2026年6月11日木曜日

●「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ■※2026/06/10 13:59

「人に親切にすること」と「人に親切にすれば幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。

たとえば、ある人がいるとする。その人が不幸だとする。不幸感がある生活をしているとする。

その場合、不幸感を生み出すような出来事が消失しなければ、幸福になったような感じがしないのである。幸福ではないのである。

「人に親切にすれば幸福になる」ということは、不幸をもたらす出来事が消失することを、意味しているのである。

とりあえず、不幸をもたらす出来事が消失することを、不幸だと感じするすべての問題が解決することだとする。

そうすると、人に親切にしただけで、不幸だと感じるすべての問題が解決してしまうことになるのである。

ところが、実際にはそんなことはないのである。「不幸だと感じるすべての問題」が、だれかほかの人に、一度でも親切にしただけで、解決してしまうなんてことはないのだ。

親切にするかどうかというのも、二値だ。まず、人に親切にすることが、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果があるのかどうかということを考えると、人に親切にすることには、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果がないということがわかる。

*     *     * 

ところで、ここでいろいろと書いてきたように、だれかAがだれかBに親切にしたつもりでも、Bが、たしかにAから親切にしてもらったと思わなければ、AはBに親切にしたことにならないのである。

だれかの頭のなかに、人に親切にする行為のイメージがあるとする。それを、とりあえず、その人にとっての親切行為だとする。この親切行為をすれば、かならず、人に親切にしたことになるかというと、そうではないのである。

いつでも、親切行為として成り立つ、理想的な親切行為があるような前提でものを言っているけど、ほんとうは、ちがうのである。

絶対に人に親切にしたことになる「親切行為」なんてものは、この世に存在しない。

ところが、「人に親切にするつもりで、なんらかの行為をすれば、それは、人に親切にしたことになる」という前提が……「人に親切にすれば幸福になる」という言い方には……ある。だからもう、その時点で、話が現実的ではないのだ。

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そして、「人に親切にすれば幸福になる」と言ってしまった場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だというとになってしまうのである。

一度も、人に親切にしたことがないので、不幸なのだ。そういう人が、幸福になるには、人に親切にすればよいのだということになってしまう。

「人に親切にすれば幸福になる」というライフハックを口(くち)にしている人は……そういう話をしているつもりはないかもしれないけど、そうなるのである。 

ともかく、人に親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決してしまうわけではないので、人に親切にしても、幸福ではない場合がある。一回だけではなくて、何回も何回も人に親切にすればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。

しかし、何回も何回も人に親切にしても、不幸である場合がある。回数を増やすことでは、このことは、かわらない。

つまり、人に何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決しなければ、幸福にならないという性質は、かわらない。

「人に親切にすれば、運があがって幸福になる」と言う場合もおなじだ。「運があがった」ことで、不幸感をもたらす問題が解決しなければならないのである。

しかし、不幸感をもたらす問題が、「運がないと感じる状態」をつくっているのである。だいたい、人に親切にすれば、運があがるということが、正しいこととして語られているけど、人に親切にしても、運があがるかどうかは、わからない。

そして、運というのは、現実の写し絵なのだ。実際に、不幸な生活をしていれば、運がない状態で暮らしているということになる。親切にするというトリガーをひけば、自動的に、運があがるということになっているのだけど、それは、たしかなことではない。

実生活のなかでは、現実的な問題でくるしんでいる人が、たとえ、人に親切にしても、運があがらない場合がある。どうしてかというと、現実的な問題でくるしんでいる人が、人に親切にしても、その人をくるしめている現実的な問題が解決しないからだ。

たとえば、家族のヘビメタ騒音で悩んでいる人が……だれかに親切にしても、家族のヘビメタ騒音がかわらなければ、ずっと、その人は、幸福ではない状態で暮らすということになる。

だれかに親切にしたあとも、幸福ではない状態で暮らしているのだから、「運があがった」とは言えない。たとえば、家族のヘビメタ騒音にくるしんでいる人が、だれか、ほかの人に親切にしたら、きちがい家族が、ヘビメタをやめてくれるのであればいいのだけど、実際には、そうならない。

人に親切にしたから、それを神様が見ていて、その人の家族に働きかけて、ヘビメタ騒音をやめさせてくれるというのであれば、それでよいのだけど、それは、現実的な話ではない。

