2020年4月29日水曜日

「俺は、もういい」「俺は、もう、いやだ」と絶叫しそうな気持ちになる

俺がやりたそうなことでも、なにかいやな部分があってやりたくない。「俺がやりたそうなこと」っておかしくないかな? と思った人もいるだろう。自分のことなのだから「やりたい」か「やりたくない」のかわるだろ! と思った人もいるだろう。けど、ほんとうに、そんな感じなのだ。自分の感情を外から見ている感じだ。自分の「やりたいきもち」というのが、外見でしかわからないような感じだ。「やりたいきもち」に外見なんてあるのかよ? と思った人もいるだろう。その通り。「やりたいきもち」に外見なんてないよ。だから、まあ、「比喩的に」「擬人化して言うと」そんな感じになるということだ。


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なんかやらなきゃならないことがひとつでもできたら、「俺は、もういい」「俺は、もう、いやだ」と絶叫しそうな気持ちになる。そのために動くことを考えただけで、破滅的な気分になる。
けど、「やらなきゃならないこと」がけっこうあるんだよ。普通の状態なら、すぐにできることなんだけど、いまの状態だとなかなかできない。


ヘビメタ騒音で根っこの部分から、つかれはてている。ほんとうなら、……ヘビメタ騒音生活がなければ、簡単にできたことなのに……。ヘビメタ騒音生活を経験してから、まるで手に届かなくなってしまったことが多い。まるで、できなくなってしまったことが多い。もう、意欲からしてちがうんだよな。選択肢うんぬんと、前投稿で書いたけど、これは「状態」なんだよ。積み重なる、三次元的な状態。時間も入れて四次元的な状態。普通、時系列的なことは、時間の流れとして、線としてとらえるけど、「やれないこと」が幾何級数的に、あるいは、三次元的にひろがってしまうのが、ヘビメタ騒音だ。ヘビメタ騒音が毎日、気違い的な音で鳴っているという生活の影響だ。これ、わからないんだよな。他人は……ヘビメタ騒音を経験してない他人は「過去なんて関係がない」とか「どれだけ鳴ってたって、たいしたことじゃない」と言うけど、それは、わかってないだけだから。自分が、おなじようなことを経験すればわかる。それは、自分が嫌いな音が鳴っていたという場合だ。別に、ヘビメタが好きな人は、鳴ってたってかまわないわけだから……。ものすごくでかい音で鳴っていると、こまる音が鳴っていた場合の話しだ。そして、それを鳴らしている人間が家族だという場合の話しだ。家族だから!!!どれだけ、めんどうなことになったか。か・ぞ・く・だから。これ、「家族なんだから、言えばやめてくれるだろ」と思う人は、どうかしている。というか、そういう人は、逆立ちして考えても、俺が言っていることがわからない。俺が言っていることがまったくわからないということが、俺にはわかる。もう、ぜんぜんちがう。で、そういうことを思う人間のほうが、俺のような特殊な家族にやられた人間よりも、おおいんだよな。おおい。圧倒的におおい。この人たちは、考える資格がないと言ってていいほどわからない。

2020年4月26日日曜日

ある時点の選択肢自体に影響をあたえる


俺がつらい。
この世の雰囲気というのがぜんぶ、ヘビメタ騒音に汚染されていく。動きたくない状態で、動きまくると失敗が増えていくのに、動かなければならない状態で動くことになる。これは、ヘビメタ騒音が鳴っているから、そうなる。ちがうんだよな。ヘビメタ騒音は……日常のヘビメタ騒音はほんとうに「選択肢」にものすごい影響をあたえる。これも、時系列的に、ヘビメタ騒音の失敗が積み重なっていかなければ、わからない。ヘビメタ騒音でからだがだるい。だるい体を動かして社会に適応しなければならない状態……で、がまんして、がまんして、がんばってがんばって、動いている……状態がつみかさらなければわからない。状態が結果をうむ。しんどい状態で、がんばって動いても、いやな結果しか招来しない。けど、それが他の人にはわからない。そして、帰れば、夜中まで、気違いヘビメタが鳴っている。どれだけ、何回も、「やめろ」と言いに行っても、気違いが、気違い的なモードで無視しておしまいだ。殺さなければ、ヘビメタ騒音が鳴っている状態が持続してしまう。そして、それは、日中の……ヘビメタ騒音が鳴ってない……ヘビメタ騒音とは関係がない人とのあいだの……出来事に……影響をあたえてしまう。不可避的に影響をあたえる。それは、波及する。二乗、三乗になる。ともかく、倍々で増えていく。三乗で増えていく。幾何級数的に増えてしまうのだ。だから、ある時点の選択肢自体に影響をあたえる。時系列的にヘビメタ騒音の影響を受けた「出来事」が積み重なっていく。一日目と、二日目はちがう。二日目と三日目は、もっとちがう。三日目と四日目はもっともっともっとちがう。いやなことが積み重なってしまう。四日目の選択肢は、一日目、二日目、三日目のいやなことが影響をあたえて、かぎられたものになる。二乗、三乗の世界なので、四日目ぐらいまでのことを言われてもぴんとこないかもしれないけど、それが一〇〇日、積み重なったらどうなるか? 一〇〇〇日積み重なったらどうなるか。四〇〇〇日、五〇〇〇日積み重なったらどうなるか? そりゃ、五〇〇〇日目はもう、取り返しがつかないことになっている。

