2023年2月28日火曜日

あーー、俺はいったいなにをやってたんだろうな

 記憶の残滓、残骸。

あーー、俺はいったいなにをやってたんだろうな。ヘビメタ騒音期間中も、ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとも、めちゃくちゃにくるしい。くるしい記憶しかない。暗い気持ちで、さ迷い歩いていた。あとは、寝ていた。どっちもくるしい。 

たとえば、まだ気ちがい兄貴がこのうちにいて、ぼくがアパートを借りていた期間があるのだけど、その期間中だって、ヘビメタが鳴っていた。飯代を浮かすために、家に帰ってきてご飯を食べてたのだけど、ご飯を食べているあいだ、「あの」きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた。俺の勉強時間をぶち壊したヘビメタ騒音が鳴っていた。家から、アパートに向かうあいだ……アパートから家に向かうあいだ……ふがいない気持ちでいっぱいだ。

みんな、わかってないけど、ほんとうにものすごい音なのである。そして、きちがい兄貴のきちがい頭が、ものすごく頑固な状態で凝り固まっているのである。刺し殺さなければ、あるいは何らかの方法で殺さなければ、絶対にやめさせることができない。そして、きちがい兄貴の音が、気にならなかったかと言えば、気になった。きちがい兄貴が、あの音で鳴らしていて、影響をうけないということがないである。そういう一日が、どれだけつらいか、どれだけくやしいかわかってないと思う。それが何年間も毎日つみかさなっていいわけがないだろ。この時代の、学生なのだから。「家で勉強することができない」「家で勉強すると、いやなイメージが、教科の内容についてしまう」というようなことが、本当の意味でわかってないやつが、なにを、わかっているというのだ。くやしいにきまっているだろ。破滅的な気分になるに決まっているだろ。たとえば、ひとことで「それが何年間も毎日つみかさなって……」と書いたけど、「何年間も毎日」の意味がわかるわけがない。「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、過去のことなら関係がない」なんて言うやつは、やっぱり、ぶんなぐりたい気持ちになるんだよ。そして、ぶんなぐらずに帰ってきたということにふがいなさを感じる。「言いきれない気持ち」がしょうじる。まるでわかってないな。どういう状態で、どういうことがもたらされたのか、一倍速で経験してみろ。この部屋で、あの騒音を経験してみろ。「ヘビメタ騒音が鳴っていたって勉強はできる」なんことはないんだよ。まあ、そいつが、ヘビメタ大好き人間ならできるかもしれないけど、そいつにだって「にがてなおと」はあるだろう。ヘビメタの音のでかさで、その音が鳴っていたら、どうなんだよ。あれは、ほんとうに、勉強ができない状態だ。勉強だけじゃないのである。勉強だけじゃない。ともかく、ヘビメタ騒音をあびてしまうと、眠れない状態になってしまうのである。

2023年2月27日月曜日

だから、「病気は精神から生まれる」「精神が病気をつくる」というようなことは、ない

 精神世界の人というのは、生まれの格差・下の人にケンカを売っているようなところがある。『精神的な人の思考』のなかでは、常に、『物理的なこと』が無視されるのである。

すべてが、「精神」の話になる。しかし、われわれは、肉体をもっており、肉体を使って生活をしているのだから、肉体は、物理法則にしたがう。からだに取り入れてしまった物質の影響をうける。

どうして、からだに取り入れてしまった物質の影響をうけるかというと、分子レベルの運動があるからだ。結合や移動も含めて、運動と言っている。

分子レベルと言ったけど、もちろん、原子レベルの運動も含んでいる。これ以降、分子レベルと言ったら、原子レベルのことも含んでいると思ってほしい。

だから、「病気は精神から生まれる」というようなことは、ない。注射をして、物質が体の中に入れば、物質の影響をうける。

その場合、ものによっては、うけないような感じがする場合があると思うけど、かならず、うける。

量がすくなくて、なおかつ、すぐに「分解」されてしまうようなものに関しては、うけないような感じがするかもしれないけど、かならず、うける。

「分解」されたということは、分子レベルの運動の結果、ある物質が分解されたということだ。意識レベルにのぼるかどうかにかかわらず、分子レベルの運動はある。そして、構造的な変化をうみだしてしまうものに関しては、長期間、そういう身体を背負って生きるということになるのだから、当然、長期間、影響をうけるということになる。

分子レベルの運動の結果、なんらかの長期的な障害がしょうじたとすると、当然、その肉体をつかっている以上、生活に変化がしょうじる。これは、あることができるとか、あることができないということに、影響をあたえる。

特に、体内のなかで起こっている変化に関しては、表面から見て、判断するということがなかなかできないわけだから、問題がある。ようするに、腕がないとか足がないというような見てわかる障害ではなくて、体内の「見えない部分」に障害があると、他人や自分からは見えないわけだから、他人や自分の判断に影響をあたえる。

たとえば、Aさんと、Bさんがいたとする。Bさんが、見えない部分に障害を抱えているとする。その場合、Aさんからは、Bさんの障害が見えないわけだから、「Bさんができるかどうか」ということに関するAさんの判断に影響をあたえる。ヘビメタ騒音が脳内にあたえた影響、ヘビメタ騒音が副腎にあたえた影響は、他人からは見えない。本人だって、「見て」確認することは、通常できない。

その場合、「エイリさんは働ける」とそとから見て思った人は、ぼく(エイリ)が働けないと言うと、それは、あまえだと判断する。そして、「病は気から」「病気は精神からしょうじる」というような考え方をもっている人からすれば、「こころのもちよう」で、そんな障害はなおってしまうということになる。あるいは、最初から、障害はしょうじていないということになってしまう。

これが、やっかいなのだ。

きちがい家族によるヘビメタ騒音がどういう騒音なのかわかってない。それがどれだけ毎日の生活に影響をあたえるかわかってない。そして、それが、数千日も繰り返された場合は、言ってみれば「定着してしまう」「固定的な症状になる」ということが、わかってない。これは、物理刺激によって、しょうじた障害だ。

けど、経験した人じゃないと、わからないことなのだ。「そうなる過程」を一倍速で経験すれば、たしかに、そういう障害が(人間には)しょうじるということが、自身のからだをもってしてわかるのだけど、自分のことでなければ、わからない。 

精神的なことだけを重視する人は、分子の運動を無視してしまう。あるいは、分子の運動の結果を無視してしまう。精神的なことだけを重視する人の足を切断すれば、血が流れる。これは、分子の運動だ。

さらに、その結果、足がなくなった場合は、そのときのナイフを構成する分子と、自分の足を構成する分子の運動の結果、足がなくなったということになる。精神的なことだけを住する人なのであれば、血が流れず、足をうしなうということはないのである。

精神的なことだけを重視する人が、致死量の青酸カリを飲み込めば、死ぬのである。

それは、青酸カリの分子と、その人の肉体を構成している分子の『運動の結果』なのである。「病気は精神から生まれる」と考えている人は、自分が致死量の青酸カリを飲んでも、死ぬことがないと思っているのである。

どうしてなら、「病気は精神から生まれる」からだ。

精神が、青酸カリの物理的な運動を受け入れなければ、肉体は、青酸カリの物理的な運動をうけずにすむのである。あるいは、青酸カリの影響は、精神がつくっているのである。

こういう、妄想は、人を傷つけるので、よくない。

自分の肉体にのみ、その法則を適応していればいい。ただ、本人がそう思っていても、本人が人であるならば……人間の肉体をもつのであれば……取り入れた物質の影響をうけることになる。不可避的に受けることになる。物質がある種の毒であれば、病気がしょうじる。

こういう人たちの考え方は、「病気にならない」と言えば、病気にならないと思っている言霊主義者とおなじなのである。思っているだけ……。肉体を無視したから、そういうふうに考えているだけだ。

けど、『考え』と『本人の肉体』はちがう。本人の肉体だって、人間の肉体なのだから、人間の肉体としての特質をもっている。その特質に反応する物質を取り入れれば、人間の肉体とその物質との間に物理的な運動がしょうじる。

これは、意識では、どうにもならない。この運動を意識で制御することがでない。この運動を意識で制御することができないので、この運動の結果は、意識とは関係なくしょうじる。

ただ、「俺は病気にならないと思っているから病気にならない」とうそぶいている人とおなじなのである。そういうレベルのことを言っているだけなのである。

むしろ、「俺は病気にならないと思っているから、病気にならない」と言うことは、肉体の分子的な運動の結果なのである。脳内の物質的な運動の結果なのである。そういうことを思える、そういうことを言えるというのは……彼らが無視している……人間の肉体のおかげなのである。『脳みそ』という臓器をふくんだ『人間の肉体』のおかげ……。

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本人の「精神」が現実をつくりだしているというのも、まちがっている。自分の精神が、現実の物質的な世界に影響をあたえているのである。影響をあたえているというのは、この場合は、現実をすべてつくりあげているということなのである。

たとえば、DS支配者が、ワクチンを接種させようとした……。これは、現実だ。

そういう現実もすべて「自分」の「精神」がつくりあげた現実だと、思い込もうとしているのである。こういう、「わな」がある。これは、まちがっている。

けど、いろいろな言い方で、このコンセプトがあらわれて、その人を幼稚な状態にしてしまうのである。その人の個人的な「精神」がすべての世界を構成しているなんてことはないのに、そうなのだと信じ込んでしまう。

このトリックは、いろいろなところで成り立っている。「精神が病気をつくる」いうのもこのトリックのひとつだ。分派みたいなものだ。 

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自分の精神が、現実をつくっている……のである。けど、ちがう。

「自分の精神」が「現実のありよう」を決定しているというのは、その通りなのだけど、それは、自分がかかわっている範囲で、そのように『考えることができる』というだけの話だ。

別に、ほんとうに、物理的な現象まで、ふくめて、「自分の精神」が「現実」に反映しているわけではないのである。この、現実が自分にとってどういうふうに見えるかとという問題と、物理的な問題をごっちゃにしているだけなのである。

自分がかかわってない、世界の動き……他者の動き……というのは、自分の精神とは関係なしに動いている。他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。他者も、自分のように「自分の精神」をもっている存在なのである。

これがまったくわかってない。

他者は、「自分の精神」のなかで、集合的であり、自分の精神との通りに動く他者なのである。これは、傲慢だ。ほんとうに、他者は他者で、「自分の精神」があるということが、根本的にわかってない。

自分の精神をもってる他者というのが、自分の精神のなかで生きている、他者全体なのだ。

だから、他者全体の動きからしょうじる結果も、自分の受け止め方次第ということになり、自分がつくりだしているということになってしまう。

完全にまちがっている。


話で聞いた異常者と、実際の異常者はちがうのだ 「家族の格差・下の中」以上の人にはわからない

 けっきょく、ほんとうに、どうしようかな?

