2023年3月30日木曜日

あーあ、俺の人生ってなんだったんだろうね。

  あーあ、俺の人生ってなんだったんだろうね。

なんか、むかしのパソコン雑誌をヤフーオークションで探しているときに思う……。買うかどうかまようんだよな。どうするかな?

パソコンについても、いろいろとあるんだよ。ほんとうに、うまくいかなかった。うまくいかなかった。願望どおりにならなかった。希望通りにならなかった。重たい。気分が重たい。やっぱり「そのとき」じゃないとだめなものってあるんだよね。「おまえ、買ったじゃないか」……。「買ったけど、時期がずれている……。時期が……」。あーあ、カネがないとこういうところでも、いやな思いをすることになるんだよね。不愉快しかない。 

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「あのとき、14万円あればできたこと」「あのとき、あのとき、あのとき……」

「できるカネ」というのがあるんだよ。「望みをかけたカネ」というのがあるんだよ。そのカネは、満ち足りた人が感じる「カネ」とはちがう。これ、ほんとうに、「生まれの格差・上」の人は、根本的に理解してないんだよな。ものすごくめぐまれた家に生まれた人が、めぐまれた仕事をして、めぐまれた家庭を築きました……。そのめぐまれた人が、「しあわせはおカネじゃ買えない」などと言っても、「なんだかな?」という気持にしかならない。こういう人は、自分がどれだけめぐまれているか、まるでわかってない。「カネがなくてできない」ということが、根本的にわかってない。

たしかに、「しあわせはおカネでは買えない」。これは、事実だ。けど、カネがないと、ふしあわせなことが、たくさん発生するということも事実なのである。これがわかってないんだよな。めぐまれすぎて、これが、まったくわかってない。「おカネではしあわせは買えない」……そこで言われているしあわせというのは、究極的なしあわせなのである。「できるカネ」がなければ、やるまえに挫折してしまう。できないからだ。できない状態は、しあわせかね? できない状態は不幸だろ。

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生まれの格差を無視して、「幸福な自分が、不幸な人に幸福になる方法を伝授しましょう」なんて言っているやつが、信用できるわけがないだろ。生まれの格差が影響している。親が人格者で、親がおカネをもっていて、小さいときから「おカネがなくてできない」ということを経験したことがないやつと、親がきちがいで、親がおカネや持っていなくて、小さきときから「おカネがなくてできない」ということばかりを経験してきたやつの差がないとでも言うのか? 「子供時代のことなんて関係がない」……こういうやつらは、みんな、こういうふうに言う。「大人になったら、未成年時代のことは関係がない」……ほんとうにそうかね? 今その時点での格差は、未成年時代の格差が影響しているのではないか? 未成年時代ってけっこう長いよ。そのあいだの「経験の格差」が、たとえば、未成年終了一か月前の格差をつくっているのじゃないの? 未成年時代が終了するまえ、どんな学歴で、どんなことかできるようになっているかということが重要なんじゃないの? 成年時代をスタートさせるときに重要なんじゃないの?

生まれの格差「上」の人が、そろいもそろって「子供時代のことは関係がない」「過去は関係がない」ということを言うんだよ。こんなの、詐欺。

ちなみに、「コツコツ努力すれば成功する」という二項目文のなかにも、「生まれの格差」という文字は入ってない。項目として入ってない。これは、意図的に、視点をずらす意図がある……とは言わないけど、視点をずらす効果がある。悪魔の容器のなかで、生まれの格差がある。これが重要なのである。「努力」だけが「成功するかどうか」を決める? はぁ? なに言っているんだよ? なに言ってんの? 悪意があると考えても不思議じゃない。めぐまれている人が、めぐまれていない人に対して「努力」だけに焦点をしぼったことを言う……。これって、「視点ずらし」だよね。視点をずらそうとする意図があるか、ないかに関係なく、視点をずらすことには、成功している。まさしく成功。そういうことを言っている人に視点をずらす意図があるかどうかは別にして、視点をずらしている。ほんとうは、努力なんかよりも、生まれの格差のほうが重要だ。重要な項目だ。どうして、重要な項目を、がん無視してしまうのか? なんか、意図でもあるのか? 本人も気がつかない意図? 本人も見ようとしない意図? なんか、まずい意図でもあるんじゃないか? 本人も気がつかない、人に知られたらまずい意図でもあるんじゃないか?




2023年3月29日水曜日

引きこもりの問題は、『個人の性格』の問題ではなくて、『社会の圧力』の問題だ。

 うんと手短に言うと、「引きこもっている人をなんとかしよう」「引きこもっている人を、なんとか社会に参加させよう」と思っている人がやるような行為は、すべてまちがっている。すべて、まちがっている。「引きこもっている」というのは、状態だ。

理由はいくらだってある。

しかし、たいていの場合は引きこもりの問題というのは、むしろ、社会によって引き起こされているのである。ようするに、たいていの場合「性格の問題」「資質の問題」と考えるのはまちがっている。個人の性格がわるいからそうなる……個人の資質がわるいからそうなると考えるのは……たいていの場合……まちがいだ。

「の」の重複を避けるために「個人の性格の問題」「個人の資質の問題」という言い方をさけたのだけど、簡単に言うと、たいていの場合……「個人の性格の問題」でもないし「個人の資質の問題」でもない。「引きこもり」と言う言葉にまつわるものすごく悪いイメージには問題がある。

そして、この悪いイメージが、画一的なのだ。一般人側の「引きこもりの人」に対する悪いイメージは相当に、まちがっているものだ。

個人の条件を無視するべきではない。けど、個人の条件を無視して、「引きこもりならこうだ」という悪いイメージをつくりだし、個人に当てはめて、引きこもり当事者に対面するのだ。

これじゃあ、なにも解決しないよね。ひどくなるだけだ。そういう他者は、引きこもり当事者にとって不愉快な他者なのである。

しかも、条件を無視しているということに気がつかない「うぬぼれのつよいやつ」なのだ。こんなのは、有害な他者でしかない。ようするに、引きこもり当事者にとって、ほんとうの敵は、引きこもりに対して悪いイメージをもっている「うぬぼれのつよい」他者だ。

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はっきり言ってしまうと、引きこもりが問題だというなら、引きこもりの問題は、ぎすぎすした社会との関係で考えるべきだ。人生をかけた椅子とりゲームであつくなっているから、引きこもりの問題がしょうじる。

社会の圧力が高いから、引きこもりの問題がしょうじる。

「個人」における性格の問題ではなくて、「圧力容器」の「圧力が高すぎるから」問題がしょうじる。「社会の圧力」のほうをどうにかするべきだ。

何度も言うけど「社会の圧力」が高すぎるから、引きこもりの問題がしょうじる。

ところが、アドラー主義者、認知療法家、行動主義心理学者、引き寄せ教徒、言霊教徒、思霊教徒が、「個人の性格」の問題だとしてしまうのである。

そして、さらに、個人に社会に参加するように働きかけ、社会の圧力をあげてしまう。こんなの、本末転倒。まるでわかってない。思いなおした「個人」が社会に適応して働くと、「圧力容器」の圧力が高くなってしまうのだ。

アホすぎる。

引きこもりの問題は、『個人の性格』の問題ではなくて、『社会の圧力』の問題だ。悪魔の容器だから、問題がしょうじる。自己責任論も、圧力を高くする。

さらに、たましいの自己責任論である「カルマ」という考え方も圧力を高くする。圧力を高くすると、ぎすぎすした人間関係になるのである。ぎすぎすした人間関係になると、椅子とりゲームの圧力がさらに高くなってしまうのである。

「もう、椅子とりゲームはごめんだ」と思った人から、社会から遠ざかっていくので、社会の圧力がそれだけ減る。「もう、椅子とりゲームはごめんだ」と思った人が引きこもるのである。これは、効果的な方法だ。

だから、これは問題がない行為というよりも、むしろ積極的に社会的な問題を解決するための行為なのだ。社会の圧力をさげる必要がある。引きこもりは、社会の圧力をさげるためのひとつの『解』だ。

引きこもってない人は、むしろ、引きこもっている人に感謝するべきなのである。

そう言えば……なんで「すべて感謝」「なんでも感謝」と言っている人たちが、引きこもりには感謝しないのだろう。なんで「すべて感謝」「なんでも感謝」と言っている人たちは、『他人が引きこもること』や『自分が引きこもること』に感謝しないのだろう。

なんでも感謝なのだから、感謝するべきだ。感謝教徒も、おたがいさま教徒も、社会の圧力をたかめている。「すべてに感謝しましょう」というのは、社会の圧力を高める方向に働く。「だれだっておたがいさま」「なんだっておたがいさま」というのは、社会の圧力を高める方向に働く。

実際には「すべてに感謝感謝」と言っている人たちは、引きこもり当事者や引きこもり行為そのものには感謝しない。 「すべてに感謝感謝」と言っている人たちは、社会の圧力を高める行為にだけ、感謝している。なら、「すべてに感謝感謝」と言うべきではない。すべてではないのだから。

引きこもりに対するイメージの悪さは、実体を離れている。ほんとうは、そんなに悪くないものを、相当に悪く思っている。そして、そういうイメージをもっている人たちが、引きこもりをつくる圧力をたかめている。社会の圧力が減れば、引きこもりも減る。逆なのである。引きこもっているものを、社会にもどそうとする行為……これは、肯定されているけど、よくない行為だ。そうではなくて、社会のほうの圧力をまず減らすようにしなければならないのである。

ずっと前から言っているけど、圧力がたかすぎて、いびつになっている。その組織が、社会のなかでどの辺に位置するかというピラミッド内部内の上下関係と組織の内部での上下関係が、実際には、引きこもりをつくりだしている。引きこまらなければならない人たちを量産している。そして、社会の圧力が高くなればなるほど、底辺側の人が無理をしいられるということになってしまうのである。

そして、思想が、これを後押しする。ぼくが批判している思想と言うのは、圧力容器の圧力をたかめる思想だ。この思想が、圧力をたかくしているのである。下の人にかかる圧力が高くなって、上の人の圧力が減るのである。

上の人は、もっともっと、下の人に圧力をかけることができるようになる。収入しても、下の人がくるしめばくるしむほど、上の人の収入がたかくなる。上の人というのは、ピラミッドの上層部における、上層部の話だ。「社会ピラミッド・上」の組織のなかで、「上」の人のことだ。もともと、不均衡なのだけど、もっと不均衡になる圧力がたかくなってしまうのである。

引きこもりがふえるというのは、「自然な社会」のほうの作用だ。圧力が人工的に高くなることに対する、社会側の反応だ。この社会の反応は、自然な反応なのである。だから、ほんとうは、ぼくが「きれいごと」だと言っている思想が、弱くならなければならないのである。

ずっと、言ってるでしょ。

引きこもりが増えることは社会にとっていいことなのである。だから、それを努力論や自己責任論で封じ込めてはいけないのである。さらに言ってまえば、「すべてに感謝感謝」とか「すべてはおたがいさま」と言って、がまんし続けるから、圧力容器の圧力がたかくなってしまうのである。

そして、その不満のはけ口が、底辺に対する攻撃になる。上下関係で言えば、「下」に対する攻撃になる。

だから、どれだけ、きれいごとを言っても、けっきょくは、うさばらしに、「下」のやつをいじめるとか、ののしるということになってまうのである。この意識と行動の格差が、これまた、問題なのである。きれいごとの意識と、実際の行動の格差が問題なのである。

実際の行為をしているとき、それが悪いことだと認識できるかどうかという問題がある。実際の行為をしているときは、別に圧力をうみだす行為だとは思ってない場合のほうが多いのではないかと思う。ごく自然に、圧力をかけるわけだから……。そして、圧力をかけてもいいと思っているわけだから……。

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年3月28日火曜日

きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすから、ぼくがほかの人になめられるのである

  ヘビメタ騒音の効果がまったくわかってない人は、ヘビメタ騒音の効果を無視してしまうのである。『そんなのは関係がない』と思うわけだ。いっぽう、きちがい兄貴も、ヘビメタ騒音の効果を無視して、きちがいヘビメタを絶対の意地で、鳴らしてしまう。普通の人は体験したことがないかわらないと思うけど、あのレベルの音が、ずっと鳴ってるということは、自殺につながることだ。しかも、「かよっている」。このヘビメタ騒音が鳴っているにもかかわらず、学校に通っていた時期が問題なのだ。ヘビメタ騒音効果がまったくわかってない人は、自分の身にこういうことがしょうじなかったので、ヘビメタ騒音の効果がまったくわかってないまま、ぼくを「さぼり魔」だと思っているのだ。そして、『そんなのは関係がない』『ヘビメタ騒音の効果なんてない』という前提で、説教をしてきたり、なめたたいどをとることになる。たとえば、ぼくが、引きこもりの定義にあてはまるので引きこもりだと言ったとしよう。その人だって、おなじぶんだけ、自分がきらいな音を聞かされ続ければ、やがて、通学・通勤できなくなって、引きこもりの定義にあてはまるようになる。長いからね。ヘビメタ騒音が鳴っていた期間が長すぎる。中学時代の友達や高校時代の友達と「きれる」とそんなには、他人にあわなくなるようになる。だいたい、通勤してカネを稼ぐしかない時代なら、通勤してカネをかせぐことができなくなると、カネがないから、人づきあいがあんまりできなくなるということが発生する。これも、カネがないうちに生まれて小学六年生のときから、自分の嫌いな音が、生活と能力を破壊するていど鳴っていた場合であってなおかつ、通勤してカネを稼ぐしかない場合は、だれにでも、発生することだ。これは、「性格が引きこもり」というような問題ではない。条件が同じなら、だれにでも発生することだ。しかし、俺の条件が成り立っている人が、ほとんどまったくいないのである。ようするに、きちがい的な頑固さで、きちがい的な音を鳴らす、家族がいない場合は、そういうことにはならないのである。そして、性格の問題で引きこもっている人もいる。性格というのも、条件のひとつだ。けど、条件のひとつでしかない。けどけど、普通の人は、引きこもっている人は、性格の問題で引きこもっていると、一括して考えてしまうのだ。そして、ちがう条件によって、発生した「引きこもり」に関しても、引きこもりなのだから「性格に問題がある」と考えてしまうのだ。「引きこもり」うんぬんに関しては、基本的なことを言うと、本人が満足しているならまったく問題がない。問題なのは、本人が満足してない場合なのである。そして、一般的なことを言うのであれば、社会が、社会不適応な人につめたいので問題があるのである。

ともかく、ぼくの場合、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らすから、ぼくがほかの人になめられるのである。しかし、なめてくるほかの人にとっては「ヘビメタ騒音なんてどうでもいいこと」なのである。そして、ヘビメタ騒音が鳴ってない場合のぼくについて知らないので、勝手に、「あまえている」「引きこもりだ」「ダメ人間だ」と思って、頭がおかしいことを言ってくるのである。これは、自分がそういう音を経験した場合どういうことになるのだろうかということを考える能力が不足しているから、起こることだ。基本的に「うぬぼれがつよく」「他人の状況についてうまく考えることができない」人たちなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

2023年3月25日土曜日

ほんとうに、ヘビメタでくるしかった

 ほんとうに、ヘビメタでくるしかった。くるしかった。だれも……ぼく以外経験してないので……わからない。わからないから、わからないという前提でものを言うのではなくて……わからないのにわかったつもりになり……たいしたことはないという前提でものを言ってくる。これがどれだけ失礼なことかわかっているのか? わかるわけないか。

あっ、それから、実際に鳴ってなければ、ぼくはこんなことを言ってないわけ。きちがい兄貴が鳴らしたけど、三日間「やめてくれやめてくれ」「人生がないだしになるからやめてくれ」「勉強ができないからやめてくれ」「宿題ができないからやめてくれ」「眠れなくなって、遅刻してしまうからやめてくれ」「朝、鳴っていると、鳴っているなかでものをそろえなければならないから、忘れ物が多くなる。忘れ物が多くなるからやめてくれ」と言ったら、やめてくれた……というなら、別に構わないのだ。きちがいがきちがいのセンスでずっと鳴らし続けた。このきちがいのセンスは、ほかの人が、きちがい親父のことがわからないようにわからない。普通の人は、きちがい兄貴のセンスがわからない。 

