2022年12月31日土曜日

家族だということが、どれだけ、足をひっぱるか、ほかの人はぜんぜんわかってない。

 ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な意地』がわからない。ほかの人は『きちがい的な家族』の『きちがい的な感覚』がわからない。どうしてかというと、きちがい的な家族がいないからだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいない。それはその人にとっては、いいことだ。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということがわからない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいると、どういうことにかなるのか、自分の経験をとおして、理解してない。家族のなかにきちがい的な構造をもった人がいるということが、どういうことをうみだすのか、自分の経験をとおして、わかってない。家族として毎日一緒に生活をしているということは、ほかのこととはちがうことなのである。たとえば、アドラーは、「(相手がどれだけ)ガミガミ言ってきたって、気にしないことはできる」というようなことを言う。けど、その「がみがみ言ってくる相手」との関係がわからない。いっしょに住んでいるのかどうか? そのガミガミ言ってくる相手は、親なのかどうか? 親という属性を持ってしまうと、ただ単に「一緒に住んでいる」ということとはちがった現象がしょうじる。それは、まわりの人間が、「親」だとみなすし、「親」だということが、事実だから、「他人」である場合とはちがった現象がしょうじる。ようするに、「親である」ということが公認さされば、たとえば、「ガミガミ怒る」ということに関しても、公認されてしまう部分がある。いっしょに住んでいるのかどうか、家族なのかどうかというのは、人間の行動に影響をあたえる。他人と他人のあいだに生じることに「関する」ルールと、親と子供のあいだに生じることに「関する」ルールがちがうのである。そして、その違いが、共同幻想によって「承認」されているのである。共同幻想によって「承認」されているということは、じつは、個々の親子関係にも影響をあたえる。他者が、その者たちを親子だとみなせば、他者がその者たちを親子だとみなさない場合とは、ちがった反応をするのである。ちがった反応には、「根拠があり」その根拠が、言ってみれば、共同幻想なのである。そして、親と住んでいる期間が、20年間なり18年間だとして、未成年期における親の影響というのは、でかい。なので、青年期になったとたんに、未成年期の影響が全部なくなるというわけではないのである。ところが、アドラーのような単純な人は、「過去は関係がない」「トラウマはない」と考えてしまう。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえないという考えにとらわれているのである。そして、この考えは、まちがっている。未成年期の出来事は、成年期の状態に影響をあたえる。「過去は関係がない」と言いたいばかりに、未成年期の出来事を無効化しようとする試みは、まちがっている。

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ヘビメタ騒音『で』寝不足になるということが、どういうことだか、わかってないんだよなぁ。凡人佐藤のような常識人は、まるでわかってない。そりゃ、凡人佐藤のような常識人には、きちがい家族によるヘビメタ騒音という経験がない。きちがいがどういう感覚で鳴らすかわかってないな。きちがい的な意地で鳴らすけど、きちがい的な意地で鳴らしたということは記憶にないという態度なんだよ。だから、こまる。自分で徹夜をしたくて、徹夜をした経験はあるけど、きちがい家族によるきちがい的な騒音で、しかたがなく、眠れなくなったという経験がない。それなら、なんとだって言える。ところが、そういうちがいについて、こいつらは考えない。こっちが言っても無視する。そういう部分では、きちがい兄貴に多少、似ている。あくまで、たしょうだけどね。どっちも、「ヘビメタ騒音の影響」は無視するわけだから、その点だけをとれば、すこしは、似ている。こっちの「事情」を無視する人に対する嫌悪感はあって当然だ。あるいは、憎しみと言ってもいいかもしれない。そりゃ、そうだろ。きちがいヘビメタ騒音『で』できなくなったと言っているのに、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視するのだから、憎しみがしょうじる。それは、きちがいがい兄貴の行為にしょうじた憎しみや、きちがい兄貴そのものに対する憎しみの、『一部分』だ。きちがい兄貴が鳴らしたわけで、その人たちが鳴らしたわけではない。だから、ぜんぜんちがう。きちがい兄貴が無視して鳴らした。これは、重要なことだ。その人たちは鳴らしていない。これは、重要なことだ。しかし、気ちがい兄貴に対する怒りが、その人たちに対しても、むけられる。部分的なことだけど、これははしかたがない。怒りがたまっている状態なのだから、そうなる。怒りがたまっている状態で、ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちと話せば、怒りの矛先が、その人たちに向かうということは、無理からぬことだ。無視という点では一致している。これは、怒りの集まる「ポイント」になる。焦点になる。

ヘビメタ騒音の影響……を無視して、『わかったようなことを言ってくる相手』の態度に我慢をしながら話をしなければならないということになる。怒りをがまんして話してやっている……んだぞ。わかっているの? そこ~~?? ユーは、そこ、わかっている??

けど、まあ、こういうことで、「おこれば」……エイリさんは未熟だから怒っているんだ……ということになってしまうのである。そうじゃない。ヘビメタ騒音の経験が長いからそうなる。きちがい兄貴の態度が、普通の人がわかるような態度じゃないからそうなる。そりゃ、何年間も、十数年間も、毎日やられて、勉強ができず、生きるのを邪魔されているのに、怒りがしょうじないわけがないだろ。たとえばの話だけど……これで、俺が「無職」であれば「無職で社会経験がないから(そんなことで怒っている)」と思ってしまうのである。きちがい家族と一緒にすんだことがない常識的な人はそういうふうに解釈してしまう脳である。たとえばの話だけど……これで、俺が「ひきこもり」であれば「ひきこもりで社会経験がないから、そんなことで不愉快な顔をしている」ということになってしまうのである。きちがい兄貴が「常識」を無視して、きちがい的な音を鳴らすということに、きちがい的にこだわりつくすと、連鎖が連鎖をよび、そういうことになってしまうのである。それなら、生きにくくなって当然だが、これまた、きれいごとですまされてしまうのである。「生きにくさ」に関しても、教授の言っていることのほうが正しいと、凡人佐藤は判断してしまうのである。どれだけ、アホなんだよ。「生きにくさ」に関して、俺が教授から学ぶことはない。その教授とやらは、俺よりもずっと生きやすい状態で暮らしている。それは、そのときだけではなくて、生まれてからずっとそうだ。俺のほうが「生きにくさ」において「専門家」なのである。ところが、佐藤のような凡人は、「生きにくさ」に関しても、心理学の教授のほうが正しいことを言うと思っているのだ。こういう、アホ。アホすぎる。


2022年12月30日金曜日

 ヘビメタで、くるしい。

 ヘビメタで、くるしい。あいつら、ふざけやがって……。ヘビメタ騒音の日々がどういうものだか、ぜんぜんわかってないな。わかってないくせに、くそえらそうなことをいいやがって。あいつらは、ゆるさない。

2022年12月29日木曜日

働くことがきらいなニートでも、働くことができるようになる

「楽な仕事を量産するべきだ」ということを書いたけど、たとえば、楽な農業をすることについて考えてみたう。楽な農業は、機械化された農業だ。土を掘り起こすところから、出荷するところまで、全部、自動化することを考えた場合、働くことがきらいなニートでも、働くことができるようになる。それは、ゲームみたいなものだから、ゲームができる人はたいていの人が、できるということになる。まあ、どれを、どの程度、どういう範囲で作るのかということは、個々人の好みで決めればいい。社会は、だれもが、楽な農業で働けるようにするとを、全力でサポートすればよいということになる。

機械かと言っても、さまざまな段階がある。どうしても、人間の作業が必要になる場合がある。人間の作業が必要になる場面が多いと、くるしい農業になる。くるしい農業になれば、「だれもができる」ということではなくなる。くるしさにたえられる人しかできないというかとになる。機械化にはさまざまな段階があるので、さまざまなくるしさの段階があるということになる。これは、時間とともに変わっていく。技術的なことだけを問題にするのであれば、ほとんどが、いまの技術で機械化できる。ロボット化できる。しかし、これは、機械を導入するためのコストを考えないようにした場合の話だ。なので、ニートがゲーム感覚で、なんらかの楽しみを感じながら、コストの問題を解決しなければならない。

「できるようにすることには価値がない場合もある」ということを前提にして話をすすめるべきだ

「努力をすればできるようになる」というような考え方が前提になって話がすすむ場合が、この世では多いけど、「努力をしてもできない」場合があるということを前提にして話をするべきだ。「努力をすればできるようになる」というのは、妄想だ。事実、努力をしてもできない人がいる。「努力をしてもできない人がいる」のだから「努力をすればできるようになる」という考え方は、現実を認めていない考え方だ。

そして、「できるようにすることには価値がある」という考え方も、いつも正しいとは限らない。 「できるようにすることには価値がある場合もある」けど、「できるようにすることには価値がない場合もある」。これが、現実だ。「どんな場合でも、できるようにすることには価値がある」という考え方は、たちの悪い妄想だ。「できるようにすることには価値がない場合もある」のだから、「できるようにすることには価値がない場合もある」ということを前提にして話をすすめるべきだ。もちろん、「できるようにすることには価値がある場合」もあるので、「できるようにすることには価値がない」とは、言わない。

「ニートが仕事にあわせようとするべきではなく、仕事がニートにあわせるべきだ」

  基本的なことを言ってしまうと、「ニートが仕事にあわせようとするべきではなく、仕事がニートにあわせるべきだ」ということになる。「発達障碍者が仕事にあわせようとするべきではなく、仕事が発達障碍者にあわせるべきだ」ということになる。発達障碍者だけではなくほかの障碍者にも同じことが言える。「障碍者が仕事にあわせようとするべきではなく、仕事が障碍者にあわせるべきだ」ということになる。

これからは、フラットで、楽な仕事を「量産」するべきだ。ものを「量産」するべきではなくて、楽な仕事を「量産」するべきなのだ。個々の障碍者が、仕事にあわせるように努力しても、全体的な仕事の「むずかしさ」がかわらないのであれば、仕事の「むずかしさ」に対応できない者の人数はそんなに変わらないということになる。さらに、ワクチンという名の毒は、脳みそに悪い影響を及ぼすので、表面的には、障碍者が増えていくと予想できる。まあ、このワクチンの問題は、棚に上げておこう。

