感情をうみだす脳みその部分がやられてしまうときがある。不幸量ということを言ったのは、閾値を考えないとダメなんじゃないかということを言いたかったので、不幸量なる概念を導入してみた。言いたいことは、不幸量がある量をこえてしまうと、感情をうみだす脳みそがやられて、「意志」ではどうにもならない状態になるのではないかということだ。ところが、普通の人……九〇%ぐらいの人が、不幸量がその量をこえてない。けど、ある程度の不幸は感じている。なので、話がかみ合わなくなるのではないかということを言いたかった。ようするに、不幸量がある量をこえた人が言うことは、不幸量がある量をこえていない人には、まったくわかしないのだ。しかし、不幸はあるので、あるいは、不幸感はあるので、「困難」とおなじように同じ言葉で語られてしまう。ほんとうは、不幸量がある量をこえてしまうと、それまでとはちがう状態になるのに、両者がともに、その状態のちがいについて注意を払わないので、言っていることがかみ合わなくなるのではないかということだ。とりあえず、不幸量・超過と不幸量・普通のあいだに、ものすごく深い溝があるとする。この溝をこえるかこえないかで、見える世界がちがう。ところが、不幸量・普通の人は、不幸量・普通の人の価値基準で、不幸、あるいは、不幸感について、考えてものを言う。こわれてない人が、こわれた人のものの感じ方についてものを言うわけだ。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言霊教徒は言うわけだけど、それは、不幸量・普通の世界の話なのではないかと言うことだ。ところが、「人間は、そういうものだ」と言うわけである。不幸量・普通と不幸量・超過の世界を区別せずに、「人間は、そういうものだ」と言う。その場合、もちろん、不幸量・超過の人も、人間なので、その理論が適応されると、その人(不幸量・普通未人)は考えているのである。しかし、人間を主語とせず、不幸量・普通の人は「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うべきなのではないかということだ。不幸量・普通の人は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは、納得できるけど、人間は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということは納得できない。これは、アドラー主義でも、行動主義心理学でも、引き寄せ主義でもおなじだ。不幸量について、考えずに、「人間とはこういうものだ」「人間とはこういうふうにできている」ということを言う。「人間は、こうするべきだ」ということを言う。それは、不幸量・普通の人間に限定するべき言葉なのである。それは、不幸量・超過の人にとってくるしいことだ。不幸量・超過の人にとっては、不幸量・普通の人が、そういうことを言うこと自体が、不幸なことなのである。不幸量・超過の人は、不幸量・普通の人が「人間とはこういうものだ」ということを言うと、不幸量がひとつは、増えるのである。