ところが、「運があがって」という表現がある文に関しては、たいていの場合、神様や神様に相当する存在が、不幸をもたらす問題を消去してくれるという期待があるのだ。

これは、単なる期待だ。

単なる期待なのに、単なる期待だとは認識されていないのだ。単なる期待なのに、単なる期待であるようには表現されていないのだ。

たとえば、「人に親切にすれば運があがる」という文も一〇〇%構文の文なのだ。すべての……「人に親切にする」ということにおいて、人に親切にすれば、一〇〇%の確率で運があがるのである。この「運があがる」ということが、また、問題なんだよなぁ。

その問題を考慮しなくても、一〇〇%構文で言ってしまうということには問題がある。

「人に親切にすると運があがって幸福になる」という文に出てくる「人に親切にすると運があがって」という部分が「人に親切にすれば運があがる」という文の意味内容を含有しているかというと、含有している。

「人に親切にすると運があがって」という部分が意味していることは、「人に親切にすれば運があがる」という文が意味していることを前提にしている。「人に親切にすれば運があがる」という前提がなければ、「人に親切にすると運があがって」とは言えない。

「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ。

「あがって」のあとに、なにかが語られる形式になっているけど、この形式を無視すれば、一度「人に親切にすれば運があがる」ということを、言い切っているということになる。

「人に親切にすれば、運があがる」という文は「Xをすれば、Yになる」という構造をもっている。「あがる」だから「なる」ではないのだけど、「あがる状態になる」ということにしておこうかな。

まあ、「Xをすれば、運があがる」ということにしておこう。「人に親切にする」以外にも、「掃除をすれば、あがる」とか「感謝をすれば、あがる」とか「パワースポットに行けば、運があがる」とか「おまいりすれば、運があがる」とか「なになに色の財布を使うと、運があがる」とか「こういう置物を玄関に置くと、運があがる」とかと、いろいろとある。

「運があがる」と言い切っているけど、「運」なるものが「現実の写し絵」であり、「空想上のもの」なので、はっきりしないのだ。

これは、勝手に言い切っているだけだ。本人が、そういうふうに思っているということを言っているにすぎない。しかし、一〇〇%構文の文なのである。

これは、やばい。法則性がありそうな一〇〇%構文の文だ。

この一〇〇%構文の文というのは、「自分の場合、運があがったよ」ということを意味する文ではないのだ。

あるいは「運があることがある」ということを意味する文でもないのだ。

すべてのXをすることにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがるということを意味している。

ようするに、「Xをすれば、運があがる」という文は、「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」のである。あがらないことはないのである。

何回もやらないとあがらないということもないのである。一回でもやれば、かならず、運があがるのである。

どれだけ、へたくそなやり方でやっても、かならず、運があがるのである。その行為をやったのに、運があがらなということはないのである。

次に「運があがれば、幸福になる」という文について考えることにする。

この文も一〇〇%構文の文なのである。「運があがれば、幸福になることがある」ということを言っているわけではないのだ。「運があがれば、一〇〇%の確率で幸福になる」のである。

「運があがったのに、不幸だ」ということは、ないのでる。運があがれば、かならず、幸福になるのである。運があがったのに、不幸なことが起こるということはないのである。

かならず、幸福になって、そのあとも、幸福になったまま、すごせるのである。

だって、運があがれば一日目は、幸福になるけど、二日目には不幸になるということになっているのであれば、「幸福になる」とは言えない。イメージとしては、効き目は、永遠なのである。イメージとしては、幸福になったままなのである。イメージとしては、そのあと、不幸にならないのである。

イメージとしては、不幸になることはないのである。

……まあ、イメージの問題なんだけどね。

幸福になったあと、効き目が切れて、不幸になる場合があるということは、想定されていることなのだろうかね?

それとも、想定されていないのかな?