他人は「鳴り終わったら関係がない」などと言う。その他人はやられてないから、わからないだけ。その他人が無視しているところがあるんだよ。

2020年4月23日木曜日

「元気だ元気だと言えば元気になる」のであれば、医者も病院も薬も必要がない。


「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っている人は、このとは科学的に確かめられたことで、事実だと言うのだ。しかし、元気だ元気だと行っても、元気にならない場合がある。元気だ元気だと言えば、かならず、どんな場合でも、元気になるのであれば、医者も病院も薬も必要がない。なぜなら、「元気だ元気だ」と言えば「元気になる」からだ。ちなみに、「元気だ元気だと言えば元気になる」「これは、実験によって確かめられたものだ」ということを言う人は、実験の意味も実験の結果もわかってない。何度も言うけど、「元気だ元気だと言えば元気になる」のであれば、医者も病院も薬も必要がない。

「元気だ元気だと言えば元気になる」と言う人たちは、言霊思考に支配された人たちなので、「私は病気にかからないと言えば、病気にかからない」とも言う。あるいは、「私の病気は治ると言えば、病気は治る」と言う。私は病気にかからない」とひとこと言えば、病気にかからないのであれば、みんなが、そういうふうに言えば、病気にかからないわけだから、病人がいなくなる。

しかし、病院には病人がいる。これは、「私は病気にならない」と言ったにもかかわらず、病気になる人がいるということを意味している。「私は病気にならない」とひとこと言えば、病気にならないのだから、こんなにすばらしいことはない。みんなに教えてあげればいい。そうすれば、すぐにでも、病人がまったくいない世界になる。病院も薬も必要がない世界になる。

しかし、「私は病気にならない」と言うことでは、「病気になる」ことをふせげないので、病人もいるし、病院や薬もある世界のままなのである。

また、不幸にも、病気になってしまった人は「私の病気は治る」とひとこと言えば、なおってしまうのだから、いつまでも病気でいる人はいない。「私の病気はなおる」とひとこと言えば治るのだから、いつまでも病気でいる人は、病気でいたい人だ」と言霊の世界に住んでいる人は言い出す。

さらに「病気と仲良しにしたいと思っているから、病気になる」「病気が好きだから病気になる」などと言い出す。これは、自分が病気にかかってないという有利な立場を利用して、すでに病気にかかっている人をののしっているのとおなじだ。なぜなら、病気を治すには、「私の病気は治る」とひとこと言えばいいのに、そういうことを、さぼってしないから、ダメなのだということになるからだ。

実際、そういうことを言う人たちは、そう信じている。言霊の世界に住んでいる人は、本気でそういうことを言っている。しかし、こういう人が、新型ウィルスによる病気がはやれば、マスクを買い求めたりするのである。「私は新型ウィルスによる病気にはならない」とか、あるいはたんに「私は病気にならない」と言えば、マスクなんて買わなくてすむのである。マスクを買いとめるという行動をするということは、自分が言っていることが、嘘であるということを知っているからだ。

ようするに、自分は病気にかからないだろうと思っているときは、「病気にかからないと言えば、病気にかからない」ということを、他の人に!!言うわけだ。そのときは、そのときで「いいことを教えてやっているつもりなのだ。そりゃ、病気にならない方法を教えてやっているのだから、いいことをしているつもりになるだろう。

しかし、そういうことを言われているほうは、気分がよくないのである。言われたほうが、不愉快になる理由については、すでに述べた。言霊を信じるのは勝手だけど、他の人に「助言」するときは、へんな決めつけはするべきではない。まちがった信念に基づいて、他人をディスっている(攻撃しているのだから)やられた方は、不愉快になる。それが、言霊の世界のなかで生きている人には、まったくわからないんだよな。

どうしてわからないかというと、言霊の世界のなかで生きている人にとってみれば「(病気になる)言ったから病気になる」「病気は治ると言えば治る」「病気にかからないと言えば病気にかからない」ということが、絶対的に正しいからだ。だから、「いつまでも、病気でいるのは、病気が好きだからだ」ということになってしまう。あるいは、「病気を本気で治そうとしていないから、ダメなのだ」ということになってしまう。そんなふうに言われて、いい感じがするやつはいない。言霊信者は、まちがった信念にもとづいて、人を傷つけるようなことを言っているのに、自分がそういうことをしているとは考えない。

2020年4月22日水曜日

俺以外の人間は、だれも、この意味がわからない


すべてがヘビメタ騒音でくるしくなった。
俺以外の人間は、だれも、この意味がわからない。
すべてがヘビメタ騒音でくるしくなった。

ヘビメタ騒音で実際にくるしい。いろいろと誤解される立場におちいるんだよな。
けっきょく、他人は、自分がこの世で一番嫌いな音を、ものすごくデカイ音で、何時間も何時間も、聞かされ続ける毎日というのを経験してないんだよな。
まいにち、つもって、どれだけのことになるか?


