2024年3月31日日曜日

こういうレベルのやつらが多すぎる

 きちがいヘビメタは、でかい音なんだよ。俺は、幼稚園のとなりで生まれ育っているので、騒音には、耐性があるんだよ。その耐性がある俺を、めちゃくちゃにするほど、でかい音で鳴らしたんだよ。

非常識なことなんだよ。条例のレベルで犯罪行為なんだよ。

みんな、きちがい兄貴の行為については触れずに、俺が感じ方をかえればいいというようなことを言う。こんなのは、ない。

そして、自分なら、「気にしないことができる」という前提なのだ。自分なら「受けとめ方をかえられる」という前提なのだ。

話自体が、「気持ちわるい」というような感じをいだくやつもいる。気持ちわるいのは、きちがい兄貴だ。俺じゃない。気持ち悪い態度なのは、きちがい兄貴だ。俺じゃない。ところが、そういう気持悪い兄貴の話をしている俺が、気持ち悪いと思ってしまうのだ。きちがい兄貴が、きちがい的な態度で……すなわち、気持ち悪い態度で、きちがい的な音で、ヘビメタ騒音鳴らしている。きちがい兄貴がやっていることなんだよ。

それなのに、そういう話を聴いたとき、そういう話をしている俺(エイリ)が気持ち悪いと思うのだ。兄貴が、気持ち悪い性格で、気持ち悪い態度で、気持ち悪いことをしているのに、その話をしているのが俺なので、俺が気持ち悪いことをしていると受け取ってしまう。どうしてかというと、気持ち悪いきちがい兄貴について言及しているからだ。

そういうふうに、話のなかの主体と、話している主体を区別せずに、聴くやつがいる。気持ち悪い態度で、非常識なことに執着しているのは、兄貴なのに、まるで、俺が、気持ち悪い態度で非常識なことをしているように勘違いするやつがいるんだよ。

「そんなのは、へんだからへんだ」というような感じをいだくやつもいる。こいつらも、みんな、みんな、きちがい兄貴のことは、悪く言わずに、俺のことを悪く言う。

こういうレベルのやつらが多すぎる。きちがい兄貴と俺で、どっちが悪いのか、まったく、考え違いをしているやつらがいる。こういうやつらの思考レベルは低い。

自分だって、きちがい兄貴のような家族に、自分の嫌いな音を、ずっと毎日聞かされれば、睡眠回路がくるい、基本的な生活体力をなくし、仕事ができなくなるのに、自分なら、そういうことが平気だという前提でも、もの言ってくる。

こういうやつが、多かった。

こういうやつらの割合が九五%なのである。

きちがい兄貴の行為と、俺の行為と、どっちが悪いのか、まったく区別がついてない、幼稚なやつらが、いっぱい、いっぱい、いた。 

きちがい兄貴が、こういうやつらの想像レベルをこえて、きちがい騒音にこだわり続けて、自分が満足できるきちがい的にでかい音で鳴らすことにこだわると、俺が、自動的に、ほかのやつらから、バカにされ、下に見られることになってしまうのである。

ほかのやつらには、起こらないことなんだよ。

だから、ほかのやつらにとってみれば、想像のなかのことでしかない。バカな頭で想像すると、悲惨さがわからない。どういう部分でやっかいな影響をもたらすのか、わからない。思考のレベルが低いから、影響について、バカなりの勘違いをする。

ともかく、きちがい兄貴は普通の人ではないので、普通の人である人たちには、わからないことをしているんだよ。しかも、やっている当の本人は、やっているつもりがないのだ。やっている当の本人というのは、この場合、きちがい兄貴のことだ。

きちがい兄貴がこだわってこだわってやっているのに、自分は、こだわってこだわってやっているという認識がまったくない。これが、こまるんだよ。これが、こまる。

こだわりつくして、やっているのに、こだわりつくしてやっているという自覚が、まったくまったくない。こだわってないことになっている。まったく、そんなことはやってないことになっている。このきちがい構造がわかるか? このきちがい構造で、どれだけ、ひどい目にあうかわかるか?

どれだけ、「気を取りなおしてやっても」つねに、きちがいがきちがい行為を、夢中になってやっている状態なのだから、すぐに汚染されてしまうのである。汚染の速度がはやすぎて、「気を取りなおす」なんてことが、できなくなる。

けど、それも、くそ凡人である人たちが……この人たちは、普通の人なのだけど、想像力が低いので、そういう状態について、正確に想像することができないのである。みんな、勘違いをしている。

そして、みんな、『自分なら、気を取り直してできる』というような考えをもっている。夜郎自大。夜郎自大。

みんな、まったく、状況について理解してない。『自分なら平気だ』『自分なら、気を取り直してやることができる』と思っている。

けど、そういう状態じゃないんだよ。横の部屋にきちがい家族が住んでいるというのは、ちがうんだよ。

*     *     *

きちがいの壁と、バカの壁にはさまれる。

2024年3月30日土曜日

そういう「外に出て実体化している」部分を、ガン無視してしまうのである。

 そのときだけ、嘘を言って、しのげれば、それでいいんだよ。どれだけ、嘘丸出しでも、かまわらないんだよ。かまうわけがない。きちがい兄貴ときちがい親父は、そのときだけ、嘘を言って、しのげれば、それでいいんだよ。嘘をついたつもりはないし、自分の行為が影響を(相手に)あたえたということも一切合切認知しないのである。相手は、こまっているから、文句を言いにきているんだぞ。相手は、きちがい兄貴の行為や、きちがい親父の行為で、死ぬほどこまっているから、やめさせようとして、文句を言っているんだぞ。それが、まったくぬけているんだよね。わかってない。根本からわかってない。わかってなければ、ないのとおなじなのである。ぜんぜん、記憶に残らない。記憶に残らないのだから、気にしようがない。あのときこうしただろ」ということを言われれば、怒り狂っておしまいだ。本人が起こって、無視しておしまいなのである。そういうやり方で、問題のある行為をしてきたのである。よその人が絶対にそういう態度ではやらないことをしてきたのである。よその人が絶対にやらないようなきちがい行為をしてきたのである。きちがい行為をしているときは、きちがい的な意地でやっているのだから、丸出しなんだよ。けど、本人は、無視していることになっているから……やってないことになっている。行為は「外に出て実体化している」のだけど、そういう「外に出て実体化している」部分を、ガン無視してしまうのである。ようするに、実際にやっているのだけど、やってないことになっている。きちがい的な意地でやっているのだけど、あたかも、夢遊病者がやったことをおぼえてないのとおなじように、おぼえてない。自分の気持ちは、行為になってあらわれているのだけど、これは、無意識的な部分でやっていることなんだよ。だから、意識的な認知が成り立ってないのである。やっているそばから、そうなんだよ。きちがい的な意地で、相手がこまることをやるときは、きちがい的な意地でやっているにもかかわらず、本人は、まったくやってないときと同じ認識をもっているのである。意識的にはそういう認識なのである。無意識が、意識的な認識を、そとに放り出してしまったようなところがある。

自分の気持ちしかないんだよ。

 いま、からだが猛烈にかゆいわけだけど、もう、ネズミの糞の処理をするのがいやなのだ。どうしたって、ダニに刺される。けど、俺が片づけなければ、ずっと、ネズミの糞がそこにあるという状態になっている。粗大ごみをもって行ってもらわなければ、掃除をすることができない場所がある。その場所にずっと、ネズミの糞が置いてあるのだ。俺が、どういう思いで、ネズミの糞を片づけたと思っているんだよ。きちがい親父なんて、なんの責任も感じてない。「親父が、魚の切り身を出しておいたから、ネズミがきた」ということを言えば、「出してないよぉ!!出してないよぉ!!出してないよぉ!!出してないよぉ!!」と顔を真っ赤にして絶叫する。この態度は、竹を植えたときの態度や、ハンダゴテを買ってやらなかったときの態度とおなじだ。これ、おなじなのである。もちろん、親父といっしょに住んだことがない人にとっては、そんなのは、どうでもいい問題だ。けど、いっしょに住んだことがある人間にとっては、重要な問題なのである。

ちなみに、きちがい兄貴も、ヘビメタ騒音を鳴らし続けて、俺の人生を台なしにしたということについて、まったく責任を感じてないよ。そもそも、あれだけでかい音で、試験期間中に、ずっと鳴らして、自分が(兄貴が)俺の(弟の)試験の邪魔をしたと、まったく思ってないんだよ。この特殊な態度も、きちがい親父の態度とおなじなのである。まったく、やった本人は、気にしてないよ。責任なんて感じるわけがない。やっているときから、ずっと、自分の気持ちだけでやっている。自分の気持ちしかないんだよ。もし、でかい音で鳴らしているということに気がついてしまったら、しずかにしなければならない……ことは……無意識てな命令で、意識的には絶対に認めないのである。どれだけ言われても、どれだけ言われても、無意識的に、まったく気がつかないという態度になる。この態度が、やられているほうからすれば、ものすごく腹がたつ態度なんだよ。そりゃそうだろ。あきらかにやっているのに、やっているということを認めないんて、こんなの、ない。丸出しなのに、無意識的に無視しているから、ないことになっていて、ないのである。丸出しなのに、ないことになっている。そうしたら、梃子でもゆずらないぞという態度になる。だから、梃子でもゆずらないぞという態度でやっているのだけど、本人は、まったくそのつもりがないというきちがい的な感覚が成り立っている。