どっちかな。

まぁ、効き目の持続期間のことは、問題にしないことにしよう。

「幸福になる」と言っているだけで、そのあと、不幸になるかもしれないけど、一時的には幸福になるのだから、「幸福になる」という表現で問題がない……と考えることもできる。

しかし、一時的に、一度は、一〇〇%の確率で幸福になるのである。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文は、「Xをすれば、運があがる」という一〇〇%構文の文と、「運があがれば、Yの状態になる」という一〇〇%構文の文を、組み合わせた文になる。

ふたつとも、一〇〇%構文の文だ。

「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」し「運があがれば、一〇〇%確率でYの状態になる」のだ。「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文の意味は、そういう意味になる。

だから、この場合も、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を無視しているということになる。

言霊主義者が、『区別』に書いたことを理解していないのとおなじだ。

「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」と言っている人は、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を理解していない。区別をあいまいにして、ひとつの文に、ちがった意味を込めて使っている。

言っているほうも、聴いているほうも、区別をしないのだ。

これじゃあ、話にならない。

「Xをすれば、運があがることだってある」という意味で、「Xをすれば、運があがって、幸福になる」と言っている人は、その時点で、間違いをおかしている。

間違いなんだけど、本人は気がつかない。

2026年6月10日水曜日

●言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである■言霊※2026/06/05 4:25

たとえば、Aさんがいたとする。Aさんが「おっぺけぺ」と言ったあと、かならず、よいことが起こるということを経験したとしよう。

その場合、「おっぺけぺと言うこと」と「よいことが起こる」ということは、関係性のあることになる。

時間的に、「おっぺけぺと言うこと」ことが先で、「よいことが起こる」ということが、あとだ。Aさんは「おっぺけぺ」と言ったあと、比較的短い時間のなかで、結果を得ることができた。

はたして、「おっぺけぺ」と言ったということが、その結果を引き寄せたのか、「おっぺけぺ」と言ったということと、結果はまったく関係がないのか、それは、わからない。

たぶん、「おっぺけぺ」と言ったということは、結果を引き寄せたということと、まったく関係がないと思う。

しかし、「おっぺけぺ」と言うことで、いいことが起こるということを信じた結果、Aさんが、実際の行動をすることができたなら、おっぺけぺと言うことは、Aさんにとっては、意味があったことなのだと思う。

しかし、これは、言霊の力ではない。

これは、「おっぺけぺ」の「言葉の力」だ。

自己暗示がいい影響を与える場合は、言霊の力がいい影響を与えたのではなくて、言葉の力がいい影響を与えただけだ。言霊主義者は、このことを、誤解してしまう。

言霊の力ではなくて、言葉の力なのだ。

このことは、個人の範囲において、言葉が、いい影響を与えることがあるということを意味しているだけだ。

前にも書いたけど、この言葉の力で、物理法則をくつがえすことはできない。

言霊の力は、物理法則も(言うだけで)くつがえすことができる力として想定されている。

想定されているだけで、もちろん、言霊なんてないし、言霊の力で、物理法則をくつがえすことはできない。言霊主義者は、言葉の力があるということを示す例をあげて……「だから、言霊の力はある」ということを言う。

ようするに、言霊の力と、言葉の力の区別ができていないのだ。

自分が「元気だ元気だ」と言ったら、元気になったような気がしたとする。これも、言霊主義者によれば、言霊の力によって元気になったということになっているのだけど、これは、言霊の力ではなくて、言葉の力によって元気になったような気がしたということを意味している。

このような場合、身体の機能をこえて、言葉が体に影響を与えることがないのだ。

たとえば、「三秒以内に、月が爆発する」と言ったとする。言霊理論に従えば、「三秒以内に、月が爆発する」という言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」のだ。

ところが、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というのは、自分の身体のなかで起こることなのである。

そして、瀕死の重傷のとき、「元気だ元気だ」と言えば、すぐに、元気になるわけではない。瀕死の重傷のときだけではなくて、睡眠不足でものすごくつかれている場合も、「元気だ元気だと言っても、元気になるわけではない。

ところが、自分が……「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という例から、「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化するという言霊理論は正しい」という結論を導き出した人がいたとする。

