「やる気」というものを考える場合は、普通の生活体力がある状態なのか、普通の生活体力がない状態なのかということを考えなければならない。「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言うけど、これは、普通に生活体力がある人の話だ。
たとえば、セルフニグレクト状態になっている人に、こんなことを言ってもむだだ。
けど、「行動を習慣化すれば、行動できる」というようなことを言う人は、セルフニグレクト状態になっている人に対してもそういうことを言ってしまう。病院で、チューブをつけられて寝たきりになっている人に「行動を習慣化すれば、行動できる」に「行動を習慣化すれば、行動できる」と言ってもしかたがないのとおなじだ。
けど、セルフニグレクト状態になっている人は、病院で寝たきりになっている人とは、見た感じがちがう。ようするに、外見の問題だ。
そとから見て……「こういう人はこういう状態だ」と見た人が、判断しているにすぎない。
そして、「できる」という言葉は、無情なものだ。見た人が……対象になる人を見て……「見た感じ、外傷がないからできる」と思ったら、見た人のなかでは、対象になる人は、できる人だということになってしまうのである。
しかし、セルフニグレクト状態になっている人は、できないと考えているのである。
そとから見た人からすれば……「それは、あまえだ」と言いたくなる。あるいは、「それは、いいわけだ」と言いたくなる。
外傷がないのだから、できるに決まっているというのが、そとから見た人の考え方だ。
対象になる人は、脳みそが委縮しているのかもしれなぃ。あるいは、脳みそが物理的に委縮していなくても、なんらかの機能障害があるのかもしれない。そして、機能障害はつきつめて言えば、「萎縮」とおなじように、物理的な現象なのだ。
脳は、外側から見ることができないので、外側から見て、対象者ができるかどうかということを判断している人には、対象者における脳の状態は、わからない。
そして、、外側から見て……「対象者ができる」と判断している人は、内側の状態を気にしないのである。あくまでも、外側から見て……できそうなら……「できる」と思ってしまう。
そして、対象者が「できない」と言うのであれば、それはあまえだということになってしまうのである。「動けるのに、動けないと言っているのだからあまえだ」と自動的に考えてしまうのである。あるいは、「できるのに、できないと言っているのだからあまえだ」と自動ときに考えてしまうのである。
なので、対象になる人の内側の状態は、わからないということが、前提になってない。外側から見て、「だいじょうぶそう」なら、「できる」のであり、「できる」のに「できないと言うのはあまえだ」というとになってしまうのである。
もちろん、そう考えている人の頭のなかでそうなるわけだ。とりあえず、外側から対象者を見ている人を観察者ということにしよう。観察者は、対象者の内側を気にしない。観察者は、対象者の内側でなにが起こっているのか気にしない。
観察者にとっては、「外見」だけが、問題なのである。
そして、「対象者はできる」と観察者が判断したら、対象者はできる存在なのである。なので、対象者の内側に問題が発生していて、「できない状態になっている」とは、考えないのだ。
対象者の脳みそがどうなっているのかということは、気にしない。あくまでも、表面的に外側からわかる情報だけにたよって、「判断」している。
しかし、たいていの観察者は、対象者の外見と対象者の内面に、へだたりがある場合について考察しない。たいていの観察者にとっては、観察者自身における「対象者を外側から見た判断が正しい」と前提して判断してしまう。
ようするに、たいていの観察者は、「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性について、考えてないのである。「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ。
どうしてかというと、内側の状態というのは、外側からは見えないからだ。
現在、なんとかweb系の仕事で食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
2024年12月4日水曜日
「対象者を外側から見た判断が、まちがっている」という可能性についても考えるべきだ
2024年11月30日土曜日
「自分は平気だ」「自分は影響をうけない」という前提
自分が実際にやられたら、一日で、俺とおなじ状態になるやつが「受け方をかえればいい」「気にしなければいい」と言うわけよ。俺は、騒音耐性があるほうだし、生活体力だって、あるほうなんだよ。「受け方をかえればいい」「気にしなければいい」と言ったやつのなかには、俺が九〇日でむかえる変化を、三〇日でむかえてしまうやつだっているかもしれない。ところが、「自分は平気だ」「自分は影響をうけない」という前提で「受け方をかえればいい」「気にしなければいい」と言う。ほんとうは、その人がきらいな音を、あの音のでかさで、あの時間の長さで、聞かされたら、影響をうけるのに、「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。実際には、やられてないから、言えることなんだよ。けど、うぬぼれ屋だから、損なのはわからない。認めない。実際にやられてしまうと、うぬぼれ屋に、くそを言われるようになる。実際にやられてしまうと、そのぶん弱っているわけだから、うぬぼれ屋が「自分のほうがうえだ」と思って、見くだしたことを言ってくることになる。
実際にやられてないわけだから、やられてない体力を維持できる。実際にやられてないわけだから、普通に眠ることだってできる。自分が実際に、俺とおなじようなことをされて、眠れない状態を経験してないわけだから「自分だったら影響をうけない」「鳴り終わったら、関係がない」「鳴り終わったら、眠れる」と思うわけ。そして、実際にやられなければ、俺が説明したって、その考えはかわらない。ずっと、やらないから、ずっとその考えを維持できる。
きちがい兄貴が、よその人がよその家ではやらない「迷惑行為」をした時点で、俺が、他のやつから見くだされることが決まっているんだよ。そりゃ、そうだろ。あんな至近距離で、あんなくそでかい音を、聞かされ続けていいわけがない。それも、他の人はどうだか知らないけど、ヘビメタの音は、ぼくにとって強烈に、苦手な音なのである。ヘビメタを、普通の音……たとえば、人が会話するぐらいの音で鳴らしているのであれば、「苦手なのが悪い」という意見もわからないではないけど、鳴らしている本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らしているんだよ。「自分は平気だ」「自分は影響をうけない」という前提で、ものをいったやつの家族は、鳴らしている本人の耳が悪くなるようなでかい音で、なにかを鳴らしていない。ぜんぜんちがう。実際にそういう家族がいないから、やられてない。やられてないから、夜郎自大な状態で「自分は平気だ」「自分は影響をうけない」と言っているだけなんだよ。
2024年11月28日木曜日
そんなこと、言えるわけがないだろ。
こいつらが、どれだけ「俺だって苦労した」と言ったって、きちがい行為の質がわからないぶんだけ、しあわせなのである。これ、わかるかな? 毎日、きちがい家族にやられてないから、言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができる。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができるということは、たいした苦労をしてないということなんだよ。きちがい家族にやられたことがないということなんだよ。きちがい家族に毎日やれることを経験してないということなんだよ。
うちのめされてないから、言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を口にすることができる。現実のなかで、うちのめされていたら、「そんなことは成り立たない」と思う。思って当然だ。思わなかったのだから、たいした苦労はしてない。現実のなかで、徹底的に、毎日毎日、うちのめされたことがないということだ。ちょっと我慢すれば、たえられるような苦労なのだ。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を言えば、たえられるような苦労なのだ。言霊的なことや、思霊的なことや、書き霊的なことや、努力論を信じているということが、「たいした苦労をしてない」ということを意味している。
* * *
そんなこと、言えるわけがないだろ。「言ったことが現実化する」なんて言えるわけがない。「すぐに鳴りやむ」と言ったって、まったくなりやまないからなぁ。鳴っているとき、どれだけつらいと思っているんだ。まったく役に立たないことを、思い知らされるのである。言霊主義者のくそ発言だって、つらさの一部になっている。経験したことがないからわからないだけでしょ。経験したことがないから「言ったことが現実化する」なんて、妄想的なことを、言えるんだよ。ちなみに、「努力すれば成功する」ということも、妄想的なことだ。
「書いて」夢をかなえることができた人だけ、「書くと夢がかなう」と言うことができる
「書いたことが現実化する」ということについて考えてみよう。
たとえば、「なんとか資格試験に合格する」と紙に書いて、普段よく見るところに、はりだしておく。ようするに、よく見えるところにはっておくので、それを見て、がんばるようになるから、がんばった結果、合格するということだ。
ここに、トリックがある。
じつは、「ことだま」じゃないけど、書いたことによって、「かきだま」が発生して、「かきだま」のチカラによって、合格するということと、かきだま自体には、チカラはないけど、見て、努力した結果、合格するということが、ごちゃごちゃになっている。
ようするに、書いただけで、効果があるのか、それとも、書いたものを見て、努力すると効果があるのかということについて、はっきりと、言及してない。主張にしたがえば、「書いたものを見て、努力するから合格する」のに、それを「書いたから合格する」と言い換えてしまうところがある。
書いたものを見て、努力する「から」合格するのと、書いた「から」合格するのは、ぜんぜんちがう。書いたから合格する場合は、「かきだま」のチカラによって、合格するのである。
「ことだま」とおなじように、「かきだま」自体に未来を変える力があるという信仰だ。これと、普段よく見えるところに、はりだしておくから、見て、努力して、合格するのはちがう。
見て、努力して、合格する場合は、努力したから、合格したのだ。
たとえば、書いても、努力しなければ合格しないのである。そして、たとえば、見えるところに「書いたもの」をはりだしておいても、努力しなければ合格しないのである。
見ても、「資格勉強をしよう」と思わずに、さぼっていたら、合格しない。
「かきだま」のチカラがない場合は、努力しなければ、合格しない。
まあ、資格用の勉強しなくても、ごく自然に、資格試験の出題範囲について知識がある場合がある。それは、そういうことを資格勉強としてではなく、趣味の読書や趣味の動画視聴によって、身につけていたので、知っているという場合だ。
この場合も、合格はする。「書いたもの」をはりださなくても、合格するし、「書いたもの」をはりだしても、合格する。
自然に知識を身につけてしまった人が「合格する」と書きだして、見えるところにはっておいた場合があるとする。この人が合格したとする。その場合、合格すると書きだして、見えるところにはっておいた「から」合格したのかというと、ちがう。
この人は、「合格する」と書いて、見えるところにはっておかなくても、合格する。
たとえばの話をしよう。
たとえば、ある資格試験があるとする。これをとりあえず、Aという資格試験だとする。この資格試験の合格者は一〇%だとする。九〇%の人が落ちる。
Aという資格試験を受ける人、全員に、「合格する」と書いて見えるところにはりだしておくように、たのんだとする。そして、全員が、そのとおりにしたとする。その結果、一〇%の人が合格した。
一〇%の人は、「合格すると書いて、見えるところにはりだしておいたから、合格した」と言うことができる。
もし、合格した人だけが「書くと、書いたとおりになる」といろいろなところで言うとすると、「書くと書いたとおりになる」ということが、正しいことのように流通する。
しかし、九〇%の人は書いたにもかかわらず、合格しなかったのである。
生存者バイアスがかかっている。
「紙に書いて、その紙を、普段、見えるところにはっておくと、書いたことが、潜在意識に影響をあたえて、書いたとおりになる」……と、合格した人が言えば、一〇〇%、その通りになると、多くの人が誤解をしてしまう。
「潜在意識に影響をあたえるようにすればいいのか」と思ってしまう。
しかし、書きだして、潜在意識に影響をあたえた?にもかかわらず、九〇%の人がおちた。おちた人のことは、無視してしまうのである。
おちた人は「書くと、書いたとおりになる」と言えない状態になる。どうしてかというと、書いても、書いたとおりにならなかったからだ。
YouTubeの動画で、「書いてはりだしておくと、潜在意識に影響をあたえて、書いたとおりになる」ということを言っている動画があるとする。
実際その動画をつくった人が、「チャンネル登録者数一〇万人を達成する」と紙に書いて、見えるところに、はっておいたら、「チャンネル登録者数一〇万人を達成した」ので、これは、事実だと言ったとする。
けど、その人は、「チャンネル登録者数一〇万人を達成する」と紙に書いて、その紙を見えるところにはりだしたあと、何千本も、こつこつと、動画を作成しているのだ。
こつこつと努力をした。
もし、「チャンネル登録者数一〇万人を達成する」と紙に書いてはっておいても、一本も動画を投稿しなかったら、達成できただろうか? 達成できない。
もちろん、一本、動画をあげただけで、一〇万人の登録者を獲得してしまう場合も、なくはない。可能性だけはある。
けど、一〇本ぐらい投稿したところで、たいして、チャンネル登録者を獲得できずに、やめてしまう人も多い。この一〇本ぐらい投稿してやめてしまった人も、おなじように「チャンネル登録者数一〇万人を達成する」と紙に書いて、よく見えるところにはりだしておいたとする。
けど、チャンネル登録者数ひとりのとき、やめてしまったとする。そうしたら、チャンネル登録者数一〇万人なんて達成できない。
達成できないので、「書いて、よく見えるところにはりだしておいたら、一〇万人達成できた」と言えない状態のまま、すごすことになる。
なので、この人は「書いたら、書くだけで夢がかなう」とか「自分の目標を書き出して、よく見えるところにはっておくと、潜在意識に影響をあたえて努力するようになるから、目標が達成できる」とかということを言えない。
「書いて」夢をかなえることができた人だけ、「書くと夢がかなう」と言うことができる。
「書いて」目標を達成した人だけ、「書くと目標を達成できる」と言うことができる。ようするに、生存者バイアスがかかっている。
* * *
じつは、「書いたから」と「潜在意識に影響をあたえるから」と「努力したから」というのは、それぞれちがう理由について言及している。
けど、「書いて、それを、見えるところに、はっておくと潜在意識に影響をあたえるから、合格する」というようなことを、すらっと、書いてしまう人がいる。
「書いたから」の場合は、ほんとうに書くだけで、合格するのである。書いたあと、書いたものをはらなくても、合格する。書いたことによって、合格すのだから、書けば、合格する。
「潜在意識に影響をあたえるから」合格するという場合は、「潜在意識に影響をあたえなければ、合格しないのである。書いただけではだめなのである。書けば、書いただけで、潜在意識に影響をあたえるのか、それとも、よく見えるところにはりだしておかないと、潜在意識に影響をあたえることができないのか、はっきりしない。
これは、あいまいにしておいて、人をだますつもりがあるのかどうかわからないけど、トリックポイントではある。
「潜在意識」というトリック用語自体が問題だ。これは、言霊のところで説明をしたので、重複して説明しない。
ともかく、あるのかないのか、よくわからない「潜在意識」とやらが、未来の結果にものすごく大きな影響をあたえるというのは、フィクションでしかない。そういうことを言う人たちが、そういうフィクションをつくって言っているだけだ。フィクションと書いておいたけど、「妄想」でもいい。
そして、「努力したから」合格する場合は、努力をするから合格をするのである。
「書くこと」も「書いたものを、よく見えるところにはっておくこと」も関係がない。「努力をしたから」合格をしたのである。
『実際に起こったこと』が影響をあたえる
ともかく、言いたいことは、『実際に起こったこと』が影響をあたえるということだ。こころにも、からだにも、影響をあたえる。何千回、何万回、何十万回?と発生したことが、影響をあたえないわけがないだろ。そんなのが、ちょっとした宣言で、無影響になると思うのか?
なんで、そういう妄想を前提としたことを言うんだ? おかしいとは、思わないのか?
2024年11月27日水曜日
思霊思考は、条件が悪い人をおいつめる
「思ったことが現実化する。明るいことを思えば、明るいことが現実化して、暗いことを思えば、暗いことが現実化する」という考え方だって、悪いものを含んでいるとは、思わないわけだ。
けど、「のび太とジャイアン」の例でずっと説明してきたように、悪いものを含んでいる。
「思ったことが現実化する。明るいことを思えば、明るいことが現実化して、暗いことを思えば、暗いことが現実化する」という考え方をもつと、のび太をせめるようになる。
「のび太が『なぐられる』と暗いことを考えたので、なぐられた」と言うようになるのだ。
ジャイアンではなくて、のび太の責任を追及するようになる。
これは、悪いことだ。
そもそも、「思ったことが現実化する」というような考え方は、幼児的万能感から発生している。それなら、人間が、幼児的万能感から完全に解放されることがあるかというと、ないのである。
どうしてかというと、「未来のことがわからない」からだ。どうしたって、「未来」のことが気になる。そのとき「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」と考えれば、現実的には根拠がない自信がわくことになる。
なので、これは、どうしようもないことだ。
けど、この感覚を、悪魔が利用しているのだ。
だから、まあ……「幼児的万能感をすてろ」と言っているのではないのだ。
ただ、 「思ったことが現実化する。明るいことを思えば、明るいことが現実化して、暗いことを思えば、暗いことが現実化する」という考えたにもとづいた助言をすると、やられたほうが、傷つくということは、はっきりと、認識しておいたほうがいい。
思霊思考は、条件が悪い人をおいつめる。
一方のタイプは、効果を疑い、もう一方のタイプは、あったこと自体を疑うのだ
きちがい兄貴がきちがい感覚で、よそのうちでは、だれもやらないことをやってしまう。それも、毎日、数時間から十数時間にわたって、やってしまう。
これは、でかいことだ。
けど、よその人は、実際には、そういうことをされたことがない。なんてたって、「よそのうちでは、だれもやら」いこと」をやるからだ。よそのうちでは、だれもやらない。それは、すなわち、よそのうちでは、だれも、だれかほかの家族に、そういうことをやられてないということだ。
そして、よそのうちの人は、きちがい兄貴のきちがい感覚がわかってない。だから、ここら辺に関して、疑問を持つことになる。ようするに、ぼくの言っていることが、「感覚的に」嘘なのではないかと思うのだ。
もちろん、軽い内容だと思って、「嘘なのではないか」と思わない人もいる。
ようするに、きちがい兄貴がやっていることが、異常なことで、重たい内容だと思う人は、「うそだ」と思い、きちがい兄貴がやっていることが、よくあることで、たいして重たい内容ではないと思う人は、「たいしたことがない」と思うのだ。
「たいしたことはないと思った人は、相当に、自信家で、他の人の不幸に対する想像力が、どちらかと言うと、欠落しているタイプだ。
ようするに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、よくある騒音で、エイリが言っているほど、ひどいことではなく、影響もふせげると思ってしまうタイプだ。
けど、それは、何度も言うけど、想像力がたりないからそう思うのだ。まあ、もともと、本人が経験してないということが、このことの別の要因としてある。
ようするに、本人が経験していたら、どちらかというと、想像力が欠落しているタイプの人も、重たいことだと受け止めることができるのだ。言っておくけど、ここでいう想像力というのは、かなり限られた想像力だ。
想像力が欠落しているタイプと言ったけど、この人たちが、他の点でも、想像力が欠落しているとは、かぎらない。
ようするに、ほかの分野に関しては、すばらしい想像力を発揮するかもしれない。どういう分野の想像力が欠落しているかというと、自分と相手を置き換えて考えるといったタイプの想像力が……どちらかといえば……欠落しているのだ。
ようするに、相手の状況について考えるという意味での想像力が……どちらかといえば……欠落している。
そして、自信家なので、自分なら大丈夫だと容易に考えてしまうパーソナリティーなのだ。
ようするに、相手の立場についての想像力が、……どちらかといえば欠けていて、なおかつ、夜郎自大なところがあるタイプだ。
ようするに、自信かで、相手の身に起こったことは、だいぶ、効果・影響を差し引いて考えてしまう人なのだ。ひどいことでも、相手のことなら、たいしたことがないと考えるタイプだ。「自分なら、平気だ」「自分なら影響をうけないですごすことができる」とごく自然に考えてしまうタイプだ。
だから、このタイプの人たちは、基本的に、「軽いものだ」と思って、「軽いアドバイス」をする。このタイプの人たちはごく自然に「自分ならできる」「自分なら影響をうけない」「自分ならこうやってうまくやりすごすことができる」……と前提している。
悪意はないかもしれないけど、毎日実際にやられたている人にとっては、こういう前提にもとづいた発言は、ゆるせない発言なのである。
いっぽう、重く受け取る人は……エイリが言っていることが、おかしいと思うのだ。「そんなことは、他の家族がゆるすわけがない」「どれだけ(お兄さんが)やりたくても、そんなことは、できるわけがない」と思ってしまうのだ。
だから、エイリが嘘を言っているだけなんだと思ってしまう。あるいは、エイリが大げさに言っているだけなんだと思ってしまう。
一方のタイプは、効果を疑い、もう一方のタイプは、あったこと自体を疑うのだ。
どうして、こういうことになってしまうかというと、だれも、兄貴の特殊な感覚を理解してないからだ。
だれも、兄貴のような家族に、直接、おなじことをされていないからだ。ここで、ながながと書いている兄貴の性格や兄貴の感覚は、他の人には、理解できないことなのである。
そして、実際に、家族のなかにそういう人がいないので、そういう人から、「騒音被害」を、直接、うけたことがないのだ。
これ、兄貴がやるとなったら、どれだけしつこく、すべての時間を使ってやるかわかってない。
「すべての時間」というのは、二十四時間のことではない。そりゃ、兄貴だって眠っているときはあるので、眠っているときは鳴らしてない。使える時間は、どんなに細かい時間も、絶対に使ってやるし、一度やりだしたら、途中でやめない。
どれだけ、なにを言われても、絶対の意地でやりきる覚悟をもっている状態で、普通にやる。「きちがい兄貴」とぼくは言っているけど、こういうところのこだわり方も、うちの兄貴はきちがい的なこだわり方を発揮するのだ。
きちがい的なしくみで、相手の言っていることを無視してしまう。これは、きちがい的なしくみが成り立っている。
どちらかといえば、想像力が欠落している人のしくみとは、また、ちがうのだ。きちがい兄貴の、自分がやりたいことに関係する、他人の状況に対する想像力のなさは、きちがい的だ。普通じゃないのである。
どちらかといえば、想像力が欠落している人が実際には、きちがい兄貴とおなじ行動をしないのは、相手のことを考えているからだ。ようするに、「こういうことやると迷惑がかかる」ということを考えている。
自分のやりたい気持ちを認識して、自分がやりたいことをほんとうにやってしまうと、相手(一緒に住んでいる家族に)迷惑がかかってしまうということがわかっているので、思いっきり鳴らしたくても、思いっきり鳴らすことはせず、普通の音で鳴らすわけだし、ヘッドホンをするわけだ。
自分の耳が悪くなるような大音響で鳴らさない。
だから、想像力が欠落している人は、本人が、きちがい兄貴のように、でかい音で鳴らすということをしない。そして、おなじように、想像力が欠落している家族と住んでいたとしても、想像力が欠落している家族は通常人の範囲で想像力が欠落しているだけなので、その家族はきちがい兄貴のようにでかい音で鳴らすということをしない。だから、想像力が欠落しているタイプの人も、きちがい兄貴が鳴らすような騒音を、自分の家族にやられるということを、人生のなかで経験しない。
2024年11月26日火曜日
こいつらはこいつらで「悪く言った」という気持がないんだよね。
きちがい兄貴が常識を無視して鳴らすと、俺が、常識的な人から、うたがわれ、へんなやつだと思われ、バカにされることになる。ほんとーーに、みじめだったよ。これ、毎日、どれだけ踏ん張ってがんばっても、きちがい兄貴が、きちがい閣できちがい行為をして、きちがい行為をしたということを認めないということになると、俺に、影響がおよぶのである。実際に生活していれば、影響は不可避的だということがわかるのだけど、想像のなかでしか知らないやつらは、「自分なら、だいじょうぶだ」と勝手に決めてしまうのである。「そんなのは、不可避的なことではない」と思ってしまうのである。「自分ならだいじょうぶだ」「自分なら影響をうけずにできる」という前提にたって、くそを言ってくる。きちがいが、きちがい感覚で、頑固に鳴らすと……もう、普通のやつらかなめられることが決まっている。普通のやつらの家には、きちがい感覚で、頑固に鳴らすきちがい家族がないので、実際は、影響でかさがわからないのに、わかったつもりになって、俺のことを悪く言う。しかも、こいつらはこいつらで「悪く言った」という気持がないんだよね。すべてがすべて、ゆるしがたい。このことに関連しておこったこと、すべてがゆるしがたい。
この世、全体がいやなんだよな。
きちがい家族にやられて、なにも知らない、よそのバカにバカにされるのが、ほんとうにいやだったな。きちがい家族にやられたことは、ほんとうにきつかった。きちがい家族にやられてないやつは、このきつさがわかない。わからないのにわかっているつもりで、アホなことを言いやがって。おまえらのそういう発言で、傷ついた。ものすごくいやな気分になった。なぐってやりたくなった。それをこらえて生きてきた。けど、こいつらの、ばか発言というのが、全部、おなじなのである。まあ、いまは、どうにかなっているけど、こいつらの程度というのは、かわらない。こいつらに、不愉快なことをやられたという感触は、のこっている。この世、全体がいやなんだよな。
すべてのライフハックが、言霊の理論のように、無意味なものなんだよ
そりゃ、日曜日はずっと朝から鳴っていて、平日は、学校から帰ってきたら鳴っているのだから、勉強をする時間がない。そして、勉強することができないだけではなくて、睡眠回路を破壊する時間なのだ。そして、体力……生活体力を破壊する時間なのだ。これ、みんなわかってないけど、常に、疲労病の状態だ。まあ、疲労病と書いたけど、慢性疲労症候群のことだと思ってくれ。みんな、「自分なら影響をうけない」「自分なら、お兄さんを説得してしずかにさせることができる」という前提で、くそを言ってくるから、ほんとうにこまったよ。現実がこうなのだから、現実に対するイメージが悪くなる。現実の世界で、何回も何回も、何十回も何十回も、何百回も何百回も、何千回も何千回も、何万回も何万回も、おこったことが、影響をあたえるのである。からだにも精神にも影響をあたえる。ライフハックみたいなきれいごとで、ひっくり返るわけがないだろ。どうしてかというと、ライフハックのなかに出てくるきれいごとが、現実的ではないからだ。これ、ライフハックをかいている本人は「実際にそうだ」「自分の場合はそうだった」という思いで書いているのだろうけど、それは、その人の条件が成り立っているときに、効果を発揮したということを意味しているにすぎない。条件がちがえば、ちがうのである。けど、「どんな条件だって、こうなる」と言い切ってしまう。こいつらは、みんな、ほんとうは、条件を無視している。条件を無視して言っている。けど、現実生活というのは、条件によってだいぶ、ちがう。個人の現実生活というのは、その個人がかかえる条件によって、だいぶ、ちがう。ちがいを無視していいわけがない。すべてのライフハックが、言霊の理論のように、無意味なものなんだよ。
ほんとうは、きちがい家族に一度もやられたことがないのに、くそを言いやがって……。そんなのが成り立っていたら、苦労しない。こまってない。
2024年11月25日月曜日
きちがい感覚と、世間の感覚の板挟みになる
実際に、きちがい騒音生活をしてない人が言う、きれいごとが、どれだけ俺をくるしめてきたか? これ、家族による騒音だというのが、問題をわかりにくくしているんだよな。異常な家族による騒音だというのが、問題をわかりにくくしているんだよな。これ、実際にやられると、きちがい兄貴のきちがい感覚と、世間の感覚の板挟みになるのである。極めて特殊な、きちがい的な家族にやられるとなると、世間の人たちの理解をえることができない。まーーったくできない。世間の人たちは、世間の人たちの感覚で物事を考えるのである。そして、実際には、きちがい家族にやられたことがないのに、「自分だって苦労した」というひとことで、きちがい家族にやられたことがあるという前提が成り立ってしまう。世間の人の頭のなかに、そういう前提が成り立ってしまう。でっ、世間の人たちは、きちがい兄貴の構造がわからいのだけど、もうひとつわかってない部分ある。それは、実際にやられたときの、からだの状態だ。実際にやられている最中のからだの状態もわからなないし、何時間もやられあとのからだの状態もわからない。きちがい家族が、きちがい的な感覚で、騒音を鳴らしきる毎日というのを、経験したことがないから、自分の経験としてはわからない。いつもいつも、きちがい家族ではない人が、ときどき鳴らす騒音を頭に浮かばせて、頭に思い描いて、ものを言う。どんだけ、ひどい状態になるかまったくわかってない。俺は、遅刻しているときも、がんばっりきって、遅刻していたんだよ。俺は、無職のときも、がんばりきって、無職になっていたんだよ。まっーーたーーく、わかってない。どんな状態になるかまったくわかってないやつが「自分ならできる」と無理なことを言ってくる。これがデフォルトになる。これがどれだけ屈辱的なことか、なおさら、わかるわけがない。たいていのやつは、「自分ならできる」「自分なら平気だ」という前提で無理なことを言ってくるやつらだからだ。「自分ならできる」「自分なら平気だ」と考えているわけだから、無理なことだと考えない。無理なことだと考えてない。どんな状態になるか、ぜんぜんわかってない。きちがい兄貴の態度がどういう態度かぜんぜんわかってない。どれだけがんばったって、いろいろなところにほころびができる。無理な部分できあがる。きちがい家族による騒音のつみかさねというのは、普通の生活を破壊してしまう。どんなふうに、破壊するかまったくわかってないやつらが、「自分なら平気だ」という、前提でくそを言ってくるようになる。これがデフォルトだ。
2024年11月24日日曜日
「現実」を無視するな。
むかしむかし、ビジネス本を読んで「条件がちがいすぎる」と感じたことがあるんだよね。ビジネス本の要約動画を何本か見たけど、おなじことを感じだ。
ぜんぜん、条件がちがう。
言っていることが、きれいごとでたてまえ。
「そんなことを言っていられる状態じゃなかった」という言葉が、バンバン、うかんでくる。「そんなことが成り立つなら、苦労してない」という言葉がバンバン、うかんでくる。
作者は「現実的な話」をしているつもりなんだろうけど、それは、作者にとっての「現実」だ。俺の場合は、特殊な家族といっしょに住んでいたから、その土台が成り立たないのだ。ようするに、「作者の現実」と「ぼくの現実」がちがいすぎる。
「作者の現実」と「ぼくの現実」がちがいを条件のちがいとして表現すると、「どんな条件でもこうだ」ということを言うやつが、わいてくる。こいつは、特殊な家族といっしょに住んだことがないから、特殊な家族といっしょに住むことからしょうじる「条件」について、理解がたりない。
自分のことではないから、「条件なんて関係がない」と言うのだ。
こいつだけではなくて、ビジネスの本の作者も「条件なんて関係がない」と考えているようなところがある。直接、条件は関係がないということを記述する作者もいれば、条件は関係がないと考えているからこそ言えることを記述する作者もいる。「条件」と言ってしまうけど、「現実」なんだよね。「現実」を無視するな。
現実世界で発生した「出来事」は影響をあたえる。現実世界で発生した「過去の出来事」は現実世界の「現在の状態」に影響をあたえるということだ。
だいたい「げんざい」の「ん」を言っているうちに、「げ」を言ったということは、過去の出来事になってしまう。「現在」という言葉を使っている人は、「現在」というものが、いったいなにを指しているのかわかっているのだろうか?