やっぱり、「やりようがない」ということが、いやおうなく、わかる。

 きちがい兄貴が、俺の全部の時間をよごした。きちがい兄貴が、俺の全部の時間を汚染した。きちがい兄貴が、うばった時間をかえしてほしい。これ、ほんとうに、まったくなにもやったつもりがないんだよ。ずっと鳴らしているときから、ずっとずっと、なにもやっているつもりがない。なにもやっているつもりがないまま、きちがい的な意地でずっと、きちがい的な音のでかさで、鳴らしていた。きちがい的な感覚で無視していた。こっちがこまるというのを、きちがい的な感覚で無視していたのだ。ほんとうに「やりようがない」。ほんとうに、やりようがない状態になる。ところが、やられてない人は、やりようがない状態になるというのが、これまた、根本的に、わからない。やられてないからわからない。なんとなく、対処できそうな感じがするのだ。実際にやられてないから『自分ならそんなのは平気だ』とごく普通に思ってしまう。けど、ほんとうにやられたら、やっぱり、「やりようがない」ということが、いやおうなく、わかる。わかるはずだ。実際に、自分のうちに、きちがい兄貴のようなきちがい家族がいないから、わからないだけでしょ。実際にやられてないから、「やりようがない」ということの意味がわかってないだけでしょ。

言霊主義者は、こっちの苦悩、実際のヘビメタ騒音の苦労を、ほんとうに無視する。あるいは、軽視する。軽視しておいて、『理解した』と言ってくる。そして、まったく役に立たない、言霊的な解決法について語りはじめる。これ自体が、屈辱なんだよ。これも、きちがい兄貴のように、わからないんだよな。きちがい兄貴のように、言霊主義者が理解しない。現実的な重さを、無視している。そりゃ、自分はやられてないのだから、無視できるだろう。けど、いっしょに住んでいて、ずっと鳴らされたら、やはり、無視できなくなるのである。生活に支障がでるということがわかるはずなのである。固定的な障害が発生するということがわかるはずなのである。固定的な障害というのは、主に睡眠障害と感情障害と生活体力障害だ。

2024年3月29日金曜日

「過去なんて関係がない」と言うのはなぜか?

 背中が、いたがゆいんだよ。ほんとうに、どうしようかと思って……。ダニが関係しているのはまちがいないのだけど、ダニ以外のものも関係しているような気がする。内側から出ている湿疹系のものも、まじっているような気がする。まあ、ダニにやられる数年前から、寒冷蕁麻疹やほかのなにかで、かゆくなっていた。だから、複数の原因がかさなって、いたがゆくなっている。

自分の人生を考えると、ほんとうに、ほんとうに、言いがたいことがたくさんある。そして、その言いがたいものが、全部、いまのぼくに影響をあたえている。これ、「過去のことは関係がない」などと言っちゃう人がいるけど、そんなことはないんだよね。だいたい、「過去のことは関係がない」などと言っちゃう人だって、そういうふうに言いたい気分のときだ、そういうふうに言って、普段は、過去を気にして生きている。過去の記憶を頼りにして、生きている。そりゃ、不都合な過去の記憶は、関係がないと思いたいのだろうけど、関係がないと思いたいという反応をしているではないか。それに、たとえば、ある人物を自分が尊敬しているとする。それだって、過去に、その人物のエピソードを聴いたり、読んだりしたから、そのときに、尊敬したんでしょ。過去……関係あるじゃない。いまの自分にとって不都合ではない過去は、関係があるけど、自分にとって不都合な過去は関係がない……。ただ、そう思いたいだけなのではないか。それだって、いちおうは、日常生活を維持しているのだから、過去の記憶を頼りにして生きているのである。過去の記憶がなければ、なにがゴミで、なにがゴミではないか決めることができなくなってしまうんだぞ。よく、自分が食べたという記憶がなくなってしまう人が、何回も食べてしまうけど、それだって、普通なら維持されている過去の記憶がなくなってしまうから、そういう不都合が発生してるんだぞ。過去に頼り切って生きているのに、「過去なんて関係がない」と言うのはなぜか? ちゃんと、考えてみたほうがいいよ。 

ダニにかんて言えば、過去において、ダニに刺されたから、いまかゆいのである。過去の出来事がちゃんと影響をあたえている。なんで、過去は関係がないんだ。なんで、「過去は現在に影響をあたえない」などと、たわけたことを言うのか?

背中全体が強烈にいたがゆいのであれば、現在の自分の気持ちに影響をあたえる。「背中全体が強烈にいたがゆい」けど、それは、自分の気持ちにまったく影響をあたえない……。そんなこと、あるか? 影響はあるよ。

ヘビメタ騒音だって、そうなんだよ。よその家には、きちがい兄貴がいないので、刺激がさったあとも、ずっと影響が続くような騒音を経験してないだけの話じゃないか。きちがい兄貴の音は、もちろん関係があるけど、きちがい兄貴の態度だって関係がある。あれは、悪いことをしていたんだぞ。道徳的に悪いことをしていた。道徳的に悪いことを、押し通した。それで俺がこまっているに、俺のことを悪者にしたてあげて、あるいは、ダメ人間にしたてあげて、道徳的にせめるような人間がいる。はっきり言ってしまえば、常識的な人間は、そういうやつばかりだ。

きちがいが悪いことをしていたのに、なぜか、常識的な人間のなかでは、俺が悪いことをしていたように、考えてしまうのだ。そりゃ、外側から見れば、遅刻をしたり、宿題を忘れたりした。さらに、十数年毎日、きちがいヘビメタをやられたあとは働くべき年齢なのに、働いてなかった。そうなると、俺が、常識的な人間のなかで、悪者になってしまうのだ。働かないやつは悪いやつだと考えるやつは、俺のことを、悪いやつだと考える。理由なんて、関係がないということになる。過去なんて関係がないということになる。すべては自己責任なので、すべてはエイリさんの責任だということになる。そいつのなかでは、そういうことになってしまう。俺が、通勤して働くことはできないと言っても、俺のおなじぶんだけ、自分が、この世で一番嫌いな騒音を毎日、聞かされ続けた経験がないやつは、その影響を過小評価して、働けるのに働かないと判断してしまう。こういうことの繰り返しで、いいわけがないだろ。きちがい兄貴が正常な兄貴だったら、自分がどれだけでかい音で鳴らしているかわかるんだよ。そんなの、こっちが説明しなくたって、聴覚が正常なら、わかるんだよ。無意識てなレベルで感覚器を書き換えてしまうような気ちがいでなければ、こっちが、「でかい音で鳴らしている」と言わなくても、わかることなんだよ。けど、きちがいだから……自分がやりたい音で鳴らしたいから……そこをまげて、わからなくなってしまう。しかも、わからなくさせているの自分なのに、自分でわからなくさせているということも、わからないままだ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、正常な兄貴なら、言わなくてもわかることなんだよ。そして、常識的な人間の家族は、きちがい兄貴みたいなことをしない家族なんだよ。 

きちがい家族にやられてないやつが「そんなのは関係がない」と言ったって、関係があるんだよ。

きちがい兄貴がやったことは、道徳的に言って悪いことなんだよ。強烈に悪いことなんだよ。道徳的に、大きな悪いことをしたんだよ。ところが、きちがい兄貴が十数年にわたって、毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もやりきった、悪いことは無視して、俺が働いていないという悪くはないことを、せめる。これがどういうことなのかわかるか?

俺が働いていないということは、よいことでもないかもしれないけど、悪いことではない。働けないから働けないと言っている。まあ、当時「通勤して働けない」から「通勤して働けない」と言ったわけだけどな。それに対する反応が、きちがい兄貴の大きな悪行は無視して、きちがい兄貴の悪行の結果、働けなくなった俺を、せめるという反応だ。きちがい兄貴の、大きな、大きな、悪行は、ガン無視して、俺が悪いことをしていないのに、俺が悪いことをしているかのように勝手に考えて、兄貴ではなくて、俺をせめるということをした。常識的な人の大半がそういう人間だった。これがどういうことなのかわかるか?