どのみち、人は死ぬ。それはたしかだ。しかし、しかし……。しかし、しかし……。やっぱり、生まれの格差があるよ。特に、家族の格差はどうにもならない。影響をうけるに決まっている。

しかし、家族の格差「上」「中」の人が、家族の格差「下」の人の言っていることを無視して、勝手に、軽蔑してくるのだ。

どれだけのハンディになるかわからない。やつらは、わかってない。

不可避的に影響をうけるのに、『影響をうけないのは可能だ』というような前提でものを言ってくる。さらに、影響は未成年時代に限られて、未成年時代の影響は、成年時代以降に影響をあたえないというような前提でものを言ってくる。

どれだけ、「下」の人にくらべて、「中」「上」の人が、下駄をはかされているかが、わかってない。特に、「下」のなかでも「下」である、下の下の人の場合……ほんとうに、人生を破壊される。

けど、家族の格差「下の下」以上の人は、そういうことを認めない。家族の格差「下の中」の人ですら、認めない。

言っておくけど、家族の格差「下の下」は、異常者である場合の家族だ。家族の格差「下の中」以上は、正常者である家族ね。

異常者がそんなに多いはずがない。

問題なのは、異常者とのトラブルと、正常者とのトラブルの区別がついてないのだ。正常者とのトラブルしか経験してない人は、「家族とのトラブル」と言えば、当然、自分が経験した「正常者とのトラブル」になる。人の話を聞いたってわからない。

どうしても、「俺だって……」「自分だって……」「わたしだって……」と思えるトラブルが、いくつかはある。そりゃ、人間だからね。けど、正常者と異常者はちがう。完全にちがう。異常者と住んでいる人は、異常者がおかしいということがわかるけど、正常者と住んでいる人は、異常者の「特徴的な部分」というのが、根本的にわからない。

どうしても、似たようなストーリーで考えてしまう。あるいは、正常者が異常者についての話を聞いた場合の、異常者にかかわる典型的なイメージでとらえてしまう。

けど、話で聞いた異常者と、実際の異常者はちがうのだ。どのみち、異常者の「へんな部分」に関しては、いっしょに住んでいる人しかわからない。

これは、金持ちが考える貧乏人のイメージと似たようなところがある。話を聞けば、貧乏人のイメージがわくのである。その貧乏人のイメージと、実際の貧乏人の生活はちがうのである。まあ、こういうことを言っても、さらに、わからなくなるとは思うけど……。

まあ、貧乏とかおカネとか、そういう話のほうがわかりやすい。異常な家族に関しては、正常な家族と暮らしてきた人には、わからない。どう説明したってわからない。そして、実際に、異常な家族と接触し続けて、迷惑をかけられ続けたわけではないので、ほんとうの部分に関しては、イメージがわかないのである。典型的な、なにかそれ……に置き換えられてしまう。

そして、家族のことを異常者だというのは、悪いことだということになっているのである。これは、共同幻想としてそうなっている。なので、実際に異常な家族のもとに生まれてしまった人は、ずっとずっと、誤解をされるということになる。これ、誤解なんだけど、誤解だということが、「家族の格差・下の中」以上の人にはわからない。 

トラブルの必然性を無視して、二項目文を語るのはよくないことだ。まるで、自分なら、トラブルを事前に避けられると思っている。まるで自分なら、トラブルの影響をうけないようにすることができると思っている。ちがう。ちがう。ちがう。ちがうんだよ。

トラブルの必然性や、改善不可能性みたいなものがあるのだ。きちがいの頭のなかにはそういうものをうみだしてしまうなにかが、はいっている。まあ、もっと正確に言うと、なにかがはいっているというよりも、頭の構造なんだけどね。

(「の」の重複については、指摘しなくてもいいです)。

2023年2月25日土曜日

こういうことの繰り返しが、「つかれ」や「たのしめないこころ」につながっている

 なんか知らないけど、もう、いいわ。俺……。あーー。もう、いいや。

もう、つかれたな。

また、ネズミのことを考えていた。俺は、殺したくなかったんだ。特に、窒息させるのはいやだったんだ。けど、空気穴をあけてやると、そこから、細菌や寄生虫がでて、俺が病気になる可能性があった。ほんとうは、穴をあけてやりたかった。けど、やっぱり、その袋を置いておくところがない。そとに置くしかなかったのだけど、外に置くと、その空気穴から、ハエがはいったりすると、うじがわいて、たいへんなことになる。カラスや猫が、袋を破いて、食べてしまうかもしれない。きれいに食ってくれるならいいけど、そうはいかないだろう。

だから、工事をしようと言ったのに……。だから、「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。「俺がネズミシートを捨てるからいい」とおやじが言って、ゆずらなかった。頭がおかしいから、会話になってないんだよな。「(おやじが)入院したらこまるだろ」……「ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!」と発狂して絶叫。

「(おやじが)死んだらこまるだろ」……「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」と発狂して絶叫。「俺がネズミシートを捨てるからいい」と親父が発狂して絶叫。発狂して、絶叫。話にならないんだよな。こまるんだよな。けっきょく、入院して死んだわけだ。俺が、ネズミシートを片づけなきゃならないことになっただろ。ネズミが、ネズミシートの上で死んでいる場合はいいんだよ。生きているときは、こまるんだよ。俺は、そういうことをしたくないんだよ。したくないから「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。

「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「オレガカタヅケルカライイ」「オレガカタヅケルカライイ」と、よだれをたらしながら、真っ赤な顔をして、絶叫している姿を見て、どう思うよ? ネズミの糞が散らかった部屋で……。

こういうことの繰り返しが、「つかれ」や「たのしめないこころ」につながっている。「元気だ元気だ」と言えば元気になるか? 「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? 「死なないよ」「死なないよ」と言えば、死なないからだになるか? 

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ちなみに、親父のネズミシートに対する態度と、兄貴のヘビメタに対する態度がまったくおなじだ。親父の場合、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」があるのだけど、兄貴の場合は「無口・バージョン」しかない。けど、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」の内面的なこころの動きはおなじだ。まったくおなじ。おなじ過程。相手の言っていることを無視して、頑固に、顔を真っ赤にしてやりきるけど、やったつもりがぜんぜんないのだ。まっーーったく、まーーっっったく、ない。だから、そういうところが、「普通の人」にはわからないのである。普通の家で育った人にはわからない。普通の家族のもとで暮らしている人には、まったくわからない。なので、言っても信じない。こっちがそういうふうなことを説明しても、感覚としてわからないし、経験としてわからないから、説明された人は、信じない。経験がないのである。家にいる気ちがいが、どういうふうにくるっていて、どういうふうな主張して、どういうふうな態度で、どういうふうな行動をするのかわかってないのである。なので、「ぼくが」へんなひとだと思われてしまうのである。説明をしている人がへんな人だと思われてしまうのである。へんな家族の説明をしている人が、へんな人だと思われてしまうのである。こんなの、ない。そして、きちがい家族のほうは、感覚器を書き換えて、ほんとうにつもりがないままやっているのである。だから、本人としては、それが終われば、終わった瞬間に、「やった」という記憶がないものになってしまうのである。「やったつもりがないこと」になってしまうのである。だから、何万回もめても、一回ももめてない状態で、本人はやってしまうのである。なら、「言えば」やめてくれるのかというと、きちがい的な意地でやって、やめてくれない。「やめなかった」という記憶がない状態なのである。「相手がやめてくれ」と言ったのに、「やめてやらなかった」という記憶がない状態で生きているのである。毎日毎日、やりきるのに、毎日毎日「やってやらなかった」という記憶がない状態で生活しているのである。しらんぷり、だよ。けど、この、しらんぷり、というのが、病的な知らんぷりなのである。きちがい的な知らんぷりなのである。普通のしらんぷり……あるいは、「の」が重複するけど……普通の人の知らんぷりというのは、しっているのに、しらんぷりなのである。きちがい兄貴と、きちがい親父の場合は、ほんとうに、しらないのである。きちがい的な意地で、やりきるのに、しらない。「やめてくれ」と言えば、真っ赤な顔をして、発狂してやりきるのに、しらない。やってないつもりのまんま。やっているさいちゅうからやっているつもりがない。まったくない。まったくない。こういう毎日なんだぞ。「言えばわかってくれる」「ちゃんと説明をしないのが悪いんだ」と言われるのである……。俺が……。そして、「しずかにさせることができなかったのなら、自己責任」と言われるのである。俺が……。きちがい家族にやられてこまっている俺が、きちがい家族にやられてこまったことがない人に、わかったようなことを言われる。説教される。そういうことになってしまうのである。「健康管理ができないのはだめだ」「健康管理能力がない」と言われるのである。俺が……。「朝、起きられないなんてというのは、あまえだ」ときちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがないやつが言うのである。おまえ、どれだけ、つらいと思っているんだ」と言ってやりたくなる。こういうやつに言ったって、(相手は)ヘビメタ騒音の毎日をほんとうに経験したわけじゃないから、ヘビメタ騒音が鳴ったって、俺なら、遅刻しないで通勤通学ができるという前提でものを言ってくる。「そんなのは、関係がない」「そんなのはあまえだ」『俺だって、騒音ぐらいある』『俺だって、朝、つらいときはある」……と言う。けど、その人(僕にそういうことを言った人)は、普通の家族と住んでいて、きちがいヘビメタ騒音を実際に、聞かされているわけではないのである。毎日毎日、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの音圧で、あの音のでかさで、聞かされているわけではないのである。

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2023年2月24日金曜日

言霊主義者は、体内の物理法則を無視してしまう。しかし、物理法則が成り立っている。人のからだについてまちがったことを言うな

 ヘビメタ騒音がなければ、言霊の人があらわれたときだって「そうですよ」で、すんだ。完全にすんだ。

けど、ヘビメタ騒音があるとそれでは、すまない。言霊が成り立たなかったという経験がある。

くるしいなかで、どれだけなにを言っても、それは、現実化しない。

普通の人が言霊にこるのは、自己暗示の部分の有効だからだ。けど、それなら、自己暗示は有効だと言えば済むことだ。言ったことが、現実化すると言うべきではない。言ったことと、出来事が、時間的に接近している場合、言霊を信じている人は「言ったからそうなった」と思ってしまう。

けど、それは、「言ったから」ではなくて、別の理由でそうなっている。あとは、自分の身体系のことで、意識的な意志にしたがう、肉体的な動きは、たしかに、自分が言ったあと、そのように動けば、そのように動いたということになる。これは、言ったことが現実化したということだ。

けど、それは、自分の意思で肉体的な動きをしただけで、肉体的な動きができる状態でそういうふうに言って、そういうふうにしただけだ。身体的なことでも、自分の意思ではどうすることもできないことがある。たとえば、あのワクチンのm-RNAは、ACE2受容体から、細胞内に入るのだけど、自分の意思でそれをやめさせることができるかというとできない。

ACE2受容体は、栄養素を細胞内にとりこむための受容体だ。m-RNAの一部を、栄養素に似た配列にしたので、ACE2受容体が勘違いして細胞内にとりこんでしまう。

(これ以降の文は、いろいろな理由があって省略・中略)

そのあと、m-RNAは、核によっていって、いろいろな「わるさ」をするのだけど、それは、省略する。いろいろと、省略するけど、m-RNAに侵入された細胞は、細胞膜がこわれて、なかみがでてしまう場合と、スパイクたんぱく質が細胞膜から突き出た状態になる場合がある。

スパイクたんぱく質が細胞膜から突き出た状態になると、やばいことがしょうじる。たとえば、毛細血管の内側というのは、つるつるなんだけど、突き出たスパイクたんぱく質の(とげ)によって、つるつるではない状態になってしまうのである。

このような状態になると、血小板が毛細血管の内側にかたまり(血栓)をつくってしまうのである。全身の毛細血管がつまると、「だるい」と感じるようになるのである。けど、通常の検査では、毛細血管がつまっているというのはわからない。

なので、慢性疲労症候群だと判断される場合が多い。まあ、血小板が減っているということはわかるので、血小板減少症だと判断される場合もあると思う。この場合、m-RNAに対処しなければならないのだけど、日本の医者はm-RNAには対処しないのである。

