2023年1月29日日曜日

「自分が相手にやってやりたいこと」というのが、無意識的に、意識的に、ゆがんでいるのである

 しかし、もう、つかれた。おやじが最後にとどめをさして、あの世に行った。あいつは、ほんとうに、俺が生まれたときから、俺の人生を破壊し続けているなぁ。これ、みんな、わからないだろうな。無意識に問題がある親に育てられた人じゃないとわからない。影響をさえぎることができないのだ。

アドラーのように単純な人だと、「どれだけがみがみ言われても無視すればいい」というようなことを考えるけど、そういうことではないのだ。破壊的な影響というのはそういうものではない。そして、きちがい親父の態度が「どれだけ言われても無視する」というものだから、アドラーが進めている態度と、きちがい親父の態度が似ているのだ。

どれだけ相手が、真剣に言っても、頑固に無視する……相手が必死になってどなって言っていることでも、頑固に無視する……。こんなの、いい態度であるはずがないだろ。

相手が、真剣に言っていることは、無視して、自分が相手にやってやりたいことだけ、やってやるのである。そして、「自分が相手にやってやりたいこと」というのが、無意識的に、意識的に、ゆがんでいるのである。ゆがみきてっている。

じゃあ、相手が、どういうふうにゆがんているのかを説明すれば、認めてくれるのかというと、それは、頑固に無視するのである。アドラーの場合は、無意識に問題がある親にやられなかったので、無意識に問題がある親に「やられる」ということ自体が、まったくわかってないのだ。俺から見ると、アドラーも、子ども。幼稚すぎる。考え方が幼稚で単純。わかってないことは、「ないこと」として無視する……そういう態度もある。

きちがい的な親にやられた人じゃないとわからないことがあるのだ。

2023年1月28日土曜日

ヘビメタ騒音で、くるしいだけの人生だったな

 ヘビメタ騒音で、くるしいだけの人生だったな。ぼくがやりたかったことなんて、ヘビメタ騒音がなければ、できたことだ。全部できた。きちがい親父がきちがい親父でもできた。きちがい親父がきちがい親父でも、ヘビメタ騒音がなければ、できた。願いがかなった。ヘビメタ騒音の出現で、全部できなくなった。そして、「できないのはおまえのせいだ」と言われるようになった。そういうことを言うやつは、みんな、ヘビメタ騒音がない。きちがい兄貴も、きちがい親父もない。どれだけのことがつみかさなるか、まったくわかってない。「コツコツ努力すれば成功できる(願望がかなう)」……コツコツ努力すると、身も心もボロボロになる。ヘビメタ騒音なかでしているのだからそうなる。ヘビメタ騒音を十五年間あびた体で、努力するのだから、そうなる。

これ、みんな、わかってないけど、努力の結果なのだ……。「楽しめないこころ」「だるい身体」……みんな、努力の結果だ。じゃあ、努力しないことができたかというとそうではないのだ。きちがいヘビメタ騒音のなかで生きていくということ自体が、たえまのない努力なしでは成り立たないことだ。ヘビメタ騒音が終わったあとだって、おなじだ。もう、身体も精神も崩れている。「ヘビメタ騒音がなかった場合の人生とはちがう」。ヘビメタ騒音がなかった場合の精神ではない。ヘビメタ騒音がなかった場合の身体じゃない。影響をうけている。ほかの人たちは、ぼくの影響を、無視できる。ぼくがヘビメタ騒音でこうむった影響を、ほかの人たちは、無視できる。過小評価できる。「あったって、ないもの」にできる。そりゃ、その人たちが、きちがい家族によるヘビメタ騒音でくるしんだわけじゃないから。ちなみに、この世で一番嫌いな音がヘビメタだったので、ヘビメタ騒音と言っているけど、かならずしも、ヘビメタである必要はない。その人にとって、一番嫌いな音が、長時間、となりの部屋で鳴っていたということだ。これは、爆音だ。きちがい兄貴が、爆音で鳴らしたいから、爆音じゃないと、書き換えてしまったのだ。ヘビメタが好きな、兄貴の友達ですら、「こんな音で鳴らして大丈夫なの?」と心配するような音だ。普通の人にとってはそうなのである。きちがい兄貴にとっては、そうではなかったけど……。これ、きちがいの言い換えがある。感覚器的な言い換えがある。無意識的な言い換えがある。それがずるいのである。ずるすぎて、ほかの人は、かんちがいしてしまう。もう、俺はいやだ。ほんとうに、普通の、幼稚園レベルの騒音で文句を言っているわけじゃないから。最初から、普通じゃない。ほかの人が経験したことがないような騒音なのである。むりなのである。あの中で、勉強するのは、むりなのである。普通に暮らすのはむりなのである。けど、「ない」人は、「どれだけうるさくたって勉強ぐらいできる」と言う。できないんだよ。「鳴り終わったら、眠れる」と言う。眠れないんだよ。生活自体が、ボロボロになる。俺が説明しても、ほかの人にとって、「兄のヘビメタ騒音」というものは、たいしたものではないので、俺が「できない」ということを認めない。そうなると、トラブルがしょうじる。不可避的なトラブルだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月27日金曜日

自分が思ったとおりの音で鳴らすということに「いのち」がかかっている

あの騒音生活をしながら、学校に通うということが、どれだけ、精神と身体を破壊するかまったくわかってないな。

そういう努力行為をしたから、だめになっている。

通勤ができなくなっている。

ともかく、きちがい兄貴はものすごい音で鳴らしているんだよ。それは、鳴らしてはいけない音だ。ほかのうちでは鳴ってない音なんだよ。きちがい兄貴だって、ほかのうちだったら一分も鳴らせない音なんだよ。

事実、いま、きちがい兄貴がすんでいるマンションではきちがい兄貴は、一分も鳴らしてない。けど、「うち」ならよいのだ。「おやじのうち」なら、絶対に鳴らしていいということになってしまう。

考えるまでもなく、「このくらいの音で鳴らしていい」と思ってしまう。

そして、きちがい兄貴はきちがいだから「このくらいの音」というのが、ありえないほどでかい音なのだ。横にいるのが……家族だから……弟だから……まったく気にしないで鳴らした。

あとは、ヘビメタ騒音道具を、自分が買ったという気持がある。こういうことが、どれだけ、影響をあたえるか、「一五〇〇円のハンダゴテ」のことでもめたことがない人にはわからない。きちがい兄貴の意地だって、わからない。きちがい親父の意地だってわからない。

いのちがかかっているんだからな。

ハンダゴテを買ってやらないことに命がかかっている。

一円だって出したくないという無意識的な気持は絶対なんだよ。親父の場合はな……。

焦点になっている。出してやるかどうかが焦点になっている。兄貴の場合も、一秒だってゆずってやらないということが、焦点になっている。絶対の意地で、全部の時間、自分が思ったとおりの音で鳴らすということに「いのち」がかかっている。

これ、大げさな表現じゃないのである。もし、俺が、自分の維持を通すとなると、きちがい兄貴を殺さなければならなくなるのである。もし、きちがい兄貴が、ハンダゴテのカネを親父からうばうとなると……出してもらうとなると、きちがい親父殺さなければならなくなるのである。そういうことなのである。

「いのちがかかっていること」なんだよ。

親父は、一円に命がかかっているけど、兄貴は、一日に一秒だってゆずらないことに命がかかっている。

そして、きちがい兄貴はカネのことで親父に意地悪をされたので、自分がアルバイトをして買ったヘビメタ騒音道具で鳴らすなら、どれだけ鳴らしたって、文句を言われる筋合いがないと思っているんだ。

この思いも強烈なんだよ。いのちがかかっている。

こういうことが、凡人佐藤にはわからないのである。普通の人にはわからない。どれだけの意地がかかっているかわからない。ほんとうに、俺が兄貴を一秒でもしずかにさせようとしたら、そのとき、殺さなきゃならないんだよ。

一秒だってしずかにしてやらないことに命がかかっているんだよ。一秒だってゆずらずに、全部、自分が思ったとおりにやりきることに、いのちがかかっているんだよ。

絶対の意地で、ゆずらない。

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月25日水曜日

そういう経験がないからわからない

 ほかの人には、一倍速で経験した、ヘビメタ騒音の経験がないんだよな。あれがどれだけやっかいなものかわかってない。だから、ヘビメタ騒音の効果を過小評価する。

もし、自分が、おなじ音にさらされたら……おなじ音にさらされて一年間生活したら……わかるのに、そういう経験がないからわからない。

わからないところで、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、まとはずれなことを言ってくる。けど、そのまとはずれなことというのは、その人にとっては大切なことなのである。たとえば、言霊主義者にとって、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなことは、たいせつなことなのである。

どうしてかと言うと、言霊主義者だからだ。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなこと言ってくるわけだけど、「楽しい楽しいと」とどれだけ言っても、楽しくならないので、「楽しい楽しいとどれだけ言っても楽しくならない」というようなことを、言わざるをえない。

これで、言霊主義者の主張にあわせると、問題がしょうじる。

問題がしょうじるんだよ。

「そうですねぇ」と、いちおう同意したとしよう。そして、ぼくが「楽しい楽しい」と言わずに「楽しくならなかった」としよう。その場合、努力をしないと、それを、せめられる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、言えばいいだろ」というようなことを言われる。「楽しい楽しいと言えば楽しくなるのだから、楽しいと言えばいいのに、そういう努力をしないからダメなんだ」というようなことを言われる。めんどうくさい。

きちがいヘビメタ騒音のなかで「楽しい楽しい」と言っているときの、破滅的な気分がわかるか? ヘビメタ騒音が終わって、眠れなくなっているときに、「楽しい楽しい」と言っているときの破滅的な気分がわかるか? 「もう、自殺するしかない」というような気分なんだぞ。