軽い意味でコミュ障ということを考えてみよう。人づきあいが悪い人や、ただ単に内向的な人も含まれているとする。コミュ障が、コミュ障を克服して、コミュ障ではなくなればいいということになっているのだ。しかし、克服できないからコミュ障なのではないか。コミュ障が苦手だと感じる部分を、全部はぎとる方向で、社会が、努力すればいいということになる。コミュ障という言葉には、コミュ障である人(コミュ障者)とコミュ障自体が含まれているので、「コミュ障が、コミュ障を克服して、コミュ障ではなくなればいい」という文になる。これは、これでまちがってはいない。正確さにこだわるなら「コミュ障者が、コミュ障を克服して、コミュ障者ではなくなればいい」と書いたほうがいい。

いままでは、コミュ障者を悪者として、とえら、コミュ障者がその悪い性格をなおせば、問題は解決できると信じられてきた。しかし、ただ単に内向的な人が、外向的な人間になる必要があるだろうか? ただ単に内向的な人が、苦手なことを克服して、外向的にふるまうことは、はたして、本人にとっていいことなのだろうか? 人づきあいが悪い人にも、人づきあいが悪いなりの理由があると思う。この理由は、ほんとうに、悪い理由なのだろうか。人づきあいがいいということを正義だと考えれば、人づきあいが悪いということは、悪いというとになる。しかし、悪いことなのだろうか。悪いのは、むしろ、人づきあいがきらいな人に、人づきあいを要求するほうなのではないか。

これからは、内向的な人が内向的な人でいられる社会を目指すべきだ。これからは、人づきあいが悪い人が人づきあいが悪い人のままでいられる社会を目指すべきだ。

目指すところがちがう。

2022年12月28日水曜日

「カネをかせげるかどうか」で「人の価値」が決まるわけじゃない

「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! 「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! きちがい兄貴、きちがい兄貴、きちがい兄貴。

「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」……ああっ、もう、死ぬしかないか。「ああっ、死ぬしかない」は、非・合理的な思考です~~。けど、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。

あのときの……切迫感や「どうしようもなさ」がすごいのである。あの騒音のなかで感じた、圧迫感がすごいのである。絶望感がすごいのである。「あせり」がすごいのである。「いかり」がすごいのである。あんなのずっとやられていて、いいわけがない。

あんなのずっとやられて、しあわせなわけがない。しあわせになれるわけがない。あの騒音なかで「いいことある、いいことある」とずっと言ったって、いいことなんてない。

あの騒音のなかで「しあわせだ。しあわせだ」と念ずるように言ってたって、しあわせ感なんて感じない。少しも感じない。「ふあん」「いかり」がすごい。

きちがいヘビメタが、鳴っている状態の「いかり」と「ふあん」がすごいのである。

ぼくの人生に直結している音なのである。

ぼくの人生に直結している騒音なのである。

それなのに、それなのに……。どれだけ言っても、絶対に一分間ですら静かにしてくれない。殺さなければ、「ふあん」「いかり」がどんどん増えていく。

きちがい兄貴が出し続ける圧迫騒音で、どうしても、増えていく。そんなのが、何千秒、何万秒と続いていいわけがないだろ。

一秒だって、破裂しそうなほど頭にくる。そういうきちがい家族がいないやつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、好きな勝手なことを言ってくる。全部、まちがっている。

けど、まちがっていることに気がつかない。

 

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「カネをかせげるかどうか」で「人の価値」が決まるわけじゃないのに、決まると思っているやつ。

そういうイロメガネで、人を見て、人を判断して、相手が、無職という弱い立場なら、自分のほうが『上』だと勝手に決めて、えらそうに、説教をしてくるやつ。

そういうやつがどれだけ多いと思っているんだ?

「カネをかせげるかどうか」で人の価値は決まらない。俺はそう思っている。そういうこととは関係がない人の価値があると思っている。

けど、どうだ?

ほかのやつらは、まるで本能的にそう思っているように、行動する。まるで、「カネをかせげるかどうか」ということが、その人の価値全体に影響をあたえていると、無意識的に考えている。カネをかせげる人には価値があると、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげる人を見上げる。カネをかせげない人には価値がないと、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげない人を見下す。そして、あろうことか「人生とはなにか」というような哲学的な問題について語りだすのだ。

自分が人の価値を「カネをかせげるかどうか」で判断して語るようなやつが語る……哲学。

しかも、そいつらは、行動してはまったくもって「カネをかせげるかどうかで人を判断」しているのに、その自覚がないのだ。そういう凡人がどれだけ多いか?

普段、日常生活のなかで「人の価値」を「その人がカネをどれだけかせげるかどうか」で決めているやつが、語る、哲学なんてろくなものじゃないよ。そいつの哲学なんてろくなもんじゃないよ。

不徳の致すところ

ずっとまえ、 Wordpressを設置できない人が(どのくらい)いるのかな?と書いたのは、どのくらいの客がいるかなという意味で書いたわけで、別に Wordpressを設置できない人のことをばかにするつもりはなかった。これに関しては、反省をしている。そういうつもりではなかった。客がどのくらいいるのかな?ということだけが、気になっていた。別に、設置できる人でも、したくないので、人にまかせるということはある。めんどうだからな。

私の不徳の致すところで、すまなかった。そういう気持はなかった。

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ひとりで請負業をやるとなると(やろうとするとなると)、いろいろと気になるところが出てくるのである。サポートの範囲とか、それにまつわる責任問題とか。

2022年12月25日日曜日

冬休み期間中の、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

 しかし、つかれたなぁ。賃貸アパートの広告を見ていた。広告というか、ウエブページ。

どうするかな?

そして、この、やる気のなさ。やる気がないねぇ。

まあ、生存しているからいいか? なんかやることを考えると、「めんどうくさい気持ち」がさきにたつ。

たとえば、近いので広告に掲載されていたアパートを実際に見てこようかなと思ったのだけど、めんどうなのでやめる。このアパートは、近所のストアに行く道にある。近所のストアでは、いくらを買うつもりだった。なので、近所のストアに行くついでに、物件を外から見て、イクラを買って帰ってくるという案が浮かんだ。けど、めんどうくさい。(たしょう、遠回りすることになるけど、ほんとうにたしょう。大通り?をさけるためにその道を使うことが多かったので、やはり、近所のストアに行く道にあるという表現であっている)

どうするかな? ほんとうにめんどう。そして、この時間もけっきょく、ヘビメタ騒音が鳴っていた。冬休み期間中の、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。

「やる気、が、ぶっ壊れている」。ヘビメタ騒音で壊れている。この場合、ヘビメタ騒音の繰り返しがある。毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間もヘビメタ騒音が鳴っていた。どうしたって、学習してしまう。そういう「時間が人生のなかでながいわけだから」影響をうけないことは、可能ではない。ところが、そういうきちがい家族がいない人は、そういうきちがい家族による騒音が、毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間も鳴らして、つらかったという経験がない。そういう経験がないところでの、発言なんだよ。わかってない。そういう経験なしで、たしょうの騒音を経験した。だから、たしょうの騒音のことを思い浮かべて、俺に説教をしてしまう。けど、それは、まちがっている。

あと、これは、省略して書くけど、「できるサラリーマンと、だめサラリーマンの比較」みたいな記事が、ネット上には、たくさんある。だめサラリーマンの特徴が、全部、ヘビメタ騒音にやられたときの特徴なのだ。そして、きちがい家族による、しつこい・しつこい騒音を何年間も毎日経験してない人は、「努力することで、だめサラリーマンが、できるサラリーマンになる」と言うのだ。記事というのはだいたいおなじだ。意図がある。「努力をしないからダメなのだ」といういつもの、誘導。

これは、ほんとうは、「能力」の問題なんだけど、「努力」の問題にすり替えられている。きちがいヘビメタ騒音といった物理的な刺激は、障害を引き起こす。これは、五度の風呂に毎日、入っているような状態だ。ちがうのである。けど、生活をするというところまで抽象化すると、「風呂は風呂だ」ということになる。「努力」することができない環境があるのに、それは、考慮されない。ひどいのになると、「努力することができる環境を」手にいれればいいとということを言う。そして、手に入れるには、「努力すればいい」ということを言う。

ぼくの場合、後天的に、能力がそぎおとされて、障害がしょうじたのだけど、そういう人ばかりではない。こういう記事を書く人は、基本的な能力の格差というものを認めていない。それは、いいことのように思えるかもしれないけど、「ダメ出し」の連続になる。ダメ人間のレッテル貼りにしかならない。そして、障碍者の人権に対してあれほど敏感な佐藤(仮名)ですら、「ダメ人間」の人権はまったく認めてないのである。けど、ダメ人間と言われている人たちは、言ってみれば、健常者と障碍者のあいだの存在だ。障碍者というカテゴリーには入らないけど、健常者で、『下位』の人間なのだ。これは、人間として『下位』であるといこうとではない。しかし、「努力」という言葉で、「能力」の問題を「性格」の問題に置き換えてしまうので、人間的に性格が悪いということになってしまうのである。「努力」をすればいいのに、「努力しない」からダメなのだという言い方をする場合、「努力」をしない性格が悪いからダメなのだということになってしまう。できる人は、性格がいい人、できない人は、性格が悪い人ということになってしまうのである。しかし、それは、性格の問題なのだろうか? ほんとうは、「能力」の問題なのではないか。「努力をすればだれでもできるようになる」という幻想のほうがまちがっているのではないのか? この幻想は、あまりにも当たり前すぎて、幻想だと思われてないのである。幻想と書いたけど、妄想と言っていい。ともかく、「努力をすればだれでもできるようになる」という考え方が正しいかどうかということをまったく問題にせず、「正しい」という前提に立ち、正しいという前提を隠して、物事を言う人が多い。正しいという前提を隠すというのは、ようするに、暗黙の了解として、あつかうということだ。それが正しいことは、議論の余地がないので、それが正しいということを前提にして、意見を言うのだ。この場合、議論の余地がいない考え方をメイン、そこから派生する考え方をサブということにすると、ようするに、このかくされた前提がメインで、いろいろな意見がサブということになる。サブの意見は、あたかも正しいように思われるのだけど、それは、メインの前提が正しい場合に限られるのだ。メインの前提が正しくない場合は、そこから派生するサブの考えたも正しくない。はたして、努力をすればだれでもできるようになる」という前提は正しいのかどうか? ぼくは、正しくないと思う。なので、そこから派生する個々の意見も正しくないと思う。

