2022年6月29日水曜日

こんなの、ない。どれだけ、ひどい音で鳴ってたか?

 ほんとうにひどい音で鳴ってた。

こんなの、ない。どれだけ、ひどい音で鳴ってたか?

鳴っている感じがする。ほんとうに、ひどかった。全部がくるしくなった。どれだけがんばっても、ギリギリ生活なのである。むかしは簡単できたことができなくなる。特に、睡眠がダメになった。睡眠がダメになると、全部がくるしくなる。きちがい兄貴は、なにがなんだろうが鳴らしたのに、まったく鳴らしてないのとおなじ態度なんだよな。毎日、何十回も言った。何十回も怒鳴り込んだ。そのたびに、きちがい兄貴が、むくれて、きちがい的な意地で鳴らした。これ、きちがい親父の態度とおなじなのである。まったくおなじ。で、きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやってないことなのである。この感覚が、ほかの人にはわからない。これ、ほんとうに、きちがいだとむかつくんだよ。そりゃ、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定しているわけだから……。本人は「いつもいつも」つもりがないわけだから……。あんなに維持なってやったことなのに、本人は、まったくやってない場合と同じ気持ち、まったくやってない場合とおなじ態度でいるわけだから、むかつく。人間関係なんてない。そりゃ、そうだろ。これ、わかるかな? きちがい兄貴だって、おやじともめたら、おやじともめたということがわかっている。けどのこの場合は、おやじのほうが、まったくもめたということがわかってない状態なのである。じゃあ、こっちがやめてくれと言ったときに、ちゃんと対応してくれるかというとそれはないのである。これは、おやじも兄貴もおなじだ。で、兄貴は、おやじにやられたときは、感覚が普通だから、怒るのである。けど、きちがい兄貴が、俺に、ヘビメタ騒音でおなじことをやっているときは、おやじのようにまったくわからないままなのである。どれだけ言ったって、わからない。これ、ほんとうに、やめさせるとなったら、殺すしかないんだよ。本人が、毎日、いやがらせをしているのに、まったくいやがらせをしたつもりがない状態で暮らしている……。毎日、相手に、ひどいことをしているのに、まったくそのつもりがない状態でいる。だから、自分が恨まれているということは、わからない。自分が!!腹をたてている状態なのである。「やめてくれ」と言われたら、きちがい的な苛立ちを感じて、きちがい的な意地でやってしまうのに、やったつもりがまったくないんだよね。だから、相手が自分に対してどういう気持をもっているかというのが、まったくわからない状態で暮らしている。きちがい兄貴だって、ヘビメタをやるまえは、いやなやつだけど、がまんができる範囲のいやなやつだったのである。きちがい親父は、兄貴がヘビメタをやるまえからがまんができない範囲のいやなやつだったのである。きちがい親父にかかわって、いいことになったことなんてない。これは、そういうふうに思っているからそうなるというようことではない。おやじの構造から出てくるものだ。俺が、おやじはそういう人間だと思っているから、おやじがそういうふうに行動するわけではないのである。この「思ったことが現実化する」というある意味、幼児的な万能感に満ちた思考は、ほんとうに、きちがい的な親がいる人間を傷つけるのである。自分だけ、そう思っていればいいだろ。自分のことだけ、そう思っていればいいだろ。理由付けがちがうんだよ。因果がちがうんだよ。これはこれで、「思いは現実化する」というような思考をもっている人と、うまくいかなくなる理由のひとつだ。普通の人は、きちがいではない親のもとに生まれたからそれでいいのだろうけど、「ぬれぎぬ」をきせるな。ふざけるな。まあ、「思ったことが現実化する」派閥のことはいいよ。これをぼくは、「おもだましゅぎ(思霊主義)」ということにした。言霊も、じつは、別の理由をつけているんだよな。そういう意味で、言霊で、不幸な家のことを説明するときは、注意が必要だ。たとえば、ぼくが「きちがい兄貴が、ヘビメタにこって、ヘビメタをでかい音で鳴らして、エレキ・ギターを弾くようになるから、ぼくの人生が台なしになる」と言って、そういうことが発生したわけじゃないのである。兄貴がヘビメタを鳴らすということは、ぼくにはわかってなかったことだ。ヘビメタということばすら知らなかったのである。ヘビメタじゃなくても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の耳が悪くなるようなでかい音でなにかの音を鳴らすということが、わかっていたわけじゃないのである。だから、そういうふうに言うことができなかった。言ってないのにもかかわらず、現実化した……。まず、これが重要なのである。最初から、まちがっている。この言霊主義にしろ、思霊主義にしろ、普通の人の幼児的な感覚だから、きちがい的な家族がいる家のことを説明するとなると、まちがった説明になってしまうのである。けど、アドラーとおなじように、本人が、きちがい的な家族が最低でもひとりいる家の状態を自分の経験をとおして理解しているわけではないから、そういう誤解……まちがった説明が、気にならないのである。ぼくがいま言ったようなことを、思霊主義者説明しても思霊主義者は、「そんなことはない。思ったことが現実化する。思ったはずだ」と言い張って聞かない。しかし、思ってもみなかったことが、現実化したという点で、思霊主義の説明はぼくにとっては、まちがった説明なのである。符合しないのである。現実の現象を説明できないのである。また、ぼくがいま言ったようなことを、言霊主義者説明しても言霊主義者は、「そんなことはない。言ったことが現実化する。言ったはずだ」と言い張って聞かない。しかし、言わなかったことが、現実化したという点で、言霊主義の説明はぼくにとっては、まちがった説明なのである。符合しないのである。現実の現象を説明できないのである。まちがったことなのである。理由になってないことなのである。言霊主義者は、勝手に、ぼくのせいにする。言ってもいないのに、言ったからそうなったと、わけのわからないことを言いだすのである。誤解している。完全に誤解している。こっちにとっては、不愉快なことだ。

家族の構成員のうち、すくなくてもひとりがきちがいだと、ほかの人から誤解をされて、ほかの人が、まちがった前提に基づいてまちがったことを言ってくるようになる。うちは、ふたりだ。ふたりとも同じタイプの脳みそを搭載しているのである。どれだけ、こまるか?

ふたりいるんだぞ。誤解されるときもダブルパワーで誤解される。「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親が文句を言わないのはおかしい」とか「そんなに小さなことで、おやじさんが怒っていたのに、お兄さんの音楽には文句を言わなかったというのはおかしい」と言いやがるのである。どれだけ、ずれたことか。そして、こういう人たちは、ヘビメタ騒音に関しては、経験がないので、それがどれだけ生活自体に影響をあたえるのかまったくわかってないのである。ヘビメタ騒音と書いたけど、ぼくとおなじヘビメタ騒音ということだ。あるいは、その人にとって一番嫌いな音楽ということだ。その人にとって一番苦手な音がずっと鳴っている状態を経験したことがないということだ。そして、その音を鳴らし続けているのが、家族の一員だということを経験したとがないということだ。これ、一一歳からやられてみろ。どれだけ体に影響が出るか? どれだけ人生に影響が出るか? 自分のからだでわかってないなら、わかったようなことを言うな。これ、影響を無視して……勝手なことを言いやがるのである。家族がへんなひとだと、よその人から、俺が悪く言われる。いつもいつもそうだ。

2022年6月26日日曜日

たってられるか! たってられるか!

 ああっ、あの女の子となかよくしたかったなぁ。ヘビメタがなければ……。これ、みんな、きちがい的な兄貴によるヘビメタ騒音がわかってない。わかってないだけなのに、えらそうなことばかり、いいやがって……。あの状態はない。あの感覚はない。あんなのがずっと毎日続いていいわけがないだろ。たってられるか! たってられるか!