数千日にわたって、ずっと、何時間も何時間も鳴らされるということが、どういうことなのかぜんぜんわかってない。

前日、言おうと思ったけど、たとえば、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったときのぼくと、ヘビメタ騒音が鳴ってからのぼくは、「愚痴」の数量がちがうのである。回数がちがう。この場合、愚痴の回数を増やしたのは、きちがい家族による、しつこいしつこい、破滅的なヘビメタ騒音だ。ほんとうに、休みの日はずっと、一日中鳴っているし、平日は、学校から(俺が)帰ってきたら、鳴っていた。そして、午後一一時一一分まで続いた。途中、20分ぐらいの休憩があるけど、それをぬかせば、こっちがどれだけあせっていても、一分も、やめてくれなかったというのが、ほんとうの話だ。これは、学生にとってつらいことなのである。普通の学生は体験してないことなのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っている期間の愚痴の回数と、ヘビメタ騒音が鳴ってなかった期間の愚痴の回数をくらべれば、ヘビメタ騒音が鳴っていた期間の愚痴の回数のほうが多いのである。この場合、愚痴の回数は、ヘビメタ騒音の回数(日数)とヘビメタ騒音持続時間に関係しているのである。ぼくの性格に関係しているわけではないのである。だから、愚痴を言いやすい人は愚痴を言う回数が多く、愚痴を言いにくい人は愚痴を言う回数が少ないという一般的なイメージとはちがう。この場合、性格と回数が関係していると考えているのである。おなじ不幸量なのに……不幸な出来事が発生する回数と、一回の不幸の程度がおなじなのに、人の性格によって差が出ると考えているわけである。けど、愚痴を何回も言っている人……一日のなかで愚痴を言う回数が多い人を……愚痴を言いやすい性格と言っているわけだから、本当のところはなにもっていないのとおなじなのである。そうではなくて、人間の愚痴に対する感度(不幸な出来事に関する感度)をおなじだと考えた場合でも、環境がちがえば、不幸な出来事の回数がちがうので、不幸な出来事の回数によって、愚痴を言う回数が決まってくると考えるべきなのである。愚痴の言いやすさ……という性格を考えた場合も、ノーマルカーブはあるはずだけど、愚痴を言う回数が多い人は愚痴を言いやすい性格なのだという考え方のほうに問題があると思う。これは、まわっている。トートロジーだ。じゃあ、性格はまったく関係がないかというと、そうではないと思うけど、この場合の性格というのは、固定化した状態なんだよ。だから、そとから、そう見えるというだけの話だ。不幸な出来事が固定化した状態……。「愚痴を言いやすい性格」というものを「環境とは関係なく」個人の特性として考えるのは問題があると思う。ともかく、空想的な「もともとの性格」というものを考えて、もともとの性格が愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言う回数が多くなると考えるよりも、ほんとうに不幸な出来事が数多く発生しているから(不幸なができこどの発生回数が多いから)愚痴を言う回数が多くなると考えたほうが、現象をよく説明できると思う。「もともとの性格」というのは、どういうふうにして、わりだすのだ? 実際に「愚痴を言っている回数」と関係なく、「もともとの性格」がでてくるのか?

 

以前も書いたけど、じつは愚痴を言う行為というのは、個別具体的な行為としては存在しない。あくまでも、話を聞かされほうが「愚痴を言われた」と考えたときに、話をしたほうが「愚痴を言った」ということになるのである。まあ、余談だけど、それならそれで、愚痴を言われたと思いやすい性格や愚痴を言われたと思いにくい性格について考えなければならなくなる。

それから、「不幸な出来事」というのは特定できるのか? という問題は、当然ながらある。しかし、「その人が」その人の「今の感覚」で「不愉快だ」と思った出来事であり、その人が、その人の力ではなかなか解決できないと思っている出来事……つまり(その出来事やその出来事に類似した出来事を発生させないようにすることができない)出来事であるばあい、あるいは、一回だけの出来事でその人の能力欠損がしょうじてしまうような出来事は、とりあえず、不幸な出来事の「イメージ」に合致すると思う。

自分が「いいかっこう」をしたいだけなんだよな

  まあ、基本、みんな、あと一〇〇年たってしまえば、死んでいるわけで、そういう人たちの気持ちを考える必要があるのかなとは、ちょっとだけ、思う。まあ、もちろん、ぼくも一〇〇年後にはいないよ。じゃ、満足な人生だったか? きちがい親父がひどいやつで、親戚の人に俺の悪口を言っていたみたいなのである。やつが死んだあと、ばれた。頭がおかしい。ガキっぽい、気持ちなんだよな。自分がよく思われたいので、自分の息子のことを悪く言って、うかびあがろうとする。自分が「いいかっこう」をしたいだけなんだよな。嘘バレバレなんだけど……。俺がどういう気持で、親父の世話をしてやったと思っているんだ? 「かわなくていいよ!!かわなくていい!!」と親父が絶叫したとき、俺がどういう気分になったと思っているんだ。なにを買わなくていいと言ったかというと、親父が移動するときに使う服と老人ホームで寝るときに使う寝巻なのである。おやじの寝間着を買ってやったの。それを言ったら「かわなくていいよ!!かわなくていい!!」と絶叫する。怒り狂って絶叫する。顔を真っ赤にして、絶叫する。「ただでも、きちがい親父がもたらしたネズミ対処でたいへんなんだぞ。おやじのために、親父の着替えを用意してやったんだぞ。そして、親父の着替えだけど、親父の着替えを買ってやらなかったら買ってやらなかったで、ぼくが、老人ホームの人から、悪く言われるんだぞ。まったくわかってねーーな。ほんとに、きちがい野郎。クソガキ。

2023年3月24日金曜日

「言霊」も「思霊」も「引き寄せ」も、すべて、社会の圧力をあげるように作用する

 ++++++++昨日の続き

本人が、「気にするべきことか、気にしなくてもいいことか」決めるわけだから、どれだけひどいことをしても、気にしないやつがでてくる。そして、気にしないやつこそ、生きやすいということになってしまうのである。それは、やはり、社会の圧力をあげる。

別に「人を引きずりおろそう」としていなくても、人を引きずりおろそうとしているやつがいると、そいつが不愉快なことをしてくるわけだから、人間関係上のストレスがあがる。

そして、このストレスは、はけ口を求めている。発生したストレスを発散するとなると、そこでまた、人間関係上のトラブルがしょうじる。そうなると、ストレスのはけ口になったやつにも、ストレスがしょうじるので、また、ストレスのはけ口を求めて、どこかのだれかにに発散することになる。

そういうふうに、連鎖的に、ストレス発散攻撃が発生する。

たてまえは、ともかく、人間が人間に対してオオカミ?になった状態が発生する。

これを、たてまえで、抑え込むのは、かなりむずかしいことだ。

だから、なにかしら、どこかしらかで、たてまえを無視して、(誰かに)ストレス発散攻撃をしているということになる。たてまえを重視して、攻撃せずにため込むと、うつ病になってしまう。

「社会の圧力」があがると、個人が、別の個人に、ストレスを発散したい気持ちになるのだ。

そして、この社会の圧力をあげるしくみが「努力をすれば成功する」といった「きれいごと」なのだ。

「感謝感謝」も「おたがいさま」も「受け止め方の問題だという言い方も」「言霊」も「思霊」も「引き寄せ」も、すべて、社会の圧力をあげるように作用する。

「言霊」も「思霊」も「引き寄せ」は、願望充足系で、けっきょく、自分の思い、自分の願いがかなえばいいということがベースになっている。これは、「努力」で成功を「引き寄せる」というようなこととおなじだ。「成功」というのが「自分の願い」なのだから、努力系は願望充足系の一部だ。

方法が、「努力」なのか「引き寄せ」なのかのちがいだ。

どっちも、個人的な願望を、この圧力社会のなかで、充足しようとしている。引き寄せだって、引き寄せられなかったら、もっと、がんばって引きせるようにする」というような考えがめばえてしまう。がんばって、引き寄せ行為をする……これは、「努力」にほかならない。

「おたがいさま」も「受け止め方の問題だという言い方」も、「感じないよう」にして「こえらればいい」という態度をつくりだす。これは、攻撃されたって、攻撃されたと思わなければいいという言い方とおなじだ。これもこれで、社会の圧力をあげる。

「感謝感謝」は「親切」「あいさつ」とひとつのグループにすることができると思う。このグループは、じつは、「過剰」にそうすることだから「自然さ」が失われる。

しかし、自然さが失われても、社会的な立場が「上」ならば問題がおこらない。階層が低い人……社会的な立場が「下」である人が、それをやると問題が発生する。

あっ、「ほめる」というのもそうだ。こういうのは、意図的に、過剰にやるべきことではないのだ。ところが、そういうふうにすると、そういうふうにした本人の意図とはちがう、感情を、やられたほうに引き起こすことになる。

たとえば、過剰にほめられると、「バカにされているような感じがする」と思うのとおなじだ。過剰さが、不自然さをうみだす。それは、意図して、別の目的でそうしているのだから、そうなる。ほんとうにほめるときは、そういうこと……ほんとうに感心することを相手がして、それについて、自分が本心を述べているときに限られる。

ところが、「ほめると人間関係がよくなる」と思って、過剰に(相手)をほめるときは、「人間関係をよくしよう」という意図があるので、相手のなんらかの行為に「関心をした」「すごいと思っている」という意味合いが減ってしまうのである。

その意味合いが減っているにもかかわらず、(相手は)ほめられるので、「なにかいやな感じ」がするのである。

自分をほめていたとしても、ほめる目的が別にあるということを感じ取ってしまうのだ。なので、「ほめればいい」ということを主張する人が言うほどは、いいことにならない。むしろ、トラブルをうむ可能性がある。

2023年3月23日木曜日

みんながみんな、努力すると、社会の圧力が高くなる

  みんながみんな、努力すると、社会の圧力が高くなるのである。そして、搾取構造が成り立っているので、支配者層に流れるカネの量が増えるのである。なので、よくない。

たとえば、椅子の数と階層数が一致するピラミッド社会を考えてみよう。一階層目にイスが一個、二階層目にイスが二個、三階層目にイスが三個、四階層目にイスが四個、五階層目にイスが五個、六階層目にイスが六個、七階層目にイスが七個、八階層目にイスが八個、九階層目にイスが九個、一〇階層目にイスが一〇個という感じだ。みんなが椅子取りゲームをしている。「努力すれば、成功する」と言われているので、上の階層のやつを、引きずりおろしてでも、自分が、上の階層の椅子に座ろうとする。あがるのはむずかしいけど、落ちるのは簡単だ。たとえば、病気になれば、努力できなくなり、努力している相手に押されてしまう。そもそも、もっとひどい病気になれば、椅子に座っていることができない。そのほか、失敗をすると、座っている椅子から落とされる。一一階層目は、死だ。床におちたら、死ぬ。そういう設定だ。生活保護があるじゃないかというような話になるかもしれないけど、どのみち、正常に機能してない生活保護というようなものは存在しないとする。働かなければ、生きていけないシステムのなかで、働けなくなったら、床に落ちて死ぬ。椅子がひとつでもあけば、その一つの椅子に、下の人が全員、むらがる。他人を押しのけて、座ったものが成功者だ。他人を押しのけることを「より高い椅子に座る努力」と言っているのだ。なので、みんなが、少しでも上にあがるように努力すると、社会の圧力が高くなるだけなのでよくない。社会の圧力が高くなると、ぎすぎすして住みにくくなる。そして、搾取構造から言って、一階層目と、一〇階層目の差がひろがる。金銭的な差がひろがってしまう。これも、ぎすぎすした社会の原因になる。社会が、より、いびつになる。

「コツコツ努力すれば成功する」といったような一見無害な二項目文が、じつは、社会の圧力をあげ、人のこころをくさらせるのである。これは、悪魔側の思想支配だ。ほんとうは一〇階層の人は、どれだけ努力しても、成功しない。つかまるかどうかは別にして、詐欺的な行為でカネをもうけるだなのである。これは、見せかけの成功だ。まあ、それも、例外中の例外だ。はっきり言えば、成功するかどうかは、最初から生まれの格差で決まっているのである。第一階層の人は、努力しなくても、成功する。第一〇階層の人は、どれだけ努力しても、成功しない。せいぜい、第九階層にあがれるだけだ。それだって、本人してみれば、ものすごい成功だ。第一〇階層の人が第九階層に行く……どれだけのことを犠牲にして、一階層分だけはいあがったか。まあ、それは、本人が死ぬときにわかるのだろう。


2023年3月21日火曜日

「いえで・おこる・ふこうのりょう」

 「いえで・おこる・ふこうりょう」がちがうのに、「いえで・おこる・ふこうのりょう」という項目を無視してしまうのはおかしい。悪魔教の信者は、基本的に、生まれの格差を無視しようとするのである。もともと、項目としてふくめないというようなことをしたり、項目としてふくめても、たいした影響がないように見えるように工夫をする。悪魔教の信者にとっては、人々が「うまれのかくさ」に注目することは、さなければならないことなのである。なので、人々が「うまれのかくさ」に注目しないように、いろいろな洗脳をする。この洗脳は、きれいごとの洗脳だ。一見、正しく見えるのである。一見、道徳的に見えるのである。けど、まちがっている。うまれのかくさ」に人々が目をむけること対する攻撃というのは、たとえば、カルマ思考、プラグマティズム、認知療法、認知行動療法、行動心理学、アドラー主義心理学といったものにも、ふくまれている。「努力論」にもふくまれている。「根性論」にもふくまれている。「自己責任論」にもふくまれている。「おたがいさま教」のなかにもふくまれている。「すべてに感謝教」のなかにもふくまれている。「すべては受け止め方教」にもふくまれている。言霊思考のなかにもふくまれている。「思いは現実化する」という意味での「思霊教(おもだまきょう)」のなかにもふくまれている。「思霊教(おもだまきょう)」は、ぼくの造語だ。「引き寄せ教」のなかにもふくまれている。「ツキツキ教」のなかにもふくまれている。「ツキツキ教」は、ぼくの造語で「ツキを呼び込む方法」「運をつける方法」といったことにこだわる疑似宗教だ。しかし、その人たちが「ツキ」と呼ぶものや「運」と呼ぶものは、生まれの格差でだいたい決まってしまう。欠乏しているものが、これらの宗教的な解決方法にたよろうとする。どうして、たよろうとするのかというと、「かけている」からだ。ツキがないから、ツキにこだわる。運がないから運にこだわる。じゃあ、ツキとか運とか言っているものの正体はなんなのかというと、めぐまれた家に生まれた人は、ツキがあり、運があるということになる。現実、そうなっている。めぐまれない家に生まれた人は、運がないということになる。現実、そうなっている。けっきょく、生まれの環境の問題を言っているのだ。本人もつもりがないまま、悪魔教徒になっている人は、生まれの格差を無視する傾向がある。無視して、上記の「きれいごと」を言う。しかし、上記の「きれいごと」はむしろ、現実の写し絵なのである。生まれの格差から派生した身分が、現実社会において固定的であることの写し絵なのである。生まれの格差・下の人と生まれの格差・中の人たちは、生まれの格差・上(うまれつきめぐまれた人たち)が供給する「現実的ではない方法」で、本当の原因から、目をそらそうとしている。「現実的ではない方法」を供給する人たちは、そういう「現実的ではない方法」で、人々の目をそらさせようとしている。主張する人たちにそういうつもりがなくても、目をそらさせる効果がある。ひとやくかっている。ほんとうは、相当の部分が、生まれの格差(親)の上・中・下、とか、生まれの格差(カネ)の上・中・下で決まってしまう。だから、決まったあとの勝負なのに、あたかも、それらの方法で挽回が可能だというような「雰囲気」を売っているのである。けど、そういう方法を供給しているほうは、生まれの格差・上なのである。そして、そういう方法を受けとっているほうは、生まれの格差・中と生まれの格差・下なのである。そういう構造が成り立っている。だから、本来の原因をかくそうとする試みなのである。まあ、これ、個人事業主(セミナー講師)の場合は、生まれの格差・中なんだけど、これは、商売として成り立つからそうしているだけだ。ほかに肩書がなくて、そういうことを売っている人たち(セミナー講師)をのぞけば)……情報源は生まれの格差・上の人たちからもたらされるものなのである。

