2022年7月31日日曜日

ヘビメタで、人生、ない。

 ヘビメタで、人生、ない。

これ、きちがい兄貴が存在しなかった人にとっては、俺が勝手に、いつまでもこだわっていることに思えるのか? そんなんじゃない。あれが、どういうことなのかわかってないなぁ。普通のうちで生まれ育った佐藤のような凡人は、きちがい兄貴のことは一切合切問題にせず、俺が働いてない(当時)ということを問題にする。俺の精神的な問題だと勝手に決めつける。自分だって、おなじことをやれれば、通えず、働けないからだになるのに……。きちがい兄貴が実際に存在せず、きちがい兄貴があのきちがい的な意地で一日中ヘビメタ騒音を鳴らすということをしなかったという現実をもつ人には、まったくなにもわからないのか? 

おまえ、毎日、どれだけ。

全部毎日、おなじことがつみかさなる。

二日目から、俺は、他人に誤解されていた。家で勉強ができないということがどういうことなのか、ほんとうにわかってないなぁ。家で勉強ができない人生がどういうものになるかわかってないな。あんなの、鳴らされてたら、夜、眠れなくなるのに、それもわかってないなぁ。その、眠れない度合いがひどいのである。普通の睡眠不足とはちがうのである。ほんとうに、きちがい家族にたたられたことがない・普通の人は、まったくわかってないな。

2022年7月30日土曜日

ただ単に「がみがみ怒る」というような言葉でかたづけられない問題が横たわっている

どうするかな? 風呂から出てきた。

きのう、真夜中の2時、がさががざがさと音がしたので、おどろいた。けっきょく、外に猫がいたみたいだ。一階のひさしの部分にのっかって、動いていたみたいだ。これ、ネズミが出るまえだったらなんてことないけど、ネズミが出てから、こういう音に敏感になって、「うわっ、また出たのか」と思うようになった。ほんとうに、おやじが餌付けをしなかったら、こんなことになってないのに……。ネズミの餌付け。そして、頑固にネズミ対策工事を拒否。その3年間でどれだけ、ネズミの糞がたまったか。頭がおかしいから、どれだけ言っても、ネズミの糞のことを気にしないんだよな。「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、俺の話を聞かない。「ネズミ本体をつかまえても、あとからあとから入ってきて、ネズミの糞をしていくわけだから、つかまえたって意味がないだろ」と言っても、聞かないんだよ。ともかく、こわれた機械のように「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と怒鳴って、聞かない。

いろいろなことでつかれたけど、ネズミの糞のことでつかれはてた。こんなの、俺だっていやだ。きちがい的な親がどういうふうに、影響をあたえるか、普通の親に育てられた人は、想像もつかないんじゃないかな。ただ単に「がみがみ怒る」というような言葉でかたづけられない問題が横たわっている。その問題は、本人のしくみ……親の脳みそと深く関係している。「どれだけ、がみがみ怒ったって、気にする必要はない」というようなことではすまないのである。それから、がみがみ怒るにしろ、きちがいががみがみ怒る場合と、正常な人が興奮してがみがみ怒る場合は、ちがうんだよ。それから、がみがみ怒るにしろ、いっしょに住んでいる身近な他人が怒る場合と、学校や会社でしか会わない相手が怒る場合は、ちがうんだよ。こういうちがいを積極的に無視して、ガタガタ言うのは、よくないぞ!!

状態や条件の無視、文脈の無視。アドラー主義者や認知療法家は、状態や条件を無視しすぎる。アドラー主義者や認知療法家は、文脈を無視しすぎる。文脈って過去から現在にいたるまでの文脈だ。状態や条件、文脈を無視して、抽象的な一般法則についてのべてもしかたがないのである。きちがい的な親にやられてこまっている「その人」がかかえている、状態や条件、文脈を考えなければならないのである。どうしてかというと、現実問題として、状態や条件、文脈が問題をうみだしているからだ。

2022年7月28日木曜日

強烈につまんない。

強烈につまんない。

いやなことを思い出した。

やっぱり、ひとによって環境がちがいすぎるよ。実際に経験したことのほうが、法則になってない法則よりも、チカラがある。実際の感情や行動を規定する。

これすらわからずに、「まるまるの法則、まるまるの法則」と言う純粋無垢な人たち。そういう人たちの純粋無垢さが、人を傷つける。 

けど、純粋無垢な人たちが多数派だ。こういう人たちが、不利な人たちをどれだけおいつめるか、こういう人たちはわかってない。生まれながらに不利な人がいるということがわかってない。「俺だって……」「わたしだって……」「どんなにつらくたって……」「どんなときだって……」と言う。けど、ナイーブな〇〇の法則にこだわっていられるような余裕があるなら、それは、やはり、めぐまれていたということだ。

 

