2024年7月26日金曜日

ルール

 ほんとうに、どれだけ、がんばっても、一日が「やぶけて、ふさがらない」ような状態になるのに、無視してやりやがって。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚の持ち主でなければ、絶対にできないことなんだよ。けど、そういう「ほかのうちでは絶対にありえないこと」が、うちでは、毎日普通に成り立っていた。うちでは、毎日普通に、そうなっていた。ほかのうちだったら、ぜっーーーたいにありえないことなんだよ。どれだけ鳴らしたくても、きちがいでなければ、「こんなにでかい音で鳴らすと迷惑だな」と思って鳴らさない音なんだよ。鳴らしているときも、絶対に、普通の人なら「自分はでかい音で鳴らしている」ということを認識できるんだよ。ところが、うちのきちがい兄貴は、きちがいだから、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているということを認めたくない場合は、でかい音で鳴らしてないと思って、でかい音で鳴らし続けることができるのだ。こんなの、頭がおかしくなかったら、できないことなんだよ。でっ、何度も言うことになるけど、きちがい親父もおなじなんだよ。四人家族のなかで、二人がそういう状態。こんなの、ない。きちがいのやってることは、きちがい親父が、毎日、ずっとずっと、十数年間にわたって「やってきたこと」なんだよ。もちろん、きちがい親父自身は「そんなことはやってない」と思っていることなんだよ。きちがい的な意地で、毎日普通にやるということや、きちがい的な意地で、やったことを認めないというへんな性格が、きちがい親父からきちがい兄貴に伝わってしまったんだよ。問題なのは、ずっと、「知らんぷりでやってきた人がいる」ということだ。普通なら、その人は、親として、子どもを監視するような立場にいる人なのだ。普通なら、親として子どもを監視するような立場にいる人が、そういう人間だということが、どういう意味をもっているか、ほかの人はわかってない。きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な感覚で「やってないこと」にしてしまう……。こんなことを普段から普通にやっている人間が、親なんだぞ。これがどういうことなのか、ほかの人はまったくわかってない。普通なら、ルール通りに、ほかの人が動いているかどうか監視する人が、ルールを守らずに、ルールを破りきった行動を毎回毎回しているのに、本人は、そのつもりがないのだから、こまるんだよ。一緒に住んでいる人はこまるんだよ。悪意なく、「そのつもりがない」状態なのだ。「そのつもりがない」ということは、「やってないということ」なんだよ。きちがい的な意地でやったのに、本人がやったつもりがない……。やめろといわれたら、発狂してやり続ける。けど、やり続けたことで、相手がこまったということは、永久に、記憶に残らない。最初から、そういう認識がまったくないのだから、記憶に残るわけがない。これは、忘却じゃない。都合が悪いことなので、認識しないことになっていることだ。しかも、「都合が悪いから認識しないようにしよう」ということにもなってないのである。そうじゃない。ぜんぜんちがう。

「まいにち、つもる」

  「まいにち、つもる」と言っても「まいにち、つもったことがない」人にはわからない。この差は、でかい。きちがい兄貴が、まったく気にしないでやったことが、ずっと影響を与え続けている。これ、一日のなかでも、たいへんなのに、毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人には、まったくわからないんだよね。

ともかく、きちがい兄貴がやったことというのは、普通のうちでは起こりえないことなんだよ。おりこえないということは、普通のうちに住んでいる人には、怒らないことなんだよ。だから、その人たちが「俺だって苦労した」「俺だって困難があった」「騒音ぐらい俺だってある」と言っても、ちがうんだよ。たとえば、「騒音ぐらいあった」と言っている人は、普通の枠組み中で、騒音があったということなんだよ。きちがい家族による騒音じゃない。きちがい家族による騒音でなければ、ぼくが言っている騒音とはちがう。きちがい兄貴の騒音とはちがう。きちがい兄貴のしくみがあまりにもおかしいので、ほかの人にはわからない。まえから言っているけど、きちがい親父も、きちがい兄貴とおなじしくみをもっている。ほかの人にはないしくみだ。これ、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、親父とおなじように、きちがい行為を夢中になってやりはじめてしまった場合、きちがい親父が、普通の父親と同じ行動をするかというと、しないんだよ。きちがい親父らしい感じ方で、きちがい親父らしい行動する。そうすると、ほかの人から、俺が誤解をうけるということになるんだよ。そして、ほかの人は、それにまったく気がつかない。どうしてかというと、自分の常識のなかでは、「親というのはそういうものだ」「家族というのはそういうものだ」「人間というのはそういうものだ」ということになっているからだ。ようするに、「家族」という概念のもとになっている、家族というものが、ぼくの家族とは、まったくちがうのである。だから、ぼくがおかしいことを言っているように感じるのである。そして、こんなことをやられたら……やられ続けたら、「やられた」ということや「やられ続けた」ということについて言及する場合だって、ネガティブな話になる。自動的にそうなるだろ。しかし、世の中には、「ネガティブな話は、ネガティブだからダメだ」というような常識があるんだよ。わっはは。わらっちゃうね。だから、誤解をしたまま、「こいつは、ネガティブな話をしている」と思うわけ。どんだけ……。いろいろ……。くっつくか……。

2024年7月25日木曜日

ヘビメタ騒音でくるしい

 ヘビメタ騒音でくるしい。ほんとうに、人にあっているときの気持ちが並じゃない。やられてない人にはわからない。きちがい家族にたたられたことがない人にはわからない。そりゃ、デートなんてできるわけがない。これも、ヘビメタ騒音とデートは関係がない」などと言うやつが出てくるんだけど、おおありだよ。関係、あるよ。あのときの気分……あのころの気分……ヘビメタ騒音期間中の気分といったら、並じゃない。ぜんぜんちがう。そいつらが考えているヘビメタ騒音の影響と、俺が実際に経験したヘビメタ騒音の影響はちがいすぎる。そいつらが、わからないから、そういうふうに言っているだけ。

頭が、こんがらがる……いてもたてもいられなくなる音にずっとさらされて、いいわけがない。ほんとうに、精神も体も破壊された。ゆるせない。兄貴に言いたい……。「俺の人生をかえしてくれ」と言いたい。

普通の人だったら、どれだけ、あの音で鳴らしたくても、遠慮して鳴らさないんだよ。普通の人だったら、ヘッドホンをつけて鳴らす音なんだよ。「なまのおと」にこだわって、絶対に、ヘッドホンをつけないで鳴らすとか……おかしすぎる。そういうおかしい部分が、よその人にはわからないから、俺が問題解決能力がないように言われたり、俺がかわった人だと言われることになる。きちがい兄貴の、こだわりは、ほかの人にはわからない。そして、これが、ほんとうにいやなことなのだけど、きちがい兄貴にもまったくわかってないのだ。これ、当のきちがい兄貴が、ほかの人よりも、まったくわかってないというところがある。本人がきちがい的な意地でこだわっているということについて、本人が無頓着なんだよ。気がつかない。

これは、親父とおなじだ。親父と兄貴でおなじなんだよ。きちがい的な意地で、きちがい的なこだわりで、ゆずならないのに、これまた、きちがい的なしくみで、ゆずってないということに、一切合切、気がつかない。そういうきちがい的な態度はおかしい……ということについて、本人たちがまったく気がつかない。ほんとうに、ごく自然にそうなっている。ほんとうに、ゆるせない。

2024年7月24日水曜日

疲労供給モデル

 たとえば、つかれることがあるとする。このつかれることは、一回起こると、一の疲労をあたえるとする。そして、人間には、体力の個体差があるけど、体力の個体差は、七〇から一〇〇の範囲のなかにおさまるとする。一日に、二〇〇の疲労をあたえられると、一日に、一〇〇の疲労がたまる人から、一三〇の疲労がたまる人の間で疲労の度合いが分布するということになる。人類ならそうなるということになる。そして、たとえば、おなじ状態が一〇〇日続いたのであれば、一日における値が一〇〇倍になるということになる。その場合、一〇〇日の積み重ねは、個人において意味があるものになる。「過去は関係がない」なんて言えない。前述の設定なら、一〇一日目には、一〇〇日分のちがいがあらわれているということになる。たとえば、七〇の疲労解消力をもっている人は、一三〇〇の疲労がたまっていることになり、一〇〇の疲労解消力をもっている人は、一〇〇〇の疲労がたまっているということになる。なので、たとえば、一〇一日目の、一日における疲労の供給が、一〇〇だったとしても、すでに、一三〇〇の疲労がたまっている人と、一〇〇〇の疲労がたまっている人では、疲労の状態がちがうということになる。過去は、関係がある。

すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

 うーーん。まあ、あんまり、頭が働いてないから、適当に書く。

たとえば、困難の度合いを一〇〇段階にわける。一段階目から、一〇〇段階目までわける。そして、一〇〇段階目の人も、ひとつは、困難があるとする。一段階目の人は一〇〇の困難がある。

なので、「ある」とか「ない」という、二値であらわすと、みんな、困難があるということになる。

けど、一段階目の人と、一〇〇段階目の人とでは、困難の数がちがう。

けど、個体は個体なので、ほかの人の、困難の度合いというのは、わからないとする。体験しないとわからないので、体験してない困難については、理解できないものとする。

その場合、あきらかに「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、相対化できるのである。

「困難のちがい」がないのようなことを言える。

実際は、「困難のちがい」があるにもかかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、「困難のちがい」を無視することができるのである。

でっ、その場合、やられたほうを悪く言う「言い方」がはやっていると、困難の度合いが強いものが、被害を受けることになるのである。

けど、あいかわらず、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」と言っている人は、困難の度合いを同質化して、無視することができる状態ではあるのだ。

これは、たいへんまずい状態なのだ。社会として、たいへんまずい状態だ。

たまたま、きちがい的な親のもとにうまれてしまった人は、きちがい的な親のもとにうまれなかった人とは、ちがう困難を経験することになるのである。

けど、きちがい的な親のものとにうまれなかった人は、経験的に、ちがう困難だということがわからないので、「わたしだって苦労をした」「自分だって困難がある」という言い方で、困難を同質化して、無視することができるのだ。

きちがい的な親のもとうまれなかった人は、無視できるけど、きちがい的な親のもとにうまれた人には、きちがい的な親のもとにうまれなかった人にはわからない「異質な困難」がある。

けど、同質化されてしまうので、「困難の質」は無視されてしまうのである。その場合、たとえば、「明るいことを思えば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」というような文言が、きちがい的な親のもとにうまれた人の首をしめることになるのである。

ぼくが、ここで、いままで述べてきたように、言霊理論、思霊理論、努力論、引き寄せ理論などは、すべて、「やられた」側の人をくるしめるものなのである。

2024年7月22日月曜日

もう、これ、宗教戦争なんだよ

 「できない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできない」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音でできなくなった」と言っているだろ。「ヘビメタ騒音の連続で、どうしてもできなくなった」と言っているだろ。なにが、「できると言えばできる」だ? なにが、「けど、働いたほうがいい」だ? ふさげるな。

けど、考えてみれば、きちがい兄貴が、きちがい兄貴が満足できる音で、きちがい的に大きな音で鳴らしているということを感覚的に無視して鳴らし続けなければ、こんなことになってないんだよな。 

そして、このことについてだって「いいわけしている」と言われる。こんなのあるか? だいたい、「できると言えばできる」とか「けど、働いたほうがいい」とかと言っているやつらは、そもそも、きちがい家族による毎日のヘビメタ騒音を経験したことがないやつらなのだ。口を開けば、「俺だって苦労した」「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うけど、ちがうじゃないか。もう、これ、宗教戦争なんだよ。

こいつらには、毎日の記憶がない。実際に、毎日やられたわけじゃないので、毎日の記憶がない。こいつらには、毎日やられたことによって、できあがる、からだの状態がない。実際に、毎日、やられたわけじゃないからだ。ほんとうに、きちがいが、きちがい的な意地で、よそのうちではありえない音で、ずっと鳴らす。「どれだけ、言ったって、きかない」。この、「どれだけ、言ったって、きかない」というのは、こっちが、どれだけ「やめてくれ」と言っても、一分もやめてくれなかったということだ。やめてやる必要がない」ときちがい思考で思っているのである。はっきりと言ってしまうと、それすらもない状態だ。「なにかを言われた」というレベルの理解しかなく、「なにか、不愉快なことを言われたので、きちがい的にしがみついてやり続けた」という状態でしかない。相手が「やめてくれ」と言ってきたということが、そもそもわかってない状態だ。俺が、きちがい兄貴のヘビメタ騒音にずっとさらされて、こまって「やめてくれ」と、きちがい兄貴のところに言いに行ったのに、きちがい兄貴が、「なにか、不愉快なことを言われた」という気持で、怒り狂っておしまいだ。意識的な部分では、「やめてくれ」と言われたということになってないのである。相手が「やめてほしい」と思っていると思うまえに、発狂してはねのけておしまいなのである。だから、はっきりと「やめてくれ」と言われたにもかかわらず、(きちがい兄貴の)意識的なレベルでは「やめてくれ」と言われたということになってないのである。これ、ほかの人にはわからない。ともかく、きちがい兄貴が鳴らしていると、さけようがない状態になる。その状態は、さけようがない状態だ。もちろん、からだの状態も含んでいる。これが、実生活に影響をあたえるのである。 

これも、鳴らされていたって、影響をうけないことは可能だというきちがい思考がある。ところが、どれだけ、強く耳を両手でおさえても、耳栓をしても、発狂的な音で鳴っているのである。とめられないのである。きちがい兄貴が、よそのうちでは絶対にありえない音で鳴らしているということに、気がつけ。この、「そんなの、耳栓をすればいいだろ」みたいなことを言うやつは、自分が、きちがい家族にやられたことがないのである。「耳栓だと意味がないんだよ」と言ったって、こいつはこいつで、わからないままだ。きちがい兄貴が悪いことをしているのに、まるで、俺が、ちゃんとした対策をしないからダメなんだというようなことを言うのはやめろ。そのおまえが言っている対策は、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言えば、だいじょうぶだというような感じで、無意味なんだよ。「だいじょうぶだだいじょうぶだ」と言っても、だいじょうぶではないから、無意味なんだよ。それとおなじだ。

2024年7月21日日曜日

こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

 ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、無理なことになるのに、それがわからない。ぼんくら凡人だって、うちで暮らしていたら、どれだけがんばっても、いままで、軽くできたことが、できなくなるのに、その過程が、わからない。ぼんくら凡人にはわからない。普通の凡人が、無理なことを言ってくる。自分だって、おなじ環境、同じ条件で暮らしていたら、ぼくのように、できなくなるのに、「この環境、この条件だと」できなくなるということを無視して、無理なことをおしつけてくる。これ、超人なんだよ。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられていないように、ふるまうことができなくなる。超人なら、やられていても、やられていないようにふるまうことができるかもしれないけど、超人でなければ、やられていたら、やられた体(からだ)になる。これは、ようするに、不可避的にやられた身体になり、不可避的にやられた身体状態で暮らすことになるということだ。ところが、やられてないやつは……毎日やられてないやつは、そこのところを、ガン無視してしまうのである。そりゃ、やられてないから、ガン無視できる。「俺だって、不愉快なことはある」「俺だってつかれることはある」と均質化、同質化してしまえば、なんだろうが、おなじなのである。だから、自分だったら、影響をうけないで暮らすことができるとという前提で、もを言ってくるようになる。というか、最初から、自分だったら、影響をうけないで、ちゃんとやることができるという前提でものを言ってくる。そして、自分だったら、影響をうけないでちゃんとやることができるという前提が成り立っているということに関して、本人は、無頓着だ。こんなやつらと、つきあえるわけがないだろ。やられてしまっているのだから、無理なんだよ。生活すること自体が無理なんだよ。やられてない場合のように、生活すること自体が無理なんだよ。完全に無理。ところが、よその人……やられてない人は、そこのところが、完全にわからない。よそのやつは、そのこところを完全に無視する。完全に無視している。その場合、やられてしまっているのだから・やられてない場合のように、人間関係を維持するということ自体が無理なことになる。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)の性格が問題だからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)がさぼっているからそうなると考えるのだ。けど、こいつらは……やられてないやつらは、ぼく(エイリ)が努力をしてないからそうなるのだと考えるのだ。こんなやつらと、やられてない体(からだ)で、つきあってたようにつきあえるわけがないだろ。

2024年7月20日土曜日

つらい思いをした

 スネ夫に、「俺だって買ってもらえなかったことがある」「俺だって、ものを買ってもらえなかったからつらい思いをした」と言われているようなもなのなんだぞ。ヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。

2024年7月19日金曜日

不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる

 たとえば、えらそうに説教する人たちの「きれいごと」をすべて理解しているとして、理解したうえで、ヘビメタ騒音下で、生活するということが、どれだけひどいことなのか、まったくわかってないんだよね。「きれいごと」を言う人たちは……。説教をする人たちは……。「きれいごと」の内容が、できなくなるからこまっているのに……。ヘビメタ騒音で、どうしてもできなくなるからこまっているのに……。こいつらときたら……。こいつらときたら、きれいごとの内容をすればいいんだ……と……言う。できないからこまっているんだぞ。こいつら……きれいごとを言う人たちだって、おなじ環境下なら、できなくなる。自分だって、できなくなる……ということが、まーーったく、まーーったく、わかってない。こういうレベルの理解力しかない。どれだけぼくが、言葉をつくって語ったっとしても、こういうやつらは、こういうやつらのレベルでしか理解しない。そして、こともあろうに……ぼくのことを見下してくる。きちがい兄貴にやられたときから、このことが決まっている。これ、セットなんだよ。言ってみれば、セット。

みんながみんな、あの、常識的な、佐藤(仮名)レベルの理解しかしてない。こんなの、地獄だろ。不可避的に、きちがいヘビメタ騒音で、できなくなる。ところが、常識的な人は、不可避的にできなくなるということを、ガン無視して、できるという前提でものを言ってくる。こんなの、ない。どれだけ言ったって、(むこうは)わからない。こうなると、あんまり言いたくないけど、似てくるんだよな。きちがい兄貴と、常識的な人の態度が似てくる。しくみはちがうけど……しくみは、完全にちがうけど……態度だけは、似てくる。みんながみんな、きちがい兄貴のように、無視するという構造ができあがる。無視している部分も、無視をする全体のしくみもちがうけど、むしするという構造ができあがる。わかってないやつが、「わかってもらえなくてもいいじゃないか」なんて、言い出す始末だ……。いったいどこまで、こんなことが続くのかと、途方にくれる。

毎日、続いて、いいわけが、ないだろ

 やっぱり、ヘビメタ騒音できついなぁ。毎日、続いて、いいわけが、ないだろ。みんな、まったくわかってない。「影響がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「過去のことは関係がない」という前提でものを言うのは、やめろ。「自分だって、くるしい目にあってきたので、おなじだ」という前提でものを言うのは、やめろ。「影響がないという前提」「過去のことは関係がない」という前提で、ものを言っておいて、それはない。くるしさの質がちがうから、ちがう症状が出ている。おなじであるはずがない。実際、その人たち……そういうことを言う人たちには、きちがい家族がいない。きちがい家族と一緒に暮らしてきた毎日が、ない。「影響をあたえる」のに「影響はガン無視」か?

ヘビメタ騒音で、できなくなっているから、こまっているのに……「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつに、なにがわかっているのかという問題がある。で、「ヘビメタ騒音の影響」を無視するやつは、みんな、「できないと言うからできない」なんて言ってくるやつと、おなじレベルのやつなんだよ。そういうレベルでしか物事を考えることができないやつらなんだよ。

2024年7月16日火曜日

屈辱以外のなにものでもない。

 だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験し続けると、働けなくなるのだけど、だれもが、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「働けなくなる」ということがわからない。「働けなくなる」というのは、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということだ。だから、俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してないので、「通勤することができなくなる」「通学することかできなくなる」ということがわからない……ということになる。だから、「できなくなる」ということがわからないまま、「できる」という前提でものを言ってくることになる。これ自体が、ぼくにとっては、屈辱であるわけ。けど、「これ自体が、ぼくにとっては、屈辱である」ということは、やられてない人にはまったくわからない。普通の人にはまったくわからない。俺とおなじヘビメタ騒音相当の騒音を経験してない人にはわからない。みんながみんな、俺を見くびって、俺を軽蔑して、もをを言ってくるようになる。ヘビメタ騒音が鳴っている時間に、そのことが決まってしまう。さけられないのだけど、さけられないということが、ほかの人にはわからないのだから、ほかの人はごく自然に「避けられる」という前提でものを考えて、ものを言ってくる。屈辱以外のなにものでもない。

 

 

 

2024年7月15日月曜日

きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめる

 じつは、きれいごとを言う人たちが、対象者の首をしめるということになる場合が多い。きれいごとですめばいいのに、裏がある。あるいは、時系列的なことを考えてないんだよな。きれいごとを言う人たちは、時系列的なことを考えてない。どういう反応が起こって、時間がすすむのかということが、わかってない。まあ、最初から悪意がある場合もある。わかっていないのではなくて、最初から、「あとで対象者がこまること」を想定して、きれいごとを言う場合だ。たとえば、求人欄に、対象となる性別や年齢について書いてはいけないというようなことも、そういうことのひとつだ。あれは、たぶんだけど、わざとやっている。法律とは関係がないケースについては、まあ、きれいごとを言う人たちは、対象者に対する無理解があり、無理解を前提にして、解決策を考えるので、おかしなことになる。理解しているようで、まったく理解してないというしくみ……。

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まあ、条件を無視して、精神世界的なことを言う人たちも、本人は、じゅうぶん現実的な、「いい助言」をしているつもりなのだけど、条件を無視しているので、けっきょく、ディスっているだけということになってしまう場合がある。まあ、精神世界の人たちがいい気分になり、「対象者」は悪い気分になるということが発生してしまうなぁ。

 

 

 

 

 

 

2024年7月14日日曜日

未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか

 たとえば、自分が、未来のある時点で起こるすべてのことについて知っていたとする。そういう場合は、「たしかに、決まっていたことが、起こった」ということがわかる。自分が未来見ある時点で起こるすべてのことを知らないのであれば、未来において、決まっていたことが、「いま」起こったのかどうかわからないではないか。過去をむいて……「過去のある時点において、こういうことが起こったから、こういうことが起こるということが、最初から決まっていたにちがいがない」……と思っているだけなのである。未来決定論者、あるいは、運命論者というのは、最初から決まっていたにちがいがないと思っているだけなのである。未来において起こるすべてのことについて知っている人でなければ、たしかに、「それ」が起こったということが、わからない。

条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。

 たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは運命論者だ。Bさんは、Aさんの知り合いだ。Bさんが、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったとする。その日は、二〇二四年の七月一四日だとする。その時間は、午後七時四分だとする。ようするに、Bさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買ったのだ。そうすると、「BさんがBさんが、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分に、Cというコンビニエンスストアで、Dという会社がつくったEというエビグラタンを買うということは、Bさんが生まれるまえから決まっていたことだ」ということをAさんが言い出す。結果が出ているから、「こうなることは、最初から決まっていた」とAさんは、言うことができる。しかし、じゃあ、明日の午前八時四分に、Bさんが、なにを買うのか、二〇二四年の七月一四日の午後七時四分の時点でAさんが言うことができるかというといえないのだ。決まっているのであれば、言えるでしょ。決まっているということを知っているんでしょ。そして、決まっている内容についても知っているんでしょ。だったら、言える。ところが、まったく言えないのだ。だいたい、Bさんが、ほんとうに、明日の午前八時四分に、なにかを買うのかどうかということさえ、言うことができない。Aさんは、言うことができない。結果が出たあと、決まっていたと言っているだけだ。未来のことに関しては、なにも言えないのである。だったら、決まっているかどうかも、ほんとうは、わかってないということではないか。けど、結果が出ていることに関しては、さも、「決まっていた」ように言うのである。決まっていたかどうかというのは、Aさんの勝手な妄想なので、どうとでも言うことができる。結果が出たあと、「あとだしで」決まっていたということを言う人たちがいる。精神世界の人は、よくこういうことをするんだよ。けど、勝手な妄想だとは思ってないから、タチが悪い。こういうことをする人たちというのは、条件が悪い人のことをまったく考えてない。条件が悪い人を、いじめまくって、良心のいたみを感じない。正しいと思っているからな。条件が悪い人のことを、あとだし思考で、いじめたり、いじったりすることは、やめろ。精神世界の人たちが、得意になって、あとだし思考を前提としたことを言うけど、それは、条件が悪い人にとっては、不愉快なことだ。精神世界の人たちは、精神世界の人たちなのに、あおり行為をして、楽しんでいる。精神世界の人たちは、条件が悪い人に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がついたほうがいい。

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起こったということは、起こったということだ。「起こったから、最初から決まっていた」ということは、言えない。まあ、言うことはできるけど、それは、理論的に正しいことではない。距離があることに気がつかないかな? 根拠になってないんだよ。「起こった」ということが、「最初から決まっていた」ということの根拠にはならない。