「まいにち、つもって、どれだけのことになるか?」まったくわかってない。

で、もの言いやがる。
いわく。「ちゃんとしたほうがいい」。いわく。「働いたほうがいい」。いわく。「できないなんてことはない」。いわく。「過去なんて関係がない」。いわく。「だれだってくるしい」。いわく。いわく。いわく。

ほんとうに頭にくる。頭にくるんだよ。頭に。
腹が立つんだよ。腹が。








俺が注意したとき、気違い兄貴ヘビメタをやめて、普通の音で鳴らしてくれたら、こんなことになってない。親父みたいにこだわって、気違い的な意地で、気違い的にでかい音で鳴らしたからこうなっている。これも、「言い訳するな」とか言い出すやつらがかならず出てくる。そいつらは、気違いヘビメタを浴びた生活をしてない。本人が「俺だってつらいことはあった」。「俺だって騒音ぐらい経験している」と行っても、気違い兄貴の気違いヘビメタを毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、経験しているわけではない。だから、ちがう。ちがうからちがう。こいつらは、こういうことも、まるでわかってない。理解力や共感する能力が低いのはこいつら。
気違い兄貴が無視して、頑固に頑固に、自分のやりたいことをやると、俺が誤解を受ける。説教されるポジションにおちいる。不可避だ。ゆるせない。

2020年4月21日火曜日

これ、こたえが出ない


これ、こたえが出ない。ほんとうにくるしかった。他の人がわかってないだけだ。あの騒音生活が、どれだけくるしいかわかってないだけ。ほんとうに、ヘビメタ騒音の効果を過小評価するやつは、俺を過小評価する。俺という存在自体を過小評価する。
しかも、「はたらく」とかそういうことについては、共同幻想がそのご認識誤認を支持するので、たちが悪い。俺だって、自分が経験しなければ……ほんとうにそのぶん……経験しなければ、……誤認したと思う。これ、ほんとうにちがうんだよ。「聞いた話し」と「実際の話」がちがう。
ヘビメタ騒音に関する俺の話を聞けば「そういうことがあったんだな」ということは理解できるけど、実際に一日やられたときの、鳴ってない時間の感覚がまったくわからない。鳴ってない時間のつらさがわからない。なおさら、鳴っているときのつらさがわかるはずがない。気違い兄貴の態度ですら、こっちがどれだけ細かく説明しても、わからないやつらがいる。多い。そいつらにしてみれば「そんな人、いるのかな?」と思えることだ。
そういう、ぼけた感覚と、実際に向かい合ったときの感覚がちがう。あの破壊的な騒音なかで、向かい合って文句を言ったときの感覚がちがう。ほんとうに、気違い兄貴は、気違い親父のコピー。頭がおかしい。自分が悪いことをやっいるのに、悪いことをやっているつもりがない。絶対の意地で押し通すけど、「押し通した」という気持ちがない。認識がない。
けど、「やった」ということは、ほんとうはわかっているはずなんだよ。けど、自分がやったことが相手に影響をあたえているということは、ものすごく根本的なところで無視する。「やったってやってなくたって、まったくおなじ」なのである。主観的には、やり終わってしまえば、「やってない」という認識が成り立ってしまう。
たとえ、一日に一三時間鳴らしても、一三時間と一秒後には、「やってない」ことになってしまうのである。「そんなんじゃない」ということになってしまうのである。やっているあいだ、何十回、文句を言われても、文句を言われるたびに、自分がなにも悪いことをやってないのに相手が文句を言ってきたという感じしかない。
「なんだか知んないけど、不愉快なことを言われて腹が立った」という感じしかない。どれだけ言っても、自分の音で弟がこまっているということが、まったくわからない。認知しないのだから、毎日毎日、何十回、言われてもおなじなのだ。この、言われたときだけ、自分が不愉快なことを言われたという感じしかないまま腹を立てて、やりきるというのは、これまた、親父が頑固にやってきたことなのだ。
うちでは、毎日、普通に、何十年間も成り立っていることだ。
頭がおかしいから、ほんとうにわからない。わからないままなのだから、しずかにさせるとしたら、殺さなければならない。殺してやめさせなければ、絶対にやめさせることができない。そういうことを言うと、他の人は、大げさだと言うけど、ほんとうにそうなのだ。そして、これは、俺にとってでかいことだ。けど、はっきり言っておくけど、兄貴にとってみれば、ヨソの人、以上に関心がないことだ。
「そんなの知らない」とまったく関係がない人として無視できるのだ。
だから、際限がない。際限なくやられる。際限なく毎日やられることは……頑固にやっているのに、まったくやってないのとおなじだという態度で頑固にやられるのは……ほんとうにこまったことなのである。この、こまりかたが、他の人にはわからない。これまた、他人には「受けとめ方の問題だ」「言えばわかってくれるはずだ」と軽く言えるような問題なのだ。
そういうことではないんだよ。
これまた、どれだけ言ってもわからないだろうけど。これは、ルールが成り立っていない状態なんだぞ。普通だったら絶対にわかることがわかってない状態なんだぞ。こんな異常な状態で、気違い的にデカイヘビメタ騒音を押しつけられたらこまるに決まっているだろ。
生活全般に、大きな大きな影響をあたえるに決まっているだろ。制限付き、じゃないんだよ。そういう状態が毎日毎日成り立っていたら、人生に大きな大きな影響をあたえるに決まっているだろ。
けど、「過去なんて関係がない」と言っている人は、そういう大きな大きな影響を無視する。あたかも、なかったよとのように処理する。「そんなのは、こだわらなければいい」「そんなのは、影響をあたえない」と言いやがる。ほんとうに頭にくる。で、そういう他者との関係……は……気違い兄貴が気違い的なヘビメタ騒音を、鳴らすことにこだわらなければ、発生しなかったことなんだぞ。
「そんのは、こだわらなければいい」というのは気違い兄貴にむけられるべき言葉だ。
こだわらずに、「やめてくれ」と言われたら、やめてやればいいことなんだよ。けど、当時の気違い兄貴は、これがむりなことなのだ。一日に、一秒だってむりなことなのだ。
で、実際に、自分の意地を通して、一秒もゆずらないで鳴らしている。自分が満足できる音で鳴らしている。……どれだけなにを言われても、まったく気にしないで、怒ってヘビメタを鳴らし続ける。
気違い兄貴が、がまんして、自分が満足できな小さな音で一日中鳴らしていたなんてことはないんだよ。気違い兄貴がヘビメタを鳴らすときは、かならず、よその家ではあり得ないようなデカイ音なんだよ。影響を受けるに決まっているだろ。鳴ってない時間も、くるしい状態が続くに決まっているだろ。
どうして、鳴ってない時間のきつさがわからないのか? そんな一日で、いいわけがないだろ。鳴り終わったら、鳴り終わった途端に、一三時間鳴らされたことの影響が俺のからだから、立ち去るわけがなだろ。こういうのが、わかっない。やられてないやつはわかってない。一日もやられてないやつは、わかってない。一日もやられてないやつは、俺がどれだけ説明してもこういうことが、わからないままなんだよ。こいつらの視点からすれば、俺がこだわらなくていいことにこだわって、ぐちぐち文句を言っているということになる。俺は、ヘビメタ騒音にやられて、むちゃくちゃにくるしい状態で動いているのに、こいつらは俺のことを「さぼっている」と認識するようになる。こいつらは俺のことを「元気がないだめなやつだ」と認識するようになる。それだって、気違いヘビメタ騒音が発生しなかったら、発生してないことなんだぞ。俺がこの世で生活する上でヘビメタ騒音がどれだけたたっているか、おまえらにわかるか? わかるわけがない。そして、一日もヘビメタ騒音を経験しなかったやつらであり、俺をバカにしているやつからが……「俺だってくるしことがあったけどがんばって生きているんだ」なんてことを言い出す。それは、ちがうだろ。そいつらが通勤して働いているのなら、それは、通勤して働くと言うことが可能なレベルのつらいことであるわけだ。ぜんぜんちがう。

