2021年9月30日木曜日

具体的な行為と抽象化の問題(現実の場面における具体的な行為と言葉による抽象化の問題)

「(人に)親切にすれば、しあわせになる」……こういうレベルのことを、正しいと思ってしまう人ばかりなのか? 親切にするということはどういうことなのか?ということについて考えないのか?

たぶんこういうことを言う人たちは、恵まれすぎて、恵まれてない人のことがぜんぜんわからない人だと思う。こういう言葉が、すでに、ボロボロにされている人を、どれだけ追い込むかわかってない。すでに困っている人を、どれだけ追い込むかわかってない。

抽象性ということについては、後でもうちょっと詳しく説明するかもしれない。親切にするというのは、この世の具体的な行為を離れた抽象的な親切にするような行為なのである。しあわせになるという言葉も、じつは、この世の誰かが、このようにしあわせになるということを離れた、抽象的な言葉なのである。本当は、この世に何一つ対応しているものがないのである。それは、リンゴという言葉によってしめされる抽象的なりんごは、この世のどのリンゴとも一致してないということに似ている。しかし、リンゴのように具体的なものではなくて、親切にするというような、そもそもが抽象的な概念なのである。あるいは、しあわせになるというような抽象的な概念なのである。なので、抽象度がリンゴというような物質よりもあがっている。

個々の具体的な場面がなければ、親切にするも、しあわせになる」もないのである。そして、ここの具体的な場面における「親切にする」というのは、抽象的な「親切にする」とは一致してないし、ほかの場面における「親切にする」とも、一致してないのである。おなじことが「しあわせになる」ということにも成り立つ。このことは、個々の具体的な場面における「しあわせになった」というような感想や感覚が、じつは唯一無二であるということを示している。完全にユニークな知覚、感覚、認知、認識なのである。個々の具体的な知覚、感覚、認知、認識を離れた、抽象的な「しあわせになる」ということは、どこにも存在しない。

なので、抽象性の問題を含んでいる。あるいは、抽象化してしまったときに生じる問題を含んでいる。


問題なのは、言葉の抽象性だけではない。

親切にすれば、しあわせになるという関係性の問題なのである。個々の具体的な親切から離れた抽象的な親切行為をおこなうと、ここの具体的なしあわせから離れた抽象的なしあわせが現実化されるということなのである。これは、XをすればYになるということだから、100%そうなるということを言っているのである。さらに、Xが原因でYになると言っているのである。これも、100%の因果関係が成り立つということを言っているのである。抽象的な「親切」と抽象的な「しあわせになる」ということのあいだに、100%の因果関係が成り立っているということを示す文なのだ。

しかし、そんなことは、ない。現実の世界において、なにをもってして、親切行為かとする問題を捨象しても、100%の因果関係などはない。これは、もう、言っている人がどういうことを言っているのか理解してないとしか言いようがない。

たぶん、言葉と具体的な行為について考えたことがないのだろう。人間にかかわる具体的な行為を、親切にするという言葉で抽象化し、人間にかかわる具体的な状態を、しあわせになるという言葉で抽象化し、言葉同士(両方の言葉)の因果関係を100%の確率で言いきってしまう……。これがどういうことだかわかっているのだろうか? こういう人たちは、具体的な場面での親切というものを考えていない。抽象化したレベルの「親切にする」ということと、具体的な場面での「親切にする」ということの、区別をしてない。具体的な場面での「親切にする」も、頭の中ですぐに抽象化してしまうのである。具体的な場面の「親切にする」ということがそこでしか成り立たない唯一無二の現象だということに気がついていない。

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抽象的なリンゴは(現実世界においては)どこにも存在しないという問題に似ている問題。けど、もっとずっと複雑。どうしてなら、リンゴというような物質ではないから。もともとが抽象概念。さらに、言葉同士の『100%の関連性』が成り立つと言ってしまう問題。XをすればYになるという命題を考えたとき、例外なく100%成り立つということを言っているということになってしまう。

2021年9月28日火曜日

「やめてくれ」とさんざん言っていることを、きちがい的な意地でやってしまう人間と一緒に住んでいると、ものすごく不幸になる

 親父がやったことがでかすぎる。どうやっても対処できない。

ネズミの侵入を五年間もゆるしたということが、めちゃくちゃに重要だ。段ボールを片づけようとしたら、ネズミの糞がころがった。基本的に言って、鼻がかゆい。絶対にいやだったのに……。だから、さんざん言ったのに。だから、言っただろ!!

親父、おまえがやったことで、いまも苦労しているよ。

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いま、蚊取り線香をたいているけど、無理っぽいんだよな。

蚊取り線香のガスも、どうしても、こっちにくる。のどがいたくなる。

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 どうするかな?


昨日、Big-Aに行ったときは、わりといい雰囲気だったんだけどな。やっぱり、帰ってきてダニに鼻を刺されてから、くるしい気持ちになった。これ、本当に、親父が原因なんだよ。親父が死んだにもかかわらず、親父がやったことの影響を受けている。ほんとうに、いっしょに住んでない人にはわからないと思うけど、「やめてくれ」とさんざん言っていることを、きちがい的な意地でやってしまう人間と一緒に住んでいると、ものすごく不幸になる。頭がおかしい人と住んだことがない人にはわからない。

きちがい的な意地の出所が親父の頭なんだよね。きちがい的な意地というのは、親父のきちがい的な意地という意味だ。「の」が重複するから、わけて言うことにした。

頭がおかしい親兄弟といっしょに住むことがどれだけ、つらいことか、頭がおかしい親兄弟といっしょに住んだことがない人にはわからないと思う。これ、頭の構造がそうなっているから、普通の話が通じないんだよね。きちがい親父の場合、自分(親父)が思いついたら、こっちがこまることでも、絶対の意地でやってしまう。こっちが「やめてくれ」「やらなくていい」「やってくれるな」とどれだけ、大声で叫んでも、頭がおかしい感じでやってしまう。殺さないとやめさせることができない。どれだけ、首をしめたくなったか。「やめてくれと言っているだろ」と言って、親父の首をしめたくなった。親父が意地をとおすとき、顔が真っ赤になったり、へんな形相になるんだよ。首をしめたくなったにもかかわらず、首をしめずに、我慢したということが、どれだけ俺の体に影響を与えるか。ものすごい、ストレスで、からだがボロボロになってしまう。

こっちがこまることを、どれだけやめてくれと言っても、けっきょくはやってしまう。その結果、ネズミが入ってくるようになる。ネズミが入ってくるようになったら、なったで、今度は、「(自分がネズミを)捕まえるからいい」と言って、ネズミ対策工事をさせないようにする。どれだけこまるか。ネズミの侵入経路をふさがなかったら、つかまえても、つかまえても、あとからあとから入ってくるようになってしまうだろ。実際そうなった。そうなるから工事をしようとさんざん言っているのに、全部、へんな形相をして無視だ。

ネズミのことだけではなくて、むかしっから、そうなんだよ。こっちがこまることを、全力でやる。どれだけ「やめてくれ」と絶叫しても、無視して、やってしまう。

兄貴のヘビメタもおなじなんだよ。これ、ほんとうに、兄貴の頭とおやじの頭の構造がおなじなんだよな。形相もおなじ。顔を真っ赤にするところもおなじ。これ、やっちゃえば、「やってないこと」になってしまう。それもおなじ。どれだけの意地でやったか、本人はまったくわかってない状態になってしまう。やるということに、こだわってこだわってこだわって、どれだけ、やめてくれと言っても、やったのに、やってしまえば、関心がなくなってしまう。本人は、こだわってないと思っている状態になってしまう。けど、こだわってやったとか、こだわってないということが、そもそも、問題になってないんだよ。そんなのやったってやってなくたって自分には関係がないという状態になってしまうから。じゃあ、やめてくれと言ったときに、やめてくれるかというと、それは絶対にない。本人にとってやめてやるのは、都合が悪いことなのである。で、本人にとって、意地になってやったことを認めるということが、都合が悪いことなのである。都合が悪いことは、どれだけ矛盾があっても、認めない。認めなければ、本人のなかでは、やったことになってしないし、どうでもいいことになっている。どうでもいいことというのは、こだわってないことという意味だ。けど、本当は、命がけでこだわっている。こだわってこだわって、絶対の意地でやってしまう。けど、本人は、無関心なんだよ。やってしまえばね……。殺さないと、やめさせることができない。日常生活のなかでそういうことをしているのだけど、……きちがい的な意地でやっているのだけど……本人は、やり終わったあと、一切合切、関心がない状態になってしまう。関心がない状態になったときは、自分がやったことではないような感じになっている。だから、やり終わったあとに、どれだけ言っても、「なにを言われているのかまったくわからない」という状態になる。親父は「やってないやってない」と叫ぶし、きちがい兄貴は、「こいつはなにを言っているんだ」というような形相で無視をする。で、そういうことの認識が全部、ブツギレになっている。だから、本人は、こまらないわけだけど、まわりのひとはこまるんだよ。本人は、ほんとうならできないことを、やってないつもりでやってしまうのだから、『得』をしている。ほんとうなら、我慢しなければならないことを、やってしまうのだから、『得』をしている。その徳が手に入るなら、なんだっていいのである。だから、自分の態度の矛盾や、自分の認識の矛盾には一切合切気がつかない。いつもそうやって、繰り返してやる。