2024年7月13日土曜日

すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ

 引き寄せ力についてちょっとだけ、語っておく。たとえば、ぼくは、自分にとって重要な哲学の本を、おカネにこまったので、売ったことがある。そして、ある人が、その本を買った。ある人のことをBさんだとする。Bさんは、めったに市場に出てこない中古本を買うことができた。Bさんが、引き寄せ力がある人で、本を引き寄せたのではない。Bさんは、ほしい本が出てくるのを待っていただけだ。Bさんが、引き寄せなんてものに、まったく興味を持っていなかったとしても、そういうことはある。ところが、引き寄せパラダイムに支配されている人は、Bさんが、中古のその本を引き寄せたのだと主張する。そういう解釈をする。これは、解釈にすぎないんだよ。実体としての引き寄せがあるとか、実体としての引き寄せ力があるということではない。けど、引き寄せ信者はBさんの引き寄せ力というものを想定して、Bさんの引き寄せ力が働いた結果、Bさんが、それを引き寄せることができたのだという解釈をする。いつから、Bさんの引き寄せ力が働いているのか? たとえば、ぼくが経済的にピンチになったのは、Bさんの引き寄せ力が影響していのだろうか? ぼくが経済的にピンチにならなければ、その本は、市場に出なかった。ほかの人が、出していたのかもしれないけど、事実として、Bさんが買った本というのは、ぼくが出品したものだ。Bさんの引き寄せ力が働いているのであれば、その本に、Bさんの引き寄せ力が働いているということになる。つまり、ぼくに対して、Bさんの引き寄せ力が働いたので、ぼくが、その本を出品したということになるのである。それだと、Bさんの引き寄せ力が、ぼくの経済的なピンチをつくりだしたということになる。しかし、そうじゃない。実際には、引き寄せというのは、解釈にすぎない。引き寄せのしくみとか、引き寄せの力といったものは、まったくない。存在しない。ただ単に、現実を解釈しただけだ。すでに起こった現実を、引き寄せというコンセプトを使って解釈しただけだ。引き寄せの力なんてない。Bさんの引き寄せ力が、ぼくの行為に影響を及ぼしたわけではない。実際には、アマゾンマーケットプレイスやヤフーオークションのような中古マーケットが成立しているということのほうが、重要な影響をあたえている。しくみが成り立っているし、そのしくみというのは、現実に実行されるしくみなのである。売りたい人が出品をして、買いたい人が買えるというしくみのほうが、(実際の取引において)Bさんの引き寄せ力などというものよりも、実際に、ぼくの出品するという行為に影響をあたえている。「ひきよせひきよせ」と言っている人たちは、すでに起こった結果を、引き寄せというタームを使って、強引に解釈しているだけなのだ。これは、引き寄せというしくみが成り立っているということや、だれだれに(固有の)引き寄せ能力があるということとは、まったく関係がないことだ。引き寄せというしくみが成り立っていなくても、ぼくの本を、Bさんは買うことができた。Bさんに(固有の)引き寄せ能力がなかったとしても、Bさんは、ぼくの本を買うことができた。けど、ぼくが、アマゾンマーケットプレイスに、その本を出さなかったら、Bさんは、ぼくから!その本!を買うことができなかったのである。どっちが重要かというのは、あきらかだ。どっちが成立要因となっているかというのは、あきらかだ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、重要だ。実際には存在しない引き寄せ能力なんかより、中古取引を成立させるしくみのほうがずっと、Bさんがその本を手に入れることができたということに、影響をあたえている。

それから、たとえば、Bさんの、その本に対する関心が続かなかった場合であって、なおかつ、Bさんがその本を手に入れることができなかった場合について考えてみよう。この場合は、ようするに、Bさんは、その本を手にすることがなかったということになる。その本に対する関心が消失したのだから、Bさんにとって、その本を手に入れることは重要なことではなくなる。その場合、Bさんの「引き寄せ能力」がないということになるのだろうか。結果的に、本を手に入れることが出なかったなら、引き寄せ能力がないということになってしまうのである。けど、これもおかしい。引き寄せ能力に関係なく、手に入れられるときは、手に入れらるし、手に入れられないときは、引き寄せ能力に関係なく、手に入れることができる。基本的に、引き寄せ主義者?の言っていることは、すべて、現実の写し絵なのである。結果が出てないことについては、なにも言えない。まあ、結果が出てないことについても、「引き寄せ能力があるから、引き寄せようと思っていればひきよせることができる」とかなんとか、言うことはできる。けど、この人たちは、引き寄せというタームにしたがって、過去における結果を解釈しているだけだ。そして、未来に関しては、引き寄せ能力があるということを前提にして話をしてしまう。けど、過去における結果の解釈というのは、解釈でしかない。結果が出たあと、「これは、引き寄せだ」と言っているだけなのである。で、過去における結果の解釈が、未来の希望につながるわけだけど、これは、ペテンだ。嘘の希望なのである。根拠にならないのである。過去の解釈はあくまでも、過去の解釈であって、嘘の力を前提とした話は、嘘だ。ペテンなのである。引き寄せ能力などというものはないから、未来に関しては、なにも言えない。結果が出てないことについては、なにも言えない。結果の解釈というのは、結果の解釈なので、解釈でしかない。これがわからないかな?


 

 

 

「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく

 「相手の問題だ」という言い方の問題点について、ほーーんの、ちょっとだけ、語っておく。ここでいう「相手の問題だ」というのは、「自分の問題と相手の問題を切り分けましょう」というような考え方のことだ。自分の問題と相手の問題を「切り分ける」こと自体には、別に問題はない。問題なのは、「切り分ければ、自分は影響をうけないですむ」という考え方のほうだ。これ、区別がされてないのである。「切り分けること」ができれば、影響をけなくてすむという考えになってしまうのである。実際には、切り分けることができたとしても、影響をうける場合があるので、影響をうける場合は、問題解決には至らない。ところが、「切り分ければ問題解決ができる」と自動的に考えてしまうやつが出てくる。こいつらの頭のなかでは「切り分ければ、問題解決ができる」ということになっているので、人にもそういうことを言う。けど、「切り分けても、問題が解決できない」場合もあるので、問題が発生する。この問題というのは、最初の問題ではなくて、すべての場合において、「切り分けることさえできれば」問題は解決すると考えるやつが発生するという問題だ。

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たとえば、きちがい親父は、いろいろな迷惑な行動をする。その場合、きちがい親父の内的な問題だと割り切って考えれば、一緒に住んでいるきちがい親父の影響をうけずにすむかというとそうではないのである。ここに、「切り分けることができれば問題は解決する」と考えているやつがいるとする。とりあえず、Aさんだということにしておこう。Aさんの頭のなかでは、ぼくが、きちがい親父の問題は、きちがい親父の問題であると考えることができれば、それで問題が解決してしまうのである。ようするに、ぼくにおける、ぼくのなかの、きちがい叔父の問題は、きちがい親父の構造と、ぼくの構造は関係がないということを、ぼくが自覚すれば、それで解決してしまうのである。けど、こんなことはない。きちがい親父の頭の問題だと、問題を切り分けても、問題が解決しないのである。きちがい親父の奇行から発生する問題が解決しないのである。影響をうけることに関しては、影響をうけるのである。おなじように、きちがい兄貴の問題と、ぼくの問題を切り分けたところで、きちがい兄貴が、ヘビメタをきちがい的にでかい音で鳴らす以上は、ぼくの問題が、解決しないのである。ヘビメタ騒音の影響をうけるという問題が、解決しないのである。ところが、「それは、兄貴の頭の問題だ」と問題を(ぼくが)切り分ければ、それで、問題が解決するようなことを言うやつからが、発生してしまう。これは、「気にする必要はない」とか「影響をうける必要はない」とかというような言い方とおなじ問題を含んでいる。相手のこころの問題だと問題を切り分けても、実際に相手がすることによって影響をうけている以上、問題は解決できないのである。あたかも、自分のなかで、相手の問題と自分の問題切り分ければ、それで問題が解決するようなことを、言うな!!

九割以上の人間が、そう思うのだ

 きちがい家族によるものすごくひどい騒音生活というのは、ほかの人にはわからないことなんだよ。経験的にわかってない。だから、ほかの人はつねに、ものすごくひどい騒音生活について勘違いをしている。しかし、ほかの人は、「ないから」勘違いしているのだけど、「ないから」実際に被害をうけてない。そうすると、完全にこっちを見下してくるようになる。どうしてかというと、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信があるからだ。こんなの、経験してないから、わかってないだけなのに、とにもかくにも、「自分なら、だいじょうぶだ」という自信がある。「自分なら、だいじょうぶだ」という自信は「自分なら、鳴っていてもできる」という自信とおなじだ。おなじ意味をもっている。なので、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と思うことになる。九割以上の人間が、そう思うのだ。「そんなに鳴らされていたら、自分だってできない(できなくなる)」と思う人間は、一割以下だ。だから、出会う人間に、ヘビメタ騒音のことを説明しても、九割以上の人間は、「自分は、鳴っていても、できるけど、エイリさんは、鳴っているからできないといいわけをしている」と俺のことを見下してくるということになる。けど、ほんとうのことを言ってしまうと、証明はできないけど、あれだけひどい騒音生活を体験すれば、「できなくなる」ということがわかると思う。やってみれば、どれだけあがいて努力しても、ボロボロになってできなくなるということが、わかると思う。けっきょく、そういう人たちは、騒音生活というものに関する想像力が欠如しているから、わからないだけだと、ぼくは思う。死にものぐるいの努力をしても、努力しているときに、きちがいヘビメタが鳴っているのだから、できないまま、高圧状態(高ストスレ状態)が続くのである。毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続くのだから、高ストレス状態でボロボロになる。がんばっているあいだ、鳴っているのである。こういうことを、完全に無視して、「俺ならできる」と思って、無理なことを言ってくる。そういうレベルの想像力しかない。そういう人間が九割以上だ。この世は、そういうレベルの想像力しか持ってない人間が九割もいる世界なんだよ。想像力が欠如しているうぬぼれた人間が、ぼくのことをバカにしてくる。きちがいヘビメタが鳴っていると、強制的に、そうなってしまうのである。きちがいヘビメタを鳴らしている張本人というのは、普通の人が考える範囲にいない人なのである。ようするに、九割以上のバカは、きちがいヘビメタを鳴らしている張本人について、常に誤解をしている状態なのである。普通の人は、きちがい兄貴の「脳みその構造」について、誤解をしている。普通の人は、きちがい兄貴の感覚について誤解をしている。だから、これまた、強制的に誤解をされるような状態になってしまうのである。ヘビメタ騒音が押しつけてきたことはいろいろとあるけど、そのうちのひとつが、これだ。

2024年7月12日金曜日

「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまう

  なになにができるというのは、なになにができるということだけを意味して、『人格』とは関係がない。ところが、「なになにができる自分は、なになにができないだれかよりも、上だ」と考えてしまうのだ。

そして、「思ったことが現実化する」というような、幼稚な考え方がはびこっていると、「できない」人は「できないと思っているからできない」というような幼稚な考え方に支配されてしまうのである。

この世は、条件がある。個人の能力というのも、『条件』のなかに含まれている。

そして、この社会には、階層構造がある。あきらかな階層構造だ。

なので、上下関係は、「人間の格」の上下関係になってしまうのである。ほんとうは、階層構造において、上の地位にいるということは、人間の格をあらわしてない。もちろん、人格もあらわしてないな。

ところが、上の人は、人格的にも上だという考え方が、(各自の全身に)しみわたってしまうのである。

なので、「できる」とか「地位」とかが自分の認知と他者の認知に影響をあたえてしまうのである。「できる」とか「できない」とかということを通して、自分自身や他者について考えるということになる。

また、「地位が上か下か」ということを通して自分自身や他者について考えるということになる。これは、(すべての社会的な人間に)染みついている。

なので、どれだけきれいごとを言っても、実際の行動は、こういうメタ認知に根差したものになる。ようするに、意識的なきれいごとには従わず、現実場面のメタ認知にしたがって、行動するということになる。

そもそも、きれいごとは、「切り出した場面」によって構成されているのだけど、その「切り出した場面」というのは、メタ認知にしたがっているので、あらかじめ、条件を含んだものになる。

ところが、「切り出した場面」から、抽象化するときに、そのメタ認知的な条件をすべて、そぎおとしてしまうのである。そして、条件をそぎおとした「きれいごと」が誕生するのである。

しかし、「現実の場面」では、(その現実の場面における)メタ認知が影響しているので、ごく普通に「きれいごと」のなかにはなかった行動をするのである。それが、人間なのである。ようするに、「きれいごと」に感動したときのようには、行動しないのである。

2024年7月9日火曜日

「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。

 「よそのうち」では、ありえないことなんだよ。だから、よそのうちの人は、経験したことがないことなんだよ。そうすると、過小評価する。無視する。俺がどれだけ、「ヘビメタ騒音の影響できない」と言っても、認めない。こいつらは、無視して「できる」という前提で、話をすすめてしまう。「できる」というのは、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていてもできる」ということだし、「たとえヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、できる」ということだ。現在進行形でも、過去形でも、できないものはできないんだよ。そして、努力のすえ、できなくなることがあるんだよ。ストレスに対抗して、がんばっている期間というのは、長くは続かない。そして、長く続いた場合は、負の影響をもたらすことになる。ようするに、もともとのストレスのほかに、時系列的には、がんばってきたということが新しいストレスをもたらすのである。あたらしいストレスと言ったけど、このほかにも、疲労感、倦怠感などがある。これも、時系列的に、からだがストレスにさらされて、「がんばってきたから」発生したものだ。ところが、「影響なんてない」というやつは、そういうプロセスを無視して、影響なんてない」と言うのである。くそばか。くそばか。

きちがい兄貴も、きちがい親父も、一般人も、ヘビメタ騒音の影響を、認めなかった。ガン無視なのである。「そんなのは関係がないこと」なのである。そりゃ、一般人には、関係がないことだ。けど、ぼくには関係があることなのである。過去の出来事でも、関係があることなのである。昨日の出来事でも、長時間続く出来事なのだから、今日の状態に影響をあたえるのである。昨日のヘビメタは、今日のぼくの状態に、影響をあたえるのである。長時間続いて、眠ることができなかった。眠ることができなかったということは、起きて活動している時間に影響をあたえるのである。「関係がない」と、関係がない人は言うけど、関係がある。「影響がない」と、影響がない人は言うけど、影響がある。

ともかく、一般人は、ヘビメタの影響を、無視する。きちがい兄貴も無視する。きちがい兄貴は、張本人で実際に、ぼくの部屋の横で、きちがい的な意地で鳴らしていたやつだ。一般人は、ぼくの部屋の横で、ヘビメタを鳴らしてない。鳴らしてない。だから、そういう意味では、関係がない。けど、僕の身に起こったことだから、ぼくには関係があることなのである。一般人が、関係性を無視して、「関係がない」と言い張るのは、ぼくにとって腹がたつことなんだよ。 

一般人は、俺が、どれだけがんばってきたか、まったくわかってない。きちがいヘビメタ騒音生活が続くのだから、がんばるしかないのである。これ、ほんとうに毎日、自殺するかどうかというようなでかい問題なのである。ぎりぎりのところで、がんばって暮らしてきたのに、まるで、俺がちょっと努力をすれば、問題が解決できるようなことを言うな。

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「ヘビメタ騒音→ヘビメタ騒音疲労→ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」という連鎖があるとする。これは、少ない項目の連鎖なんだけど、もっともっといっぱいいっぱい、たくさんの連鎖がしょうじてしまう。一般人にはまったくわからないと思うけど、「ヘビメタ騒音なんて関係がないと言われる」こと自体が、とてつもなく、不愉快なことだ。これ、不愉快なことなのである。ネガティブな経験なのである。ヘビメタ騒音を起点として、無数の連鎖がしょうじる。そりゃ、第二項目から、別の第三項目がしょうじる場合だってあるわけだからそうなる。努力論や自己責任論は、俺の首をしめてくる理論なんだよ。こんなもの、妄想的な理論なのだけど、真実だと思っているやつは、正しい理論だと思っている。

こういう人たちの気持ちを考えると、言いたいことが言えなくなってしまうのだけど、こういう人たちは、考えちがいをしている。ともかく、「(ヘビメタ騒音なんて)関係がない」と言われることは、ぼくにとって、不愉快な出来事だ。猛烈にネガティブな出来事なのである。 「関係がない」と言わなくても、関係がないということが前提として成り立っていることを言われるのは、ぼくにとって、とてつもなく、不愉快な出来事だ。

良心

 ほんとうは、良心に従わず行動をしていても、いくらだって、きれいごとを言えるのが人間だ。だから、別に、黒側の宗教のなかに、もっともらしい教義をもっているものがあったとしても不思議ではない。それから、ほんとうにピンチになったとき、どういうことをするのかが問題なのであって、普段、どういうことを言っているかは、まったく問題じゃない。今回だって、それは、もうあきらかなんだけど、黒側に洗脳されている人たちは、黒側の人の言葉を好むのである。「いい人だ」「すごい人だ」「これが、真実だ」と思ってしまうのである。それは、正反対のきれいごと。ようするに、普通の人は、見分けがつかない。良心に従った行動と、良心に従わない行動の、見分けがつかない。だから、見せかけの言葉にだまされてしまう。ある程度、黒に洗脳されて、その価値観があるから、だれがほんとうに良心的な行動をしたか、判断がつかない状態で生きている。

頻度と程度がちがうから、ちがう。

 きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのがすさまじいもので、どうしても、すさまじい影響をうけてしまう。どれだけ気持ちをとりなおして、生活しても、ずっとずっと、きちがいヘビメタ騒音が、続くわけだから、けっきょく、どれだけ気持ちをとりなおして生活していても、くるしいということになる。楽しくないということになる。つらいということになる。不愉快な出来事が連続して起こる状態になる。それは、きちがいヘビメタ騒音によってもたらされる出来事なんだけど、当の、きちがい兄貴は、知らんぷりだ。わかるわけがない。こっちが、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、不可避的にトラブルを抱えてしまうということが、まったくわからない。これは、きちがいだからわからない。普通の人だったら、ひとこと言えば、わかることなのである。自分が「思いっきり」やりたければ、思いっきりやれないようになることは、どれだけ明らかなことでも、いのちをかけて、絶対に認めないのである。きちがい兄貴の態度というのはそういう態度だ。ちなみに、きちがい親父の態度もそういう態度なのである。だから、ひとつ家に、ふたりもそういう人間がいるのだから、くるしくなる。一家に、ふたりもそういう人間がいれば、残りの家族の人生は、ズタボロになる。どうしたって、ズタボロになる。そして、きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、めちゃくちゃなことを言うのである。「気をとりなおしてやればいい」というようなことを言う。そりゃ、普通の家ならそうなのだろうけど、ちがうのだ。きちがい家族と一緒に住んでいるとちがう。頻度と程度がちがうから、ちがう。

ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいても

 ヘビメタ騒音にやられた体(からだ)で、黒に洗脳された普通の人といっしょにいてもおもしろいはずがないんだよね。普通の人は、黒に洗脳されて、黒の価値観が正しいと思って生きている。黒の労働観、黒の道徳観、黒の人生観……そういうものが頭のなかにつまっている。ちなみに、黒の道徳観というのは、文字だけ抜き出してみれば、白の道徳観とおなじなのである。しかし、黒の影響をうけていると、まったく正反対の行為をするようになる。ようするに、完全にだまされて、逆のことをしてしまう。そういうしくみがある。なので、自分の道徳観にしたがって生きているようでも、非・道徳的なことをして生きているということになる。まあ、だまされてしまっているのだから、しかたがない。言葉だけで考えるなら、黒の道徳観も、白の道徳観もたいしてかわりがないのである。字面(じづら)は、おなじなのである。

2024年7月6日土曜日

近くの工事がうるさい

  近くの工事がうるさい。騒音のなかで、バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いている。騒音と、この曲の組み合わせ……。いろいろなことが頭のなかをよぎる。騒音に対抗するためになにか聴こうと思って、かけた曲なのだけど、とても、とても、なつかしい。あーー。しかし、俺の一生はなんだったんだろう。

ぼくは、もともとは、騒音耐性がとても高いほうなのだけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音七年間で、だめになった。破壊された。ヘビメタ騒音の持続期間が七年ということではなくて、七年で、崩壊したということ。ほんとうに、騒音耐性が破壊された。あの音の持続が、どれだけひどいものか、ほかの人はわかってない。すぐ、そこで鳴っている音なんだぞ。あんなでかい音で、鳴らしているうちなんてない。壁があるから、きちがい兄貴のスピーカーは見えないけど、壁が透明なら、すぐそこにあるスピーカーだ。振動? くるよ。細かい、細かい、振動で、睡眠回路がおかしくなる。耐騒音回路も破壊された。

これ、きちがいヘビメタがなかったら、うるさいとは思うけど、たいして、こたえない音だ。きちがいヘビメタ騒音の十数年があるから、どんな騒音もこたえるようになった。不愉快な記憶がよみがえってしまうのだ。

このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ないしんどさなのである。

  ほんとうに、つかれたなぁ。まあ、起きたあと、水を飲んで、ゆっくりできるというのは、いいことかな? だって、そりゃ、ヘビメタ騒音以降、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないという圧力がかかっていると、水を飲んでゆっくりできる時間なんてないからな。「そんなのは、つくればいいだろ」と思うかもしれない。ようするに、一定の時間に起きて、どこかに行かなければならないとしても、水を飲んでゆくっりする時間ぐらいはできるということだ。ところが、ヘビメタ騒音期間中から、ヘビメタ騒音期間後は、そういうことが、一切合切、できなくなる。毎日、できなくなる。それから、ちょっと話がずれるけど、ヘビメタ騒音期間中の、休みの日というのは、水を飲んでゆっくりできる時間はない。ヘビメタ騒音期間後、いまは、起きたあと水を飲んでゆっくりできるのだから、なおったといえるのかどうかというと、いえない。「水を飲んで、ゆっくりできる」と書いたけど、それは、いちおう、だるさや憂鬱感や破滅感を、はぶいたものなのである。たしかに、ヘビメタ騒音が鳴っていたころの朝にくらべれば、ゆっくりできるのだけど、相対的なものだ。たとえば、今日は、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がまったくないのである。いまは、ヘビメタ騒音が鳴ってないわけだけど、鳴ってないから、一定の時間に起きて、どこかに行く予定がある日、水を飲んでゆっくりできるのかというと、できない。ようするに、ヘビメタ騒音期間中、ヘビメタ騒音期間後の予定のない日、ヘビメタ騒音期間後の予定のある日で、気持ちがちがう。ヘビメタ騒音期間後の予定のない日であっても、だるさや憂鬱感や破滅感があるので、ヘビメタ騒音がなかった場合……人生のなかでヘビメタ騒音がなかった場合とは、身体と精神の状態がちがうのである。けど、比較をして言えば……一定の時間に起きて、どこかに行く予定がない日だから、水を飲んで「ゆっくり?」できるという意味だ。これで、一定の時間に起きて、どこかに行く予定があるとなると、ヘビメタ騒音期間中の朝の気分になり、はげしい憂鬱感におそわれるのである。はっきり言うと、めちゃくちゃに気分が悪いけど、無理をして、外に出るということになる。今日は、一定の時間に起きなければならないから、一定の時間に起きたのではなくて、そもそも、自由な時間に起きた日だ。ヘビメタ騒音期間以降であり、一定の時間に起きなくてもいい自由があるから、だるくてしんどいけど、「ゆっくり」はできるという感じだ。これだって、人生のなかで、ヘビメタ騒音期間がなかった場合とは、ちがうはずだ。起きたときになにを感じるかというと、破滅感を感じるのである。ほんとうは、起きたくないけど、生理現象にあらがうことができないので、しんどいけど、無理やり起きて、無理やり行動しているのである。水を飲むというのも、「からっからにのどがかわいた状態」だったから、水を飲みたいと強く思って、水を飲んだのである。まあ、しんどさは、常にある。ヘビメタ騒音期間後であったとしても、しんどさは、常にある。このしんどさは、人生のなかでヘビメタ騒音期間が十年以上続いたことがない人には、ない、しんどさなのである。

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横道にそれないけど、「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」とか「元気だ元気だといえば元気になる」と言ってるやつが、感じるしんどさなんて、たいしたしんどさじゃない。そういうことを言えるのだから、たいしたしんどさじゃない。けど、そういうことを言う人間だって、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言うことはできる。言うことはできるんだよ。けど、そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって、経験したわけではない。そいつは、きちがい家族によるきちがい騒音生活を毎日毎日、ずっと、十数年にわたって続くと……しょうじる……しんどさがわかってない。わかってないのに、「俺だって苦労した」「俺だって、ものすごくしんどい思いをした」と言って、おなじ程度のしんどさを経験したということにしてしまう。その「苦労した」「ものすごくしんどい思いをした」……自分が……「楽しい楽しいといえば、楽しくなる」と言っているのだから、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなる……と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「元気だ元気だといえば元気になる」と言っているのだから、「元気だ元気だと言えば元気になる」と主張しているのだ。いやーー、ちがうでしょ。「楽しい楽しいと言えばたのしくなるような憂鬱さ」や「元気だ元気だといえば、元気になるようなしんどさ」しか経験したことがないんじゃいの?