悪魔が支配する社会をより強固に成り立たせたい人が、過去を無視して、あるいは環境を無視して、きれいごとを言う

 まったくわかってない人たちがいるようだけど、ぼくが言っていることは、めぐまれている人たちが、めぐまれていない人たちのところまで、さがってくればいいということではない。

ほんとう、どうやって、そういう誤解をするのかまるでわからない。

きっと、こころがよごれまくっているのだろうな。

人間はついつい自分を基準にして考えてしまうからなぁ。ぎゃくだ。ぎゃく。ぎゃくなんだよ。

めぐまれない人たちが、めぐまれている人たちのところまであがっていかなければならない。で、いままで、こういうことは夢物語だったんだけど、現実化する。

たとえて言うなら、針がはえた椅子に座らされて、けつに針が刺さっている人たちが、ふかふかな椅子に座れるようになる。格差があるにしても、「クッションの厚さ」がちがうぐらいの格差しかない社会になる。

これ、生まれながらの格差というのは、回収されなければならない。特に、親の格差というのは、たいへんな影響をあたえるから、そのつど回収されなければならない。

基本的に、まずしい家に生まれたということは、親のおカネがないということなのだけど、あるいは、親の収入が少ないということなのだけど、おカネの問題とは別に、親の格差がある。「性格」の格差だ。

親が普通の人は、親がサイコパスであるような人の現実がわからないのだ。だから、「そんなのは、関係がない」「過去のことであれば関係がない」ということを言う。

それは、はっきり言えば、自分がふかふかな椅子に座っているから言えることだ。きちがい的な親のもとに生まれなかったから、言えることだ。

一〇〇本の針がはえている椅子に座って、血が流れているなら、そんなことは言えない。

「過去は関係がない」と言っている人たちは、人間がいきなり大人になるわけではないのに、子供時代のことを無視している。

たとえば、二〇歳で大人になるとすると、一九歳までのことは、二〇歳の現在に影響をあたえているのである。たとえば、一八歳で大人になるとすると、一七歳までのことが、「今の現実」に影響をあたえているのである。その積み重ねは!!でかいのである。

これ、なんで、大人になったとたんに、大人になるまでのことは、関係がないということになるのか、わからない。いきなり、大人の状態でうまれてきたわけではない。

からだだって、いきなり大きくなったわけではない。

能力にしたって、いきなり獲得したわけではないのだ。

環境の差はでかい。

それは、言葉をおぼえるということですら、影響がある。生まれたばかりの赤ちゃんは、母国語をしゃべれない。母国語をしゃべるようになるには、さまざまな刺激をうけると同時に、脳みそが発達しなければならないのである。

その場合、さまざまな刺激をうける環境とさまざまな刺激をうけない環境では、差がしょうじる。

これは、努力とかそういう問題ではない。

こういうことも含めて、努力の問題にしてしまうのがおかしい。

これは、まだ、まったくうけない考え方だと思うけど、アドラーが言っているようなことは、悪魔が支配する社会に親和的なのである。

ようするに、悪魔側の道徳について、アドラーは言及している。悪魔に心を乗っ取られた人の、自分勝手な考え方についてアドラーはのべている。

悪魔が支配する社会をより強固に成り立たせたい人が、過去から現在にいたるまでずっと続いてきた格差や環境の格差を無視して、きれいごとを言う。そのきれいごとは、悪魔のきれいごとなのである。悪魔の支配に親和的な人が考えた、うわっつらの道徳なのである。

これは、善ではなくて、悪だ。

ぜんぜんちがう。道徳的な外観とはちがい、その本質は、悪なのだ。

これが、悪魔の支配に親和的な人にはわからない。

逆に、過去を重視し、環境を重視している人が言っていることが、悪いことのように思えるのだ。それは、悪魔に心を支配されてしまったから、そう感じるだけだ。悪魔は、「過去」を無視し、「環境」を無視するように、働きかけている。

この「過去」とか「環境」というのは、他人の「過去」であり、他人の「環境」なのだ。他人における過去の影響や他人における環境の影響を、無視したり過小評価することで、「全体的な格差の構造」をより強固にしているのだ。

「全体的な格差の構造」というのは、たとえるなら、ふかふかな椅子と針がはえた椅子が順番に並べられているような「部屋」のことだ。悪魔の支配に親和的な人は、第一段階のふかふかな椅子から、第一〇段階の一〇〇本の針がはえている椅子が並んでいる「部屋全体」を維持したいのだ。

こういう人たちは、格差を無視する。無視。無視。無視。

あったってない。

あったって、自己責任。そんなのは、下のやつからが悪い。不満を言っているやつが悪い。泣き言を言っているやつが悪いと言って、格差の影響を無視する。

格差において低位に位置するものがかかえるハンディを、なんだろうが無視する。

そして、ふかふかな椅子に座っているからこそ言える、道徳についてのべる。

これは、悪いことだ。いいことじゃない。道徳的じゃない。非・道徳的なことだ。

どうして、そんなことをして、良心がいたまないのか不思議だ。最初から良心とよべる良心がないのだろう。あるいは、悪魔のささやきに負けて、良心がマヒしているのだろう。

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2022年6月25日土曜日

理解しようとする努力さえしなかったアドラー

アドラーいわく。

「愚者は自分が愚かであることを自覚できず、理解できないだけのものを「自分には無用なモノ」として拒絶してしまいさらに負のループに入る。謙虚に学ぼうとする姿勢がある人は、自分に必要なのかどうかを冷静に判断し、必要ならむずかしくても理解する努力を惜しまない」

 

アドラーが「愚者」と言っているときは、その「愚者」というのはアドラー自身をさしている。

「アドラーは自分が愚かであることを自覚できず、理解できないだけのものを「自分には無用なモノ」として拒絶してしまいさらに負のループに入る。謙虚に学ぼうとする姿勢がある人は、自分に必要なのかどうかを冷静に判断し、必要ならむずかしくても理解する努力を惜しまない」 

アドラーは、フロイトが言ったことをまったく理解しなかった。フロイトが言ったことは、アドラーにとっても、ほかの人にとっても理解する必要があることなのである。

アドラーは、むずかしいことは、最初から理解するような努力をしない人間だ。

フロイトが言ったことは、アドラーにとってむずかしいことだったのである。理解しようとする努力さえしなかった。謙虚に学ぼうとする姿勢がなかった。理解できないだけのものを「自分には無用なモノ」として拒絶してしまったのは、アドラー自身なのである。アドラーはフロイトの最悪の弟子なのであーーる。 

アドラーにとってフロイトの言っていることはむずかしいことなので、学ぶことをあきらめてしまったのである。……公平に言っておくと、この「アドラーにとってフロイトの言っていることはむずかしいことなので、学ぶことをあきらめてしまったのである」というのは、悪い決めつけの例だ。アドラーが、口をひらばやっていることだ。

アドラーの考え方というのは、悪い決めつけが多すぎる。悪い意味で単純なのである。だから、悪い意味で単純な「スローガン」が好きな人をひきつけてしまう。アドラーのような人間は、複眼的な思考ができないので、単眼的で一方的な視点から、すでにこまった人にやられて、弱っている人を、ののしってしまう。これは、ひとを傷つける行為だ。そして、傷つけたことに関しては、まったくなにも感じない人間なのである……アドラーは。そういう、こまった人の特徴がある。 

2022年6月24日金曜日

生まれの格差を無視する思考がはびこると、思いやりの気持ちがなくなってしまうのである


みんな、アドラーのことがまったくわかってない。アドラーにはじつは、人の気持ちを「気にする」能力がないのである。そういう、脳みその部分が欠落している。人の気持ち「気にしすぎる人」が増えたとする。この人の気持ちを気にしすぎる人たちとというのは、人の気持ちを気にする能力がある人たちなのである。気にしすぎてしまうわけだから、気にする能力がある。アドラーとアドラー信者は「人の気持ちを気にする能力」がまったく無駄なもので、有害なものだと考えているようだけど、これはちがう。人の気持ちを気にする能力は、じつは必要なものだし、有益なものなのである。しかし、「いきすぎる」と問題がしょうじる。……この世界と言うのは、悪魔が支配しいてる世界なのである。そして、その世界には強固な階層があるのである。この強固な階層のことを、ぼくは、椅子で表現したわけ。生まれの格差がある。生まれの格差があるということは、ひどい親にやられる子供が出てくるということだ。しかし、生まれの格差を無視する思考がはびこると、この人たちに対する(こういう子供たちに対する)思いやりの気持ちがなくなってしまうのである。思いやりの気持ちがなくなった人間にしてみれば、ひどい親にやられた子供はだめな子供だということになってしまう。人間が、人間に対してオオカミになっている状態なのである。階層のなかで、有利な人間が不利な人間に対して、ダメダシをおこなうような状態になってしまっている。みんな、こういう思考にとらわれた人は、他人に対する愛をうしなってしまう。みんな、こういう思考にとらわれた人は、他人に対する思いやりをうしなってしまう。

