2024年9月14日土曜日

遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない

ともかく、きちがいヘビメタ騒音の……連続するきちがい騒音の、足のひっぱり方というのが、尋常じゃないんだよね。そして、それをやられたことがない人は、どれだけ、その当日も、翌日も、きちがい騒音の影響をうけるかわかってない。毎日続いたら、前日のつかれや、だ猿がとれないまま、今日のつかれやだるさがつみかさなってしまう。そして、ほんとうに、意思では、それをどうすることもできない。これ、努力でどうにでもなるようなことを言う人がいるけど、その人は、じゃあ、その人が「この世で」一番きらいな音で、俺とおなじ経験をしたことがあるのかということだ。からだがぶっこわれる。しかも、「よその人は」たいしたこと、ないと思っている。そんなに影響が出るはずがないと思っている。ここの乖離がひどいんだよな。普通なら、問題がない睡眠が、ものすごく、問題のある睡眠になる。これが、でかい。ともかく、あびせられると、不可避的に、脳みそがダメになってしまうのである。どうしても、眠れなくなってしまうのである。これは、深刻な問題で、不可避的な問題なのである。けど、ほかの人は、不可避的な問題だと思ってないのである。自分なら大丈夫だと思っているのである。想像で、ものを言っている。そして、言霊主義者なら「眠れると言えば眠れる」と言うわけだし、思霊主義者なら「眠れると思えば眠れる」と言うわけだ。そして、努力主義者・根性主義者なら、どんな状態だって、努力ができる」と言うわけだ。けど、それ、おなじようにやられている人たちが言っていることじゃないからね。その人たちは、ぼくと同等の騒音を経験してない。「受け止め方の問題だ」という人だって、経験してない。「つらいと思うからつらいんだ」と言う人だって、経験してない。俺をダメ人間のように言い、さぼっているように言い、あまえているように言う人間だって、ほんとうは、ぼくと同等の騒音を、おなじ時期に経験してない。おなじ時期というのは、人生の同じ時期ということだ。これだって、年数の長さとは別に、「ある種」の条件をうみだす。そりゃ、親と一緒すんでいるときに、家族にやられるわけだから、自分だけ引っ越して問題を解決することなんてできない。普通の家族なら、うちで起こったことは、起こらないのだ。だかし、言霊主義者、思霊主義者、努力主義者、根性主義者、受け止め方主義者、だって、実際には、ぼくとおなじ期間の長さ、おなじ人生の時季に、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を経験しているわけではない。きちがい家族がいる人であって、なおかつ、そのきちがい家族が、きちがい兄貴とおなじような脳みそのクセをもっていて、なおかつ、きちがい兄貴のように、自分が思った音で、音を鳴らすということに、きちがい的にこだわっている家族がいる家じゃないと、うちのきちがい家族(兄貴)による騒音と、同等の騒音を経験することができない。経験するはずがない。だから、経験がないという意味で、まったくひとごとなんたけど、「自分なら、こうする」「自分ならこうできるはずだ」という前提でものを言ってくる。ものを言ってくると書いたけど、「無理なことを」言ってくるということだ。ともかく、きちがい兄貴のようにヘビメタを鳴らす人はそんなにはいないのだけど、みんな、騒音体験はあるので、それぞれの騒音体験をもとにして、俺に無理なことを言ってくる。空想的な無理なこと……。妄想的な無理なこと、なのだ。けど、言っている本人は、妄想的な無理なことだとは思ってないのである。こういう構えがある以上、トラブルがしょうじやすい。相手にこういう構えがあり、ぼくのほうに、言い切れないいろいろな思いがあるのだから、両者は、同意しない。かならず、ぼくが、言っていることを、ぼくが通そうとすれば、言い争いになる。その場合、ぼくのほうが、立場が弱いのである。ぼくは、きちがい兄貴に、やられているので、数々の問題をかかえてしまっている。相手は、数々の問題をかかえていない。きちがい兄貴がもたらす、騒音で、眠れなくなり、遅刻をするという場合についてだけ考えてみても、遅刻をするのは、ぼくなので、立場が弱いのである。相手の人が、遅刻をしないのは、きちがい兄貴相当の、きちがい家族がいないからなのである。別に、相手のほうがすぐれているわけではない。ところが、ぼくの立場が、きちがいヘビメタ騒音ですでに弱くなっているので、相手が、強く出てくるのである。たとえば、言霊主義者は、言霊理論を信じているのである。こんなのは、ここでずっと書いてきたように、妄想だ。言霊理論というのは、理論的にまちがっていることなのである。けど、こど玉主義者がそれを認めることはない。「単純なことが正しい」「単純だから正しい」「言ったことが、現実化する」「これが正しい」と言って、ゆずらない。そういうことを言う言霊主義者は、きちがいヘビメタ騒音にたたられてないときの、ぼくのように、きちがいヘビメタにたたられているぼくよりも、有利な立場にいるのである。まあ、ほんとうは、「立場にたっている」と言いたいところだけど、二重表現の疑いがあるので、いちおう、さける。表現の問題は、横に置いておくとして、ともかく、きちがいヘビメタ騒音に、実際にやられてない相手のほうが、優位なのである。優越した立場にいるのである。事実、自分が遅刻しないのだから、遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない。自分は、立派で、相手は、立派じゃないと思っているのかもしれない。自分というのは、この場合、言霊主義者で、相手というのは、ぼくのことだ。そうなると、立場的にすぐれているので、相手の言っていることをきかなくてもいいという態度になるやつが、多数いる。この世にはそういうやつが多数いる。きちがい兄貴が知らないところで、きちがい兄貴のやったことについて、きちがい兄貴にやられてないやつと、ぼくとのあいだに、トラブルがしょうじるのである。意見の相違がしょうじるのである。はっきり言えば、言い争いになるのである。もう、決まっている。もちろん、ぼくがゆずるということもできる。けど、ゆずると、相手は、もっと自分が、優位にたったような感じになるのだ。感じがする。ゆずると、やばいことになるのである。ゆずらなくても、やばいことになっている。

こういうことが、多数の他者と発生して、いいわけがない。いいわけがない。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音で自動的に(人間というのは)遅刻するようになる。けど、ほかの人には、きちがい兄貴相当のきちがい家族がいないので、それがわからない。だから、わからない人が、無理難題をふっかけてくるのである。できるのだから、無理難題ではないと思うかもしれないけど、それは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音下で、できることではなくて、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音が鳴ってないときにできることなのだ。ここがちがう。けど、こういうちがいを、よその人は、(自分がさらされたことがないので)自動的に無視してしまうのである。

これがつらいんだよ。

「きちがい兄貴が、きちがい感覚で、ものすごい音で鳴らしてなかったら、こんとなことになってない」と思うことが、多すぎる。ほんとうにいろいろなバージョンがある。これ、ほんとうに、完全に誤解される。相手は、理解しているようで理解してない。ぜんぜんちがうことを思い浮かべて、自分の正解を言っている。ちがうんだよ。そして、いろいろな立場というのがあるのだけど、きちがい騒音にやられた人間の立場というのは、ほんとうに、弱い立場なのである。普通の人が経験してない、きちがい的な騒音をずっと経験してきたということが、弱い立場をつくりだしてしまう。そりゃそうだろ。遅刻だって、宿題だって、偏差値レベルだって、体力レベルだって、弱い立場に追い込まれてしまう。そして、浪人すれば、浪人という弱い立場がしょうじる。そして、職歴がないとか、アルバイト歴しかないということになれば、弱い立場がしょうじる。「あのひと、なにやってんの」という話だ。そういうふうに見えてしまう。けど、きちがいヘビメタが、あの至近距離で、あの時間の長さ、毎日、小学六年生のときから鳴っていると、どれだけがんばっても、だめになっていくのだ。弱い立場に追い込まれる。 

これ、必然なんだけど、ほかの人には、必然である部分……必然性が見えないんだよね。「ただ、うるさかったんだろ」「そんなの、(お兄さんに)(やめてと)言えばいいだろ」というレベルの理解しかしない。ヘビメタが鳴り終わったあと、病気で高熱が出て、だるような状態になってしまうのだ。そして、ほとんど眠れずに朝になってしまう。そして、がんばってがんばって、普通の状態で動いているように見えるように動く。だから、ほんとうは、その時点でがんばっている。発狂的なレベルでがんばっている。ストレス対抗でがんばっている。けど、ほかの人は、それがわからない。どうしてかというと、きちがい兄貴のような家族がいないからだ。普通の家族は、そんなことしない。きちがい兄貴の騒音のレベルで、一日に一〇分間だけ、鳴らすということもしない。きちがい兄貴のように、無意識のレベルで感覚器を書き換えて、きちがい的な意地ならし続ける家族なんて、いない。普通人にはそんな家族がない。だから、実際に、自分のきらいな音を、爆音で、家族に鳴らされ続ける毎日を経験したことがないのだ。だって、いないわけだから。それで、鳴っているときだけ、うるさい状態について考えてしまう。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、どれだけつらいか、みんなわかってない。ヘビメタ騒音を、前日、数時間から十数時間、鳴らされたときの、次の日の体調がわかってない。どれだけはりつめた状態で、がんばって、普通に動こうとしているのか、ほかの人にはわからない。けど、たとえば、宿題を忘れてきたとか、遅刻をしたということはほかの人にも見える。だから、さぼっているように見えるのだ。これがつらいんだよ。

あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う

 ほんとうに、俺の一生はなんだったんだ? ほんとうに、きちがい兄貴は、こだわってなかった。こだわりきってやってたけど、毎日、まったく気にしてないんだよね。どれだけ言われても、非常識なことをやっているということがわからない。やっていいことをやっているという態度だ。自分だって、ほかの音で一分間、聞かされたら、めちゃくちゃに頭にくるような大音響なのに、大音響で鳴らしたければ、それが、普通の音になってしまう。普通の音で鳴らしているのだから問題がないと思って、まったく気にしない。そういう態度だった。でっ、こっちは、こまりまくるんだよ。実際に毎日やられたことがない人にはわからないかもしれないけど、すべてにつながってしまう。そして、たとえば、言霊主義者は「できると言えばできる」と言い、受け止め方主義者は「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」ということを言う。しかし、しかし、しかし、そんなことは、できない。きちがい兄貴がモラルをまもらずに、普通の人が、「やるべきではないと考えているからやらないこと」を、やりきる。言霊主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。受け止め方主義者だって、実際に自分がやられたら、ずっともだえくるんで腹をたてるのだ。自分たちが言っていることなんて、しないし、できない。けど、自分が実際に経験してないから、子どもっぽい性格な人は、「俺なら平気だ」「わたしなら平気だ」と考えて、そういうことを言う。これ、ただ単に、子どもっぽいから、わかってないだけなんだよ。あるいは、ただ単に、経験がないからわからないだけなんだよ。あたかも、自分なら、平気だというノリで、えらそうなことを言う。えらそうなことを言ってくる。実際の、ぼくの状態というのは、そういう状態ではないのである。ぼく(エイリ)の話を聴いて、「この人(エイリ)は、このくらいの騒音にさらされて、うるさいと思っているんだな」と彼らが、思ったような状態ではないのである。けど、どれだけ言ったって、そりゃ、わからない。実際にやられてないから、わからない。どれだけ、あの時間帯の、あの音のでかさの、あの至近距離の騒音が、からだ全体に影響をあたえるかわかってない。

これを言うと、また問題があるのだけど、率直に言って、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくができないと思っているからできないと言って、ぼくのことを悪く言うのだ? どうして、どうして、悪いことをしたきちがい兄貴ではなくて、ぼくが受け止め方をかえればいいと言うのか?

2024年9月13日金曜日

やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。

 家族が、俺の気持ちを「つぶす」ようなことばかりするんだよ。しかも、ほかのうちで、ほかの人が絶対にやらないことなんだよ。けど、きちがいだから、それがわからない。ほかの人が、「うちなかで」一日に一分間だってやられないことを、ずっとずっとやっている。「やったってやってない」ということが成り立って、やってないつもりなのである。本人のなかでは、ずっとやっていいことなんだよ。だから、日常的にずっとやっていいことを、ずっとやる。けど、これが問題で、本人が、やられる立場だったら、一秒で、発狂するようなことなんだよ。そして、本人がやられる立場だったら、一秒で発狂するようなことだということを、命がけで、無視する。きちがい兄貴ときちがい親父の組み合わせで説明すると、ハンダゴテ事件なんだけど、きちがい親父の態度や、きちがい親父があたりまえだと思っていることが、きちがい兄貴にとって、あたりまえじゃないわけ。コードということを考えると、いろいろな「やっちゃいけないコード」が入っている。けど、きちがい的な意地でやるほうは、まったくわかってないんだよ。やられたほうは、「やっちゃいけないコードが入っている」ということがわかる。だから、頭にくる。けど、それ、きちがいがきちがい感覚で勝ってしまうのである。これ、ほんとうに、その場で殺さなければ、とめることができない。きちがいなんだよ。そりゃ、「やったってやってない」が「常に」成り立っているようなきちがいだから、きちがいだ。これ、ほんとう、殺すしかないのである。やられたほうが、その場で、殺してひっくり返すしかないのである。やったほうは、きちがい的な意地でやったのに、やってないつもりなんだよ。ともかく、一秒でもやめさせるとなると、殺さなければならないのである。つねに、そういうことを、相手に突き付けている。きちがい行為を夢中になってやるから、そうなる。けど、本人は、それがあたりまえだと思っていて、感覚器を書き換えて、きたないことをするから、まったく気がついていないのだ。どれだけこまるか、よその人にはわからない。

ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ

 ヘビメタ騒音で、常に追いつめられている状態だ。楽しいわけがない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、最初の日、一〇分間で、やめてくれたなら、なにも問題じゃなかった。きちがいが、きちがい感覚でやりまくるから、俺が、「言い訳している」とか「できると言えばできる」とかと言われることになる。そういうことを言うやつらには、きちがい兄貴がいない。もう、でかいちがいだ。それなのに、こいつらは「俺だって、つらいことがあった」「俺だって、朝がつらい」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言う。ぜんぜんちがうと言っている多わる。けど、こいつらは、認めない。ある種、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじような壁を感じるね。

ほんとうに、宿題も勉強もできなくなるのに、「できないと言うから、できないんだ」と言われるようになる。「できないと言うから」ではなくて、きちがいヘビメタが鳴っているから」なんだよ。 ほんとうに、こいつらも、頭がわるいなぁ!!

勉強は、ほんとうに、できなくなる。勉強する時間がない。ヘビメタ騒音が鳴っているときだけではなくて、ヘビメタ騒音が鳴っているときも、勉強することができなくなる。ほんとうに、異常な音で鳴っている。非常識な音で鳴っている。あの音のなかで、勉強することはむりなんだよ。頭が、ヘビメタで破壊されている状態で、なにも考えられない。そして、七時間なり、一三時間、やられたあとは、鳴っていないにもかかわらず、勉強がまったくできない状態になる。風邪をひいて、くるしい状態鳴ったときよりも、くるしい。風邪をひいてだるい状態になったときよりも、だるい。しんどい。めちゃくちゃにしんどい。そんな日が、毎日何年間も続いていいわけがないだろ。毎日勉強することができない状態で、学生時代の日々がずっと、ずっと続いていいわけがないだろ。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじだから、自分がずっと鳴らしたいなら、ずっと鳴らせなくなるようなことは、発狂して、頑固に認めない。しかも、「やっている」のに、「やってないつもり」なんだよ。言われたときだけ、発狂して、認めないという態度になって、そのあとは、ずっと「言われなかった」状態で、まったく気にしないで、鳴らし続ける。きちがいだからできることなんだぞ。普通の人だったら、どれだけそうしようと思ってもできない。普通の人が、やった場合、自分が、芝居でやったということを、知っている。けど、きちがいだから、ほんとうにやってないつもりなのである。「おまえ、やってるだろ」と言ったって、「やめろ」と言われたときと同じように、真っ赤な顔で、発狂しておしまいだ。本人が発狂したら、本人のなかでは、終わっているのである。もちろん、相手の言うとおりに、ちゃんと鳴らさないで、一分間しずかにしてやるなんてことはない。ちゃんと鳴らさないで、一〇分間しずかにしてやるということなんてない。一〇分間ですら、やめた時間をつくらずに、鳴らし続ける。けど、きちがいだから、「やめろ」と言われたあと、鳴らし続けたという気持がない。

*     *     *

「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」「勉強したくないから、騒音がうるさいと言っているだけなんだ」と言われる。そんなこと、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で鳴らし続けなかったら、言われなくてもすむことなんだぞ。

常に追い込まれているということが、きちがい家族がおらず、きちがい家族に、きちがい騒音を鳴らされ続けたことがない人はわからない。想像で「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。ほんとうに腹がたつ。 

*     *     *

 なんかほんとうに、しんどくて?不動産屋に行くというようなことを思い浮かべただけで、もう、だめなんだよ。無理をして、無理やり、からだを動かしていたことを思い出す。やらなければならないことは、やらなければならない状態なのだけど、きちがいヘビメタ騒音で、ダメなんだよ。もちろん、きちがい親父のネズミ騒動はでかい。けど、それも、きちがいヘビメタ騒音の上に成り立っているんだよね。

きちがいヘビメタ騒音で、ネズミが出る状態より、ずっとはりつめた状態で暮らしているんだよ。毎日そんな状態でいいわけがない。ヘビメタをあびると、普通なら、普通に眠れる時間に、まったく眠れなくなる。あんなものを何時間もあびて、睡眠回路がくるわないわけがないだろ。何時間も何時間も、あのきちがいの音を至近距離で浴びたので、気がたって、眠れない状態になっているんだよ。「眠れると言えば眠れる」……。そんなことはない。言っておくけど、めちゃくちゃに眠たい状態だ。けど、眠たい状態でからだが動かないのだけど、それでも、眠れないのである。ヘビメタ騒音というのはそういう騒音なんだよ。あんなの、どかすか、ずっと、聞かされ続けて、毎日眠っていた時間になったら、眠れるかというと、眠れない。けど、これが、ようするに、ぼくの側の、問題だと思われてしまうのだ。きちがい兄貴がいない人たちにとっては、そういう経験がないわけだから、普通の騒音を思い浮かべて、鳴り終わったら眠れるはずだと思ってしまう。 

*     *     *

行きたくないとか、動きたくないとかというのは、ヘビメタ騒音の影響なんだよね。だから、俺とおなじ期間の長さ、きちがいヘビメタ騒音が続いた人じゃないとわからない。毎日、寝不足で、起きて、動いていた。どれだけ、つらい状態か、みんな、わかってない。俺だって騒音ぐらいあった」という人だってわかってない。「俺だって朝はつらい」という人だってわかってない。その人たちは、ヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない。俺にとってのヘビメタ騒音。その人たちは、その人たちにとって、この世で一番きらいな騒音が鳴っていると考えてくれる。そりゃ、ヘビメタが好きな人と、俺とでは、ヘビメタ騒音に対する感じ方がちがうだろ。ぜーんぜん、ちがう。きちがい家族に、長期間、毎日、やられてない人が、「俺だって」「わたしだって」と言うな。

きちがい兄貴のきちがい的な騒音がはじまるまえとは、「朝のつらさ」がちがうんだよ。「眠れない状態」がちがうんだよ。ぜんぜん、ちがうんだよ。ずっと毎日つみかさなったときの、朝のつらさと、眠れな状態は、きちがい兄貴がヘビメタ騒音をやるまえの、朝つのらさや眠れない状態とはちがうんだよ。きちがい兄貴がヘビメタ騒音やるまえというのは、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音鳴らしてなかった期間のことだ。その期間中だって、騒音はあったわけ。つらい朝はあったわけ。つかれたと思う状態はあったわけ。けど、それらと、ヘビメタ騒音以降のそれらは、ちがう。ちがうんだよ。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音経験がない人は、それがわからない。

*     *     *

きちがいヘビメタが鳴っていると、ぼくの人間関係がばらばらになっていく。友人関係が、全部、トラブルとともに、消える。どうしてもどうしても、いやな出来事が発生する。これだって、「誰だっていやなことはある」と言える。きちがい親父にやられていたぼくですら、きちがいヘビメタ騒音前の『いやな出来事』はある。きちがい親父にやられていた分、ほかの人よりも『いやな出来事』の回数が多いのである。けど、そういうこととは、くらべものにならないほど、ヘビメタ騒音というのは影響をあたえる。ほんとうに、毎日、数時間か、十数時間続くわけで、くるしい。

どれだけ、ヘビメタ騒音のなかで、がんばって、暮らしても、どうしてもどうしても、影響をうけるのである。日中の友達とのやり取りにも影響が出る。友だちと高校入試のまえに願書をもらいに行ったときの気分や身体状態も影響をうける。どれだけ、気にしないようにしてがんばっても、どれだけ、ほかの人にさとられないように頑張ってみても、やっぱり、影響があるんだよね。けど、実際に、きちがい家族による、長期間のきちがい騒音を毎日経験した人じゃないと、どれだけがんばっても、影響が出る……人間関係に影響が出るということが、わからない。あるいは、ほかの人との出来事に影響がでるということがわからない。

「できると言えばできるとか「どれだ騒音が鳴ってたって勉強はできる」とか「眠れると言えば眠れる」とか「みんな、騒音ぐらいある」とか「みんな、つらい思いをして生きている」とかと言ってしまう人が、理解できることではないのだ。この人たちの理解というのは、この人たちの経験の範囲での、理解だ。けど、きちがい家族によるきちがい行為は、その人たちの経験の範囲外のことなのである。だから、範囲外の影響が出るのだけど、範囲外の影響は、この人たちにはまったくわからないから、自分の範囲内の影響と(おなじような影響だと)勘違いしてしまう。

*     *     *

ヘビメタ騒音の感覚が、ぬけない。これ、ヘビメタ騒音の朝だ。これ、ヘビメタ騒音の朝とおなじ朝だ。

2024年9月9日月曜日

おカネというのは、虐待の道具……この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。

 いま、近所で工事をしているけど、つかれかたがちがう。ヘビメタのつかれかたといったら、『普通の騒音』のつかれかたとはちがう。ぜーんぜん、ちがう。あの、つみかさね。あの堆積。あの日常。あの毎日。

わかるわけがない。経験してない人にわかるわけがない。きちがいヘビメタ相応がはじまるまえまで、俺だって、『普通の騒音』を経験してきたんだよ。それこそ、普通に経験してきた。家のまんまえが「でかい」幼稚園なので、普通の人よりもずっと、『普通の騒音』を経験してきた。けど、ヘビメタ騒音は、ぼくにとっては、普通の騒音じゃない。ぜんぜんちがう、異次元の騒音だ。あれをずっと、すぐ横でやられて……いいわけがない。ヘビメタ騒音がない状態とおなじ状態で暮らせるわけがない。普通の人がぼくにもとめているのは、ヘビメタ騒音がない状態で求めているものなんだよ。精神世界の人が、「できると言えばできる」と言ったって、できないんだよ。あの、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が鳴ってたら、できない。壁が透明なら、あのでかい音を出している、あのでかいスピーカーがすぐそこに見える状態なんだぞ。手が届くようなところにあるものなんだぞ。あんなの、普通のうちの、普通の部屋に、置くものじゃないんだよ。頭がおかしいから、こだわりきって、ああいうとてつもなく高価なスピーカーを買う。鬼になって、アルバイトをして買う。アルバイトをして、兄貴が兄貴のカネで買ったので、きちがい親父は、もう、制御できない。きちがい親父が、子どもにやってきたことというのは……。ほかの人にはわからないだろうけど、きちがい親父のカネの制御……カネによる支配というのは、尋常じゃない。これ、きちがいの家に住んだ人じゃないとわからないのだ。きちがい親父は、カネに対しても、きちがいなんだよ。むしろ、カネに対するきちがいの度合いが、ほかのことに対するきちがいの度合いよりも、ずっとずっとずっと、強い。カネは、一円でも、ぶつかりあい。カネのことで、子どもを虐待しまくる。これ、カネというのは……一種の……虐待の「道具」なんだよ。これも、普通の人には、まったくわからない。きちがい親父とおなじような感覚をもっているきちがいにやられた人しかわからない。もちろん、親としてね……。きちがい親父とおなじような感覚をもった親にやられた人しかわからない。どれだけの意地か、わからない。ほんとう、「子どもにカヌー体験をさせてやろう」なんて人の世界じゃない。この人たちは、この人たちで、それがあたりまえだと思っているから、特殊な鈍感さを発揮する。もう、まったくわかってない。この人たちが、きちがい親父の「原理」を理解するなんてことはありえないんだよ。この人たちにとっては、きちがい親父のカネに対する行動や、きちがい親父のカネに対する感覚は、未知の世界なんだよ。まったく理解してない。理解していないと、俺が言っていることがおかしいように、(この人たちには)思えるのだ。これも、縮図なんだよね。これ、縮図なんだわぁ。えーっと、これは、言ってしまってはまずいのだけど、自らが精神病の人たちがかかえている悩みとはちがうんだよ。カヌー体験ぐらいさせてやろうと言っているような親?と、自らが精神病である人たちというのは、『親父の行為』の理解について、対極にある人たちなんだよな。ある意味……。こんなの、わからないと思うけど。けっきょく、うちのタイプの親父にやられた人の苦悩というのは、カヌー体験とか言っている人にはわからないし、自らが精神病である人にもわからない苦悩んだよな。どんだけの意地でぶちあたってくるか、まるでわかってない。きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじなんだよ。これも、言ったってわからないと思うけど……。言っておく。 きちがい親父の「カネに対する態度」というのが、きちがい兄貴の「ヘビメタに対する態度」とおなじ。