実際にはある条件の差を無視してしまう。

 たとえば、「楽しい楽しい」と言うことで、一(いち)だけ、ストレスを解消できるとする。その場合、一日に一〇〇個のストレスを感じる出来事があった人は、「楽しい楽しい」と言うことで九九のストスレ量にできる。

一個のストレスを感じる出来事のストレス量を一だとしたばあいの話なんだけど……。

一日に一個のストレスを感じる出来事があった人は、「楽しい楽しい」と言うことで〇(ゼロ)のストスレ量にできる。その人の場合は、「楽しい楽しい」と言うことで、ストレスを感じなくなる。

しかし、一日に一〇〇個のストレスを感じる出来事があった人は、九九のストレス量を感じているので、当然、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくはならない。

これは、「楽しい楽しい」と言うことで、一だけ、ストレスを解消できると仮定し、さらに、一個のストレスを感じる出来事のストレス量を一だと仮定した場合の話だ。

けど、実際には、人によっては、「楽しい楽しい」ということ自体がストレスになってしまう場合だってある。「楽しい楽しい」と言うことで、一(いち)だけ、ストレスを解消できるという仮定は、現実的ではない。

ぼくが言いたいのは、条件に差があると、その行為をしたとしても、残るストレス量に差があるということだ。これは、ようするに「俺だって苦労した」とか「私だって苦労した」というような言葉では、無効化できないことだ。

だって、もとのストレス量に差があるのだから、そのストレス解消法で、ストスレが解消できるとは限らない。

けど、言霊主義者や努力論者は、最初から、条件の差を無視しているのである。

だから、言霊主義者や努力論者は「自分が言ったストレス解消法で、ストスレが解消できる」と言うけど、それは、条件の差を無視したから、言えることなのである。

「楽しい楽しい」と言うことで、一だけ、ストレスを解消できるという、ものすごくあまい設定でも、ストレスを解消できない人が、出てきてしまう。条件を無視する人は、条件がもたらす、ストレスの量を無視してまう。

だから、「こういう方法で解消できる」と言ってまう。

けど、実際には、解消できない場合が多数ある。

何度も言うけど、「こういう方法」をやることがストレスをうみだしてしまう場合だってあるのだ。「俺だって苦労した」とか「わたしだって苦労した」というようなことを言う人は、実際にはある条件の差を無視してしまう。これは、問題がある態度だ。

スピーカーとの距離が短い。

 ほんとうに、くそ凡人が、「なめてかかってくる」ことが多かった。

だから、きちがい兄貴に、必死になって「しずかにしてくれ」「遅刻するとこまるから、しずかにしてくれ」「勉強するから静かにしてくれ」と言っているのに、きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじ、きちがい感覚で無視して、鳴らしきる。

そういうことが、ほんとうに、ほんとうに、多かった。というか、そういうことばかりだ。

くそ凡人は、自分がやられたわけではないので、やられているときのぼくの状態がわからない。「へびめたそうおん」という言葉であらわされているものは、きちがい兄貴の態度を含んだものなんだよ。

そこに、でかいスピーカーがあって、がんがん鳴ってたんだよ。

そこというのは、壁のうしろのことだ。自分の部屋の壁のうしろだ。スピーカーとの距離が短い。あんなの、たえられるわけがないだろ。ヘビメタが好きなやつは、ヘビメタという言葉では、なかなか理解できないんだよな。自分がきらいな音が、あのでかさで鳴っていたら、そりゃ、勉強なんてできない。

けど、実際にやられてないやつが、「勉強ぐらいできる」「勉強したくないからそんなことを言っているんだ」というように言ってくるわけだよ。

睡眠にしたってそうだ。日中というか、起きている時間に、何時間も何時間も、きちがい兄貴が鳴らす、きちがい騒音にさらされたら、眠れなくなる。これ、ほんとうに、めちゃくちゃにつかれて、ボロボロな状態なのに、眠れないのだ。

けど、想像力がない凡人は、「騒音が鳴り終わったら関係がない」ということを言う。この眠れない状態のとき、起きて、勉強をしようとしたけど、ほんとうに、できない。頭が異常な状態だ。でっ、なんとか勉強をしようとして、起きているという状態が、ボロボロに泣きくずれるほどみじめな状態なのだ。こころも、からだも、こわれる。

毎日、こんなふうじゃ、こころも、からだもこわれる。

けど、くそ凡人は、「ほんとうにつまらないやつは、つまらないといっているやつなんだ」とか「楽しい楽しいといえば楽しくなる」とか「楽しいことを自分でつくればいいんだ」とかと言う。

こいつら、くそ凡人の発言で、ほんとうに苦労した人が、楽しくなるなんてことは、絶対にない。

ほんとうに苦労した人は、「ほんとうにつまらないやつは、つまらないといっているやつなんだ」とか「楽しい楽しいといえば楽しくなる」とか「楽しいことを自分でつくればいいんだ」とかとは、言わない。

こういう発言は、わかってないやつらがする発言だ。

ほんとうに、ボロボロになる状態を長期間にわたって経験したことがないのである。

だから、そういうことが言える。

経験がないからわかってないだけの、凡人。相手の立場に立って考える力が弱いだけの、凡人。

たとえば、「楽しい楽しいと言っても、まったく楽しくならない状態」を何万回も、何億回も経験したやつが、「楽しい楽しいといえば楽しくなる」と言うと思うか? 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というような言霊的な考え方が正しいと思うと思うか?

そんなの、経験で否定されている。

ほんとうには、苦労したことがないから、そういうことを言っているんでしょ。

「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ようなレベルの苦労しかしたことがないから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言っているんでしょ。そう思っていられるんでしょ。
*     *     *

あっ、それから、俺がヘビメタ騒音で勉強することができなかったということを言って、それが苦労だったということを言ったとする。そうしたら、めぐまれている人が、毎日、一生懸命、勉強したということを言って、それが苦労だったということを言ったとする。

これ、嫌味なことを言っているつもりがないんだよね。「できなくてこまった」と言っている人のまえで、「やりすぎってこまっちゃったよ」と言ってるわけ。

こんなの、「ゲーム機がないから、ゲームができなかった」と言っているやつのまえで、ゲーム機をもっているやつが、「ゲームをやりすぎて、こまった」と言っているようなものだ。こういう嫌味を言って、嫌味を言ったつもりがない。

そんなの、自分のいい環境の、「みせびらかし」じゃないか。

「ゲーム機がないから、ゲームができなくてこまっている」と言っている人のまえで、「ゲームをやりすぎて、こまった」と、まったく嫌味を言うつもりがないまま、言う人がいるんだよね。こういう人は、実在する。

しかも、本人は「はげましているつもり」なのだ。嫌味を言っているつもりなんてまったくないよ。「だれにだって、苦労はある」「俺だって(ゲームを何時間もやって)苦労した」と、はげますつもりで、そういうことを言っている。言われたほうが、どういう気持になるか、まったくわかってない。不愉快な気持になるんだよ。むなしい気持ちになるんだよ。

*     *     *

ヘビメタ騒音のなかで勉強することができない困難。めぐまれた環境のなかで何時間も勉強することができた困難。困難の内容がちがう。

2024年3月27日水曜日

「影響をうけないぞとかたく決心すれば、影響をうけることはない」

 かなり憂鬱な気持で横になっていた。やはり、親父が二〇一七年から二〇二〇年にかけてやったことが影響している。腹をたててぶんなぐってやりたかったけど、がまんした。がまんすると、怒りが内向して、こっちの気持ちがおかしくなってしまうのだ。

これは、基本的なやる気に影響をあたえる。

ところが、世間では、出来事と関係なく「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるという、おかしな説がはやっている。こんなの、おかしい。

こういうのは、条件が悪い人の気持ちを破壊する。
ようするに、きちがい親父にも破壊され、世間のやつらにも破壊されるということになる。
くるっているやつと、一緒に住んでいる人のことが、こういうやつらにはわからない。

言っておくけど、親父の場合……としをとったから認知症になって奇行をするようになったというわけではない。そんな、なまやさしいものじゃないぞ。俺が赤ん坊のときから、くるっていた。親父は、くるって、きちがい的な行動をしていた。そのきちがい的な行動は、こっちに対して、きちがい的な理由で怒り狂うというものだったので、こっちは影響をうけている。

きちがい的な親にやられなかったやつが、「そんなのは気にする必要がない」「影響をうけないぞとかたく決心すれば、影響をうけることはない」というようなことを言う。

影響? 影響、うけるよ。

実際に起こったことが、重要なんだよ。

どうして、実際に起こった出来事を無視して、「影響をうけないぞとかたく決心すれば、影響をうけることはない」というようなことを言うのか?


*     *     *

背中がまだかゆいけど、ピークは越えた。けど、これ、わからないんだよな。突然かゆくなるからな。いま、中程度に、三カ所ぐらい、かゆい。

*     *     *

これも、親父のきちがい行為とネズミ対策工事が関係している。現実に起こったことが、重要。なんで、現実に起こったことを無視して、意識的に「楽しい」と言えば、楽しくなると思えるのか? こんな、現実無視、ない。

「楽しい」と言って、なんとなく楽しくなるような場合は、そもそも、中立的な状態でそういうふうに言ったんでしょ。

これ、本人だって、ほんとうは、そうじゃないことを経験しているのである。ぼくが、言霊主義者に、言霊理論はまちがっているということを説明すると、言霊主義者はみんな、腹をたてる。その腹をたてた状態で、「楽しい」と言えば、ほんとうに楽しくなるのか?