アドラーが他人の気持ちを「気にしない」にもかかわらず問題を起こさないのは、じつは、アドラーの親がまともだったからなのである。もうちょっと正確に言うと、アドラーの善悪に関する感覚は、共同幻想の善悪に関する感覚とほぼ一致しているのである。だから、アドラー自身は問題を起こさないわけだけど、それは、たまたま、そうなっているにすぎない。なにが正しくて何が悪いことなのかと言うことに関する人間の感覚と言うのは、それぞれ、ちがうんだよ。ズレがあるわけ。もうちょっと、くわしく言うと共同幻想の善悪に関する感覚と本人の善悪に関する感覚がずれている人もいるわけ。そうなると、共同幻想の善悪に関する感覚と本人の善悪に関する感覚がずれている人が自信をもって、迷惑行為をするということになる。アドラーの言うことのなかには、じつは、自信をもって迷惑行為をする人をいさめる部分がない。むしろ、奨励しているのである。自分勝手なことをしていいと言っているのである。なにが、迷惑行為で、なにが自分勝手な行為なのかということについて、ちがいがあるということが、まったくわかってないのである。アドラーはたまたま、めぐまれたところに生まれたから、自分の感覚が正しいと思っていて、みんなそのくらいわかると思っていのである。ようするに、自我がちがうので、善悪の感覚がちがうということを、がん無視している。この、アドラーの単純さは、罪深い単純さだ。恵まれている家に生まれたので、まったく、わかってないのだ……。共同幻想の善悪の基準と個人の善悪の基準がそれほどずれていない親の元に生まれたので、アドラーはそういう親ばかりではないということが、まったくわかってないのだ。そして、他人の状況を理解することができないという能力の欠乏によって、この感覚が強化されてしまっている。

 

2022年6月23日木曜日

その助言では「不幸な状態」がひっくりかえらない。

言いたいことは、ひっくりかえらないということだ。

たとえば、針が一〇〇本はえている椅子に座っている人が、どれだけ「いたくないいたくない」と言っても、いたい状態が続く。「いたくない」と言うことで、状況がひっくりかえらない。針が一〇〇本はえている椅子に座っている人が、どれだけ、横に座っている人に親切にしても、いたくて、くるしい状態がひっくりかえらない。

ようするに、「不幸な状態」がひっくりかえらない。

しかし、幸福論の人は、「人に親切にすれば、しあわせになる」と言ってしまう。この幸福論を言っている人も、フカフカな椅子に座っている人なのである。フカフカな椅子に座っている人が言う「助言」はまったく役に立たない。

この、嘘の助言を聞かされる状態になってしまうのである。針が100本はえている椅子に座っている人の血がぬけていく。

そのとき、フカフカな椅子に座っている言霊主義者が「元気だ元気だ」と言えば元気になると言ったとしよう。この言霊主義者は、本人の主観としては、嘘を言っているつもりがない。『実際、俺は、落ち込んでいるとき、元気だ元気だと言ったら、元気になった』『元気だ元気だと言ったのに、元気にならないわけがない』と思ってしまう。

こういうフカフカな椅子に座っている人は、相手の状態がわからない。

ここでは、針がはえている椅子に座っている状態がわからない。

そして、『そんなのは俺だって同じだ』と考えてしまう。自分が努力したから、フカフカな椅子に座っていると思ってしまうのだ。自分の能力がすぐれているからフカフカな椅子に座っていると思ってしまうのだ。

しかし、そうではなくて、生まれたときに、フカフカな椅子に座る人と、針のはえた椅子に座る人がわかれてしまう。

自我がめばえたときには、フカフカな椅子に座っている人は、フカフカな椅子に座っていて、針がはえた椅子に座っている人は、針がはえた椅子に座っている。

しかし、フカフカな椅子に座っている人は、針がはえた椅子に座った経験がないので、針がはえた椅子に座っている人のことがわからない。

なので、「いたい」とか「たいみを感じる」ということについて、針がはえた人の言っていることが理解できない。最初から、「いたさ」の「いたさ」がちがう。「元気がない状態」の「元気がない状態」がちがう。そうすると、いままで書いたように、「マトはずれな助言」をすることになる。しかし、本人は「マトはずれ助言をしている」とは思わないのである。

もうひとつ、有害な助言の例をあげておこうか。

たとえば、フカフカな椅子に座っている人は、フカフカな椅子に座っているから「お尻がいたいときは、一度、立って座りなおすと、お尻がいたくなくなる」というようなことを言う。

しかし、一〇〇本の針がはえた椅子に座っている人が同じことをやったらどうなるだろうか?

いたいに決まっている。

座りなおしたときに、おなじところに座ったとしても、いたみが消えるということはない。さらに、一度たったあと、一〇〇本の針がはえた椅子に座りなおすのだから、あたらしく刺さったところができて、出血する箇所が増える。

なので、そういうことがわかっているから、「お尻がいたいときは、一度たって座りなおす」という助言にはしたがいたくないという気持になる。

ところが、フカフカな椅子に座っている人は、相手のそういう状態がまったくわからないので、相手に対して「ためなさいで、なんだ? ためさないで否定をするな」「立つという勇気もないのか?」と挑発的なことを言う。

しかし、そういう発言ができるのは、自分がフカフカな椅子に座っているからなのであーる。生まれたときから、フカフカな椅子に座っているから、針のいたさがわからない。

いたさにかんして言えば、フカフカな椅子に座っている人は「ずっと座ったときに、ちょっとお尻がいたくなるかな」といった程度のいたさしか経験してないので、相手がどういうことを考えて、その助言にしたがわないのかまったくわからない。

そうすると「やらないからダメなんだ」「勇気がないからダメなんだ」とダメ出しをしはじめるのである。こういうズレが、ある。

しかし、そういうことをやっている人は、そういうことをやっているということがわからない。フカフカな椅子に座っている人は、相手が言っていることがまったくわからない。

問題なのは、「いたさ」というような単語が使われてしまうと、フカフカな椅子に座っている人が思い描く「いたさ」というのが、フカフカな椅子に座っている人の体験にもとづいた「いたさ」になってしまうということなのであーーる。

だから、「立ったあと、座ると、よけいにいたくなる」と一〇〇本の針がはえている椅子に座っている人が言っても、フカフカ椅子に座っている人はまるで理解できないということがしょうじる。

その場合、フカフカな椅子に座っている人は、相手の性格つにいて誤解する。

「勇気を出して、やってみないからだめなんだ」「弱虫だからダメなんだ」「暗い出来事が起こることを想像するからダメなんだ」と言い出すのである。そうやって、挑発するのだけど、本人は、挑発しているつもりがないのである。

 

2022年6月22日水曜日

アドラーの「わからなさ」ときちがい的な親の「わからなさ」は似ている。関係がない参加者の判断は当事者に影響をあたえる。

きちがい的な親にやられた人が、きちがい的な親にやられなかった人に、きちがい行為について説明してもむだなんだよね。それは、フカフカな椅子に座っている人に、針のいたさを説明するのとおなじだ。どうやっても、通じない。どのように形容しても、相手は、わからない。わからないということがわかれば、まだよいのだけど、わからないということもわからずに、ちがったいたみについて語りだし、そんなことはたいしたことがないのに、過剰にいたがっているだけなのだということを言いだす。だから、そういうことについて、つねに、誤解がある。きちがい的な親の「ずれかた」というのは、ほかの人にはわからない。きちがい的な親の元に生まれたことがない人には、わからないことだ。けど、わからないということがわかってないのである。だから、どこまで行っても平行線だ。問題は、フカフカな椅子に座っている人のほうが社会的な地位が高いので、フカフカな椅子に座てっいる人が言う、「まちがった見解」が正しいと思ってしまう人たちがいることだ。ほんとうは、フカフカな椅子に座っている人が言うことは、まちがっているのにもかかわらず、針がついてない椅子に座っている人は、フカフカな椅子に座っている人が言うことが正しいと思ってしまう。針がついている椅子に座っている人が言うことが、まちがっていると思ってしまう。誤解をしているのは、フカフカな椅子にすわっふいる人なのに、社会的に地位が低い、針がついた椅子にすわっふいる人が言っていることが、非・合理的でまちがっていると理解されてしまうのである……多くの「他人」によって。針がつている椅子に座っているということと、社会的な地位が低いということは、関係がないことではない。針がついている椅子に座っているということは、『生まれの格差・下』の生まれだということだ。たしょう、「位相」がずれるのだけど、フカフカな椅子に座てっいる人の「わからなさ」と、きちがい的な親の「わからなさ」は似ているところがあるのだ。きちがい的な親にやられた人が、アドラーの言い方、アドラーが言っていることについて、いちいちむかつくのは、それと、無関係ではない。「わからなさ」が似ているんだよね。そして、「他人」の無理解さも似ている。他人と言うのは、この場合、フカフカな椅子に座てっいる人が言うことが正しいと思ってしまう「他人」のことだ。こういう、関係がない参加者の意識も、「屈辱感」に影響をあたえる。不愉快さに影響をあたえる。