*     *     *


2024年9月8日日曜日

「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」

 ほんとうにヘビメタ騒音で「できない」状態になるのである。できなくなるのである。ヘビメタ騒音「で」そうなる。ほかの理由じゃない。ヘビメタ騒音でそうなる。こんな、ヘビメタ騒音なんて、きちがいにあきが、きちがい兄貴だから鳴っているものだ。ほかの人は、きちがい兄貴じゃないから、「こんな音で鳴らしたら迷惑だな」と思って、そういう音で鳴らさないのである。けど、きちがいだから、「こんなのたいした音じゃない」と思って鳴らすんだよ。じゃあ、ほんとうに「たいした音じゃない」のかというと。そうじゃない。きちがい兄貴にしたって、別の音が、鳴ってたら、「うっさい!!!」と思う音のでかさなんだよ。別の音だったら、一分で……一分間で、かんかんになっている。そういう音だ。きちがい兄貴にしたって、自分が鳴らしたい音ではない音が、鳴ってたら怒り狂うような音量なのである。自分が鳴らしたいから、「鳴らしていい音」になっている。

だから、ほかのうちでは鳴ってないのだ。だから、ほかのうちの人は、毎日毎日、長時間にわたって、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にさらされるという機会がない。これ、ほんとうに、ちがうのである。ちがう。工事だってうるさいけど、ちがうのである。あの至近距離の、毎日の騒音は、ちがうのである。ちがう効果がある。鳴っている時間帯だって、鳴っていた期間の長さだって、ちがうのである。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、俺と同等の騒音を経験したということになってしまうのである。おまえの家族にきちがいがいたわけじゃないのに、きちがい家族が鳴らす騒音を経験するわけがないだろ。きちがい家族が鳴らす騒音と同等の騒音を生活のなかで、毎日経験するなんてことはないんだよ。普通の人は、そんなことはしないからだ。工事とはちがうんだよ。効果がちがうんだよ。きちがいのつごうで鳴ってしまうわけだし、きちがいは、「このくらいの音で鳴らしていい」と思って、鳴らしたいときは、一秒もゆずらずに鳴らすわけだから、調節ができない。これ、絶対の意地で、普通の工事時間とはちがう時間に、ずっと鳴らすので、そもそも、睡眠にあたえる効果がちがってくるのである。あるいは、休みの日はずっと鳴らしているのだけど、平日のあとの休みの日なんだよ。これ、例外なく、こっちがどれだけこまっていても、つかれていても、鳴らすということだ。きちがいだから、まったくなにも気にしないで鳴らすのである。自分のなかで、鳴らしていい音ということになっていたら、いつ鳴らしたっていい音ということにもなっているので、鳴らしたかったら、ずっと鳴らすのである。途中で、がまんしてくれるということがないのである。そうなると、普段のヘビメタ騒音でつかれはてた状態で、新しい騒音に直面するということになる。一切合切の融通がきかない。平日のつかれをとるというわけにはいかない。平日の『勉強のおくれ』を、休日に取り戻すというわけにはいかない。全部が、きちがい基準。全部が、ほんとうにやってないつもり。よそのうちで、よそのうちの人が、絶対にやらないことを、全部の時間、きちがい感覚で鳴らしているのである。だから、よその人は、そういう家族がいないわけだから、経験したことがない。きちがい家族が出す騒音を経験したことがない。きちがい家族が出す騒音がずっとずっとずっと、続いた場合のことがわからない。経験的にわからない。けど、「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、きちがい家族が出す騒音を経験したことになってしまうのである。こんなのはない。そして、それが、騒音だけではなくて、騒音がつくりだすつかれにも、成り立つ。「だれだって、つかれている」「俺だって、つかれている」と言えば、きちがい家族の騒音がずっと鳴っている生活をしているのとおなじぐらい、つかれていることになってしまうのである。

2024年9月7日土曜日

全部、いやだ。

 きちがい親父からしょうじたことが、全部いやだ。きちがい兄貴からしょうじたことが全部いやだ。

全部、いやだ。全部、ぶち殺したいほど、腹がたつ。全部、おなじ。 

*     *     *

きちがい親父は、怒り狂ってはねのければ、それで、まったく関係がない人になってしまう。きちがい兄貴は、怒り狂ってはねのければ、それでまったく関係がない人になってしまう。どれだけ、こっちがこまるか。こんなの、怒り狂って殺さなかったら、ずっとやれるだけになってしまうだろ。あいつらは、きちがい的な意地でやるのに、きちがい的な意地でやったことは、全部やってないことになっている。

*     *     *

それで、きちがい親父がネズミを入れたことで、発生したことが、またいやなんだよ。いまだって、腕をダニに刺されている。きちがい親父がやったことを、きちがい親父が死んだ後に、あるいは、きちがい親父が入院しているときに、対処しなければならなくなるのだけど、それがまた、きちがい親父から派生したことというのは、いろいろな問題がしょうじることになっているんだよ。俺がやらなくていいと言ったことを、やっちゃうようなやつが工事をすることになる。これ、家がふるすぎて、ふるい家のことがわかっている人じゃないとだめなのだ。考え方が、むかしの人だから?一度関係ができたら、自分が好きなようにやってあげるのがいいと思っているところがある。やるなと言ったことは、やらなくていいのに、やるなと言ったことを、やってしまう。信用が置けないので、ほかの人に頼もうかなと思って見つもりにきてもらったら、見積もりにきた人が、蚊に刺されたと文句を言う。これだって、俺がずっと、親父に言っていたのに、もっとひどい状態だったのだ。ダニのことで文句を言われることは想定していたけど、竹は、一度きれいに切ったので、竹のことで文句を言われると思ってなかった。丈は、背丈が三〇センチぐらいになっていた。切るまえは三メートルあった。「これで切ったというのか?」と怒って言いやがる。「切ったんだよ」と俺がこたえた。ともかく、イレギュラーなことばかりで、ほんとうにいやになる。門だって、ほんとうはなおしたいけど、門をなおすとなると、ガスボンベが通らなくなるのだ。全部がつむようにできているんだよ。この、ネズミの侵入というのは、ほんとうに親父らしいことなんだよな。普通の人は、二三(にじゅうさん)時間、なにもかけないで、魚の切り身を出しっぱなしにしない。これも、どれだけ、言っても、きかないのだ。やめない。毎日、魚の切り身を二三時間ぐらい、テーブルの上に置いておくということにこだわって、そうする。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、これとまったくおなじだ。宿題をしなかったことで俺が文句を言われる。みんな、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしているかわからないから、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。「できないのだ」と言ったって、相手は認めない。その相手だって、詩文がきらいな音をあの至近距離で、あの音の出かされで鳴らされたら、宿題なんてできないのに、それがわかってない。しかも、鳴っているときだけではなくて、鳴り終わったあとも、できないのだ。けど、実際にやられたないやつは、これもわからない。「鳴り終わったらできるだろ」と思ってしまう。これも、午後一一時一〇分までやられたとき、どういう状態になっているか、自分のからだでわかってないから、好き勝手なことを、想像で言ってくることになる。

*     *     *

きちがい兄貴が、きちがい行為を、きちがい行為だとわからずに、やりきると、俺がほかの人から文句を言われるようになるんだよ! そして、ほかのやつは「人のせいにしている」と言い出す。宿題ができなかったことを、兄のヘビメタ騒音せいにしているというのだ。屈辱。しかも、こういうことを言ったやつが、俺を特別に侮辱しようと思って、わざと言っているのではなくて、ほんとうにそう思って言っているのだ。こういう、バカの壁。未経験者の壁。このバカの壁。こいつらも、認めないという点では、頑固だ。きちがい兄貴とおなじだ。できなくなるのに、できなくなるということを認めない。自分なら、そんな騒音が鳴っていたとしても、宿題ぐらいできると思っている。鳴ってない時間ならできると思っている。できないんだよ。これは、できない。どれだけ、がんばってやろうとしてもできない。何時間もきちがい騒音にさらされて、からだがボロボロになっている。脳みそがボロボロになっている。そして、ほとんど、眠れないまま、次の日の朝になってしまう。そういうことの繰り返しでいいわけがない。 

*     *     *

ともかく、きちがい兄貴の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。他人は、たしかに、きちがい兄貴ではなくて、きちがいヘビメタを鳴らしてない。けど、俺を侮辱している。

ともかく、きちがい親父の行為が「起点」となって……俺と他人との間にトラブルが発生する。波紋のように広がっていく。 

きちがい兄貴の頑固な行為やきちがい親父の頑固な行為が、いろいろな、トラブルを引き起こす。他人とのトラブルの原因になっている行為を、きちがい兄貴ときちがい親父が、きちがい的な意地でやめない。そして、他人は、きちがい兄貴ときちがい親父の「きちがい的な意地」に関して、無頓着なのだ。わかってないからわかってない。他人は、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから、きちがいというものが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をやるのかわかってない。まったくわかってない。「言えばいいでしょ」という意見なのだ。他人は、簡単に考える。言って解決するなら、とっくに解決している。

*     *     *

ちなみに、「できると言えばできる」というようなことを言う人も、まったくわかってない人なんだよ。こいつらの、妄想的な思考というのは、ほんとうに、腹がたつ。 

*     *     *

きちがい親父、きちがい兄貴、きちがい親父の行為とはまったく関係がない人、きちがい兄貴の行為とはまったく関係ない人が、次から次へと、俺をくるしめる。きちがい兄貴が、うちでやることなんて、ほかの人にはわからない。ほかの人はほかの人の基準でものを言う。そして、その基準が、うちのなかでは、妄想なのである。まったく現実的ではない、妄想なのである。うちのなかでは、世間の常識のほうが、妄想なのである。きちがいがどれだけの意地で、きちがい的に矛盾があることをやるか、みんな、わかってない。きちがい的に矛盾があることというのは、きちがい的な意地でやったのに、本人は、まったくやってないつもりでいるということだ。きちがい兄貴や、きちがい親父が、気がついてないのである。こんなの、普通の人が想定して考えられることではない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。やってないことにしてしまう。そして、きちがい的な意地で、頭がおかしいことをやりきる。「やったって、やってない」のだ。そういう、きちがい的なやり方で、自分の欲望を満たそうとする。そういうきちがい的なやり方で、自分がやりたいことをやる。そういうきちがい的なやり方で、「やってはいけないこと」をやり通す。それで、「やったって、やってない」という感覚で生きている。それで、「やったってやってない」という気持ちで生きている。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、常識的に考えれば?……これは世間の人の常識と一致しているのだけど……常識的に考えればやっちゃいけないことなんだ。きちがい親父の、魚を出しっぱなしにする行為だって、くさいわけだから、やっちゃいけないわけなんだよ。くさいということを認めたくない場合は「くさくない!!!くさくない!!!くさくない!!!」と怒り切って、やり通すんだよ。そして、たとえば、自分が入院して、もう、くさい魚を出さなくていい状態になったら、「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」「皿なんて出してない」と命がけで、叫ぶ。おなじなんだよ。否定のしかたがおなじなんだよ。この「皿なんて出してない」というのは、自分が皿を出したということを認めると、まずいから、そういうふうな気持になって、事実を頭のなかで書き換えて、叫んでいるんだよ。わかるかな? くさい魚を出しっぱなしにして、ネズミを入れたということを、認めたくないんだよ。そうなったら、事実をくつがえして、否定する。そのときはそのときで、「皿なんて出してない」という気持でいっぱいなんだよ。皿というのは、もちろん、魚をのせた皿のことだ。

ヘビメタ騒音もまったくおなじなんだよ。きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、「でかくない」と思うんだよ。そうしたら、自分はでかい音で鳴らしているわけではないといういいわけが頭のなかにできるんだよ。そうしたら、きちがい的にでかい音でずっと鳴らしきることができるようになる。きちがい的にでかい音で、ずっと鳴らしたって、きちがい的にでかい音でずっと鳴らさなかったということになってしまうのである。どうしてそうなるかというと、無意識的には、ヘビメタの音が猛烈にでかい音だということを強いっているからだ。ヘビメタの音が迷惑な音だということを知っているからだ。自分が、意識のレベルで、迷惑な音だということを、認めてしまったら、自分が思ったとおりの音で、鳴らせなくなってしまうのである。だから、無意識的なレベルで、聴覚にかかわる認知を書き換えて、「でかい音じゃない」ということにしてしまうのである。そして、一五年間、それで毎日やりきるのである。その一五年間のあいだは、ずっと、きちがい的にでかい音で鳴らしたのである。それは、認めないのである。意識的には、でかい音で鳴らしてないことになっている。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしてないということにしてしまったのである。そういう、感覚のゆがみが常にあるんだよ。そして、そういうやり方で、押しとおしてしまう。そんなの、他人にはわからない。きちがい家族と一緒に暮らしてない人にはわからない。でかい音で鳴らしていればでかい音で鳴らしているということが、わかるはずだということになっている。もしわからないのであれば聴覚に異常があるからわからないのだということになっている。

やりきって、やりきって、きちがい的な意地でやりきって、認めないのである。きちがい的な意地でやりきったということを、きちがい的な意地で認めない。本人が認めなかったら、ほんとうに、本人のなかでは、やってないことになっているのである。

こまるんだよ。こまるんだよ。こういうやり方だとこまるんだよ。こまるんだよ!

2024年9月6日金曜日

そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。

 ヘビメタ騒音の影響というのが、みんな、わかってないんだよな。どれだけ影響をあたえるか、わかってない。こいつらだって、自分がきらいな音でやられれば、わかるのに、やられたことがないからわからない。もちろん、こいつらにしたって、「うるさい」と感じたことはあるんだよ。「騒音体験」はある。じゃあ、おなじレベルの騒音を、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さ聞かされたのかというと、そうじゃないんだよ。けど、「俺だって、騒音ぐらいあった」と言えば、そのひとことで、同質化、均質化、同量化してしまう。だから、だれだけ影響をあたえるか、わかってないやつが、「俺だって、知っている」という前提でものを言ってくることになる。ちがうんだよ。経験がないから、ちがうということがわかってないだけだろ。ほんとうに、学歴も職歴もボロボロになる。学歴や職歴がボロボロになってないやつが「俺だって、騒音ぐらいあった」と言ったって、意味がないんだよ。それは、きちがい兄貴が実際にもたらしたこととは、ちがうことについて語っているということなんだよ。

*     *     *

ヘビメタ騒音が五〇〇〇日、積もったときの、からだの状態なんて、わかるはずがない。「俺だって苦労した」と言っているやつが、ヘビメタ騒音相当の騒音五〇〇〇日分を、経験したことがあるのかというと、ない。ないからない。ないからわからない。

あの経験がないのに、「人間は働くべきだ」なんて言っている。俺だって、騒音ぐらいあった。俺だって苦労したと言う。そういうことを言っているやつだって、実際に経験したら、働けなくなる。起きることができなくなる。一定の時間に起きることができなくなるし、普通の労働時間にたえられなくなる。普通に働くということが、どうしてもできなくなる。普通に働いているのだから、同質、同等の騒音を経験してない。そして、この騒音の「みなもと」が家族なんだよ。これだって、経験してないだろ。家族がやる騒音で、そこまで、おいつめられるという経験がないわけじゃないか。そんなやつが言う、「俺だって苦労した」に、いったい、なんの意味があるのか? 働けるぐらいの苦労なんだろ!! 

*     *     *

実際の「状態」と、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」「人間は働くべきだ」というやつが考えている「状態」というのが、ちがうのである。実際のヘビメタ騒音の状態、そして、実際のヘビメタ騒音がもたらす影響……こういったものと、こいつらが頭のなかで考えているべメタ騒音がもたらす影響がちがうのである。こいつらの経験のなさ、こいつらの思考力のなさ、こいつらの想像力のなさ……。こいつら想像力がじゅうぶんでないために、こいつらは、必然的に俺を見下して、侮辱する。こいつらのほうが、人数が多い。こいつらのほうが、全体のなかでの割合がでかい。九九・九%のやつが、必然的に誤解する中で、生きていくというのは、つらいことだ。こいつら、まったくわかってない。「助言してやったのになんだ」と怒り出す。こいつら、まったくわかってない。

「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」

説明をするのがめんどうだから、はしおるけど「そうですか」と言ったら、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつがいたなぁ。メーリングリストというのがあって、通信制の大学のメーリングリストに登録していたわけなんだけど、俺は、そこで、ヘビメタ騒音のことを書き、基本無職だということを書いておいた。ところが、いろいろあって、ぼくがプログラマーだと勘違いした人が出てきたんだよ。これは、当時「あいから始まるーマ字入力」というサイトをつくっていたのだけど、そのウエブページの機能の一部をジャバスクリプトを使って、書いた。けど、俺はひとこともプロのプログラマーだとは言わなかったんだよ。あれは、ウエブサイトなのだけど、俺のことをプログラマーだと勘違いした人は、ウエブサイトをソフトウエアだと思ったんだよね。あれは、ウエブサイトなのだけど、タイピング練習ソフトに見える……ような気もする。でっ、いちいち、あれは、売り物にする予定だし、一部のプログラムは、たしかに、ぼくが書いたものなのだけど、職業的なプログラマーとして働いたことはないのだ。でっ、そういうことをちょっと説明しようと思ったのだけど、ずっと、何回もヘビメタ騒音にやられて無職だということは、そこに書いたことがあるので、いちいち、無職だということを、書かなかった。でっ、冒頭の「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつと、数人でオフ会をしたんだよ。とりあえず、「せっかく、業界のことを話せると思ったのに、なんだ!!」と怒り狂ったやつのことを、せっかく君と言っておこう。せっかく君は、数種類のミニプログラムがついている雑誌を出版している会社のプログラマーだった。これ、じつは、何冊か持っていた。これ、ちょっと、わからないようにはずして書いているんだけどさぁ。実際には、パッケージ商品なんだよね。まあ、そこらへんはともかくとして、せっかく君が、話したかったような業界話というのは、ぼくはできない。話をふられるのもいやだった。「これこれこういう会社で、あの雑誌をつくっていたんですよ」とせっかく君が言ったときに、「そうですか」とそっけなくこたえた。そうしたら、怒っちゃったんだよね。

ぼくが全体的に言いたいことは、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、こんなことになってないということだ。これ、みんな、ヘビメタ騒音の妨害度や破壊度がわかってない。あれだけ、無職だと書いているのに、かさねて、無職だということがいやだった。きちがいヘビメタ騒音がなければ……きちがい兄貴が、あの時期に、きちがいヘビメタに凝りまくることがなかったら……ぼくは、絶対に、簡単に自己紹介できる職業についていた。学歴も職歴も、「こんなんですよ」と言える状態だったはずだ。これ、実際に、家族がしつこく鳴らしている騒音で人生が台なしになった人じゃないとわからないと思うけど、いーろーーんーーな、ところで、不愉快な思いをする。これ、みんな、ヘビメタ騒音のことを軽く見るから、俺がなんかさぼっているように見えるわけだけど、ちがうんだよね。ヘビメタ騒音で「なんだかわからない人」とになってしまったわけで、ヘビメタ騒音がなかったら、ちゃんと自己紹介ができる人間だったんだよ。

くわしく職歴を聴かれたらいやだなと思って、「そうですか」と言っただけなのに、そのひとことで、怒りまくっている。そのオフ会にきていた女の人が「そうですかって言っただけなのに」「プログラマーでも、期待していたような話ができるとは限らない」ということを言っていたのだけど、まさしく、その通りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月5日木曜日

「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 きちがいヘビメタなんて、きちがい兄貴の趣味なのに……。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなかったら、ならなかった音なのに……。きちがいが、きちがいの意地で、でかいでかいスピーカーを買って、がんがん鳴らす。固体振動あるよ。固体振動が、睡眠に影響をあたえるんだよね。不可避な影響だ。きちがい親父とおなじで、言いだしたらきかないのだ。きちがい親父とおなじ頭の構造で、無視をする。やってないつもりでいつもやる。きちがいしか鳴らさないようなでかい音で鳴らしているのに、きちがいだから、普通の音で鳴らしていると思っている。聴覚が正常なら、でかい音だというのは、わかることなんだよ。そして、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音で聴覚が弱くなるまで、聴覚は正常だった。これ、ようするに、きちがい的にでかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを認めないという態度なんだよ。そして、それが無意識的なレベルで起こっていることだから、本人は、ほんとうに知らない状態なんだよ。けど、穴があいている。嘘の穴があいている。嘘丸出し。きちがいだからできる芸当だ。しかも、普通の人だったら、絶対に一〇分だって鳴らさない音なのに、きちがいだから、絶対に一〇分だって、しないのだ。それであたりまえだと思っている。ゆずってやらなかったのに、ゆずってやったと思っている。全部、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。きちがい親父が、きちがい感覚で、自分の維持を通してしまうときのやり方とおなじなんだよ。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父のやり方とおなじなんだよ。そして、自分がやりきったことを、絶対に認めないという、きちがい的な態度が、おなじだ。きちがい兄貴ときちがい親父でおなじだ。その態度で、こっちの、こころが、破壊される。その態度で、こっちの生活が破壊される。その態度で、こっちの人間関係が破壊される。全部、破壊される。毎日続く。「毎日続く」ということの意味が、他人にはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月4日水曜日

「相手をほめるのがいい」

 よく、「相手をほめるのがいい」というようなことが言われるけど、これも、失敗したほうが多い。特に、「ほめよう」と思って、ほめたときは、ほぼ一〇〇%失敗することになる。相手を褒めるのがいい」というようなアドバイスは、一見、問題がなさそうなんだけど、問題がある。こういうのは、「汎用」ではない。ほんとうは、ほめる側の人の立場とか、ほめられる人の側の立場とかというものが、実際の場面ごとにちがう。埋め込まれた文脈というものがぜんぜんちがうのだ。人によって、立場によって。立場といたけど、これも、たくさんある条件のなかのひとつの条件にすぎない。相手を褒めるのがいい」といった場合は、汎用性があり、どんな条件でも成り立つような感じがする。けど、無理やり?ほめようとしている人に、ほめられて、いい気分になる人のほうが少ないのだ。そして、時系列的に複数回そういうことがあるとなると、それも、複数回そういうことがあったという条件がしょうじることになる。関係性の時間的な連続と、「ほめたという」出来事からしょうじる(双方の感情的変化)というものも、じつは考えなければならない。これも、条件のひとつだ。ともかく、場面には、無数の条件が埋め込まれている。けど、「相手をほめるのがいい」というときは、すべての条件が捨象されている状態なのだ。そして、「相手をほめるのがいい」と言ったときに、たいていの場合は、例をあげるのだけど、その例というのは、複数の条件が、うまくっているときの話なのだ。だから、それらの複数の条件が成り立ってない場面では、それらの複数の条件が成り立っているときのようにうまくいくとは限らない。

*     *     *

基本的に、きちがいヘビメタ騒音にやられていると、停滞した状態になる。そして、それが十数年もつみかさなるなら、いろいろと、ほかの人から悪く言われる立場になる。その場合、打開策として、いろいろなアドバイスを受けることがあると思う。あるいは、本を読んで、こうしたほうがいいのではないかと思うようなことがあると思う。それを実行すると、ほとんどの場合、うまくいかないのだ。これは、その人が悪いのではないかということになるのだけど、どうもちがう。その人というのは、この話だと、ぼくだ。ぼくのやり方がへたくそだから、うまくいかないという話になってしまうのだ。けど、どうも、汎用的に、うまくいかないのである。たいていの場合、そういうアドバイスはむしろうまくいかないことが決まっている。逆の結果を招来するのである。

この手の、本に書いてあるようなアドバイスというのは、たいていの場合、うまくいかない。それは、へたくそな人だけではなくて、うまい人?の場合も、うまくいかない。アドバイスに書いてあること、というのは、うまい人がやっても、うまくいかない場合のほうが多い。そうなるしくみがある。うまいというのは、普通に人のこころが読める人のことだ。普通に人のこころが読める人だって、さまざまな条件により、悪い状態になることがある。この悪い状態というのは、まあ、立場が悪い状態のことだ。ようするに、普通の人が、アドバイス通りにやっても、たいていの場合、うまくいかないのである。どうしてかというと、「汎用性のあるアドバイス」というのは、実際の条件を捨象してしまっているから……。そして、例として出てくるうまくいった場合の話というのは、非常に限られた条件が、じつはある話なのだ。だから、話のなかでは、うまくいくのだけど、実際の条件のなかでやると、うまくいかないことのほうが多い。

*     *     *

「すべてから、話の例を引いたもの」が、話の例に近いものなのではなくて、むしろ、話例から遠いものなのではないかと思うのだ。「すべて」というのは、そのアドバイスをこころみたときの、すべての例だ。ようするに、条件が埋め込まれた現実場面で実際に発生した例のことだ。

正直言って、いろいろと、やる気がしない

  しかし、まあ、どうするか? 正直言って、いろいろと、やる気がしない。むかしは、もうちょっとやる気があった。やはり、親父のネズミ事件で、だいぶ消耗している感じがする。すべてが、出ているんだよね。なんのことだか、普通の人はわからないだろうけど……。頑固に、まったく言うことをきかない状態で、こまらせるんだよね。あれ、病院に入院しているとき、めずらしく、うち以外でその症状が出てしまったんだけど、やられればわかるんだよね。医者も、最初は、「それは、認知症の健忘でしょ」など言っていたのだ。ちがうんだよね。ちがうということがわかるようになるんだよ……。自分がかかわればね……。自分がかかわらないとわからないわけ。だいたい親父だって、いつも、「うちの状態」を外でさらすわけじゃないからなぁ。あれ、入院しているときに、「うち」と「そと」がひっくり返っちゃったんだよね。そのときは、俺に対して、丁寧になった。