楽しいわけがないだろ。楽しくない。どれだけ言っても、楽しくない。

逆に、そういうきちがい騒音なかで、自分の気持ちをおさえて、「楽しい楽しい」と自分の気持ちとは関係がないことを言うのは、くるしいことだ。はげしく、くるしいことだ。

けど、ヘビメタ騒音という経験がない言霊主義者にはそれがわからない。この人たちは、子どもだ。ぼくから見ると、子どもなのだ。幼児的な万能感にみたされている。

そして、ほんとうは、言霊理論が破綻していることに気がつかない。

矛盾だらけなのだ。

けど、それを指摘してもしたがない。指摘してもしかたがない。

ヘビメタ騒音が鳴っているさいちゅうでもなく、一日のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとではなくて、人生のなかでヘビメタ騒音が鳴り終わったあとに「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。おなじだ。破滅感しかない。

言霊も、「意識的な意志」に自分のすべてを操作させることができるという考え方の一種だ。意識的な意志というのは、意識的な脳みそだと言ってもいい。意識的な脳みそが『憂鬱なのはまずい』『腹がたっているのはまずい』と判断して、「楽しくなる」ように「楽しい楽しい」と言うわけだ。

ちなみに、ぼくが、言霊は成り立たない」というようなことを言った場合、たいていの言霊主義者はおこる。おこったとき、「楽しい楽しい」と言えばいいじゃないか。そうたら、途端に楽しくなるのだから、自分の理論が否定されたからといって、おこる必要はなくなる。

へそを曲げなくてもすむ。

けど、たいていの言霊主義者が、言霊理論を否定されると、へそを曲げる。もう、もどらないのだ。その人にとって、ぼくが、いやな人になる。

ヘビメタ騒音を鳴らしているきちがい兄貴は、ぼくと言霊主義者のあいだでそういう、争いがあるということには、気がつかない。「きちがい兄貴が、ヘビメタをでかい音で鳴らすと、言霊主義者と言い争いをしなければならなくなるから静かにしろ」と言っても、しずかにしない。しずかにしないし、自分の行為と、「言霊主義者との争い」になにか関係があるとは、さかだちをしても、思うことができない。

まったく気にしないで、鳴らし続ける。あるいは、自分にとって不都合なことを言われたと無意識的には理解して、怒り狂って鳴らし続ける。意識的には「なんの関係があるんだ」と思って、「そんなの関係がない」と即座に思って、怒り狂っておしまいだ。

ともかく、なにがなんだろが、一分だろうが、一秒だろうがしずかにしてやるつもりがないのだ。ほんとうに我慢させられるということは、絶対の意地でさけている。その、強烈さを、きちがい兄貴が、意識してないということが問題なのだ。

これは、親父でもおなじだ。きちがい兄貴と、きちがい親父は、おなじことをする。きちがい兄貴ときちがい親父は、おなじ精神回路をもっている。

兄貴と親父とのあいだで起こったハンダゴテ事件の話を、きちがい兄貴に言えば……きちがい兄貴が、きちがい兄貴がうらんでいるきちがい親父とおなじ態度でヘビメタを鳴らしているということに気がつくかというと気がつかない。どれだけ言っても、きちがいおやじとおなじ反応経路をへて、気がつかない。どれだけ言っても、そのことを理解してくれるかというと理解してくれない。そんな高度なことがわかるなら、頑固に、こちらの言うことを無視して、うるさくしてない。

そもそも、「よその家では一分だって鳴らせないような音でずっと鳴らそう」と思わない。けど、よその家では一分だって鳴らせない音でずっと鳴らしても、弟に迷惑をかけているということがわからない。それは、言われないからわからないのではなくて、言われてもわからない。自分のなかで、「思いっきり、鳴らしたい」という欲求があるのであれば、その欲求に反すること……じゃまになるようなことは、無意識的なレベルではねのけて、認めない。意識的なレベルの脳みそには入ってこない。事前に、はねのけて、「なかったこと」になってしまう。自分に不都合なことは、「まったくかたちがない予感」のようなもでしかないのだ。瞬間的にしょうじる「まったくかたちがない予感」のようなものでしかない。それは、すぐに消えてしまう。怒り狂ったら、消えてしまう。このしくみが、兄貴と親父でおなじなんだよ。この、脳みそのしくみが……。だから、ものすごくこまることになる。けど、よその人はそういう人といっしょに住んでいるわけではないので、これまた、「親父と兄貴のしくみ」「親父と兄貴における脳みそしくみ」「親父と兄貴み反応回路」がわからない。だから、総合的に言うと、うちの兄貴の態度と、うちの親父の態度は、よその人にはわからないということになる。これがまた、こっちの負担になってしまうのである。理解しやすいしくみで動いている、きちがい兄貴ときちがい親父だったら、どんなに楽か?

俺がどれだけ、親切に、くわしく、きちがい兄貴の反応回路やきちがい親父の反応回路を説明したとしても、ほかの人は、半信半疑だ。凡人佐藤が……常識人佐藤のように「そんなひと、いるのかな」と思っておしまいだ。そして、それはともかくとして、とりあえず、「(エイリさんが)働いてないのなら、(エイリさんが)働いてないということが問題だ」ということになる。意識がそっちのほうに動く。ヘビメタ騒音で働けなくなっているとうことは、理解しないまま、「働いたほうがいい」と言ってくることになる。言霊主義者とおなじで、めんどうくさい。説明はしたからな。

 兄貴の頭の問題や親父の頭の問題だけではなくて、ヘビメタ騒音「で」通学通勤ができなくなったということを、ちゃんと説明した。けど、ヘビメタ騒音という問題が人生中で生じなかった普通の人たちにとっては、それは問題ではないのである。それというのは、ヘビメタ騒音だ。普通の人たちは、「ヘビメタ騒音がいっくら鳴っていたからと言ったって、働けないということはないだろう」と思ってしまう。こいつらにとっては、兄貴ではなくて、目の前のエイリさんが悪い人だということになってしまう。どうしてかというと、こういう人たちは、「なんであれ、働いていないのは、よくないことだ」「働いてない人は悪い人だ」と思っているからである。

けど、おまえ、毎日やられてみろ。そんなことは言えなくなる。どれだけ俺がこらえて、生きてきたかわかってない。どれだけ俺が努力して生きてきたかわかってない。いくら、自分の身には生じなかったことだとはいえ、想像力がなさすぎる。 

あの生活が、どれだけたいへんか、まったくわかってないなぁ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月21日土曜日

ほんとうに、つまんないんだぁ

  ほんとうに、つまんないんだぁ。この、つまんなさ。

そして、いろいろなことを思い出したときの、怒り。みんな、わかってない。わかってない。わかってない。俺の人生が特殊すぎるんだよな。俺の環境が特殊すぎるんだよな。あんな家族に、いないからな……。ほかには……。悪い意味で、かわっている。どうしようもない。ものすごい、悪影響。だれもわからない。だれも。だから、俺が勝手にさぼっているように見えるんだよな。これが、きつかったな。

2023年1月20日金曜日

 どうしても、頭にくることがある

 どうしても、頭にくることがある。思い出してしまう。そして、それがベースになっている、ほかの頭にくることがあるんだよ。これが、ほかの人にはわからないことなんだよな。説明したってわからないと思う。けど、長期ヘビメタ騒音が、ベースにある。長期騒音がなければ、そのほかのことも発生しなかった。

2023年1月18日水曜日

「隠された悪」の影響をうけた道徳観

 ともかく、まあ、生まれの格差を無視して、おカネや良心ということについて語るのが、だめなんだと思う。良心と書いたけど、性格だな。これ、生まれの格差「上」の人が、うまいこと、生まれの格差「下」の人をディスるのに役立つ。悪口を言うのに役立つ。けど、これが、道徳的な内容なのである。だから、輪廻やたましいという宗教的な話とあいまって、生まれの格差「下」の人を、くるしめる。けど、問題なのは、生まれの格差「下」の人がそれで納得してしまうことだ。ほんとうは、自分たちの悪口を言っているのに、自分たちの悪口を言っている人たちが言っていることを信じてしまう。生まれの格差「上」の人にとって都合のいい「道徳観」を、生まれの格差「下」の人が身につけてしまう。そうすると、じつは、生まれの格差「下」の人はくるしむことになるのだけど、それがわからない。社会全体が、生まれの格差「下」の人をくるしめるように、動きだすのである。そしてそれは、じつは、生まれの格差「中」の人にも適応される。

「隠された悪」というのがある。「隠された悪」が実際には社会をつくりだしていて、生まれの格差「下」の人をくるしめる、直接的な原因になる。そして、これは、間接的な原因でもある。「隠された悪」というのは、見ることができない。複雑なしくみを通して、発揮される「ちから」だ。これが、複雑すぎて、むすびつかないのである。「隠された悪」が、「道徳観」や「良心」を提供している。道徳観の根本は、ひとびとのなかにあるのだけど、まあ、具現した場合、「隠された悪」の影響をうけた道徳観になってしまうのである。「良心」についてもおなじ。


 

2023年1月15日日曜日

「口癖が人生つをくる」「つまらないと言うからつまらなくなる」という不愉快な発言について

 ほんとう、俺はどうなっちゃうのかね?

つまーーんない。

ほんとうに、つまんない。

「口癖が、人生をつくる」とか言っている人がいるでしょ。これは、説得力があるように思う人が、わりといると思うんだよね。

けど、まちがっている。これは、まちがっている。実生活が、口癖をつくるのである。実生活のなかで、すでに、「それ」がはじまっているのである。

口癖のほうは「結果」なのである。口癖が「原因」だと思っているわけでしょ。ちがうんだよね。

たとえば、水俣病でくるしくなった人は、「くるしい」と言うわけ。「くるしい」「くるしい」と言うから、くるしくなった!わけじゃないわけ。けど、ある人が、水俣病の人にあったとき、水俣病の人が「くるしい」「くるしい」と言ってたとする。

そうすると、言霊的な思考をする、ある人は、「くるしい」「くるしい」と言う「から」くるしくなった……と考えてしまう。これは、原因についてまちがった考え方をもっているということなんだよ。

けど、言霊が好きな人は、そういうことがわからない。「くるいしくるしい」と言う「から」くるしくなったのだという考え方をすてられない。

生まれの格差があるから、すでにそういう体験をしているわけ。すでに、起こったことなんだよ。わかるかな?