2022年6月21日火曜日

経済とか経済学とか、仕事とはなにかとか、市場とはなにかということを考えるには、相当に面白い時代に突入することはたしかだ

 しかし、ほんとうに、ものすごいことになるからね。いままで価値観が、ひっくり返るからね。けど、かわらない部分もあるんだなぁ。なので、そこらへんが、どういうふうに表出するか、考えると面白い感じがする。まあ、答え合わせは、生きていれば、できる。

も、の、す、ご、い、ことになる。どういうことが現実化され、どういうことが現実化されないか、興味がある。なので、今後一〇年ぐらいは、楽しみが増えると言っていい。しかしーー、だ。しかーーしーーーなんだなぁ。ぼくの場合……。やっぱり、ヘビメタ騒音でけずられた部分がでかすぎる。あとは、ここ、二、三年の出来事でいろいろとつかれてしまった部分がある。

まあ、経済とか経済学とか、仕事とはなにかとか、市場とはなにかということを考えるには、相当に面白い時代に突入することはたしかだ。

 

2022年6月19日日曜日

生まれたとたんに、どれかの椅子に座らされる。……初期値の異常と、相手の立場を考えることができる力

 初期値の異常。初期値の格差。これが問題なんだよ。生まれたときに、多くのことが決まってしまう。だいたいの、不幸の総量は、生まれた場所で決まってしまう。

アドラー主義者は不幸な人には、一切合切、同情しない。不幸な人は、悪い人だから不幸になっていると考えるのだ。しかし、現実世界はどうだろう? 現実世界というのは、こんな世界だ。


たとえば、一〇段階の椅子がある。一段階目の椅子は、ふかふかなクッションがついている椅子だ。そして、一〇段階目の椅子の上には五〇本の針がついていて、その五〇本の針は注射器の針のように中心に穴があいているので、座っていると血がどんどん出ていってしまう椅子なのである。

五段階目の椅子は、普通の椅子だ。しかし、クッションはついてない。

一段階目の椅子のクッションは十センチ、二段階目の椅子のクッションは、八センチ、三段階目の椅子のクッションは五センチ、四段階目のクッションは二センチ、五段階目の椅子にはクッションがついてない。

しかし、五段階目の椅子はちゃんと座れる椅子だ。

六段階目の椅子は、座面が凸凹していて、座りにくい。七段階目の椅子は、座面に、二〇本の針がついている。八段階目の椅子は、座面に四〇本の針がついている。

九段階目の椅子には、座面に五〇本の針がついていて、注射器とおなじように、針の中心が空洞になっているから、針が刺さった部分から血がぬけていく。

一〇番目の椅子は、座面に一〇〇本の針がついていて、九段階目の針とおなじように、針の中心が空洞になっているから、針が刺さった部分から血がぬけていく。

生まれたとたんに、どれかの椅子に座らされる。

それは、ランダムに決まる。

ふかふかな椅子に座る人が、前世でいいことをしたとか、針がついている椅子に座る人が前世で悪いことををしたということはない。

ただたんに、ランダムに決まってしまうのだ。

ふかふかな椅子に座っている人は、針がついている椅子に座っている人のいたさがわからない。体験的にまったくわかってない。体験がないから、針がついている椅子に座っている人のいたさが、まったく、わからない。

「俺だって、お尻がいたいときがある」と言う。長い時間、座っていると、どれだけふかふかなクッションがついている椅子でも、たしかに、いたいと感じるときがある。

しかし、そのいたさは、針がついている椅子に座っている人のいたさではない。

どれだけふかふかなクッションがついている椅子に座っている人だって、「つかれ」は感じる。しかし、その「つかれ」は、座面に注射器のような穴があいた針が突き出ている椅子に座っている人が感じる「つかれ」ではない。血がぬけていくのだから、チカラがはいらなくなることだってあるだろう。意識がもうろうとするときもあるだろう。

時間がたてば、抜けた血の総量が増えるのだか、過去のことは関係がないとは言えない。しかし、アドラー主義者は、現在のことだけを考えて、過去は関係がないと言うのだ。これは、おかしい。時間の経過とともに、血がぬけていくわけだから、時間の経過は関係がある。現在の状態に、過去は関係する。

アドラー主義者にとって、「他人」とは、自分とおなじように、ふかふかな椅子に座っている「他人」でしかない。針がついている椅子に座っている「他人」は、攻撃すべき「なにかそれ」でしかない。針がついている椅子に座っている人間は、同情するべき対象でなくて、攻撃するべき対象なのだ。

どうしてかと言うと、針がついている椅子に座っている人間は、「いたい」と不満を言うからである。アドラー主義者にとって、不満を言う人間は、不快な存在なのだ。親切にするべき対象ではなく、ディスりまくっていじめる対象なのだ。

「不幸なのは、おまえの性格が悪いから、不幸なのだ」と攻撃をしたい気持ちになる。

しかし、ほんとうは、生まれたときにランダムに振り分けられただけなので、アドラー主義者だって、針の刺さっている椅子に座れば、「いたい」と不満をもらす。アドラー主義者は、他人に冷淡で、親切にする気持ちがないので、針がついた椅子に座っている人間は、「いつも不満を言っている」とけなす。

「いつも不満を言っているから、不幸な人間だ」「不幸な人間は、いつも不満を言う」と相手の状態を考えずに発言をする。

アドラー主義者は、他人と自分の立場をいれかえて考えるということができない人間なのである。

では、アドラー主義者にとって「他人」とはなんなのかと言うと、アドラー主義者にとって他人とは、家族や「身近な人間」でしかない。

これは、ふかふかな椅子に座っている人間が、ふかふかな椅子に座っている横の人間には親切にしてやるのだけど、針がついた椅子に座っている人間には、親切にせず、ディスりまくって、責任追及をするということとおなじだ。

この責任追及というのは、針がついた椅子に座っていること自体について、責任を追及する。その人があたかも、悪人だから、針がついた椅子に座っているというようなことを言う。

これは、生まれたときにランダムに振り分けられただけだから、責任はない。

針がついた椅子に座っているから、不幸なのに、不幸だから針がついた椅子に座っていると言っているのとおなじだ。

針がついた椅子に座っているから、不満を言うのに、不満を言うから、針がついた椅子に座っていると言っているのとおなじだ。前世やカルマということばは出てこないけど、状態からしょうじる必然的な感情を、性格と言いかえることで、カルマを信じている人とおなじように、不幸な人は、不幸な人が悪人だから不幸なのだということを言っているということになる。

しかし、アドラー主義者だって、針がついた椅子に座れば「いたい」と不満を言うようになる。ずっと刺さっていれば、「いたい」といつも不満を言うようになる。

ところが、本人は、今現在ふかふかな椅子に座っているので、他人のいたみがわからないのである。

他人のいたみは、頑固に無視して、「同じ状態なのに」あの人は「いたい」「いたい」と不満を言っていると解釈してしまうのである。

そりゃ、長く椅子に座っていれば、お尻がいたくなるときがあるだろう。そういう「いたみ」と、針がついているいすに座っている人の「いたみ」が同じだと考えてしまうのだ。

アドラー主義者にとっては、ふかふかな椅子に座っているときの「いたみ」が人生のなかで感じられる唯一のいたみなので、それが「いたみ」そのものだと思ってしまうのである。

他人の立場や状態について考えることができないアドラー主義者は、たいしたいたみじゃないのに、針がついている椅子に座っている人がおおげさに「いたい」と言っていると思ってしまう。

アドラー主義者は、そういう、尊大で幼稚なところがあるのだ。アドラー主義者は、自己中心的で、他人の状態について、立場をいれかえて考えることができない人間なのだ。

アドラー主義者は「生まれの格差」を認めない。認めないところで、「生まれの格差・下」の人を、ディスりまくる。ほんとうは、その人の責任ではないのに、責任追及をする。これは、攻撃なのである。