2024年9月3日火曜日

不適切なことを言うな

 あーー。ほんとうに、ヘビメタ騒音で不愉快なことばかりだったぜ。これ、ヘビメタ騒音で、働けないからだになるのに、実際にきちがい家族によるヘビメタ騒音に、さらされたことがない人はそれがからないので、ヘビメタ騒音にさらされると働けないからだになるということが、わからないのである。根本的にわからない。だから、「俺だったら平気だ」「わたしだったら平気だ」という考えにしたがって、無職である俺(エイリ)をせめるということになるのである。せめるほうは、気楽かもしれないけど、せめられるほうは、気楽ではない。そりゃ、毎日の積み重ねがあるからだ。この毎日の積み重ねがわからないやつが、不適切なことを言うなということだ。けど、それを言ったとしても……それをぼくが、相手に行ったとしても、相手は、基本的に「きちがい家族のヘビメタ騒音に長年さらされると、働けなくなるということ」がわかってないので、認めない。

きちがい家族の騒音が、並じゃないのだ。きちがい家族がいない人には、わからない。どうしてかというと、経験したことがないからだ。ほんとうに、騒音といっても、きちがいヘビメタ騒音が恥じるまえの騒音体験と、きちがいヘビメタがはじまってからの騒音経験がちがうのである。どうやったって、影響をうけるのに、やられたことがない人たちが「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言ってくる。これ自体が、不愉快なことだ。

そして、そういうのは、小学六年生から積み重なってしまうので、小学六年生から生活が地獄なのだ。これ、ほんとうにちがうんだよね。きちがい兄貴のやり方が、きちがいだから、並じゃない影響をうけることになる。すべてのキレイゴトが、ふっとぶ。けど、ほかの人たちは、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。きちがい家族がいなかった人は、一生涯、騒音に関しては、キレイゴトが成り立つ世界で生きているのである。だったら、話があわなくなる。 

「そんなことじゃない」とどれだけ、ぼくが言っても、次から次へと、誤解したことを言ってくる。「ちがう」と言っているのに、ほんとうに、こいつらもわかってないなぁ。

2024年8月31日土曜日

影響

  やっぱり、親父や兄貴の影響をうけている。基本、ぼくが失敗するときにやっていることは、きちがい兄貴やきちがい親父がつくりだした、環境が影響している。やっぱり、影響をうけているんだよなぁ。影響をうけないようにして暮らすなんてとはむりなんだよ。ところが、「影響なんうけない」「影響をうける必要はない」「影響をうけたと人のせいにするのはおかしい」というようなきちがい理論が成り立っている。ともかく、基本、影響をうける。これもまた、実際にきちがい的な親や兄弟がいない人が、勝手に、「影響受けないことも可能だ」と判断しているだけだ。そりゃ、きちがいじゃなければ、影響をうけないだろう。そもそも、大きな影響をあたえない。これ、きちがい家族がもたらす影響というのは、きちがい家族と一緒に住んだことがない人には、まったくわからない。

どれだけ、無視しても、やはり、影響をうけている。そして、その影響の結果、他者と、もめる場合がある。きちがい家族の影響で、他者ともめやすくなる。

2024年8月28日水曜日

そんなことが成り立つなら、そもそも、こまってないよ。

 きちがい親父だけど、自分がよく思われたい一心で、俺が、親戚の人たちの悪口言っていると、親戚の人たちに言っていたのだ。基本、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、大学などに落ちていた俺は、親戚の人にあいずらい状態になっていた。まあ、それを利用して、俺が親戚の日との悪口を言いまくっていると、親戚の人に言っていたのだ。言いまくっていた。

これ、自分が(息子のエイリより)よく思われたい一心で言ったということを、最初に言わないと、親父の行為がどういう行為なのか、よくわからないことになる。で、親父が死んだとき、親戚の人から、電話がかかってきたのだけど、留守録には出なかった。これは、出れる状態じゃないのである。ネズミのうんこで、電話機に近寄れない状態なのである。これが、わかる人がいない。きちがい親父が、魚が置いてある皿を出しっぱなしにして、まず、ネズミを「餌付け」した。部屋中に、魚のにおいが蔓延して、ものすごく、くさい状態だったのに、「くさい」と言えば、「くさくない」と言いかえす状態だったのだ。「魚を出しっぱなしにすると、部屋中が臭くなるから、魚をしまってくれ」と俺が言ったら、「くさないよぉ!!くさないよぉ!!くさないよぉ!!くさないよぉ!!くさないよぉ!!」と顔を真っ赤にして絶叫したのだ。そういう過去がある。これが事実だ。そして、ネズミの侵入経路をふさぐために工事をしようと、俺が親父に言ったとき、親父は「俺がつかまえるから、いい」「俺がつかまえるから、いい」「俺がつかまえるから、いい」と顔を真っ赤にして絶叫していたのだ。ネズミの糞は、まったく気にしないのである。これがきちがいなんだよ。部屋中にネズミの糞が散らかっているのに、そして、増えていくのに、まったく気にしない。頭がおかしい。この、ネズミの糞が増えていくのに、ネズミの糞が増えていくことはまったく気にしないということが、普通の人には、わからないのだ。こういう感覚は、きちがい兄貴にもある。そして、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っていたのに、それをそのままにしておく、きちがい親父のセンスがある。これ、きちがいだから、どれだけ言っても、ダメなのだ。普通に気にしてくれない。

ともかく、きちがい親父のきちがい頭だと、ネズミが入ったあと、ネズミシートで捕まえても、ネズミの糞が増えていくだけだということが、わからないのだ。そして、こういう期間が長く続くと、ネズミが、壁のなかに巣をつくってしまうのだ。実際にネズミが、壁のなかに巣をつくったのは、親父が入院したあとだ。だから、俺が対処しなければならなくなったのである。きちがい親父がいないうちのなかで、俺が、ネズミに対処しなければならなかった。こんなの、原因をつくって……頑固に頑固に(こっちが)言うことをきかずに、原因をつくって、本人は、とんずらという感じだ。いつもいつも、こうなんだよ!!! いつもなんだよ!! だいたい、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をほったらかしというのはおかしい。いくら、九九%の時間、本人……きちがい親父が……いないときに、ヘビメタが鳴っているとはいえ、俺から話をきいて、ものすごい音でヘビメタが鳴っているということは知っているわけだから、ほったらかしはおかしい。きちがいヘビメタをきちがい兄貴が鳴らしている時間全体のうち一%ぐらいの時間だけど、本人だって、音のでかさはわかるはずなんだよ。きちがい親父が、きちがい兄貴にものを言えなくなったのは、きちがい兄貴が、親父よりでかくなったからだ。そして、親父よりも、兄貴のほうが小さかったとき、「めちゃくちゃなことをやっていた」ということを、無意識的には、親父が知っているからだ。これ、無意識なんだよ。意識的には、わかっないんだよ。これが、きちがいなんだよ。

だから、きちがいの感覚が、ほかの人にはわからないのである。きちがいのやっていることが……きちがい家族がうちのなかでやっていることが……ほかの人にはわからないところがある。これもまた、感覚器にわからないのである。そして、認知的な不調和を引き起こす話なので……そういう話は、認知的不調和を引き起こす話なので、きちがい家族にやられたということを、きちがい家族にやられた側の人が、ほかの人に、説明すると、ほかの人は、不可解な感じと不愉快な感じを経験するのである。そして、あんまり深くは考えないで、「そんなことはないよ」と言うのだ。「ちゃんと言えばわかってくれるよ」と言うのだ。けど、そんなことはある。そして、「ちゃんと言えばわかってくれるような人」だったら、もう、とっくにどうにかなっているのだ。きちがい家族にやられた人が、自分の家族を「きちがい」と形容しなくてもいいのだ。もし、「ちゃんと言えばわかってくれる」人だったら、やられたほうだって「きちがい」なんて言ってない。そもそも、やられてないのである。過去のにおいてやられたことがないということになる。「ちゃんと言えばわかってくれる家族」なんて、そもそも、きちがい行為をきちがい的な意地で毎回やるわけがないだろ。「ちゃんと(やめてくれと)言えば、やめてくれる」……そんなことが成り立つなら、そもそも、こまってないよ。

*     *     *

留守録には出なかったということを書いたけど、これは、留守録にメッセージが残されていなかったからだ。親戚の人は、何回も電話をかけたらしいのだけど、メッセージは残さなかった。きちがい親父が死んで、俺が兄貴の嫁さんに、親戚の人に、親父が死んだということを知らせてくれと頼んでおいた。そして、親父が死んでから、はっきりとメッセージを残したのだ。メッセージが残っていれば、しかたがないので、ネズミがのっかったかもしれない、電話機をいじって、メッセージを再生した。この電話機を置いてある台というのが、親父がつくった、新聞紙の台なのだ。新聞紙というは、回収するために紙の袋を置いていってくれるのだけど、その紙の袋に新聞紙を入れたままにして、台のようにして使っていた。だから、これが、狭いところで、動かせないのである。これがまた、親父がつけたカーテンがあって、それは、それなりに理由があるのだけど……。まあ、カーテンのことはいいか。理由があることだからなぁ。けど、ともかく、あのカーテンがまた、ダニがいっぱいるような感じのカーテンになってしまって、近づきたくなかった。見えないダニしかないのだけど、カーテン近づくと、やばいのである。ともかく、その新聞紙でつくった台のうえにある電話機には、なかなか近づけないのだ。近づけば、ネズミの糞を「スリッパ」で踏むことになるからだ。けど、それを「おして」メッセージを再生した。電話機に近づきたくないのは、ネズミの糞をふんでしまうからだ。そして、電話機に触りたくないのは、ネズミの糞は表面になかったけど、ネズミが電話機の上を通った可能性があり、電話機のボタンにも、ネズミがふれたかもしれないので、電話機のボタンを押したくなかった。

基本的には、親戚の人が言いたかったことというのは、うちの仏壇を拝みにいきたいということだったのだ。それで、兄貴の嫁さんが、ネズミのことについては(親戚の人に)話しておいてくれたので、ネズミの話は本当の話なのか?ということを訊きたかったみたいなのである。ようするに、親戚の人のことをぼくが、きらっているので、ネズミがいるという嘘をついたのではないかということを、親戚の人は考えたのである。で、それを確かめるために、電話をかけてきた。で、そのとき、ぼくが、親戚の人の悪口を言っているということを、親父が言いふらしていたということを、聴いてしまうのである。俺は、親戚の人の悪口なんて言ってない。親父に対して、親戚の人の悪口を言ったこともない。親父と親戚の人のことを話したことはあるけど、それは、おかあさんの葬式のあとなど、非常に限られた場合の話なのだよ。そして、そのときも、親戚の人の悪口なんて言ってない。言うはずがない。けど、きちがい親父は、自分の「得点」をかせぎたいために、俺が、親戚の人の悪口を言っていると、親戚の人に対して、わりと長い期間にわたって、複数回、言っていたのである。これ、真っ赤な、嘘なんだよ。嘘。普通は、かりに、自分の息子が、親戚の人の悪口を言っていたとしても、親戚の人に対して、「自分の息子があなたたちの悪口を言っている」というようなことは、言わない。実際に、自分の息子が、親戚の悪口を言っていたとしても、それを、当の親戚の人に言うなんてことは、しないんだよ。普通の人だったら絶対にしないことだ。それを、きちがい親父は、自分のなかで、嘘の話をつくりあげて、「自分の息子があなたたちの悪口を言っている」というようなことを言ってしまうのである。俺の立場はどうなる? これ、こういうこと、ばっかりなんだよ。そもそも、親戚の人と、俺が疎遠になったのは、ヘビメタ騒音が原因なんだぞ。ヘビメタ騒音のことは、親戚の人に一切合切言ってなかったのである。

 

2024年8月27日火曜日

実際、そいつには、きちがい家族がいないのである。

 あのころの、ぼくの一日というのは、きちがい家族がいる人にしかわからない。そのきちがい家族が、猛烈にでかい音で常に騒音を鳴らしているという状態が六年以上、続いた人じゃないとわからない。

毎日、続いた人じゃないとわからない。

これ、一日だけうるさったのと、毎日、六年間、うるさかったのとでは、からだの状態があきらかにちがう。けど、実際にぼくとおなじ経験をした人じゃないと、からだの状態がわからない。

「俺だって苦労した」というひとことで、同質化、同量化するけど、普通に生活できているなら、同質じゃないし、同量でもない。

ところが、「俺だって苦労した」とひとこと言えば、働いているのに、同質、同量の苦労をしたということになってしまうのである。

いやーー、同質、同量の苦労をしたなら、働けなくなる。通勤して働くということができなくなる。

けど、それが、わかってないやつが、「俺だって苦労した」のひとことで、同質化、同量化し、「俺は働いているけど、おまえは働いていない」という立場で、えらそうなことを言ってくる。

屈辱。

働けるのだから、同質、同量の苦労はしてない。

そうはっきり言える。

実際、そいつには、きちがい家族がいないのである。

きちがい的にうるさい音で鳴らしているのに、普通の音で鳴らしていると、勘違いするような気ちがいがいないのである。

きちがい兄貴にしたって、ほかの音が……自分の意思とは関係なく……きちがい兄貴が『普通の音』だと思って鳴らしている音量で鳴っていれば、五秒で怒り狂って文句を言う。

けど、自分が、鳴らしたいなら、無意識的なレベルで無視してしまう。

普通なら絶対にわかることがわからなくなってしまう。

そういう、きちがいと一緒に住んだことがないやつが、同質、同量の苦労をしたようなことを言うな。

あんな状態で、人とつきあえるわけがないだろ。あんな状態で、彼女とつきあえるわけがないだろ。どれだけはりつめて、生活していたか?

すべてが、疲労のなかにとけていく……。

すべてが、怒りのなかにとけていく……。

疲労と怒りの繰り返しで、くるしい。

同質化、同量化したやつは「やりようがあったはずだ」というような前提でものを言う。それ自体が、侮辱なんだよ。きちがいが鳴らしている。これがわかってない。

2024年8月26日月曜日

これは、本質的なことの過小評価だ。あるいは、本質的なことの無視だ

 一般人には、きちがい家族のことなんて、わかりゃーあ、しないのさ。理解できるはずがない。かならず、一般人のもっている先入観が大きな働きをする。きちがい家族にやられた人の話を聴く場合、一般人がもっている先入観で、きちがい家族にやられた人の話を解釈するのだ。だから、絶対に、正しく解釈できない。「そんなのは、まるまるだ」という話になってしまう。これは、本質的なことの過小評価だ。あるいは、本質的なことの無視だ。

2024年8月23日金曜日

切り離された問題じゃないんだよ。

 ヘビメタ騒音なしで、わかいころをやりなおしたい。ヘビメタ騒音なしの若い時代を体験してみたい。つねにヘビメタが鳴っていて、常に、ヘビメタのハンディがある状態で暮らしていた。ヘビメタのハンディというのが、並じゃないのである。ヘビメタ騒音のハンディというのは、ほかの人にはわからない。もちろん、俺が、きちがいヘビメタが一番、この世でにがてだった音だから、あんなにでかい音で鳴らされると……白愚中鳴らされると、ものすごいハンディになってしまうわけで、ヘビメタが好きな人ならまたちがっていたんだろう。けど、自分が聞きたくないときにずっと、ヘビメタを聞かされるというのは、ヘビメタが好きな人だって、不愉快かもしれないよ。ずっと、きちがい的にでかい音で鳴っているわけだから。彼女のことだって、精神的に体力的に影響をあたえるのだけど……本当にダイレクトな影響をあたえるのだけど、きちがい家族に騒音でやられなかった人は「そんなのは関係がない」と言うわけだ。一日の全体がダメになるんだよ。一年の全体がダメになるんだよ。切り離された問題じゃないんだよ。きちがいヘビメタを聞かされた身体で、生活をしているんだよ。それは、とりもなおさず、ヘビメタ騒音の影響をうけているということなんだよ。

どういうふうにやりようがあるかと言うと、きちがい兄貴に騒音でやられている限り、やりようがないんだよ。実際に、やられている……きちがいにやられている生活……家族として一緒に住んでいるきちがいにやられている生活をしたことがない人は、それが、どういうものなのか、わからない。「やりようがある」ような気がするのである。それは、実際に、きちがい家族に毎日、何年間も、十数年間もやられなかったから、「やりようがある」ような気がしているだけだ。やりようがない。どれだけもがいても、きちがいの壁があるわけだから、きちがいをしずかにさせることができないのである。きちがいがきちがいの思い通りに、暮らしているのである。きちがいの感覚は、なおらないのである。きちがいが、きちがい的な感覚でやっていいと思って、きちがい的に長い時間、きちがい的に長い期間、ずっとやり続けるわけで、影響は、うける。やりようがない時間がが続く。やりようがない一日が、続く。やりようがない一年が続く。やりようがない、一生が続く。

やられてないやつが、わかってないだけなんだよ。きちがい兄貴が生きている限り、やりようがないんだよ。やりようがない一日が、毎日続くんだよ。そうしたら、つもるんだよ。「つもる」というのだって、実際に経験した人じゃないとわからない。だから、ぼく以外の人には、わからない。「やりようがあるのに、エイリさんがやらなかっただけだ」ときちがい発言をしやがる。こいつらも、ゆるせない。

 

ずっと、くるしいまま生きてきた

 とにもかくにも、ヘビメタでからだがくるしいのである。毎日、毎日、ずんずん、つもるのである。減るということがないのである。ずっと、くるしいまま生きてきた。きちがい兄貴みたいな人は、めったにいないから、きちがい兄貴みたいなやり方でヘビメタを鳴らす人もめったにいない。きちがい親父は、それをゆるしてしまった。きちがいだから、悪いほうの味方になる。自分がほんとうは、注意なければならない立場なのに、注意しない。自分がほんとうは、しずかにさせなければならない立場なのに、しずかにさせない。「全部、鳴らすなっていったら、かわいそうだ」などと言うのだ。この、きちがい親父のきちがい発言。どれだけきちがい的な発言をしているか、本人はまったく気がつかない。「それじゃ、俺はどうなっちゃうんだ」と言いたかった。それじゃあ、俺はどうなってしまうんだ。「毎日やられて、くるしい」「やってはいけないことを、きちがい兄貴が夢中になってやっている」「毎日、きちがいヘビメタ騒音で宿題ができなくて、学校でみじめな思いをしているんだぞ」「学校の友達に、うたがわれているんだぞ」……。

学校の友達は友達で、きちがい兄貴のことやきちがい親父のことが、ほんとうに、わからない。わからないから、いろいろと疑問をいだく。「そんなんじゃないんじゃないか」と思う。「そんな人いるのかな」と思う。「ちゃんと言えばつたわるんじゃないか」と思う。

2024年8月21日水曜日

「真っ向から、否定する態度」がおなじ

  あのあと、スイカを食べて、眠った。スイカは、もちろん、ひとりで食べた。去年も、だいたい同じ値段のスイカを買ったんだけど、今回のスイカは、おどろくほど?小さかった。シェディングがなければ、カットスイカでもいいのだけど、カットスイカは問題があるので、まるごとを買うんだよね。まあ、冷蔵庫がおおきければ、三キロから五キロ玉を買ってしまうのだけど、そういうわけにいかない。なので、まあ、小さいやつを買ったんだけど、それが、思ったよりも小さかった。また、箱がそれなりにでかいので、きょんのスイカとだいたい同じ大きさのが入ってるかと思ったら、ちがった。まあ、けど、食べた。いま、半分に切ったものが、冷蔵庫に入っている。外気温とおなじような温度のスイカを食べたので、まあ、味は、いまいちだったような感じがする。あれで、まあ、冷やしておいたら、うまかったのかな。普通の味だなぁ。

それで、あとは、手のシミが気になるのだ。これは、親父がネズミを導入して、外側の壁をパティでふさがなければならなくなって、ふさいだあと、今度は、工事の人(棟梁)が俺が言ったことをまもらずに、パティをとってしまったので、また、ネズミが入るようになり、それで、やりたくない二回目の、工事(パティ挿入)をしなければならなくなった。そのときに、ぴちーーーんと、手の甲を二か所やられたのである。これも、見えない大きさやつなんだけど、かゆくなって、あとが残った。

親父経由だというのが、いやなんだよね。ほんとう、どれだけこういうことが多かったか。当の親父は、そりゃもう、なにもわかってない状態だよ。まあ、棟梁が工事をしたときも、棟梁が工事をしたあとも、親父は入院していたので、俺が言わなければわからないのだけど、言ったって、わからないままなのだ。これ、親父が魚の切り身を、一日に二三(にじゅうさん)時間ぐらい、テーブルの上に置いておいたから、においが部屋中に充満して、ネズミがくるようになったんだよ。事実だ。けど、それを、入院しているときに言ったら「だしてないよぉ、してないよぉ」と嘘を言うのだ。わめくのだ。いつもの手口なんだよ。真っ向から、否定。けど、これまた、たとえば、魚の切り身を出しているときは、そういう態度で、しまわないのだ。魚の切り身を、二三時間ぐらいずっと、なにもかけずに、テーブルの上に出しておくということにこだわったら、絶対の意地でそうするのである。だから、まあ、「真っ向から、否定する態度」がおなじなんだよ。手短に言うと、きちがい兄貴の態度もまったくおなじだ。まーーったく、おなじ。だから、こういうやつらの、きちがい的な態度がむかつく。これ、きちがい的な意地で、絶対にゆずらずにやったのに、やったということが、まずいことになると、きちがい的な意地で、やったということを認めない状態になる。もちろん、そういうことをしたって、自分が悪いことをしているというつもりはない。おなじ状態だからなぁ。最初に、きちがい的な迷惑行為をしているときの態度と、きちがい的な行為をしたということを認めないときの態度がおなじなのだけど、もっと時間がたてば、きちがい的な行為をしたということを認めなかったということも、認めないという状態になる。 

鳴っているときだけ、うるさいからつらいというわけではないんだぞ。

 つねに、きちがいヘビメタで、かっこうがつかない状態になった。これも、「気にしなければいい」「影響をうけなければいい」「影響をうけないことは可能だ」とやられてないやつが言う。そして、みんな、「俺だって苦労した」と言う。けど、そいつらには、きちがい兄貴がいない。きちがい的な音で鳴らすことに、いのちをかけている、きちがい家族がいない。

浪人だってみっともないことだ。けど、きちがいヘビメタにたたられ続けると、ほんとうに、勉強ができなくなる。勉強ができる時間がないのだ。これ、鳴り終わったあとやればいいと、思うかもしないけど、それもできない。つねに、限界ぎりぎりの状態だ。つかれはてて、とてもじゃないけど勉強なんてできない。言っておくけど、ヘビメタ騒音がなければ、「ヘビメタ騒音で勉強ができない」という必要もないんだよ。みんな、ほんとうに、やられたことがないから、まったくわかってないだけだ。俺が「愚痴を言っている」と思っているやつは、みんな、わかってないだけだ。俺が、どれだけ、愚痴を言わずに、何千日もたえたか、知らないだけだ。

ともかく、ヘビメタ騒音で「みっともない」ことになる。でっ、毎日どれだけがんばっても、そうなる。そういうところが、わかってないやつが、俺のことを下に見てくる。「愚痴を言っているだけだ」と言ってくる。「自分だってつらい」と言えば、きちがい家族がいないのに、きちがい家族にやられた場合とおなじだという理屈を展開する。これ、ほんとうに、きちがい家族がいない人が、過小評価しているだけなんだよ。ヘビメタ騒音の影響を過小評価しているだけなんだよ。そりゃ、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまえから、きちがい親父は、きちがいなのだから、普通の人より、ずっとつらい思いをしてきたんだよ。けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、そういうつらさとは、別次元のつらさなんだ。だから、ほかの人は、まったくわからない。

「自分なら平気だ」「自分だってつらい」ということを言うけど、ちがうんだよ。けど、どれだけ説明したって、実際に経験してなければ、どういうことが起こるのかぜんぜん、わからない。わからない状態のままだ。

これ、ほんとう、みんなわかってないだけなのに、えらそうなことを言うな。

これ、ほんとうに、単なる騒音で、「やりようがある」ような感じがするわけだけど……ほんとうに、やりようがない。鳴ってない時間も、一日中、ずっとずっとずっと、影響をうける。鳴ってない時間も含めて、勉強ができる状態じゃないのである。頭が、パンクしている状態なのである。試験時間中も、ヘビメタ騒音の感じがする。ヘビメタ騒音の緊張で、頭がおかしくなっている。どれだけ、長時間、やられたか、みんな、わかってない。「やりようがない」というところだって、経験的わかっているわけじゃない。「話を聴いた」だけだと、「やりようがある」ような感じがするわけだ。けど、実際は、やりようがない。あのしつこさで、あの感覚で、どんなこまかい時間も使って、きちがいヘビメタを鳴らすということに、なっているので、きちがい兄貴が自動的にそうするわけだけど、それが、融通が利かないから、ものすごくこまったときも、きちがいモード、いつものように鳴らしてしまう。こころが乱れまくる。きちがいを殺したい気持ちでいっぱいになる。殺したい気持ちをがまんしたまま、超高圧状態で、超緊張状態で、超発狂状態で、自分の部屋にいるということになる。自分の部屋は、自分のステレオを最大の音で鳴らしている場合よりもでかい音で、きちがい兄貴のヘビメタが鳴っているという状態だ。勉強ができない。しかも、ほんとうに、睡眠に影響をあたえるのである。精神に影響をあたえるのである。体力に影響をあたえるのである。どれだけ、影響がないようにしようと思っても、影響が出る。このくるしさが、わかるか? 鳴っているときだけ、うるさいからつらいというわけではないんだぞ。

それがわからないやつらが、やられてないことをいいことに、妄想的なことを言ってくる。まちがった前提でまちがったことを言ってくる。こいつらもこいつらで、認めない。わかってるつもりのままだ。自分が正しい前提で正しいことを言っているつもりのままだ。