なので、血小板を増やすような方向で治療をおこなうのだけど、もともとの、原因であるm-RNAをどうにかしないとだめだろうと、ぼくは、思う。血小板減少症でもだるいと感じることはあるのだけど、ともかく、全身の毛細血管がつまっているだけで、だるいと感じるのである。人間は……。この場合、病(やまい)は気からと「気のせい」にしてもしかたがない。

しかし、「だるい」というのが、主観的な感情や感覚の表現なので、気のせいにしてしまう場合もある。ながながとm-RNAの説明をして、なにを言いたいのかというと、体内の物理的な運動を無視するなということを言いたいのである。たしかに、ほうっておけば、回復する「だるさ」もある。しかし、ほうっておいても、回復しない「だるさ」もある。

だから、「だるい」と表現されることでも、このふたつは、区別しなければならないのである。けど、言霊主義者は、この区別をしない。「元気だ!元気だ!」と言えば、かならず、言霊の力によって、元気な状態になるのである。

「だるくない!だるくない!」と言えば、かならず、言霊の力によって、だるくない状態になるのである。例外なく、かならず、言ったとおりになるのである。言っても、その通りにならないなんてことはないのである。「すぐに元気になる」と言えば、かならず、すぐに元気になるのである。どうして元気になるかというと「すぐに元気になる」と言ったから、元気になるのである。

しかし、たとえば、全身の毛細血管に血栓ができている場合は、毛細血管の血栓をとかして、除去したり、スパイクたんぱく質を除去して、普通の毛細血管にしなければならないのである。さらに、そういうことをひきおこしたm-RNAを無効化しなければならない。そういうことをしないで、「元気だ!元気だ!」「 だるくない!だるくない!」と何回も何回も言っても、元気にならない。だるい状態が続く。

なので、言っても、その通りにならない状態が続く。

だから、言霊は宇宙をつらぬく絶対法則ではない。むしろ、物理的な運動が宇宙をつらぬく絶対法則なのである。からだの内部にある原子的な、あるいは、分子的な運動や、その結果を無視して、「気のせいだ」と言ってもしかたがないのである。自己暗示的な意味で言霊をつかっている場合は、それでいい。希望がかなうと信じて行動するのはいい。けど、からだのことについて、まちがったことを言うのは、問題がある。

毛細血管の血栓について話したのだけど、きちがいヘビメタ騒音にさらされた場合も、「からだのへんか」がある。けど、普通の人は、騒音なら回復可能なダメージだと思ってしまうのである。なので、心理的な問題だと思ってしまうのである。実際に「だるい」と言ってしまった場合には、「感情」の問題になる。けど、ヘビメタ騒音のダメージをうけないで、「だるい」と言っているのと、ヘビメタ騒音のダメージをうけて、「だるい」と言っているのは、質的にちがいがある。けど、そういう質的なちがいを無視して「気分の問題だ」と判断されてしまうのである。たとえば、朝、学校に行きたくないとする。それは、気分の問題だと思われてまう。もちろん、きちがいヘビメタ騒音ですでにトラブルが多発しているのだから、生きたくなくなる理由はある。けど、前の日!約七時間、過激なヘビメタ騒音にさらされたということが、重要なことなのである。物理刺激と、それに対する体の反応というものがある。肉体をもって暮らしているのだから、当然、肉体の影響をうける。ヘビメタ騒音を七時間あびたあとは、何時間も何時間も眠れなくなる。入眠できなくなる。これは、人間の体の物理的な反応なのだけど、きちがい家族が絶対に約七時間、きちがい的な音を鳴らし続けるということを、毎日毎日、経験したことがない人にはわからないことだ。ちがうのである。一時的な騒音とはちがう。毎日毎日、続くわけではない騒音とはちがう。ぜんぜんちがう。からだの物理的な反応がちがう。そして、睡眠に影響が出ると、次の日のすべてに影響が出てしまう。これも、睡眠時間が極端に少ないけど、精神で乗り越えるということは、一時的にはできるけど、毎日続いた場合は、できない。ようするに、精神で乗り越えようとする努力が、新たな問題を生み出してしまうのである。それも、自分のからだにかかわることだ。自分のからだのなかの、物理的な運動にかかわることだ。これ、自分のからだのなかの、物理的な運動を、自分の意志で制御することができないのである。しかし、精神世界の人や、家族による継続的な騒音を経験してない人は、からだのなかの、分子的な運動を無視してしまうのである。からだのなかの、分子的な運動の結果を無視してしまうのである。どうしてかというと、第一には「他人のからだのこと」だからだ。第二には、「精神」だけを重視して、肉体を軽視してしまうからだ。

 

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あと、ここを読んでいるかどうかわからないけど、遠隔ヒーリング(遠隔治療)というのも、詐欺だとぼくは思う。統失の人のなかにも、いい人はいる。あなたは、いい人だと思う。ただ、やっぱり、アトラクションの近くにいたから恐怖を感じたということと、毎日のヘビメタ騒音はちがう。一四年間、毎日続いた、騒音とはちがう。効果がちがう。影響がちがう。

 

 

何十年も前から、知ってます。

 いちおう、言っておきますけどぉ~~、自営業の人はきらいじゃありません。セミナー業の人は、きらいじゃありません。セミナー業ってようするに、講師業ね。たとえば、「ニコニコすればいいことがある」というようなことでおカネをかせぐ人とか、「言ったことが現実化する」というようなことでことでおカネをかせぐ人とかは、個人的にはきらいじゃないんです。あくまでも、個人的には、ということなんですけどぉ~~。

その人自体のことは、ぼくはきらいじゃないんです。ユニークな人たちですからね。けど、言っていることには、いろいろと言いたいことがでてきます。

それから、ぼくは、そういう人たちは、たくさんいると思っているので、だれか個人に説明しているわけではありません。たとえば、「笑う門には福があるというように、笑っていれば、いまはどんだけつらくても、そのうち、いいことがある」というような考え方は、何十年も前から、知ってます。宗教的なことに関しても、ぼくは、何十年も前から知っているんです。だから、何十年も前に本を書いていた人のことを思い浮かべて、自分の理論について説明していることもあります。なので、いま、かせいでいるだれだれ、というのは、関係がありません。

まあ、自営業じゃなくて、会社の社長で、ほかのことでおカネをもうけて、そして、精神的な二項目文を言う人たちもいますし、大学の教授で、教授としておカネをもうけて、そして、精神的な二項目文を言う人たちもいます。この人たちに対する感情は、前述の自営業の人たちとは、ちょっと、ちがうんですよね。

だいたい、個人事業主的な人たちと、社長や大学の教授みたいな人たちは、ちょっとちがうんですよ。

2023年2月22日水曜日

ツキがあるとか、ツキがないということは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう

ツキがあるとか、ツキがないということは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう。どこに生まれたかで決まってしまう。なので、別に、生まれの格差「上」で「ツキ」がいい人は、別に自分の「実力」でツキを呼び寄せたわけじゃない。わかるかな? だから、ツキを呼び寄せる「方法」を知っているわけではない。けど、そういうふうに言う。あたかも、自分がついているのは、自分がツキを呼び寄せる方法を知っていたから、ツキを呼び寄せることができて、ついている状態になったのだということを言う。本人は、嘘をついているつもりはないと思うけど、本人の思い込みに、誤謬がある。まちがったことを信じている。

どれだけ、むりなことを要求しているのかまったくわかってない。

 ほんとうにヘビメタ騒音で人生がない。全部がくるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。くるしい。ヘビメタがなかった世界に行きたい。なんで、ぼくだけ……。ほかの人が絶対に理解できないハンディ。障害を背負ってしまった。ヘビメタ騒音障害というのは、ほんとうに、ほかの人には理解できないことなのだ。「鬱になるな」といってもむりなのに、そのむりなことを、ほかの人が要求してくる。そりゃ、ほかの人には、きちがい兄貴もいないし、きちがいヘビメタもないので、鬱にならないことができる。幼児のときから……というか、赤ん坊のときから、きちがい親父にやられて、人よりはくるしい状態で暮らしてきた。けど、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、普通だったのである。みんな、普通の生活が成り立っているところで、二項目文を言うわけだ。Xをすれば、Yになる」と言う。けど、ヘビメタ騒音がはじまってからは、それは、成り立たない。むりなことなのだ。どれだけ言ったって、むりだという部分がわからないと思うけどむりなのだ。ところが、二項目文を言えるような、普通の人は「どんなにつらくたって」「どんな条件だって」「どんな環境だって」と簡単に言ってしまう。簡単に付け足してしまう。どれだけ、むりなことを要求しているのかまったくわかってない。

2023年2月20日月曜日

めぐまれた人は、きちがい的な家族のことが、本質的に、根本的にわからない

 精神世界の人は、基本的にめぐまれた環境のなかで育ってきたと言える。家族にめぐまれた人たちなのだ。めぐまれた人たちは、絶対に、きちがい兄貴の原理を理解しない。絶対に、きちがい親父の原理を理解しない。そして、可能ではないことをおしつけてくる。自分の世界では可能なことだ。しかし、ヘビメタ騒音にずっとやられると可能ではないことになることなのだ。で、「可能ではないことになる」という部分が、たぶん、死んでもわからないだろうな。

めぐまれた人は、きちがい的な家族のことが、本質的に、根本的にわからない。きちがい的な家族と一緒に住むということがどういうことなのか、本質的に、根本的に、わからない。きちがい的な家族がどういう感覚でどういうことをするのか、ぜんぜんわかってない。そして、そういう行為の総体が、やられた人にどういう影響をあたえるのか、ぜんぜんわかってない。

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手短に言うと、精神世界の人が、きちがい家族にやられた人を、自殺に追い込む。そういう傾向がある。もちろん、これは、傾向だ。一〇〇%そうだとは言わない。 

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たとえば、人数的なことを言うなら、異常な家族のもとに生まれた人のほうが、圧倒的に少ない。そりゃ、異常な家族がのほうが、割合として大きいなら、それは、正常な家族になってしまう。多数のほうが、正常。少数のほうが、悪い意味で、異常なのだ。だいたい正常な家族のもとに生まれた人が九五%。異常な家族のもとに生まれた人が五%だとする。その場合、九五%の人は、五%の人のことを理解しない。九五%にとっての家族について語りだす。九五%にとっての、人間というものについて語りだす。九五%にとっての、幸福というものについて語りだす。

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はっきり言うと、めぐまれた人の「人間観」が幼稚すぎる。これは、他者に対する思いやりが、じつは、ないということだ。そりゃ、理解できないのだから、思いやりもくそもない。他者というのは、特殊な他者ね。五%のほうの他者だよ。まったく理解してないのだから思いやりもくそもなぃ。めぐまれた人の口から出てくる言葉というのは、必然的に、特殊な他者をくるしめる。

まあ、ぜぇーーーーったい、わからないと思うけど。けど、いちおう、語っておこう。そいつらがわからなくても、五%は理解するからいいや。めぐまれた人たちが言っていることは、ただ単に、幼稚なだけ。わかってない。わかってないということも、わかってない。けど、たとえば、「憂鬱な顔をしている人」「不機嫌な顔をしている人」というような形で、いろいろと言ってくる。無理難題をおしつけてくる。きちがい的な家族にやられなければ、別に無理難題ではない。けど、きちがい家族にやられたら、むりなんだよ。そこのところが、まるでわかってない。だから、九五%は、そういう「道徳観」や「人間観」で生きているから、五%の人のことは、無視して、そういう道徳観にそくしたことや、そういう人間観にそくしたことを言ってくる。けど、言う場合は一〇〇%の人なんだよ。ようするに、彼らは別に五%の人と九五%の人のことを、わけて考えてない。ほんとうは、わけて考える必要がある。けど、幼稚で、人生経験がないからわからない。人生経験がないというのは、きちがい家族のもとに生まれた経験がないということだ。だから、きちがい家族のもとにうまれると、どういうことになるか、まったくわかってない。わかってないまま、人間とはこういうものだという理論を語りだす。ただ単にわかってないだけなんだけど、わかってないということもわかってない。