すでに起こったことに関して、感想を言っているだけなんだよ。生まれの格差があるから、構造的に不幸な出来事がしょうじるようになっている。

きちがい的な親が支配しているうちでは、不幸な出来事が起こるようになっているんだよ。だから、そこで、生きていくしかなかった人が、不幸な出来事について感想を言っているだけだ。

たとえば、きちがい的な親が支配しているうちで育った人がAさん、言霊思考にとりつかれている人がBさんだとする。

Aさんのことをまったく知らないBさんが、Aさんが「つらいつらい」と言っているのをたまたま見かけたとする。その場合、Aさんが「つらいつらい」と言う「から」Aさんの身の上につらいことが起こるのだと、言霊思考にとりつかれているBさんは考えてしまう。Aさんはきちがい的な親にやられて、「つらい」思いをしたので、「つらいつらい」とその気持ちを言ったわけ。「つらいつらい」と言う前に、「つらい」思いをしているわけ。すでに起こってしまったことなんだよ。わからないかな?

ともかく、言霊的な考えをもっている人は、出来事の発生順番について、ほぼ、確実に、まちがった考えをもつ……ことになっている。これ、ことになっていると言っていいのかな? 

言霊を重視していているのだから「本当の原因」については、まったく考えない状態になっていのである。「言ったからそうなった」という因果しか認めてないのである。それならば、時系列的な発生順番を無視することは簡単なことだ。ほぼ、必然的に、時系列的な発生順番を無視することになる。

ぼくがつまらないのは、ヘビメタ騒音で「楽しく感じる精神回路」がこわれたからだ。ヘビメタ騒音の繰り返しが、ぼくがもっていた「楽しく感じる精神回路」をこわしたのだ。

まず、基盤がこれだ。

そして、実際にヘビメタ騒音によって破壊された生活をしていると、不愉快なことが、多く発生するようになるのである。たとえば、ヘビメタ騒音によって、働けないからだになると、「働けない」ということを認めない、人たちが、「エイリさんは働けるのに働かない」と勘違いして、説教をしてくるようになるのである。

そういう「説教攻撃」をうける状態は、とても、不愉快な状態なのである。そういうことがつみかさなると、人生が「つまらなくなる」のである。

だから、「楽しく感じる精神回路を破壊されたこと」や「不愉快な出来事」が原因で楽しくなくなるのである。手短に言うと、こういうことなんだけど、ヘビメタ騒音が破壊したのは「楽しく感じる精神回路」だけではない。手短に言うと、こういうことなんだけど、ヘビメタ騒音が破壊したのは「働けるからだ」だけではない。言霊にこだわっている人や、ヘビメタ騒音に「楽しく感じる精神回路」や「働けるからだ」を破壊されなかった人は、まるで、まるで、わかってない。わかってない。

そういう場合、じつは「つまらないというからつまらなくなる」「口癖が人生をつくる」と言われること自体が、不愉快なことになるのである。

つまり、ヘビメタ騒音という一見、関係がない理由が、「つまらないと言うからつまらなくなる」「口癖が人生をつくる」と言われるという「不愉快な現実」をつくりだしているのである。

どうして、「不愉快」だと感じるかと言うと、ヘビメタ騒音で不可避的に 「楽しく感じる精神回路を破壊」され「働けないからだになる」のに、言霊思考にとりつかれている人は、それを無視して「言ったからそうなった」と解釈するからなのである。

ぼくが「つまらない」と感じるのは、ヘビメタ騒音が鳴っていたから、なんだよ。そして、言霊思考にとりつかれている人に会ったとき、「つまらない」と言った。その場合、言霊思考にとりつかれている人は、「つまらないと言うからつまらなくなる」と思ってしまう。言霊思考にとりつかれているのでそう思うわけだ。

そのあと、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを言ったとしても、言霊思考にとりつかれている人は、「エイリさんがつまらないのは、つまらないつまらないというからだ」と思っていて、ヘビメタ騒音のことを無視してしまうのである。ヘビメタ騒音が「つまらない」と言わせる原因なのに、「つまらない」と言ったということが、「つまらない」と感じる原因だと勘違いてしまうのである。

これは、「不愉快なこと」だ。なんで、これが、愉快なことや、中立的なことになるのか?

不愉快なことに決まっているだろ。

これに関しても、「すべては、受け止め方の問題だ」と言うようなわけのわからない逃げ口上(にげこうじょう)がある。 「不愉快なことだと感じるのが悪い」のだ、「不愉快なことだと感じるからダメなのだ」というようなことを言う人がいる。

これに関しては、もう、どこかに書いたから、いいか。

けど、ヘビメタ騒音で「つまらなくなった」のに、「つまらないと言うからつまらなくなる」と言われることは、不愉快な出来事だ。中立的な出来事ではない。これ、不愉快なんだよ。原因について考え違いをしないでほしい。そして、ヘビメタ騒音の影響を無視しないでほしい。

「人間は働くべき」とは言えない

 がんばって働く人がいると、その分だけ、社会にどうしても、ひずみ・ゆがみが生じてしまうのである。なので、過剰に働くことはよくないことなのである。けど、どうしても、働きたい人がいるかもしれない。そういう人は、ひずみ・ゆがみが生じたとしても、働いてもいい。しかたがないから、働かしてあげよう。ひずみ・ゆがみは回収しなければならなくなるけど、それは、基本的に言って、悪魔が支配する社会で発生することだ。なので、悪魔が支配する社会を悪魔ではないものが支配する?社会にかえればよいのである。

まあ、ともかく、みんながみんな、働きすぎるような社会だと、ひずみ・ゆがみが生じるので、全体としては、悪くなるということは知っておいたほうがいいと思う。

「人間は働くべき」とは言えない。「人間は働くべきだ」と考えている人が働くのは、(ひずみ・ゆがみ)を生じさせないのであれば、肯定できるけど、(ひずみ・ゆがみ)を生じさせるので、肯定できない。どうせ、ひとりの人間が生み出せる(ひずみ・ゆがみ)はわずかな量なので、どうしても働きたいのであれば、しかたがないので働いてもいいというわけだ。そのくらいのことだ。けど、そういう人が多数いると、(ひずみ・ゆがみ)が生じてしまうので、なんとかしなければならなくなる。で、なんとかしなければならなくなったのが、いまだ。いまの時代だ。これからは、「人間は働くべきだ」と考える人の人数が、減らなければならない。

過剰に働くのは、悪だ。(しかし、個人的なレベルではそういうこともあるだろうから、まあ、ゆるされはする)(個人的な感情の発露として、どうしても働きたい場合があるだろうから、ほんとうはあんまりよくないことだけど、個人がひとりのぶんのひずみ・ゆがみを生み出す量は少ないので、しかたがないので、ゆるしてあげる……ということだ)。ほんとうは、過剰に働くべきではない。これは、公害みたいなものだ。みんながみんな、少しずつ、(なかなか分解されない)有害ごみを出しているようなものだ。ほんとうは、よくないことだけど、しかたがないから、ゆるされることにしておくということだ。けっして、奨励されるべきことではない。

過剰に働くのを人にすすめるのは、悪だ。(これは、ゆるされない) 


+++++++++

けど、働かないと生きていけないじゃないか?

いや、だからぁ……働かないと生きていけないような社会はよくない社会なので、みんなでかえよう。働かなくても生きていける社会にしよう。過剰に働くことを求められるような社会はやめて、適度な量、働くことをのぞむ人が、適度な量、働くような社会をつくろう。


2023年1月14日土曜日

ほんとうに、他人がヘビメタ騒音のことを理解するのはむりだなと思う

 まあ、正直言って、ぼくも、カネは増えているよ。増えている。けど、長期ヘビメタ騒音の問題が片づかない。長期ヘビメタ騒音から派生した問題も片づかない。片づかないんだよ。

布団のなかに入っても、頭の中でもめている。

長期ヘビメタ騒音から派生した問題について、ほかの人ともめたことを、思い出している。会話が繰り返される。

たとえば、「人間は働くべきだ」というような発言について、ぼくが、いろいろと言いかえしているのだ。「こいつら、わかってない」「ヘビメタ騒音のことがまったくわかってない」……。ほんとうに、他人がヘビメタ騒音のことを理解するのはむりだなと思う。

他人は、ヘビメタ騒音を経験したことがないから<< 



きちがい家族による長期ヘビメタ騒音を経験したことがないから。

一日目の、ヘビメタ騒音と、五〇〇〇日目のヘビメタ騒音は、ちがう。たとえば、一日のなかで鳴っている時間が同じだとしても、一日目のヘビメタ騒音と、五〇〇〇日目のヘビメタ騒音はちがうんだよ。みんな、一日ですむ騒音の影響しか考えてない。みんな、一日ですむ騒音の影響……ぐらいの影響……しか……うけないと思っている。


みんな、『一日目のヘビメタ騒音ぐらいの影響なんだろ』と思っている。思っている。ぜーーんぜん、ぜーーーんぜん、ちがうのに、その人たちの、想像の範囲だと、そういうものとして想像してしまうのだ。
ちがいは、五〇〇〇日、ずっと、経験しないとわからない。だから、わからない。わからないものは、リアルに想像できない。

だから、わからない。

『影響の量』がちがうのである。みんな、『影響の量』について、『考えちがい』をしている。『考えちがい』をしているということにすら気がつかない。ぼくがどれだけ説明しても、そいつらのなかの『ヘビメタ騒音』というものが、かわらない。そいつらのなかの『ヘビメタ騒音の影響』というものがかわらない。

そいつらにとってみれば、ヘビメタ騒音の影響は、ちいさいものなのである。ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう。「鳴り終わったら関係がない」……「鳴り終わってからが、本番だ」「鳴り終わってからの、えいょきうがものすごいのである」。まるでわかってない。

わかってないということすらわかってない。

そうなるとどうなるかというと、「ヘビメタ騒音なんてどれだけ鳴ってたって関係がないから、働くべきだ」ということになってしまう。どれだけ俺が「ヘビメタ騒音の影響で働けなくなった」と言っても、そいつらは、『ヘビメタ騒音の影響』を認めないのだから、『働ない』ということも認めない。