「ほーんと、なんだったんだ」

「ほーんと、なんだったんだ」と思うんだよな。きちがい兄貴の騒音で人生がない。ほかの人から、悪く言われる。きちがいヘビメタ騒音障害というのは、そういう障害だ。 

2023年3月20日月曜日

実際に聞かされたわけじゃないから。

 手短に言うと、長すぎるんだよ。繰り返し回数が多すぎる。だれに言っても、わからない。きちがい家族がいない人にはわからない。毎日毎日、おんなじ音を聞かされる。長時間、聞かされる。どれだけさけたくても、うちにいれば、聞かされる。

俺の部屋にいたら、特にでかい音で聞かされる。

からだがもたない。

けど、やられてない人は、それがわからない。だから、俺がなにを言ってもつたわらない。だって、たとえば、「だるい」「つかれた」「憂鬱だ」「しんどい」と言ったって、それが、そのまま、つたわるわけじゃない。

きちがいヘビメタの「だるさ」「つかれ」「憂鬱」「しんどさ」というのが、まったくつたわらない。どうしてかというと、その人は、きちがいヘビメタを毎日、何時間も何時間も、聞かされたわけじゃないから。実際に聞かされたわけじゃないから。

たとえば、「つらい」と言っても、ほかの人が感じる「つらさ」とは、ちがうんだよ。何千日も繰り返されているわけだから……。ほんとうに、きちがいのやりかたがひどすぎる。ほかの人のうちでは、あんな音で鳴ってない。

ぼくが「朝、つらい」と言っても、佐藤(仮名)は佐藤が考える「朝のつらさ」しか、考えることができないんだよ。それだったら『俺だって、朝はつらい』と言うだろう。そしてそのあとに、「でも、がんばって通っている」と言うだろう。

そして、正しいことを言ったと思うだろう。

けど、佐藤には、きちがいヘビメタがない。

きちがいヘビメタの朝がない。

あの連続がどういうことなのか、ぜんぜんわかってない。俺は、がんばったから、だめになっているんだよ。俺は、がんばったから、こわれちゃったんだよ。

もっとも、がんばらずに、学校を休んでいたとしても、きちがい兄貴が、鳴らすきちがいヘビメタの「量」というのはかわらないから、学校を休んでいたとしても、おなじようにこわれた。じゃあ、「俺だから、こわれるのか?」というとそうではない。

俺にとっては、ヘビメタなんだけど、その人が一番嫌いな音を、横の部屋にいるきちがい的な家族がずっとずっと、何時間も、十何時間も、あの音のでかさで鳴らしていたら、こわれるんだよ。それも、実際には鳴らされてないからわからない。生活なんだよ。生活。これがわかってない。「鳴っているとき」だけつらいと思っているんだよな。

「鳴り終わったら、眠れる」と思っているんだよな。生活時間のほとんどをヘビメタにとられてしまうわけだけど、「勉強とは関係がない」と思ってしまうんだよな。実際に鳴らされてないから、「あの騒音のなかで勉強することはできない」ということが体験的にわかってない。

そうなると、ヘビメタが鳴ってない時間に、勉強すればいいということを考える。そういう時間があると思っている。

けど、きちがいヘビメタ騒音で、崩壊している時間に、勉強ができるわけがない。たとえば、ヘビメタ騒音を何時間もあびて、眠れなくなっている時間、勉強ができるのかというとできない。

これも、実際に、生活してみないとわからないかな? きちがいヘビメタをあびて、頭のなかが、ぐちゃぐちゃで死にそうな状態になっている。ものすごく、つかれている。へんなつかれかたなのだけど、もう、死んでしまいたくなるぐらいにつかれている。

くるしいのである。眠れない時間、ただ眠れないだけで、くるしくないと思っているのか? 普通の状態だと思っているのか?

普通の人が感じる「眠れない状態」だと思っているのか?

ちがうね。ちがう。けど、どれだけちがうと言っても、ほかの人にはわからない。

2023年3月19日日曜日

「うち」でやっているかぎり、殺されないとやめることができない……『うちでなら』やってもいい

「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思ってしまっていて、その思い込みが、強すぎるのである。こんなの、精神障害者の妄想にひとしい。どれだけ言っても、わからない。どれだけ言っても、まったくつたわらない。

信念のように、「たいして、でかい音で鳴らしてない」と思っている。けど、きちがい兄貴の音は、きちがい兄貴ですら、うち以外のところでは、鳴らせないほどでかい音だ。実際、きちがい兄貴が、いま住んでいるマンションでは、鳴らしてない。

鳴らせないのだ。

「マンションで鳴らすには、でかすぎる」ということを知っているからだ。けど、『きちがい親父がつくった家』なら鳴らしていいのである。『きちがい親父が自分にしたことを考えるなら、鳴らしていいのである』。きちがい親父が当たり前にやってきたこと……それは、きちがい兄貴が、『うちでなら』やってもいいと思うことだ。

そして、これが、無意識的な信念になっている。基本きちがい兄貴は、きちがい親父と頭の構造が同じなので……こういうことに関係する頭の構造が同じなので、そういう考えがなくても、そうする。自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる。

この「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」ということも、きちがい親父がずっとずっと毎日毎日、毎時間、毎分毎秒、やってきたことなのである。どうしてかというと、そういう脳みそ以外の脳みそがないからだ。そういう頭を搭載して、生きている。

だから、呼吸をするように、そうするし、そうすることにかんして、まったく、問題だと思わない。「自分がやりたかったら、一切合切無視して、やる」し、「そうしてもまったく問題がない」と思っている。

そういう状態で、暮らしている。生きている。

生きていないときがないから、生きているあいだはそうする。

けど、「よそ」でそれをやると、反発をくらって、自分が窮地に陥るのである。それがわかっているからやらない。けど、「うち」でなら、押し切っても、自分が窮地に陥ることがないので、やるのである。そういう、気持ちがある。根底にある。無意識的にある。問題なのは、そういうふうに意識しているわけではないということだ。

「よそ」でやると、問題になるからできないけど「うち」でやるなら、問題はない……とはっきり意識してそうしているわけではないのだ。問題なのは、まったく意識してないということだ。まったく意識してないけど、本人はその通りに動ている。

そして、その通りに動いしているということについて、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに、まったく自覚がいない。認識がない。主体? ここでは、親父と兄貴だね。主語? ここでは、親父と兄貴だね。

親父も兄貴も、おなじような? 頭をもっていて、おなじような無意識的な信念にしたがって、そうするのである。そして、「自分がそうしている」ということは、認めないのである。頑固に無視している。「やったってやってないこと」のうちのひとつだ。これは、認めないということを認めないということだ。やっていることを認めないということではない。

けど、「認めないということを認めない」ということと「やったってやってない」という認知が、同時に成り立っているのだ。これは、別の層の話だ。層は、ちがう。けど、同時に成り立っている。

で、ともかく、別の回路になってしまうのである。「よそ」ではやってはいけないということが、ごく自然にわかることでも、「うち」でなら、やっていいということになってしまうし、「うち」でなら、やっていいということになっているということが、どこまでもどこまでも、疎外されているのである。本人にとって疎外されているのである。

ようするに、自分のことであっても、自分のことではないのである。

そういうことが、ごくごく、自然に成り立って、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らして、わけのわからない? 構造によって……そのことを……ごくごく自然に無視してしまう。

これは、本人にとってだけ、都合がいいことなのである。

問題行為を、絶対にやりたい……問題行為をやろう……問題行為をやっているさいちゅうに、だれがなにを言っても、きかないでやり続けよう……けど、そうしていることは、意識にのぼらせないようにしよう……。

こういう状態で、頑固に頑固にやり続けるのである。

こんなの、「うち」でやっているかぎり、殺されないとやめることができないということになる。相手がどれだけ「やめてくれ」と言ってきても、やめてやる必要性がないのだからそうなる。「やったっていいことをやっている」という感覚で、やりきるけど、本人のなかでは、同時に「やってない」ということになっているのだから、まったく反省ができないのである。

だれかが……「うち」のだれかが……やめてくれと言ったって、そんなのは、きかなくていいのである。きくかどうかは、自分で判断していいことになっているのである。これも、ちょっと、アドラーの「相手がどれだけがみがみ言ってきても気にしなくていい」「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」というのと似ているんだよね。

「相手の言い分が正しいかどうか自分で判断できるし、判断はまちがってない」という前提が、これまた、見えない前提として成り立っている。言語化されることもあるけど、つけたしで、言語化されるだけだ。「自分でよく考えればよい」のである。

「自分でよく考えても、問題行為だとは思わないやつが、問題行為をしている場合」は、事前に除外されているのである。この、アドラーというやつは、ほんとうに単純なやつだ。


2023年3月18日土曜日

経験がないから、どういうことが発生するのか、わからない

 きちがい兄貴が「あたりまえのように」ヘビメタを鳴らすのだけど、それがつらかった。どれだけ「つらかった」と言っても、ほかの人には「つらさ」がつたわらないと思う。けど、つらかった。そして、鳴り終われば、解放されるのかと言うと、そうではないのだ。やられてない人は……実際に、ぼくと同じ生活をしてない人は……そこのところが、わからない。鳴り終わったら、解放されて、影響をうけない状態で暮らせるのではないかと、考えてしまうのである。それは、まちがいだ。しかし、これにかんしても、「まちがいだ」とぼくが言っても、実際に経験してない人は、なんのことだかわからない。どういうふうにまちがっているのかわからない。経験的にわからないから、どれだけの範囲に、影響がおよぶのかさっぱり、想像もつかないという状態になる。あるいは、そういう状態にとどまり続ける。だから、そういうことを前提にして「ものをいう」。その場合、前提となっているものが、明言されるかと言うとそうではないのだ。ぼくが「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」と言ったとき、「それでも人間は働くべきだ」とか「鳴り終わったなら関係がない」とか「ちょっとずつ体をならしていけば、働けるようになる」とかということを言う人たちがいた。その人たちの前提は、いま話したように、『影響をうけないことが可能だ』というような前提がある。けど、この前提がまちがっているのだ。けど、「その前提はまちがっている」とぼくが言ったとしても、「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」と言ったとき、「それでも人間働くべきだ」とか「鳴り終わったなら関係がない」とかと言った人は認めない。認めないのだ。経験がないから、どういうことが発生するのか、わからない。言われてもわからない。

2023年3月14日火曜日

ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい

 ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい。

ヘビメタ騒音がなかった場合の人生を歩みたい。ぜんぜんちがうと思う。ぜーーんぜん、ちがうと思う。ぜんぜんちがう人生だと思う。きちがいヘビメタ騒音がなかったら、わかったようなことを言われなくてもすんだ。

きちがい親父のもとに生まれたとしても、せめて、ヘビメタ騒音が発生しなかったら……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味をもたなかったら……。全部、仮定の話だ。架空の話だ。

普通の人は、そんなことを考えなくてもいい。普通の親のもとに生まれたからだ。

きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、ものすごくでかい音で騒音を鳴らすということがなかったからだ。騒音を鳴らしたにしても、最長で六か月ぐらいでやめてくれるようなちょっと頑固な人だったらなぁ六か月で、終わればどうにかなったと思う。

けど、六か月間でも、通の人が想像する六か月のヘビメタ騒音と、実際に鳴っていたヘビメタ騒音はちがうと思う。六か月間一倍速で経験するということがなかった人が考えるヘビメタ騒音と、六か月間、一倍速で経験した人が考えるヘビメタ騒音はちがうと思う。

実際に、やられた人と、「話で聞いた人」はぜんぜんちがう。実際にやられなければ、どれだけ想像しても、わからないことが、いっぱいある。

どれだけ説明を聞いても、わからないことが、いっぱいある。

ほんとう、ちがうんだよな。

どれだけ、広範な範囲にわたって、影響をうけるか、一倍速で、実際に経験しないとわからない。わからないと、「エイリさんは働けるのに、働かない」という前提でものを言ってくるようになる。前提を実際に、言葉にして言うやつは、まだましだ。

言葉にして言わないやつだって、前提として、それがあると、いろいろとゆがんだ判断をすることになる。それ、ゆがんでいるから……。

まあ、ゆがんでいると言われてもわからないだろうな。「どこがゆがんでいるんだ? 言ってみろ」と怒って言うかもしれない。「見えない前提」にこちらから言及するというのは、けっこうやっかいなことだ。

けど、ゆがんでいる。まちがっている。どれだけいろいろなところで影響をうけるか?

どれだけいろいろなところでばかにされるか?

どれだけ、見当はずれなことを言われるか?

見当はずれなことを言われるようになるか?

これ、立場なんだよ。誤解をうけやすい立場というのがある。

たとえば、無職とか、引きこもりとか……。どんだけ……。みんな、おなじぶんだけやられれば、睡眠障害や生活体力障害で、働けなくなるのに……。そして、睡眠障害や生活体力障害で、むかしからの人間関係が切れると、まあ、引きこもりの定義にあてはまる状態になってしまうのに……。

「からだをならせばいい」と言ったって、それは、七年間、ヘビメタ騒音生活をしなかった人間の話だ。言っていることだ。

ほんとうに、ぜんぜんちがう。

思っているのと、経験するのではぜんぜんちがう。

七年間、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている状態で、学校に通ったから、だめになっているんだぞ。がんばったから、だめになっている。これが、まったくわからないのである。どれだけ、ぎりぎりの生活を、やってきたか、まるでわかってない。こういうことを……。ヘビメタ騒音を鳴らしていたときの、きちがい兄貴のすがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っても、きちがい的な形相で鳴らしていたきちがい兄貴の、すがたがうかぶ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っていたのは、俺な。こういうのも、書かないと、わからない人がいるんだよな。いちゃもんをつけてくる。

きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、相手がどれだけこまっているか、わからないのだ。これは、脳みその機能障害だ。頭がおかしいから、わからない。普通の人が、絶対にわかることがわからない。普通の人ばあい、わからないふりをするけど、わかっている。

きちがい兄貴ときちがい親父の場合は、わからないふりをしているわけではなくて、ほんとうにわからない。何千回、何万回言ったってわからないよ。何千回、何万回、ぶつかったって、わからないよ。わからないまんま、ほんにんはまったく「つもりがないまま」やり続ける。

こういう、ギャグみたいな話。

こういうきちがい空間。きちがい空間では、すへでのきれいごとが成り立ちませーーん。なので、きれいごとが成り立っていると思って、そういう基準で、ガタガタ言うのをやめてくれないかなぁ。はっきり言って、腹がたつ。

で、これまた、そういうきれいごとを言う人たちに、どれだけ、こっちの状態をはなしても、わからないままなんだよな。まあ、その人たちがわからないのは、経験がないからで、きちがい兄貴やきちがい親父がわからないのとは、ぜんぜんちがう。ちがうんだけど、誤解をしている。前提がちがう話をしているんだよ。

宗教の人「人間はだれだっておたがいさま」

俺「おたがいさまじゃないときだってあるよ。二者関係について語るときは、抽象的な人間という概念を出さないほうがいい。具体的なある人と、具体的なある人の関係だ。いれかえが可能なわけではない。けど、「人間」と言ってしまうと、あたかも、いれかえが可能な関係であるような印象をあたえるのである。AさんがBさんにやったことは、ほかの人が、べつのだれかにやったことではないんだよ。おたがいさまじゃないことがあるんだよ。おたがいさまじゃないことをすることがあるんだよ。個別具体的な人間が、個別具体的な人間に対してやることがある。じゃあ、それは、人間が人間にやることなのだから、人間が人間にやることだと抽象化していいのか? よくない。よくないよ。よくない」