 きちがい兄貴がきちがいでなければ、こんなやつらに、まちがったことをまちがった前提で言われるような立場になってない。

2024年8月19日月曜日

不可避的

 あーーあ。それにしても、ヘビメタ騒音ですべてが、くずれたなぁ。俺にしかわからないわけだけどさ。俺にしかわからない。あんなの、実際に毎日経験してみなければわからない。「ヘビメタ騒音をあびていた」「ヘビメタ騒音でつらかった」「ヘビメタ騒音がうるさくて眠れなかった」……それだけだ。けど、ほんとうは、ちがう。ぜーーぜん、ちがう。これも、からだがぜんぜんちがうんだよ。とくに、脳みそが影響をうける。不可避的な影響をうける。みんな、実際には経験したことがないので「不可避的だ」ということが、どうしても理解できない。「うるさかったんでしょ」「寝不足になったんでしょ」……それだけだ。彼女とデートできるかどうかなんて関係がないじゃん……。関係があるんだよ。親友と絶交するかどうかなんて関係がないじゃん……。関係があるんだよ。おおありなんだよ。

あびてしまったら、影響をうけないというとができない。あびてしまったら、影響をうけないで暮らすということができない。ほんとうにずっと、長かった。毎日毎日、長かった。リターン可能ポイントをすぎて、何千日も鳴っていた。毎日毎日、これでもかと、鳴っていた。きちがいだから、あの音で鳴らして、しずかな音で鳴らしているつもりなんだよな。きちがいだか。きちがいだから。ゆずってないのに、ゆずったつもりなんだよな。きちがいだから。きちがいだから。ほかのうちじゃない、ないことなんだよ。だから、ほかのうちの人は経験したことがないことなんだよ。だから、経験なしで、「関係ない」「影響なんて受けない」「鳴り終わったなら関係がない」「過去のことは関係がない」と言う。けど、ずっとずっと、関係があることなんだよ。からだが破壊されたままだ。……特に、睡眠回路が破壊されたままだ。特に、憂鬱復活回路が破壊されたままだ。毎日毎日、いまだって、しんどいよ。

あーー、人間関係も木っ端みじんに破壊してくれたよ。

2024年8月16日金曜日

きちがい兄貴のヘビメタ騒音

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、どれだけ、俺の生活を破壊するか、ほかの人は、まったくわかってない。わかってないまま、不適切な発言をする。ほんとーーに、不適切。侮辱。

きちがい家族がいないから、きちがい家族のやることがわかってない人が、わかっているという前提でものを言う。ほんとうに、不愉快。侮辱。

どれだけ、つもるかわかってないなぁ。どれだけの影響があるか、わかってないなぁ。影響をうけないようにどれだけ努力しても、影響を受け続けて、くるしいじょうたいになるということがわかってないなぁ。

2024年8月14日水曜日

自分が「おなじ立場」になったとき

 自分が「おなじ立場」になったとき、他人から「おなじこと」を言われると、不愉快に感じるということが、まったくわかってないんだけなんだよなぁ。宗教的な人というのは、こういうことがまったく理解できてない。宗教的な人と書いたけど、精神世界の人は、まったくわかってない。ほんとうは、自分だって「おなじ立場」になったとき、「おなじこと」を言われたら、腹をたてて、不愉快な気持になるのに、それが、まったく想像できない。わかってない。

ほんとーは、自分だって、おなじことをやられたら、なんとも言えない不愉快な気持になる。けど、それが、「元気なときの自分」にはわかってないんだよね。妄想や、妄想が前提にあることを言って、いきがる。他人を、ディスっている。他人の存在をディスっている。けど、それが、宗教的にいい行為だと思っている。正しいことをしていると思っている。 

*     *     *

ちょっとだけ、言っておくと、たとえば、『相手がいやがることはやめましょう』という文言があるとする。精神世界の人が『相手がいやがることはやめましょう』というおしえは、正しいと主張したとする。確かに正しい。

けど、だから、教祖の教え全体があっているということにはならない。その教団の教え、全体が正しいということにはならない。

たとえば、うたがいようがなく、『相手がいやがることはやめましょう』ということが、道徳的正しいとしても、相手がいやがっているということがわからない状態では、意味がないのである。

ある精神世界の人が、自分だって「おなじこと」を言われたら、腹がたつということを理解できないとする。想像できないとする。その場合は、相手がいやがっているということがわからないので、相手がいやがっていることを、得意顔で何回もやるのである。


2024年8月13日火曜日

影響をうけないわけがないだろ。

 ほんとうに、ものすごい音で、毎日、鳴ってた。ほんとうの影響は、ずっとやられた人にしかわからないか? けど、「影響はない」と判断して、えらそうなことを言うやつらのことは、ゆるせない。わかってないだけじゃないか。しかも、わかってないだけだということが、わかってない。こういう構造は、きちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造と、似ている部分がある。やっぱり、俺が誤解をうけるようにできている。きちがいに対する理解がないのである。きちがいが家族のなかにいるということが、どういうことなのか、わかってないやつのほうが多い。そうなると、そういうやつらは、かならず、きちがい家族が毎日やることの影響を過小評価する。影響をうけないわけがないだろ。

2024年8月10日土曜日

相手が、どういう理由で、どういうふうに、いやがっているのかということが、まったくわからない

 きちがい親父やきちがい兄貴の、脳みそのクセ、というのが問題なんだよなぁ。とくに、あっち側に「悪意」がない場合も、脳みそのクセが影響して、相手のことが考えられない状態なんだよな。だから、相手が、明確に、説明しても、説明したことをうけいれない。日本語がわからないわけではないけど、日本語がわからない状態に近い状態になって、認めない。言われたことになってない。相手がどれだけ、ちゃんと、何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も、言っても、本人にとっては、言われたことになってないのである。だから、話がずれてしまう。頭のクセで、自分の気持ちだけが優先している状態になってしまう。自分の気持ちが優先しているから、相手が言っているとは、聞こえたって、聞こえないのである。相手が言っていることは、日本語がわかったって、わからない状態で聞こえているだけなのである。けど、「なんとなく」はわかっているんだよ。どうしてかというと、自分に言われていることが、自分にとって不都合なことだそういうことになるからだ。そして、たとえば、どんなこまかいことでも、最初に、自分が『相手はこう思っている』と決めたことは、どれだけ、相手が否定しても、相手が否定したと認識しないようになっているのである。だから、問題が発生する。どれだけ相手が、否定しても、相手が否定してないということになっているんだよぁ。相手が言っていることが、一切合切、つたわらない。自分のほうの「気持ち」が、あると、その「気持ち」だけになってしまう。何万回、強く言われても、「予感」のような感じでしか理解しない。相手が、どういう理由で、どういうふうに、いやがっているのかということが、まったくわからない。どれだけ言っても、まったく通じない。

敵になる

きちがい家族にやられると、ほとんどの人が、敵になる。敵になる。ほとんど、みんな、敵になる。敵になる。

ほんとうに、ああいうやり方で、やられれば……毎日毎日やられれば、みんな、みんな、働けないからだになるのに、それがわからない。まったく、わからない。ヘビメタ騒音のことを正直に言うと、「そんな話は、へんだから、嘘だ」と思うやつが、どれだけ多いか。これは、きちがい兄貴がきちがいだからそうなる。ほかの人が理解できないきちがいなのだ。そして、ほかの人が理解できないきちがいは、きちがい的な意地できちがい的なことを、毎日毎日、長時間、例外なく、続けるのだ。容赦なく、続ける。こっちがどれだけ「やめてくれ!やめろ!!やめろ!!!」と言っても、きちがい頭で、はねのけて、きちがい的な意地でやり続ける。やっているんだよ。ところが、本人は「やってないつもり」なのだ。認めるのが都合が悪いときは、ほんとうにやってないという気持になって、やったということを認めない。これも、きちがいだからできることなんだぞ。ともかく、ほんとうのことを正直に言うと、ほかの人が、俺が嘘をついていると思うのだ。俺が、きちがいヘビメタ騒音のことと、きちがい兄貴のことについて、正直に説明すると、ほかの人が、「そんなのは、嘘だ」「エイリさんは嘘をついている」と思うのだ。きちがい兄貴のきちがい的なふるまいが、信じられないから、そういう感想を持つ。ほかの人は、きちがい兄貴のことを知らないし、きちがい兄貴に似ている人がいる家庭で育ったわけではないので、きちがい兄貴の話が、嘘だと思うのだ。「そんなのは、へんだ」と思うのだ。「そんなのは、へんだから、おかしい。へんなことを言っている」と思うのだ。ともかく、ほかの人にとっては、ヘビメタ騒音なんて、どうでもいいことだから、「そんなのは関係がない」と言うのだ。「どれだけヘビメタ騒音が鳴ってたって、遅刻しないで通勤することは可能だ」と言うのだ。まったくもって、腹立たしい。

2024年8月8日木曜日

ガチホ

きたないやつらが、利権構造をがガチホして、「人に親切にするといいこと、ある」と言っているようなものなんだよ。人に親切にするなら、利権構造を手放せばいいだろ。全部が全部、このレベルだ。きたないやつらが、生まれの条件で不利な人を、奴隷として使うためにつくった常識がある。ほんとうは、生まれの条件で不利な人を、奴隷として使うべきではない。それが、道徳的な行動だ。ところが、生まれの条件が不利な人を、がめつく、奴隷として使うために、努力論をはやらせる。自己責任論をはやらせる。やっていることが、真逆だ。いいかげん、やられているやつらは、気がついたほうがいいよ。あっ、まあ、やっているやつらも、気がついてないんだけどね……。

人をしあわせにしたいなら、まず、利権を手放せ。


待合室

 きちがい兄貴というのは、俺が25歳のときに結婚したのだけど、結婚した当初、きちがい兄貴の嫁さんに、「しずかにしてやった」とか「心配した」とか「ゆずってやった」とかと言ったらしいのだ。これ、きちがいだからできることなんだぞ。こんなの本当に、頭がおかしい。きちがい兄貴が、張本人なんだぞ。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らし続けたんだぞ。その結果、俺が、進学も就職もできずに、宙ぶらりんな格好で暮らしていた。それを、「心配した」とか言ってやがったのである。これは、きちがい親父が入院したとき、兄貴の嫁さんが、きて、いろいろと話すようになってから聞いたことだ。親父の入院というのは、いろいろと長いので、手術など重要な日は、兄貴の嫁さんが、つきそいとしてきてくれた。手術の予約とか、転院手続きのときもきてくれた。転院というのがやっかいで、もとの病院を一度退院したあと、新しい病院で入院手続きをするのである。もとの病院もでかい病院なのだけど、総合病院とは呼べない病院で、いちいち、総合病院に転院して、総合病院でしかできない特殊な手術をしていた。手術をしたら、いちおう、総合病院のほうにしばらくはいるのだけど、親父の希望で、また、もとの病院に転院するということを何回か繰り返した。だから、待合室で、話す時間ができるのである。相当に長い時間、話すことができる。なので、きちがい兄貴のことや、親父のことを、ながながと、兄貴の嫁さんに、ぼくが説明していたのである。これ、けっこう、長い期間、そういう時間がとれた。なので、たいていのことは説明した。けど、兄貴の嫁さんとよく話すという機会は、きちがい親父が入院してからのことなのである。俺がわかいとき……兄貴の嫁さんと兄貴が結婚した当初から、ずっと、話していたわけじゃない。兄貴の嫁さんと、ぼくは、親父が入院するまで、ほとんど話したことがない状態なのである。だから、病院の待合室で、はじめて、きちがい兄貴が、そういう発言をしたというのを聴いたのだけど……腹がたった。「きちがい兄貴というやつは、ほんとうにきちがいなんだなぁ」と思った。これ、ほんとうに、きちがいでなければ、ありえないことなのである。これ、どんな意地で、どんな音のでかさで、鳴らしていたか、まったくわかってないのである。きちがい的な意地でやったことは、ゼロなのである。そして、「ゆずってやった」という発言だけど、これはもう、爆発的に腹がたつ発言だ。

2024年8月6日火曜日

「そんなことじゃないのになぁ」

 「そんなことじゃないのになぁ」と言いたくなる。そんなことじゃないのに、誤解をして、頭がおかしいことを言ってくる。邪悪なことを言ってくる。「それ、ちがうんだわぁ」と言いたくなる。もちろん、言ってくるやつらは、どれだけちゃんと説明してやっても、理解しない。理解しないというとは、理解しないことしかこの世で経験してないということだ。そして、こいつらが間抜けなのは、本人が常日頃から主張していることを、本人が、守って暮らしてないということに、まったく気がつかないことだ。矛盾に気がつかない。気分だっけで、いきったことを言っておしまい。気分だけで言っているということにも、本人が気がつかないまま暮らしている。そして、死んでいく。けど、生きているあいだ、常に、『条件が悪い人』に圧力をかけるのである。誤解をして、アホなことを言って圧力をかける。アホなことを言って、『条件が悪い人』をあおっているということに、いいかげん、気がつけ。

人間

 きちがい家族にやられた人間が、どこまでも、どこまでも、悪く言われるしくみというのがある。きちがい家族にやられたことがないやつらが、きちがい家族にやられた人間のことを悪く言うのである。悪く言っている。悪口を言っている。無理難題を吹っ掛けてこまらせている。けど、きちがい家族にやられたことがないやつらが、多数派なので、きちがい家族にやられた人間が言うことが、通らない。。そう……通らない。通らないんだ。きちがい家族にやられたことがない人は、きちがい家族にやられた人間のことを悪く言うのに、悪く言っているつもりがない。そして、きちがい家族にやられた人間が、家族の悪口を言っていると、誤解する。誤解する。誤解する。そして、ほんとうは、きちがい家族にやられたことがない人間が、そうやって、ネガティブなことを言っているのに、きちがい家族にやられた人間が、ネガティブなことを言っていると、ネガティブな発言をする。

前提自体がまちがっていることを、自信たっぷりに言う。きちがい家族にやられたことがない人間が、自信たっぷりに言う。きちがい家族にやられたことがない人間が、きちがい家族にやられた人間の、真実の発言について、まちがった解釈をして、まちがった結論を述べる。

2024年8月5日月曜日

想像力の高い人ですら、想像がおよばない部分が、ヘビメタ騒音生活にはある。

 ヘビメタ騒音というのは、どうしても、普通の生活ができなくなる『害』なんだよ。

ところが、普通の人にはそういう経験がないので、ヘビメタ騒音がそれほどの『害』だとは思わないんだよ。

普通の人だって、それは、いろいろな苦労がある。疲労生活がある。

この世で、生きるというのは、そもそも、たいへんなことだ。

そして、日本の学生生活や、日本の会社解説というのは、そもそも、つかれるものなのである。だから、みんな、「つかれ」を感じて生きている。けど、その「つかれ」というのは、ヘビメタ騒音でしょうじる……不可避的にしょうじる「つかれ」とは、決定的ちがうものなんだよ。

けど、ちがいがわからない。

普通の人は、普通の日常生活でしょうじるつかれと、ヘビメタ騒音生活でしょうじるつかれの区別が、できない。体験的にできない。経験的にできなくなっている。

だから、普通の人たちにとっては、初期値で、「どっちも、ちがいがない」ということになっている。もちろん、両方のつかれを経験したあと、「どっちも、ちがいがない」と判断しているわけではない。

最初から、ヘビメタ騒音生活のつかれは経験したことがないつかれなのだ。だから、想像で「ヘビメタ騒音生活のつかれ」というものを考えるしかない。知らないからわからないということがわかってないので、初期値として「どっちも、ちがいがない」という判断を採用してしまうのである。

だからまあ、どっちも知っていて、「どっちも、ちがいがない」と言っているわけではなくて、知らないのだけど、知っているつもりになって「どっちも、ちがいがない」と言っているだけなのだ。


まず、ここに誤謬があるのである。けど、はっきり言えば、ぼく以外の人は、知らないわけだから、「ぼく」対「世間の人全体」ということになってしまうのである。想像で、「違うよな」ということがわかる人がごくまれにいる。けど、その人は、想像力が高いけど、経験がないということには、かわりがないということになる。ごくたまれにいる、想像力の高い人ですら、想像がおよばない部分が、ヘビメタ騒音生活にはある。

2024年8月2日金曜日

過去の解釈をかえれば、過去はかわるのだから、過去にこだわる必要はない……

 過去の解釈をかえれば、過去はかわるのだから、過去にこだわる必要はない……というような意見があるのだけど、それはちょっとちがうのではないかなと思う。

問題なのは、解釈をかえたいと思っている自分が、ほんとうに、納得できるのかということだ。「こういうふうに思いたい」「過去の出来事についてこういうふうに認識すれば、いい認識になる」ということなんだよ。「こういうふうに思いたい」という気持がある。「こういうふうに再解釈したい」という気持がある。

けど、それって、いまの自分が、過去の出来事について、こういうふうに考えると、過去の出来事が(今の自分にとって)いいものになるよね……という考え方なのだ。

意図がある。

じゃあ、どうして、再解釈しなければならないような認識が(今現在)成り立っているのかというと、今現在成り立っている解釈というのが、(今の自分にとって)不都合なものだからだ。

ようするに、たとえば、つらい過去の出来事があったとする。つらい過去の出来事と書いてしまったけど、ある出来事について、いまの自分や、いままでの自分が、「それは、つらい出来事である」と認識しているということだ。

つまり、ある出来事というのは、中立的な出来事ではなくて、その発生時点で、つらいことだという認識が発生してしまった出来事なのだ。

そのつらいことだと……(過去の自分が認識した)……現実的な出来事を、いまの自分が……「じつは、たいしてつらいことではなかったんじゃないか」とか、「じつは、楽しいことだったんじゃないか」とか、「じつは、いい勉強になったのではないか」とかと、再解釈することによって、納得したいことなのだ。

再解釈して納得したいという力動がある。

ようするに、再解釈して楽になりたいという気持がある。

そういう気持があるということは、じつは、その出来事はつらい出来事だったという再認識が成り立っている。

そして、自分が、こういう方向で解釈しなおせば、自分にとってこういう出来事になるのだから、こういうふうに解釈しなおそうという意図がある状態で、ほんとうに、こういう方向で解釈することができるのかどうかという問題がある。

ごく自然に、自分のなかで、解釈がかわる場合は、解釈がかわるだけの理由が成り立っているのである。

ところが、意図的に解釈をかえようと思っている場合、すくなくても、自然に自分のなかで解釈がかわるような理由がないので、意図的に解釈をかえようとしているという状態なのである。

なので、自然に自分のなかで解釈がかわる場合とは、ちがった、心理的な規制がある。

なので、無理だ。

2024年8月1日木曜日

「こまるからやめてくれ」と言っても、発狂してはねのけて、絶対にやめない

 ヘビメタ騒音にたたられていると、いろいろな、本来なら必要がない用事が発生するのである。たとえば、大学受験に落ちて浪人するというようなことが発生する。それで、近くの図書館に、自転車で行くわけだけど、近くの図書館に自転車で行くというのも、本来なら必要がない作業だ。だいたい、浪人していても、きちがいヘビメタが毎日鳴っている状態にはかわりがない。きちがい兄貴が休みの日は、ほぼ一三(じゅうさん)時間、きちがいヘビメタ騒音を浴びせられるような状態がかわらない。どれだけむなしい思いで、俺が日曜日をすごすのかということだ。でっ、図書館だって、あのころは、めちゃくちゃにこんでいて、机を確保できない状態なのである。夏休みなんて、午前の部と、午後の部をわけて、どっちかの、整理券をもらわないと、どっちかの部に参加できないということになる。ようするに、たとえば、午前の部というのが九時三〇分から、一二時までだとすると、午前の部の席をとるために、午前八時三〇分ぐらいから、並ばなければならないような状態なのである。午後の部の整理券も、午前九時になくなってしまうような状態だ。

こちら側から見ると、きちがい兄貴というのは、ぼくの人生を破壊するために、常に音を出しているように見えるのだ。そりゃ、きちがい兄貴は、「つもりがない」状態で鳴らししているわけだけど、何万回も、「鳴らされるているとこまると」ということを、直接兄貴に言ったのだから、知らないわけがないのだ。けど、ちょっとでも、いやなことを言われたら、いやなことの内容はまったく理解しないまま、発狂して、はねのけるという性格をしているのだ。これは、きちがい親父が、居間で、ちゃぶ台?のまえで怒り狂っていたのとおなじなのである。これ、認めないんだよ。どれだけはっきり言われても、本人のなかでは「なにか、いやなことを言われた」というような予感でしかないんだよ。だから、『いやなこと』の具体的な内容は、まったく頭に残らないわけ。「なにかいやなことを言われた」と思ったとたんに、発狂して、はねのけてしまう。そうすると、本人は、相手に対して「なにもやってない」ということになってしまうのだ。そういうことができる、頭なんだよ。そういう脳みそを搭載して生きているんだよ。いやなことを言われた場合は、常にそういう反応をする脳みそを搭載して生きているんだよ。だから、こっちが、はっきりと、何万回言っても、きちがい兄貴の脳みそのなかには、俺がなにを言ったかという具体的な内容が残らないということになってしまうのだ。何度も言うけど、きちがい親父もおなじだ。きちがい親父も同種の脳みそを搭載しているために、きちがい親父の奇行について、こっちが、どれだけ「こまるからやめてくれ」と言っても、発狂してはねのけて、絶対にやめないのである。けど、絶対にやめずにやりきったあとも、「だれだれが反対したけど、無視して、自分がやりたいことをやりのけた」という気持がないのだ。つまり、まったくつもりがない。兄貴のことと、親父のことを交互に語ってしまったけど、おなじなんだよ。おなじタイプの脳みそを搭載して生きているので、おなじ反応が返ってくるのである。そして、おなじ反応に対する、おなじ感覚が成り立っているのである。だから、本人が、発狂して、がぜん、意地になってやったことは、「やってないこと」になっているのである。本のなかでは、そうなんだよ。きちがい兄貴ときちがい親父は、やったこと自体はちがうのだけど、「なにか不都合なこと」を言われたら内容を理解せずに、怒り狂ってはねのけて、やってしまうというのがおなじなのだ。そして、「やった」という認識がないのである。

*     *     *

こっちは、毎日、毎日、積もるのに、きちがい兄貴は、毎日、毎日、なにもやってないつもりなんだよ。けど、実際には、すべての時間が、きちがいヘビメタで汚染されて、たいへんなことになっている。からだが、汚染物質でみたされているような状態になってしまう。からだが、つらい。けど、きちがい兄貴の感性が特殊で、うちでやっていることが特殊なので、「だ・れ・も」理解してくれないのだ。「ちゃんと言えば理解してくれる」というようなことを言うやつや……「過去は関係がない」と言うやつや……「思ったことが現実化したんだ」と言うやつや……「大丈夫だと言えば大丈夫だ」と言うやつ……ばっかりだよ。

特殊な家族にやられた人、あるいは、特殊な条件をかかえている人に対する、ほかの人の態度というのは、こういう態度だ。特殊な条件というのが、特別に、「不利な条件」なんだよ。けど、どういうふうに不利なのかということについて、ぼく以外の人が、まったく無理解なのだ。そういう無理解な他人にかこまれて生活をするということになる。切羽詰まった生活だ。どれだけがんばっても、いろいろなところにほころびが出る。

 

2024年7月31日水曜日

ヘビメタ騒音の影響を無視する人

 アドラーの主張では、「自分がどう思われるかを気にする必要がない」ということになっているんだよね。けど、相手が傷つかないように気にするという部分がある。

けど、これが、この世は地獄で、そんなことがまったく成り立たない現実というのがあるんだよね。たしかに、まあ、だれだれのこころが傷つかないように配慮するということは必要なことなのだけど、枠組みというのがある。そして、相手というのがある。相手が、自分をないがしろにして、攻撃を加えてきた場合は、応戦しなければならなくなる。その場合、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をかかえていると、やばいことになるのである。どうしてかというと、相手が、ヘビメタ騒音の影響でそうなっているということを、まったく理解しないからだ。あるいは、相手が、ヘビメタ騒音の影響というもの自体を、まったく理解しないからだ。ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、「自分の考えを述べているだけだ」と思っているかもしれないけど、ぼくを侮辱しているところがあるんだよ。そりゃ、そうなるんだよ。たとえば、ほんとうに、ヘビメタ騒音で宿題ができないのに、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ヘビメタ騒音が鳴っていたって宿題ぐらいできるのに、やってなかったと思うわけだよ。ヘビメタ騒音とは関係なく、宿題をやりたくなかったから、ヘビメタ騒音でできなかったといっているだけなんだと思うわけだよ。これは、侮辱だろ。どういう気持で、問題集や教科書と、ヘビメタ騒音なかで、にらめっこをしていると思っているんだよ?