2022年7月26日火曜日

ヘビメタ騒音のことは俺にしかわからないことなんだよな

 あれはない。ヘビメタ騒音のことは俺にしかわからないことなんだよな。ずっとずっと。鳴り始めたときから、ずっとずっと……。どれだけのことにたえてきたか? どれだけの不愉快な思いをしたか? たとえば、佐藤(仮名)とのやりとりだって、「不愉快なこと」なのである。ヘビメタ騒音がたいしたことだと思わない人は、「佐藤とのやりとりだって、「不愉快なこと」なのである」という文を読んだって、「そんなの、おまえが悪いんだろ」ぐらいのことしか思わないんだよ。「そんなの、おまえが悪いんだろ」のあとには「そんなのは、おまえがコミュ障だから悪い」というような文が続く。毎日のヘビメタ騒音のことがわからないとそうなる。相手の立場に立って考えることができない人だと、そういうことを普通に考える。相手の立場に立って考える……ということができないのだから、おまえのほうがコミュ障だとと言いたくなるけどなぁ……。そんなことを言ったって、そういうやつらのほうが多数派だ。もっと言ってしまえば、ヘビメタ騒音……きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したのは俺だけなのだ……。あの長さ、あの態度でやられたのは俺だけだ。そういう意味では、究極の一対多だ。これは、一般論になるけど、頭に癖がある家族にやられた人のことを、一般的な人は、理解できない。一般的な人は、頭に癖がある家族にやられたことがない人だ。自分の人生のなかでそういうことがなかった人だ。そりゃ、学校でいじめられたり、上司にパワハラをされる場合もあるかもしれないけど、家族よりはましなんだよ。成人するまでずっと、その家族と一緒に住んでいるわけだし、そのあいだに、その家族は、きちがい的な意地できちがい的なことをして、その人の人生を破壊してしまう。もちろん「破壊してやろう」と思ってやったことじゃないんだよ。ここが!問題なんだよ!! 意識的にやったことなら……破壊してやろうと思ってやったことなら、まだましだ。そういう意図がまったくないのに、頭のねじがぬけているので、どれだけ言ってもわからないままやり続けるのである。「意図があってやること」と「意図がないのにやること」とどっちが問題がでかいか。でかいというか、どっちが本質的な問題を内包しているか? ということなのだけど、「意図がないのにやること」であってどれだけ言ってもあらためないことのほうが、問題が……深い。根深いところにある。息をするようにそういうことをするわけだし、言ってもわからない。なんて言うのかな? 全自動でそうして、ぜったいにあらためない。注意されたら、自分がやっていることを認識してやめるということが、ないのである。そういう可能性が最初からゼロなのである。脳みそが「そうなっている」から……。もう、こういう説明しかできないレベルで、「はいっちゃっている」。絶対に、やめてくれないし、気がついてもくれないんだよ。けど、からだはそうするわけで、そうする。けど、「やった」ということを認めない。やったということを認めなときは、からだがそうしているモードとおなじモードであるわけ。だから、底なし沼だよ。これが、相手にとっては、腹がたつことなのだ。これは、普通の前提では絶対ありえないもっと根本的なところで、相手を否定しているということだから、あるいは、相手の言っていることを否定しているということだから、頭にくる。相手は……やられた相手は頭にくる。けど、その脳みそのしくみが、ほかの「健全な家族」「普通の家族」「正常な家族」に「やられた」人にはわからない。「俺だって……」ということを言う人がいるけど、そういうことを言う人は、わかってない。その人が、普通の家族のもとで生まれ育ったということがわかるよ。これ、言い方がちがってくるんだよ。異常な家族にやられた人は、言ってみれば「わかってくれる」。わかってくれないのだから、「健全な家族」「普通の家族」「正常な家族」のもとで生まれ育った人なんだよ。異常な家族にやられた人がそんなに多いはずがない。そのほかにも「考え方」や「意見」を聞いているとわかる。その家族関係のことじゃなくても、ほかのことに関する「考え方」や「意見」を聞けば、その人が「異常な家族にやられた人」か「そうじゃない人」か、わかる。異常な家族にやられた人は、俺の言っていることがわかってしまうんだね! 俺の言っていることがわかってない人は、正常な家族のもとに生まれて育ったと言っていい。けど、正常な家族のもとに生まれ育った人でも、ヘビメタ騒音がどれだけこたえるか、普通にわかってくれる人はいるのだ。けど、こういう人が、ものすごくすくないのである。稀有。めったにいない。普通の人は佐藤(仮名)のような反応をする。ほんとうに、腹立たしい。こいつらまったくわかってない。

2022年7月24日日曜日

不幸量・普通の人は、不幸量・普通の人の価値基準で、不幸、あるいは、不幸感について、考えてものを言う

感情をうみだす脳みその部分がやられてしまうときがある。不幸量ということを言ったのは、閾値を考えないとダメなんじゃないかということを言いたかったので、不幸量なる概念を導入してみた。言いたいことは、不幸量がある量をこえてしまうと、感情をうみだす脳みそがやられて、「意志」ではどうにもならない状態になるのではないかということだ。ところが、普通の人……九〇%ぐらいの人が、不幸量がその量をこえてない。けど、ある程度の不幸は感じている。なので、話がかみ合わなくなるのではないかということを言いたかった。ようするに、不幸量がある量をこえた人が言うことは、不幸量がある量をこえていない人には、まったくわかしないのだ。しかし、不幸はあるので、あるいは、不幸感はあるので、「困難」とおなじように同じ言葉で語られてしまう。ほんとうは、不幸量がある量をこえてしまうと、それまでとはちがう状態になるのに、両者がともに、その状態のちがいについて注意を払わないので、言っていることがかみ合わなくなるのではないかということだ。とりあえず、不幸量・超過と不幸量・普通のあいだに、ものすごく深い溝があるとする。この溝をこえるかこえないかで、見える世界がちがう。ところが、不幸量・普通の人は、不幸量・普通の人の価値基準で、不幸、あるいは、不幸感について、考えてものを言う。こわれてない人が、こわれた人のものの感じ方についてものを言うわけだ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言霊教徒は言うわけだけど、それは、不幸量・普通の世界の話なのではないかと言うことだ。ところが、「人間は、そういうものだ」と言うわけである。不幸量・普通と不幸量・超過の世界を区別せずに、「人間は、そういうものだ」と言う。その場合、もちろん、不幸量・超過の人も、人間なので、その理論が適応されると、その人(不幸量・普通未人)は考えているのである。しかし、人間を主語とせず、不幸量・普通の人は「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うべきなのではないかということだ。不幸量・普通の人は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは、納得できるけど、人間は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは納得できない。これは、アドラー主義でも、行動主義心理学でも、引き寄せ主義でもおなじだ。不幸量について、考えずに、「人間とはこういうものだ」「人間とはこういうふうにできている」ということを言う。「人間は、こうするべきだ」ということを言う。それは、不幸量・普通の人間に限定するべき言葉なのである。それは、不幸量・超過の人にとってくるしいことだ。不幸量・超過の人にとっては、不幸量・普通の人が、そういうことを言うこと自体が、不幸なことなのである。不幸量・超過の人は、不幸量・普通の人が「人間とはこういうものだ」ということを言うと、不幸量がひとつは、増えるのである。

 

2022年7月23日土曜日

宗教団体と政治の構造的な問題について

 宗教団体と政治の構造的な問題について……。どこどこの宗教団体が悪いというような個別の話ではなく、構造的な問題を考えなければならない。

1)宗教団体(カネ)→製薬会社
製薬会社の株を買い占め大株主になり、製薬会社をコントロールする。宗教団体のボスであるDSの考え方が製薬会社に浸透する。


2)宗教団体(カネ)(人材)→政治家
宗教団体が、政治家の選挙運動を助けたり、政治家の秘書になって、政治家ととても親しくなる。政治家にとってはたいへん助かる存在。無償で行っているけど、ほんとうは、カネが流れているのとおなじ。もっとたちが悪い。


ただより高いものはないってね。選挙のとき、自分を助けてくれた人には、恩ができてしまう。そうなると、政治家の意志は、選挙のときに無償で奉仕してくれた宗教団体のものになってしまう。一回だけ、選挙のとき協力してくれただけでも、なにかおかえしをしなければならない気持ちになるのに、ずっと何回も何回も、何十年間にわたって助けてもらえば、そりゃ、その人たちが所属する宗教団体の要望を聞くようになる。

3)宗教団体(投票数)→政治家

その宗教団体の組織票がその政治家にとって必要不可欠なものであれば、当然、その政治家は、その宗教団体を重視する。みすみす、自分の票田をうしなうような政策を主張することは、さけなければならないことになる。宗教団体が思っているようなことを、政治的に主張するようになる。組織票と政治家誕生の関係は、エンドスレで繰り返される。こういうふうにして、政治家になった人が、宗教団体の「おもわく」を無視するわけがない。

政治家と製薬会社の関係もある。もちろん、製薬会社の母体がある宗教団体(A)であり、また、政治家の政治活動を支える母体がある宗教団体(A)であれば、製薬会社と政治家の思惑は一致するということになる。こういう、かたい三角関係ができあがる。

