2022年4月30日土曜日

「あのときの、あれ、ない」

 どれだけ、「あのときの、あれ、ない」などと言っても、まったく人には伝わらないのだから、意味がない。しかし、人に伝わらなくても、それが、いまのぼくにものすごく大きな影響をあたえている。これは、こだわっているから、影響をあたえていると思い込んでいるということでなくて、体験として、ほんとうに影響があるのである。『影響なんてない』とか『影響があると思い込んでいるだけだ』と思えるのは、実際の体験がないから。そして、「あのときの、あれ、ない」がどれだけ長い時間にわたって続いたことか、その人たちは、わかってない。『影響なんてない』とか『影響があると思い込んでいるだけだ』とぼくに言うことは、侮辱なんだよ。ぼくに対する侮辱なんだよ。そういうことも、体験がない他人にはわからないだろう。

2022年4月29日金曜日

鳴っている時間だけ、くるしいわけじゃない

 長さというのがまったくわかってないんだよな。毎日続くということの意味がまったくわかってないんだよな。そして、相手が「自分の感覚器を都合のいいように書き換えてしまう」きちがいだということがまったくわかってないんだよな。

どれだけでかい音で鳴らしてたって、でかい音で鳴らしているということを認めるのが「本人にとって」不都合なことなら、でかい音じゃないのである。

しかも、本人が本人をだましているということに関しては、どれだけ指摘しても無頓着なのである。あるいは、発狂してはねのけてしまうのである。

ようするに、言われたときだけ発狂してはねのければ、あとは、まったく言われなかったという状態になってしまうのである。

「どれだけ、つらくてもニコニコしていればいいことがある」なんていうことを言う人たちは、きちがいヘビメタが鳴っている状態というのをまったく理解してない。どれだけひどいことを言っているのかわかってない。

これ、ほんとうに、どれだけ希望をもってつなげようとしても、鳴らされていたらだめなのである。毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされている状態が続いたらだめなのである。

これ、ほんとうに、どれだけひどいことを言っているのかわかってない。

そして、やっぱり、こういうことを言う人たちは「自分だってつらいことがあった」ということを言いやがる。これも、テンプレートで決まっているのかと思うほど、テンプレート的な反応だ。

ほんとーーにわかってない。

わかっている人だったら絶対に、そんなことはいない。

これ、本人はつもりがないかもしれないけど、自殺に追い込んでいるようなものなんだぞ。鳴っている状態というのは、引き裂かれている状態なんだよ。そして、「できない」状態なんだよ。おまえら、ほんとうに、なにもわかってないな。おなじような状態を経験した人だったら、絶対に 「どれだけ、つらくてもニコニコしていればいいことがある」なんてことは、言えない。言わない。「どれだけ、つらくてもニコニコしていればいいことがある」ということを言わないのだから、その文脈で「自分だってつらいことがあった」ということを言うことはない。

そりゃ、そういう文脈が成り立ってしまっているあとにそういうことを言うのであれば、やはり、自殺に追い込んでいることになる。

だいたい、きちがいヘビメタが鳴っているときの発狂的な不安というのは、希望がなければ、生じないことなのである。いかりと不安でいっぱいだったと言ったでしょ。これ、ほんとうに、きちがい家族にやられたことがない人は、わ・か・ら・な・い・んだよな。

わからない。

やっぱり、体験的にわかってないとだめだ。

こんなの……。

やはり、きちがい的な家族にやられてしまったら……長期間にわたって毎日やられてしまったら、普通の人たちとはうまくいかなくなる。普通の人たちは、きちがい的な家族に、長期間にわたって毎日やられたという経験がない。

普通の人たちには、きちがいの家族がいない。きちがいの家族が、協力して、きちがい行為をやるということはない。

たとえば、きちがい兄貴がヘビメタを絶対の意地で鳴らし始めたら、きちがい親父はヘビメタ騒音のことを絶対に注意しないようにするということがしょうじる。こんなこともありえないんだよ。普通の家ではこんなことはありえないんだよ。

普通の人たちは、自分の家族が「感覚器を書き換えてしまうタイプの」きちがいではないから、「感覚器を書き換えてしまうタイプの」きちがいにやられたという経験がない。

なので、全部、ちがうことについて言っているということになる。「感覚器を書き換えてしまうタイプの」きちがい家族にやられたことがない人が言う「つらいこと」というのは、「感覚器を書き換えてしまうタイプの」きちがい家族にやられ続けたことがある人が言う「つらいこと」とはちがうのである。はじめからちがう。

だから、「どれだけつらくても」というようなことが言える。

これ、状況を考えればわかるけど、きちがい兄貴がきちがい的な意地で鳴らしている以上、どれだけニコニコしていたって、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音問題が解決しない。解決しない上、ニコニコしていたら、緊張状態になる。張り裂けるような状態になってしまう。

時間がたてばたつほど、ニコニコしている時間が長ければ長いほど、圧力が強くなるのである。引き裂かれてしまう。むりをして、きちがいヘビメタ騒音にたえ、ニコニコし、きちがいヘビメタ騒音で寝不足になりながら、ニコニコし、きちがいヘビメタ騒音がなければできたことができなくなっているにもかかわらず、ニコニコしてすごすということがどれだけきついことかわかっているのか?

こんなものは、精神崩壊だ。

どうして、これがわからないのか? 

ヘビメタ騒音で勉強ができないということが、どういう影響をあたえるかわからないのか? ほんとうに、鳴っている時間だけ、くるしいわけじゃない。高圧状態で、ニコニコしてたって、いいことなんてあるわけがないだろ。

ニコニコする前に、きちがいヘビメタ騒音が鳴りやまなければならないんだよ。どうしてこれがわからないのか? ああっ、経験したことがないからわからないのか。そりゃ、そうだよね。感覚器を書き換えるタイプのきちがいが、家族である人なんて、めったにいないからね。わかるわけがないか。高圧状態をうむ。高圧状態のなかで、ニコニコしてたって、いいことなんてあるわけがない。

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つづき

おなじことをやられれば、その人だって、不可避的な影響をうけて、遅刻するようになったり、遅刻のことを考えると眠れなくなったりするのに、そういうことがわからない。実際にヘビメタ騒音を経験すれば、ヘビメタ騒音の影響が多岐にわたるということがわかるのに、わからないまま、「鳴ってたとしてもたいしたことがない」「俺なら平気だったはずだ」と思って、ヘビメタ騒音の影響を無視する。無視したあと、そいつの労働観をぶつけてくる。そいつの労働観は、共同幻想に合致した労働観だ。「たとえ鳴っていたとしても、鳴り終わったなら関係がない。人間は働くべきだ。だから、エイリさんも働くべきだ」というのが、そいつの意見だ。俺は最初から「ヘビメタ騒音『で』働けなくなった」と言っているだろ。なんで、俺が働ける前提で、「働くべきだ」ということを言ってくるのか?  そいつだって、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音をあびたら働けなくなる。ヘビメタが好きな人の場合はそうではないかもしれないけど、ヘビメタが好きな人だって、きらいな音楽やきらいな音はあるだろう。ヘビメタ騒音と同じ音量で、その人がきらいな音が鳴っていたらどうなのかということを考えるべきだ。こういうところの想像力がない人たちなんだよな。はっきり言ってしまうと、思考力も思いやりもない人たちだ。立場をいれかえて考えるということが、不得意な人たちだ。きちがい兄貴ほどではないけど、立場をいれかえて考えるということがあまりできない人たちなのである。この人たちときちがい兄貴とのちがいを言っておこう。第一には、この人たちは、感覚器を書き換えるようなことはしないけど、きちがい兄貴は感覚器を書き換えるようなことをするということがちがう。第二としては、きちがい兄貴は、きちがいヘビメタ騒音事件の犯人だけど、この人たちはきちがいヘビメタを鳴らした本人ではなくて、この事件について関係がない人だということだ。そして、この人たちとぼくのちがいを言っておこう。

2022年4月28日木曜日

そりゃ、その人の頭のなかでは、理解したとしても、とるにたらないことだ

まあ、そういう世間の流れは別にして、ぼくはくるしいわけ。ヘビメタ騒音でくるしい。ヘビメタ騒音は、……ヘビメタ騒音と書いているけど……ぼくだけの経験でほかの人の経験じゃない。どれだけ、あのときひどかった……と言っても、経験がない人にはわからない。わからない人が、勝手に、過小評価して、いろいろなことを言ってくる。そういうことですら、「こまったこと」だ。やりにくいことだ。「世間の人とまじわりたくないな」と俺をして思わせることだ。けど、世間の人からすれば、「そんなことは、気にしなくていい」と思えることなのだ。えーっと、ようするに、「やりにくいと感じる必要がない」と感じることなのだ。世間の人は、過小評価したうえに、俺がそういう世間の人とまじりたくないという気持をもつという合理的なプロセスに関しても、否定しやがるのだ。ほんとうに、めんどうくさい。

ぼくにとっても、ひとのことはどうでもいいことになるけど、他人にとっては、ぼくのことはどうでもいいことだ。そして、ぼくの側にしょうじたヘビメタ騒音というできごとは、その人にとってはもっとどうでもいいことだ。「理解した」としても、言葉として理解したということであって、別に、体験として理解したわけではないのだ。言葉として理解したことと体験として理解したことのあいだに、かなりのちがいがしょうじることがある。他人の頭のなかの「僕のヘビメタ騒音体験」は、無視できる人間にしょうじた無視できる出来事なのだ。だから、ぼくが「こだわる必要がないことにこだわっている」ように見える。そりゃ、その人の頭のなかでは、理解したとしても、とるにたらないことだ。現在に影響をあたえないように見えることだ。しかし、それは、その人の「頭のなか」でそうなっているだけだ。その人の頭のなかで、まず、ぼくという人間の存在が微々たる存在なのである。その微々たる人間が経験した、微々たる出来事……。そんな出来事がずっと影響をあたえるはずがないと思ってしまうのだ。しかし、それは、その人の「頭のなか」にある「ヘビメタ騒音」が影響をあたえないものであるということにすぎない。人間というのは、まず、他人のみのうえにおこったことがわからない。もちろん、他人の経験なのだからわからない。けど、言葉をとおして、わかったつもりになってしまうのだ。ぼくの経験したヘビメタ騒音が、どはずれで、よその家では絶対に怒らないことだったらどうだ? ぼく以外の人は、ぼくが経験したようなしつこいヘビメタ騒音は経験してないということになる。その人が経験した「騒音」をもとにして、ぼくが経験した「騒音」について考えることになる。そして、その人は、別に、きちがい家族によるヘビメタ騒音を経験してないので、それがどれだけ、人生全体に影響をあたえてしまうか、まったくわからないままなのである。意見を言っているときも、わからないまま、意見を言うということになる。しかし、「理解してない」と言われれば「理解した」と言うのである。もちろん、「騒音のことは理解した」という意味でその言葉を発する。……しかし、実際には、まったく理解してないので、騒音のことを無視して、騒音の影響をうける必要がないと言うのである。騒音の影響があるはずがないと言うのである。……そんなことはない。そんなことはないのだけど、別の個体なので、わからない。あるいは、他者には経験がないのでわからない。
 

2022年4月27日水曜日

今度は、誘導されない方向で調べるんだ!!