アドラー主義者は、生まれつき不幸な人を、せめている。生まれの格差がないにもかかわらず、あるいは、そんなものがかりにあったしても、まったく現在の状態には影響をあたえないにもかかわらず、生まれつき不幸な人が、不幸なことをぐちぐち言っているから、不幸なのだと感じかえてしまうのだ。生まれながらの差を認めず、その人の状態……不幸な状態は、その人の性格がもたらしたものだと決めつけてしまう。そういう意味で、アドラー主義者は、愛がない人間なのだ。

アドラー主義者は「しあわせな人は他人のしあわせを願う」などと言っているけど、アドラー主義者が実際にやっていることは、他人のしあわせを願うような行為ではない。他人をディスりまくって、よろこぶような人間だ。

不幸せなやつがいたら、不幸せなのは、そいつの責任だと、そいつに強く言ってあたる人間なのである。それなのに、本人がどう感じるかは関係がないと思っている。こんなやつらが、他人のしあわせを願えるわけがないだろ。

じつは「他人」ということばに関する「トリック」がある。今回もちょっとだけふれたけど、これは、重要な問題なのである。この重要性も、九九%の人は理解しないと思う。「他人」という同じ言葉を使っているのに、「他人」の範囲がちがうのである。自分の家族も他人であるわけだし、生まれつき不幸な人も他人だ。家族だけではなくて、親戚や同僚なども含めてもいい。こういう「身近な他人」に対する態度と、「身近な他人以外の他人」に対する態度がちがいすぎる。

「他人」という言葉の内容がいれかわっているのである。アドラー主義者が親切にする他人というのは、身近な他人でしかない。自分の子供は身近な他人のうちのひとりだ。子供を例にするとわかりやすいので、子どもを例にして話す。そして、アドラー主義者である医者について話すことにする。

アドラー主義者である医者は、自分の子供には、「カヌーで遊ぶときは、マスクをつけなくてもいいぞ」と言うのに、他人の子供には「マスクをつけるべきだ」と言うのである。

そして、他人の子供が、マスクをつけて持久走をしているときに、死んだとしても、なにも感じない。

そんなのは、運が悪かったからしかたがないと思うだけなのだ。医者という専門的な立場から、マスクをつけることの必要性を主張すれば、権威に弱い校長が「子供に家でもマスクをさせよう」と考えてしまう。子供が家でもマスクをしていれば、その分だけ、発達が遅れる。

しかし、自分の子供以外の子供がどういうことになっても、そんなことは、一切合切気にしない。

子供と言っても、子供の範囲がちがう。自分の子供なのか、他人の子供なのかで、考えることが一八〇度、ちがってしまうのである。そして、ただ単に不幸な子供というような言い方をする。不幸な子供は、不幸だからダメなのだということを言う。

不幸な子供は嫉妬深い子供だから、不幸なのだ。不幸な子供は、泣き言ばかりを言っている子供だから不幸なのだ。不幸な子供は、不満をも言う子供だから不幸なのだ。不満を言う子供は不幸な子供だ。……こんなことばかりを言う。

どれだけ親が虐待したって、それは、親の問題であって自分の問題ではない。こういう考えをしっかりもてば、虐待の影響をうけない……こんなことばかり言う。自分が恵まれた子供時代をすごしたので、きちがい的な親に虐待されている「子供の現実」がまったくわからないのだ。めぐまれていたからわからない。それだけだ。

2022年6月16日木曜日

状態と性格をいれかえて考える人たちがいる……ふかふかな椅子に座っている人は、お尻に針が刺さってないから、いたいと思わないだけだ。

 まあ、言霊主義者も、最後には、「元気だ元気だ」と言っても、ぜんぜん元気にならない状態を経験して、死んでいくわけだ。

 「元気だ元気だ」と言っても、ぜんぜん元気にならない状態を、俺は、ヘビメタ騒音で経験茶ったわけ。毎日毎日、ずっとずっと、何時間も何時間も経験しちゃったわけ。

経験して言っているんだからな。「元気だ元気だ」と言わなかったわけじゃない。

これ、(後でちゃんと説明するけど)ふかふかな椅子に座っている人が、注射器の針のように、穴があいている針がはえている椅子に座っている人に向かって、「元気だ元気だ」と言えば、元気になると言っているようなものなんだよ。本人は、ふかふかな椅子に座っているから、相手の状態がわからない。自分の感覚としてはわからない。 ふかふかな椅子に座っている人が、注射器の針のように、穴があいている針がはえている椅子に座っている人に向かって、「いたい、いたい」と言うから、いたくなる……と言っているようなものなんだよ。ふかふかな椅子に座っているから、相手の状態がわからない。自分の感覚としてはわからない。

お尻に針が刺さっているなら、いたいと思うだろう。ふかふかな椅子に座っている人は、お尻に針が刺さってないから、いたいと思わないだけだ。自分が相手の状態だったらどうなのかということがまるでわからない人なんだよ。そういう自分勝手な人なんだよ。だから、そういうことを平気で言う。

尻に、針が五〇本刺さっていたら、いたいと思うだろう。ところが、「いたい」と言ったら、言霊主義者が「いたい」と言うから、いたくなるということを言ってくる。それをほんとうに信じている。さらに、血がぬけていく状態が、ある時点からある時点まで続いていたら、血がぬけたという意味で、過去のことは、現在の状態に関係がある。けど、「過去なんて関係がない」と言う。血がぬけて、元気がなくなっているのに、「元気だ元気だ」と言えば元気になるということを、言う。相手の状態は、がん無視だ。自分のことしか考えてないのである。相手と立場をいれかえて考えてみるということをしないのである。考えたつもりになっても、実際に、自分が、針のはえた椅子に座っているのでなければ、いたいということも、血がぬけて元気がなくなるということも、まったくわからないままなのである。

もうちょっと、言っておく。状態と性格をいれかえて考える人たちがいる。たとえば、ちがぬけていくような針が刺さっている状態で座っている人は、針が刺さっているから、いたいと言うわけだ。この状態がかわらない限り、いたさは続く。死ぬまで続くだろう。ところが、アドラー主義者みたいなやつは「痛い痛いと不満を言う」人と形容してしまうのだ。針が刺さっているから痛い。その針から血がぬけていくので、元気がなくなる。ところが、不満を言う人は、不幸だ。不幸な人は、不満を言う……不満を言う人はみんな不健康だ……というようなことを主張する。そういうことを言っている人たちだって、針が刺さっている状態になれば「いたい」と言う。血がぬければ、元気がなくなる。これは、「状態」がもたらすものだ。けど、これを、そういう人の性格だと言い切ってしまう。たまたま、自分がふかふかの椅子に座っているから、不満を言わないだけなのに、針の刺さった椅子に座っている人が、ふかふかな椅子に座っているのに、不満ばかり言う……と考えてしまうのだ。相手の状態を無視して、「不満を言う人」と形容してしまう。たとえば、不満を言う人は、不幸だ……という文について考えてみよう。これは、正しいように聞こえるかもしない。しかし、じゃあ、不満を言ってない人が、針が刺さっている状態になったら不満を言わないのかどうかだ。これも、「状態」と「性格」を言い換えているから、正しいように聞こえるだけだ。そりゃ、針が刺さっている状態なのだから、不幸だ。尻に五〇本の針が刺さっていて、その針から自分の血がぬけていっているのだから、不幸だ。この状態が幸福な状態か? これは、状態なのである。性格でもないし人格でもない。まあ、人格ということばを使ったほうが、正確なのか? ともかく、アドラー主義者は、状態をあたかも人格のように言い換えてしまうのである。そうやって、くるしい状態の人をディスる。このディスるというのは、軽蔑する、誹謗中傷する、ばかにするということばをあわせたような言葉だと思ってくれ。ていよくディスるのだ。だれだって、「いたい」というような状態なのに、「いたい」と言っているところを見て、「いたい」という性格の人だと思ってしまうのである。アドラー主義者には、こういう、幼児的な感じ方がある。アドラー主義者にはこういう、自己中心的な感じ方がある。

あの毎日を経験したことがないやつが、好き勝手なことを言う。

 あの毎日を経験したことがないやつが、好き勝手なことを言う。

 

いいわけがないだろ。

この雰囲気。この雰囲気。

2022年6月14日火曜日

サカマのことだって、ヘビメタが鳴ってなかったら、あんなことになってないんだぞ

 サカマのことだって、ヘビメタが鳴ってなかったら、あんなことになってないんだぞ。ほんとうに、どれだけいろいろなことに影響をあたえたか……。なっとく、いかない。俺が、悪い人になっちゃうんだぞ……。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがいヘビメタをでかい音で鳴らすことにこだわって、こだわって、鳴らすから、いろいろなところ影響がでる。騒音で余裕がない状態になっている。騒音で、いろいろなことができなくなるから、「できない」ということで、トラブルがしょうじる。ほかの人から悪く言われる。

