「(人に)親切にすれば、しあわせになる」……こういうレベルのことを、正しいと思ってしまう人ばかりなのか? 親切にするということはどういうことなのか?ということについて考えないのか?
たぶんこういうことを言う人たちは、恵まれすぎて、恵まれてない人のことがぜんぜんわからない人だと思う。こういう言葉が、すでに、ボロボロにされている人を、どれだけ追い込むかわかってない。すでに困っている人を、どれだけ追い込むかわかってない。
抽象性ということについては、後でもうちょっと詳しく説明するかもしれない。親切にするというのは、この世の具体的な行為を離れた抽象的な親切にするような行為なのである。しあわせになるという言葉も、じつは、この世の誰かが、このようにしあわせになるということを離れた、抽象的な言葉なのである。本当は、この世に何一つ対応しているものがないのである。それは、リンゴという言葉によってしめされる抽象的なりんごは、この世のどのリンゴとも一致してないということに似ている。しかし、リンゴのように具体的なものではなくて、親切にするというような、そもそもが抽象的な概念なのである。あるいは、しあわせになるというような抽象的な概念なのである。なので、抽象度がリンゴというような物質よりもあがっている。
個々の具体的な場面がなければ、親切にするも、しあわせになる」もないのである。そして、ここの具体的な場面における「親切にする」というのは、抽象的な「親切にする」とは一致してないし、ほかの場面における「親切にする」とも、一致してないのである。おなじことが「しあわせになる」ということにも成り立つ。このことは、個々の具体的な場面における「しあわせになった」というような感想や感覚が、じつは唯一無二であるということを示している。完全にユニークな知覚、感覚、認知、認識なのである。個々の具体的な知覚、感覚、認知、認識を離れた、抽象的な「しあわせになる」ということは、どこにも存在しない。
なので、抽象性の問題を含んでいる。あるいは、抽象化してしまったときに生じる問題を含んでいる。
問題なのは、言葉の抽象性だけではない。
親切にすれば、しあわせになるという関係性の問題なのである。個々の具体的な親切から離れた抽象的な親切行為をおこなうと、ここの具体的なしあわせから離れた抽象的なしあわせが現実化されるということなのである。これは、XをすればYになるということだから、100%そうなるということを言っているのである。さらに、Xが原因でYになると言っているのである。これも、100%の因果関係が成り立つということを言っているのである。抽象的な「親切」と抽象的な「しあわせになる」ということのあいだに、100%の因果関係が成り立っているということを示す文なのだ。
しかし、そんなことは、ない。現実の世界において、なにをもってして、親切行為かとする問題を捨象しても、100%の因果関係などはない。これは、もう、言っている人がどういうことを言っているのか理解してないとしか言いようがない。
たぶん、言葉と具体的な行為について考えたことがないのだろう。人間にかかわる具体的な行為を、親切にするという言葉で抽象化し、人間にかかわる具体的な状態を、しあわせになるという言葉で抽象化し、言葉同士(両方の言葉)の因果関係を100%の確率で言いきってしまう……。これがどういうことだかわかっているのだろうか? こういう人たちは、具体的な場面での親切というものを考えていない。抽象化したレベルの「親切にする」ということと、具体的な場面での「親切にする」ということの、区別をしてない。具体的な場面での「親切にする」も、頭の中ですぐに抽象化してしまうのである。具体的な場面の「親切にする」ということがそこでしか成り立たない唯一無二の現象だということに気がついていない。
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抽象的なリンゴは(現実世界においては)どこにも存在しないという問題に似ている問題。けど、もっとずっと複雑。どうしてなら、リンゴというような物質ではないから。もともとが抽象概念。さらに、言葉同士の『100%の関連性』が成り立つと言ってしまう問題。XをすればYになるという命題を考えたとき、例外なく100%成り立つということを言っているということになってしまう。