ほんとうは「能力」の問題なのだけど、「人格の問題」「性格の問題」にすり替えられているというところがある。「できるサラリーマンの特徴」「できるサラリーマンになるにはどうしたらよいかのということについての助言」……こういう記事は、じつは能力の問題を人格の問題に置き換えて、能力がない人間にダメ出しをするようになっている。この場合の「能力」というのは、サラリーマンとして活躍?するのに、必要な能力ということだ。サラリーマンでなければ、別に、そういう能力は必要ではない。なのであれば、人間の価値とは直結していないはずだ。特定の能力があるほうが価値があるという価値観がまちがっているのだ。

構造として、能力差はある。それは、人間なので、身長や体重の分布のように、ノーマルカーブを描くようになる。ノーマルカーブのカーブをとって直線にすると、『のび太のひし形』になる。この場合、上位のできる人、中位の普通の人、下位のできない人にわかれる。けど、それは、ある能力について、上位から下位にならべた場合に発生することだ。これは、その能力をはかれば、そういうことが言えるということだ。あるいは、はからなくても人間生活のなかでだいたいわかるような部分があり、なんとなく、みんなの頭のなかに、格差ができあがっているようなものだ。しかし、それは、『その能力』は価値があるという視点に立ったときだけ、効力を発揮するものなのである。その能力自体の価値は、わからない。さらに、冒頭でも述べたように、能力の問題を性格の問題にしてはいけないのだ。どうしてかというと、能力とは別に、人間としての価値があるからだ。能力とは関係なしに人間としての魅力があるからだ。しかし、学校や会社という組織は、むりやり、能力の格差をつくりだし……ある視点における能力格差を視覚化・数値化してあぶりだし……能力の格差を人間としての性格の格差にしてしまう。そして、能力格差『下』の人間に対して、「努力をしないからダメなんだ」という攻撃を加えることになる。そして、これは、無限に繰り返される……。まあ、実際には、ひとりの人間のなかでは、無限ではなくて有限だ。ともかく、いろいろなところで能力の差を性格の差と言い換えて、ダメダシをするのである。能力の格差「下」の人間は、性格が悪いということになってしまうのである。けど、そうだろうか?

ここでずっと言ってきているけど、アドラーのような価値観が、そのあとおしをするのである。

2022年12月24日土曜日

中立的な状態

 たとえば、水温1度の水につかっていながら「あったかいあったかい」と言ったとしよう。あったかくなるかというと、あったかくならない。強がりを言っていることになる。現実を無視していることになる。それだけだ。「あったかいあったかい」と言えばあったかく感じるというような言霊理論は、中立的な立場でやれば、『そんな感じもするかもしれない』といったことだ。そういうレベルの強さしかないのである。36度のぬるま湯につかって、「あったかいあったかい」と言ったら、あったかく感じた……かもしれないという程度のことだ。そして、たとえば、そういう実験に参加しているなら「あったかく感じた」と答えたほうがいいのかな?と思ってしまう部分がある。そういう部分をなるべく削除するように実験を構成するのだけど、そういう部分を削除できるかどうかというと、かなりあやしい。ようするに、「正直にこたえてください」と言ってもむだだ。そして、たとえば「あたたかく感じたと答える必要はありません」と言った場合は、逆の指示をしてしまうことになるのである。いずれにせよ、人間が普通に行う「はいりょ」を完全に削除することはむずかしい。そういうことを考えないとしよう。けど、中立的な状態であることにはかわりがないのである。あったかく感じるかもしれないし、ぬるいと感じるかもしれないという微妙な状態なのである。たとえば、「楽しい」と言えば楽しく感じるかどうかということに関しても、つまらないかもしれないけど、すくなくても、くるしくはないという中立的な状態なのである。たとえば、ヘビメタ騒音がきらいな人が、ヘビメタ騒音を爆音で聞かされながら「たのしいたのしい」と言ったら、楽しく感じるかどうかを調べているわけではないのである。そして、実験室というのは、実験が終われば解放される場所なのである。その人が不快だと感じる音を、耳が悪く様な爆音で聞かせて、それを、強制的に、十何年も毎日繰り返したらどうなるかということを調べているわけではないのである。そういうふうに、人生に影響をあたえるような実験は、人道的な立場から、否定されているのである。やってはいけない実験なのである。だから、きちがいヘビメタが鳴っている……爆音で鳴っているというような状態で調べたわけではないのだ。不快な音が鳴っているとしても、実験後もそのひとのメンタルが破壊されるようなレベルで実験するわけにはいかないのだ。ようするに、日常とは、かけ離れた状態で実験をしているのである。それなのに、たとえば、楽しい楽しいと言ってもらって、楽しいといったときは、楽しいといわなかったときよりも、楽しいと感じたかどうかということを、質問する。口頭で質問するときもあれば、印刷された質問を読んでこたえてもらうというときもあるだろう。こういうのも、じつは、「配慮」に影響をあたえるかもしれない。けど、それは、無視しておこう。ようするに、中立的な状態で、日常生活に影響をあたえないという前提のもとに、おこなわれた実験の結果を、中立的ではない日常生活の問題に適応していいのかどうかという問題がある。これに関して、言っておくと、適応してはいけないということになる。ところが、「心理学の実験で確かめられたことだ」というようこなとが、一人歩きをしてしまうのである。たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」……これは、宇宙をつらぬく絶対法則だということになってしまうのである……あんまり、いろいろなことを考えない、単純な人の頭のなかでは、宇宙をつらぬく絶対法則になってしまう。その場合、だれか「他人」に対しても、絶対法則なので成り立つと思ってしまうところがある。

2022年12月22日木曜日

降り注ぐヘビメタ騒音でからだがだるい

降り注ぐヘビメタ騒音でからだがだるい。降り注ぐヘビメタ騒音でこころがくるしい。

みんな、誤解しているようだけど、魔術的な方法はまったく意味がない。魔術的な方法で解決するなら、解決しているのである。そもそも、きちがい兄貴は存在せず、存在したとしても、「やめてくれ」と言ったら、「やめてくれる」いい人なのである。けど、源氏はそうじゃない。どれだけ、こっちが「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかったのだ。やめてくれない、悪い人だったのである。現実はそうだ。どうして、現実とはちがう、前提を持ち出して、「効く」というのだ? 効かなかったから、こまっている。ずっと、騒音が続いて、からだも、こころもめちゃくちゃになった。そして、からだの損害が、ほかの人にはわからない損害なのである。なので、もっとこまるのである。魔術的な方法と書いたけど、これは、魔術的なことに期待する方法だ。呪文をとなえればいい。いいことを考えればいい。親切にしてあげればいい。こういうのは、魔術的なことを期待する方法だ。言霊、思霊(おもだま)、根性論、精神論、引き寄せ……。全部が全部、魔術的な方法だ。

必然性と無理解

正露丸を飲んだ。これで、約1日がたったわけだけど、どうなんだろうなぁ。

腹はいたくないので、そろそろ、やめるかな。

まあ、いろいろと、むなしい気持ちだ。また、いやなことを思い出してしまった。そして、ひとりで腹をたてている。長期ヘビメタ騒音で睡眠時間がずれるとろくなことがないのだ。その思い出も、じつは、睡眠時間のずれが影響をあたえている不愉快な思い出だ。睡眠時間のずれが、どれだけの影響をあたえるか、みんなわかってない。これ、ほんとうにこまるのだ。長期ヘビメタ騒音でそうなったわけなのだけど、ほかの人は、そんなことは、知らない。「長期ヘビメタ騒音でこうなった」ということを説明したって、しょせんはひとごとだ。自分のつごうのほうが優先する。あるいは、長期ヘビメタ騒音でそういう睡眠障害がしょうじないと思っている。ところがしょうじるんだよね。あるいは、簡単に薬で治ると思っている。ところがところが、治らないんだよね。

睡眠時間の調整ができないと、いろいろなところで、トラブルがしょうじるのだ。しかも、昼間は寝ているけど、夜は起きているというわかりやすい睡眠障害ではないのだ。ほんとう、こまったよ。だれだって、あの長期騒音にさらされれば、そうなる。これは、必然だ。人間のからだの必然だ。けど、ぼく以外の人は、そういう経験がないから「必然だ」とは思ってないわけ。そういうことがあったとしても、調整がつくだろうと思っているわけ。そして、なおせるだろうと思っているわけ。ところが、なおせないんだよね。 

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2022年12月20日火曜日

どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった

 あーー、やっぱり、ヘビメタ騒音で人生がない。ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。時間というのが……。持続してしまう……。ヘビメタ騒音が持続している時間というのが、ものすごくきつい。で、これは、鳴り終わっても続く。みんな、時間ごと経験してない人は……リアル世界で、俺とおなじ部屋で、俺とおなじようにヘビメタ騒音を経験してない人は、まったくわからない。影響がなくなるわけがないだろ。一日のなかでも、影響なんてなくならないよ。持続時間のぶんだけ、増えていく。影響が強くなっていく。なにもわかってないな。「過去なんて関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言ったやつをぶっ飛ばしてやりたい気持ちになる。あのひきつった時間がどういう時間なのかぜんぜんわかってない。一秒だって……一秒間だって……。どれだけ、つらいか、まったくわかってないなぁー。

あなたがたにとっては「必然性」がないように見えるものでも、「必然性」がある。わかってないだけ。からだの反応がわかってないだけ。意識や意志とは関係なしに影響をうけるということがわかってないだけ。自分のからだで経験してないからと言って「ない」と思うな。俺があるといっているのだから、ある。

きちがい兄貴が、俺にムリゲーをおしつける。

 ほんとう、いろいろとまようなぁ。どうすればいいのかな? ダニとネズミの糞のことで、頭が重い。これ、ほんとうに、なければ、普通の引っ越しゲームなんだけど、ダニとネズミの糞が出現?してしまったことで、ものすごく、むずかしいゲームになっている。ネズミの糞とダニはセットだ。ネズミの糞由来のダニは、たおすのがものすごくむずかしい。たおしてもたおしても、復活してしまう。

きちがい親父が、俺にムリゲーをおしつける。

きちがい兄貴が、俺にムリゲーをおしつける。簡単なゲームを超・むずかしいゲームにしてしまう。もう、つかれた。 

2022年12月19日月曜日

長期ヘビメタ騒音のあと、からだがだるくてたまらないのだ

  ゴミを出してきた。いまの当番の人は、青いゴミかご?を出す時間がはやい。すごく、たすかる。ありがとう~~~。まじで、たすかる。さっき、朝の6時15分ぐらいに、燃えるごみを出してきた。これで、用事がすんだ。

しかし、このさき、どうするかな?