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2021年9月27日月曜日

この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

 


度数というものがあると思う。むかし、と言ってもつい最近だけど、持続時間が問題なのではないかということを書いた。で、今度は、しあわせだと感じる度合いについて書いてみたいと思う。

基本的に、法則性があることとして「親切にすれば、しあわせになる」ということを言ったとしよう。けど、きちがい的な父親に虐待されている子供が、友達に親切にしても、そんなにはしあわせにならないと思う。

繰り返しになるけど、「しあわせになる」というのは、ある程度長い期間にわたってしあわせな生活をするというイメージがある。瞬間的な「幸福感」のことを言っているのではないのである。

たとえば、友達に親切にしたとき、きちがい父親に虐待されていることをわすれて……三分間ぐらい、いいことをしたつもりになって幸福感を感じたとしよう。この場合、家に帰って、きちがい的な父親とあってしまえば、それで、しあわせな感じというのはなくなる。破壊される。

きちがい的な父親がいちゃもんをつけてきて、激しく怒り狂うので、いやな気持になる。この場合、さっきまでの幸福感はなくなり、不愉快で不幸な気持になるのである。きちがい父親がきちがい父親である限り、そして、子供として一緒の家に住んでいる限り、その子供は「しあわせにはならない」のである。……たとえ、「人に親切にした」としても……。

だから、こういうことを無視して、あたかも物理法則のように「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言うのはよくないということを言ってきたのである。

これが、前回までの内容で、今回は、度合いについて考える。ようするに、さきの例で言えば、友達に親切にしたときに、感じるしあわせの度合いを一(いち)だとする。そして、きちがい的な父親にわけのわからない理由で怒り狂われたときに感じる不幸の度合いを三一(さんじゅういち)だとする。その場合、一日のなかで、このふたつが大きな出来事だとすると、三〇(さんじゅう)ぶんだけ、不幸になってしまうのである。

度合いや、頻度ということを無視して、あたかも、一回でも人に親切にすれば、「しあわせになれる」と言ってしまうのは、問題がある。

どうしてかというと、これがまた、恵まれた人にはわからないのだろうけど、この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

おぼれているひとというのは、すでに強烈に不幸な人のことだ。

強烈に不幸な人だからこそ、しあわせになりたいのである。

しあわせになる方法を求めてしまうだろう。

しかし、そのしあわせになる方法というのが、がせねたなのである。嘘情報なのである。どれだけやっても、しあわせにはならないことなのである。マリーアントワネットが言霊主義者だったらということを書いたけど、「わたしは、しあわせになる」と言っても、しあわせにはならない場合がある。それは、パンが出てこないのとおなじなのである。

パンもケーキももってない人が、「パンがあるパンがある」といくら言っても、パンが出てこないように、すでに不幸せな人が「わたしは、しあわせになる」と言ってもしあわせにならない。

すでに不幸な人は、すでに不幸である「理由」がある。

その理由がなくならなければ、しあわせになる「前段階」にも到達しないのである。……どーーして、これがわからないのか?

たとえば、さきの子供の例で言えば、きちがい的な父親が、きちがい的な父親ではなく、正常な父親にならないと、その子供が「わたしは、しあわせになる」と何回も何回も言ってもしあわせには、なれないのである。あるいは、そのきちがい的な父親と引き離されて、普通の生活をしなければ、しあわせにはなれないのである。

きちがい的な父親に常に、毎日、たたられているのに、「しあわせだ」と感じることはないだろう。かりに、しあわせを感じる瞬間があったとしても、その瞬間は、短く、たたられて、くるしく、不愉快で、不幸な感じがする生活が続く。

不幸な感じがする生活が長く続いているのに、「しあわせになる」ということはない。

人に親切にするということも、おなじだ。「しあわせだと言えば、しあわせになる」ということと、同じレベルのがせねた、嘘情報なのである。どーーして、これがわからないのか?

2021年9月26日日曜日

マリーアントワネットが言霊主義者だった場合

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民衆「パンがない! パンをよこせ!」


マリーアントワネット「パンがないなら、ケーキを食べればいい」


民衆「パンも、なければ、ケーキもない」


マリーアントワネット「ないと言うから、ない。あると言えば、パンが出てくる」


民衆「あると言ってもパンなんて出てこないぞ」


マリーアントワネット「言った回数がたりない。出るまで、何回でも言えばいい」


民衆「何百回、何千回言っても、パンなんて出てこないぞ」


マリーアントワネット「そんなことはない。私の場合、パンが出てきた。パンがある状態になった。だから、きっと、あなたのもとにもパンが出てくる」


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マリーアントワネットの場合、「パンがある。パンがある」と言っていたので、従者がもってきただけ。けど、マリーアントワネットにしてみれば「パンがある。パンがある」と言ったら、パンが出てきたというのは、事実。事実を言っている。なら、正しいか?

民衆が「パンがあるパンがある」と言えば、パンが出てくるか?

そんなことはない。

言霊主義者の「助言」というのは、このくらい、ずれている。やっただけ、損をする、ガセネタ。嘘の情報。信じるに値しない情報。

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無料ダウンロードできます。


2021年9月25日  2021年9月28日


脱力さんがゆく 3

2021年9月25日土曜日

非合理的な思考にとらわれて、できるはずの努力をしないから、だめなのだ……

 手短に言うと、もっている人たちは、もっていない人の状態がわからない。また、人間はどうしても、自分が普通だと考えてしまうので、もっている人たちは、もっているのが普通だと思ってしまう。

なので、じつは「もってない」人に対しても、「もっている」という前提でものを言ってしまう。

物理的なものだと、「もってない」ということや「もっている」ということは、比較的に言ってわかりやすい。しかし、物理的なものに関しても、「もってないなら、もてるようにすればいい」というようなことを言うことができる。

もちまえの?ポジティブ思考や認知療法的な意味での合理主義にこだわっていると、どうしても、そういうことを言いがちになる。

しかし、これもまた、「もってない」ということがわかってないという場合がある。

どういうことか?

たとえば、「パンがないなら、パンをつくればいい」「ケーキがないなら、ケーキをつくればいい」ということを、ポジティブな人が言ったとする。その発言だけは、あっている。

けど、小麦粉やほかの材料がないという状態だと、「つくれない」のだ。「もっている」人は、こまっている人が「小麦粉やほかの材料をもってない」ということがわかってない。

けど、「小麦粉やほかの材料がない」というとを聞いたポジティブな人は「小麦粉がないなら、小麦粉をつくればいい」「ほかの材料がないら、ほかの材料をつくればいい」とか「小麦粉やほかの材料がないなら、小麦粉やほかの材料を買えるだけのお金をつくればいい(稼げばいい)」ということ言いたくなってしまうのだ。

……ポジティブ思考にとらわれているとそういうことを、「相手の状態を考えないで」言いたくなってしまうのだ。しかし、相手の状態というのは、小麦粉やほかの材料をつくることができない状態であり、また、小麦粉やほかの材料を買うためのお金を稼げない状態であり、さらにまた、小麦粉やほかの材料がそもそも、売ってないという状態なのだ。