毒リンゴの続きだけど、たとえば、その世界に食品の安全性を管理する省庁があるとする。とりあえず、食糧庁だとする。食糧庁は政府の機関だ。政府が、毒リンゴを普通のリンゴだと偽って配っている場合は、もちろん、食糧庁はあてにならない。

なので、食糧庁のウエブサイトに書いてあることは信用できないと考えるべきだ。「自分で調べろと言われたから、自分で調べることにした」人がいたとする。

その人は、食糧庁のウエブサイトに書いてあることを読んで、自分で調べたつもりになってしまう。それはよくないことだ。それは、やましいことをしている企業のウエブサイトに行って、その企業の説明を読んだということにひとしい。

その企業が、顧客や潜在的な顧客に信じてほしいものを説明するだけなので、言ってみれば、その会社のシーエムを見ているようなものだ。食糧庁に書いてあることを読むということは、ある商品を売りたい企業のシーエムを見ていることにひとしい。なので、意味がない。

毒リンゴについて、国際機関、国の機関、国際的な大企業、その国の大企業、国際的なメディア、その国のメディア、検索エンジンの会社、その国の医者が協力していたらどうする? そういう可能性も考えて、調べなければ、調べたことにならない。

はっきり言えば、もっとも一般的な検索サイトが誘導したところに行って記事を読んでも、それでは、自分で調べたことにならない。誘導されたところに行って記事を読むというのは、企業のコマーシャルを見るのとおなじだ。

検索サイトをつくっている企業がぐるだったらどうする?

何度も言うけど、そんなのは、お客さんに自社の商品を買ってほしいと思っている企業がつくったコマーシャルを見ているのとおなじだ。

というわけで、現実世界でも、〇〇〇〇について調べなおしたほうがいい。今度は、誘導されない方向で調べるんだ!!

2022年4月26日火曜日

数万時間のヘビメタ騒音を経験してない人にとっては、数万時間のヘビメタ騒音のことはわからない

 数万時間のヘビメタ騒音を経験してない人にとっては、数万時間のヘビメタ騒音のことはわからない。不可避的な影響の「不可避的な性格」がわからない。経験してないのだから、わからない。そうなると、俺のことを下に見るようになるのである。俺のことを軽蔑するようになるのである。これがどういうことか、こういうことを平気でするやつら……ヘビメタ騒音の影響を無視するやつらにはわからない。最初から、「ヘビメタ騒音『で』できなくなった」と言っている。かってに、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、俺のことを悪く言うやつが、道徳や正義について語りだす。頭がおかしいんじゃないかと思う。

きちがい兄貴の性格や態度についても、ヘビメタ騒音の影響を過小評価する人には、わからないことだ。うまれた家の問題というのがある。父親や先行して生まれている兄弟が、きちがいだとこまるのだ。ひらたく言えば、きちがい。やわらかい言い方をすると、頭にクセがある人。頭にクセがある人は、二四時間中二四時間その頭でものを考えて、行動する。こまるんだよ。どういうふうに「こまるか」ということが、そういう頭にクセがある家族がいない人にはわからないのである。俺が言っていることが不愉快なことに感じるのである。どうして、不愉快なことに感じるかということについては、かつて、書いたので、省略する。(自我と世界観のところだよ)。


2022年4月24日日曜日

じゃあ、おこったらすぐに、「楽しい楽しい」と言えばいい

 いろいろと、いやなことを思い出す。あやまっておく。あのとき、ごめんな。ヘビメタ騒音でめちゃくちゃな状態で、がんばってハイにしていると、ああいう状態になってしまう。やってくれと言われたからやった。けど、やばかった。あーあ。俺がたのんだことじゃないからな! と言っておこう。けど、まあ、そういうことをぬいたとしても、ヘビメタ騒音にやられたあとの日中というのは、気張っていてもくるしいんだよ。ポジティブシンキングで乗り越えようとすると、へんな状態になってしまう。浮かれた状態というか……。あんまりいいこと、ないんだよな。ともかく、ヘビメタ騒音そのものと、きちがい兄貴の態度自体が、いろいろな、不可避的な影響をあたえる。こっちが意識してがんばると、どうしても、あんまりいい結果にならない。考えてみれば、言霊やポジティブ思考ということを言っている人は、きちがい兄貴にやられたわけじゃないんだよな。きちがい親父にやられたわけじゃない。きちがい的な家族と毎日一緒に住んでる状態を経験してない。長期にわたって、経験してない。せいぜいのところ、上司がへんな人だったというようなことだろ。会社を辞めれば、その上司との関係は切れる。けど、家族の場合はちがう。そして、成人するまでの一八年間で、ものすごく、影響をうけてしまうのである。で、そういうことを、言霊やポジティブ思考ということを言っている人は、無視してしまう。無視しするというよりも、わからないのだ。だから、話として理解しているけど、自分の経験じゃない。他人の身の上に起こったことだから、そもそも、話を聞くまで、ゼロの影響しかないのである。話は話であって、たいしたことじゃない。まあ、言霊にこっているひとは、言霊理論を否定されればおこるけどさぁ。じゃあ、おこったらすぐに、「楽しい楽しい」と言えばいい。「楽しい楽しい」といえば、楽しくなるのだから……。「言霊が成り立たないと言われたので楽しく感じる」と言えば、楽しくなるわけだから……。だいたい、言霊ということを言う人たちは、「どんな状態だって」と言う。「どんなにくるしくても、楽しいと言えば楽しくなる」というのが、その人たちが普段、主張していることだ。なので、言霊理論を否定されたら、「エイリさんと話すと楽しくなる」と言えばいいのだ。言霊理論が正しいなら、楽しくなる。

ポジティブシンキングというのは、どんどん人を自分勝手にするところがある。もちろん、本人は、いい意味で使っているのだろうけど……。

 

あーー。もう、いいよ。

俺はもう、つかれた。

地合いが黒だったということを考えるのであれば、プラグマティズムの影響をうけた理論というのは、めぐまれた人たちが勝手に言っているだけの、ざれごとだ。きれいごとだ。きちがい的な家族にやられたことがない、めぐまれた人が、自分勝手なことを言っているだけ。

 

いったい、なんだったんだ? ぼくの人生は?

ほんとうに、普通の人にはないハンディでくるしかった。ほんとうに、人々は勝手なことを言う。勝手。そんなの、きちがい家族のハンディがないから言えることだ……と思ってしまう。実際、そういうことを言う人たちには、きちがい家族のハンディがない。きちがい家族のハンディをあまく見ている。生まれたときからずっと十数年間一緒にいきる人間がきちがいだったら、どうしたって、影響をうける。しかし、そういう家族がいない人からすると、「影響をうけるからダメなんだ」「影響なんてうけないと決心すれば、影響なんてうけない」というような意見をもってしまう。 これ、ほんとうに、本人に体験がないから言えることだから……。まるでちがうんだよな。こんな不公平な世界は、ない。そして、ロクでもない精神世界の人たちが、これまた、「生まれる家は自分で選んだ」「自己責任」「魂が契約した」「不幸な出来事が起こるとは生まれるまえから計画されていた」「魂を磨くために必要なことだった」というようなことを言うわけ。実際に、きちがい家族のもとに生まれた人は、袋叩きだよ。ふくろだたき。ふくろだたきなんだよ。ほんとうに、どいつもこいつも、きちがい家族のもとに生まれなかった人は、きちがい家族のもとに生まれた人をせめることばかり言う。こんなことが、道徳的なことであるはずがない。たましいがよろこぶことであるはずがない。これ、こういうことを言っている精神世界の人たちは、自分のたましいをよごしているよ。ぼくの考えではカルマはないけど、カルマという考え方が好きな人に言っておくと、(こういうことを言うことで)カルマをうみだしているよ。

 

 

2022年4月23日土曜日

これ、鳴ってなかった世界線とちがった世界線に入ってしまうのである

 ヘビメタで人生がない。ほんとうに、ヘビメタで人生がない。あれ、ずっと鳴ってた。サカマさんのことだって、ヘビメタがなかったら、ちがってたんだぞ。あんなの、ない。ほんとうに、こんなのない。きちがい兄貴のやり方が、ほかの人にはわからないんだよな。そして、そういうふうにやられると、ほんとうに、からだにひびくということがわからない。やられてない時間も、ずっとくるしい。睡眠回路をこわされる。そして、睡眠回路をこわされて、いろいろなことをすると、いろいろなところで、恥をかいたり、へまをしたりするのである。で、帰ったら鳴っている。どれだけ言っても、やめてくれなかった。けっきょく、一分だって、やめてくれなかった。一秒だってやめてくなかった。きちがい鳴らしし続けて、鳴らしたつもりがまったくないという状態が成り立ってしまう。ほんとうに、「鳴らしてないのとおなじ態度」だからな。「鳴らしてないつもり」のままなんだよ。じゃあ、やめてくれるのかと言うと、絶対にやめない。きちがい的な意地で鳴らし続ける。こたえるにきまっているだろ。からだこたえるに決まっているだろ。一日のなかで、どれだけ長い時間、夢中になって鳴らしてたんだよ。俺はまだ、空間に、ノイズが残っている。この、雰囲気がいやなのである。死にたい気持ちになるのである。あんなの、ない。そして、そういうことを経験しなかったやつが、えらそうなことを言う。えらそうなことを言われる立場に、俺が、おいこまれる。全部が全部、そうなる。全部というのは、非合理的な考え方ではない。きちがいヘビメタが鳴ったら、鳴っているあいだと、なったあと、影響をうける。どうしても、影響をうける。これ、鳴ってなかった世界線とちがった世界線に入ってしまうのである。事実、鳴っていた!! 鳴っていなかった場合というのは、仮の世界の話になってしまう。時系列的にそうなる。きちがいヘビメタにやられてない人は、ぼくがなにを言っているのかわからない。体験がないから、過小評価したり、鳴り終わったら、影響がないと思ってしまう。鳴り終わったって、人生のなかで一四年間と六か月ずっと毎日、鳴っていたのだから、影響をうける。最初の七年間なんで、ほんとうに、一日、我慢して生きているだけで、猛烈につらい状態だ。猛烈につらい状態でかんばっていたの……。経験のないやつが、勝手にヘビメタ騒音の影響を推し量って、えらそうなことを言うのは、絶対にゆるせない。ゆるせない。