さらに、製薬会社は医者や病院を間接的に支配する。政治家も、厚労省をとおして医者や病院を直接的に支配する。なので、かたい四角関係ができあがる。

こういう関係が何個も付け加われば、多角的な関係ができあがる。たとえば、新聞社とかテレビ局とかそういうものが付け加わった場合、六角関係ができあがる。ある宗教団体(A)が、新聞社やテレビ局の株を大量に購入していて、大株主になっていた場合、製薬会社とおなじような関係が成り立ってしまう。

ようするに、宗教団体がおカネをとおして、企業を支配してしまうような状態が問題なのである。宗教団体がおカネと人材(無料奉仕)を通じて、政治家を支配してしまうような状態が問題なのである。この問題を解決するには、宗教団体にお金がはいらないようにするしかない。ようするに、寄付は禁止。なにかの販売に関しては、売り上げの九〇%を税金として回収するということが必要だ。どうせ、なにかの販売に関して、一個・一〇〇〇円までの値段にすることと言うことを決めたとしても、個数がじゅうぶんに多ければ、じゅうぶんな収入になる。宗教団体側の収入になる。

 

2022年7月21日木曜日

つもっているときは、すでに、つもった状態なんだよ。

 あの子と仲良くしておけばよかった。つきあっておけばよかった。

からだじゅうにまとわりつく、ヘビメタ騒音のいやな感じ……と言っても、わからないだろ。切迫感がちがうんだよ。「どれだけ言っても、やめてくれない」「帰ったあとずっとヘビメタが鳴っている」と思ったときの、破滅的な気持と言ったらない。これ、ほんとう、きちがい兄貴を殺すしか、ぼくには、手がなかった。きちがい親父も、きちがい兄貴が、あのでかい音で鳴らすことに協力していた。普通だったら、一日目に文句を言うはずだ。たとえ、鳴り終わったあとに帰ってきて、俺から話を聞いたとしても、「やめさせよう」と思うのが、普通の人だ。きちがい親父は、スイッチの入り方がちがうんだよなぁ。「そんなのしかたがない」「そんなのしかたがない」と兄貴を注意しない方向でスイッチが入る。そうしたら、梃子でも動かないという状態になる。この梃子でも動かない状態というのは、きちがい兄貴の状態でもある。梃子でも動かないのである。どれだけ言われても、絶対に、自分がやろうとしたことはやるのである。しかも、自分が思ったとおりの音でやらなければならず、相手が言っている音まで落とすということが、できない。スイッチが入ったときの親父おなじ頑固さで、否定する。そして、そうやって、意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!意地になって!!やったことは、全部、やってないのとおなじことなのである。この、意地になっやったことが、やってないことになっている……というのが、おやじとおなじなのである。兄貴は、おやじとおなじように意地になってやって、兄貴は親父とおなじように、意地になってやったことを、意地になって否定するのである。これ、こまるんだよ。

つもっている……。

この「つもっている」……ということを、普通の人は無視する。つもっているの……。つもっているから、くるしいんだよ。つもっているときは、すでに、つもった状態なんだよ。

状態を無視して、「いいことを考えればいいことが起こる」「悪いことを考えると、悪いことが起こる」「楽観的に考えれば、楽観的なことが起こる」「悲観的に考えると悲観的なことが起こる」なんてことは、言ってられない状態なんだよ。これは、言霊とおなじように因果関係を逆転させている。すでに状態があるんだよ。

たとえるなら、ふかふかな椅子に座っている人が、一〇〇本の毒針がはえた椅子に座っている人に向かって、「痛いというから痛くなる」「くるしいというからくるしくなる」と言っているようなものだ。すでに、針が刺さっていたいんだよ。すでに、毒がまわってくるしいんだよ。それを、「いったからそうなった」と誤解しているのである。「痛い」という前に、針が一〇〇本はえた椅子に座らされた。だから、いたいと言っている。針が一〇〇本はえた椅子に座る前は、「いたい」と言ってないのである。針が一〇〇本はえた椅子に座ったから「いたい」と言ったのである。順番がちがう。けど、ふかふかな椅子に座っている人は、「ひとごと」なので、まず、自分が「いたい」わけではないという状態が成り立っている。そして、ひとの「いたみ」に鈍感なので、相手が座っている状態を無視して「痛いと言うから痛くなるんだ」と言うわけである。さらに、「痛くない痛くない、と言えば痛くなくなる」と言うのである。ふかふかな椅子に座っている人にとっては、それは「事実」なのである。だから、容赦ないよ。原因についてまちがった認知をしているということは、認めない。認めないとしても、ふかふかな椅子に座っている人は、まったくこまらない。

言霊ではなくて、引き寄せにこだわっている人も、同じような考え方をする。引き寄せにこだわっている人がふかふかの椅子の上に生まれたなら、「痛いということを引き寄せた」「たい状態を引き寄せた」と言うのである。つまり、針の上に座っている人は、針の上に座っているような状態を引き寄せたからダメなのだということを言う。そして、針の上に座っている状態から、ふかふかな椅子に座っている状態に移行するには、フカフカな椅子を引き寄せればいいのだということを言う。けど、どれだけ、ふかふかな椅子を引き寄せるために、「ふかふかな椅子……ふかふかな椅子……」と言っても、針の上に座っている状態がかわらない。「針の上に座ってくるしい」という状態がかわらない。そうなると、これまた、「ふかふかな椅子を引き寄せる力がないからダメなのだ」ということを言うわけである。生まれたときに、針の上に座るか、ふかふかなクッションの上に座るかが決まっている。その結果、針の上に座らせられた人間は、「いたい」と言い、ふかふかなクッションの上に座らされた人間は「特にいたくない」と言う。ずっと座っていればふかふかなクッションの上に座っていても、いたいときはあるので「自分だっていたいときはある」「それを乗り越えてきたんだ」「乗り越える方法は、楽な状態を思い浮かべることだ。楽な状態を引き寄せることだ」とふかふかなクッションの上に座ったまま言うのである。状態がちがうのだけど、状態がちがうということを、こういうことを言う人たちは、まったく理解できない。そりゃ、生まれてからずっとふかふかなクッションの上に座っているわけだから、針の上に座っている状態が、わからない。けど、ときどき、いたくなるので、いたいというのはこういうことだと思ってしまうのである。だから、相手もこういう状態で、いたみを感じているだけなんだと思い込んでしまう。そして、そのうえで、相手が痛い痛いと言っているのはけしからんことだと思うようような教育がなされているので、「引き寄せ能力の差」だと思ってしまうのである。痛さのちがいはある。状態のちがいはある。そして、その状態のちがいというのは、能力のちがいではないのである。しかし、引き寄せを信じている人は「能力のちがいだと思ってしまうのである。たとえば、「引き寄せ能力」と言うようなわけのわからない能力を設定して、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなんだ」と思ってしまう。「不幸な人は、不幸を引き寄せているからダメなのだ」と思う場合、不幸な人は、不幸を引き寄せる思考をしているからダメなんだと思っているのである。しかし、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題なのだ。その状態というのは「所与の状態」だ。生まれたときに決まってしまう状態だ。だから、ほんとうは、「思考」の問題ではなくて、「状態」の問題だということを認知してないということになる。「思考」を「性格」と言い換えてもおなじだ。「性格」の問題ではなくて、「状態」の問題なのに、「状態」を無視して、性格の問題に「してしまっている」のである。もちろん、「たにんごと」なので「だからダメなんだ」と言える。「性格が悪いから、不幸を引き寄せているんだ」と普通に思ってしまうのである。状態は、性格が作り出したものなのである。しかし、ほんとうは、所与の状態が問題なのである。所与と書いたけど、ようするに、「うまれながらの」ということだ。これは、アドラーのところで書いた。こういう人たちは、他人の状態を無視して、筋違い、見当違いの説教をすることで、よろこびにひたっているのである。まちがったダメダシをして、よろこんでいるだけだ。自分が有能だと思いたいだけなのである。自分が特別だと思いたいだけなのである。「それにくらべておまえらは、不幸なことばかり言っているから不幸になるんだ」と言いたいだけなのである。これらの行為が「いい行為」なのかどうか?

