような、毒家族がいるのである。
いっぱい、いっぱいになって暮らすしかない人たちがいるののである。
毒家族に、毎日毎日、(ほかの人がやられないようなことをされて)……いっぱい、いっぱい、精いっぱいの努力をしても、くるしいだけの状態になってしまう人がいる。
そういう人にとって、「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は、『毒』なのである。
感謝をすると、運があがって、きちがい家族がもたらす問題も、解決しそうな雰囲気するのだけど、雰囲気だけで、実際には、きちがい家族と離れて暮らさないと、問題が解決しないのである。きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。
どれだけ、きちがい家族にやられている側の人が、いろいろな人に感謝しても、きちがい家族がかわってくれるということは、ほとんどの場合ない。
「感謝をすると、運があがって、問題が解決する」という(一見よさそうな)お気楽な言葉は……きちがい家族にやられている側の人を……どこまでも、どこまでも、おいつめる『呪いの言葉』になる。