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たとえば、憂鬱な人はダメ人間だというような価値観があるとする。だるい人間はダメ人間だというような価値観があるとする。そういう価値観にしたがって、「俺は憂鬱にならないダメ人間じゃない人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。そういう価値観にしたがって、「俺は、憂鬱になっても、楽しい楽しいといって、自分の気持ちを制御できるすごい人間なんだ」と思って、そういうことを言うわけなんだよな。だめそうな人にそういうことを言って、うかれている。俺はすごいんだと思いたい。憂鬱になっているやつは、ダメなやつだ。常にしんどいやつは、ダメなやつだという価値観が底にある。それに比べて、自分は、しんどさを感じたって、自分で「元気だ元気だ」と言って、しんどさをふっとばすことができる。だから、自分は、しんどいやつにくらべて、すぐれているのだ……と言いたい気分が……見てとれる。経験したことがちがうのに、自分のほうがすぐれているという前提で、くそ役にたたない方法を、クチにするな。相手にとってまったく役に立たないくそ方法をクチにして、有頂天になり、マウントしている。

2024年7月5日金曜日

「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

  かゆいんだよなぁ。かゆいのをどうにかしなければならない。ひっかき傷が増えていく。だいたい、庭の竹だって、モミジだって、きちがい親父が、めちゃくちゃないきおいで植えたものなのだ。だから、こういうことになるから「植物を減らしてくれ」と言ったのに、逆に、増えちゃう。

こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている

 きちがい兄貴が、きちがい的な情熱で、悪いことをした。これがわかってないやつらが九割ぐらい、いる。こいつらは、俺が悪いことをしたように思っている。無限に努力をすることを求めてくる。

2024年7月4日木曜日

こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でできないのに、……普通の人が……「ヘビメタ騒音でできなくなることはない」というきちがい理論を言って、俺のことを……ダメ人間と認識して……せめてくるというのは……いったいなんなんだ? これ、ほんとうに頭にくる。ヘビメタ騒音で、できなくなったこともおなじだ。ヘビメタ騒音「で」できなくなったといっているだろ。これを、信じないやつらがいる。信じないやつらばっかりだ。こいつらの頭のなかでは、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということになっているのである。「ヘビメタ騒音の影響でできなくなるということはない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は現在に影響をあたえない」ということになっているのである。こいつらの頭のなかでは、「過去は関係がない」ということになっているのである。きちがい的な思考をする。きちがい的な前提でもの言ってくる。そして、きちがい親父よりは頑固じゃないけど、頑固だ。ゆずらない。たとえば、「過去は、たしかに関係がある」ということを認めないのである。たとえば、「過去は現在に影響をあたえる」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということを認めないのである。たとえば、「ヘビメタ騒音の影響はない」ということを認めないのである。俺とおなじ部屋で、一年間ずっと暮らせば、それがまちがっているということがわかる。いやおうなくわかる。自分のからだでわかる。経験をとおしてわかる。ところが、実際には、こいつらは、俺とおなじ部屋で一年間暮らしたことがない。自分の経験としてない。だから、「ヘビメタ騒音の影響でできくなることがある」ということがわからない。

ただ単に、自分の人生には、きちがい家族のきちがい騒音がなかっただけなのに……ずっとずっと毎日毎日続く、きちがい騒音がなかっただけなのに……えらそうなことを言いやがって!! ほんとうに、頭にくる。こいつらは、前提がまちがっているということを、認めない。頑固に認めない。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

 本人の気持ちでどうにかなっていることなら、とっくにどうにかなっているんだよ。

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世の中の人というのは、『条件』を無視しすぎている。条件を無視した妄想的な理論が正しい理論だと思っている。けど、条件を無視した妄想的な理論は正しい理論ではない。

たとえば、「長財布を使えばお金持ちになる」というような理論について考えてみよう。長財布を使うという条件しか考えてない。ほかの条件はガン無視だ。そして、「長財布を使えばお金持ちになる」という文はXをすればYになるという構文をもっている文だ。一〇〇%理論が成り立っているのである。もう、これは、ここでさんざん書いたので、省略したいけど、簡単に言っておこう。「長財布を使う」ということのなかには、「長財布を使わない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちになる」ということのなかには「金持ちにならない」ということを含むことができないんだよ。「金持ちにならない場合だってある」という意味を含むことができないんだよ。なので、「長財布を使えば一〇〇%の確率で金持ちになる」ということと「長財布を使えばお金持ちになる」ということは、意味的に等価なんだよ。これをおさえておかなければならない。

それから、「金持ちはみんな長財布を使っている」というようなことが、 「長財布を使えばお金持ちになる」ということの根拠になっているのだけど、そういう関係は成り立たない。お金持が、みんな!長財布を使っているということだって、正しくないことだ。「長財布を使えばお金持ちになる」というようなことを言っている人は、「逆転の発想だ」と思っているかもしれないけど、この逆転の発想がそもそも、理論的に破綻している。もう、これも、努力論のところでさんざん書いたからいいか。

なんで、こんなことにだまされてしまう人がいるんだ?

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こういうことにだまされてしまう人が、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して、妄想的なことを言ってくる。なんなんだ? この地獄は?


もう、この体であるわけだから

 もう、この体(からだ)であるわけだから、現実的なことは、全部、きちがい兄貴がかかわっていることなんだよ。実際に、現実的なことをやるとしたら、この体(からだ)を使ってやるしかないわけだからなぁ。

ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。ヘビメタ騒音生活の影響がでかすぎる。時間経過というのはある。みんな、ぜんぜんわかってない。どれだけ影響をあたえたか、ぜんぜんわかってない。「過去は関係がない」とか言うやつは、みんな、なぐってやりたくなる。「おまえ、ほんとうに、まっくわかってないな」と言いたくなる。

どれだけのことがつみかさなったか、ぜんぜん、わかってない。わっかてないのに、くそ、言うな。 

この、ヘビメタ騒音の影響を無視するやつらといのは、いったいなんなんだ? ヘビメタ騒音について、ぼくが説明したあとに、こいつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、きちがい的なことを言ってく。妄想的なことを言ってくる。無理なことを言ってくる。「ぼくのからだでは、それは無理なんだ」ということを言ってくる。本人は、正しいことを言っているつもりなんだ。バカの壁がある。このバカの壁は、やっかいだ。本人は、妄想にしたがっ、ただしいことを言っているつもりだからな。

ぼくがヘビメタ騒音について説明したあと、ヘビメタ騒音の影響を無視して、ぼくに、妄想的なことを言ってくるやつらというのは、まったくわかってない。……まあ、これだと、わからないかもしれない。

妄想的なことを言ってくるやつらのなかには、たとえば、言霊主義者が含まれている。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを認めない。そして、妄想的なことを言ってくる。「言えば、言ったことが現実化する」「言えば、言った通りになる」……これが妄想でなくてなんだ。

けど、ここに書いたようなことを説明しても、言霊主義者は、自分がまちがっているということを認めない。バカの壁だ。

言霊主義者だけではなくて、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言ってくるやつらには、自分が妄想的なことを言っているという自覚がない。バカの壁だ。説明してやっても、まるで理解しない。

 

2024年7月3日水曜日

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである

きちがい親父の話をする。ハンダゴテ事件のとき、きちがい親父は、兄貴がピンチだということを認めずに怒り狂ってたんだよ。ハンダゴテ事件のときは、きちがい親父の態度で、兄貴がピンチになった。きちがい親父が、自分がもっているハンダゴテにこだわって、新しいハンダゴテを買ってやらなかったのだけど、自分がもっているハンダゴテは、使えないということを、絶対の意地で認めなかったのである。

きちがい親父は、自分がもっているハンダゴテが使えないということを、絶対の意地で認めてやらなかったのだけど、絶対の意地で認めてやらなかったということを、認識してない。そして、絶対の意地で認めてやらなかったから、兄貴が……長男が学校で恥をかいたということを認めてやらない。

ようするに、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」で、兄貴が学校で恥をかくことになったのだけど、親父は、認めないのである。親父が、兄貴のピンチをつくったわけだけど、親父は、兄貴をピンチにしたつもりがないのである。

きちがい親父は、「親父の激しい主張と親父の激しい行動」のせいで、兄貴(親父から見れば長男)がこまっているということが、まったくわかってない状態なのである。

自分が損をすることがわかっているので、きちがい的な意地で「ハンダゴテが使えない」ということを認めない。無意識的なレベルでは、新しいのを買ってやると、自分が損をするというとがわかっていた。なので、無意識的なレベルで、自分がもってきたハンダゴテが使えないということを認めるということが「できないこと」になる。

けど、きちがい親父の意識は、それがわかっってないのである。意識のレベルでは、「自分が物置から出してきたハンダゴテが使える」ということになっているのである。それはもう、決まっていることなので、ほんとうなら、どれだけ頭がわるい人でもわかる説明を聴いても、認めないのである。

そして、実際に、きちがい兄貴が学校に「そのきちがい親父が押し付けたハンダゴテ」を持って行ったら、先生にバカにされて、みんなに、わらわれたのである。恥をかいたのである。「これが使えると思っているのか」「これが使えると思っているなんて、おまえバカだ」という意味のことを、友達に言われて、兄貴は、ものすごく、くやしい思いをしたのである。

そりゃ、自分だって、「使えない」ということがわかっている。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。兄貴は自分が、学校にもって行った「親父のハンダゴテ」が使えないハンダゴテだということは、知っているのである。

だから、「知っているよ」と答えるのだけど、「じゃあなんで持ってきたんだよ」と友達に言われるのである。でっ、「親父がどうしても、認めなかったんだ」ということを友達に言うわけなんだけど、友達が「おとなの人がこんなのがわからないなんてことはおかしい」と言ったのである。

でっ、技術科の先生まで「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」ということを言ったのである。だから、恥をかいて、家にもどってきたわけ。

それで、きちがい親父に、そういうプロセスについて話して、学校で恥をかいたということを説明したのだ。しかし、きちがい親父が、一回目のときとおなじ態度ではねのけて「使える!!使える」と絶叫して、新しいハンダゴテを買ってくれないのである。

そういういじわるをする。もちろん、きちがい親父は、いじわるをしているつもりなんてないのである。親父の頭のなかでは、いつまでも「使えるハンダゴテ」なのである。

親父にとっては、「自分が物置から出してやった、うちにもともとあるハンダゴテ」は、「使えるハンダゴテ」なのである。だから、学校で恥をかいたということを説明しても、絶対に認めないのである。きちがい親父のなかでは、どこまでも、「使えるハンダゴテ」なのである。なにを言われても、判断をかえることがないのである。

無意識なレベルで、「使えないハンダゴテだ」ということを認めるのは、それこそ、ピンチになることなので、認めない。ピンチというのは、親父にとってピンチということだ。

親父にとってピンチなのは、新しいハンダゴテを買わされることなのである。使えないということを認めてしまったら、新しいハンダゴテを買ってやらなければならなくなるので、絶対に「使えない」ということを認めないのである。

でっ、これが、「いつもの」親父のやり方だ。

うちでは、ずっとこうなのである。兄貴が生まれたときから、親父の態度がずっとこうなのである。親父が、わざと、いじわるでそうしているわけではなくて、親父は、「認めない」ということで、ずっといじわるをするのである。ずっと、おなじようにやってきたのである。

だから、親父にかかわると100%確率で、こういう不愉快なことが発生してしまうのである。意識の部分は、「使えないハンダゴテだ」ということを、絶対に、認めない。

ピンチということをいったけど、きちがい親父の態度というのが、おかしいのだ。普通の人だと、殺人をして、その証拠を突き付けられたときのようなピンチなのだ。普通の人は、まあ、殺人なんてしないわけだけど、テンションの高さがちがう。

親父にとって、「ハンダゴテが使えない」ということを認めるのは、普通の人が、自分がかくしておきたい「殺人の証拠」を認めるようなことなのだ。認めてしまったら、自分が新しいハンダゴテを買ってやるために、カネを払わなければならないということに関する緊張感が、普通の人とはちがうのである。

普通の人の場合、「認めてしまったら」全財産を失って、破産しなければならないというような緊張感は、そういうことがなければないわけなんだけど、親父は、くるっているので、どんな少額なことでも、そういう考えがうかんでしまうような態度になる。ようするに、カネを出さされる……ハンダゴテのカネを出さなければならないというとは、親父にとっては、殺人をしたことを認めなければならないピンチや、全財産を失うようなことを認めなければならないようなピンチなのである。そういう緊張感がある。普通の人にとっては、ハンダゴテを買ってやることぐらいなんでもないだろう。

しかも、学校で必要なものだ。ところが、きちがい親父にとってみれば、人生の破滅を意味することなのである。絶対に負けられないことなのである。絶対に、認めてやるわけにはいかないことなのである。

だから、絶対の意地で振り払わなければならないことなのである。

全力で、否定しなければならないことなのである。無意識レベルでは、絶対に認めてはならないものなのである。無意識が、絶対に認めてはならないと、意識に命令すると、意識は、認めることができなくなってしまうのである。

これは、知能とは関係がない。「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」というのは、大人になった人なら、どんな大人の人でも、そのくらいの知能があると思ってる人の発言なのである。

もちろん、おとなでも知能が特別に低い人はいるかもしれないけど、親父は、「社会人として普通に働いているので」知能が特別に低い人ではないということになる。普通の人は、知能が低いからわからないこともあるかもしれないけど、それ以外の場合は、わかるはずだと考えてしまう。

そういう前提でものを言ってくる。

親父が精神的な病気?で、わからないという可能性を考えない。

そして、実際に、親父が社会人として暮らしているわけだし、精神病院に通院したり、入院したりしているわけではないのだから、「おかしい」とは思わないのである。ようするに、『わからない理由』として、知能と精神病ということが考えられるのだけど、そのどっちも、普通の人の頭のなかでは、否定されることなのである。

だから、「こっち」が、ごく自然に、誤解をうけるようになるのである。普通の人は、そういう「無意識的な問題」について、考えない。特別に、精神病院に通っていなくても、特別に、精神病院に入院していなくても、へんな態度をとる人のことがわからない。

だから、親父のように、無意識に問題があって、なおかつ、うちの人にしかそういう態度をとらない人の場合は、ほかの人たちにとっては、『普通の人』であるわけだから、『普通の人だ』と思って、『普通の人だからこうする』というような枠組みで(親父のことを)考えてしまう。

だから、まあ、言ってみれば、よその人にはわからない精神病なんだよ。しかも、そういう精神病的な反応が、うちにいるときは、すべのことに影響をしてしまうのである。ようするに、一回や二回、たまたま、そういうことがあったということではないのである。型にはまった反応なんだよ。

けど、よその人は、それがわからない。「かくれ精神病」みたいな言い方が、適切なのかどうかわからないけど、「かくれ精神病」だとわからないのだ。

ほかの人には、わからないのだ。

その場合、よその人から見ると、(自分の)親父のことをそういうふうに言っている人がおかしいと見えるわけだ。

だから、「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」とか「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」とかと、言われると「こまる」のである。こまるんだよ!!! こまるの!!

ハンダゴテ事件は、親父と兄のあいだの問題だけど、親父の構造がかわらないわけだから、当然、親父と俺のあいだにもおなじような問題が発生する。


よそで、よその人にバカにされたり、せめられたりする人が、うちのなかで、「かくれ精神病の親」にやられている人なのだ。手短に言って、よその人が、これを理解してくれたことは、ない。ぼくの経験の範囲ではない。

よその人の理解というのは、ぼくからすると、いつもいつも、「気楽な理解」なのである。ぜんぜんわかってないのである。誤解したままなのである。

じゃあ、兄貴の友達が「おとなの人が、そんなのがわからないわけがない」と言ったとき、兄貴の友達に兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。技術科の先生が「おまえの説明が悪かったから、お父さんがわからなかっただけだろ」と言ったとき、技術科の先生が兄貴のことを、バカにする気持ちがあるかというと、そんなのは、ないのだ。

けど、友達や先生の「無理解ぶりを発揮した言葉」で、兄貴は傷ついている。

それから、ちょっとこれは、横道にそれるのだけど、認知療法は、「たまたま起こったことだ」ということを、重視する傾向がある。

たとえば、AさんとBさんがいて、AさんはBさんの父親だとする。あるとき、プールに行ったとき、AさんがBさん背中を押して、Bさんをプールに突き落とした。Aさんとしては、ちょっとしたいたずらでやったことだ。けど、Bさんは、それから、水がこわくなって、プールに入れなくなったとする。その場合、Bさんは、たまたま起こったことを、ずっと何回も起こることだと勘違いしているというような解釈をする。

ようするに、たまたま起こったことなのに、ずっと何回も起こることだと認知してしまったということだ。だから、たまたま起こったことだということを認知して、ずっと何回も起こることだという認知をすてれば、水をおそれる行動がなくなるということになる。「ずっと起こることだ」という認知は、ゆがんでいるのである。

だから、「たまたま起こったことだ」という正しい認知を、Bさんが獲得すれば、それで、問題解決するはずなのである。けど、これは、かくれ精神病の家族にやられている場合とは、ちがうことだ。はっきり言ってしまうと、かくれ精神病の家族にやられている人の(そのことに関する)認知は、ゆがんでいない。

「一回不愉快なことが起こったから、毎回不愉快なことが起こる」と思うのは、認知のゆがみだということになる。どうしてかというと、その「一回の不愉快なこと」というのは、「たまたま起こったことであることがあきらかであり、たまたま起こったことにすぎない」からだ。

けど、かくれ精神病の人は、繰り返し、そういう反応をするのである。だから、かくれ精神病の家族にやられた人の判断はあっているのである。かくれ精神病の人の認知がゆがんでいるかどうかは、ここでは問題にしないとする。かくれ精神病の人は、無意識的な構造でそうしているのだから、繰り返しそういうことをするのである。

実際に、うちのきちがい親父はそういうことをずっとしてきた。ハンダゴテの反応というのは、いつもの、反応なんだよ。親父らしい反応なんだよ!! いかにも、親父がやりそうなことなんだよ!!

ハンダゴテという部分では、たまたま起こったことのように思えるかもしれないけど、パターンがある。親父は、ほかのいろいろなことで、ハンダゴテのように反応するのである。

自分が出したくないカネを、出さされそうになったら、いつもそういう頑固さで、相手の言い分を否定して、怒り狂って「カネを出してやらない」という反応をするのである。

たまたま起こったことじゃないのである。

かくれ精神病の家族にやられた人の判断は、あっているのである。

どういう判断かというと、「おなじようなことが起こる」というような判断だ。「おなじようなことがずっと繰り返されてきたし、おなじようなことが繰り返されるのではないか」という考えは正しい考えなのである。「おなじようなことが繰り返されるのではないか」という認知がゆがんでない認知であり、「今回のことは、またまた起こったことだから、繰り返し起こることはない」という認知がゆがんだ認知なのである。

2024年7月1日月曜日

そういう、認知的な問題がある。

 ヘビメタにやられて、常に絶体絶命の状態で暮らしてきた。

がんばりきって暮らしているのである。

なら、そのほかの選択肢があるか?

ない。

そりゃ、そうだろ。例外なく、なんだろうが、きちがい兄貴が鳴らしている状態だ。殺さないとやめさせることができない。きちがいだから、なんとも思ってない。

こっちが、きちがい兄貴の音で、ピンチになっているのに、ピンチになっているということを、認めない。兄貴が、きちがい親父のやり方で認めない。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

普通の人だったら、できない。

もし、普通の人がやるとしたら、芝居がかっていることになる。そして、普通の人だったら、芝居をしているということを知っている。芝居をして、おいはらった……ということを知っている。自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟を「おいはらった」といこうとを、知っている。

きちがいだから、まったくわかってない状態で暮らしているのである。きちがいだから、そういうことをしているのに、そんなことはまったくしてないと思って暮らしているのである。

やっていることというのは、そういうことなんだよ。

そういうこと……というのは、自分が特別にでかい音で「おもいっきり」鳴らしたいので、「しずかにしてくれ」と言ってきている弟をおいはらって、そのまま「おもいっきり」鳴らし続けるということだ。

実際にやっている行動というのは、そういう行動でしかない。

一日のなかで、自分が家に帰ってきて、ヘビメタを鳴らせる状態なら、おとうとのことなんてかまわずに、「おもいっきり」でかい音で鳴らすのである。

それは、もう、決まっているので、どれだけ言われたって、その通りにするということになっている。ちょっとでも、しずかにしてやろうなんて思わない。「一〇分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。「一分間はしずかにしてやろう」なんて思わない。

「特別に、重要なことをやるから、一〇分間だけでもいいから、しずかにしてくれ」と弟が、言ってきたって、「なんだ!!そんなの!!」と怒り狂った気持ちになって、たとえ一〇分間だろうが、絶対に静かにしてやらないのである。

でっ、やっていることは、こういうことなのだけど、本人は、それが、特別に悪いことだと思ってない。まったく悪いことだと思ってない。本人にとっては、普通のことなんだよ。「そうして、あたりまえ」のことなんだよ。

特に、記憶しないことなのである。

実際の行動は、どれだけなにを言われても、「やりきる」ということなのだけど、常に、やりきったことになってないのである。これが、こまるんだよ。本人は、まったくつもりがないわけ。

そして、相手がこまっているということは、ガン無視するので、相手がこまっているということがわかってない状態でずっと、すごしているわけ。言われたときも、相手がこまっているということは、認めないし、言われたあと、「思いっきり」鳴らしたって、相手が、こまるとは思ってないわけ。

相手がこまっているということは、一〇〇%頭に浮かばないし、相手がこまっているのに、自分がやりきったということは、一〇〇%、頭に残らないんだよ。

残らないので、「やってないこと」になっている。

認識としては、「やってないこと」とまったくおなじなのである。

けど、実際には、きちがい的な意地で、どれだけなにを言われても、やったのである。やりきったのである。

だから、自分が夢中?になって、相手が言っていることを無視してやっている時間のことは、「ない」ことになっている。

自分の生活のなかで、きちがいヘビメタを、思いっきりでかい音で鳴らす時間というのは、相当に長い時間なのだよ。自分というのは、きちがい兄貴のことだ。きちがい兄貴にとって、ヘビメタを鳴らす時間は、長い時間なんだよ。

けど、その長い時間、きちがい的な意地で、ゆずらないでやっていることが、やってないことになっている。同時に、やってないことになっているのだ。

そういう主観的な問題がある。

そういう、認知的な問題がある。


この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ

 この世が地獄だった。この世以上の、地獄、ないわぁ。

どうも、俺とおかあさんは同じ系列で、親父と兄貴は別の、同じ系列なんだよな。

2024年6月30日日曜日

はさまれている「生活」はどうやったって、くるしい生活なんだ

 はさまれている「生活」はどうやったって、くるしい生活なんだ。そして、それの、数千日の、積み重ねがある。そして、数千日の積み重ねがない人には、わからない。わからないまま、軽く見る。わからないまま、無視する。ないのだから、ない。積み重ねがない人には、ないのだから、ない。実際に、そういう経験がないのだからない。実際に、そういう数千日を経験したわけではないので、数千日を経験した場合、どういう状態になるかということが、感覚的にわかってない。わかってないから、無視するのか? あるいは、わかってないけど、無視するのか? よくわからないけど、ともかく、無視する。これも、数千日の経験がいな人にとってみれば、ないことだから、「ない」ことなのである。実際に、経験しなかったという意味で、ない。だから、軽く見ることができるのである。だから、無視することができるのである。

*     *     *

数千日の経験がある者にとっては、無視することができないことなのである。実際に、影響があることなのである。現在においても、影響があることなのである。これ、まったくわからないと思うけど、「過去は関係がない」「鳴り終わったら、そんなのは関係がない」という人たちは、まったくわかってない。当然、関係がないので「通勤して働ける」ということもない。けど、数千日の経験がない人にとってみれば、実際に自分にはなかったことだし、影響を認めないので、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そいつの考えのなかで、エイリさんは、「通勤して働ける」ということになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、さぼって働いてないと言うことになってしまうのである。そうなると、エイリさんは、働くと言うことの意味がわかってないダメな人だと言うことになってしまうので。そういうことを言ったやつだって、老化すれば、老化を理由に働かなくなる。自分は、いいのだ。そして、自分の老化に関しては、日々実感していることがあるので、「通勤して働かなくてもいい」理由になるのだ。自分の体調不良や能力の減退に関しては、老化という「立派な理由がある」ので、「さぼって働かない人とはちがう」と思ってしまうのだ。そういうレベルだ。そういうレベルの思考しかしてない。

そして、たとえば、働いていない人に対する偏見がある人は、その当時、働いていなかった俺に対して、偏見をもつようになるのである。だから、普通に見下してくる。しかも、道徳的なことを言っているやつだって、見下すということについて、悪いとは思わないという態度になる。

部屋片づけ、ひとつをとっても、どれだけたいへんになったかわからない

  本箱の整理を、半袖ティーシャツを着てやったんだけど、腕がダニに刺されている。これは、今回、刺されたわけではなくて、前回、前々回、もっともっと前の回に刺されたやつだ。ようするに、あとが、わりとたくさん残っている。このあとは、消えるのもある。完全に消えるのもある。けど、なかなか消えないやつがある。きちがい親父が、魚を出しっぱなしにするということから生じた、困難だ。魚→ネズミ→ダニなんだよね。ネズミの糞が増えているのに、まったく気にしないで、ネズミ対策工事に頑固に反対する父親とか、うちの父親しかいないだろ。カネはあったんだぞ。説得しても、きちがいだから、応じない。けっきょく、俺が、ネズミの糞片づけや、ネズミ対策工事の注文や、ダニ対策をしなければならなくなる。部屋片づけ、ひとつをとっても、どれだけたいへんになったかわからない。こういう、ものすごい種類の、強烈なダニが、複数いる状態でのかたづけというのが、並じゃないのである。ダニが家中に拡散してしまったことで、どれだけ、こまるか、ほかの人はわかってない。もちろん、ほかの人は、親父が発生源であるダニに、からだを刺されまくるわけじゃないから、ひとごとだ。ひとごとなら「親のせいにしている」「自己責任だ」と、きちがい的なことを言っても、こころがいたまない。

*     *     *

きちがい親父は、『普通の反応』がかえってこないから、いやなんだよ。これ、きちがい回路が搭載されているから、自分が決めたことで、ダニに刺されても、気にしないのである。自分が決めたことで、一階のすべての部屋がくさくなっても、気にしないのである。こまるんだよ!!! こまるの!! 

*     *     *

きちがい兄貴も、『普通の反応』がかえってこないから、いやなんだよ。きちがい兄貴のこういう部分の構造は、きちがい親父のこういう部分の構造とまったくおなじなのぉ!!