2022年4月22日金曜日

「金の量が少ないから、金本位制なんて成り立たない」という意見は、まちがっている。

 みんな、わかってないようだけど、金本位制は、成り立つ。ようするに、原理的に無理ではないということだ。むしろ、兌換紙幣時代のほうが、異常なのかもしれない。いづれにせよ、金本位制は、成り立つ。だから、「そんなのはむりだ」「そんなことが、成り立つはずはない」と考える必要性はない。

「いまの通貨流通量を考えれば、金がたりない」と考える人がいるのだ。しかし、そんなことはない。金の価値が高くなれば、量の問題は解決できる。なんでビットコインの値段があがったかと言うと、ビットコインの量をかえなかったからなのだ。

ビットコインは、これからは、消滅の方向に進むと思うけど、彼らがビットコインの量をかえなかったということは重要だ。ビットコインの量がかわらなかったということがとてつもなく、重要だ。

まあ、これから買うとしたら、金と連動している仮想通貨だろう。まあ、それはいいとして、量が限られているということが重要なのだ。

たとえば、土地と言うのは、「面積が限られている」ものだ。かぎられているからこそ、価値があがる。たとえば、一平方メートルあたり、一円の土地が、一平方メートルあたり、一万円の土地になったとする。一万倍価値があがったということだ。

しかし、「その土地」は「その土地」のまんまなのである。

本質的にはかわらない。

しかし、交通の便が良くなるとか、店が多くなるといったことや、なんとなくおしゃれな街であるような感じがするということで、土地の価値があがる。

ビットコインにしたって、ビットコインはこのさき価値があがるだろうと思う人が多かったので、価値があがった。ビットコインは、悪魔側が仕掛けた集金装置だ。これがわかってない人が多いんだよね。

肝心なのは、土地は面積が決まっているということや、ビットコインは最初に決めた量しか発行しないということだ。金は、そういう性質をもっているのである。そして、別に金自体を持ち歩かなくても、、金に関連付けされた自国の貨幣があれば問題はない。

今回、言いたいことは、金は量が限られているので、そのぶん、価値が変動しやすいということだ。価値というのは、この場合、貨幣でさししめされる値のことだ。一グラムの金が一円から、一万円にあがったとする。それは、一平方メートルの土地が一円から、一万円にあがることとかわりがない。なので、「金の量が少ないから、金本位制なんて成り立たない」という意見は、まちがっている。

で、ある程度あがったところで、今度は、平衡を保つようになる。今現在の貨幣の流通量と今現在の金の保有量がだいたい、均衡するところで金の値段がおちつく。また、時間がたてば、人々の「もの」に対する、関心の度合いがへる。地合いが白になれば、自分にとって適切な量だけあれば、それで満足できるような状態になる。


まあ、時間をどう考えるかという問題がある。期間の長さをどう考えるかという問題だ。信用創造がなくなるということは、重要ことだ。信用創造がなくなり、人々のおカネに対する考え方がちょっとかわってくる。いままでとは、ちがってくる。「おカネをかせがないと飢え死にするかもしれない」というような考え方がなくなる。別にお金をかせがなくても、死んだりしないからだ。けど、時間の長さは考えないとだめだ。いつ、そういう社会になるは、わからない。

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「いまだって生活保護があるじゃないか」って? それはちがうよ。生活保護は、ラッキーな人しか受けられない。この、受給資格があるにもかかわらず実際には、受けられない人がいるということがどういうことなのか、わかってない人たちがいる。条件を満たしているにもかかわらず、生活保護をもらえない人たちがいる……。これがどれだけでかいことか、わかってない。そんな制度は、信用できない。信用できない制度を信用するわけにはいかない。受給資格が法的にさだまっているにもかかわらず、受けられる人と受けられない人が出てくる……。こんなでたらめな、制度はない。こんなものは、事実上ないものとしてあつかうしかない。

黒い社会と霊界思考

うんっ、むーー、しかし……どうするかな?

まあ、見届けるしかないか。ここまできちゃったし……。

あまりにもひどいことを何回も経験すると、失望した状態になる。からだも失望した状態になる。まあ、元気がなくなるわけよ。……もうちょっと、誤解を恐れずに、短縮して概要だけを言っておくか。基本的に言うと、過去の悲しいことに鈍感になると、物事を感じる力自体がなくなって、楽しみを感じられなくなる。感情の鈍化というべきか? 感情全体が、「はたらかなくなる」ことで、悲しみのほうの攻撃を「ゆるくする」。そうすると、悲しみだけではなくて、楽しみのほうも、鈍化してしまうのだ。悲しみのほうだけ、鈍化させて、楽しみのほうは、鈍化させずに残すということはできない。

意志教の人たちは、自分のからだなのだから、自分の思い通りに動かせると思っている。意志教の人たちは、自分のこころなのだから、自分の思い通りに動かせると思っている。しかし、人間の場合は、広範な範囲において、そうではない。ほんとうは、人間はそういうふうにつくられていない。にもかかわらず、意志教の人たちが、自分の考えは正しいと思うのには理由がある。それは、経験がないという理由だ。経験があれば、そうなる。けど、経験がなければ、そうならない。けど、そういうことを言うと「俺だって、つらいことはあった」「何度も、ピンチをこえてきた」と意志教の人は言うだろう。けど、これは、経験がないからこそ、言える言葉だ。経験がある場合は、言えない。言えなくなる。ただ単に、経験がないからわかってないという状態を維持しているにすぎない。一生のなかで、そういう経験がないのであれば、 「自分のからだなのだから、自分の思い通りに動かせる」「自分のこころなのだから、自分の思い通りに動かせる」というのは、意志教の人たちにとっては、真実だ。しかし、それは、人間にとっての真実ではない。人間という集合のなかに、経験をした人間と経験をしてない人間が含まれている。なので、経験をしてない人にとって真実であることも、経験をした人にとっては真実ではない。

しかし、ここで問題が起こる。経験をしてない人が主流で、経験をしてない人が社会を動かしている。闇の世界を含めて、支配者層の人は経験をしてない。普通の社会においても、支配者層の人は、経験をしてない。もちろん、支配者層の人だって、「俺だって、ものすごくつらい経験をした」と言うのである。いうけど、わかってない。経験がない。

ともかく、経験がない人たちが支配している社会なので、経験がある人たちは、しいたげられる。きれいごとのなかで、処理される。これは、「正義」がないということだ。経験がある人は、経験がない人にしいたげられ、死んでいくしかないということになる。これが、「地合いが黒である」社会の特徴だ。その社会にうまれてしまったら、のがれることができない。これからは「地合いが白」になるので、経験がある人たちも生きられるようになる。しかし、混乱期はある。だいたい、引き寄せとか、言霊ということを言っている人たちは、精神世界系の人たちで、その人たちは自分が「白側に属する」と思っている。白側に属しているという意識のもとで、引き寄せのや言霊を肯定する。これが、白なのかというと、じつは白ではない。たとえば、彼らの言葉を使うのであれば、波動が高い人がやることなのかどうかというと、波動が高い人がやることではない。

引き寄せや言霊は、「地合いが黒」である社会のなかで成り立つ、「きれいごと」だ。「白く見えること」だ。しかし、ほんとうは「白」ではない。おなじなのである。黒い人たちがたてまえで言う「きれいごと」とおなじ意味を持ってしまうのである。なので、そういうことも、やがては修正されるだろう。

引き寄せや言霊だけではなくて、カルマという考え方もおなじだ。このあいだ説明した「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方もおなじだ。「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方についてちょっとだけ説明しておこう。この世に、AさんとBさんがいるとする。Aさんが自分勝手な気持にかられて、Bさんを殺したとしよう。普通なら、Aさんが悪いことをしたということになると思う。けど、「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方をする人たちは、自分では善悪を超越した気持ちになっているので、この世における善悪は関係がないという立場にたつのだ。ようするに、AさんとBさんは、ともにうまれるまえに、契約をしたと言うのだ。もちろん、生まれるまえなので、Aさんの魂とBさんの魂が、契約したということになる。「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方をする人は、契約したのだから、問題はないと考える。生まれる前のAさんとBさんが、契約したことだから、BさんがAさんを殺したとしてもなにも問題はないと考えるのだ。「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方をもっている人は、たましいのレベルで契約したことを実行しただけだから、Bさんは、まったく悪くない。あるいは、Bさんは悪いことをしてないということを言うわけだ。けど、「生まれるまえに魂が契約をした」という「事実」はその人たちの頭のなかにしかない事実だ。事実でもなんでもない。妄想。けど、そういうことを言う人たちのなかでは、真実であり事実であるわけだから、その人たちはそういうふうに考えて、実際の事件に対してもそういう見解を述べるということになる。ぼくの考えでは、これは、傲慢な行為だ。

問題なのは、白側からこういう見解が出てくるということだ。白側の人は「わかったつもり」になって「宇宙を貫く真実」について語る。「霊界」について語る。「霊界の意味」について語る。だから、白側の人にとっても、 「生まれるまえに魂が契約をした」という考え方は、比較的容易に、納得できるものなのである。しかし、これはまちがっているし、いい行為じゃない。

 

2022年4月21日木曜日

やはり、きちがい的な親に育てられた子供のほうが、圧倒的に不利なのである

 きちがい兄貴の態度が普通じゃないんだよな。つまり、きちがい兄貴の脳みそが普通じゃない。あれは、普通の人がとれる態度じゃない。普通の人は、どうしても、意識してしまう。認識してしまう。この普通の人が普通に認識してしまうことを、無意識的に無視してしまうということは、頭がおかしい人しかできない。

ほんとうに、自分では気がついてない状態になるので、「無視してやった」とか「無視をして、実際に自分がやりたいことをやった」という認識自体がない状態なんだよな。それは、何万回繰り返してもない状態なんだよ。こういうことがわからないんだよな……ほかの人には。

でっ、きちがい親父もおなじなんだよ。きちがい親父がオリジナルで、きちがい兄貴が親父のコピーである可能性のほうが高い。

別々に、二人とも、そういうレベルのことで、頭がおかしくなっているとは思えない。俺の頭は、おかあさんの影響をうけて、兄貴の頭は親父の影響をうけたんだろうな……。遺伝子的に……。きちがい兄貴の構造的な欠陥と、きちがい親父の構造的な欠陥が同じなのである。脳みその構造的な欠陥……なんだけど……。

こういう場合は、ほかの人……きちがい親父とおなじ脳みその欠陥をもたない父親に育てられた人にはわからない。

そして、きちがい兄貴とおなじ『脳みその欠陥』をもたない兄と一緒に暮らしていた人には、根本的に、わからない。

だから、俺が嘘を言っているように思うんだよな。

そして、「そんなへんなことはない」と思ってしまう。「そんなへんなことはないから、エイリさんが嘘を言っている」と思ってしまう。そして、やっかいなことに、トラブル自体は正常な人間同士でも起こるのだ。