となりの空き地に家を建てるときの工事と、きちがい兄貴がずっと鳴らしていた騒音は、関係がないことに思えるけど、関係がある。ものすごく関係がある。きちがい兄貴がずっと、ヘビメタを鳴らしてなかったら、となりの空き地に家ができたとしても、あんなに腹がたつことはないのだ。

となりの家の工事ことだって……。あのとき、どうして、工事が終わったあと、しずかにしてくれなかったんだ。ようするに、工事が午後六時に終わったなら、そのあとは、普通に静かなところで勉強したかったんだよ。ところが、きちがいヘビメタが午後一一時一〇分まで鳴り続ける。どんだけ、くるしいか。たとえばの話だけど、となりの人にとってみれば、「そっちだって、うるさくしている」と思うだろ。「いえのひと」なんだから。あっちからみて、兄貴と俺は同じ家の人なのであるわけだから……。

こっちの精神が爆発するんだよ。きちがい親父のトラブルとおなじなんだよ!

かならず、よその人が誤解するようにできている。よその人は、「家族がそれだけ言うのであれば、そんなにでかい音でヘビメタを鳴らし続けるはずがない」と思うんだよ。「鳴らしているのであれば、その音に関しては、家族がゆるしている」と思うんだよ。

 

2022年6月13日月曜日

ヘビメタ騒音について無理解な人

ヘビメタ騒音について無理解な人は、常識的で、権威に弱く、そこそこ、自分勝手な人なのだ。この、相手の状態を無視する自分勝手さを身につけた人は、みんな、ワクチン接種の列に並ぶ。そして、腕をさしだす。これは、決まっている。一〇〇%、そうなる。ワクチンを打ってしまった人のなかには、ヘビメタ騒音について理解してくれた人もいると思う。半強制的に打たなければならなかった人というのは、いると思う。ヘビメタ騒音に無理解な人はワクチンを打つが、ワクチンを打った人のなかにはヘビメタ騒音に理解がある人も含まれているということだ。ヘビメタ騒音に無理解な人→ワクチンを打つ人。ワクチンを打つ人「→ではない」ヘビメタ騒音に無理解な人。


2022年6月12日日曜日

ヘビメタ騒音は、ほかの人には理解されない

いい他人が、いやな他人にかわる瞬間がある。まあ、たいていの場合、しつこい繰り返しでそうなるわけで、一回や二回ではそうならない。けど、そうなってしまったら、これも、修復はむりだ。

きちがいヘビメタ騒音という宿痾をかかえていると、そうなる可能性が高い。どのみち、ヘビメタ騒音は、ほかの人には理解されない。理解しない人が、理解しない人のレベルで、俺の生活についてとやかく言ってくると、それで、おしまいということになる。

なんと、あったばかりの人にも、無職だと言うと、説教をされることがある。その人が、かりに、ほかのところで、いい人であったとしても、その人とつきあうつもりなどは、ない。なくなる。そりゃ、そうだろう。そして、つきあうとすると、いやなことがつみかさなるのである。

地合いが黒なので、頭がおかしい人は……じゃなくて、普通の人は、無職(当時)に対する偏見がある。そして、ヘビメタ騒音問題というのは、ほかの人にはないレアな問題なので、ほかの人は、考えちがいをする傾向が高い。

佐藤のように、ぼくが働けないと言っているのに、働かないだけだと解釈してしまうのである。これも、どれだけコミュニケーション能力が高いぼくが、ていねいに相手のレベルまでさがって、わかりやすく、何度も説明してあげても、理解できない。相手は理解できない。きちがい家族によるヘビメタ騒音というのは、普通の家で育った人には理解できないことだ。これ、ほんとうにちがうのである。

そういう人はまず、きちがい兄貴の性格について誤解する。そのあと、ぼくの性格について誤解する。そして、ぼくがなしたことについて、誤解する。

そして、ヘビメタ騒音の影響について誤解する。とくに、ヘビメタ騒音の影響に関しては、頭がわるいので、無視する傾向が高い。そのひとにどれだけ、ヘビメタ騒音のなかで感じたことを話してもむだだ。からだがどういう反応をするか、からだにどういう変化があらわれるということを話してもむだだ。むだなんだ。

これは、ぼくの話力の問題じゃなくて、相手の理解力の問題だ。ヘビメタ騒音の影響は、でかい。無視できるものではない。しかし、相手は、ヘビメタ騒音の影響は、ないと考えてしまうのだ。ないわけないでしょ。それがわからない、きちがい的な相手だ。そんなきちがい的な相手と、つきあうつもりはない。

いや、きちがい的な相手ではなくて、常識的な相手だった。

常識的な人は、きちがい家族について、誤解をする。わかってない。常識的な人は、そういうきちがい家族にやられたことがないので……やられ続けたことがないので、騒音に関しても、きちがい家族にやられ続けたという経験がない。そうなると、自分の騒音経験をもとにして、騒音というものを考えてしまうのである。あるいは、ぼくがかかえているヘビメタ騒音というものを、その似姿で、考えてしまう。

しかし、それは、まったくちがうものだ。兄によるきちがいヘビメタ騒音は、そういう常識的な人たちの創造の範囲を超える。こんなのは、3か月、がまんできればいいほうで、14年間なんて、期間が長すぎる。まるまる荘に退避できなかった期間が10年間あるのだけど、10年間ですら期間が長すぎる。

そうなると、10年間という期間の長さが与える影響……というのが、常識的な人には、わからない。経験がないからわからない。こっちのからだは、今現在もヘビメタ騒音の影響をうけているのだけど、常識的な人は、鳴り終わったら関係がないと考えてしまう。常識的な人は、鳴り終わったら影響はなくなると考えてしまう。

ヘビメタ騒音そのものと、ヘビメタ騒音の影響は、それぞれ、わけて考えなければならないことだ。みんな、常識的な人は、ヘビメタ騒音の影響について、勘違いをする。それは、経験してないのだから仕方がない部分もあるけど、ほんとうに、勘違いをする。みあやまる。軽視する。無視する。

無視したということも、無視する。軽視したということも無視する。みあやまったということも、無視する。勘違いしたということも無視する。無視したまま、本人がおもむくままに、本人の思考を続ける。そうなると、その人は、自動的にぼくを侮辱することになる。なので、ぼくは不愉快さを感じる。これは、あたりまえのことだ。

2022年6月11日土曜日

被・支配者層は、よくヒツジとして、たとえられるけど、それは、支配者層から見た場合の話だ

はっきり言ってしまうと、生まれの格差・上の人にとって都合がいい労働観が、全世界にいきわたっているのである。それは、もう、学校教育のときからそうだ。いな。幼稚園のときからそうだ。

 ともかく、うまれの格差・上の人だけが得をするようになっている。そういう労働観をうけいれてしまったら、おしまいだ。自分の人生を生きられなくなってしまうのである。

しかし、現実を考えるならば、飢え死にしないために、働くしかない人というのは、多い。まあ、生まれの格差に関しては、二重に成り立っていて、まず、支配者層と被・支配者層でわかれているのである。

で、コロナワクチンやマスクでわかるように、被・支配者層の従順な人たちが、被・支配者層の従順でない人たちに対してオオカミになってしまうのである。

被・支配者層は、よくヒツジとして、たとえられるけど、それは、支配者層から見た場合の話だ。被・支配者層のなかには、過度に適応して、適応してない被・支配者層に対してオオカミになってしまう人たちがいる。まあ、凶暴なヒツジと言ったところか。被・支配者層のかしこい人たちは、こういうのに、からまらて、いやな思いをするようになっているのである。

そこで、からまれた、かしこい被・支配者層が、反撃してしまうと、あらそいがしょうじることになる。このあらそいは支配者層にとって、好都合だ。まさに、そういう状態をつくるために、自分たちには従順で、かしこい被・支配者層には、攻撃的になるヒツジを洗脳によってつくりだしている。

「みんなで、コロナを退治しようとしているのに、どうして、協力しないんだ」と他人をせめるような気持ちになる人は、要注意人物なのである。そして、そっち側についてしまう、普通のヒツジたち。この、普通のヒツジたちも、悪い要素だ。

