たとえば、Aさんのような人が一万人一人いるとする。
そして、Bさんのような人が一万人に九九九九人いるとする。そういう場合でも、九九九九人は、「貧しいから、努力をしても成功できない」と言うことが、できなくなってしまうのである。
こういう封殺する力がある。
しかし、それは、間違いによってつくりだされた幻想だ。
これ、集合的一括思考は、間違っている。理論的じゃない。理論的に間違っている。
しかし、たとえば、Cさんという人が、集合的一括思考をしがちな人だと、Cさんに、集合的一括思考が間違っているということを説明しても、Cさんは、納得しないだろう。
Cさんの理解力のほうが、問題なのだ。
たとえば、集合的一括思考は間違っているということを、説明する人がDさんだとする。Dさんの説明が正しくても、Cさんが理解しないのであれば、Dさんは、うまく説明することができなかったということになってしまうのである。
そして、Cさんが、自分が正しいと思っていることを否定されると腹が立つ人だと、Cさんは、腹を立ててしまう。Cさんが正しいと思ってやっている集合的一括思考が間違っているという話をされるわけだから、Cさんとしては、不愉快な気持ちになるのである。
たとえば、Cさんが、人には「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人でも、Cさんは、そのとき、Dさんの意見に合わせて、受け止め方をかえる確率が、非常に小さい。
もう、こういうことのほうが、法則性があるのではないかと思えるほどなのだけど、例外はいるので、いちおう、法則性があるようなことは言わないでおこう。人には「受け止め方をかえればいい」という人が、自分の受け止め方をかえればいいと思うかどうかというと、かなりあやしいのだ。
自分が正しいと思っていることを、否定されると、腹が立つという反応が自然に起こる。……そうなる確率が非常に高い。
そして、たとえば、Cさんが、すべては自己責任だと思って生きているとしよう。その場合、もちろん、Dさんの説明を聴いて、Cさんが腹を立てた場合、Cさんが腹を立てたのだから、Cさんの責任なのである。
もともと、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。ところが、自分が立腹したときは、相手が悪いと思っている場合が多い。相手が(自分が正しいと思っている理論を)否定してきたので、相手のせいで、腹が立ったと思う場合が多いのである。
まあ、Cさんは、腹を立てたとする。Cさんは、普段、人には、「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人だとする。
さらに、Cさんは、普段、人には「すべては、自己責任だ」と言っている人だとする。
そのCさんですら、実際の場面においては、腹を立てるのである。
そして、腹が立ったのは、Dさんのせいだと思うのである。
Dさんは、Cさんが正しいと思っていることを否定したので、Cさんは不愉快な気持ちになり、Dさんはネガティブな人だと思ったとしよう。
Dさんが「自分(Cさん)の意見を否定した」のだから、CさんがDさんのことを、ネガティブな人だと思っても、不思議ではない。
しかし、Dさんは、ネガティブな人とは限らないのである。
Dさんは、集合的一括思考は間違っているということを言ったにすぎない。そして、それは、正しいことだ。あっている。
Cさんが、集合的一括思考をして、「貧しくしても、努力をすれば成功する」と言った場合、やはり、Cさんは、間違ったことを言っているということになる。貧しいから、努力をしても成功しない人がたくさんいるからだ。
「貧しくても」という条件がついているけど、「貧しくしても、努力をすれば成功する」という文は一〇〇%構文の文なのだ。「貧しい人」という集合のなかの人は、みんな、同等に貧しい人であり、ほかの条件もおなじだと、Cさんは、勝手におもんこんでいるのである。
ちなみに「貧しい人は、努力をしても成功しない」という文も、間違っている。貧しくても、努力をして成功する人がいるからだ。
条件付きの一〇〇%構文の文がある。
これは、そのまま、一〇〇%構文の問題点を継承している。
まあ、ともかく、運用の問題があるということを言いたいわけ。
Cさんが、普段、どれだけ「受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを人に言っていたとしても……なおかつ……自分(Cさん)はそれを実践しいると思っていたとしても、実際の場面では、反対のことをしている場合が多い。
本人が、気がつかないだけなのである。
この本人が気がつかないというのは、非常に大きな問題だ。運用に問題があるということを重視しない人は、本人が気がつかないということも、無視してしまう傾向が強い。
本人が気がつかない……というのは、でっかい問題だ。