ぼくがどれだけ「ヘビメタ騒音の影響で働けなくなった」と言っても、そいつらのなかでは「エイリさんは、働けるのに働こうとしない」という考え方が消えないのである。

ヘビメタ騒音の影響を無視してやがる。

「鳴り終わったら関係がない」「鳴り終わったら影響がなくなる」というまちがった考え方にもとづいて、まちがったことを言っている。

けど、「まちがっている」ということを、そいつらが認めるかというと認めない。

だから、そこに、大きな溝ができる。

もちろん、きちがい兄貴は、ぼくと他人との間に、そういう溝をつくってやろうと思って毎日、きちがい的な意地で、エレキギターを弾いていたわけじゃない。もちろん、きちがい兄貴は、ぼくと他人との間に、そういう溝をつくってやろうと思って毎日、でかい音で、一切合切ゆずらずに、ステレオを鳴らしていたわけではない。

けど、そうなっている。親友とのあいだに起こったことだって、きちがい兄貴が毎日毎日、こだわってこだわって、きちがいヘビメタを一秒もゆずらずに鳴らしたから発生したことだ。きちがい兄貴が、毎日毎日、こだわってこだわって、きちがいヘビメタを一秒もゆずらずに鳴らさなかったら、そんなことになってない。

これ、ほかの人には起こりえないことなのだ。ほか人の人生のなかで発生しないことなのだ。それは、『きちがい兄貴』という要素がないからだ。この、きちがい兄貴という要素が、ほかの人には、逆立ちしたってわからない。

きちがい兄貴が、どういうふうにくるっているかわかってない。きちがい兄貴が、どういう感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしているかわかってない。きちがい兄貴が、どういう感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしてないと思っているかわかってない。

まあ、きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音に対する態度は、きちがい親父のハンダゴテに対する態度やネズミ対策に対する態度とおなじなんだよ。まったくおなじ。

けど、これが、ほかの人にはまったくわからないのである。

ほんとうに、きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度は「やったってやってない」が現在進行形で成り立っている態度だ。そして、やりきったあとも、きちがい兄貴やきちがい親父は、やったということを、まったく認めないのである。

で、『それを、意識してやっているのではない』というところが、問題なのだ。意識してそういう態度でやっている場合は、本人は知っている。普通ならそういうタイプだ。ところが、ちがうのである。だから、ほかの人にはわからない。

手短に言うと、きちがい兄貴やきちがい親父の場合は、本人にもわからない。この本人がわかってないという部分が、異常なのだ。精神異常。記憶障害。自分にとって都合がいいようにくるっている性格。

2023年1月10日火曜日

意識的な意志について語る人たち

 意識的な意志について語る人たちは、その人たちがどれだけ「俺だってつらい目にあった」と言っても、たいしてつらい目にあったわけじゃないんだよね。意識的な意志で乗り越えられるというようなことを言えるだけの余裕がある。そんなんじゃないんだってば……。そういうことを言うと、基本的な性格や、基本的な能力のちがいがあるのだから、そういうふうには言えないのではないかと思う人がいると思う。けど、言えるんだよ。「基本的な性格や、基本的な能力のちがい」を乗り越えて!人間ならだれもがそうなるという「地点」がある。そういう「地点」に到達しなかったから、意識的な意志による解決を信じることができる。ようするに、ほんとうの困難を経験してないからそういうことが言える。この人たちが言っている困難なんて困難じゃない。「意識的な意志でどうにでもなると思っている」ということが、それを証明している。たいした困難に遭遇したわけじゃないということがわかる。証明している。

ただ単に、自分が経験してないだけなのに、し・つ・れ・い・だ・な!!。

ほんとうに、ほかの人たち、ヘビメタ騒音の一日がどれだけつらいか、わかってない

 ほんとうに、ほかの人たち、ヘビメタ騒音の一日がどれだけつらいか、わかってないなぁ。どれだけ、体力を削るかわかってない。どれだけ、能力をけずるかわかってない。あのハンディのでかさがわかってない。好き勝手なことを言いやがって……。やられてないから、どういう一日なのかわかってないだけだろ。

 「あれ、言うんじゃなかった」

 「あれ、言うんじゃなかった」ということが、突然、うかんできて、くるしめる。俺をくるしめる。こんなの、ほんとうに忘れていたことなのに……。当時は、別に気にしてなかったことなのに……突然にして、後悔の念にかられる。特に、親友に関しては、「あれ、言うんじゃなかった」ということがうかんでくる。親友じゃなくて、もと親友か。俺のなかで時間がとまっている。

なんで、何十年も忘れていたことなのに、うかんでくるかな?

2023年1月9日月曜日

「親切にしてやりたいという気持」とトラブル。「小さな親切、大きなお世話」

 繊細な人は、普通の人よりもずっとずっと、人に親切だ。特に、きちがい的な親にやられてきた人は、基本的に、親切なのである。その親切な人が、過剰に(ほかの人に)親切にしようとすると、問題がしょうじる場合がある。

というか、繊細な人は、普段でも、普通の人よりは過剰に親切なので、その繊細な人が、意図的に親切にしようとすると、トラブルが生じる可能性がある。

そもそも、「親切にする」「人に親切にする」というような抽象的な表現をしてしまうことに問題がある。細かいことで、怒り狂われてきた人間は、細かいことを気にする。ほかの人の気持ちを、普通の人よりも、細かい範囲で、敏感に気にしている。そういう人が、もっともっと、過剰に、人に親切しようとしたらどうなるか?

トラブルがしょうじるのである。

 手短に言うと、人のことなんてまったく気にしない人と、人のことをけっこう過剰に気にしている人とおなじアドバイスをしたらどうなるかということに気がついてないのである。さらに、「親切にする」ということの内容がどうなのかということなのである。

人それぞれに、親切にするということの内容がちがいすぎるのである。

「ちょっとした親切」ということを、簡単に書くけど、「ちょっとした親切」の内容がちがうのだから、結果が同じになるとは思えない。

たとえば、Aさんが親切にしてやろうと思った内容と、Bさんが親切にしてやろうと思った内容がちがうとする。その場合、Aさんが、Bさんに親切にしてやろうとして親切にしたにもかかわらず、Bさんは、よけいなことをされたと考える場合がある。意図的に親切にしようとすることは、普段よりも過剰に親切にしようとすることを意味するのである。

なので、「親切」の内容が、より、「おせっかい」な方向にシフトしてしまう確率が高い。

ともかく、「人に親切にすればよい」というような一見、よさそうなアドバイスは。じつは、トラブルを引き起こす回数を多くする確率が高い。

そもそも、人の性格を考えないで……つまり、性格の差異を考えないで、一律に「親切にすればいい」というようなアドバイスをするということ自体が、ナンセンスなのである。

気にする人は、よけいに気にしてしまうだろ。ほかの人の気持ちがわからない人は、本人にとって、やってやりたいことを、過剰に人にやってやりたくなるだろ。そうすると、トラブルがしょうじる確率が高くなるのである。

それから、親切の「恒常性」ということを考えると、親切にしてやる回数が増えると、相手は、親切にされたと感じなくなる傾向がある。「あたりまえ」になってしまうのである。「あの人が、これをやるのはあたりまえだ」というような感覚が育ってくる。

サービス残業だってそうだろう。最初は「困っている人がいるから、親切で手伝ってあげただけ」なのかもしれない。けど、毎回やっていると、「サービス残業をするのが当たり前」になってしまう。最初は、感謝していた「困っていた人」だって、何回もやってもらっているうちに「やってもらうのが当たり前」になってしまう。こういう傾向もある。

その場合、「親切にすれば、しあわせになる」とは言えない。「親切にしたぶんだけ、疲労が増える」という場合だってある。

ともかく、人格を無視した、抽象的なアドバイスというのは、まったく意味がない場合が多い。逆に、人格を無視しているアドバイスなので、個々の人格の差を吸収しきれずに、トラブルをうむ場合が多い。

それから言ってしまうと、「親切にしたほうがいい」というような考え方は、いきわたっているのである。

すでに、いきわたっている。小さいときから、親に何回か言われているはずだ。

常識的なアドバイスであり、なおかつ、抽象度が高いアドバイスは、その人ができる範囲では、すでに「おわこなわれている」可能性がある。

つまり、普段からそうしているのだから……その人ができる範囲でそうしているのだから……「幸福になるために」「人に親切にする」というような意識をもった場合、その人がおこなう親切は過剰な親切になってしまう場合があると思う。思うだけけどな。

ところで、キミたちは「小さな親切、大きなお世話」という言葉を知っているかい?