まあ、「現在の瞬間」というものが、どういうものなのであるかという問題は、横に置いておこう。たぶん「過去は関係がない」と言っている人における「過去」というのは、相当に幅のひろい過去なのだろう。
問題なのは、「過去は関係がない」という考え方だ。こんなでたらめな考え方が、正しい考え方として流布している。アホらしい。もう、のろいのようだなぁ。
「条件は関係がない」という考え方は、「過去は関係がない」と言う考え方と、リンクしている。 「現在の条件」だけではなくて、「過去の出来事」についても言及していることになるからだ。
「現在の条件」というものは、過去の出来事によって、つくりだされた条件なのである。
過去における現在の条件……つまり、「過去の条件」も、そのときまでの、出来事によってつくりだされた条件だ。ようするに「現在の条件」も「過去の条件」も過去の出来事によってつくりだされたものなのである。現実に起こったことは、現実に影響をあたえる。
* * *
「ん」の発音だけど、これは、けっこうむずかしい問題を含んでいる。「げんざい」と「げざい」はちがう発音になるので、「ん」の部分もあるような感じがするけど「げ」と連なるスペクトラムのなかで無発音になる部分があるような感じがする。
しかし、無音部分をつくらないように「ん」を発音しようとするとへんな言い方になるけど、無音部分をつくらなくても、「げんざい」と発音できるような感じもする。
けど、やっぱり、発音としてはおかしくなるなぁ。
だから、やはり、普通は、かなりはっきりした無音部分があるような感じがする。普通は、無音部分まで含めて発音だと考えていいんだよな。けど、無音部分は無音部分だから「発音」はしてない。「ん」は、通常、無音部分をふくんだスペクトラムを形成するのだろう。
スペクトラムというのは連続性をもつものとして表現されるものだ。ひとつひとつのひらがなの発音は、たしかに、ひとつひとつのひらがなの発音として「ある」のだけど、実際には、みんな、ひとつひとつのひらがな発音をそのまましているのではない。
ようするに、連続性のなかに組み込まれた発音をしている。これなんかも、過去が現在に影響をあたえているということの例だ。過去の出来事が現在の出来事に影響をあたえている。
「現在の瞬間」がどういうものであるのかは、問題にしないとする。現在というのは、普通は!過去の時間を含んだ時間のことを言っているのである。
そうすると、人によって「現在」という言葉で表現されている「時間の長さ」がちがうということになる。これは、いちおう、「過去から過去まで」の時間の長さだ。現在というのは……『普通は!』……ある過去から、ある過去のまでの時間について言及しているのである。
* * *
「げんざい」における「ん」の発音をするとき、無理やり、「ん」の無音部分をつくらないようにすると次の「ざ」の音に影響をあたえるのである。いったんは、無音部分をつくらないと次の「ざ」が発音しにくくなる。
そして、無理やり無音部分つくらなかったあとの「ざ」は、無音部分をつくったあとの「ざ」とは、やはり、実際の発音がちがう。
「ん」の無音部分は、次の言葉の発音に影響をあたえる。
* * *
人によって「現在」という言葉で表現されている「時間の長さ」がちがう……と書いたけど、おなじ人でも、場合によって、「現在」という言葉が表現している「時間の長さ」がちがう。しかし、通常は、過去から過去における時間の長さを「現在」と表現している。「現在」と言っても、「過去から過去」なんだよなぁ。「現在」なんてものは、数学における頂点のようなもので、実際には、存在しない……かもしれない。
しょうじなかった症状
実際は、きちがい的な感覚をもつ家族がおらず、きちがい的な感覚を持つ家族が鳴らす、非常識な音にさらされた経験がない人が、「自分なら影響をうけない」「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と判断してしまう。こいつらは、夜郎自大だから、「自分なら平気だ」という前提でものを言う。たとえば、「入試のまえはだれだって緊張する」と言ったとしよう。誰かが言ったとしよう。けど、普通に暮らしていて、入試の前に緊張するのと、きちがい兄貴にずっと何年間も毎日やられてきて、入試のまえに緊張するのは、ぜんぜんちがうことなんだよ。「入試の前日にうまく眠れなかった」「入試の前日に緊張して眠れなかった」と、だれかが言ったとしよう。ぼくも、きちがいヘビメタが入試の前日に鳴っていたので、入試の前日にうまく眠れなかったわけだけど、それは、きちがいヘビメタがない人が言っている「入試の前日にうまく眠れなかった」とは、意味内容がちがうんだよ。けど、きちがい兄貴が実際にいない人には、それがわからない。きちがい的な感覚で、どこの家でもなってないような非常識な音で、ずっと、きちがい的な音を鳴らし続ける家族といっしょに暮らしたことがない人は、そもそも、きちがい的な音を鳴らし続ける家族といっしょに暮らしたことがないので、家族が鳴らすきちがい的な音にさらされた経験がない。入試の前日も鳴っていたけど、小学六年生のときから、日曜日も含めて、毎日、きちがいヘビメタが常に鳴っている状態なのだから、小学六年生のときから、睡眠回路がめちゃくちゃになって、うまく眠れなかったのだ。きちがい兄貴がヘビメタを鳴らす前は、ちゃんと毎日、普通に眠れることができたのだ。そういう状態で、入試の前日によく眠れなかったとしても、ぜんぜんちがうんだよ。だいたい、試験を受けるときは、きちがいヘビメタが鳴っているような混乱が「どうしても」しょうじてしまうのだ。これだって、きちがいヘビメタが鳴っていなければ、なかったことなんだよ。こういう症状だって、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、思いっきりヘビメタを鳴らしきるということにこだわらなければ、しょうじなかった症状なんだよ。よその人が……たとえば、「俺だって入試のまえは緊張した」とか「俺だって、入試の前日に眠れなかった」と言うかもしれなけど、その人が、きちがい家族による騒音を毎日、何年間も経験したことがない人なのであれば、その言っている内容がちがうのである。けど、よその人だって、苦労をしたことはあるし、困難を経験したことはある。だから、「おなじだ」と考えてしまうのだけど、ちがうんだよ。そして、普通の人のほうが多いわけだから、世の中に出回っている考え方というのは、普通の人の考え方なんだよ。特殊な家族に、ずっとま位置にやられ続けた人の考え方ではない。ようするに、たとえば、「苦労をした」「困難を経験した」と言っても、意味内容がちがうのである。
抽象化されてしまうと、きちがい兄貴の特殊性がなくなってしまうのだ
たとえば、きちがいヘビメタが鳴ってない一日なのであれば、午後一一時に、布団のなかに潜れば、だいたい、普通に眠ることができるのだ。
眠るまでに何分かかっているのかわからないけど、普通に、朝の七時に起きたときには、「だいぶ眠った」という感じがある。
ところが、きちがいヘビメタ騒音がにさらされると、午後一一時になって、布団のなかに潜っても、眠れない。きちがいヘビメタ騒音にさらされ続けて、副交感神経が優位にならないのだ。
でっ、他の人は、ヘビメタ騒音が何時間も鳴っていたとしても、鳴りやめば眠れる」ということを言う。
「自分なら、影響をうけないで眠れる」ということを言う。
けど、そいつには、きちがい家族がおらず、きちがい的な態度で、くそうるさい音楽を鳴らすということがないのだ。
そいつは、経験してない。経験してないけど、「自分なら平気だ」と勝手に考えてしまう。そういう前提でものを言う。
その場合、「自分なら、気にしないことができるのに、エイリは気にするからダメなんだ」というようなことも、そいつの頭のなかに、成り立っている。
どこまでもどこまでも、想像力がないバカに、バカにされる。下に見られる。そいつに、きちがい兄貴相当のきちがい家族がいないから、実際にやられたことがなく、わからないだけなのだ。
無理なことを言っているのに、無理なことを言っているつもりがないという状態が成り立っている。もう、すべてがいやだ。こういうことを、いろいろな人から突き付けられる。
うまく言えないけど、きちがい兄貴が特殊だというのがある。
みんな、特殊な家族と暮らしているわけではなくて、普通の家族と暮らしている。特殊な家族と暮らしている人も、きちがい兄貴のように特殊な家族と暮らしているわけではない。
だから、きちがい兄貴が、どういう態度で、どういう認識で、どういう感覚で、きちがいヘビメタを思いっきり鳴らすかわからない。実際に、そういう家族に、騒音でやられたことがないのだ。
だから、ともかく、普通の人は、特殊な家族にやられたことがないのである。
ところが、普通の人でも、もちろん、苦労はしている。困難を経験している。だから、みんな、普通の人が「自分だって苦労した」「自分だって困難はあった」と言う。
「困難」とか「苦労」というレベルまで、抽象化されてしまうと、きちがい兄貴の特殊性がなくなってしまうのだ。
だから、「困難」はたしかに経験したのだろうけど、きちがい兄貴がもたらすような特殊な困難は、経験してないということになる。きちがい的な意地でやっていることは、きちがい的な意地で否定して、やってないつもりになってしまうという特殊性がない家族といっしょに住んでいるのだ。
家族からもたらされる困難も、特殊性がない家族がもたらした困難だということになる。
特殊な家族がやることがわかってない。
特殊な家族に実際に、毎日毎日やられたことがないので、実際にやられると、どういう状態になるのか、まるでわかってない。相手の立場にたって考えるということができない人だと、「自分なら影響をうけないことが可能だ」という前提に立って、ものを言うようになる。
「どれだけ鳴ったって、鳴り終わったら関係がない」と言う。これが、こっちにとっては、頭にくることなのだ。
2024年11月23日土曜日
「認知症だったからそうなったんでしょ」
もう、本は捨てようかな。相当に思い入れがある本も含めて、捨ててしまおうかな。まさか、こんなことを思う日がくるとは、思わなかった。引っ越しで持っていくのが、無理なのである。だいたい、ダニにやられているしなぁ。本のダニは、冷凍で削除しようと思っているのだけど、作業する場所は、引っ越した先の部屋だ。小さな冷凍庫を買って、どうにかするつもりなのだけど、こっちは、いろいろとイメージが悪すぎて、小さな冷凍庫を置く気がしないのだ。もとちがい兄貴の部屋に入っている本は、もう、ネズミの糞とダニでだめになっている。けど、粗大ごみの人をよぶにも、まず、ネズミの糞に関しては、片付けられるところは、片付けておきたい。きちがい親父が、ネズミの呼び込むことを、最後にするなんて、予定になかったことだ。一匹目が出たとき、ネズミ対策工事をしようと言ったのに、かたくなに認めないのだ。きちがいだから「俺が、ネズミシートで捕まえるからいい」と言って、聞かなかった。この機関の長さが問題なんだよ。ネズミの糞が増えていくのに、ネズミの糞をガン無視。「ネズミが入ったあとにつかまえてもしかたがない」ということを言っても、きちがい的な形相で、ガン無視。こんなの、ありえない。普通のうちではありえない。認知症になっていたから、「認知症だったからそうなったんでしょ」とほかの人は、言うけど、ちがうのだ。
2024年11月22日金曜日
現実生活のなかでは、こんなものだ。ぜんぜん、言霊の力なんて信用してないのである。
言霊思考についていろいろと批判してきたけど、別に、本人ががんばるのはいい。基本、未来というのは、決まっていない。
しかし、問題なのは、ほかの人に言うことだ。ほかの人に「あたかも、言霊で問題が解決する」と言うようなことを言うのは、よくない。
どうしてかというと、「言霊の力」がないからだ。その人たちは、「言霊」に過剰な期待をしている。「言ったことが、現実化する」とアホなことを言う。自分がそう思って、自分に関係があることだけやっていればいいのだ。ほかの人に言う必要なんてない。
どうしてかというと、ほかの人は、ほかの条件をかかえているからだ。
自分が相手の条件を無視して、「言霊で解決できる」というようなことを言うのは、よくない。どうしてかというと、「言霊では解決できない」からだ。言霊を信じている人は、言霊にはすごい力があると思っているけど、じつは、「言霊」自体には、まったく力がない。
して、もうすこし、正確な言い方をするのであれば「言霊」自体がない。その人たちが、想定している「言霊」というものがないのだ。だから、「言霊の力もない。この人たちは、すべての条件を無視して、「言霊のすごい力で解決できる」というようなことを言う。
「言ったとおりになるのだから、言えばいい」という考え方だ。
この人たちは、「言霊にはものすごい力が宿っている」ということを確信しているけど、自分の現実的な問題に関しては、言霊で解決しようとしないのだ。ようするに、言霊にやどっているものすごい力を利用して、自分の現実的な問題を解決しようとしてない。
現実的な問題に関しては、常に、現実的な思考をしているのである。
本人が、意識していないだけなのである。
だから、「月に一〇〇万円おカネが振り込まれる」と言って、おカネの問題を解決しようとせず、普通に働いて、お金をかせぐという方法で、おカネの問題を解決しようとする。
自分の病気を治す場合だって、「この病気は、一秒以内になおる」と言って、言霊の力を利用してなおそうとしない。普通に、医者に行ってなおそうとする。あるいは、自然治癒の力を使って、なおそうとする。
言霊の力を使ってなおせばいいだろ。
言霊の力では、なおせないと思っているので、医者に行ったり、自然治癒の力に期待したりする。自然治癒の場合は、ある程度の時間がかかるものがある。「言霊のすごい力」を使って、時間短縮をすればいいじゃないか。自然治癒のプロセスにまかせずに、言霊のすごい力を使って、三秒でなおせばいいじゃないか。どうして、言霊のすごい力を利用しようとしないのか?
言霊のすごい力なんて、ぜんぜん信じていないからだ。はっきり言えば、三秒でなおせると思っていないから、言霊の力なんて利用しようとも思わないのだ。
「足を骨折した……みたいだ。よし、言霊のすごい力を使って、三秒でなおそう」と思わないのだ。医者に行ったりするけど、けっきょくは、自然治癒の力でなおそうとする。
けっきょく、言霊の力で、骨折をなおすことができない。
けっきょく、言霊の力で、自然治癒の速度をあげることができない。
「三秒以内になおる」と言ったって、三秒以内になおることがない。
骨折した場合、三秒以内になおると言ったって、三秒以内になおらないということを知っているので、言霊で解決しようとはしないのだ。「言霊で解決しようとはしない」と書いたけど、これは、「言霊の力を使って解決しようとしない」ということだ。言霊理論を信じている人ですら、こうなのである。
「絶対に言霊にはすごいちからがある」「絶対に、言ったことが現実化する」と他人に、がんばって言っている人だって、現実生活のなかでは、こんなものだ。ぜんぜん、言霊の力なんて信用してないのである。
* * *
何度も言うけど、「言ったあと努力するなんてアホらしいことだ」。どうしてかというと、言っただけで現実化するからだ。言霊理論が正しいなら、言っただけで現実化するので、努力をする必要なんてまったくないのだ。
言っただけでは現実化しないから、努力する必要があるのである。自分のからだを動かす必要があるのである。
問題なのは、自分が「言霊の力」をぜんぜん信用してないということに、まったく、気がついていないことだ。本人が、気がついていないのである。言霊を妄信しているような発言をする本人が、まったく、言霊を信じていない。こっちのほうが問題だ。
他人の現実的な問題に関しては、言霊の力で解決できるようなことを言うけど、自分の現実的な問題に関しては、言霊の力で解決しようとしない。そして、「言霊の力で解決しようとしない」ということに、気がついていない。こっちのほうが問題なんだよ。
2024年11月20日水曜日
どれだけ、鳴らしたって、入試のじゃまをしたと、まったく思わないのである
毎日、ズルいことをやる他人といっしょに住んでいるということが、どういうことなのか、毎日、ズルいことをやる他人といっしょに住んだことがない人はわからない。しかも、ズルいことをやっている本人が、ズルいことをしているというつもりがないのだ。ズレと言ったけど、ズレが、ズルをうみだしているのだ。指導的にそうするのだ。そして、自動的に「そうしてない」ということになる。きちがいの頭のなかだとそうなる。思いっきり鳴らしたいということを固定すると、思いっきり鳴らしたいということに「はむかうこと」は、たとえ事実であったとしても、絶対に認めたくないことだから、認めないということになる。認めないのだけど、認めなかったという認知もないのだ。認めなかったというつもりがない。一切合切ない。だから、本人の主観としては、「やってないこと」になっているのである。
きちがい的にでかい音で鳴らしている……思いっきり鳴らしているということも、やってないことだし、「しずかにしてくれ」と言われたあと、しずかにせずにずっと思いっきり鳴らしたということも、やってないことになっているのである。「しずかにしてくれと言われたあと」というのは、「兄貴が、俺から、しずかにしてくれと言われたあと」ということだ。もうひとつ、無視していることがあって、それは、相手が言ってきた内容だ。相手になにか都合が悪いことを言われら、瞬間的に頭にきて、瞬間的に認めない状態になるので、相手が言ってきた内容というのは、頭にはいってない。何万回言われても、相手が言ってきた内容というのは、頭に入っていない状態なのだ。だから、「相手がしずかにしてくれと言ってきたけど、無視して鳴らした」ということが、頭のなかにまったくない状態で、鳴らし続けることができるのだ。これを、毎日、五千日繰り返しても、「相手がしずかにしてくれと言ってきたけど、無視して鳴らしてやった」ということになってないのである。頭に、そんな内容が、まったくない状態で生きている。頭に、そんな内容が、まったくない状態で、思いっきり鳴らし続ける。けっきょく、どれだけ鳴らしても、相手がこまったということを認めないのだから、自分(兄貴)は、お党の勉強の邪魔をしてないということになってしまうのである。きちがい的な意地で、七時間鳴らせるなら、七時間、一分間もゆずらずに、思いっきりでかい音で鳴らしても、じゃまをしたとは思えないのである。きちがい的な意地で、十三時間鳴らせるなら、十三時間、一分間もゆずらずに、思いっきりでかい音で鳴らしても、じゃまをしたとは思えないのである。そんなつもりがまったくない状態で生きている。そういう認識が、ほんとうに、兄貴の頭のなかにはない。まったくない。たとえば、おとうとの入学試験の前日が日曜日だったとする。日曜日は、一日中鳴らせる日だ。一日に、十三時間鳴らせる日だ。十三時間鳴らせるから、自動的に十三時間鳴らす。どれだけ、鳴らしたって、入試のじゃまをしたと、まったく思わないのである。
意識を捻じ曲げて、「でかい音で鳴らしている」ということを認識しないようにするのだ
きちがいのなかで「思いっきり鳴らす」ということが決まっているので、なにを言われても気にしないのだ。気にしないと言っても、「思いっきり鳴らせなくなるようなこと」は、認めない。この「認めない」状態というのが、無意識がかかわっているものだから、普通の人にはわからない状態なのである。ようするに、「思いっきり鳴らす」ということが固定されているとする。固定されていたら、「思いっきり鳴らすこと」が固定されているので、どれだけ「でかい音で鳴らしている」と言われても、「でかい音で鳴らしている」ということを認めないということになる。普通の人の場合、「でかい音で鳴らしている」ということは、聴覚が正常であれば理解できることであり、いやおうなく、認識してしまうことなのである。だから、普通の人がこういう態度をとる場合は、「でかい音で鳴らしているのは認識しているけど」「思いっきり鳴らしたいので」「でかい音で鳴らしているということを無視して認めない」ということになる。ところが、きちがい兄貴の場合は、きちがいなので、普通の人とはちがう状態が成り立っている。意識を捻じ曲げて、「でかい音で鳴らしている」ということを認識しないようにするのだ。だから、本人の意識のなかでも、『実際に自分は、でかい音で鳴らしてない』ということになってしまう。そういう都合がいいところがある。これは、自分をだましているわけで、都合がいい。自分をだますことができると、「思いっきり鳴らしている」ということを認めずに、思いっきり鳴らすことができるのだ。
ここに、きちがい兄貴がまったく気がつかない「ズレ」があるから、こまるんだよ。ちなみに、親父の「ズレ」もおなじなのである。だから、こまるんだよ。こまるんだよ。
* * *
けど、実際に一緒に住んでいて、そのずれがわからない人にとっては、なんでもないことなんだよ。人間といっしょに住んでいれば、「俺だって……」「わたしだって……」「自分だって……」と言いたくなることがあるということは、わかる。けど、ちがう。正常な家族といっしょに住んでいる人が経験する困難と、異常な家族といっしょに住んでいる人が経験する困難は、困難の質がちがう。そして、この世では、困難の量も、おそろしく、ちがってくる。ようするに、正常な家族としいっょに住んでいる人が経験する(家族からもたらされる)困難の量と、異常な家族といっしょに住んている人が経験する(家族からもたらされる)困難の量がちがう。異常な家族といっしょに住んている人が経験する困難の量のほうが、おびただしいほど大きい。そして、正常な家族といっしょに住んでいる人は、異常な家族といっしょに住んでいる人の「困難」の質がわからない。量もわかってないんだけど、「質」がわかってない。だから、「おなじだ」と思ってしまう。おなじ質の困難を、おなじ量だけ、経験していると思ってしまう。異常な家族といっしょに住んでいる人の話を聴いたとき、無意識的に「おなじだ」と前提してしまう。だけど、もたらされていることがちがうのだ。
反応がおなじなんだよ。まったく、気にしない。
「木を切ってくれ」と言われたときのきちがい親父の態度と、「しずかにしてくれ」と言われたときのきちがい兄貴の態度がおなじなんだよ。まったく、おなじ。みんな、やられている家族が、どれだけ、連続的こまるか、無視している。そりゃ、きちがい的な家族といっしょに暮らしたことがないか、わからないのはしかたがないと思うけど、それにしても、ひどい。こいつら、中立的な態度を装って、やられているやつに、説教をする。これ、ほんとうに、精神世界の人たちとおなじなんだよ。「思ったことが現実化する」と思っている人たちのことを書いてきたけど、この人たちは、やられたほうに説教をする。やられたほうが悪いのだという前提に立って、無理なことを言う。妄想的なことを言う。こいつらが言うことは、まったく役に立たない。「明るいことを考えれば明るいことが起こるのだから、明るいことを考えればいい」と言う。こんなのない。きちがい家族は、きちがい的な脳みそを搭載しているから、自分がやっていることに文句を言われたら、自分がやっていることがどれだけ悪いことでも、発狂してやり続ける。普通の人なら、迷惑行為になるということが、やるまえからわかるから、やらないことを、きちがい的な意地でやって、「やめてくれ」と言われたら、発狂をして、やめない。反省なんてしないんだよ。相手がこまっているなんことは、逆立ちをしてわからないんだよ。どれだけ、ちゃんと、説明されても、わからないんだよ。まったくわからない。わかったら、やめなければならなくなるようなことは、どれだけはっきり言っても、まったくつたわらないままなんだよ。たとえば、ぴょーーんと竹の枝がのびているとする。親父に「竹の枝を切って」と言ったって、きちがい親父は「なんだ、そんなの」と言って、竹の枝を切らない。きちがい親父が、おかあさんの反対を押し切って、竹の根を植えてしまったんだよ。普通の人は、竹の生命力なんてわかってない。竹じゃなくても、ともかく、普通なら、植えないところに植えてしまう。通り道のほぼ真ん中に、木を植えてしまう。普通はこんなことをしないのだけど、きちがい親父がその気になったら、そうする。「やめてくれ」と言われたら、脂汗をかいて、真っ赤な顔をして、植えてしまう。「そんなところに植えると、通りにくくなるからやめて」と言われたら、もう、それが、頭にくることなんだよ。自分がやろうとしていることに反対されたら、発狂して、無視してやっちゃうんだよ。この態度は、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らしているときとまったくおなじなのだよ。「やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言われたら、発狂して、無視してやり続けてしまうんだよ。けど、「やったつもり」がないわけ。