ようするに、きちがい親父とおなじ『脳みその構造』をもってない父親とだって、トラブル自体はしょうじる。

だから、そういう人たちは、きちがいおやじとおなじ『脳みその構造』をもってない親とのトラブルと、きちがいおやじとおなじ『脳みその構造』をもっている親とのトラブルをおなじようなものだととらえてしまう。

「俺だって、そういうことはあった」と思ってしまう。

けど、ちがうんだよ。ちがうんだよ。こういうのも、ぼくと、他人とのあいだをへだたせる、理由のひとつになるなぁ。もちろん、親父がそれをねらって、そういうことをしたというわけではないのだけど……。

ようするに、そういう頭の構造をもってないとできないことをしたということではないのだけど……。

まあ、親父の話になったけど、きちがい兄貴にも同様のことが成り立つ。ほかの人……きちがい兄貴とおなじような頭の構造をもってない兄がいる人や、兄がいない人には、ぼくの言っていることが根本的には理解できない。どうしたって、似たようなトラブルを考えて、そのトラブルをとおして、本人が感じたことが……ベースになる意見を言う。

 

それは、じつは、実際の相手が経験したトラブルを無視していることになる。そりゃ、地合いが悪なのだから、普通の人同士でも、いろいろなトラブルがしょうじる。

けど、やっぱり、質的ちがうと思う。すでにきちがいになっている親とのトラブルと、きちがいではない親とのトラブルは、ちがったものだ。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、きちがい的な親にやられた人だ。Bさんはきちがい的な親にやられたことがない人だ。この場合、Bさんが考える、Aさんがかかえるトラブルというものが、Aさんが実感しているAさんがかかえるトラブルとはちがったものになる。この実感の差は、個体が個体である限り、どこまでもつづく。

もちろん、逆も成り立つ。Bさんがかかえている普通の親とのトラブルは、究極的にはAさんにはわからないことだ。しかし、きちがい的な親のほうが少ないので、普通の親に育てられた人のほうが多いということになる。そして、きちがい的な親に育てられた子供は、基本的に言って、他者とのトラブルに巻き込まれやすい傾向がある。

しかし、その傾向をぬいて考えたとしても、やはり、きちがい的な親に育てられた子供のほうが、圧倒的に不利なのである。この世は、悪が支配している世界なので、他人とのトラブルというものが、生じやすい。ようするに、たしかに、Aさんは普通の親とのトラブルを経験してないけど、普通の人とのトラブルは経験している。

ようするに、Aさんの場合は、きちがい的な親とのトラブルにプラスして普通の人とのトラブルを経験するようになるのだけど、Bさんの場合は、普通の親とのトラブルを経験して普通の人とのトラブルを経験することになる。その場合、普通の人とのトラブルを普通領域、きちがい的な人とのトラブルを、拡張領域というとするとBさんは、拡張領域のトラブルを先に経験している。

Bさんが、きちがい的な人とのトラブルを経験したとしても、家族ではないので、限定的になる。家族というのは、やはり、普通の他者とはちがう。長いあいだ、関係が続くし、18歳ぐらいになるまで、いっしょに住んでいるのが一般的だ。経済的な上下関係もある。ともかく、親子の関係と普通の他者同士の関係は、おなじではない。影響の度合いがちがう。

 



2022年4月19日火曜日

どうするかな?

 いろいろと考えていることはあるのだけど、書くわけにはいかないのだ。書いたとしても公開するわけにはいかない。『強迫神経症と父親』についてだ。どうするかな? あんまり書きたくないエピソードがある。ほんとうなら、論文にするべきだ。どうするかな? ヘビメタ騒音で学者へのキャリアパスが粉砕されたからなぁ。どうするかな? 生きているうちに書くべきか?

しかし、このさきどうするかな?

 かわるんだよ。

 このさき、かわる。

世界がかわるわけ。

 

 *     *     *

 

ところで、いろいろといやな記憶があるんだよな~~。ずっと忘れていたのに、きちがい親父の入院・転院騒動で、親父とかかわっていたら、俺の神経症レベルがあがって、思い出してしまった。ほかの人には、まったくわからないだろう。そして、その文章の価値がわからないと思う。

もし、ひかりの時代がくるなら、この時代の神経症に関する論文はそれほど価値がないものになりえる。それから、ひかりの時代ということについて説明している、精神世界の人たちのことだけど……。俺からすると……精神世界の人たちもなぁ……と言いたくなってしまうところがある。

この人たちはこの人たちで、感覚器を書き換えてしまうタイプのきちがい的な親が子どもにどういう影響をあたえるのかまったくわかってないところがある。この人たちは、金持ちのボンボンとおなじでまったくわかってない。金持ちのボンボンは、そこそこ、黒い社会に適応できる人間なので、それなりに、黒にそまっている。良心が痛まないタイプだからなぁ。精神世界の人たちは、神経症的に!良心がいたくなるタイプの人間のことが、ほんとうに、まったくわかってない。

そして、じつは、そういうハンディ?がある人間たいして、ステレオタイプ的な決めつけをして、そういうハンディ?がある人間を不愉快な気持にさせている。

けど、精神世界の人たちは精神世界の人たちで、じつは……。精神世界の人たちは、自分が相当に「波動が高い」存在だと思っていると思うけど、じつは、そんなには高くない。もちろん、高い人もいるけど、それほど高くない人もいる。

波動がほんとうに高い人は、きちがい的な親にやられた人を、傷つけない。

どうしてかというと、「わかっている」からだ。

わかってない人が、傷つける発言をがんがんする。その発言の背後にはある種の妄想的な?決めつけがある。その決めつけは、本人にとって、ゆずることができないたいせつなことなので、ゆずらない。

2022年4月16日土曜日

ヘビメタ騒音なしで、いきたかった。

 あーー、俺は、ほんとうによく生きているなぁ。ヘビメタ騒音なしで、あの子と普通につきあいたかった。ヘビメタ騒音なしで、中学生活をおくりたかった。ヘビメタ騒音なしで、高校生活をおくりたかった。ヘビメタ騒音なしで、大学キャンパス生活をおくりたかった。ヘビメタ騒音なしで、ダイヤと旅行に行きたかった。ヘビメタ騒音なしで、ダイヤと文学的な同人誌をつくりたかった。ヘビメタ騒音なしで、自分の知識をいかして、起業したかった。ぜんぶ、ぜんぶ、ないわぁ。

どうしても、ヘビメタ騒音でくるしい。どうしても、くるしい。これでいきてたって……。これで、いきてたって……。いきてたって……。

くるしかった。すぐに鳴りやんでほしかった。ずっと鳴りやまなかった。

「すぐに鳴りやめ」と言って鳴りやまなかったのだから、言霊は成り立たなかった。きちがい兄貴に直接どれだけ言っても、鳴りやまなかった。きれいごとは、成り立たなかったということだ。みんな、どのみち、きかなかった「おまじないのような方法」を、あたかも、絶対法則のように言うのはやめてくれ。

きれいごとが成り立つなら、苦労してないんだよ。こまってないんだよ。どうして、きれいごとを言って、「うわのせ」をしてくる。これ、みんな、わかってないけど、きちがい的な家族にやられたら、おしまいだ。世間の人は、きちがい的な家族の味方をする。やられたほうを、なじる。やられたほうに、説教をする。そんな説教の「きれいごと」が成り立っていたら、そもそも、苦労してない。きちがい兄貴に一回目、「やめてくれ」と言ったら、やめてくれたはずだ。

みんな、きちがい的な家族にやられたことがない。きちがい的な家族にやられた人間は少数派だ。きちがい的な家族に人生を破壊されて、死んでしまう。生きてたって、ロクなことがない。どうしてかというと、毎日やられるからだ。そして、毎日やられれば、そういうことが、つもる。負の効果がつもる。負の出来事がつもる。鳴っているなかで、どんだけの不安に襲われるか? みんな、きちがい兄貴のきちがい的な態度がわかってない。みんな、きちがい兄貴のきちがい的な感覚がわかってない。きちがい兄貴も、じつは、自分の……きちがい兄貴の感覚がわかってない。そりゃ、感覚器を書き換えてしまうようなやりかたで、「うそ」を押し通す。「うそ」をついているつもりがない。こういうのが、ごく自然に成り立つ。こういうきちがい家族にやられたことがない人は、まったくなにもわかってない。

ほんとうに、いろいろ、あったなぁ。全部、俺が不利な立場に立たされることだ。



2022年4月15日金曜日

「親の格差・下」の人が経験したトラブル、「親の格差・中」の人と「親の格差・上」の人が経験したトラブル

 「親の格差・上」の人と「親の格差・中」の人は、「親の格差・下」の人が経験したことがまったくわかってない。この理解度は、幼稚園生の理解度、以下だ。普通の事柄に対する幼稚園生の理解度というものがあるとする。

そして、それは、複雑なことに関してはまちがっている場合が多い。そういうレベルの理解度しかないのだ。

普通の人、あるいは、めぐまれた人の理解度というものは、そういうレベルの理解度だ。経験をとおしてわかってないのである。

だから、そういうレベルの理解度にもとづいたことを言っても、相手に不愉快な気持を抱かせるだけになってしまうのである。ようするに、まちがっているだけではなくて、相当に、相手を不愉快させることを言っているということだ。

これ、ていねいに言っているけど、わからないかもしれないな。ようするに、 「親の格差・下」ではない人は、 「親の格差・下」の人に、「わかったようなこと」を言うべきではない。

けど、みんな、似たような経験があるので、似たような経験から、「親の格差・下」の人が経験したことを「おしはかって」いろいろなことを言ってまう。ようするに、自分が信じていることを言ってしまう。けど、幼稚園生がまちがうように、まちがっている。それは、ちがう。 

けど、ちがうと言っても、これがまた、ちがうということがわからないのだから、問題がある。まあ、わからないと思うけど、「親の格差・下」の人が経験したトラブルは、「親の格差・中」の人と「親の格差・上」の人が経験したトラブルとは、まったくちがったトラブルだと思ったほうがいい。

 

2022年4月14日木曜日

他人を奴隷にしたり、他人を殺したり、他人を不幸にすることで、よろこびを感じるような人たちが、トップにいるような社会

問題なのは、地合いが黒であって、なおかつ、生まれの格差があるにもかかわらず、地合いが黒であることや、生まれの格差があることは、無視されるということだ。無視されて、きれいごとが成り立っている。

たとえば、認知療法の理論、行動主義心理学の理論、ポジティブ思考の理論、言霊の理論、思いは現実化するという意味での成功法則、引き寄せの理論、すべては受け止め方の問題だとする霊界理論、たましいが自分の条件を選択したのだという霊界理論……こういうものが、すべて、地合いが黒であるという状態に奉仕し、生まれの格差を無視する。