マリーアントワネット庶民の関係では、マリーアントワネットが絶対的少数派、庶民が絶対的な多数派だった。

だから、「マリーアントワネットは、(自分たちの状態を)まったわかってない」という考えを、庶民が共有できたのだ。しかし、もっているほうが多数派で、もってないほうが少数派だったらどうなるか。

多数派には、少数派が、「どーーしょうもないことを言っている」ようにしか聞こえない。多数派には、少数派が、「非合理的でネガティブなことを言っている」ようにしか聞こえない。

そうなってしまう。

「どうして、ないならないで、つくろうとしないのか?」「どうしてないならないで、それを買うお金をつくろうとしないのか?」という意見が、社会的に見て、正しいことのように思えてしまう。どうしてなら、多数決の世界だからだ。

「状態」がわからなければ、わからないことがある。「状況」がわからなければ、見えないことがある。どういう状態や状況で、ものがないのかということがわかってないと、ものがないということに関しても、まとはずれな発言をしてしまうのだ。

暗黙知のように、判断の背後には、無数の状況に対する理解が存在している。どうして、お金を稼ぐことができないと判断しているのか、どうして、お金あってもものを買うことができないと判断しているのか……そういうことが、わかっている人は、わかっているのだけど、わかってない人にはわからないのだ。

わかっている人は、そういう主張をしている本人たちだ。わかってない人は、そういう主張を聞かされた人たちだ。わかってない人たちは、そういう主張を聞かされると、状態や状況を無視して、自分にとって正しいことを助言してしまう。

「まるまるすればいい」と言ってしまう。

しかし、助言をしたほうは、悩みごとについて発言したほうの状態や状況がただ単に、わかってないだけのなかもしれない。助言をしたほうは、悩みごとについて発言をしたほうの「背後にある条件」が理解できてないだけかもしれない。

しかし、理解できてないということを、ポジティブ思考にとらわれている人が認めるだろうか。

ぼくは、ポジティブ思考にとらわれている人が、「自分は相手の条件、状態、状況を理解してないので、非合理的なまちがった助言をしている」ということを認める可能性は、きわめて、小さいと思う。可能性という言葉に関しては「ひくい」のほうがより適切なのだけど、わざと「ちいさい」という言葉を使うことにした。

……ちいさい。

しかし、社会において多数派がそういう人間たちで構成されているなら、それで押し通すことができる。「悩みごとについて発言したほうが、非合理的な思考にとらわれて、できるはずの努力をしないから、だめなのだ」と考えることができる。多数派なら、理解をしないまま、そういう主張を押し通すことができる。


2021年9月24日金曜日

騒音サイコパス 4 無料ダウンロード

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2021年9月27日 2021年9月30日

騒音サイコパス 4

2021年9月23日木曜日

ぼくの場合は、ぼく以外の人類と、ぼくひとりのたたかいになっている。

 一階のトイレに行って、しばしのあいだ滞在しただけなのに、腕をダニに刺された。で、蚊取り線香をたこうと、台所に行ったら、台所で、顔を刺された。ものすごく、落ち込む。これ、きちがい親父が残した負の遺産を、どうすることもできないな。これ、ほんとうに、あれだけ、家中にダニが発生してしまうと、だめなんだよな。近くにアパートを借りて、俺の大事な部分をうつして、いくらでも、ダニバルサンをやれる状態にして、晴れた日に、ダニバルサンをたくということを、定期的に何回か繰り返せば、どうにかなるかもしれない。顔を刺されると、落ち込む。このあいだバルサンの効きがあまかったのは、風呂場のドアをあけていたことと、曇りで湿気が多かったことが原因だと思う。しかし、ほんとうに、ほかの人が理解できないことを、きちがい的な意地でやって、なんともないつもりでいるんだよな。影響があるじゃないか。親父が死んでも、親父が残していった、ネズミの糞とダニが影響を与えている。これで、親父の部屋にある粗大ごみをもっていってもらったとしても、親父の部屋には無数のネズミの糞がころがっているのだ。そして、それを、片づけるのは俺なのだ。これは、くるしい。もう、何十回もやってきたけど、ダニに刺されながら、ネズミの糞を片づけるのは、くるしい。だいたい、ダニは見えないので……見えないダニに刺されているので、……たぶん、空気中に浮遊しているダニに刺されているので、どこで刺されたかわからないんだよな。これが、きつい。


普通の家族と一緒に暮らしていた人が、普通の家族と一緒に暮らしていたときにつちかった常識で、俺の状況について、いろいろと言うんだよ。そりゃ、表面的なことしか見てないからさ……。あーー。


それから、わっ勝てない人の助言でだけど、本当に腹が立つ。腹が立つ。パンもケーキもないのに、「パンがなければケーキを食べればいい」と言われたときの、いらだちはない。けど、マリーアントワネットは、絶対的少数派。民衆のほうが数が多い。絶対的な多数派。なので、ぼくの場合とはちがうんだよね。ぼくの場合は、ぼく以外の人類と、ぼくひとりのたたかいになっている。常識をめぐるたたかいさ。

2021年9月21日火曜日

「もっている」側から見て、「もってない」側の状態がわからない。

 あとは、いろいろだ。これ、こっちに書いていいのかわからないけど、ほんとうに、生まれの格差、育ちの格差が、すごい。

すごすぎる。

これ、ほんとうに、人間は自分が普通だと思ってしまうからなぁ。相当に恵まれている人も、自分が普通だと思ってしまう。

そうすると、「パンがなければケーキを食べればいい」というような助言が飛び出してくることになる。助言だよ。助言。パンもケーキもないやつにそんなことを言ってもしかたがないのだけど、両方ともある人は、そんなことはわからない。

両方とも持っているのが普通だと思っている人は、両方とも持ってない人に対する配慮がない。どうしてなら、普通だからだ。持ってないとは思ってないのである。

しかし、パンやケーキといった具体的な物質なら、「もってない」「もっている」ということがわかる。見ればわかる。そして、「もってない」ならパンやケーキがない状態であるということがわかる。「もっている」ならパンやケーキがある状態だということがわかる。

けど、経験ならどうか? そういう抽象的なことに関しては、あるいは、頭のなかにあるようなことに関しては、「もっている」側から見て、「もってない」側の状態がまったくわからない。

「ない状態」というのがうまく想像できないのだ。かりに想像しても、想像の範囲内のことでしかない。それは、現実に経験してみないと、わからない。「どういうことなのか」ということが、自分のこととしてわからない。

ぼくはきちがい的な親とかきちがい親父と言っているけど、きちがい的な親にやられてない人には、きちがい的な親にやられるということの意味がわからない。自分の経験をとおしてわかってないと、不適切な助言をすることになる。

ぼくにしたって、親父のようなタイプの毒親がどういう毒親か知っているけど、ちがったタイプの毒親がどういう毒親なのかはわからない。ちがったタイプの毒親に関して言えば、普通の親を持っている人とおなじように、わからない。

普通の人たちは、きちがい的な親がどういうことをするか、わかってない。きちがい的な親が激しくやったことが、どういう効果を与えるのか、わかってない。同じタイプのきちがい的な親がいない人には、わからない。

説明されても、「そんなことがあるのか」ぐらいの理解度でしかない。

あるいは、やられたことに関して、一応の理解をしても、自分のことではないので、「影響のでかさ」について過小評価してしまうのである。

あるいは、無視してしまう。

「そんなことの影響を受ける必要はない」というような言い回しは、そういう意味で、人間の限界みたいなものをあらわしている。「影響を受けるとか受けないとか、そういうことではない」ということを、かりに僕が言っても、「そんなことの影響を受ける必要はない」と言っている人にはわからない。


*     *     *

極端に恵まれている人でも、自分は極端に恵まれているとは思わずに、自分は普通だと思ってしまうところがある。

*     *     *

まあ、まとめて言うとだな。物理的な形態を維持しているものに関しては、それがあるとかないということはわかる。見ればわかる。けど、「それがないということがもつ意味」というのは、わからない。それをもっている人には、「それかないということがもつ意味」がわからない。そして、さらに、毒親の行為といった、抽象的なものだと、もっとわからないといううとだ。毒親の態度、毒親の行為、毒親の性格……みんな、毒親にやられてない人は、わからない。「ものがないということがもつ意味」以上に、わからない。

2021年9月19日日曜日

ニコニコしているのか? ニタニタしているのか? 行為者は決められない

  「Xをすれば、Yになる」というふうに言ってしまえば、なんとなく、法則性が成り立っているように思える。たとえば、「人に親切にすれば、幸福になる」というようなことを考えてみた場合、人に親切にすれば、「かならず」幸福になるというようなニュアンスがある。しかし、これは、正しいのだろうか?