親父が入院してやっと、竹を切れるようになった。俺は、竹の枝が隣のうちの敷地内にのびていることを気にしていた。だから、親父が入院したあと切ったんだよ。これは、棟梁に切ってもらった。造園とリフォームをやっていたんだけど、棟梁がまた、問題のある人で、俺がたのんでないことをやってしまう。けど、この竹を切ったのは、俺が言った通りに切ってくれた。で、竹を地面の高さで切ってもらった。でっ、棟梁が遠いところに住んでいて、小回りがきかないので、ほかのリフォーム業者に頼もうと思って、見積もりをしてもらうためにきてもらった。その人を、見積もりマンと言っておこう。見積もりマンがドアのところに立ったとき、蚊が押し寄せてきて、見積もりマンのことを刺したみたいなたんだよ。でっ、ともかく、見積もりマンが「竹は切ったほうがいいですよ」「蚊に刺されっちゃった」と言ったわけ。蚊に刺されたのは本当に申し訳ないのだけど、「俺に言わないでくれ」というのが、本音だ。これ、もう、書いたことだから、省略、中略してして言うけど、見積もりマンが言ってきたことは、俺やおかあさんが何十年も親父に言ってきたことなんだよ。そのたびに、親父が「なんだそんなの」と怒り狂って、こっちが言ったようには、やってくれなかったんだよ。何十年も一貫して(毎日毎日)そういう態度なんだよ。
俺は、棟梁に一六万円払って、ドアの前のところ……ドアの向かい側のところの竹や植物を切ってもらったんだよ。だから、見積もりマンがきたときは、おやじがにゅういんするまえよりもずっとずっとずっと、減っているんだよ。はっきりと言って、ほんとうに、見積もりマンには悪いことをしたと思う。蚊に刺されたのは気の毒だ。「配達の人かと、文句を言わないんですか」と見積もりマンが俺に言った。俺は、文句を言われたことはない。だから、「僕は文句を言われたことはありません」と言ったら「みんな、文句を言いたいと思ってますよ」というようなことを見積もりマンが俺に言ってきた。だから、それは、俺やおかあさんが、親父に言ってきたことなんだよね。親父が何十年も無視したことなんだよね。ともかく、きちがい家族と、普通の人のあいだに入って、きちがい家族にやられている人(家族の一員)が普通の人から、へんな風に思われて、文句を言われるんだよ。普通の人はまったくわかってないけど、こういう状態が常に成り立つ。普通の人は普通に考えるから、きちがい家族の反応がわかってない。そして、普通の人が普通に思っていることは、やられているほうの家族が、きちがい家族に行ってきたことなんだよ。これ、俺が、見積もりマンに申し訳ないような気がするわけ。見積もりマンの不満というのは、俺やおかあさんがずっと持ってきた不満なんだよ。自転車を出すたびに四カ所ぐらい、蚊に刺されるんだよ。自転車をしまうときも4カ所ぐらい蚊に刺されるんだよ。「木を切ってくれ」と(こっちが親父に)言ったって、きちがい親父は、木を切ってくれと言ってきた人の気持ちをまったく無視して、「なんだ!!」とおこってふてくされるわけ。「蚊に刺される」と(こっちが親父に)言ったって、「なんだ!!そんなの!」とおこってふてくされるわけ。こっちが蚊に刺されたって、親父がおこっておしまいなんだよ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音も、まったくおなじなんだよ。反応がおなじなんだよ。まったく、気にしない。
ぼくは、どうしても、不愉快に感じるのである。
いま、横の幼稚園で工事をしていて、かなりうるさいのだけど、勉強は、できる。宿題をやる都市ではないけど、宿題があればできるだろう。けど、きちがい兄貴の騒音だと、できない。できないんだよ。頭がこんがらがる。さらに、きちがいヘビメタ騒音のせいで、ほんとうに、試験中も、ヘビメタ騒音を聞かされているような感じで、頭が混乱するときがある。もう、雰囲気として、あるんだよ。あまりにも長く、やられすぎた。そして、きちがい兄貴のような間隔をもっている家族がいない人には、わからないことなのである。きちがい兄貴のような間隔をもっている家族がいない人は、自分の人生のなかで、きちがい家族に、しつこくやられるということがない。きちがい家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な騒音を鳴らし続けてしまうということが、人生のなかで、十数年間にわたって毎日発生するということがない。そうなると、自分は実際には経験してないのだから「勉強することができない」「宿題をすることができない」「どうしても、影響をうけて遅刻をしてしまう」と言われたって、自分の経験にはないことなのだから、認めないのである。自分だったら、「できる」と思って、「できるのにいいわけをしている」「やりたくないから、ヘビメタ騒音のせいにしている」と言ってくる。その人たちが、俺に言ってくる。そうしたら、実際には、できないわけだから……すくなくても、ぼくには……きちがい家族がきちがい的な感覚で、異常にでかい音を鳴らしている場合であって、なおかつ、その音がヘビメタと言われている音楽に属する音である場合……できないのだから、不愉快な気持になるのである。その人たちは、別に、ぼくのことを不愉快な気持にさせてやろうと思って言っているわけではないのだけど、前提が「自分ならできる」というものだから、ぼくにとっての現実を無視したもになるのである。なので、ぼくは、どうしても、不愉快に感じるのである。この人たちに悪意がなくても、うちに帰って「宿題ができくなるからやめろ」とどれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父のようなきちがい感覚で、きちがい的なことだわりで、きちがい的な音をなら続けるので、「宿題ができない状態」がずっと鳴っている間続いてしまうのである。そうしているうちに、夜の一一時一一分になってしまうのである。宿題ができないまま、夜の一一時一一分になってしまう。
2024年11月18日月曜日
ギリケン問題 2
ギリケン問題のところで書いたけど、Cという能力値が六〇未満なら、アルファという仕事も、ベータという仕事もできないのである。まあ、Cという能力が〇だとしたら、ほかの能力がどれだけ高くても、Cを含んでいる仕事はできない。
「できると言えばできる」とか「できないと言うからできないのだ」とかと、アホなことを言うな。これ、どれだけアホな発言か、言っているやつらが理解してない。
けど、この問題に関しては、言霊の問題として、別のところで論じたので、今回は、この辺にしておこう。
話をもどす。たとえば、Cという能力が通勤する能力だとすると、通勤する能力がゼロだと、通勤が必要な仕事は全部、できないということになる。
なので、ヘビメタ騒音の七年間で、睡眠回路を破壊されたぼくは、通勤する仕事ができないということになるのである。その場合、通勤が必要ではないような仕事があればよいのだけど、通勤が必要ではないような仕事というのが、当時はなかった。
あったとしても、ぼくにはアクセスできなかった。アクセスできるかどうかという問題もあるのだ。
太郎さんや花子さんだって、自分ができる仕事にアクセスできれば、仕事ができるけど、自分ができない仕事にしかアクセスできないなら、仕事ができないということになる。
こいつらの家族はまともな家族だから、そもそも、きちがい兄貴のような行動をしないのである
きちがい兄貴の騒音にやられている生活をしていると……常に毎日、きちがいヘビメタ騒音が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴っていると、どうしても、どうしても、睡眠障害になるのである。自律神経がおかしくなるのである。
これは、意志ではどうにもできることではないのである。そして、意志が発揮できる部分で、限界まで頑張るということになる。ところが、ほかの人たちからは、「さぼっているように見える」のである。ほんとうに、こういう世界だった。この世はこういう世界だった。さぼったいると思っている他者……赤の他人……きちがいヘビメタを鳴らしているわけではない他人は……「自分の意志でどうにでもできる」という前提でものを言ってくる。
これ、努力論とか、成功法則とか行動主義心理学とか認知行動療法とかは、くそでしかない。こいつらは、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない。
きちがい家族がどういう感覚で、鳴らすかわかってない。そして、きちがい家族が、ゆずらずに鳴らしきったあと、どういう自覚(自分が鳴らしていた音に関する自分の認識)をもっているか、まったくわかってない。
きちがい兄貴が普通の人であるという前提でものを言ってくる。その場合、前投稿とおなじように、能力不足なのはエイリだということになってしまうのである。
「自分なら意志の力でどうにかすることができるけど、エイリは自分の意志でどうすることもできない(劣った)やつだ」ということになってしまう。
あるいは、「意志の力でどうにかすることができるのに、エイリはできないと言って、努力しない人間だ」ということになってしまう。
こういう前提が、そいつの頭のなかに成り立ってしまうである。
けど、こいつらは、無意識的なレベルで、感覚器を書き換えるタイプの家族といっしょに暮らしたことがないのである。無意識的なレベルで、感覚器を書き換えるタイプの家族に、一秒もやらたれことがないのだ。
人生のなかで、一秒もやられたことがないのだ。
こいつらの家族はまともな家族だから、そもそも、きちがい兄貴のような行動をしないのである。だから、こいつらの場合は、きちがい兄貴がもたらすような問題が(家のなかで)生じないのである。これは、こいつらと、ぼくの意志力の差ではない。
ところが、自動的に「自分のほうがエイリよりすぐれている」と言うことになってしまうのである。自分なら、そういう状態でも、意志の力で、遅刻しないことができる。けど、エイリは自分のより意志の力が弱いのでできない」と思ってしまう。「自分なら、そういう状態でも、意志の力で、勉強することができる。けど、エイリは自分のより意志の力が弱いのでできない」と思ってしまう。
けど、こいつらは、きちがい家族といっしょに住んだことが、一秒もない。きちがい家族の行動でこまったことになったということが一回もない。きちがい家族が「やめてくれ」と言われたとき、どういう感覚で、どういう行動をするのか、まったくわかってない。そして、きちがい家族が行動をしたあと、きちがい家族のなかで自分(きちがい家族)が行動をしたことになってないということが、まったくわかってない。
交渉力のせいにするな
「お兄さんに言えばいい」「お兄さんと相談すればいい」と言うやつも、「自分なら、そのお兄さんを説得できる」と思っているんだよね。「自分なら、説得してしずかにさせることができる」という前提が、成り立ってしまう。「きちがい兄貴がきちがい的な感覚を持ってるからむりだ」と言っても、信じない。「きちがい兄貴がきちがい的な感覚を持ってるからむりだ」と言われたあとも「自分なら、話し合いで解決することができる」と思っている。だから、エイリさんより、交渉力があると思っている。エイリさんは、話し合いで解決できないけど、自分なら話し合いで解決できる」「お兄さんをしずかにさせることができる」と思っている。「自分なら説得してお兄さんをしずかにさせることができる」という前提で、ものを言ってくる。きちがい家族といっしょに住んだことがない人が、こういう前提で、実際にこまっている俺に、説教をする。「そんなのは、言えばいい」というのは、「そんなのは、言えばい解決するはずだ」と思っているということだ。きちがい兄貴が、きちがいで、きちがい感覚をもっているから、俺がほかの人からなめられる。こういうことが、いろいろなところで成り立つ。ちなみに、親父のことでもこれとおなじことが成り立っている。親父がきちがいだから言うことを聞かないのだけど、俺の説得力がないから親父さんが言うことを聞いてくれない」と思っているやつがいる。こいつらは、きちがい親父のことがわかってないだけだ。実際に、うちのなかで、きちがい親父がどういう行動をするかということがわかってないだけだ。きちがい親父がきちがい行動をするとき、きちがい親父が、自分の行動に関してきちがい的な認識をもっているということがわかってないだけだ。
交渉力のせいにするな。交渉力……エイリの交渉力の問題ではなくて、兄貴のきちがい感覚の問題なんだよ。エイリの交渉力の問題ではなくて、親父のきちがい感覚の問題なんだよ。
通勤して働けないからだに、なってるよ!!
うーー。この気分……。きちがいヘビメタをやられていたときと、まったくかわらないんだよなぁ。どれだけ、くるしい思いをしてきたか。きちがい兄貴といっしょに住んだことがないやつに、とやかく言われたくない。こいつらは、きちがい兄貴といっしょに住んだことがないから、きちがい兄貴の騒音にさらされた続けたことがないのに、「俺だって苦労した」のひとことで、同等の苦労をしたことにして、自分が動けるからだであることをほこる。自分が働けるからだであることを自慢する。こんなやつら、もし、ほんとうにおなじ体験をしたらとっくに、働けないからだになっているよ。学校だって、中退して、そのままになってるよ。俺は、通い続けただけえらいんだよ。しかし、その通い続けているとき……期間というのは、毎日、きちがいヘビメタが鳴っていた期間なのである。このきちがい兄貴が、ほんとうに、でかい音で鳴らしているのに、無意識的なレベルできちがいにしかできない書き換えをして、でかい音で鳴らしないということにしてしまうのである。きちがいだからできることなんだよ。異常な感覚の持ち主だからできることなんだよ。こういう家族と、いっしょに住んだことがないやつが、なにを言うか? けっきょく、経験してないからわかってないだけじゃないか。自分が通勤して働けるからだだからって、えらそうに……。おなじ経験をしたら、通勤して働けないからだに、なってるよ!!
2024年11月17日日曜日
受け止め方をかえればいいと思うのかな?
「受け止め方をかえればいい」と助言するやつが、俺の意見にあわせて「受け止め方」をかえてくれたことは、一度もない。ぼくの経験の範囲で言うと、一度もない。たとえば、自己責任論というのがはやっているけど、自己責任論を信じているやつがいるとする。正しいと思っているやつがいるとする。そして、そいつは、同時に「受け止め方をかえればいい」教の信者だとする。自分の意見として「受け止め方をかえればいいのだ」と思っているのだ。俺が、そいつに自己責任論というのはまちがっていると言ったとする。自分の受け止め方をかえればよいのだから、そいつは、いままで、自己責任論は正しいと思っていたけど、受け止め方をかえて、自己責任論はまちがっていると思えばよいわけだ。ところが、「自己責任論は正しい」と言いはる。受け止め方をかえるわけではない。たとえば、そいつが無職に対して偏見をもっているとする。俺が、そいつの無職に対する偏見には問題があると指摘したとする。そのとき、そいつは、「ああそうですか」と無職に対する受け止め方をかえるのかというと、かえないのだ。たとえばの話だけど、自分が俺の収入状態とまったく関係がないのに、「人間は働くべきだ」と思っているから、俺に対して、「働くこと」をすすめるやつがいるとする。言っておくけど、俺がこいつに対して「おカネを貸してくれ」とか「おカネをくれ」とかと言ったわけではない。ただ、こいつは、他人が無職でいることに対して、嫌悪感をもっているのだ。こいつは、「受け止め方をかえればいい」と思っているのだから、無職の人に対する受け止め方を、かえればよいのだ。ところが、無職の人に対する受け止め方を、かえないのだ。「受け止め方をかえよう」などとは思わないのだ。たとえば、そいつが、「遅刻をするやつは、悪いやつだ」と思っていたとする。俺が、「どうしようもない場合もある」と言ったとする。そいつが、遅刻をするやつに対する受け止め方をかえるのかというと、そうではないのだ。あいかわらず、遅刻をするやつは、悪いやつだと思っている。受け止め方をかえればいいと言っているやつは……特に、人にそうやって助言をするやつは、自分の受け止め方をかえないやつだ。人には「受け止め方をかえればいい」と助言するけど、自分は「受け止め方」をかえるつもりがまったくないのだ。
ぼくが生きてきたなかで、特に腹がたつやつは、ヘビメタ騒音に関して、ぼくが受け止め方をかえればいい」という意味で「受け止め方をかえればいい」と言ってきたやつだ。こいつは、なにもわかってない。こいつは、きちがい兄貴がどういう態度で、どういう感覚で、どういう音のでかさで、騒音を鳴らしているかまったくわかってない。どういう時間の長さ、ヘビメタを鳴らしているかまったくわかってない。どういう期間の長さヘビメタを鳴らしているかまったくわかってない。時間の長さと期間の長さと音のでかさは説明したのに、まったくわかってないのだ。そういう理解力だ。こいつも、自分なら「ヘビメタがものすごくでかい音で鳴っていたって平気だ」と思っている。実際に、ヘビメタなら大丈夫なのかもしれない。けど、自分が鳴らしたくないときに、他人が、ヘビメタを鳴らしていたらどうなのかな? 自分は、ヘビメタが好きだからだいじょうぶだと思っているかもしれないけど、自分がでかい音で聞きたくないときにヘビメタが鳴っていたらどうなのかな? あるいは、ヘビメタではなくて、自分が一番きらいな音が、鳴らしているやつの耳が悪くなるようなでかい音で鳴っていたらどうなのかな? 受け止め方をかえればいいと思うのかな? 実際に、自分が鳴らされて、頭にきているときは、「受け止め方をかえればいい」なんて思わないと……ぼくは思う。こいつらは、自分の場合は、「受け止め方をかえよう」とは思わず、他人の場合は「受け止め方をかえればいい」と思うやつらだ。自分にとって、おこる理由があきらかな場合は、おこるのである。受け止め方をかえるわけじゃない。自分が普段実践してないのに、人に言うときは、「自分はそうできる」という前提で、ものを言う。こういうやつらが多すぎる。
「自分なら影響をうけないことが可能だ」という前提でものを言うのは、やめろ。ヘビメタ騒音に関して、頭がわるいことを考えて、頭がわるいことを言うのはやめろ。ほとんど、無意識的に、「自分なら影響をうけない」と思っているだよな。俺に言うときは、そう思っている。けど、実際におなじことを家族にやられたら、影響をうけるということがわかるよ。経験がないから、わからないのだ。あるいは、想像力がないからわからないのだ。あるいは、うぬぼれ屋だからわからないのだ。
たとえば、AさんとBさんがいて、Aさんが「受け止め方をかえればいい」と人に説教をする人だとする。Bさんが「おまえは、うぬぼれ屋なんだよ」と、Aさんに言ったとする。Aさんは、自分はうぬぼれ屋だと思ってなかったとする。Aさんは、いままでの「自分はうぬぼれ屋ではない」という(自分に対する)受け止め方をかえて、自分はうぬぼれ屋だという(自分に対する)受け止め方を、受け入れるのだろうか? たいていの場合、受け入れないと思うよ。 根拠というのが必要なんだよ。自分のなかで、自分の経験に根差した「根拠」がある場合、ほかの人の意見にあわせて、受け止め方をかえるということは、ほとんどの場合、ない。
「受け止め方をかえればいい」と言う人は、ほんとうは、自分の意見をもてない人でなければならないのである。人から、別の意見を言われるたびに、それまであった自分の意見をかえるような人でなければならないのである。自分の意見というのが、あるようでない人だ。そのときの受け止め方というのは、自分の根拠によって成り立っているんだよ。それまでの経験にもとづいた判断基準によって成り立っているんだよ。その判断基準は、そんなに容易にはかえられないのである。ひとつの意見というのは、ひとつの意見だけで成り立っているわけではなくて、関連した意見と関係を保ちながら、自我のなかで成り立っているのである。まったく、まったく、わかってないなぁ。人から言われるたびに、意見が完全に、他人から言われたような意見になるというとはないんだよ。それだと、自我が成り立たないんだよ。自我が成り立っているということは、判断の総体が成り立っているということだ。ひとつ意見を言われるたびに、受け止め方がかわるということは、ひとつ意見を言われるたびに、すでに成り立っている判断の総体ががらっとかわるということなんだよ。すでに成り立っている判断の総体は、そんなに容易にはかわらない。「受け止め方をかえればいい」と言っているやつは、そこだけ器用に受け止め方をかえることができると思っているのだけど、それが、まずまちがいなんだよ。そして、自分が、普段、受け止め方をかえて生きているわけではないということに気がついてないということが問題なんだよ。
繰り返しになるけど、そのときすでに、判断の総体をもっているということは、一度に上書きできるような判断の総体をもっていないということを意味しているんだよ。だいたい「受け止め方をかえればいい」という意見を聞いたときだって、それまでにある自分の「判断の総体」と相談して、納得して、受け入れたんだよ。自分が即座に「ちがう」と思う意見を、納得して受け入れたわけじゃない。受け止め方をかえればいいというのは「自分が即座にちがう」と思う意見を自分の意見として受け入れるということを、含んでいる。ほかのもっとたいせつなことも、含んでいるのだけど、ともかく、意見という表面的なものですら、そうなのだ。なおさら、「たいせつなこと」を相手の判断の総体にあわせて、かえるなんてことはできない。「相手の行為や相手の意見にあわせて、自分の受け止め方をかえればいい」なんて意見は、まったく役に立たない意見なんだよ。自分の受け止め方をかえればいいなんて言っているやつらですら、普段は、そんなことは、絶対にしてない。これも、自分が普段絶対にしてないということに気がついてないから、自分は「なにか問題がしょうじたら自分の受け止め方をかえられる人間だ」と思っているのである。どこまで、うぬぼれ屋なんだ……。
* * *
たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、人殺しはよくないと考えているとする。そして、受け止め方をかえればいいと思っている人間だ。Bさんは、人殺しはいいことだと考えているとする。むしろ積極的にやるべきだと考えているとする。Cさんは、人殺しはよくないと考えているとする。Aさんが、Bさにあっているときは、Bさんにあわせて「人殺しはよくないことだ」という「人殺し」に関する受け止め方をかえることができるかというとかえられないのだ。けど、まあ、Aさんは「受け止め方をかえることができる人間だとする。受け止め方をかえることができるので、Bさんにあったあとは、「人殺しはいいことだ」ということを受け入れて、生活しているとする。そのあと、AさんがCさんにあったら、Cさんは「人殺しはよくない」と考えているので、Aさんは、Cさんにあわせて「人殺しはよくない」と受け止めるように、受け止め方をかえるのである。こういう人は、自我がないか、あるいは、ちょっと前の自我とちょっと後の自我がまったく関係なく、自我として存在しているような人なので、人間のありかたとしては、とても特殊だ。ぼくはあったことはないけどね。「受け止め方をかえればいい」と(人に)言う人は、じつは、頑固なやつが多い。宗教的な考え方に毒されているので、わりと強固な自我をもっていると言っていい。
総合的に言ってしまうと、人に「受け止め方をかえればいい」と言ってしまうような人は、自分の受け止め方をなかなかかえようとしない人なのである。かえる場合だってあると言うかもしれないけど、変える場合は、意見を、部分的に上書きしているだけだ。ようするに、それまでもっている自我の総体にあっているから、納得して、意見を、部分的に上書きしたのである。その場合は、自我の総体が、意見の書き換えをゆるしているのである。ようするに、トートロジーになってしまうけけど、納得して書き換えている。だから、こんどは受け止め方をかえればいいという意見はまちがっている」というぼくの意見には、したがわないのである。あるいは、したがわないようになるのである。受け止め方をかえて、ぼくの意見にあわせてくれるわけではない。何度も言うけど、「意見」ですらそうなんだよ。こういう音がいやだとかそういうことまで、受け止め方をかえられるわけがないだろ。「快」とか「不快」というのは、表面的な「意見」よりも、もっともっともっと深いところにある「意見」なんだよ。まあ、感じ方と言ってもいい。感じ方が、受け止め方を決定しているんだよ。感じ方の総体が受け止め方を決定していると言ってもいいか。あるいは、これを言ってしまうと、たしょうの問題がしょうじるかと思うけど、「感じ方」というのは「受け止め方」なんだよ。まあ、感じ方の一部が受け止め方を形成しているのか、あるいは、感じ方というのが受け止め方そのものなのかという問題は、横に置いておくと、表面的な意見ですら(それまでの自我の総体)にあわないものは、受け入れようとしないのに、感じ方という根本的な部分まで、容易に書き換えられると思うのは、どうかしている。相当に矛盾している。
きちがい家族は、相手にとっては透明なものだから、わからない
ご飯をつくって、食べて、片づけるというのが、案外、たいへんだ。片づけるところまで入れると、けっこうたいへんだ。だいたい、食べたあとは、動きたくない。
風呂も、けっこうたいへんだ。セルフネグレクト状態よりも、ちょっと向上した状態なんだけど、この状態ですら、維持がむずかしい。
不愉快な思い出がうかんでくるのだけど、それが、みんな、人間関係の思い出なのだ。もう、正直言って、つかれたなぁ。そのときは、そんなに気にしてなかったことまで、気になってくる。もう、いっぱい、いっぱい、不愉快なことがあった。これ、「家族起源」の不愉快なことなのである。起源が、家族なのである。家族がきちがい行為をするから、俺がほかの人ともめることになる。ほかの人といたくないという感情がしょうじる。そりゃ、ほかの人は、きちがい家族問題について、かなり誤解をしているからなぁ。デフォルトな状態で誤解をしているし、けっきょく、きちがい家族がいない人には、きちがい家族の問題なんてどれだけ説明してもわからないのだ。その人の常識で判断して、その判断をもとにいろいろな意見を言ってくるから、めんどうなことになる。これ、デフォルトな状態で誤解をしているということが、これまた、わからないのだ。認めない。きちがい家族がずれているのに、きちがい家族は、相手にとっては透明なものだから、わからない。