生まれの格差という初期値を無視しているやつが、ニセの原因を持ち出して、人をせめる。


おカネを擬人化して扱うのはよくない。たとえば、以下のような意見があるとする。


引用開始--------
おカネが出ていくときは「また帰ってきてね」とこころなかでつぶやき、おカネが入ってきたときは、「よく帰ってきてくれたね」「いい子だいい子だ」とこころのなかでつぶやく。そういう人がおカネをたいせつにしている人だ。おカネにも心があるから、自分を大切にしてくれた持ち主のことを覚えている。おカネをめでる人のところは、おカネが集まってきて、おカネをめでない人のところには、おカネは集まってこない。おカネに感謝しない人のところにはおカネはよってこない。人間だってそうでしょ。感謝する人のところに人が集まって、感謝しない人のとことにには人が集まらない。

引用終了-------



この場合、生まれの格差を無視している。ただ単に、おカネに好かれる人と、おカネに嫌わる人という区別をしている。生まれの格差があるのに、それは、頑固に無視して、おカネに好かれる人はこうだ。おカネに好かれない人はこうだと言っている。

そして、これがまた、性格に由来することなのだ。おカネに好かれる人は、性格がいいからおカネに好かれる。おカネに好かれる人は、行いがよいから、おカネに好かれる。

反対に、おカネに嫌われる人は、性格が悪いから、おカネに嫌われる。おこないが悪いからおカネに嫌われるということになる。そうなる。生まれの格差(カネ)下の下に生まれた人の立場がない。勝手に、性格が悪い人間にされてしまう。勝手に、おこないが悪い人間にされてしまう。おカネがあるかどうか……そういうことは、かなりの部分まで、生まれで決まってしまう。そういうことを認めないで、ただ単に、性格のせいにしたり、行動のせいにしたりする。

この行動というのが、また、悪魔がつくった圧力容器のなかで、お金をかせぐための行動を意味しているのではなくて、フェチズム的に、おカネをかわいがるかどうかという行動を意味しているのである。おカネをフェチズム的に扱い、擬人化して物事を語る人は……じつは、現におカネがない人をディスっている。悪口を言っている。侮辱している。

けど、そういうことにまったく気がつかないのだ。おカネがないのは、……その人の考えで言えば……おカネをかわいがらないからなのである。かわいがらないから、おカネがない。かわいがれば、おカネが集まってくる……。こういう魔法の世界の話なんだよね。

けど、生まれの格差だけは、頑固に無視する。

影響がないと思っている。本人は、たぶん、生まれの格差・中以上の人なんだと思う。

そうじゃなきゃ、わかっている。

生まれの格差がどれだけの影響をあたえるかわかっている。

こういう精神世界の人は、ほんとうに、生まれの格差を無視している。そして、ほかのところに原因を求めて、ほかの原因について語りだす。けど、これが、嘘の原因なのだ。その人のなかでは、本当の原因なのだろうけど、「現実」的にはウソの原因だ。

これは、本当の原因を無視して、二項目文をつくりあげて、悦に浸っている人にも言えることだ。それが単なる自己満足なのならいいけど、ほんとうの原因で、苦しんでいる人を、ディスっている。悪口を言っている。

この、本当の原因を無視して、ちがった原因(原因としてはまちがった原因)を持ち出し、まちがった原因が影響をあたえているということを言って、げんにこまっている人たちを、悪く言うということが、はやっている……。

これは、実は、悪魔の容器のなかで行われる悪行だ。

こういう精神世界の人たちは、口を開けば、「悪口はいけない」と言うけれども、実際には、悪口を言っている。侮辱している。ほんとうの原因を否定され、ニセの原因を持ち出され、ニセの原因のせいでそうなっていると言われている人の気持ちを考えたことがあるか? ニセの原因だと思ってないので、そういうことを考えたことがないのだろうと思うけど。ニセの原因は、性格に由来する原因なのである。

なので、ニセの原因で、「悪い」人が、実際にみじめな思いをしているということになる。その理論のなかでは、常にそうなっている。なので、現にこまっている人をディスっている。これ、自分のほうがさきにパンチを繰り出しているのに、まったくわかってないな。

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はっきり言えば、生まれの格差・下なら、どれだけおカネが好きだって、おカネがない状態になる。おカネがない状態ですごすということになる。悪魔の容器のなかでは、初期値の格差は、時間が経過するとともに広がっていく「傾向がある」。かならず、そうなるとは言わないけど、ようするに、不利な状態で暮らしているうちに、不利なことが状態が強固になる傾向がある。初期値は単なる初期値ではなくて、悪い経験が時間とともにつみかさなっていくのである。

そして、大人になるころには、固有の条件になってしまう。初期値の格差が、そのまま続くか、あるいは、拡大する傾向があるのだか、まず、それを考えなければならないのである。(固有の条件というのは、たとえば、就職に有利な大学を出ているかとか、事業をおこせる条件があるかどうかとか、自営業をするのに有利な条件をもっているかどうかというようなことだ。

大人になったときの、ある人の固有の条件は、それまでの行動や行動の結果によって形づくられている。「なら、行動なのではないか」と思うかもしれないけど、行動が、初期値によって、限定されているのだ。つまり、親のカネとか、親の人脈とか、親のカネに対する態度によって、限定されている。

たとえば、子どもを大学に行かせやすい親なのかどうか……こういうことが、実際には影響をあたえている。大学に行かずに個人事業主として、おカネをかせぐ場合も、それまでのことが影響をあたえている。どういう家に生まれ育ったかということは、その人が、どの程度、カネをかせげるかどうかということに影響をあたえている。もう、成人する前に、差がつみかさなっている。

実は、おカネに好かれない人というように、マイルドな言い方をしているけど、ようするに、貧乏人のことだ。おカネがない人のことだ。おカネがない人は、おカネをかわいがらない「から!!」おカネがないのである。ならば、おカネがない人が、一日中、おカネをかわいがったらどうなるか? 貧乏なままだ。

どうして、これがわからないのか。このペテン。そして、性格の悪さがおカネがない状態にむすびついている……ということを暗示している悪口を言っているのに、それにまったく気がついていない。そして、まったく気がついていない態度全般。

これ、こたえるよ。そりゃ、生まれの格差・下の人が聞いたら、怒るだろう。「そんなことじゃない」と思うだろう。生まれの格差下の人であって、なおかつ、げんにおカネがない人が、おカネをかわいがっても、おカネがない状態が続く。おカネがない状態が続けば、外側から判断すると、「おカネをかわいがらない人だ」ということになる。げんにおカネがない人は、おカネに好かれない人なのだから、おカネをかわいがってないということになってしまうのだ。

そういうふうに見なして、おカネがない人の悪口を、積極的に言う。

悪魔の圧力容器のなかで、おカネがないということがどういうことなのか、まったくわかってない。悪魔の圧力容器のなかで、おカネがないうちに生まれたということの、意味あいがまったくわかっていない。

おカネがあるかどうかというのは、おカネをかわいがるかどうかで決まらない。おカネがある人というのは、おカネが入ってくるパイプをいっぱい持っている。おカネがない人は、おカネが入ってくるパイプをもってない。パイプのちがいだ。……こっちのほうが正しい。まあ、パイプというような言葉を不適切なのだけど、不適切な言葉を言いたくなるような気分になった。

おカネに関しては、ストックとフローについて語らなければならなくなる。親のストックとフローが影響をあたえないわけがないだろ。けど、それを、ただ単に「好かれる」とか「好かれない」という言葉であらわして、その人の「態度」や「性格」のせいにしてしまう。こんなのはない。

こんな、高度なディスり方があったのかと思う。考えてみれば、これ、悪口を言っている異なるんだよな。そして、悪口の方向性がずれている。おカネのない人は、無実なのに、有罪判決をうけるのだ。「性格が悪いからそうなのだ」「おこないが悪いからそうなのだ」。「こうすれば、こうなる」……実際には、どれだけそれをしても、そうならない……こういう希望的なウソ。嘘八百。希望詐欺。法則性詐欺。

おカネがないという属性をもっている人は、性格が悪い、おこないが悪いと、軽くディスられてしまう。そして、「おカネをかわいがれば、おカネがよってくる」などという、二項目文を言われるけど、不利な人がどれだけ、おカネをかわいがっても、おカネがない状態が続く。おカネがよってこない。こういう、現実。おカネがなければ、「おカネをかわいがってないから、だめなのだ」と言われる現実。

これ、「ネガティブな人」というような言いかたでもおなじだ。

生まれの格差という初期値を無視しているやつが、ニセの原因を持ち出して、人をせめる。

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おカネを擬人化して、おカネが(その人を好き)だとか、おカネがその人をきらいだとか、そういうことを広めたのは、今回引用した人じゃなくて、たぶん、斎藤一人(さいとう ひとり)だと思う。たぶん、だけど、今回引用した人は、斎藤一人(さいとう ひとり)の影響をうけていると思う。物神性に関しては、むかし、ながながと述べたので、ここでは省略。

たとえば、明治のころ、金のような価値がありそうなものではなくて、紙のような粗末なもの?をたいせつに扱うようになるかどうかということについて議論があったのだけど、紙のようなものでも、たいせつに扱うようになったね。これ、権威と物神性の問題なんですよ。

まあ、今回引用されてしまった人は、引用されてしまったわけだけど、「攻撃を受けることはあるけど、無視している」ということなので、傷つかずに無視してくれるとものと思う。

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精神世界の人のなかには、斎藤一人(さいとう ひとり)が好きな人ってわりといるんですよ。

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おカネを擬人化してごにょごにょ言うと、現におカネがない人や人生の初期値で下の人が、傷つくんですよ。おカネを擬人化してごにょごにょ言っている人は、まったく気がついてないけど……。「単に嫉妬しているだけだろ」と思うと思うのだけど……。この認識の差は、どうしょうーーもないなぁ。

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いま、ほんとうにこまっている人は、精神世界の人やアドラー主義者や認知療法の理論が好きな人から、攻撃をうけるんですよ。攻撃をうけるようになっている。精神世界の人、アドラー主義者、認知療法の理論が好きな人……それぞれ、攻撃をしているつもりはない。まったくない。なんで、(ほんとうにこまっている人)が(自分に)反感をもつのかまったくわかってない。彼らは、(ほんとうにこまっている人)のことを、ほんとうにこまっている人だとは認識してないので、一部の人が反感をもつようだと認識していると思う。反感をもっている人たちは、ほんとうにこまっている人たちなんですよ。ほんとうにこまっている人の気持ちを、さかなで、しているの人は、精神世界の人やアドラー主義者や認知療法の理論が好きな人。

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こまってない人が、こまっている人にニセの情報をあたえるということがはやっている。ライフハック的な二項目文がはやっている。けど、そのライフハック的な二項目文を、実行してもまったくよくならない。まったく、まったくよくならない。むしろ、悪くなる。完全に悪くなる。希望をあたえられ、希望をへし折られる。まさに、そういうことになる。