防衛として、いろいろと気にしていた みんな、ほんとうにわかってない。

どうしても、白側の情報がほしくて、Twitterを見てしまうけど、白側のアートや黒側のアートがよくない。白側の人も、黒側のあれやこれやを紹介しているので、どうしても、目に入ってしまう。アートじゃなくても、たとえば、黒側エリートの顔を見ると、いやな感じになる。顔写真とかよくのっているでしょ。もう、全部がいやなんだよな。

あと、どうしても、ネズミのことを思い出してしまう。カサカサカサという音を思い出してしまう。これ、親父がやったことなんだけど、いつものように、俺が、親父のしりぬぐいをしなければならなくなった。

俺だって、ほんとうは、いやだ。

けど、生きるために、ネズミシートで捕まえて、袋に入れなければならなかった。けど、こんなにいやな思いをするのなら、やっぱり、空気穴をあけてやればよかった。

けど、空気穴をあけたらあたけたで、たとえば、ウジがわいたり、カラスがつついたりするかもしれない。そうなったら、やっかいだ。

袋に入れて(僕が病気にならなかったからいいけど)(ネズミのからだについていた病原体で)病気になってしまったら、やばい。

袋に入れないと、寄生虫だって吸い込んでしまうかもしれないだろ。袋を動かしたとき……。どのみち、袋を、市の袋に入れなければならないのだから。

なら、その時点で市の袋に入れればよいのではないかと思うかもしれないけど、だめなのだ。空気穴をあけて、市の袋に入れると、けっきょく外に出すことになるからおなじなのだ。市の袋には、なんかほかのものも入れないと、もって行ってくれない可能性がある。

じつは、胸がくるしいというのがある。これは、食べ物のせいじゃないかと思うのだけど、腹と胸がくるしかった。だから、横になっていてもくるしいのである。

俺は、ほんとうに、やりたくなかったんだ。

だから、「ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、「俺がつかまえるからいい」と言われた。これ、意味がないんだよね。けど、そっちの方向でスイッチが入ってしまうと、だめなんだよ。これ、頭がおかしいから、なにを言ってもきかない。親父も兄貴もおなじなんだよな。

 

で、さっき、台所に置いてあったので、殺虫剤がかかったかもしれない、鍋と、やかんふたつを、洗った。殺虫剤をおとすために、わざわざ、スポンジたわしで洗ったのだ。それで、袖がぬれたから、いま、洗濯をしているのだけど……。

けど、洗っても、ぼくは気になるのだ。けっきょく、軍手をしていると思うけど、作業員がつかんで、それらを入れるところ(もしくは、つむところ)に入れて、もっていくわけだから。

まあ、ぼくは素手でいじったわけだけど、殺虫剤がついていると知っているからね……。知っているから、終わったあと、念入りに手を洗うわけだし、箸やスプーンをもつときも、気をつかう。ともかく、やっかいなんだよ。気になるんだよ。

これも、もともとは、きちがい親父がきちがい的な理由……ささいな理由でもないことで、怒り狂っていたからなんだけどね……。これ、理由と、怒りの度合いが、つりあってない。ほんとう、きちがい。あんなの、何年もおさないときにやられて、気にならないわけないだろ。防衛として、いろいろと気にしていた。怒りくるをれないように、幼児の俺は、気にしていたのである。

理由が「きちがい」なんだよ。

理由が、きちがい的。

理由が、きちがいしか思いつかないこと。

気ちがいではない人は絶対にそんなことでは怒らないというようなことで、逆上してむかってくる。これが、幼児だろうがなんだろうが、全力なんだよ。発狂なんだよ。幼児だろうがというよりも、「幼児だから」なんだけどな。それも、きちがいなんだよ。全部、きちがい。きちがいが荒れ狂っている食卓だったなぁ。

*     *     *

もう、親父が年老いたときの話だけど、これで、俺が「やらなくていい」「やらなくていい」「やらなくていい」と親父に対して、絶叫して怒っていると、となりの人なんかが、俺が親父を虐待しているように誤解してしまうんだよな。やらなくてもいいと言っているのは、俺の自転車の修理だったり、電子レンジに金属のスプーンを入れることだったりするのだ。

じつは、うちは、ふるいからペンダントライトなどをつるすところのフック部分(引き掛けシーリング)が、超古いものなんだよ。古すぎて、規格があってない。うちの場合は、この部分をいじるとなると、電気工事士の資格をもっている人をよぶしかないのである。

で、ともかく、一階のトイレの前の電球が……まあ、ペンダントライトと言えないものなのだけど、ペンダントライトだった。これも、門のところにゴルフボールがついているのとおなじ、普通の家だったら絶対ありえない、へんなかさがついている。

もともと、ちがうかさを、荷物用ロープで、かさとしてつけたような感じだ。で、それをやったは、だいぶ前の親父なんだけど……。ようするに、もともとのかさがついているやつがこわれて?どっかに言ってしまって、かりそめのかさをつけたものだ。

で、電球までのコードが、普通のコードではなくて、布の被覆コードなんだよ。これは、昭和三〇年代の電球までの「つるし」コードで、今時こんなものをつかっている人はいないと思えるようなコードなのだ。で、それが、ぼろっぼろになって、銅線が見えているような状態になっていたので、親父が、かえようとしたのだけど、そのコードとおなじようなレベルのぼろっぼろの布被覆コードをつかおうとしていたの!

ぼろっぼろの布被覆コードは、繊維がささくれだっていて、糸のようになっている部分があるから、火がつきやすい状態だった。だから、火がつきやすい布被覆コードと、被がつきやすい布被覆コードをかえても、発火しやすい状態がかわらないわけ。

で、素人工事で、発火するといやだから、「それは、(親父が)かえなくていい」と俺が言ったのだけど、一度スイッチが入ってしまうと、きかないんだよ。

だから、「ぼろっぼろのコードをぼろっぼろのコードにかえてもおなじだろ」「知らないうちに火がついたらどうするんだ」「かえなくていい」「かえなくていい」と俺が何回もどなったわけ。あぶないから、どなっているんだぞ。

で、その回は、二〇回ぐらい、どなったら、親父がちょっとだけおれて、「それなら、このコードを使うからいいだろ」と言って、普通のビニール系のコードにかえたんだよ。ほんとうは、それだって、どこかの電源コードを切って、とっておいて、流用しているだけだから、あぶないと言えば、あぶない。けど、糸が複数本出ているようなコードよりはましだから、それで、こっちもおれた。けっきょく、親父が、ビニール系のコードにかえた。けど、親父は、電気工事士の資格をもってないから、ほんとうは、違法行為なんだよ。親父が悪いことをしているの!! で、じゃあ、少しは(おやじさんもおれる)のだなということになるのかもしれないけど、それは、親父が高齢者になったから。こっちのからだが大きくなったから。こっちのからだが小さい、幼児のとき、どれだけ、でかい声でさわいで「やめてくれ」と言っても、やめなかった。きちがい親父が押し切った。だから、そういうのが、基本的に言って、トラウマになっている。「すんでない」のだよ。あのきちがい空間は、ない。きちがいが、押し切り勝ちをする。そして、押し切り勝ちをしたにもかかわらず、きちがいは、押し切り勝ちをしたと思っていない状態なのである。それこそ、「やったってやっない」であり、超・無責任な状態が成り立っている。これは、じつは、きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音にも成り立っている。きちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことなのである。きちがい兄貴も、きちがい親父もおなじなの。

ペンダントライトのフックと電線工事に関して言うと、けっきょく、ビニール系の古いコードを使ってつるしてあるわけ。けど、これも、ほんとうは、やっちゃいけないことだからな。「火事になるとこまるからやめろ」と言っているのに「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」とどなって、ゆずらない。けっきょく、その回は、こっちも、もう、大人なので? きちがい親父が、布被覆コードを使うのをあきらめて、ビニール系の被覆コードを使ったわけだけど、それだって、ふるいやつなんだよね。ともかく、俺が「やめてくれと言っているだろ」と「やめろと言っているだろ」とどなりまくって、きちがい親父が「おれがやるからいい」「おれがやるからいい」とどなりまくっている状態が続いた。こっちが「やらなくていい」と言っていることは、なぜか、スイッチが入ってやってしまうことが多いんだよな。ともかく、俺だって、どなりたくないのだ。どなりたくない。近所に聞こえるような状態で、どなりたくない。……えーっと、これは、ビニール系の古いコートが、物置に入っていたので、親父が物置に行ってコードをとってきて、縁台で、コードの修理をしようとしたので、「やらなくていい」「おれがやるからいい」の繰り返しを、外でやったわけ。親父が認知症の高齢者だから、まるで、俺が、親父をいじめているように解釈する人がでてくる。「(認知症でそうなっているのに)そんなふうに何度も、どなることはない」などと思ってしまうのだ。事情を知らない人なら、「親に向かって、あんふうに(何回も)どなってなんだ」などと思ってしまうのだ。となりのじじいがそういうふうに思っていたのである。となりと言ってもいろいろとあるのだけど、このとなりの人は、きちがい兄貴がうるさくしていたころのことを知らない人なんだよな。ともかく、認知症でそうなっているわけではないわけ。幼児のときは、きちがい親父のほうがからだがでかいので、きちがい親父がすこしもおれずに、やりきり勝ちをするし、やったと思むてない状態なんだよね。よく、ぼくが、ハンダゴテ事件のことを説明するけど、あれもおなじしくみなんだよ。あれ、親父としては「やってやったこと」なんだよ。けど、不都合なことは、絶対の意地で認めないし、絶対の意地で認めなかったということを認めないんだよ。これ、わからないと思うけど、……普通の人にわかるわけがない。ともかく、相手が自分好意でこまったということは、最初から最後までわかってない状態が続く。だから、「これこれでこまったんだぞ」と言われると「やってないやってない」の逆上になるわけ。

けど、そういうふうにしても、今度は、また、「そういうふうに」否定して怒ったということが、記憶にない状態になるわけ。で、このしくみが、兄貴のヘビメタ騒音にも成り立っている。ハンダゴテは、親父が兄貴にやったことだ。で、ヘビメタ騒音事件は、兄貴が俺にやったことだ。で、兄貴と親父の、こういうところの態度がまったくおなじなのだ。自分の行為でこまっているということが、わかってないというのがまったくおなじだし、その他も、まったくおなじ。普通の人は、このきちがい的な頭の構造がわかってないから、俺が言えないだけなんだと思ってしまうんだよな。「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、お父さんに言えばいい」……こういうことをどれだけ言われたか……。普通の人はこういう頭がおかしい家族のことはまったくわからない。これがまた……。わからないんだよ。普通の人のきれいごとが成り立っていたら、こまってないの……。けど、きれいごとを前提にして、思いついた解決案(アイディア)を言ってくるわけ……。普通の人が俺に……。普通の人には絶対に、きちがい親父やきちがい兄貴の頭の構造がわからない。あいつらだってわかっているわけじゃないからな。わかってやっているわけじゃないから、強烈なのである。みんな、ほんとうにわかってない。

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ああっ、それから、「にんげんはみんなおたがいさま」と言っているやつが、きちがい的な家族にやられたやつの気持ちを、どれだけ逆なでしているか、そういうことを言っている人は、わからないだろう。わかるわけがない。

*     *     *

ヘビメタ騒音もほんとうに、切羽詰まった状態が、一日に何時間も何時間も続いて、きつかったな。それで眠れなくなっても、俺が悪く言われる。俺が甘えているように言われる。あんなの、みんな……ほんとうに全員……自分の嫌いな音をあのレベルのでかさで、一日にに何時間も何時間も聞かされたら、眠れなくなる。眠れなくなる。睡眠不足がどれだけ、きついかわかってない。自分が勝手に、夜中のラジオを聴くために起きているのとはちがうよ。これも、おなじことだと思っているかもしれないけど、きちがいヘビメタで、眠れなくなるのと、自分の意思で起きているのはちがう。よなかに起きていて、睡眠不足ということはおなじかもしれないけどそれがちがう。その場合、自分がやりたくてやっている場合は、「やっぱり睡眠不足だとだめだから、やらず眠ろう」と思えばそれで、終了だけど、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の基準でやり続けるわけだから、眠れない状態がずっと続いてしまうのである。ほんとうに、人をさぼり魔みたいに言いやがって……。

 *     *     *

あと、それから、関連事項で言うと……どれだけ人がガミガミ言っても、気にする必要がないと言っている人は、一方的なものの味方しかできない人なのである。自分がガミガミ、言われたときにそうすることがいいことだと思っている人が、自分がガミガミ言っても相手が自分の言うことを聞かない場合は、その相手のことをどう思うか? ということが、問題だ。 AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、Bさんが(Aさんの)部下だとする。Bさんが何回も遅刻をしたとする。Aさんが何回も怒って、注意したとする。けど、Bさんはまったく聞かずに、何回も遅刻をしたとする。Aさんがアドラー主義者だった場合、Bさんのことをどう思うか? どれだけ、ガミガミ注意されても、気にしないすばらしい人だと思うかどうかだ。さらに、Bさんが職務怠慢で、どれだけ注意してもなにもあらためないとしたら、上司のAさんは、どう思うか? どれだけなにを言われても、気にしないいい人だと思うかどうか? だ。アドラー主義者は「それとこれとはちがう」と言い出すかもしれないけど、おなじなんだよ。アドラー主義者は、自分がガミガミどなられているときと、自分がガミガミどなるときの、基準がちがうんだよ。立場がちがうから、気持ちがちがう。ほんとうは、問題を引き起こす態度だ。相手??がガミガミ言ったことを無視する場合でも、相手に自分の価値観に基づいて、がみがみと注意をする場合でも、ほんとうは、「がみがみ言われても気にすることはない」ということが、正しいことでなければならないのである。「自分が考えて、相手がっていることが正しいなら、きけばいいし、正しくないと思うならきかなくてもいい」というようことを、アドラー主義者は言うかもしれないけど、それは、それこそ、逃げているだけだ。価値観の相対化ができてないだけだ。その都度、自分の基準が自分にとって正しいなら、ほんとうは問題をひき起こしている。上下関係という関係性のなかで「あぐらをかいているだけ」だ。これ、じつは、上下関係と、ピラミッド組織の問題がある。これは、悪魔が支配している社会の特徴だ。で、アドラーの考え方というのは、この社会に合致しているのである。アドラー主義者の考えたというのは、社会の圧力を強くするだけだ。

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手短に言うと、ボロボロのコードを気にしない傾向と、ネズミの糞が畳の上におちていても気にしない傾向はおなじだ。傾向というよりも、どれだけ、言っても完全に無視なのである。言われたって、言われてない状態なのである。何万回言われても、一回も言われたことがない状態にとどまるのである。

で、これは、親父のことだけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴もおなじ。そりゃ、きちがい兄貴だって、ネズミの糞は気にすると思うけど、自分のヘビメタに関しては一切合切気にしないんだよ。また、親父のことにもどるけど、たとえば、ネズミが入ってきたことによって、ダニが発生して、からだがかゆくなったとするだろ。で、俺が「ダニでからだがかゆくなった」と親父に言ったとするだろ。そうすると、きちがい親父は「かゆくない。かゆくない」と本気で言うわけ。だから、そういうレベルで話が通じないの!!!