普通の反応がかえってこない。そして、普通の人が、普通の反応がかえってこないとどれだけこまるかということを、普通に、無視する。そりゃ、普通の人は、きちがい家族と一緒に暮らしているわけではないので、わからないのである。

かならず、勘違いをするのである。

*     *     *

自己責任論者というのは、自分では、自分がいい人のつもりで、正しいことを言っていると思っているわけだけど、正しいことなんて言ってない。だれの責任かというのは、重要なことなんだよ。本人の意思で、他人に悪い影響をあたえた場合、本人に責任がある場合があるんだよ。自己責任論者というのは「すべては自己責任」と言っているわけだけど、それは、やられたやつがいたら、やられたやつの責任だと他人の責任を追及している。いじめたやつと、いじめられたやつ。自己責任論者は、かならず、いじめられたやつの責任だと言い張るんだよ。すべての場合において、かならず、いじめられたやつの責任だと、主張しているんだよ。本人は、気がついていないかもしれないけど……。「すべては自己責任」のだから、いじめられたやつがいじめられたのは、「すべては自己責任だ」と言っている自己責任論者の責任なんだよ。 

自己責任論者というのは、常にあおり運転をしているようなやつなんだよ。自己責任論者というのは、「やられたほう」をあおって、遊んでいる。本人は、気分がいいのかもしれないけど、道徳的に劣った行為だ。精神世界の人は、目を覚ましたほうがいい。

ヘビメタ騒音の影響をうけた感情をあらわにしないように、気をつけたとしても、だめなんだよ

ヘビメタ騒音のことで、頭がいっぱいで、女の子とデートできるような状態じゃないのである。ヘビメタ騒音というのは、きちがい兄貴にとっては、あたりまえの音で、ずっと鳴らしていてもいい音なのだけど、こっちは、一日目から、生活ぜんぶが破壊される音だ。女の子とデートできるかどうか(女とつきあえるかどうか)なんて、騒音とは関係がないと言う人が、リアル世界でいたのだけど、関係があるんだよ。もう、ヘビメタ騒音が数千日続いている状態で、デートなんてできるわけがないだろ。デートしたって、だめなんだよ。それは、俺が、どれだけ、その女の子と、兄貴のヘビメタ騒音とは関係がないから、その女の子のまえで、ヘビメタ騒音の影響をうけた感情をあらわにしないように、気をつけたとしても、だめなんだよ。長期的にはだめになるんだよ。それが、わかっているから、消極的にならざるをえないんだよ。実際、友達や親友とのつきあいがうまくいかなくなった。基本、友達や親友とのつきあいも、女の子とのつきあいも、おなじなんだよ。人間づきあい・人づきあいという意味では同じなんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、俺の人間づきあいすべてを破壊した。これ、きちがい兄貴は、ほんとうにまったく、つもりがないわけだし、おとうとの人間づきあいを破壊したと思っていないのである。それは、俺が兄貴に言わなかったから、わからないのではなくて、鳴らしたいときは、きちがいモードで認めないからわからないだけなのである。「こ・ま・る」というのが、ほんとうにわからない。やりたければ、自分の感覚を無意識レベルで書き換えて、やってしまう。しかも、意識レベルでは、そうしたことになっていないから、あたかも、自分がやったことではない気持ちがしているのである。「みとめない」ときの「みとめなさ」が、ほんとうに、普通の人間の「みとめなさ」じゃないのである。こまるんだよ。もちろん、こっちがこまるという意味だ。

だいたい、自分のこみ上げる感情を見せないようにして、人とつきあうなんて、できるもんじゃない。そりゃ、一日とか、二日ならできるけど、ある程度長い期間、ずっと、「自分のこみあげる感情」を見せないようにして、ずっとつきあうなんて、どんな、拷問だと思っているんだよ? どうしたって、ヘビメタ騒音の影響をうけるんだよ。睡眠時間をとおして、影響をうける。鳴っているときだけではなくて……鳴っているときのはちゃめちゃな時間だけではなくて、睡眠時間がなくなるということの影響を、日中、うけている。

2024年6月27日木曜日

脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。

 楽しくなくても、楽しいと言えば、脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと思える理由を探し出す……というようなことを言っている人がいる。けど、これはまちがっていると思う。楽しくないのに、楽しいと言う理由というのは、脳が知っていることだ。どうしてなら、「楽しくない」ということに対処するために、わざわざ、言ったことだからだ。なにも、矛盾してないのである。楽しく、なるために、楽しいと言ってみた……。脳は、もちろん、それを知っている。矛盾を感じない。楽しいと言ったから、楽しいと思える理由を(自動的に)さがすので、楽しいと思える理由を見つけて、楽しく思えるということなのだけど、そもそも、どういう理由で、楽しいと言ったかということを、脳が知ってしまっているのだから、無意味だ。矛盾なんて感じない。それから、ヘビメタ騒音というような具体的な理由がある場合は、ただなんとなく、不愉快だというような状態ではないのだ。具体的な理由がある場合は、「ただなんとなく、つまらない」という状態とはちがう。しかし、「楽しくない」という言葉に、両者の意味が含まれているのである。だから、具体的な理由がない場合と具体的な理由がある場合の区別をしてない。かりに、具体的な理由がない場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとしても、具体的な理由がある場合は、「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理由はまちがっていると言えるのではないか。それから、具体的な理由がない場合も「楽しいと言えば脳が、矛盾にたえれなくなって、楽しいと感じる」というような理論が正しいとは限らない。これは、感じ方の問題になってしまうけど……そして、感じ方は自己申告制なので、自分は楽しく感じたという人が一定の割合、出てくるとは思うけど……具体的な理由がない場合でも、そんなには、楽しく感じてないのではないかと(わたしは)思う。楽しさの程度を考えるなら、ほんとうに、楽しい理由があって、楽しいと感じる場合とは、ちがうのではないかと思う。ようするに、ほんとうに楽しい理由がある場合のほうが、楽しさの程度が高いのではないかと思えるのである。そして、ほんとうは、楽しいと感じてないのだけど、楽しいと感じるために、楽しいと言ってみた場合の、楽しさの程度というは、相当に低いのではないかと思えるのである。言いたいことを言ってしまうなら、ほんとうに楽しいと思える理由があるときの楽しさと、楽しく感じるために無理やり楽しいと言ってみたときの楽しさを、同等の楽しさであるように、仮定してし言ってしまうことには、問題がある。あたかも、楽しく感じるために、意図的に、楽しいと言ったときの「楽しさ」は、文脈のなかで感じている楽しさとは、まったくちがった楽しさである可能性があるのに、それをおなじ「楽しさ」という言葉で語ってしまうのは、問題がある。

さらっと、「矛盾をなくすために、楽しさを探し出す」というようなことを言っているけど、これは、楽しいという言葉にだまされている脳という前提がある。だまされていない場合は、もちろん、探し出さない。現実的な体験のなかで楽しさを感じている場合というのは、いちいち、どうして自分は楽しいと感じているのだろうかということは、考えないのが普通なのではないか? だって、楽しいわけだから。楽しいと感じているときは、自然なやりとりの過程がある場合なのである。主に人とのやりとりの中で、楽しいと感じるわけだけど、自然のなかで楽しいと感じるときも、ゲームをしていて楽しいと感じるときも、楽しいと感じるだけの、時系列的な体験がある。自然に楽しいと感じるような時系列的な体験がないのに、「楽しいと感じるべきだ」と思って「楽しい」と言いはじめるわけだから、「楽しい」と言ういう前に、自然に楽しいと感じるような時系列的な体験はない。ないから「楽しい」と言ってみようと思ったわけである。これは、直前の体験がまったくちがうことを意味している。はたして、脳は、そういうちがいを、感じることはないのだろうか? 自分にだまされて、自分の脳が「これは楽しい」と感じてしまうのだろうか? 意図的に言ったのに、自分の脳が誤解をするなんてことはあるのだろうか?



2024年6月26日水曜日

きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよ

  ほんとうに、きちがい兄貴の頭のなかには、「やめてやる」という選択肢がまったくない状態なんだよな。息を吸うように、ヘビメタを鳴らす。息を吐くように、ヘビメタを鳴らすことが決まっている。決まっているから、やっている。「やめてやる」という選択肢は、まったくない。思いつきもしない。可能なこととして、考えるということすら、しない。最初から、「やめてやる」という選択肢が、頭のなかにまったくないから、どれだけ「やめろ」と言われても、そのように行動してしまう。行動したって、「なにがわるい」かまったくわかってないレベルだ。行動したって「なにがわるい」と思わないレベルだ。「なにがわるいのか」と疑問に思うようなレベルではないのである。「やめてやる」という考えが、頭のなかにまったくないように、「なにがわるい」という考えですら、頭のなかに、まったくないのだ。「わるいかどうか」といこうとが、まったく考えられない状態なのだ。どうしてかというと、「わるい」という考えが、そもそも、まったくないからだ。「わるい」という考えがそもそも、まったくないので、「わるいかどうか」が、きちがい兄貴の頭のなかで、まったく問題にならないのである。そういう状態だ。そういう状態で、「よそではありえない」ほど「でかい音」でヘビメタを鳴らす。すべての時間、そうする。可能なすべての時間そうする。こっちが、どれだけ、こまっていても、こまっているということを、まったく認めないで鳴らす。きちがいだから、そういうことが可能だ。こんなの、きちがいでしかない。

ところが、きちがい家族にやられた場合は、よその人は、理解しないのである。だから、よその人の基準で考えてしまう。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んでない人なんだよ。よその人というのは、きちがい家族と一緒に住んだことが、一度もない人なんだよ。だから、よその人もよその人で、ごく普通に、誤解をするのである。よその人の誤解だって、本人の経験にもとづいた「かんがえかた」による誤解なので、誤解をとくことが、ほとんどできない。

だから、きちがい兄貴にやられっぱなし、よその人に、誤解されっぱなしといこうとになる。こんな毎日でいいわけがないだろ。そして、ヘビメタ騒音というのは、よその人が考えているように、「鳴り終われば」影響が消失するようなものではないのである。よその人は、経験がないので、そのことがわからない。「鳴り終われば」影響が消失すると思って、妄想的なことを言う。これ、だって、本人は、妄想的なことだとは思ってないのだ。この、妄想的なことというのは、言霊主義者がもっているような妄想的なことだ。言霊主義者は、言霊理論がまちがっているということを、認識するような事柄が、日々、起こっているにもかかわらず、それは、ガン無視してしまう。

こうなると、きちがい兄貴の無視のしかたと、言霊主義者の無視のしかたが、なんとなく、似ているような感じがしてしまうのである。何度も言うけど、一緒に住んだことがない言霊主義者が、ぼくに、騒音攻撃をしたわけじゃない。彼らは、そんなことは、してない。けど、ヘビメタ騒音の影響を無視して、妄想的なことを言うというタイプの攻撃はしてくる。まあ、無視すればよいのだけど、誤解があるんだよね。この誤解が、不愉快だ。

言霊主義者じゃなくても、普通の人は、誤解をしてしまう。きちがい兄貴があまりにも特殊なので、普通の人の理解の範囲に、入ってないのである。きちがい兄貴自身のことに関しても、きちがい兄貴が実際にやることに関しても、きちがい兄貴が実際にやったことの影響に関しても、頭のなかにはいってない。まったく、はいってない。なので、この人たちも、必然的に、誤解をする。誤解をしているのである。誤解をして、常識的なことを言う。けど、その常識的なことが、ヘビメタ騒音によって、できなくなったのだ。だから、ヘビメタ騒音によってできなくなったということを、こっちは、説明するのだけど、あっちは、理解しないということになる。脳みその範囲内にはいってないからだ。脳みその範囲内にはいっていれば、理解できるのだけど、脳みその範囲内にはいってないから、かならず、理解しないのである。常識的なことを言う人が、ヘビメタ騒音のことを、理解しないということが、最初から決まっている。

その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよ

 佐藤(仮名)も言霊主義者なんだけど、言霊主義者は、なんか、いろいろと短絡的な意見を言ったり、短絡的な行動をしていることが多いなぁ。

ヘビメタ騒音のことを理解してくれた言霊主義者は、いままでで、皆無だ。

かならず、ヘビメタ騒音の影響を軽くみる。無視する。

そして、常識にしたがったことを言う。その常識というのが、これまた、ぼくの感情をないがしろにするものなんだよなぁ。まあ、ともかく、なんか、トラブルのタネをところどころで、ふりかけられている。言霊主義者によって……ふりかけられている。

なんか全部が全部、よけいなことなんだよなぁ。よけいなひとことで、マッチポンプ。「ひとこと多い人」が意識してないところで、「ひとこと多い人」がマッチをすっている。

*     *     *

ヘビメタで宿題を忘れたり、睡眠障害になったり、鬱病的な状態になったり、働けなくなると、いろいろなところで、俺のことを悪く誤解するやつが発生するようになるんだよなぁ。そういうやつらがもっている常識というのは、どうしようもない常識だ。

この手の常識は、これから、ガンガン、こわれる。こわれるしかないんだよ……。 

言霊主義者にかぎらず、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するやつには、ろくなやつがいない。そのまま、その人における思考力の限界をあらわしている。

まあ、犯罪行為とか違法行為ということとは関係がない。だから、まあ、犯罪行為をしないという意味では、善人である。しかし、ヘビメタ騒音に関しては、ほんとうに理解がたりない状態なのである。理解がたりない……。この言葉がほんとうに、ぴったりくるなぁ。

後で消す、個人的な記憶メモ

 そういえば、ちょっと思い出したことがある。あれ、「とある大手電機メーカーの感想でも書いておいたほうがいいんじゃないか」というようなことを佐藤(仮名)が言ったんだよね。まあ、メールで書いてきた。けど、書くべきではなかったんだよな。なんか、佐藤がマッチポンプになっているケースが多い。あっちにも、よけいなことを言ったみたいだし、佐藤が、もめごとのタネを、それとなく、いろいろなところにうめている。

*     *     *

そのころ、ウエブサイト作成のことで、かかわる人が、「とある大手電機メーカー」のもと、部長だった人だから、「感想でも書いておいたほうがいいんじゃないの」と書いてきた。佐藤が、俺に対して、俺が、その「もと部長」に、まあ、リップサービスで、「とある電機メーカー」のことについて、感想でも書いておいたほうがいんじゃないのということを言ってきた。けど、その「とある大手電機メーカー」に関しては、ぼくは、あんまりいい印象をもっていなかったのである。あんまり、「よいしょ」してあげる気持ちにならなかったのである。だから、「とある大手電機メーカーの(元)部長とはすごいですね」というような読意思をしてあげる気にならなかったんだよ。最初の時点で。

けど、佐藤は、ぼくが(ヘビメタ騒音で)社会経験がないということを知っていたので、「そういうもんだぞ」と指導してやるつもりで、そういうことを書いてきたのである。ウエブサイト作成に関しては、ぼくが、親切でやってやっていることなんだよ。これも、人に親切にして、けっきょくは、いやな思いをしたということの一例だ。これ、「人に親切にすれば、いいことがある」なんて言ってる人がいるけど、人に親切にしても、たいていの場合はいいことがない。

 *     *     *

人に親切にしてあげるということについて、ちょっと書いておく。神経質なことなので、そんなことは考えない人のほうが多いと思うけど、ちょっと書いておく。人に親切にしてあげるということが語られるとき、よく出てくる例のひとつに「ものをもって運んであげる」というのがある。たとえば、高齢者が、ものをもって歩いていた場合、「おもちしましょうか」と声をかけて、はこんであげるというものだ。アクションとしては、こっちが、相手に「おもちしましょうか」と声をかけるというところから始まっている。とりあえず、声をかけて運んであげようとする人をAさん、高齢者の人をBさんだとする。普通の話だと、こんなことになる。Aさんが声をかけると、Bさんが「いやー。わるいからーー」と言ったあと、Aさんが「けど、重いでしょ」と言って、Bさんが「それじゃ、たのむわーー」と言って、Aさんが、Bさんの荷物をもって、並んで歩き、そのあと、目的地について、Bさんが「あー。たすかったわぁ」と言って、Aさんも、ニコニコする……。話の内容は、だいたいこういうもので、うまくいった場合の話になる。その場合、Aさんも、Bさんが「たすかったわぁ」と言うから、いい気持になり、「いいことがあった」ということになるのである。けど、現実は、そうでない場合もある。たとえば、Bさんは、以前おなじようなケースで「持ち逃げ」されたことがあるので、警戒しているとする。その場合は、Bさんは、かたくなに、固辞する。なので、親切が成立しない。その場合、Bさんが、Aさんのことを(ぬすんでしまうひとだとうたがっている)と考えているということが、Aさんに伝わった場合、Aさんはあんまりいい気分になれない。まあ、じゃあ、Bさんが、「むかし、荷物をもってもらったら、盗まれたことがあるので、荷物は持ってくれなくてもいいです」と言ったとしよう。その場合、Aさんは、自分が、その荷物をもって行ってしまうようなやつだと思われたということで、傷つくのである。あんまりいい気分がしない。

あとは、たとえばの話だけど、Aさんが、Bさんに親切にして、BさんがAさんに礼を言ったとする。これは、いい場合だ。しかし、未来においては、どういう効果があるのかわからないのである。たとえば、Cさんがいるとする。Cさんは、悪いやつで、高齢者に「荷物をお持ちしましょうか」と声をかけて、荷物を持ち逃げするやつだとする。その場合、Bさんは、そういう人間にしたいして、無防備になっているのである。なので、CさんもAさんのように、親切な人かと思って、荷物をあずけたら、CさんはAさんとはちがって、悪い人間だったので、Bさんの持ち物をもったまま逃げたとする。Bさんが、Aさんのときも、持ち逃げを警戒して、申し出をことわった場合、Bさんは、Cさんの申し出も、ことわる可能性がある。確率は高い。この場合、Aさんが親切な人だったために、Bさんのなかに「人間は親切だ」とか「親切な人が多い」という考えが浮かんだのだ。そうではない場合もあるので、この思い込みは、ある意味、危険だ。無防備になってしまう。Aさんは、親切にすることによって、Bさんを、ある意味、無防備にしてしまったのだ。けど、もちろん、これは、Aさんの責任とは言えない。けど、そういうことだってある。この世には、そういうことだってある可能性がある。

2024年6月25日火曜日

そうなると、まあ、不幸の数が増えるのである。

 どうして、ぼくが言霊理論を批判しているのかというと、言霊理論が、人をくるしめるための理論になっているからだ。自分に気合を入れるという意味での、言霊の力というのは、じつは、言葉の力だ。言霊の力というのは、超自然的な力であって、魔法の力なのだ。残念ながら、言霊に力がない。言葉には、ある程度の力があるけど、言霊には力がない。なので、基本的には、条件が悪い人に、無理難題をおしつけるための理論になってしまうのである。本人が、自分をはげますために、言霊理論が正しいと思い、言霊の力ではなくて、言葉の力を利用しようとするのは、かまわない。しかし、「言霊」という考え方が、じつは、悪いことに利用されてしまっているということを言いたいのだ。言霊というのは、魔法とおなじで、幼児的万能感が関係している。言霊を現実的なものとして考えている人は、言霊の力と魔法の力はおなじだということを聞かされたら、意外に思うだろう。しかし、おなじなのだ。「言霊は絶対だ」と言うことは、「魔法は絶対だ」と言っているのとおなじなのである。どうして、こういう感覚が成り立ってしまうのかというと、幼児的万能感が関係している。幼児的万能感は、だれにでもある。これ、幼児的万能感は、大人になるとなくなってしまうような印象をもっている人がいるかもしれないけど、幼児的万能感というのは、ずっとずっと、大人になっても、消失しない。それが、普通のことだ。なので、超・支配者層は、普通の人をして、悪い条件をかかえている人を、せめさせるために、言霊理論を使っている。他人のことは他人のことなので、人は、他人のことに関しては、冷酷になれるのである。実際には、悪い条件をかかえている人が、言霊理論によって、せめられることになる。超・支配者層というのは、それを知っていて、人々をむだにあらそわせるために、言霊理論を使っている。言霊理論を使って、人をはげまそうとする人は、じつは、相当に、冷酷なことをしている。じつは、相当に無責任なことをしている。言霊理論が正しいと思っている人は、はげますつもりで、言霊理論をこまっている人に「おしえてあげる」のだけど、これは、ほんとうにこまっている人にとっては、じつは迷惑行為なのだ。どうしてかというと、言霊では、問題が解決しないからだ。けど、言霊理論が正しいと思っている人は、言霊(理論)は正しいので、問題がが決すると思っている。実際には、言霊が問題を解決してしまうことは、ない。言霊理論が正しいと思っている人は、自分が、言霊で問題を解決したことがあると思っているけど、これは、勘違いだ。この勘違いについてはずっと説明をしてきた。勘違いなのだ。そして、勘違いをしていることには気がついてない。言霊論者は気がついてない。その言霊論者も、じつは、自分の現実的な問題に関しては、言霊なんてまったく使わずに、現実的な対処をしているのだ。しかし、言霊論者は、自分が現実的な問題に関しては、言霊的な対処をしていないということには、気がつかない。言えば、言ったことが現実化するのだから、言霊主義者はすべての問題を言霊を利用することによって、解決することができる。瞬時に解決することができる。問題なんて一切合切ない状態にすることかできるのだ。しかし、言霊主義者も、現実的な問題について悩んでいる。なので、現実的な問題に関しては、最初から、言霊の力を利用しようともしないのだ。年金が少ないとする。年金支給額が少ないということだ。その場合、かぎられた年金の生活のなかで、小さな楽しみを見つけるというようなことをしている。言霊で年金支給額を増やそうとはしないのだ。言えば、言ったことが現実化するのだから、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言えば、一〇〇万円になるはずなのだ。けど、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言えば、ほんとうに、月換算で一〇〇万円になるのかというと、ならない。そういうことを、言霊主義者も知っている。知っているから「年金が、月換算で一〇〇万円になる」「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と年金が、月換算で一〇〇万円になるまで、言うということをしない。最初から、あきらめている。自分のことに関してはそうだ。しかし、他人のことになると、「言ったことが現実化する」「これは正しい」と言って、ゆずらない。もし、言ったことが現実化しなかったなら、それは、言い方が悪いから現実化しないのだということを言いだす。自分がどれだけ「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言っても、現実しかなかったから、それは、自分の言い方が悪かったから現実しかないだけなのだと、思える言霊主義者がどれだけいるか? 生きているあいだじゅう、いつか、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」ことを夢見て、ずっと、「年金が、月換算で一〇〇万円になる」と言い続けるということを選択する言霊主義者がどれだけいるか? 他人のことになると、「言霊(理論)は絶対に正しい」ということになり、もし、現実しかないなら、言い方が悪いから現実化しないのだと言い張る言霊主義者だって、自分の現実的な問題に関しては、この通り、最初から、言霊で問題を解決しようとしないのだ。ひとごとだから、無効な方法を、有効な方法だと言うことができる。ひとごとだと、自分にとって現実度というのが、ないに等しいので、現実的な問題ではないのである。もちろん、これは、自分にとって現実的な問題ではないということだ。現実的な問題をかかえている他人にとっては、もちろん、現実的な問題なのである。だから、最初から、他人には「カス方法」をおしつけているということになる。最初から、自分だって現実的な問題にはまったく利用しようと思わない「非現実的な方法」を他人には、おしつけていることになる。これは、善意ではあるけど、ありがた迷惑だ。やっているほうは、善意のつもりだけど、やられたほうにしてみれば、ありがた迷惑だと感じてしまうようなことだ。こうなると、立場の弱い人は、マウントをとられてみたいで、いやな気持になるのである。もちろん、マウントをとっているほうは、いい気持になる。こういうことが、頻繁に発生するのであれば、人間のなかが悪くなる。相対的に調子がいいほうが、相対的に調子が悪いほうをおいつめるということになるのである。超・支配者層にやとわれた洗脳のプロは、こういうことを利用して、調子が悪いほうが自殺するような社会を目指しているのである。調子がいいほうが、調子の悪いほうを、善意でおいつめる……というようなシーンを見た洗脳のプロは、しめしめと、わらいを浮かべるのである。立場の悪いほうは、立場のいいほうに、カス方法をおしつけられても、それが、カス方法だということを説明して、論破してしまうわけにはいかない。たとえば、ブラック社長が「言ったことが現実化する」「できないと言うからできない」「できると言えばできる」と、名前だけ店長に言ったとする。名前だけ店長は、ほんとうは……「できると言えばできるなんて言ったって、できないものはできないんだよ」……と思うかもしれないけど、そういうふうに、言いかえすことができない。あるいは、言いかえしにくい。まあ、言いかえしたとしても、ブラック社長が、名前だけ店長が言ったことを、認めるとは思えない。まあ、これは、ぼくが思えないと思っているだけだけどね。ともかく、立場が弱い人は、立場が強い人に言いかえしにくいのである。そうすると、カス方法をおしつけられたほうは、カス方法をおしつけてくるほうに、ある種の感情をもつことになる。そうなると、まあ、不幸の数が増えるのである。そうなると、洗脳のプロがよろこぶのである。

 

 

 

 

 

 




2024年6月24日月曜日

言霊理論がまちがっていることを、言霊主義者も知っているから、「努力する」ことになる

  言霊主義者は、努力する必要なんてないのである。言えば、言っただけで、言ったことが、現実化するからだ。一秒以内に、なになになると言ったら、一秒以内に、なになになるのである。言霊理論が正しいなら、絶対に、一秒以内に、なになにになる。努力なんて必要がない。言えば、言っただけで、言霊のすごい力によって、なになにになるのである。たとえば、行政書士になるために、行政書士の勉強をしている人がいる。この人をAさんだとする。Aさんが言霊主義者だったとする。Aさんは、ただひとこと「一秒以内に、行政書士になる」と言えばいい。言えば、一秒以内に、Aさんが資格をもっているかどうかに関係なく、行政書士になるのである。資格に関しても、こだわるのであれば、「一秒以内に、なになにという資格試験に合格する」と言えば、合格するのである。制度なんて関係がないのである。そんなのは、言っただけで、いかように、書き換えることができる。自分の都合に合わせて、「こういう制度になる」と言えば、それで「こういう制度になる」。ならないのであれば、言霊理論がまちがっているということになる。だいたい、お金をかせいで、安定した生活をするということが、最終的に自分がのぞむことなのであれば、「一秒以内に、一〇〇万円が自分の口座に振り込まれる」と言えば、銀行の制度を無視して、一〇〇万円が自分の口座に振り込まれるのである。一〇〇万円だけではなく、一億円だろうが、一兆円だろうが、振り込まれるのである。「一秒以内に、一兆円が自分の口座に振り込まれる」と言えば、銀行の制度を無視して、一兆円が自分の口座に振り込まれるのである。言えば、言ったことが現実化するので、一兆円振り込まれると言えば、一兆円、振り込まれるのである。超自然的な、言霊の力によって、振り込まれるのである。「振り込まれない」と言うのであれば、言霊理論がまちがっているということになるのである。そして、言霊理論がまちがっていることを、言霊主義者も知っているから、「努力する」ことになる。言えば言っただけで、現実化するのだから、一切合切、努力する必要なんてないのである。言えば、言ったことが現実化する……言ったのに、言ったことが現実化しないということはない……のだから、一切合切、努力する必要なんてない。言ったあと、努力するなんてことは、言霊理論が正しいなら、ありえないのである。言ったことによって、言ったことが現実化するので、努力する必要なんてまったくない。言霊主義者が、言ったあと、努力するということは、その言霊主義者は、「言霊なんてない」ということを言っているようなものなのである。言霊が信用できないので、努力するしかないと思っているのである。言霊の力なんて、ないから、努力して、現実化しようとしているのである。