めぐまれた人が、めぐまれない人にニセの情報をあたえるということがはやっている。はやっている。はやっている。絶望した。絶望した。はやっている。はやっている。

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2023年2月16日木曜日

ぼくは、普通の人より、騒音耐性がある

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兄貴のヘビメタ騒音と幼稚園の騒音はちがう。ぜんぜん、ちがう。みんな、ぼくが最初から、音に敏感だったと思っているんだよな。ぼくは、普通の人より、騒音耐性がある。そのぼくが、悲鳴を上げてしまうようなうるささだった。兄貴のヘビメタ騒音と、普通の人が普通に考えている騒音は、ちがうんだよ。ちがうのぉ!! まるでわかってない。まるでわかってないやつが、勘違い発言をする。頭にくる。けど、うちの兄が、きちがい兄ではなくて、普通の兄だったら、ほんとうに、こんなことになってないのだ。まるでわかってないやつが、勘違い発言をしてくる……ぼくに言ってくるということは、発生しなかった。ぼくの人生のなかで発生しなかった。これがどれだけでかいちがいかわかるか? 騒音の質と、騒音のレベルに関する勘違い発言だけではなくて、「できる」「できない」の勘違い発言までされる。「きちがい兄貴の騒音のなかでも勉強ができる」「きちがい兄貴の騒音のなかでも眠れる」「ちがい兄貴が騒音を鳴らしていたとしても、遅刻しないことは可能だ」「きちがい兄貴が騒音を鳴らしていたとしても、睡眠障害者にならないことは可能だ」……などなど。そりゃ、死にたくなるだろ。どんだけ、影響をけるかわかってない。兄貴のヘビメタ騒音を横の部屋で聞かされたことがない人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音をどれだけ無視して暮らしていても、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響をうけまくるということが、わかってない。無視する。無視して、「人間は働くべきだ。(だから、エイリさんも働くべきだ)」というような発言をする。そういうことをいわなくても、きちがいヘビメタ騒音で、こっちが、無職になっていれば、無職だと思って、さまざまな言いがかりをつけてくる。


 

「プラス言葉をつかうと、いいことを引き寄せることができる」ということについて

これが、めちゃくちゃに、しんどいことになるのだけど、どうしても言っておく必要があるかなとは、思う。けど、俺にしたって、これをうまく説明できるのかわからない。これ、ほんとう、ためいきがでるよなぁ。

たとえば、こういうことを言う人がいる。
 

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「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」
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これは、よく言われていることだ。みんな、そうだと思うだろ。みんな、その通りだと思うだろ。けど、ちがう。ちがうけど、大多数の人にとっては「真実」なのだ。気分的に真実なのだ。だから、うけがいい。けど、こういう発言は、二項目文とおなじで、生まれの格差・下の人には成り立たない。特に、生まれの格差(親)下の下の人には成り立たない。事実ではないのだ。「真実」ではない。環境の差を無視して、ただ単に「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」というような言葉を使えば、そういうことが引き寄せられると言うことは、あんまりいいことじゃない。というか、どうして、生まれの格差を無視してそんなことが言えるのだと思う。これは、まあ、特殊な感じ方だ。たとえ、この言葉が、生まれの格差・上と生まれの格差・中の人にとっては、「真実」であろうが、生まれの格差・下の人にとっては、真実じゃない。むしろ、これらのことを実行してしまうと、みじめな気持になり、健康にもわるいのである。しかし、たとえば、こういう言葉を言う人たちは、「すべての人にとって」正しいと思っている。自分の言葉は、すべての人にとって真実だと思っている。「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉を使って不幸になる人がいるとは思ってない。思ってないということが、生まれの格差・下の人にはわかる。どういうことかと言うと、生まれの格差・下の人は、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、そういうことをもっと引き寄せることができる」と思っている人たちが、生まれの格差下の人にも、当然そういうことが成り立つと思っているということが、「わかる」。けど、それが、ほんとうにちがうのである。どういうことかと言うと、生まれの格・下の人の場合、「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと不幸を引き寄せてしまうのである。それは、その人の性格の問題ではなくて、その人の受け止め方の問題でもなくて、ただ単に、「まわりにいる人の」性格の問題なのである。きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人が家族のなかに何人もいる場合、きちがい的な頭を搭載して、ぶつかってくる人に「かこまれて」生活していることになる。『「楽しい。うれしい。ありがとう。ついている」という言葉をつかうと、いいことを引き寄せることができる』と思っている人たちは、ほんとーーに、ほんとーーに、ほんとーーに、そういうことについてわかってない。まわりにいる人が重要なのだ。まわりにいる人って、一種の「環境」なんだよ。環境のちがいで、ぜんぜんちがうということが、ほんとーーに、わかってない。 


2023年2月15日水曜日

無意識的なレベルで感覚器を遮断してしまう

 ヘビメタ騒音にやられた俺に対する、世間一般の人の対応というのは、ひどかったよ。普通の人には、きちがい家族による、きちがいヘビメタのすごさがわからない。経験してないから、わからない。どの時間もめちゃくちゃになる。鳴っている時間だけ、だめになるわけじゃないのである。影響が残る。毎日続けば、前の日の影響がとれないまま(消化されないまま)次の日の騒音がつみかさなるということになる。ほんとうに、過酷な状態なのである。その過酷な状態のなかで、きれいごとを信じて、努力すると、自分のからだがおかしくなるのである。意識的な意志では制御できない脳がおかしくなる。それでも、がんがん鳴っている。どれだけ「やめてくれ」と叫んでも……兄貴の前で叫んでも、ずっとやっている。きちがいだから、自分の気持ちしかないんだよ。そのときの自分の気持ちしかない。自分の気持ちとしては、自分が満足できる音で鳴らしたいのである。だから、自分が満足できる音で鳴らす。自分が満足できない音で鳴らすという選択肢はない。たとえ、一分間だろうが、自分が満足できない音で鳴らすということは、できない。そんなのは、最初から頭のなかにない。頑固に絶対にやりきる。頑固に絶対にやりきるうえで、「でかい音で鳴らしている」という認知・認識が邪魔なものであれば、無意識的なレベルで感覚器を遮断してしまう。そうすると、本人だって、別の音が鳴っていれば、「くそうるさい」と思うレベルの音で鳴らしていも、でかい音で鳴らしてないというとになってしまうのである。感覚器のレベルでだましているから、ほんとうに、意識的な本人としては「でかい音で鳴らしている」という認知・認識がしょうじないのである。だから、頑固にやりきるけど、頑固にやりきることができれば、一切合切そんなことはやってないという認知・認識のまま生きていくことができるのだ。生活することができる。こういうきたない手を使うのは、兄貴だけではない。親父も名時。こうなると、兄貴のことを、本来なら、管理監督する立場の人間がおなじ盲点をもっているということになる。実際に、「うちのなか」で、そういうことをやりはじめたのは、きちがい親父だ。きちがい兄貴がやりはじめるよりも前に、きちがい親父がずっとやってきたことだ。これが重要なのである。けど、そんなのは、どれだけ説明しても、一般の人にわかるわけがない。そういうことの影響……きちがい親父の感覚の影響が……あるいは、きちがい親父が仏にやってきたのことの影響が……どういうふうにしょうじるか、一般の人はわからない。そういう「うち」で暮らしてきたわけではないので、わからない。

 

「生まれの格差について語るのはダサいことだ」

 これは、たいへん、言いにくいことなのだけど、「生まれの格差」について言及することは、一種のタブーだ。これは、洗脳された状態だ。どうしてかというと、普通に考えれば、「生まれの格差」というのは、まず、第一番に考えなければならない項目(要素)なのである。しかし、生まれの格差について言及すると、「甘えだ」というようなこたえが返ってくる。基本的なことを言えば、「生まれの格差」について言及しているほうも、なんらかの、ばつの悪さがあるのである。「言いにくい感じ」があるのである。これは、自己差別だと思う。自己差別が生じるようなすごい洗脳がおこなわれたのだと考えると、納得がいく。

まあ、こういう書き方だと、わからなくなってしまうかな? ようは、格差にかんしては絶対に認めたくないグループがいるのである。一軍の生まれの格差「上」である人たちだ。この人たちは、二軍の「上」から「下」までのグループに(すべての人に)生まれの格差がほとんどすべてのことを決定しているということを、認めさせたくないのである。感じさせたくないのである。感じないように、洗脳する必要がある人たちなのである。支配者層と、二軍の「下」のあいだには、ものすごい格差がある。成功やしあわせに関係することは、だいたい、生まれの格差で決まってしまう。もちろん、例外はある。あくまでも、「だいたい」だ。彼らは、「努力」や「性格の良さ」を持ち出す。まあ、努力することができるということ自体が「なんとなく、性格の良さをあらわしているように見える」のではないか? ちがうか? まあ、ともかく、生まれの格差ではなくて「努力の格差」なのだというイメージをつくりたいグループがある。そのグループは、一般の人からは、見えないレベルの支配者グループだ。だれがそのグループのメンバーになるかということが、決まっているのである。「生まれ」で決まっている。ほぼ、世襲制だ。まあ、例外はあるけど、ファミリーなのだ。一族なのだ。

彼らにくらべれば、「二軍の上の上」は、「つかいっぱ」のようなものだ。手下。まあ、使える上級奴隷だ。けど、これも、いろいろな手段で、支配している。手法はいくつかあるけど、ともかく、彼らにとっては「二軍の上の上」なんて、あかごのようなものだということは、いちおう考えておく必要がある。そのくらいに、差がある。これは、生まれの格差だ。

しかし、われわれは、常に、見えるところの「格差」を問題にしているのである。一軍は支配者層。二軍の「上の上」は被・支配者層。二軍の「上の上」は、そりゃ、二軍とはいえ、二軍の支配者だ。まあ、一軍の代理人といったところかな。ともかく、二軍のなかでも、「上の上」と「下の下」では、天地の差がある。天地の差がある。この、天地の差を、ないものとしてあつかうことが、「はやっている」。

これは、もう、洗脳だ。格差について語るのは、ダサいことなのである。かっこう悪いことなのである。これは、洗脳の結果だ。この洗脳は、ものすごく深い洗脳だ。だから、生まれの格差・下の人もそういう考え方をもっている。そういう感覚をもっている。考えるまえに、「生まれの格差について語るのはダサいことだ」と思ってしまう。感覚としてある。だから、自己差別がはじまる。自分で自分を差別しているのである。これは、同様に、生まれの格差・下である人にもむけられる。「そんなのは、あまい」「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、負け犬の遠吠えだ」「そんなのは、未熟だ」「そんなのは、いいわけだ」「そんなのは、嫉妬しているだけだ」「親のせいにするな」「家族のせいにするな」……こういう言葉が、自分と同様に生まれの格差・下である人にむけられる。かくして、相互監視状態になる。

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「親のせいにするな」……

「親のせい」と言う場合には「実際に親のせいである場合」と「実際には、親のせいではない場合」がある。ごちゃまぜにするな。「だれだれのせい」という言い方には、もともと、そのだれだれのせいではないのに、だれだれのせいにしているというニュアンスがある。だれの行為が原因でそういう結果になったのかということは、重要なことだ。当然、親の行為が原因でそういう結果になったということもある。これを、親の行為が原因でそういうけっかになったわけではないことと、いっしょにするな。親の行為が原因でない場合は、たしかに、「親のせいにしている」と(誰かが誰かに対して)言える。けど、親の行為が原因であることに関しては、親ではない他人の行為が原因である場合とおなじように、親という他者の行為が原因でこういう結果になったということは、言える。なので、それをごっちゃにして、親という他者の行為が原因である場合も含めて、「親のせいにするな」というのは、悪意がある行為だ。ようするに、親というのも、他者のなかに含めていい。他者の行為に原因がある場合は、当然、他者に責任があるということだ。親という他者をなぜか特別な存在としてとらえ、親がやったことには、すべて責任がないという考え方をもっているやつらがいる。そいつらが、実際に悪い行為をする親側の人間をかばっている。まるで、ほんとうは、親という他者の責任ではないのに、(子供側の人が勝手に)親という他者の責任にしていると考えて、親のせいにしているという言葉を(そういう悪意がある人たちは)使う。これは、おかしい。