2024年11月16日土曜日
ほんとうに、腹がたつ
どんなくそボケ野郎でも、きちがいヘビメタ騒音がなかったら、俺にそういうことを言わない人間なのである。ほんとうに、腹がたつ。これ、ほんとうにゆるせない。きちがいヘビメタ騒音にやられて、能力をうしなったので、できなくなり、その結果、普通の人が、俺のことを見下すようになったので、俺にとって普通の人がくそボケ野郎になったのである。
「朝、眠りたいときがある」……ということは、だれだって経験したことがあることだ。だから、その人の経験の範囲で「自分だって、朝、眠りたいときはある」と考えしまうのである。けど、これがちがうんだよ。俺だって、きちがいヘビメタ騒音が鳴りはじめるまえにも、「朝、眠りたいとき」はあった。けど、ヘビメタ騒音がはじまってから一カ月経過したあとの「朝、眠りたいとき」の状態と、ヘビメタ騒音がはじまるまえの「朝、眠りたいとき」の状態が、まったくちがうのである。これは、ヘビメタ騒音生活を実際に一カ月経験しないとわからないことなんだよ。一か月間でもこたえたけど、それが、一年間、二年間とつみかさなった場合の、こたえかたは、尋常じゃないのである。そして、俺は、尋常じゃない状態でも、がんばって、とりあえず朝、起きて、舐くそのまま学校に通っていたのである。どうしても、どうしても、遅刻してしまうときがあったけど、それは、さぼっているのではなくて、きちがいヘビメタ騒音にやられて、遅刻してしまっただけだ。これがわからないんだよ。きちがいヘビメタ騒音生活をつづけたことがないやつらは、これがわからない。だから、自分のなかの「朝、眠りたいとき」の状態を考えて、俺に対して、侮辱的なことを言うことになる。けど、『侮辱的なことを言った』という気持がないのである。そりゃ、きちがいヘビメタ騒音生活を一年以上続けたことがないからだ。自分の人生のなかで、きちがい蛇目騒音相当の困難?がしょうじたことがないからだ。これ、どれだけ言っても、つたわらないのだけど、ぜんぜんちがうのである。ヘビメタ騒音がはじまるまえの「朝、眠りたい」状態とヘビメタ騒音がはじまってから一年間経過したときの「朝、眠りたい」状態がちがうのである。俺だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえの時期に、「朝、眠りたい」状態を経験した。みんな、この程度の「朝、眠りたい」状態を想定してものを言っているのである。 ヘビメタ騒音がはじまってから一年間経過したときの「朝、眠りたい」状態をまったく知らない人たちなのだ。その人たちが、俺に対して「あまえている」と言ってくる。どれだけくやしい気持ちになるか、まったくわかってないなぁ。そして、学校から帰って、きちがい兄貴に「眠れなくなって、遅刻するようになるからやめろ」「眠れなくなって、遅刻するようになるからやめろ」「眠れなくなって、遅刻するようになるからやめろ」「眠れなくなって、遅刻するようになるからやめろ」と直接、でかい声で言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがい的な顔をして、きちがいヘビメタを大音響で鳴らし続けるのである。殺さなかったらやめないのである。
ギリケン問題
ギリケン問題というのがある。ギリケンというのは「ギリギリ健常者」のことだ。健常者なのである。
けど、障害者並みに、ある分野のことができないのである。
ギリケン健常者の問題というのは、たいていの場合「労働できるかどうか」という問題になる。それ以外の分野では、たいして問題にならない。
日本労働教徒や努力論者というのは、成人の九割以上を占めるマジョリティーだ。定年退職して働いてない人間も、日本労働教徒であることには、かわりがないので、働いてないにもかかわらず、日本労働教の価値観をもっている。
とりあえず、一般労働教徒か、あるいは努力論者である者のことを「定型一般人」と呼ぶことにする。
定型一般人から見ると、障害者と健常者のあいだには、一本の太い線があり、両者はわけられていると考えている。だから、障碍者に求めることがちがってくる。障害者は障害者であるので、一般人であることは求めないのだ。一般人ならできることを、障害者には求めない。
けど、現実世界には、定型一般人が考えているようなはっきりとした線引きはない。
ひとくちに障害者といっても、障害の程度がちがうし、障害を抱える分野がちがう。ひとくちに障害者といっても、ほんとうにひとそれぞれに、状態がちがう。
そして、障害者かどうかというのは、医者が障碍者だと認めたかどうかということにかかっている。まあ、行政的に障害者なら、障害者であり、行政的に健常者なら健常者だということになる。
けど、「働く」ということのレベルがあがってしまったので、ギリギリ健常者でも、働けない場合があるのだ。ぎりぎり健常者の場合も、障害者とおなじように、ギリギリ健常者のなかで、障害の程度がちがう。それぞれのギリギリ健常者の障害の分野がちがう。この障害の分野というのは、相当に細かい分野だ。
そして、「仕事をする」ということになると、さまざまな分野がかかわることになる。ある仕事(アルファ)をするには、A、B、C、D、E、Fという能力が必要だとする。どの能力も、ある程度ないと、仕事ができないという状態になる。
ある程度というのを、とりあえず、六〇以上だとしておこう。たとえ、A、B、C、D、Eの各項目が八〇だとしても、Fという項目が三〇であれば、仕事ができないということになる。その仕事(アルファ)ができないということだ。
たとえば、花子さんはA八九、B九九、C八四、D九八、E七八、F三〇だとする。Fの能力以外は、高いので、定型一般人から見ると、仕事ができるように見えるのである。けど、Fの能力の低さが足をひっぱって、アルファという仕事ができない。
けど、A、B、C、D、Eの能力が必要な仕事はできるのである。この仕事をベータだとする。ベータという仕事に必要な能力は、A、B、C、D、Eの各値が六〇以上だとする。そうなると、Fという項目がないので、花子さんは、ベータという仕事なら、できるのである。だから、ある仕事アルファができない人も、ある仕事ベータならできるということになる。
しかし、たとえば、Cという能力が六〇未満の人は、アルファという仕事もベータという仕事もできないということになる。
たとえば、太郎という人がいたとする。太郎さんの各項目能力値がA八〇、B九〇、C四九、D八八、E九九、F八九だとしよう。太郎さんは、ある仕事アルファもできないし、ある仕事ベータもできないのである。どうしてかというと、Cの能力値が低すぎるからだ。
しかし、A八〇、B九〇、D八八、E九九、F八九とCの能力をぬかした数値は高いので、定型一般人は、太郎さんは障害者ではなく、健常者だと判断するだろう。むしろ普通の人よりも能力が高いのだから、仕事ができると判断するだろう。
しかし、太郎さんは、Cの能力が低いのでアルファという仕事もベータという仕事もできない。
このように、健常者と障害者のあいだには、一本線であるような区分線はないということになる。
しかし、定型一般人が「他者」を見るとき、どのようなことが起こるかというと、健常者と障害者という区別をして、他者を見るのである。
健常者なら、仕事ができると考えて、障害者なら仕事ができなくてもしかたがないと考えるのだ。障害者が仕事をする場合は、特殊なサポートが必要になるということも、うけとめることができる。
しかし、健常者が仕事をする場合は、特殊なサポートが必要ではないと考えるのである。健常者なのに、できないのであれば、定型一般人はその健常者が、あまえた健常者だと思うだけだ。
健常者なら、特殊なサポートなしで、仕事ができてあたりまえなのである。
他人の特定分野の障害なんて、気にしていられないというのが実情だろう。
仕事によって、求められる能力の組み合わせがちがうということや、人によって各分野の能力にばらつきがあるというようなことは無視してしまうのである。
ようするに、一本の直線的な区分線があると考えてしまうのである。だから、能力項目によって、デコボコになるような区分線は考えてない。
そしてさらに、定型一般人のなかには、ギリギリ健常者という区分領域がない。
なので、定型一般人は、ギリギリ健常者を健常者とみなすのである。そうなると、定型一般人は、「健常者なのだから仕事ができてあたりまえだ」と考えるのである。
定型一般人から見ると、ギリギリ健常者は「仕事ができるのに、仕事ができないと言って、あまえている人だ」ということになるのである。
「宿題」から、「無職」まで、ずっとおなじことが成り立っている
「宿題」から、「無職」まで、ずっとおなじことが成り立っている。この場合の「宿題」というのは「宿題ができないこと」であり、この場合の「無職」というのは「働くことができないこと」である。ずっとずっと、おなじことが成り立っている。
普通の人……九割以上の人が、無理解ぶりを発揮した発言をすることになっている。九割以上の人が「ちゃんと言えばつたわる」「そんなのは関係がない」と言うことになっている。九割以上の人が「自分ならできる」と思って、できないエイリにくらべて優越感を感じるようになっている。
九割の以上の人が、じつは、きちがい家族にやられたことがないのに、きちがい家族にやられたことがあるという前提でものを言ってくるようになる。九割以上の人が「自分だって苦労した」と「同等の苦労をした」という前提でものを言ってくるようになっている。
けど、その人たちは、きちがい家族にやられたことがないのである。どうしてかというと、きちがい家族といっしょに住んだことがないからだ。きちがい家族といっしょに住んだことがないなら、一秒もきちがい家族にやられてないということになる。
きちがい家族が、どんな感覚で、どんな意地で、きちがい行為をやるかまったくわかってない。
きちがい家族が、きちがいモードで、きちがい行為をしたら影響をうけるのだけど、影響をうけたことが(実際には、一秒もない)人が「自分だっら影響をうけない」という前提で、「鳴ってたって、できる」と言ってくる。「自分だっら影響をうけない」という前提で、「そんなのは関係がない」「そんなのはあまえだ」と言ってくる。
* * *
普通の家族が鳴らす騒音なら、経験したことがあるかもしれないけど、きちがい家族が鳴らす騒音は経験したことがないのである。普通の家族がやる「いやなこと」「頭にくること」は経験したことがあるけど、きちがい家族がやる「いやなこと」「頭にくること」は経験したことがないのである。
どんな感覚で、やっているかまるでわかってない。どんな感覚できちがい家族がやるか、まったくわかってない。やったあと、どういう記憶が成り立っているのか、まったく買ってない。きちがい家族がやったあと、きちがい家族のなかで、どういう記憶が成り立っているのか、(普通の人は)まったくわかってない。わかってないのだ。
きちがい家族にやられると、バカに、なめられる。
そりゃ、気ちがいじゃなければ、ものすごくでかい音で鳴らしているということがわかるのに、まったくわかってないというところがむかつくだろ。普通の人なら、絶対に、どれだけ、いや性格の人も、聴覚が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるのに、それが、すっぽりわからないなんて、おかしいだろ。ズルを、ズルと承知でやっているのではなくて、ズルを、ズルだとわからずにやっている状態だ。こんなのは、人をバカにしている。頭にくる。きちがい的ないいわけだ。正常な人なら、どれだけやろうと思っても、できないことなんだよ。正常ない人なら、どれだけ、自分が(でかい音で鳴らしてない)と思いたいことでも、(でかい音で鳴らしている)ということがわかってしまう。正常なら絶対にわかることなんだよ。きちがい兄貴が、こういうところで、正面からズルをやって、まったく気がつかない状態だから、俺が、ほかの人から誤解されるんだよ。
「そいつ」だって、おなじことをやられたら、宿題ができなくなるのに、「自分だったら、どれだけ鳴ってたって宿題ができる」という前提で「ヘビメタ騒音なんてそんなのは、関係がない」と言ってくるんだよ。言霊主義者なら、「自分だったら、どれだけ鳴ってたって宿題ができる」という前提で「できないと言うからできないんだ」と言ってくるんだよ。「お兄さんの騒音が鳴っているから宿題ができないなんて、そんなのはいいわけだ」「お兄さんの騒音が鳴っているから、宿題ができないなんて、そんなのはあまえだ」と言ってくるんだよ。おなじことが、遅刻にも成り立つ。ほんとうに、きちがいヘビメタにさらされていると、……きちがい家族が、あの態度で鳴らし続ける。きちがい騒音にさらされ続けると、ほんとうに、眠れなくなるのに、眠れなくなるということが、経験的にわかってないやつが「自分だったら眠れる」と思って、「騒音が鳴ってたから、遅刻してしまうなんてことはない」と言ってくるんだよ。
こいつらは、経験してないからわかってないだけなのに……やられているときの状態や、やられたあとの状態がわかってないだけなのに、「自分なら影響をうけない」という前提で、「できないこと」を言ってくる。こいつらには、きちがい家族がいないので、実際には、経験してないのである。だから「できなくなる」ということがわかってない。実際にやられてないのである。けど、「自分だって騒音ぐらい経験したことがある」「自分だって困難を経験した」と言って、「できないこと」を言ってくる。
こんな無理解ぶりを発揮するやつらと、いっしょにいておもしろいわけがないだろ。こいつらは、ダメなエイリに、正しいことを言ってやったと思っている。どうして、ダメなエイリということになるかというと、たとえば、宿題をやってこなかったり、遅刻をしたりするからだ。けど、こいつらには、きちがい的な家族がいないので、きちがい的な家族が鳴らす騒音というものを経験してない。
* * *
言霊主義者は、「できないと言うからできない」とアホなことを言いだすけど、「ヘビメタ騒音が鳴っているから」できないんだよ。こいつらは、いつも「理由をまちがう」のである。けど、じゃあ、言霊主義者に「理論的にまちがっている」ということを説明しても、わかってくれないのである。こいつらはこいつらで、きちがい兄貴のように、認めないのである。
午後十一時ぐらいに眠ることだって、きちがいヘビメタ騒音が鳴ってければ、普通にできたことなんだよ。そして、ヘビメタ騒音が鳴ったから……現実世界で実際にヘビメタ騒音が鳴ったから、眠れなくなったんだよ。適切な時間に睡眠をとることができなくなったんだよ。適切な時間に睡眠をとることができなくなったあとに、遅刻をしているんだよ。そして、遅刻をしたから、「どうして遅刻をしたのだ?」と訊かれたので、「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、遅刻をした」と正直にこたえているんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っていたへから、眠れなくなったんだよ。「眠れない」と言ったから、眠れなくなったわけじゃないんだよ。ヘビメタ騒音が鳴ってたから、興奮した状態になって、眠れないんだよ。適切な時間に眠れなくなったんだよ。
きちがいにやられて、バカにバカにされる。バカは、自分だ正しいことを言ったと思っている。きちがい家族にやられると、バカに、なめられる。
2024年11月15日金曜日
同等の苦労じゃない
「騒音」というのが、だれでも、少しは経験したことがあることなので、「やっかい」なのである。
だれも、きちがい家族が、きちがい感覚で鳴らす騒音に、十五年間もさらされてないのに、「自分だって、騒音ぐらいあった」と言えば、「自分だって、エイリとおなじ騒音を経験した」ということになってしまうのである。
その人たちは、みんな、兄貴のようなタイプの、きちがい家族とは、いっしょの家に住んでない。いっしょに生活したことがない。
一年だってないのだ。
そういうやつが、十五年間、さらされ続けた俺に対して、くそを言う。まちがったことを言う。まちがった前提で、まちがったことを言う。
「自分だって、同等の騒音を経験した」という前提で、「鳴ってたって、できる」と言う。ちがう。
おなじように、「自分だって同等の苦労をした」という前提で「そんなのは関係がない」ということを言う。ちがう。
同等の苦労じゃない。
自分が働いていれば「同等の苦労をした自分だって働いているのだから、エイリさんだって働ける」ということになる。
ところが、同等の苦労なんてしないのだ。
きちがい家族といっしょに住んだ数十年間の記憶がないのだ。きちがい家族といっしょに住んでいるからこそしょうじる、いろいろな出来事を、数十年ぶん、経験してないのだ。
ちがうじゃないか。
「自分だったらできる」という前提で、ものを言われることになる。
わかいころのことを思い出すと、どのシーンもヘビメタ騒音でつらいシーンだ。これ、影響、ある。ヘビメタが鳴ってない時間もあるのだけど、ヘビメタが鳴ってない時間も、ヘビメタにうばわれているようなものだ。
そりゃ、そうだろ。
なんで、数千日も鳴っているのに、影響をうけないんだよ。
たとえば、平日、午後四時から午後一一時一〇分まで鳴ってたとする。午後四時から、午後五時までの一時間だって、地獄なんだよ。
あの悶絶がわかるか。
全部、時間をとられてしまっているんだぞ。
午後四時から午後五時までの一時間どころか、午後四時から午後四時一〇分までの一〇分間だって、鳴っているのが決まっているのだから、くるしい。途中で、やめてくれない。どれだけ言っても、やめないし、ヘッドホンをつけない。そのまま、きちがい的な意地で鳴らす。
そうなると、俺が俺の部屋でずっとくるしむことが決定してしまうことになる。
たとえば、宿題ができないとか勉強ができないとかと言ってきたけど、その時間は、ただ単に宿題ができない時間とか勉強ができない時間であるわけではない。くるしい。きちがい騒音でからだが揺さぶられてくるしい。
脳みそがなぐられ続けて、くるしい。
くるしい。
とにもかくにも、くるしい時間だ。宿
題ができないだけではなくて、くるしい時間なんだよ。マイナスの時間なんだよ。
どれだけポジティブに考えても、ネガティブな時間なんだよ。
このときの、副交感神経、交感神経の状態が尋常じゃない。その副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。一時間鳴っているのであれば、一時間、副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。
耳栓をしたり、耳を手でふさいだぐらいじゃ、「ほとんど、かわりがない」状態で鳴っているのである。耳栓をしたり、耳を手でふさいでも、「ものすごい音で鳴っている」状態がかわらない。きちがい騒音の影響をうけている状態がかわらない。脳みそを、がんがんたたかれている状態がかわらない。勉強ができない状態がかわらない。宿題ができない状態がかわらない。副交感神経、交感神経の異常な状態が、続く。
七時間やられれば、七時間やられたので、影響が残る。
七時間目に、鳴りやんだとしよう。眠れるかというと眠れない。そして、七時間目に鳴りやんだから、宿題ができるかと言うとできないのである。七時間目にはボロボロの状態になっている。そして、副交感神経、交感神経……自律神経のことなんだけど、自律神経を自由に、自分の意志で制御できるかというと制御できない。
きちがい兄貴の態度が問題だ。そして、ほんとうに、絶え間のない音の連続で、神経がつかれるのである。どうしたって、無視できない音が鳴っているのだから、どうしたって影響をうける。実際に鳴っているので、空気の振動も固体振動もある。
空気の振動も固体振動も事実なので、身体が床などのものにふれていれば、意識していなくても、固体振動の影響をうける。長い間、とてつもなく不愉快な、神経を興奮させるような振動が続けば、どうしたって、影響をうける。
固体振動だけではなくて、耳のまわりも頭のまわりも、空気が、きちがいの、くそうるさい騒音にあわせて振動しているのだから、振動につつまれているようなものなのである。
実際に、空気に包まれているか、実際に空気に包まれていないかは、物理的な環境のちがいだ。その物理的な環境のちがいを無視して、振動の空気につつまれていない人間が、振動の空気に包まれている人間に「ヘビメタ騒音なんて、関係ない」と言うのだ。「鳴ってたって関係がない」と言うのだ。
自分は、鳴っていても、影響をうけないという前提でものを言う。
ものすごく、むかつく。
実際に経験してない人間が、実際に経験してないから、わからないことについて、絶対の自信をもってものを言っているのだ。そして、この文脈では「影響をうけないほう」が絶対的にすぐれているのである。
相対的にすぐれているわけだけど、そいつのなかでは、絶対にすぐれているということになっている。
だから、実際にはきちがい家族やられてない人間が、実際にきちがい家族にやられている人間に対して、「自分だったら影響をうけない」という前提で「自分だったらできる」ということを言うのだ。
さらに、言霊主義者だったら「できると言えばできる」と言う。
これも、そういう発言をした言霊主義者は、別にきちがい的な感覚を持つ家族といっしょに住んでいるわけではなく、きちがい的な感覚をもっている家族が、きちがい的な意地でずっとずっとずっと鳴らす騒音にさらされているわけではないのだ。
「影響をうけないことは可能だ」というのは経験がないから、言っているだけのことだ。
経験がないから、想像できず、もとから「うぬぼれ屋」なので、「自分ならできる」と思ってしまうのである。
だから、きちがいにやられて、バカにバカにされるということになる。きちがいにやられて、能力的には俺よりおとる凡人に、「自分だったらできる」という前提で、ものを言われることになる。
けど、なんか、いやなんだよな。
「できると言えばできる」なんて、どれだけひどい発言か、わからないのか?
「できると言えばできる」なんて、相手の条件を無視した発言なんだよ。相手が経験してきたことで、できなくなっているのに、その相手に「できると言えばできる」と言う。
これがどれだけ、アホなことか、言霊主義者はまったくわかってないなぁ。
この、「わかってなさ」は兄貴の「わかってなさ」や、おやじの「わかってなさ」に、つうじるものがある。
そりゃ、こいつらが、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしたわけではない。こいつらが、俺に関係があることで、きちがい的な意地できちがい行為をしたわけではない。
それは、わかっている。
迷惑行為の主体者ではない。
「できると言えばできる」という発言以外、俺に不愉快な思いをさせてない。きちがい兄貴がやったこと、きちがい親父がやったこと、見ず知らずの言霊主義者がやったことは、それぞれ、ちがう。
ちがう。
言霊主義者は、自己中心的で、妄想的な考え方をもっているので、「相手の現実」を否定しているだけだ。そんなのは、きちがい兄貴がやったことや、きちがい親父がやったことにくらべれば、まったく問題にならないレベルのことだ。
けど、なんか、いやなんだよな。
2024年11月11日月曜日
どんだけ、俺にとって不利なシステムか?
ほんとうに、ろくでもないやつばかりだったなぁ。彼ら、彼女らの想像力というのは、非常に限られていて、俺が状態を説明しても、状態がわからない。
ヘビメタ騒音について語っても、「騒音が鳴ってたんだな」というレベルの理解力しかない。
それなら、「騒音」だから、「俺だって経験がある」ということになる。「騒音」だから「わたしだって、経験がある」ということになる。
そして、そのわずかな騒音について考えて、「自分だったら、そんなのは影響をうけないことが可能だ」……と思う。そういうレベルの理解力しかない。
彼ら、彼女らが思い浮かべる騒音と、きちがい家族による騒音はちがう。スイッチが入っているきちがい家族による騒音は過酷だ。どんな騒音よりも過酷だ。
そして、おなじ家に住んでいるから、影響をうけないですませるということができない。
けど、こいつらの想像力だと、「自分なら、そんなのが鳴ってたって、勉強ぐらいできる」「勉強ができないなんて、あまえだ」と思うわけだよ。自動的にそう思って、確信してしまう。
どんだけ、俺にとって不利なシステムか?
こいつらは、みんな、きちがい家族と一緒すんでいるわけではない。感覚器を書き換えて、きちがい的なことだわりで、すべての使える時間、フルの音で思いっきり鳴らし続けるきちがい家族と一緒に住んでいるわけではない。
一緒に住んでいないから、影響をうけない。
一緒に住んでいないから、影響をうけないだけなのに、「自分なら、平気だ」と思ってしまう。
「騒音が鳴ってたんだな」というレベルの理解の「騒音」と実際に俺の部屋で鳴っていた騒音は、レベルがちがう。
影響力がちがう。
こいつらが、バカだから、わからない。こいつらに、同等の経験がないからわからない。
どれだけきついかわかってないだけの話なのに、えらそうなんだよ!!