地合いが黒だ……ということは、非常に重要なことだ。

地合いが黒であるということは、つねに悪魔のささやきがある状態なのである。「じぶん」がよければ、ほかのものは、自分の行為によってどうなってもかまわないというような自分勝手さが、奨励されている世界なのである。たいていのものは、自分がよくなりたいので、他人を犠牲にする。そういうことに、なれてしまう。

そして、そういうことになれてしまっているのにもかかわらず、じつは、きれいごとを言う。いまに、わかると思うけど、世界の指導者としてきれいごとを言ってきた人たちは、ほぼ全員、猛烈に悪いことをしている。たましいをけがすことをしている。まあ、それには触れないでおこう。

ともかく、地合いが黒である状態だと、人は、簡単に悪魔の誘惑に負ける。地合いが黒である状態だと、「じぶん」さえよければ、ほかのものはどれだけくるしい思いをしてもいいというような考えに陥りがちだ。勝ってしまえば、それでいいという考えに陥りがちだ。上位に立ってしまえば、それでいいという考えに陥りがちだ。そして、それを実行する。しかし、それは、悪いことなのである。

しかし、そういう状態でも、なおかつ、人は、きれいごとを言うことができる。きれいごとの活動に奉仕することができるのだ。なので、「うえ」の人がそういうことをしていると、「した」の人は簡単にだまされてしまう。

「うえ」の人が言っているきれいごとが正しいと思うようになってしまう。もちろん、実際は、きれいごとではなくて、悪が成り立っている。地合いが悪なのだから、悪が成り立っている。

けど、悪が成り立っているということについて、人々は無関心になる。今回の〇〇〇〇騒動でそういうことが、あきらかになった。

ともかく、このような世界では、他人を蹴落としたい、自分が優位な立場に立ちたいという、自分勝手な気持?が鼓舞されて、承認されるのである。実際にそういうことになれしたしんでいる人が、社会の上層部にたくさんいるということになる。

これからは、地合いが白になるので、他人に対する思いやりが、成り立つ社会になる。地合いが黒である社会でも「他人に対する思いやり」ということは、きれいごととして、よく言われることだ。〇〇〇〇でも、「思いやり〇〇」ということが言われた。

しかし、悪魔に奉仕する人たちが言う「思いやり」はじつは、不幸なことを引き起こしてしまう「思いやり」だ。そして、悪魔に奉仕する人たちは、それを知っている。知っていてやっている。

つまり、自分さえよければ、他人が死のうが、他人が不幸になろうがかまわないという考えに基づいて、〇〇〇〇〇〇をしたほうがいいということを言ってしまう。それが思いやりなのだということを言ってしまう。

これは、普通の人にとっては、まさに、悪魔のささやきだ。負けては、いけない。

けど、あたかも、〇〇〇〇を打つことが、思いやりのある行為に思えてしまうのである。ようするに、負ける。悪魔のささやきに負けてしまう。

この人たちは、他人を殺し、他人を不幸にするために思いやり〇〇をすすめている。そういうことに、気がつかなければならない。この〇〇〇〇〇〇のすすめこそが、悪魔に支配された「地合いが黒である社会」の特徴をあきらかにしている。他人を奴隷にしたり、他人を殺したり、他人を不幸にすることで、よろこびを感じるような人たちが、トップにいるような社会だ。 

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2022年4月13日水曜日

この人たちの感じ方とぼくの感じ方がおなじであるはずがない

みんな、ヘビメタ騒音なしで、「そのとき」をまっているわけで、ぼくとはちがうんだよな。そりゃ、ゆっくりまてるだろう。けど、ぼくにはそんなよゆうはない。ヘビメタ騒音前と、ヘビメタ騒音以降ではまったく「感覚」がちがう。この感覚のちがいは、ほかの人にはわからない。どうしてかと言うと、ヘビメタ騒音なしで生きてきたからだ。「あの」ヘビメタ騒音の連続がない。毎日、きちがいが横で、ヘビメタを鳴らし続けて生活のすべてを破壊するということがなかった人たちだ。この人たちの感じ方とぼくの感じ方がおなじであるはずがない。

2022年4月9日土曜日

きちがい兄貴の『ヘビメタのやり方』が、異常なので、ぼくが異常な人に思われる

 きちがい兄貴の『ヘビメタのやり方』が、異常なので、ぼくが異常な人に思われるのである。もう、そういうことの連続で、いやだ。これ、きちがい兄貴の『ヘビメタのやり方』というのは、おかしい。そりゃ、感覚器を無視して、でかい音で鳴らしているのにでかい音で鳴らしてないと「本気で思うことができる」というのが、まずおかしいけど、そのほかにも、きちがい親父とおなじように、いろいろとへんなところがあるのである。

で、ほんとうに物理的にでかい音で鳴らしていたのだけど、物理的にでかい音で鳴らしているということを、認知している態度ではなかったんだよ。普通の人であれば、でかい音で鳴らしているということを、感覚器が正常だから知っている。

もちろん、聴力に異常がある人は、そういうことを明示しているし、相手にも納得がいく。ようするに、兄貴がほんとうに聴力障碍者である場合は、ほかの人にとっても、ぼくにとっても納得がいく状態なのである。けど、きちがい兄貴は、正常な聴力をもちながら、自分のヘビメタだけは、小さく聞こえるという心理的な機制をもつ人間だった。

で、これは、きちがい兄貴にもわかってないし、ほかの人にもわからないことなのだ。きちがい兄貴の状態、きちがい兄貴の言ったこと、きちがい兄貴の行動、を吟味してみると、自分のヘビメタに関しては、耳が悪くなる人間なのだと、ぼくが解釈しただけだ。

実際に、そういうことを、きちがい兄貴はしてきたので、そういう人間だと思う。しばいでやっているわけじゃない。知っているけど、知らないふりをしているわけではない。けど、聴力が弱いわけでもないという、こっちにとっては、こまった状態の人間なのだ。こまった、脳みその癖をもつ人なのだ。

こんなの、実際に、迷惑をかけられている人間しかわからない。その、かくされた異常性が、どういうふうに、現象に影響をあたえるかなんて、ほかの人にはわからないし、説明したところで、興味がないことだ。

条件を考えないで、「人間はこうだ」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言うから

条件を考えないで、「人間はこうだ」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言うから問題がしょうじる。『相手の問題』というものを、無視したり軽視したりしてはいけない。

けど、「人間はこうだ」と人間に言う場合は、相手の条件を無視していることが多い。きちがい親父というハンディは、父親がきちがい親父ではなかった人には、まったくわからない。

想像することもできない。想像することもできないのだから、理解することはできない。相手が言うことを聞いて、想像する場合、父親がきちがい親父ではなかった人は、まちがった想像をしてしまうのである。

そして、理解したつもりになって、ああだこうだと言う。それは、はげましているつもりで言うわけだけど、条件を無視しているので、言われた相手は、不愉快な気持になる。きちがい親父にたたられなかった人は、きちがい親父がどういう行動をするのか、どういう感覚の持ち主なのか、ほんとうは知らない。

ただ、きちがい親父にたたられた人が、言う、説明を、言語として、自分の経験をとおして、理解するだけだ。この理解は、不十分な理解なのである。父親がきちがい親父ではなかった人が「自分だって親とこういうことでぶつかった」とか「自分だってこういうことがあった」とかということを言う場合、きちがい親父にたたられた人からすれば、まるで、自慢話をされているような気分になる。

だいたい、そういうことを言う時点で、きちがい親父がどういう存在であるか、わかってない。

経験をとおしてわかってない。

わかっていないというのは、そういう話をし出すということからわかる。ほんとうに、きちがい親父を体験している人は、そんなことは言わない。これは、きちがい兄貴のハンディを経験してない人が、「俺だって、朝はつらい」「誰だって朝はつらい」ということをはなしはじめる場合とおなじだ。

けっきょく、そういうことを言う人は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験してない。毎日、十数年間にわたって、経験してない。経験していたら、そんなことは、絶対に言えない。言わない。口が裂けても言わない。

通勤、通学ができる人が(現時点でやっている人が)……「俺だって、朝はつらい」という場合、やっているので、やれなくなるほどつらいことを経験してないということがわかる。

しょせんは、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを始める前の、ぼくの「朝はつらい」というレベルの話とおなじだ。これが、からだがまったくちがった状態になるのである。ヘビメタ騒音をやられた次の日の朝、というのは、つらいなんてものじゃないのである。

意志教の人は、「起きるという強い意志をもてば、起きられる」というようなことを言うけど、そういう強い意志を持って、毎日、起きつづけたからこそ、ついには、起きられなくなったのだ。

毎日、ずっとむりがつづけば、むりがができないからだになる。

ほんとうに、俺とおなじぶんだけ、毎日ヘビメタを聞かされたわけじゃないので、からだをとおして、動きずらい状態、くるしい状態というのを経験してないのである。自分がからだをとおして経験してないことについては、判断をあやまる傾向がつよい。



 

2022年4月7日木曜日

「Bちゃんが毒リンゴを食べちゃう」(神様が決める真実)と(人間が決める真実) そして、視点の相対性という問題

 毒リンゴのことについては、むかし書いたことがあるのだけど、文章がどこかに行ってしまったんだよな。まあ、ぼろぼろだから、管理もできてないわけ。どうしてボロボロになったかというと、ヘビメタ騒音でぼろぼろになったんだよ。で、まあ、そういう前置きはいいとして、毒リンゴの話をしておこう。この毒リンゴの話は、「異世界」の話だ。この世界の話でないので、そう思って、聞いてくれ。

毒リンゴのことで言いたかったのは、神様的な視点で、ものごとを認知できる人間がこの世(異世界)にはいないということだ。みんな、人間の視点でものごとを認知している。どうしてなら、その世界(社会)を構成している生物が人間だからだ。(異世界の人間だとする)。

で、作者が神様的な視点で事実を決定したあと、その事実が揺らがないものとして、説明を始めるというのが普通のやり方だ。たとえば、「毒リンゴ」と書いたら、「毒リンゴ」であるわけ。

そのリンゴが、毒リンゴなのか、毒が入ってないリンゴなのかは、重要なことなんだよ。

で、Aさんと、Bちゃんと、Cさんがいるとする。Aさんは、毒リンゴを配っている人だ。無料で配っている。Bちゃんは、毒リンゴを受けとって、食べようとしている子供だ。

で、Cさんは、Aさんが配っているリンゴがじつは、毒リンゴだということを知っている人だ。そして、Cさんが、Aさんが配った毒リンゴを食べようとしているBちゃんを見かけたとする。

そのとき、Cさんは、「毒リンゴを食べちゃだめだ」と言って、Bちゃんの毒リンゴをはたいた。はたかれた毒リンゴは地面に落ちた。リンゴを食べようと思っていたBちゃんは、地面に落ちたリンゴを見て、泣き出してしまった。