人生、これかーー。

  働いている人も含めて、みんな、たいしたことをやってないよな。やっているわけがない。あーー。

人生、これかーー。

まあ、大きな傷がなければ、それで、楽しいのだろう。つらくても、しんどくても、なんとかなるのだろう。けど、大きな傷があると、そうはいかない。いかないのだ。全部、めちゃくちゃに、くるしくなる。「もうだめだ」という気持になる。ほんとうに、しんどくなる。

じゃあ、どうするかというと……。うつてがない。これは、ほんとうだ。だいたい、可能な「うつて」は全部うって、そうなんだよ。大きな傷を負ったんだよ。なおらない傷を負ったんだよ。常にいたむ」傷を負ったんだよ。

むりなものはむり。

2023年2月14日火曜日

けど、それをするなら、死んだほうがいいという気持になってしまうのである。

いのちをかけるようなものじゃないとしても、追い込まれるといのちをかけるようなものになってしまうのである。追い込まれるまでには、時間がかかる。けど、それをするなら、死んだほうがいいという気持になってしまうのである。

エネルギー消費のことについて、語りたい

 法則性詐欺の被害者は、たいていの場合、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下の人だ。この人たちが、こまった状態で暮らしているのは、二項目文の、一番目の項目を「してない」からではなく、また、「してなかった」からでもない。

ようするに、たとえば、「人に親切にすると幸福になる」と言った場合、その人が、幸福ではないのは、いままで、人に親切にしたことがないからではないということだ。あるいは、いままで、人に親切にした回数が少ないから、幸福なのではない状態でいるというわけではない。その人が不幸なのは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下で、奴隷労働を突き付けられているからなのだ。なので、その人が、幸福になるには、その人に突き付けられた奴隷労働が、普通の労働にならなければならない。あるいは、その人が働かなくても、それなりの生活費がふれこまれるようにしなければならない。奴隷労働をしているから不幸なのに、奴隷労働をしているという部分をまったく改善せずに、幸福になるということはないのである。これは、ヘビメタ騒音でもおなじで、ヘビメタ騒音で不幸感を多く感じるのだから、ヘビメタ騒音が鳴りやまなければならないのである。当時のことを言うなら、そうだ。まあ、ヘビメタ騒音のことを出さずに、奴隷労働うんぬんということについて語ろう。どうして、奴隷労働しなければならないのかと言うと、じつは、生まれの格差・親・下、生まれの格差・カネ・下だからなのだ。ここを理解しなければ、ただ単に不幸を拡大していることになる。

基本的に言って、きれいごとの二項目文を言う人は、やる人のエネルギー消費について考えていない。やる人というのは、二項目文を実行しようしている人のことだ。どうして、実行しなければならないかというと、不幸だからだ。幸福ではないからだ。二項目文は、人に対する助言なので、その助言を受ける人は、「欠乏している状態」なのである。しあわせになる方法であれば、いま現在、しあわせではない人が対象なのである。成功する方法であれば、いま現在、成功してない人が対象なのである。欠乏があるから、それを満たすための方法を探し求めているわけだ。みたされていれば、そもそも、その方法を使わなくてよいのである。どうしてかと言うと、みたされているからだ。そして、これも見落としがちなのだけど、その方法を教えてやるほうは、みたされているほうなのである。たとえば、「Xをすれば、成功する」と言っている人は、すでに、成功した人で、成功してない人に語り掛けているのである。「Xをすれば、しあわせになる」と言っているつとは、すでに、しあわせな人なのである。しあわせな暮らしをしている人なのである。成功している人が、成功してない人に教えてあげる、二項目文。しあわせな人が、ふしあわせない人に教えてあげる、二項目文。けど、その二項目文には、生まれの格差がでてこない。二項目しか出てこない。ほんとうは、生まれの格差が、二社のちがいをうみだしている。生まれの格差・上だということが、成功している状態をつくりだしているし、生まれの格差・下だということが、成功してない状態をつくりだしている。奴隷労働をおしつけられて、不幸な生活をしている。なので、「成功したい」「しあわせになりたい」と思うわけである。欠乏がある。

エネルギー消費のことについて、語りたい。欠乏がある人は、ただでもくるしい生活をしている。それなのに、二項目文を実行しようとすると、エネルギーを消費してしまうのである。残り少ないエネルギーを消費してしまう。また、二項目文を言う人は、実際には、生まれの格差・下の状態を経験してない。経験してないので、「どんな状態だってXはできる」と言うことができる。また「どんなにくるしくても、Xはできる」と言うことができる。「何回でも、Xをすればいい」と言うことができる。

二項目文を実行する人は、Xをするエネルギーをもう、残してないかもしれない。エネルギー消費の観点から言うと、二項目文を実行する人は、Xを「何回も」するエネルギーをもう、残してないかもしれない。みたされている人は、みたされていない人の状態がまったくわかってない。生まれの格差・下で、みたされてない人は、相当にエネルギーつかってしまっている。つらくて、くるしい日常生活を成り立たせるだけで、もうエネルギーを、ほとんど全部つかってしまっている。Xをするようなよけいなエネルギーがない状態だ。

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2023年2月13日月曜日

法則性詐欺。希望詐欺。

 「生まれの格差・上」「生まれの格差・中」「生まれの格差・下」で、三階層。

「生まれの格差・上」のなかに、さらに「上・中・下」をつくり、「生まれの格差・中」のなかに、さらに「上・中・下」をつくり、「生まれの格差・下」のなかに、さらに「上・中・下」をつくって、九階層。

どうして、九階層にしたかというと、努力によって、九階層のなかの一階層ぐらいは、上昇することができるからだ。じゃあ、二項目文があっているのかというとそうではない。

これは、言霊のところでも説明したのだけど、「Xをすれば、Yになる」というような二項目文を考えた場合、Xのなかには、非・Xがふくまれないという問題がある。問題ではなくて、ほんとうは、だからこそ、「文」に意味があることなのだけど、普通の人は、ここらへんのことがまったくわかってない。Xと言ってしまっているのだから、X以外のものは含まれない。これは、「すべてのX」とおなじ意味だ。XとすべてのXは意味的に等価なのである。これがわかってないんだよな。Yのほうも、「Yになる」と言ってしまっているのだから、「Yにならない」ということは、含まれてない。かならず、Yになるのである。「Xをすれば、Yになる」と「Xをすれば、かならず、Yになる」は、意味的に等価なのである。「Xをすれば、Yになる」と言っているのに、「Xをしても、Yにならないこともある」ということが、含まれている……そんなことはない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをしても、Yにならない場合がある」という言葉は等価ではない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをしても、Yにならない」という言葉は等価ではない。「Xをすれば、Yになる」という言葉と「Xをすれば、Yにならない」という言葉は等価ではない。

法則と言っているのだから、一項目目をXと言っているのに、非・Xが含まれているわけがないのだ。Yになると言っているのだから、Yにならない場合が含まれているわけがない。

言霊の場合について説明しておこう。

「言ったことは、現実化される」と言った場合、「言ったこと」のなかには、すべての「言ったこと」が含まれる。「言ってないこと」は含まれない。「言ったことは、現実化される」という言葉は「すべての言ったことは現実化される」ということと意味的に等価なのだ。そして、「言ったことは、現実化される」という言葉は「言ったことは、すべて、現実化される」という言葉と意味的に等価なのだ。「言ったこと」のうち「いくつかは現実かれる」と言うことではない。「言ったことは、現実化される」という言葉は「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という言葉とは、等価ではない。非・等価だ。かならず、非・等価なのである。もし、「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で「言ったことは、現実化される」と言うなら、最初から、まちがっていることを言っているということになる。等価ではないからだ。ところが、言霊主義者は「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で「言ったことは、現実化される」と言ってしまっている場合がある。もちろん、「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」ということではなくて、「言ったことは、すべて、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言っている場合もある。だから、言霊主義者は、「言ったことは、現実化される」という言葉を使って、まったく別のことを言っているということになる。そして、そういうことに無頓着なのだ。「言ったことは、すべて、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言ったほうが、都合がいいときは、「言ったことは、すべて、現実化される」という意味をこめて「言ったことは、現実化される」と言い「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味で、「言ったことは、現実化される」と言ったほうが、都合がいいときは「言ったことのうち、いくつかは、現実化される」という意味をこめて「言ったことは、現実化される」と言っているということだ。そして、言っている本人は、そのことに気がついてないのである。なので、いかように言えるということになる。

法則性がないことに関して、あたかも、法則性があるようなことを言う。そうやって、人をせめる。こういうことが、平然とおこなわれている。法則性があるようなことを言っている人は、それでいい気持ちになれるけど、言われた人のうち、何割かは、ダメな方法をおしつけられて、不愉快な思いをする……ことになる。言われた人のうち、何割かは、見当違いのことを言われて不愉快な思いをする……ことになる。有害な希望詐欺。

場合によるけど、いのちをおとす場合もある。「生まれの格差・下の下」のうちの多数が……かなりの割合の人が……「死ぬしかない」というところまで、おいつめられる。過労死をしてしまうひとは、法則性詐欺師にだまされている可能性がある。

 

 

ぼくが求めていた世界はこんなものじゃなかった

まじ、つまんねぇーーんですけどぉーーー。つまんないんですけどぉ~~。

あー。あーーあ。つまんない。ぼくが求めていた世界はこんなものじゃなかった。もっと自由で、もっと快活で、もっと楽しいものだった。もっともっと、ずっとずっと、うまくいくはずの世界だったのである。こんな、ねがふぃぷなハンディばかりせおわされて、ぐたぐたにつかれはてる世界じゃなかった。きちがい親父のことは、きちがいではない親父のもとに生まれた人には、絶対にわからない。「わからない」ということが、わかった。けど、じゃあ、どうする? こいつらは、かならず、誤解をするんだぞ。誤解する。か、な、ら、ず、誤解する。楽しいわけがない。こいつらは、誤解をして、俺を侮辱してくる。しかも、侮辱しているつもりもないという状態になっている。こんなのない。どれだけ、むなくそわるい気持ちになるかわからないと思う。ふがいない気持ちにもなる。みじめな気持にもなる。それは、他者とのふれあいでそうなるのだけど、他者とのふれあいでそういう思いをするということは、きちがい親父のもとに生まれたということで、決定している。きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、ほかの人にはわからない。ほかの人のうちなら、一日目の一分目に、「おまえ、ふざけるな」と言われて、鳴らせなくなる。鳴らさないようにするしかないということをさとる。さとらざるをえない。どれだけ鳴らしたくても鳴らせなくなる……これが普通のうちだ。うちでは、きちがい親父の支援をうけて、きちがい兄貴が好きなだけ鳴らすのが当たり前。一分だって静かにしないのが当たり前。きちがい兄貴が好きなように、好きな時間に鳴らしていいというのが当たり前。一分間でもしずかにしてくれたら、感謝しなければならない状態……。一分間もしずかにしてくれなかったから、感謝しなかったけどな。けど、一分間しずかにしてもらっても、毎日、あれだけ長い間鳴っていると、一分間のちがいではどうにもならないのだ。ほんとうは、一分間ですら、鳴らしてはいけない音で、ずっと鳴らしている。一分間だって、しずかにしないで鳴らしている。殺さなければそういう状態が続いてしまう。実際、続いた。

 

この世に対する、違和感が、半端じゃない。半端じゃない。半端じゃない。いったい、これ、なんなの? じょーーだんでしょ? なんなの? この世界? おかしいんじゃないの?