起きたあと、お茶を飲みながら、細巻き寿司を食べた。これの、お新香のやつが食べたくて、昨日たのんだのだ。

で、これに関しては満足なんだけど、からだがなんとなく、だるい。なので、もう一度横になる……つもりだ。ほんとう、ぼろっぼろにつかれていて、つかれがとれない。このつかれは、何十年も生きてきて、たまったつかれだ。おもに、長期ヘビメタ騒音でたまった。長期ヘビメタ騒音のあと、からだがだるくてたまらないのだ。普通に生きるということが、強烈につらいことになる。そういう疲労?なんだよね。騒音の疲労は……長期間続いた騒音の場合、鳴り終わったら、終わるというものではない。騒音が鳴り終わったら、つかれている状態も終わるということではないのだ。みんな、誤解をしている。どれだけの疲労がつみかさなるか、みんな、わかってない。みんな」のばあいは、きちがい家族によるすさまじい騒音を経験しなかった。人生のなかで、経験しなかった。だから、ちがう。ちがうから、ぼくが言っている、「疲労」は、わからない。わからないから、「疲労」という言葉を使うと、かならず、誤解をする。そういう疲労じゃない……と言ってもわからないのだから、わからない。人生のなかで、きちがい家族が、きちがい的な音にこだわって、きちがい的な意地で毎日鳴らし続けるということが……発生しなかった人の場合は、ぼくの場合とはちがう。ぼくとはちがう。

2022年12月18日日曜日

いろいろあって、ぼろっぼろになった

  いろいろあって、ぼろっぼろになった。もう、建て直せないな。俺は、よくやった。俺は、よくやった。もう、いいや……。ほんとうに、つらかった。

感情が平たん化してだめだ。これ、言いようがないんだよな。言いようがない。

もう、つかれたなぁ。日曜日のこの時間も、ヘビメタが鳴ってなぁ。日曜日のこの時間のヘビメタが、次の日の日中の活動に影響をあたえるとは、ヘビメタ騒音にやられてない人は考えないんだよな。夜、眠るときだって、朝、起きなければならないときだって、遅刻をしそうになって学校に向かっているときだって、あらゆる時間に、影響をあたえるよ。それは、走ったら、息があがるといったタイプの反応、走り続けたらつかれるというタイプの反応とおなじだ。ようするに、「意志で」ストップすることができないのである。影響をうけないようにしようと思えば、影響をうけないことが可能だと……いうわけではないのである。ところが、これも、きちがいヘビメタ騒音にやられたことがない意志教徒が、『影響をうけないことは可能だ』と言いやがるのである。こんなの、39度のお湯にのんびりつかりながら、1度の水につかっている人に対して、1度の水の影響をうけないようにしようすれば、それは可能だといっているようなものだ。こいつらは、なにもわかってない。
 

たとえば、この文章を読むのは、一分間もかからないだろう。けど、その一分間、持続してきちがいヘビメタ騒音が鳴っているということは、その一分間、不可避的にヘビメタ騒音の影響をうけるということになる。そして、たとえば「日曜日、約13時間ヘビメタ騒音にたたられて、つらかった」と言ったとしよう。これも、数秒で終わる発言だ。しかし、実際の13時間というのは、その数秒では、表現できないものなのである。「どれだけ、つらいか」……と言ったって、佐藤のような凡人は、その意味がわからない。「鳴ってたとしても、たいしたことじゃない」「鳴り終わったなら関係がない」と思ってしまうのだ。「関係がないわけないだろ」と言ったって、そりゃ、自分で体験してみなければわからない。そういう日曜日が毎週毎週一年間繰り返されたら、やはり、影響が出る。ヘビメタが鳴っているあいだ勉強ができないとなったら、その影響をうける。そういう影響の結果、佐藤ような凡人に「鳴り終わったなら関係がない」と言われるようになるのだ。そりゃ、経験してない人にとっては、影響は、鳴っているときだけに限られるように思えるかもしれないけど、そんなものじゃない。

2022年12月17日土曜日

好きな風呂を選べ!! 君らには、選択の自由がある

「1度の風呂でも、2度の風呂でも、3度の風呂でも、4度の風呂でも、5度の風呂でも、好きな風呂を選べ!! 君らには、選択の自由がある」

「5度の風呂はつめたいから、いやだ? そんなのは、あまえだ。みんな、つめたくても、がまんして入っている。(実際には、「みんな」は39度のお湯につかっている)」

「5度の風呂にしかアクセスできない?? そんなのは、自己責任だ。そういうふうにならないように、みんながんばって勉強してきた。おまえが、勉強をさぼってきたから悪い。自己責任。自己責任」

「5度の水につかっていても、「あたたかいあたたかい」と言えば、あたかかくなる。(あたたかくならないよ。そして、そういうことを言うやつは、「みんな」39度のお湯につかっている)」

「5度の水につかっていても、ニコニコしていれば、いいことがある。(どんだけ、ニコニコしたって、5度の水につかっていたら、いいことなんてないよ)」

「つめたそうな顔をしているから、不幸なんだ。不幸な人はみんな、つめたそうな顔をしている。だから、だめなんだ」

「5度の水につかってたって、つめたそうな顔をする必要はない。5度の水につかってたって、つめたいと思う必要はない」

「5度の水につかってたって、あったかそうな顔をすれば、しあわせになる」

「人間は、風呂に入るべきだ。人間である以上、風呂に入らなければならない。(けど、俺は、自分のからだがつらくなったら、入らないけど、おまえが入らないのは、気にくわないので、おまえは入るべきだ。人間は、風呂に入るべきだから、おまえは風呂に入るべきだ)」 

「5度の水につかってたって、人に親切にすれば、しあわせになれる。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「5度の水につかってたって、感謝をすれば、しあわせになれる。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「生まれるまえに、たましいが5度の水につかることを選んだ。だから、自己責任だ。自分で選んでいる(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

「5度の水を引き寄せたから、だめなんだ。5度の水を引き寄せなければいい。39度のお湯を引き寄せればいい。39度のお湯を引き寄せるには、もう、39度のお湯につかっていると思えばいい。(39度のお湯にしかつかったことがない人のことば)」

 

「風呂に入れるように、細かく、行動をわけて、その行動をじょじょにできるようにすればいいのだ」

 たとえば、摂氏5度の風呂入った人がいたとする。その人は、風呂といったら水温5度の風呂に入るしかない人だ。何日も、水温5度の水につかったけど、すぐに出てきた。けど、ある日、「もう、こんなのはいやだ」と言って部屋にとじこもってしまった。さて、その人を、風呂に入れるようにするにはどうしたらいいか? 常識的な人たちが、こういうことを言い出す。まず、部屋を出れるようにする。次に、風呂場のドアのところまで、行けるようにする。その次に、ドアのノブをさわれるようにする。「の」の連続をさけるために、ドアと書いたけど、風呂場のドアのことを意味する。その次に、ドアのノブをまわせるようにする。その次に風呂場に入っていけるようにする。その次に、風呂場のバスタブに手をふれることができるようにする。その次に、バスタブに手を入れられるようにする。その次に、足だけバスタブに入れられるようにする。その次に、バスタブに下半身を入れられるようにする。その次に、バスタブに全身を入れられるようにする。そうすれば、風呂に入ることができるようになる。……ばんさいばんざい。これが、「療法」なのである。治療方法なのである。おかしいでしょ。言っておくけど、バスタブには、以前とおなじように、5度の水がはってある。問題なのは、5度の水だ。この水が39度なら、問題にならないのである。風呂に入れるのである。5度だから、いやなのである。5度だから、つらいのである。その、「つらい」部分を動かさないで、そういう反応をするということに問題があるとして、「風呂に入れるように、細かく、行動をわけて、その行動をじょじょにできるようにすればいいのだ」と考えてしまう。かえなければならないのは、5度の水だ。そして、こういう両方を考え出す人は、5度の水につかったことがない人たちなのである。風呂といえば38度から45度ぐらいの水(お湯)にかつかったことがない人たちなのである。だから、水温5度の水のつらさがわからない。水温5度だから、いやだといっているのに、水温5度の水に体を慣らせばいいのだと考えてしまう。「つらい」と思うからいけないのだということになる。風呂に入るまでの行動を細かく分解して、その分解した行動をじょじょにやれるようにすればいいのだと考えてしまう。おかしいでしょ。問題なのは、5度の水につからなければならないということだ。5度の水というのは、劣悪な環境における仕事のことだ。仕事をするとなると、劣悪な環境における仕事しか選べない人は、劣悪な環境における仕事をするしかない。5度の水につかるしかないということだ。けど、これを、「仕事をするのがいやだ」と言っていると、抽象化して考えるのだ。5度の水につかることも風呂に入ること、39度のお湯につかることも風呂に入ることだ。劣悪な環境で仕事をするのも、いい環境で仕事をするのも、仕事をすることだ。劣悪な環境で仕事をするしかない人は、劣悪な環境で仕事をすることがいやなのである。いい環境なら別かもしれないのである。けど、劣悪な環境で仕事をすることと、仕事をすることをおなじことだと考えてしまうのだ。認知行動療法や行動療法だと、そこにいたるまでの行為を分解して、その分解した行為をじょじょにやらせればいいということになる。こんなのは、意味がない。5度の水につかるしかない人は、5度の水につかるしかないのである。これが社会だ。だから、そういう社会のほうがかわらなければならない。「職業に貴賤はない」などといって、「ひと」には、劣悪な仕事をおしつけようとする。これが、社会常識だ。「どんな仕事だって仕事は仕事だ」と「どんな風呂だって風呂は風呂だ」は「にている」。考え方がおなじなのである。