きちがい家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な感覚で、きちがい騒音を鳴らし続けると、俺がほかの人から、誤解をうけるようになっているのである。
そういうシステムなのである。
こういう家族といっしょに住んでいなければ、こういう家族にやられることもないのである
ほんとうに、教室で恥をかいた、いいわけがない。特に、高校入試でおちまくっているとき、恥をかいた。いいわけがない。あいつは、入試の一日まえだろうが、二週間前だろうが、自分が鳴らしたいと音で鳴らしていた。自分が鳴らしたい時間は、自分が鳴らしたい音で鳴らしていた。一三時間鳴らせるなら、一三時間、思いっきり鳴らした。どれだけ言われても、俺がこまっているということがわからない。わからなければ「知らなかった」ということになる。数十年後にわかったことだけど、ほんとうに「知らなかった」と言いやがったのである。「ぜんぜん気がつかなかった」と言いがったのである。もう、そのときは、ヘビメタに対する興味が失せて、別に思いっきり鳴らしたいと思っていないから、ゆずる必要がないわけ。ゆずる必要がないから、「気がつかなかった」「知らなかった」と言ってすっとぼけている。もちろん、すっとぼけているつもりがない。きちがいとしか言いようがない状態なんだよ。どれだけ、俺が「こまるからやめてくれ」と真剣に言ったか、わかってない。普通の人間なら、こんなでかい音で、入試前に鳴ってたらこまるだろうな」ということが、「言われなくても」わかるものだ。ところが、自分が思いっきり、鳴らしたいという気持があると、どれだけ言われても、わからなくなってしまうのだ。これが無意識的な過程だから、意識的には、特にいじわるなことをしているつもりがないのである。いじわるなことをしているつもりがないのに、しらばっくれて、自分のやりたいことを、すべて満たして、それで、迷惑をかけたと思ってない状態になる。こまるんだよ。自分のやりたいことを、すべて満たして、がめつく、まったくゆずらずに鳴らしたのに、鳴らしてないつもりなんだよ。こっちに対する気持ちが、鳴らしてない時とおなじなんだよ。ようするに、自分が頑固に鳴らしたことは、意識のなかから抜けているのである。これがこまるんだよ。きちがい兄貴はきちがい親父とまったくおなじだ。これに関してまったくおなじなんだよ。こういう家族がいない人には、まったくわからないことだ。そして、実際にこういう家族といっしょに住んでいなければ、こういう家族にやられることもないのである。
俺とおなじ量、「昨日」きちがいヘビメタをやらななかったやつが……一分もきちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音にさらされなかったやつが、「そんなのは関係がない」「ヘビメタなんて関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「そんなの影響がない」と言いやがる。自分が俺とおなじ目にあってないから、言えることだ。自分が実際に、ヘビメタ騒音に長時間さらされてないから、言えることだ。ところが、自分がすぐれているということになってしまうのである。自分だったら、鳴らされていても、影響が残らないと思っているのである。「過去は関係がない」と言う俺……かっこいいと思っているのである。
自分の嫌いな音に、あの至近距離で、あの音のでかさで、さらされていたら、まったく眠れない状態になり、次の日に影響がでる。実際に鳴らされてないから、自分には影響がない。だから、「そんなの影響がない」と言う。自分だったら、鳴らされていたって、宿題ぐらいできると思って、「そんなの関係がない」と言う。
こういうやつばかりだったよ。
2024年11月10日日曜日
「さぼっている」とか「あまえている」と、どれだけ言われたかわからない
この、毎日勉強することができないというのが、ものすごく、こたえた。これ、経験した人じゃないわからないと思う。名誉、だださがり。バカにバカにされるようになる。だから、やめてくれと何回も言ったのに、きちがい家族が、まったく気にしないで、自分がやりたい分は絶対にやってゆずらないという態度で、「よそのうちではありえない」「ものすごい音で」鳴らし続ける。しかも、本人は、そういうことをして迷惑をかけているつもりがまったくないのである。俺の勉強の邪魔をしているというつもりがまったくない。これは、何万回・直接、もろに言われても、わからないんだよ。「なんとなくいやなことを言われた」という気持しかなくて、実際に「自分の音で、弟が勉強ができなくてこまっているんだな」というような理解にすすまない。進まなければすすまないんだよ。自分が、ほんとうに、少しでも、がまんしなければならないのは、絶対にいやだから、がまんしなければならなくなるようなことは、言われたあとも、「なにかいやなことを言われた」というようなあいまいな理解にとどまって、「自分の音で、弟が勉強ができなくてこまっているんだな」というような理解にすすまない。理解できないまま、「しずかにしてくれ」という内容を言われたら、発狂してはねのけておしまいだった。みんなの家では、こういう家族がいないわけだから、経験したことはないんだよ。「騒音ぐらい俺だってあった」と言ったって、音のでかさ、音の質、音の持続時間、騒音の持続期間がちがう。毎日、あんな音でやられていいわけがない。毎日あんな音のでかさで、家族が、鳴らしているうちなんてないんだよ。
* * *
それこら、これをずっとやられると、……十一歳からやられると、どうしても、十八歳のときには、通学通勤が普通にできないからだになる。そういうからだになることは、「必然」なんだけど、きちがい家族がいないうちではわからない。きちがい家族がきちがい的な感覚で、きちがい的な音をならているうちの人じゃないと、実際にやられたことがないから、「必然性」がわからない。そうなると、……よそから見ると、俺がさぼっているように見えるのだ。実際、「さぼっている」とか「あまえている」と、どれだけ言われたかわからない。そいつらに、ヘビメタ騒音の話をしても、「そんなのは関係がない」と言って、関係性を認めないんだよ。「影響がない」と言いやがる。「鳴り終わったら関係がない」と言う場合だって、一日のなかで鳴り終わったら関係がないという場合と、人生のなかで鳴り終わったら関係がないという場合がある。けど、こんなの、十一歳から十八歳まで、毎日、日曜日も含めて、どんな大切な日も、きちがいヘビメタが一秒も鳴りやまなかったということが、関係ないわけがないのである。影響をあたえないわけがないのである。現在に影響をあたえないわけがない。ところが、「関係がない」「影響がない」と言うやつは、「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいあった」と言えば、それで、自分も、おなじ量の騒音を経験したということにしてしまう。経験したけど、「俺は通っている」「俺は働いている」という自負がある。この自負はまちがった自負なんだけど、本人には、そんなこと、どれだけ言ったってわからないだろう。実際、「それはまちがった自負なんだ」ということを言ったところで、ちゃんと理解してくれたやつなんて、人生のなかで一人もいないぞ。基本、「関係がない」「影響がない」「さぼっている」「あまえている」ということを言うやつは、その意見をかえることがないのである。ヘビメタ騒音のことを説明しても、意見がかわらない。こんなくそバカにバカにされなければならなくなる。どれだけ、くやしいか。きちがいヘビメタが鳴っている状態というのがわからないのだ。そして、きちがいヘビメタと言ったけど、ヘビメタが好きなやつは、さらに、ぼくに対して、嫌悪感をもつようになっている。ヘビメタというのは、ぼくにとっては、特に苦手な音を詰め合わせたような音楽分野なんだよ。そりゃ、ヘビメタが好きなやつは、思いっきりでかい音でヘビメタを鳴らせば気持ちがいいと思うわけで、ぼくの感じ方とはちがう。けど、そいつらだって、苦手な音はあるんだよ。苦手な音があの音のでかさで、あの至近距離で、ドカスカ鳴っていていいわけがない。ほんとうに、意識的なレベルではなくて、無意識的なレベルで体感している振動もある。あの音のなかで、まともに勉強することはどうしてもできないんだよ。そして、これが肝要なところだけど、きちがい兄貴は、しずかな音で鳴らしているつもりだったかもしれないけど、異常にでかい音で鳴らしている。ヘビメタが好きな、兄貴のともだちがきたとき、その兄貴のともだちが「こんな音で鳴らしてだいじょうぶなの」と兄貴に訊いたぐらいだ。これ、ヘビメタが好きな人にとっても、でかい音なんだよ。その兄貴の友達は「こんなにでかい音で鳴らしたことはない」と言ったんだよ。もちろん、自分のうちで鳴らすとき「こんなにでかい音で鳴らすことはない」という意味だ。ちょっとだけ言っておくと、「そんなにでかい音で鳴らしているのに、親が文句を言わないのはおかしい」と思っているやつがいるかもしれないけど、親は、普通の親父ゃないんだよ。母親の言うことは、兄貴は聞かないし、きちがい親父は、きちがいだから、きちがいヘビメタを鳴らすことをうしろから支援するような態度で暮らしていたんだよ。
2024年11月8日金曜日
ぼくと同等の経験をしてボロボロになっている人
ぼくと同等の経験をしてボロボロになっている人は「関係ない」なんて言わない。そりゃ、わかっているから言わない。「関係ない」なんて言うやつは、わかってないから「関係ない」と言える。わかってないのがバレバレだ。ぼくと同等の経験がないのは、バレバレだ。ところが、本人は……ほんとうに、みんな、みんな、「俺だって苦労した」「わたしだって苦労した」と言うのだ。いやーー。「関係ない」なんて言える程度の苦労なんだろ。
立派に働いている立場で「俺だって苦労した」と言って「働くことをすすめるやつ」は、まったくなにもわかってない。ぼくと同等の経験をした人は、みんな、ボロボロになって、過去の出来事が現在に影響をあたえている状態だから、そんなことは、クチがさけても言わない。本人自体が、言える立場じゃないのである。程度のちがいというのがどこまでもどこまでも、わかってないやつばかりだった。この世は、そういうやつばかりだった。たまに、ぼくと同等の苦労をしてないけど、「それならしかたがないなぁ」と言う人いた。けど、こういうことを言う人は、ほんとうに少数なのである。少数の例外をのぞいて、みんな「自分だって苦労した」と言って「そんなのは関係がない」と言いやがった。
* * *
きちがいヘビメタ騒音の十数年間毎日を、いきなり、全否定。きちがいヘビメタ騒音・十数年間毎日の影響を、いきなり、全否定。影響がないはずないだろ。関係がないはずないだろ。全否定されて、くやし涙が出るほど、腹がたつ。あの毎日の影響を、否定するな。影響はある。過去は関係がある。過去の出来事は現在に影響をあたえる。
いきなり、全否定するやつが、同等の経験をしているわけがない。ほんとうに、頭にくる。こいつらは、俺のことを見下しているので、自分が正しいことを言ったと思っている。自分が「いいこと」を言ったと思っている。「こういうことがわかってないエイリさんはだめだ」と思っている。こいつら、ほんとうに幼稚で、性格が悪い。
* * *
ほんとうに、ろくでもないやつが多かった。ろくでもないやつぱかっりだった。どうして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するんだ? どうしてだ? 経験がないからだろ。
2024年11月6日水曜日
だったら、ちがうよ
実際にきちがい家族によるしつこい騒音が鳴っていてれば、しつこい騒音が鳴っているということの影響をうける。実際にきちがい家族によるしつこい騒音が鳴っていたあとは、しつこい騒音が鳴っていたということの影響をうける。ヘビメタが鳴って、眠るべき時間に眠れなかったら、眠れなかったという出来事の影響をうける。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言って、「俺だって、苦労した」と言うやつがいるけど、そいつは、ほんとうに、俺とおなじことを経験して「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなると思っているのか?
苦労したと言うけど、その苦労は「楽しい楽しいと言えば」消えてしまうような苦労なのではないか? 苦労したと言うけど、その苦労の影響は「楽しい楽しいと言えば」消えてしまうような苦労の影響なのではないか? だったら、ちがうよ。「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならず、ものすごくつらい状態を何千回、何万回と経験したやつが「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うと思うか? 言うわけがない。
ゆずってやらなかったという認識が一切合切ない状態で生きている。
今日も、工事の音がうるさい。騒音がずっと鳴っている状態だと、どーーーーーしても、ヘビメタ騒音のことを思い出してしまう。からだの感じが、ヘビメタ騒音にさらされたときのからだの感じになる。
きちがいヘビメタ騒音なしで、普通にあの子とつきあいたかったなぁ。ヘビメタ騒音が鳴ってたら、うまくいかない。どれだけうまくいくはなしだって、うまくいかない。「無理」なんだよ。きちがいヘビメタ騒音が鳴っている状態で、女の子とつきあうのなんて無理だ。破局が見えている。これ、みんな、どういう状態で暮らしていたか、わかってないけど、とても、普通につきあえる状態じゃないのである。騒音のなかから出て行って、普通に接するということができない。騒音のなかから出て行って、普通の気持ちを維持するということができない。これ、普通の友達とあうときだってそうだった。親友とあうときだってそうだった。ともか、気持ちが普通じゃないのである。自分の気持ちは、ヘビメタ騒音のことで暗い。おこっていたり、不安になったりしている。どうしたって、ヘビメタ騒音をやられれば、きちがい兄貴に対する怒りがしょうじる。きちがい兄貴の態度は、これまた、どれだけ詳細に、ほかの人に語ったところで、ほかの人が理解できるものではない。ほかの人は、実際にやられているわけではないから……きちがい家族に毎日やられているわけではないから……同情してくれる人も含めて、ぼくが感じている現実的な状態というのは、とにもかくにも、わからない。家を出るときにヘビメタ騒音が鳴ってなかったとしても、前の日は鳴っているわけで、苦しみはおなじだ。からだのつかれが、とれないまま、家を出ることになる。そして、前の日、鳴っていたと書いたけど、前の前の日も、前の前の前の日も鳴っているわけだ。一〇〇日前も、一〇〇〇日前も鳴っているだ。あの子に会ったとき、二千数百日、日曜日も鳴っている状態で、ずっと、毎日鳴っていた。「そんなの、関係がない」とほかの人は言うけど、関係がある。どれだけ無視したって、鳴っていた。かりにデートをしたとして、帰ってきたらまた、ヘビメタ騒音にさらされるのだ。何時間も何時間もさらされることが決まっている。こんな状態で、人にあっても、半分は楽しくない。きちがいヘビメタ騒音が二千数百日前から鳴っていなかったら、楽しくデートできても、二千数百日前から鳴っていたら、楽しくない。楽しくても、不安と怒りをかかえた楽しさだ。前日までのつかれをかかえた楽しさだ。そして、「帰ったら、また鳴っている」「どれだけやめろと言っても鳴っている」と、帰るときに思うのだから、楽しくない。とにもかくにも、ヘビメタ騒音であの子と普通につきあいたかった。とにもかくにも、ヘビメタ騒音なしで、普通に、わかいころをすごしたかった。俺から「ひく」ことになるわけだけど、そうなると、俺がその子に興味がなくて、ふったというような感じにうけとられるわけだ。ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、そういう誤解もなかった。すべてがすべてこういう状態なのである。「やめろやめろ」と何回も何回も何回も何回も何回も怒鳴り込んでいたのに、きちがいがきちがい的な官学でずっと鳴らしやがる。きちがい兄貴はきちがいだから、ものすごくでかい音で鳴らしても、でかい音で鳴らしていると思ってない。きちがい兄貴はきちがい兄貴だから、まったくゆずらなくても、ゆずってやったと思っている。きちがい兄貴はきちがい兄貴だから、こっちがこまっているということが、まったくわかってない。この「わからなさ」が異常なのだ。ほんとうに、きちがいでなければ、どれだけ、やりたい気持ちでやったとしても、わかっている。わかって鳴らす状態にしかならない。普通の人だったら、思いっきり無視して鳴らしてやったと思うところだ。ところが、実際には、思いっきり無視して鳴らしたのに、鳴らしたことになってないのだ。これが、きちがい感覚なのだ。このきちがい感覚は、きちがい兄貴のことを傷つけない。きちがい兄貴の気持ちを傷つけずに、やってはいけないことをやる気ることができる。きちがい兄貴だって、きちがい兄貴が鳴らしていた音で、自分が聞きたくない音を聞かされたら、五秒で、「うっさい!!!鳴らすな」と怒鳴り込んでくるような音で鳴らしている。きちがいだから、勝手に、書き換えてしまっている。無意識的なレベルで感覚器を書き換えている。感覚器からの信号を書き換えている。自分にとって『普通の音で鳴らしていること』が都合のいいことであれば、どれだけでかい音で鳴らしていても、『普通の音で鳴らしている』ということになってしまう。そして、「しずかにしてくれ」という内容を含むことを言われたら、それだけで、発狂して、はねのけてしまう。はねのけたら、言われたことにならないのだ。そういうしくみがほかの人にはわからないから、俺がほかの人から誤解されることになる。実際、ほかの人は、こういうしくみをもった家族と一緒に住んでいるわけではない。だから、何回も言うけど、降雨家族がやる騒音というものを経験したことがない。こういう家族はきちがいなんだけど、気ちがいにはきちがいのやり方があって、普通の人が想像できないようなやり方でやる。そして、本人は、まったくやったつもりがないということになっている。だから、気ちがいなんだけど、うまい具合にそうなっている。だから、自分の欲望だけは、普通の感覚を無視して、なおかつ、普通の常識を無視して、押しとおす。けど、押しとおしたという気持がないのだ。認知がない。だから、「やってない」と言う態度でずっと毎日暮らしている。じゃあ、言えば静かにしてくれるのかと言うと、絶対の意地で静かにしない。一三(じゅうさん)時間鳴らせるなら、一三時間、すべて、自分が満足できる、でかい音で鳴らす。鳴らしきる。一時間ゆずってやるとか、自分が満足できない普通の音で鳴らすということは、絶対にない。だから、鳴らしているのに、本人がわかってないのだ。ぜんぜん鳴らしたと思ってない状態で生きている。七時間なら、七時間すべての時間、自分が思った通りの音で鳴らしている。自分が満足できないような小さな音・普通の音で鳴らす時間は一分間だってない。そういう状態だ。そういうはりつめた状態なんだよ。けど、本人は、気楽なんだよ。だいたい、おとうとに迷惑をかけているつもりがまったくない。入学試験の一日まえにずっと、七時間鳴らしてたって、本人は、おとうとの受験の邪魔をしているつもりがまったくないのだ。ほんとうは、ゆずってないのに、〇・一デシベル一分間でも、音をさげてやったら、「ゆずってやったゆずってやった」と言うことになる。この態度が、親父の竹のときの態度とおなじなのだ。この態度が、親父が魚の切り身をテーブルの上に出しておくことにこだわったときの態度とおなじなのだ。絶対にゆずらないのだけど、ゆずってやらなかったという認識が一切合切ない状態で生きている。
2024年11月4日月曜日
「俺だったら、なぐられてもいたくない」と言っているのとおなじだ
こんなの、なぐられたことがないやつが、「俺だったら、なぐられてもいたくない」と言っているのとおなじだ。まあ、だれだって、なぐられたことぐらいあるか? けど、程度がちがう。普通の人が普通のうちで感じた騒音と、ぼくが、ぼくのうちで感じた騒音はちがうのである。弱くなぐられたことしかないやつが、強く、何回も何回もなぐられたやつに「俺だってなぐられたことはある」「俺はなぐられたって、たいしたことがなかった」と言っているのとおなじだ。きちがい家族による、至近距離の騒音がどういうものだかわかってないな。きちがいなんだよ。ほかのうちには、いないんだよ。だから、ほかの人はやられることがないんだよ。程度がちがえば、ちがう。頻度がちがえばちがう。やっているやつの態度がちがえばちがう。「影響をうけないことは可能だ」「関係ない」と思っているやつは、ただ単に、(それ自体を)自分がやられたことがないからわかってないだけだ。
騒音というのが、だれでも経験したことがあることだから、逆に盲点になってしまうのである。騒音というのが、だれでも経験したことがあることだから、般化して考えてしまうのである。きちがいヘビメタ騒音は、きちがい家族によるしつこい騒音だから、ほかの騒音とはちがう。『騒音』というレベルで、抽象化して、「自分だって経験した」という前提で、ものを言ってくるな。「関係ない」と否定からはいるな。「影響なんてない」と否定からはいるな。わかってないだけじゃないか。経験がないだけじゃないか。実際に経験がないから、被害をうけてないだけじゃないか。実際に経験がないから、自分の身に影響がないだけじゃないか。どうして、「自分のほうがすぐれている」と思い込むんだよ。どうして、「自分だったら平気だ」と思い込むんだよ。どしうて、「自分なら、影響をうけない」と思い込むんだよ。
軽い騒音しか経験してないから、そう思うんだろ。軽くなぐられたことがあるというのと、毎日、何十発もなぐられているというのは、ちがうことなんだよ。からだの影響だってちがうんだよ。くそ一般化するな。くそ抽象化するな。おなじ質の騒音を、おなじ量だけ経験したという前提でものを言うな!!
おなじ質の騒音を、おなじ量だけ経験したら「関係ない」なんて言えなくなるんだよ。おなじ質の騒音を、おなじ量だけ経験した「影響がない」なんて言えなくなるんだよ。「関係があること」がいっぱいしょうじて、言えなくなる。「影響がある」状態なので、「影響がない」なんて言えなくなる。「関係がない」といっているからには、「関係があることがいっぱいしょうじなかった」ということなんだよ。「影響がない」と言っているからには「影響がない状態で暮らしている」ということなんだよ。騒音を経験したと言っても、そういうレベルの騒音なんだよ。きちがい家族がやる、きちがい的な騒音が毎日ずっと続いたわけじゃないんだよ。俺は……「きちがい家族がやる、きちがい的な騒音が毎日ずっと続いた」から、関係があると言っている。俺は……「きちがい家族がやる、きちがい的な騒音が毎日ずっと続いた」から影響があると言っている。ちがいを理解しろ。
関係があるということだ。
いや、おまえに「関係ない」と言われても、こっちは関係があるんだよ。やられたからだで生きている。関係があるということだ。俺がヘビメタ騒音でこまっているのに、ヘビメタ騒音でこまっているということを聞いたあとに「関係ない」と言ってくるやつらはなんなんだ? こんなやつらにばかにされるようになる。きちがい家族によるきちがい騒音がずっと鳴っているというこうとは、そういうことだ。
どう、あがいても、うまくいかなくなる。どーーしても、できなくなる。ヘビメタ騒音でできなくなっているのに、ほかのやつらが認めない。「自分なら、きちがい家族によるきちがい的な騒音が鳴っていても、できる」と思っている。「自分なら、影響をうけないことが可能だ」と思っている。 経験がないから、「からだで」わかってないだけだろ。どれだけひびくかわかってない。どれだけあがいても影響があるということがわかってない。どれだけがんばっても、影響が出てしまうということがわからない。がんばれば、がんばるほど、影響がでる。じゃあ、がんばらなければ影響が出ないのかというと、でる。どっちにしたって、でる。
ほんとうに、試験でもなんでも、鳴らされていない状態……鳴らされるまえと、鳴らされたあとではちがう。遅刻でもなんでも、……鳴らされるまえと、鳴らされたあとではちがう。
やられてないから、自分のからだがどうなるかわかってないやつに、好き勝手なことを言われる。当然、腹がたつ。帰ったあと、きちがい兄貴に、どれだけ「これこれこういう理由でこまるからしずかにしてくれ」と言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度ではねのけて、うるさくし続ける。しかも、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで「しずかにしてやったつもり」だけはあるのである。「ゆずってやった」と思っている。きちがいだからそうなる。
実際に、きちがい家族によるしつこい騒音が、「つもったとき」どういうからだの状態になるか「わかってないやつ」が好き勝手なことを言う!! ほんとうに、腹がたつ。
* * *
どれだけ、たえている状態だと思うんだ。どれだけ、たえている状態だと思うんだ。あんななかで、普通に暮らせるわけがないだろ。鳴ってないのとおなじ状態で生きられるわけがないだろ。こいつら、まったくわかってないのに、好き勝手、言いやがって……。
暗い事件という言葉で、どういうことを表現しているのだ?
暗い事件についてだけど、暗い事件だと思うから暗い事件になるのだという理論がある。受け止め方理論だ。精神世界の人は、それなら、どうやって、「暗い事件が起きませんように」と願うのだ。暗い事件という言葉を使って、思考してしまっているではないか。そもそも、暗い事件が受け止め方次第で暗い事件にならないなら、暗い事件という言葉で、どういうことを表現しているのだ? どれだけ「受け止め方理論」をふりまわしても、日本語で考えている以上、考えている時点で、「暗い事件」という言葉がさししめしているものを、考えている人は知っている。はっきり言えば「すべては受け止め方の問題」ではないということだ。
日本語を使って想起しているのだから、想起している時点で「暗い事件」の内容は、抽象的にまっているのである。過去の出来事を総合的に考えて、「暗い事件」という言葉のイメージを「限定」しているのである。ようするに、固定して考えている。
このような意味でも、過去のできごとは、現在の思考と関係がある。「過去は関係がない」とは言えない。
だいたい、「すべては受け止め方の問題」なのであれば、言霊主義者は、どうやって、言葉の内容を決めるのだ?
「この世で、暗い事件は一切合切、起きない」
たとえば、AさんとBさんとCさんがいるとする。Aさんが、Bさんを包丁で刺した。Bさんは、Aさんにあったことはなく、BさんがAさんに、なにか悪いことをしたということはないとする。Cさんは、精神世界の人で、言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論、自己責任論を信じているとする。はたして、Bさんが刺されたことは、Bさんの自己責任なのだろうか? もし、言霊理論が正しいならCさんが「この世で、暗い事件は一切合切起きない」とか「包丁で人を刺す人は、いなくなる」と言えば、それで、こういう事件は、起きなくなる。思霊理論でもおなじだ。Cさんが「この世で、暗いことは一切合切、起きない」と思えば、この世で、暗いことは、一切合切、起きないようになるのである。ならないのであれば、思霊理論がまちがっている。Cさんが自己責任を問うのであれば、Cさんの自己責任を問うべきなのである。自分が「この世で、暗い事件は一切合切、起きない」とBさんが刺されるまえに思わなかったから、Bさんが刺されてしまったと思い、思わなかったことの自己責任を追及するべきなのである。言霊理論が正しいなら、言霊理論を使って、この世のすべての不幸な事件をさけることができる。不幸な事件を発生させないようにできるのだ。どうして、発生させないようにできるのに、さぼって、発生させてしまっているのだ? Bさんが刺されたのは、Cさんの責任だ。……まあ、ほんとうは、Cさんの責任ではないけどね。けど、どうして、Cさんは、言霊理論は絶対に正しいと思っているのに、「この世で、暗い事件は一切合、切起きない」と言わないのか? 自分が「この世で、暗い事件は一切合切、起きない」と言ったあと、暗い事件が起こったら、どいうふうに考えるのか?
そうなると、この世は、もっと地獄になるのである
やられたほうに落ち度がなくても、不幸な事件というのは発生してしまう。どうしてかというと、やるやつの脳みそがそういう脳みそだからだ。やるやつの脳みそが、そういう行動をやるように、そいつに命じるからだ。こいつらが、責任なんて考えているわけがないだろ。そのときは、そのときでやる理由があると思っているんだよ。そのときはそのときでやりたいからやっているんだよ。やるやつのほうの、脳みその問題なんだよ。当然、考えるだけで、やらなければ問題は起こらないけど、やるから問題が起こるんだよ。被害者が出てくる。やられたやつが出てくる。やられたやつに、どれだけ、現実的な落ち度がなくても、やられてしまったら、なにか落ち度があったにちがいがないと考えてしまう。普通の人や精神世界の人が、あとだしジャンケン思考でそう考えてしまう。そうなると、この世は、もっと地獄になるのである。もっともっともっと地獄になるのである。
自己責任論というのは、刺されたやつの責任を問う責任論なんだよ
自己責任論というのは、刺されたやつの責任を問う責任論なんだよ。くそバカな理由で人を指したやつの責任を問うのではなくて、刺されたやつの責任を問う責任論なんだよ。自動的だ。自動思考だ。こいつらの頭のなかでは、「やられたやつが悪い」ということになってしまう。こいつらの頭のなかでは、「やられたやつの自己責任だ」ということになってしまう。責任の所在なんて考えないのだ。ほんとうの責任の所在について考えないで、「そんなのは、やられたやつの自己責任だ」と考えるようになってしまう。「やられたら、やられたほうが悪い」ということになってしまう。
たとえ、刺されたほうに、落ち度がなくても、落ち度をつくってしまうことができる。精神世界の人は、あとだしジャンケン思考をしているけど、これにも、あとだしジャンケン思考が成り立つ。ようするに、刺されたという結果が出ているので、刺されたほうが、刺された理由をつくっているということになってしまうのだ。これは、あとだしだ。カルマも、あとだしジャンケン思考で、刺されたなら、前世でわるいことをしたにちがいがないということになってしまうのである。そして、たとえば、刺されたやつが、刺したほうを、「前世で」刺したので、今世で刺されるほうになったのだというような解釈をでっちあげてしまう。
こんな、人に濡れ衣を着せるような思考法が、いい思考法であるはずがないだろ。あきらかに、トラブルをうみだしている。あきらかに、トラブルをうみだす思考をしている。カルマというのなら、無実の他人に、濡れ衣を着せることで、カルマをつくりだしているぞ。そんなことにも、気がつかないのか?