まあ、おもてには出さないけど、攻撃的なヒツジとおなじ精神回路をもっている。なので、空気を読んで、参加するかどうかは別にして、こころのなかでは、「権威に従わないタイプの他者」を攻撃したいと思っている。空気を読んで、攻撃するのが正義だということになれば、攻撃をはじめる。

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2022年6月10日金曜日

悪の支配を補完するきれいごと(カルマという考え方・アドラー主義、認知療法)


まず、どうしようもない格差があるということを頭に入れておかなければならない。この世というのは、悪魔に支配された世界なのである。

残念ながら、アドラー主義者、認知療法家、カルマを信じる精神世界の人は、悪魔に親和的だ。

神の光が差し込んでないのである。

これらの考え方は、悪魔に支配された世界を安定化させることに役立つ。

悪魔の支配に親和的なのである。人々がこれらの考え方に支配されると、それだけ、悪魔による支配が、安定化してしまうのである。

こういうきれいごとは、じつは、悪魔側の考え方。

問題なのは、こういうきれいごとを言っている人たちが、それに気がつかないということなのだ。こういう考え方は、悪魔の支配をより強固なものにして、安定化させる。

そういう効果がある。

こういう考え方に支配されている人は、目に見える「不幸な人」を攻撃する。それは、悪いこと。いいことじゃない。それは、悪であって、善じゃない。不幸な人たちというのは、『生まれの格差・下』の人たちだ。この人たちは、ほんとうは、悪い人たちではない。

しかし、カルマという考え方にとらわれていると、前世で悪いことをしたから、貧しい家に生まれてきたということになってしまう。前世で悪いことをしたその人のたましいがダメなのだというふうに見えてしまう。そのダメなたましいが、いまは、その人にやどっているのである。それなら、軽蔑し、邪険にあつかってもいいということになってしまう。前世で悪いことをしたのだから、しかたがないのである。……そういう考えにみちびかれてしまう。

カルマを信じたとたんに、あらゆる「生まれながらの不公平」が是認されてしまうのである。格差で『下』の人は、同情すべき相手ではなくて、攻撃すべき相手になってしまうのである。同じ構造が、じつは、アドラー主義や認知療法の理論に、反映されている。

けど、こういう考え方に支配されていると、あたかも、自分がよいことをしているような気持ちになってしまうのである。ほんとうは、罪もない他人をディスりまくっているのに、自分がいいことをしている気持ちになってしまう。

そして、悪魔の考え方、悪魔の感じ方を自分のものにしてしまう。

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同じ構造が、じつは、アドラー主義や認知療法の理論に、反映されている。ということについて……。 もう、非公開してあるけどじつはアドラー主義や認知療法の理論にも同じことが成り立っているということは、個別に説明した。

2022年6月9日木曜日

実際にある格差を無視してはいけない

実際にある格差を無視してはいけない。この格差は構造的な格差だ。構造的な格差を無視した道徳観は、道徳的なものではないのである。非・道徳的なものなのである。

しかし、普通の人は、実際にある格差を無視して考えることに、慣れ親しんでいるので、それが、異常なことだとは思わないのである。ようするに、格差を無視することに慣れ親しんでいる人は、実際には非・道徳的な思考をし、実際には非・道徳的な行動をしているのに、それが悪いとは思わないのである。

そのような洗脳が、日々おこなわれているので、ほとんどの人が「そういう先入観」をもって、考え、行動するということになる。無職、ニート、ギリケンに対する思考にもそういうことが反映されている。

けど、あまりにも深く、そう思っているので、反映されているとは思ってない。

地下の牢獄で泣きわめいている子供は、暗いので、だめなやつなのである。泣きわめくという、無意味なことをしても、ぜんぜん事態が完全されることがないのにそういうことをやっているあほな存在なのである。拘束され、首の後ろに、針が突き刺さり、その針から、血が抜かれたら、泣きわめくことだってあるだろう。それが、だめなことだと言うのである。

一方、親切な親に連れていかれて、カヌーを楽しんでいる子供は、明るいのでいいやつなのである。明るいやつは、いいことを引き寄せて、 暗いやつは、悪いことを引き寄せる……ということが正しいこととして流通してしまう。

これは、時系列的なことを無視しているから、そうなる。

あるいは、因果関係を無視しているからそうなる。

泣きわめいている子供は、性格が暗いので、そういう現実を引き寄せたのだ……ということを、精神世界系の人が、得意げに言う。しかし、つかまって、虐待されたから、暗い性格になっているのである。カヌーを楽しんでいる子供は、そういう楽しいことができる状態だから、明るい性格になっているのである。実際に起こった出来事に反応しているだけだ。

ところが、因果が関係を無視している人は、暗い性格だから、虐待されていると考えてしまうのである。因果関係を無視している人は、明るい性格だから、親と一緒にカヌーを楽しんでいると考えてしまうのである。

 

 

2022年6月8日水曜日

虐待サバイバーにも、「過去のことは関係がない」「トラウマはない」ということばをあびせかける

 地下の牢獄で、鎖につながれて、実験材料として生きている子供たちがいるとするだろ。その子供たちが、ビデオで、ほかの子供たちがカヌーに乗って楽しんでいるところを見たら、どう思うか。格差がある。不公平感をもつことになる。

しかし、アドラー主義者は、この「不公平感」を「嫉妬」と言い換えてしまうのである。

「嫉妬」という感情をもつ悪い性格の子供たちだということになってしまうのである。「嫉妬」は負の感情だということになっている。そうなると、精神世界の人がこの子供たちは、「嫉妬」という「負の感情」をもっている悪い子供たちだとみなしてしまうのである。

「嫉妬は、悪い波動を出している」などと言いだす。

嫉妬と書いたけど、ねたみでもいい。「ねたみの気持ちをもっているので悪い波動を出している」ということを言いだす。主語は「こういう子供たちは」だ。「こういう子供たちはねたみの気持ちをもっているので悪い波動を出していると精神世界の人たちが言うのである。

ぼくが「回収」しなければならないと言っているのは、こういうことが起こらない世界にしなければならないということを言っているのだ。組織的なレベルでもそうだし、家族的なレベルでもそうだ。 この場合は、子供たちをさらって、実験材料として使うような悪い組織を壊滅させなければならないということになる。

けど、それでも、きちがい的な親による虐待もある。この場合も、なるべく「回収」されなければならないのである。「なるべく」ではあるけど、回収されなければならない。

ところが、アドラー主義者は、「回収」ということに興味をもたず、そんなのは、自己責任だと言い出すのである。虐待サバイバーにも、「過去のことは関係がない」「トラウマはない」ということばをあびせかけるのである。精神世界の人は、虐待された子供に「それは、学びだ」と言うのである。

「魂がそういう親のもとに生まれることを選んだ」ということを言うのである。こんなのは、妄想。勝手に妄想で、決めつけるな。アドラー主義者も精神世界の人も、「回収さなくてもいい」という方向をむくのである。

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2022年6月7日火曜日

きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじで、まったく「きかない」

 もう、だめだ。ヘビメタで、くるしい。これ、ほんとうに、どんだけ……。これ、ほんとうに、ぼくにしかわからないことなんだよな。どれだけ他人に説明したって、他人には、まったくわからない。きちがいヘビメタ騒音にさらされていた時間が長い、ぼくだけにしかわからないことなんだよな。他人は、こだわる必要がない」というようなことを言うけど、こだわりたくてこだわっているわけじゃない。そうなっている。これ、「なぐられたって、いたいと思う必要はない」と言われているのとおなじなんだよ。これは、小学生のときからそうだ。ともかく、きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじで、まったく「きかない」。そして、「きかなかったら」「やってないのとおなじ」という態度で、やりまくる。殺さないととめられない。本人は、きちがい的な意地で、やりきるけど、まったくやったつもりがない状態が続く。どれだけなにを言っても、ほんとうにわからない。冒頭の「他人にはわからない」というのとは、ちがうしくみでわからない。しくみがちがうんだよね。しくみがちがうから、よその人……他人は、きちがい兄貴のことがわからない。よその人は、ヘビメタ騒音にずっと毎日さらされたときに、からだどうなるかということがわからないし、そういう履歴のある人生がどうなるかわからないし、そういう履歴がある人間の、からだの調子がわからないし、きちがい兄貴のしくみがわからないし、きちがい兄貴の態度全体がわからないし、きちがい兄貴の感覚がわからない。「やったらやった」で、やったという認識があるに決まっている……「やった」のに「やったという認識がない」ということはないという、認識をもっている。俺だってそう思う。けど、きちがい兄貴の態度は、あきらかに、そういう態度じゃないのである。こんなの、ほかの人にどれだけ説明したってわからない。

2022年6月6日月曜日

まあ、俺がうけないのはよくわかる

 まあ、俺がうけないのはよくわかる。俺がうける世界だったら、こんなことになってない。俺の言っていることを、多くの人が理解してくれる世界だったら、こんなことになってない。

「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」という詭弁

 たとえばの話だけど、子供たちが固定され、虐待され、首の後ろに針を刺されているとする。そういうことをしている場所にAさんがいるとする。Aさんが「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と言ったら、どう思うか?