楽しくならないのに、そういう実際の出来事は無視する。

からだ全体が猛烈にかゆかったら、「楽しい」と言って、楽しくなるか? 腹が猛烈にいたいとき、楽しいと言ったら、楽しくなるか?

人間の気持ちというのは、そういうふうにはできてない。実際に起こったことが重要。特に、いま発生していることや、ずっと持続していることは、影響をあたえる。あたえるに決まっている。ところが、そういうことを無視して、「楽しいといえば、ほんとうに楽しく感じる」というようなことを言ってしまう。

いやーー。それ、嘘だから……。それ、意図があって言っていることか、あるいは、本人が、実際には身近な出来事の影響をうけているということを、忘れちゃって言っていることだから……。

意図というのは、悪い意図なんだよ。

たとえば、そういうふうに言って、残業文化や奴隷労働文化を育成しようとする意図がある。一日のなかで、どんなつらいことがあっても、一日の終わりに「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるのだから、それでいい……。「楽しい楽しい」と言って、自分のご機嫌をとればいい……ということになってしまう。「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならないやつは、ダメなやつだ……ということになってしまう。。楽しい楽しいと言えば、自分のご機嫌をとれるのに、そうしないやつは、ダメなやつだ……ということになってしまう。

そうやって、彼らは残業文化や奴隷労働文化を育成しようとしているのである。それは、条件が極端に悪い人にとっては、負担になることなんだよ。ただでも、条件が悪い人は、さまざまなストスレにさらされているのに、ストスレのもとが、ひとつ、増える。

常識的な家族にかこまれていたから、きちがい兄貴のことが、根本的に、わからない

 ぼくは、個人的な集まりに関しては、絶対に遅刻しないように、調整していた。これは、もう、学校を卒業してから一〇年以上たったときだ。

ようするに、毎日ではなくて、その日だけ、時間を守ればよいのだから、眠れないときは前の日から起きているような状態で、絶対に、時間に遅れないようにしていた。

集合時間が午後八時であれば、絶対に、午後七時四五分には、そこに到達するようにしていた。で、ある日、女の人なのだけど、その人と、ぼくで先に集合して、あとで、駅に行くということにしておいたのだ。そのとき、女の人が、一〇分ぐらい遅れたんだよ。

でっ、「ごめんね。ごめんね」と言うから「まあ、一〇分ぐらいならいいよ」と言ったら、次のときから、その女は、わざわざ?二〇分ぐらい遅れるようにしたみたいなのだ。これ、じつは、いろいろと省略して書くけど、認知的不協和が原因なのだ。

なんか、この女は無意識的に「いじわるをしてやろう」と思ったみたいなんだよな。最初は、ヘビメタ騒音に理解がある人だったんだけど、「無職なのはおかしい」という考えがあって、そのわりには、ぼくがいろいろとできるので、なんか、へんだというような感じがしたんだよ。その女が俺のことについて「すべてがあやしい」と言ったらしい。そういうことは、あとでわかったことなんだけど……。

ともかく、俺は「一〇分ぐらいならいいよ」と言ったけど、「二〇分ぐらいならいいよ」とは言ってない。

で、「そのとしで無職なのはおかしい」という気持があると、無意識的に意地悪をしようとするやつらが発生する。

これだって、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らさなければ、そんなことにはなってないことなんだぞ。きちがいが、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らすと、こういうことになってしまう。ヘビメタ騒音の話がおかしいと思うやつがいるんだよ。

そういうやつは、きちがい兄貴のことがわかってない。常識的な親のもとにうまれ、常識的な家族とかこまれて、生活してきたから、きちがい兄貴のことが、根本的に、わからない。「そんなのは、おかしい」「うそを言っているに違いない」と思ってしまう。

そうなると、ぼくがいろいろとできるというのが、また、認知的不協和をうんでしまう。「それなら(いろいろとできるなら)働けばいいのに、おかしい」と思ってしまう。

でっ、こういうことが、わりと無意識的なところで起こると、なんとなく、いじわるな行動をするようになるのである。ぼくに対して、いじわるな行動ね。

三〇代の無職に対して、ものすごく偏見があるやつらがいる。

*     *     *

こんなの、ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい的なことだわりで、きちがいヘビメタを、自分のことだ割りの音で鳴らさなかったら、発生しなかったことだ。だって、俺、ヘビメタ騒音がずっとずっとずっと、毎日鳴ってなかったら、普通に働いていたから。

毎日、十数年間続いたヘビメタ騒音で、普通に働く能力がなくなったと言っているのに、理解しないやつらがいる。そいつらは、こういうふうに思うんだよ。

「毎日、十数年鳴ってたなんて、おかしい。エイリさんが嘘を言っているにちがいない。エイリさんは、なんかあやしい」……と思うんだよ。

*     *     *

親切にエクセルの操作方法について教えてあげたときの話をしただろ。そいつは、自分のほうが無職よりできるにちがいがないというプライドがあったんだよ。それが傷つけられたからおこったんだよ。

でっ、その女も、じつは、無職に対してそういう意識があった。けど、俺がいろいろとできるので、プライドを傷つけられたと思った。わりと無意識的なところで思っていることだから、表面的には、不服従のような意地悪をしてやるということになる。

自分より、無職が、ある分野において能力があるということを、認めるのがいやなやつがいるんだよ。そいつは、無職に対して、かなり強い偏見をもっている。意識しているかどうかはわからないけど、相当に強い偏見をもっている。

そうなると、自分より無職のやつができるということを、認めたくないという気持がしょうじる。これが、どの程度、意識できる気持ちなのかどうかはわからないけど、ともかく、そういう気持がしょうじるやつがいるのだ。

*     *     *

こんなの、ほんとうに、きちがいヘビメタが俺の……「普通の能力」……をうばわなかったら、起こりえなかったことだ。

 こいつらは、みんな、ヘビメタ騒音で通勤通学できなくなるということが、まったくわかってない。自分で経験してみればわかるはずなのに……。

こいつらは、うちのなかにいる、きちがい兄貴の状態がわかってない。これも、うちのなかで、きちがい兄貴がきちがい行為をしたときの態度をみればわかることなのだけど、そういうとき、うちにいないので、わからない。

普通の人より、いろいろなところで能力や知識があるということが、うらまれる原因になっている。もちろん、それだけだったら、うらまれない。

けど、俺が無職だということになると、「無職より自分のほうができるはずだ」「無職より自分のほうがあらゆる分野で能力があるはずだ」と思っているやつが、自動的にうらんでくるのだ。

どんだけ、無職を無意識的なレベルでバカにしているのか、ちょっと、気がつけ。おのれの、無職に対する偏見の深さに、気がつけ。

そりゃ、無職でも、ある分野にかんして、自分よりすぐれている人はいる。なんで、これがわからないのか? こいつらは自動的に「それなら働けばいい」と思うのだ。「ある分野において、有能なら、働ける」というのも、まちがった考え方だ。 

偏見とまちがった考え方をもっているやつが、俺のことをバカにしてくる。見下してくる。そりゃ、「無職だ」と思ったら、その瞬間に、バカにするんだよ。そういうふうに、できあがっている。これは、そいつの思考力のなさを、そのまま、しめしている。思考力がないから「ある分野において、有能なら、働ける」と思ってしまうんだよ。いちおう、関係ないことだけど、思考力がないから「言ったことが現実化する」と思ってしまうんだよ。こういう、思考力がないやつらが俺のことをバカにしてくる。こんなのない。

ほんとうに、きちがい家族にやられて、バカにバカにされる人生だ。

*     *     *

あーーー。言っておくけどーーーー。言霊にかんしても、きちがいヘビメタ騒音にやられず、普通に働いていたなら、「そうですねーーーー」ですんだことだ。だいたい、ヘビメタ騒音なかで、言霊的な解決法をこころみるということもなかったわけだしな……。きちがい家族が意地になって、がんがん鳴らすヘビメタのなかで「すぐにしずかになる」「すぐにしずかになる」と言っているところを想像してみろ。どれだけつらいことか、わからないのか? 言霊的な助言をするやつは、そういうところで、相手のことがわかってない。夜郎自大。自己中。

 

2024年3月26日火曜日

自分がこの世で一番きらいな騒音にさらされ続けたら、「できなくなる」というのがわかってない

 みんな、自分がこの世で、一番きらいな音が、がんがん鳴っている時間のつらさがわかってないなぁ。みんな、働けないようになるのに、それがわかってないから、好き勝手なことを言いやがる。みんな、ほんとうは、あの音のでかさで、自分が、この世で一番きらいな音が鳴っていたら、みんな、勉強することなんかできないのに、わかってないなぁ。自分の嫌いな音が、あの音手のでかさで鳴っていて、勉強なんてできるわけがないだろ。自分のがきらいな音が、あの音のでかさで、何時間も何時間も鳴ったあと、眠れるわけがない。みんな、経験すればわかることなのだけど、経験させるようなきちがい家族がいないから、わからない。わからなければ「関係がない」「影響なんてない」と言って、無理難題をおしつけてくる。無理難題なんだけど、そうやって、日常的に、自分が、この世で一番きらいな音にさらされ続けたことがないから、無理難題だということがわからない。わからなければ、自分は正しいことを言っていると思うわけだ。エイリさんが、あまえていると思うわけだ。そんなのは、影響をうけないことが可能なのに、影響をうけているエイリさんが悪いんだということになってしまう。