きちがい親父のことから、きちがい兄貴のことにもどるけど、きちがい兄貴も、そういうレベルで、ほんとうに、騒音を無視している。自分が鳴らしている騒音を無視している。そうなると、自分が鳴らしている騒音で、おとうとがこまっているということも、ごく自然に、無視することになる。だから、きちがい的な意地で、四六時中(しろくじちゅう)、自分が満足できる音でヘビメタを鳴らすわけだけど、鳴らしているあいだ、「おとうとに迷惑をかけているつもり」はないのだ。それは、おとうとが言わないから、わからないのではなくて、何百回、何千回、何万回言われてい、わからない。一回も言われてない状態で、鳴らし続ける。自分が鳴らしたい音で鳴らすということに、「こだわり」があるから、これも、ゆずらないのである。なら、「こだわりがあるから、絶対にゆずらないで鳴らしている」という気持があるかというと、そんなのはまったくないという状態で鳴らしている。だから、どこまで行っても話があわない。けど、あわない状態で暮らしていると、こっちが、くるしむだけで、あっちは、好き勝手にやれて、快適な状態なのである。そりゃ、自分が満足できるでかい音で鳴らしたいのに、常識がじゃまして、鳴らせないという状態よりも、常識が邪魔しないで、鳴らせる状態のほうが「本人だけは」気持ちがいいのである。……これだって、ポジティブなことを考えてポジティブに行動しているということになってしまう。「気にしない」ということが、すぐれているということなのであれば、まさに、きちがい兄貴は、「気にしない」という意味ですぐれしているのである。「どれだけ相手が、ガミガミ言ってきても、一切合切気にしないで、自分が思ったことをできる」……。「どれだけ言われても気にしない」……気にしないという能力が高い……。能力が高い分だけすぐれている……。こういうことになってしまう。「自分で考えて、気にするべきではないと思うなら、気にしなくていい」「相手の言い分があっていると思えば、気にしてやめてあげればいい」……きちがいがきちがいの基準でそう判断したら、きちがいのなかでは、そうなんだよ。「よく考えたこと」になってしまうんだよ。おやじみたいな気ちがいだって、兄貴みたいな気ちがいだって、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことは可能だ。しょせん、そういう判断をするのが「自我」なのだから、「自我」を基準にして考えた場合、そういうことを言ってもむだだ。そういうことというのは「気にするべきことなのか、気にしなくてもいいことなのか、自分で判断すればいい」ということだ。そういうところで、アドラー主義者は、自我を相対化できてないからダメなのである。「だれのあたま」でそう考えるのかということを問題にしてない。個人の基準が成り立っているんだぞ。個人が(この世を)認知・認識しているんだぞ。個人の頭は、個人の頭なんだぞ。「なんか、統一的な基準があるようなこと」を言うな。「統一的な基準があるから、だいじょうぶだ」というようなことを言うな。「だれの頭にも、統一的な基準が成り立っている」と思うな。そういうことを、前提にしてものを言うな。そして、前提にしてものを言っているということについて、もうちょっと、深く認識しろ。これも、「見えない前提」で、本人は特に意識してないのである。「見えない前提」を可視化したほうがいいんじゃないの。そうじゃないと、「見えない前提」がまちがっていた場合、自分の誤謬に気がつけないよ。

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そもそも、「うちのひと」にどれだけ言われても、そういうところまではいかない。けど、ほかの人に言われた場合は、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と言うことは可能だ。そして、家に帰ってきたら、そういうことを言った(よその人にそういうことを言った)ということを忘れて、がんがん鳴らせばいい。そうすれば、自分がやりたいことができる。普通の人の基準で、ものすごくでかい音を鳴らすことができる。普通の人だったら、「めいわくだからやめておこう」と思うようなでかい音でずっとずっと、鳴らすことができる。

「めいわくをかけるのではないか」と思うことができない。なのだから、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことはできないという点も確かにある。考えないでやっている。けど、考えなくても、「考えた」と言うことは可能だ。自己申告なのだから……。本人が「考えた」と言えば、「考えた」ことになる。「考える」と言ったって、もともとの基準が問題になる。きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがいの基準で考えるだけだ。本人は「よく考えた」と思うだろ。そもそも、「やっていいことをやっている」というきちがい的な信念がある。で、そのきちがい的な信念は、きちがい兄貴のなかで、可視化されているわけではないのである。言語化されているわけではない。けど、「考えたのか」と言われたら「考えた」と言うかもしれない。「考えた」と言ったほうが、自分の立場を守れる場合は、そういうふうに言うだろう。気ちがいでも、もちろんそういう判断ができる。じゃあ、きちがいではないのか? そうではないのだ。たとえば、よその人の前では「考えた」と言ったけど、うちに帰ってくれば、その発言とは関係なく、考えないで、鳴らすことができるのである。そういうふうに、自我が「つながってない」ということが問題なのだ。場面場面で、自我がつながってないから問題なのだ。この場合は……。「その場面だけ乗りきればいい」という考え方ある場合、乗りきったら、気にしないのである。

またひとつ思い出してしまった

 いやー、高校時代とか、ヘビメタ騒音にやられて、つらくて、つかれはてていたけど、無理やり元気を出してポジティブにしてたんだけど、そういうとき、失敗をしているんだよな。いま、またひとつ思い出してしまった。ヘビメタ騒音で猛烈に、猛烈に暗いわけだけど、無理やりポジティブな感じにして、ハイになっているとき、失敗をしている。ポジティブとか、無理やり元気を出すような感じにすると、睡眠不足でつかれはてているときは、失敗することが多いぞ。あれだったら、まだ、暗い気持ちのまま、人と交流したほうがよかった。あー、なんであんなことを思い出すんだ。わすれたままのほうが、よかったのに……。あれに関しては、ほんとうに、いままでずっと、わすれていた。当時は、気にしてなかった。当時、気にしてなかったことが急に気になるというのはなんなんだ。けど、ともかく、きちがい兄貴の影響をうけている。ヘビメタ騒音で寝不足で、寝不足なまま、動いていた。明るく見せたって、なかみは、ボロボロ。とても、くるしい。くるしい。

 

2023年3月13日月曜日

きちがい兄貴は、なにもやってないつもりなんだけど、一日だけでも、被害がすごい

 きちがい兄貴は、なにもやってないつもりなんだけど、一日だけでも、被害がすごい。

この被害のでかさが、ほかの人にはわからない。

「ふつーのそうおん」だと思っている。ぜんぜん、ちがう。幼稚園の園児の出す騒音、普通の工事の騒音……兄貴のきちがいヘビメタの騒音……ちがう。ぜんぜん、ちがう。

ヘビメタが好きな人だって、「こんな音で鳴らしていいの?」「家族の人がかわいそうだよ」「俺は、うちでこんな音で鳴らしたことはない」と言った音だ。きちがい兄貴が「だいじょーぶ、だいじょーぶ」とかこたえたのだ。あたまにくる。

だいじょうぶなわけがないだろ。「だいじょうぶじゃない。宿題ができなくてこまっている」と言っても、きちがい兄貴は、きちがい親父のように無視して、鳴らしやがる。

ほかの人は……たとえば、教師は「なんで、泉水(せんすい)は、宿題をやってこないんだ」と言い、それを聞いたほかの生徒は「泉水(せんすい)はだらしないやつだな」と思うわけだ。

しかし、どれだけやっても、やろうとしても、精一杯頑張っても、どれだけ無視しようとしても、きちがいヘビメタが、ガンガン鳴っていると、宿題ができない。なってなければ簡単にとける問題も、まったくとけない問題になる。そして、とけない感触が残ってしまう。

ああっ、先生が 「なんで、泉水(せんすい)は、宿題をやってこないんだ」と言ったときに、ヘビメタ騒音のことを言ってもむだなんだよ。これは、どの先生でもむだだった。そんなに深刻な問題だと思わないんだよな。

「言えばやめてくれる」という考え方が、かわらない。こっちはこっちで、かわらない。きちがい兄貴の態度がわからない。脳みそのいかれぐあいが、わからない。普通の人には、きちがい兄貴の、脳みそのクセがわからない。

ほんとうに、感覚器を書き換えて、「うるさい音で鳴らしてない」と思ってしまっていて、その思い込みが、強すぎるのである。こんなの、精神障碍者の妄想にひとしい。どれだけ言っても、わからない。どれだけ言っても、まったくつたわらない。信念のように、「でかい音で鳴らしてない」と思っている。

この状態がずっとずっとずっと、かわらない。毎日ずっとずっと、かわらない。毎年ずっとずっとかわらない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の頭のクセを利用して、まったく気にしないで鳴らしている状態が、どれだけ異常な状態か、ほかの人にはわからない。

そして、ほかの人は、きちがい親父の「頭のクセ」もわかってない。

ふたり、そろうと、すごいんだよな。ばかパワーがすごい。これは、普通の人の誤解を呼び込む。普通の人は、絶対に理解できない。普通の人が絶対に理解できないことが、毎日、「うち」では起こりまくっている。

普通に、ずっと、きちがい行為が発生しているということになる。

けど、きちがい行為をやっているやつらは、『きちがい行為をやってない』と思っている。

まったくやってないと思っている。

「まったくやってない」と思ったまま、固執して、固執して、頑固に頑固に、一歩もゆずらずにやりきる。

そして、ふつーーの人は「そんなきちがい行為をする人はいない」「やっているのにやってないと思っている人なんていない」と思って、俺が、まちがったことを言っていると思ってしまうのだ。

ふつーーの人から見ると、俺がへんなことを言っているように思えるのだ。

こういう、へんなしめつけは、きちがい家族がいる人……以外には……わからない。きちがい兄貴ときちがい親父がへんな人なのに、俺がほかの人から、へんな人だと思われるのだ。こういう構造がある。で、この構造は、強固な構造だ。

そして、きちがいヘビメタ騒音で、ぼくが、働く能力をうしなうと、「無職という属性」がぼくに付け加わる。そうなると、ふつーーの人の、無職に対する偏見がものを言うようになるのである。

こうやって、きちがい家族にやられた人が、どんどん、へんな人だと思われるようになるのだ。きちがい兄貴の騒音で働けなくなるのは、ふつーーのことだ。だれだって、それこそ、あれをやられたら、働けなくなるのである。

けど、ふつーーのひとの人生には、それがしょうじなかった。自分の人生にしょうじなかったら、わからないんだよ。どれだけひどいことかわからないんだよ。「どーーしても、働けなくなる」ということがわからないんだよ。

わからなかったら、「泉水(せんすい)さんは、はたら「け」るのに、さぼって働いてない」と思うようになる。これまた、そういうふうに思っている人に「ヘビメタ騒音で働けなくなった」と言っても、わからないままなんだよ。必然性がわからない。

働けなくなるという必然性がわからない。

その人たちにしてみれば、ヘビメタ騒音は、働けなくなるような効果があるものではないのである。そして、「過去のこと」であれば、「過去のことは関係がない」と思うのである。また、そういう人は「エイリさんも過去のことにこだわらなければいいんだ」と思うのである。

で、このふたつ……「過去のことは関係がない」ということと「過去のことにこだわらなければいい」ということは、俺を激しく傷つけるのだ。どうしてかというと、きちがいヘビメタ騒音のなかで、がんばってきたから……。こいつら、まったくわかってないな。

「こいつら、まったくわかってないな」と思う。このふたつについても、ここで語ってきたので、もう、くわしくは説明しないけど、こういう意見が、案外、毎日毎日、きちがい家族にやられてきた人を、おいつめるのである。

毎日毎日やられたら、影響をうけるんだよ

 くるしいだけの一生だったなぁ。ほんとうにつかれた。誤解されっぱなしだ。そこでの努力……というのは、実をむすばない。実をむすばないというか、それ自体が、マイナスなのである。

ヘビメタ騒音のなかでの努力……大きなマイナス。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとの努力……大きなマイナス。普通の体力がある人……ヘビメタ騒音によって体力をけずられていない人が考える努力とは、ぜんぜんちがう努力なのである。

けど、ヘビメタ騒音がなかった人には、それがわからない。

ちがいがわからない。

からだで感じたちがいがわからない。

だから、ちがいがわかってないまま、きれいごとを言ったりする。けど、そのきれいごとが、成り立たないのだ。

だいたい、そういうきれいごとが成り立っているのであれば、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなく、きちがい兄貴よる、きちがいヘビメタ騒音は鳴ってない。これが重要ことなんだよな。

けど、ヘビメタ騒音がない人には、わからない。ちがいはわかるわけがない。両方体験して、それで、ちがいがわかるという状態になるからだ。

きちがい家族がいて、そのきちがい家族がへんなことにこだわってこだわってこだわって、絶対、ゆずらないで、きちがい行為をするということの意味がわかってない。毎日毎日やられたら、影響をうけるんだよ。ところが、『影響をうけないことは可能だ』という前提でものを言う。

やられてないから、そういう前提でものを言う。

けど、そもそも、やられてないのだから、「やられてないから、そういうことを言える」というような意識は、当然、発達しない。かたいっぽうしか経験してないのだから、その経験にもとづいたことを言うようになる。

わからずに言っているということになるけど、わからずに言っているわけではないということになってしまう……本人の意識のなかではそうだ。

所与の条件として、きちがい兄貴がいないのだから、きちがい兄貴がもたらすことなんて、わかるわけがない。わからないで言っている。

けど、わかったつもりになっている。「ちがい」を理解したうえで言っているという気持になっている。

ほんとうに、ヘビメタ騒音で、誤解されっぱなしだったなぁ。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で、誤解されっぱなしだったなぁ。

ほんとうに、つかれた。

あーあ。ほんとうにすごい音で鳴ってたな。

 あーあ。ほんとうにすごい音で鳴ってたな。

2023年3月10日金曜日

「不幸な人は、親切にしてこなかったから不幸なのだ」という考え方について

 たとえば、成功した人じゃないと、成功法則について語れないということがある。成功してない人が、成功法則について語ったとしても、耳を傾ける人は、あんまりいない。

やっぱり、成功した人が語る成功法則でないと、意味がない……と、普通の人は思っているところがある。おなじように「不幸な人が語る、しあわせになる方法」にも、耳を傾ける人はあんまりいない。

しあわせな人が語る、しあわせになる方法でなければならないわけだ。

もちろん、「なければならない」と言っても、ほんとうに「そうでなければならない」というわけでもない。不幸せな人だって、しあわせになる方法について語ることができる。書くこともできる。できるけど、それは、あんまり、信用されないと思う。

では、どうして、しあわせな人はしあわせなのかというと、めぐまれた家に生まれたから、しあわせなのだ。まず、これが土台として成り立ってないとだめなのだ。

けど、しあわせな人は、自分の努力でしあわせになったと勘違いしてしまう。これは、勘違いだ。

めぐまれた家に生まれた人にかぎって「生まれの格差なんて関係がない」「コツコツと努力すれば成功する」なんてことを言う。ほんとうは、「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」だから、しあわせな生活を送ることができているのだ。

もちろん、本人なりに努力したとは思うけど、「生まれの格差・上」の人は、それがあたりまえだと思ってしまうところがある。たとえば、親が人格者で、医者だったとする。本人が、医者になることを希望して、医学部に入って、医師免許をとったとする。して、病院を経営したとする。もちろん、本人も努力した。

けど、きちがい的な親にたたられていたわけでもないし、きちがい的な兄が、常に毎日、きちがい的な音を鳴らして、勉強を邪魔をしたわけでもない。自分の子供を医学部に入れることができる親というのは、悪いけど、普通の親じゃない。けど、まわりがみんな医者の子供であるような学校に通うと、それが普通だと思ってしまうのだ。まわりのみんながそうだから「みんなの親もそのくらいできるでしょ」と思っているのだ。そういう思い込みがある。

たいていの場合、医学部に進学するということは「生まれの格差(カネ)上」だからできることだ。「まわりの人間」も医学部に進学できるような「うち」に生まれた人だから、これがあたりまえだと思ってしまう。

こういう人は、いちおう、「リア充」の生活をしている。結婚して、子どもをつくったりしている。そういう経済基盤がある。自分がしあわせになれたのは、自分がほかの人に親切だからだ……と思っているのである。

けど、ほんとうは、その人がしあわせなのは「生まれの格差(親)上」で「生まれの格差(カネ)上」で、なおかつ、才能があり、本人が努力をしたからだ。なので、そういう部分をすべて無視して、「親切にするかどうか」に注目してしまうのは、どうかと思う。

人に親切にしない人は、ふしあわせだということになってしまうのである。ふしあわせな人は、人に親切にしない人だということになってしまうのである。

「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「おまえがふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからなんだぞ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。あるいは、「人に親切にすれば、しあわせになれる」ということは「不幸な人は、いままで人に親切にしたことがないから不幸なのだ」と言っているのとおなじだ。このふたつは、意味的に等価なのである。