2022年12月15日木曜日

せめたてられて、もう、全力疾走をしているような状態なのである

からだの感覚として「騒音につけこまれている」ときの感覚がある。それは、どうも、普通の騒音をうるさいと思っているときとはちがうのである。ぜんぜん、ちがう。はっきり断言できる。ぜんぜんちがう。もちろん、きちがい兄貴の態度で鳴らす、きちがい兄貴のヘビメタ騒音のほうがひどい。悪質だ。あの音圧。勉強なんてできるわけがない。だれもが、あの音のなかで勉強することはできない。ヘビメタがきらいではない人は、自分がきらいな音が鳴っている状態を思い浮かべてくれ。だれだって、苦手な音がある。その苦手な音が、あの音圧で、壁のすぐ後ろで、がんがん鳴っている。これ、「勉強はできるけど、するかしないかまよう」と言うことではないのである。「勉強はできない」。どれだけやろうと思ってもできない。宿題ですらできない。発狂して、自殺したいような状態になっている。パニックだ。発狂して、きちがい兄貴を、ぶっ殺してやりたい状態になっている。パニックだ。音がその気持ちを激しく、生成して、ゆさぶる。きちがいの音が、激しく攻め立てる。せめたてられて、もう、全力疾走をしているような状態なのである。パニックで……。そういう状態で、何時間もすごして、いいわけがない。これは、ただ単に「勉強ができない」という問題ではない。そういう問題ではない。もちろん、そういう部分を含んでいる。けど、「鳴っているときだけ勉強ができない」からこまっているという問題ではない。

そして、朝は……次の日の朝は、からだの状態としてすごくだるいのである。猛烈にだるいのである。「体の状態として死にたい状態なのである」。そういう思いをして何千日も我慢して暮らしてきた俺に対して、まったくそういうことを経験しなかったやつが「あまえている」と言うのだ。こいつは、ゆるさない。ゆるせない。

そして、全体的には、不活性になるのである。憂鬱な気分になるのである。どれだけから元気を出しても、憂鬱な顔になってしまうのである。生気がなくなるのである。6年間毎日続いたら……きちがい家族によって鳴らされているきちがいヘビメタが入試の日も含めて六年間毎日続いたら、やはり、憂鬱な顔になるのである。そのとき、作り笑いをして、明るく振舞えばいいことがあるかというとないのである。つかれはてている。死にたい気持ちだ。これ、ニコニコ教団の人はまったくわかってない。ほんとうに、ふざけるなと言ってやりたい。俺は、ぼろくそにおこっいてるんだぞ。兄貴も、ニコニコ教団員にも怒っている。怒っている。これ、ほんとうに、どれだけめちゃくちゃなことを言っているかわかっているのか? こういう人たちは、時系列系のことがわかってない。俺は、きちがい親父にやられていたにもかかわらず、きちがい親父がかかわってないところでは、ニコニコと笑って過ごしていのである。ならば、いいことがあるはずなのである。しかし、気ちがいヘビメタがはじまってしまった。どれだけ、けなげにがんばって、作り笑いをしても、いいことなんてなかった。きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音が、つづいた。これが、現実だ。これ、別に俺が暗い顔をしていたから、ヘビメタ騒音がはじまったわけじゃないのである。きちがいがやりたくなったからヘビメタ騒音がはじまった。きちがいが、きちがい的な意地で、自分のやりたいようにやるということにこだわったから、絶対、しずかにしないで、ずっと鳴らしていた。これは、俺がニコニコしていたかどうかとは関係がないことなのである。こいつら、なにもわかってない。言霊の人やニコニコ教団の人は、時系列的なことを、無視しやがるのである。そして、有害なアドバイスをする。 こんなのは、一度の水につかっている人に「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているのとおなじだ。一度の水につかっているから、からだが反応して、つらいと感じているのである。それは、いいことではないのである。一度の水につかっているという状態からぬけださなければ、いいことが起こる条件が、そもそも、そろわないのである。一度の水につかって自分か死にそうなのに、「ニコニコ」していたら、いいことが起こるか? ニコニコしていることがきっかけになっていいことが起こるか? 一度の水のなかで、どうやって、いいことを経験するのか?

きちがい家族が、きちがい的な音で、ヘビメタを鳴らし続けるということは、一度の水につかっているのとおなじだ。からだが反応する。意志の力でからだの反応をとめることができない。かならず、「つかった」という事実が、からだの反応を引き起こす。


2022年12月14日水曜日

へんなリフレクション

 あいかわらず、不愉快なことを思い出して、もだえてくるしんでいる。もう、つかれたなぁ。きちがい親父にやられると、いろいろと、へんなリフレクションがあるんだよ。これも、そのうちのひとつだ。けど、こんなことをどれだけ言っても、他人はわからない。

きちがい的な親にたたられたことがない人は、たとえば、なぐられたなら、なぐられたということなんだな。なぐられるという恐怖が生じたんだな……というようなことしか考えない。きちがい的な親のほうに、認知的なずれがある場合のことは、まったくわかってない。単純に、直線的に考えるだけなんだよな。認知的なずれがあるということは、無意識的な問題があるということだ。無意識的な問題は、じつは、善悪の基準に関係しているし、親のほうが……やる側のほうがきちがい的な衝動で動いていると、矛盾がしょうじるのである。ようするに、きちがい的な親がやっていることと、きちがい的な親がやったと認知しているもの、あるいは、感覚しているものとのあいだに、矛盾が生じてしまうのである。それを、「ひきうける」のは、やられたほうなのである。善悪の基準は、そのまま「どれだけ気にするか」ということにつながっているんだよ。そして、「やったってやってない」という態度はリフレクションをうむ。どうしたって、そうなる。

 基本、つまらない。感情が、死ぬ。

 基本、つまらない。感情が、死ぬ。

きちがいヘビメタがはじまって、いろいろとこまったことがあったけど、そのうちのなかで、一番こまったことは、感情が死ぬということだ。繰り返しで、そうなる。ところが、繰り返しでそうなるということがわかってない人が、いろいろなことを言ってくる。この人たちは、ヘビメタ騒音の影響を無視している。ヘビメタ騒音の影響を無視する人たちは、基本的に言って、「私はオッケーだが、あなたはオッケーではない」というタイプの交流をしようとする人たちなので、やられたこっちは、不愉快になる。そいつらがオッケーなのは、きちがいヘビメタ騒音にやられてないからだ。毎日、十一歳から、きちがいヘビメタ騒音が続くということがなかったからだ。そういうことを、経験しない人が、影響を推し量り、無視して、助言してくる。その助言は、役に立たないことなのである。けど、役に立たないということを言ってしまうと、その人たちは、傷つく。さらに、攻撃的になる。そして、ぼくが無職なら、無職で、相手は、目下の人間だと思うわけだ。おとっている人間だと思っているのである。それも、ようするに、ヘビメタ騒音の連続で、働けないからだになったということなのに、それが、……ヘビメタ騒音の影響を無視するからわからない。あったときに、こちらが無職であれば、無職であるということは「所与の条件」なのである。

ともかく、いろいろとつみかさなるのだけど、感情が死ぬ。感情が死んでいく。そうなると、反応速度が遅くなるのである。反応が鈍くなるのである。それも、ヘビメタ騒音の影響なのに、こいつらは、わからない。俺が、ヘビメタ騒音の影響だといっても、ヘビメタ騒音を俺と同じ時間の長さ、俺とおなじ期間の長さ、経験した人じゃないと、影響のでかさがわからないのである。「そんなことで、覆せるものではない」ということが、根本的わかってない。ヘビメタ騒音のなかで「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」となんか言っても、だいじょうぶじゃないのである。だいじょうぶにならないのである。ヘビメタ騒音にやられて、元気がない状態で「元気だ。元気だ」と言っても元気にならないのである。きちがいヘビメタが、ものすごい音で鳴っている状態が、まるでわかってないんだよな。きちがい兄貴の大都がまるでわかってないんだよな。きちがいヘビメタがずっと鳴ってた日の次の日、どれだけ、つかれはてている状態で動いているのか、まったくわかってないんだよな。きちがい兄貴だって、わかってないけどね。これ、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい親父のように無視して、わからないままなんだよな。けど、きちがい兄貴の感覚やきちがい兄貴の態度全体というのは、いっしょに住んでいる人しかわからない。そして、ヘビメタ騒音が、どれだけ影響をあたえるか、やられてない人はわからない。ヘビメタ騒音が鳴っている時間だけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っていない時間に、どれだけの影響をあたえるか、まったくわかってない。で、それは、言わないからわからないのではなくて、ぼくが言っても、わからないのである。その人に、ぼくとおなじ経験がないとわからない。一日のなかでどれだけこたえるか、わからない。人生のなかで、どれだけの影響があるかわらない。そいつらはみんな「鳴り終わったら」「影響もきえる」と思っている。ぜんぜんちがうのに、わかってない。これも、どれだけ説明しても、実際にぼくのからだで経験した人じゃないとわからないところがあるんだよ。そういうことをぬいたとしても、想像力がないやつらだなとは、思うけど。そういう、想像力がないやつらに、自動的にぼくが!ばかにされる。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。ヘビメタ騒音の「効果のひとつ」にそういうものがある。かならず、誤解をされるのである。誤解の素をつくっているのは、きちがい兄貴だ。ぼくは、ハンダゴテ事件について書いたけど、ハンダゴテ事件は、きちがい兄貴ときちがい親父のあいだに起こったことだ。けど、しくみが、まったく同じなのである。きちがい兄貴にわかりやすいように、きちがい兄貴が「やられるがわ」のケースを説明したのだけど、きちがい兄貴は、きちがい兄貴が「やるがわ」である以上、理解しない。同じ理屈が成り立っている。おなじ脳みそのしくみが成り立っている。きちがい親父ときちがい兄貴でおなじなんだよ。で、きちがい的な家族がやることに関しては、普通の人は、「みんな」誤解をする。誤解をするんだよ。きちがい家族にやられたことがない人は、「みんな」誤解をする。だから、「やられたほう」が板挟みになる。そういう構造も、ずっとずっとおなじだ。心理学の専門家を名のるやつも含めて、みんな、誤解をしている。単純、単細胞。単純理解。まちがっているのに、まちがっていることに気がついてない。そんな、直線的な理解でわかるはずがない。「いっぽんせんのりかい」なんだよ。きちがい家族にやられてない人は、きちがい家族がやったことに関しても、きちがい家族ときちがいではない家族のあいだに起こったことも、「いっぽんせん」で理解してしまう。これ、わかる? わからないだろうなぁ~~。わかるわけがない。