++++++

「人に親切にすると(自分が)しあわせになるから、人に親切にしよう」という気持は「過剰な親切」をうみだす確率が高い。 

親切にされたと思うかどうかは、親切にされた側が決めることであって、親切にする側が決めることではない。

親切にする側が「親切にするつもりでやった行為」がいつも、親切にされる側にとって「よいこと」であるとは限らない。

普通の人は、普通に親切にしているわけで、「まるまるのために親切にしよう」と思った場合の親切は、過剰な親切になりがちだ。

普通の人は、普通に親切にしていると言ったけど、その人が感じる範囲で普通に親切にしているということだ。これ、「親切にする」と抽象的に言っているけど、具体的な内容は、その場の状況によって変わってくる。その場の状況を判断しているのはその人であり、すでに善悪の判断基準がその人のなかにある。具体的には、「客観的な状況」「(行為者側の)主観的な状況認知」「(行為者側の)すでにある善悪の判断基準」「(被・行為者側の)主観的な状況認知」「(被・行為者側の)すである善悪の判断基準」が複雑に絡み合って、「親切にする」という行為が成り立っているのである。そして、「親切にする」という行為自体が成り立つ場合というのは、被・行為者側の人が、主観的に「親切にされた」と感じる場合だけなのである。ようするに、「親切な行為」というのが客観的にまっているわけではないのである。

「繊細な人」は普段から、人に親切だ。

「細かいことで怒り狂う親に育てられた子供」は、普段から、人の気持ちを気にしている。人の気持ちを気にして、普通に親切にしている。

親切にする度合いと、長期的な幸福感の度合いは一致しない場合がある。

人に親切にする人は幸福だという考え方はまちがっている。どうしてなら、人に親切にしているにもかかわらず不幸な人がいるからだ。

人に親切にした回数と、人の幸福度が一致しているという考え方はまちがいだ。そして、不幸な人は、人に親切にした回数が少ないと考えるのもまちがいだ。そして、幸福人は、人に親切にした回数が多いと考えるのもまちがいだ。そして、この考え方は、不幸な人をより不幸にしている。すでに不幸な人を悪く言うような、まちがった考えたを流布するのは、よくないことだ。 

意識的な意志をもった人が「幸福だ」と言ったとしても、その人が幸福であるかどうかどうかは、わからない。「自分は幸福だ」と、死にたい気分で暮らしている人が言うことだってある。そりゃ、言うのは、自由だ。口があって、普通に日本語がしゃべれるのであれば、自分の気持ちとは一致してないことだって、言うことができる。「自分は幸福だ」と言った人が、ほんとうに、「自分は幸福だ」と感じているかどうかはわからない。強がって?「(自分は)幸福だ」と言った人は、「幸福だ(と感じている)」と客観的にカウントするのは、問題がある。

じつは、「自分は幸福だ」と感じられるかどうかは、「生まれの格差」が影響していると思う。「生まれの格差」が一番大きな要因だ。他人に親切にしたと思った回数と「幸福度」は一致しない。この場合の幸福度というのは、人生という長い期間を考えた場合の「幸福度」だ。

自分は恵まれていないと考えているのに幸福だろうか?

きちがい的な親のもとに生まれたというハンディが、人生的な意味での幸福度に影響をあたえないとは思えない。生まれの格差は、人生的な意味での幸福度に影響をあたえる。一番、影響をあたえる。一番影響をあたえる要素だ。この一番、影響をあたえる要素を無視して、ただ単に、「人に親切にした(と自分が思っている回数)と人生的な幸福感が一致している(あるいは、「人に親切にした(と自分が思っている回数)と人生的な幸福感は、基本的に正比例している」と考えるのはまちがっている。

いろいろな宗教団体の講話のなかにも、「人に親切にしたら、しあわせになった」というような話が、あるはずだ。そういう逸話のようなものが、テキストのようなものにのっているはずだ。これは、けっこう、いろいろな宗教(団体)で言われていることだと思う。しかし、そういうことを実践している宗教関係の人があんまりしあわせになっているようには思えない。もちろん、ぼくが「思えない」だけなんだけど……。特に、下っ端の人は、実践することで、不幸になっていると(ぼくは主観的に)思う。実践というのは、そういう考えを実践するということだ。壺を売ることだって、その人たちにしてみれば、親切行為のつもりかもしれないのである。壺を買った人がしあわせになることは、その人の頭のなかでは確定しているので、善行をなしているということになる。人に親切にしているということになる。

 

2023年1月8日日曜日

「鬱楽」タイプと「鬱鬱」タイプ

 別に、せめるつもりはないけど、ちょっとだけ、仮面うつ病とうつ病について、語っておく。「会社に行こうとすると憂鬱になる」人がいるとする。けど、「会社に行こうとすると憂鬱になる人たち」のなかには、ふたつのタイプがある。ひとつは「会社に行こうとすると、憂鬱になるけど、遊びに行く場合は憂鬱ではない」タイプだ。もうひとつは「会社に行こうとすると、憂鬱になるし、遊びに行こうとしても憂鬱になる」タイプだ。このふたつは、ぜんぜんちがう。ちがうけど、「しんどい」とか「死にたい」とかという表現はおなじなのだ。「つらい」とか「憂鬱だ」とかという表現もおなじだ。だから、外から見ると、言っていることだけでは、だれがどっちのタイプなのかわからないのだ。

「会社に行こうとすると、憂鬱になるけど、遊びに行く場合は憂鬱ではない」タイプも会社に行く前は「死にたくなるほど憂鬱になる」のだ。これは、嘘ではない。嘘ではないのだけど、その人たちの全体的な状態というのは、やはり、ちがうと思うんだよな。会社に行くときは、憂鬱だけど、遊びに行くときは元気だという人たちは、会社に行くときも憂鬱だし、遊びに行くときも憂鬱だという人たちとはちがうと思う。まあ、遊びに行くことが、そもそもできないのだけどね。

会社に行くときは憂鬱だけど、遊びに行くときは楽しいという人を、「鬱楽」タイプと言っておこう。そして、会社に行くときも憂鬱だけど、遊びに行くときも憂鬱だというタイプを、「鬱鬱」タイプと言っておこう。どっちも、会社に行く前は「死にたくなるほど憂鬱」と言葉で言うけど、「憂鬱」の度合いや質に、ちがいがあるのではないかということだ。まあ、会社に行く前の憂鬱に関して言えば、「鬱楽」タイプも「鬱鬱」タイプもおなじだと言う人たちもいるんだよな。どっちが正しいのかな? ぼくは、会社に行く前の憂鬱に関しても「鬱楽」タイプと「憂鬱」タイプの「憂鬱さ」はちがうんじゃないかなと思う。どうしてかと言うと、全体的なダウンの質は、部分的なダウンの質にも影響をあたえているのではないかと思うからだ。なにか、行動を起こそうとするときの「体力的な」状態があきらかにちがうと思う。

で、まあ、もう一つの結論を言ってしまうと、「鬱楽」タイプの人は、会社に行かなければいいのである。それで、問題解決。一丁あがり。「鬱楽」タイプが会社に行かなくても、生活費を稼げるような状態にすればいいのである。社会全体が、楽な仕事を提供すればよいのである。逆に言えば、「普通の会社」による仕事の提供は、不効率でまちがっているということだ。効率を持ち出すならそうなる。会社で仕事をする場合の「いやな部分」というのを、どんどん、けずっていけばよいのである。口を開けば「効率」「効率」というの人が、どうして、「いやな部分」の不効率については、口を閉じているのか? まあ、この人たちは、ほかの人に「いやな部分」をおしつけることで、会社の利益をあげていると思っている人たちなんだよな。けど、それは、もう、おしまいだ。そういうしくみ全体が機能しなくなっている。


しかし、問題なのは「鬱鬱」タイプだ。どれだけ、仕事が楽になっても、このタイプは憂鬱なままだ。「遊ぶ金を用意したから遊んでくれ」と言われても、憂鬱なままだ。人間として根本的な部分が破損している。

まあ、ぼくの場合は、きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音の繰り返しで破損した。これ、ちがうのである。

きちがい親父による、いろいろに関しては省略するけど、影響をあたえている。


いろいろと、ありすぎた。

 あー。つまんない。どうしてこうなってしまのか?

あー。そりゃ、わかっている。わかっているけど、しかたがない。もう、いろいろとありすぎたんだよな。実際にあったことが、感情に影響をあたえる。いまの感情に影響をあたえる。「楽しめばいい」と言うけど、いろいろとあったことが影響をあたえて、楽しめない。ごく自然に、むかしの「楽しい」感情がわいてくるのをまっているけど、どうもむりだな。むりむり。どうも、むりだ。いろいろと、ありすぎた。

2023年1月7日土曜日

長期ヘビメタ騒音以前の状態ではないのだ。

 まあ、ぼくは「そとで」働かなくていい状態なので、それは、たすかっている。たすかっている。自分でも、「こうできる」と思ってなかったのだけど、「そとで」働かずに生きていくことが可能になってしまった。それは、ほんとうに、たすかっている。

体力状態が、よくないのだ。長期ヘビメタ騒音のときに、からだをくずして、それ以降、よくない。なにをするときも、長期ヘビメタ騒音以前の状態ではないのだ。これは、どれだけ言っても、わからないと思う。他人にはわからないよね。わかるわけがない。

立っているときも、歩いているときも、座っているときも、かなり、くるしい。ヘビメタ騒音のだるさって、言いようがないんだよな。とくに、睡眠系統がこわれたときのくるしさが並じゃない。睡眠がじゅうぶんでも、いろいろと、つらいのに、睡眠がじゅうぶんではないときは、相当にくるしい。ヘビメタ騒音が鳴っているときのつらさというのは、睡眠がじゅうぶんでないときのつらさなんだよ。比喩的に言うと……。これ、だれにもわからないと思うけど。そして、「つらい」とか「だるい」と表現したけど、「憂鬱」と言えるんだよな。やはり、からだとこころはくっついている。別々に存在しているわけじゃない。こころの状態は、脳みその状態だと言い換えると、脳みそはからだの一部なのだから、「からだとこころは、くっついている」というのは、正しいということになる。

憂鬱というのは、「もう死ぬしかない」というようなせっぱつまった気分だ。ヘビメタ騒音でほんとうに、「せっぱつまった」状態で暮らしていた。常にそうだった。ヘビメタ騒音に、家でさらされると、学校に行くときも、だれかにあいに行くときも、「くるしい」状態なのである。憂鬱な状態なので。せっぱつまった状態なのである。騒音が鳴り終われば、騒音の影響を感じないような状態ではない。これ、ちがうんだよな。けど、このちがいも、実際に、ヘビメタ騒音生活を、俺と一緒にした人しかわからない。「ヘビメタ騒音生活を、俺と一緒にした人」なんて、この世にいないので、俺にしかわからない。