2020年4月20日月曜日

生きているこの感じが、くるしい


なんだかんだ言って、おもしろくないんだよ。
ヘビメタ騒音にやられちゃった人生……。……生活。
ほんとーーーに、くるしかった。で、くるしみが終わらない。やっぱり、くるしい。
生きているこの感じが、くるしい。生きているこの感じが、ヘビメタ騒音にやられていたときの生きている感じとおなじなんだよな。だれも、わかってくれないとは思うけど。

2020年4月19日日曜日

どれだけ「できるできる」と暗示をかけても、できない。鳴っているとできないの


ほんとうに、やめろといっているだろ……。どうして、俺だけ……。どうして、俺だけ……。どうして俺だけ、こんなことになっちゃうんだよ。やめろと言っているだろ。
こんなのはない。ほんとうに、鳴らされている日は、めちゃくちゃ。鳴らされている時間も、鳴らされたあとの時間もめちゃくちゃ。鳴らされたあとの時間が、どれだけめちゃくちゃか、他の人にはまったくわからない。わからないから、影響がないと思ってしまう。だから、「できる」と思ってしまう。できない」のに。俺が気違いヘビメタの中で、切羽詰まった状態で、どれだけ「できるように」がんばってきたと思っているんだ。その時間が全部、できないんだぞ。

実際にはできない。

どれだけ、やろうと思っていても、どれだけ「できるできる」と暗示をかけても、できない。鳴っているとできないの。本当に鳴っているからできないわけで、鳴っていなかったら、軽くできることなんだよ。ほんとうに、すべて、なめられる。すべてというのは、イ・ラショナルじゃない。

この、すべてを、イ・ラショナルだと考えるのが、イ・ラショナルナのだ。けど、これまた、やられてない人にとってみれば、それがわからない。俺が、イ・ラショナルナことを言っていると思ってしまう。けど、ちがうんだよ。実情を知らないボンボン、お嬢さんだからわかってないだけ……というのに、似ている。というか、おなじだ。実情を知らないからわかってないだけなのだ。そして、俺が言っていることがイ・ラショナルナことだと結論づけてしまう。

そういうことも含めて、俺がなめられる。ほんとうにおなじ目に遭ったことがない人間に、なめられる。不当になめられる。まちがった前提でまちがったことを言われる。そうなる。佐藤のことについてだいぶ詳しく説明したけど、佐藤とのあいだに起こったことが普通の人とのあいだに発生してしまう。佐藤は、一般的な例として、あげただけだ。「人間は働くべきだ」「ヘビメタ騒音なんて、どれだけ鳴っていると言ったって、たいしたことじゃない」と思ってしまう人間はいっぱいいる。例として出しておいただけだ。