2022年7月19日火曜日

基本的な「ふこうりょう」を無視して、頭がおかしい親のもとに生まれた人を侮辱するな

 きちがい親父がやったことやきちがい兄貴がやったことを「自分」にやったことを経験すれば、やはり、無気力になったり、楽しめなくなったりする。けど、ほかの人は、自分のこととして、きちがい親父が「俺に」やったことやきちがい兄貴が「俺に」やったことを経験してないんだよな。どれだけの影響があるからないと思う。そして、それは、ただ単に影響があるということではなくて、そのなかで、もがき苦しみ努力したというこちら側の反応の影響もあるのだ。そりゃ、どれだけ、言っても、相手が聞かずにやってしまったというのであれば、無力感がしょうじる。実際に、ヘビメタが鳴っている状態というのを経験してない人が、ぼくに対して「とやかく」言う必要はない。言う権利自体がない。不適切なのである。「とやかく」言う権利がないのに「とやかく」言うので、不適切な行為をしているということになる。

あとは、きちがい的な親兄弟にやられた人が、みんな、言いにくいことなのだけど、これ、ほんとうに、「やられぞん」なのである。 きちがい的な親兄弟にやられたことというのは、きちがい的な親兄弟にやられたことがない人にはまったく想像もつかないことなのである。けど、正常な親兄弟とも、行き違いはあるし、喧嘩をすることもあるということで、「にたようなこと」は発生しているのである。だから、「にたようなこと」は「おなじ」だと、人気してしまうのである。それは、たとえば、「困難」という単語があらわしている内容が、ひとによってちがうにもかかわらず、「困難」という単語が、「困難」という単語として使われているという問題にも関係する。だいたい、構造はおなじだ。「しりえないこと」あるいは、「しりえなかったこと」について、言及しているのである。

「泣き言をいうことはみっともないことだ」というような共同幻想がある……とする。「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」というような共同幻想がある……とする。その場合、現実的に、頭がおかしい親のもとに生まれると、不幸なことがつみかさなるのだから、頭がおかしい親のもとに生まれた子供と、頭がおかしくない親のもとに生まれた子供では、基本的な「ふこうりょう」がちがうということになる。しかし、基本的な「ふこうりょう」がちがうということは、無視されて、「泣き言をいうことはみっともないことだ」「自分の弱みを見せることは、よくないことだ」という前提のもとに「わかったようなこと」を言うことになるのである。頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、「わかったようなこと」を言うことになる。この「わかったようなこと」というのは、まあ、アドラー主義者が言うようなこと、認知療法家が言うようなこと、言霊主義者が言うようなこと、精神世界の人が言うようなことだ。「世の中というのはこうだ」「それでも、がんばらなきゃいけないんだ」「受け止め方をかえれば、いい」「楽観的になることが必要だ」「楽観的になれば、楽観的なことを引き寄せて、悲観的になると悲観的なことを引き寄せる」……などという、ばかげたことが、さも正しいことのように言われてしまう。これは、ばかげたことだ。ほんとーーに、ほんとーに、ばかげたことだ。ぼくは、いままでずっと、これらのことがどのようにばかげたことなのかということについて、ずっと説明をしてきた。頭がおかしくない親のもとに生まれた人にとってみれば、おもしろくないことだ。興味がわかないことだ。しかし、なんだろうが、言わなければならないことなのである。

頭がおかしい親のもとに生まれた人は、説明をすることなく死んでしまう。説明がむずかしいのである。基本的な「ふこうりょう」を無視して、頭がおかしい親のもとに生まれた人を侮辱するのはゆるされることではない。 頭がおかしくない親のもとに生まれた人は、ただでも、頭がおかしい親のもとに生まれた人に「わかったようなこと」を言って、追いつめる。基本的な「ふこうりょう」を無視して、「わかったようなこと」を言って、頭がおかしい親のもとに生まれた人を自殺に追い込む。言いたいのは、基本的な「ふこうりょう」を無視するなということだ。

 

2022年7月17日日曜日

みんな、誤解している

 きちがいヘビメタが鳴っている感じがする。みんな、誤解しているけど僕の騒音耐性は、もともとは、強かった。強いほうなのである。けど、それをぶち壊す騒音がずっと何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も、毎日毎日鳴っていた。こわれるまでのあいだ、ぼくは十四年間と数か月、がんばってきた。最大限の努力をしてきた。きちがい兄貴の騒音はひどい。幼稚園の騒音よりも、一億倍ぐらいすごい。あの音のなかで、あの音を無視することなんてできない。どうしたって影響をうけてしまう。きちがい兄貴が普通の兄貴で、ヘビメタ騒音をフォークギター騒音ぐらいに落としてくれたら、まったく問題がなかった。けど、一秒たりとして、落としてくれなかった。俺がどれだけピンチでこまっていても、一秒たりとして、落としてくれなかった。これが毎日の兄貴の態度だ。毎時間、毎分毎秒の、きちがい兄貴の態度だ。毎日、どれだけ兄貴に言っても、かわらなかった。

実際にやられてない人は、きちがい兄貴のきちがい騒音を起点にして、どれだけのことがしょうじるかまったくわかってない。わかってないところで、判断をして、こっち(俺)に、的外れなことを言ってくる。それは、決まっている。特に、悪の支配に親和的な価値観をもっている人は、勘違いをして勘違いしたことを言ってくる。これは、不愉快だ。こういうやつらは、自分がなにをしているのかわかってないのである。言いたくはないけど、ほんとうに、思考力がない。想像力がない。相手の立場に立って考えるという能力が、かけている。かけていると言っても、そういうひとたちばかりなのだから、相手の立場に立って考えるという能力があるほうが、いい意味で、異常なのだろう。すぐれているのだろう。軒並み普通の人は、佐藤(仮名)並の理解力しかない。ほんとうに、頭がわるくて、誤解しているだけなんだよな。想像力がないから誤解しているだけだ。なんで、わからないのか?

なんでだ。

まあ、経験がないからか? そして、想像力がないからか?