「二四時間以上起きているコース」

昨日から起きていて、いま、午前六時。あれからまだ、眠れない。これは、「二四時間以上起きているコース」だな。確定。まだ、眠れるチャンスはある。横になっているだけでも、いいかな。しかし、睡眠回路を完全に破壊されたなぁ。兄貴のきちがいヘビメタ騒音に破壊された。

 

2024年6月23日日曜日

むなしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の人生がほしい

  ヘビメタ騒音でつらかったけど、わかいときは、わかいときの希望があった。いまは、もうない。ぼくは、ぼくでさんざんやったからね。個人的にできることは、スポーツ関係をぬかして、すべてやった。相手が必要なことは、いろいろとやってないことがある。むなしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の人生がほしい。ヘビメタ騒音が一日で鳴りやんだ場合の、「わかいじかん」がほしい。

影響がわからない。 影響のでかさがわからない。

 もう、個人的にできることは、やった感じがする。これが、たぶん、限界なんだろう。

ヘビメタ騒音はほんとうにひどかった。

ほかの家では『ない』音なのである。ほかの家では、一日に一〇分だって鳴らない音なのである。一〇分間でも鳴らしたら、「うるさくしやがって」「いいかげんにしろ」と文句を言われるような音なのである。

言われたほうだって、「うるさくしたなぁ」と思って、さげる音なんだよ。

けど、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、きちがいなので、きちがい感覚で、自分の認知・認識を捻じ曲げてしまった。無意識的なレベルで、意識を書き換えてしまった。意識を書き換えてしまったので、どれだけでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしているという、認知認識がない状態なのである。しかも、意識的には、「わざと」そうしているわけではないので、ほんとうに、でかい音で鳴らしてないつもりなのである。つもりだけなんだけど、つもりなのである。あんな爆音で鳴らして、普通の音で鳴らしている気持ちなのである。本人だって、ヘビメタ以外の曲が、あの音のでかさで鳴っていたら「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」「うるさい!!!!」と絶叫してしまうような音なんだよ。そういう音を鳴らして、あたりまえだった。きちがい兄貴にとってみれば、その、きちがい的にうるさい音は、普通の音なので……意識的には普通の音なので、どれだけ鳴らしたって、反省しない音なのだ。迷惑をかけたとまったく思わない音なのだ。こんなの、ない。自分で、自分自身に催眠術をかけたような状態で、鳴らす。ほんとうは、本人だって、ほかの音が、その音のでかさで鳴ってたら「うるさい」と思うような音なのに、意識的な本人は、『普通の音で鳴らしている』と思っている状態なのだ。これ、意識的には、嘘をついているつもりがまったくないのである。じゃあ、どうして、無意識のほうが、そういう『命令』をしたのかというと、「やりたいから」なんだよ。「やっておいて」「やってないことにしてしまう」方法のひとつだ。

*     *     *

きちがいヘビメタを鳴らされると……あの音のでかさで、自分が一番苦手な音をなられ続けると……生活自体がくるしいということになる。

このくるしさが、まったくわかってないやつらがいるのである。そいつらが思い浮かべる「騒音」とは、ちがうのである。ちがうんだよ。

けど、これもまた、経験がない人には、「ちがいがある」ということが、さっぱりわからないということになる。

だから、普通の人は、普通の人が思い浮かべるような騒音しか思い浮かべることができないのである。きちがい家族と一緒に暮らしている人じゃないと、わからないことなのである。

その、一緒に暮らしているきちがい家族が、無意識的なレベルで『音のでかさ』の認知を書き換えて、きちがい的なことだわりで鳴らすということを、経験した人じゃないと、わからないことなのである。

影響がわからない。

影響のでかさがわからない。

わからないと、かならず、誤解をするのである。

ヘビメタ騒音の影響でできないのに、ヘビメタ騒音の影響でできないということはないという、認識をするのである。わかってないやつは、みんな、そういう認識で、俺にものを言ってくるのである。これが、くやしい。このくやしさも、影響を認めない人たちには、わからない。自分が『あたりまえのことを言った』としか思ってない。

二重に、くやしい思いをする。

どうも、眠れそうにないんだよね

明日、歯医者なんだけど、どうも、眠れそうにないんだよね。四時間ぐらいでいいから、眠っておきたいなぁ。まあ、明日は、キャンセルして、七日後あたりにしようかな。これ、歯医者の時間圧力がかかっていて、普通なら、ずれる時間ぶんだけ、ずれなかった。予想した時間のずれと、実際の時間のずれが一致しない。一致しない原因は、「歯医者の時間圧力」だと思う。この日の、この時間に行かなければならないとなると、二〇日間、余裕があるにしろ、「この日の、この時間に行かなければならない」という圧力がどこかにあって、うまく、予想通りにずれていかない。

*     *     * 

そんなの、おかしい

 あっ、それから、「そんなの、おかしい。(ヘビメタ騒音の話はおかしいから、ほんとうのことじゃない)」と考えるやつが、へんないじわるを俺にしてくるということがあった。へんな、いじわる。もし、ヘビメタ騒音がなかったら、こんなやつ、俺の眼中にはいってない。たぶん、出会わなかったと思う。

バカなやつは、バカなやつのレベルでしか、理解しない。

 バカなやつは、バカなやつのレベルでしか、理解しない。

ヘビメタ騒音のことも、世界のほかのことも……。

2024年6月22日土曜日

きちがい親父には、普通の反応をしてほしかった

 ほんとうに、きちがい親父には、普通の反応をしてほしかった。きちがい親父が、魚を一日中出しておくということをして、ネズミを引き寄せた。これは、ほんとうに、引き寄せだ。ものすごいいきおいで、突進してくる。「なんとしても、このなかにはいろう」とネズミが決心して、特攻してくる。これ、こういう状態をつくったのはきちがい親父なのである。何か月もあんなにおいで部屋を充満させたら、そりゃ、穴があいていれば、ネズミが入ってくる。でっ、ネズミというのは、入ってくる期間が長くなれば長くなるほど、ものすごいことになるのである。これ、ほんとうに、俺も、経験しないとわからなかった。わからないことだった。これ、ぼくが、どんな気持ちで言っているか、ネズミの侵入をうけた人じゃないとわからないと思う。問題なのは、親父が、「魚を出しっぱなしにした」ということを認めないことだ。これ、全部が全部そうなんだよ。親父の場合、一生涯、こういう反応をしていた。ともかく、俺が何でこんなことを書いているかというと、一階の部屋の片づけをして、太ももの内側を、ダニに刺されたからである。そのまえは、親父が設置したカーテンを、排除しようとして、腕を、たくさん、ダニにされた。これは、なんて言うのか、七mm四方ぐらいの範囲を、刺青のようには刺されてしまうタイプだ。これ、茶色くあとが残るんだよ。手の甲に、おなじような刺され方をした部分があり、一年たったけど、まだ、茶色くあとが残っている。ともかく、俺は、「よし、じゃあ、ネズミ対策工事をしよう」と反応してほしかったわけ。そういう普通の反応がほしかったわけ。けど、親父は、「俺が(ネズミシートで)つかまえるから、いい」と絶叫して怒った。「ネズミシートで捕まえたって、ネズミが入ってくる以上、ネズミの糞が増える」と言っても、「俺がつかまえるからいい」と親父が絶叫して怒るのだ。そういうときの頑固さや、からだのこわばりが、ほんとうにきちがい的なのだ。これ、まるでわからないと思う。一緒に住んでいないほかの人は、まったくわからないと思う。でっ、この頑固さや、態度やからだのこわばりは、兄貴にもある。「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言われたときの状態が、親父のこの状態とおなじなのだ。「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言ったのは俺で、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」と言われたのは兄貴だ。兄貴の拒否のしかたが、親父の拒否のしかたとおなじなのである。自分にとって都合が悪いことを言われたときの、態度がおなじなのだ。顔を真っ赤にして怒る。でっ、そうやって押し通したことは、押し通したことになってないんだよ。これ、はねのけたら、完全に関係がない人になっている。だから、「こういうふうに否定して、こっちがやってくれと言うことをやってくれなかった」なんて、あとで言われたって、「しらんぷり」だよ。「しらんぷり」というか、ほんとうに、意識的には、知らないことなのである。これが、また、きちがいなんだよ。こんなの、普通の人だったら、ありえないことなんだよ。自分が、こだわってこだわって、頑固に否定したのに、それがまったく、わかってない。自分がやったことじゃないのである。「こういうふうにした」「こういうふうに、拒否してやってくれなかった」と言うこと自体が、今度は、「認めたくないこと」になるから、おなじように、顔を真っ赤にして発狂して、だまりこくるか、あるいは、反対語を絶叫するのである。「やった」と言われたら、「やってないやってない」と発狂して、絶叫する。うっかりやったことじゃなくて、意地をはってやったことなんだよ。絶対の意地でやったことなんだよ。おぼえてないはずがないことなんだよ。けど、「やった」ということを認めるのがいやなときは、頑固に否定する。だから、おなじなんだよ。絶対の意地でやってのけたことを、「やってないやってない」と否定する。そのとき態度が、また、頑固なのだ。おなじなんだよ。これは、親父がやってきた奇行と、兄貴のきちがいヘビメタ騒音に、おなじようにあてはまる。親父と兄貴は、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定する。否定するときの態度と、もとの、きちがい的な意地でやっているときの態度がおなじなんだよ。だから、こまるんだよ。そして、こういうことが、まったくわかってない、よその家の人は、こういうことがわかってないから、あるいは、自分のことじゃないから、「そんなことないんじゃないの」と軽く否定する。そして、「影響をうけなければいい」ということを言う。そんなの、無理に決まっている。兄貴のヘビメタ騒音についても語ってきたけど、話を、親父のネズミ騒動だけにしぼることにする。問題なのは、親父が二〇一七年にやったことなのに、俺が、いま、影響をけているということだ。ネズミの糞をかたづけるのが、俺。カーテンをすてるのがおれ。カーテンを捨てるときに、ダニに刺されるのが、俺。きちがい親父じゃない。張本人は、否定したまま、死んだわけだけど、生きていたとしてもおなじなんだよ。これ、生きていたとしても、おなじ。どれだけ、ネズミの糞が増えても、きちがいだから「俺が、つかまえるからいい」と絶叫しておしまいなんだよ。ダニに刺されたって、そういうスイッチが入っていたら、絶対になにがなんだろうが、工事をさせないような行動をする。しかも、それで、こっちがどれだけ(ダニに刺されて)こまっても、知らんぷりなんだよ。これ、また、兄貴の話になってしまうけど、こういう態度が、兄貴と親父はまったくおなじなのである。俺が、どれだけ(兄貴の)ヘビメタ騒音でこまっていたとしても、まったく関係がない人として鳴らしまくって、まったく認めないんだよね。自分がかかわってるということを、認めない。スイッチが入ったときの態度が、兄貴と親父でまったくおなじなんだよ。親父のネズミ騒動について書いていることは、兄貴のヘビメタ騒音騒動にもおなじように成り立っているんだよ。そして、ほかの人は……うちに住んでいなかった人は……わからない。もう、根本的に、わからない。親父の態度や兄貴の態度が、どういうものか、根本的にわからない。だから、普通思考で、「無視すればいい」ということを考えて、俺にそういうふうに言ってしまう。けど、無理なんだよ。きちがい親父やきちがい兄貴は、ごく自然に、毎日そういうふうするわけなんだけど、よその人は人生のなかで、そういうことを、されたことがないんだよ。どうしてかというと、きちがい的な家族がいないからだ。きちがいでなければ、こんなことは、どれだけうまくやろうとしてもできないことなんだよ。ともかく、俺は、今でも、親父がやったことの影響をうけている。俺が、ダニにされれている。これで、粗大ごみ業者を呼んだ場合、「きったないなぁ」「やりたくない」と言われるのは、俺なんだ。で、作業をすると、どうしてもダニに刺されるから、俺が呼んで、ダニに刺されたことになる。親父が、自分で責任をとって、業者の人を呼んで、業者の人にダニに刺されてもらうわけじゃない。業者の人がダニに刺されたって、そんなのは、親父はまったく気にしないけどね……。汚物あつかいになるか、拡張料金(オプション料金をとられる)ということに、文句を言うかもしれない。

ともかく、バルサンをたいても、作業をする人は、ダニに刺される。

*     *     *

俺が親父に求めていたことというのは、普通の反応なんだよ。普通に反応してほしかった。俺が兄貴に求めていたことというのは、普通の反応なんだよ。普通に反応してほしかった。

*     *     *

精神世界の人が言っていることは、きちがい家族にやられた人のこころをえぐることなんだよ。「もう、いいか」と死にたくなるような言葉なんだよ。精神世界の人たちは、きちがい家族にやられた人のことが、まったくわかってない。精神世界の人たちは、きちがい家族にやられた人に負担がかかることを言っている。どれだけ(きちがい家族にやられた人に)負担がかかるか、精神世界の人たちはまったくわかってない。


2024年6月21日金曜日

これがわかっているのか?

 毎日、勉強することができないということが、影響をあたえないわけがないだろ。ただ、勉強することができない時間があるということではなくて、その時間ずっと、くるしいわけだか、健康面にも影響をあたえる。日本で学生としてすごして、毎日、家で勉強することができないということが、あたえる意味がわからないというのは、思考力がないということだ。夜郎自大な設定で、自分なら影響をうけないと思って、好き勝手なことを言いやがって。なめて、見下したことを言いやがって……。毎日、日曜日も祭日も含めて、やられて、いいわけがない。

勉強だけじゃなくて、睡眠に影響をあたえる。気分に影響をあたえる。だれだって、自分の嫌いな音を……世の中で一番嫌いな音を、あのでかさで、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされたら、憂鬱になる。からだが思うように動かなくなる。おこった顔つきになる。憂鬱そうな顔つきになる。不機嫌そうな顔つきになる。それを、そういうふうにしないように、俺がどれだけ、意識してがんばってきたか、ほかの人はまったくわかってない。ほかの人は、きちがい兄貴ではなく、この問題には関係がいない人たちなのだから、おこった顔をしないようにしよう、不機嫌な顔をしないようにしよう、そう思って、鳴らされている十数年間、なるべく、ほかの人にさとられないように、普通の顔をして……生きてきた。ヘビメタ騒音に関係がない人には、配慮をしていた。けど、そういうのも、一五年間鳴ったあと、ずっと何十年も後遺症が続くとなると、やってられなくなる。きちがい的な家族にたたられなかった人は、「ニコニコしていればいいことがある」など言うけど、それは、ぼくの数十年間を全否定した言葉だ。どれだけ、他人に配慮して、他人に気をつかって、不機嫌な顔を見せないように努力してきたか、おまえわかっているのか?と言いたくなる。そういう期間が長すぎるのである。でっ、きちがいヘビメタ騒音ときちがいヘビメタ騒音の後遺症が原因なのだから、ずっと続くのである。つまり、いやなこと、悪いことが続くということになる。これがわかっているのか?

2024年6月20日木曜日

名誉の問題だから、あせるだろ。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音で勉強することがまったくできないというのが、くるしかった。名誉の問題だからね。そして、勉強することができない時間というのは、けっきょく、切羽詰まった気分で、発狂したい気分をおさえていた時間だから、ストレスが並じゃないのである。つかれ方が並じゃないのである。勉強はしなかったけど、その時間、おちついてすごすことができたということではないのである。勉強することができなかったから、勉強しなかったのだけど、自分の好きなゲームをして、充実していたということではないのである。できないし、つかれはてる時間なのだ。でっ、この「つかれ方」がまた、ヘビメタ騒音ではないことで、つかれたのとは、ぜんぜんちがう、「つかれ方」なのだ。これだって、どれだけ、言葉で説明したって、実際に、一倍速で、あの発狂状態を経験しないとわからないと思う。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなければ、どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音では鳴らさない音なのだ。どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音で鳴らそうと思わない音なのだ。普通の人なら、どれだけ、ヘビメタが好きでも、あんな音では、鳴らせない音なのだ。それを、きちがいが、普通の音で鳴らしているつもりでずっと鳴らす。普通の音で鳴らしているつもりなので、悪いとは思わないのである。きちがい兄貴が、フォークギターを鳴らしていた三年間、俺は、一回だって、「うるさいからやめてくれ」と言ったことがないのだ。きちがい兄貴は、フォークギターぐらいの音で鳴らしているとしか思ってない。それは、無意識的なレベルで感覚器を書き換えたからできることだ。きちがい親父の「におってない。におってない」とおなじなのだ。自分が、強烈にでかい音で鳴らしたい場合は、強烈にでかい音で鳴らしてないことにして、強烈な音で鳴らすのだ。これ、普通の人だったら、絶対に、フォークギターの音なんて比べ物にならないほどでかい音で鳴らしているということに、気がつくのだけど、気がつかない。これは、言われないから、気がつかないということではなくて、どれだけ言われたって気がつかない。きちがい兄貴が……エレキギターをフォークギターぐらいの音までさげて鳴らしてくれたことなんて、一回もない。一日一秒だってフォークギターぐらいの音まで、エレキギターの音をさげてくれたことがない。エレキギター、プラス、ステレオの音なんだよ。ステレオは、六畳間に入れるようなオーディオセットじゃないんだよ。スピーカーだけで、ものすごくでかいんだよ。そのでかいスピーカーで、鳴らす音は、でかいんだよ。そして、ようするに、ステレオの音を、フォークギターの音までさげてくれたことも、ない。どれだけ頼んでも、さげてくれたことがない。こっちがテストでいそがしいときも、絶対に、自分のことだ割りの、でかい音で鳴らして、音をさげてくれことがない。名誉の問題だから、あせるだろ。きちがい兄貴は、俺がテストで悪い点数をとっても、まったく傷つかないけど、俺は傷つく。「勉強をさせてくれ」という気持ちで、きちがい兄貴に「しずかにしてくれ!!!!」ということを言いに行くと、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で否定して、しずかにしないのだ。けど、これまた、きちがい兄貴が、きちがい親父の感覚で、しずかにしてやらなかったと思ってない状態のまま、生活しているのだ。こんなの、ない。

2024年6月19日水曜日

関係はあるし、影響をうけないことは不可能だ

 精神世界のキレイごとというのが、すべてがすべて、条件が悪い人を傷つけるものなんだよ。これはもう、そういうふうに設計されていると考えたほうがいい。特に、特殊な家族がやることによって、どうしても、ストレスがたまる人のことを、傷つける。だいたい、特殊な家族がいない人には、特殊な家族がどういうことをするのか、まったくわかってない。特殊な家族がどういうことをして、どういうつもりで生きているか、まったくわかってない。「やったってやってない」と態度で、迷惑行為をやられ続けると、こまるんだよ! 家族だから、こまるんだよ。これ、特殊な家族が、よその家では絶対に発生しないような迷惑行為をやった場合、どれだけ、傷つくのか、特殊な家族がない人には、まったくわからない。だから、特殊な家族がいない普通の人は、「そんなのは関係がない」「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言う。関係はあるし、影響をうけないことは不可能だ。「そんなのは関係がない」「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言うこと自体が、特殊な家族にやられてないということの証拠だ。特殊な家族にやられた人が、こんなことを言うわけがない。ずっと背負わされる影響で、くるしんでくるしんで、ほんとうならできたことができなくなる。それですら、よその人は、「おまえのせいだ」と言ってくる。こんなのは、ない。「おまえのせいだ」と言うやつは、はやりの自己責任論者であるわけだけど、こいつらだって、特殊な家族にやられて生きてきたわけじゃないんだよ。こいつらが、特殊な家族の影響を無視しているだけなんだよ。特殊な家族と一緒に暮らしたことがない人は、特殊な家族と一緒に暮らしたことがないから、勘違いしている。影響を無視したり、影響を過小評価するというのは、わかってない人の特徴だ。だから、こういう人たちが、どれだけ「俺だって苦労した」ということを言っても、意味がない。特殊な家族と一緒に暮らしたことがないから、特殊な家族が与える影響について、過小評価するやつなんて、もう、過小評価した時点で、まちがったことを言っているやつなんだよ。

2024年6月17日月曜日

努力論に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている

努力論に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている。「すべては、受け止め方の問題」というような「受け止め方論」に関しても、暗黙の前提として『条件は無視する』ということが成り立っている。言霊、思霊、引き寄せ、努力論、受け止め方論、すべてに、条件の無視ということが成り立っている。言霊においては、「言ったか言わなかったか」ということ以外の条件は、最初は、無理されているのである。あとで、言い方が悪いというような『条件』が付け加わることになる。しかし、言い方が悪いということは、「言った」ということのあとに成り立つ、サブ条件なのである。ようするに、言ったという条件が成り立ったあと、「どういう言い方でいったのか」という条件が成り立つことになる。どういう言い方で言ったのかということを問題にする場合は、じつは、結果は、ふたつではない。「いい言い方」と「悪い言い方」のふたつがあるわけではない。けど、「いい言い方」と「悪い言い方」ということに抽象化することはできる。そして、すべての場合において、「言っても、言ったことが成立しなかったのなら、それは、悪い言い方だったからだ」と、あとだしで言うことができる。もちろん、これは、まちがっている。「言うことができる」と言っても、別に、正しいと言っているわけではない。ようするに、詐欺的な思考に陥っている言霊主義者は「言っても、言ったことが成立しなかったのなら、それは、悪い言い方だったからだ」と考えるわけだけど、それは、理論的に正しい思考じゃない。じつは、言い方は無数にあるので、悪い言いかたも、無数にある。基本的なことを言えば、詐欺的な思考に陥っている言霊主義者が「悪い言い方だ」と決めつけただけなのである。これは、最初から決まっているわけではなくて、「言ったことが、言った通りにならなかったのなら、言い方が悪いからだ」と、一時的に、言霊主義者が考えたので、その言い方が、その言霊主義者の頭のなかで「悪い言い方」になっただけだ。まあ、これ、あとだし詐欺だよね。

言霊理論においても、じつは「言った」という条件、「言わなかった」という条件以外は、問題になっていないのである。実生活における、いろいろな条件は、まったく問題になってない。かならず、「言ったか言わなかったか」という、ひとつの条件以外は、無視される。 しかし、ほんとうは、そんなことよりも、その人……が、生まれたときからかかえているいろいろな条件のほうがたいせつなのである。重要なのである。結果に影響をあたえるのである。

 

2024年6月16日日曜日

条件を無視して、「一項目」だけに集中させる手法

 おカネが好きな人のところには、おカネがやってくる。おカネが人のところには、おカネがやってこない……というような話を、『条件ぬき』で語っている人は、みんな、詐欺師だと思っていい。

こういうことじゃないのである。

たとえば、「おカネがきたないと思っている人のところには、おカネがまわってこない」というようなことを言うけど、これもちがう。そして、「おカネがきたないと思っている人は低収入だ」というようなことを言うけど、これも、勝手な決めつけだ。

これ、精神世界系の人は、みんな、やられてしまうのだけど、まず、『条件』というものを考えなければならないんだよ。

この場合、まず、考えられる条件は、「おカネがない人」は、どういう「家」にうまれてきたのかということと「おカネがある人」は、どういう「家」にうまれてきたのかという条件が重要になる。これは、言ってみれば、初期値だ。

初期値が高いほうが(おカネがあるほうが)いろいろな点で有利であることにはかわりがない。

個人の資質や、おカネの流れがかわってしまうことによって、初期値は低いけど、現在地は高い人や、初期値が高いけど、現在値は低い人などがいる。おカネの流れというのは、たとえば、親の収入だ。自分の親が会社を経営していたとする。自分が子どものころは、会社の経営がうまくいって、親がお金持ちだったとする。

けど、自分が一八歳になったとき、親の会社の経営がうまくいかなくなり、倒産した。こういう場合は、おカネの流れがかわったので、初期値とは、ちがう現在値になることがある。

けど、個人の資質が高ければ、成人したあとなので、おカネをもうけることができたという場合ある。ようするに、時系列的にどんな条件が成り立っているのかということは、初期値とおなじように重要なことだ。

しかし、たとえば、小さいときから、小さなおカネのことで、トラブルがたえない人というのは、おカネに対して、たしかに、独自の構えをするようになる。

その場合、たとえば、実際のコインや紙幣に、人間の執念のようなものが宿っているような感じがする場合があるかもしれない。それを、その人が「おカネがよごれている」と表現したとする。この場合は、その人が、おカネをきたないものとして認識していることになる。

実際にこの子どもが成人してからもおカネがない暮らしをしたとする。

そうしたら、ほかの人は、そういう人のことを、たとえ話として使うようになる。

たとえば、小さいときから、「おカネはきたない」と思っている人をAさんだとする。

そして、Aさんをゆびさして、「Aさんがおカネをきたないと思っているから、Aさんにはおカネがないのだ」と言う人をBさんだとする。

Bさんが言っていることは正しいのだろうか?