この場合、そのリンゴが毒リンゴであるということを知っている読者は、Cさんがなんで、リンゴをはたいたのかわかる。Aさんが毒リンゴを配っている悪い人だというのがわかる。だから、読者にはこの話はうけいれられやすい。Cさんが真実を知っている人で、Aさんが毒リンゴを配っている人なのである。

けど、Aさんが配っている毒リンゴが、毒リンゴではなくて、普通のリンゴだという設定で、おなじ場面について作者が読者に説明をすると、Cさんは、普通のリンゴを毒リンゴだと思っているへんな人(頭がおかしい人)で、子供が食べようとしていた普通のリンゴをたたいて落とすということをした悪い人間だということになる。一方、Aさんは、普通のリンゴを無料で配っている善良な人だということになる。そういうふうに、見えるでしょ。読者はそう思う。

けど、そういうことは、普通は意識されない。心理学の本を読む場合、へんなことにこだわる人は、最初からへんなことにこだわる人として説明されている。これは、作中の登場人物に対して、読者が思うことだ。そして、作者は、神様的な視点で、「事実」を決定することができる。しかし、現実の世界・現実の社会では、じつは、神様的な視点をもっている人間は存在しない。なので、作者が設定するように、「事実」は決定されてない。おのおのの個人が、別々の視点から、「事実」を見て、決定するということになる。


繰り返して言うけど、現実の世界・現実の社会では、神様的な視点で、そのリンゴが、毒リンゴであるか、普通のリンゴであるか決定できる人はいない。この世の人間は、その人間の視点しか持ってない。その世界の人間は、神様的な視点をもてない。

あくまでも、その人間から見ると、毒リンゴに見えるということになのである。その社会に、そのリンゴが毒リンゴであると認識している人と、そのリンゴが普通のリンゴであると認識している人がいるということになる。神様的な視点で、真実がわかっている人間はいないのである。

なので、検査をすることになる。

けど、人間がおこなう検査は、人間がおこなう検査であって、神様のようには、事実を認識できない。検査機関が、毒リンゴを無毒なリンゴだと判定して、そのような情報を流した場合、普通の人は、それを信じる。検査機関が権威がある検査機関だと、その情報を信じる。

検査機関が、かそりめに、事実を決定するのである。けど、このかりそめの事実決定は、神様による事実決定ではない。検査機関がほんとうは、毒が入っているリンゴを毒が入ってない普通リンゴだと発表する可能性はある。人間がおこなうかりそめの事実決定と、神様による事実決定は、じつは、ちがう。

「ほんとうの真実」というものがあるなら、それは、神様が決定した真実だ。

人間が決定した真実は、「ほんとうの真実」のまがいものだ。

けど、権威がある機関がそういう判定をしたならそうなのだろうと、普通の人は考える。それにしたがう。こういうばあい、あるとき、権威のある機関がなんらかの理由でうその情報を流した場合、混乱がしょうじる。

普通の人は、うその情報を信じてしまうからだ。

まあ、架空のこととして、ほんとうの真実(神様が決める真実)と暫定的な真実(人間が決める真実)のあいだに、わずかなすきまのようなちがいがあるということは、理解しておいてほしいんだよな。それは、神経質なことなんだけど、ちがいがある。この世における真実というのは、暫定的な真実にすぎない。



 

2022年4月5日火曜日

かえられないというのであれば、言霊は成り立っていないということだ

 

ほんとうに、言霊が成り立つなら、言霊主義者は、他人に説得なんてしない。言えば、それが、かならず、現実化するのだから、別の方法を考える。言っても、現実化しない場合があるということを知っているので、他人に説得をする。その説得のなかで「言霊的な」説得をするのである。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。

Aさんは、工場の経営者で、Bさんは、Aさんの工場の従業員だ。

そして、Aさんが、Bさんに「一日に二五個、まるまるをつくれ」と言ったとする。Bさんはそれに対して「一日に二五個、まるまるをつくるのはむりです。一日につくれるまるまるは二〇個が限界です。それをこえるとまちがいがおおくなるので、できません」と言ったとする。

それにたいして、Aさんが「できないというからできる。できると言えばできる」と言ったとする。Aさんは、Bさんに一日に二五個のまるまるをつくらせたいので、そういうことを言うわけだ。

しかし、考えてみれば、言霊が成り立つなら、Aさんは、Bさんにそんなことを言わなくてもすむのだ。

Aさんがひとりで「Bさんが一日に二五個、まるまるをつくるようになる」と言えばいい。Bさんに言う必要はない。言霊理論では、超自然的な力(ちから)によって、物理法則をこえて、言霊の力が物理的な存在に作用するということになっている。

なので、Aさんが、Bさんのいないところで、 「Bさんが一日に二五個、まるまるをつくるようになる」と言えば!Bさんは、一日に二五個のまるまるをつくるようになるのである。なると言ったらなるのだ。どれだけ、Bさんがつくりたくないと思っても、Aさんの言霊によって、Bさんが一日に二五個のまるまるをつくるようになってしまう。

言霊というのは、すごい力(ちから)をもっているので、言っただけで、世界のすべてをかえることができるのだ。他人の行動ぐらい、いくらでもかえられる。かえられないというのであれば、言霊は成り立っていないということだ。

 

 

 

精神論とか言霊理論とかそういうことを言われるときの、あの、いやな雰囲気

 精神論とか言霊理論とかそういうことを言われるときの、あの、いやな雰囲気と言ったらないなぁ。いやな雰囲気なんだよ。不愉快なんだよ。ヘビメタ騒音『で』できなくなったと言っているだろ。もとは、できたんだよ。数千日、数万時間のヘビメタ騒音『で』できなくなったんだよ。数千日、数万時間のヘビメタ騒音を経験してない人にはわからない。数千日、数万時間のヘビメタ騒音は、むちゃなことを言う。数千日、数万時間のヘビメタ騒音のなかで、ぼくがどれだけ、努力をしてきたかわかってない。無視をする。そのやり方が、全部、だめだったと言っているだろ。ほんとうに、不愉快。

たとえば、俺が「できなくなるようにしよう」と思って、「できないできない」と言って、できなくなったわけじゃないんだよ。『できないできない」と言うからできない(できなくなる)』とか、どれだけずれていることを言っているかわかってない。言霊は成り立たなかったということの、数十万回の経験がわかってない。放棄された理論なの。どうして放棄したかというと、きかなかったからだよ。有効じゃなかったからだよ。まちがった理論で人をせめるな。まちがった理論を言って、人を不愉快な気持にさせるな。


だから、言霊主義者は、時間を決めないで発言するのである。

「希望をもって暮らしましょう」ということを言っているのであれば、そういうふうに言えばいい。「言ったことが現実化する」と言う必要がない。前投稿で書いたように、言霊主義者も、言っただけでは現実がかわらない場合があるということを知っている。

ひとつでも、かわらない場合があるのであれば、「言ったことが現実化する」ということは成り立たない。

たとえば、ある人が「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」と言ったとしよう。その人が言ったことが現実化するということが、言霊の理論だ。一秒後にA国が、B国に向かって核弾頭ミサイルを発射しないのであれば、言霊の理論はまちがっていたということになる。

だから、言霊主義者は、時間を決めないで発言するのである。

「いつか、そうなる」……これなら「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する可能性」はあるわけだから、現在の時点では、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」ことがしょうじるのかどうか、わからない。言ったことが現実化するのか、現実化しないのか、その時点では、わからないことを言う。

あるいは、わからないように言う。

言霊主義者は、気にくわない現実は、無視している。時間を決めないのであれば、つねに可能性があるわけだから、「成り立つ可能性」を温存できる。

これは、言霊の理論が正しいという可能性を温存できるということだ。なので、言霊主義者は、意識しているかどうかにかかわらず、時間を制限するようなことについては語らない傾向が強い。

自分は、自分が思ったとおりに世界をかえることができると思っているのである。自分が思ったとおりに世界をかえる方法は、言うことなのである。

けど、自分の発言と、世界の動きは一致するのだろうか。自分の発言が原因で、「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」ことがあるのだろうか。自分の発言……ただ言うだけのことに……そんな力があると思っているのだろうか?

自分が言えば、A国の指導者が、急に、核弾頭ミサイルをB国に打ち込みたくなって、打ち込んでしまうのである。自分の考えが、A国の指導者の行動を、厳密に支配しているのである。完全にコントロールしているのである。そんなことがあるのだろうか?

ついでだから、言っておこう。たとえば、「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」と「A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射しない」という文には、たいした違いがない。ちがいは「する」と「しない」だけだ。

この、二文字、三文字のちがいに、正反対のことを引き起こす、力(ちから)があるのだろうか。

たとえば「ヘビメタ騒音が鳴りやむ」と「ヘビメタ騒音が鳴りやまない」という文の場合、「む」「まない」のちがいしかない。この、一文字と三文字のちがいが、現実をかえる力をもっていると、言霊主義者は思っているのだろうか?

ほんとうに、思っているのだろうか?

「一秒後に」ということばを付け加えるともっと、この違いが鮮明になる。

「一秒後」というのは、言い始めて一秒後なのか、言い終わって一秒後なのか。もちろん、言い終わって一秒後なのだろう。けど、途中まではおなじ文の文字列を、発音しているのである。

たとえば、「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射する」という文と 「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射しない」という文のちがいは、「する」と「しない」のちがいだけなので、「一秒後に、A国が、B国に向かって、核弾頭ミサイルを発射」までは、おなじだ。

だから、ほんとうに「現実をかえる力」をもっているのは最後の二文字、三文字だということになる。本気で言っているのだろうか?

言霊主義者は、最後の二文字、三文字に現実をかえるだけの力(ちから)が「ほんとうにやどっている」と思っているのだろうか?

最後の二文字、三文字には、現実をかえるだけの力(ちから)がやどっていると、言霊主義者は思っている。

まあ、最後の二文字や三文字が、現実を正反対のものにかえてしまうというのは、日本語の特徴が影響している。言霊というのは、じつは、日本語だけではなくて、英語でも成り立つ。ほかの言語でも成り立つ。ほかの方言でも成り立つ。「言ったことが、すべて現実化する」のだから、そうなる。

けど、それは、おかしくないか?