ともかく、騒音が鳴り終われば、騒音の影響をうけなくてもいいような騒音しか体験したことがない人にはわからない。そういう人たちが「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」と言うのを聞くと、ぼくはゆるせない気持ちになる。「鳴り終わったら、影響を感じないような騒音しか経験してないから、そういうふうに言えるだけだ。実際、その人たちにとってみれば、騒音というのはそういう騒音なのである。騒音が鳴っている生活というのはそういう生活なのである。ぼくにしても、横が幼稚園だから、普通の人よりは騒音にさらされる生活をしていたのだけど、それは、ヘビメタ騒音生活の騒音とはまったくちがう騒音なのである。ようするに、「鳴り終わったら、関係がなくなる」騒音だ。そういう騒音と、ヘビメタ騒音はちがう。きちがい兄貴が、執着して執着して執着して執着して執着して執着して鳴らし続け、ヘビメタ騒音はちがう。俺が「ヘビメタ騒音」「ヘビメタ騒音」「ヘビメタ騒音」「ヘビメタ騒音」と、しつこいみたいだけど、きちがい兄貴が、しつこく鳴らした。執着して鳴らした。普通なら、一年間ぐらいであきるのだ。いくら、でかい音で鳴らしたい……大きな音でおもいっきり鳴らしたい……好きなだけ、ずっと鳴らしたい……と思って鳴らしていたとしても、あきる。ところが、きちがい兄貴の場合、あきなかった。こっちがリターン可能な時期(時点)をすぎて鳴らしていた。

これ、ほんとうに、ちがうのである。そりゃ、ぼくだって、幼稚園が目の前にあるのだから、普通の騒音のことは知っている。騒音生活を知っている。けど、そうじゃないのだ。ヘビメタ騒音のことを知らない人が……つまり、自分の体験を通して知らない人が……かってに、幼稚園程度の生活騒音だと思っているのだ。そして、幼稚園程度の生活騒音とヘビメタ騒音を区別せずに、俺に、助言をする。あるいは、説教をする。しかし、それは、まちがっている。まちがっているのだ。しかし、俺がどれだけ「(あなたが言っていることは)まちがっている」ということを説明しても、相手は、うけいれない。自分が正しいと思っている。それは、繰り返しになるけど、きちがい家族による、きちがいヘビメタ騒音が人生のなかで発生しなかったからだ。だから、まちがう。しかし、まちがったところで、その人は、まったくなにも影響をうけない。俺に対して、誤解をした……だけだ。自分が言っていることが正しいと思っている。佐藤(仮名)……のように。

日本人は、日本労働教徒なので、目の前に「働いてない人」がいると、説教をしはじめる。なんとか、説教をして、働かせないと落ち着かない気分になる。そういう人たちは、ヘビメタ騒音のことを無視する。俺がどれだけ説明しても、ヘビメタ騒音の影響を無視する。なので、ぼくにとっては、非常に生きにくい状態になる。

*     *     *

「そとで」働こうとすると、すぐに、「死ぬしかない」という状態になる。立っているときも、歩いているときも、座っているときも、かなり、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。長期ヘビメタ騒音の影響でくるしい。けど、それは、だれにもわからないことだ。ぼく以外のだれにもわからないことだ。なんと生きにくい世界か?

 

2023年1月6日金曜日

社会的な引きこもりの、大きな割合をしめる層というのは、中高年だ

 社会的な引きこもりの、大きな割合をしめる層というのは、中高年だ。働いた経験がある中年や高齢者が、社会的な引きこもりの、大きな割合をしめる層なのである。

むしろ、働いた経験がない若者は、小さな割合をしめる層だ。

ようするに、社会経験がない若者が、引きこもっているようなイメージがあるけど、それは、イメージで、実際には社会経験がある中年や高齢者が「引きこもっている」。この人たちは、社会でボロボロになった人たちだ。人間関係でボロボロになったので、積極的に、人間関係をもとうとしないのである。

なので、機能的な会話以外の会話を、ほかの人としないということになる。

なので、社会的な関係性が切れてしまっているのである。

この社会的な関係性が切れてしまっているということが、重要なのだ。社会的な関係性が切れてしまっている人のことを「社会的な引きこもり」と言っているのだ。

会社をやめた独身男性であって、なおかつ、交流している親密な他者がいない人は、どれだけ、毎日、散歩をしても、社会的な引きこもりに分類される存在になっている。二週間以上、親密な他者?と会話をしてない人は、お店で機能的な会話をしても、社会的な引きこもりなのである。

機能的な会話以外の会話というのは、どういう会話かというと、会話自体が目的であるような会話なのである。つまり、交流自体が目的であるような交流をもっているかどうかが重要なのである。交流と言ったけど、ようするに、「つきあい」だ。

「親密な他者」と言っても、そんなに「親密」である必要はない。これ、言葉のイメージが問題なんだよな。ここでは、普通につきあいがある他者のことを、親密な他者と定義しておく。

「社会的な引きこもりの、ボリュームゾーンというのは、中高年だ」というようにボリュームゾーンという言葉を使いたかったのだけど、ボリュームゾーンというのは、商品に使われる言葉ではないかという指摘があるので、「大きな割合をしめる層」という言葉に置き換えておいた。けど、ボリュームゾーンという言葉は、人間の集団にも使われているので、ボリュームゾーンでいいかという感じはする。

 

2023年1月5日木曜日

つかれとか、眠れないとか、そういうことの意味がちがってしまうのである

 毎日のしんどさをほんとうに経験したわけじゃないのだから、わかるわけがない。たとえば、「休みの日は、ヘビメタ騒音が十三時間鳴っていた」とぼくが言ったって、あのヘビメタ騒音が十三時間鳴っている、休みの日がどういうものか、経験したことがない人にはわからない。一倍速で、経験してみろ。「休みの日は、ヘビメタ騒音が十三時間鳴っていた」と三秒で言える。そして、「意味」はつたわる。「意味だけ」はつたわるのだ。文章の意味はつたわる。けど、十三時間鳴っていた場合の、つかれなんてわからない。一倍速で、経験したわけではない、怒りややるせなさなんてわからない。きちがい兄貴の部屋に行って、「こまるからやめろ。勉強するからやめろ」「うるさいからやめろ」とどれだけ言ったって、きちがい兄貴が、無視して鳴らしているときの腹立たしさなんて、つたわらない。ヘビメタが鳴り終わったあと、やらなければならない宿題がまだ残っているときの、むなしさなんて、つたわらない。宿題をしてないけど、眠るしかないと思ったときの、やるせなさがわかるわけがない。そして、眠ろうとしても眠れないときのつらさがわかるわけじゃない。これ、眠れないんだよ。じゃあ、起きて、宿題をしようとしても、できない。脳みその九十九%は、眠ろうとしているのだけど、脳みその一%が、猛烈に反発している状態だ。使い物にならない状態なんだけど、けど、じゃあ、眠れるのかというと、まったく眠れないという異常な状態だ。気を失いかけているのに、どうしても、あとひとつ……一%の脳みそが猛烈に反対している状態だ。ヘビメタ騒音がなかった期間は、そんなことはない。ようするに、十一歳の十月まで、そういう、頭の状態になったことがないのである。特殊な状態なのである。きちがい家族がやる、きちがい的な騒音によってもたらされた「特殊な状態」なのである。こんなの、ほかの人にわかるわけがない。しかも、あびてしまったら、そうなるのである。意志でどうすることもできない。きちがい家族の、特殊な騒音を、あびてない人は、普通の生活ができるので「意志の力」を普通に信頼できるのである。これは、ぼくが、十一歳までは、信じられたことだけど、ヘビメタ騒音がはじまってから「意志の力でどうにでもできる」あるいは「意志の力でどうにかできる」というのは、まったくの嘘だということに気がついた。ほかの人が、意志の力を信じることができるのは、きちがい家族によるきちがい騒音を、十数年間、毎日、経験しなかったから……。ほんとうに、きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音を経験すると、「眠れなくなる」のである。それ自体が、「意志の力ではどうすることもできない」ということの証明なのである。もちろん、ぼくにとって証明だけど……。「そんなことがあるわけないだろ」と思う。「意志の力で、どれだけ、ヘビメタ騒音を浴びせられても、ヘビメタ騒音が鳴り終われば眠れる」……そんなわけがないだろ。そんなわけがない。けど、それは、きちがい的な態度で鳴らし続ける、きちがい的な感覚をもった、きちがい的な家族がいない人には、わからない。実際にそういうことが続かなければ、わからない。わからない。わからない。わからない。わからないとなったら、それは、その人にとって「事実」じゃないのである。「真実」じゃないのである。エイリさんが言っているだけのことなのだ……。その人にとっては……。こんなのはない。ここからして、「誤解」だ。こんなのはない。つかれとか、眠れないとか、そういうことの意味がちがってしまうのである。ぼくだって、きちがい親父にやられながらも、十一歳の九月までは、ヘビメタ騒音なしですごしたので、そういう日常生活における「眠れない体験」がある。けど、それはちがう。ヘビメタ騒音がはじまってからの「眠れない体験」はちがう。ぜんぜん、ちがう。ちがうのだけど、ほかの人にはまったくわからない。だいたい、ほかの人は、ぼくの人生についてそんなに興味がない。なので、その人が持っている「感覚」で「話」を判断する。「他人の話」を判断する。その判断の基準になるのが、自分の経験だ。きちがいヘビメタ騒音にやられた続けたことがない人が、わかるわけがない。あの状態についてわかるわけがない。あの状態が「次の日」にあたえる影響なんてわかるわけがない。みんな、わからないまま、勝手に自分の感覚で判断して、決めつける。「そんなのは、たいしたことじゃない」『影響をうけないという強い意志をもてば影響をうけない」「影響をうけないと言えば、影響をうけない」……などなど。

ふざけんな! 毎日!! なんだぞ!!

毎日!毎日!毎日!