2020年4月16日木曜日

この認めなさが、また、ひどいんだよ

昨日、帰ってくるとき自転車をこぐのがきつくなって、自転車を引いて歩いた。
まあ、そうやって、のんびりと帰ってきた。
ほんとうに、つかれている。




ヘビメタで人生がない。あれだけやめろと言ったのに。あれだけ、やめろと言ったのに。ほんとうに、気違い野郎が……。ほんとうに、気にしないで鳴らす。どれだけ言っても、無視して鳴らす。鳴らしたって、ぜんぜん悪いと思ってない。〇・一デシベルでもしずかにしてやれば、それで「しずかにしてやった」と本気で思える。ぜんぜんしずかになってないから「ちゃんとしずかにしてくれ」と言いに行くと「しずかにしてやったのになんだ」と気違い思考で怒り狂う。で、絶対にきいてやんねぇ……モードで……やりまくる。


で、そういうモードでやりまくったことは、ほんとうに、「やってない」のとおなじなのである。記憶はちょっとはあるかもしれないけど、ぜんぜん自分に関係がないことなのである。「やったってやってなくたっておなじことなのに、こいつはなにを言っているんだ」という気持ちにしかならない。


で、そういう気持のまま、そういうモードでやり続ける。兄貴がそういうモードでやり続ける。毎日、どんなに細かい時間も、すべての時間、気違いヘビメタを鳴らしているのに、本人は、まったく気にしない。「やっているつもりがとくにないまま」鳴らし続ける。それは、おかしい感覚なのだけど、そういう感覚で鳴らし続ける。

で、こういう感覚は、親父にも成り立っている。というか、親父のまねをしたという感じだ。気違い兄貴が親父のまねをして、親父の感覚で、ヘビメタを鳴らし始めたということだ。ほんとうに、うちではあたりまえ、なのである。気違い兄貴が〇歳の時から、気違い兄貴がヘビメタを鳴らし始める一五歳の時まで、いつも、気違い親父はこういう感覚だったんだぞ。おなじなんだよ。感覚も態度も、モードもおなじ。そういうふうに、「はいっちゃっている」。そういうふうに「できている」。そうしたら、「うちではあたりまえ」なんだよ。矛盾した態度、矛盾した行為なのだけど、普通に成り立っている。

で、そういうふうにしているほうは、利益がある。ほんとうは「やっちゃいけないこと」を普通にやることができる。しかも、本人のなかでは「とくにやってない」という記憶が残る。あるいは、「やったかもしれないけど、そんなのは(やったとしても)問題がない」という認識だけが残る。相手の必死さ、なんて、まったく関係がないのである。相手がどれだけしつこく言っても、関係がないのである。まるで自分に関係がないことで文句を言われるような感じしかないから、そのとき!!!「おこって」おしまいなのである。

で、やり続ける。「おこって」おしまいと書いたけど、このときの怒り方が尋常じゃないのである。気違い家族がいるひとじゃないとわからない。そういう人間が家族であるような人しかわからない。ほんとうに想像を絶する気違い的な意地で怒るし、認めない。この認めなさが、また、ひどいんだよ。

けっきょく、全部やりきっているのに、「そんなのぜんぜんやってない」「なんだそんなこと言ってきて」と思ったまま、やってないつもりでやりきる。それだってなんだって、あたりまえなのである。気違い親父の「家での態度」というのは、つねにそうだった。ときどきそうなるわけじゃなくて、つねにそうなのである。

これは、会社でいやなことがあったから、八つ当たりしているということとはちがう。あるいは、そういう態度全体とはちがう。まったく、ちがう。けど、他の人はそういうことの類推でしか、うちの親父の態度、うちの兄貴の態度のことを、理解できない。

それじゃ、そういう「あたまのくせ」がある人のやっていることだから、ゆるせるかというとそうじゃないんだよ。ゆるせないことは、ゆるせない。これも、他人は……。

2020年4月15日水曜日

長期騒音病はうつらないので、他の人にとってはどうでもいいことだ


これは長期戦になりそうだな。
どこかで外出制限を廃止すると、ふりだしにもどるというような感じだから、一年ぐらいはこんなことが続きそうだ。
俺はコロナとは関係なく、だるい。これは長期騒音病なのだ。長期騒音病はうつらないので、他の人にとってはどうでもいいことだ。

2020年4月12日日曜日

「うけとめかたのもんだいだ」という言葉では相対化できない部分がある


まあ、起きたあとのんびりして、他人のブログを読みまくる。
最近思うのだが、やはり、他人のブログを読む時間が長すぎる。
おきてから他人のブログを読み終わるまでで、そうとうに目を使っている。これは、やばい。ぼくはもう、残された目の力を、温存しなければならないような状態になっている。わかいときとはちがうのだ。
永遠に続くいのち……ではないけど、普段生きているときは、すぐに死ぬとは思ってない。思ってない。

死にたいというのは、苦しみたくないということだ。ほんとうに死にたいわけじゃないのである。「つらい状態」から離脱したいということなのである。じゃあ、「つらい状態」というのはなにかというと、これは、人によってちがう。本人が「つらい」と思ったら、他の人から見て「つらそうじゃない」状態でも、「つらい」状態なのだ。だから、本人が決めることだ。