まあ、そういうことなんだろうけど、そいつらは、俺のことを侮辱している。けど、これがまた、侮辱をしているつもりがないまま侮辱をするということになる。どんだけ、腹がたつかわかってないんだよな。

ほんとうに、きちがい的な家族にやられた人は、きちがい的な家族にやられたことがない人に、誤解され続ける。誤解。どういうことが起こっているのか、まったくわかってないのである。説明をしたって、わからない。ちゃんと説明をしても、こっちにとって重要なことは無視するのである。「無視するな」と言っても、無視する。そりゃ、わからないから無視する。「影響が大きいと言っても、影響なんてたいしたこと、ないだろ」と思ってしまうのである。「いくら、騒音の影響が大きいと言っても、通勤、通学できるはずだ」と思ってしまうのである。できないから、できないと言っている。できなくなったからできなくなったと言っている。ヘビメタ騒音で、できなくなったからできなくなったと言っているのに「できなくなるわけがない」「そんなに影響がでかいはずがない」とばかな頭で考えてしまうのである。こいつらは、いったいなんだ。こいつらは……。ヘビメタ騒音でできなくなったとっているだろう。俺は、十数年間にわたって、ずっと、毎日、がんばってがんばってがんばってきたんだよ。その結果で聞くなったと言っているのに、「がんばればできるようになる」と、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に一日もさらされたことがないやつが言う。一日目と、五〇〇一日目とでは、一日に七時間鳴っていたとしても、意味合いがちがうのである。この意味合いのちがいも、自分のからだを通して学習したわけではないので、わかってない。そうぞ力がない人が、想像をしてものを言っているだけなのだ。きちがい的な家族というのは、ほかの人の想像をこえて「どはずれ」なところがある。しかし、その「どはずれ」なところも含めて、わからない。これは、徹底的にわからない。自分の経験の範囲にないからわからない。きちがい的な家族にやられた人というのは、きちがい的な家族と、世間の人のあいだにはさまれて、苦労する。

能力の喪失というのが、まるでわかってないなぁ。できていたことが、どれだけがんばってもできなくなるということが、まったくわかってないなぁ。普通のやつが、普通のやつの基準でものを言う。その普通のやつは、みんな、きちがい家族に、やられたことがないやつだ。きちがい家族に注意したってかわるわけがないだろ。そいつは頭の癖があってそうしているんだよ。頭の癖というのは、頭の物理的な構造のことだから、注意してもわからないままなのである。それはそれで、能力の欠如なのだけど、普通の人は、きちがい家族……原因をつくったきちがい家族のことはまったく言及しないで、ひたすら、きちがい家族にやられた人を悪く言うのである。しかも、そういうふうに無理解ぶり発揮して、きちがい家族にやられたほうを悪く言うのに、その人たちは『きちがい的な家族にやられたと、その人が、家族の悪口を言っている』と理解してしまうところがある。こういうのも、屈辱だ。

 

 

2022年7月16日土曜日

これは、ほかの人にはわからない

ほんとう、これからどうなるんだろう?

大きな変化がおとずれるのははっきりしている。

こころのこりはある。やはり、若いときにしかできないことってあるんだよね。それを、若いときにしたかった。けど、それは、もう、絶対にない。ともかく、日々続く、騒音と、きちがい親父というハンディがでかすぎた。これは、ほかの人にはわからない。騒音と言ったって、騒音の騒音がちがう。きちがい親父と言ったって、きちがい親父のきちがい度がちがう。これ、微妙なんだよな。これ、本人は、くるっていることで、ある程度、得をしているんだよ。はっきり言えば、本人はまったくこまわらないわけ。自分がくるっていることで、こまらない。自分が常に、きちがい的な判断をして、きちがい的な行動をするということで、こまらないんだよ。こまるのは、まわりの人間なんだよ。 

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2022年7月14日木曜日

つまーーんない。 この人生、なんだよ?? なんなんだよ??

 つまーーんない。

この人生、なんだよ?? なんなんだよ??

これ……。ほんとうに、どれだけ、つもったか??

きちがい兄貴と、きちがい親父のハンディがない人とは、ぜんぜんちがうんだよ。ぜんぜん、ちがう。 


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 幼稚園がうるさい。

どうするかな?

これから、風呂に入る。

こころは、なんか、ぐちゃぐちゃ。もうちょっと早く展開してくれないかな。それにしても、なんか、精神を破壊された感じがある。親兄弟に……。……親兄弟によって……。

ほかの人は、そういう親兄弟じゃないのだから、最初から問題がない。最初から問題がなければ、なんとだって言える。自分にはなかった問題だから、ほかの人がその問題をかかえていても、わからない。そりゃ、自分にはなかった問題だから、問題の本質がわからない。自分にはなかった問題だから問題のおおきさがわからない。わからなければ、ないのもおなじだ。だから、俺が言っていることは、問題がなかった人にはつたわらない。問題がなかった人のほうが、多い。ここでも、98%対2%みたいな問題がある。

やる気がなくなって、つらい思いをするのは俺だ。楽しめなくなって、つらい思いをするのは俺だ。けっきょく、カネがあったって、基本的な部分を破壊されたらおしまいだ。楽しめない。

 

2022年7月13日水曜日

「自己責任」「自己責任」「おまえが選んだ」「おまえが選んだ」。こうやって、せめられるだけなのである

役に立たないアドバイスのことについて書いた。この、役に立たないアドバイスは、アドバイスされた人をうちのめすのである。ほんとうに必要なのは、ふかふかな椅子を用意してやることだ。

傷を消毒して、それなりの手当てをして、ふかふかな椅子に座らせてやることだ。

ところが、針がついた椅子に座らせたまま、「元気だ元気だと言えば元気になる」「被害者意識をすてれば、しあわせになる」「感謝の気持ちをもてば、しあわせになれる」「たましいが、そうなることを選択したので……つまり、針がついた椅子に座ることを選択したので……自己責任だ」と説教をしはじめるのである。

針がついた椅子に座らされてこまっている人は、こまっているという点において、回答を求めている。ふかふかな椅子に座っている人は、こまってないので、適当なアドバイスをすることができる。

この適当なアドバイスがまったく(相手にとって)無意味なものであったとしても、アドバイスをするほうはまったくこまらない。

それどころか、相手がその状態にとどまれば、それだけ、いい気持ちで説教をすることができるということになる。カネのやり取りもあるかもしれない。もちろん、針がついた椅子に座っているほうが、ふかふかな椅子に座っているやつに、カネを払うのである。

これ、逆だろ。

ほんとうなら、ふかふかな椅子に座っているほうが、針がついた椅子に座っているほうに、カネをやるべきだ。そのカネを使って、ふかふかな椅子を買って、ふかふかな椅子に座ればいいということになる……針がついた椅子に座っている人は……。

けど、実際には、そんなことはなくて、ただ単に、アドバイスをうけるだけなのである。「自己責任」「自己責任」「おまえが選んだ」「おまえが選んだ」。こうやって、せめられるだけなのである。

ああ、ちょっとだけ、努力うんぬんについて言っておこう。たわごとを言わないで努力をすればよいのだというアドバイスがある。ようするに、「いたい。いたい」と言うのではなくて、ふかふかな椅子に座れるように努力をすればいいというアドバイスだ。