言葉の力を示す例から、言霊の力があるという判断をしたのだ。

この判断は間違っている。

「元気だ元気だと言ったら、元気になった」ということから、「言霊理論は正しい」と判断することはできない。

それだと、「三秒以内に、月が爆発する」と言えば、「三秒以内に、月が爆発する」いう言葉に宿っている言霊の力によって、「三秒以内に、月が爆発する」はずだ。

ところが、爆発しないのである。

これは、言霊主義者が、言霊と言葉の意味を区別していないという特徴から発生することだ。

本人が、言葉の意味をよく理解していないのである。

そして、推論が間違っているのである。

残念ながら、間違った飛躍がある。

言霊理論において、「言う内容」に関しては、いかなる制限もないのである。ほんとうは、元気になることや?元気になったと思うことに関しても、言霊の力ではなくて、言葉の力が影響しているだけなのだけど、ここでは、話をすすめるために、いちおう、言霊の力で元気になったとする。

たとえば、Aさんが、言霊主義者で、Aさんが「元気だ元気だと言ったら、元気になった」とする。この場合、Aさんがその言語を理解している人間だという条件や、Aさんの体が、普通の人間の体として成り立っているという条件が、ある。

だから、条件付きの話なのだ。条件付きの「例」なのだ。ところが、「言えば、言ったことが(言霊の力によって)現実化する」という場合は、一〇〇%構文になり、条件に関係なく、どんな場合でも、言ったことが……(言霊の力によって)現実化するということになる。

実際のAさんの例では、Aさんの身体や、Aさんの言語能力という制限があるのである。

これらが、見ない条件として、成り立っているのである。見えないというよりも、言霊主義者が、無視する条件として成り立っているのである。

言ったことの内容は、じつは、制限を受けるのである。

制限を受けるのだけど、制限を受けないと思い込んでいるのである。「言えば言ったことが、現実化する」という理論を信じている人は、制限を、無視してしまう。制限について考えることができない状態になっている。

ほんとうは、Aさんが人間だという条件があり、Aさんが日本語を理解する能力があるという条件があり、Aさんの体は、普通の体であり、ある程度のストレス対応力があるという条件がある。

こういう条件を無視して、すべての条件で成り立つことを言ってしまうのこと自体が、間違いなのだ。条件付きの例から、条件なしの法則性があるような文を導き出してしまうということ自体が、間違いなのだ。

これ、覚えておいたほうがいいよ。

*     *     *

元気だと言ったら、元気になった感じがしたとする。元気になった感じがしたので、ある行動をすることができたとする。言霊主義者は、このような例をあげて……「だから、言霊理論は正しい」と考えしまう。けど、いろいろなところで間違っている。

まず、元気だと言ったら元気になったと(本人が)感じたのは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。そして、「言えば言ったことが現実化する」というのは、一〇〇%構文の文なんだよ。だから、すべての言った内容が、一〇〇%の確率で現実化するということになる。

ところが、元気だと言っても、元気にならないことがあるのである。

だから、その点でもちがう。

そして、「言えば言ったことが現実化する」という表現は「言う内容」に関して、制限を受けない表現になっている。これだと、物理法則に反したことでも、現実化するということになってしまうのである。

どうしてかというと、物理法則に反したことも、言えるからだ。言った内容が、物理法則に反したことであったとしても、言ったのだから、現実化するということになる。

「言えば、言ったことが、現実化する」という文は一〇〇%構文の文なので、そうなるのである。これは、完全に理論的な問題で、感情的な問題じゃないんだよ。

そして、元気だと言ったら、元気になった感じがしたので、ある行動をとることができたということに関しても、いつも、元気だと言えば、元気な感じがして、その「ある行動」をとることができるのかというとそうではないのだ。

言霊主義者は無視しているけど、本人の体調で「元気だ」と言っても、元気にならず、その「ある行動」をとれないときがあるはずなのだ。

言霊主義者は無視しているけど、いつも、「元気だ」ということで、そのあと、すぐに「ある行動」ができるとは限らない。

けど、「元気だ」と言えば、いつも、一〇〇%の確率で、そのある行動ができると思っているのである。

関連性ということを考えると、「元気だ」と言ったことによって、ある行動をすることができたのだから、「元気だ」と言ったことは、ある行動をすることができるようになることに影響を与えたということができる。

しかし、それは、それだけなのだ。

そのとき、そうだったということだけだ。

一〇〇%構文で、法則化できるような出来事ではないのだ。

こういうことを問題にしなくても、「元気だ」ということで、元気になったような気がしたというのは、言葉に関係した作用であって、言霊に関係した作用ではない。

なんで、これがわからないのか? 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。