持続時間のところでも書いたけど、仮に人に親切にして、幸福を感じたにしろ、それは、幸福であると感じる生活がずっと続くことではない。「幸福になる」というのは、日常生活のなかでの時間のうち、かなり長い時間、幸福であると感じているような状態を意味しているのではないだろうか。

ようするに、「幸福になる」と記述された場合は、ずっと幸福な生活が続くようなイメージがある。もちろん、幸福な生活が続いた場合、一日のなかで、幸福だと感じる時間は長いはずなのである。

また、一日のなかで「不幸だ」とか「不愉快だ」と感じる時間は短くなるはずなのである。ようするに、「幸福になる」と記述された場合、その時点から、何日も、何週間も、何か月も、何年も、幸福な生活が続くような印象を与える。

しかし、親切にするということは、かなり短い時間の出来事であり、一回一回、完結するものなのである。ようするに、「親切にした」と感じた時点で、行為のやり取りが完結している。人は、それを一回親切にしたと感じるわけなのである。

それから「親切にする」ということの具体的な内容がはっきりしない。なんとなく、親切にするつもりでやった行為が親切行為なのである。そして、相手がその意図をくみとって、「たすかった」とか「役に立った」と思った場合は、親切にしてくれたと思うだろう。しかし、「親切にする」と軽く言ってしまうわりには、「親切にする」ということがいかなることなのかを、正確には定義できない。

これも、「Xという行為をする」という言い方に書き換えることができる。また、『還元問題』は、ここでは詳細には扱わないけど、主体者は親切にしたつもりだけど、親切にされた人は、親切にされたつもりがないという場合がある。こういう場合、主体者は親切にしたということになるのだろうか? ならないのだろうか?

つまり、行為の「意味」が一意には決まらないという問題がある。親切にされた人と書くしかなかったから、そう書いたけど、親切にされた人というのは、親切にされたわけではないにしろ、親切行為の主体者からはそう思われる人だ。つまり、親切行為の対象になる人のことだ。

ちょっと横道にそれるけど、「ニコニコしていれば、幸福になれる」という場合の「ニコニコする」というのも、還元しておかなければならない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、意識的にニコニコしているつもりだった。けど、Bさんから見ると、Aさんがニタニタしているようにしか見えなかった。……こういう場合について考えてみよう。ある人が、ニコニコしているかどうかということを判断するのは、それを見ている人だ。

ニコニコしているつもりの人が決められることではないのである。

「相手」の表情を、別の人がそう判断しているという内容を伴うものだ。もともと、ニコニコするというのは、ニコニコしようと思ってするような行為ではないのだ。自然に、楽しいことを考えて、ニコニコしたり、あるいは、なにか楽しいことがあってニコニコするわけだ。その場合、目的は、ない。*1

しかし、「ニコニコすると、幸福になるので、ニコニコしよう」と思って、ニコニコしている場合は、ニコニコするということが目的になってしまう。それは、作為的な行為であり、楽しいことを考えてニコニコしている場合や、すでに楽しいのでニコニコしている場合とはちがう。


けど、そういうことに鈍感な人は、「しあわせになるために、意識的にニコニコしていること」と「なにか楽しいことがあってニコニコしていること」がおなじことだと考えてしまう。しかし、これは、あきらかにちがうことだ。

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*1 普通、人間がニコニコしてしまう場合は、それ自体が目的ではないのである。友達とゲームをしたら楽しかったとする。ゲームをしているときに思わず(ニコニコしたら)友達から「ニコニコしているね」と言われたとする。この場合も、ニコニコするためにゲームをしたのではなくて、ゲームをしたから、その途中でニコニコするような場面があっただけなのである。友達から、「ニコニコしているね」と言われなければ、ニコニコしているかどうかは、わからない。楽しいとか、うれしいといった言葉で表現される体験はあったと思われる。

恋に恋するという言い方があるが、それとおなじように、本来は「目的」にはならないことが「目的」になってしまうことがある。本当は、誰かを好きになってしまった状態が恋をしている状態なのだけど、恋に恋する場合は、恋をするためにだれかを意識的に好きになるように努力するのである。だれかをあてがって、恋に恋をしている場合と、本当に自然な感情で誰かが好きな場合は、ちがう。恋に恋している場合は、相手(対象となる人)に対して自然な感情がわかないのである。どうしてかというと、本当は相手(対象となる人)が好きなわけではないからだ。

2021年9月18日土曜日

なにか法則のように言ってしまう人たちが悪い。どうしてかというと、法則ではないから

 みんな、実際にやられたわけじゃないから、わからないんだよな。

「どんな場合だって……」とか「だれでも……」というのは、成り立たないと思う。こうすればよくなる系の話で「どんな場合だって……」とか「だれでも……」と言うのは、よくないことだと思う。これ、信じたほうの落ち度なんだけど、実際にやってみれば、反対の結果が返ってくる。「そんなことはない」と思うのは、「どんな場合だって」の「場合」が、その人の想像の範囲内の「場合」に限られているからだと思う。これ、真に受けた人が、ばかを見るのである。もちろん、「どんな場合だって……」とか「だれでも……」と言った人は、そんなことは、考えてない。想定の範囲外だから、考えられない。

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たとえば、「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というようなことを言った人がいたとする。激しいいじめを受けている女子中学生がそれを真に受けたとする。そして、その女中学生が、いじめている側の女子中学生になぐられていたとする。そのとき、「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」という言葉を思い出し、その通りにして、にこにこしたとする。そうしたら、いじめている側の女子中学生は、やめてくれるか? まあ、これは、想像の話だけど、やめずに、なぐり続ける。「こいつ、なぐられているのに笑ってやがるぜ」「マゾだマゾ」「もってやってやれ」なんてことになる。いじめている側の女子中学生って、複数ね。

袋叩きにされて、からだじゅうがいたいとき、この女子中学生は、なんと思うか? 「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」なんて嘘じゃないかと思う。

けど、ニコニコ教団の人は認めない。

「どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがあるというのは、真実だ。どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というのは正しい。実際、自分はニコニコしていたら、いいことがあった……というようなことをニコニコ教団の人は言う。

「ニコニコ笑っていても、いいことなんてない」という女子中学生の認識が正しいのか、どんな場合だってニコニコ笑っていればいいことがある」というニコニコ教団の人の認識が正しいのか?

この女子高生にとっては、「ニコニコ笑っていても、いいことなんてない」という認識が正しいということになる。問題なのは「ニコニコ笑っていればいいことがある」というようなことを、物理法則のようにあつかうことなのである。問題なのは「どんな場合だって」という言葉つけてしまうことなのである。ある条件下では、「ニコニコ笑っていればいいことがある」というが成り立つし、別のある条件下では「ニコニコ笑っていればいいことがある」ということが成り立たない。

それから、「実際、自分はニコニコしていたら、いいことがあった」というのは、個人的な体験である。だから、物理法則のように、どんな場合でも成り立つ法則ではない。そういう意味では、もちろん、なぐられ続けた女子中学生の「ニコニコしていたら、もっとなぐられた」というのも、個人的な体験だ。どっちが、法則として正しいか? どっちも、法則としては正しくない。なにか法則のように言ってしまう人たちが悪い。どうしてかというと、法則ではないから。


体調がよくない

 