これを、「おもいようだ」と言うつもりはない。「うけとめかたのもんだいだ」と言うつもりがない。どうしてなら、「おもいようのもんだい」でもないし「うけとめかたのもんだいでもない」からだ。

人間にはいままで生きてきた文脈がある。その文脈から離れて「うけとめかた」を考えてみてもしかたがない。「うけとめかたのもんだい」「おもいようのもんだい」という言い方は、すべてを相対化してしまう。だから、一見、「できそうにみえる」けど、「みえるだけ」。もし、受けとめ方の問題だという言い方で納得ができて、別の受けとめ方をすることができる人間であれば、「つらい」と思ってないのだ。

「うけとめかたのもんだいだ」と思ってどうにかなるような「ちいさな」問題は、じつは、(本人にとって)死にたくなるような問題ではない。受けとめ方を変えようと意識的に思ってもどうしても、本人が「つらい」と思ってしまう、あるいは、感じてしまう問題がある。その問題に関しては、じつは「うけとめかたのもんだいだ」というような相対的な文言は意味をなさない。

「うけとめかたのもんだいだ」と言い切ってしまう人は、その人にとって感じる問題が、すべて、「ちいさなもんだい」である場合しか経験してない。ようするに、「うけとめかたのもんだいだ」「だからきにするひつようがない」「だから、つらいとおもうひつようがない」と思って、相対化できるような問題しか経験したことがない人なのだ。そういう人は、いると思う。

しかし、そういう「ちいさなもんだい」しか経験してない人ばかりではない。その場合、「ちいさなもんだい」しか経験してない人には、「おおきなもんだい」が目に入らないし、そういう大きな問題を抱えている他者というのも目に入らない。そもそも、存在ない。

どうしてなら、「おおきなもんだいだ」と感じるのは、個人の受けとめ方の問題だからだ。「ちいさなもんだい」「おおきなもんだい」と言ってきたけど、それは、「個人」によって「相対化される」。べつに、客観的な世界に物理的なものとして「もんだい」が存在しているわけではない。だから、いちおう、説明するために利用した「ちいさなもんだい」という言い方「おおきなもんだぃ」という言い方も、ここでは、相対化される。

しかし、だ……。しかし、文脈はあるというのが俺の考え方だ。「うけとめかたのもんだいだ」という言葉では相対化できない部分がある。それは、物理存在ではないけど、その人が実際に生きてきたことによってしょうじる、積み重ねの認知システムとして存在している。その人のなかに……。

2020年4月8日水曜日

「やめろ」と言われたときの反応がおかしい。これも、他の人には絶対にわからないところなんだよな


ヘビメタ騒音でうまくいかない。
あのときの、感覚が、ある。ある。
他の人には、わからない。

どれだけの繰り返しがあったか……。たとえば、気違いヘビメタ騒音を経験したことがない他人は「ヘビメタ騒音でうまくいかない」という言葉を聞けば、「へびめたそうおんのせいにしている」と思うわけだ。これが、おかしい。これ自体がおかしい。あれがわかってない。あの、雰囲気、あの感覚。あの時間の、持続。実際の持続。毎日、どれだけ続いたと思っているんだよ。どれだけ、毎日長い時間、続いたと思っているんだよ。気違い兄貴は、気違いだから絶対にいうことを聞かない。気違い兄貴は、気違い親父とおなじだから、夢中になってやったことは、全部やってないことになっている。あの長い時間、あのこだわり具合で鳴らし続けたのに……しつこくしつこく鳴らし続けたのに、自分が夢中になってやったことは、やってないことになっているんだからな。「やった」と言われると「やってないやってない」と親父のように「夢中になって」反対して、それでおしまいだ。そのやり方で、やり始める。そのやり方で、やり続ける。で、やり終わったら、「やってないやってない」と夢中になって反対する。やり口がおなじなんだよな。「やめろ」と言われたら、真っ赤な顔をして、夢中になってやる。気違い的な意地で、やる。こだわりの音でやる。自分がこだわっている音でやることに命がかかっているから、こっちが「やめてくれ」「やめろ」とどれだけ近距離で絶叫しても、無視してやり続ける。なにも言われなかったのとおなじ状態でやり続ける。やり続けることができれば、それで、本人のなかでは、すんでいるわけで、「なにもいわれなかった」ということになっている。その場で、即座に殺さなければ、やめさせることができない。真っ赤な顔をして無視して、頑固に鳴らし続ける。こだわりの音で鳴らし続ける。・・・あれで!! あれで!!! やってないつもりなのかよ??
これ、ほんとうに不思議なんだけど、やってないつもりなんだよ。行動と態度を見ると、そうだ。

実際に長い間毎日毎日、そういうことが続くと、不可避的に、こまる。不可避的につかれる。これが、実際にやられてない他人には、心底わからない。「どうにだってなる」と思ってしまう。この溝が……認知の溝が、実際の人間関係の溝になる。深い深い溝になる。