そして、自己責任論という『武器』で、他人の責任を追及しだす。
きちがいヘビメタ騒音で、人から誤解されることが多すぎた。いいかげん、多すぎる。限界がある。しかも、期間が長すぎると、最初は、理解してくれていた友達まで、くそを言ってくるようになる。この場合も、自分なら平気だという前提に立ってものを言う場合が多かった。あとは、ぼくが、きちがい兄貴やきちがい親父にのろわれているような感じにうつって、そういうふうにのろわれている人間とつきあっていいのかなと疑問に思って、ぼくをさけるというような感じで、人が離れていったことがあった。けど、これだって、きちがい兄貴やきちがい親父が、自動的に、きちがい行為をするから、そうなるのであって……(ぼくがのろわれているように思われるわけで)……ぼくのせいじゃない。そして、自己責任論だ。本来の自己責任論は、自分を対象にした自己責任論だ。他人を対象にした自己責任論だと、他己責任論になってしまう。ところが、「自己責任、自己責任」と言っているやつらは、他人を批判するために、自己責任論を持ち出してくるという特徴がある。こいつらは、他人の自己責任しか追及しない。こいつらが、自分の自己責任を追及する場合は、自己責任なんて特に思ってなくても、自分のほうに落ち度があったのではないかと思えるようなことについて、自己責任を追及するだけだ。主に、他人の自己責任を追及している。けど、本来の自己責任論なのであれば、他人が不幸になったのも、自分の責任だということになる。まったく関係がない他人が、不幸になったのも、自分の責任だということになる。そういうことにしかならないのである。他人が不幸になったのは、その他人の責任だというタイプの自己責任論は、他己責任論なのである。こいつらは、思考力が低いから、簡単にだまされる。基本的には、「自己責任論」というのは、すみにくい社会をつくるためのものだ。基本的には、自己責任論というのは、比較優位のやつが、比較劣位のやつを、うちのめすための理論だ。なので、普通に社会に生きていて、自己責任論にふれれば、最初のうちは自分を対象にした自己責任論を展開するのだけど、やがて、普通に、他己の責任を問う自己責任論になるようになっている。これは、自己責任論をふりまわすやつが、基本的に、幼稚で、うぬぼれ屋だからそうなる。設計者は、自己責任論をはやらせれば、幼稚なやつらが、自己責任論を信じて、トラブルが多くなるようになることを知っていて、自己責任論をはやらせたのだ。トラブルが多くなる……。これが、わからないのか? わからないんだろうな。もうちょっと、深く考えたほうがいいよ。自己責任をふりまわすやつは、みんな、他人の自己責任を追及している。つまり、他人の責任を追及している。
自己責任論と言霊理論、思霊理論、引き寄せ理論は、とてつもなく相性がいい理論なんだよ。ようするに、言霊理論にこっているやつは、なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、悪い言葉を使ったから不幸になったのだと考えてしまう。思霊理論にこっているやつは、 なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、不幸なことを考えたから不幸になったのだと考えてしまう。引き寄せ理論にこっているやつは、なにか不幸なことが起こった人を見れば、その人が……その不幸な人が、悪いことを引き寄せたからダメなんだと思ってしまう。悪いことを引き寄せた人の自己責任だということになる。不幸なことを考えた人の自己責任だということになる。悪い言葉を使った人の自己責任だということになる。どんなことが、どんな理由でおこっても、実際に、不幸な目にあった人が悪いということになってしまう。こういうところ誘導するように……こういうところに人を誘導するように、自己責任論を考え出し、自己責任論っぽいことを言うやつをつくり、自己責任論者を(大量に)つくりだしたのだ。設計者がそうした。設計者は、社会をより悪くするために、人間をより悪くすために、自己責任論をこの社会において、はやらせたのだ。それこそ、思考力がない、くそ凡人などは、いちころだ。自己責任論は正しいと思ってしまう。そして、自己責任論という『武器』で、他人の責任を追及しだす。その他人の責任というのが、ほんとうに他人の責任なのかと言うことを考えないまま、他人の責任を追及するようになる。「なんだって感だって自己責任だ」ということになっているので……そいつの頭のなかでは、「なんだって感だって自己責任だ」ということになっているので、なにか不幸なことが起こった人がいるなら、現実的な理由に関係なく、その人の責任だということになってしまうのである。ようするに、自己責任論者が、ほんとうは、その人には責任のないことまで、その人の責任にしてせめるような場面が続出する。こういうやつらを増やすために設計者が、自己責任論を考え出して、はやらせた。
2024年11月3日日曜日
比較優位
ヘビメタ騒音で宿題ができない」と言っても、「そんなのは、家族で解決してくれ」と言われるのが、オチだ。みんな、うちのきちがい兄貴が、どういうきちがい感覚で鳴らしているかわかってない。あいつは、でかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしていると思ってないんだぞ。聴覚が正常なら、絶対にでかい音だとわかる音で鳴らしている。きちがい感覚でのりこえて、自分の聴覚を否定して、でかい音で鳴らしてないということに、してしまう。これが、意識的にやっているなら、まだ、救いようがあるのだけど、意識的にやっていることではないから、救いようがない。無意識的にこういうことをやるということが、きちがい家族と一緒に住んでいない人にはわからない。その人たちにとっては、「家族で解決できる問題」なのだ。ところが、殺さなければ、解決することなんできないんだよ。きちがいが、すぐ横の部屋で、きちがい的な感覚で、思いっきり鳴らし続ける。おかあさんが注意したって聞かないし、きちがい親父はきちがいだから、「テコでも注意しないぞ」と思っているような態度になってしまう。家族で解決できるわけがない。ところが、普通の人の家族はきちがい家族ではないので、家族で相談すれば解決できると思っているんだよ。そういうところから考えても、普通の人は「どうとうの同質の経験をしてない」ということがわかる。「同党の同質の経験をしてないやつ」が「俺だって苦労した」「俺だって騒音ぐらいある」と言って、無理なことを言ってくる。宿題はできない。きちがいヘビメタが鳴り終わるまで、宿題はできない。きちがい兄貴にどれだけ、「鳴っていると宿題ができない」「宿題ができないと、学校で恥をかくことになるからやめろ」ということを言ったって、つうじない。一切合切通じない。きちがい親父のように、つうじない。少しでも、自分が思いっきりできなくなるようなことは、内容を認識する前に、発狂して、はねのけておしまいだ。言われたあとも、言われたことになってないのである。「なにかいやなことを言われた」と言うような、感触しか残っていない。実際になにを言われたのか、まるでわかってない状態だ。ようするに、無意識的レベルでは、内容を理解したからはねのけたのだけど、それが意識的な過程ではないから、内容は、意識には、とどまらないのである。つまり、内容は、意識には、認識されないのである。
こんな特殊なやつが、きちがい的な意地で鳴らしている騒音が、影響をあたえないわけがないだろ。言霊主義者じゃなくても、「影響をうけないと言えば、影響をうけない」というような幼稚な思考をしているやつらが多い。
たとえば、宿題をやっていかないなら、宿題をやってきたやつからすれば、俺は、ダメ人間に見えるんだよ。自分は宿題をやって、エイリが宿題をやってこなかった。これだけで、自分が比較的に言って優位な立場になるんだよ。とりえず、比較優位を感じると言っておこう。で、この比較優位の感覚は、ようするに、「偉そうな発言」につながる。自分なら、できると思って、俺のことをバカにす。ヘビメタが鳴っているから宿題ができないなんて、あまえだ」「どれだけ騒音が鳴ってたって、宿題ぐらいできる」と言うわけさ。
で、何回も言うけど、ヘビメタ騒音の繰り返しで、働けなくなれば、働いているやつが、比較優位の感覚で、俺にえらそうなことを言ってくることになる。ぼくの人生は、ほんとうに、きちがいにやられて、うぬぼれ屋にえらそうなことを言われる人生だった。
て
やられてないからわかってないだけなのに、えらそうなんだよ。
一回も、きちがい親父にこまらされたことがないやつが「そんなのは、関係がない」と言う。一回も、きちがい兄貴にこまらされたことがないやつが「そんなのは、関係がない」と言う。関係があると言っても、こいつらは、こいつらで、認めない。「俺だってつらいことはあった」と言えば、おなじ質の、おなじ量のつらさを経験したことになってしまう。けど、おなじ質の、おなじ量のつらさを経験した人は、「そんなのは、関係がない」とは言わない。だから、こいつらが、おなじ量のつらさを経験したことがないのは、あきらかだ。
だいたい、俺がヘビメタ騒音の説明をして、ヘビメタ騒音の影響があると言っているのに、真っ向から「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「そんなのは関係がない」と言うやつらは、なんなのか? こいつらは、どれだけでたらめな発言をしているのか、わかってない。
もちろん、こいつらが、でかい音をだして、俺の人生を粉砕したわけではない。だから、こいつらの立場は、兄貴の立場とはちがう。しかし、「影響がない」「関係がない」と真っ向から否定してくる態度は、きちがい兄貴に似ているものを感じてしまう。
関係ないわけないだろ。
何度も言うけど、きちがい兄貴がきちがい感覚で、ほかのうちでは絶対にやらないことを、やったから、こんなことになっている。押し出されてどうしてもそうなる。思考力がない人、想像力がない人、手前勝手な人、うぬぼれている人は、どうしたって、きちがい兄貴のきちがい行為を、自分の経験のなかで考えてしまう。けど、その人たちには、きちがい兄貴がないので、その人たちの経験のなかには、きちがい兄貴ににやられたということがない。あるいは、きちがい兄貴に似た感覚をもっている人に、やられたということがない。その人たちには、きちがい家族がいない。きちがい家族がいないので、きちがい家族がやることがわかってない。きちがい家族がいないので、きちがい家族にやられた経験がない。だから、知らない。知らないのに、「知っている」と言う前提で、無理なことを言ってくる。その自分の経験の範囲では、無理なことではないのだ。けど、きちがい兄貴が、毎日、きちがい感覚で、ずっとずっとずっと、きちがいヘビメタを、よそでありえない音で鳴らし続けると、「無理なこと」になる。「無理なこと」になるということが、一倍速で経験したことがないからわかってないやつに、えらそうなことを言われるということになる。こんなの、なんの罰ゲームだ。しかも、無理なことを言ってくるやつは、無理なことだと思ってないわけで、そのぶんだけ、ごく自然にぼくのことを見下している。しかし、見下しているという気持がないやつや、見下したって当選だろうと思うやつがいる。自分らだって、一倍速でやられれば、わかるのに……。できくなるということがわかるのに、わかってない。やられてないからわかってないだけなのに、えらそうなんだよ。
「関係がない」とこいつらが言った時点で、こっちは、不愉快な気持になるんだよ。こいつら、「いいことを言った」と思っている。
どれだけがんばっても、あの音のなかで勉強をするのは、無理なんだよ。ヘビメタではなくて、自分の嫌いな音が、あの至近距離であの音でがんがん鳴ってたら、無理だというとがわかる。毎日鳴っていたら、毎日鳴っていたということの影響をうける。ともかく、この至近距離の騒音は、工事現場の騒音とはちがうんだよ。理屈がちがう。影響をうける理屈がちがう。騒音と言えば、音の大きさだけが問題だと思っているみたいだけど、ぜんぜんちがう。
2024年11月2日土曜日
2024年11月1日金曜日
社会制度や社会のなかの他人の行動は、いちおうは、現実をつくりだしている
本人が思ったような世界を、本人が選択しているという理論がある。これは、精神世界ではよく言われることだ。ようするに、現実をつくりだしているのは、本人なんだということだ。本人の現実をつくりだしているの本人だという理論だ。けど、これはまちがいだ。この手の理論には二つの層があるんだけど、ひとつの層は、じつは、主観に影響されない客観的な世界が存在しているという考えにもとづいたものは。これは、じつは、認知療法のなかでも言われていることだ。もうひとつの層は、ほんとうに、主観が客観的な(自分世界)をつくっているという考えをもっているそうだ。現実世界が、ほんとうに、選択した世界なのである。この人らの考えにしたがえば……。けど、これらは、両方ともまちがっている。完全にまちがっている。認知療法のほうは、認知療法批判をしたときに、書いておいた。(けど、これは、いま非表示になっている。)
「自分が自分の世界をつくりだしている」とか「自分の思いが、自分の世界をつくりだしている」とかという言い方は、完全にまちがっている。自分の思いとは関係がない、客観的な世界が、たしかに存在する。この、客観的な世界の根拠は、じつはない。それは、認知療法批判のところも書いておいたことだ。だから、ここでは、その点にはふれないで……ようするに、還元はしないで……普通に暮らしている状態で、自分の思いが「つくりだしていない」各種現実があるということについて書くことにする。ようするに、還元はしないよと言うことを、ことわっておく。この 「自分の思いが、自分の世界をつくりだしている」という考え方はめちゃくちゃに簡単な考え方で、還元以前の問題がある。ほんとうは、たとえば、ワクチンを打った人がいると、ワクチンを打った人の影響をうけるのだけど、自分の思いしだいで自分の現実をつくりだすことができるので、ワクチンを打った人の影響をうけることはないという妄想的な理論なのだ。これは、ディープステート側の理論だ。黒側がはやらせたい理論だ。これ、まさしく、現実の無視なのである。社会のなかで生きているので、社会制度や社会のなかの他人の行動は、いちおうは、現実をつくりだしている。けど、この「自分の思いが、自分の世界をつくりだしている」という考え方は、現実を否定してしまうのである。自分の思いが(いちおうは)たしかな現実をつくっているとい理論は、自分の思いに合致しない現実、ガン無視する理論なのだ。社会制度や、他人の行動の影響をうけるに決まっているのだ。現実に、たとえば、物質としてのテレビが存在するということは、物質としてのテレビが存在するということになる。自分の世界のなかには、物質的なテレビなんてないと思えば、物質としてのテレビが存在しない状態になるわけではない。たとえ、自分が物質的なテレビを一切合切、見ないようにしたとしても、物質としてのテレビは、この世に存在している。自分のなかで、物質としてのテレビを、存在しないものとして無視すれば、現実世界において、物質としてのテレビが消滅するわけではない。そして、多くの人間がテレビ番組を見ているとする。そして、多くの人が、テレビ番組の影響をうけたとする。テレビ番組の影響で、多くの人たちの行動がかわったとする。多くの人間の行動の変化は、自分の「環境」に影響をあたえる。自分の環境というのは、(還元をするまえの)まぎれもない現実だ。いちおうは、これを現実として認知して生きているのである。その現実というのが、ほんとうに現実なのかどうかということは、別レベルの話なのである。これがわかってないんだよな。これ、ほんとうに、レベルの低いトリックなんだけどわからないのかな?
全力でやろうとしている状態というのが、地獄なのだ
きちがい家族によるきちがい騒音を経験したことがないやつが、「そんなのは関係がない」と言い放つ世の中だ。こういう世の中だ。これが、多数派だ。「騒音なんて鳴ってたって、宿題ぐらいできる」と言ってきたやつと、「そんなのは関係がない」というやつは、おなじだ。おなじ思考回路なのである。ところが、実際にやってみればわかると思うけど、あの態度で、きちがい家族が、こっちのことをまったく考えないで、ただひたすら、きちがい騒音鳴らし続ける生活というのは、たえられたものじゃないのである。この、やられてない人たちから「そんなのは関係がない」とか「騒音なんて鳴ってたって、宿題ぐらいできる」とかと言われること自体が、人生のなかでいやな経験なのだ。いやなことなのだ。生活のなかのいやなことなのだ。これ、ほんとうに、「できなくなる」。全力でやろうとしても、できなくなる。全力でやろうとしている状態というのが、地獄なのだ。全力でやろうとしている状態が地獄だということが、わかってないやつが「騒音なんて鳴ってたって、宿題ぐらいできる」と言うわけで、こいつらは、ぜんぜんわかってない。ところが、こいつらは「自分なら、そういう音が鳴っていてもできる」と思っているだ。そして、それは、確信に近い。「そんな音で鳴っていたら、できないだろう」と思っているわけではないのだ。だから、うぬぼれている。これ、やられてないから、そういうふうに言っているだけだと(僕は)思う。ほんとうに、自分がきらいな音を、あの至近距離で、無慈悲に、あたりまえだという態度で、ガンガン浴びせられたら、浴びせれる前は、普通にできたことができなくなるのだ。これがわかってない。これがわかってないやつが、こっち見下してくる。「できないから」見下す。自分は経験してないけど、自分は浴びせられてもできると思っているから、できないエイリを見下す。自然に見下す。これ、ほんとうに、宿題なんて、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音がなければ、できたことなんだよ。
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ただ単に、働かなかったということについてコンプレックスがあるわけじゃないのである。ヘビメタ騒音で働けなくなったいうことについてコンプレックスがあるのである。当時、「無職であった」というコンプレックスではなくて、当時「ヘビメタ騒音で無職にならざるをえなかった」ということにコンプレックスを感じるのである。なお、コンプレックスというのは、日本における、日常語のコンプレックスのことだ。正確に言えば、劣等コンプレックスのことだ。
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きちがい兄貴の態度もわかってないし、あの至近距離で、毎日、この世で一番きらいな音を鳴らされ続けたら、宿題ですらできなくなるということが、わかってない連中。そういうやつからが、えらそうなことを言ってくる。自信たっぷりだ。こんなの、いい人生じゃない。言ってくるやつらは、正しいことを言っていると思っている。言ってくるやつらは、ダメなえいりをはげましていると思っている。こいつらのくそ発言で、気分が悪くならないわけがないだろ。そして、帰れば、鳴っている。たとえば、宿題だけど、宿題なんて、きちがいヘビメタ騒音がなければ、ぱぱっとできることなんだよ。午後三時五五分に帰ってきたら、午後四時から「やろうかな」と思えば、すぐにできることなんだよ。葛藤がないんだよ。けど、きちがいヘビメタが午後三時五五分から鳴っている。家に帰ったときに、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている状態なんだよ。それから、どれだけ、なにを言っても、きちがいヘビメタが鳴りやまない。きちがい兄貴が、爆音にあわせて、エレキギターをでかい音で鳴らし続けるという状態が、続く。どれだけ「やめてくれ」と言っても、きちがいだからやり続ける。どれだけ「宿題をするからやめてくれ」と言ったって、きちがいが、きちがい感覚で、まったく迷惑をかけてないつもりで、やり続ける。宿題の邪魔をしているつもりなんて、どれだけなにを言われたって、生じないんだよ。言われたら、不機嫌になるだけなんだよ。言われたら、発狂して、自分がやりたいことに執着するだけなんだよ。この態度は、きちがい兄貴の態度だけど、きちがい親父の態度とおなじなんだよ。一家に、ふたり、こういうやつがいるんだよ。こまるんだよ!!