体調がよくない。相当にいろいろとおかしくなっている。まず、寝違えて、首と肩が猛烈に痛い。腹もいたい。けど、腹の痛さは、寝違えたこととは関係がない。腹は腹で、別の理由でいたい。からだが、相当にだるい。これも、別の理由だ。けど、腹の痛さをのぞいて、いろいろと関連がある。そもそもの始まりは、きちがい親父がネズミを入れてしまったことだ。まあ、そこまでさかのぼると、話が厄介なので、省略する。ようするに、ダニを退治するために、バルサンをたいたのだけど、あんまり効果がなかったので、蚊取り線香をたき続けるという方法を採用した。はっきり言うと、蚊取り線香が、俺にきいている。一階の親父の部屋で蚊取り線香をたいても、煙がすこしは、こっちにくる。これが、だめなのだ。鼻の粘膜がやられた。長時間たいているからね。しかも、普通の使い方をしてない。使用上の注意を無視して使っている。なので、別に会社が悪いわけではない。けど、ダニを退治するために蚊取り線香をたきまくるということをしなければならなくなったのは、きちがい親父のせいなのである。きちがい親父が、魚を出すことにこだわらなければこんなことになってない。ネズミの糞を処理しなければならないのが、俺。ネズミの糞を処理しているとき、ダニに十数か所、刺されるのは、俺。もう、これ、何年間も格闘しているので、いやだ。きちがい親父がちょっとは、ネズミの糞を気にする普通の人だったら、ぜんぜん話がちがっていたのだ。けど、きちがい親父は、ネズミの糞は無視していた。ともかく、ひどいことになっている。畳の上に、ネズミがはいたと思われる茶色のへんなものがあったりするのだ。

まあ、ともかく、だるくてだるくてしかたがない。これ、本当は、さむいときに、長袖を着ることができなかったということが影響している。一階の部屋に行くために着た、長袖は、ダニがついているので、着ることができない。着ると、かゆくなりそうな感じがした。実際には、ダニは目には見えないけど、見えないダニがついている可能性がある。長袖を着て、布団のなかに入ると、布団にダニがうつるのでいやだった。けど、雨が降っていて洗濯があまりできない状態だったので、ダニがついていなさそうな長袖の服がなかった。これ、もう、何枚、通販で、ズボンや長袖を買っているかわからない。一回でも、使った服はだめなのだ。一回でも、下の部屋に行ったときに着ていた服はだめなのだ。下の部屋というのは、一階の部屋という意味だ。

ともかく、急に、寒くなったときに対応できる服がなかった。

だから、ダニがついているかもしれない服を着るかどうか、まよっていた。この時間に、どうも、風邪をひいてしまったようなのである。もともと、蚊取り線香で、のどや鼻の奥がいたい。そういう状態でさむい思いをしたら、風邪をひいてしまった。

で、だるくて、枕のそば殻が出ていることには気がついていたのだけど、対応ができなかった。これは、ぼくが使っている枕が、チャック付きの枕なのだ。チャックをあけて、そば殻の量を調節してくださいというタイプの枕なのだ。けど、このチャックが曲者で、ちゃんとしまらない。しまるはしまるけど、完全にしめたところで固定ができないのだ。つかっているうちに、チャックがちょっとあいて、なかのそば殻が出しまうのだ。

2021年9月17日金曜日

なんで、頭に癖がある人の人権は気にするのに、頭に癖がある人にやられた人の人権は、気にしないのか?


善人によって構成されている村のようなものを想像しているんだよな。幸福論について語っている人は……。けど、実際には、悪人がいる。悪人が、悪いことをしているつもりがないまま、悪いことをする。そういう場合、やられたほうは、幸福にならない。悪人と言ったけど、たとえば、子供を虐待する親は悪人だろうか? 本人は、自分のことを悪人だと思っているだろうか? 本人は、悪いことをしていると思っているだろうか? これに関しては、悪いことをしていると思っているという場合もあると思うけど、悪いことをしていないと思っている場合もあると思う。息をするように、ごく自然に、きちがい行為をする。きちがい行為を押し付ける。


相手が、家族として存在しているだけで、きちがい的な理由をつけて怒り狂う。


けど、本人は別に悪いことをしているつもりがない。どれだけ言われたって、悪いことをしているということを認めない。……どれだけ言われたって、そのときはそのときで、怒り狂って反対語を叫んで認めない。怒り狂ったあとは、関係がない人になってしまう。本人の意識のなかで関係がない人になってしまう。これは、どういうことかというと、怒り狂ったあと、反省しないで、やり続けるのである。しかも、やったつもりがないということになっている。やった認識というのは発生しないのである。けど、きちがい的な意地で繰り返し、やる。こういう人のことを、頭に癖がある人と言うことにしよう。頭に癖がある人がやったことは、頭に癖があるのだから仕方がないということが言えるだろうか? ぼくは、言えないと思う。なんで、頭に癖がある人の人権は気にするのに、頭に癖がある人にやられた人の人権は、気にしないのか? こういう不公平な態度をとる第三者というのが、いる。


けど、この不公平な第三者は、頭の癖がある人にやられたことがない人には、公平な第三者にうつってしまう。頭に癖がある人が、たまたま、一回だけあったことがある人なら、それでもいいだろう。けど、頭に癖がある人が、自分の親で、毎日、頭がおかしいことをやったらどうなるか?  頭に癖がある人が自分の兄で、毎日、迷惑行為をしたらどうなるか? 自分の人生を破壊するような迷惑行為をしたらどうなかる? 到底たえることができない騒音を毎日毎日、毎時間、毎時間鳴らすことにこだわってこだわって、実際に毎日毎日、毎時間、毎時間、鳴らしたらどうなかる? 「頭に癖があるからしょうがない」と思うことができるのか? 自分の人生がその行為で破壊されているのに「頭に癖があるからしょうがない」と思えるのか?




いろいろ書いているうちに、すっかり話がずれちゃったなぁ。ともかく、善人で構成されているわけではないのに、あたかも、善人で構成されてるような社会を想像してものを言うのはよくないのではないかと思うのである。


そりゃ、善人ばかりの村で、善人が善人に親切にしてやれば、しあわせを感じることができるかもしれないけど、実際には、善人ばかりの村ではないのだから、しあわせを感じることができないことだってある。どうして、そういうことを無視してしまうのか?


それは、マリーアントワネットが、「パンがないという現実」や「ケーキがないという現実」を無視したこととおなじことだ。だれにとってパンがないかというと民衆にとってパンがなかった。マリーアントワネットにとっては、パンはあった。だれにとってケーキがないかというと民衆にとってケーキがなかった。マリーアントワネットにとっては、ケーキはあった。


幸福論を語る人は、「悪人がいる」という現実を無視してしまっている。自分にとっては「悪人はいない」のだろう。しかし、ほかの人間にとっては、「悪人がいる」場合もある。さらに、悪人が家族である場合もあるのだ。こういう、世界なのに……。こういう村なのに……悪人があたかもいないような村で成り立つような幸福論を語っている。

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まあ、村と書いたけど、社会でもいいよ。

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本当に、ものすごい音でヘビメタが鳴ってたな。いまの時間、ヘビメタが鳴ってた。どれだけ言ってもやめてくれなかった。ずっと、午後一一時までやられてしまう。そりゃ、まるまるしたくなる。連続がくるしい。音が鳴っている状態がずっと続くからつらい。勉強なんてとてもじゃないけど、できない。勉強だけではなくて、本を読むことだってできなくなる。眠ることだってできない。ヘビメタが鳴っているあいだじゅう、眠って、ヘビメタが鳴り終わったら起きて、勉強をするということを考えたことがあったけど、無理だった。けど、これは、実際にやってみたら無理だったということがわかったわけで、ほかの人は、無理だとは思ってない。やられてないから、わからない。実際にどういう状態になるか?なんて、実際にやられないとわからない。本人が、本当に、きちがい兄貴の横の部屋で経験しないとわからない。一時間だけ、きちがい兄貴の横の部屋にいるだけでは、わからない。一三(じゅうさん)時間、鳴らされた場合の、からだの状態なんてわからない。どれだけ、眠れくなるかわからない。グロッキーで疲れはてているのに、眠れなくなる。九割がた眠たいのに、残りの一割が激しく抵抗して、どーしてもねむれなくなる。どーーしても眠れない時間、どういう気持ちになるか、やられてない人にはわからない。どういうからだの状態で眠れなくなるのか、やられてない人にはまったく、わからない。そうなると、まるまるしたくなる理由もわからないということになる。

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2021年9月16日木曜日

こういうことを言っている人は、ある条件下にいる人たちの状況を無視している

 これ、まるでわかってないのだろうけど、人を追い込むんだよ。「パンがなければケーキを食べればいいのに」というような言葉に匹敵する言葉だ。


「人に親切にすれば幸せになれる」「人に感謝すれば幸せになれる」こういう言葉を言う人がいるけど、これは、「パンがなければケーキを食べればいいのに」に匹敵する言葉だ。

