自己責任論についてちょっとだけ言っておく。
自己責任論というのは、ほんらい責任を問うべき人の責任を問わない理論なのである。
たとえば、政治家が悪い政策をしたとする。その場合、その政治家の責任だということになる。
ところが、自己責任論になると、悪い政策の被害を受けた人の責任だということになってしまうのである。どうしてかというと、悪い政策の被害者は、その政治家が悪い政策をするとき、反対しなかったから、自己責任だということになるからだ。
そして、「なんでも、自分の身に起こったことは、自分の責任だ」ということになるので、悪い政策の被害を受けた人たちの責任だということになってしまうのである。
そうなると、「ほんとうは、責任がある人」をせめずに、「ほんとうは、責任がなく、被害を受けた人」をせめるということになってしまうのである。
この特徴は、いろいろなところであてはまる。
言霊の「できると言えばできる」ということも、これとおなじことが成り立っている。
それらの言葉は、社会のしくみのなかで機能しているわけだから、言ったもの勝ちだということになってしまう。
「すべては自己責任」とか「できると言えばできる」という言葉は、社会のなかで機能しているのである。
だから、運用の問題が発生する。
ところが、「正しそうなら、正しい」と確信してしまう人たちが出てくる。
この人たちは、悪い政治家の責任は問わずに、悪い政治家がやったことによって被害を受けた人たちの責任を問うということになってしまうのである。
しかし、自己責任論を信じている人たちは……つまり、自己責任論で洗脳されている人たちは……「自分がいいことをしている」「自分が言っていることは正しい」と思ってしまうのである。
ほんとうは、責任がない人たちの責任を問い、ほんとうは、責任がある人の責任を問わず……ほんとうは責任がある人の側に立ち、責任がある人をかばっているにもかかわらず、「自分が正しいことをしている」と思ってしまうのである。
これが、社会における自己責任論のほんとうの存在理由だ。
逆算して、こういう『社会的な雰囲気』をつくるために、自己責任論をはやらせたのだ。
しかし、「ほんとうは、責任がない人たちの責任を問いましょう」「ほんとうは、責任がない人たちに責任をおしつけましょう」「ほんとうは、責任がある人の責任を問わずに、責任がある人のことをかばいましょう」とは、言わない。
そんなことを言っても、「これは正しい」と思う人は少ないからだ。
だから、アンガーコントロール論としての、自分を対象とした自己責任論を、まずは、はやらせるのである。
これだと、『これは正しい』と思う人たちが、出てくるからだ。多くの人が、自分を対象とした、アンガーコントロール論としての、自己責任論は正しいと感じてしまうのである。
しかし、一度、自己責任論を受け入れた人たちの多くがが、他人を対象とした自己責任論を語りだすのである。どうしてかというと、自分を対象とした自己責任論限定で、自己責任論が正しいとは、思えない傾向があるからだ。
自己責任論は『論』として正しいと思ってしまうのである。だから、他人を対象とした自己責任論も正しい理論だということになってしまう。ここで、抽象的なジャンプをおこなっているのである。
対象が、拡張してしまう。
「宇宙を貫く絶対法則」ではないにしろ、『これは正しい』と思った人は、他人を対象とした自己責任論を語るようになるのである。
なぜかというと、『これは正しい』と思っているからだ。
なので、冒頭に戻ると、「悪い政治家」の責任は、なぜか追及されず、悪い政策の被害者が、責任を追及されるということになってしまうのである。
そして、責任を追及するほうも、一般人だという「いやらしさ」がある。
一般人が、被害者である一般人の責任を追及し始める。これは、やばいだろ。
数で言えば、一般人のほうが、圧倒的に多いのである。
少数の「悪い政治家」ではなくて、多数の「一般人」が、批判の対象になるのである。
多数の一般人が、多数の一般人の「責任」を追及し始める。
しかも、えん罪なのだ。
この場合、悪い政治家のほうが悪いわけだから「悪い政治家の責任」を追及するべきなのに、悪い政策の「被害者の責任」を追及し始めるということになってしまうのだから、えん罪だ。一般人のなかで、「被害者」のほうに責任がなすりつけられているのである。
他人を対象とした自己責任論者は、一括思考をして、被害者のほうの責任だと決めつけ、被害者のほうの責任を追及し始めるのである。
たとえば、実際に一般人のなかに、その人の責任で、うまくいかないことが発生したということがあるとする。
けど、それは、個別に考えるべきことなのである。
ようするに、一括思考はよくない。
これ、一括思考をしているのだ。
たとえば、無職のなかには、たしかに、その人の責任で無職になったという人もいる。けど、その人の責任ではなく、いたしかたがない理由で無職になった人もるのだ。無職のなかには、とりあえず、この二種類がいるとする。
無職というレベルでラベリングをすると、無職は無職なので、いたしかたがない理由で無職になった人も、その人の責任で無職になったという人も、おなじだということになる。一括思考で、おなじような存在だとみなして、「無職になったのは、自己責任だ」と決めつけてしまうのである。
しかし、その人の責任で無職になったという人といたしかたがない理由で無職になった人は、ちがうのである。たとえば、ニートのなかには悪い人もいる。
だから、ニートは全員悪い人なのかというと、それは、ちがうのである。ところが、一括思考をしてラベリングをしてしまう人は、「ニートのなかに、悪い人がいるのだから、ニートは悪いやつらだ」と一括思考をしてしまうのである。
たしかに、被害者のなかにも悪い人がいるのだけど、それは、被害者が悪い人だということをいしていないのである。悪い政策の被害者のなかには、たしかに、「本人」に問題がある人もる。「本人」の行動によって、悪い状態が生じたということもあるだろう。しかし、そういう「本人」が、ひとりいるからと言って、「本人」全員に問題があるとは言えないのだ。
本人に問題がない場合も、被害を受けることがある。
ラベリングをして、一括思考をすると、個別性が失われるのである。
そして、自己責任論の場合、他者を対象とした自己責任論になるので、「他者全体」というレベルのラベリングがおこなわれることになる。
どこでおこなわれるかというと、一般人のなかにいる自己責任論者の頭のなかでおこなわれるのである。
一般人なのだよ。
多数の一般人なのだよ。
多数の一般人は、まず、アンガーコントロール論としての「自分を対象とした自己責任論」を正しい理論だと認識する。しかし、この人たちの頭のなかで、他人を対象とした自己責任論が付け加わるのである。
どうしてかというと、「抽象的に正しい理論だ」と思っているからだ。
抽象的なレベルで、「一括化」が発生する。自分を対象とした自己責任論は、「人(ひと)」というレベルで抽象されてしまうのである。
そうなると、「一〇〇%構文」が、「人(ひと)」というレベルで成り立ってしまう。