相手が(相手の)条件について、何事かを言ったら、「そんなのは、言い訳だ」と言い返せばよいのである。
もう、最初から決まっている。
相手がなにを言おうが「そんなのは、言い訳だ」と決めつけることにしているのだ。
たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが、いろいろな不利な条件を抱えていたとする。
Bさんが自己責任論者だとする。Bさんにとっては「相手」の身の上に起きたことは、すべて、「相手」の責任なので、相手がなにを言っても「そんなのは言い訳だ」と言い切ることができる。
ひとつずつ、Aさんが言っていることを吟味して、「これは、Aさんの責任だが、これは、Aさんの責任ではない」と考えているわけではないのだ。
ともかく、最初から、すべてはBさんの責任だということが、決まっている。
* * *
Bさんが自己責任論者だと、そうなるのだけど、Bさんが、言霊主義者でも、思霊主義者でも、引き寄せ論者でも、努力論者でも、「そんなのは、言い訳だ」と決めつけることができるのである。
こんなに、便利な言葉はない。
しかも、本気で、言っているのである。
自分が相手をおいつめるために、わざと、「そんなのは言い訳だ」と言っているつもりがないのである。
本来なら……言い訳であることと、言い訳ではないことの、区別をしなければならない。
ひとつずつ、条件について考えなければならないのである。
不可避的なことに関しては、不可避的なことだということを認めなければならないのである。
しかし、サブルーチンやサブ・サブルーチンのなかで「そんなのは、言い訳だ」という言葉が出てくるときには、相手がなにを言っても、「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことが、決まっているから「そんなのは、言い訳だ」と言っているところがある。
『サブルーチンや、サブ・サブルーチン』というのは、言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、努力論のなかの、『サブルーチンやサブ・サブルーチン』のことを意味する。
相手がなにかを言ってきたら、「そんなのは言い訳だ」と言い返せばいいということが、決まっているのである。
最初から決まっている。
これは、悪質なことなのだけど、ほとんどの人が、普通にやっていることだ。
『洗脳の結果だ』と思う。
別に、マニュアルに書いてあるわけではない。けど、慣習として受け継がれていくのだ。ちゃんと、日常生活の中に、お手本があり、学習していく。
いろいろなメディアのなかで、「なんらかの条件について言及すること」がみっともないことだということになっている。「(自分の)不利な条件について、語る人」は、みっともない人なのである。
だから、「そんなのは、言い訳だ」と言い切ることで、相手をやっつけたような快感が生まれる。こういう、快感の奴隷なのだ。『サブルーチンやサブ・サブルーチン』のなかで「そんなのは言い訳だ」と言い切ることは、『報酬』になっている。
ほんとうは、道徳的なことじゃない。
何度も言うけど、個別具体的なことについて、個別具体的に考えなければならないのだ。個別の出来事について「これは、言い訳だけど、あれはいいわけではない」ということを考えなければならないのだ。
自分のことは、認知とメタ認知が成り立っているから、普段の思考のなかでは「いいわけではない」ということになっているのだ。
ようするに、他人対する基準と、自分に対する基準がちがう。そして、問題なのは、まったく無頓着なことだ。言霊主義者が、普段、言霊を気にしないで、言霊に頼らずに、現実的な出来事に対処しているのに、言霊主義者にはその自覚がないということが問題だと……以前指摘したことがある。
それとおなじように「そんなのは、言い訳だ」と(具体的な事柄について考えないで)他人に言う人は 、自分が、普段、『できない理由』を考えて、暮らしているということについて、無頓着だ。認識していない。
自分のことであれば「こういう条件だからできない」ということになっていて、それが、言い訳だとは思わないのだ。他人のことであれば、「すべてが言い訳」なのだ。
別に、(他人の身に起こった)個別具体的になことについて考えているわけではないのだ。こういう人たちが多い。多すぎる。
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こういう行為が、悪い行為だと思わないのである。
相手が、「そんなのは、言い訳だ」と言われて、どんな気持ちになるのかは、まったく考えないのである。自動的に「そんなのは、言い訳だ」と言い返して、ほんとうに、相手が言い訳をしているだけなんだと思い込んでいるのである。
こんな人たちが「人に親切にしましょう」なんて言っても、ぼくは『どの口で言っているんだ』と思うね。