正しくないと思う。

この場合は、小さいときから、貧乏だったのである。貧乏な家に生まれたのである。だから、親のすがたを見て、おカネに対する嫌悪感が生まれたのである。子ども時代のおカネにまつわるトラブルというのは、親が影響していることが多い。

精神世界の人は、因果関係を逆転させて、物事を考える癖がある。

しかも、逆転させて考えると、真実に到達できると思っているところがある。支配者層が、親支配者層の人をインフルエンサーとして育てると、親支配者層の人が、精神世界的なことを言って、そういう逆転思考をはやらせるのである。

言ってみれば、親支配者層の人に洗脳されている普通の人は、別に、逆転の発想なんてしてない。親支配者層の人が提供したそういう考え方を、そのまま、順方向で、受け入れているだけなのである。言われたことを、そのまま、受け入れている……逆転の発想ができない人たちなのである。

こういう話にだまされてしまう人たちは……。

Bさんは、貧乏な家に生まれて、おカネのことでいやな思いをしたから、おカネに対してネガティブな考え方が発生したと考えるのが、正しい。そして、貧乏な家に生まれたので、そのあとも、貧乏な思いをして生きてきたと考えるのが正しい。

まるで、勝手に、Bさんの頭に、「おカネがきたない」という考えがうかんで、Bさんが「おカネがきたない」と考えているので、Bさんのところにおカネがまわってこないと考えてしまう。こういう考え方はそれまでの条件と今現在の条件を無視しているので、現実的な考え方ではない。

こういう考え方は、Bさんがオギャーと生まれてから、成人するまでのおカネの流れを無視している。おカネがないと、教育うける点でも、不利な状態になる。

だいたい、じゃあ、Bさんの親というのは、どういう階層の人だったのかということが問題になる。

Bさんの親がどういう仕事をして、どういう仕事文化をもっていたのかということが問題になる。Bさんの親のおカネに対する態度が問題になる。

しかし、育った家のことを無視して……結果としてある、Bさんのおカネに対する執着(おカネに関する不愉快な記憶)を「おカネがきたないという考え方をBさんがもっている」ということに置き換えただけなのである。

そりゃ、小さなおカネで常に、トラブルが生じていたら、おカネに対するネガティブな思いがうまれる。わずかなおカネで買えるものなに、親が、そのおカネをケチって買ってくれなかったということは、小さなBさんにとっては重要なことなのである。

無視できることではない。

小さなおカネのことで、小さなBさんがとてつもなく不愉快な思いをしたということは、重要ことなのである。そして、そういうおカネのない家の子供だから、「おカネをもうけやすい」条件がそろってないということになるのである。

子どもといったって、そりゃ、歳(とし)をとる。小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっとおカネがない状態で暮らしてきたなら、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっとおカネがある状態で暮らしてきた人とは、いろいろな条件がちがうということになる。

おカネのもうけやすさというものを考えた場合、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっと有利な条件ですごしてきた人は、おカネのもうけやすさという点でも、有利であることが多い。

成人したBさんの『おカネ観』だけを問題にして、成人したBさんのおカネ観がネガティブだから、Bさんにはおカネがまわってこないとするのは、条件を無視しているという点で、問題がある考え方なのである。

精神世界の考え方だと、Bさんの頭のなかのことが、Bさんの現実をつくっているので、Bさんが頭のなかのことをかえてしまえば、それに対応して、Bさんの現実もかわるということになるのである。

その場合、Bさんの頭の中こと、と、Bさんの現実が対応しているということになって、もちろん、一見正しそうな印象をあたえる。けど、Bさんが、「おカネに対してポジティブに考えても」Bさんの現実がそれに対応して、Bさんの現実がかわらないのである。現実には、さまざまな条件がある。

頭のなかだけ、ポジティブにすれば、それで問題が解決するということはない。ほんとうは、時系列的な条件により、Bさんのからだは、がんじがらめになっているのである。

今現在成り立っている条件というのは、Bさんの行動をしばっている。たとえば、高校卒業時点でのBさんの行動できる範囲と、小学生時代、中学生時代、高校生時代と、ずっと有利な条件ですごしてきた人の行動できる範囲は、あきらかにちがうのである。

たとえ、Bさんが頭のなかで、おカネに対してポジティブな考えをもったとしても、それだけでは、Bさんをしばりつけている様々な条件がかわらないのである。

けど、インフルエンサーに洗脳された人は……つまり、順方向でインフルエンサーの話をうけいれてしまう人は……さまざまな現実的な条件を、無視してしまうのである。

そして、ただ単に「考え方」に注目することになる。Bさんがもっているとされている「おカネに対するネガティブな考え方」だけに注目して、実際に成り立っているBさんの条件を無視してしまうのである。

そして、「おカネに対するネガティブな考え方」が「Bさんが貧乏だ」という結果をつくっていると考えてしまうのである。しかし、Bさんが貧乏なのは、今更始まったことではないのである。生まれたときから、貧乏な親の影響をうけて、Bさんは貧乏だったのである。Bさんが高校を卒業するとき、突然、Bさんを取り巻く条件がかわるわけではない。

Bさんを取り巻く条件はたくさんあるのだけど、そのうち多数が、おカネをもうけるということに関して、ネガティブな条件なのである。ようするに、Bさんが高校を卒業する時点で、もうすでに、Bさんにはたいしておカネがはいってこない条件がそろっているのである。

もちろん、特殊なことをやっておカネをもうけるということができるかもしれない。

けど、それは、普通ではない。特殊なことだ。たとえば、詐欺とか、普通の方法ではない方法でおカネをもうけるということはできるかもしれないけど、それは、普通の方法ではない。普通の方法でおカネをもうけるとなると、いっきに現実的な条件が、ものを言うようになるのである。

ちょっとだけ言ってしまうと、逆転の思考ができるつもりの凡人は、まったく、逆転の思考なんてしてない。だいたい、これには、条件の無視……という特徴がある。

これ、言ってしまってはまずいのかもしれないけど、精神世界の人は、詐欺に引っかかりやすい人だ。精神世界の人は、すでに、詐欺に引っかかっている。「逆転思考ヨイショ詐欺」にひっかかっている。

「逆転思考ができる」ぶんだけ、普通の人よりもすぐれているという考えをもってしまうのだけど、それは、洗脳インフルエンサーが与えた考えだ。これ、「ヨイショ」されているのである。

「自分は逆転思考ができる特殊な人間だ」と思って、うかれているわけだけど、だまされている。

条件を無視して、「一項目」だけに集中させる手法というのは、親支配者層の人がやる詐欺的な手法のひとつだ。「一項目詐欺」と呼んでおこうか?

自己啓発セミナーの講師も、「一項目詐欺」をよく、やっている。この人たちの、話し方の特徴に気がつくべきだ。ほんとうは、条件でがんじがらめなのに、条件を無視して、一項目だけに集中させる。

そうすると、一項目だけをかえると、現実がかわるような印象をあたえることができる。けど、現実は、実際には、条件に縛られている。なので、一項目だけをかえても、現実はかわらない。


(ある)から、意識しない。(ない)から、意識する

 これ以降、書くことは、ぼくとしても、感覚として書く。ようするに、まちがったことを書くかもしれない。ようするに、草稿として書いておく。

人間にとって(よい)条件というのは、空気のようなもので、特に意識しないものなのではないかと思う。自分の(よい)条件は、自分にとって空気のようなもので、(ある)ので、特に意識しない。しかし、自分にとっても、じつは、(なければ)意識せざるをえないことなのである。(ある)から、意識しない。(ない)から、意識する。空気がなかったら、くるしくなって、空気がないということを、意識せざるをえなくなる。もちろん、空気のなかに酸素があり、酸素を欲しているのだという知識があるから、そうなるわけで、空気がない場合も、「空気がない」ということを意識するというのは、知識があるから成り立っていることだ。「空気がない」状態だと、くるしくなり、くるしさだけは、知識に関係なく、意識することができる。人間にとって(わるい)条件というのは、意識せざるをえないものなのではないかと思う。それは、空気がない条件で、くるしさを感じるのとおなじなのである。そして、人間である(自分)は、やはり、悪い条件を意識するのではないかとおもう。それは、まず、くるしさや痛さなどの感覚として意識され、くるしさにまつわる感情や痛さにまつわる感情などの感情をうみだす。この、感覚→感情という流れは、当然の流れだと思う。「など」と書いたのは、たとえば、「かゆさ」という感覚も、「かゆくて不愉快だ」という感情をうみだす。さらに、ひっかいて、あとが残るのであれば、あとが残ったということについて、気にする人は気にする。あとが気になるという感情が生まれる。

条件に関係なく、自分でも、こうすれば「達成されるはず」なのである。

 これだけ、人によって条件がちがう世の中だと、めぐまれた条件の人が、条件を無視して、プラス向きのことを言うと、特別な悪条件にたたられている人の気持ちを傷つけてしまうのである。そして、プラス向きな思考というのは、ようするに、「こういうことをしたほうがいい」「こういうことをしたほうが効率がいい」「こういうことをしたほうが楽しめる」ということなので、ほんとうは、条件が成り立っている。プラス向きの思考について人々が語るときは、まず、めぐまれた条件の人が、ほんとうにそういうふうに思って言う場合と、めぐまれない条件の人が、こうであるはずだと言う場合がある。まあ、そういう意味では、言霊(理論)のトリックや、努力論のトリックに、みずから、ひっかかりたいという圧力があるといえる。めぐまれない条件の人は、「べきこと」として、言霊(理論)や努力論にしがみつくのである。「達成されるはず」なのである。条件に関係なく、自分でも、こうすれば「達成されるはず」なのである。

どうも人間というのは、ぼくも含めて、自分の環境が普通だと思ってしまうところがあるらしい

 どうも人間というのは、ぼくも含めて、自分の環境が普通だと思ってしまうところがあるらしい。自分の条件が普通の条件であると考えてしまうらしい。だから、普通に、相手の条件を無視してしまう。あるいは、相手の条件がもたらすものを、軽く考えてしまうらしい。自分の経験してきたことが、普通だと思うのはしかたがない。だから、人間というのは、他人の条件を無視する傾向がある。しかし、他人の条件に配慮ができるひとというのもいる。これは、言ってみれば、たてまえだ。自分の条件が普通だと思って発言をしたとき、『相手』が反発してきたので、いちおう、それ以降は、相手の条件に「配慮をしめすような」ふりをすることにしたということだ。こっちのほうが、あとでつくられた「態度」であり、この場合も、ほんとうは、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を「軽く見る」態度のほうが、強い。土台には、自分の条件を『普通』だと思って、相手の条件を無視するという態度がある。この無視というのは、「影響」を無視するということだ。法則性ということを言うのであれば、こっちのほうが、法則性があることだと思う。言霊理論の法則性や努力論の法則性は、ないけど、自分の条件が普通だと思って、相手の条件を軽く考えてしまうということのほうに、法則性がある。

しつこくなるけど、ネイティブな思考としては、自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するという思考であり、それだと、問題がしょうじるので、あとで、きれいごととして、相手の条件をがんばって考えるようにしたという感じだ。あるいは、相手の条件を重視しているようなふりをしたほうがいいと考えてそうしているという感じだ。

道徳性ということを言うのであれば、「自分の条件が普通であり、相手の条件は無視するということ」は、かならずしも、道徳的ではないことではないのかもしれない。

いっぽう、決めつける話にかんしては、「人間というのはこうだ」「これはこうだ」と決めつけることになる。これも、どちらかというと、人間にありがちな思考なのだと思う。ようする、人類というのは、決めつける思考をしたがる生き物なのではないかと思う。傾向ということを言うのであれば、「言ったことが現実化する」とか「努力をすれば成功する」というような、詐欺部分があるようなことではなくて、こっちのほうが、傾向としてあるのではないかと思う。もちろん、人類の傾向だ。人間が考えるときの思考スタイルとして、そういうふうに考えてしまう圧力があるのではないかということだ。

 

2024年6月15日土曜日

ネズミとヘビメタのちがいがあるけど、おなじなんだよ!!

 「ネズミ問題を発生させる」「ダニ問題を発生させる」というのが、いかにも、親父がやりそうなことなんだよなぁ。いかにも、親父がやりそうなことなんだよなぁ。

もう、ほんとうに、ネズミ・ダニ対処で、俺は、ほとんどすべての、残りエネルギーを使ってしまった感じがする。

しかも、まだ、ダニ問題が片付いていない。

ネズミを呼び込むようなことを、やるというのが、親父っぽいんだよな。

普通の人は、そんなことはしない。

やった場合でも、「やめてくれ」と言えばやめてくれる。「におっている」と言えば、「におっている」ということを認めてくれる。だれが、ほぼ一日中、自分があとで食べる、魚の切り身を、テーブルの上に、なにもかけずに、出しっぱなしにするか?

これ、鼻が正常なら、絶対に、「におっている」ということがわかるんだよ。

けど、「片付けたくない」というスイッチが入ってると、「におってない」「におってない」ときちがい的なことを絶叫して、「におってない」ということを認めない。普通の人なら、思いつきもしないことなんだ。

自分が食べるつもりの魚の切り身を、サランラップもかけずに、ほぼ一日中、ずっと出しておくなんて、普通の人なら・思いつきもしないことなんだよ。

普通に、サランラップをかけて、冷蔵庫に入れる。いま食べないし、今後、三時間、四時間食べないならな、そうする。これは、竹とおなじで、自分が、そうしたくなったら、そうしてしまうのである。

で、家にネズミが入ってこれるような、隙間がなければ、それでおしまいだったんだけど、そうじゃなかったんだよな。

ネズミが入ってきたら入ってきたで、ネズミシートでつかまえるということに、こだわりまくる。ネズミシートでつかまえたって、ネズミの糞が増えていくんだよ。壁や床がネズミのションベンくさくなるんだよ。

普通の人なら、絶対に、たえられないことなんだよ。ところが、自分がネズミシートで捕まえるということに、こだわる。そもそも、ネズミが入ってこないようにしないと、ネズミの糞が増えるということをどれだけ言っても、認めない。

普通の人だったら、絶対にそんなことは、ないんだよ。きちがいなんだよ。

でっ、この、踏ん張りは、きちがい兄貴の踏ん張りとおなじなんだよ。

きちがい兄貴のヘビメタは、きちがい親父のこういうことと、まったくおなじなんだよ。ネズミとヘビメタのちがいがあるけど、おなじなんだよ!!

ヘビメタ騒音で働けなくなって、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。ヘビメタ騒音で勉強ができなくなって、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。

きちがい親父のきちがい行為経由のダニで、かゆい思いをするのは俺なんだよ。

肌がきたくなるのは俺なんだよ。

ネズミの糞をかたづけるのは俺なんだよ。

きちがい親父が入院したあと、たとえば、ガスの検査で、うちのなかに、人が入ってくるとき、はずかしい思いをするのは俺なんだよ。ガスの検査の人が、ネズミのばい菌にやられないように気をつかって、アルコール消毒液を使って、除菌をするのは俺なんだよ。

けど、ばい菌というのは、目に見えないので、「あの人、だいじょうぶだったかな」と心配するのは俺なんだよ。

きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音を鳴らさなかったら、俺はこの家にいない。きちがい親父のネズミ騒動、ダニ騒動に、かかわる必要がなかった。

*     *     *

張本人のきちがい兄貴がシランプリでまったく関係ない人として生活し続ける。やり続ける。張本人のきちがい親父がシランプリでまったく関係ない人として生活し続ける。やり続ける。やり続けた。きちがい兄貴がいないところで、俺がどれだけはじをかいたり、ばつの悪い思いをしたと思っているんだ? きちがい親父がいないところで、俺がどれだけはじをかいたり、ばつの悪い思いをしたと思っているんだ?

つもっている感情の量が、あたらしい、感情の量に影響をあたえる

 きちがいヘビメタを鳴らされるというとが、どういうことなのかわかってないやつがいる。わかってないやつらばかりだ。こいつらが思っていることと、ぼくが経験したことはちがう。あたりまえのように、きちがい兄貴がものすごい音でヘビメタを鳴らしていた。このヘビメタというのは、好きな人にとっては好きな音楽なのだろうけど、ぼくにとっては、一番苦手な音がつまっている音楽だ。ヘビメタが好きな人は、ヘビメタではなくて、自分の嫌いな音が、常に、大音響で鳴っているという状態を想像してみてほしい。そして、それを鳴らしているのが、頭がおかしい、家族なのだ。家族! 家族!! 家族ということが、どれだけ足をひっぱるかわからない。感情の量というものがある。感情の量。きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい的な態度で、きちがい的にでかい音を鳴らしているあいだ、一倍速で、その騒音にたえているときの感情。時間が長く続けは、感情の量が増える。期間が長く続けば、感情の量が、果てしないほど増える。そして、つもっている感情の量が、あたらしい、感情の量に影響をあたえる。まえよりも、悪くなっていくのだ。失敗体験がつみかさなる。くるしい時間がつみかさなる。そして、理解してくれる人がだれもいない。これは、ようするに、おなじ体験をした人が、だれもいないということだ。つもりつもった感情の量がある。これを無視して、「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言うやつらがいる。

こいつらは、完全になめくさっている。

こういうやつらに、なめくさったことを、言われることが、きちがい兄貴の態度で決まっているのである。

よそでは、きちがい兄貴だって鳴らせないようなでかい音で、鳴らして、よそでは、きちがい兄貴だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているということを、絶対に、認めない。

こんな、頭にくる態度があるか?

これ、毎日、何時間もやられていいわけがない。これ、毎日、何時間もやられて、勉強時間をとられていいわけがない。これ、毎日、何時間もやられて、睡眠時間をとられていいわけがない。

きちがい兄貴しか、こういうことをほんとうに実行する人間がいないのだから、ほかのやつらは、おなじことをされたことがないやつらなのである。

かりに、きちがい兄貴以外に、こういうことを、きちがい兄貴感覚でやるやつがいたとする。その少数の例外は、例外としてあつかうことにする。

けど、その少数の例外は、「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言うわけがない。

「過去なんて関係がない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」と言ったやつらは、みんな、みんな、全員、きちがい的な音を、きちがい的な音のでかさで、鳴らされたことがないやつらなのである。

そして、こいつらのほうが、当然ながら、多数派なのである。九九・九九九九九九九九九九九九九九九九九九九九九%ぐらいが、こういうやつらなのである。こんなのは、ない。

けっきょく、感情の量を知らないやつらが、くそを言ってくる。くそを言ってくる。やられなかったから、言えることだ。しかも、言霊主義者は、理論的にまちがっているのである。努力論者は、理論的にまちがっているのである。きちがい家族によるきちがい騒音に対する無理解さを発揮したあと、くそまちがった理論を言いやがる。

ほんとうに、毎日、きちがい騒音でボロボロなんだよ。

関係ないわけがないだろ!!

ほんとうに、ひとのこころを踏みにじるようなくそボケ発言を、普通にしやがる。ごく普通に、ひとのこころを踏みにじる、くそボケ発言をしやがって。しかも、正しいと思っている。まちがっているよ。

世の中の、ほとんどのやつが、こういうやつらだ。どうしたものかな?


2024年6月14日金曜日

遠距離通勤・長時間通勤で、人生つんだひとの話

遠距離通勤・長時間通勤で、人生つんだひとの話があったけど、わかるような気がする。Youtubeにそういう動画があったということ。

最初は、通勤時間中に、読書をしようとか、スマホで映画を見ようとかと思うんだよ。最初は、『このくらい離れても、妻や子供のためには家が大きいほうがいい』と思うんだよ。

ところが、実際にやってみると、きついというのが、わかる。最初のころと、二年間続いたときとでは、感情がちがう。からだにつかれがたまっている。

けっきょく、家でも、会社でも、うまくいかなくなる。この人の場合は、自分で選んだことだから、まだ、あきらめようがあるけど、ヘビメタ騒音は、俺が選んだことじゃないから、あきらめがつかない。

選択してないんだよ。

俺は、選択したわけじゃないんだよ。

ヘビメタ騒音がある人生とヘビメタ騒音がない人生を選べたわけじゃないんだよ。ぜんぜん、ちがう。そして、職場のことだから、けっきょくは、転職すればいいということになる。

それも、うまくいくとは限らないけどね。

ところが、ヘビメタ騒音の場合、家族のことだから、家族をかえると言うことができなかった。俺が一一歳のときに、きちがいヘビメタ騒音がはじまった。「(兄貴に)鳴らさせない」ということができないなら、アパートを借りてくれと、俺が、きちがい親父に言ったけど、そんなのは、きちがい親父が理解するはずがない。

きちがい親父は、きちがいだから、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らし始めると、それに、まあ、かげから、賛成してしまう。特に、やめさせようとしないんだよ。

こういうのも、ネズミが入ってきて、ネズミの糞が、毎日増えていく状態なのに、「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と言ってゆずらないときの感覚とおなじなんだよ。

ともかく、普通の人が行動するように、行動してくれない。

きちがい親父は、普通の人が行動するように行動してくれない。こっちが、助けを求めると、きちがい的な意地で否定して、頑固に動かない。頑固に動かないというのは、意地になって動かないということだ。

きちがい兄貴のヘビメタだって、きちがい兄貴でなければ、あんなに頑固になって鳴らすことはなかったのである。

親父ときちがい兄貴の頑固さが似ているから、ものすごくこまることになる。

普通の人だったら、絶対にやられないことを、きちがい的な意地でやって、やっているということ認めない。そして、やりきったら、もう、「関係がない人」になってしまう。

これが、毎日、繰り返される。

「影響をうけないことは可能だ」というようなことを言う人もいるけど、影響はうける。

「過去は関係がない」ということを言う人もいるけど、過去は関係がある。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音自体が、よその家では絶対にありえない、ひどい騒音なんだよ。それに対する家族の反応というのも、よその人には、絶対に考えられない反応なんだよ。

おかあさんは、兄貴に、「しずかにしてやって」と言ったけど、兄貴は、おかあさんの言うことなんてきかない。親父が、竹を植えたときの態度で、きちがいヘビメタ騒音を、鳴らす。

おかあさんも、「そとに助けを求めるタイプ」ではなかったので、けっきょく、きちがい兄貴が意地をとおして鳴らしていると、「こまったまこった」と言ってこまっているだけだった。

おかあさんはおかあさんで、うちの問題を、かくすようなところがある。

まあ、そのころから、ご飯をつくることと、自分で入浴することはしていたけど、ほかの時間は、ずっと横になっていたような状態だ。おかあさんは、当時から、ほとんど寝床で暮らしていた。まあ、免疫関係の病気とその他の病気で、横になっている時間が長かった。おかあさんの寝床と俺の寝床をくらべると、おかあさんの寝床だと、きちがいヘビメタが鳴っていても、眠れるのだよ。

ほんとうに、位置的な問題なんだろうけど、おかあさんの部屋とぼくの部屋とでは、ヘビメタ騒音のひびき方がちがう。学校から帰ってきて、おかあさんの布団で寝ていたときがある。そのときは、眠れた。

おかあさんの布団でぼくが眠っているとき、おかあさんは、ようするに、居間のおかあさんが座る居場所に座っていた。最初のころは、これもまた、「(自分の布団で)眠ってもいい」とおかあさんがぼくに言っていたのだけど、一か月ぐらいしたときに、どうしても、座っているがつらいから、(自分の布団で)寝るのはやめてほしいと言うことを、ぼくに、言ってきた。

そりゃ、ほんとうは、ぼくもつらかったけど、おかあさんの布団なので、おかあさんにゆずった。

けど、ぼくの部屋と、おかあさんの部屋だと、音圧がちがうんだよ。だから、ヘビメタ騒音が鳴っている時間でも、おかあさんの部屋では眠れたけど、ぼくの部屋では眠れなかった。ぼくの部屋は、ほんとうに、透明な壁なら、すぐそこに、きちがいの巨大スピーカーが見えるような近さなんだよ。

そして、空間的に、まよこと、ななめ下だと、音の響き方がちがう。兄貴の部屋の床と、ぼくの部屋の床はつながっているので、もろに、(こまかい)振動がくる。そのこまかい振動は、振動として完全に認知できるような大きな振動ではないけど、眠りに影響をあたえていたのではないかと思う。

音もそうなのだけど、音の振動のほうも、問題で、睡眠に影響をあたえていたと思う。

長時間通勤をした人も、最初は、「電車のなかにいる時間を有効に活用すればいい」と思っていたわけだけど、実際にやってみると、きつかったということだ。

きつさの影響が、いろいろなところに、あわられるのである。

たとえば、仕事とか家族の人間関係に影響をあたえる。「つかれ」というのは、つかれなのだけど、つかれが、注意力や他者に対する感情に影響をあたえるのである。 長時間通勤でだいじょうぶだと思っていたときは、睡眠時間がたりずに、仕事でミスが連発するということは、考えられなかったことなのである。

そして、どれだけ注意しても、やはり、睡眠時間が減ると、ミスが多発することになったのである。

普通の人は、注意すれば、ミスが減ると思っているけど、基本的にものすごく睡眠時間が減って、「つかれている」と、それがうまくいかないのである。持続時間の問題や持続期間の問題がある。

ミスが増えるもともとの原因(問題)が解決されないまま、存在し続けると、「注意をむける」と言うこと自体が、むずかしくなる。注意をむける持続時間自体が短くなる。どれだけがんばっても、注意がむかない時間があり、その時間にミスをしやすくなる。

ミスをされたほうは……そりゃ、ミスをされた立場で、発言をする。長時間通勤の人の上司は、上司の立場で、ミスをするなと言う。けど、それが、日常的に、ずっとつかれていると、どうしても、ミスが多くなる。

ヘビメタ騒音というのは、日常生活における「ミス発生装置」なんだよ。

ほかの人は無視するけど、どうしても、ミスが発生するんだよ。

きちがいヘビメタを鳴らしている兄貴がこまるのではなくて、きちがいヘビメタ騒音を強制的に聞かされているぼくがこまるんだよ。そして、長時間通勤とおなじように、その条件は、無視されるのだよ。……他人から無視される。


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長時間通勤で、成功したというケースもあると思う。「俺は、長時間通勤をしたけど、快適だった」と言う人もいるだろう。

けど、条件がちがうかもしれない。

たとえば、電車を乗り換える必要があるのかどうかという条件。電車を乗り換える必要があるならあるで、乗り換える駅がいくつあるのかという条件。会社で、残業があるのかどうかという条件。

もちろん、まず考えられる体力的な条件というのがあるのだけど、体力的な条件だけでは決まらないのである。

Aさんは、長時間通勤が快適だった。Bさんは、長時間通勤で音(ね)をあげた。

Aさんは、根性があって、Bさんが根性がないと言いきれるのか?