* * *
セミリタイヤやりリタイアをした人が、「自分は、無職であるということにコンプレックスはない」「仕事をしてないということにコンプレックスがない」と言う場合がある。俺のコンプレックスというのは、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音で、働けない状態になったということに関するコンプレックスなんだよ。そりゃ、ヘビメタ騒音がある人生と、ヘビメタ騒音がない人生なら、おなじ無職状態でも、ちがいがある。「エイリさんは無職であるということにコンプレックスがあるけど、俺はコンプレックスなんてないからね」というような発言をしたやつが、かつて、いたのだけど……ちがう。その人は、誤解をしている。ぼくがいろいろな「ふがいない気持ちになる」のは、きちがいヘビメタ騒音が原因なんだよ。きちがいヘビメタ騒音のなかで、人に誤解をされながらがんばってがんばって暮らしてきた生活が原因なんだよ。ただ単に「無職である」ということに、コンプレックスを感じていたわけではないのである。ヘビメタ騒音なんだよ。ヘビメタ騒音で、働けないからだになったということに関する複合的な感情なんだよ。
2024年10月31日木曜日
どれだけ言っても、相手がいやがっているということがわからない
なまゴミをすててきた。これだけで、今日は、もういいや。おてがらーー。おてがらーー。
外壁を見るたびに思うけど、はやく、引っ越すべきだ。外壁をどうにかしなければならない。外壁のタイムリミットがせまっている。ここにいるなら、外壁工事をする必要がある。外壁工事をするまえに、引っ越すべきだ。この場合は、もちろん、外壁工事はやらずに、家をこわすことになる。
手の甲の、ダニに刺されたあとが、いやなんだよ。これ、見ると、へこむわぁーー。ほんとうに、親父がいれたネズミの被害が甚大なんだよなぁ。ネズミの糞と、ダニ。外壁がじょうぶだとしても、ネズミの糞とダニはものすごくでかい問題だ。外壁がじょうぶでも、数か所、ネズミが入ってこれる部分があった。これは、ぼくが、パティでつぶした。あとは、通気口はネズミ対策業者の人にやってもらった。これも、ネズミのことは考えたないような間隔なんだよね。でっ、ほんとうに、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、何個もはいれる場所があったのに、ずっと、何十年も、ネズミが入ったことなんてなかったんだよ。親父が魚を出しっぱなしにするまで、家の中にネズミが入ったことなんて、一度もなかった。親父が魚を出しっぱなしにして、実際にネズミが入ってきたあと、いろいろなところにはいれる場所があるということに気がついた。一個ふさいだだけじゃダメだったということだ。二個ふさいでもだめだったということだ。三個ふさいでもだめだったということだ。それだけ、いろいろな箇所に入り込める隙間や穴があったにもかかわらず、親父が魚を出しっぱなしにするまえは、ほんとうに、一度も!!!一度も!!!ネズミが入ったことがなかったのである。一度入ってくるようになったら、ものすごいよ。
親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れてやる」と言ってきかなかったことがある。あれも、反対したのに、一度言い出すと聞かないので、けっきょく、親父が、台所にあるゴミを、毎日、物置のゴミ袋に入れるようになった。これが、ほんとうに無駄な行為なんだよ。あとで考えてみると、物置に、ネズミをおびき寄せていたことになる。親父が、うちにいて、へんなことをやりはじめるまえは、ネズミの問題なんて、まったくなかった。きちがい親父が、どこでスイッチが入ってしまうのかは、わからないけど、台所に置いてある市のゴミ袋に、市のゴミ袋がいっぱいになるまで、なまゴミを入れるということになっていた。それで、問題がなかった。何十年もそういうことをしていて、一度も、ネズミが入ってくるということがなかった。だから、清潔だったのである。ところが、きちがい親父が、へんな気を起こして、「毎日、うちのなかにある市のゴミ袋に、ゴミを入れるよりも、毎日、一度、うちのなかにある市のゴミ袋から、(親父が)物置に置いた市のゴミ袋にうつしかえるほうが清潔だ」というような考えにとりつかれたのだ。あるいは、「自分が!!!やってやる」という気持になった。これも、俺は、台所に置いてあるごみ袋に、捨てるぐらいにたまるまで、ゴミをおいておくという方法でまったく問題がなかった。言っておくけど、母親が病気になってから、ぼくが料理をしていたわけで、量はぼくの担当だ。だから、なまゴミを、市のゴミ袋に入れていたのはぼくだ。でっ、おかあさんが天国に行ってしまったあと、親父と二人きりで住んでいたわけだけど、親父と接触する機会が増えたのである。で、親父は、言いがたい気ちがいなので、「自分(おやじ)が、毎日、出る生ごみを、物置にあるゴミ袋にいれかえたほうが、俺(ブログ主)の役にたつ」と勝手に決めてしまったのだ。こうなると、どれだけ「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」「物置にもって行かなくていい」と言っても、聞かないのだ。親父が訊かない。これ、何十回言っても、聞かない。一度、自分(おやじ)が思いつくと、そうするまで絶対に引きさがらないのだ。これが、「相手のためにやってやること」なのだ。その相手が、「やめてくれ」「やらないでくれ」とどれだけ言っても、相手がいやがっているということがわからない。相手の(親父に)やってほしくない気持ちと言うのは、親父には、絶対に伝わらないのだ。頭がおかしいから、つたわらない。で、これは、ゴミ袋のことだけではなくて、すべてのことにおいて成り立つのだ。俺が幼稚園生のころから、どれだけ、親父のこういう行為でこまったかわからない。幼稚園生のときなんて、きちがい親父が重いつ言ったことを、こっが否定すれば……つまりやらなくていいということを言ってしまえば……親父が顔を真っ赤にして、怒り狂ってやってしまのだ。おこりたいのはこっちなんだよ。これ、頭のスタイルなんだよ。いつものことなんだよ。まるでわからないだろうな。ほかの人にはまるでわからないことだろうな。「そんなの、やめて」と言えばいい……というのが、ほかのとの考え方だからなぁ。そんなことが成り立たないからこまっているのに……まったくわかってない。
俺が幼児のころは、親父が怒り狂って、きちがい行為を押しとおしていたのだ。でっ、親父の頭のつくりと、兄貴の頭の作りがおなじだから、「自分」たちが思ったことは、絶対の意地でやるし、それで問題がないと思っている。きちがい親父は、「相手のためになるだろう」と思ってやることだって、絶対に、相手が言っている通りには動かない。きちがい親父がやりたいようにやらないと、発狂する。きちがい兄貴は、もちろん、きちがい兄貴のために、ヘビメタを鳴らしているわけで、「弟のためにヘビメタを鳴らしてやろう」と思って鳴らしているわけではない。けど、おなじなんだよ。頭の作りがおなじなんだよ。ようするに、親父の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなってやるタイプと、親父の頭のなかでは、こっちのためにやりたくなるタイプがあるのだけど、兄貴の場合は、勝手にこっちとは関係がないことをやりたくなるタイプしかない。ようするに、集合で考えると、親父が、兄貴のタイプを含んでいる。たとえば、竹を植えるということは、親父が、やりたくなってやったことだ。おかあさんが「そんなところに竹なんて植えたら、たいへんなことになるからやめて」と必死に叫んでいたのに、顔を真っ赤にして植えてしまうのだ。しかも、「やめて」「やめて」「やめて」と言っていたおかあさんに、植え終わったあと「どうだ、すごいだろ」と言ったのだ。「ほめてよぉ」とも、ちょっと照れながら言っていた記憶がある。せっかくやったのだから、ほめてくれ」「うまく、植えられたのだから、ほめてくれ」ということだ。これ、おかあさんが、「やめてくれ」と言ったことが、まったく頭のなかにはいってないのだ。こまってこまって、「やめて、やめて」と言っていた相手に、「どうだうまくできだだろ」というようなことを言って、ほめてもらおうとする……。これがどういうことだかわかるか? まあ、こういう人間に、傷つけられないと、わからないと思うけど、これが、めちゃくちゃに不愉快なことなんだよ。しんどいことなんだよ。この世界と、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちの世界は、ぜんぜんちがう。「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちたちは、「ちゃんと言えばわかってくれる」なんて言っている人たちで、親父がつくった世界がわかってない。親父のアマのなかでどういうことが起こっているかまったくわかってない。この、相手の言い分の無視や、発狂的な意地というのがわかってないのだ。顔を真っ赤にして、顔をこわばらせて、あぶらあせをかいて、やってしまういのだからな。で、親父が「やめて」と言われたときの態度と、兄貴が「やめて」と言われたときの態度がおなじなんだよ。親父が(ほかの人から)親父がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度と、兄貴が(ほかの人から)兄貴がやる気になってやっていることを、(やめてくれ)と言われたときの態度が、まったく、まったくおなじなんだよ。ヘビメタ騒音は、兄貴がやりたくてやっていることなんだよ。だから、ほかの人から、(やめてくれ)と言われたら、スイッチが入ってしまう。そして、スイッチが入ってやりきったのに、まったくやりきったつもりがないという状態になってしまう。ようするに、俺がどれだけ兄貴に(勉強ができないからやめてくれ)と言われても、無視して鳴らしたという気持がない。兄貴は、「エレキギターがうまくなったとほめてくれ」とは言わなかったけど、頭のなかに起こっていることは、親父が竹を植えたときとおなじなんだよ。「やめてくれ」と言っていた相手のことなんて、まったく頭にない。まっーーったく、まーーーったく、頭にない。普通の人だったら、残るんだよ。「俺が鳴らしているときに、勉強の邪魔だからやめてくれと、しつこく何回も、言ってきた」ということが、残る。どれだけ言われたって、残らない。何十回言われたって残らない。それなら……やめてくれるのかというとそうではないのだ。「やめてやらなかった」記憶がないのだ。「相手がやめてくれ」と必死になって何回も言ってきたという記憶がないのだ。これ、きちがい親父と、きちがい兄貴でおなじなんだよ。兄貴の場合は、「相手のために」やってやろうという部分がない。だから、親父のように「相手のためにやってやろう」としてトラブルを起こすということがない。この、親父が相手のためにやってやろうと思うことが、ことのこどとく、一〇〇%の確率で、相手にとってやってほしくないことなんだよ。相手が「やられたこまる」ということを、言ってくる。で、相手がどういう理由でこまるのかということを、親父に何十回、何百回説明しても、それは、無視してしまう。何十回も激しく言われたって、親父のなかでは、ゼロ回なんだよ。説明をうけてない状態とおなじなの……。で、きちがい兄貴の場合は、ヘビメタの音に関して、何千回も、何万回も、何十万回も言われてきたのに、兄貴のなかでは、ゼロ回なんだ。
こういうことを言うと、ほかの人は「そんなのへんだ」と思ってしまう。なかには、「そんなのはへんだから、エイリが嘘を言っている」と思うやつだっている。けど、ほんとうなんだよ。こういうところも、不愉快なんだよね。生きていて、不愉快だ。
2024年10月30日水曜日
親父のことから発生したトラブル。兄貴のことから発生した、トラブル
親父のことから発生したトラブル。兄貴のことから発生した、トラブル。そういうものが、つみかさなりすぎている。どんだけ、繰り返されてきたか? これ、まったくわからないだろうけど、きちがい親父が、きちがい親父だと、ほかの人とのトラブルを抱えることが多くなるのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴で、きちがいヘビメタを絶対の意地で鳴らすと、ほかの人とのトラブルを抱えることが多くなるのである。みんな、わかってない。不可避的なときと、たまたま相手が悪いときがある。たまたま相手が悪いときもある。たとえば、ネズミの対策工事の業者とか自転車屋の人だ。こいつら、性格が幼稚で親父と似ているところがあり、自分の判断に責任をもたないのである。言いにくいことを言えば、おこるしなぁ。こっちが、言いにくいことを、言えば、あっちはおこる。トラブルを起こしやすい性格の人がいる。たとえば、依頼主が「やらなくていい」と言ったことをやってしまって、トラブルを起こすネズミ対策業者だ。これ、性格なんだよ。自分が相手にやってやりたいことは、やってしまうやつなんだよな。でっ、判断がまちがっているから、あとでひどいことになる。たとえば、ネズミが入ってくるようになる。ネズミ対策工事をしたのに、ネズミが入ってくるような穴をあけてどうするんだよ? それも、俺がふさいでおいた穴なんだぞ。穴と言っても、これが、穴に見えない穴なのである。だから、「そこはいじらなくていい」「そこは、なにもしなくていい」と言ったのに……。しかも、ネズミが入ったとき、ネズミ対策業者の人が入院をしていて、自分(ネズミ対策業者の人)があけた穴の工事をしてくれなかったのである。これ、けっこうあるんだよ。きちがい親父が、きちがい的な態度で、相手が言っていることを聞かないというのがある。よその人に、俺が、へんな人だと思われる原因をつくるのである。こまるんだよ。家族だとこまる。兄貴も、きちがい的な態度で、相手が言っていることを聞かない。だから、俺がほかの人なら絶対にかかえないトラブルを抱えて、ほかの人から誤解をされるということになる。きちがい兄貴がきちがい兄貴だから、きちがいヘビメタ騒音というトラブルを抱えている。これ、きちがい兄貴のような家族の一員がいる人しかわからない。「ちゃんと言えば、わかってくれる」「俺だったら、ちゃんと言ってわからせることができる」という前提でものを言ってくる。もう、それだけで、不愉快な気持になる。よそのうちの家族は、きちがい兄貴がやるようなことを、実際にやってない。よそのうちの家族は、きちがい親父がやるようなことを、実際にやってない。やられてないからわからないだけだというのがある。
「みんな」見てない。「みんな」知らない。
家族が、知らんぷりで、自分がこまることをやっているということが、どういうことなのかわかってないなぁ。しかも、それが、普通の家の人は、やらないことなのである。普通の家ではありえないことなのである。普通の家ではありえないことを、きちがい家族が、毎日あたりまえのようにやってる。こっちがこまっているということを、認めない。よその家じゃ、絶対にありえないような異常な行為を、毎日あたりまえのように、長時間やっている。これで、生活がくるっていく。そして、みんな、「そんなのは関係がない」と言うのだ。「俺だって苦労した」「だれだってつらい」と言うのだ。けど、その人たちは、きちがい的な家族と、いっしょに住んでない。一秒も、いっしょに住んだことがない。学校や職場で、きちがい的な人にこませられるだけだろ。しかも、きちがい的な人が、「公的な場で」きちがい行為をするなら、「みんな」見ている。「みんな」知っている。けど、「うちのなか」だと、そうじゃないんだよ。「みんな」見てない。「みんな」知らない。
「みんな」きちがい家族による騒音を、聞かされてない。聞かされてないんだよ。どういう生活になるか、わかってない。
* * *
何度も言うけど、きちがい家族と一緒に住んだことがないから、きちがい家族がだす騒音を経験してない。一秒も経験したことがない。普通の家族がだす騒音と、きちがい家族がだす騒音はちがう。やっているときのきちがい感覚がちがうから、ちがう。質、量、ともに、ちがう。
やられたことがないから「そんなのは関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「過去は関係がない」と言うのだよ。やられたことがないから「俺だって、騒音ぐらいあった」と言うのだよ。やられたことがないから「みんな、つらい」と一般化して言うんだよ。やられたことがないから「できると言えばできる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「できると言ったってできない」ということを、思い知らされてないだけなんだよ。きちがい家族に、毎日毎日やられたことがないから「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と妄想的なことを言うんだよ。きちがい家族にやられたことがないから、「暗いことを考えなくても、暗いことが起こる」ということが、わかってないんだよ。思い知らされてないんだよ。
2024年10月29日火曜日
一倍速で経験したあの騒音の意味がわかるはずがない
きちがいヘビメタ騒音がはじまって、他人に対して「劣位」になった……。これが問題だ。しかも、これ、俺の問題なのである。ほかの人は関係がない。きちがい兄貴といっしょに住んでいる俺だけの問題だ。なので、他人は、基本的には理解しない。理解できるわけがない。一倍速で経験したあの騒音の意味がわかるはずがない。「鳴り終わったら関係がない」なんて、言えるはずがない。「鳴り終わったら関係がない」と言っているやつは、本人がどれだけ苦労したつもりでも、たいした苦労なんかしてない。本人が「俺だって騒音ぐらいあった」と言ったって、そいつ本人が経験した騒音というのは、たいした騒音じゃない。何度も言うけど、一倍速で、あの騒音生活を経験したやつが「鳴り終わったら関係がない」なんて言えるわけがないのである。絶対に、口がさけても言えない。そして、そいつの地位は、やはり、他人に対して「劣位」になっているので、他人に対して劣位になるということを、否定したりしない。家族の騒音で他人に対して劣位になるということが、どういうことがわかっているやつが、「鳴り終わったら関係がない」「俺だって騒音ぐらいあった」「そんなのは関係がない」などと言うわけがない。これ、必然性がわかってないのである。どうーーしたって、影響をうける。しかも、鳴り終わったあとも、影響が続くのである。これは無視できる影響じゃないのである。ものすごくしんどいのである。眠れなくなる。睡眠回路が破壊されて、睡眠に関する不安が増大する。この増大度が半端じゃないのだ。それが毎日、つもったらどうなるか、わかっているやつが、「俺だって騒音ぐらいあった」なんて、言うわけがない。
* * *
きちがい兄貴は、知らんぷりだから、一五年間やり続けたとしても、まったくやってないつもりのままだ。これ、ほんとうに、「悪気」がないのである。自分がやったと思ってない状態なのである。けど、じゃあ、「明日、試験があるからやめてくれ」と言って、やめてくれるかと言ったら、やめてくれない。意地になって、全部の時間、自分が満足できるでかい音で鳴らし続ける。つまり、「やっている」。やり続けた。ところが、本人は、まったく、わかってない状態なのである。「やった」ということも、「やり続けた」ということも、「弟がやめてくれと言ってきた」ということも、まったくわかってない状態なのである。あの態度は、全部、そういう態度なんだよ。
* * *
こういうきちがい家族に、毎日の時間を、毎時間浸食されて、いいわけがない。「いいわけがない」ということが、わかってないやつが、アホなことを言う。わかってないから言える、アホなことを言う。言ってくる。断言する。俺が、「きちがい兄貴の騒音はそんなものじゃない」「騒音と言っても騒音の騒音がちがう」「きちがい兄貴の態度は、ぼくが言った通りの態度だ」ということを言ったって、そいつらはそいつらで、認めない。「そんなのはおかしい」「そんなにでかい音で鳴らしているのに、家族が文句を言わないのはおかしい」と言ってくる。
* * *
ともかく、そういうことの、繰り返しで、つかれた。
だから、普通の人が言う「いろいろなこと」が言えなくなる。
からだが、ちがう。やられてない人と、やられた人では、からだがちがう。けど、やられてない人は、「からだの状態」がまったく、わからない。自分なら、やられてもだいじょうぶだという前提でものを言う。けど、その前提がまちがっているのだ。「やられた」ことが、きちがい家族によるきちがい騒音だと、「やられた」ことがある人が、極端に少ない。はっきり言えば、ぼく以外の人はやられてないような状態だ。それであるならば、やっぱり、「からだの状態」がわかってないまま、『わかっている』という状態でものを言ってくるということになる。で、これが、ぼくの生きがたさをつくるひとつの原因だ。きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音で、じゅうぶんに、生きにくくなったけど、その上に、こういう生きがたさがつみかさなる。これは、きちがい家族がいない人にはわからない。きちがい家族がいないので、おなじことを経験したことがない人にはわからない。けど、そっちがマジョリティーなんだよ。ひどいのになると、「そんなのはへんだから、嘘だ」と言ってくる。こんなやつら……。ああっ、こういうやつらも、生きがたさをつくりだしているよ。きちがい家族にやられるとこういうことになってしまう。けど、殺さなければ、きちがい家族はやめない。きちがい的な感覚があるからだ。悪いと思ってないのである。殺さなければ、きちがいかぞくはやめないということも、ほかの人にはわからない。普通の人にはわからないことだ。わからないで当然だ。きちがい家族と一緒に住んだことがないのだからわからない。そして、これが問題なんだけど、きちがい兄貴もまったくわかってないのだ。この「わからなさ」というのが、天を突き抜けている。これがどういう、障害をつくりだすか、まるでわかってないな。障害というのは、ぼくの人生における障害だ。ぼくから見て、人づきあいにおける障害だ。兄貴と、普通の人は、兄貴のきちがい行為がどういう感覚でおこなわれているのかまったくわかってないので、ぼくのほうに、生きがたさがつもるのである。ぼくがへんな人になってしまうのである。ぼくが、ろくでもないい、いわけをしている人になってしまうのである。あの状態だ、全力でやっても、いろいろなところに、きちがい騒音の結果がでる。どーーしても、でる。その必然性が、わかってない人ばかりだ。普通の人と、きちがい兄貴は、まったくわかってない。きちがい兄貴に関しては、自分のことなのにわかってないというのがおかしい。これがブラックホールになってしまう。よく知らない人は、「やっているか」「やっていないか」に関して、常識的に考えるから「やってない」と思うのである。で、きちがい兄貴も、きちがい的な意地でやっているのに、「やってない」と思うのである。これは、きちがいだから、認知機能がそのままぬけおちていて、認知しない。だから、こっちがどれだけ言っても、きちがい兄貴はきちがい兄貴のままだから、わからないままなのである。で、普通の人は、「自分でやっているのにわからない」というのは、おかしいと感じるのである。ようするに、普通の人と、きちがい兄貴は「やってない」と思っていて、ぼくが「きちがい兄貴がやった」と思っている状態が成り立ってしまうのである。普通の人は実際にはやられてないので、やられたときに起こるいろいろなことについて、まったくわかってない。無視してしまう。「俺だって苦労した」と言えば、それで、おなじ苦労をしたことになってしまうのである。「わたしだってつらい思いをした」と言えば、それで、おなじつらい思いをしたということになってしまうのである。けど、きちがい兄貴がもたらす、きちがい的な騒音に関しては、経験してないのである。経験していたら、そんなことは言わない。経験してない人が言う「いろいろなこと」を、全部、言わない。言えなくなる。これ、経験してない人は、むしろ、経験してないから、「いろいろなこと」が言える。その「いろいろなこと」の前提には、「自分なら平気だ」「自分なら影響をうけない」という前提がある。実際に、経験したら、「自分なら平気だ」「自分なら影響をうけない」と言えなくなるのである。だから、普通の人が言う「いろいろなこと」が言えなくなる。
2024年10月28日月曜日
自分がなにをやったのかわかってないということまで含めて、そっくりだよ
きちがい兄貴のヘビメタ騒音だけど、「ただ単にうるさかった」ということではないのだ。そんなことではない。けど、ぼくの話を聴いた、うちの兄貴によるきちがいヘビメタ騒音にさらされない人は、「うるさかったんだな」と思ってしまう。これは、「ただ単にうるさかったことだな」と思ったということだ。でっ、ぼくがどれだけ、なにを説明しても、その人にとっては……そういうふうに思った人にとっては……うちの兄貴によるきちがいヘビメタ騒音というのは、「ただ単にうるさいだけの騒音」なのである。どれだけ「ちがう」と言ったって、そんなのは、そういう人たちに、つうじない。こういうふうに、普通の人たちは、うちの兄貴によるヘビメタ騒音を過小評価したり、無視したりする。ほんとーーに、ちがうんだよ。単なる騒音じゃない。実際に経験してみればわかる。実際に、あの騒音にさらされて、生活してみればわかる。生活ぜんぶにかかわる、重要な出来事だ。何度も言うけど、高熱が出る風邪をひいたような状態で、暮らしていた。ひどい病気になって、頭がまわらないとか、からだがだるいとかという状態とおなじなのである。そして、睡眠が、めちゃくちゃになる。長い期間、睡眠が(毎日)不可避的にめちゃくちゃになるということが、どういうことなのか、みんなわかってない。しかも、睡眠だけではないのである。総合的な病気のようなものなんだよね。あいつは、知らんぷりで、まったく関係がない人としてずっと鳴らしていたわけだけど、あいつが、張本人で、あいつが、こだわってこだわってこだわって、絶対にゆずらないで鳴らしてたんだ。この、張本人が、まったくわかってないという状態が、普通の人にはわからない。俺だって、いろいろと言葉を尽くして説明してきたけど、あの「兄貴の態度」は説明しがたいものがある。そして、きちがい兄貴が、ほんとうにまったくつもりがないし、ほんとうにまったく気がつかないのである。自分が、意地になって鳴らしているということに、気がつかない。普通は、「文句を言われれば」文句を言われたということがわかるのだけど、日本語を理解する前にはねのけて、「文句を言われた」ということが、わからない状態で暮らしている。文句を言われたときの態度というのは、まあ、顔を真っ赤にして、発狂した状態だ。発狂してはねのけると、文句を言われなかったことになってしまうのだ。そういう……総合的な態度がある。相手がいやがることをやったのだけど、相手がいやがることを(自分がやった)ということが、わからないのだ。だれだけ、しつこく、毎日やっても、まったくまったく、わからない。どれだけ、しつこく「やめろ」と文句を言われても、まったくまったくわからない。「やめろ」と言われたとき、どういう気持になるかというと、怒り狂った気持ちになるのである。そして、日本語を理解するまえに、はねのけてしまう。日本語で言われた内容がわからないまま、「はねのける」ことに成功している。だから、日本語で言われた内容がわからないまま、なのだ。「なにか不愉快なことを言われた」という感覚が、発狂的な怒りになって爆発して、「なにか不愉快なことを言われた」というような感覚しか残らない。そして、そのあとやれなくなるのであれば、この感覚も(きちがいどもによって)認識されるのだけど、はねのけて、やりきるから、この感覚も認識されない。自分が、やれなくなって、こまった状態にならないと、猛烈に腹がったという感覚が認識されないままになっている。そうとしか思えない状態なんだよ。合理的に、きちがい兄貴の態度を説明しようとすると、そうなる。あれだけ、怒り狂っていなら、自分が腹をたてたということや、必死になってはねのけたということがわかりそうなものなのだけど、それがまた、ぬけているのである。認識されてない。きちがい兄貴自身のことなのに、きちがい兄貴が認識してない。
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ちなみに、親父もおなじだ。これ、ほんとうに、そっくりなのである。もちろん、自分がなにをやったのかわかってないということまで含めて、そっくりだよ。
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きちがいヘビメタ騒音は、広範な範囲に被害をもたらす「総合的な病気」のようなものなのに、みんな「単なる騒音」だと思っている。どれだけ、からだがだるくなるかわかってないなぁ。ボロボロになって、意欲もなにもかも、めちゃくちゃにされる。あんな状態で、いいわけがないだろ。あんな状態で、普通に風呂に入れるわけがないだろ。あんな状態で、普通に飯が食えるわけがないだろ。あんな状態で、普通に眠れるわけがないだろ。「早めに寝て、起きてから、しずかなときに勉強すればいいんだ」というようなことを言った人がいるのだけど、それだって、実際にはできない。できないことなんだよ。どれだけトライしても、ダメなんだよ。けど、「早めに寝て、起きてから、しずかなときに勉強すればいいんだ」と言った人は「できない」ということを認めない。こまっているのは俺だからなぁ。相手はこまっている人に助言をしてやったということになっている。
こういうのも、何千、何万、何十万とつみかさなると、不愉快なものになる。
やっているときの頑固さと、やったということを認めないときの頑固さがおなじ。
さてと、どうするかな? 片づけることが、しんどい。相当にしんどい。だいたい、ダニが問題なんだよなぁ。きちがい親父がネズミを入れなければ、こういうダニはいなかったはずなんだよな。普通の状態であれば、粗大ごみ屋さんを呼ぶのも簡単だったし、片付けるのも簡単だ。ダニと、ネズミの糞で、大問題になる。
ほんとうに、きちがい親父がやりそうなことなんだよな。最後に、きちがい的な意地で、ネズミの糞を置いていった。
やるまで、予想はできないけど、きちがい的な意地で、くさいものを置いて、ネズミを呼び込むというのが、まず親父がやりそうなことなんだよね。だいたい、そのまえに、俺が反対したのに、なまゴミを物置のほうに毎日うつすという、意味がないことをしていたのである。でっ、物置にネズミがくるようになった。そのときは、家には入ってこなかったから、かかわらないようにしていたのだけど、あれが導火線になっている。まず、ネズミを物置にさそいこんで、次に、家のなかにずっと、魚の粕漬をおくことによって、言えに、ネズミを誘い込んだ。普通なら、ネズミの糞が増えれば、どうにかしようと思うのはずなのに、思わないんだよな。こういうのも、言ってみれば、予想外の反応だ。でっ、「俺がネズミを(ネズミシートで)つかまえるからいい」と親父が言いはった。どれだけ、ネズミの侵入を食い止めないとだめだということを、言っても、聞かないんだよ。これも、親父がやりそうなことだ。全部、親父がやりそうなことなんだよな。そして、「魚の粕漬を一日に二三時間ぐらい、テーブルの上に置いていた」「それを、二カ月以上、毎日繰り返していた」ということを、俺が言うと、親父が「やってないよ!!!やってないよ!!」とキレて絶叫するのだ。これも、親父がやりそうなことなんだよな。こういう意地で、じつは、テーブルの上に魚の粕漬を出しっぱなしにしたのである。「テーブルの上に魚を出しっぱなしにするな」と俺が言ったって、きちがい親父が、頑固に、テーブルの上に置いておくということをやめないのである。こういうときの頑固さが、きちがい的に絶叫して認めないときの頑固さとおなじなんだよ。ちなみに、きちがい兄貴のヘビメタも、これとおなじだ。まったくおなじ。こいつら、ほんとうに、きちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことになっているんだよな。認めるということが、都合の悪いことになった時点で、「やってないやってない」と発狂して認めない。その頑固さがおなじなんだよ。やっているときの頑固さと、やったということを認めないときの頑固さがおなじ。
* * *
「こまるからやめてくれ」と言われたときの反応が、きちがいなのである。普通の人と、ぜんぜんちがう反応がかえってくるのである。親父も兄貴もおなじ。「こまるからやめてくれ」なんて言われたら、エンジンがかかって、顔を真っ赤にしてやりきる。あれ、やったことになってないんだよ。こんなの、くるっている。きちがい以外のなにものでもない。けど、そういうことをやられて、そういう反応でこまっている俺のほうが、ほかの人から「へんだ」と言われてしまうのだ。こまるんだよ。「そんなのは、へんだ」「ちゃんと言えば、わかってくれる」……こういうことを言う、一般人がいっぱいいる。いた。こまるんだよ。一般人の反応も反応で、こまるんだよ。「うち」じゃ、きちがい親父ときちがい兄貴が、一般人が信じられないような反応をかえしてくる。現実の場面を一般人は見たことがないので、わからない。どういう意地で、きちがい行為をしているのか、一般人はわからない。「うち」のきちがいが、どういう意地で、どういう感覚で、きちがい行為をしているのか、一般人は、見たことがないからわからない。うちのなかでしかしてないことだからな。これも、なんか、きちがい親父ときちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことなんだよなぁ。こっちにとって、ものすごく、都合が悪いことだ。
* * *
どんだけ、きちがい兄貴ときちがい親父がやることで、俺がはじをかいたと思っているんだよ? どれだけ……。
これも、きちがい家族といっしょに暮らしている人しかわからない。きちがい家族がどういうことをもたらすのか、普通の人はまったくわかってない。普通の人だって、まったくわかってないということがわかってないというようなところがある。
『そんなに大きな音で鳴らしているのに、親が注意しないのはおかしい(だから、エイリさんが嘘をついている』とごく自然に思ってしまう。……一般人は、そう思ってしまう。「お兄さんと相談すればいい」「家族で相談すればいい」と、一般人は、ごく自然に思ってしまう。それが、どれだけ無理なことかわかってない。
* * *
きちがい兄貴は、きちがい兄貴がやったことで、俺がどれだけこまっていても、知らんぷりだよ。この知らんぷりというのが、また、普通の人の知らんぷりとはちがうんだよ。きちがいの知らんぷりなんだよ。
きちがい親父は、きちがい親父がやったことで、俺がどれだけこまっていても、知らんぷりだよ。この知らんぷりというのが、また、普通の人の知らんぷりとはちがうんだよ。きちがいの知らんぷりなんだよ。
* * *
きちがい兄貴のなかでやってないことになっているみたいなのである。あんなに意地をはってやったことが、やってないことになっているのである。やっているときから、どれだけ文句を言われても、相手がこまっているということがわからないから、こまらせているつもりがまったくしょうじない。普通なら、絶対にわかることなんだよ。言っているわけだからさぁ。ところが、どれだけ言われたって、わからないんだよ。このわからないというのは、日本語がわかるから、日本語の文を理解したけど、いうことを聞いてやめるつもりがないからわからないふりをしているということではないんだ。ここでも、ほんとうに、くるっている。
親父も兄貴とまったくおなじ。これ、無視しているとき起こっていることが、普通の人とはちがうのである。けど、そんなのは、普通の人がわかるはずがない。普通の人は、こういうことに関しても、かならず、誤解をする。曲解をする。普通の人は、きちがい兄貴やきちがい親父のような人と、いっしょに住んだことがないので、わからない。根本的にわからない。
* * *
ぼくの話を聞いて「そんなのはおかしい」と思う人たちのほうが、まあ、正常なんだよ。ヘビメタ騒音の話だって、いろいろと「おかしいところか」がある。けど、事実なんだよ。悲しいけど、事実だ。必然的に、俺が誤解をされる。普通の人から、俺が誤解をされる。俺が誤解をうける。これついて、普通の人に説明したって、こんどは、普通の人が認めないということになる。「そんなのはおかしい」と言って、認めないのである。
2024年10月27日日曜日
その解釈というのは、そいつにとって正しい解釈なのである
きちがい家族にやられたことというのは、きちがい家族にやられたことがないやつが絶対に理解できないことなのである。かならず、曲解する。事実はちがう解釈をでっちあげて、解釈する。そして、その解釈というのは、そいつにとって正しい解釈なのである。だから、きちがい家族にやられたやつらは、きちがい家族にやられてないやつらからも、やられるということになる。そりゃ、まちがった解釈は攻撃だ。頭がおかしいことを言ってくるやつといっしょにいるようなものだ。こいつらは、きちがい家族とはちがう。普通の人だ。だからこそ、きちがい家族が家でなにをするのか、まったくわかってない。きちがい家族の影響がまったくわかってない。普通の家族の影響だと思っている。ぜんぜん、ちがう。
自分の!!普段の生活においては、「過去は関係がある」と思って生きているのである
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんにとって、Bさんの身に起こった出来事と言うのは、Aさんにとっては、関係がないことだ。
Bさんの身に起こった出来事というのは、Bさんにとって、関係があることだ。Aさんが、Bさんの身に起こったことを、過小評価するのだ。
Bさんの身に起こった過去の出来事は、Bさんの今現在の状態に影響をあたえないと勝手に判断して、そのように言っているのだ。
さらに、「過去は関係がない」という言葉は、じつは、抽象度が高い言葉であって、集合的な範囲がひろい。これがまったくわかってないんだよな。どうして、Aさんが、抽象度の高いことを言ってしまうかというと、自分に関係がないからだ。自分は影響をうけてないからだ。
Bさんは影響をうけているけど、Bさんの身に起こった過去の出来事は、Aさんに影響をあたえてない。その場合、「自分」を中心にして考えると、「過去は関係がない」と言いたくなる気持ちになるのだ。
自分自身の出来事に関しては、自分自身の出来事なので、過去の出来事が、いまの自分自身に、どういう影響をあたえているか、理解している。
けど、それは、自分自身の出来事だからだ。ほかの人の出来事は、自分自身の出来事ではないから「関係がない」。「関係がない」ので、「過去は関係がない」と言ってしまう。
Bさんの過去の出来事は、今現在のAさんに、影響をあたえていないのである。
だから、Aさんにとっては、「関係がない出来事なので」……「過去は関係がない」と言ってしまう。Aさんにとって、Bさんの過去が関係がないということと、Bさんにとって、Bさんの過去が関係がないということが、なんとなく、おなじことのように感じてしまうのだ。
ここらへんは、想像力のなさが影響している。他人の立場になって考えることがへたくそなので、自分に関係がなければ、相手にとっても関係がないことだと、考えてしまう傾向が強いのである。
「苦労」とおなじように、「過去」というのは、抽象度が非常に高い言葉なんだよ。「困難」とおなじように「過去の出来事」というのは、抽象度が非常に高い言葉なんだよ。
そうなると、集合としては、かなり多くのものを含むようになる。
集合の範囲がでかいのである。
これがわかってないんだよな。抽象化した時点で、Bさんにおける過去の出来事が、どういうふうにBさんに影響をあたえているのかということが、関係がないことになってしまうのである。
あたかも、Bさんの過去の出来事が、Bさんの現在の状態に影響をあたえていないような気持ちになってしまうのである。
ようするに、自己中心性が強いので、影響のでかさを、あんまりうまく考えることができないのである。自分にとって関係がないということと、相手にとって関係がないということが、ある程度だけど、一致してしまうのである。
「過去」という抽象度が高い言葉を使ったとき、抽象度の高さから、Bさんの現実的な意味が抜け落ちてしまうのである。言っておくけど、Aさんにおける、Bさんの現実的な意味だ。Bさんにおける、Bさんの現実的な意味ではない。
現実的な意味というのは、過去の出来事が、現在のBさんの状態に影響をあたえているということがもつ意味のことだ。
もちろん、Bさんにおける意味だ。Aさんは、Bさんにおける意味を、抽象度が高い言葉を使ったときに、捨象してしまう。切り捨てて、無視してしまう。
けど、Aさんにとって、Aさんの過去の出来事は、普通に、意味をもつものなのである。影響力について、具体的に考えることができることなのである。
だから、自分の!!普段の生活においては、「過去は関係がある」と思って生きているのである。
病気になったという過去の出来事を否定すれば、病気がなおるのか?