あんなでかい音で、自分がきらいな音を一日に七時間聞かされたら、眠れなくなるんだよ。経験がないからわからない。経験がない……多くの人にとって経験がないことだというのは、きちがい兄貴のやり方が異常だったということなんだよ。けど、俺が、きちがい兄貴のことを言っても、きちがい兄貴に実際にやられてなければ、きちがい兄貴のやったことの影響のでかさというのが、自分のこととして、まったくまったくまったく、わからない。わからなければ、「そんなのは、関係がない」と言える。「過去なんて関係がない」と言える。「鳴り終わったら影響なんてない」と言える。ちがうんだよ。

こいつら、みんな、なめてくる。きちがいヘビメタ騒音……自分がこの世で一番きらいな騒音にさらされ続けたら、「できなくなる」というのがわかってない。「無職になる」ということがわかってない。「通勤ができなくなる」ということがわかってない。「虚弱体質になる」ということがわかってない。「睡眠障害者になる」ということがわかってない。「楽しむ精神がなくなる」ということがわかってない。わかってないだけなのに、えらそうなんだよ。 

ほんとうに、人生がない。

「命令する・命令される関係」においても、条件が内在している

  条件のちがいを無視する思考がはやっている。条件なんて関係がない」という思考だ。けど、条件は関係があるのである。条件は関係がないということと、条件を無視するということはちがう。けど、『条件なんて関係がない』という思考のなかでは、両者は区別されてない。おなじこととして認識されている。けど、ちがう。

生まれてこのかたの……条件のちがいはある。条件が立場の差をつくりだしているといっても過言ではない。

たとえば、「条件なんて関係がない。目の前の現実に集中すればいい」という考え方があるとする 。

仕事をしている人であれば、目の前の現実に集中するということは、目の前の仕事に集中するということだ。

しかし、命令する人と命令される人は、条件がちがうのである。

なので、じつは、この命令ということにかんしても、命令する人と命令される人がちがう立場だという条件のもとに成り立っている。

命令する人が命令することはいいことだという価値観があるのである。命令された人が命令されたとおりに動くのはいいことだという価値観があるのである。命令するほうと、命令されるほうでは、立場がちがう。それはすなわち、条件が成り立っているということだ。

条件は、関係があるのである。

「命令する・命令される関係」においても、条件が内在しているのだから、もちろん、その関係において成り立つ実際の作業は、その条件の影響をうけたものになるのである。

条件?

関係あるよ。

「自分だって苦労した」と言って、苦労を均一化してしまうのである

 『自分だって苦労した』ということを言う人がいるけど、その人が、普通に通勤通学している人なのであれば、その苦労というのは、普通に通勤通学できなくなるような苦労ではないということなのだ。

『自分だって苦労した』という言葉で、すべてを均一化して、自分だって、エイリさんのヘビメタ騒音と同等の苦労をしたけど、通勤通学してがんばっているということを言う人たちがいる。

けど、この人たちは、まったくわかってない。

たぶんだけど、ずっと小さい苦労を、同等の苦労だと思っている。

どうしてかというと、ヘビメタ騒音を経験した人は、そんなことを言わないからだ。

人生のなかで、六か月間だけ、ぼくと同等のヘビメタ騒音の苦労をした人とあったことがあるけど、その人は、そんなことは、言わなかった。わかっているから言わないんだよ。「自分は六か月間だけだったけど、ほんとうにつらかった」と言っていた。

ちゃんとわかっている。

一日だって、どれだけこまるか、まったくわかってない人たちが「そんなのは関係がない」「そんなのは影響がない」「過去は関係がない」と言ってヘビメタ騒音の影響を過小評価するということが、ぼくの人生のなかで、複数回、発生した。

そして、その人たちは、みんな……ほんとうにみんな……「自分だって苦労した」と言って、苦労を均一化してしまうのである。

けど、その人たちはみんな、普通に暮らしていて、通勤通学できないからだになってない。

たぶんだけど、ぜんぜんちがうと思う。

 

*     *     *

だから、まあ、こういう人たちとこういう会話をしてしまうこと自体、ぼくにとって、ものすごいマイナスなのである。

どうして、それがしょうじてしまうかというと、きちがい兄貴がきちがいで、きちがい的な意地で、きちがい的な音のでかさで、ヘビメタを鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、一日中、鳴らせる時間はすべて使って、鳴らしていたからなのである。

一日でも、被害が甚大だ。

実際、一日でも、被害が甚大だということが、わかっているから、ほかの人たちは、そういうこと……きちがい兄貴がしたこと……をしないのである。きちがい兄貴だけなのである。

あんなに意地になって、自分が鳴らしたい音にこだわてっこだわってこだわって、暇さえあれば、ずっと鳴らしていたのは、きちがい兄貴だけなのである。

逸脱行為なのである。

逸脱行為をずっとして「いいうち」なんて、そんなにはない。

だから、そういう意味でも、やはり、突出している。やっていることが、突出しているし、被害が突出している。

けど、ほかのうちに住んでいて、学校や職場などにくる人は、実際には、まったく、被害をうけてないということになる。被害の感覚を共有できるわけではないのだ。「よくあること」なら、被害の感覚を共有できるけど、「よくあること」ではないので、被害の感覚を共有できない。

そうすると、想像でおぎなって、被害を無視するということになってしまうのである。

そうなると、その人との関係は、うまくいかなくなる。その人と、ぼくの関係は、うまくいかなくなる。

これも、言ってみれば「認識」のハンディなのである。

きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らしたわけだけど、それが、世間ではないことであって、うちではあることなのだ。だから、ほかの人の「騒音」とぼくの「騒音」がちがうことになる。

けど、ほかの人は「騒音」と言ったら、自分が体験した「比較的、すぐに鳴りやむ騒音」「なんかの用事で健常者が出している騒音」しか経験したことがない。

きちがい家族による、長い長い長い、騒音は、人生のなかで、経験したことがないのだ。

なので、「騒音」と言った場合に、思い浮かべる「騒音」がちがうのだ。ぼくがヘビメタ騒音について語った場合も、普通の人は、 「比較的、すぐに鳴りやむ騒音」「なんかの用事で健常者が出している騒音」を思い浮かべるので、「自分の体験」の範囲では、被害が少ない騒音しか想像しない。想像できない。

ところが、実際に一倍速で生きているぼくには、関係がある話なのだ

 だから、まあ、他人というのは、ヘビメタ騒音のことを無視するようにできている。他人というのは、ヘビメタ騒音のことを軽視するようにできている。何度も言うけど、きちがい兄貴が、自分の家にいないからだ。きちがい親父は、きちがい兄貴のことを支援しているので、きちがい親父もきちがい兄貴のヘビメタ騒音にかかわっている。きちがい親父のような人間も、その人のうちにはいない。いないので、根本的にわからない。そして、わからない以上は、想像力でおぎなうしかないということになる。けど、想像力がないのだ。きちがい兄貴やきちがい親父のことについて考える想像力がない。これ、ほんとうに、規格外なので、常識的に考えると、エイリの話自体がおかしいということになってしまう。そういうところでも、ようするに、無視する傾向が強くなる。ようするに、「かりに、本当の話だとしても……」ということになってしまう。「かりに、本当の話だとしても、そんなのは関係がない」ということになってしまう。ところが、実際に一倍速で生きているぼくには、関係がある話なのだ。これ、ほんとうに、盲点になっていて、他人がわからないハンディなのだ。そして、その他人がわからないハンディがでかすぎる。でかすぎると、今度は、他人とも、うまくいかなくなるのである。

実際にやられたことがないので、被害の大きさがわからない

 想像力の問題だといってしまえば、想像力の問題なのだけど、きちがい兄貴が、そもそも、レアな人間なので、「そういうモードで」きちがい行為をこだわってこだわって、実行してしまう人が、その人の身のまわりには、いない。

いないと、わからない。実際にやられたことがないので、被害の大きさがわからない。時系列的な被害の大きさは、特にわからない。ヘビメタ騒音のハンディというのは、一日でも、ものすごいハンディなんだよ。

けど、他人の目から見ると、ぼくがそんなハンディをもっているようには見えない。他人の目から見ると、ぼくには、ハンディがないように見える。けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのが、ものすごい、ハンディなんだよ。