2023年2月11日土曜日

五〇〇〇日以降の、からだの状態も、わからない。

 ほかの人には、ヘビメタ騒音の五〇〇〇日がないわけだから、五〇〇〇日中の、からだの状態もわからないし、五〇〇〇日以降の、からだの状態も、わからない。それは、親友でもおなじだ。わからない。わからない。実際に経験したわけじゃないから、わからない。一倍速で、毎日経験してみろ。わかるから。

「そんなものじゃない」とぼくがどれだ言っても、経験がない人にはわからない。だから、影響がない」という前提でものを言う。けど、「影響がある」。今現在もある。勝手に、そっちが、無視しても、あるんだよ。それは、俺のからだを使ってないとわからないことかもしれないけど、あるんだよ。俺にはあるんだよ。

わかってないだけなのに、くそえらそうに……。わかってないだけなのに、説教か?

実際に、自分の嫌いな音を、あの時間の長さ、あの期間の長さ、聞かされ続けたら、働けなくなる。えらそうなことを言っているやつだって、働けなくなる。働けなくなったら、説教をされる立場になる。きみらが見ているのは、ヘビメタ騒音の結果だ。家族による、きちがい的な騒音の結果だ。自分だって、おなじ状態で十一歳から二十一歳まで暮らせば、おなじ状態になるのに、実際に経験してないから、おなじ状態になるということがわからない。想像もできない。『影響なんてない』と考えてしまう。『俺だったら、しずかにさせることができる』と考えてしまう。けど、実際に、きちがい的な頭のもちぬしに鳴らされると、そういうことが成り立たなくなってしまう。それは、実際に経験してない人が、語る、きれいごとだ。

これ、ほんとう、家族だということが問題なんだよ。そして、やぬしである父親が、ヘビメタを鳴らしているきちがい兄貴とおなじ頭の構造をもっているということが問題なんだよ。実際に、父のほうがさきで兄のほうがあとだから、父が兄とおなじ頭の構造をもっているという表現よりも、兄が父とおなじ頭の構造をもっているという表現のほうが、わずかに、適切だ。けど、「おなじずれ」がある。そして、その「ずれ」の部分が、他人にはわからないのである。特殊な「頭の構造」をもつ家族にやられたら、他人には理解されない。他人の家族は特殊な「頭の構造」をもつ家族ではないから。これがまた、経験した範囲でしかわからないんだよな。

そうすると、「エイリさんがちゃんと言わないからダメなんだ」「エイリさんの説得力がないからダメなんだ」ということになってしまう。特殊な家族が、特殊な頭の構造をもっているということがわかってない。『特殊な頭の構造』のすごさがわかってない。『俺の説得力』の問題じゃなくて、『兄貴の頭』の問題なの。『俺の説得力』の問題じゃなくて、『親父の頭』の問題なの。なんで、これを、『他者』は認めないのか。なんか、認めると、まずいことでもあるのか?

「そんなの、家族で話し合えばいい」「もう一度、言ってみればいい」「ちゃんと言えば、わかってくれる」……全部、まとはずれな助言。「家族の問題には、かかわりたくない」という気持がある。家族、家族、家族。家族が問題なんじゃないか。それを、家族という変数については、まったく考えないで、ただ個人の努力と性格を問題にする。生まれの格差(家族)下でも、生まれの格差(家族)上でも、おなじだと考えているのだ。ぜんぜん、ちがう。頭の構造から出てくるものは、どれだけ言ってもかわらない。注意してもかわらない。どれだ言っても、これっぽっちも……つたわらない。自分が認識できることしか認識しない。認識できない。認識できないことは、やったってやってないことなのである。

2023年2月10日金曜日

ストレス反応は、身体を維持するために必要なしくみなのである

走っている人に向かって、走ってない人が「ぜいぜい息をする必要はない」と言っているようなものなんだよ。走っている人に向かって走ってない人が「くるしいと思う必要はない」と言っているようなものなんだよ? ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「睡眠は制御できるので、睡眠障害になる必要はない」と言っているようなものなんだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「ヘビメタ騒音が鳴っていても、くるしく感じる必要はない」と言っているようなもなのだよ。ヘビメタ騒音でくるしい俺に、ヘビメタ騒音でくるしくないだれかが、「つかれる必要がないから、つかれる必要はない」と言っているようなものなんだよ。

走っているとき、呼吸がくるしくなって、「くるしい」と感じたとしよう。くるしいというのは、気持ちの表現だ。あるいは、走っているとき、呼吸がくるしくなって、「つらい」と感じたとしようつらいというのは、気持ちの表現だ。とりあえず、感情的な表現と身体の物理的な反応をわけて考えるとする。「くるしい」「つらい」そういうのは、感情的な表現だ。いっぽう、身体の物理的な反応というのは、身体の分子的な運動によってもたらされる反応だ。原子的な反応も、分子的な反応の中に含まれているとする。身体が正常なら、そういう刺激に対してそういう反応があるのである。これは、意識的な意志が制御できるものではない。走ろうとして走っているのだから、意識的な意志は、走るという善的な行為に影響をあたえている。あたえているのだけど、身体の反応すべてをコントロールできるわけではない。「くるしい」ので、走るのをやめるというのが身体の反応に対するひとつの答えだ。「くるしい」と感じるのは重要ことだ。神経がブロックされていて、「くるしい」と感じることができなかったら、走って死んでしまう。ちゃんと、そういうしくみがあるから、意識的な意志の爆走を制御している。意志をうみだす脳みその部分とそれ以外の脳みその部分、神経、感覚器をわけるとすると、意志をうみだす脳みそ以外の脳みその部分、神経、感覚器が意志をうみだす脳みその爆走をふせぐように働いているのである。ストレス反応は、身体を維持するために必要なしくみなのである。全体的なしくみなのである。この全体的なしくみのなかに、意識的な脳みそが含まれているわけで、意識的な脳みそが、それ以外の脳みその部分、神経、感覚器を完全にコントロールしているわけではない。したがわせているわけではないのだ。けど、根性論の人や、努力論の人や、人に向かって「どんな状態だって、まるまるはできる」と言ってしまう人は、こういうことがわかってない。しかも、他人に言う場合は、自分のことではないので、他人の状況を簡単に無視できるのである。無視すれば「ない」のとおなじだということになってしまう。しかし、他人のからだのなかでは、全体的なしくみが、意識的な意志に影響をあたえている。影響は、無視できない。勝手に無視して、話をするな。

 

 

2023年2月9日木曜日

あれを経験してないで、えらそうなことを言うな。

  まあ、まじで、楽しくはないなぁ。あーーあ。けっきょく、ヘビメタ騒音で「お楽しみ回路」を破壊された。これ、なおらないわぁ。でかい出来事だった。で、何千日も続いたからなぁ。あの同じ繰り返し……。だれにもわからない。ぼく以外、だれにもわからない。あれを経験しないで、好き勝手なことを言うな。俺を下に見るな。あれを経験してないで、えらそうなことを言うな。

あれを経験してないから、無職にならなかっただけなのに、「人は働くべきだから、エイリさんも働いたほうがいい」と言うな。えらそうなことを言うな。たまたま、生まれ落ちた家に、きちがい兄貴がいなかっただけじゃないか。これ、まるで、きちがい兄貴をしずかにさせることができなかったのは、エイリさんの落ち度だ……という立場で言っているけど、実際に、きちがい的な家族にのもとに生まれてきたらそんなことは、言えない。きちがい的な家族のもとに生まれてくるか、きちがい的な家族のもとに生まれてこないかということは、重要な問題だ。なんで、きちがい兄貴の「頭の構造」が俺の落ち度になるんだよ。自己責任、自己責任。ふざけるな。「きちがい兄貴をしずかにさせることができなかったのなら、自己責任」。「俺なら、しずかにさせることができる」のだから、俺はエイリさんよりすぐれている」という、根拠のない思い込み。そういうのは、きちがい的な親兄弟のもとに生まれなかったから、言えることだ。実際に、きちがい的な親兄弟のもとに生まれたら、それが、どれだけ困難なことかわかる。「できないことだ」ということがわかる。たまたま、きちがい的な親兄弟のもとに生まれなかったから、そういう問題がしょうじなかった。しょうじなかったから、なんとなく、できるのではないという気持になっている。実際にしょうじなかったから、「しょうじた場合」というのは仮定の話だ。実際にしょうじず、知らないのだから、なんとなく、できるような気持ちになっている。実際なかったわけだから……。それだけの話だ。別に能力が上というわけではない。たとえば、説得能力が上だから、説得してしずかにさせることができるというわけではない。きちがい的な人間のことがわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、家のなかでなにをするかわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、どういう反応をするかわかってないだけでしょ。きちがい的な人間が、自分のやったことについて、理解してない状態がわかってないだけでしょ。 


2023年2月7日火曜日

こんな「ハンディ」ない。

 なんとか生きているけど、つまんない。ほんとーーに、つまんない。このさき、どうする? ほんとーーに、つまんない。

いちおう、ネットスーパーを使うことにした。ほんとうに、ほんとうに、たすかる。いやー、たすかるねぇ。なんか、元気がなくてだるいから、買い物に行けない。やっぱり、長期騒音がでかい。これがぼくの人生を破壊した。なので、横になって考えていることの八〇%は長期騒音のことだ。長期ヘビメタ騒音生活と、それに関連した出来事。まあ、いまの状態だって、それに関係した状態だ。長期ヘビメタ騒音生活と、それに関連した出来事がつみかさなって、いまの状態になっている。 なかなか、くるしいです~~。まあ、どれだけ言ったって、ぼくのからだを利用していない人には関係がないよな。まあ、ともかく、配達してくれる人がいてたすかってます~~。

あーー、いま急に、市立図書館の雰囲気を思い出した。全部が、走馬灯のようだな。走馬灯は正直言ってもってないけどな。慣用句として残っているなーー。あそこの図書館の雰囲気だって、長期騒音にやられて、ふにゃふにゃになっている。これは、図書館の雰囲気ではなくて、ぼくが感じた図書館の雰囲気だ。たとえば、図書館の館内の光景を思い出したとしても、その光景には、感情がくっついている。図書館までの道……。道を自転車で走っているときに見える光景にも、感情がくっついている。感情がふにゃふにゃで、不安で、くるしいものだと、光景もふにゃふにゃで、不安でくるしくなる。

きちがいヘビメタ騒音にやられてない人にはわからない。どういう不安なのか、どういうふうに、ふにゃふにゃなのか、どいうふうにくるしいのか、わからない。どれだけ言ったって一丁分の一もつたわらない。まあ、つたわらなくてもいいけど、ヘビメタ騒音のことを過小評価したり、無視したりするやつらがきらいだ。そいつらが無視をしたとしても、ある。影響がある。ヘビメタ騒音の影響が残っているからだで生きている。今現在、その影響を無視できるはずがない。そりゃ、俺のからだを利用して生きているわけではない人たちにとっては、それはどうでもいいことだから、無視してしまうけど……。無視しがちになるけど……。けど、そいつらが無視しても、俺のからだに残っているのだから、しかたがない。きちがい兄貴がああいう性格ではなくて、普通の性格だったら、絶対に起こりえないことなのである。あんなに長く鳴らしているなんてことはない。だから、普通の家族と暮らしている人にはないことなのである。きちがい兄貴ではない、普通の家族と暮らしている人が経験してないことなのである。経験してないことだから、影響を過小評価したり、無視したりする。そりゃ、そいつらは無視してもまったく問題はないだろうけど、ぼくがこの体を動かして生きているのだから、なにをするにしても、影響はある。