「できると言えばできる」と言ってしまう人だって、アドバイスのつもりで言っているのだろうけど、そういうことを言う人は、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視しているんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、どれだけ俺が「できるできる」と言ったって、できないんだよ。どうしてかというと、ヘビメタ騒音でできないからだ。ヘビメタ騒音が鳴っていなければできるのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っていなければ、宿題ぐらい、簡単にできるのである。けど、ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題もできない。この人たち……「できると言えばできる」と言っている人たちは、理由について、壮大な勘違いをしている。けど、これまた、「できると言えばできる」と言っている人たちに、だれだけ、ここに書いたようなことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響を無視したり、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができなくなるということを認めないのである。この人たちの頭のなかでは、ヘビメタ騒音の影響で宿題ができなくなるということはないことなのである。かわりに、「宿題ができる」と言えば、宿題はできるはずなのである。あるいは、「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」とひとこと言えば、宿題ができるはずなのである。あるいは、宿題ができるようになるはずなのである。けど、ヘビメタ騒音のなかで「ヘビメタ騒音のなかでも、宿題ができる」と何回も言っても、宿題ができないのである。ヘビメタ騒音が鳴っていると、宿題ができないのである。頭がこんがらがって、短期記憶が吹き飛ばされてしまうので考えることがまったくできないのである。これを言ってしまうと、問題があるのだけど、「できると言えばできる」と言っている人たちだって、自分の現実的な問題に関しては、「どれだけできると言ったって、できないものはできない」と考えているので、自分の現実的な問題に関しては、言霊的な問題解決方法を採用しないのである。たとえば、とある「できると言えばできる」と言っている人がAさんだとする。そして、Aさんが、ギックリ腰になったとする。その場合、Aさんは「ギックリ腰はなおる」と言って、ギックリ腰をなおそうとするのかというと、そうではないのである。「ギックリ腰はなおる」と言っても、言っただけでは、なおらないことを知っているので、言うことで、ギックリ腰をなおそうとしないのである。Aさんの職場で、Aさんが五〇キログラムもあるような重たい荷物を運ばなければならないとする。その場合、Aさんが「できると言えばできる」と言って、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、はこぶかというと、そうではないのである。 「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言ったって、できるようにならないことは知っているので、荷物を運ぼうとしないのである。あるいは、「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言って、荷物を持ち上げようとするのだけど、荷物を持ち上げようとすると、腰が痛くなるので、そのたびに「いたい!いたい!」と言って、荷物を持ち上げることすら、できないのである。「自分はこの荷物をはこぶことができる」と言えば、言っただけで、自分がこの荷物を運べるようになるというのが、言霊理論なのである。言ったことが、現実化するのだからそうなるのである。ところが、言霊主義者であったとしても、自分の、現実的な問題に関しては、言霊的な解決法をこころみようとさえしないのである。どうしてかというと、「できる」と言っても、「できない」ことを知っているから……。どういうことが(自分には)できないかということを知っているので、最初から、現実的に考えて、できないことに関しては、言霊的な解決法を利用しようとしないのである。けど、ほかの人には、言霊的な解決方法が絶対的に有効であるというようなことを言う。「言霊は絶対だ」というようなことを言うのである。なにが、絶対なのかぼくにはわからないけど、たぶん、言霊は絶対にあって、言霊で絶対に解決できるということなのだろう。どんな問題でも、言霊的な解決方法で解決できるということを、真剣に主張するのである。ところが、普段の生活を見てみると、言霊主義者は、自分の現実的な問題を言霊的な解決方法で解決しようとしないのである。

ともかく、ヘビメタ騒音の影響を無視する人は、ぼくのことを、必然的みくびり、バカにして、事実とは異なることを言ってくるようになるのである。

たとえば、「ほんとうは、宿題をやりたくなかったから、(エイリは)ヘビメタ騒音が鳴っていると宿題ができないと言っている」というようなことを言ってくるようになるのである。ちがうんだよ。誤解だ。

*     *     *

たとえばの話だけど、「できると言えばできる」と言っている人が「自分はこの荷物を運べる」と言ったあと、荷物を運ぶどころか、持ち上げることすらできなかったとする。その場合、「できると言えばできる」と言った人は、自分が「できると言えばできる」と言ったにもかかわらず、できなかったというとを、ちゃんと認めるのかというと、ちゃんとは、認めないのである。できなかったあとも、「できると言えばできる」という考え方が、ずっと成り立っているのだ。現実的には、自分ができなかったにもかかわらず、「できると言えばできる」と思ったまま生活をしている。「できる」と言ったのに、「できなかった」ということに、ちゃんと向き合うことをしないのである。自分をごまかして生きているのである。

まあ、説明をはしおったので、話は見えないと思うけど、なんとなく、書いたこと

 「キミじゃなくて彼だよ」と言いたかったのだけど、相手のこころが傷つくかなと思ってやめたわけだけど、そうしたら、ほかのやつらが文句を言ってきたというのがある。ほかのやつらは、言ってみれば、誤解をしている。けど、英語、日本語、スペイン語が入り乱れている状態だったので、ちょっと誤解をとける状態じゃなかった。通訳を買って出た人の、発言がトラブルのもとになっているんだよな。けど、手短に言って、ぼくが、相手のこころが傷つくかどうかを、過度に心配しすぎるのは、きちがい親父の影響なんだよな。きちがい親父なんて、相手が赤ん坊だろうが幼児だろうが、家にいたら、発狂していたわけだから。怒りを、赤ん坊や幼児にむけて、発散していた。理由なんてないんだよ。自分の怒りを発散できる状態だから、発散していただけなんだよ。けど、きちがい親父のきちがいたるゆえんなのだけど、きちがい親父自信が、その赤ん坊やその幼児に、ひどい目にあわされたという気持でいっぱいなんだよ。「おこる理由がある」と思っているんだよ。発狂して攻撃をしてもいいだけのことを、相手?がしたと思っているんだよ。そういう思い込みがあるんだよ。感情的な爆発があるんたよ。感情的に爆発しているのだけど、自分が爆発するだけのことを、相手がしたと思っているんだよ。けど、じゃあ実際に、それがなんなのかということは、本人にもわからないことなんだよ。ほんとうは、とるにたらないことというか、きちがいでなければ、絶対におこらないようなことでおっているのだから、理由なんてない状態なんだよ。だから、次から次へと、怒り狂うことを見つけて、怒り狂うということになる。

ともかく、俺が幼児時代、きちがい親父が、なんだろうが傷ついて、こっちに攻撃をしてきたので、気にするようになった。たしかに、「キミじゃなくて、彼だよ」ということ自体は、いま考えると、たいして、傷つけるような内容じゃないんだよな。けど、通訳を買って出た人が、「オーケーというのは、自分が話しかけてもいいというオーケーなのか? 狩れば話しかけてもいいというオーケーなのか?」ということを英語で訊いてきたわけ。でっ、そのとき、ぼくは、ほかの人との会話を五個ぐらいかかえていたので、ちょっと対応が雑になった。だいたい、いつも、その人(通訳を買って出た人とは)英語で話しているわけだから、なんで、そこで、「自分が話しかけてもいいということなのか? 彼が話しかけてもいいということなのか?」という疑問を持つのかということに関して、もどかしさを感じた。ようするに、通訳を買って出た人は、俺が「オーケー」だといったのだから、そのまま、通訳を開始してくれればよかったのである。ただ、ようするに、ぼくの場合、いつでも、「こういうふうにいうと、相手が傷つくかもしれない」というようなことを、ものすごく、気にしている。ここで、いろいろとずけずけと書いているようだけど、それは、すでに、こっちが攻撃をうけたと認識しているので、そうなるのだ。攻撃をうけていないニュートラルな状態であれば、ぼくは、相手が自分の言葉をどういうふうに受け取るかということを、ものすごく気にする。傷つけたくないからだ。

まあ、この、「キミじゃなくて彼だよ」ということに関しては、ほんとうは、状態をちゃんと説明しなければならないのだけど、状態をちゃんと説明したわけではないので、話が見えないところがあると思う。ときどき、この「キミじゃなくて彼だよ」と言えばよかったんじゃないかと、思ったりする。

2024年7月29日月曜日

「サカマのことだってあんなことにならなかった」

 きちがい兄貴がやったことや、きちがい親父がやったことが、ぼくの日常の気分に、影響をあたえるんだよ。どうしたって、俺の行動に影響をあたえる。きちがい的な感覚で、きちがい的な行為をきちがい的な意地でやって、それを、きちがい的な意地で認めない。そして、思いつくことが、きちがいなんだよ。きちがい兄貴の「おとへのこだわり」というのはない。ヘッドホンをしてくれればそれですむのに、絶対にヘッドホンをつけてくれない。自分が思いっきり鳴らしたいという気持を優先して、思いっきり、よそではありえない音で鳴らしているのに、自分が思いっきり鳴らしていると言うこと自体を、認めない。これは、認識しているけど、俺には、認識してないようにふるまうと言うことではない。ほんとうに、認識してない。その場合、どーーしても、影響をうけるんだよ。実際にやられていることというのは、俺の他人に対する行為に、影響をあたえる。そりゃ、きちがい家族によるヘビメタ騒音で人生を破壊されたあとは、騒音そのものに対して敏感になる。あたりまえだ。そういうことも、きちがいヘビメタがなければなかったことなんだよ。そして、「あたりまえのようにやる」ということが、やはり、影響をあたえる。

きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、「サカマのことだってあんなことにならなかった」という気持がある。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、「ダイヤのことだってあんなことにならなかった」という気持がある。 

*     *     *

ヘビメタ騒音にやられなかった場合の「反応行動」を理想的な反応行動だとする。そうすると、ヘビメタ騒音にやられていると、理想的な反応行動ができなくなってまうのである。理想的な反応行動というのは、ぼくにできない反応行動ではなくて、ほんらい、できる反応行動なのである。けど、ヘビメタ騒音がつみかさなっていくて、普通の反応行動ができなくなる。これだって、「できると言えばできる」というようなことを言う人にはまったくわからないことだ。わからないということは、けっきょく、それだけのハンディを背負ってないのである。ヘビメタ騒音相当のハンディを背負ってないから言えることなのである。ああっ、手短に言って「俺だって苦労した」と言ったって、それは、ヘビメタ騒音相当のハンディを背負ってない状態で言っていることだからね。ヘビメタ騒音相当のハンディを背負っていたら、「できると言えばできる」なんて言わない。「できると言ったってできないものはできない」「できると言わなくたってできたことが、できなくなる」ということが、経験をとおしてわかってないから、「できると言えばできる」と豪語している状態なのだから、経験をとおしてわかってないということは、あきらかだ。ようするに、ヘビメタ騒音相当のハンディがなかったから「できると言えばできる」と言える状態なんだよ。

たとえば、睡眠がじゅうぶんでないから、頭がモヤモヤして、普通の反応行動ができないというのが、一番わかりやすいと思う。けど、睡眠だけじゃないのである。きちがい兄貴が普通にやる基地ちがい行動が与える影響がでかいのである。もちろん、ヘビメタ騒音で眠れなくなり、常に睡眠不足である状態で暮らしていたのだけど、それだけじゃないのだ。睡眠だけじゃない。きちがい行為が、きちがいの行為として影響をあたえている。この部分は、毎日、きちがい家族にやられた人じゃないとわからないと思う。たとえば、だれだっていやなことをやられれば、やなことをやられたという負の感情が生まれる。けど、相手がきちがいの場合は、これがまた、ちがうのである。ただ単にいやなことをやられたから感じる部分のほかに、きちがい家族が、きちがい家族のやったことを無視しているということが、影響をあたえるのである。認知症の人がなにかをやって、不愉快な気持になる場合と、普通の人がなにかをやって、不愉快な気持になる場合とはちがうと思う。けど、きちがい兄貴がやったことというのは、認知症がやったことともちがうのである。この部分が、みんなわかってない。実際に、自分がやられたことがないので……そういう特殊な家族にやられたことがないので、普通の人がやってくる不愉快なことと、おなじだと思っているのである。きちがい兄貴が俺にやったことは、普通の人が、普通の人にやったこととは、ちがうのである。たとえ、「うるさくした」という点でおなじであっても、ちがうのである。けど、普通の人は、普通の人が「うるさくして」不愉快な気持になったというようなことしか、考えてないのである。ちがうのである。きちがい兄貴の認知の問題というのは、認知症の人の認知の問題とはちがうのである。忘却じゃない。無視しているところがちがう。これは、こっちの感情に影響をあたえる。毎日、つもれば、ちがう効果があらわれる。単に、寝不足で、普通の反応行動ができないというのとは、ちがう点がある。もちろん寝不足で、普通の反応行動ができないということとおなじ点もあるのだけど、ちがう点もある。感情がちがう。実際にやってしまったのだから……実際にやらなかった場合とは、ちがう効果があらわれる。これ、無視のしかたがちがうと……無視のしかたが普通の人とちがうと、ちがった効果もしょうじてしまうのである。これは、感情や思考に影響をあたえる。

2024年7月26日金曜日

ルール

 ほんとうに、どれだけ、がんばっても、一日が「やぶけて、ふさがらない」ような状態になるのに、無視してやりやがって。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚の持ち主でなければ、絶対にできないことなんだよ。けど、そういう「ほかのうちでは絶対にありえないこと」が、うちでは、毎日普通に成り立っていた。うちでは、毎日普通に、そうなっていた。ほかのうちだったら、ぜっーーーたいにありえないことなんだよ。どれだけ鳴らしたくても、きちがいでなければ、「こんなにでかい音で鳴らすと迷惑だな」と思って鳴らさない音なんだよ。鳴らしているときも、絶対に、普通の人なら「自分はでかい音で鳴らしている」ということを認識できるんだよ。ところが、うちのきちがい兄貴は、きちがいだから、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているということを認めたくない場合は、でかい音で鳴らしてないと思って、でかい音で鳴らし続けることができるのだ。こんなの、頭がおかしくなかったら、できないことなんだよ。でっ、何度も言うことになるけど、きちがい親父もおなじなんだよ。四人家族のなかで、二人がそういう状態。こんなの、ない。きちがいのやってることは、きちがい親父が、毎日、ずっとずっと、十数年間にわたって「やってきたこと」なんだよ。もちろん、きちがい親父自身は「そんなことはやってない」と思っていることなんだよ。きちがい的な意地で、毎日普通にやるということや、きちがい的な意地で、やったことを認めないというへんな性格が、きちがい親父からきちがい兄貴に伝わってしまったんだよ。問題なのは、ずっと、「知らんぷりでやってきた人がいる」ということだ。普通なら、その人は、親として、子どもを監視するような立場にいる人なのだ。普通なら、親として子どもを監視するような立場にいる人が、そういう人間だということが、どういう意味をもっているか、ほかの人はわかってない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な感覚で「やってないこと」にしてしまう……。こんなことを普段から普通にやっている人間が、親なんだぞ。これがどういうことなのか、ほかの人はまったくわかってない。普通なら、ルール通りに、ほかの人が動いているかどうか監視する人が、ルールを守らずに、ルールを破りきった行動を毎回毎回しているのに、本人は、そのつもりがないのだから、こまるんだよ。一緒に住んでいる人はこまるんだよ。悪意なく、「そのつもりがない」状態なのだ。「そのつもりがない」ということは、「やってないということ」なんだよ。きちがい的な意地でやったのに、本人がやったつもりがない……。やめろといわれたら、発狂してやり続ける。けど、やり続けたことで、相手がこまったということは、永久に、記憶に残らない。最初から、そういう認識がまったくないのだから、記憶に残るわけがない。これは、忘却じゃない。都合が悪いことなので、認識しないことになっていることだ。しかも、「都合が悪いから認識しないようにしよう」ということにもなってないのである。そうじゃない。ぜんぜんちがう。

「まいにち、つもる」

  「まいにち、つもる」と言っても「まいにち、つもったことがない」人にはわからない。この差は、でかい。きちがい兄貴が、まったく気にしないでやったことが、ずっと影響を与え続けている。これ、一日のなかでも、たいへんなのに、毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人には、まったくわからないんだよね。

ともかく、きちがい兄貴がやったことというのは、普通のうちでは起こりえないことなんだよ。おりこえないということは、普通のうちに住んでいる人には、怒らないことなんだよ。だから、その人たちが「俺だって苦労した」「俺だって困難があった」「騒音ぐらい俺だってある」と言っても、ちがうんだよ。たとえば、「騒音ぐらいあった」と言っている人は、普通の枠組み中で、騒音があったということなんだよ。きちがい家族による騒音じゃない。きちがい家族による騒音でなければ、ぼくが言っている騒音とはちがう。きちがい兄貴の騒音とはちがう。きちがい兄貴のしくみがあまりにもおかしいので、ほかの人にはわからない。まえから言っているけど、きちがい親父も、きちがい兄貴とおなじしくみをもっている。ほかの人にはないしくみだ。これ、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、親父とおなじように、きちがい行為を夢中になってやりはじめてしまった場合、きちがい親父が、普通の父親と同じ行動をするかというと、しないんだよ。きちがい親父らしい感じ方で、きちがい親父らしい行動する。そうすると、ほかの人から、俺が誤解をうけるということになるんだよ。そして、ほかの人は、それにまったく気がつかない。どうしてかというと、自分の常識のなかでは、「親というのはそういうものだ」「家族というのはそういうものだ」「人間というのはそういうものだ」ということになっているからだ。ようするに、「家族」という概念のもとになっている、家族というものが、ぼくの家族とは、まったくちがうのである。だから、ぼくがおかしいことを言っているように感じるのである。そして、こんなことをやられたら……やられ続けたら、「やられた」ということや「やられ続けた」ということについて言及する場合だって、ネガティブな話になる。自動的にそうなるだろ。しかし、世の中には、「ネガティブな話は、ネガティブだからダメだ」というような常識があるんだよ。わっはは。わらっちゃうね。だから、誤解をしたまま、「こいつは、ネガティブな話をしている」と思うわけ。どんだけ……。いろいろ……。くっつくか……。

2024年7月25日木曜日

ヘビメタ騒音でくるしい

 ヘビメタ騒音でくるしい。ほんとうに、人にあっているときの気持ちが並じゃない。やられてない人にはわからない。きちがい家族にたたられたことがない人にはわからない。そりゃ、デートなんてできるわけがない。これも、ヘビメタ騒音とデートは関係がない」などと言うやつが出てくるんだけど、おおありだよ。関係、あるよ。あのときの気分……あのころの気分……ヘビメタ騒音期間中の気分といったら、並じゃない。ぜんぜんちがう。そいつらが考えているヘビメタ騒音の影響と、俺が実際に経験したヘビメタ騒音の影響はちがいすぎる。そいつらが、わからないから、そういうふうに言っているだけ。

頭が、こんがらがる……いてもたてもいられなくなる音にずっとさらされて、いいわけがない。ほんとうに、精神も体も破壊された。ゆるせない。兄貴に言いたい……。「俺の人生をかえしてくれ」と言いたい。

普通の人だったら、どれだけ、あの音で鳴らしたくても、遠慮して鳴らさないんだよ。普通の人だったら、ヘッドホンをつけて鳴らす音なんだよ。「なまのおと」にこだわって、絶対に、ヘッドホンをつけないで鳴らすとか……おかしすぎる。そういうおかしい部分が、よその人にはわからないから、俺が問題解決能力がないように言われたり、俺がかわった人だと言われることになる。きちがい兄貴の、こだわりは、ほかの人にはわからない。そして、これが、ほんとうにいやなことなのだけど、きちがい兄貴にもまったくわかってないのだ。これ、当のきちがい兄貴が、ほかの人よりも、まったくわかってないというところがある。本人がきちがい的な意地でこだわっているということについて、本人が無頓着なんだよ。気がつかない。

これは、親父とおなじだ。親父と兄貴でおなじなんだよ。きちがい的な意地で、きちがい的なこだわりで、ゆずならないのに、これまた、きちがい的なしくみで、ゆずってないということに、一切合切、気がつかない。そういうきちがい的な態度はおかしい……ということについて、本人たちがまったく気がつかない。ほんとうに、ごく自然にそうなっている。ほんとうに、ゆるせない。

2024年7月24日水曜日

疲労供給モデル

 たとえば、つかれることがあるとする。このつかれることは、一回起こると、一の疲労をあたえるとする。そして、人間には、体力の個体差があるけど、体力の個体差は、七〇から一〇〇の範囲のなかにおさまるとする。一日に、二〇〇の疲労をあたえられると、一日に、一〇〇の疲労がたまる人から、一三〇の疲労がたまる人の間で疲労の度合いが分布するということになる。人類ならそうなるということになる。そして、たとえば、おなじ状態が一〇〇日続いたのであれば、一日における値が一〇〇倍になるということになる。その場合、一〇〇日の積み重ねは、個人において意味があるものになる。「過去は関係がない」なんて言えない。前述の設定なら、一〇一日目には、一〇〇日分のちがいがあらわれているということになる。たとえば、七〇の疲労解消力をもっている人は、一三〇〇の疲労がたまっていることになり、一〇〇の疲労解消力をもっている人は、一〇〇〇の疲労がたまっているということになる。なので、たとえば、一〇一日目の、一日における疲労の供給が、一〇〇だったとしても、すでに、一三〇〇の疲労がたまっている人と、一〇〇〇の疲労がたまっている人では、疲労の状態がちがうということになる。過去は、関係がある。

すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

 うーーん。まあ、あんまり、頭が働いてないから、適当に書く。

たとえば、困難の度合いを一〇〇段階にわける。一段階目から、一〇〇段階目までわける。そして、一〇〇段階目の人も、ひとつは、困難があるとする。一段階目の人は一〇〇の困難がある。

なので、「ある」とか「ない」という、二値であらわすと、みんな、困難があるということになる。

けど、一段階目の人と、一〇〇段階目の人とでは、困難の数がちがう。

けど、個体は個体なので、ほかの人の、困難の度合いというのは、わからないとする。体験しないとわからないので、体験してない困難については、理解できないものとする。

その場合、あきらかに「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、相対化できるのである。

「困難のちがい」がないのようなことを言える。

実際は、「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、「困難のちがい」を無視することができるのである。

でっ、その場合、やられたほうを悪く言う「言い方」がはやっていると、困難の度合いが強いものが、被害を受けることになるのである。

けど、あいかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」と言っている人は、困難の度合いを同質化して、無視することができる状態ではあるのだ。

これは、たいへんまずい状態なのだ。社会として、たいへんまずい状態だ。

たまたま、きちがい的な親のもとにうまれてしまった人は、きちがい的な親のもとにうまれなかった人とは、ちがう困難を経験することになるのである。

けど、きちがい的な親のものとにうまれなかった人は、経験的に、ちがう困難だということがわからないので、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、困難を同質化して、無視することができるのだ。

きちがい的な親のもとうまれなかった人は、無視できるけど、きちがい的な親のもとにうまれた人には、きちがい的な親のもとにうまれなかった人にはわからない「異質な困難」がある。

けど、同質化されてしまうので、「困難の質」は無視されてしまうのである。その場合、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような文言が、きちがい的な親のもとにうまれた人の首をしめることになるのである。

ぼくが、ここで、いままで述べてきたように、言霊理論、思霊理論、努力論、引き寄せ理論などは、すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

2024年7月22日月曜日

もう、これ、宗教戦争なんだよ

 「できない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできなくなった」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音の連続で、どうしてもできなくなった」と言っているだろ。なにが、「できると言えばできる」だ? なにが、「けど、働いたほうがいい」だ? ふさげるな。

けど、考えてみれば、きちがい兄貴が、きちがい兄貴が満足できる音で、きちがい的に大きな音で鳴らしているということを感覚的に無視して鳴らし続けなければ、こんなことになってないんだよな。 

そして、このことについてだって「いいわけしている」と言われる。こんなのあるか? だいたい、「できると言えばできる」とか「けど、働いたほうがいい」とかと言っているやつらは、そもそも、きちがい家族による毎日のヘビメタ騒音を経験したことがないやつらなのだ。口を開けば、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うけど、ちがうじゃないか。もう、これ、宗教戦争なんだよ。

こいつらには、毎日の記憶がない。実際に、毎日やられたわけじゃないので、毎日の記憶がない。こいつらには、毎日やられたことによって、できあがる、からだの状態がない。実際に、毎日、やられたわけじゃないからだ。ほんとうに、きちがいが、きちがい的な意地で、よそのうちではありえない音で、ずっと鳴らす。「どれだけ、言ったって、きかない」。この、「どれだけ、言ったって、きかない」というのは、こっちが、どれだけ「やめてくれ」と言っても、一分もやめてくれなかったということだ。やめてやる必要がない」ときちがい思考で思っているのである。はっきりと言ってしまうと、それすらもない状態だ。「なにかを言われた」というレベルの理解しかなく、「なにか、不愉快なことを言われたので、きちがい的にしがみついてやり続けた」という状態でしかない。相手が「やめてくれ」と言ってきたということが、そもそもわかってない状態だ。俺が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にずっとさらされて、こまって「やめてくれ」と、きちがい兄貴のところに言いに行ったのに、きちがい兄貴が、「なにか、不愉快なことを言われた」という気持で、怒り狂っておしまいだ。意識的な部分では、「やめてくれ」と言われたということになってないのである。相手が「やめてほしい」と思っていると思うまえに、発狂してはねのけておしまいなのである。だから、はっきりと「やめてくれ」と言われたにもかかわらず、(きちがい兄貴の)意識的なレベルでは「やめてくれ」と言われたということになってないのである。これ、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい兄貴が鳴らしていると、さけようがない状態になる。その状態は、さけようがない状態だ。もちろん、からだの状態も含んでいる。これが、実生活に影響をあたえるのである。 

これも、鳴らされていたって、影響をうけないことは可能だというきちがい思考がある。ところが、どれだけ、強く耳を両手でおさえても、耳栓をしても、発狂的な音で鳴っているのである。とめられないのである。きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対にありえない音で鳴らしているということに、気がつけ。この、「そんなの、耳栓をすればいいだろ」みたいなことを言うやつは、自分が、きちがい家族にやられたことがないのである。「耳栓だと意味がないんだよ」と言ったって、こいつはこいつで、わからないままだ。きちがい兄貴が悪いことをしているのに、まるで、俺が、ちゃんとした対策をしないからダメなんだというようなことを言うのはやめろ。そのおまえが言っている対策は、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言えば、だいじょうぶだというような感じで、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言っても、だいじょうぶではないから、無意味なんだよ。それとおなじだ。