けど、人に親切にしているにもかかわらず、不幸な人はたくさんいる。

「人に親切にすれば、しあわせな生活ができる」というのは、まちがった考え方なのである。当然、法則性もない。一時的に「しあわせな感じがする」ということと、継続的に「しあわせな生活をする」ということは、ちがうことだ。混同してはいけない。

むしろ、ぼくの感覚で言うと、多くの、親切な人は、くるしんでいると思う。親切な人、全員ではないけど、多くの、親切な人は、くるしんでいるような感じがする。生まれの格差(親)下で、生まれの格差(カネ)下の人が、もともと、親切なこころをもっていると、くるしんでしまう傾向が強いと思う。 

こういう人は、悪魔が支配するこの世で、もっと傷つきやすい人だと思う。ぼろ雑巾のように、使われて、へとへとになっているよ。ボロボロになってふしあわせな生活をしているよ……。もちろん、全員とは言わない。そういう傾向があると思う。

2023年3月9日木曜日

自分が経験したこととはべつに、「こころ」があるわけではないのだ

  自分が経験したこととはべつに、「こころ」があるわけではないのだ。

経験していたとき「自分のこころ」が自分のなかにあった。自分の経験を無視して「楽しい」と言えば楽しくなる、なんてことはない。

楽しいとか楽しくないというのは、案外、「意識的な脳みそ」が支配できないことなのである。

それを、あたかも、支配できるように言ってしまう人たちがいる。その人たちは、あんぽんたんで幼稚だ。人生経験がとぼしいのである。

あるいは、めぐまれた環境で、めぐまれたことしか経験してない。まあ、本人の主観としては、「つらいこと」「かなしいこと」も経験したということになると思うけど、それは、「軽めのつらいこと」「軽めのかなしいこと」だ。

なんでも、軽めなのである。

一時的なものなのである。

めぐまれた人とめぐまれない人は、ぜんぜんちがう環境で、ぜんぜんちがうことを、経験している。環境に恵まれた人に、きちがい親父の話をしてもわからない。その人たちの理解は、うすい。その人たちの理解は、ほんとうの理解じゃない。ぜんぜんわかってない。

ぜんぜんわかってないけど、言語として、話として理解したということになる。

そりゃ、言葉の意味はわかるのだから、そういうレベルの理解はある。

けど、これがぜんぜんちがうのだ。

まあ、ちがうということ自体がわからないと思うけど。

思っただけで、すーーーっと、うれしい気持ちが消えて、暗い気持ちになってしまう

 またひとつ、やばいことを思い出した。これ、なんなんだ?思い出すな!! 思い出すな!!

俺の頭、思い出すなぁ! 忘れてたんだから、忘れたままにしろ。

なんで、急に思い出すかな?

もう、何十年も前のことなのに……。

 *     *     *

 

「そういえば」という感じで、昨日も、超・小さいことを思い出してしまった。小さいことなんだけど、これも、いい思い出ではない。「親切にする」ということについて考えていたら、連想的に思い出してしまった。もう、三十五年ぐらい前のことだ。めちゃくちゃに小さなことだから内容は書かないけど、ほんとうにまったく思い出さなかったことなんだよね。なんで、何十年も前のことを、突然、思い出すかなぁ。まあ、連想というのはあるんだよ。ぼくの場合、「連想の距離」が相当に長いものも思い出してしまう。関連度で言えば、小さい関連度しかないんだよな。距離があるんだよな。距離があるのに思い出してしまうんだよな。あーー、こまった。この、超・小さな思い出も、いい思い出とは言いがたいので、忘れたままのほうがよかったのに、思い出してしまった。これは、きつい。

何回も思い出す、わりとでかいこともあるんだよな。うーん。全部もちろん、「ひとがらみ」さ。失敗はある。あのときの、あの場面にもどって、あやまりたいという気持がある。これ、みんな、どうなんだろうな。そんなにでかくないことでも、何十年もたっていることなのに、思い出すってことがあるのかな。しかも、みんな、そんなにいい記憶じゃないんだよな。いい記憶もあるけど、基本的に、長期ヘビメタ騒音で暗い気持ちなので、いいことをしたあとも……親切にしてあげて、相手も喜んだあとも……家に帰るときは、つらくて暗い気持ちになっているんだよ。これ、いいことをしたあとの「すごくさみしい気持ち」ってわかる? 人に親切にしてあげたあとの、すーーっと消えていく、「よかったね」という感じと、すーーっとよみがえる、うちの、暗い感じ。わかるかな。

『人に親切にするとしあわせになる』というようなことを言う人がいるんだけど、そういうことにはならないんだよな。これが、また、そういうことを言っている人にはわからないことなんだよな。どうしてかというと、その人が、めぐまれた家に住んでいたから。めぐまれた人生を歩んでいるから。きちがい家族が、きちがいヘビメタ騒音を、どれだけこっちがやめろと言っても、ずっっずっとずっとずっと、一日中、鳴らしている「うち」にいたわけじゃないから。そういう家族と一緒に二十一年ぐらい、いっしょに毎日暮らしていたわけではないから。そりゃ、人に親切にしてあげて、その親切にされた人がよろこんでくれれば、一時的にはうれしい気持ちになる。けど、ぼくがつらかったのは、人に親切にしなかったからではないのだ。ヘビメタ騒音でつらかった。もっと前の時期なら、きちがい親父のきちがい行為でつらかった。そりゃ、親切にしてあげて「ああっ、よかったね」と思う気持もあるけれども、「うちに帰ったら、あのヘビメタ騒音が鳴っている」と思うと、思っただけで、すーーーっと、うれしい気持ちが消えて、暗い気持ちになってしまう。ぼくが、不幸なのは、人に親切にしてあげなかったからではなくて、きちがいヘビメタ騒音が、鳴っていたからだ。どれだけ「やめてくれ!!やめてくれ」と兄貴の部屋に行って、絶叫しても、ぜんぜん、(兄貴が)やめてくれなかったからだ。ほんとうに、眠れなくなるから、次の日もくるしいのだ。あのくるしさと、いったらない。きちがい兄貴は気ちがいなので、朝も鳴らしていたときがある。朝、ものをそろえようとしているときに、あの音が鳴っていると、発狂状態で、殺したくなるし、自殺したくなるのである。ものが見つからないと、パニックになるのである。ものが見つからなくても、ものが見つかっても、きちがいヘビメタがガンガンガンンガガンガガガガン鳴っているから、パニックなのだ。前日、ヘビメタ騒音のせいで、宿題を終えることができないから、ものをそろえてから眠るということができない。実際に四六時中、ヘビメタ騒音にたたられていない場合は、「こうしたらいい」「ああしたらいい」ということが言えるのだけど、それが、できないのだ。絶対的にできない。けど、そういうふうにアドバイスをしている人に(あるいは、した人に)「これこれ、こういう理由でできない」と言っても、案外、認めなかったりする。そもそも、小学六年生のときから、毎日ヘビメタにやられている。そういう生活が続いている。極限状態での生活だ。そういう生活のなかで、できることじゃないのだ。帰ってから眠って、ヘビメタが鳴ってないときに起きて、勉強すればいいというようなことを言った人がいるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っているので、眠ることができないのだ。どれだけつかれていても、ヘビメタ騒音のなかで眠ることができない。ぼくの部屋ではできない。おかあさんの部屋だと、眠れるのだけど、俺がおかあさんの布団を占領すると、おかあさんが横になって休むことができなくなってしまうのだ。おやじうちなのだけど、おかあさんの部屋と、ぼくの部屋では、音圧、音のでかさがちがう。ちがうんだ。(実は、一日だけ、気絶をするように、きちがいヘビメタが鳴っている、ぼくの部屋で眠ってしまったことがあるのだけど、起きたあと、猛烈にやばい状態になった。もう、三十九度ぐらい熱がでて、はきそうな状態とおなじ状態になった。そのからだの状態は、熱がでてダメな状態とはちがう、ダメさがあるのである。これが、異常な感じでくるしいのである。ほんとうに、頭にダメージをうけたようなだるさなのである。


*     *     *


2023年3月8日水曜日

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。どんなミスでもゆるしましょう?

 引用開始+++
もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了+++

「ミスだっておたがいさま。だれだってミスをします。あなたもミスをするし、相手だってミスをする。自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」


こういう言葉というのは、基本的には、いろいろな見えない前提がある言葉なんだよ。手短に言うと、いろいろな決めつけがある。

その決めつけは、基本的には、書かれてないことが多い。

書かれてないのだから、書いたことじゃなということが言えるのだけど、「どんなことだって」というような言葉は書いてあるので、その見えない前提が、すけて見えることがあるのである。なので、この言葉の作者は、まるで気にしてないのだけど、「いらっ」とくる人がでてくるのである。

「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。小さなミスも、大きなミスも、ミスと言ったら、ミスなんだよ。ミスというのは、非常に抽象度が高い言葉なんだよ。どんなミスも、「ミス」という言葉に含まれてしまうんだよ。だから、ただ単に「ミス」と言った場合には、どんなミスも「ミス」という言葉に含まれてしまうということを、気にして発言するべきなんだよ。

簡単に言ってしまえば、釣銭をまちがったというようなミスも、人が死んでしまうようなミスも、どっちもミスなんだよ。漢字変換をしまちがったというミスも、全身不随になるようなミスも、どっちもミスなんだよ。

もし、だれかのミスで、自分が、そのあとずっと、動けないからだになってしまったとしよう。

そして、病院のベットで寝ているとしよう。そのとき、公平さを装う第三者があらわれて、「だれだってミスをします」「あなたもミスをするし、相手だってミスをする」「あなただって、漢字変換ミスというミスをしたでしょ」「それとおなじですよ」「相手だって、自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」と言ったら、どういう気持になるか?

俺だったら、「ミスのでかさがちがうだろ」「ミスの意味合いがちがうだろ」「どうして、(たとえば自分のブログにのせる文章の漢字変換ミスと、その後の人生がなくなるようなミスをいっしょにするんだ」と言いたくなる。

「ミス」というおなじ言葉として、表現されることであっても、現実世界ではまったくちがった、意味内容をもつことがあるのである。

この公平さを装う第三者というのは、漢字まちがいというミスも、全身不随になって動けなくなってしまったということをもたらしたミスも、同じレベルのミスだと思っているのである。どんなミスも、ミスはミスだから。そして、だれだってミスをするのだから、ミスはおたがいさまだというとになる。ミスがおたがいさまなら、どんなミスも許すべきなのである。

公平さを装う第三者が、そういうふうに思っているということが、ベッドに横たわっている人にわかった場合、ベッドに横たわっている人は、おこるのである。このいかりは、正常ないかりだ。わかってないのは、公平さを装う精神世界の人だ。

こういう精神世界の人は、自分のぶんだけ「他人」のミスをゆるせばいいわけ。他人に対して、別の他人のミスをゆるすべきだというようなことを言うべきではない。どうしてかというと、いままで説明してきたように、ひとくちに「ミス」と言っても、現実世界では「ミス」の内容が、大きくことなるからだ。

こういう精神世界の人は、「ミスはミスで、どんなミスもおなじ」「みんな、ミスをするのだから、他人のミスはゆるすべきだ」というようなことを言っているのだけど、話は、わりと複雑なのだ。他人が他人に迷惑をかけた場合を考えると、想定される人物が三人必要なのだ。

たとえば、精神世界の人をAさんだとすると、Bさんと、Cさんが必要になる。Bさんは、すでに、Cさんに迷惑をかけた人なのだ。逆に、CさんがすでにBさんに迷惑をかけた人である場合もある。

ようするに、話者(自分・精神世界の人)と、(他人1)(他人2)が必要なのだ。話者は、他人1が他人2にどのような迷惑をかけたとしても、他人2は他人1をゆるすべだということを言っているのである。

これが、ゆるしのすすめだ。

しかし、話者は、他人1と他人2のあいだに、どのようなことがあったのかということに関しては、まったく感知してないのである。「ミス」という言葉をつかっているけど、そのミスは、他人に迷惑をかけるタイプのミスなのである。

そして、ミスの大きさは、捨象されているのである。抽象的な世界の「ミス」について語っているわけで、現実世界の「ミス」について語っているわけではない。抽象世界の「ミス」は、なにか「ミス」と呼べるものといった、具体的な姿がない「ミス」なのだ。

しかし、現実世界の「ミス」というのは、すべてが、個別具体的なミスだ。この個別具体的なミスは、現実の文脈の中で、大きなミスであったり、小さなミスであったりする。やられたほうがこうむった被害のでかさについては、まったく語られていないのだ。

なので、現実世界において、他人がしでかしたことによって、たいへんな被害が生じている場合を無視しているのだ……この話者は、他人1か他人2にしょうじた被害について無視をしている。けど、「どれだけ被害がでかくても、人間は、人間(他人)をゆるすべきだ」という意味のことを言っているのだ。

他人1がどういうミスをしたのかということはまったく問題にならない。他人1のミスによって、他人2がどのような被害を被ったのかということは、まったく問題にならない。そういうことを言っているのである。

他人1と他人2をいれかえることもできる。けど、いちおう、他人1が他人2に迷惑をかけたというケースについて語っている。何度も言うけど、逆の場合もある。他人2が他人1に迷惑をかけた場合もある。

さらに、話者が「自分」という言葉を使うと、その自分という言葉は、話者自体のことをさしているのか、読者自体のことを指しているのかわからなくなる。これは、けっこう重要なことだ。

こういうことを、全部吹っ飛ばせるのは、「ミス」という抽象的な言葉を使い、「自分」という抽象的な言葉を使い、「他人」という抽象的な言葉を使うからだ。

あるいは、「他人」のかわりに、相手という言葉を使う場合もあるのだけど「相手」という言葉も、かなりめんどうな問題を引き起こす。抽象的な「ミス」という単語をつかっているのにもかからず、自分!の人生において発生した「ミス・ストーリー」が頭のなかにいくつかあるからだ。完全に抽象的な「ミス」全体について語っているようでいて、思い浮かべて語っているのは、この人の人生において発生した、具体的なミスなのである。そのミスは、その人の人生において発生した具体的なミスなのであるから、どれも、他人の人生において発生した具体的なミスとはちがうのである。話者が、具体的な話者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべて、話をするのだけど……抽象的な話をするのだけど、読者は読者で、読者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的」(話者にとっての相手)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべてしまうのである。


 

2023年3月7日火曜日

「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。

 引用開始

もうこの人とは離れるべきだなと思うのは、自分への対応が雑になったときです。ぱっと見だけ「感じのいいひと」は世の中には沢山いるけど、気まぐれで咲かせる花が綺麗なだけで、本当に見るべき所は心の奥にある根っこの部分なんですよね。自分は大切にされていないと感じたら今すぐ離れるといいです
引用終了
 

人間はおたがいさまだから、肩の力をぬいてゆるしてやるべきなんだろ。相手の自分への対応が雑になったときに、相手に対して「カチン」ときても、肩の力をぬいてゆるしてやればいいだろ。自分だって、相手への対応が雑になるときはある。人間はおたがいさまだから、ゆるしてやるべきなんだろ。「どんなことがあっても」肩の力をぬいて、ゆるしてやるべきなんだろ。ゆるしてないじゃん。

相手だって「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから、自分への対応が雑になっても、肩の力を抜いてゆるしてやればいいでしょ。「自分への対応が雑だ」なんてことにはこだわらないで、もっと相手にやさくしくしてやってもいいんじゃないの。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心を満たしておけば、自分への対応が雑になっても、ゆるせるんじゃないの?

「カチンときてもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「ミスがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、「雑な対応」はおたがいさまだ。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておきたいのだから、みたせばいいでしょ。どんなことでも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておけば、「雑な対応をされても」ゆるせるのでは? ぜんぜん、寛容な気持で心をみたしてないじゃん。寛容な気持で心をみたしてないから、(相手との)縁を切りたくなって、縁を切るんでしょ。いちいち「対応が雑だ」とカチンときてるんじゃないの?