ともかく、騒音の繰り返しで、感情が死ぬ。その場合、ヘビメタ騒音を経験してない人が言う、助言というのはまったく意味をなさない。むだどころか有害。そして、そういう「こうりゅう」がまた、「この世はめんどうくさい」とか「この世はいやだな」とか「他人はいやだな」という認識をうみだすのである。だから、きちがい家族に、しつこくしつこく、やられた人は、この世で、生きにくくなる。きちがい家族にやられたことがない人が「この世の生きがたさ」について語って、なおかつ、きちがい家族にやられたことがある人のことに関しては、ごく自然に誤解をしやがるからなぁ。わかる? 佐藤(仮名)。単純。単純すぎる。佐藤さんはまるでわかってない。単純すぎる。理解のしかたが「一直線」。「いっぽんせんのりかい」。そういうレベル。そういう理解度。

2022年12月12日月曜日

みんな、ほんとうに、きちがい的な親がどういうふうにたたるのかわかってない

 みんな、ほんとうに、きちがい的な親がどういうふうにたたるのかわかってないんだよな。怒りが内向するの。リフレクションするの。まるでわかってない。単純な理解のしかたでしか理解しない。そんなものじゃないのだ。きちがいの思考や、無視のしかたというのは、そんなに単純なものじゃない。佐藤(仮名)みたいのは、単純な理解のしかたしかできないんだよな。けど、ちがうんだよ。どんだけ、へんな人間かまるでわかってないな。どんだけ、へんな影響をあたえるかまるでわかってないな。きちがい親父がどれだけへんな人間かまるでわかってない。きちがい的な親がどれだけ、へんな影響をあたえるかまるでわかってない。わかってない。わかってない。


2022年12月11日日曜日

その問題の原因だけは、がん無視なのである

 その問題の原因だけは、がん無視なのである。たとえば、一〇度の水につかっている人のくちびるがむらさきになったり、一〇度の水につかっている人ががたがた震えている場合、原因は一〇度の水につかっているということだ。

ところが、一〇度の水につかったことがない、人たちが、「こきざみに体を左右にふっているのは、発達障害だ」とか「むらさきのくちびるにしているのは、本人だ」ということを言うのである。原因だけは、がん無視なのだ。ヘビメタ騒音もおなじだ。

これ、たとえば、遅刻に関して言うと、ヘビメタ騒音が問題なのだ。けど、「本人が甘えているから、だめなんだ」ということになる。「時間をまもるということが大切だということを本人が理解すれば、遅刻をしなくなる」と言うのだ。

たとえば、宿題をしてこないことに関して言うと、ヘビメタ騒音が問題なのだ。ところが、これも、「本人がたるんでいるから、宿題をしてこない。本人が、勉強の大切さを考えないから、宿題をしてこない」「連帯責任で、ほかの人の迷惑をかけるのだけど、ほかの人に迷惑をかけるということが、悪いことではないと思っているから、宿題をしてこないんだ」と言うのである。

あるいは、通勤して!働けないということに関しても、ヘビメタ騒音が問題なのだ。ところが、「本人が、本人が甘えてるからダメなんだ」ということになる。「時間をまもるということが大切だということを本人が理解すれば、遅刻をしなくなる」と言うのだ。むらさきのくちびるに関しては、からだの反応を認めず、俺は赤くて普通の色をしているのに、そいつはむらさきのくちびるをしているから「へんだ」と言って、いじめるのである。

ほんとうの原因は「がん無視」で、本当の原因によってもたらされた症状についてまちがったことを考えて、まちがったことを言うやつらが多い。「ヘビメタ騒音」というものは、そういうものだ。そういうまちがいを誘発しやすいものなのである。

ちなみに、意志教の人は、くちびるの色を「意志の力でかえられる」と思っているので、「いつまでも、むらさきのくちびるをしている人は、意志の力がないダメなやつだ」と決めつけるのである。言霊主義者は「くちびるの色よ、赤くなれ」と言えば、赤くなるのに、「『くちびるの色よ、赤くなれ』と言えば、赤くなるのに、言わないからダメなんだ」と言い出すのである。

ほんとうの問題をかんちがいして、それぞれの主張を言い出す。けど、ほんとうの問題について死しているので、そういう主張は、言われたほうからすれば、迷惑なだけで、意味がないことなのである。

なんで、俺だけ?

 ほんとうに、つまらない。俺の人生は、なんだったのか?

ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしい。もう、どうすることもできないな。なんで、俺だけ? なんで、俺だけ? なんで俺だけ、きちがい家族にたたらなければならないんだ?

 

2022年12月10日土曜日

我慢したぶんだけ、こっちが、ボロボロになった

 いったいなんなんだ? この人生は……。

ほんとうに、ボロボロになった。

最後のきちがい親父の意地でぼろぼろになった。「(ネズミは)(俺が)ネズミシートで捕まえるからいい」と言って、聞かなかったんだよな。ネズミ本体がはいってくる状態を維持すると、ネズミの糞とかネズミのショウベンでひどいことになるから、穴をふさがないとだめだと言っているのに、頭がおかしいから理解しない。そのときの、「いじのはりよう」なんだよな。

なぐりたい気持ちをおさえると、自分をボコボコになぐったような感じになってつかれるのである。我慢したぶんだけ、つかれた。我慢したぶんだけ、こっちが、ボロボロになった。

怒りをおさえると、怒りが内向して、とんでもないことになってしまう。きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、騒音でもつかれたけど、きちがい兄貴のきちがい的な頑固さに対する怒りが内向して、つかれた。ボロボロになる。 

ほかの人は、きちがいの意地がわかってない。ほかの人は、きちがいの感覚がわかってない。意地も感覚もわかってないのに、わかったようなことを言いやがって……。それも、腹がたつ。きちがいがいる家に生まれたことがない人は、ほんとうにわかってない。わかってないということもわかってないだろう。

だから、誤解をして、まちがった前提に立って、きちがい的な家族に「やられた人」をせめるんだよ。常識的な判断で、せめる。けど、非常識が成り立っていたんだよ。そのうちでは「非常識」がずっとずっと成り立っていたんだよ。これ、どういうことだかわかるか?

道徳が踏みにじられている。そして、道徳を踏みにじって、攻撃しているほうは、まったくそのつもりがないという状態が、何十年も、毎日、成り立つということだ。きちがい的な家族の「のうみそ」がかわらないじょう、毎日、二十四時間中二十四時間、きちがい的な感覚が成り立っているのである。

で、きちがい的な感覚が成り立っているところで、きちがい的な基準で、きちがい的な行為をする。そうすると、それをとめることができない。とめるとなると、殺さなければならなくなる。この、「殺さなければならなくなる」という状態も、きちがい家族と一緒に住んでいない人はわからない。根本的にわからない。だから、かならず、ずれたことを言ってくる。『そんなことが成り立つなら苦労してない』ということを、言ってくる。

 

2022年12月9日金曜日

自分よりこまっている人間を見つけて、その人間に説教をする人たち


精神世界のいろいろな話というのは、自分よりこまっている人間を見つけて、その人間に説教をするために役立っているのである。その説教が、もともとは、その人の妄想をもとにした話だから、説教された人間は、こまるのである。言ってみれば、すでに困っている人間が、精神世界の人に説教されて、さらにこまった状態になってしまうのである。

これは、精神世界の話だけではなくて、凡人の労働観にも成り立っている。だから、なんらかの、ほかの人が理解しにくい理由で、無職になった人は……つまり、働『け』なくなった人は、不愉快なことを言われる状態になる。普通の労働観をもっている普通の人が、無職に対しては、攻撃を仕掛けてくる。そういう状態になっている。なので、働けなくなる直接的な原因のほかにそういうことでも、いやな思いをすることになっているのである。

 

ようするに、回復のこころみが、そもそも、だめなのである

 あー、ああいうふうに言ってやればよかった。誤解されっぱなしというのは、いやだな。腹がたつ。言ってやればよかったな。

やっぱり、言うとなると、でかい声を出してどなることになるなぁ。

もう、二度とあわない人だけど、腹がたつ。勝手に遅れて、勝手に、誤解やがって。
あと、普通の人に言っておきたいけど、長期ヘビメタ騒音でだめになっている場合、いろいろな困難がおそっているのである。普通の状態なら……つまり、長期ヘビメタ騒音にたたられていなければ、やらなかったことをやって、不愉快な思いをするというとになってしまうのである。絶対にわからないだろうな。

ようするに、回復のこころみが、そもそも、だめなのである。回復のこころみ自体が悪手なのである。なんで悪手になってしまうかというと、長期ヘビメタ騒音で、穴ぼこにおちているから!!