実は、マリーアントワネットは「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言わなかったという説がある。けど、今回はマリーアントワネットは「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったとして、以下の説明をしようと思う。


マリーアントワネットは、わかってなかった。ほか人たちの「実情」がわかってなかった。合理的に考えれば、マリーアントワネットはまちがったことを言ってない。けど、民衆の気持ちをさかなでした。民衆にしてみれば、合理的に腹が立つ発言なのである。


ケーキを食べようと思えばケーキを食べられる状態を想定して考えれば「パンがなければケーキを食べればいい」という助言は実に合理的な助言なのである。

しかし、「パンもなければ、ケーキもない」とか「パンを買う金もなければ、ケーキを買う金もない」とかという状況を抱えている人間にとっては、無意味な助言だ。合理的ではないのである。


ケーキを食べようと思えば、いくらでもケーキを食べることができる状態であれば、合理的な助言でも、そもそも、ケーキを食べることができない状態であれば、合理的な助言ではなくなる。


マリーアントワネットが無視したものは、この『状況』なのである。こういう『条件』なのである。それと同じ事が、「人に親切にすれば幸せになれる」「人に感謝すれば幸せになれる」という言葉を言う人にも成り立つ。


こういうことを言っている人は、ある条件下にいる人たちの状況を無視している。だから、「だれでも」とか「どんな場合でも」と言ってしまう。あるいは、単に「人間はそういう生き物だ」と言ってしまう。


人間はそういう生き物だと言った場合には、「人間」に含まれる生物は、どんな生物でもと言っているのに等しいので「だれでも」と言っている場合と同じになる。


ようするに、人間であれば、条件に関係なく、状況に関係なく、だれでもがそうすることでしあわせになるということを言っているということになる。そうすることの具体的な内容は、他人に親切にするとか感謝の言葉を述べるということだ。


しかし、まわりの人間から虐待されている人にとってはこの言葉は意味をなさない。他人に親切にすることでしあわせになれないのである。なぜかと言えば、虐待されているからである。


この人がしあわせになるには、まず、まわりの人がその人を虐待をするということをやめなければならない。そっちのほうがさきなのである。


けど、『条件』や『状況』を無視する人には、そんなことは、関係がないのである。なので、マリーアントワネットのように、条件や状況を無視した発言をして、すでに虐待されて傷ついている人のこころを逆なでしてまう。


まあ、虐待されている人間というのは、虐待されている人間なので、虐待されている人間が「そんなことは、なりたたない」と言っても、これまた、その言葉は誰にもとどかない。


とどいたとしたら、なんと言われるか?


「被害妄想だ」「親切にするとしあわせになるというのは事実だ」「そんなことを言っているからダメなんだ(虐待されているんだ)」というような言葉なのである。かえってくるのはそういう言葉だ。これが、世の中の現実なのである。


まず、虐待がやまなければならない。人が抱える条件は、その人にとって重要なことだ。その人の状態というのは、その人にとって重要なことだ。


人によって条件や状況がちがうのだから、一様には「他人に親切にするということでしあわせになれる」とはかぎらない。


人が抱える条件や状況のほうが、「親切にするとしあわせになるというのは事実だ」ということよりも、重要なのだ……その人にとっては!!


どうして、条件や状況の大きさがわからないのだ。どうして、条件や状況を無視してしまうのだ。


2021年9月12日日曜日

俺の人生はなんだったんだ? と思う


起きたけど、ひまひまだ。ひまひまだけど、動きたくない。自分の仕事はなんである……自分はなんである……と言えなかったときのことを思い出して、おもしろくない気持ちになる。
女の子のことを含めて、俺の人生はなんだったんだ? と思う。ヘビメタ騒音以降、ずっとくるしい。自己紹介ができなくなってまったからなぁ。そういう、三〇代だったなぁ。
もう、おそいよ。つまらない。あの子とつきあっておけばよかったなんて考えたっておそい。あっちは、二〇歳だったからな。
 

2021年9月5日日曜日

そんなことであるはずがないだろ。

どうしようかな。ほんとうに、ネズミやきちがい兄貴の騒音についてはいろいろと言いたいことがある。「俺の人生はなんなんだ」と思う。ほかの人にはまったくないハンディで、人生がない。ほかの人は、実際にきちがい兄貴の騒音を「あびてない」ので、わからない。わからないんだ。実際に、あの騒音が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っている生活というのを経験したことがない。経験したことがないと、軽く考えることになる。影響を軽く考えてしまう。「そんなんじゃない」と言いたくなる。何千日も毎日積もったら、言いようがないことになる。そりゃ、ハンディがかたちになってあらわれるからだ。ハンディが履歴になってあらわれるからだ。ハンディが体調になってあらわれるからだ。ほかの人は、これを経験してないから、「鳴り終わったら関係がない」など言ったりする。これがどれだけ、ばかげた発言か、言っている本人には、まったくわからない。そんなことであるはずがないだろ。 

本当に、座頭(仮名)とかユキオ(仮名)とかまったくわかってないな。想像力の欠如。自分の身にそういうことが生じたら、どういうことになるか、まったくわからないというのはおかしい。どれだけ、下に見積れば気が済むんだよ。こいつらは、俺を完全に下に見積っている。そして、どうして、完全に下に見積るかというと、履歴がめちゃくちゃだからだ。当時、働いていなかったからだ。そういう、偏見。そして、そういう偏見が当たり前の社会。そういう偏見を持っているやつが、常識的な人間。こんな世界で生きたくないと、ヘビメタ騒音にやられて、不可避的にそうなった俺は、思うだろ。なんで、これがわからない。座頭(仮名)やユキオ(仮名)にあった時点で、ヘビメタ騒音の履歴がつみかさなっている。ヘビメタ騒音にやられた体で動いている。どうして、これがわからない? どうして??

こいつらが、人権を語るのは、ゆるしがたい。こいつらが、人間学を語るのはゆるしがたい。ゆるしがたい。ゆるしがたい。ヘビメタ騒音をやられると、どうしても、そういうことになってしまう。ほかの人がまったくわからないハンディ。障害。なにが、障害児教育だ!! ふざけんな!!! ヘビメタ騒音の障害がどれだけでかいか、わからないのか!!!!!! わからないんだろう。ほんとうに、なめられる。ヘビメタ騒音で、なめられっぱなしだ。普通の人は無視するけど、小学生のときから、ヘビメタ騒音で、なめられっぱなしだ。誤解をうけっぱなしだ。こんなのは、ゆるせない。『生きていたくないな』思うだろ。どうしてこれがわからないのか。どうして?? どうして、わからない。まあ、ヘビメタ騒音というものが、自分の経験したことではないからわからないのだろ。それにしても、ひどすぎる。想像力の欠如。想像力の欠如がはなはだしい。

そういう、特徴は、なにも、座頭(仮名)やユキオ(仮名)に限ったことじゃない。認知療法を振り回すやつ。幸福論を振り回すやつ。ポジティブ思考を振り回すやつ。アドラー心理学を振り回すやつ。精神世界のきれいごとを振り回すやつ。みんなわかってない。

できないからこまっているのに、「そんなのは気にする必要がない」と言う。できないからこまっているのに、「できるようにすればいい」と言う。

どれだけの「努力」と、どれだけの「できない」がつみかさなったか? ヘビメタ騒音のなかで、俺は、死にものぐるいの努力をしてきたんだよ。死にものぐるいの努力をしたって、できなくなるんだよ。どうしてこれがわからない。ヘビメタ騒音をやられると、能力が10分の1になるヘビメタ騒音をやられ続けると、できていたことが、どうしてもできなくなる。どうして、これがわからないのか??