ひどい話だとは思わないか?

そりゃ、子どもたちが刺されているだけで、その人……見ている人は刺されていない。だから、別にいたくない。だから「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と平然と言える。それでいいのか? それでいいのか?


 

アドラーの罠を見抜けるやつがいないのだ

 アドラーの罠を見抜けるやつがいないのだ。みんな、罠にかかっている。これは、回収されない世界で、きれいごとを言っているのとおなじだ。回収されないことを前提にして、人にいやなことおしつけて、平然としていられる。これは、人間としてあってはらない態度だ。

しかし、ワクチン信者からワクチン反対者を見たように、すべてが、正反対になってしまうのである。

善が悪に見え、悪が善に見えるのである。アドラーの罠にかかると、悪が善に見えるのである。善が悪に見えるのである。アドラー自体はたいしたことがないやつだから、意図してやっていることではない。しかし、アドラー自身が、善が悪に見え、悪が善に見える病気にかかっているようなものだから、そういう人間から見た社会について、うまく語っているのである。ほんとうは、アドラーが善だと言っているものが悪、アドラーが悪だと言っているものが善だ。 

たとえばの話だけど、子供たちが固定され、虐待され、首の後ろに針を刺されているとする。そういうことをしている場所にAさんがいるとする。Aさんが「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と言ったら、どう思うか?

ひどい話だとは思わないか?

そりゃ、子どもたちが刺されているだけで、その人……見ている人は刺されていない。だから、別にいたくない。だから「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」と平然と言える。それでいいのか? それでいいのか?

アドラーが言っていることは、こういうことなんだぞ。 

固定され、虐待され、首の後ろに針を刺された経験がある子供が大人になれば、その大人に、「過去なんて関係がない」と言う。

そういうことがない世界で、「くるしいという現実はくるしいと思っている人が作り出している」「過去なんて関係がない」と言うことは、理解できるけど、実際の世界では、そういうことがいくらでもある。実際の世界は、そういうことに出くわしてしまう人がいる世界なのである。そして、アドラーが言っていることを信じると、そういうことに出くわした人間に、冷淡になるのである。無関心になるのである。アドラーを信じてまうと、そういうことに出くわした人間が、不平不満を言っている、悪い人間に見えてしまうのである。逆でしょ。

だから、回収しなければならないのである。過去のことだろうが、なんだろうが、やられたことに配慮がされなければならないのである。できれば、そういうことが起こらない世界を目指すべきなのである。けど、そういうことがまったく起こらない世界というのは、ない。だから、即座に、回収されて、配慮がなされなければならないのである。

きれいごとを言うのであれば、きれいな社会になってなければならないのである。それを……。きたない社会のなかで、きれいごとを言う。そういうことを言うやつが、実際にくるしい目にあったやつを、さらに苦しめる。これがこの世の姿だ。アドラーを信じている人は、そういうことに貢献する。いっけん、正しそうなことを言っているけど、まちがっている。

2022年6月3日金曜日

頭にクセがある家族と一緒に暮らしたことがない人は、それがどういうことだかわからない。空想でものを言うなぁ!

うしろに後退している、あるいは、うしろにすすんでいるということを考えなければならないのである。日常のトラブルで、かならず、うしろにすすんでいるのである。それは、不可避なことなのである。きちがい的な家族と一緒に暮らしていて、日常的なトラブルが生じないということはない。きちがいは、きちがい的な理由で怒り狂う。自分」が怒り狂われた場合、きちがいが自分に怒り狂ってきたという現実認識が生まれる。これは、「きちがい的な理由で怒るのは、きちがいである親の内面の問題なので、自分には関係がない」と思って、ぶっちぎることができないことだ。これを、「できる」と思っている紳士的な人たちは、きちがいの親と一緒にすむという経験がなかったか、きちがいの親が作り出す状態がわかってないだけだ。こんなの、強がり。「なぐられたあとに、自分はなぐられたわけじゃない」と思うことに似ている。「なぐられたあとに、なぐってきたほうの心理的な問題だ」と思っても、なぐられたので痛いという事実が消えない。事実がもたらす実感が消えない。つよがって、現実認識を書き換えようとしてもむだだ。こいつらは、むりなことを要求している。どうして、当然のことととして、むりなことを要求できるかというと、むりなことだとは思ってないからだ。こいつらは、自分の地位が確立したあと、自分が優位な立場にたっているとき、きちがいが自分に襲い掛かってきたという状態しか経験してない。これはぜんぜんちがうことなのである。まあ、「きちがいが自分に襲い掛かってきたという状態しか経験してない」と書いたけど、これは、比喩だ。別に、ほんとうに、きちがいが自分に襲い掛かってなくてもよいのである。「きちがいが侮辱してきた」ということについても、成り立つ。自分の地位が確立され、相手の地位が、まさにきちがい的なものであれば、公的には、自分が言っていることが正しいということが、ほかの人たちにわかるので、「きちがいが自分を侮辱してきたとしても、それは、きちがいの内面の問題で自分には関係がない」と言うことができる。この場合は、つよがりではない。しかし、それは、ほかの人たちにも、「状態がわかっている」という前提の上で成り立つ話だ。自分の社会的地位が高く、相手の社会的な地位が低いという前提が成り立っていなければならない。社会的な地位が高いだけではなく、実際に、わりとカネをもっているような状態でなければならないのである。まあ、社会的な地位とカネはわりと相関関係がある。これ、ほんとうに、生まれの格差・親・上、生まれの格差・親・中であるような人が、きちがい的な親にたたられずにすごしてきて、社会的な地位をえることができたので、そういうきれいごとを言えるだけだ。これが、生まれの格差や地合いが黒であることを無視して、流通してしまう。生まれの格差や地合いが黒であることを無視できるのは、その人が、めぐまれた状態で暮らしてきたからだ。今現在、社会的な地位が高いからだ。他人がどういう苦労をしてきたのか、わからないから、言える言葉だ。ようするに、経験がないから、経験がないという意味で「わからない」だけだ。わからないから、言える言葉だ。

 

頭にクセがある家族と一緒に暮らしたことがない人は、それがどういうことだかわからない。空想でものを言うなぁ!

2022年6月2日木曜日

不幸な出来事が発生したということを「無力化できるのか」というと、無力化できない

たとえば、生まれの格差・親・下の人は、実際にトラブルが多いのである。きちがい的な親が、子どもにしかたたることができないので、力任せにたたるのである。これは、親の頭の問題だと言えば、親の頭の問題なのだけど、親の頭の問題だということで、不幸な出来事が発生したということを「無力化できるのか」というと、無力化できない。

話はちょっとかわるけど、たとえばの話、きちがい的な親が逆上して「かかってくる」ことで生じる不幸の量を一〇〇〇だとする。また、「元気だ元気だ」と言うことであがる、幸福の量を一だとする。 その場合、一日のなかで、一〇回、不幸量一〇〇〇〇の出来事が生じた場合、全体の不幸量は一〇〇〇〇だということになる。そして、一〇〇〇〇の不幸量を背負ったこどもが、「元気だ、元気だ」というと元気になるということを信じて、一〇〇回言ったとする。その場合、全体の不幸量は九九〇〇だ。これ、一〇〇回言うことで、一〇〇倍にはならない。かえって、繰り返し言うことで、めんどうくささを感じる。また、言うことは「元気だ元気だ」じゃなくて、「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」でもいい、あるいは、気分にまったく一致しないけど、「幸福だ、幸福だ」でもいい。ともかく、言いたいことは、実際生じる不幸量のほうが、はるかにでかいので、「幸福だ、幸福だ」と言っても、幸福にならないし、幸福感をえることができないのだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。