影響がないわけがないだろ。

「きちがい兄貴が、生まれ持った感覚というのがほかの人にはわからない」

 きちがい兄貴が、生まれ持った感覚というのがほかの人にはわからないんだよな。だから、つねに、ぼくのことについて誤解をする。その誤解を解くために、どれだけ、ぼくが説明しても、ほかの人にはわからない。「きちがい兄貴が、生まれ持った感覚というのがほかの人にはわからない」からだ。そして、自分の人生のなかで、そういう家族に、騒音を出され続けたという経験がないからだ。この騒音に関して言うと、ほかの人が思い描く騒音ではない。これ、言いようがないんだよな。どのみち、その人の人生のなかで、ぼくと同じレベルの騒音を、経験した人じゃないとわからないわけだし、その騒音のみなもとが、おなじ家に住んでいるきちがい的な家族であるという人にしか、わからない。だれだって、通勤できなからだになるのに、それがわからない。だれだって、相当にゆるいバイトだってできないからだになるのに、それがわからない。だれだって、偏差値の高い大学には受からない状態になるのにそれがわからない。きちがい兄貴の総合的な「害」が、総合的にあたえる影響がわからない。影響は、必然的な影響なのに、それがわからない。必然的だということがわからない。だから、「受け止め方の問題だ」と言いやがる。「俺だって騒音ぐらいあった」と言いやがる。「騒音が鳴っているから、勉強ができないなんてことはない」と言いやがる。「騒音が鳴っているから、働けないなんてことはない」と言いやがる。「過去のことなら関係がない」と言いやがる。全部ちがう。けど、ほかの人は、人生のなかで、俺とおなじことがなかったわけだから、わからない。自分の人生のなかで、俺とおなじ経験がないのだから、わからない。必然性がわからない。

一生懸命、毎日、「ひとりで散歩」をしていたとしても、引きこもりに分類される。

 まあ、これ、どうでもいいことなんだけど、どれだけ散歩しても、親しく話せる人がいない状態だと引きこもりとして分類されるのである。外出しても、引きこもりなのである。外出すればひきこもりではないだろうと思うかもしれないけど、他人との会話がなければ、引きこもりなのである。ようするに、「家族以外」の他人とつきあっているかどうかなのである。相手も自分のことを知っていて、自分も相手のことを知っていて、会話をするということが重要なのである。たとえば、お店に行って、ある商品の場所を聞くとする。この場合も、会話は成立している。けど、相手は自分をこと知っているわけではないし自分も相手のことを知っているわけではない。知っているとかどうかというのは、たとえば、どういうことを考えていて、どういうことに興味があるかというようなことを知っていて、会話が成り立つということなのである。商品の場所を訊く場合は、機能的な会話であって、知り合い同士の「親密な会話」ではない。ようするに、目的があり、目的のために発話して、目的が終われば会話が終了する。商品の場所を自分?が訊いて、相手が商品の場所をこたえれば、会話が終了する。目的がある会話だ。引きこもりうんぬんで問題になっているのは、目的がある会話が日常生活なかであるかどうかではない。親密な会話?が日常生活なかであるかどうかが問題になっている。ようするに、親密な会話をするような他者が(家族以外にいない場合)は、引きこもりに近い存在になる。親密な会話をしなくても、学校に行っていれば、いちおう、引きこもりには分類されない。親密な会話をしなくても、機能的な会話ばかりであっても、会社に行っているのであれば、引きこもりには分類されない。けど、日常生活のなかで『親密な会話』をしてない人は、学校や会社をやめれば、引きこもりになる。なので、会社をやめた人が、一生懸命、毎日、「ひとりで散歩」をしていたとしても、引きこもりに分類される。

2023年1月4日水曜日

長期ヘビメタ騒音で人づきあいができなくなる。そういう必然性がある。

 からだじゅうが、かゆい。

からだじゅうが、かゆい。

ううっ。

おれはもう、終わるのか? いや、ここまでやってきたんだ。終わるわけがない。ワクチンをうけず、ここまでやってきた。これは、すごいことだぞ。

しかし、かゆいのはなんとかしないとなぁ。あー。このさき、どうするかな?

これ、だれもが理解できないことなんだけど、長期ヘビメタ騒音で人づきあいができなくなる。そういう必然性がある。けど、必然性がわからないんだよな……ほかの人たちには。一倍速で、俺とおなじことを経験しないと、どういうトラブルがしょうじて、どういうからだの状態になるか、わからない。一倍速じゃないと、わからない。鳴っているあいだの時間は、鳴っている状態で「暮らしてくれないと」わからない。「ああっ、鳴ってたのね」……話で聞いただけでは、わからない。一倍速で、毎日、同じ状態で暮らしてくれないとわからない。必然性があるということがわからないんだよな。

悪魔側の効率主義。悪魔側のきれいごと。

 考えがまとまらないのだけど、考えがまとまらない状態で、書いておく。あとで、まとめるときのヒントになるかもしれないから……。で、まず言いたいのが、ヘビメタ騒音というのが特殊なのだということだ。さらに、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音というのが特殊なのだということだ。そしてさらに、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音というのが特殊すぎて、わかる人がいない。これ、ぼくだけなんだよな。普通の人は、きちがい家族にについて理解がない。きちがい家族の感じ方や、きちがい家族の行動がわからない。普通の人だと思っている。だから「話し合えばいい」と言う。「もう一度、お兄さんに言えばいい」と言う。しかし、これがまちがっている。まちがっている前提でものを言っている。この人たちは、きちがい兄貴が、きわめて特殊な気ちがい兄貴だと思ってない。この人たちは、あのきちがい兄貴を、普通の人だと思っている。普通の人が「うるさくしているだけだ」と思っている。きちがい兄貴の構造なんてわからない。きちがい兄貴側の認知構造なんてわからない。わからないし、関係がない。しかし、ぼくには関係がある。「一緒に生活しているからだ」。ほかの人には、この部分がない。この部分がないと、「まとはずれなことを言うようになる」のである。これは、一〇〇%そうだ。そして、父親が、きちがい兄貴と同じ構造をもつ、きちがい父親だということが、わかってない。「そんな音で鳴らしているのなら、家の人が言うはずだ」という一般人側の認識がある。ところが、きちがい親父も、ほかの人にはまったくわからない形で、きちがい街道を走っている。きちがい兄貴のきちがい的な部分と言うのは、きちがい親父のきちがい的な部分を「ひきついだもの」だ。これが、きちがい兄貴の!!ヘビメタ騒音にも影響をあたえるのである。きちがい親父は、ネズミの糞が、自分の部屋の一部に、三センチぐらいつもっていても、「まったく気にしなかった」男だ。「このままだと、どんどんネズミの糞が増えていくから工事をしたほうがいい」と言っても、がん無視した男だ。そういう「感覚のずれ」があるのである。あと、三センチぐらいつもっていても」と書いたけど、親父は気がついてない。それは、ふすまのレールと親父のベッドのあいだだから、普段は見えない部分だ。気がつかなかったとしても、おかしくはない。けど、ネズミが侵入することをゆるしていれば、ネズミの糞が、時間の経過とともに増えていくということをまったく気にしなかったということは、かわりがない。どれだけ、「ネズミが侵入することをゆるしていれば、ネズミの糞が、時間の経過とともに増えていく」ということを言っても、それは、がん無視なのである。で、そういう態度が、親父の、普通の態度だったということは非常に重要なことなのである。これ、歳をとったから認知症でそうなった」と普通の人は考えるのだけど、そうじゃないのである。ちがう。俺が幼児のときからそうなんだよ。まあ、赤ん坊のときからそうなんだけど、記憶がないので、母親の話をもとにして言うと、そうなる。親父は、すくなくても、結婚と当初からそうなんだよ。歳をとって認知症になったからそういう態度になったというわけではないのだ。

で、こういうことが与える影響というのを、普通の親に育てられた人は、がん無視するのである。特に、アドラーの考えにおかされている人たちは、そういう傾向がある。これ、じつは、悪魔側の考え方。悪魔側の効率主義。悪魔側のきれいごと。生まれの格差があるのに、それを無視して、『二項目文』をつくりだし、不利な人を、もっと不利にするのがあいつらのやり方だ。こんなの、緩やかな形で、自殺に追い込んでいるとしか言いようがない。こいつらの、きれいごとにはそういうしくみがある。アドラーだけではなくて、認知療法にもそういう部分がある。これ、「合理的」なようでいて、「非・合理的」なのである。範囲がちがうのである。あつかう範囲がちがう。あつかう範囲がちがうと、正反対のことを言うことができるのである。 

2023年1月3日火曜日

効率主義には問題がある

 楽しみ、うんぬんについて言うと、意識的な意志とは関係がないところに、正体がひそんでいる。なので、楽しんだほうが得だから楽しむということは、できない。けど、「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しむ人もいるだろう。矛盾しているじゃないか」って? 矛盾してない。ぜんぜんしてない。

 「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しもうとして、楽しめる人は、条件を満たしているのだ。条件を満たしているのかどうかということが重要だ。条件を満たしていなければ、「楽しんだほうが得だから楽しむ」という意識的な意志をもって、楽しむということはできない。こういう条件に関して、鈍感な人たちがいる。たしかに、その条件は目には見えないし、主観的なものだというベールをかぶっている。しかし、条件はある。楽しめなくなる人は、楽しめなくなるような経験がたくさんある。本人が、どういうふうに、主観的にそれらの出来事を理解しているかどうかは関係なく、それらの出来事が、楽しめるかどうかを決めてしまう。様々な出来事がつみかさなって、「楽しめなくなっている人」は楽しめない。どれだけ、意識的な意志をもって、楽しもうとしても、楽しめない。そういう人の場合、楽しめないのだから、「楽しんだほうが得だから楽しむ」ということは、まったく意味をなさない。

わかるかな?