他人には、まったく見えないハンディだ。

だから、他人は、ぼくの状態が、ハンディなしで成り立っているように見えるのだ。たとえば、遅刻をするということにかんして考えた場合、きちがい兄貴のハンディが、ものすごく影響をあたえているようには見えないのである。そして、他人には、実際に!!……これがたいせつなのだけど、実際に!!……きちがい兄貴のハンディがない。きちがい兄貴がもたらす騒音というハンディがない。

なので、ほんとうに、見えないのである。

ぼくが、ヘビメタ騒音でどうしても、遅刻をしてしまうということを言っても、そんなのは、認めないのだ。だいたい、他人にとっては、兄という存在は、きちがい兄貴のような存在ではない。

だから、「話せばわかる人」「話せばかわる存在」なのである。だから、「話し合って解決すればいいのに、なにを言っているんだ」という気持になる。この人に、うちのきちがい兄貴の性格を完全に理解させることはできない。

どれだけ、言葉を尽くしても、まったくつたわらない部分がある。まあ、それは、あたかも、きちがい兄貴に、どれだけ言葉を尽くして、こまるということを言ってもまったく、つたわらない部分とも、「かぶる」わけなんだけど、もちろん、他人は、きちがい兄貴とはちがう存在だ。

他人は、うちのきちがい兄貴のような性格ではないのである。

だから、自分も(うちのきちがい兄貴のような性格ではないし)、自分の家族も(うちのきちがい兄貴のような性格ではない)ので、根本的にわからないのだ。だから、これも、無視することになる。間隔としてまったくわからないのだから、「そんなのはあるのかな?」という感じで無視することになる。他人にとって目の前の問題は、エイリが遅刻をするということなのである。焦点はそこだ。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音ではない。

ところが、どーーしても、だめなんだよ。どーーしても、ヘビメタ騒音を浴びせられると、遅刻することになる。宿題もおなじで、どーーしても、ヘビメタ騒音を浴びせられると、宿題ができないのである。他人は、きちがい兄貴の性格を無視すると同時に、「どーしてもだめだ」という部分を無視する。どうしてかというと、自分の問題ではないからだ。自分の家にはそんな人がいないからだ。

2024年3月25日月曜日

「それですらも、やってくれない」「こんなにピンチなのにやってくれない」

 ほんとうに、絶対にやめてくれなかった。きちがい兄貴は、きちがいヘビメタを、普通の家では、ありえない音で鳴らすのを、絶対にやめてくれなかった。どれだけ言っても、やめてくれなかった。自分がやっていいと思う時間、ずっとやり続けた。きちがいだから、融通がきかない。融通がきかないということの意味が、ヘビメタ騒音生活をしてない人間にはわからない。「それですらも、やってくれない」「こんなにピンチなのにやってくれない」……こういう気持のまま、きちがいヘビメタに、そのままさらされているときの時間の長さがわからない。怒り狂いの気持ちがわからない。ほんとうに、刺して殺して、問題を解決したかった。これ、きちがい兄貴の「意地」が並じゃないのである。きちがい兄貴の「鳴らしていいと思っている感覚」が普通じゃないのである。そりゃ、殺したくなる態度で、がんがん鳴らして、一秒だってゆずってくれなかったよ。

きちがい兄貴が「悪いこと」をやっているのに、「ゆずってやる」ということで、ドケチぶりを発揮する。こんなの、ない。普通のことをやっているのではなくて、悪いことをやっている。悪いことをやっているのに、こっちの状態や切迫度に関係なく、自分がやっていいと思ってやっている。こんなのない。どうして、切迫した状態になっているかというと、きちがい兄貴が毎日鳴らしているからだ。きちがい兄貴が毎日鳴らしているから、追い込まれてピンチな状態になっている。それなのに、たとえ、一〇分でも、ゆずらないで、死にものぐるいで鳴らしている。こっちはほんとうに、毎日が、殺してやりたい気持ちの連続なんだよ。追い込まれているんだよ。ところが、きちがいはきちがいだから、そういうことを、ガン無視だ。「しずかにろ」ということを言われれば、きちがい回路が発動して、無言のままきれて、やってないことになってしまう。これ、ほんとうに、きちがい回路が発動したあと、やり続けているのに、「そんなのは関係がない」という意味で、やってないのとおなじ態度になるんだよ。まったく、やってないのとおなじ感覚で、暮らしている。こんなきちがい……。こんなきちがい……。普通の人にわかるわけがない。 

「そんなのは関係がない」という意味で、とりあえず書いたけど、ほんとうに、なんとも言えない態度で、鳴らし続ける。きちがい親父も、発狂したら、頑固に、やりきって、やりきったという気持がないままで暮らしている。こんなのは、ない。ないけど、きちがい兄貴は一日に二四時間、そういうモードで暮らしているんだよ。きちがい親父も、一日に二四時間、そういうモードで暮らしているんだよ。きちがい兄貴ときちがい親父は、態度や感覚がまったくおなじなんだよ。そして、その態度や感覚は、一緒に住んでいる人しかわからない。実際にそういう態度や感覚でやりきったあと、まったくやってないつもりで暮らしている人間なんて、親父や兄貴しかいない。ぼくの知っている限り、そういう人間は、親父や兄貴しかいない。よその家には、いない人たちなんだよ。よその家には、いないタイプの人たちなんだよ。そりゃ、よその人だって、無理がいぶり発揮するだろ。

*     *     *

くそ凡人にバカにされて、俺がこまるようなことしか、きちがい兄貴は、しない。くそ凡人にバカにされて、俺がこまるようなことしか、きちがい親父も、しない。こいつらは、人知れず、俺がほかの人からばかにされることを、きちがい的な意地で、毎日毎日、やりやがって……。きちがい的な意地でやったのに、きちがい的な意地でやったということを、まったく認めない。そういう態度で、ずっと、毎日やりきる。こんなのは、ない。

*     *     *

もう、人生、全部が全部、そんなことだ。きちがいに押し出されて、不可避的に、こまった状態になりこまっているのに、今度は、くそ凡人が、「こまる」ということを認めないということになる。くそ凡人にしてみれば、くそ凡人が、五秒で考えたような、ものすごいいアイディアで問題が解決すると思っているのだ。そういうことからして、なめられている。なめられる。そく凡人のなかでは、「お兄さんにちゃんと言えば、問題は解決する」ということになっているのだ。ちゃんと言えば……。ちゃんと言えば……。くそ凡人のなかでは「元気だ元気だと言えば、どれだけつかれたって元気になる」のだ。くそ凡人のなかでは「ヘビメタ騒音の影響をうけないぞと決心すれば、影響をうけなからだになる」のだ。くそ凡人のなかでは……。これ、どれだけバカにしているかわかっているのか?

*     *     *

そんなことで解決するんだったら、苦労してない。苦労と言えば、「俺だって苦労した」か?

すべてがいやだな。

認知的不協和が発生するのだ。

 ヘビメタにやられると、「へんな人」になっちゃうんだよ。普通の人から見て「へんな人」になってしまう。これも、生きていて、こたえたなぁ。不可避的なのに、不可避的だということが、普通の人にはわからない。これ、ぼくの言っていることと社会的な地位との関係で、認知的不協和が発生するのだ。そして、ある種の人間にとっては、「ヘビメタ騒音問題」のことが、とことん、わからないのだ。ぜんぜんわからない。そいつらにとってみれば、「言えば解決することなのに、なにを言っているんだ」というような程度の問題でしかない。「言えば解決する」というのは、「お兄さんに、しずかにしてと言えば解決する」という意味だ。そいつらにしてみれば、「そんなこともできないばか」ということになる。きちがい兄貴が、きちがいだから、俺が、くそ凡人からバカあつかいされるのだ。これだって、きちがい兄貴は、ハンダゴテのことで、経験していることなんだぞ。家の人がきちがいだということが、いろいろなことに影響をあたえる。普通の人の考えのなかに入ってないんだよね。そういう『きちがい的な家族』というものが、普通の人の考えのなかに入ってない。だから、普通の人は、自動的に、誤解をする。もちろん、普通の人でも、誤解しない人もいるのだけど、そういう人は、まれだ。

ダメ人間が、主人公に対して、ネガティブなことを言うわけ

  テレビに出てくるダメ人間が、主人公に対して、ネガティブなことを言うわけ。

けど、そのネガティブなことは、はずれて、主人公がものすごいパワーを発揮して、敵を倒してしまうわけ。あるいは、ゲームで勝ってしまうわけ。あるいは、スポーツの試合で勝ってしまうわけ。

主人公には悪い条件が、これでもかというとほど、成り立っていて、ピンチにおちいるけど、ものすごいパワーで、その悪条件をはねのけて、勝ってしまう。

で、そういう話ばかりを見ていると、ヘビメタ騒音のことを話す……ぼくのことを、ダメ人間だと思ってバカにするようになるわけ。こういうことが、普通に成り立っている。

主人公だから、勝てる。アニメだから勝てる。ドラマだから勝てる。ほんとうは、突然、スーパーパワーがわくなんてことはないし、ものすごく不利な条件で、突然、大ラッキーなことが起きて、勝てるなんてことはない。ないのだけど、物語りの主人公だから、勝てる。