けど、「どうにだってなる」と思っている他者は、それもわからない。俺がただ単に落ちぶれていくだけに見える。俺が「いいわけをしている」ように見える。絶対のちからで、だめになっていくのに、それがわからない。自分がこの世で一番嫌いな音が、家族によってずっと鳴らされている毎日を経験した人じゃないとわからない。その家族というのが、他の人には理解できない、かわった家族で、その家族のなかでは「やったってやってない」がつねに成り立っている。つねにやったってやってない」が成り立っているのだから、終わったときには「やってない」つもりになれるのだ。しかし、やっているときに「やめろ」と言われたときの反応がおかしい。これも、他の人には絶対にわからないところなんだよな。実際に目の前でやられたことがない人にはわからない。そういう家族がいる人以外にはわからない。

気違いヘビメタの程度としつこさと、気違い兄貴態度全体がわかってない人には、俺が「どうでもいいことで」だめになってようにしか見えない。「こだわらなくていいことに」こだわっているようにしか見えない。「そうでなくても、そうなったのに」「それのせいにしている」としか思えない。どうしてなら、ヘビメタ騒音は、それほど重大な理由にならないからだ。ヘビメタ騒音なんてものがそんなに影響をあたえるはずがないからだ。この認知のちがいは、大きい。やられればわかるけど、俺の認知のほうが正しい。ほんとうは、「だれだってそうなる」のに、やられたことがないひとには、わからない。俺だけがやられたから、……俺だけが、世界でただひとり……実際にやられたので……やられた場合のからだの状態を知っている。時間というのはつながっているから……つながっているように思えるものだから……やはり、やられたことの影響を受ける。これも、勝手に否定する常識的な人ばかりだ。「どれだけやられたって影響を受けないことは可能」なのである。けど、ほんとうは、その人にとってもそうではないのだけど、その人には、幼児的な万能感が成り立っているから認めない。あるいは、経験がまったくないから、認めない。想像して……そう思うだけだから、わからない。実際に経験したことではなくて、言葉を聞いてその人が「想像したこと」をもとにして考えているから、わからない。

俺は生きているあいだになにができるんだろう?


死んじゃったらおしまい。
はかないねぇ~~
俺は生きているあいだになにができるんだろう?

2020年4月4日土曜日

俺はもう、全部がいやだ


俺はもう、全部がいやだ

という気持ちになる。
いま、なった。

優先順位をつけて、優先順位が高いものからやろうというのは、一見良さそうなのだけど


まあ、時間がある場合、本人が「どうしてもやりたくない」と思うこと以外はできるんだよな。けど、やはり、からだがだるいときは、動きたくない。これは、他の人にとっては、高齢者にならなければ発生しない問題だったのだろうけど、俺は、小学生のときから、ヘビメタ騒音をやられているので、なにをやるときも「くたくたになった」からだを引きずるようにしてやるようなところがある。そうしないと、「できない」のだ。しかし、それにも限界がある。
今回言いたかったのは、やらなければならないことの優先順位を決めて、下の方から実行していけば、ゼロよりはましなのではないかということだ。

普通、優先順位をつけて、一番上からやっていこうとするだろう。優先順位一位の項目から、やろうとするはずだ。しかし、これがまちがいなのである……ということを言いたかった。できる人はいいけど、鬱病レベルを超えて、疲れ果ててしまった人は、それができない。疲労にはいくつかの種類があると思う。種類がなくても、とりあえず、種類があるとする。

分類方法としては、長期的な累積疲労と短期的な疲労とにわける。長期的な累積疲労がない人は、ぼくが言っていることがわからない。長期的な累積疲労は、一日、よく眠っただけでは、とれない。一〇日間、一日ずつ、よく眠っただけでもとれない。はっきり言えば、一〇〇日間、一日ずつ、よく眠ってもとれない。とれないというのは、つかれがとれないという意味だ。こういう疲れを持っている人は、優先順位一位からやろうとすると、けっきょく、めんどうくさくなってできない。優先順位一位から一〇位まであるなら、むしろ、一〇位からやり始めるべきなのである。けど、一〇位からやろうとしても、ほんとうにつかれているときは……つまり、「疲労度が高い」ときは、できないと思う。

優先順位をつけて、優先順位が高いものからやろうというのは、一見良さそうなのだけど、ダメなのではないかというのが、経験からわかる。どうしても、それだと、やる気になれない。優先順位が低いところからやった方がいい。

2020年4月3日金曜日

「俺だって、騒音ぐらい経験した」……「けど、気にしないでがんばって生きている」


もうちょっと、いろいろな気持ちで、いろいろとやりたいのだけど、「くうきょ」「むなしい」という言葉に代表されるような感情になってダメだ。これは、別に俺がヘビメタ騒音以降、いろいろなこころみをしなかったということではないのだ。

したが、だめだったのだ。

ほんとうに、気違いヘビメタ騒音の一日の影響がわかる人がいない。あの時間を生きた人じゃないとわからない。それが、一〇〇〇日つもったときの状態がわかる人はいない。そして、けっきょく、ヘビメタ騒音の影響なんてゼロなんだという前提でものを言ってくる。

あるいは、「(ヘビメタ騒音は)ちょっとした騒音だ」という前提でものを言ってくる。「俺だって、騒音ぐらい経験した」……「けど、気にしないでがんばって生きている」……というようなことを言うか、あるいは、気分的にそういう気分になる。
けど、ちがう。