生まれたときに、針がついた椅子に座らせられたやつは、一生、針がついた椅子に座ったままだ。これ、努力じゃ、かわらないのである……。まあ、これは比喩だけどね。

しかも、生まれたとき針がついた椅子に座らされた人が、針がついた椅子から、ふかふかな椅子に移動することは可能だと言うのだ。……生まれたときにふかふかな椅子に座らされたやつが、生まれたとき針の椅子に座らされたやつに……言うのだ。

生まれたからふかふかな椅子に座っている人は、一度も、針の椅子に座るということを経験してない。

ところが、無慈悲で、相手の状態をよく見るということをしない人間は、そういうことを平気でする。そして、自分は努力したからふかふかな椅子に座っているのだと自慢する。こういうことをすること自体が、よくないことなのである。

どうしてかと言うと、生まれたときに決まったことを、くつがえせないような社会に生きているから……だ。あるいは、生まれたときに決まったことをくつがえせないような社会を維持しているから……だ。

これ、悪魔がこういう「構造」を作り出しているとすると、その「構造」のなかで上位に位置する者は、そういう「構造」を維持することに同意する。あるいは、積極的に維持しようとする。

悪魔が作り出した構造に親和的な存在になる……上位の者は。

この上位の者というのは、ふかふかな椅子に座っている者だ。社会の構造はこういう構造で、こういう構造をつくった悪魔が構造を通して人を支配すしているのである。

ようするに、上位の者は悪魔の支配に親和的になる。悪魔の支配をより強くしようとする。悪魔の支配をより長く維持しようとすることになる。そして、そういう自己中心性を心のなかに育ててしまう。

生まれたときにふかふかな椅子に座らされた……と表現すると、なにか場ちがいな感じがするけど、「座らされた」でいいと思う。本人が選んだわけではなくて、ランダムに決まってしまう。

だから、「された」でいい。

しかし、ふかふかな椅子のうえに「うまれた」でもいいような気がする。赤ん坊だから、「うえ」でいいだろう。ふかふかな椅子のうえに「うまれた」人は針がついた椅子のうえに「うまれた」人の状態を、自分の経験を通して、理解することができない。すべて、聞いた話だ。

そして、問題なのは、理解していないにもかかわらず、理解しているつもりになっているということだ。

だから、「わかって言っている」という傲慢な態度がうまれる。

そして、「わかってないのだ」ということを理解しない。

そのままだ。

ひとごとなので、わからないのである。また、針のついた椅子の「拘束力がわからない」。見た感じ、関係がないと思って、無視してしまう。

条件の無視……は、ほんとうは、悪いことなのだけど、「なにかすごい能力」のように思っているのだ。……アドラー主義者はそうだ。

相手がなにを言ってきたって、それを、相手の人格の問題だと思って無視する能力が高ければ高いほど、人間としてすぐれていると思ってしまっている。これは、もとの言い方にしたがえば、「悪魔の支配」に親和的だということだ。

 

 

2022年7月11日月曜日

「すべてのものは波動でできている」とか、わかったようなことを口にするな

「すべてのものは波動でできている」とか、わかったようなことを口にするな。

すべてのものは……と言ってしまっているのがまずいんだよ。別のものは別のものでできていると言ったほうが正しい。
たとえば、すべてのものは、これ以上分割できないものでできていると言ったとしよう。その場合、なにを分割できるものとして考えるのかという問題がしょうじる。
当然それは、なにを別のものとして考えるかという問題を含んでいる。波動は伝わるから波動でできていると言いたいのだろうけど……。その前に、そこで言われている波動とは何なのかを考えたほうがいいぞ。
波動を出しているものがあるとする。で、そのものも、波動でできているとする。ならば、ものと波動を分けた意味はなんなのかということだ。

2022年7月9日土曜日

赤ちゃんのころから、自分のまわりにいる「他者」の反応を見て、善悪の基準を獲得していく

 これは、軽い感じで書く。そんなには、深く考えていない。かーーんじとして、そういうことがあるんじゃないかなと思って書く。

アドラーは、善悪の基準が確固たるものだと思っているみたいなのだけど、善悪の基準というのは、出来事をとおして、ある程度かわるのではないかと思う。大人になった場合はそうだ。

こどものうちは、もっとやわらかくて、善悪の基準をつくっている時期なのである。幼児だと、こどもよりも、もっともっとやわらかくて、善悪の基準をつくっているような時期なのだと思う。幼児がどうやって、善悪の基準を獲得していくのかというと、じつは、「親」の反応を見て、善悪の基準を獲得していくのだ。

この場合の「親」というのは、身近な他人という意味だ。

親じゃなくても、同じ家に住んでいる身近な他人の反応を見て、善悪の基準を獲得していく。赤ちゃんのときから大人になるまで、そして、じつは、死ぬまで、この善悪の基準は発達していく。

しかし、時系列的なことを考えると、赤ちゃんから子供時代までの発達のほうが成人以降の発達よりも、でかい影響をあたえる。赤ちゃんから子供時代に獲得した善悪の基準が大人になったあとも、「しん」として残るのである。

ちょっと、ちがうけど、たとえば、身長の伸びは、赤ちゃんから成人するまで大きく変化して、一度成人してからは、あまり変化しない。

逆に、背骨の影響で年をとるとじゃっかん縮む場合もある。身長の伸びがぴったり比喩としてあてはまるわけではないけど、小さいときのほうが、大きくなったときよりも、「善悪の基準」の変化量が大きいのである。

つまり、ちいさいときの変化は、大きくなったときの変化よりも、でかい。

そして、いわば、「骨格」のようなものになってしまうのである。ちいさいときの善悪の基準が、大きくなったときの善悪の基準の「コア」になるのである。

たとえば、ろうそくを溶かした缶のなかに、ろうそくのシンを入れて、取り出すとする。一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけてひっぱりあげるという行為をn回繰り返すとする。その場合、表面から見えなくても、一回目のろうそくが、表面のろうそくの「シン」として成り立っているということがわかる。

比喩は比喩なので、比喩には問題がある。

たとえば、真に近いほうが影響力がでかく、大きく変化しなければならないわけだから、一回目のほうが、二〇回目よりたくさんろうそくがつかなければならないのである。そういう意味で、比喩としては問題がある。

しかし、子どものころにつちかった善悪の基準は、その人の善悪の基準の「コア」として残るということだ。成人してから、善悪の基準を大きくかえるような出来事に遭遇するかもしれない。その場合だって、それまである善悪の基準を新しい基準に書き換えるとなると、葛藤がしょうじる。

今現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」をもとに少しずつ作り上げてきたものであって、現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」を「もと」にして作り上げてきたものだから、過去の「善悪の基準」は現在の「善悪の基準」と関係がないわけではない。