法則的なことを言うのは、よくないと思う。法則じゃないのだから。条件を無視して「人間ならこうだ」と言ってしまう。これは、よくない。だいたい、「楽しんだほうが得だから楽しむ」と思って楽しんでいる?人は、楽しんでいない人たちのことを軽蔑する。どうしてかというと、「損得」がわからないようなバカなやつだと思うからだ。「楽しんだほうが得だから楽しむ」と言っている人たちは「効率」を問題にしている。「効率主義」なのである。なので、効率的にまさっているということがわかっているのに、効率的まさっていることをしないという選択をする人が、バカに見えるのである。「楽しんだほうが得だから楽しむ」人から見ると、効率的な問題がわかるなら、効率的に言って、楽しむことを選択するはずなのである。「その単純なことがわからないのはばかだ」という見なし方をするようになる。

けど、この効率主義には問題がある。楽しめない人たちがかかえている条件をガン無視しているのだ。楽しめない人たちがかかえている、過去の出来事と、過去の出来事の影響を無視している。「こういうふう思おうと思えば、思えるはずなのだ。しかし、そういうふう思わず、非効率的なことにこだわっているのは、バカだ」と思ってしまうのだ。バカはどっちか? 範囲を狭めて、その狭い範囲のなかでしか思考しないやつがバカだ。そして、その狭い範囲から、広い範囲を見ることができない。狭くて、低い視点からしか、物事を見ることができない。範囲が狭いから、そう確信しているだけなのに、自分は、「全体」を考えていると思っている。たとえば、「人間全体」を考えていると思っている。「こころの全体」を考えていると思っている。「脳みその全体」を考えていると思っている。だから、バカだ。 

損得勘定では、制御できないから、こまっているのに、「全部のことが損得勘定で制御できる」と思ってるのだ。それは、経験が少ないからそう思えるだけだ。たまたま、ラッキーな場所に生まれて、すごしてきたから、そう思えるだけのことだ。

2023年1月2日月曜日

きちがい的にケチな親は、いちいち、子どもの夢を、うちくだくのである

  なーんかさぁーー。楽しみがないとやっていけない。楽しみがーー。ああっ。いろいろあって、楽しみがなくなってしまったよ。この、色あせた、灰色の世界。世界。世界。

しかし、このさき、どうなるのかは気になる。ワクチンを打ってしまった鈍感な人は、なにも感じてないかもしれないけど、ものすごいことになるよ。常識、ひっくりかえるからね。

まあ、個人的にはあんまりおもしろくない……。まるまる。言ってしまうとまずいか。ともかく、「初期値」は重要なんだよ。人間の初期値……。どういう家に生まれるか? どういう親のもとに生まれるか? この初期値が……。この初期値が、人生ぜんぶに与える影響がでかすぎるんだよな。まあ、生まれが普通の人や、生まれがいい人は、初期値よりも、個人の意思や、個人の能力が重要だと思うかもしれないけど、ちがうね。ちがうね。初期値の影響が、どこまでも続く。だいたい、初期値と書いたけど、たいていの場合親は、かわらないので、そのまま、生まれた家の親と暮らすことになる。その場合、初期値と言っても、ずっと続く値になる。初期値の影響はでかい。影響のでかさを、「めぐまれた人」は隠そうとする。そういう言語が成り立っている。個人の思い次第、個人の運しだいというようなことを言う。けど、個人の思いがどれだけ崇高でも、きちがい的な親のもとに生まれたら、おしまいだ……と言えるぐらいのハンディがある。これ、きちがい的な親のものに生まれてない人は、きちがい的な親がどういうものなのかわかってない。こんなの、影響をうけないで暮らせるわけがないだろ。あと、貧乏かどうかのほかに、親の性格がおカネに影響をあたえている場合がある。収入とは関係なく、親が、無意識的に意識的に、きちがい的なケチだと、問題がしょうじる。収入とは関係がなくというところが重要だ。きちがい的にケチな親は、いちいち、子どもの夢を、うちくだくのである。ここらへんのことがわかってない人は、おカネというものに関して、まちがった考えをもっている。めぐまれた人は、みんな、ここらへんのことがわかってない。だから、「一食二万円の食事と、一食二千円の食事をくらべた場合、一食二万円の食事のほうが、満足感が高いとは言えない」というようことを言う。ようするに、金額と、満足度は、正比例してないということを言うのである。そういう場面でてくるおカネと、子どもの頃のおカネ……だれもが、親に依存しているときのおカネの価値というのはちがうのである。「できる」か「できないか」を決定してしまうおカネと、できるということは決まっていて、ただ単に、価格がちがうものとは、ぜんぜんちがうのである。「できかったら」できないんだよ。やれない。「やれなかったら」やれないんだよ。こういうことを決定てしまうおカネがある。親が判断して、買いあたえるかどうかを決めているのだから、親が「できるかできないか」を決めている部分がある。部分というか、それに依存してしまっているのである。その場合、「相手がよろこぶことは、どんなことがあってもしてやれない」という無意識をもっている親の場合は、子どもにとって役に立つと「直感的に理解できるもの」に関しては、絶対に金を払わないという選択をする。これ、一〇〇%そうなんだよ。その親自身が、こどものころ、無視されてなにもしてもらえなかったというような過去があると、そういう無意識が発生しやすい。無意識なので、その場においては、買ってやらない理由は、特にないのである。けど、「気にくわないから買ってやらない」という判断を、無意識的にしてしまう。そりゃ、自分が買ってやって、相手が喜んだらいやなわけだから、なんだかんだ理由をつけて、買ってやらないのである。その場合、「これなら買ってやる」と子供が最初に選んだものよりも値段的に高いものを、親が選ぶ場合がある。高いのだけど、それではダメなのである。あるいは、買ってやらないということをする。「へんな理由をつけて」買ってやらないということをする。ものすごい意地を発揮して、子どもがよろこぶもの、子どもにとって役に立つものは、絶対に買ってやらないようにするのである。ようするに、子どもの「そのときの夢」をうちくだく。ものは、単なるものではなくて、夢のつまったものなのである。期待値が高いものなのである。期待値が高いものは、単なるものじゃないのである。

2023年1月1日日曜日

じつは、普通に生活が成り立つということはすごいことだ

 夢ノートとか、モーニングノートとか、目標達成ノートとか……まあ、ノートを書いているときが、本番で、ノートに書いてあることが現実化されることは、ほとんどない。まあ、日常生活のなかであることを、書けば、もちろん、日常生活のなかであることは、達成できる。けど、それは、書く前から、達成していたことだ。

まあ、いまの時代、夢を現実化したいなら……目標を達成したいなら、まず、ワクチンをうけないということが必要だ。ワクチンをうけたらうけたで、なるべくはやく、自分が納得できるもので解毒するということが必要になる。まずは、それからだ。

+++++++

 

書けば達成できる……というような理論には弱い部分がある。それは、書くというのは、現実のなかのある部分を「カット」して書くということなのだ。ほんとうは、現実のなかで、いろいろな条件に埋め込まれて、生活をしている。じつは、普通に生活が成り立つということはすごいことだ。これは、引きこもり生活でも、なにも夢を現実化してないような状態での生活でも、そうだ。じつは、「普通に暮らす」ということが、ものすごく、むずかしいことなのだ。「普通に暮らすということが普通の状態として成り立っている」……場合、たいして難しいことではないと思うだろう。ところが、病気になってみればわかる。どれだけいろいろなことが成り立っているか? 普通の生活を支えるために、どれだけいろいろなことが成り立っているか、わかるようになる。病気が長引けば、普通に暮らすということがどれだけむずかしいことかわかるようになる。

夢の場合は、……夢の生活について想像する場合は、現実に対処しているようだけど、じつは、現実対処してない。切り取った現実にしか対処してない。切り取った現実しか考えることができない。切り取られなかった現実が、影響をあたえる。切り取った現実……ではない、残された現実のほうが、現実を形づくっている。だから、「夢の生活」はもろくも、崩れ去るか、あるいは、そもそも、到達できない。

なので、夢の生活について想像しているときが楽しいということになる。「残り」を切り取っているから、うまくいかないのである。「残りの現実」が反撃をしてくる。「残りの現実」が存在感をかもしだす。

計画をたてているときだけは、なにかできそうになって、「できそうになった気分」を楽しむことができる。けど、実際に実行するとなると、「無視したはずの」「残りの現実」が、足をひっぱるのであーーる。「無視したはずの」「残りの現実」が、おもみを増してくる。

まあ、「無視したはずの」「残りの現実」があらわれたばあいには、それに関しても「夢ノート」で対処すればいいということになっていると思う。けど、「無視したはずの」「残りの現実」が強敵なのである。こうすれば(Xをすれば)こうなるはず(Yになる)と思っていたのに、そうならなかったりする。ならなかったなら、ならなかった現実が現実だ。計画をたてる段階……夢を見ている段階では……多数のことに関してこうすれば(Xをすれば)こうなるはず(Yになる)と思って無視しているのである。けど、こうしても(Xをしても)こうならない(Yにならない)現実が多数しょうじることになる。こうしても(Xをしても)こうならない(Yにならない)現実に対峙することになる。これは、わりと、日常生活の根幹を形成している部分だ。複数ある。ありすぎるほどある。計画の段階?では、無視していた現実が現実になる。

なので、映画のように終わってしまう。本人がつかれて、関心をなくしたら、それでおしまいだ。で、つかれがとれたころに、思い出して、もう一度やってみるということになる。けど、この場合も、おなじように、ほんとうは無視できない多数の現実を無視して、計画をたててしまう。なので、「現実」から反撃をくらう。「まるで思ったとおりにならない」「まるで夢が現実化しない」ということになる。で、これの繰り返し……。

本棚に、夢を現実化する方法に関する本がたまるけど、実際にはおなじところをぐるぐるまわっているだけで、平凡な日常が続く。けど、その平凡な日常を維持することさえ、ほんとうは、ものすごく難しいことなのである。

まあ、ぼくの本棚には、その手の本がないけどね。これは、すてたからないのではなくて、最初からない。けど、どんなことが書いてあるのかなと思って、図書館で読んだことはある。だから、内容は、知っている。

*     *     *

とくに、意識しなくても、日常生活のなかに「夢」の部分が含まれているというのが、のぞましい。まあ、目標達成ノートや夢ノートを書くというような現実も、悪くはない。

 すべての教育理論、ヘビメタ騒音でふっとぶ!

 すべての教育理論、ヘビメタ騒音でふっとぶ!

すべての「夢を現実化する方法」、ヘビメタ騒音でぶっとぶ!

すべての「きれいごと」、 ヘビメタ騒音でふっとぶ!

 すべての「よさそうな話」、ヘビメタ騒音でぷっとぶ!

ヘビメタ騒音をどうにかして、ヘビメタ騒音がない生活に移行しないと、そんなものは、意味がない。一度の水につかって「元気だ元気だ」と言っているようなものだ。言っているあいだに死んでしまう。そういう切迫感がある。ほんとうに、すべての「よさそうな話」をふっとばすような音で鳴ってた。実際、ふっとばされた。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。