「ヘビメタ」というのが、なにか、わらいを誘うようなところがある。そして、ヘビメタが好きな人は、割と多い。そして、ヘビメタを聴きたくない人は、めったにヘビメタを聴かなくてすむ状態で、一生、暮らしている。きちがい家族が夢中になって、きちがい感覚で鳴らし続けてしまうということを、経験した人は少ない。非常に少ない。そして、みんな、なんらかの「たいへんな思い」をしている。たしかに、「自分だってくるしい思いをした」と言う人は、くるしい思いをしたと思う。けど、「自分だってくるしい思いをした」ということは、ヘビメタ騒音を無視していいという理由にはならないのである。「自分だってくるしい思いをした」ということは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価していいという理由にはならないのである。この人たちは、けっきょく、自分の家族によって……自分のかわった家族によって、ぼくと同等の騒音を経験させられたことがない。きちがい兄貴は、かわっている。よその人に話しても、わからないのである。それは、よその人に、親父のことを話しても、わからないのとおなじだ。よその人の家族とは、ぜんぜんちがうのである。そして、わかりにくいところで、ズレているのである。このズレも、よその人は、ごく自然に無視してしまう。「自分の常識」の範囲内で「家族」というものについて考えてしまう。「自分の常識」の範囲内で「人間」というものについて考えてしまう。きちがい兄貴ときちがい親父はこの人たちの「常識の範囲内」の人間ではない。ぜんぜん、ちがう。
近所の環境を含めて、きちがい兄貴が、あの音で鳴らそうと思ったら、鳴らせた状態だったということが、でかいのである。これも、盲点なんだよな。よそのうちで、どの程度、きちがいヘビメタが聞こえていたのかわからないけど、普通の人だったら、もっと、もっと、文句を言ってきていい騒音だ。騒音耐性が強い人や、うちに文句を言いにくい人たち?(できれば、騒音のことで、親父に文句を言いたくない人たち)がいたのである。おかあさんが、超がつくほど、内向的な人で、普通の人ではないのである。これも、よその人たちにとって、盲点なんだよな。ともかく、近所の環境を含めて、きわめて特殊だったのである。庭とか、道路とか、幼稚園で、距離があった。ほかのうちは、きちがい兄貴の部屋から、距離があったということだ。
きちがい兄貴が、きちがい親父のように、きちがいなのである。どれだけなにを言っても、弟が自分の騒音でこまっているということを、認めないのである。認識しない。どれだけなにを言っても、きちがい親父のようにはねのけてしまう。しかも、きちがい親父とおなじように、悪意がないのである。全力で……はねのけて、なかったことにしてしまう。こだわって、こだわって、こだわりの音で、全部の時間を使って、一秒も譲らないで鳴らしているのだけど、本人は「まったく鳴らしたつもりがない」と思っているのとおなじ状態が成り立っているのである。入学試験前日でも、まったく気にしないで、自分が満足できる音で、一秒も譲らないで鳴らしてしまうのである。けど、それで、ぼくの入試を邪魔したつもりがないんだよ。これは、言われないからわからないのではなくて、一週間前から、何十回、何百回言われても、わからないのだよ。こういうところで、きちがい兄貴は、きちがい親父そっくりで、普通の人ではないのである。だから、そうなると、普通の人が、誤解をするようになるのである。