現実世界の話ではないんだよ。架空の世界の話なんだよ。そして、この、突然スーパーパワー、突然ラッキーというのは、悪魔側の発想なんだよ。これは、洗脳の一種だ。洗脳されているとは思わないのだけど、そういう価値観が、からだにしみこんでくる。

*     *     *


現実の世界では、悪魔のたくらみによって、物理的にものすごく不利だったり、金銭的にものすごく不利だったりすると、負けることになっている。物理的にというのは、さまざまなことが入っているけど、大きなものは、「身体」だ。この身体というのが問題なんだよ。

きちがいヘビメタ騒音で、「身体」能力が落ちた。これは、測定されるものでも落ちるし、測定されないものでも落ちる。そして、一番きいたのは「生活体力」と言えるものだ。この生活体力というのは、体力測定では測れない体力なのである。持続的に、一定の時間に起きて、一定の行動をすることができる能力だ。

たとえば、一定の時間には眠って、一定の時間に起きて、学校に通うというような能力だ。これは、体力測定で測れないけど、身体的なものだ。きちがいヘビメタによって、睡眠回路が破壊されるとだめなのである。

けど、普通の人のうちでは、きちがいヘビメタ騒音なんてことは、発生しない。ないことなのだ。普通の人は、経験しないことなのだ。だから、考えから、そもそも、除外されている。きちがい兄貴や、きちがい親父がもたらす、不利な条件は、除外されているのである。普通の人の頭のなかから、除外されている。

そして、自分には経験がないことなので、ぼくが、あらたにこういうことがあるということを知識としてさずけた場合にも、否定してしまう。そりゃ、自分の経験から言って、ないことだし、普通はないことなのだから、ないことなのだと思ってしまう。

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まあ、「身体的なものだ」と書いたけど、身体は脳みそを含んでいるので、精神的な問題も含んではいる。「睡眠回路が破壊された」ということだって、比喩的に言っているわけで、これはもちろん、脳みその問題なのである。

まあ、生きている以上、脳みそを含んだ身体的な問題ということになる。

体力が発揮されるときは、かならず、脳みそがかかわっている。だから、脳みそがまったくかかわってない体力というものは、想定するべきではない。しかし、一般的に言うと、脳みその問題と体力の問題は、区別している。いちおう、一般的な言い方にそくして「身体的なものだ」と書いた。けど、脳みそは含んでいる。ようするに、精神も含んでいる。

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ともかく、マンガやアニメの世界で、条件が悪い主人公が……悪い条件などとは関係なく、勝ってしまう物語を見ている人は、他人の「悪い条件」に対して、鈍感になるのである。ちょーーー鈍感になる。「あったってない」ぐらいになっている。「そんなのは、努力でどうにかなる」「そんなのは、すごい才能でどうにかなる」と思ってしまう。

実際には、おなじことを自分がやられれば、ダメになるのに、そういうことがまったくわかってない人間ができあがる。

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あとは、ともかく、マンガやアニメの世界で、条件が悪い主人公が……悪い条件などとは関係なく、勝ってしまう物語を見ている人は「悪い条件」について、言及する人を「ダメ人間だ」とみなすようになる。この、みなしパワーが、すごい。

ともかく、「ネガティブなことを言うやつはダメ人間だ」と決めてかかってくる人間がじつに……この世では……多かった。そして、特に、「悪い条件」について話をする人は、ものすごくいやなやつで、ものすごくネガティブなやつで、ものすごいダメ人間だと、みなす人が人間がじつに……この世では……多かった。多かった。

ダメ人間だとみなす主体は、普通の人で、ダメ人間だとみなされる客体(対象者)は、「悪い条件」について言及する人ね。これ、まちがえないように。普通の人だって、そりゃ、ある分野では、悪い条件をかかえている。

けど、これは、人間界において、相対的なものなのだよ。普通の条件をかかえている人もいれば、極端に悪い条件をかかえている人もいる。じつは、いい条件をかかえている人もいる。

『条件』について語ること自体が、タブーになっている。

条件について語る人は、「なんとなく腹がたつ人間だ」という認識が、普通の人のなかに、できあがっている。どうしてこういうことになったかというと、やはり、悪魔側の洗脳が重要なんじゃないかなと思う。まあ、これは、あくまでも、思っているだけだ。

自分の『悪条件』について語る人を、人は、憎むのである。そういう思考が、普通の人のなかに、普通に成り立っている。これなんかも、やっぱり、自己責任論や努力論とつながるわけだけど、悪魔側が誘導してつくった感じ方なんじゃないかなと、思う。

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いづれにせよ、普通の条件の人が、極端に悪い条件の人に、俺だって悪い条件はあるということをいうことで、極端に悪い条件の人の極端に悪い条件が消滅するかというと、消滅しない。普通の条件の人だって、不愉快なことはあるし、完ぺきな親はいないので、親に対しても、不愉快な思いをするかもしれない。

けど、それと、きちがい的な親にたたられることは、ちがうことなのである。正常な親がときに、自分にとって不愉快なことを選択したというのと、きちがい的な親が、自分にとって、常に不愉快なことを選択したということは、ちがうことなのである。

きちがい的な理由が成り立っているかどうかは、重要なことだ。

まあ、親の話になってしまったけど、ともかく、普通の人だって、そりゃ、標準?にくらべて、悪い条件がいくつかは成り立っている。

だから、「自分だって悪い条件が成り立っている」ということは、正しいことだ。普通の人だって、「自分だって悪い条件が成り立っている」と思っているわけだ。

けど、悪い条件の分野や、悪い条件の度合いは、絶対に、関係がある。「自分だって悪い条件が成り立っている」ということが、「悪い条件の度合い」のちがいを無効化するわけではないのである。度合いは、重要だ。

「自分だって悪い条件がある」と言えば、条件のちがいがあるということや、「悪い条件の度合い」のちがいがあるということが、無意味化するわけではない。

けど、普通の人は、無意味化させる文脈で、そういう発言をしているのである。

だから、まあ、ほんとうに、上から下まで、条件のちがいがありすぎるほど、あるんだよ。けど、まあ、上の人が、「自分だって、こういう悪い条件をかかえている」と言うことが、上から下までの条件のちがいを無効化するわけではない。ある。

条件のちがいがある。

上の人が「自分だって苦労した」と言ったって、上から下まで、条件のちがいがありすぎるほど、あるんだよ。上の人と書いたけど、中ぐらいの人もおなじだ。

なんだったら、下の人まで、ふくめてもいい。下の人と言ったって、程度のちがいがある。

中にちかい下の人と、最低の下の人では、条件がかなり、ちがう。分野のちがいと、程度のちがいがある。分野のちがいと程度のちがいは重要なのである。実際の結果に影響をあたえることだ。だから、無視するべきではないのである。

所与の条件がちがうのだから、いっしょだということにして、話をすすめるのはよくない。いっしょだというのは、ようするに、おなじだということだ。「自分だって苦労した」とひとこと言えば、それで、所与の条件のちがいが、実際になくなってしまうわけではないのである。

なくなってないのだから、ちがいが影響をあたえる。条件のちがいは、ある。

この世では、ほんとうに、残酷なほど、条件のちがいがある。

なんで、無視する?

条件のちがいが、結果に影響をもたらして、当然だ。

どうして、無視する?

「そんなのは関係がない」と言ったあと、努力論について語るな。

2024年3月23日土曜日

普通の人は、まちがった認識をもってしまう

 たとえば、リンゴという名称で、一〇〇個のリンゴをくばるとする。けど、そのリンゴのなかには、毒リンゴがひとつ入っている。一〇〇分の一の確率で、病気になり死ぬ人が出てくる。けど、みんな、毒リンゴが入っているということを知らない。毒リンゴという認識はなくて、リンゴという認識しかない。

その場合、リンゴを食べた九九人の人は、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。これは、名称の問題なのである。

リンゴのなかに、普通のリンゴと毒リンゴが入っている。確率的には一%の確率で、毒リンゴ(あたり)を引くことになる。なのだから、リンゴを食べるべきではないのだ。

だれが、あたるかわからないのだから、あたらないようにするには、食べないという選択をするべきなのだ。ところが、みんな食べて、「私は食べても平気だった。うそを言うな」ということを言うのである。

しかし、ひとりは、病気になって死んでいる。けど、それは、リンゴのせいではなくて、寿命で死んだんだとか、ほかの理由で死んだとかと思うのである。

リンゴはリンゴで、人を殺すような威力がないという認識をもっていて、なおかつ、くばられたリンゴは、すべてリンゴであって、毒リンゴではないという認識をもっていると、そういうふうに、考えてしまう。

実際に、毒リンゴが一〇〇個に一個入っていることをかくしたい人が、「因果関係は証明されない」ということを言う。これは、正しい。正しいのだけど、まちがっている。どうふうに、まちがっているのかというと、因果関係を証明すると、証明した人が死ぬことになっているのである。