 

2022年4月4日月曜日

「できない」から「できない」と(相手にわかるように)報告しているのだ

 「言えば、現実をかえられる」と思っている人にとっては、「言わずに、現実にたえる」ということは、ばかげたことだ。言えば解決できるのだから、どうして、言わないのだ? どうして、言おうとしないのだ」ということになる。  「言えば、現実をかえられる」と思っている言霊主義者にとっては、言えば解決できる問題で悩んでいる人は、おろかものだ。あるいは、『「言う」という努力をしないということはけしからん』ということになる。「せっかく、言えば現実をかえられるということを教えてあげているのに、そうしないのはけしからん」ということになる。そりゃそうだろ。 「言えば、現実をかえられる」と思っている言霊主義者にとってはそういうことになる。 「言えば、現実をかえられる」と思っている言霊主義者は、言って問題を解決しようとしない他者を、根底のところでばかにしている。

さらに問題なのは、「できないと言うから、できないんだ。できると言えばできる」というような発言だ。こういう発言をする人は、言霊主義者だ。「できない」と言うから、できないのではなくて、「できない」から「できない」と(相手にわかるように)報告しているのだ。言霊主義者はたいていの場合、原因について、誤解をしている。「言わないから、できない」「できると言えば、できる」ということばにあらわされているように、つねに、原因は「言わないこと」あるいは「言ったこと」にあると(言霊主義者は)思っている。けど、そうなんですかね? 物理法則に従って、できないことがある。あるいは、物理法則に従って発生していることを(その人の力では)とめられないことがある。

サラリーマンをやっている言霊主義者なんて滑稽だ

 そりゃ、俺だって、希望をもった人が「思ったことが現実化する」と言えば、「そうですね」と言いたい。そりゃ、俺だって、希望をもった人が「言ったことが現実化する」と言えば、「そうですね」と言いたい。けど、きちがいヘビメタにさらされたときのからだの状態が拒否をする。からだの状態と気持ちは、おなじだ。あの不安に満ちた切羽詰まった気持ちで、「すぐに鳴りやむ」「一秒後には鳴りやむ」と思っても、ずっと鳴ってた。それどころか、きちがい兄貴の部屋に行って「やめろ!!やめろ!!」「しずかにしろ!!!」「しずかにしろ!!!」「すぐにしずかにしろ」「すぐにやめろ」と絶叫したって、鳴ってた。ずっと鳴ってた。じゃあ、言ったことが現実化するというのは、うそだということになる。言ったことと、言わないことをわければ、言ったことは、すべて、言ったことになるので、言ったことは、すべて現実化するということと、言ったことは現実化するということは、等価になるんだよ。「すべて」なんて言ってないと、言霊主義者は言うかもしれないけど、言霊主義者は、「言ったことはすべて現実化する」という意味で「言ったことは現実化する」と言っている。どうしてなら、たとえば、言ったことのうち、いくつかは現実化するけど、いつかは現実化しないと言うのであれば、「言ったことが現実化しない場合もある」ということを認めていることになる。しかし、「言ったことが現実化しない」ということを認める言霊主義者はいない。「言ったことのうち、いくつかは現実化するが、いくつかは現実化しない」とか「言った場合、現実化する場合もあるけど、現実化しない場合もある」と言うのであれば、言霊が成り立たないということを言っているのであり、言霊主義者が言っていることとは、ことなることを言っているということになる。

それから、「俺だって、つらいことを経験した」という言霊主義者がいるけど、言霊的な解決をこころみれば、かならず、問題は解決するのだから、つらいことを経験したというのは、うそだということになる。もし、つらいことを経験しとしても、それは、〇・一秒で解決してしまう問題なので、たいしてつらいことではないということになる。ようするに、言ったことがすべて、現実化するのだから、「〇・一秒後にこうなる」と言えば、〇・一秒後には、こうなっている(言ったとおりになっている)ので、問題は、解決する。これは、「自分は魔法の杖をもっている」とか「自分は魔法を使える」と言うことに、ひとしい。どうしてなら、思い通りにならないことを経験したら、即座に、「まるまるということはない」と言って、思い通りにすればいいからだ。たとえば、「うるさいな」と思ったら「この騒音は、〇・一秒後に鳴りやむ」と言えば、絶対に、どんなことがあっても、鳴りやむのである。鳴りやまないのであれば、言霊は成り立たないということになる。成り立たない現実を認めるべきだ。言霊主義者は、すくなくても、カネのために働いてない。どうしてなら、「〇・一秒後に、自分の銀行口座に一億円振り込まれる」と言えば、一億円振り込まれるからだ。 振り込まれないのであれば、言霊は嘘だということになる。言霊主義者が言っていることがほんとうなら、あらゆる困難を〇・一秒で解決することができる。そういうことを、ほんとうは、言っている。サラリーマンをやっている言霊主義者なんて滑稽だ。言えば、その通りになるのだから、すべてのことを、支配できる。その人が言ったことが、すべて、言ったとたんに成り立つということになる。だから、別にしがないサラリーマンなんてやっている必要がないのだ。全部、手に入るし、全部、思い通りにすることができる。ほんとうは、本人だって、そうできないことを知っている。だから、ある意味、その人のなかでも、「言ったことが、すべて、現実化する」という意味での、言霊は成り立ってないのだ。そして、無意識的には、成り立ってないということを知っている。言ったって、成り立たないことは、言わないようにしているのだから……。言ったってすぐにはそうならないことは、言わないようにしている。「言ったことが、すべて、現実化する」という意味での、言霊が成り立っているら、言えばいい。そうすれば、すぐに、それが現実化する。

ほんとうは、本人のなかでも「破綻している」ことを、人におしつけるな。ほんとうは、本人のなかでも「破綻している」ことを、真実のように語るな。人に語るな。

 

こういうのは、みんな、まちがった前提に立ったまちがった意見なんだよ。

 毎日つもったときの、からだの状態を知らないやつが、勝手なことを言いやがって……という気分にしかならない。言霊的解決法……認知療法的な言い換え……アドラー主義者のばかにした言説……こういうのは、みんな、まちがった前提に立ったまちがった意見なんだよ。

こいつらは、共通して、「つもるヘビメタ騒音体験」がない。体験がないから、見当はずれなことを言っている。けど、体験がないのでわからないという意味で、そいつらは、絶対に、見当はずれなことを言っているということに、気がつかない。ほんとう、ばかにしやがって。これ、ほんとうは、ばかにしている。けど、ばかにしているつもりがないんだよ。

 

フォークギターぐらいの音なら、小さいので、どれだけ長い時間鳴らしていても、問題はない

 悪夢で目が覚めた。鳴っている状態を再体験した。あの、あせりはない。ほんとうに、みんな、きちがい家族がいないので、きちがい家族が、「うちで」どういう行動をするのかわかってない。

もっと詳しく言えば、どういう認識でどういう行動をするのかわかってない。きちがい家族が、意地になってやっているとき、意地になっているという自覚がない。つまり、認識がない。で、普通の人は、「言えばわかる」と思っているのだけど、どれだけ言っても、わからない。目を三角にして意地をはってやっていること……特に、相手が「やめてくれ」と言ったことをやっているときは、やっているつつもりがないのだ。認知、認識がない。

だから、きちがい家族は「やったつもりがないまま」すごしている。けど、きちがい親父にしろ、きちがい兄貴にしろ、自動的にスイッチが入ってやってしまう。本人にとって都合が悪いことは、いま説明したような認知・認識システムで無視してしまう。無視したら、もう、「ない」んだよ。どれだけやったって「やってない」のとおなじなんだよ。

で、そういう都合のよさ……が、「認めたくないことは認めない」という部分でも発揮されてしまう。そりゃ、都合が悪いのだから、血相をかえて、意地になって認めない。けど、それも、「認めなかった」という認知・認識がない状態なんだよ。

二四時間中二四時間、きちがい兄貴やきちがい親父の頭は、そういう構造で、動いている。

なにもトラブルが発生してないときは、それでいいけど、トラブルが発生したら、こっちがこまるんだよ。

トラブルが発生しない場合についてひとつ例をあげてみよう。たとえば、きちがい兄貴が将棋に夢中になって将棋の盤面を見ながら、いろいろと考えている状態だ。こういう状態なら、夢中になったって、別にいい。静かだからな。

実際に、きちがい兄貴は、フォークギターに夢中になって、つねにフォークギターの練習していた期間がある。三年間だ。フォークギターに夢中になって、家に帰っていたらずっと、練習していた状態……。これも、別にいい。フォークギターぐらいの音なら、小さいので、どれだけ長い時間鳴らしていても、問題はない。

問題は、きちがい兄貴が、エレキギターに夢中になって、つねに、でかい音でエレキギターの練習をし始めたときからだ。これ、ほんとうに、絶対に鳴らせないような音で鳴らしている。きちがい兄貴が得れギターの練習をしているときは、爆音でヘビメタを鳴らして、その音にあわせて、練習をするので、ものすごい音で、ステレオの音とエレキギターの音が攻めてくるということになる。

きちがい兄貴はきちがいなのでやるとなったら、ほんとうに、一日中やっている。こっちは、休みなく、ステレオ・スピーカーの音とエレキギター・アンプ付きスピーカーの音にやられる。すごい、さわぎなんだよ。

「ヘビメタ? なにそれ?」と思うような「教師」が経験したことがないようなすごい音なんだよ。これ、ほんとうにまったくわかってない。あんな音のなかで普通の状態でいられるわけがないだろ。けど、これも、経験がない人たちにとっては、どうでもいいことなんだよ。意志教等にしてみれば、普通の状態でいられるはずなんだよ。そりゃ、強い意志を持って影響をうけないと決心すれば影響をうけずにすむわけだから。

けど、毎日毎日、続くと、意志に関係なく、からだにこたえることになる。その時間……ヘビメタ騒音が鳴っている時間が、もっともっと、くるしくなる。「気にしない気にしない」と思っていても、横でがんがん鳴っていれば、気になる。あの状態はない。強い意志を持って無視するということは、切羽詰まった状態になるということなのである。そりゃ、やられているわけだから……。四六時中、がんがんがんがん、攻撃をうけている。この状態がわからないやつが、意志の力とか言霊的解決法を、口にする。こいつらは、俺十な状態を経験したわけではない。

2022年4月3日日曜日

お楽しみ回路が破壊されていない者が言うアドバイスは、すべて、有害 みんな、わかってない

 コーヒー、飲んじゃった。あーー。これで、理想の彼女と一緒に住んでいてもおなじだなぁ。けど、きのうは、さみしかったぜぇ。今日はなにもできないと思ったけど、ちょっとだけ、部屋を片づけるか?

もう、午後一二時五〇分。昼間の一二時五〇分。これねぇーー。

もう一杯、コーヒーを飲みたいけど、にがい、にがいお茶で我慢するかな?

