手短に言うと、幼児的万能感というのは、つねに、現実から浸食を受けているのである。
浸食されているのである。
だから、幼児期における幼児的万能感も、完ぺきではないのだ。
ようするに、幼児期における幼児的万能感も、傷がある万能感なのである。
万能感を押し通したいのだけど、現実が、そうは、させてくれないのである。ほんとうは、万能感が勝ったほうが気持ちがよいのである。「言った通りになった」と思えるほうが、気持ちがいいのである。「思った通りになった」と思えるほうが、気持ちがいいのである。
しかし、しかし、現実というやつが、それを、ゆるさない。
そういう場面がある。
そのとき、現実を受け入れて万能感を放棄しなければならなくなるのだけど、現実を受け入れつつも、万能感を放棄しない場合がある。それが、矛盾を感じないこころを育てあげることになる。
万能感は、放棄せず、「細かい現実」「圧倒的な現実」には、首を縦に振るのである。
もっとも、これは、万能感が万能感としてあるのであれば、屈辱だ。
けど、屈辱も無視してしまうのである。
「こういうものだ」と、万能感を一時的に押し殺して、現実を受け入れるのである。
しかし、万能感は、死んだわけではなくて、残っているのである。
だから、現実から干渉されない部分では、万能感が羽ばたくのである。万能感に支配された状態になる。
「万能感があってあたりまえの状態」になるのだ。
しかし、また、現実がやってくるのである。
その場合は、万能感は、カメが頭を隠すようにして、姿を隠してしまうのである。万能感は喪失されたわけではなくて、一時的に、頭のなかにない状態になる。
そして、現実社会のなかで、現実的に生きていくとなると、この時間が長くなるのである。
現実は万能感を打ち砕くのである。
ただし、「いつかこうなる」ということに関しては、「いつかこうなればよい」のだから、万能感を打ち砕かれずにすむのである。なので、緩衝地帯になる。
現実の出来事に対処しているあいだも、「いつかこうなる」という部分は否定されないので、「いつかこうなる」という部分では、そのまま、万能感が残ることになる。
しかし、この万能感は、妥協策として生まれた万能感なので、すでに、ある程度、現実に、浸食された万能感なのである。