2022年12月8日木曜日

「人間は働くべきだ」と考えているなら、当然、歳をとっても働いているはずですよね

 常識的なことを言ってくるやつらは、みんな、「ヘビメタ騒音の影響」を無視している。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、過去のことなら関係がない」という前提で、ものを言ってくる。

こいつらは、みんな、ぼくとおなじようにヘビメタ騒音を経験したわけではない。「きちがいかぞくによる」ヘビメタ騒音を経験したわけじゃない。きちがい家族が、息を吸うように、ヘビメタを、「つねに」鳴らすということがどういうことなのかわかってない。

それが、たとえ、一日のなかで、午後四時から午後一一時一〇分までのことであったとしても、学校から帰ってきたあと、あの音のでかさで、あの音を、あの至近距離で鳴らされた場合、からだにどういう変化がしょうじるか、まったくわかってないのである。

この、わからなさ、と言ったらないよな。自分の短い騒音経験で、「たいしたことがない」と勝手に決めつける。けど、俺とおなじ期間の長さ、俺とおなじ時間の長さ、あのきちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音を経験したわけではないのだ。きちがい兄貴の態度がどれだけむかつく態度かわかってない。

それは、やはり、影響をあたえる。そして、きちがい兄貴の態度がきちがい親父の態度とおなじなので、俺に迷惑をかけているということが、わからないのである。きちがい兄貴がわからない。こっちがどれだけ説明しても、きちがいの頭で解釈するから、まったく、なにもやってないのとおなじ態度で、ずっと生活をしているのだ。

そして、きちがい兄貴が学校から帰ってきた、かならず、風呂に入るまで、きちがいヘビメタを、自分が満足できる音で鳴らした。風呂から出てきたら、かならず、自分が満足できる音で、一一時一〇分まで鳴らした。

で、これが、こっちがどれだけこまっても、まったくゆずってくれないのである。けど、これがまた、きちがい親父とおなじで「ゆずってやった」と思っているところがある。気ちがいなんだよ。すべてが、きちがい的な反応。すべてを、きちがい回路で解釈している。

ともかく、俺にえらそうなことを言ったやつが、病気になって入院したら、連絡をくれ。そうしたら、その病気のことは、頑固に無視して、「働くということの大切さについて」語ってやるから。

俺は、そいつが、働くことの意味がわかってないから、働かないんだ」解釈するのである。だから、そいつが働くことの意味を理解してくれるように働きかけるのである。……悪いことじゃないだろ。そいつらがやってきたことだ。

そいつらが、「まるまるという病気で働けない」と言えば「○○という病気の影響」は頑固に無視して、「そんなのは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「○○という病気にかかっている人だって、みんな働いている」と言ってやる。「もう、歳をとってむかしのようには動けないから、働けない」と言ったら「歳をとった」ということの影響は頑固に無視して「そんなのは、関係がない」「歳をとったって働いている人はいる。みんな苦労をして働いている」「だから、おまえが働けないということはない」「歳をとったから、働けないなんていうのは、あまえだ」「おまえは、働くということの意味がわかってないからそうやって、加齢を理由にして、さぼっているだけだ」と言ってやる。

「人間は働くべきだ」「これを理解してくれれば、おまえも働くようになるのだから、理解するように働きかけることはとてもいいことだ」と言ってやる。「みんな、歳をとっても病気になっても、がんばって働いている」「おまえだけ、働けないなんてことはない」「そんなのは、あまえだ」と言ってやる。

なので、死ぬまえに、かならず、連絡をください。

「人間は働くべきだ」と考えているなら、当然、歳をとっても働いているはずですよね。歳をとると人間は人間でなくなるということはないのですから。働くのをやめるときは、人間をやめるときだと思って、働いているはずですよね。

まさか、人間らしく暮らすために、働くのやめるなんて選択はしてませんよね。人にあんなことを言って、ただですむと思うな。「人間は働くべきだから、○○さんも働くべきだ」……まちがってませんよね。どうして、病気や老化を理由にして、働かないんですか? おかしいとは思いませんか? どれだけくるしくても、音をあげずに、働くべきでしょう。それは、あなたが言ったことなんだぞ。人には、頭がおかしいことを言って、自分は、その発言とはちがう暮らしをしているのか? おかしいだろ。

2022年12月7日水曜日

人権侵害だということに気がつかないのか?

  今日の朝、つまり、今朝、ゴミを出したんだけど、あのときの気分を考えると「ぼくはやはり、幸福になれそうもない」と感じる。きちがい兄貴にやられた朝の気分とおなじなんだよな。佐藤は、障碍者の人権についてだいぶうるさいことをやっているけど、ヘビメタをあの音のでかさで鳴らすということが、どれだけの人権侵害なのか、まるでわかってないところがある。あれは、ものすごい、人権侵害だ。あの音がどれだけひどい音かまったくわかってないなぁ。きちがいだから鳴らせる音なんだよ。普通の人だったら、鳴らせない音なんだよ。きちがいだから、でかい音を普通の音だと感じることができるんだよ。耳が悪くなければ、『でかい音』だと感じなければならない音なんだよ。ほかの種類の音が、あのでかさで、1分間なっていたら、きちがい兄貴だって、一分間腹がたって腹が立ってしかたがないような音のでかさなんだよ。あの音で、鳴らすこと自体が、人権侵害なんだよ。どうして、「小さな人権侵害」には敏感なのに、「大きな人権侵害」には鈍感なんだよ。障害者なら、どんな小さな人権侵害に関しても、人権侵害だと騒ぐくせに、「ほかのうち」の家族がやっていることだと、人権侵害なんて、そもそも関係がない話になってしまう。そういう感覚が成り立っている。ほかの家で、「兄」が「弟」にやったことだと、人権侵害という考え方自体が、佐藤の頭で成り立ってないんだよね。ばかだなぁー。そういう感覚は、ほんとうは、おかしい。けど、騒音に関することであって、なおかつ、「よその家のこと」だと、人権侵害というような考え方が思い浮かばないレベルまで、人権侵害が関係のない話になってしまう。ほんとうはものすごいことなのに、まるでわかってないな。佐藤(仮名)なんて一〇分間、あのきちがいヘビメタ騒音のなかにいたら、くるっちゃうよ。一か月間で、不登校になる。社会人なら出社拒否になる。そういう騒音なんだよ。まるでわかってないけど。こういうやつらの「まるでわかってない」態度は、むかつくなぁ。「やめてくれ」「やめてくれ」と家族が言っているのに、息をすったり吐いたりするように、普通に「いつもいつも」鳴らしてしまう感覚というのはないよ。まったくなにも気にしてない。俺にとって、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、重要な問題なのに、きちがい兄貴も、佐藤(仮名)も、重要な問題だということを完全に無視しやがる。佐藤(仮名)が鳴らしたわけではない。そして、佐藤が気にしない仕組みと、きちがい兄貴が気にしない仕組みは、まったくちがう。けど、気にしないということでは、相似だ。気にしないというベクトルの方向はおなじだ。ただ、佐藤のスカラーが一(いち)だとすると、きちがい兄貴のスカラーは一兆(いっちょう)だ。スカラーと書いたけど、ベクトルの大きさのことだとする。

おまえら、あれがどういう音なのか、まったくわかってないなぁ。

あと、アドラーみたいなとっちゃん坊やが、「どれだけ人(他人)がガミガミ言っても気にしない人」のほうが、気にする人よりすぐれているというような意見を書いているけど、ちがうね。人(他人)がガミガミ言ってきたということをちゃんと考えられる人間が、すぐれた人間だ。「気にすれば、すぐれていない人間だ」「気にしなければ、すぐれた人間だ」と、考えること自体がおかしい。人が言うことを気にする能力は大切な能力。相手が言うことを聞いて、自分の行動をあらためるのは、たいせつなこと。なんで、相手が言うことを聞いても、絶対に自分の行動をあらためないことが、すぐれた能力なんだ? 善悪の基準というのがあるんだよ。悪人が、悪いことをして、悪いことをしたということをまったく気にしなかったら、悪人のまわりの人がこまるだろ。人が言うことを気にしない人間がすぐれた人間だというような価値観はおかしい。

人が言ってくることを気にすることは、たいせつな能力だ。ふざけんな。

どれだけこまるか、まったくわかってないなぁ。きちがい兄貴もよその人も。やられてない人も、きちがい兄貴も、まるでわかってないんだよなぁ。

影響があるに決まっているだろ。なんで『影響なんてない』と考えるんだ。影響があるに決まっているだろ。 なんで『関係がない』と決めつけるんだ。関係なくない。そのときの状態どころか、次の日の状態にまで一〇〇%の影響がある。なんで、『影響なんてない』『関係がない』と決めつけるんだ? おまえらはみんな、でこパッチンB。

2022年12月6日火曜日

「すべては思いようだ」 ……ほんとうにそうなんだろうか?

 「すべては思いようだ」

……ほんとうにそうなんだろうか?

じゃあ、「すべては思いようだ」と言っている人の知覚や感覚はなんなんだ? 意思が「知覚していることとは反対のことを知覚するようにしよう」と思えば、反対のことを知覚することになるのか?

意思が「感覚していることとは反対のことを感覚するようにしよう」と思えば、反対のことを感覚することになるのか? それなら、最初に知覚し、感覚したものはなんなのか? どうして、意思で、その、知覚し、感覚したものを、くつがえすことができるのか?

くつがえした後の知覚や感覚を信用できるのか? 信用できるなら、知覚や感覚は必要なく、意思だけがあればいいということになってしまう。しかし、それならば、なぜ、最初の、知覚や感覚はあるのか?

知覚や感覚が意思に情報をあたえているのだから、意思のほうは、知覚や感覚を受け取る側のほうなのである。意思が勝手に、知覚や感覚をつくるというのであれば(発信して書き換えるというのであれば)それは、意思という妄想のなかですごしているということになる。これは、現実無視にほかならない。

意思がつくった心象のほうを、現実だと思い込めばいいということになってしまう。「すべては思いよう」というのは、じつは、きちがいのすすめだ。自分の知覚や感覚を信用せず、ただ単に頭の中で作った心象を現実だと思い込めばいいという話なのである。

「頭の中で作った心象」と書いたけど、これは、意思によってつくられた心象のことである。

 

2022年12月4日日曜日

喫茶店巡り……ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない

 カフェ巡りかぁ~~。いいよね~~。ね~~。

いいよなぁ。まあ、喫茶店巡りも、いい。内容はおなじで、言い方がちょっとちがうだけ。

どのみち、ぼくはあんまり、喫茶店には行かないんだよね。行かない。だって、もしご飯を食べるとなると、寿司、カレー、ラーメン、蕎麦のほうが、いいから。喫茶店の近くに寿司屋があったら、どうする? まあ、回転寿司系の安い寿司屋があるとする。その場合、やっぱり、寿司屋に行くだろう。寿司屋に行ったあと、喫茶店によるかというと、よらない。

けど、なんか、カフェ巡りとか喫茶店巡りという、語感がいい。ものすごくいい。「なんだこれは」と思うほど、いい語感をもっている。もっているんだね。なぜかは知らないけど。しかし、若いときのごく一時期をぬかして、若いときはおカネがなくて、喫茶店に入る気持ちはなかった。なんだろうなぁ「めぐり」というのがいいのかな?

