基本的に言うと、社会的に優位な人が「掃除をすると幸福になる」と言い、普通の人が「掃除をすると幸福になる」と言って、不幸な人を攻撃し始めるのである。
これは、攻撃なんだよ。
基本的に言って、「掃除をして、幸福な気持ちになる人」というのは、おいつめられた生活をしていない。ある程度、余裕がある、中立的な生活をしているのだ。
「ぎりぎりの生活をしていない人」が、掃除をしたあと、幸福な気持ちになれるだけなのだ。
一時的な気分ではなくて、継続的に幸福な生活を送れるようになったという場合も、当然、ある。
ほんとうに、掃除をしないことで、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であって、なおかつ、掃除以外のこと(あるいは、掃除をしないということが生み出すこと以外のこと)に、不幸になる原因がない生活をしている場合に限られるのである。
ようするに、たとえ、実害がしょうじている生活をしていた人が、掃除をすることによって、実害がしょうじる生活から抜け出した場合であっても、ほかのことで不幸を感じる場合は、掃除をする生活をしても、不幸を感じる生活をしているということになる。
ほかのことで、頻繁に、ひどく腹立たしいことが、発生する生活の場合は、掃除をしても、全体的に、幸福感を感じられないのである。
ところが、「掃除をすると幸福になる」と言っている人は、「掃除をすると運があがるので、ほかの問題も、自動的にかたづいて、幸福になる」ということも、言っている場合が多い。
「運があがる」という中間項目は重要だ。
本当は、「掃除をする」ことと「運があがる」ことのあいだに、明確な因果関係はない。
掃除をしても、不幸な人はいる。
そして、「運気」のところで説明したけど、「運」もまた、現実の写し絵なので、後出しで、運がいいとか運が悪いと言っているだけだ。
「運」を個人に固有の能力のように考えている人がいる。
しかし、固有の能力じゃないのである。
固有の能力のように仮定して、見ているだけなのである。
実際には、よい出来事が頻繁に起こる人のことを(後出しで)運がいい人と言っているだけなのである。
そして、よい出来事が頻繁に起こるかどうかというのは、たいていの場合、「条件」によって決まってしまう。
たとえば、スネ夫と(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが、好きなものを買ってもらえる機会が、(ドラえもんがいない)のび太より多いので、(ドラえもんがいない)のび太よりも、頻繁に「よい出来事」が発生するだけなのである。
「よい出来事」が頻繁に発生する人を「運がいい人」と言い、「よい出来事」がめったに発生しないか、まったく発生しない人のことを「運が悪い人」と言っているだけなのである。
生まれた家の条件のちがいが、スネ夫の「欲しいものをゲットできる頻度」と(ドラえもんがいない)のび太の「欲しいものをゲットできる頻度」を決めている。
「スネ夫がスネ夫のうちに生まれたから、そもそも、運がいいのだ」という言い方もできるのだけど、その言い方の問題については、ここでは取り上げない。
自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」が頻繁に起こるスネ夫と、自分が欲しいものをゲットできるという「よい出来事」がそんなには起こらない(ドラえもんがいない)のび太をくらべた場合、スネ夫のほうが運がよく、(ドラえもんがいない)のび太のほうが運が悪いと言うことができるのだけど、それは、条件を言い換えたにすぎないのだ。
現実的な条件を、妄想的で仮想的な「運」という言葉で言い換えたにすぎない。
スネ夫の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。(ドラえもんがいない)のび太の固有能力ではなくて、親の財産と親の生活の問題なのである。
「勝負ごと」については、試行回数が少なければ、ばらつきが多いので「運」があるとかないというような感覚がしょうじる。
これ、試行回数の問題なのだ。
試行回数を増やしていけば、運は関係がないということがわかる。
「勝負ごと」と言っても、能力にちがいがあるものに関しては、能力のちがいが関係する。
完全にランダムな現象について勝負をすると、試行回数が少ないうちは、ばらつきがあるので、「運がある」とか「運がない」ということは、ばらつきが関係している。
ばらつきの結果、運があるように見える場合と、ばらつきの結果、運がないように見える場合がある。
しかし、試行回数が増えれば、ばらつきが収束する。
運があるように見える人も、運がないように見える人も、ちがいがなくなる。
つまり、試行回数が少ないうちは、運があるように見えた人も、運が普通レベルの人になり、試行回数が少ないうちは、運がないように見えた人も、運が普通レベルの人になる。