クレパス。

ぜんぜんちがう。

ぜんぜんちがうということが、彼らにはわからない。わからないということも、わからないだろう。

2020年4月2日木曜日

「無職は悪」というのは、内在化された基準なので、やっかいなのだ


あー、ヘビメタでぼろぼろで、いいことなんてなかったな。
どれだけ、ぼろぼろになるか。
「鳴ってる」だけで、どれだけこころが、くずれるか。
「鳴りつづける」と、どれだけすべてが、むちゃくちゃになるか。


ほんとうにつらかった。どれだけ言っても、エイリが「言っているだけ」になってしまうんだよな。俺以外の人間は、経験してないから。ほんとうに、やり切れな気持ちを抱えて、騒音に耐えている時間が、くるしすぎる。むだとか不効率とかということではなくて、くるしすぎる。

勉強ということを考えた場合、むだとか不効率ということが問題になる。それ以前の問題で、ヘビメタ騒音にさらされていると、めちゃくちゃだった。「そんなによゆうがない」。効率とか不効率とか言っているよゆうがない。ひたすら、くるしい。

この部屋のどこにいてもくるしかった。気違い兄貴側の壁から、はなれれば、音がちょっとはしずかになるということはなかった。おかあさんの部屋までいけばちがう。おかあさんの部屋では眠ることができたけど、この部屋では眠ることができなかった。だから、鳴っている時間眠って、……学校から帰ってきたら午後四時ぐらいから眠って、午前二時ぐらいに起きて、勉強するということができなかった。

みんながちょっと考えただけで思いつくような「対策」は全部、こころみた。けど、まったくだめだった。実際にやったらまったくうまくいかなかった。「なってたら」だめなんだ。それが、実際にやられてない人にはわからない。俺だって、わかってなかった。けど、毎日続くから、否応なく、いま持っているような認識ができあがった。

何日も何日も、毎日やられてないと、実際に、どういう状態になるかわからない。ちょっと考えれば思いつくような「対策」がどれだけ無意味か、わからない。そういう場合、ちょっと考えて「対策」をアドバイスしてくれた人は、気分が悪くなる。

俺が「その対策はだめだ」と言うからだ。「やってみなければわからないだろ」。「やってだめだったんだよ」。……そういうところでも、対人関係上の問題になるんだよな。よいコミニュケーションが成り立ちにくくなる。


俺の感情はめちゃくちゃ。そして、そういうことがあった日だって、気違い蛇目だ鳴っていた。「やめろやめろ」と怒鳴り込んだあと、ずっと鳴っているときの気持ちといったらない。これも、他の人にはわからない。佐藤のような人間は、「鳴っていると言ったって、たいしたことはないんだろ」と思って、そういう前提で、いろいろなことを言う。その場合、俺をこころから、バカにしているということになる。軽く見積もるということになる。そうならざるを得ないのである。

これ、本人はそのつもりがないんだろうけど、ほんとうは、軽く見積もって、バカにしている。気がつかないだけ。共同幻想はほんとうは、偏見なのだけど、共同幻想内ではもちろん、偏見ではないということになる。中立的な見方だということになる。働いてない人間に対する蔑視の傾向は、ぬぐいがたく、ある。もう、あまりにも深いところにありすぎて、それをそれとして認識することができない。

就職に失敗して、死んでしまう人がいる。「就職ぐらいで死ぬことはないの」と思う人は多いだろう。就職できなかったからといって、殺されるわけではないのだから、自殺する必要はないという考え方だ。就職に失敗して自殺してしまう人のこころのなかには、無職蔑視のこころがあるのである。

だから、自分が無職になるわけにいかないのである。自分が……自分自身が「軽蔑している存在になる」ということがゆるせない。「無職は悪」というのは、内在化された基準なので、やっかいなのだ。

もちろん、表面的にはいろいろとある。「無職蔑視」だけが、原因ではない。しかし、「無職は悪」と思い込んでいる人は、自分が無職になったときに、自殺しやすい。「しかし、定年退職者なんて、自分が無職になったって死んだりしないだろ」と思う人がいるかもしれない。定年退職者は、無職であって無職ではないのだ。

この国ではそうだ。四五年ぐらい働き続けた人は、四六年目に無職になっても、無職性の低い無職になっただけだから、自分のことを無職だとは思わない。「ぜんぜんちがう」のである。「職歴がない三〇歳とは、ちがう」という自意識がある。

そして、共同幻想が、それを支持している。

だから、そういう考え方を持っていたとしても、だれからもせめられない。俺からは、「おなじだ」とせめられるけど、他の人からはせめられない。共同体のなかにいる共同幻想にどっぷりつかった人からはせめられない。その人たちの感覚では「もう、働いたのだからいい」ということになる。けど、それは、ちがうのだ。

よくない。無職かどうかはその時の状態のについて言及しているわけだから、まさしく、過去は関係がないのである。「過去においてじゅうぶん長い期間、働いた人は無職であったとしても無職ではない」と考えるのは、ほんとうはおかしいことだ。共同体のなかにいて、共同幻想にどっぷり使っている人にわからない。

むしろ、僕の感覚のほうがおかしく思えるだろう。現在の状態について言及しているわけだから、「過去において、どれだけ働いたかは関係がない」という考え方は少数派だ。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。