「雑な対応だ」と思ったとき、ゆるしてやれば、何回、(相手が)雑な対応をしてきても、そのつど「人間はおたがいさま」と思って、ゆるしてあげればいいんじゃないの?

「雑な対応」ぐらいで、腹をたてているのに「なにがあってもおたがいさま」なんて、よく言えたものだな。「なにがあっても」と言っているんだよ。これじゃ、実際に子供を誘拐されて、殺されたら「なにがあってもたがいさま」だから、ゆるしましょうなんてことはならないよな。だったら、人に「なにがあってもおたがいさま」なんて言うべきじゃない。

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 「なにがあってもおたがいさま」というのは、「どんな出来事が発生しても、おたがいさま」ということなんだよ。どうして、その出来事のなかに「雑な対応をされるという出来事」は、ふくまれていないんだよ? 「なにがあっても」と言っているでしょ……。「雑な対応されるのだけは別だ」言いたいのか? ほかの人は「雑な対応」レベルのことではないことで、悩んでいるんだよ。そういうことがあるのぉ。もちろん、雑な対応でも、頭にくる。けど、そういうレベルのことではないことで、くるしんでいるんだよ。「なにがあってもおたがいさま」「もっと肩の力をぬいてゆるしましょう」なんてことを、「雑な対応レベルのこと」でおこっているやつが、言うべきではない。

「なにがあってもおたがいさま」だから「寛容なこころ」で、相手をゆるして、つきあうか? あるいは、「なにがあってもおたがいさま」なんてことはないから、自分に対して雑な対応をするやつのことは、さっさときるのか? どっちかにしろ。ささっと(縁を切る)という対応をするなら「なにがあってもおたがいさま」とか「寛容な気持でこころをみたしておきたい(寛容な気持でこころをみたしておけば、肩の力をぬいて、ほかの人をゆるせる)」というようなことを言うな。「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。 

「(こっちが雑な対応をしてないのに)相手が雑な対応をしてきたら、おたがいさまではない」と思うなら「なにがあってもおたがいさまだ」とは思ってないということだ。

「雑な対応」をされるとカチンときて、縁を切るというのであれば、「(相手を)ゆるしてない」ということだ。「おたがいさまだからゆるす」なんことは、実行してない。「寛容な気持でこころをみたして、相手をゆるす」ということは、実行してない。そもそも自分が実行してないことを、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか? 自分が実行してないことを、さも実行しているようなふりをして、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか?

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雑な対応をされたら「おたがいさまじゃない」と思うやつが、「なにがあってもおたがいさま」なんて言うな!! 

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2023年3月6日月曜日

めぐまれた環境のなかですごした人は、めぐまれた環境のなかでの「努力」しか思い浮かべることができない

  ほんとう、このさき、どうしようかな。

やっぱり、長期ヘビメタ騒音なしで、暮らしたかった。普通の小学生生活、普通の中学生生活、普通の高校生生活、普通の大学生生活をしたかった。したかった。長期騒音で、ぼろっぼろ。まあ、こっちに書くようなことじゃないけどね。

あーー。ともかく、頭のなかがぐちゃぐちゃで、からだがしんどくて、いつもいつも、きちがい兄貴による騒音が鳴っていて、つらかった。猛烈につらかった。

全部、俺のせいになる。

不可避的に、「できなくなる」のに。

騒音が鳴ってなかったら、「できること」なのに。鳴ってできなくなったら「できないこと」になってしまう。

どれだけ、「ヘビメタ騒音が鳴ってなかったらできる」と言ったって、むだだ。できないようになって、「できない現実」と向かい合わなければならなくなる。

それが、どれだけつらいか、みんなわかってない。どれだけ努力したって、どれだけ影響をうけないようにしたって、普通に眠ることすらできなくなる。

勉強にしたっておなじだ。きちがいヘビメタが鳴っている空間というのを、みんなは、一倍速で経験したわけじゃないから、一日に約七時間から十三時間鳴っているだけで、生活すべてが、めちゃくちゃになるということがわからない。「努力」とか関係がないから。死にものぐるいの努力をしても、崩壊をとめられない。死にものぐるい努力をするしかないのだけど、死にものぐるいの努力をすると、からだが、もっと弱っていくのである。余裕がある状態で「普通に努力する」ということを感がている人たちばかりだけど、きちがい騒音生活のなかで努力をするということは、けっきょく、破滅につながる。みんな、ほんとうにわかってない。「コツコツ努力すれば成功する」なんて、あほなことを言っているやつは、きちがい家族がいるうちのことがぜんぜんわかってないんだよね。きちがい家族が、きちがい家族の基準で、きちがい的な音を、きちがい的な意地で鳴らすということが与える影響がまったくわかってない。「無視すればいい」。「無視できないから、こまっているんだろ」。自分がめぐまれていたから、きちがい家族がふたり、いる状態というのがわからないのである。無意識に問題がある家族が四人家族のなかで、ふたり、いるということがどういうことなのかわかってない。わかるわけがない。ひとりだって、たいへんなのに、ふたり。めぐまれた環境のなかですごした人は、めぐまれた環境のなかでの「努力」しか思い浮かべることができない。「努力できない状態」が思い浮かばない。努力が、プラスにならないで、マイナスにしかならない状態というのが、思い浮かばない。

2023年3月4日土曜日

人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう

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引用開始

もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了

 

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これ、白側信者だから、アドレノ〇〇〇については知っているだろう。ある子供がA子さんだとする。ある子供を誘拐した人がBさんだとする。BさんがA子さんを誘拐して、拉致、監禁して、虐待して、A子さんを殺したとする。

それは、BさんがA子さんを虐待したときに、A子さんが体内で放出するある成分がほしいからだ。

ようするに、Bさんが、自分の欲求にしたがって、A子さんからアドをとって、殺したとする。

その場合も、「おたがいさま」なのだろうか。

A子さんも、Bさんも、ぶっつけ本番で人生を生きているのだから、A子さんは、Bさんをゆるすべきなのだろうか。まあ、殺されてしまうから、ゆるすも、くそもないのだけど、この白側信者がAさんに要求していることは、そういうことだ。

Cという親が、Dという子供を虐待して殺したとする。一方的に、Cという親が、Dという子供を虐待したとする。それでも、「人間はみんなお互いさま」なのだろうか。「人間はみんなお互い様」だから、DはCをゆるすべきだと、Dがするべきことを、赤の他人が、Dに要求してもいいのだろうか?

「なにがあってもお互い様」なのだと言っている。こういう人は、お互いさまの意味がわかってない。一方的にやられたのに、おたがいさまに、なるわけがない。「なにがあってもお互い様?」……こういうことをよく言えるなぁ。

事柄の意味を無視して、全部おなじようなレベルの意味しか持たないとする、無意味化思考があるのだ。この、見えない前提と言うのは、やっかいだ。個別の事柄の意味を無視して、全部、おなじようなことだと考えているのだ。

だから「なにがあっても」と言っている。個々の具体的な事柄の意味を無視して、「ゆるすべきだ」と言っているのである。この人が、他人全体に向かって言っている。

他人のなかには、この人が想定してるようなことではないことを経験した人がいる。なので、「それとこれとはちがう」ということを言いたくなる。

こういう精神主義世界の人は、すべてがすべて、感覚的な言い方でものを言う。いいことを言っているつもりなのだろう。けど、まちがっている。

たとえば、虐待して殺すという事柄と、ちょっと肩がぶつかるという事柄はちがう事柄なんだよ。全部、事柄だから、おなじようにあつかうべきだという主張には無理がある。

この白信者は、「ちょっと肩がぶつかる程度のこと」を想定して、ものを言っている。「ちょっと肩がぶつかったことぐらいで、カリカリおこるのは問題がある。

゛相手だって自分だって、この世で、全力で生きているのだから、そんなことでおこるべきではなく、もっと、余裕のある気持ちで生活するべきだ」というようなことを言っているのだ。

けど、「ちょっと肩がぶつかるという事柄」と「虐待して殺す」という事柄は、ちがう。どちらも、事柄だけど、意味内容がちがう。

ところが、意味内容のちがいを無効化して、どんなことも「ちょっと肩がぶつかったぐらいのことなのだから、人間は人間(他人)のことをゆするべきだ」と主張しているのである。

しかし、頭のなかでは「ちょっと肩がぶつかったぐらいのこと」を想定しているのだけど、そういう想定があるということを、明言しない。

だから、「虐待して殺す」という事柄と「肩がぶつかった」という事柄を「おなじレベルの事柄だ」とみなしているということは、かくされている。けど、「どんなことが起こっても」という言葉で、じつは、この発言者が「どんな事柄も、おなじレベルの事柄だ」とみなしているということが、すけて見えるのだ。

たとえば、Eさんが、Fさんの行為で、全身不随になって、ずっとこのさき、動けない状態で暮らすことになったとしよう。それですら、「肩がぶつかったレベルのこと」とこの発言者は見なしている。「どんなことが起こっても」やられたほうは、やったほうを、ゆるすべきなのだから、Eさんは、Fさんをゆるすべきなのである。

この白信者だって、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたら、おこるはずだ。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしているから」ゆるしましょうということになるかのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。自分の子供が、ただが、アドを採取するために、虐待されて、殺されても、「おたがいさま」なのだろうか。子供は、その相手になにもわるいことをしてないぞ。どこが「おたがいさま」なのだろうか。

この場合は、「肩がちょっとぶつかったこと」と「自分の子供が、誘拐され、虐待され、殺されたこと」が「同レベルのことだ」という前提に立って話がすすんでいるのである。そういうふうに、明言されてはいないけど、「どんなことだって」という言葉が、それを、あらわしている。この白信者の頭のなかには「どんなことだってゆるせるし、ゆるすべきだ」という考えがあるのである。そういうことを言っているのである。けど、そういうことを言っているときは、具体的な事柄としては、「ちょっと肩があたったぐらいのこと」を思い浮かべている。

けど、精神世界の人なので「どんなことでも」「どんなことが起こったって」ということを言いたがる。そして、他人の身の上に起こったことは、どんなことだって「ちょっと肩があたったぐらいのこと」なのだから、カチンときても、お互い様だと思ってゆるせることなのである。想定のなかではそうなのだ。けど、実際に、この白信者の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたらそんなことは言ってられないだろう。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるすのだろうか。たとえばの話だけど、実際に、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺された人だっている。その人が、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と(関係がない人に)言われたら、どんな気持ちになるかということだ。こういうことが、ぜんぜん、わかってないのである。「(自分の子供を殺した)相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうと言われたら、どんな気持ちになるか? この精神世界の人は、不特定多数の人に「もっとゆるしましょう」と語りかけている。当然、自分の子供を殺された人も、不特定多数の人のなかに、ふくまれている。はたして、自分が、自分の子供を殺された人と同じ立場になったとき、自分が言っていた理由で、自分の子供を殺した人をゆるせるのだろうか?

かりに、「なにがあってもおたがいさまだから、ゆるしましょう」と言われたとき、考えることはなんなのかということだ。ぼくだったら「ぜんぜんおたがいさまじゃないじゃん」と思う。 この精神世界の人は「なにがあっても」と言っているのだから、当然、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されることだって、ふくんでいるのである。けど、この精神世界の人は、きれいごとを言っているときは、そういうことを想定してないのである。だから、もっと気楽に、肩の力をぬいて、「相手」をゆるしてあげればいいというようなことを言う。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたときに、公平な?第三者があらわれて「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と言ったら、どう思うか?


「何があってもお互い様」と軽く言っているけど、これはおかしい。すべての事柄を、平均化して、無意味化しているのである。事柄であれば、事柄なのである。どんな事柄だって、事柄なのである。肩がぶつかったということも、事柄だし、自分の子供が殺されたということも、事柄だ。ぜんぜん、お互い様じゃない事柄も、勝手に「お互い様であるような事柄」にされてしまっている。個々の事柄の意味合いをはく奪してしまっているのである。

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ほんとうーーに、破壊的なやつがいるなぁ。「生まれの格差(家族)中」以上の人は、根本的なことがわかってない。こういう、精神世界主義者みたいなやつが言うことというのは、ほんとうに、「生まれの格差(家族)下の下」のやつを自殺に追い込むことばかりだな。

「そんなことじゃない」という怨嗟の声が聞こえないんだろうな。「なにもわかってない」というのがわかる。こういう無邪気な精神世界主義者のざれごと、あるいは、きれいごとは、ずっとやられ続けて、自殺寸前の人のこころを、破壊する。

これだけ、みごとに、さかなでしまくるやつは、めずらしいな。しかも、そういう人が、うけていて、同意する人があらわれる。ぜんぜん、わかってないな。

こういう、もともと、めぐまれた家に生まれてきた人はなにもわかってないなぁ。そんな、ちょっとした、もめごとであるはずがないだろ。たとえば、ちょっと肩があたったというようなことと、きちがい家族が毎日ずっとやってきたことをいっしょにすることはできないんだよ。

まるでわかってない。

これずっとまえに、「おたがいさま」ということについて書いておいたけど、こういう感じの精神世界主義者みたいなやつが言うことは、ほんとうにどれもこれも、おなじだな。

おカネ持ちの人が貧乏人について考えるときもおなじなんだけど、そもそも、前提がまちがっている。けど、そういう人たちは、そもそもの前提がまちがっているということに気がつかない。気がつかないだけではなくて、言われてもわからない。説明されたって、わかるわけじゃないのだ。どうしてかと言うと、経験がないからだ。

そして、人間の思考というのは、そういう「みえない」前提を必要としている。いつもいつも、みえない前提をもとにして、考えている。見えない前提は言葉の中に含まれていないにしろ、言葉に影響をあたえている。どれだけ言ってもわからないと思うけど……。ほんとうに、きちがい家族がどういうものなのかぜんぜんわかってないんだよな。

きちがい家族にやられたことがない人が発する「おたがいさま」の意味と、きちがい家族にやられたことがある人の「おたがいさま」の意味がぜんぜんちがう。
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めぐまれた世界のなかで、たいして、ひどいことをやられたわけではないのに「ゆるし」について語ってしまう。人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう。そういうレベルのことじゃないことがあることが、ぜんぜんわかってない。

こういう精神主義的な人が流す「よさそうな言葉」でくるしめられている人がたくさんいると思う。くるしめられている人が感じていることが、真実だ。精神主義的な人が言っているのは一部なのである。部分集合。

そして、精神主義的な人は、めぐまれた家に生まれて、めぐまれた生活をしてきた人なんだよ。本人は、まるでわかってないと思うけど。

だから、そういう基準でものを言う。そういう基準が成り立っている前提でものを言う。けど、そういう基準が成り立ってない家がある。そういう家では、何十年も継続的に、トラブルがしょうじる。

そのトラブルというのは、よくある他人同士のトラブル?のように、「おたがいさま」ではない。継続的なトラブルと、一回なぐられたとか、一回侮辱されたとかというようなトラブルをいっしょにするなと言いたい。

(頭がおかしい親のもとに生まれた子供がどういうことを経験するのか、まるでわかってないな。頭がおかしいということは、機能的な欠陥があるということだ。普通の人ならわかることがまったくわからないということだ。機能障害なのである。

その機能障害がある脳みそを搭載している人は、ずっと、そのままなんだよ。

根本の部分がかわらないわけ。

ほんとうに、こういうことがわかってないな。

こういうことが生み出すことがわかってない。

まるで、学校で、ときどきトラブルが発生するというようなことしか想定してないんだよな……。喧嘩両成敗とかそういう世界の話しかしてない。「おたがいさま」……ふざけるな。

まったくまったくわかってないなぁ。偶発的に起こる「いっかいこっきり」のことと、構造的に起こる「毎回繰り返される」ことをごっちゃにして考えるのはよくない。

現実的じゃないんだよ。まあ、精神世界主義者は、だれかが「お前の言っていることは、気にくわない」とぶんなぐってきても、「おたがいさま」だから「ゆるせる」のでしょ。

そんなの、突発的な出来事で、毎回繰り返されることじゃないからな。「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく」のだから、当然ゆるせる。

どれだけ、めちゃくちゃな理由でなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせる。『ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから』ゆるせる。肩の力をぬいて、ゆるせる。けど、毎回やられたり、自分が守りたいと思っている家族をなぐられたらどうなの?

