就職氷河期について考えたわけだけど、このことは、努力論にもあてはまる。
努力をすれば成功するという考え方のことをとりあえず、努力論といっておく。これも、すでに指摘したことなのだけど、「努力」をしたかどうかの二値なのだよ。
最初は、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値だ。
値としては、「努力をした」と「努力をしなかった」の二値しかない。
ところが、あとで、「努力の量」や「努力の方法」が問題になるのである。努力をしたというのが、だれによって決められるのかも、あいまいなままだ。本人が決めるのか、ほかの人が決めるのかわからないところがある。
だから、どうにでも言うことができるという状態なのだ。ところが、努力をすれば成功するという文は、一〇〇%構文の文なのだ。
だから、努力をすれば、一〇〇%の確率で、成功するということになる。どんな努力でも、努力をしさえすれば、成功するのである。言霊理論における「言い方の問題」とおなじ問題が努力論にも成り立っている。
しかし、今回言いたいことは、それではない。
努力をした人は、努力をした人という範疇に入る。努力をしなかった人は、努力をしなかった人という範疇に入る。これは、属性とおなじ問題なんだよ。努力をしたという属性の人と、努力をしなかったという属性の人がいるのである。
努力をしなかった人は、成功していない人なのだ。成功した人は、みんな、努力をした人なのである。成功した人が成功した理由は、努力をしたからなのだ。
ところが、就職氷河期という属性を持つ人のなかで、条件がちがうということがある。
それとおなじように、努力をしなかったという属性を持つ人のなかで、条件がちがうのである。努力をしなかったという属性を持つ人は、ただ単に「努力をしなかった」という属性だけで、判断されるのである。
一括思考の決めつけだ。
しかし、努力をした人のなかにも、いろいろな人がいる。
努力をした人は、努力以外の条件がみんな、おなじかというと、ちがうのだ。努力をしない人は、努力以外の条件がみんなおなじかというとちがうのだ。
たとえば、貧しいかどうかという条件を付けくわえてみよう。
そうすると、たとえば、「貧しい人は、努力をしても成功しない」という言い方や「貧しい人でも、努力をすれば成功する」という言い方ができあがる。努力という条件のほかに、貧しいかどうかという条件が付け加わったのだ。
たとえば、「だれだれという貧しい人は、貧しいのに、努力をしたから成功した」ということを言ったとする。だれだれという貧しい人の条件は、すべての貧しい人に成り立っているかというと、成り立っていないのだ。
ところが、努力においても、やった間違いを、貧しさ(貧しい度合い)でもやってしまう。
貧しい人と貧しくない人という二値を考えて、貧しい人というのは、同等に貧しいし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。
貧しくない人は、同等に貧しくないし、ほかの条件もおなじだと仮定してしまうのである。そして、仮定したことに気がつかない。
じつは、貧しさにおいても、貧しさの程度がちがうし、ほかの条件だってあるのだ。親の年収が一五〇万円の貧しい家においても、親の性格がちがえば、条件はちがってくる。
だいたい、貧しい人は、だれでも、おなじ才能をもっているわけではない。人によって、才能がちがう。貧しくて、努力した人が成功したとする。
けど、それは、才能があったから、成功したのかもしれない。貧しくて努力した人が成功しなかったとする。それは、才能がなかったから成功しなかったのかもしれない。努力と、貧しさだけが、成功を決める要素ではない。
ところが、努力をしたかどうかに意識が集中していると努力をしたかどうかということが、成功するかどうかを「一〇〇%の確率」で決めるということになってしまうのである。
自動的にそういう考え方を選択してしまうのである。
貧しくても、努力したから成功した人が一人でもいれば、「貧しくても、努力をすれば成功する」と言えるかどうかということを考えた場合、言えないのだ。
一括思考をして決めつけてしまう人は言えると思っているだけなのだ。
そういう前提で物事を言っている。決めつけている。理論的な思考ができないので、間違った推論をしてしまう。
才能があるかどうかという条件は、「貧しくても、努力をすれば成功する」という文のなかには出てこない。才能があるかどうかという条件は、事前に、無視されているのである。
すべての条件について言及するのは無理だ。
しかし、いろいろな条件を考えるほど、精度が高くないのだ。
なんと言っても、「努力する」ということが、一意に決まらない。「成功する」ということが、一意に決まらない。
最初から、こういう土台の上で、「感じたことを」言っているだけなのだ。
ところが、こういう、でたらめなことをしているのに、一括思考で決めつけた結論を、多くの人は受け入れてしまうのである。二値しかないのに、一意には決まらないという性質は、第二の条件にも、第三の条件にも成り立つ。
だから、しょせんは、言葉の遊びをしているだけで、なにかしら、「これはこうである」と言い切れることは、言っていない。ところが、つねに、言い切ってしまうのである。誤謬の上に誤謬を重ねている。
問題なのは、第一条件について述べている場合は、第二条件以下の条件は、まったくなにも意味をもたないということだ。
そして、第一条件と第二条件について述べている場合は、第三条件以下の条件は、まったくなにも、意味をもたないということだ。
第二条件として「貧しさ(貧しいか、貧しくないか」ということを……とりあえず、出したけど……これは、ぼくが恣意的にやったことにすぎない。
「貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第三条件である才能は、出てこない。無視されているのだ。
「才能があれば(第三条件)、 貧しくても(第二条件)、努力をすれば(X)成功する(Y)」という文のなかには、第四条件以降の条件が出てこない。
ところが、条件なんて、無数にあるのだ。
そして、貧しいという条件を考えた場合でも、どいうふうに貧しいのかということについてちがいがある。このちがいが、もっと、詳細な条件のちがいを内包しているのである。才能がある」と言っても、才能があるということは、どういうことなのか、これまた、一意には決まらないのである。
どういう才能が、どの程度あるのかというのは、わからない。測定できる才能に関しては、不完全だけど、測定値がものを言うのだろう。
しかし、それは、はかれる才能を、その試験方法で、切りだして、かりそめの値を与えているだけなのだ。「才能」なんてものは、ほんとうは、わからない。
この場合も、実際にできれば才能があり、実際にできなければ才能がないというようなことになりがちだ。しかし、これは、後出しなのである。現実の写し絵なのだ。
「才能があれば」と言っているときは、まだ、発揮されていない(現実化していない)ポテンシャルな才能も含めて、才能と言っているのだ。
だから、現実の写し絵である才能と、ポテンシャルな才能を含めた才能は、ちがうものなのである。