「過去は関係がない」と言うやつらがいる。
こいつらは、普段、過去を気にして、過去の記憶を頼りにして暮らしている。
「過去は関係がない」と言ったやつが、なんかの病気になったとする。まあ、手術をして生きのこったとする。
けど、後遺症が残ったとする。
「過去は関係がない」のだろうか?
なんかの病気になったのだって、拡大して見れば、分子レベルの移動や変化があったから、なんかの病気になったのだ。分子レベルの移動や変化が発生したという過去の出来事は、関係がないのか?
「過去は関係がない」と言えば、後遺症がなおるのか?
後遺症が残った結果、できないことが発生したとする。そのできないことは、「過去」を否定すれば、できるようになるのか?
「過去」を否定したってできるようにはならない。
「過去の出来事の結果」できなくなったのである。
練習をすれば、補える部分があるとする。これだって、「後遺症が残った」という過去の出来事が関係している。練習をしても、おぎなえない部分があるとする。「過去は関係がない」と言って、過去を否定すれば、できるようになるのか?
そんなことはない。
ほかの病気でもいい。
病気になったという過去の出来事を否定すれば、病気がなおるのか?
「過去は関係がない」と言って、過去の出来事を否定すれば、病気になるまえの状態にもどるのか?
こいつらは、自分ことに関しては、「これこれだから、これができなくなった」というようなことを言うのだ。「階段から落ちて、けがをした」というようなことを言うのだ。
過去の記憶があり、過去の出来事が影響をあたえていると認識しているから、そういう発言をする。
自分がやっていることがわかってない。普段、自分がどういうふうに生活しているのか、まったくわかってないのだ。
「過去は関係がない」なんて、口がさけても言えないような生活をしている。
こういうところも、なんか、兄貴に似ているんだよな。自覚がないんだよなぁ。自覚がまったくない。クチからでまかせばっかり……。
自分の普段の行動を否定することを、言って、まるで気にしない。
なんかの病気になって、その結果、なにかができなくなったとする。時系列的にはなんかの病気になったということがさきだ。つまり、現時点においては、なんかの病気になったということは、過去の出来事なのである。
現在、なにかができなくなったのは、過去の時点においてなんかの病気になったからだ。過去は関係がある。過去の出来事が、現在の状態に影響をあたえている。
「過去は関係がない」と言えば、過去の出来事からフリーになって、なにかができないという現在の状態がかわるのかといえば、かわらない。「過去は関係がない」と言ったって、現在の状態は、かわらない。
現在の状態がかわるには、現在の状態をかえるようななにかが発生しなければならないのである。そして、未来のある時点から考えれば、現在の状態をかえるようななにかが発生したということは、過去の出来事なのである。
2024年10月26日土曜日
毎日の生活に与える影響がわかってない
バイトをしたときだって、「これはもう、死ぬしかない」「これはもう、自殺するしかない」という気持になった。これは、ヘビメタ騒音でそういう気持になっているのである。睡眠回路が破壊されて、どうしても、決まった時間に起きることができないのである。だから、時たまであれば、もう、眠ることをあきらめて、起きたまま、行ったということが、何回もある。けど、それは、からだに負担がかかることなんだよ。じゃあ、帰ってくれば眠れるのかというと、そうではないのだ。つかれているから、すぐに眠れると思うかもしれないけど、ぜんぜんちがう。つかれていても眠れない状態で時間がすぎていく。どれだけつらいと思っているんだ。次の日だって、仕事がある。バイトがある。そういうことを言うと、一週間に三回、一日おきに働けばいいというようなことを言う人がいるけど、それでは、おなじことなるんだよ。まったくわかってないなぁ。ともかく、きちがいヘビメタ騒音で、睡眠回路が完全に破壊された。破壊されるまで、俺は、七年間毎日、がんばり続けてきたんだ。眠れない状態で学校に行って帰ってきて、ヘビメタ騒音にさらされて……何時間も何時間もさらされて……つかれているのに、眠れないという状態で起きていた。そして、きちがい蛇目騒音が鳴り終わったあとも、つかれているのに、眠れないという状態だったのだ。だから、前の日とおなじなのである。これが、どれだけつらいか、同等の騒音を経験した人しかわからない。おなじレベルの騒音を、おなじ期間の長さ、毎日、経験した人じゃないとわからない。みんな、軽く考える。きちがいがいないから……家族に気ちがいがいないから、きちがいが本気で、こだわってこだわってこだわってやる騒音がどういうものか、まったくわかってない。わかってないから、俺のからだの状態もわからないのに、「俺だって騒音ぐらいあった」と言って、同等の騒音を同等の期間、経験したということにしてしまって、くそを言う。そいつらが、普通に通勤できているのであれば、それは、同等の騒音を経験してないということだ。同等の騒音を同等の期間、経験していれば、絶対にそんなことは言えなくなる。どうしてかというと、働けなくなるからだ。通勤して働けないからだになっている。だから、通勤して働ける体を維持しているという点から考えて、同等の騒音を同等の期間、経験してないと言える。けど、こいつらは、無職に対して偏見がある。ものすごく強烈で、ものすごく根が深い偏見だ。こいつらは、同等の経験がないから、きちがい家族が、しつこく鳴らす騒音の意味がわかってない。毎日の生活に与える影響がわかってない。だから、「理由がなんであれ、そのとしで、働いてないのはおかしい」と感じるわけなんだよ。「騒音ぐらいで働けなくなるわけがない」と思うわけだよ。なおさら、ヘビメタ騒音が終わった、二六歳以降に関しては、「過去のことは関係がない」とぼんくら野郎が言える状態になる。二五歳の、途中で、きちがいヘビメタ騒音から解放された。けど、おそいんだよね。小学六年、中学一年、中学二年、中学三年、高校一年、高校二年、高校三年のあしかけ七年間で、おしまいだよ。普通に通えるわけがない。死にものぐるいになって、無理をして無理をして、七年間通って、睡眠回路がこわれた。一日だけでおかしくなったのはなくて、七年間、かかっている。その七年間の重みがわかってないやつが、なにを言うのか?
こいつらが、病気になって働けなくなったとする。そうしたら、ぼくは、こいつらの枕元に行って、「人間は働くべきだ」「そんなことは関係がない」「そんなのは、あまえだ」「過去は関係がない」「できると言えばできる」と言ってやるのさ。言われたら、どう思うか? 言われたらどう思うか、経験すればわかるよ。
ほんとうに、毎日のきちがい家族騒音で、どんな生活になるか、まるでわかってないなぁ。「自分なら鳴ってたって平気だ」という前提で、クソを言うな。まちがった前提にたって、妄想的なことを言うな。
「家族の悪口を言うなんて、なんて悪いやつだ」と思うやつがいる
ヘビメタ騒音で「通勤して」働けないからだになったということを言ったけど、それは、一日でできあがるようなものではないのである。当時、俺は、ちゃんと説明していたのである。きちがいではないけど、バカである、俺と同等の経験がない人たちが、「無職だ」ということで、俺を軽蔑したのである。当時の無職というのは、いまの無職とはちがう。ほんとうに、軽蔑してしかるべき存在だったのである。「アルバイト以外で働いたことがない」と三〇歳の人間が言えば、めちゃくちゃに、バカにされた。なんか、俺が悪いことをしたような反応なのである。俺が犯罪者であるかのような反応なのである。「そんなのはおかしい」と一瞬で思って、あとは、「こいつは、気持ち悪い」というような反応もあった。「そんなのはおかしい」と相手が思ったと俺が思っただけではなくて、ちゃんと相手は、そういうふうに、言ったんだよ。「そんなのはおかしい」「そんなのは、異常だ」と言って、完全に犯罪者扱いだったんだよ。アンタッチャブルでもある。だから、「そんなのはおかしい」「こんなやつとかかわるのはいやだ」と思ったやつは、裏にまわって、俺がいないのところで、「あの年で働いたことがないなんておかしいよなぁ」ということを言っていたのである。そういう人間が複数いれば、そいつらが、裏で、俺の悪口を言って盛り上がっていたのである。複数いる状態がしょうじるのは、俺が、正直に、無職だということを、言ったからである。正直ないい人なのである。えーっと、これ、ほんとうに、当事者じゃないとなかなかわからないことなのだけど、「自己紹介」で、自分をどういうふうに言うかというのがものすごく問題なのである。これ、つきあいが、ある程度継続しそうな場合であって、嘘をついても、ばれるか、あるいは、嘘をついてつきあうのがくるしい状態になりそうな場合は、俺は、正直に、自己紹介の場面で、無職だということを言っていたわけ。もちろん、ヘビメタ騒音のことは、過不足なく、つたえた。けど、もちろん、時間制限がある。ここで書いているような深い話をするわけにはいかない。そして、たとえば、ここで「きちがい兄貴」と書いているけど、自分の家族のことを「きちがい」と修飾して、言うやつに対する、嫌悪感というものも、普通の人は……普通の家族のなかで育った人は感じるようだ。「きちがい親父」とか「きちがい兄貴」とかということを言えば、「自分の家族のことをそんなふうに言って(ひどいやつだ)」と感じるやつがいたわけだよ。ほんとうに、「きちがい」とつけないと、説明ができない部分がある。「きちがい」とつけないで、説明をすると、「矛盾がある」「おかしい」と感じるのである。これは、話を聴いた人だけではなくて、言っている人間だってそう思うのだ。きちがいという言葉をつけないで、説明すると、おかしなことを言っているような感じになってくる。矛盾があることを言っているような感じになってくる。「きちがい」でなければ、やらないことを、きちがい兄貴やきちがい親父が、毎日のようにしてきたんだよ。ぜんぜんちがうんだよ。普通の人のうちとは、ぜんぜんちがうんだよ。「親の悪口を言うんなんて、なんてひどいやつだ」と思うやつがいる。兄貴のことに関しては「家族の悪口を言うなんて、なんて悪いやつだ」と思うやつがいる。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、きちがいヘビメタ騒音を鳴らし続けなかったらこんなことになってない。きちがい親父が、家にいれば、四六時中、きちがい行為をしていなければこんなことになってない。
2024年10月25日金曜日
これは、こいつらの頭のなかでおこなわれる自動変換だ
こんなやつらといっしょにいて、おもしろいわけがない。無価値。マイナス。マイナスの時間だ。マイナスの体験だ。マイナスでしかない。俺が、ヘビメタ騒音について説明したのに、ヘビメタ騒音の影響をガン無視して「人間は働くべきだ」と言ってくるやつは、くず。頭がわるい。バカの壁を感じる。こいつらはこいつらで、どれだけ説明したって、理解しない。そもそも、こいつらは、きちがい家族といっしょに住んでいないので、きちがい家族にやられるということがない。ようするに、きちがい家族にやられた経験がない。ところが、「俺だって苦労した」と「苦労」を一般化、均質化、同質化してしまえば、おなじことを経験したことがあるということになってしまうのだ。これは、こいつらの頭のなかでおこなわれる自動変換だ。そして、この考えを放棄することが、ほとんどない。こいつらが、この考えを放棄して、ぼくが言っていることを理解する確率はおおく見積っても、〇・〇〇〇〇〇〇〇一%ぐらいだ。過去において、理解してくれた人が、ひとりもいない。ぼくの経験の範囲で言えば、こういうことを言ってきたやつが、理解してくれたことが、一度もない。こいつらだって、自分の考えを否定されれば、機嫌が悪くなる。たとえるなら、言霊主義者が言霊理論を否定されたときのような気分になる。これまた、ぼくの経験の範囲なのだけど、言霊主義者が言霊理論を否定されて、理解してくれたことが一度もない。ぼくが言っていることを(言霊主義者が)理解してくれたことが、一度もない。
ともかく、ヘビメタ騒音の話をしたあとに「人間は働くべきだ」とか「できると言えばできる」とかと言ってきたやつらと、二度と会いたくない。こいつらといっしょにいる時間は、むだ。有害。
* * *
きちがい兄貴がやったことが、非常識なことだから、こういう誤解がうまれる。普通の人は、きちがい家族と一緒に住んだことがないので、わからない。けど、普通の人だって、当然、苦労はしている。「騒音」がいやだなと感じたことがある。けど、それは、ちがうんだよ。けど、経験がない人に、どれだけ「ちがうんだ」と言っても、相手(経験がない人)は理解してくれない。誤解回路が発動するので、理解してないということも、理解してくれない。こいつらは、こいつらで、自信満々なんだよ。
こいつらも、こいつらで、案外、頑固に認めない
きちがい兄貴の態度について、わかっているやつらがいない。きちがい兄貴の脳みそについて、わかっているやつらがいない。普通の人たちが、普通の兄だと思ってしまう。ところが、ちがうんだよ。きちがいとしか言いようがない態度で、きちがい的な意地で、鳴らす。そして、きちがい的な感覚で、あたかも鳴らしたことがないような態度で、生活をしている。みんな、ほんとうにわかってない。
長く続くということに関しても、まるでわかってない。そりゃ、きちがい的な兄貴がいないうちでは、そんなに長く続く騒音なんてないからだ。わかってないから、からだにおける影響も、精神面における影響もわかってない。そして、それが、つみあがってしまった場合おける、履歴の影響がわかってない。からだに影響をうけて、精神面で影響をうけて暮らしているのだから、不愉快な出来事がいっぱいしょうじるのである。だいたい、きちがい兄貴が……つまり、きちがい的な家族が……よそじゃ鳴らしてないような音で、ガンガン、何時間も何時間も鳴らし続けるということ自体が、不愉快な出来事なんだよ。けど、この出発点となる、不愉快な出来事は、そこで終わるわけではない。その日、鳴り終わったら、それで、不愉快な出来事が終わるわけではないのだ。その日、それまでに聞かされた騒音の影響で、眠れなくなる。鳴り終わったあとも、風邪をひいて熱が出たときのように、くるしい。けっきょく、くるしいまま、つかれているのに、眠れないということになる。そして、この出来事が、また、不愉快な出来事を引き起こすのである。どれだけがんばって、学校に行ったとしても、学校で、「昨日、ヘビメタが鳴っていたからしょうじる不愉快なこと」が発生するのである。そりゃ、前日、ヘビメタ騒音が鳴っていて、眠れなかったから、元気が出ないわけで、元気が出ないのに、無理やり気をはって学校で事業をうけるということがつらいことなのである。それは、ヘビメタ騒音が鳴ってないときとは、ぜんぜんちがうつらさなのである。ヘビメタ騒音が鳴ってないときは、つまらない授業でもただ単に、つまらないだけで、そんなにつらい授業ではないけど、ヘビメタ騒音で、睡眠がじゅうぶんでない場合は、つまらない授業ではなくて、つらい事業になるのである。前日、ヘビメタ騒音を浴びせられて……何時間も何時間も浴びせられれば、かりに、睡眠がうまくいった場合だって、影響がある。その日、前日のヘビメタ騒音の影響があらわれる。あんな、高ストレス状態で何時間も生きていて……生きるという活動を続けていて……次の日に影響がないわけがない。それは、睡眠ということをぬかして考えても、そうなのである。睡眠がかかわれば、もっと、影響をうけることになる。そして、ヘビメタ騒音の影響が睡眠にあらわれないということはない。どれだけ、努力をして、影響をうけないようにしても、影響があらわれる。不可避的にあらわれる。こういう思いをしたことがないやつが、「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。ほんとうに、「ふざけんな」と言いたくなる。けど、そこで、ぼくが「ふざけんな」と言ったら、どうなるか? 相手は、おこってくるのである。自分がまちがったことを言ったとは思わないのである。自分は正しいことを言ったと思ったままなのである。何度も言うけど、この態度は、きちがい兄貴やきちがい親父の態度と、寸分、似ている。仕組みはちがう。きちがい兄貴ときちがい親父の感覚は、特殊すぎる。普通の人と、きちがい兄貴は、その感覚においては、似ていない。けど、俺が言ったことを認めるかどうかということだけに着目すると、俺が言ったことを認めないという点で、だいたい、おなじなのである。こいつらも、こいつらで、案外、頑固に認めない。「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」という自分の意見に固着して、「関係がある」「影響がある」という俺の意見は、認めないのである。俺が説明したあとも、頑固な言霊主義者のように、認めない。
2024年10月24日木曜日
わかってないやつに、わかったようなことを言われる人生だったなぁ
わかってないやつに、わかったようなことを言われる人生だったなぁ。これが、生きにくさの一部分を形成している。
けど、「人間は働くべきだ」と言ってきたやつが「生きがたさについて考えよう」なんて言うのだ。
おまえが、つくっているんだよ。
ああっ。言いなおす、おまえがつくっている部分もある。
「人間は働くべきだ」というのは、「人間は働くべきだから、エイリさんも働くべきだ」「(エイリさんが)働かないなんて言うのは、ゆるさない」という意見なのだ。
けど、俺は、こういう人にも、ちゃんとヘビメタ騒音のことを説明した。
そして、「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、働けない」ということを言った。
そうすると、こういうやつらは、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「ヘビメタ騒音が鳴っていたから、働けないということはない」ということを言い出すのだ。こんなの、ケンカを売っている行為にひとしい。
けど、こういうやつらは、ほんとうに頭がわるいので、ケンカを売っているような行為だとは思ってないのである。
そうではなくて、「自分は正しいことを言った」「自分は、いい助言をした」と思っている。
こいつらが、俺の説明を聞いて、たしかに、「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような騒音だ」ということを認めるということは、ないんだよ。
ヘビメタ騒音というのは、すべてのヘビメタ騒音のことを言っているのではなくて、もちろん、きちがい兄貴が、うちで鳴らしたヘビメタ騒音のことなのである。
ようするに、きちがいヘビメタ騒音に俺がさらされたぶん、(自分が)さらされても、働けるという認識をもっているわけ。
で、これは、経験がないからわかってないだけのことなんだよ。
こいつらだって、俺とおなじ年齢から、俺とおなじ期間、自分が一番きらいな音という意味で、ヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けたら、働けなくなる。
けど、そいつらは、基本的に、おろかなので、それがわからない。
想像力でおぎなうということができない。相手の立場になって考える場合の、想像力がとてもとても、低い。とてもとても、低いレベルの想像力しかないので、わからないままの状態にとどまる。だから、本人は、考えたつもりでも、考えてないような状態が続く。
ともかく、『ヘビメタ騒音相当の騒音にさらされ続けても、自分なら働ける』という前提でものを言ったやつのことは、ゆるさない。いまでも、当時のことを思い出すと、ほんとうに、腹がたつ。ゆるしがたい。ゆるせない。
ちなみに、ここでいう「働く」というのは、「通勤して働く」ということだ。こいつら、ほんとうに、「七年間の学校生活」で、睡眠回路が破壊されるということがまったくわかってないな。
普通に働く体力が、破壊されるというとがまったくわかってないなぁ。
きちがいヘビメタがはじまってからの学校生活というのは、めちゃくちゃにつらいものだった。あんなことを、やられて、睡眠回路が破壊されないわけがない。
一日が、どれだけつらいものになるか、こいつらはわかってない。
わかってないのに、えらそうなことを言う。
いや、わかってないから、えらそうなことを言う。
自分だって、ほんとうに、自分がきらいな音で、おなじ騒音にさらされ続けたら、通勤して働くことができなくなるのに、それがまったくわかってない。
実際には、人生のなかでそういうことが、発生しなのかったのである。そういうことが発生しなかったのは、そいつらが俺よりすぐれているからかというと、そうではない。きちがい行為をきちがい感覚でやり続ける、きちがい的な家族がいなかっただけだ。
いなかったから、きちがい家族が、血相を変えて、こだわってこだわってやることを、経験してない。
きちがい家族なので、どれだけ言っても、まったく通じない。きちがい感覚で乗り越えて、自分がやりたいことは、一〇〇%やってしまう。一〇〇%やっているのに、「ゆずってやった」と本気で思っているきちがいだ。
こんなの、きちがいでしかない。こんなの、きちがい以外にできないことだ。
きちがい感覚が前面に出て、きちがい的な感情にかられて、「ゆずってやらなかった」のである。たとえば、一日に一三(じゅうさん)時間、鳴らすとして、一日に一三時間、全部、きちがい的な音でならしているにもかかわらず……つまり、よそでは絶対に鳴らせないようなでかい音でずっと鳴らしているのにもかかわらず「ゆずってやった」と本気で思っているのである。
一日に一三時間、とてつもなくでかい音で鳴らしているのに「ずってやった」と本気で思っているような状態なのである。きちがい感覚が成り立っているので、そうなる。
無意識的なレベルで、感覚器を遮断して、でかい音で鳴らしているに普通の音で鳴らしていると思っているところで発揮される……きちがい感覚と……一日に一三時間ずっとでかい音で鳴らしているのに、「ゆずってやった」思うことができるきちがい感覚……は、ちがう。
けど、でどころは、おなじような感じがする。ともかく、このふたつは隣接領域の「きちがい感覚」だ。きちがい兄貴の頭のなかで、ほぼおなじところから出てくるふたつの感覚だ。
* * *
きちがい家族が、きちがい感覚で、ずっと鳴らしているような状態だと、ぼくが、必然的に、ほかのやつから、バカにされるのである。きちがいヘビメタ騒音で能力がさがり、きちがいヘビメタ騒音で障害が発生しているのに、ほかのやつらは、そういうことを、一切合切、認めない。何度も言うけど「自分なら平気だ」と思っているのである。自分なら平気だと思っているので、能力がさがってしまうエイリさんは、ダメだということになってしまうのである。あまえているということになってしまうのである。自分なら平気だと思っているので、障害が発生してしまうエイリさんは、ダメだということになってしまうのである。あまえているということになってしまうのである。「そんなのは、あまえだ」ということになってしまうのである。言霊主義者なら、「できると言えばできる」と言ってしまうのである。努力論者なら、「努力をすれば成功する」と言ってしまうのである。こいつらは、自分の言っていることによっているけど、この発言は、相手のことをまったく考えてない、クソ発言だ。頭にきて、頭にきてしかたがない。けど、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったら、「そうですね」ですませることができたことだ。こいつらとだって、別に対立する必要がない。
こいつらのなかでは、
毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/
ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。
●ヘビメタ騒音というのは
ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。
あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。
認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。
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