過去の「善悪の基準」はコアとして、現在の「善悪の基準」に大きな影響をあたえている。さらに、意識すれば意識できる意識的な善悪の基準と、意識しようとしてもなかなか意識できない無意識的な善悪の基準がある。この無意識的な善悪の基準は、ふつう「良心」とよばれるものだ。明確な言葉にならなくても、明確な基準として抜きだすことができないとしても、「なにかそれ」として、人間の行動や判断に影響をあたえる。

基本的には、自分のまわりにいる「他者」の反応を見て、人間は赤ちゃんのころから善悪の基準を獲得していくのである。善悪の基準を獲得していくには、いろいろな経験が必要だ。相手(身近な他者)が関係する出来事をとおして、善悪の基準を獲得していくのである。

「こういうことをしたら、親が怒った」とか「こういうことをしたら、親にほめられた」とか「こういうことをしたら親がよろこんだ」とか「こういうことをたら、親が悲しそうな顔をした」というようなことをとおして、善悪の基準が「かたちづくられていく」のである。

アドラーは、生まれたときから、善悪の基準がしっかりと成り立って、それが、生涯にわたってかわらないものだというような前提でものをはなしているところがある。

アドラーにしたって、赤ん坊のときから、しっかりと成り立っているとは、意識的には思ってないだろう。しかし、アドラーが考えている善悪の基準(そのものは)固定的で、あまり変化をうけないものなのである。

アドラーが絶対に無視したいのは、過去の影響なのである。「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」という宗教的な信念があるのである。

この信念は、単なる宗教的な信念で、合理的な根拠がない。

しかし、あたかも合理的な思考にしたがって、「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」と言っているのだという思い込みがある。アドラーの考える合理性は、彼が考える範囲のなかで成り立つ合理性なのである。

 

 

2022年7月6日水曜日

「努力をすれば、できるようになる」という言葉に隠されたトリック……「できなければ」努力をしたことにならない

 これ、むかし書いたんだけど、もう一度概要だけ書くよ。

「努力をすればできるようになる」ということについて書く。「努力をすれば」という部分と「できるようになる」という部分がある。「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということも、「努力をすれば、できるようになる」ということばの中にふくまれている。

この場合、「努力をすれば、かならず、できるようになる」ということばと「努力をすれば、できるようになる」ということばは同義だ。例外はないということを意味している。

だれが、だれに、この言葉を言うのかが問題になる。ようするに、本人が、本人に対して、この言葉を言う場合は問題がない。しかし、だれかが、だれか他人に、この言葉を言う場合は、問題がしょうじる。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、会社の経営者だとする。Bさんは、その会社の従業員だとする。Bさんは、ある作業ができなかったとする。Aさんが「努力をすれば、できるようになる」と言ったとする。Bさんは、Bさんにできる最大限の努力したが、できなかったとする。この場合どうなるか?

もし、「努力をすれば、できるようになる」ということが正しい場合、Bさんは、努力をしなかったということになるのである。Aさんから見れば、Bさんができないいじょう、Bさんはじゅうぶんな努力をしなかったということになってしまうのである。

ようするに、「努力をしたのにもかかわらず、できない」ということは、最初から、Aさんの頭にはないわけだ。

「努力をすれば、かならず、できるようになる」のだから、「できない」のであれば、「努力をしなかった」ということになる。これは、Aさんのまちがいだ。

「できるようになるかどうか」は「努力をしたかどうか」とあるていど関係があるかもしれないけど、絶対的な関係ではない。

ようするに「努力をすれば、できるようになる」というのはまちがいで、「努力をすれば、できるようになる場合もある」し「努力をしても、できない場合」もあるのだ。

現実としては、努力をしてもできない場合がある。

しかし、AさんがBさんについて「努力をすればできるようになる」と言った場合は、Bさんが努力をしたにもかかわらずできない場合があるということを認めていない。最初から認めていない。

「じゅうぶんな努力」なのか「努力不足」なのかは、「できたかできないか」によって、かわるのである。

Bさんがちょっとだけ努力してできた場合でも、できたのであれば、じゅうぶんな努力をしたということになる。あるいは、Bさんが最初から努力をせずにできた場合でも、できたのなら「努力をした」ということになってしまう。

Bさんの主観とAさんの主観に、ちがいがある。そして、Aさんは、じつは、結果をもとにしてものごとを判断しているだけなのだ。「できれば」努力をしたことになるし、「できなければ」努力をしたことにならない。

これが、最初から決まっている。Bさんが、かりに、死にものぐるいの努力をしたとしよう。死にものぐるいの努力をしてもできなかったとしよう。この場合も、Aさんから見ればBさんは「努力をしなかった」ということになってしまうのだ。

だから、「努力をすれば、かならず、できるようになる」というのは、だれがだれに向かって言っている言葉かということが問題になる。かりに、

2022年7月4日月曜日

まあ、影響のでかさがわかってないんだよ。

 それにしてもつかれたなぁ。どうするかな?

いろいろと、おもしろくないなぁ。やっぱり、ヘビメタ騒音がでかい。あの日々がでかい。あの日々のままなんだよ。ぼくのからだは……。みんな、わかってないけど……。しかし、ほかのやつらは、ヘビメタ騒音の影響を軽く見るなぁ。これ、ほんとうは、ひどいことなんだぞ。こいつらみんな、ぼくとおなじ状態だったら、俺よりも早く、俺よりもひどい状態になっていると思う。けど、そいつらはやられてない。そいつらには、きちがい兄貴がいない。きちがい兄貴の態度なんてわからない。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音に関する認知なんて、逆立ちしたってわからない。そりゃ、きちがい兄貴のやり方や認知は、きちがい親父のやり方や認知とおなじだからな。これ、ほんとうそういう、やり方やそういう認知が成り立っている態度全体で、こっちが、ボロボロに傷つくのである。けど、それが、ほかの人にはわからない。だから、「そんなの、たいしたこと、ない」と思ってしまう。「自分だったらもっと、うまくたちまわれた」「自分だったら、お兄さんをしずかにさせることができた」「自分だったらやられたとしても、そんなにひきずってない」と思ってしまうのである……。経験がないから。実際にやられなかったから。実際に、自分の人生のなかで、そういうことがしょうじなかったから……。実際に、自分の人生のなかで生じなかったら、わからない部分がある。そして、その部分というのが大きいのである。ぼくの生命がどれだけうまくても、実際に経験しなかったなら……実際に自分の人生のなかで、そういうことが、生じなかったら、自分の経験としてはわかってないわけだから、影響のでかさもわかってないのである。 どれだけ、でかい分野に影響をあたえるか、わかってない。一日の、ヘビメタ騒音の長さが、どれだけの影響をあたえるかわかってない。これ、みんな、鳴っているときだけうるさいだけだと思っているんだよ。だから、鳴っているときの騒音が迷惑だということしかわかってない。どれだけ、からだがつかれるわかってない。どれだけ、眠れない状態になるかわかってない。眠れなかった次の日のつらさがわかってない。そういうことが、毎日毎日、つもってしまうということのつらさがわかってない。まあ、影響のでかさがわかってないんだよ。

 

2022年7月2日土曜日

カネの価値がちがう。カネの種類がちがう。ぜんぜんちがう。

つまらない。

どうなるんだろうな?