ほかの条件がちがうのであれば、一概には言えない。Aさんは、体力があって、Bさんは体力がないのか?

一概には言えない。

けど、Bさんは、長時間通勤が、一〇年続いたあとは、体力的に弱くなっているだろうということが予想できる。これは、もともとの体力ではなくて、結果のほうね。結果的に、そうなったということと、もともとの資質(初期値)は別のこととして考えないとだめなんだよ。

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言霊主義者は、「元気だ元気だと言えば元気になる」「つかれたと言うからつかれる」と言うけど、まちがっている。

言霊主義者は、言ったかどうかということと、言う内容にしか注目しないけど、ほかの条件が成り立っている。ほかの条件がちがえば、結論はちがってくる。

これ、言霊主義者だって、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。言霊主義者だって、十数年にわたって、ほとんど毎日、超・長時間通勤をすれば「つかれた」と感じるのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(人は)つかれるのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「自分はつかれない」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。

ほんとうに、現実的な理由で「つかれた」ときに「元気だ元気だ」と言っても、(自分自身は)つかれを感じない状態にならないのである。

言霊主義者といえども、自分の現実的なことに関しては、言霊的な解決法を利用しないのである。言霊的な解決法が利用される場合は、そういう気分が味わえるときだけに、限定されている。

現実的な場面のなかでは、言霊主義者だって、言霊的な解決法を利用しようとしない。言霊的な解決方法なんて、まったく役に立たないということを、言霊主義者が知っているからだ。

けど、これがまた、「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用してない」「現実的な問題に関しては、(自分は)言霊的な解決法を利用しようともしない」ということに、言霊主義者が気がつかないというところがある。

子どもじみた、無視がある。

注意がむかないのである。

これまた、注意がむかなければ、なかったことになってしまうのである。言霊主義者の注意がむくのは、言霊は有効だと感じられる場合だけなのである。

*     *     *

相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、相手に負のストロークをあたえていることなるのだけど、気がつかない。相手の条件を無視して、「これはこうだ」ということを言う人は、気がつかない。

「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言うと、相手に負のストロークをあたえたことになるのである。

ところが、 「元気だ元気だ言えば元気になる」と相手の条件を無視して言う人は、それに気がつかない。

*     *     *

家があるほうの駅が始発駅なのかそうではないのかという、条件もある。残業があると言っても、残業の頻度と残業時間の長さがちがえば、別の条件が成り立っていると言えるのである。

けど、「元気だ元気だ」と言ったかどうかという条件の差しか見ないようなことを、言霊主義者は言うのである。

実際に自分の身にしょうじたことでなければ、相手がかかえてるいる条件は、一切合切無視して、「言えば、言ったことが現実化する」と言う。「つかれたと言うからつかれるんだ」と言う。

こんなの、最初から、ケンカを売っているようなものだ。

相手の条件を無視した助言なんて役にたつわけがないだろ。けど、言ったか言わなかったかの条件以外は、すべて、無視してしまうのである。

そして、(言霊主義者のなかでは)他の条件によって決まることは、「言うこと」ですべてくつがえすことができることなのである。ところが、そういう意味で、言霊主義者は、言霊にはすごい力があるということを言うのだけど、実際の自分の問題に関しては、言霊を使って問題解決しようとしないのである。

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努力論者もおなじで、条件に関係なく努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しないということを言うのである。

けど、努力したかどうかが、結果に関係なく、一意に決まるとしても、ほかの条件が成功するかどうかに影響をあたえる。

ほかの条件を無視してしまうという態度には問題がある。

ほかの条件を無視して「努力すれば、成功するし、努力をしなければ成功しない」と言うことには問題がある。

条件を無視されたほうは、不愉快さを感じる。

努力論者も、成功してない人を、最初から、ののしっているのである。「努力不足だから、成功しないのだ」とののしっているのである。負のストロークをあたえているということにいいかげん、気がつけ。

相手の条件を無視して、じつは、まちがっている法則性があるようなことを言うことは、相手に負のストロークをあたえている。いいかげん、気がつけ。

そして、努力論者が無視した条件について、相手が語りだすと、「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」と努力論者が相手に言うのである。

これも、負のストロークを相手にあたえたと言うことになる。いいかげん、気がつけ。

「努力をすれば成功する」というのは、理論的にまちがっているんだよ。「一〇〇%詐欺」と「あとだし思考」をしている。あとだし思考は、あとだし詐欺と言うことができる。

じつは、「努力をする」ということが一意には決まらないという問題がある。

じつは、「成功する」ということが一意には決まらないという問題がある。

 

きちがい兄貴が、規格外だから、俺が誤解をされる

 きちがい兄貴が、普通の人が思いつかないことを、毎日、やる。きちがい親父も、普通の人が思いつかないことを、普通にやる。思いつかないことなんだよ。思いつきもしないことなんだよ。きちがい親父の場合は、ヘビメタ騒音のように毎日同じことをするわけではないけど、自分が思いついたことは、絶対にゆずらない。この頑固さが、普通の人にはわからない。普通の人が思いつかないことを、普通の人がまったくわからない頑固さでやる。しかも、本人は、やったつもりがないのだ。絶対の意地で、やり通して、やったつもりがない。こんなのはない。親父も兄貴も、こういうことろがおなじなのである。親父も兄貴も、毎回、普通の人が思いつかないことを、普通の人がまったくわからない意地でやる。どうして、毎回そうなるかというと、きちがいの脳みそを搭載しているからだ。本人にとっては、それがあたりまえだから、そのように動いしてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らせば、横の部屋の俺は、影響をうけるけど、ほかの人は影響をうけない。そうすると、ほかの人は、ひとごとなので、きれいごとを言う。「そんなことが成り立つわけがない」とぼくが、きちがい騒音のなかで、思うことを言う。これ自体が屈辱だ。けど、普通の人だって、まったくわかってないから、普通の思考で、そういうふうに言う。そうなると、きちがい兄貴がつくりだしている状態と、普通の人のきれいごと思考の、あいだにはさまれることになる。きちがい兄貴がもたらした状態というのが、地獄なのである。けど、ほかの人は、「そんなのは関係がない」と言う。ほかの人の立場からすれば、そのように言うしかないのである。かかわっている範囲でいうとそうなる。かかわってる範囲と言うのは、たとえば、(ぼくに)遅刻されるとこまる人がいたとする。その人がかかわっている範囲んだと「(ヘビメタ騒音なんてそんなのは)関係がない」「遅刻しないようにして」と言うしかない。けど、「できない」。できないのだけど、ほかの人の立場からすると、わからないのだ。ぼくといっしょに、きちがい兄貴の横の部屋で生活しているわけではないから、わからない。俺だって、騒音はあった。きちがい兄貴が、エレキギターとでかいスピーカーでうるさくするまえだって、騒音はあった。幼稚園の横だし、きちがい兄貴が、フォークギターをずっと弾いていた。けど、そういう騒音とは、質がちがうのである。どうやったって、遅刻してしまうような騒音なのである。どういふうに、生きても、次の日、遅刻してしまうような騒音なのである。そういうこまった騒音なのである。これは、ぼくにとってはリアルなんだけど、ぼくの話を聞いた人にとっては、まったくリアルなことではない。だから、その人はその人の感覚でものを言う。けど、一般的な感覚でいえば……きちがい兄貴のヘビメタ騒音にやられることがないので、正しいことなのである。どれだけ、こまるか、よその人も、きちがい兄貴もわかってない。この切羽詰まった状態が、何千日も続いて、いいわけがない。あとは、全体感情というのがある。あるいは、全体的な体調というものがある。きちがいヘビメタ騒音に、前日やられて、次の日の朝、学校に行かなければならないと、動いているときの状態が、並じゃないのである。これだって、「俺だって朝はつらい」と言って、同質化することはできる。これだって、「みんな、だれだって、朝はつらい」と言って、同質化することはできる。けど、きちがい兄貴がつくりだしている状態というのは、きちがい兄貴が、ヘビメタをやりはじめた以降の状態なんだよ。普通の状態じゃない。けど、前述のとおり、普通の人は、そんなことはわからない。経験的にわかってない。俺だって、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすまえも……鳴らし始めるまえも、それなりに、朝はつらかった。ものすごく調子が悪い日もあった。けど、ちがうのである。ヘビメタ騒音が数千日、つもったときの、調子の悪さと、それ以前の普通の暮らしの、なかの調子の悪さというのは、ちがうのである。ちがうのである。「どうしようもなさ」というのがある。これのひきつった発狂的な状態がちがうのである。だから、まあ、ひきつった発狂的な状態と表現される状態になるまでに、時間経過があった。「つみかさなった」のである。けど、「そんなの半径がない」と言う人は、時間経過を無視してしまう。俺の、努力の結果を無視してしまう。どれだけ、くるしい状態のなかで、「時間通りにいかなければならない」という気持になって、努力したか、みんな、きちがいヘビメタ騒音にさらされてない人は、わからない。実際に、きちがい家族がいて、きちがい家族が、きちがい感覚で、きちがい的な音を毎日鳴らしてしまうという状態を経験している人じゃないとわからない。ほんとうに、きちがい的な騒音なんだよ。あんな音で、鳴らそうとする人がいないんだよ。そもそも、そういうふうに思う人がいないんだよ。そして、鳴らそうと思う人がいないほどでかい音で、鳴らしているのに、自分がでかい音で鳴らしているということが、まったくわかってない人というのが、いないんだよ。きちがい兄貴が、規格外だから、俺が誤解をされる。みんな、まったくわかってない。

ほんとうに、「やったってやってない」の世界だ。

どうして、ぼくだけ、きちがい兄貴やきちがい親父に、人生を破壊されなければならないんだ。しかも、よそのやつは、「自分だったら平気だ」と思って、くそを言ってくる。「自分だったら、影響をうけないことが可能だ」と思って、くそを言ってくる。おかしい。ぜんぜんちがうんだよ。こいつらが思っていることと、ぜんぜんちがうんだよ。こいつらは、うちのなかにいるときのきちがい親父の態度や、うちのなかにいるときのきちがい兄貴の態度がわかってない。これ、両方とも、きちがい感覚が成り立っているんだよ。ほかの人が、きちがい親父のような態度やきちがい兄貴のような態度をとったところを見たことがない。医者だって、実際に、親父のリハビリにかかわるまでは、「それは、認知症の健忘でしょ」と言っていたのだ。俺が「父は性格に問題がある」と言うことを言ったんだけど、その意味がわかってなかった。自分がやられて、はじめてわかるんだよな。腹がたつんだよ。どんな人だって、きちがい親父の態度には腹がたつわけ。きちがい親父の場合、人の言うことをきかないて、絶対の意地で動いしてしまうときと、人の言うことをきかないで、絶対に動いてやらないときがあるのだけど、入院しているときの態度というのは、絶対に動いてやらない態度だ。これが、むかつくんだよ。これ、リハビリで、親父にかかわってしまったので、「あの人はなんだ」と医者だって思うわけで、そういうことがなければ、俺が言っていることがわからない。入院していたとき、長期入院だったから、親父のなかで「うち」と「そと(よそ)」がひっくり返っちゃったんだね。あのとき、一時的に、俺が、親父にとって「よその人」になったから、俺に対して、態度がよかった。ともかく、医者だって、実際に、リハビリでかかわらないと、どれだけ腹がたつ態度かわからないわけで、リハビリでかかわるまえに、ぼくが説明したって、腹がたつ態度だということがわからないんだよ。

でっ、親父の「絶対言うことをきいてやらないぞ」と言う踏ん張りは、きちがい兄貴の「絶対言うことをきいてやらないぞ」という踏ん張りとおなじなんだよ。そして、両方とも、そうやって意地をとおした場合、自分がやったと思ってない状態になる。あれ、自分が意地をはって、相手の言い分をしりぞけて、きちがい行為をしたということが、完全に、わかってないのである。本人が、まったくわかってない……状態なんだよ。こんなのは、ない。ほんとうに、「やったってやってない」の世界だ。

2024年6月12日水曜日

一日中、影響をうける。

 めちゃくちゃに、腹がいたくなって、もだえくるしんでいたのだけど、いちおう、おちついた。けど、朝の九時ごろから、二か所の工事騒音にやられて、けっこうきついのだ。今日は、午前五時ぐらいから眠って、なんか、うるさいなか、うとうとしていたけど、なんか細切れの睡眠になってしまって、ずっと通して眠ったという感じがしない。

「俺の人生なんなんだ」ということを、うとうとしながら思っていた。やっぱり、不利なんだよね。普通の人にくらべて、ものすごく不利なんだよね。「これはない」と言いたくなるほど、不利なんだよね。あらゆる場面で、きちがい家族の邪魔がはいる。そりゃ、長期騒音の問題というのは、ひとつひとつ、切れている問題ではないのである。一日のなかで、はげしく鳴っている時間が七時間から一三時間だとしても、一日中、影響をうける。

「言霊の力によって現実化する」と「魔法の力によって現実化する」は、おなじこと

 「言えば、言ったことが魔法の力で、現実化する」というのと「言えば、言ったことが言霊の力で、現実化する」というのは、おなじことなんだよ。けど、言霊主義者は、おなじことだと言うことがわからない。どうしてかというと、言霊という言葉にだまされてしまっているからだ。「言霊の力によって現実化する」と「魔法の力によって現実化する」は、おなじことなんだよ。いいかげん、気がつけ。「魔法」という言葉を使うと「そんなのは、おかしい」と言霊主義者は思うのだけど、「言霊」という力を使うと、「ただしい」と言霊主義者は思ってしまう。

「言えば、魔法の力によって、言った通りになる」……と「まじめに」言っている人がいたら、「どうしようかな」と思うだろ。しかも、その理論によって、「こっち」を傷つけている。こまるんだよ。「言えば、魔法の力によって、言った通りになるから、言えばいい」……。「言った通りにならなかったぞ」……。「言った通りになるまで何回でも言えばいい」……。「言った通りにならなかったぞ」……。「こころをこめて言ってないからダメなんだ。こころをこめて言えば、言った通りになる」……。

カルト思考なんだけど、カルト思考だと本人が思ってないんだよね。そりゃ、ビジネス関係の本に、「言霊を使えば、のぞみがかなう」という関係の本が何冊もある状態だからなぁ。ビジネス関係の本というのは、いちおう、大人向けの本なのだけど、大人向けの本なのに、このレベルだ。

「できると言えばできる」とか「言ったことが現実化する」とか、いいかげんにしてくれ。

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言霊の分派としては、「くちぐせ」派がある。あとは、思霊の分派、言霊の分派としては「潜在意識」派がある。くちぐせは、時系列に因果関係を逆転させて、「あとだし思考」をしているだけだから。くちぐせ派が、絶対の意地で無視している条件が問題なんだよ。条件が、そういう「くちぐせ」をうみだしたんだよ。条件が、そういう「くちぐせ」をもたらしたんだよ。条件のほうが理由なんだよ。くちぐせは、結果なんだよ。

「潜在意識」派は、潜在意識というニセ科学タームを使って、それらしく語っているだけだ。こういうレベルだ。「潜在意識」が勝手にやってくれるという場合だって、「条件」は頑固に無視されている。条件を無視するな。

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「自分は魔法が使える。自分は、言霊が使える。自分は、言霊という魔法が使える。言えば、言ったことが現実化する」……と本人が、思ってるぶんにはかまわない。「言えば、いつか現実化する」とごまかして、希望に向かって進むのは、一向にかまわない。

しかし、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、「正しいこと」として流通していることには問題がある。言霊理論が正しい理論として、社会に流通していることに関しては、問題がある。問題がある。言霊理論は、正しくないのに、正しいこととして社会に流通している。

そうなると、特に条件が悪い人が、苦労するようになるのである。特に条件が悪い人は、条件によって苦労しているわけだけど、さらに、夜郎自大な言霊主義者に説教をされて、不愉快な経験をすることに「なっている」のである。

いわば、経験をすることになっている。

社会のなかで、多数者が「言霊(理論)は正しい」と思っていると、特に条件が悪い人は、不愉快な思いをするようになっているのである。 

言霊主義者というのは、他人の条件について、考えることが「にがて」な人たちなんだよ。

結論としては、言霊主義者が、「言霊(理論)は正しい」「言ったことが現実化する」と考えて、希望にむかって努力することは、別にいい。その人の勝手だ。夢をかなえてくれ。

しかし、それと、他人に対して、それを言うことはちがう。

そして、「言えば、言ったことが現実化する」ということが、「正しいこと」として流通していることには問題がある。

2024年6月11日火曜日

ダニが一番の問題なんだよなぁ

あーあ。このさきどうするかな?

ともかく、シェディングはさけなければならない。そして、食べ物なんだけど、もうちょっと気をつけないとだめだなぁ。クッキーは、やめる。一月に一袋ぐらい、チョイスとか、マリーとか、そういうレトロなクッキーを食べていたのけど、やめた。あとは、ピザもやめる。
けど、そんなことはどうでもよくて、ダニが一番の問題なんだよなぁ。肌がきたくなる。かゆさはともかく、肌がきたなくなるのはたえられない。これも、きちがい親父が、へんなところで、へんな意地をはったからそうなるのだけど、ほかの人には、きちがい親父の意地がわからないんだよな。あれ、放置になってしまうんだよなぁ。こまるんだよな。認知症なんて比べ物にならないほど、へんなことをする。へんな意地をはる。そうすると、きちがい親父が、この家をさったあとも、俺が、ネズミのことや、ネズミの糞や、ダニやナメクジのことでいやな思いをしなければならなくなる。そして、たとえば、粗大ごみ業者の人を呼んで、粗大ごみ業者の人が作業中に、ダニに刺されるということが起こると、俺は、ものすごく気にする。「他人だから刺されもいい」と思うわけにはいかない。やはり、「そういう状態を強いられる」というのはよくない。きちがい親父は、俺がダニに刺される状態をつくったんだよ。俺は、ダニにされることを強いられたんだよ。だから、立場をかえて見ると、俺が、業者の人に、ダニにされることを強制しているということになってしまう。それが、心苦しい。

*     *     *

こっちが、こまることをやって、くそ意地をはるのだ。親父も兄貴も、こっちがこまることをやって、くそ意地をはる。でっ、この、意地になっている状態なのだけど、普通の人には、到底わからない状態だ。もちろん、本人だって、ひどいことをやっているつもりはない。親父も兄貴も、あたりまえのようにスイッチが入って、ひどいことをやる。けど、それが、親父や兄貴にとっては、ひどいことをしたことになってないのである。

親父のネズミも、兄貴のヘビメタも、おなじなんだよ。そして、ほかの人……普通の人は、きちがい親父のことやきちがい兄貴のことが、まったくわかってない。これもわかってないところで、アホなことを言ってくるということになる。普通の人は普通の人で、どれだけまとはずれなことを言っているか、わかってない。

特に、精神世界の人は、きちがい家族にやられた人のことを、悪く言うんだよ。そして、無理解ぶりを発揮して、無理なことを言ってくる。これも、無理難題をおしつけているのだけど、無理難題をおしつけているつもりがないんだよね。ともかく、きちがい家族にやられた人は、そとの人にもやられる。そとの人というのは、これまた、絶対に?理解しない。ちゃんと理解してくれた、普通の他人というのが、いない。みんな、無理なことを言ってくる。

2024年6月10日月曜日

眠りたいと思った言霊主義者は、実際に眠ってしまう

 たとえば、言霊主義者が眠たくなったとき、どうするか? 眠れる状態であれば眠ると思う。「眠らなくても、眠ったのとおなじ状態になる」と言って、眠らずに起きているかというとそうではないのである。もし、眠たいにもかかわらず、眠ることができない状態だったらどうするか? 「一秒後には、眠らなくても、眠ったのとおなじ状態になる」と言って、眠ったのとおなじ状態になって、置き続けているのだろうか? ちゃんと、眠るのではないか。そして、眠りたいときに、どれだけ「眠りたくない」と言っても、「眠りたい」と感じているのではないか? 言霊主義者は、自分の現実的なことに関しては「言霊で解決しよう」と思わずに、普通の方法で解決しようとするのである。カネがなかったら、アルバイトをするというような現実的な方法で解決しようとする。しかし、人には「言ったことが現実化する」と言うのである。ようするに、言うことによって解決することができるというようなことを言うのである。ところが、ほかの人が言っても、問題が解決しない場合がある。「言ったあと」と「言ったから」の混同は、一般にみられる現象なので、「言ったあと」と「言ったから」の混同してしまう人もいる。なので、「言ったら問題が解決した」と思う場合もある。けど、それは、「言ったから」ではない。「言ったあと」の特殊なケースもある。AさんとBさんがいて、AさんがBさんを好きになったとする。AさんがBさんに、直接、好きだから付き合ってくれ」と言ったとする。その結果、AさんがBさんとつきあうことができたとする。この場合は「言ったから」問題が解決したと、言える。普通の範囲でいえる。しかし、これは、言葉にやどると言われている?言霊によって解決したのではない。言霊の力でAさんが問題を解決したわけではない。Aさんは、言葉の力で解決した。時系列的には「言ったあと」解決したので、これは「言ったあと」の特殊なケースだ。だから、言ったことによって、言ったあと、問題が解決することはあるのだけど、それは、言霊の超神秘的な力によって解決したわけではないと言うことは、明記するべきなのである。言霊の超神秘的な力による場合は、BさんがAさんのことを好きではないのに、言霊のすごい力によって、Aさんのことを好きになり、Aさんの申し出をうけいれたというようなことが起こる場合なのである。あるいは、言霊力によって、まったく好きではないAさんの申し出をうけいれたというようなこととが起こった場合なのである。ところが、言霊にはそういう力がないのである。うまくいったケースを例としてあげて、「言霊という神秘的な力が存在する」ということを、言霊主義者は、他者に説明するけど、これは、詐欺的な説明だ。詐欺なのである。言霊主義者は、こだわてっいないし、認識していないけど、詐欺だ。「言葉の力」がかかわっている場合は、「言ったから、言った通りになった」と言える場合がある。けど、その場合、言葉の力であって、言霊の力ではない。なまじか、「言ったから」と言えてしまうところが、難点だ。これは、だましのポイントでもある。

話をもとにもどそう。言霊主義者も、じつは、自分の現実的な問題に関しては、言霊的な解決法を利用しようともしないのだ。どうしてかというと、言霊的な解決法が「無駄だ」ということがわかっているからだ。「やったってしかたがないこと」なのである。「言ったって、言った通りにはならないこと」なのである。「言ったって、言った通りにはならないことだから、言わない」のである。言霊的な解決方法をこころみようともしない。「元気だ元気だ」と言えば、眠らなくたって、元気に活動できるのだから、眠らなければいいじゃないか。すべての恋愛問題を、言っただけで解決できるのだから、言って解決すればいいじゃないか。なんで、言霊主義者なのに、恋愛の問題を言霊で解決しようとしないのか? 「一秒以内に、彼女は自分のことを好きになる」と言えば、そうなるのだろ。「一秒以内に、彼氏は自分のことを好きになる」と言えば、彼氏は自分のことを好きになるのだろ。だっら、そうやって、問題を解決すればいいじゃないか。そして、これは、一回でも言ったら、そうなるのである。「言えば、言った通りになる」のだから、一回でも言ってしまえば、その通りになる。言霊というのは、言霊主義者にとっても、たよりない力なのである。そんな力は、まったく信じてないから、現実的なことに関しては、現実的なことをするのである。作業を続けなければならない状態で眠りたくなったら、「一秒後には、眠ったのとおなじ状態になる」と言えば、問題は解決してしまうのである。不眠不休で、活動できるのである。つかれを感じたら、「元気だ元気だ」と言えば、つかれた状態ではなくなるのである。「一秒後に、自分のからだは、つかれないからだになる」と言えば、一秒後には、かならず、つかれないからだになっているのである。「一秒後に、自分は死なない存在になる」とひとこと言えば、一秒後には、「死なない存在になっている」のである。ところが、言霊主義者なのに、「人間はいつか死ぬ」などと言うのだ。「自分だって、いつかは死ぬ」と、言霊主義者であるにもかかわらず言うのだ。「あの人のことを好きだったけど、自分には高根の花だからあきらめた」と、言霊主義者であるにもかかわらず言うのだ。「つかれたから眠りたい」と、言霊主義者であるにもかかわらず、言うのだ。言霊主義者には、そもそも、おカネの問題も、恋愛の問題も、身体の問題も発生しないはずなのである。発生した場合も、言えば、解決できるはずなのである。「言えば、言った通りになる」のだから、言うだけで、解決できる。言霊主義者が、いろいろな問題化をかかえてるということ自体が、おかしいのだ。すべての問題を、言霊で解決できる。言うだけで解決できる。すぐに、不死になる。すぐに、他人を生きからせることができる。すぐに、瞬間移動ができる。すぐに、ほしいカネを手に入れることができる。できる、できる、できるできる。できると言えばできる。

ところが、言霊主義者でさえも、実際には、つかれを感じたり、眠りたいと思ったりするのである。眠りたいけど、眠ると問題が発生するときは、「一秒以内に、眠ったのとおなじ状態になる」と言えば、それで、問題解決なのである。言霊主義者が「眠りたいのに、条件的に、眠ることができない」という問題に悩まされることは、ないのである。

言霊主義者が、眠りたいのに眠れないという問題に悩まされるのであれば、それは、言霊理論がまちがっているということなのである。言霊主義者でさえも、普通に、眠って、体力の回復をはかろうとするのである。実際に、眠るのである。何時間先になるのか、あるいは、十何時間先になるのか、あるいは、何十時間先になるのか、それはわからないけど、ともかく、眠りたいと思った言霊主義者は、実際に眠ってしまう。言霊的な解決方法で、眠らずに、問題を解決するということができない。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人に「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言う人