2024年7月21日日曜日

こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

 ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、無理なことになるのに、それがわからない。ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、どれだけがんばっても、いままで、軽くできたことが、できなくなるのに、その過程が、わからない。ぼんくら凡人にはわからない。普通の凡人が、無理なことを言ってくる。自分だって、おなじ環境、同じ条件で暮らしていたら、ぼくのように、できなくなるのに、「この環境、この条件だと」できなくなるということを無視して、無理なことをおしつけてくる。これ、超人なんだよ。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられていないように、ふるまうことができなくなる。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられた体(からだ)になる。これは、ようするに、不可避的にやられた身体になり、不可避的にやられた身体状態で暮らすことになるということだ。ところが、やられてないやつは……毎日やられてないやつは、そこのところを、ガン無視してしまうのである。そりゃ、やられてないから、ガン無視できる。「俺だって、不愉快なことはある」「俺だってつかれることはある」と均質化、同質化してしまえば、なんだろうが、おなじなのである。だから、自分だったら、影響をうけないで暮らすことができるとという前提で、もを言ってくるようになる。というか、最初から、自分だったら、影響をうけないで、ちゃんとやることができるという前提でものを言ってくる。そして、自分だったら、影響をうけないでちゃんとやることができるという前提が成り立っているということに関して、本人は、無頓着だ。こんなやつらと、つきあえるわけがないだろ。やられてしまっているのだから、無理なんだよ。生活すること自体が無理なんだよ。やられてない場合のように、生活すること自体が無理なんだよ。完全に無理。ところが、よその人……やられてない人は、そこのところが、完全にわからない。よそのやつは、そのこところを完全に無視する。完全に無視している。その場合、やられてしまっているのだから・やられてない場合のように、人間関係を維持するということ自体が無理なことになる。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)の性格が問題だからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)がさぼっているからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)が努力をしてないからそうなるのだと考えるのだ。こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

2024年7月20日土曜日

つらい思いをした

 スネ夫に、「俺だって買ってもらえなかったことがある」「俺だって、ものを買ってもらえなかったからつらい思いをした」と言われているようなもなのなんだぞ。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。

2024年7月19日金曜日

不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる

 たとえば、えらそうに説教する人たちの「きれいごと」をすべて理解しているとして、理解したうえで、ヘビメタ騒音下で、生活するということが、どれだけひどいことなのか、まったくわかってないんだよね。「きれいごと」を言う人たちは……。説教をする人たちは……。「きれいごと」の内容が、できなくなるからこまっているのに……。ヘビメタ騒音で、どうしてもできなくなるからこまっているのに……。こいつらときたら……。こいつらときたら、きれいごとの内容をすればいいんだ……と……言う。できないからこまっているんだぞ。こいつら……きれいごとを言う人たちだって、おなじ環境下なら、できなくなる。自分だって、できなくなる……ということが、まーーったく、まーーったく、わかってない。こういうレベルの理解力しかない。どれだけぼくが、言葉をつくって語ったっとしても、こういうやつらは、こういうやつらのレベルでしか理解しない。そして、こともあろうに……ぼくのことを見下してくる。きちがい兄貴にやられたときから、このことが決まっている。これ、セットなんだよ。言ってみれば、セット。

みんながみんな、あの、常識的な、佐藤(仮名)レベルの理解しかしてない。こんなの、地獄だろ。不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる。ところが、常識的な人は、不可避的にできなくなるということを、ガン無視して、できるという前提でものを言ってくる。こんなの、ない。どれだけ言ったって、(むこうは)わからない。こうなると、あんまり言いたくないけど、似てくるんだよな。きちがい兄貴と、常識的な人の態度が似てくる。しくみはちがうけど……しくみは、完全にちがうけど……態度だけは、似てくる。みんながみんな、きちがい兄貴のように、無視するという構造ができあがる。無視している部分も、無視をする全体のしくみもちがうけど、むしするという構造ができあがる。わかってないやつが、「わかってもらえなくてもいいじゃないか」なんて、言い出す始末だ……。いったいどこまで、こんなことが続くのかと、途方にくれる。

毎日、続いて、いいわけが、ないだろ

 やっぱり、ヘビメタ騒音できついなぁ。毎日、続いて、いいわけが、ないだろ。みんな、まったくわかってない。「影響がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「過去のことは関係がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「自分だって、くるしい目にあってきたので、おなじだ」という前提でものを言うのは、やめろ。「影響がないという前提」「過去のことは関係がない」という前提で、ものを言っておいて、それはない。くるしさの質がちがうから、ちがう症状が出ている。おなじであるはずがない。実際、その人たち……そういうことを言う人たちには、きちがい家族がいない。きちがい家族と一緒に暮らしてきた毎日が、ない。「影響をあたえる」のに「影響はガン無視」か?

ヘビメタ騒音で、できなくなっているから、こまっているのに……「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつに、なにがわかっているのかという問題がある。で、「ヘビメタ騒音の影響」を無視するやつは、みんな、「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつと、おなじレベルのやつなんだよ。そういうレベルでしか物事を考えることができないやつらなんだよ。

2024年7月16日火曜日

屈辱以外のなにものでもない。

 だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験し続けると、働けなくなるのだけど、だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「働けなくなる」ということがわからない。「働けなくなる」というのは、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということだ。だから、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということがわからない……ということになる。だから、「できなくなる」ということがわからないまま、「できる」という前提でものを言ってくることになる。これ自体が、ぼくにとっては、屈辱であるわけ。けど、「これ自体が、ぼくにとっては、屈辱である」ということは、やられてない人にはまったくわからない。普通の人にはまったくわからない。俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない人にはわからない。みんながみんな、俺を見くびって、俺を軽蔑して、もをを言ってくるようになる。ヘビメタ騒音が鳴っている時間に、そのことが決まってしまう。さけられないのだけど、さけられないということが、ほかの人にはわからないのだから、ほかの人はごく自然に「避けられる」という前提でものを考えて、ものを言ってくる。屈辱以外のなにものでもない。

 

 

 

2024年7月15日月曜日

きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめる

 じつは、きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめるということになる場合が多い。きれいごとですめばいいのに、裏がある。あるいは、時系列的なことを考えてないんだよな。きれいごとを言う人たちは、時系列的なことを考えてない。どういう反応が起こって、時間がすすむのかということが、わかってない。まあ、最初から悪意がある場合もある。わかっていないのではなくて、最初から、「あとで対象者がこまること」を想定して、きれいごとを言う場合だ。たとえば、求人欄に、対象となる性別や年齢について書いてはいけないというようなことも、そういうことのひとつだ。あれは、たぶんだけど、わざとやっている。法律とは関係がないケースについては、まあ、きれいごとを言う人たちは、対象者に対する無理解があり、無理解を前提にして、解決策を考えるので、おかしなことになる。理解しているようで、まったく理解してないというしくみ……。

*     *     *

まあ、条件を無視して、精神世界的なことを言う人たちも、本人は、じゅうぶん現実的な、「いい助言」をしているつもりなのだけど、条件を無視しているので、けっきょく、ディスっているだけということになってしまう場合がある。まあ、精神世界の人たちがいい気分になり、「対象者」は悪い気分になるということが発生してしまうなぁ。

 

 

 

 

 

 

2024年7月14日日曜日

未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか

 たとえば、自分が、未来のある時点で起こるすべてのことについて知っていたとする。そういう場合は、「たしかに、決まっていたことが、起こった」ということがわかる。自分が未来見ある時点で起こるすべてのことを知らないのであれば、未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか。過去をむいて……「過去のある時点において、こういうことが起こったから、こういうことが起こるということが、最初から決まっていたにちがいがない」……と思っているだけなのである。未来決定論者、あるいは、運命論者というのは、最初から決まっていたにちがいがないと思っているだけなのである。未来において起こるすべてのことについて知っている人でなければ、たしかに、「それ」が起こったということが、わからない。

条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。

 たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは運命論者だ。Bさんは、Aさんの知り合いだ。Bさんが、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったとする。その日は、二〇二四年の七月一四日だとする。その時間は、午後七時四分だとする。ようするに、Bさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったのだ。そうすると、「BさんがBさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買うということは、Bさんが生まれるまえから決まっていたことだ」ということをAさんが言い出す。結果が出ているから、「こうなることは、最初から決まっていた」とAさんは、言うことができる。しかし、じゃあ、明日の午前八時四分に、Bさんが、なにを買うのか、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分の時点でAさんが言うことができるかというといえないのだ。決まっているのであれば、言えるでしょ。決まっているということを知っているんでしょ。そして、決まっている内容についても知っているんでしょ。だったら、言える。ところが、まったく言えないのだ。だいたい、Bさんが、ほんとうに、明日の午前八時四分に、なにかを買うのかどうかということさえ、言うことができない。Aさんは、言うことができない。結果が出たあと、決まっていたと言っているだけだ。未来のことに関しては、なにも言えないのである。だったら、決まっているかどうかも、ほんとうは、わかってないということではないか。けど、結果が出ていることに関しては、さも、「決まっていた」ように言うのである。決まっていたかどうかというのは、Aさんの勝手な妄想なので、どうとでも言うことができる。結果が出たあと、「あとだしで」決まっていたということを言う人たちがいる。精神世界の人は、よくこういうことをするんだよ。けど、勝手な妄想だとは思ってないから、タチが悪い。こういうことをする人たちというのは、条件が悪い人のことをまったく考えてない。条件が悪い人を、いじめまくって、良心のいたみを感じない。正しいと思っているからな。条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。精神世界の人たちが、得意になって、あとだし思考を前提としたことを言うけど、それは、条件が悪い人にとっては、不愉快なことだ。精神世界の人たちは、精神世界の人たちなのに、あおり行為をして、楽しんでいる。精神世界の人たちは、条件が悪い人に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がついたほうがいい。

*     *     *

起こったということは、起こったということだ。「起こったから、最初から決まっていた」ということは、言えない。まあ、言うことはできるけど、それは、理論的に正しいことではない。距離があることに気がつかないかな? 根拠になってないんだよ。「起こった」ということが、「最初から決まっていた」ということの根拠にはならない。

2024年7月13日土曜日

すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ

 引き寄せ力についてちょっとだけ、語っておく。たとえば、ぼくは、自分にとって重要な哲学の本を、おカネにこまったので、売ったことがある。そして、ある人が、その本を買った。ある人のことをBさんだとする。Bさんは、めったに市場に出てこない中古本を買うことができた。Bさんが、引き寄せ力がある人で、本を引き寄せたのではない。Bさんは、ほしい本が出てくるのを待っていただけだ。Bさんが、引き寄せなんてものに、まったく興味を持っていなかったとしても、そういうことはある。ところが、引き寄せパラダイムに支配されている人は、Bさんが、中古のその本を引き寄せたのだと主張する。そういう解釈をする。これは、解釈にすぎないんだよ。実体としての引き寄せがあるとか、実体としての引き寄せ力があるということではない。けど、引き寄せ信者はBさんの引き寄せ力というものを想定して、Bさんの引き寄せ力が働いた結果、Bさんが、それを引き寄せることができたのだという解釈をする。いつから、Bさんの引き寄せ力が働いているのか? たとえば、ぼくが経済的にピンチになったのは、Bさんの引き寄せ力が影響していのだろうか? ぼくが経済的にピンチにならなければ、その本は、市場に出なかった。ほかの人が、出していたのかもしれないけど、事実として、Bさんが買った本というのは、ぼくが出品したものだ。Bさんの引き寄せ力が働いているのであれば、その本に、Bさんの引き寄せ力が働いているということになる。つまり、ぼくに対して、Bさんの引き寄せ力が働いたので、ぼくが、その本を出品したということになるのである。それだと、Bさんの引き寄せ力が、ぼくの経済的なピンチをつくりだしたということになる。しかし、そうじゃない。実際には、引き寄せというのは、解釈にすぎない。引き寄せのしくみとか、引き寄せの力といったものは、まったくない。存在しない。ただ単に、現実を解釈しただけだ。すでに起こった現実を、引き寄せというコンセプトを使って解釈しただけだ。引き寄せの力なんてない。Bさんの引き寄せ力が、ぼくの行為に影響を及ぼしたわけではない。実際には、アマゾンマーケットプレイスやヤフーオークションのような中古マーケットが成立しているということのほうが、重要な影響をあたえている。しくみが成り立っているし、そのしくみというのは、現実に実行されるしくみなのである。売りたい人が出品をして、買いたい人が買えるというしくみのほうが、(実際の取引において)Bさんの引き寄せ力などというものよりも、実際に、ぼくの出品するという行為に影響をあたえている。「ひきよせひきよせ」と言っている人たちは、すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ。これは、引き寄せというしくみが成り立っているということや、だれだれに(固有の)引き寄せ能力があるということとは、まったく関係がないことだ。引き寄せというしくみが成り立っていなくても、ぼくの本を、Bさんは買うことができた。Bさんに(固有の)引き寄せ能力がなかったとしても、Bさんは、ぼくの本を買うことができた。けど、ぼくが、アマゾンマーケットプレイスに、その本を出さなかったら、Bさんは、ぼくから!その本!を買うことができなかったのである。どっちが重要かというのは、あきらかだ。どっちが成立要因となっているかというのは、あきらかだ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、重要だ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、Bさんがその本を手に入れることができたということに、影響をあたえている。

それから、たとえば、Bさんの、その本に対する関心が続かなかった場合であって、なおかつ、Bさんがその本を手に入れることができなかった場合について考えてみよう。この場合は、ようするに、Bさんは、その本を手にすることがなかったということになる。その本に対する関心が消失したのだから、Bさんにとって、その本を手に入れることは重要なことではなくなる。その場合、Bさんの「引き寄せ能力」がないということになるのだろうか。結果的に、本を手に入れることが出なかったなら、引き寄せ能力がないということになってしまうのである。けど、これもおかしい。引き寄せ能力に関係なく、手に入れられるときは、手に入れらるし、手に入れられないときは、引き寄せ能力に関係なく、手に入れることができる。基本的に、引き寄せ主義者?の言っていることは、すべて、現実の写し絵なのである。結果が出てないことについては、なにも言えない。まあ、結果が出てないことについても、「引き寄せ能力があるから、引き寄せようと思っていればひきよせることができる」とかなんとか、言うことはできる。けど、この人たちは、引き寄せというタームにしたがって、過去における結果を解釈しているだけだ。そして、未来に関しては、引き寄せ能力があるということを前提にして話をしてしまう。けど、過去における結果の解釈というのは、解釈でしかない。結果が出たあと、「これは、引き寄せだ」と言っているだけなのである。で、過去における結果の解釈が、未来の希望につながるわけだけど、これは、ペテンだ。嘘の希望なのである。根拠にならないのである。過去の解釈はあくまでも、過去の解釈であって、嘘の力を前提とした話は、嘘だ。ペテンなのである。引き寄せ能力などというものはないから、未来に関しては、なにも言えない。結果が出てないことについては、なにも言えない。結果の解釈というのは、結果の解釈なので、解釈でしかない。これがわからないかな?


 

 

 

「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく

 「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく。ここでいう「相手の問題だ」というのは、「自分の問題と相手の問題を切り分けましょう」というような考え方のことだ。自分の問題と相手の問題を「切り分ける」こと自体には、別に問題はない。問題なのは、「切り分ければ、自分は影響をうけないですむ」という考え方のほうだ。これ、区別がされてないのである。「切り分けること」ができれば、影響をけなくてすむという考えになってしまうのである。実際には、切り分けることができたとしても、影響をうける場合があるので、影響をうける場合は、問題解決には至らない。ところが、「切り分ければ問題解決ができる」と自動的に考えてしまうやつが出てくる。こいつらの頭のなかでは「切り分ければ、問題解決ができる」ということになっているので、人にもそういうことを言う。けど、「切り分けても、問題が解決できない」場合もあるので、問題が発生する。この問題というのは、最初の問題ではなくて、すべての場合において、「切り分けることさえできれば」問題は解決すると考えるやつが発生するという問題だ。

*     *     *

たとえば、きちがい親父は、いろいろな迷惑な行動をする。その場合、きちがい親父の内的な問題だと割り切って考えれば、一緒に住んでいるきちがい親父の影響をうけずにすむかというとそうではないのである。ここに、「切り分けることができれば問題は解決する」と考えているやつがいるとする。とりあえず、Aさんだということにしておこう。Aさんの頭のなかでは、ぼくが、きちがい親父の問題は、きちがい親父の問題であると考えることができれば、それで問題が解決してしまうのである。ようするに、ぼくにおける、ぼくのなかの、きちがい叔父の問題は、きちがい親父の構造と、ぼくの構造は関係がないということを、ぼくが自覚すれば、それで解決してしまうのである。けど、こんなことはない。きちがい親父の頭の問題だと、問題を切り分けても、問題が解決しないのである。きちがい親父の奇行から発生する問題が解決しないのである。影響をうけることに関しては、影響をうけるのである。おなじように、きちがい兄貴の問題と、ぼくの問題を切り分けたところで、きちがい兄貴が、ヘビメタをきちがい的にでかい音で鳴らす以上は、ぼくの問題が、解決しないのである。ヘビメタ騒音の影響をうけるという問題が、解決しないのである。ところが、「それは、兄貴の頭の問題だ」と問題を(ぼくが)切り分ければ、それで、問題が解決するようなことを言うやつからが、発生してしまう。これは、「気にする必要はない」とか「影響をうける必要はない」とかというような言い方とおなじ問題を含んでいる。相手のこころの問題だと問題を切り分けても、実際に相手がすることによって影響をうけている以上、問題は解決できないのである。あたかも、自分のなかで、相手の問題と自分の問題切り分ければ、それで問題が解決するようなことを、言うな!!

九割以上の人間が、そう思うのだ

 きちがい家族によるものすごくひどい騒音生活というのは、ほかの人にはわからないことなんだよ。経験的にわかってない。だから、ほかの人はつねに、ものすごくひどい騒音生活について勘違いをしている。しかし、ほかの人は、「ないから」勘違いしているのだけど、「ないから」実際に被害をうけてない。そうすると、完全にこっちを見下してくるようになる。どうしてかというと、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信があるからだ。こんなの、経験してないから、わかってないだけなのに、とにもかくにも、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信がある。「自分なら、だいじょうぶだ」という自信は「自分なら、鳴っていてもできる」という自信とおなじだ。おなじ意味をもっている。なので、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と思うことになる。九割以上の人間が、そう思うのだ。「そんなに鳴らされていたら、自分だってできない(できなくなる)」と思う人間は、一割以下だ。だから、出会う人間に、ヘビメタ騒音のことを説明しても、九割以上の人間は、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と俺のことを見下してくるということになる。けど、ほんとうのことを言ってしまうと、証明はできないけど、あれだけひどい騒音生活を体験すれば、「できなくなる」ということがわかると思う。やってみれば、どれだけあがいて努力しても、ボロボロになってできなくなるということが、わかると思う。けっきょく、そういう人たちは、騒音生活というものに関する想像力が欠如しているから、わからないだけだと、ぼくは思う。死にものぐるいの努力をしても、努力しているときに、きちがいヘビメタが鳴っているのだから、できないまま、高圧状態(高ストスレ状態)が続くのである。毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続くのだから、高ストレス状態でボロボロになる。がんばっているあいだ、鳴っているのである。こういうことを、完全に無視して、「俺ならできる」と思って、無理なことを言ってくる。そういうレベルの想像力しかない。そういう人間が九割以上だ。この世は、そういうレベルの想像力しか持ってない人間が九割もいる世界なんだよ。想像力が欠如しているうぬぼれた人間が、ぼくのことをバカにしてくる。きちがいヘビメタが鳴っていると、強制的に、そうなってしまうのである。きちがいヘビメタを鳴らしている張本人というのは、普通の人が考える範囲にいない人なのである。ようするに、九割以上のバカは、きちがいヘビメタを鳴らしている張本人について、常に誤解をしている状態なのである。普通の人は、きちがい兄貴の「脳みその構造」について、誤解をしている。普通の人は、きちがい兄貴の感覚について誤解をしている。だから、これまた、強制的に誤解をされるような状態になってしまうのである。ヘビメタ騒音が押しつけてきたことはいろいろとあるけど、そのうちのひとつが、これだ。

2024年7月12日金曜日

「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまう

  なになにができるというのは、なになにができるということだけを意味して、『人格』とは関係がない。ところが、「なになにができる自分は、なになにができないだれかよりも、上だ」と考えてしまうのだ。

そして、「思ったことが現実化する」というような、幼稚な考え方がはびこっていると、「できない」人は「できないと思っているからできない」というような幼稚な考え方に支配されてしまうのである。

この世は、条件がある。個人の能力というのも、『条件』のなかに含まれている。

そして、この社会には、階層構造がある。あきらかな階層構造だ。

なので、上下関係は、「人間の格」の上下関係になってしまうのである。ほんとうは、階層構造において、上の地位にいるということは、人間の格をあらわしてない。もちろん、人格もあらわしてないな。

ところが、上の人は、人格的にも上だという考え方が、(各自の全身に)しみわたってしまうのである。

なので、「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまうのである。「できる」とか「できない」とかということを通して、自分自身や他者について考えるということになる。

また、「地位が上か下か」ということを通して自分自身や他者について考えるということになる。これは、(すべての社会的な人間に)染みついている。

なので、どれだけきれいごとを言っても、実際の行動は、こういうメタ認知に根差したものになる。ようするに、意識的なきれいごとには従わず、現実場面のメタ認知にしたがって、行動するということになる。

そもそも、きれいごとは、「切り出した場面」によって構成されているのだけど、その「切り出した場面」というのは、メタ認知にしたがっているので、あらかじめ、条件を含んだものになる。

ところが、「切り出した場面」から、抽象化するときに、そのメタ認知的な条件をすべて、そぎおとしてしまうのである。そして、条件をそぎおとした「きれいごと」が誕生するのである。

しかし、「現実の場面」では、(その現実の場面における)メタ認知が影響しているので、ごく普通に「きれいごと」のなかにはなかった行動をするのである。それが、人間なのである。ようするに、「きれいごと」に感動したときのようには、行動しないのである。

2024年7月9日火曜日

「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。

 「よそのうち」では、ありえないことなんだよ。だから、よそのうちの人は、経験したことがないことなんだよ。そうすると、過小評価する。無視する。俺がどれだけ、「ヘビメタ騒音の影響できない」と言っても、認めない。こいつらは、無視して「できる」という前提で、話をすすめてしまう。「できる」というのは、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていてもできる」ということだし、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、できる」ということだ。現在進行形でも、過去形でも、できないものはできないんだよ。そして、努力のすえ、できなくなることがあるんだよ。ストレスに対抗して、がんばっている期間というのは、長くは続かない。そして、長く続いた場合は、負の影響をもたらすことになる。ようするに、もともとのストレスのほかに、時系列的には、がんばってきたということが新しいストレスをもたらすのである。あたらしいストレスと言ったけど、このほかにも、疲労感、倦怠感などがある。これも、時系列的に、からだがストレスにさらされて、「がんばってきたから」発生したものだ。ところが、「影響なんてない」というやつは、そういうプロセスを無視して、影響なんてない」と言うのである。くそばか。くそばか。

きちがい兄貴も、きちがい親父も、一般人も、ヘビメタ騒音の影響を、認めなかった。ガン無視なのである。「そんなのは関係がないこと」なのである。そりゃ、一般人には、関係がないことだ。けど、ぼくには関係があることなのである。過去の出来事でも、関係があることなのである。昨日の出来事でも、長時間続く出来事なのだから、今日の状態に影響をあたえるのである。昨日のヘビメタは、今日のぼくの状態に、影響をあたえるのである。長時間続いて、眠ることができなかった。眠ることができなかったということは、起きて活動している時間に影響をあたえるのである。「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。「影響がない」と、影響がない人は言うけど、影響がある。

ともかく、一般人は、ヘビメタの影響を、無視する。きちがい兄貴も無視する。きちがい兄貴は、張本人で実際に、ぼくの部屋の横で、きちがい的な意地で鳴らしていたやつだ。一般人は、ぼくの部屋の横で、ヘビメタを鳴らしてない。鳴らしてない。だから、そういう意味では、関係がない。けど、僕の身に起こったことだから、ぼくには関係があることなのである。一般人が、関係性を無視して、「関係がない」と言い張るのは、ぼくにとって腹がたつことなんだよ。 

一般人は、俺が、どれだけがんばってきたか、まったくわかってない。きちがいヘビメタ騒音生活が続くのだから、がんばるしかないのである。これ、ほんとうに毎日、自殺するかどうかというようなでかい問題なのである。ぎりぎりのところで、がんばって暮らしてきたのに、まるで、俺がちょっと努力をすれば、問題が解決できるようなことを言うな。

*     *     *

「ヘビメタ騒音→ヘビメタ騒音疲労→ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」という連鎖があるとする。これは、少ない項目の連鎖なんだけど、もっともっといっぱいいっぱい、たくさんの連鎖がしょうじてしまう。一般人にはまったくわからないと思うけど、「ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」こと自体が、とてつもなく、不愉快なことだ。これ、不愉快なことなのである。ネガティブな経験なのである。ヘビメタ騒音を起点として、無数の連鎖がしょうじる。そりゃ、第二項目から、別の第三項目がしょうじる場合だってあるわけだからそうなる。努力論や自己責任論は、俺の首をしめてくる理論なんだよ。こんなもの、妄想的な理論なのだけど、真実だと思っているやつは、正しい理論だと思っている。

こういう人たちの気持ちを考えると、言いたいことが言えなくなってしまうのだけど、こういう人たちは、考えちがいをしている。ともかく、「(ヘビメタ騒音なんて)関係がない」と言われることは、ぼくにとって、不愉快な出来事だ。猛烈にネガティブな出来事なのである。 「関係がない」と言わなくても、関係がないということが前提として成り立っていることを言われるのは、ぼくにとって、とてつもなく、不愉快な出来事だ。

