2026年7月20日月曜日

●ヘビメタ騒音で、つらいだけの人生だった■騒音※2026/07/20 2:13

ほんとうに、ヘビメタ騒音で、人生がない。いつも、こまっていた。あの地獄……。どれだけ頑張っても、地獄が続いた。もう、つかれた。いいことがなかった。どれだけ解決するように頑張っても、きちがいがきちがい感覚で鳴らしてしまう。鳴らされた場合の、日常が、地獄なんだよ。「関係がない」なんて言っているやつらがわかるようなつらさじゃない。だいたい、そいつらも、俺にとって、つらい状態をつくっている。

ほんとうに、いいこと、なかった。どれだけ頑張っても、つらいだけだった。頑張らなくても、つらいんだよ。頑張っても頑張らなくても、きちがいヘビメタ騒音でつらい。全部がつらい。全部がつらくなるんだよ。非・合理的な考え方じゃない。実際、すべてに影響を与える。

つらいだけの人生だった。ヘビメタ騒音で、つらいだけの人生だった。 

●鈍感な人は、そこら辺のことを、切り離して考える■社会※2026/07/19 22:20

 「人のいやがることはやめましょう」 ということについて、ちょっと付け足して書いておこう。人によって感度がちがうということだ。

相手が「ほんとうに、いやがっているのかどうか」ということに考えることができるかどうかということは、重要だ。ある人がいたとする。

ある人はAさんだする。Aさんが、「人がいやがっていることかどうか」ということについて、なまの感情では、気にしない人だとする。その人だって、「人のいやがることはよくないことだ」という説明には、納得するのである。

しかし、実際に、「人がいやがることをしないようにできるかどうか」というのは、「Aさんの判断」の影響を受ける。Aさんが、だれかに対して、なんらかのことをした場合、そのだれかが、どの程度いやがっているのかどうかというのは、Aさん側の主観的な判断に任されることになるのである。

だれかをBさんだとする。「Bさんがいやがっている」ということをAさんが「認識しない人」である場合は、Aさんが、「人のいやがることはやめましょう」ということに賛成していても、Bさんには、気がつかずに、Bさんがいやがることを積極的にしている場合がある。

だから、認識の問題というのがある。

本人が、「人のいやがることはやめよう」と思ったって、感度が悪い人?だと、人がいやがることをやってしまう場合がある。

もちろん、Bさんが「やめてくれ」と言うかもしれないけど、言っても、Aさんがどの程度Bさんの言い分を理解できるかどうか、わからない。

そして、たとえば、AさんとBさんが、おなじ職場で仕事をしているとする。Aさんのほうが立場が上だとする。その場合、Aさんは、Bさんがいやだと思うことでも、命令して、やらせようとするだろう。その場合は、業務をつつがなく、実行するということのほうが重要で、Bさんの気持ちは、たいして重要ではないということになる。

いちいち、Aさんが、Bさんの気持ちについて、本気で考えていたら、Aさんは、Bさんに命令することに、抵抗を感じる機会が増えるということになる。

だから、仕事上のルールや慣習が優先する場合は、Aさんは、たとえ 「人のいやがることはやめましょう」ということに心から賛成していたとしても、かならずしも、Bさんがいやがることをしないとは、限らないのである。

だから、その場のルールのほうが、「人がいやがることはしない」というルールよりも上位のルールであった場合、「人のいやがることはやめましょう」ということに心から賛成している人も、「人のいやがることはしない」というルールを無視して、人がいやがることをする場合がある。

それが、常に、仕事上、求められることなのであれば、仕事をしているときは、「人のいやがることはしない」というルールなんて、関係なしに、人がいやがることをするというとになる。

けど、鈍感な人は、その場において、上位のルールがある場合は、上位のルールに従って行動して、下位のルールのことは、気にしないのである。

たとえば、「これこれこういうことを下の人にさせなければならない」というルールがあるとする。その下に、なるべく優先するべきルールとして「人のいやがることはしない」というルールがあるとする。

そういうルールの上下関係を持った個人がいたとする。まあ、この個人もAさんだとしておこう。Aさんは、仕事のルールを優先して、下位の「人のいやがることはしない」というルールを無視することになる。

そして、それについて、気にしない場合がある。気にする場合もあるかもしれないけど、恒常的にそうすることが求められているのであれば、気にしない場合のほうが多くなる。

だから、「教えの場」「宗教の集会」で、どれだけ、「人のいやがることはやめましょう」などと言っていたって、別に世界はかわらないということになる。

だって、世の中に、「優先すべき上位のルール」が組み込まれていたら、上位のルールのほうに従おうとするからだ。そして、上位のルールに従っているとき、自分が悪いことをしていると思う人は、まれだ。自分が悪いことをしていると思ってしまう人は、その仕事場で働くことに、苦痛を感じてしまう。働きにくい状態で働くということになる。

実際には、自分も、ほかの人に「ほかの人がいをがっていること」を押し付ける場面もあるかもしれない。その場合、ルール間の葛藤をもっている人は、非常に疲弊してしまう。ストレスをため込んでしまう。

なので、上位のルールに従っているとき、下位のルールを完全に無視できる人のほうが働きやすいということになる。

「世のため人のため」というのも問題がある。たとえば、問題のある金融商品をほかの人に勧めている人は、世のため人のために働いていることになるのかどうかという問題がある。

たとえば、ダメな投資信託があるとする。そのダメな投資信託をすすめなければならないとする。

良心の呵責を感じるタイプは、ダメな投資信託を、買った?人が、将来、損をすることがわかっているので、そういうことをしにくくなる。こういうところでの、個人の感覚ということは、「世のため人のため」と言っているときは、無視されるのである。

「人に親切にしましょう」ということについても、おなじようなことが言える。

たとえば、Cさんは「人に親切にすることがよいことだ」とこころから、思っていたとする。「人に親切にしよう」と思っていたとする。

けど、Cさんが、そのダメな投資信託を客に勧める会社に勤めていたら、業務として、ダメな投資信託を客に勧めるということになる。鈍感な人は、そこら辺のことを、切り離して考えるので、葛藤が生まれない。

しかし、敏感な人は、そこら辺のことを切り離して考えてしまうので葛藤が生まれる。

その会社で働きにくくなってしまうのだ。自分がやっている業務が、なるべくやりたくない、いやな業務になってしまうのだ。

ここらへんの個人の感覚というのは、ほんとうに、個人によってちがう。どや顔で「人のために尽くしましょう」「人に親切にしましょう」「人がいやがることはやめましょう」と言っていたって、実際には、仕事となれば、人のためにならないことをしたり、親切な人ならできないことを人にしたり、人がいやることをしたりする。

何度も言うけど、実際の他人が「いやがっているかどうか」ということについて、鈍感な人と敏感な人がいる。声高に「人がいやがることはやめましょう」と主張している人が、鈍感な人であった場合、その鈍感な人は、本人が気がつかないところで、人がいやがることをしている確率が非常に高い。 

生活のなかで成り立つ現実的な道徳観と、生活とは切り離れたところでの「説話」としての道徳観は、かならずしも、一致しない。

どれだけ、「教え」にたがっている人が増えても、現実社会は、ぜんぜんよくならないかもしれない。ならない可能性がある。ならない確率は非常に高い。

むしろ、「教え」にたがっている人が増えれば、増えるほど、社会が悪くなる可能性だってある。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。