ほんとう、つまらない。ほかの人は、脳みそのいろいろなところを破壊されてないからなぁ。まあ、比喩的な意味で、「お楽しみ回路」とか。「お楽しみ回路」は楽しみを感じることができる回路だ。物理的な部位が対応しているとは言わないけど、物理的な部位が対応してないとも言わない。

まあ、ひゆーーてきーーな、意味で、お楽しみ回路というもの考えた場合、ぼくはもうだめなのである。きちがいヘビメタの繰り返しで、お楽しみ回路が破壊されている。

それから、親父を殺したいと思ったときに、親父を殺さないで我慢したという経験がある。

じつは、こういうことも、お楽しみ回路に影響をあたえている。みんな、わかってないんだよな。

ほんとうになぐりたかったけど、我慢した……。こういうことが、「楽しみを感じる回路」に影響をあたえるとは思ってない。けど、じつは、こういうこと「も」影響をあたえる。だから、楽しみを感じるべきだと思って、「楽しくなれ」「楽しくなれ」と念じてもだめなのだ。「楽しくなる」と言えば、楽しくなるというのは、普通の人の話。

この人たちが、「俺だってつらかったことはある」と言っても、これは、質的にちがうつらさなのである。どうしてそういうことがわかるかというと、「楽しくなると言えば、楽しくなる」などと言っていられる状態を維持しているからだ。そういう状態を維持できるなら、それは、たいしてつらいことじゃない。何万時間も、きちがいヘビメタ騒音にさらされて……何回も何回も、絶対の意地でへんなことをするきちがい親父をなぐろうとしたことを我慢した……ということが、ないのである。どうしてかというと、その人は、きちがい的な家族と一緒に暮らしたことがないからだ。これ、ぜんぜんちがう。普通の人とのあいだに起こったことと、家族とのあいだに起こったことはちがうのだ。そして、普通の人のもとにうまれてきたということは、普通の人が家族だったということだ。もう、そこで、ぜんぜんちがう。もう、そこが、ぜんぜんちがう。ちがうんだよ。

まあ、途中で普通の家族が、きちがい家族になるということも、ないわけじゃない。けど、それはまた、ちがうんだよ。ぼくが言っているのは、自分が生まれた時点で、すくなくても、親が気ちがいだった場合の話だ。

ともかく、「楽しくなると言えば、楽しくなる」ということを本気で言っているのであれば、……つまり、そういう「考え方」を信じているのであれば……お楽しみ回路は破壊されてない。

お楽しみ回路が破壊されてない人が言うことは、お楽しみ回路が破壊された人には、意味がないことだ。特に、お楽しみ回路が破壊されてない人が、お楽しみ回路が破壊されている人に対して、アドバイスをするのは、むだだ。むだなだけではなくて、有害。

お楽しみ回路が破壊されていない認知療法家、お楽しみ回路が破壊されていないアドラー主義者、お楽しみ回路が破壊されていない霊界信者、お楽しみ回路が破壊されていない言霊信者、お楽しみ回路が破壊されていないポジティブ思考信者、お楽しみ回路が破壊されていない意志教信者が言うことは、すべて、有害なのである。有害なアドバイス。

アドバイスをしたほうがいい気分になって、アドバイスをされたほうが不愉快な気分になるアドバイスにしかなりえないのだ。

お楽しみ回路が破壊された認知療法家なんて、いない。アドラー主義者、霊界信者、言霊信者、ポジティブ思考信者、意志教信者も、おなじ。お楽しみ回路が破壊されたアドラー主義者なんているわけがないだろ。以下、おなじ。

手短に言うと、きちがい親父に、何千回も、生まれてから11歳までやられても、「お楽しみ回路」維持できたのだ。けど、ヘビメタ騒音の数千日、数万時間のヘビメタ騒音で破壊された。ようするに、きちがい親父がやったことでは、ぼくのお楽しみ回路は破壊されなかったけど、兄貴のヘビメタ騒音で、ぼくのお楽しみ回路が破壊されたということだ。たぶんだけど、「俺だってつらいことがあった」「俺だって騒音ぐらい経験している」と言っている人のつらいことや、騒音というのは、お楽し回路を破壊するようなものではなかったということだ。そして、親父を殴りたい気持ちを我慢したということが、お楽しみ回路に影響をあたえるということを書いたけど、親父をなぐりたい気持ちを我慢したことによるお楽しみ回路の影響は、ようするに、ヘビメタ騒音を我慢したあとの話なのだ。どういうことかというと、親父をなぐりたい気持ちを我慢したことは、いまの時点で、お楽しみ回路をうしなったことに影響があるけど、それは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、人生のなかで発生したあとの話だということだ。つまり、兄貴のヘビメタ騒音+きちがい親父のきちがい行為なのだ。けど、兄貴のヘビメタ騒音と同じレベルの影響力をあたえるものを人生のなかで経験した人は、やはり、きちがい親父のきちがい行為だけでは、経験しない「お楽しみ回路の喪失」を経験することになるだろう。ともかく、あまりも特殊なので、普通の人が経験したことがないことなのだ。

今回の文章の前半部分と後半部分が矛盾しているように思えるかもしれないけど、矛盾はしてない。

++++

ぼくが前半部分で言いたかったことは、怒りが内攻することがあるということと、その「内攻した怒り」が「楽しむ能力」に影響をあたえることがあるということだ。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」とか「楽しむと決心すれば、楽しめるようになる」というようなことを言う場合、「楽しくなる」ということに、注意がむいている。あたりまえだが、そうだ。けど、『発狂的におこったけど、おこるのをがまんした』というような経験が、それ以降の「楽しい気持ち」に影響をあたえるのではないかということだ。ぼくは、あたえると思う。かなりでかい、影響をあたえると考えたほうが、現象を理解しやすい。それ以降と書いたけど、これは、「時間的にそれ以降」ということだ。

怒りが内攻する場合、やはり、人間は、楽しめなくなる。楽しもうという「意志」とは関係なく、楽しめなくなる。けど、「意志でどうにかする方法」をすすめられることになる。けど、重要なのは、怒りが内攻するような出来事を、人生のなかで、何万回も、何十万回も経験してしまったことだ。すでにあるそういう経験が、意志とは関係がない「自分の気持ち(全体)」に影響をあたえる。その場合、「意志とは関係がない」のだから「意志」ではどうにもならない。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という場合、楽しもうとする意志があり、楽しもうとする意志が、「自分」に「楽しむように」命令をすれば、楽しむことができるという前提がある。しかし、この前提がまちがっているのではないかということだ。こういう意味では、言霊主義者も、「意志教徒」なのだ。意志にかかわることを言えば、それが現実化すると考えているのであれば、「意志は絶対」なので、意志教徒になりえる。意志は絶対と書いたけど、それが意味するところは、「強い意志をもって、そうすれば、絶対にそうなる」ということだ。

 

 

「うまれるまえに、選択した」ってなんだよ

 ほんとうにつまらない。

意味、ない。

ほんとうに、つまらない。あーー、俺の人生、なんだったのか? それにしても、ほんとうに、ほかの人とちがいすぎる。きちがい親父のもとにうまれたというのが、もうすでに、ほかの人とはだいぶちがっている。普通の人は、普通親父のもとにうまれるわけだから。

そして、宗教妄想家は、俺が、きちがい親父のもとにうまれることを選んだと言うわけだ。こういう、侮辱。たましいのレベルでの、自己責任論。自己責任論だって問題があるのに、たましいの自己責任論とかなんだよ。たましいが、選んだというのは、たましいが、こういうことを認知するしくみがないと成り立たないのである。で、たましい自体には、そんなしくみはない。「うまれるまえに、選択した」ってなんだよ。ともかく、証明ができないものを、前提にして人をせめるのはよくないぞ。そして、『善悪の彼岸』だ。もちろん、そうなる。たましいが、選んだのだから、この世の善悪とは関係がないということになってしまう。こういうことを言う人は、きちがい家にうまれたことがない人だ。きちがい家にうまれなかった人だ。「自分は、選ばなかったから、いい」という、うさんくさい理由が成り立っている。「自分の『今回の学び』は、きちがいである父親もとにうまれることを必要としなかった」と言えば、それですんでしまうのである。きちがい家にうまれた人が、どれだけのことを経験するのか、ぜんぜんわかってない。ともかく、「たましい」とか「たましいがうまれるまえに選んだ」とかそういうことを言うな。自分が自分に対して言っていればいいだろ。人を対象にするな。他人を対象にするな。ほんとう、ふざけている。ふざけるな!!

これ、どれだけ、他人を侮辱しているか、たぶん「たましいの経験がないから」わからないのだろう。あっ、皮肉で言っているんだよ。皮肉で……。「未熟なたましいだから、わからない」……こういう発言は、たましいの存在を前提にしているわけ。で、「おまえのたましいが未熟だから、こういうことがわからない」と言っているわけ。ようするに、たましいという前提と、おまえのたましいが未熟だという前提があるわけ。まあ、他にも、前提があるんだけど、それは「たましいという前提」にふくめる。こういうことが、わかってないんだよね。

 

ちがいすぎるのでわからないということ

 あーーあ、つまんない。つまんないうえに、なにかとうまくいかないことが、多いなぁ。つかれたなぁ。こういう日はコーヒーを飲んでしまいたくなる。コーヒーの負の効果はすでにあらわている。腹がおかしい。じつは、昨晩も、こういう雰囲気だったので、コーヒーを飲んでしまった。「もう、どうでもいいか」という気持ちもあるしなぁ。それにしても、ぼくの騒音体験は、ほかの人にはわからない。ちがいすぎる。『きちがい兄貴』という特殊な項目がある。こんなの、『きちがい兄貴』と同居していたひとじゃないとわからない。同じ家に住んでいた人じゃないとわからない。根本のところでわからないんだよな。そして、わからなくても、相手にとってはなんの不利益もない。わかろうとするという気持ちもない。もっとも、わかろうとする気持ちがあっても、「経験がない」ので、かならず、誤解するのだけど……。けど、誤解を誤解だと思っていない、認知療法家やアドラー主義者よりはましか。いや、おなじようなものか。

水道水と食べ物がやばいことになっている

 政治家が国民を殺しにきているので、水道水と食べ物がやばいことになっている。しかし、おろかな国民がそのことに気がつかないのだ。そして、やはり、おろかな国民が憲法改正に賛成してしまう。これも、憲法を改正すると、徴兵制が可能になり、政治家が国民をころすことができるようになる。おろかだなぁ。国防というものがまったくわかってない。どっち側の人が国の中枢にいるのかということが重要なのに、それがまったくわかってない。政治家が国民のために国を守ろうとすると思っている人たちは、ばかだ。 どうして、こんなにもたやすく、だまされてしまうのか?

ばかにつきあわされる、ストレスが半端じゃないな。

まあ、憲法改正よりも、ともかく、水道水と食べ物をどうにかしないとやばい。じわじわと、ころされる。あれでさえ、気がつかない国民。水道水と食べ物だったら、気がつくわけがない。

2022年4月1日金曜日

まあ、俺が書いていることはうけないよな

 まあ、俺が書いていることはうけないよな。けど、アカシックコードはあてにならないから、記録しておかなきゃいけないんだよ。ぼくのメッセージがとてつもなく思慮深い人につたわるといいなぁ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。