ちょっと付け足しなんだけど……『それでも、こういうふうに考えていたけど、ある考え方を聴いたら、そっちのほうが正しいのかなと思って、以降、そう思うようになった』というようなことがあるだろと思う人もいるかと思う。
そういうことはある。
けど、だから、受け止め方をかえようと思えば、いくらでも、受け止め方をかえることが出るという考え方は間違いなのだ。「前の考え方(今の考え方)」と「新しい考え方」ということを考えた場合、じつは、新しい考え方を受け入れるとなると、その周辺まで、書き換えなければならなくなるのだ。
「それだけ」を書き換えればいいということにはならない。「運用」ということを言ってきたけど、それは、ルールの相互関係が、メタ認知のレベルで成り立っているということなのだ。
相互関係があることに関しては、「それだけ」を書き換えるわけにはいかないのだ。だから、「こっちのほうが正しいと(思わなければならなくなったから)こっちのほうが正しい」と思うようにしようというような考え方は、実際には、うまくいかないのである。
けど、「納得して」書き換える場合だってある。しかし、納得するには、それなりの、根拠が必要なのである。この根拠もまた、どうしても、ほかのルールとの相互関係をもってしまうものなのである。
ほかのルールと書いたけど、正確には、「ほかのルールの根拠」との相互関係だ。
言霊主義者のように、理論的に間違っていることを言っている場合でも、本人のなかでは、いちおうは、整合性がたもたれているものなのである。
だから、いちおう、「新しい考え方」を受け入れるとなると、ほかのルールや、ほかのルールの根拠との関係が問題になる。
しかし、人間の場合、言霊主義者のように「ぬけている」のだ。ぬけている部分がある。あるときは「意識」するけど、あるときは「まったく意識しない」というような気分による差がある。
だから、どの程度、「自分のなか」の総合的な合理性にこだわるかというのは、人によって差がある。そして、言霊主義者を見ればわかるけど、能力的な差がある。
「総合的な合理性にこだわろう」と意識的に思ったとしても、それができるわけではないのだ。いづれにせよ、「納得」しないと、受け入れないのである。
納得して受け入れたことであっても、そのあとの経験によって、「やっぱり、前の考えのほうが正しかったのではないか」というような疑念が浮かぶ場合がある。
そのときは、また、前の考えに戻ってしまうこともある。基本的なことを言ってしまうと、いちおうは、納得しなければならないのだ。
納得できないけど、「こっちが正しい」と思うことには、たいていの人間は、抵抗を感じるものなのである。人に言われるたびに、「受け止め方」をかえていたら、正常な人格を維持できないのである。