良心

 ほんとうは、良心に従わず行動をしていても、いくらだって、きれいごとを言えるのが人間だ。だから、別に、黒側の宗教のなかに、もっともらしい教義をもっているものがあったとしても不思議ではない。それから、ほんとうにピンチになったとき、どういうことをするのかが問題なのであって、普段、どういうことを言っているかは、まったく問題じゃない。今回だって、それは、もうあきらかなんだけど、黒側に洗脳されている人たちは、黒側の人の言葉を好むのである。「いい人だ」「すごい人だ」「これが、真実だ」と思ってしまうのである。それは、正反対のきれいごと。ようするに、普通の人は、見分けがつかない。良心に従った行動と、良心に従わない行動の、見分けがつかない。だから、見せかけの言葉にだまされてしまう。ある程度、黒に洗脳されて、その価値観があるから、だれがほんとうに良心的な行動をしたか、判断がつかない状態で生きている。

頻度と程度がちがうから、ちがう。

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのがすさまじいもので、どうしても、すさまじい影響をうけてしまう。どれだけ気持ちをとりなおして、生活しても、ずっとずっと、きちがいヘビメタ騒音が、続くわけだから、けっきょく、どれだけ気持ちをとりなおして生活していても、くるしいということになる。楽しくないということになる。つらいということになる。不愉快な出来事が連続して起こる状態になる。それは、きちがいヘビメタ騒音によってもたらされる出来事なんだけど、当の、きちがい兄貴は、知らんぷりだ。わかるわけがない。こっちが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、不可避的にトラブルを抱えてしまうということが、まったくわからない。これは、きちがいだからわからない。普通の人だったら、ひとこと言えば、わかることなのである。自分が「思いっきり」やりたければ、思いっきりやれないようになることは、どれだけ明らかなことでも、いのちをかけて、絶対に認めないのである。きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。ちなみに、きちがい親父の態度もそういう態度なのである。だから、ひとつ家に、ふたりもそういう人間がいるのだから、くるしくなる。一家に、ふたりもそういう人間がいれば、残りの家族の人生は、ズタボロになる。どうしたって、ズタボロになる。そして、きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、めちゃくちゃなことを言うのである。「気をとりなおしてやればいい」というようなことを言う。そりゃ、普通の家ならそうなのだろうけど、ちがうのだ。きちがい家族と一緒に住んでいるとちがう。頻度と程度がちがうから、ちがう。

ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいても

 ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいてもおもしろいはずがないんだよね。普通の人は、黒に洗脳されて、黒の価値観が正しいと思って生きている。黒の労働観、黒の道徳観、黒の人生観……そういうものが頭のなかにつまっている。ちなみに、黒の道徳観というのは、文字だけ抜き出してみれば、白の道徳観とおなじなのである。しかし、黒の影響をうけていると、まったく正反対の行為をするようになる。ようするに、完全にだまされて、逆のことをしてしまう。そういうしくみがある。なので、自分の道徳観にしたがって生きているようでも、非・道徳的なことをして生きているということになる。まあ、だまされてしまっているのだから、しかたがない。言葉だけで考えるなら、黒の道徳観も、白の道徳観もたいしてかわりがないのである。字面(じづら)は、おなじなのである。

2024年7月6日土曜日

近くの工事がうるさい

  近くの工事がうるさい。騒音のなかで、バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いている。騒音と、この曲の組み合わせ……。いろいろなことが頭のなかをよぎる。騒音に対抗するためになにか聴こうと思って、かけた曲なのだけど、とても、とても、なつかしい。あーー。しかし、俺の一生はなんだったんだろう。

ぼくは、もともとは、騒音耐性がとても高いほうなのだけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音七年間で、だめになった。破壊された。ヘビメタ騒音の持続期間が七年ということではなくて、七年で、崩壊したということ。ほんとうに、騒音耐性が破壊された。あの音の持続が、どれだけひどいものか、ほかの人はわかってない。すぐ、そこで鳴っている音なんだぞ。あんなでかい音で、鳴らしているうちなんてない。壁があるから、きちがい兄貴のスピーカーは見えないけど、壁が透明なら、すぐそこにあるスピーカーだ。振動? くるよ。細かい、細かい、振動で、睡眠回路がおかしくなる。耐騒音回路も破壊された。

これ、きちがいヘビメタがなかったら、うるさいとは思うけど、たいして、こたえない音だ。きちがいヘビメタ騒音の十数年があるから、どんな騒音もこたえるようになった。不愉快な記憶がよみがえってしまうのだ。

このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ないしんどさなのである。

  ほんとうに、つかれたなぁ。まあ、起きたあと、水を飲んで、ゆっくりできるというのは、いいことかな? だって、そりゃ、ヘビメタ騒音以降、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないという圧力がかかっていると、水を飲んでゆっくりできる時間なんてないからな。「そんなのは、つくればいいだろ」と思うかもしれない。ようするに、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないとしても、水を飲んでゆくっりする時間ぐらいはできるということだ。ところが、ヘビメタ騒音期間中から、ヘビメタ騒音期間後は、そういうことが、一切合切、できなくなる。毎日、できなくなる。それから、ちょっと話がずれるけど、ヘビメタ騒音期間中の、休みの日というのは、水を飲んでゆっくりできる時間はない。ヘビメタ騒音期間後、いまは、起きたあと水を飲んでゆっくりできるのだから、なおったといえるのかどうかというと、いえない。「水を飲んで、ゆっくりできる」と書いたけど、それは、いちおう、だるさや憂鬱感や破滅感を、はぶいたものなのである。たしかに、ヘビメタ騒音が鳴っていたころの朝にくらべれば、ゆっくりできるのだけど、相対的なものだ。たとえば、今日は、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がまったくないのである。いまは、ヘビメタ騒音が鳴ってないわけだけど、鳴ってないから、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がある日、水を飲んでゆっくりできるのかというと、できない。ようするに、ヘビメタ騒音期間中、ヘビメタ騒音期間後の予定のない日、ヘビメタ騒音期間後の予定のある日で、気持ちがちがう。ヘビメタ騒音期間後の予定のない日であっても、だるさや憂鬱感や破滅感があるので、ヘビメタ騒音がなかった場合……人生のなかでヘビメタ騒音がなかった場合とは、身体と精神の状態がちがうのである。けど、比較をして言えば……一定の時間に起きて、どこかに行く予定がない日だから、水を飲んで「ゆっくり?」できるという意味だ。これで、一定の時間に起きて、どこかに行く予定があるとなると、ヘビメタ騒音期間中の朝の気分になり、はげしい憂鬱感におそわれるのである。はっきり言うと、めちゃくちゃに気分が悪いけど、無理をして、外に出るということになる。今日は、一定の時間に起きなければならないから、一定の時間に起きたのではなくて、そもそも、自由な時間に起きた日だ。ヘビメタ騒音期間以降であり、一定の時間に起きなくてもいい自由があるから、だるくてしんどいけど、「ゆっくり」はできるという感じだ。これだって、人生のなかで、ヘビメタ騒音期間がなかった場合とは、ちがうはずだ。起きたときになにを感じるかというと、破滅感を感じるのである。ほんとうは、起きたくないけど、生理現象にあらがうことができないので、しんどいけど、無理やり起きて、無理やり行動しているのである。水を飲むというのも、「からっからにのどがかわいた状態」だったから、水を飲みたいと強く思って、水を飲んだのである。まあ、しんどさは、常にある。ヘビメタ騒音期間後であったとしても、しんどさは、常にある。このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ない、しんどさなのである。

*     *     *

横道にそれないけど、「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」とか「元気だ元気だといえば元気になる」と言ってるやつが、感じるしんどさなんて、たいしたしんどさじゃない。そういうことを言えるのだから、たいしたしんどさじゃない。けど、そういうことを言う人間だって、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言うことはできる。言うことはできるんだよ。けど、そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって、経験したわけではない。そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって続くと……しょうじる……しんどさがわかってない。わかってないのに、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言って、おなじ程度のしんどさを経験したということにしてしまう。その「苦労した」「ものすごくしんどい思いをした」……自分が……「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」と言っているのだから、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなる……と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「元気だ元気だといえば元気になる」と言っているのだから、「元気だ元気だと言えば元気になる」と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「楽しい楽しいと言えばたのしくなるような憂鬱さ」や「元気だ元気だといえば、元気になるようなしんどさ」しか経験したことがないんじゃいの?

*     *     *

たとえば、憂鬱な人はダメ人間だというような価値観があるとする。だるい人間はダメ人間だというような価値観があるとする。そういう価値観にしたがって、「俺は憂鬱にならないダメ人間じゃない人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。そういう価値観にしたがって、「俺は、憂鬱になっても、楽しい楽しいといって、自分の気持ちを制御できるすごい人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。だめそうな人にそういうことを言って、うかれている。俺はすごいんだと思いたい。憂鬱になっているやつは、ダメなやつだ。常にしんどいやつは、ダメなやつだという価値観が底にある。それに比べて、自分は、しんどさを感じたって、自分で「元気だ元気だ」と言って、しんどさをふっとばすことができる。だから、自分は、しんどいやつにくらべて、すぐれているのだ……と言いたい気分が……見てとれる。経験したことがちがうのに、自分のほうがすぐれているという前提で、くそ役にたたない方法を、クチにするな。相手にとってまったく役に立たないくそ方法をクチにして、有頂天になり、マウントしている。

2024年7月5日金曜日

「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

  かゆいんだよなぁ。かゆいのをどうにかしなければならない。ひっかき傷が増えていく。だいたい、庭の竹だって、モミジだって、きちがい親父が、めちゃくちゃないきおいで植えたものなのだ。だから、こういうことになるから「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている

 きちがい兄貴が、きちがい的な情熱で、悪いことをした。これがわかってないやつらが九割ぐらい、いる。こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている。無限に努力をすることを求めてくる。

2024年7月4日木曜日

こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でできないのに、……普通の人が……「ヘビメタ騒音でできなくなることはない」というきちがい理論を言って、俺のことを……ダメ人間と認識して……せめてくるというのは……いったいなんなんだ? これ、ほんとうに頭にくる。ヘビメタ騒音で、できなくなったこともおなじだ。ヘビメタ騒音「で」できなくなったといっているだろ。これを、信じないやつらがいる。信じないやつらばっかりだ。こいつらの頭のなかでは、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということになっているのである。「ヘビメタ騒音の影響でできなくなるということはない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は現在に影響をあたえない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は関係がない」ということになっているのである。きちがい的な思考をする。きちがい的な前提でもの言ってくる。そして、きちがい親父よりは頑固じゃないけど、頑固だ。ゆずらない。たとえば、「過去は、たしかに関係がある」ということを認めないのである。たとえば、「過去は現在に影響をあたえる」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということを認めないのである。俺とおなじ部屋で、一年間ずっと暮らせば、それがまちがっているということがわかる。いやおうなくわかる。自分のからだでわかる。経験をとおしてわかる。ところが、実際には、こいつらは、俺とおなじ部屋で一年間暮らしたことがない。自分の経験としてない。だから、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということがわからない。

ただ単に、自分の人生には、きちがい家族のきちがい騒音がなかっただけなのに……ずっとずっと毎日毎日続く、きちがい騒音がなかっただけなのに……えらそうなことを言いやがって!! ほんとうに、頭にくる。こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

 本人の気持ちでどうにかなっていることなら、とっくにどうにかなっているんだよ。

*     *     *

世の中の人というのは、『条件』を無視しすぎている。条件を無視した妄想的な理論が正しい理論だと思っている。けど、条件を無視した妄想的な理論は正しい理論ではない。

たとえば、「長財布を使えばお金持ちになる」というような理論について考えてみよう。長財布を使うという条件しか考えてない。ほかの条件はガン無視だ。そして、「長財布を使えばお金持ちになる」という文はXをすればYになるという構文をもっている文だ。一〇〇%理論が成り立っているのである。もう、これは、ここでさんざん書いたので、省略したいけど、簡単に言っておこう。「長財布を使う」ということのなかには、「長財布を使わない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちになる」ということのなかには「金持ちにならない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちにならない場合だってある」という意味を含むことができないんだよ。なので、「長財布を使えば一〇〇%の確率で金持ちになる」ということと「長財布を使えばお金持ちになる」ということは、意味的に等価なんだよ。これをおさえておかなければならない。

それから、「金持ちはみんな長財布を使っている」というようなことが、 「長財布を使えばお金持ちになる」ということの根拠になっているのだけど、そういう関係は成り立たない。お金持が、みんな!長財布を使っているということだって、正しくないことだ。「長財布を使えばお金持ちになる」というようなことを言っている人は、「逆転の発想だ」と思っているかもしれないけど、この逆転の発想がそもそも、理論的に破綻している。もう、これも、努力論のところでさんざん書いたからいいか。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

*     *     *

こういうことにだまされてしまう人が、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して、妄想的なことを言ってくる。なんなんだ? この地獄は?


もう、この体であるわけだから

 もう、この体(からだ)であるわけだから、現実的なことは、全部、きちがい兄貴がかかわっていることなんだよ。実際に、現実的なことをやるとしたら、この体(からだ)を使ってやるしかないわけだからなぁ。

ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。ヘビメタ騒音生活の影響がでかすぎる。時間経過というのはある。みんな、ぜんぜんわかってない。どれだけ影響をあたえたか、ぜんぜんわかってない。「過去は関係がない」とか言うやつは、みんな、なぐってやりたくなる。「おまえ、ほんとうに、まっくわかってないな」と言いたくなる。

どれだけのことがつみかさなったか、ぜんぜん、わかってない。わっかてないのに、くそ、言うな。 

この、ヘビメタ騒音の影響を無視するやつらといのは、いったいなんなんだ? ヘビメタ騒音について、ぼくが説明したあとに、こいつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、きちがい的なことを言ってく。妄想的なことを言ってくる。無理なことを言ってくる。「ぼくのからだでは、それは無理なんだ」ということを言ってくる。本人は、正しいことを言っているつもりなんだ。バカの壁がある。このバカの壁は、やっかいだ。本人は、妄想にしたがっ、ただしいことを言っているつもりだからな。

ぼくがヘビメタ騒音について説明したあと、ヘビメタ騒音の影響を無視して、ぼくに、妄想的なことを言ってくるやつらというのは、まったくわかってない。……まあ、これだと、わからないかもしれない。

妄想的なことを言ってくるやつらのなかには、たとえば、言霊主義者が含まれている。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを認めない。そして、妄想的なことを言ってくる。「言えば、言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」……これが妄想でなくてなんだ。

けど、ここに書いたようなことを説明しても、言霊主義者は、自分がまちがっているということを認めない。バカの壁だ。

言霊主義者だけではなくて、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言ってくるやつらには、自分が妄想的なことを言っているという自覚がない。バカの壁だ。説明してやっても、まるで理解しない。

 

2024年7月3日水曜日

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである

きちがい親父の話をする。ハンダゴテ事件のとき、きちがい親父は、兄貴がピンチだということを認めずに怒り狂ってたんだよ。ハンダゴテ事件のときは、きちがい親父の態度で、兄貴がピンチになった。きちがい親父が、自分がもっているハンダゴテにこだわって、新しいハンダゴテを買ってやらなかったのだけど、自分がもっているハンダゴテは、使えないということを、絶対の意地で認めなかったのである。

きちがい親父は、自分がもっているハンダゴテが使えないということを、絶対の意地で認めてやらなかったのだけど、絶対の意地で認めてやらなかったということを、認識してない。そして、絶対の意地で認めてやらなかったから、兄貴が……長男が学校で恥をかいたということを認めてやらない。

ようするに、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」で、兄貴が学校で恥をかくことになったのだけど、親父は、認めないのである。親父が、兄貴のピンチをつくったわけだけど、親父は、兄貴をピンチにしたつもりがないのである。

きちがい親父は、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」のせいで、兄貴(親父から見れば長男)がこまっているということが、まったくわかってない状態なのである。

自分が損をすることがわかっているので、きちがい的な意地で「ハンダゴテが使えない」ということを認めない。無意識的なレベルでは、新しいのを買ってやると、自分が損をするというとがわかっていた。なので、無意識的なレベルで、自分がもってきたハンダゴテが使えないということを認めるということが「できないこと」になる。

けど、きちがい親父の意識は、それがわかっってないのである。意識のレベルでは、「自分が物置から出してきたハンダゴテが使える」ということになっているのである。それはもう、決まっていることなので、ほんとうなら、どれだけ頭がわるい人でもわかる説明を聴いても、認めないのである。

そして、実際に、きちがい兄貴が学校に「そのきちがい親父が押し付けたハンダゴテ」を持って行ったら、先生にバカにされて、みんなに、わらわれたのである。恥をかいたのである。「これが使えると思っているのか」「これが使えると思っているなんて、おまえバカだ」という意味のことを、友達に言われて、兄貴は、ものすごく、くやしい思いをしたのである。

そりゃ、自分だって、「使えない」ということがわかっている。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。兄貴は自分が、学校にもって行った「親父のハンダゴテ」が使えないハンダゴテだということは、知っているのである。

だから、「知っているよ」と答えるのだけど、「じゃあなんで持ってきたんだよ」と友達に言われるのである。でっ、「親父がどうしても、認めなかったんだ」ということを友達に言うわけなんだけど、友達が「おとなの人がこんなのがわからないなんてことはおかしい」と言ったのである。

でっ、技術科の先生まで「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」ということを言ったのである。だから、恥をかいて、家にもどってきたわけ。

それで、きちがい親父に、そういうプロセスについて話して、学校で恥をかいたということを説明したのだ。しかし、きちがい親父が、一回目のときとおなじ態度ではねのけて「使える!!使える」と絶叫して、新しいハンダゴテを買ってくれないのである。

そういういじわるをする。もちろん、きちがい親父は、いじわるをしているつもりなんてないのである。親父の頭のなかでは、いつまでも「使えるハンダゴテ」なのである。

親父にとっては、「自分が物置から出してやった、うちにもともとあるハンダゴテ」は、「使えるハンダゴテ」なのである。だから、学校で恥をかいたということを説明しても、絶対に認めないのである。きちがい親父のなかでは、どこまでも、「使えるハンダゴテ」なのである。なにを言われても、判断をかえることがないのである。

無意識なレベルで、「使えないハンダゴテだ」ということを認めるのは、それこそ、ピンチになることなので、認めない。ピンチというのは、親父にとってピンチということだ。

親父にとってピンチなのは、新しいハンダゴテを買わされることなのである。使えないということを認めてしまったら、新しいハンダゴテを買ってやらなければならなくなるので、絶対に「使えない」ということを認めないのである。

でっ、これが、「いつもの」親父のやり方だ。

うちでは、ずっとこうなのである。兄貴が生まれたときから、親父の態度がずっとこうなのである。親父が、わざと、いじわるでそうしているわけではなくて、親父は、「認めない」ということで、ずっといじわるをするのである。ずっと、おなじようにやってきたのである。

だから、親父にかかわると100%確率で、こういう不愉快なことが発生してしまうのである。意識の部分は、「使えないハンダゴテだ」ということを、絶対に、認めない。

ピンチということをいったけど、きちがい親父の態度というのが、おかしいのだ。普通の人だと、殺人をして、その証拠を突き付けられたときのようなピンチなのだ。普通の人は、まあ、殺人なんてしないわけだけど、テンションの高さがちがう。

親父にとって、「ハンダゴテが使えない」ということを認めるのは、普通の人が、自分がかくしておきたい「殺人の証拠」を認めるようなことなのだ。認めてしまったら、自分が新しいハンダゴテを買ってやるために、カネを払わなければならないということに関する緊張感が、普通の人とはちがうのである。

普通の人の場合、「認めてしまったら」全財産を失って、破産しなければならないというような緊張感は、そういうことがなければないわけなんだけど、親父は、くるっているので、どんな少額なことでも、そういう考えがうかんでしまうような態度になる。ようするに、カネを出さされる……ハンダゴテのカネを出さなければならないというとは、親父にとっては、殺人をしたことを認めなければならないピンチや、全財産を失うようなことを認めなければならないようなピンチなのである。そういう緊張感がある。普通の人にとっては、ハンダゴテを買ってやることぐらいなんでもないだろう。

しかも、学校で必要なものだ。ところが、きちがい親父にとってみれば、人生の破滅を意味することなのである。絶対に負けられないことなのである。絶対に、認めてやるわけにはいかないことなのである。

だから、絶対の意地で振り払わなければならないことなのである。

全力で、否定しなければならないことなのである。無意識レベルでは、絶対に認めてはならないものなのである。無意識が、絶対に認めてはならないと、意識に命令すると、意識は、認めることができなくなってしまうのである。

これは、知能とは関係がない。「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」というのは、大人になった人なら、どんな大人の人でも、そのくらいの知能があると思ってる人の発言なのである。

もちろん、おとなでも知能が特別に低い人はいるかもしれないけど、親父は、「社会人として普通に働いているので」知能が特別に低い人ではないということになる。普通の人は、知能が低いからわからないこともあるかもしれないけど、それ以外の場合は、わかるはずだと考えてしまう。

そういう前提でものを言ってくる。

親父が精神的な病気?で、わからないという可能性を考えない。

そして、実際に、親父が社会人として暮らしているわけだし、精神病院に通院したり、入院したりしているわけではないのだから、「おかしい」とは思わないのである。ようするに、『わからない理由』として、知能と精神病ということが考えられるのだけど、そのどっちも、普通の人の頭のなかでは、否定されることなのである。

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである。普通の人は、そういう「無意識的な問題」について、考えない。特別に、精神病院に通っていなくても、特別に、精神病院に入院していなくても、へんな態度をとる人のことがわからない。

だから、親父のように、無意識に問題があって、なおかつ、うちの人にしかそういう態度をとらない人の場合は、ほかの人たちにとっては、『普通の人』であるわけだから、『普通の人だ』と思って、『普通の人だからこうする』というような枠組みで(親父のことを)考えてしまう。

だから、まあ、言ってみれば、よその人にはわからない精神病なんだよ。しかも、そういう精神病的な反応が、うちにいるときは、すべのことに影響をしてしまうのである。ようするに、一回や二回、たまたま、そういうことがあったということではないのである。型にはまった反応なんだよ。

けど、よその人は、それがわからない。「かくれ精神病」みたいな言い方が、適切なのかどうかわからないけど、「かくれ精神病」だとわからないのだ。

ほかの人には、わからないのだ。

その場合、よその人から見ると、(自分の)親父のことをそういうふうに言っている人がおかしいと見えるわけだ。

だから、「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」とか「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」とかと、言われると「こまる」のである。こまるんだよ!!! こまるの!!

ハンダゴテ事件は、親父と兄のあいだの問題だけど、親父の構造がかわらないわけだから、当然、親父と俺のあいだにもおなじような問題が発生する。


よそで、よその人にバカにされたり、せめられたりする人が、うちのなかで、「かくれ精神病の親」にやられている人なのだ。手短に言って、よその人が、これを理解してくれたことは、ない。ぼくの経験の範囲ではない。

よその人の理解というのは、ぼくからすると、いつもいつも、「気楽な理解」なのである。ぜんぜんわかってないのである。誤解したままなのである。

じゃあ、兄貴の友達が「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」と言ったとき、兄貴の友達に兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。技術科の先生が「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」と言ったとき、技術科の先生が兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。

けど、友達や先生の「無理解ぶりを発揮した言葉」で、兄貴は傷ついている。

それから、ちょっとこれは、横道にそれるのだけど、認知療法は、「たまたま起こったことだ」ということを、重視する傾向がある。

たとえば、AさんとBさんがいて、AさんはBさんの父親だとする。あるとき、プールに行ったとき、AさんがBさん背中を押して、Bさんをプールに突き落とした。Aさんとしては、ちょっとしたいたずらでやったことだ。けど、Bさんは、それから、水がこわくなって、プールに入れなくなったとする。その場合、Bさんは、たまたま起こったことを、ずっと何回も起こることだと勘違いしているというような解釈をする。

ようするに、たまたま起こったことなのに、ずっと何回も起こることだと認知してしまったということだ。だから、たまたま起こったことだということを認知して、ずっと何回も起こることだという認知をすてれば、水をおそれる行動がなくなるということになる。「ずっと起こることだ」という認知は、ゆがんでいるのである。

だから、「たまたま起こったことだ」という正しい認知を、Bさんが獲得すれば、それで、問題解決するはずなのである。けど、これは、かくれ精神病の家族にやられている場合とは、ちがうことだ。はっきり言ってしまうと、かくれ精神病の家族にやられている人の(そのことに関する)認知は、ゆがんでいない。

「一回不愉快なことが起こったから、毎回不愉快なことが起こる」と思うのは、認知のゆがみだということになる。どうしてかというと、その「一回の不愉快なこと」というのは、「たまたま起こったことであることがあきらかであり、たまたま起こったことにすぎない」からだ。

けど、かくれ精神病の人は、繰り返し、そういう反応をするのである。だから、かくれ精神病の家族にやられた人の判断はあっているのである。かくれ精神病の人の認知がゆがんでいるかどうかは、ここでは問題にしないとする。かくれ精神病の人は、無意識的な構造でそうしているのだから、繰り返しそういうことをするのである。

実際に、うちのきちがい親父はそういうことをずっとしてきた。ハンダゴテの反応というのは、いつもの、反応なんだよ。親父らしい反応なんだよ!! いかにも、親父がやりそうなことなんだよ!!