何回、自分が守りたいと思っている家族がなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせるの?

「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たして」いるので、ゆるせるの?

自分も他人も「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」……だからなんだ? じゃあ、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」他人が、ぶっけつ本番で歩んでいるから、わけのわからない理由で、自分が守りたいと思っている家族を殺しても、ゆるせるの?

偶発的なことだって、ゆるせないんじゃないの? 自分の家族が学校で継続的にいじめられていても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様」だからゆるせるの? 自分の子供をいじめている子供も、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」だけなので、肩の力をぬいて、ゆるせるの?


自分の子供が、インフルエンザワクチンを打ちに医者に行ったら、医者がまちがって新型コロナワクチンを打ったとする。そして、その結果、子どもが死んだとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるのか?

職域接種で、あのワクチンを打ったら、夫が死んでしまったとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるの? その医者も「ぶっつけ本番」で自分の人生を歩んでいるだけだから、ゆるせるの?

精神世界主義の人は、「おたがいさま」ではないことについて「おたがいさま」だと思えるのかどうかということについて、もうちょっと思考をめぐらせたほうがいい。

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もっと他人に対してやさしくなったほうがいいと「小さなこと」を思い浮かべて話しているだけでしょ。けど、いい方が言い方だから、「大きなこと」まで含んでしまっている。


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家族ではない人間との一時的なトラブルと、家族である人間との継続的なトラブルをいっしょにするな。言っておくけど、引用文は、別に俺に向かって書かれたことじゃないよ。精神世界主義の人は、よく、こういうことを言って、悦に浸っていると思うから、引用しておくけど。

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2023年3月2日木曜日

因果関係を逆転させて、ひどいことを言うな


いつも機嫌のいい人は、運気もいい
いつも機嫌の悪い人は、運気も悪い

↑こういうことを言って、いきがっている人がいるのだけど、これは、ひどい。どうひどいかというと、すでにひどい目にあっている人を、悪く言って、よろこんでいるので、ひどいということになる。たとえばの話だけど、1度の水につかっている人は、「つめたそうな顔」をしているとする。それは、1度の水につかっているからだ。しかし、つめたそうな顔をしている人は、不幸を呼び寄せていると言った場合は、「つめたそうな顔をしている」ということが不幸を呼び寄せているということになってしまう。生まれの格差を無視してこういう発言をするのは、いかがなものかと思う。いかがなものかと思うというような言い方だとわからないかもしれないので言っておく。こういう発言をするのは、悪魔の容器を補強するので、悪いことだ。

たとえば、水俣病で、つらい顔をしている人がいたとする。もともと、つらい顔をしている人ではなくて、水俣病になるまえは、明るい顔をしていたのだ。そして、付け加えるなら、漁をしていたとする。たまたま、知らずに汚染魚を食べてしまったということが、原因で、からだがつらいので、つらい顔をしているのだ。けど、つらい顔をしている人は、運が悪いと言ったらどうだろうか? もし、運とかそういうことを言うのであれば……運が悪いから、汚染魚を食べてしまったのである。だから、つらい顔をしているというのは、結果であって原因ではない。ところが、精神世界のこういう人たちは、因果関係を逆転させて、「その人の性格」や「その人の表情」のせいにしてしまうのだ。かりに、水俣病でくるしんでいるのであれば、その人が、どれだけニコニコしても、つらいことにはかわりがないということになる。からだがつらかいら、つらい顔(つき)になるのだ。ニコニコすることで、水俣病が治るということはない。それを、自分が(たまたま)水俣病にならなかったからと言って、水俣病の人をばかにする。「つらい顔をしているからだダメなのだ」「つらい顔をしているから、運が悪くなるのだ」と言って、ばかにする。これは、原因についてまちがった前提にたった発言だ。そして、結果についてまちがった前提にたった、発言だ。そして、こういう人たちは「運をよくするために、ニコニコしましょう」というようなことを言うのだけど、ニコニコするという、作業が増えてしまう。こういう人たちは、精神が子供なので、人に対する思いやりがなく、人に対して、無理なお願いをすることがある。これもまた、自分の気持ちだけなのだ。ただでもつらいのに、作業が増えてしまうということに関する、心遣いがない。増えてしまうでしょ!! やらなければならないことが、増えてしまうのだよ。そして、そのやらなければならないことで、運がよくなることはない。そして、その作業で、つらさが減るということはない。つらさが増えてしまう。この人たちは、幼児的万能感に支配された魔法の世界に住んでいる。魔法の呪文を唱えると、その通りになる。ニコニコするとよくなると思っている。思っているだけだ。ほんとうに、子どもなんだよなーー。相手の状態をまったく考えてない発言をして、いきがっている。本人は、そのとき楽しいのだろう。これから、ワクチン後遺症の増えると思う。ワクチン後遺症の人は、ワクチンに入っている物理的な成分によって、病気になっている。すでにワクチン後遺症になっている人は、べつに、つらい顔をしてワクチンをうけに行ったから、病気になったわけではないのだ。対応しているのは、ワクチンの成分であり、ワクチンをうけに行ったときの気分とか、顔の表情ではない。こういうことがわからずに、弱っている人を見かけたら「そんなのは、暗い顔をしているからダメなんだ」と言って、いい気になる。からだが(物理的につらいので)つらい顔をしている人を見かけたら「つらい顔をしているからダメなんだ」と言っていい気になる。こういうことばかりしている人たちがいる。本人は、いい気になって、ニコニコしているんだよ。

「運」とかそういうことを言うのであれば、大半が、「生まれの格差」で決まっている。その人の性格のせいにするな。その人の考え方のせいにするな。これ、体験のほうがさきなのである。きちがい的な親に虐待されたから、(虐待された幼児は)不愉快な顔つきになるのである。不愉快な顔つきだから、虐待されるわけではないのである。それを、きちがい的な親という外部環境……虐待された幼児にとっての外部環境……を無視して、「幼児」のせいにしてしまうのである。幼児が不愉快な顔つきをしていたから、虐待されたわけでないのである。これは、きちがい的な親という外部環境を無視している。……きちがい的な親はきちがい的な脳みそをもっているので、なにがなんだろうが、幼児を虐待するのである。それを「幼児の表情」のせいにする。こんなの、虐待に加担しているようなものだ。

2023年3月1日水曜日

自分が発狂して無視したら、そのとたんに、本人(たち)のなかでは終わっているのである。

 ほんとうに、ヘビメタでくるしかった。これは、きちがいヘビメタ騒音の空間だ。これは、きちがいヘビメタ騒音の、朝、だ。こんなのはない。あの一分間が、どれだけくるしいか、みんなわかってない。一分間ですむならいい。一日に、一分間ですむならいい。けど、すまない。きちがい兄貴したって、集合住宅だったら、あんな音で、一分間だって鳴らせないはずだ。実際、いま住んでいるマンションで鳴らしてない。あいつが……きちがい兄貴がわかくて、くるっていたから、やった。平気だった。そして、そういうことを黙認し、支援するきちがい親父の存在があった。こんなの、普通の人にわかるわけがない。きちがい兄貴に、文句を言えなくなっちゃったんだよな。けど、本人はそう思ってないわけ。だから、「おまえは、騒音をつかんじゃっているからダメなんだ」とか言ったんだ。これだけでも、刺殺されても、文句を言えないセリフなんだぞ。きちがい兄貴はきちがい兄貴で、自分が鳴らしていることで、弟がどれだけこまっているかということが、まったくわからないから、「やーい、問題児」とかいいやがる。きちがい兄貴の騒音のことで、きちがい親父ともめてたの!! きちがい兄貴、おまえ、すぐに、二階にあがたっから知らないだろうけど。まあ、そのときは、きちがい兄貴が、もう、寝るつもりでいたので、二階にあがったあと鳴らすということはなかった。ともかく、きちがいなんだよな。普通の親だったら、自分の息子があんな音で鳴らしているということがわかったら、「近所迷惑だからやめろ」と、怒鳴り込むはずなんだぞ。頭がおかしいから、普通の人がまったく思いつかない行動をする。態度をる。「親の行動」として普通の人がまったく思いつかないことをするんだよ。普通の人だったら、絶対にありえない反応をしている。普通の人が、考える、親というものとは、まったくちがう行動を、うちの親父はしやがるのである。で、きちがい兄貴も、きちがい親父も、どれだけ、普通の人からずれているかということが、わかってない。ほんとうに、やっているときは、きちがい的な意地でやっていて、相手がなにを言っても、やり続けるのだけど、「やった」というつもりがないんだよ。相手が文句を言ってきても、それを無視して、頑固にやり続けたという、「認知全体」がぬけているんだよ。毎日毎日。一生のあいだ。ずっとずっと……。だから、「まったくそんなことはやってない」という認知で、ものを言うわけだよ。本人がやっているから、相手がこまっているのに、ほんとうに、まったくなにもやってないから、まったくなにも関係がない人としてふるまうのである。こんなの、きちがいとしか言いようがない。どれだけの意地でやっていると思っているんだよ。きちがい兄貴も、きちがい親父も、おなじ構造の脳みそをもっている。自分がやっていることで相手がまっているということが、まったくわからない脳みそだ。これ、いやがらせでやっているわけじゃないのである。自分が発狂して無視したら、そのとたんに、本人(たち)のなかでは終わっているのである。まったく関係がない人になってしまっているのである。まったくやってない人になってしまうのである。こんなの、普通の人にわかるわけがない。

お兄さんと話し合えばいい」「お父さんと話し合えばいい」「家族で話し合えばいい」とよく、ほかの人から助言されたけど、こういう助言をする人は、きちがい兄貴の頭の構造と、きちがい親父の頭の構造がわかってない。わかるわけがない。そして、一番わかってないのは、親父と兄貴なのである。だから、きちがい的な意地でやり通したことは、きちがい親父のなかではまったくやってないことになっているし、それに、気がつかないのである。ほかの人よりも、わかってないのである。おなじことが、きちがい兄貴にも成り立つ。きちがい兄貴のなかではまったくやってないことになっているし、それに、気がつかないのである。ほかの人よりも、わかってないのである。

だから、まあ、まったく関係がない人として、やり続けるんだよ。一日中やってたって、やってないつもりなんだよ。一日中やってたって、一秒もやってないつもりなんだよ。主観としてはそうなんだよ。じゃあ、「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言われたらどうかと言うと、発狂して、はねのけておしまいなんだよ。この「発狂してはねのけておしまい」という態度は、兄貴と親父でおなじなの。まったくおなじなの。こんなの、ありえない。自分が不都合なことを言われたら、発狂して、「それ」をやり続けるのだけど、本人は「まったくやったつもりがないまま」なのである。こんなの、ない。「不都合なこと」は、なんか、予感としてあるだけなんだよ。だから、意味内容が、わかってない。意識的なレベルでは意味内容はわかってない。無意識的なレベルでは、もし相手が言っていることを認めてしまったら、自分がゆずらなければならない(自分がやり続けることができない)ということがわかっている。それは、無意識的な内容なので、まっーーったく、まっーーったく、意識にのぼらないのである。相手が言ってきた内容は、もちろん、意識にはのぼらないようになっている。だから、どれだけ、相手がなにを言っても、「相手がこまっている」ということかわからないのだ。もうちょっと詳しく言うと、そして、「自分がやっていることで」「相手がこまっている」ということがわからないのだ。わからないままの「脳みそ」なのだ。わからないままの「脳みその構造」なのだ。だから、きちがい兄貴のように、毎日、続けてやることになるとこまるのである。けど、きちがい兄貴は、毎日、ずっと、やっていても、毎日、ずっと、文句を何十回と言われていても、自分との関係性がわからないままなのである。まるで、文句を言われなかったつもりで、鳴らし続けることができる。そりゃ、きちがい兄貴の頭が、それを受けつけないわけだから、こっちがどれだけ文句を言っても、文句を言われたことになってないのである。だから、本人は気楽で、相手に対して「まったくなにもやってないつもり」で話しかけることができるのである。こんなの、ない。頭がおかしいからできることなんだぞ。毎日やられているほうは、そういうことを言われて、発狂するほど腹がたつのである。けど、どういう理由で、腹がたつかということを、きちがい兄貴やきちがい親父に説明しても、きちがい兄貴やきちがい親父は、わからない。わかるわけがない。そんなのがわかっていたら、そんな行動をするわけがない。もともとの、行動をするわけがない。おしきってやって、知らんぷりなんだけど、知らないふりをしているわけではなくて、ほんとうに知らないのである。で、頭がおかしいのは、そのあと、もともとの行動をしても、まったく気にしないのである。このきちがいぐあいがわかるか? もともとの行動というのは、兄貴なら、ヘビメタ騒音を二階にあがって鳴らすことだ。親父の場合はその都度ちがうけど、ともかく、説明したらなおるというものではないのである。ほかの人は「なら、ちゃんと説明すればいいじゃない」とこれまた、気楽に言うのだけど、ほかの人もほかの人で、うちのきちがい兄貴に「ちゃんと説明しても、わからない」ということや、うちのきちがい親父に「ちゃんと説明してもわからない」ということが、わからないのだ。自分のことじゃないし、そういう特殊な脳みその構造をもつ家族と一緒に暮らしているわけではないからだ。そうすると、ぼくは、きちがい兄貴が問題行動をする場合は、きちがい兄貴とほかの人(よその人)のあいだにはさまれることになるんだよ。きちがい親父が問題行動をする場合は、きちがい兄貴とほかの人(よその人)のあいだにはさまれることになるんだよ。普通の親のもとで育った、「よその人」は、わからない。これまた、わからないんだよ。そうすると、ぼくがへんなことを言っていると思うんだよ。「そんなことないよ。ちゃんと説明すればわかってくれるよ」と言うんだよ。そういうふうに言われると、「あー、またか」と思う。失望感、破滅感がうまれる。幼稚園にあがるまえから、そういうことの繰り返しなんだよ。どうしてかというと、きちがい親父は、幼稚園にあがるまえの子供に対しても、きちがい行為をしていたからだ。幼稚園にあがってから、「よその人」……たとえば、幼稚園の教諭に、きちがい親父のことを言っても、幼稚園の教諭は普通の人だから、やっぱり、わからずに、「子供だから、大人の言うことがわかってない」と思ってしまうわけ。この大人というのは、きちがい親父のことだ。よその人に、きちがい親父のことを説明して、よその人が、そのまま、わかってくれたことがないんだよ。俺が言っていることをそのまま、理解してくれたことがない。表面的な理解なんだよ。「かみなりおやじかーー」とか。そういうことじゃないんだよ。

 

 いろいろなことがあったなぁーー。ほとんど、いやなことだ。

あーー。どうしても、つらい。きちがい兄貴のヘビメタ騒音でくるしい。きちがい親父の奇行でくるしい。

ヘビメタ騒音がなければ、親父がああであったとしても、普通に恋愛ぐらいできたのに……。どうしても、普通に恋愛できなくなる。親友と、ヘビメタ騒音の結果をめぐって、喧嘩することになる。友達と、ヘビメタ騒音の結果をめぐって、喧嘩することになる。これ、必然なんだよ。そして、だれもぼくではないから、そういうことにこだわっているのは、ぼくだけだということになる。どうしたって、男だと、「就職」ということが、話題になる。そういう時期がある。世間の人が想像するヘビメタのダメージと、実際のヘビメタのダメージがぜんぜんちがうのである。これは、友だちでも親友でもおなじだ。ともかく、他人が想像するヘビメタ騒音のダメージと、実際ぼくが経験したダメージのおおきさがちがう。ほかの人には、わからない。一倍速で、おなじ経験をすればわかる。けど、どれだけ説明したってわからない。たぶんだけど、『彼女』ともおなじことが起こると思う。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。