 「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」ということについてちょっとだけ書いておく。もう、何回も書いたことなのだけど、いちおう、普通に大学を出て、働いている人が「俺だって苦労した」という場合がある。たとえば、ヘビメタ騒音の話を聞いたあとに「俺だって苦労した」「けど、働くべきだ」というようなことを、Aさんが、言ったとする。Aさんの苦労は、働くことができるぐらいの苦労だ。同質の、同量の苦労じゃない。ヘビメタ騒音とは、ちがうのである。ヘビメタ騒音がもたらした苦労というのは、Aさんの苦労とは、くらべものにならないほど、でかい影響をあたえる苦労なのである。はきちがえている。それから、高校を出て一五年(じゅうご)間働いて、そのあと、働けなくなった人がいるとする。Bさんと呼ぶことにしよう。Bさんは「人間は働くべきだ」と言うだろうかということを考えると、言わないのではないかと思う。だって、事実、自分は、今現在働いてないのだから、「人間は働くべきだ」という資格がない。これって、自分が働いているときに、他人に言うことだからね。そして、自分は働いているから、他人に「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言う人というのは、他人の苦労が見えてない人なのである。こういう人たちは、みんな、口をそろえて「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うけど、働き続けることができるぐらいの苦労なんだよね。たとえば、ブラック企業で、一五年間働いて、もう、働けないと思って、仕事をやめたとする。この人は、一五年間で働けなくなっているので、……まさ、一五年間働き続けたことによって、働けなくなっているので、ほかの人には「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」とは言わないと思う。まあ、自分のことは棚に上げて言う人がいるんだけどね……。まあ、自分のことを棚に上げて言う人は、少数派だとする。そして、このBさんのような人たちが言っている「苦労」というのは、ヘビメタ騒音級の苦労だと思う。だって、一五年間で働けなくなっちゃったのだから、「働けなくなる」ような苦労だ。

*     *     *

「人間は働くべきだ」「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言って、他人に働くことをすすめる人には、きちがい兄貴やきちがい親父のような、きちがい家族がいないのである。きちがい家族のもとにうまれて、生活をしたことがないのである。事実、きちがい家族というハンディがない。きちがい家族のハンディがあって、きちがい家族にやられたからこそ、働けなくなった人が、他人に対して「人間は働くべきだ(だから、あなたも働くべきだ)」と言うわけがない。

2024年6月8日土曜日

想定外の家族がいるということに関して、まったく理解がないのだ

 きちがい親父は、俺が、「あとあと」こまることしか、してないんだよなぁ。しかも、その当時、どれだけ、理論的に説明しても、きちがい的なことを言って、きちがい感覚で認めない。でっ、これとおなじことが、きちがい兄貴にも、ほんとうに成り立つのである。きちがい兄貴は、無言バージョンなんだけど、絶対の意地で、自分がでかい音で鳴らしているということを認めなかったのである。あんなにでかい音で鳴らして、一切合切、自分がでかい音で鳴らしているということを認めなかった。あんなでかい音で、一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、鳴らしていたら、相手はこまるんだということが、わからない。相手というのは、一緒に住んでいる人だ。一緒に住んでいる人がこまるということが、ほんとうにまったくわからないのである。これは、言われないからわからないのではない。どれだけ言われたって、わからないままなのである。何万回言われても、何十万回言われても、わからない。しかも、何万回言われても、「そのつど」発狂して、はねのけてしまうので、何万回も言われたという記憶がまったくない状態なのである。これがこまるんだよ。普通の人は、そんな人……そんなしくみの人がいるとは思わないんだよな。想定外なんだよ。だから、想定外の人にやられたことがない。想定外の人と、一緒の家に、家族として住んだことがない。想定外なんだよ。だから、気楽に「受け止め方をかえればいいんだ」とか「人のせいにしている」と(こっちに)言ってくる。これも、ひどいことなんだよ。これ、ほんとうに、想定外の家族がいるということに関して、まったく理解がないのだ。ほんとうに、きちがい家族と、普通の人にはさまれる。きちがい家族がやったことと、普通の人の感覚にはさまれる。きちがい家族が、きちがい的な意地で、一日に何時間も、十何時間もやったことというのは、不可避的に影響をあたえる。けど、きちがい家族にやられたことがない人が、あるいは、きちがい家族と一緒に住んだことがない人が、それを、簡単に否定する。「影響をうけないぞ」とかたく決心をすれば、影響をうけないですむのである。「影響をうけない」と言えば、言霊のすごい力によって、影響をうけないのである。どれだけ、こまるか。こういう、カルト理論が普通に成り立っている。これ、出所は、幼児的万能感で、幼児的万能感はだれにでもあるので、カルト理論を信じている人が多い。

2024年6月7日金曜日

問題の質がちがうのである。

 ヘビメタ騒音が鳴った結果、できなくなっているのに、「関係ない」「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」と言われたときの気持ちというのは、ものすごく不愉快な気持だ。ヘビメタ騒音を経験してないから、できるだけなのに、まるで、自分ならヘビメタ騒音を経験してもできるという、傲慢な自信がある。そんなの、言ってられなくなるほど、ひどい音なんだよ。ひどい音の連続なんだよ。うちのめされて、つかれてしまうんだよ。うちのめされて、できなくなってしまうんだよ。ただ単に、きちがい兄貴がいないから、「できる」だけなのに、えらそうなんだよ。こういう、ポジションに追い込まれるんだよ。必然的に、わかってない他人からえらそうなことを言われる立場になってしまうんだよ。ヘビメタ騒音でできなくなると、そうなる。

これも、「そんなのはいいわけだ」と、きちがい兄貴がいないやつが言ってくる。そいつにはきちがい兄貴がいないのである。きちがい家族と一緒にすごしたことがないのである。きちがい家族がどういう行動をするのか、まったくわかってないのである。一緒いたことがないから、ないからわかってないだけなのに、えらそうにしやがって。そいつには、きちがい家族のハンディがない。そいつがどれだけ「俺だって苦労した」と言っても、きちがい家族によるハンディがない。ぜんぜん、ちがう。実際、きちがい家族に、きちがい騒音みたいなことをやられてない。やられてないやつの発言だ。問題の質がちがうのである。 

きちがい兄貴が、「しらんぷり」で、よその家では絶対にありえない、きちがい攻撃をする。きちがい攻撃の結果、宿題ができないとか、遅刻をしてしまうという問題が発生する。きちがい攻撃があると、どうしても、宿題ができないんだよ。きちがい攻撃がなければ、宿題ぐらい簡単にできるんだよ。けど、俺がそういうことを言っても、「いいわけだ」と言ってくるやつがいる。人生のなかで、何回、こういうくやしい思いをしてきたかわからない。

兄貴のきちがい攻撃→(俺が)できくなる→よその人が、攻撃してくるということになっている。よその人というのは、「できる」という前提でものを言ってくるんだよ。それ自体が、攻撃なんだよ。よその人は、俺がちょっとがんばればできることなのに、いいわけをしてさぼっているからできないのだと、仮定して、ものを言ってくるんだよ。けど、ちがうんだよ。どれだけがんばっても、ヘビメタ騒音があると、できないんだよ。「ヘビメタ騒音が鳴っているからできないといいわけをしている」とよその人が、認識するのは、俺にとって不愉快なことなんだよ。どれだけがんばってもできないというひきつった状態が、よその人にはわからない。だから、ちょっと、がんばればできるのに、さぼってやろうとしないと仮定してものを言ってくる。その人が……言ってくる人が、きちがい兄貴の騒音にさらされたらできなくなると思う。もちろん、証明はできない。これに関して、ぼくは、証明できないのに、法則性のあることを言っているわけだ。だから、言霊主義者とおなじだと言おうと思えばできる。けど、言霊主義者は、勘違いをしているし、その勘違いに無自覚なんだよ。俺の場合は、証明ができないけど、証明ができないということを知っている。まあ、「だれだって、きちがいヘビメタ騒音と同等の騒音をあび続けたら、できなくなる」という法則性があることを言っているわけだけどね。きちがいヘビメタ騒音ではなくて、きちがいヘビメタと同等の騒音だから、そこのところ、勘違いしないでね。だれだって、苦手な音はあるはずなんだよ。その苦手な音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っていたら、できなくなるんだよ。しかも、鳴らしているやつが家族だ。家族というのは、特別な他人だ。これ、ほんとうに、ちがうのである。けど、「他人」というところまで抽象化すると、家族も他人だということになる。それは、正しい。しかし、あたえる影響の度合いや、他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということがちがう。他人が、(ほかの他人とはちがう他人だとみなしている)ということは、普段は意識することがないけど、ほんとうは、重要なことだ。家族(他人)と自分のあいだにあったことは、他人と自分のあいだにあったこととはちがうのである。けど、たとえば、「どれだけ、ガミガミ言われても、影響をうける必要はない」ということを言う場合は、家族(他人)と他人のちがいを無視してしまうのである。この無視が、まちがった結論に(人を)みちびくのである。これも、一〇〇%詐欺が成り立っている。ガミガミ言うと言っているけど、ガミガミ言う内容が、わからない。そこも抽象化されている。ともかく、一緒に住んでいる他人(家族)だろうが、単なる他人であろうが、関係がないという考え方はまちがっている。一緒に住んでいる他人(家族)と単なる他人をいっしょにするな。

*     *     *

ともかく、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、俺を見下して、バカにしはじめるのである。そして、きちがい兄貴が無視して(ほかのうちでは絶対にないこと)を、毎日、長時間やると、ほかの人が、自動的に、「えらそうなこと」を言うようになるのである。これ、もう、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしたときから決まっているんだよ。他人は、きちがい兄貴の、きちがい的な意地について勘違いしている。そして、実際には経験したことがないので、「できなくなる」ということがわかってない。どれだけ、どれだけ、がんばっても、できなくなるのである。この「がんばり」がやっぱり、他人の目には見えない。そりゃ、俺が「がんばっている」あいだ、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを鳴らしているわけだから、どうしても影響が出る。影響をうける。けど、他人は、そもそも、きちがい兄貴のことがわからない。どうしてかというと、他人の家族は、きちがいではないからだ。多くの他人の家族は、きちがい兄貴タイプのきちがいではないからだ。実際に毎日いっしょに住んでいて、きちがい行動……きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてないんだよ。 きちがいヘビメタ騒音を鳴らすというきちがい行動の影響をうけてない俺は、「できた」の。できるんだよ。そんなにがんばらなくても、普通にできるんだよ。それが、きちがいヘビメタが鳴っていると、どれだけがんばっても、できないんだよ。「どれだけがんばってもできない」ということを他人は、わかってない。ヘビメタ騒音を過小評価してしまう。あるいは、ヘビメタ騒音の影響を無視してしまう。これだって、やられてない他人は、自動的に無視するんだよ。九〇%以上の他人が、自動的に無視する。

宿題を例にして、話しているけど、宿題に成り立つことは、すべて、仕事にも成り立つ。継続して仕事をするということが、ヘビメタ騒音でできなくなった。そして、それは、ぼくにとって「必然」なのである。けど、やられてない他人は、その必然さが、まったくわからない。わかるわけがない。実際にやられてないから、わからない。影響の度合いがわかってない。「どれだけがんばってもできなくなる」という時系列的な経験がない。他人に……学校の他人に……「いいわけをしてさぼっている」と言われたときのくやしい経験もない。そりゃ、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないのだから、きちがい家族によるきちがい的な騒音から発生する問題のことはわからない。どうしてかというと、きちがい家族によるきちがい的な騒音がないからだ。

これ、ヘビメタ騒音が一五(じゅうご)年目に鳴り終わったあともおなじなのである。どれだけのことが、繰り返されてきた、ほかの人にはわからない。はっきり言ってしまうと、「そんなのは関係がない。人間働くべきだから、(エイリさんも)働くべきだ」と言ったやつと「ヘビメタ騒音が鳴ってたから、宿題ができないなんて、いいわけだ」と言ったやつは、おなじレベルの発言をしているんだよ。ちなみに、リアルであったことがある言霊主義者は、みんな、おなじレベルの発言をしている。言霊主義者が、ヘビメタ騒音の影響について、ちゃんと、俺が言っていることを理解してくれたことはない。ぼくの経験の範囲だとないんだよ。

みんな、ヘビメタ騒音が与える不可避的な影響について、理解してない。まあ、わかるわけがないか。これは、経験がないとわからないタイプのことだ。けど、みんな、苦労したと言うのである。たしかに、苦労したのだろう。認める。けど、だから、ヘビメタ騒音の影響を無視しても、いい、ということにはならない。俺におけるヘビメタ騒音の影響は、その人における苦労の影響とはちがう。ちがうのだから、ちがう。「苦労した」という言葉で均一化、同質化して、「俺は苦労したのに、ちゃんとやっている」ということを言うな。「苦労した」という言葉で均一化、同質化したって、苦労の内容がちがうのだから、苦労の影響がちがうんだよ。

「自分だったら、ヘビメタ騒音があったとしても、影響をうけずに、毎日通勤して働くことが可能だ」という気持を、「俺だって苦労した」という言葉に、こめる人たちがいるんだよな。「俺だって苦労した」という文字列のなかには「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、通勤して働くことは可能だ」という文字列は含まれていないけど、「俺だって苦労した」そういう文字列のなかに「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という内容をふくめて、言うやつがいる。明言はされてなくても、こいつらの発現には「自分ならヘビメタ騒音の影響をうけずに、毎日通勤して働くことは可能だ」という前提が成り立っている。

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きちがい兄貴の態度というのは、ほんとうに、きちがいと一緒に住んだことがない人にはわからないものだと思う。俺はちゃんと説明しているのに、きちがいと一緒に住んだことがない他人は、俺が言ってることを認めない。あるいは、そもそも理解できない。

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普通の人は、きちがい兄貴やきちがい親父の「ふんばり」がわからない。ほんとうに、きちがいなんだよ。きちがい的な意地でやり通したことは、きちがい兄貴やきちがい親父にとって「まったくやってないこと」なんだよ。自動的にそうなっているんだよ。

きちがい兄貴やきちがい親父がふんばるから、こっちがこまっているとする。けど、きちがい兄貴やきちがい親父に「おまえが、意地をはってやった行為の結果、こっちがこまっているんだぞ」ということをどれだけ言っても、きちがい兄貴やきちがい親父は理解しないのである。そんな高度なことがわかるなら、最初から、きちがい的な意地でふんばって、無視してやらない。 この、自分の行為に対する無責任性というのは、すさまじいものがある。現在進行形だからな。これ、普通の人じゃないんだよ。普通の人と、頭の構造がちがうんだよ。普通の人なら、絶対にわかることが、わからないんだよ。きちがい兄貴もきちがい親父も、無意識的なレベルではわかっているのかもしれないけど、意識的なレベルではわかってない。わかってないということは、やってないということなんだよ。きちがいまるだしで、あれだけ意地をはってやったことなのに、「自分はそんなことは一切合切やってない」という態度なんだぞ。この態度は、むかつく。

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きちがい的な無責任性というものが成り立っているのだけど、精神世界の人は、それを支持てしまうのである。きちがい兄貴やきちがい親父には、きちがい的な無責任性が成り立っている。そして、押し通してやってしまう。家族として一緒に住んでいると、どうしても、影響をうけてしまう。「影響をうけない」ということは、不可能なことなんだよ。特に親父の場合は、親権がある。それから、重複して書くけど、ある人とある人の家族ということについては、ほかの人というのは、「家族」として見なすんだよ。たとえば、俺ときちがい親父が家族であれば、ほかの人は、俺ときちがい親父が家族であるとみなすんだよ。これは、無視されることだけど、重要なことだ。これ、重要なことだということが、ほかの人にはわからない。ほかの人が「俺と兄」を家族だとみなしているということは、重要なことなんだよ。解釈に重要な影響をあたえるんだよ。ほかの人の「頭のなか」にできあがる、ほとんど無意識的な解釈に重要な影響をあたえる。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい兄貴がもっている問題がある無意識は完全にちがう。無意識的な解釈と書いたけど、この「無意識」と、うちのきちがい親父がもっている問題がある無意識は完全にちがう。他人は、問題がある(うちの)父と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの父の問題というのは、わかってない。うちの父がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。他人は、問題がある(うちの)兄と俺が家族だと思っているわけだけど、うちの兄の問題というのは、わかってない。うちの兄がもっている無意識的な問題について、他人というのは、まったく無頓着だ。

2024年6月6日木曜日

「やめろ」「やめろ」と必死になって言っているのに、やめてくれなかった。

 きちがい兄貴の脳みそが、特殊だったので、特殊なことをやった。普通の人うちには、きちがい兄貴のような特殊な脳みその持ち主がいない。だから、特殊な脳みその持ち主にやられたことがない。特殊な脳みその持ち主がどういう振る舞いをするのか、普通の人は、経験的にわかってない。なので、誤解をする。結果について誤解をする。毎日やられるということについて、経験がないので、誤解をする。誤解をする。ところが、経験的にわかってないのだから、誤解をしているつもりがしょうじない。

普通の人は、経験してないので誤解をする。誤解をしているということも理解しない。「苦労」は誰だってあるので、「俺だって苦労をした」と言っておしまいだ。「そんなのは関係がない」「過去なんて関係がない」「受け止め方をかえればいいんだ」「こだわらなければいいんだ」と言う。こいつら、ほんとうにわかってないなぁ。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴だったから、こんなことになっている。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、普通の兄貴だったら、絶対に、あんなことはしないのだ。きちがいだからやった。そして、きちがいと一緒に住んだことがない普通の人が、きちがいヘビメタ騒音の影響を無視する。無視して、勝手なことを言う。やられた人間には、できないことを、「できる」という前提でものを言う。けど、これも、「できる」と言う前提でものを考えているということについて、無頓着だ。言っているほうは無頓着だ。

いま、だるくて横になっていたのけど、ヘビメタ騒音の時間が、尋常じゃないのだ。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間も含めて、ヘビメタ騒音が鳴っていると、一日が、ほんとうに、めちゃくちゃになる。これ、どれだけ言っても、経験がない人には、どういうふうに、めちゃくちゃになるのかわからない。めちゃくちゃになっていくのかわからない。わからなければ、好き勝手なことを言う。めちゃくちゃになるのに、めちゃくちゃにならないと思って、好き勝手なことを言う。こんなのは、屈辱だ。

兄貴が、ほんとうに、普通の人なら絶対にやられないことを、きちがい的な意地でやったから、こっちが被害をうけた。普通の人なら絶対にやらないことだ。思いつきもしないことだ。思いついてやったとしても、「やめてくれ」とあれだけしつこく言われれば、やめる。ところが、きちがいだから、まったくやめないし、こっちがこまっているということすら、寸分も考えない。そういう態度で鳴らしていた。

ヘビメタ騒音のことなんて、どれだけ、ほかの人に言ったってわからない。ほかの人は理解しない。やはり、経験したことしかわからない。

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「やめろ」「やめろ」と必死になって、俺が言っているのに……。きちがい兄貴が、それを無視して鳴らす。そういう時間が長かった。きちがい兄貴は、打撃をうけてないけど、俺のほうは、ものすごい打撃をうける。けど、よその人たちは、そんなのことは知らない。「騒音が鳴ってた」と言えば、騒音が鳴っていたんだなと思うけど、騒音が鳴っていたから、遅刻をしてもいいとは言わない。宿題ができなくてもいいとは言わない。どうにかつごうをつけてやってこい」と言われる。きちがいの壁というのがあって、きちがいが絶対の意地できかない。しかも、きちがい自身は、きいてやらなかったという意識がまったくない。あれ、ほんとう、意地になって、絶対にゆずらないでやっているのに、やったってやったつもりがない、ままなのだ。こんなのは、普通の人は理解できない。ほんとうは、普通の人だって、自分の部屋の横で、あれだけでかい音で、ずっと、何時間も何時間も、自分がきらいな音を鳴らされ続けたら、宿題なんてできなくなるのに、「騒音なんて鳴ってたって宿題ぐらいできる」という前提でものを言ってくる。どうしてもできないし、どうしてもできなくなるのに、それがわからない。俺が悪く言われる。きちがいヘビメタというのが「うち」のことだから、俺がひとしれず、できない状態になる。ひとしれず……。

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「やめろ」「やめろ」と必死になって言っているのに、やめてくれなかった。 

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やられてない人が、まったく、想像ができないところまで、影響がある。ほんとうにそうなのに、「人のせいにしている」とか「あにのせいにしている」とかと、ほんとうに、まったく、頭にくる。これ、挑発するつもりで言っているわけじゃないんだよな。まあ、そいつらがまったく想像ができないところまで、不可避的に影響をうける。兄貴の行動の影響をうける。兄貴が、意地になって、こっちの制止を無視してやった行動の影響をうける。うけるんだよ。そりゃ、実際に、うちのきちがい兄貴が横に住んでおらず、影響をうけなかった人は、まったく、影響をうけていないから、わからない。実際に影響をうけたことがないので、「影響をうけないことは可能だ」という前提でものを言っても、まちがっているとは、思っていない。まちがっている。影響をうけてないから、実際に影響をうけてないだけなのに、こいつらも、まったくわかってないなぁ。

どれだけ影響をうけないようにしようと思っても、影響をうける。これがわかってない、ぼんくらが、なにを言うか?

2024年6月5日水曜日

「一〇〇%詐欺」

 たとえば、ある日たおれて、救急車で運ばれた人が、じつは、糖尿病だったとする。言霊主義者は、言ったことが現実化すると信じているわけだから、この糖尿病患者は「わたしは糖尿病になる」と言ったから、糖尿病になったと解釈することになる。ところが、こういうありふれたことに関しては、言霊主義者は無視してしまうのである。ありふれたことというのは、現実度が高いことだ。現実に起こる確率が高いことだ。そして、もうひとつ、言霊主義者がこういう現象を無視してしまうのには、理由がある。それは、言わなかったのに、糖尿病になったということだ。「わたしは糖尿病になる」と過去において、言わなかったのに、言わなかったことが、現実化してしまった。「言ったことが現実化する」と言っているわけだから、「言わなかったこと」については、なにも言及してない。けど、言ったことが現実化するのであれば、糖尿病になる人は「わたしは糖尿病になる」と言ったはずなのだ。けど、言わなかった。自分が糖尿病になるなんてまったく思ってなかったので、「自分が糖尿病になる」ということは、事実、言わなかった。言わなかったことが現実化した。「言ったことが現実化する」という言霊理論は、まちがっている。

言霊理論だけではなく、思霊理論にもこのことがあてはまる。「自分が糖尿病になる」と思ったわけではないのだ。「自分が糖尿病になる」と思わなかったにもかかわらず、糖尿病になった。思わなかったことが現実化した。「思ったことが現実化した」のではなくて「思わなかったことが、現実化した」。思ったことが現実化するという理論はまちがっている。

さらに、自分が糖尿病になるということは、暗いことなのか、明るいことなのかというと、暗いことなのである。なので、「暗いことを考えると暗いことが起こる」という理論もまちがっている。「糖尿病になるという暗いことを考えなかった」にもかかわらず、糖尿病になった。 暗いことを考えなければ、暗いことは起こらない……という理論はまちがっている。暗いことを考えなくても、暗いことが起こることはある。「暗いことを考えると暗いことが起こる」とい理論はまちがっている。同様に、じつは、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という理論もまちがっている。明るいことを考えても、明るいことが起こらないことがある。なんかの病気にかかったとする。その病気がなおるという明るいことを考えても、明るいことが起こらない場合がある。「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」という理論は、まちがっている。

「一〇〇%詐欺」と言いたくなることがある。これは、何度も説明したことなのだけど、XをすればYになる」という言葉は、「Xをすれば、かならず、Yになる」という言葉と、意味的に等価なのである。だから、本当は、「XをすればYになる」という言葉は「Xをすれば、一〇〇%の確率でYになる」ということなのである。 「Xをした」にもかかわらず、「Yにならない」なんてことはないのである。「Xをすれば、一〇〇%かならず、Yになる」のである。もし、Xをしたのに、Yにならなかったら、「XをすればYになる」という理論がまちがっているということになる。命題として考えるなら、「XをすればYになる」という命題は偽なのである。

ところが、「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えれば、暗いことが起こる」というようなことを言う人は……つまり、思霊主義者は、こういうことをまったく考えてない。Xをすれば、Yになる場合もあるなら、XをすればYになると言えると思っているのだ。Xをしても、Yにならない場合もある。Xをしても、Yにならない場合もあるのに「Xをすれば、Yになる」と言って、なにも疑問を感じない。「Xをすれば、Yになる場合もある」ということと「Xをすれば、Yになる」ということが、思霊主義者のなかでは、イコールなのだ。「Xをすれば、Yになる場合もある」のだから、「Xをすれば、Yになる」と言えると思っているのだ。命題として考えるなら、「Xをすれば、Yになる」という命題は『真』であると考えているのだ。……思霊主義者は、そう考えている。思霊主義者の場合は、Xをしても、Yにならない場合があるとしても、「Xをすれば、Yになる」という命題は真であると、考えているのである。まったく、めちゃくちゃ。

本人のことなら、それでいいけど、ほかの人のことについて、まちがった前提でものを言うな。まちがった前提で、ものを言われると、こっちは、非常にくるしい気持ちになる。思霊者偽者は、条件というものを、すべて無視してしまうのだけど、条件はたいせつだ。たいせつなことをガン無視して、わかったようなことを言うな。ある条件をみたす人と、ある条件を満たさない人がいるとする。ある条件を満たす人が、Xをやった場合、Yになるとする。ある条件を満たさない人が、Xをやった場合、Yにはならないとする。その場合、思霊主義者のように、条件を無視して「Xをやった場合、Yになる」と言ってしまうと、条件を満たさない人が、非常にくるしい気持ちになるのだ。最初から、Yにならないことが決まっているからだ。Yにならないのである。じつは、条件を無視して、知ったような口をきくというのは、いいことじゃない。人によっては、言われたら、いやなことなんだよ。まあ、ある条件を満たさない人が、「XをすればYになる」と、思霊主義者に言われたとしても、そのある条件を満たさない人が、不愉快な気持にならない場合もある。けど、俺は、なる。俺が、ある条件を満たさない人だとして、ある条件を無視した思霊主義者が「XをすればYになる」と言ってきたら、俺は、むかつくね。俺は、不愉快な気持になるね。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。