ハンダゴテという部分では、たまたま起こったことのように思えるかもしれないけど、パターンがある。親父は、ほかのいろいろなことで、ハンダゴテのように反応するのである。

自分が出したくないカネを、出さされそうになったら、いつもそういう頑固さで、相手の言い分を否定して、怒り狂って「カネを出してやらない」という反応をするのである。

たまたま起こったことじゃないのである。

かくれ精神病の家族にやられた人の判断は、あっているのである。

どういう判断かというと、「おなじようなことが起こる」というような判断だ。「おなじようなことがずっと繰り返されてきたし、おなじようなことが繰り返されるのではないか」という考えは正しい考えなのである。「おなじようなことが繰り返されるのではないか」という認知がゆがんでない認知であり、「今回のことは、またまた起こったことだから、繰り返し起こることはない」という認知がゆがんだ認知なのである。

2024年7月1日月曜日

そういう、認知的な問題がある。

 ヘビメタにやられて、常に絶体絶命の状態で暮らしてきた。

がんばりきって暮らしているのである。

なら、そのほかの選択肢があるか?

ない。

そりゃ、そうだろ。例外なく、なんだろうが、きちがい兄貴が鳴らしている状態だ。殺さないとやめさせることができない。きちがいだから、なんとも思ってない。

こっちが、きちがい兄貴の音で、ピンチになっているのに、ピンチになっているということを、認めない。兄貴が、きちがい親父のやり方で認めない。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

普通の人だったら、できない。

もし、普通の人がやるとしたら、芝居がかっていることになる。そして、普通の人だったら、芝居をしているということを知っている。芝居をして、おいはらった……ということを知っている。自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟を「おいはらった」といこうとを、知っている。

きちがいだから、まったくわかってない状態で暮らしているのである。きちがいだから、そういうことをしているのに、そんなことはまったくしてないと思って暮らしているのである。

やっていることというのは、そういうことなんだよ。

そういうこと……というのは、自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟をおいはらって、そのまま「おもいっきり」鳴らし続けるということだ。

実際にやっている行動というのは、そういう行動でしかない。

一日のなかで、自分が家に帰ってきて、ヘビメタを鳴らせる状態なら、おとうとのことなんてかまわずに、「おもいっきり」でかい音で鳴らすのである。

それは、もう、決まっているので、どれだけ言われたって、その通りにするということになっている。ちょっとでも、しずかにしてやろうなんて思わない。「一〇分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。「一分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。

「特別に、重要なことをやるから、一〇分間だけでもいいから、しずかにしてくれ」と弟が、言ってきたって、「なんだ!!そんなの!!」と怒り狂った気持ちになって、たとえ一〇分間だろうが、絶対に静かにしてやらないのである。

でっ、やっていることは、こういうことなのだけど、本人は、それが、特別に悪いことだと思ってない。まったく悪いことだと思ってない。本人にとっては、普通のことなんだよ。「そうして、あたりまえ」のことなんだよ。

特に、記憶しないことなのである。

実際の行動は、どれだけなにを言われても、「やりきる」ということなのだけど、常に、やりきったことになってないのである。これが、こまるんだよ。本人は、まったくつもりがないわけ。

そして、相手がこまっているということは、ガン無視するので、相手がこまっているということがわかってない状態でずっと、すごしているわけ。言われたときも、相手がこまっているということは、認めないし、言われたあと、「思いっきり」鳴らしたって、相手が、こまるとは思ってないわけ。

相手がこまっているということは、一〇〇%頭に浮かばないし、相手がこまっているのに、自分がやりきったということは、一〇〇%、頭に残らないんだよ。

残らないので、「やってないこと」になっている。

認識としては、「やってないこと」とまったくおなじなのである。

けど、実際には、きちがい的な意地で、どれだけなにを言われても、やったのである。やりきったのである。

だから、自分が夢中?になって、相手が言っていることを無視してやっている時間のことは、「ない」ことになっている。

自分の生活のなかで、きちがいヘビメタを、思いっきりでかい音で鳴らす時間というのは、相当に長い時間なのだよ。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。きちがい兄貴にとって、ヘビメタを鳴らす時間は、長い時間なんだよ。

けど、その長い時間、きちがい的な意地で、ゆずらないでやっていることが、やってないことになっている。同時に、やってないことになっているのだ。

そういう主観的な問題がある。

そういう、認知的な問題がある。


この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ

 この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ。

どうも、俺とおかあさんは同じ系列で、親父と兄貴は別の、同じ系列なんだよな。

2024年6月30日日曜日

はさまれている「生活」はどうやったって、くるしい生活なんだ

 はさまれている「生活」はどうやったって、くるしい生活なんだ。そして、それの、数千日の、積み重ねがある。そして、数千日の積み重ねがない人には、わからない。わからないまま、軽く見る。わからないまま、無視する。ないのだから、ない。積み重ねがない人には、ないのだから、ない。実際に、そういう経験がないのだからない。実際に、そういう数千日を経験したわけではないので、数千日を経験した場合、どういう状態になるかということが、感覚的にわかってない。わかってないから、無視するのか? あるいは、わかってないけど、無視するのか? よくわからないけど、ともかく、無視する。これも、数千日の経験がいな人にとってみれば、ないことだから、「ない」ことなのである。実際に、経験しなかったという意味で、ない。だから、軽く見ることができるのである。だから、無視することができるのである。

*     *     *

数千日の経験がある者にとっては、無視することができないことなのである。実際に、影響があることなのである。現在においても、影響があることなのである。これ、まったくわからないと思うけど、「過去は関係がない」「鳴り終わったら、そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってない。当然、関係がないので「通勤して働ける」ということもない。けど、数千日の経験がない人にとってみれば、実際に自分にはなかったことだし、影響を認めないので、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そいつの考えのなかで、エイリさんは、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、さぼって働いてないと言うことになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、働くと言うことの意味がわかってないダメな人だと言うことになってしまうので。そういうことを言ったやつだって、老化すれば、老化を理由に働かなくなる。自分は、いいのだ。そして、自分の老化に関しては、日々実感していることがあるので、「通勤して働かなくてもいい」理由になるのだ。自分の体調不良や能力の減退に関しては、老化という「立派な理由がある」ので、「さぼって働かない人とはちがう」と思ってしまうのだ。そういうレベルだ。そういうレベルの思考しかしてない。

そして、たとえば、働いていない人に対する偏見がある人は、その当時、働いていなかった俺に対して、偏見をもつようになるのである。だから、普通に見下してくる。しかも、道徳的なことを言っているやつだって、見下すということについて、悪いとは思わないという態度になる。

部屋片づけ、ひとつをとっても、どれだけたいへんになったかわからない

  本箱の整理を、半袖ティーシャツを着てやったんだけど、腕がダニに刺されている。これは、今回、刺されたわけではなくて、前回、前々回、もっともっと前の回に刺されたやつだ。ようするに、あとが、わりとたくさん残っている。このあとは、消えるのもある。完全に消えるのもある。けど、なかなか消えないやつがある。きちがい親父が、魚を出しっぱなしにするということから生じた、困難だ。魚→ネズミ→ダニなんだよね。ネズミの糞が増えているのに、まったく気にしないで、ネズミ対策工事に頑固に反対する父親とか、うちの父親しかいないだろ。カネはあったんだぞ。説得しても、きちがいだから、応じない。けっきょく、俺が、ネズミの糞片づけや、ネズミ対策工事の注文や、ダニ対策をしなければならなくなる。部屋片づけ、ひとつをとっても、どれだけたいへんになったかわからない。こういう、ものすごい種類の、強烈なダニが、複数いる状態でのかたづけというのが、並じゃないのである。ダニが家中に拡散してしまったことで、どれだけ、こまるか、ほかの人はわかってない。もちろん、ほかの人は、親父が発生源であるダニに、からだを刺されまくるわけじゃないから、ひとごとだ。ひとごとなら「親のせいにしている」「自己責任だ」と、きちがい的なことを言っても、こころがいたまない。

*     *     *

きちがい親父は、『普通の反応』がかえってこないから、いやなんだよ。これ、きちがい回路が搭載されているから、自分が決めたことで、ダニに刺されても、気にしないのである。自分が決めたことで、一階のすべての部屋がくさくなっても、気にしないのである。こまるんだよ!!! こまるの!! 

*     *     *

きちがい兄貴も、『普通の反応』がかえってこないから、いやなんだよ。きちがい兄貴のこういう部分の構造は、きちがい親父のこういう部分の構造とまったくおなじなのぉ!!

普通の反応がかえってこない。そして、普通の人が、普通の反応がかえってこないとどれだけこまるかということを、普通に、無視する。そりゃ、普通の人は、きちがい家族と一緒に暮らしているわけではないので、わからないのである。

かならず、勘違いをするのである。

*     *     *

自己責任論者というのは、自分では、自分がいい人のつもりで、正しいことを言っていると思っているわけだけど、正しいことなんて言ってない。だれの責任かというのは、重要なことなんだよ。本人の意思で、他人に悪い影響をあたえた場合、本人に責任がある場合があるんだよ。自己責任論者というのは「すべては自己責任」と言っているわけだけど、それは、やられたやつがいたら、やられたやつの責任だと他人の責任を追及している。いじめたやつと、いじめられたやつ。自己責任論者は、かならず、いじめられたやつの責任だと言い張るんだよ。すべての場合において、かならず、いじめられたやつの責任だと、主張しているんだよ。本人は、気がついていないかもしれないけど……。「すべては自己責任」のだから、いじめられたやつがいじめられたのは、「すべては自己責任だ」と言っている自己責任論者の責任なんだよ。 

自己責任論者というのは、常にあおり運転をしているようなやつなんだよ。自己責任論者というのは、「やられたほう」をあおって、遊んでいる。本人は、気分がいいのかもしれないけど、道徳的に劣った行為だ。精神世界の人は、目を覚ましたほうがいい。

ヘビメタ騒音の影響をうけた感情をあらわにしないように、気をつけたとしても、だめなんだよ

ヘビメタ騒音のことで、頭がいっぱいで、女の子とデートできるような状態じゃないのである。ヘビメタ騒音というのは、きちがい兄貴にとっては、あたりまえの音で、ずっと鳴らしていてもいい音なのだけど、こっちは、一日目から、生活ぜんぶが破壊される音だ。女の子とデートできるかどうか(女とつきあえるかどうか)なんて、騒音とは関係がないと言う人が、リアル世界でいたのだけど、関係があるんだよ。もう、ヘビメタ騒音が数千日続いている状態で、デートなんてできるわけがないだろ。デートしたって、だめなんだよ。それは、俺が、どれだけ、その女の子と、兄貴のヘビメタ騒音とは関係がないから、その女の子のまえで、ヘビメタ騒音の影響をうけた感情をあらわにしないように、気をつけたとしても、だめなんだよ。長期的にはだめになるんだよ。それが、わかっているから、消極的にならざるをえないんだよ。実際、友達や親友とのつきあいがうまくいかなくなった。基本、友達や親友とのつきあいも、女の子とのつきあいも、おなじなんだよ。人間づきあい・人づきあいという意味では同じなんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、俺の人間づきあいすべてを破壊した。これ、きちがい兄貴は、ほんとうにまったく、つもりがないわけだし、おとうとの人間づきあいを破壊したと思っていないのである。それは、俺が兄貴に言わなかったから、わからないのではなくて、鳴らしたいときは、きちがいモードで認めないからわからないだけなのである。「こ・ま・る」というのが、ほんとうにわからない。やりたければ、自分の感覚を無意識レベルで書き換えて、やってしまう。しかも、意識レベルでは、そうしたことになっていないから、あたかも、自分がやったことではない気持ちがしているのである。「みとめない」ときの「みとめなさ」が、ほんとうに、普通の人間の「みとめなさ」じゃないのである。こまるんだよ。もちろん、こっちがこまるという意味だ。

だいたい、自分のこみ上げる感情を見せないようにして、人とつきあうなんて、できるもんじゃない。そりゃ、一日とか、二日ならできるけど、ある程度長い期間、ずっと、「自分のこみあげる感情」を見せないようにして、ずっとつきあうなんて、どんな、拷問だと思っているんだよ? どうしたって、ヘビメタ騒音の影響をうけるんだよ。睡眠時間をとおして、影響をうける。鳴っているときだけではなくて……鳴っているときのはちゃめちゃな時間だけではなくて、睡眠時間がなくなるということの影響を、日中、うけている。

2024年6月27日木曜日

脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。

 楽しくなくても、楽しいと言えば、脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと思える理由を探し出す……というようなことを言っている人がいる。けど、これはまちがっていると思う。楽しくないのに、楽しいと言う理由というのは、脳が知っていることだ。どうしてなら、「楽しくない」ということに対処するために、わざわざ、言ったことだからだ。なにも、矛盾してないのである。楽しく、なるために、楽しいと言ってみた……。脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。楽しいと言ったから、楽しいと思える理由を(自動的に)さがすので、楽しいと思える理由を見つけて、楽しく思えるということなのだけど、そもそも、どういう理由で、楽しいと言ったかということを、脳が知ってしまっているのだから、無意味だ。矛盾なんて感じない。それから、ヘビメタ騒音というような具体的な理由がある場合は、ただなんとなく、不愉快だというような状態ではないのだ。具体的な理由がある場合は、「ただなんとなく、つまらない」という状態とはちがう。しかし、「楽しくない」という言葉に、両者の意味が含まれているのである。だから、具体的な理由がない場合と具体的な理由がある場合の区別をしてない。かりに、具体的な理由がない場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとしても、具体的な理由がある場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理由はまちがっていると言えるのではないか。それから、具体的な理由がない場合も「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとは限らない。これは、感じ方の問題になってしまうけど……そして、感じ方は自己申告制なので、自分は楽しく感じたという人が一定の割合、出てくるとは思うけど……具体的な理由がない場合でも、そんなには、楽しく感じてないのではないかと(わたしは)思う。楽しさの程度を考えるなら、ほんとうに、楽しい理由があって、楽しいと感じる場合とは、ちがうのではないかと思う。ようするに、ほんとうに楽しい理由がある場合のほうが、楽しさの程度が高いのではないかと思えるのである。そして、ほんとうは、楽しいと感じてないのだけど、楽しいと感じるために、楽しいと言ってみた場合の、楽しさの程度というは、相当に低いのではないかと思えるのである。言いたいことを言ってしまうなら、ほんとうに楽しいと思える理由があるときの楽しさと、楽しく感じるために無理やり楽しいと言ってみたときの楽しさを、同等の楽しさであるように、仮定してし言ってしまうことには、問題がある。あたかも、楽しく感じるために、意図的に、楽しいと言ったときの「楽しさ」は、文脈のなかで感じている楽しさとは、まったくちがった楽しさである可能性があるのに、それをおなじ「楽しさ」という言葉で語ってしまうのは、問題がある。

さらっと、「矛盾をなくすために、楽しさを探し出す」というようなことを言っているけど、これは、楽しいという言葉にだまされている脳という前提がある。だまされていない場合は、もちろん、探し出さない。現実的な体験のなかで楽しさを感じている場合というのは、いちいち、どうして自分は楽しいと感じているのだろうかということは、考えないのが普通なのではないか? だって、楽しいわけだから。楽しいと感じているときは、自然なやりとりの過程がある場合なのである。主に人とのやりとりの中で、楽しいと感じるわけだけど、自然のなかで楽しいと感じるときも、ゲームをしていて楽しいと感じるときも、楽しいと感じるだけの、時系列的な体験がある。自然に楽しいと感じるような時系列的な体験がないのに、「楽しいと感じるべきだ」と思って「楽しい」と言いはじめるわけだから、「楽しい」と言ういう前に、自然に楽しいと感じるような時系列的な体験はない。ないから「楽しい」と言ってみようと思ったわけである。これは、直前の体験がまったくちがうことを意味している。はたして、脳は、そういうちがいを、感じることはないのだろうか? 自分にだまされて、自分の脳が「これは楽しい」と感じてしまうのだろうか? 意図的に言ったのに、自分の脳が誤解をするなんてことはあるのだろうか?



2024年6月26日水曜日

きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよ

  ほんとうに、きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよな。息を吸うように、ヘビメタを鳴らす。息を吐くように、ヘビメタを鳴らすことが決まっている。決まっているから、やっている。「やめてやる」という選択肢は、まったくない。思いつきもしない。可能なこととして、考えるということすら、しない。最初から、「やめてやる」という選択肢が、頭のなかにまったくないから、どれだけ「やめろ」と言われても、そのように行動してしまう。行動したって、「なにがわるい」かまったくわかってないレベルだ。行動したって「なにがわるい」と思わないレベルだ。「なにがわるいのか」と疑問に思うようなレベルではないのである。「やめてやる」という考えが、頭のなかにまったくないように、「なにがわるい」という考えですら、頭のなかに、まったくないのだ。「わるいかどうか」といこうとが、まったく考えられない状態なのだ。どうしてかというと、「わるい」という考えが、そもそも、まったくないからだ。「わるい」という考えがそもそも、まったくないので、「わるいかどうか」が、きちがい兄貴の頭のなかで、まったく問題にならないのである。そういう状態だ。そういう状態で、「よそではありえない」ほど「でかい音」でヘビメタを鳴らす。すべての時間、そうする。可能なすべての時間そうする。こっちが、どれだけ、こまっていても、こまっているということを、まったく認めないで鳴らす。きちがいだから、そういうことが可能だ。こんなの、きちがいでしかない。

ところが、きちがい家族にやられた場合は、よその人は、理解しないのである。だから、よその人の基準で考えてしまう。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んでない人なんだよ。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んだことが、一度もない人なんだよ。だから、よその人もよその人で、ごく普通に、誤解をするのである。よその人の誤解だって、本人の経験にもとづいた「かんがえかた」による誤解なので、誤解をとくことが、ほとんどできない。

だから、きちがい兄貴にやられっぱなし、よその人に、誤解されっぱなしといこうとになる。こんな毎日でいいわけがないだろ。そして、ヘビメタ騒音というのは、よその人が考えているように、「鳴り終われば」影響が消失するようなものではないのである。よその人は、経験がないので、そのことがわからない。「鳴り終われば」影響が消失すると思って、妄想的なことを言う。これ、だって、本人は、妄想的なことだとは思ってないのだ。この、妄想的なことというのは、言霊主義者がもっているような妄想的なことだ。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを、認識するような事柄が、日々、起こっているにもかかわらず、それは、ガン無視してしまう。

こうなると、きちがい兄貴の無視のしかたと、言霊主義者の無視のしかたが、なんとなく、似ているような感じがしてしまうのである。何度も言うけど、一緒に住んだことがない言霊主義者が、ぼくに、騒音攻撃をしたわけじゃない。彼らは、そんなことは、してない。けど、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言うというタイプの攻撃はしてくる。まあ、無視すればよいのだけど、誤解があるんだよね。この誤解が、不愉快だ。

言霊主義者じゃなくても、普通の人は、誤解をしてしまう。きちがい兄貴があまりにも特殊なので、普通の人の理解の範囲に、入ってないのである。きちがい兄貴自身のことに関しても、きちがい兄貴が実際にやることに関しても、きちがい兄貴が実際にやったことの影響に関しても、頭のなかにはいってない。まったく、はいってない。なので、この人たちも、必然的に、誤解をする。誤解をしているのである。誤解をして、常識的なことを言う。けど、その常識的なことが、ヘビメタ騒音によって、できなくなったのだ。だから、ヘビメタ騒音によってできなくなったということを、こっちは、説明するのだけど、あっちは、理解しないということになる。脳みその範囲内にはいってないからだ。脳みその範囲内にはいっていれば、理解できるのだけど、脳みその範囲内にはいってないから、かならず、理解しないのである。常識的なことを言う人が、ヘビメタ騒音のことを、理解しないということが、最初から決まっている。

その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよ

 佐藤(仮名)も言霊主義者なんだけど、言霊主義者は、なんか、いろいろと短絡的な意見を言ったり、短絡的な行動をしていることが多いなぁ。

ヘビメタ騒音のことを理解してくれた言霊主義者は、いままでで、皆無だ。

かならず、ヘビメタ騒音の影響を軽くみる。無視する。

そして、常識にしたがったことを言う。その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよなぁ。まあ、ともかく、なんか、トラブルのタネをところどころで、ふりかけられている。言霊主義者によって……ふりかけられている。

なんか全部が全部、よけいなことなんだよなぁ。よけいなひとことで、マッチポンプ。「ひとこと多い人」が意識してないところで、「ひとこと多い人」がマッチをすっている。

*     *     *

ヘビメタで宿題を忘れたり、睡眠障害になったり、鬱病的な状態になったり、働けなくなると、いろいろなところで、俺のことを悪く誤解するやつが発生するようになるんだよなぁ。そういうやつらがもっている常識というのは、どうしようもない常識だ。

この手の常識は、これから、ガンガン、こわれる。こわれるしかないんだよ……。 

言霊主義者にかぎらず、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するやつには、ろくなやつがいない。そのまま、その人における思考力の限界をあらわしている。

まあ、犯罪行為とか違法行為ということとは関係がない。だから、まあ、犯罪行為をしないという意味では、善人である。しかし、ヘビメタ騒音に関しては、ほんとうに理解がたりない状態なのである。理解がたりない……。この言葉がほんとうに、ぴったりくるなぁ。

後で消す、個人的な記憶メモ

 そういえば、ちょっと思い出したことがある。あれ、「とある大手電機メーカーの感想でも書いておいたほうがいいんじゃないか」というようなことを佐藤(仮名)が言ったんだよね。まあ、メールで書いてきた。けど、書くべきではなかったんだよな。なんか、佐藤がマッチポンプになっているケースが多い。あっちにも、よけいなことを言ったみたいだし、佐藤が、もめごとのタネを、それとなく、いろいろなところにうめている。

*     *     *

そのころ、ウエブサイト作成のことで、かかわる人が、「とある大手電機メーカー」のもと、部長だった人だから、「感想でも書いておいたほうがいいんじゃないの」と書いてきた。佐藤が、俺に対して、俺が、その「もと部長」に、まあ、リップサービスで、「とある電機メーカー」のことについて、感想でも書いておいたほうがいんじゃないのということを言ってきた。けど、その「とある大手電機メーカー」に関しては、ぼくは、あんまりいい印象をもっていなかったのである。あんまり、「よいしょ」してあげる気持ちにならなかったのである。だから、「とある大手電機メーカーの(元)部長とはすごいですね」というような読意思をしてあげる気にならなかったんだよ。最初の時点で。

けど、佐藤は、ぼくが(ヘビメタ騒音で)社会経験がないということを知っていたので、「そういうもんだぞ」と指導してやるつもりで、そういうことを書いてきたのである。ウエブサイト作成に関しては、ぼくが、親切でやってやっていることなんだよ。これも、人に親切にして、けっきょくは、いやな思いをしたということの一例だ。これ、「人に親切にすれば、いいことがある」なんて言ってる人がいるけど、人に親切にしても、たいていの場合はいいことがない。

 *     *     *

人に親切にしてあげるということについて、ちょっと書いておく。神経質なことなので、そんなことは考えない人のほうが多いと思うけど、ちょっと書いておく。人に親切にしてあげるということが語られるとき、よく出てくる例のひとつに「ものをもって運んであげる」というのがある。たとえば、高齢者が、ものをもって歩いていた場合、「おもちしましょうか」と声をかけて、はこんであげるというものだ。アクションとしては、こっちが、相手に「おもちしましょうか」と声をかけるというところから始まっている。とりあえず、声をかけて運んであげようとする人をAさん、高齢者の人をBさんだとする。普通の話だと、こんなことになる。Aさんが声をかけると、Bさんが「いやー。わるいからーー」と言ったあと、Aさんが「けど、重いでしょ」と言って、Bさんが「それじゃ、たのむわーー」と言って、Aさんが、Bさんの荷物をもって、並んで歩き、そのあと、目的地について、Bさんが「あー。たすかったわぁ」と言って、Aさんも、ニコニコする……。話の内容は、だいたいこういうもので、うまくいった場合の話になる。その場合、Aさんも、Bさんが「たすかったわぁ」と言うから、いい気持になり、「いいことがあった」ということになるのである。けど、現実は、そうでない場合もある。たとえば、Bさんは、以前おなじようなケースで「持ち逃げ」されたことがあるので、警戒しているとする。その場合は、Bさんは、かたくなに、固辞する。なので、親切が成立しない。その場合、Bさんが、Aさんのことを(ぬすんでしまうひとだとうたがっている)と考えているということが、Aさんに伝わった場合、Aさんはあんまりいい気分になれない。まあ、じゃあ、Bさんが、「むかし、荷物をもってもらったら、盗まれたことがあるので、荷物は持ってくれなくてもいいです」と言ったとしよう。その場合、Aさんは、自分が、その荷物をもって行ってしまうようなやつだと思われたということで、傷つくのである。あんまりいい気分がしない。

あとは、たとえばの話だけど、Aさんが、Bさんに親切にして、BさんがAさんに礼を言ったとする。これは、いい場合だ。しかし、未来においては、どういう効果があるのかわからないのである。たとえば、Cさんがいるとする。Cさんは、悪いやつで、高齢者に「荷物をお持ちしましょうか」と声をかけて、荷物を持ち逃げするやつだとする。その場合、Bさんは、そういう人間にしたいして、無防備になっているのである。なので、CさんもAさんのように、親切な人かと思って、荷物をあずけたら、CさんはAさんとはちがって、悪い人間だったので、Bさんの持ち物をもったまま逃げたとする。Bさんが、Aさんのときも、持ち逃げを警戒して、申し出をことわった場合、Bさんは、Cさんの申し出も、ことわる可能性がある。確率は高い。この場合、Aさんが親切な人だったために、Bさんのなかに「人間は親切だ」とか「親切な人が多い」という考えが浮かんだのだ。そうではない場合もあるので、この思い込みは、ある意味、危険だ。無防備になってしまう。Aさんは、親切にすることによって、Bさんを、ある意味、無防備にしてしまったのだ。けど、もちろん、これは、Aさんの責任とは言えない。けど、そういうことだってある。この世には、そういうことだってある可能性がある。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。