ほんとうは、生まれの格差で言いたいことは、おカネの格差ではなくて、家族の格差だ。きちがい的な親のもとに生まれたら、おしまいなのだ。もちろん、きちがい的といっても、どういうふうにきちがい的なのかということについて、差がある。きちがい的な親と表現したとしても、きちがい的な親のベクトルがちがえば、「ハンディ」もちがってくる。これ、みんな、生まれの格差というと、おカネの問題だと思うかもしれないけど、親の問題なのだ。そして、家族の問題なのだ。きちがい的な父親がいた。きちがい的な兄がいた。そういう家に生まれた。これが、でかい影響をあたえる。けど、そんなのは、自己責任だと言われるのだ。たましいが選んだのだからしかたがないと言われるのだ。そりゃ、他人にとってみれば、(比較優位なら)問題ははないだろう。自分の問題ではないのだから、無視するだろう。ないか、あるいは、あったとしても小さな影響しか与えないものだと思うだろう。けど、ちがう。ちがうんだよ。こんな「ハンディ」ない。ないない。こんな「ハンディ」ない。 

2023年2月6日月曜日

できるかどうかということを判断する場合

プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているとき、ある作業をすることができるかどうかということを考えた場合、プリオンたんぱく質が脳内で増殖してある程度の量になっているから、できないということがある。プリオンたんぱく質の量は、本人が、「まじないで」増減させることができるものではない。「すくなくなれ」「なくなれ」と命令しても、「すくなくならない」し「なくならない」。どうしてかというと、物理法則が成り立っているからだ。分子の運動ということについて、物理法則が成り立っている。なので、増殖してしまう場合は増殖てしまう。増殖をさまだけ、増殖しないようにするには、増殖させないようにする方法が必要だ。その方法はまじないのようなものではなくて、物理法則に合致したものでなければならないのである。 

だから、むしろ、問題なのは物理法則のほうなのである。もし「できる」とか「できない」とかということを判断するなら物理法則に従って判断するべきなのである。しかし、他人のからだの状態は無視する傾向がある。

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できるかどうかということを判断する場合、脳みその内部的な状態を分子的なレベルで調べて、判断するわけではない。たとえば、まるまるという作業ができないと言っているAさんがいたとする。Bさんが、勝手に「だれだって、まるまるという作業はできる」と思っていたとしよう。だれだってできるので、Bさんにとっては、Aさんもまるまるという作業ができるということになっている。しかし、それは、Bさんのなかでそうなっているにすぎない。勝手に、Bさんがそういうふうに思い込んでいるだけだ。Bさんが、Aさんの脳内の、プリオンたんぱく質の状態を事前に調べて、そして、プリオンたんぱく質の状態が、こうだから、まだ、Aさんはまるまるという作業ができると判断しているわけではない。「見た感じ」Aさんがまるまるという作業をできると、Bさんが勝手に考えているだけだ。

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意識的な意志がどれだけ命令しても、できないことはできない。意識的な意志というのは、意識的な脳みその部位ということだ。意識的な脳みそが、命令しても、他の脳みそがその命令に従わない場合がある。あるいは、意識的な脳みそが、命令しても、ほかの脳みそがその命令を実行できない場合がある。しかし、意識的な意志を信じているものは、自分や他社において、意識的な意志が命令たことは、絶対にできるということになってしまっている。ほんとうは、ある状態では、自分もできないのに、そういう状態を無視してしまうのである。「意識的な意志が命令すれば、できる」と言っているいっているときは、そういうつもりになっている。それが絶対に正しいと思い込んでいる。しかし、思い込んでいるだけだ。実際には、意識的な意志は脳みその一部なので(脳みその一部で発生していることなので)ほかの脳みそや、その人を構成している身体を、完全に支配することはできない。ただ単に、「支配できる」と思い込んでいるだけだ。命令すれば、脳みそのほかの部分や自信を構成する身体が、命令をきくはずだと思っているだけだ。宗教的な信念と、まったくかわりがない。これは、一種の信念で、科学的な根拠はない。しかし、科学的な実験詐欺」と言いたくなるものがあり、本人の頭のなかでは「科学的な根拠がある」ということになっている。けど、信念であり、宗教的な妄想とかわりがないものだ。

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プリオンたんぱく質という物理的な存在がもたらすことに関しても、通常は、脳内の分子的な状態を調べて「できる」とか「できない」ということを判断しているわけではなくて、外面的な様子を見て「できる」とか「できない」ということを判断しているにすぎない。

その場合、「どんな状態でも、まるまるすることができる」「どんな状況でも、まるまるすることができる」「できると言えば、できる(言霊パワーで「できるできる」と言えば「できるようになるという意味)」と「他人」に言ってしまうのは問題がある。どうしてかというと、できない場合があるからだ。

「どんなにつらくても……」「どんな条件だって……」「どんな状況だって……」という言葉を軽々しく使うものじゃない

 ごくごく、簡単に言っておくけど、「どんなにつらくても……」「どんな条件だって……」「どんな状況だって……」という言葉を軽々しく使うものじゃないと思う。みっつあるけど、「どんな状況だって」という言葉だけにしぼって、説明することにしよう。ほかの言葉もほぼ同じことが成り立つ。「どんな状況だって」という言葉を使う人は、対象となる人の状況を知っているのかという問題がある。AさんとBさんがいたとする。AさんがBさんに「どんな状況だって」と言ったとする。この「どんな状況だって」という言葉のあとには、ろくでもない二項文が続く。たとえば、「どんな状況だって、あきらめずにコツコツと努力をすれば、いいことがある」などだ。けど、Aさんは、ほんとうにBさんの状況を理解しているのだろうか?ということが問題になる。Aさんが、Bさんの状況を理解していないとしても、AさんはBさんに「どんな状況だって」と言うことができる。だから、言うことはできる。言うことだけはできるのだ。しかし、それは、AさんがBさんの状況を理解せず、「まちがったこと」を言っているという可能性を否定するものではない。むしろ、AさんがBさんの状況を理解せず、「まちがったこと」を言っているということを暗示するものなのである。「できないほど、つらいので、まるまるすることができない」ということは現実社会のなかで、ありえることなのである。Aさんが、なんらかの病気になって、AさんがAさんのからだの状態について、「つらい」と認識したとする。そして、そのつらい状態では、まるまるという仕事ができないと判断したとする。その場合は、「つらいから(まるまるという仕事が)できない」と判断したことになる。自分のからだの場合は、そういうふうに判断することがあるわけである。ところが、他人のからだに起こった場合については、そのように判断せず、「どれだけつらくても、仕事ができる」と言ってしまうのは、よくないことなのである。


2023年2月4日土曜日

キミのほうがさきに、ばてて、死んでいるよ。

 うっ、むーー。どうしようかなぁ。どうしようかなー。

あれから、眠ってしまったよ。まあ、好きな時間に眠れるのが、こういう生活のいいところだ。

しかし、起きたあと、むなしさを感じる場合がある。今回は、そんなにむなしさは感じてない。基本的に言って、長期騒音のことについて書きたい感じがあるんだけど、おなじなんだよな。

あれだけ説明してわからない人はわからないと思う。個々人の人生体験というのは、人生体験のなかでしかわからないからね。

けど、ヘビメタ騒音で、言ってみれば「ふめいよな」属性ができてしまった場合……。おさない魂をもつものは……はっきり言うと、バカなクソガキは、「ふめいよな」属性に注目して、ぼくのことをしたみることになるんだよな。それがまた、ゆるせないんだよ。

これ、ヘビメタ騒音があれば、だれでもそうなったことだ。ぼくだから、もっているようなものだ。絶対に、殺人か自殺をしている。きちがい兄貴ときちがい親父を殺している。これ、きちがい兄貴が鳴らした騒音なんだけど、きちがい親父が「かげで」協力をしているんだよ。

で、それは、きちがい親父のきちがい的な性格から出てくることなんだけど、これが、ほかの人にはわからない。『親が注意してないのだから、たいした騒音じゃないじゃないか』と思ってしまうところがある。

ともかく、なんていうのかな、どれだけかしこい人も、きちがい親父の行動については誤解してしまうところがある。きちがい親父だって、まったく認知、認識してないんだからな。自分の行動に関して、自分の行動の意味について、まったく認知、認識してない。

ついでに言っておくと、きちがい兄貴も、自分の行動に関して、自分の行動の意味について、まったく認知、認識してない。これ、逆上して、意地になって、やっていることなのに、「やってないこと」になっている。

こういうのも、普通の家で育った、普通の人にはわからないことなんだよな。だから、まず、うちのきちがい親父の構造と、うちのきちがい兄貴の構造があって、その構造は「認知、認識しない構造」なのだけど、それに関して、普通の人が「認知、認識しない」ということが発生する。

これは、だけど、普通の人が、きちがい親父やきちがい兄貴のように、認知、認識しないということではないのだ。

しくみがちがう。もっと言えば、構造自体がちがう。だから、普通の人が、きちがい親父やきちがい兄貴について、正しい認識をもたないということは、しかたがないことだと思っている。「もたない」というよりも「もてない」。

きちがい兄貴の構造やきちがい親父の構造もわからない……普通人にはわからないわけだけど、実際のヘビメタ騒音によって生じた現実的なことも、実際のきちがい親父のきちがい行為によって生じた現実的なことも、ほかの人にはわからないわけ。それは、体験してないからわからない。どういう影響が生じるのか、わからない。

だから、影響の質と、影響のでかさについて、(ほかの人たちは)つねに「かんがえちがい」をするとうことになる。だから、ようするに、そういうこともふくめて、ほかの人たちは、実質的にぼくのことをばかにしてくるわけ。けど、まあ、これも、バカにしたとは思っていないのだろうけど、認知、認識の問題なんだよね。ほんとうは、影響の質と影響のでかさがわかってないだけなのだけど、自分は「そうだとしてもそんなことにはならない」と思っているので、ひどいことを言ってくるということになる。もちろん、ひどいことを言っているつもりはないのである。

たましいがおさないので『自分はコミュニケーション能力が高い。(ひきこもりのエイリさんは)コミュニケーション能力が低い」。「自分は騒音に対して強い、エイリさんは、騒音に弱い」と勝手に決めつけてしまう。おなじ状態で暮らしていれば、キミのほうがさきに、ばてて、死んでいるよ。自暴自棄になって、自殺しているよ。あるいは、きちがい親父やきちがい兄貴を殺しているよ。そういう問題なのに、そういう問題だということが、わからない。経験がないからわからない。

毎日きちがいヘビメタ騒音がつもった場合のことなんて、そういう人たちが、どれだけ想像したってわからないことだ。ぼくの話を聞いて、想像するしかないのだけど、想像したってわからない。

ヘビメタ騒音が鳴っているときのからだの状態や、ヘビメタ騒音が毎日鳴っている状態が十数年間も続いたときのからだの状態がわからない。わからないので無視して、適当なことを言う。「過去は関係がない」「鳴り終わったら関係がない」「人は働くべきだ……(だから、エイリさんも、ヘビメタ騒音で働けないなんてことは言ってないで働くべきだ)」というようなことを、言いやがる。それは、経験してないから言えることだ。影響はある。勝手に影響を無視するな。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。