これ、みんな、わかってないけど、相当の変化がしょうじる。価値観がかわってしまう。ぼくにとってはいいことだけどね。そりゃ、ぼくにとってはいいことなんだよ。

いままでの価値観のなかでぼくがどれだけハンディを抱えて、生きにくかったか? まあ、そういうことは、本人にしかわからないことだな。

いろいろ、考えるんだよ。自分にとって本当にやりかたかったことはなんなのか? 

どういうくらしをしたかったのか? どのみち、この世にいる時間は有限だ。有限なんだよ。なら、なにを優先するのか? だ。俺がやりたかったことって、ヘビメタ騒音にやられず、あーーんなことや、こーーんなことをしたかったということだ。これは、若いときじゃないとだめなんだよね。若いとき、ヘビメタ騒音にずっとやられていた。なので、あーーんなことや、こーーんなことができなかった。これがこころのこりだ。

これ、いくら金があっても、できないことなのである。いま、仮に、一兆円持っていたとしてもできないことなのである。「あのとき」なんだからさ。

ぼくがやりたかった、あーーんなことや、こーーんなことって、普通の暮らしの中でできることだ。一か月に一五万円もかせげれば、できることだ。まあ、二〇万円のほうがいいけどね。

たしかに、こういうことにかんしては、おカネの問題じゃない。

じゃあ、おカネは重要じゃないかというと、そうではないのだ。これ、めぐまれた家に生まれた人はまったくわかってないけど、「できるおカネ」と「できないおカネ」があるのである。

一か月に一五万円稼げばできることも、一か月に六万円しかかせげないのであればできないことになってしまうのである。

このちがいがおわかりか?

一か月に二〇万円、かせぐのと、一か月に三〇万円、かぜくのではたいしてかわりがない。

まあ、自分のやりたかったことだけを考えれば、そりゃ、金銭的には普通の生活費があればできることだ。プラス二万円ぐらいあれば、よゆうでできることだ。けど、ちがうんだ。わからないかな?

一か月に五〇万円、使っても、一か月に一〇〇万円、使っても、しあわせ度はたいしてかわりがないというような話のなかに出てくる、カネじゃないのである。これがわからないか?

これが!!

ちがうんだよ。おカネの意味合いがちがう。こういうおカネの「意味合い」をぬかして、おカネのことについて語るというのは、まったくナンセンスなことだ。どうしてこれがわからないのか?


どれだけ相手が「がみがみ言ってきたとしても、それは、相手の問題だから、相手にする必要はない」……まちがっている

 どれだけ相手が「がみがみ言ってきたとしても、それは、相手の問題だから、相手にする必要はない」というような考え方がある。これについて考えてみたいと思う。

まず、「がみがみ言ってくる」というのは、マイナスのイメージあたえる言い方だ。

「がみがみ」というのが、不快感をしめしていて、なおかつ、「がみがみ」言っていることが不当だという認識があるということをしめしている。

つまり、がみがみ言われている人が、がみがみ言っている人の言っていることが不当な内容だと考えているということを暗示している。

ようするに、彼が言っていることは「なにか、へんなこと」を「がみがみ」言ってきたけど、そんなのは気にする必要がないということだ。

「がみがみ」というのは、怒りの程度をあらわす言葉だと思う。怒りには程度があり、怒りの表出にも程度がある。たいていの場合、怒りの程度が高ければ高いほど、怒りの表出のレベルも高くなる。これは、相手の側の怒りの表出だ。

こういうことを言う人たちは、怒りの程度について言及をしている。どれだけ相手が怒りを表出したとしても、それは、相手の問題だから気にする必要がないという意見だ。しかし、この人たちが忘れているものがある。

それは、自我だ。善悪の基準の問題だ。道徳観の問題だ。相手が言っていることが正しいなら、素直に反省すればよいということも、こういう人たちは、言う。

しかし、相手が言っていることが正しいと思うことができるのか?

きちがい兄貴にしたって、このくらいの音でヘビメタを何時間も何時間も鳴らすことは、別にやってもいいことだと思ってやっていたのである。その場合、ぼくが、「でかい音だから静かにしてくれ」「フォークギターぐらいの音にしてくれ」と言っても、相手が不当なことを言ってきたと思って、しずかにしないのである。

きちがい兄貴の自我の基準から考えると、このくらいの音で鳴らしてもいいということになっていたのである。その「いいこと」に文句をつけてくるのは、相手の問題だと思っていたのである。自分には関係がない問題だと思っていたのである。

「迷惑行為」をやる人間は、ここらへんの基準が、普通の人の基準一致してないことが多い。本人は、「迷惑行為をしているつもりがない」のである。

むしろ、「やめろ」「しずかにしてくれ」と何回も絶叫している相手のほうが、悪いと思っているのである。自分は、悪いことをしてないのに、相手が「がみがみ」言ってくると思っているのである。

なので、素直に反省することができるかというとできない。

これは、きちがい兄貴に限ったことではなくて、アドラーにしてもおなじなのである。ただ、アドラーは、感覚器を書き換えるということをしてないし、アドラー自身の善悪の感覚が「普通の人間」とだいたい同じだったので、特に目立つ!!迷惑行為をしてないだけなのである。

アドラーにとっては、そこらへんの感覚が、わりと絶対的なもので相対的なものではないのだ。なので、だれもが「反省できる」と思っている。しかし、アドラーもそうだけど、反省できるとは限らない。

それは、善悪の基準が人によって相対的で、今現在その人がそれを「自信をもってやっている」とすると、その人とっては、その行為自体は、他人に迷惑をかけるような行為ではないのである。

あるいは、他人に迷惑をかけるということが悪いことだと思ってないのである。相手が「必死になって」「やめてくれ」と言ってきたとき、相手の立場を理解してやめてあげるのか、それとも、相手の立場を理解せずにやり続けるのかは、自我が決定しているのである。

その自我というのは、善悪の基準をもっている自我なのである。

もう成人しているのであれば、わりあい強固な自我をもっているものと思われる。

だから、たいていの場合、正しいと思ってやっていることをやめたりはしない。それから、相手の立場に立って考えることができる能力というのは、だいたい人によって決まっているのである。

アドラーやうちの兄貴は、この能力が極めて低いのである。相手の立場と自分の立場をいれかえて考える能力が、ともに、低いのである。けど、アドラーの善悪の基準は、「普通の家」ものだったので、うちの兄貴のように、特に問題となる行為をしてないだけなのである。

自我の相対性……つまり、善悪の基準の相対性……の問題は、アドラーのような人間にも、成り立つことだ。

「普通の家」と書いたけど、これは、「家」そのものの問題ではなくて、「親の自我」の問題なのである。アドラーの場合、親がよくできた親なので、逸脱行為(社会的な迷惑行為)をしなくてもすんだだけなのだ。

構造自体の本質はかわらない。それから、冒頭で「相手の問題」と書いたけど、くわしく書くと「相手」の「こころの問題」ということになる。「相手のこころの問題」と書くと「の」が連続するのでやめておいた。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。