めぐるんだよね。一軒じゃなくて、何軒も……。いいじゃない。なんか、いい。

しかし、もう、ぼくはコーヒーが飲めないからだになってしまった。どうしようかな?

喫茶店は、もちろん、コーヒーや飲み物を楽しむところだけど「場所」としておしゃれな感じがする。実際、そこで出される飲み物や食べ物よりも、雰囲気を楽しむ人も多いみたいだ。落ち着いた雰囲気のカフェ……いいじゃない。二階の窓側に座ると、道が見えていい……。道を眺めるのは、いいよね……。わりと、好きなんだよな……。ちょうど二階の高さから、外の通りを眺めるのは、好き。

まあ、ほんとうのことを言うと、若いときに、わりとお金に余裕がある状態で、喫茶店巡りをしたかったのさ。いまは、シェディングと寄生虫の問題があり、あんまり、外食をする気になれないな。喫茶店巡りはいつかやりたいと思っていたけど……。

どうするかな? 動けなくなってからじゃ遅いんだよ。けど、ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない。旅先の喫茶店に入るというのが理想といえば理想なんだけど、ヘビメタ騒音でこころがぶっこわされているから、気分がよくない。「俺はなにをやっているんだ」とか「あのとき、くるしかった」というようなことしか思い浮かばないと思う。そういう意味で、ヘビメタ騒音は、ぼくの楽しみを奪った。騒音というと、鳴っているときだけうるさいものだと思いがちなのだけど、そうじゃないのだ。こころを破壊する。期間が長いと心が完全に破壊される。死にたい気持ちでさ迷い歩くというようなことになる。みんな、わかってないんだよね。けど、俺の場合、人生のなかでヘビメタ騒音が実際にしょうじたので、そういうことになる。ほかの人にはわからないだろう。ほかの人の人生のなかで、俺と同じレベルの長期騒音が発生しなかったから、わからない。どういう状態になるのかわからないと思う。ほかの人は、楽しめる状態で、旅先の道を歩き、ぷらっと、喫茶店によることができる。けど、ぼくの場合、それは、もうない。

 

喫茶店巡り

 さて、いちおう起きたわけだけど、どうするかな?

 さて、いちおう起きたわけだけど、どうするかな?

わりと、寒い。そして、さみしい。たとえば、1993年あたりもこんな感じだったなぁ。あのときのむなしさ……そのままだな。喫茶店巡りの本を、きゅうに買いたくなったけど、喫茶店に行くわけじゃないのだ。行ったところで、さみしい。ああっ、ダイヤ君。君と喫茶店巡り?をしていたころは、楽しかったぞ。それだけは……。長期騒音で、めちゃくちゃだったけど……。あっ、誤解を招くようなことを書いたけどダイヤ君と喫茶店に行ってた頃は1993年あたりじゃない。1993年というのは、だから……こうして、部屋のなかでさむい感じがしたときの記憶。ある雑誌の表紙に1993年……。ベッドの横にその雑誌を置いていた。だから、目に入っていたんだね。もう、1993年ですら大昔か。あれから、なにがかわったと言うのだ? まあ、いろいろかわったね。しかし、憂鬱なのがかわらない。ヘビメタ騒音で、だるくて憂鬱なのが、かわらない。




2022年12月3日土曜日

ほかの人たちは『わからなさ』がわかってない

 ほかの人たちが誤解をするのは、『きちがい兄貴の催眠術にかかっているような態度』や『きちがい親父の催眠術にかかっているような態度』だ。きちがい兄貴の『わからなさ』やきちがい親父のわからなさ』が、わからない。ほかの人たちには、まったくわからない。だから、ほかの人たちは『わからなさ』がわかってないので、「言えば、わかってくれる」と思ってしまうのである。しかし、無意識的なずれがあり、催眠術にかかっているような態度でやりきってしまう。そして、「やりきった」ということを、今度は、催眠術にかかったような態度で認めないということになる。で、それで、きちがい兄貴や、きちがい親父は、安定しているのである。やりきることができるのである。殺さなければ、これはかわらない。脳みその病気みたいなものなのだから。そして、きちがい兄貴やきちがい親父は、つねに、そうやって、きたないかたちで、「やりきっている」ということが、ほんとうにわかってない。よその人は、そういうことが、まったくわかってない。『わからなさ』の『わからなさ』がちがう。そうなると、凡人○○のような常識的な人が、俺のことを、バカにした発言をすることになるのである。自動的にそうなる。こいつはこいつで、ほんとうにまったくわかってない。バカだ。バカにバカにされるということになってしまう。きちがい兄貴にやられるということはそういうことだ。きちがい親父にやられるということはそういうことだ。

人を傷つけるとか、人に傷つけられるということを考えている

 人を傷つけるとか、人に傷つけられるということを考えているのだけど、やっぱり、どうしても、ヘビメタ騒音がでかい。これ、ほんとうに、でかい。でかさがわからない人たちが勝手に決めつけて、へんなことを言う。その人たちが信じていることを言う。それが、その人たちにとっては、なんともないことなのだけど、こっちには、こたえることなのである。腹がたつことなのである。「自殺するしかないか」と投げやりな気持になってしまうようなことなのである。

2022年12月1日木曜日

のび太の名言「社会構造はピラミッドではなくひし形だと思うんだ」について語ってみた

ひし形なのか、ピラミッド型なのかという問題についてちょっとだけ、語っておくかな? これは、どういうことかというと「ピラミッド型ではなくてひし形なのではないか」と言っている人たちは、底辺の人数を問題にしているのだ。ピラミッド型だと、底辺の人数が多いように思えるけど、実際には、ひし形で、底辺の人数は下に行くほど少なくなるのではないかと言っているのだ。ようするに、能力がない人は、じつは少ないのではないかと言っているのである。けど、実際には、ピラミッド型のイラストが示すように、底辺の人が多いような印象を与えると言っているのだ。これは、能力がないとか、能力の度合いがそのまま、底辺人口になっているはずだという誤解のもとに成り立っている。能力の度合いということを言えば、ノーマルカーブを描くようになるのだ。その場合、「ひし形」になる。上辺・中・底辺というわかけたをするのであれば、中がボリュームゾーンになる。ようするに、普通人のなかに入る人が一番多くなる。上辺は少数、底辺も少数、中が多数。なので、底辺は少数派で、底辺を多く見せかけるようなピラミッド型のイラストはおかしいという考え方なのだ。けど、これはまちがっている。ノーマルカーブを描くのは、能力で、底辺かどうかは貯蓄と収入の問題だ。ぜんぜんちがう。能力というのは、くわしくと言うと、能力の分布のことだ。能力の分布は、ノーマルカーブになるので、中(普通)が多くなる。「中辺」という言い方がないか、一般的ではないので、「中」と書いておいた。社会構造としては、ピラミッド型なのである。ようするに、能力分布で、「中」である人が、「底辺」になっている。

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社会構造を表現するのにピラミッドがよく使われるだろう?

あれによると最低?の人間が一番多くなるはずなんだけど

周り?を見てもぼくみたいな最低の人間はほとんどいないじゃないか

そもそも僕が大勢いたら、この世の終わりだよ

(ちょっと文字が読めないので、?をつけてみた)

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会社のピラミッド構造を考えた場合、

社長、部長、課長、係長、一般社員と、人数が増えていく。トップの社長はたいていの場合、ひとりで、底辺(最低)の一般社員が多数なので、ピラミッド構造と人数が合致している印象があるし、実際にそうなのだろう。

 

 
資産のピラミッド構造を考えた場合、
トップの超富裕者層が8.7万世帯で、最低のマス層が4.215.7万世帯なので、ピラミッド構造と人数が合致している。
 
ようするに、マス層のなかに能力が上辺の人間、能力が中間の人間が含まれている。ノーマルカーブを描いた場合の上位側が、マス層に含まれているので、のび太のように誤解してしまう。マス層はこの図のなかで最低だけど、個々人の能力は、最低というわけではない。ようするに、学校の成績みたいなものであらわすと、上の人間が、相当に含まれている。そして、中間層によって、このマス層が構成されている。もちろん、学校の成績で下の人間も含まれている。学校の成績というのが、じつは、ほんとうは価値があるかどうかわからない能力についてはかっているだけなので、もちろん人間の価値とは関係がない。学校の試験ではかれる能力というのは、自分にとって興味がないものでも、記憶できるかどうかということだ。これがメインで、あとは、常識テストということになる。はかりやすいものをはかっているだけなので、人間の全般的な能力をはかっているわけではなくて、人間の一部の能力をはかっているにすぎない。そして、はかりやすい能力が、人間の能力をあらわすかというとそうではない。これは、学問についても言えることだ。歴史的な出来事に関する思考能力が、試験範囲として決まっている範囲の知識テストではかれるかというと、はかれない。しかし、学校ではかれる能力が、まるで、人間の能力をあらわしているように思われているのである。のび太は、人間の能力的なヒエラルキーと社会構造的なヒエラルキーが一致しているはずだという前提に疑問をもっているわけだけど、これは、正しい。しかし、のび太は、人数的なヒエラルキーと社会構造的なヒエラルキーをごっちゃにしているのである。人数的なヒエラルキーを考えるなら、中間層の人数が多いに決まっている。そして、下と上は、それぞれ、人数的には少ないのである。なのであれば、のび太の考察があっていると思うかもしれないけど、それがちがうのだ。「人数」と「階層(構造的なヒエラルキー順序)」をごっちゃにしてはいけないのだ。階層(構造的なヒエラルキー順序)を考えるなら、下の人数が多くなる。しつこく書いておくと、「人数」だとそうなる。階層(構造的なヒエラルキー順序)のなかで、最低のなかに、能力的には「上」「中」「下」が含まれているのである。そして、人数的にボリュームがある「中」がもっとも多く含まれている。なので、のび太は、この点において誤解をしている。
 


 


 

 会社内でのヒエラルキー(ピラミッド)

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。