 

2021年9月3日金曜日

きちがいである親に何千回も何千回も何千回も何千回も同じパターンでやられたということの意味がわからない

お経の上に、いっぱいネズミの糞がおちている。だから、こういうことになるから、「ネズミシートじゃなくて、工事をして穴をふさがなかったらだめだ」と言ったんだ。どーすんるんだよ。

ああいうの……。

こういう、難問を残していく。

仏壇はもうだめだ。位牌は、消毒しても、だめだ。だいたい、ニスがついているものは、アルコール消毒液をつけるとものすごいことになってしまう。白く変色してしまう。

これが、きったない感じになる。俺が、仏壇を粗末にして、俺が位牌を粗末にしているよう思われるんぞだ。

以降、「俺がつかまえるからいい」という発言をしたのは親父だ、「俺がつかまえるからいい」の「俺」というのは、親父のことだ。全体としては「ネズミはネズミシートを使って俺(親父)がつかまえるから、ネズミ対策工事の必要はない」ということだ。

ちょっとでも、エイリが「工事が必要だ」とか「ネズミの糞をどうにかしよう」と言うと、親父が「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と、真っ赤な顔をして絶叫する。

こたえになってない。ネズミが入ってくる状態を維持してしまったら、ずっとネズミの糞がふえるだろ。入ってきたネズミを、ネズミシートでつかまえたとしても、あとからあとから、入ってくるわけだから、ネズミの糞がふえることに関して、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!」ということは、こたえになってないんだよ。

ネズミ本体の問題の処理をどうするかと言っているのではなくて、ネズミの糞がふえることをどうにかしようと言っているわだから、こたえになってない。
で、こたえになってないということを説明しても、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」一点張りなのだ。ぜんぜん話が伝わってない。

自分の気持ちだけなんだよ。よく考えて、決定するとか、そういうことじゃない。

自分が工事をしたくないから、工事にかかわることを言われると自動的に「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と絶叫する。頭がおかしい。で、どれだけ言っても、伝わらない。一文字もつたわってない状態なんだから。



それで、親父の特徴なんだけど、俺がつかまえるからいい!!!」とはねのけたら、もう、それで関係がない人になってしまう。「俺がつかまえるからいい!!!」とはねのけたのだから、はねのけたという出来事がないことになっている。

こっちがなにを言っても、「俺(親父)がつかまえるからいい!!!俺(親父)がつかまえるからいい!!!」とはねのけたのに、「はねのけた」ということはないということになっているのである。

その、夢中になって、発狂して、はねのけた直後にそういう状態になっている。本人は、まったく関係がないニュートラルな人になってしまっている。

発狂して、主張したのに、主張したことになってないのだ。
「穴をふさいでネズミの流入をとめなければ、ネズミの糞が増えて困る」とエイリが言っているのに、親父が「俺(親父)がつかまえるからいい!!!」と激しく主張して、「工事をして穴をふさごう」というエイリの案をしりぞけたんだよ。

ところが、しりぞけたさいちゅうも、しりぞけた直後も、そういうことになってないのである。まったくなにも、積み重なってないのである。まったくなにも、記憶にないのである。ようするに、発狂して、相手の案をしりぞけているとき、特に「しりぞけた」という気持ちがないのである。自分の気持ちだけで、そのとき」のことを乗り切ってしまえば、もう、それで、まったく関係がない人になってしまうのである。乗り切る方法は、「めちゃくちゃに怒鳴って」否定語を投げつけることだ。

で、それは、部分否定で、本当は、相手が言っていることを理解してない。きちがい親父にとって「なにかそれ」なのである。相手が言っていることを理解してないのである。けど、それは、意識的な部分、無意識的な部分は理解しているのである。それは、「なにか不愉快なことを言われた」という感触になってあらわれる。そうしたら、自分の気になった「部分」だけ、逆上して、否定するのである。そうしたら、もう、その問題が済んでしまっている。

「ネズミシートを使ってつかまえる方法だと、親父がこの家から、いなくなったら、俺(エイリ)がネズミシートでネズミをつかまえなければならなくなるからこまる」とエイリが言ったときがある。

そうしたら、親父が「いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!いなくならないよ!!!」と発狂して、俺の言うことを認めないのである。

俺の言うことを否定するのである。

「入院するかもしれないじゃないか」とエイリが言ったら、親父が「入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!入院しないよぉ!!」と顔を真っ赤にしてきちがいの形相で、さけぶのである。けど、二年前に実際に入院しているのである。二年前に入院したことがあるのに「入院しないよぉ」と叫ぶのである。ようするに、まったく理解しないまま、ともかく、「否定語」もしくは「否定文」を叫ぶのである。叫んだら、本人のなかではもう、終わっている。完全に終わっている。解決済みの問題になっている。けど、こっちは、それだとこまる。

二年前に、入院したばかりなのに、そういうことを叫ぶ。
エイリが親父に「死ぬかもしれないだろ」と言ったら、親父が「死なないよ」と絶叫するのだ。「いや、死ぬことだってあるでしょう。人間は死ぬ生き物だから」とエイリが親父に言ったら、親父が「おまえ(エイリ)、俺に死んでほしいのか」と言いやがるんだよ。

「いや、死んでほしくないけど、人間は死ぬ生き物だから、死ぬことだってあるでしょう」とエイリがおやじに言ったら、親父が「死なないよ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!死なないよぉ!!」と真っ赤な顔をして絶叫するのである。「入院することがある」ということや「死ぬことがある」ということを、認めない。

そのときはねのけてしまえば、本人のなかてばそれですんでいる。発狂するんだけどな。これは、俺が小さなときからかわらない。きちがい親父は、俺のことを虐待しているときも、そういう理論があった。くずれた反応があった。今更始まったことじゃないのである。認知症になったからそういうふうに言ってわめいているわけじゃなのである。

はっきり言えば、むかし「親父」のほうが、そのときの親父より、二〇倍ぐらい強いよ。体力的にも、大人だったわけだから。経済的に、完全に幼児である子供の状態を支配できる状態だったのだから……。自分の思ったようにすることができる状態だった。自分の金なのだから、もちろん、そうする権利があるけど、親父の根本にこういう性格があるから、いろいろなことでそういう部分が反映てしまうのである。

だから、むかしむかし……親父が幼児である俺や兄貴を、虐待するときも、こういう理論が根本的に成り立っているのである。頭が正常な人が、虐待するわけじゃないのである。虐待しているときの、やり取りのなかにこういうやり取りがある。人間としての感覚が正常なら絶対にわかることを、頭っから否定する。そして、きちがい的な意地で否定したのに、否定し終わった本人のなかでは、「否定した」ことになってないのである。これが、よその人には、わからない。そういう頭の持ち主がいるということさえわからない。

普通の人が普通に考えれば絶対にわかることを、頭っから否定するという性格がある。こういう頭の構造が成り立っている人が、自分の子供を虐待するときは、普通の人……こういう頭の構造が成り立ってない人が自分の子供を虐待するときとは、ちがったやり取りが成り立っているのである。似てるけどちがう。何回も言うけど、似てるけどちがう。さらに、親に虐待されなかった普通の人は、「親には感謝するべき」と普通に言える。そして、これには、すべての親子関係が含まれているのである。ようするに、頭がおかしい親に虐待された(子供側の人)も、親に感謝するべきだと、普通の人は言ってしまうのである。これがどういうことなのか、普通の人は、逆立ちしても理解できないだろう。

ともかく、もっといろいろとあるのだけど、僕は腹立たしい。なにか、祖先の霊を祭るという意味で大切な箱があるんだけど、その上に、豆粒のようなネズミの糞がいっぱいおちているのだ。

これ、本当に気持ち悪い。ななめに、わりと大きなネズミの糞が、並んでいる。これがなんか、気持ち悪いんだよ。しかも、これ、表面が布に覆われた紙の箱なので、完全にふきとるということができない。洗濯することもできない。ネズミの糞と、箱の布が接している部分は、汚れが落ちない。しかも、ネズミの糞にはダニや寄生虫がいっぱいついているので、ネズミの糞(本体)を落としてまえばそれで、すむというわけではない。

ともかく、これ、業者の人になんて言おうかな。これは、捨てるために持って行ってもらうことはできない。けっきょく、ネズミの糞をかたちだけ、落とすことになる。けど、ばい菌やダニがついている。ばい菌から見れば、ネズミの糞と布が接触している部分というのは、広大なスペースだ。

*     *     *


ともかく、親父とのやり取りを思い出して、ぼくが腹をたてたとするだろ。そうすると、腹をたてた気持ちで、ほかの人の相手をするということになるだろ。これが、ものすごく問題があることなのである。


本人にとってどれだけ不幸なことがあっても、ほかの人には関係がないのだから、自分の不幸な気持を相手に見せるべきではない。という……一般的には正しい教えがある。これは、一般的には正しいけど、きちがい親父のような人間にやられた人間にしてみれば、自殺をうながすような教えなのである。これが、ほかの人にわからない。


「どれだけつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」というような教えは、人を自殺に追い込むような力がある。破滅破綻なんだよ。これ、どれだけ、無理なことを言っているのか、「どれだけつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」といようなことを言う人にはわからない。

 

きちがいが相手だと、やはり、ちがってくるのだ。きちがいである父、やられる子供、「どんなときでも、どんなにつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」と言う第三者というみっつの立場がある。

きちがいではない人にやられた人はわからない。きちがい的な親にやられたことがない人は、きちがい的な親がどういうものか、わからない。きちがいである親にやられるということの意味やきちがいである親に何千回も何千回も何千回も何千回も同じパターンでやられたということの意味がわからない。

そして、なんていうのかな、そういう第三者がきちがい的な親の側に立ってしまうのである。無意識的な内容を絶対の意地でやるけど、やったつもりがない人の側に立ってしまう。「どんなときでも、どんなにつらくても、にこにこわらっていたほうがいい」というようなことを言う人だって、どちらかと言えば、きちがい側に立っている。



 

2021年9月2日木曜日

きちがい親父がダニになって、俺を刺している

 ダニに刺されまくり。きちがい親父がダニになって、俺を刺している。きちがい親父が……。きちがい親父が……。

まあ、これは、比喩だけどね。

けど、ほんとうに、予見できることを、どれだけ言っても認めない。そういう態度。頭にくる。俺がこまるように、わざと、「ネズミシートでネズミを捕まえる」ということにこだわった……というわけではないけど、結果として、俺がこまっている。

なんか、バルサンも殺虫剤も効かない。耐性ができているようだ。

ネズミの糞が不衛生だし、ダニが出るということが、わかってない。ネズミ本体を捕まえれば、それでいいと思っている。それじゃダメなんだというとを(俺が)言っても、きちがい的なこだわりで、親父が「ネズミを捕まえるからいい」と言って聞かない。予見できること。このこだわりとか、人の言うことを聞かない状態が、親父と兄貴でおなじなんだよ。親父のネズミ対策に対する態度が、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度とまったくおなじ。どれだけ、こまると思っているんだよ。

親父が俺にやってきたことというのは、ダニで俺を困らせるようなことばかりなんだよ!! 幼稚園のときからずっとそうだ。お母さんの話からすると、赤ん坊のときからそうだ。そして、やってやるやってやる」というのは、俺が嫌がっているということをまったく理解しないで、墓に俺の名前をきざんで、赤く塗ることだ。ネズミ対策に対する態度と、兄貴のヘビメタに対する態度が同じ。こちっがどれだけ言っても、動かない。顔を真っ赤にして、頭がおかしいことを頑固に主張する。

 

2021年9月1日水曜日

疲弊のなかで感情が削られていく。

 もう、まるまるたい。はぁーー。

きちがい親父が、魚を出しっぱなしにしなかったら……。

きちがい親父が、ネズミ対策工事に賛成してくれたら……。

ネズミが関心を持つ家と、関心をもたない家があるのだ。ネズミが関心をもたない家は、穴があっても、五0年間ずっと、一匹も、ネズミが入らないという状態を維持できる。しかし、酒糟がついたマグロの切り身をずっと、一日に二三(にじゅうさん)時間、皿にのせて出しておくということを、した場合、ネズミが関心を持つ家になる。一日に二三(にじゅうさん)時間、ほこりがつくのに、皿にのせて出しておくということにこだわるきちがい。絶対にやめてくれない。これ、兄貴のヘビメタ騒音とおなじなのである。一日に二三(にじゅうさん)時間ぐらい、皿にのせて出しておくというを、一日だけやっても効果はないし、そもそも、家に穴があいてなければ、ネズミは入ってこない。しかし、それをやった。だいたい、六〇日ぐらいやっている。で、ネズミが入ってくるようになった。そのあと、ネズミシートで捕まえるやり方にこだわって……。

ともかく、俺は、まるまるたい。疲弊と幸福感について考えなければならないのだ。どうして、幸福感ということを考えているときは、幸福感ばかりに目がいって「どんなにつかれていても」というような話になってしまうのか? どれだけつらいことがあっても……なんて話になる。けど、それは、もう、幸福感について話すということになっているから、そういう意見に傾く。しかし、現実の疲弊というのは、幸福感に影響を与える。何度も言うけど、繰り返しが重要なのだ。ほんとうに、「疲弊」の「疲弊」がちがう。「困難」の「困難」がちがうと言いたくなる。まあ、言ったって、ボンボンやお嬢様にはわからない。ボンボンやお嬢様が経験してきた範囲内の「疲弊」や「困難」しか考えることができないからだ。実際には、疲弊は幸福感に大きな影響をもたらす。その人の疲弊は、その人の幸福感に大きな影響をもたらす。それは、けっして、「どれだけ疲弊しても……」というような言葉ではくつがえすことができないことだ。さらに、疲弊しきった人が、ほかの人に親切にしても、幸福にはならないのである。幸福感も生じないのである。疲弊のなかで感情が削られていく。

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 ダニに刺されまくり。きちがい親父がダニになって、俺を刺している。きちがい親父が……。きちがい親父が……。

まあ、きちがい親父がダニになって俺を刺しているわけではないけど、きちがい親父が残した負の遺産なんだよ。負の遺産がでかすぎる。どこまでもどこまでも続く。だいたい、俺は引っ越すと思うけど、ここにあるものを持っていくと、引っ越した先でダニが発生するかもしれない。

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ネズミの糞が転がっている家具を、業者の人に持って行ってもらったんだけど……。業者の人には感謝の言葉しかない。 業者の人もたぶんダニに刺されたと思う。バルサンをたいたいのだけど、だめだった。ひとつ失敗をしている。失敗をしなくても、重なり合ったところには、ガスがとどきにくい。それから、けっきょく、居間にも穴があったのだから、そこから、ガスが逃げてしまう。

節分で豆をまいたような状態だ。黒いネズミの糞が、いっぱいころがっている。じつは、掃除機をかけてしまった。バルサンをたいたあとなら、だいじょうぶだと、別の業者の人から聞いたことがあったので、そうしたのだけど、まずかった。ダニをまき散らしたことになった。けど、あれは、別に掃除機をいじらなくても、ダニに刺されまくると思う。もう一回、今度は、壁の穴をふさいで、バルサンをたこうと思う。風呂場もやりたかったから、風呂場のドアを開けてしまった。風呂場には通気口があるので、そこからガスが逃げたのだと思う。

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けど、ダニ対処をするにしろ、きちがい兄貴の騒音がこたえるんだよ。今もそうなんだよ。どれだけ、体調がおかしいか。睡眠障害でめちゃくちゃなんだよ。前の日の夜に起きて、業者の人に対応することになる。バルサンをたくとき、ホテルに泊まったんだけど、「俺の自制なんなんだ」と思って、死にそうになった。ほかの人にはわからないだろうけど、ヘビメタ騒音と「今日の疲労」が一直線につながっている。ヘビメタ騒音と「今日の睡眠障害」は一直線につながっている。ヘビメタ騒音と、「ネズミが出るような家に親父と住んでいなければならなかったこと」は一直線につながっている。ヘビメタ騒音、数千日の繰り返しで、働けなくなった。きちがい親父が死んでも、ネズミの進撃がとまるわけではない。これが、わかる人が少ない。俺だって、こんなのわからなかった。ネズミは、ネズミにとって重要な食べ物がなければ入ってこないのだと思った。けど、ちがう。ネズミの小便のにおい、ネズミの糞のにおいに反応しているとしか思えない。ともかく、プラスチックのパイプを食いやばって入ってくる。五〇年間、パイプを通って、床下には入れる状態でも、五〇年間、ネズミは入ってこなかった。五一年目に、きちがい親父が、餌付けをしてから、このパイプを通って床下に、ネズミが入るようになった。もともとは、ちがう穴から入っていたのだけど、ある日、ここからも入れるということをネズミが発見したのである。で、俺がこのパイプの穴の部分を、幅の広いビニールテープでふさいだのだけど、ビニールテープを破って入ってきた。で、ビニールテープを貼りなおして、まわりにパテをつけたのだけど、パイプの横を食い破って入ってきた、三角形のヒビを入れて、入ってきた。もともとあるパイプの穴ではなくて、パイプの横に穴を開けて入ってきた。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。