そういう場合は、たとえ、科学的に因果関係を証明できたとしても、因果関係を証明してしまうわけにはいかないから、公的には、因果関係は証明されないということになる。けど、普通の人の思考のなかにはそういうことが含まれてない。

「できない」という可能性について考えない。

なので、くばられたリンゴは普通のリンゴであり、たとえ、食べた人のうち、ひとりが死んだとしても、それは、リンゴと関係があるのかどうか、因果関係は証明できないということになる。

「因果関係は証明できない」ということと、「因果関係はない」ということは、それぞれ別のことなのだけど、これにかんしても、普通の人は、まちがった認識をもってしまう。「因果関係は証明できない」のなら、「因果関係はない」と思ってしまうのだ。

だから、いろいろな誤解がつみかさなって、毒リンゴが一〇〇個に一個入っているかもしれないという可能性を考えずに、リンゴを食べてしまう。これは、一〇〇分の一の賭けにでたということだ。けど、賭けにでたつもりがないのである。

どうしてなら、一〇〇に一個、毒リンゴが入っているという情報はまちがっていると判断したからだ。一〇〇に一〇〇個が普通のリンゴであり、毒リンゴではないという判断をして、リンゴを食べているからだ。

自殺願望がある人がいる場合は、自殺願望がある人は、一〇〇個に一個毒リンゴが入っているということを知っていても、食べるかもしれない。なので、そういう場合もある。その場合は、一〇〇人が、死なないつもりでリンゴを食べたという前提は、ひっくり返る。しかし、たいていの人は、死ぬとは思わずに、くばられたリンゴを食べるのである。

いろいろとまちがった認識をもっている人が、くちぐちに「自分は科学的に考えた」ということを言うのである。科学的というのは、どういうことなのか?

2024年3月22日金曜日

一見よさそうに見える

  悪魔の話というのは、一見よさそうに見えるのだけど、じつは、ものすごく悪い結果をもたらすものなのだ。ささやきに負けて、そうしてしまうと、一時的にはよくなるのだけど、結果的には、わるくなる。時間のとり方が問題で、悪魔に味方をして、悪魔の言うとおりに行動した人間が、死ぬまで、しあわせだったということもある。これは、個人的な問題と、社会的な問題がかかわっている。そして、悪魔が支配してきた社会だということが関係している。ずっと、悪魔側が支配してきた社会なので、そのなかで、お得な行動をすれば、お得な結果が得られるというとになる。そして、悪魔側の人間には、完全に悪魔側の人間と、完全には悪魔側ではない人間がいる。いままでの地球というのは、完全に悪魔側の人間が、見えない支配者として完全に、社会を支配してきた。これが、歴史だ。でっ、完全に悪魔側ではない人間の社会というのが、普通の人たちが見ている普通の社会だ。ようするに、見えない支配者以外は、みんな、奴隷身分として、普通の人として暮らしていた。奴隷身分の道徳。奴隷身分の社会的な価値観なのである。普通の人を縛り付けているものというのは、奴隷身分の道徳。奴隷身分の社会的な価値観なのである。

九割の人間と無関係であるはずがないでしょ

 たとえばの話なんだけど、医者は、利益と○○で、毒を他人に打つことに賛成してしまう。九割の医者が賛成した。医者だけではなくて、ほかの人もだいたい、おなじなのである。九割の人が、利益で誘導されれば、他人を傷つけることを、良心の痛みを感じないままやってしまう。そういう割合だ。そういう世界に生きているのに、「明るいことを考えれば明るいことが起こる」と考えるのはまちがっている。これも、悪魔側の教えだ。

九割の人間と無関係であるはずがないでしょ。

真実とニセの光

 悪魔も悪魔で、高級なやつだと、ニセの光を放つのだ。凡人は、悪魔と天使の区別がつかず、天使の格好をした悪魔を崇拝してしまう。「楽しい楽しい」と言えばほんとうに楽しくなるというのも、悪魔のささやきなんだよ。

 

2024年3月21日木曜日

実際の出来事とは関係なく「楽しい楽しい」と言えば、ほんとうに楽しくなると言っている人

 言いたかったのは、実際の出来事とは関係なく「楽しい楽しい」と言えばほんとうに楽しくなるというようなことを、言っている人たちは、自分がどういう発言をしているのかわかってないということだ。わかってないんだよね。これーー。きちがい的な親兄弟にたたられた人を、地獄のふちにおいつめるような、無理解発言なんだよ。これも! これもーー。こんなの、ない。こっちが「こんなのはない」と言いたくなる発言だ。実際の事実が、自分のこころに影響をあたえるのである。それじゃ、「あなたが、むかむかして、通りに出て、手当たり次第に人を殺した」とする。あなたがつかまって独房にいるとき、「楽しい楽しい」と言えば、ほんとうに楽しくなるのか? 実際の出来事とは関係なく「楽しい楽しい」と言えば、ほんとうに楽しくなると言っている人は、楽しくなるはずだということを、主張している。「楽しい楽しいと言えばほんとうに楽しくなる」と言っているのだから、そういうふうに主張しているということになる。例外はないのである。Xをすれば、Yになるという構文をもった文の場合、条件がないのであれば、すべての条件でそれが成り立つということになってしまうのである。こういうことを、まったく考えない人たちなんだよ……。こういう人たちも……。ほんとうに、いやだな。ほんとうに、いやだな。

そういえば、ご丁寧に「どれだけつらくても、楽しい楽しいと言えばほんとうに楽しくなる」とか「どれだけいやなことがあっても、楽しい楽しいと言えばほんとうに楽しくなる」と言う人たちがいる。どれだけつらくても? どれだけいやなことがあっても? ほんとうに、わかって言っているのかな? わかってないんじゃないかな。

そのタイプの常識的な人にとって、まったく縁がない人たちだからだ

  また、袋のなかに入れて、窒息死したネズミのことが気になっている。ガシガシあがいていた。その音が、気になる。きちがい親父が、魚の切り身を一日に二三(にじゅうさん)時間だすことにこだわらなければ、こんなことになってない。実際に、魚の切り身はくさかったんだけど、「部屋中がくさくなるから、冷蔵庫に入れろ」と言ったら「くさくない、くさくない」と絶叫して、何か月も毎日そういうことを繰り返した。そうしたら、ネズミがよってきた。ネズミが侵入してからは、ネズミ対策工事に反対する。「俺がつかまえるからいい」というきちがい理論だ。この、「俺がつかまえるからいい」というのは、そういう気持になっていた。だから、ほんのちょっとでも、認めると、その気持ち通りにできないことは、どんなことでも、発狂して認めないというスイッチが入る。くさくない」という絶叫も、くさいということを認めたら、冷蔵庫に入れなければならなくなるのがいやなのだ。意識的にそうしているのなら、正常な人で……正確には問題があるけど正常な人だ。ところが、親父の場合、こういうしくみが、無意識のなかで成り立っているのである。だから、意識的な本人は、一切合切かかわりがないつもりなのである。自分が、きちがい的な意地でそうしたから、そうなったということが、根本的に、わからない。意識的な部分では、あたかも、きちがい的な意地をはって、そうしたということが、削除されているからだ。最初から認識されない。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音もおなじだ。聴覚が正常なら絶対にわかることがわからなくなっている。もし、「でかい音で鳴らしている」ということを認めてしまったら、「ほんとうに」しずかにしなければならなくなる。自分が思ったとおりのでかい音で鳴らせなくなってしまう。だから、「でかい音で鳴らしている」ということは、聴覚が正常なら絶対にわかることなのに、一五年間毎日、最後の最後まで認めない。認めないでやっているから、まったく迷惑をかけたつもりがないのだ。これは、どれだけ、押し問答をしても、認めないのである。認めないのは、ほんとうに、意識の部分では、でかい音で鳴らしてないと思っているからだ。これが、やっかいなんだよ。きちがい親父のほうに話をもどすけど、「親父が、入院したら、俺がネズミを処理しなければならなくなるから、ねずみ対策工事をしよう」と言っているのに、「入院しないよ!!」「入院しないよ!!」と絶叫して、入院することがあるということを認めないのだ。これ、三年前に、脳梗塞で入院したことがあるのに、そういうことを言うわけだ。だから、ほんとうに、事実は関係がないのである。「親父が死ぬ場合だってあるだろ」とぼくが言ったら、親父が「死んでほしいのか」と言った。「別に死んでほしくはないけど、死ぬことだってあるだろ」とぼくが言ったら、「死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!」の絶叫だ。これ、本人は、ほんとうに、「そのときだけ」のりきれればいいのだ。ほかはなんにもない。矛盾してたって、そんなのは、お構いなしだ。でっ、これが、兄貴のヘビメタ騒音にも成り立っているのである。そのとき、でかい音で鳴らしているということを認めないのだけど、認めないでやりすごせば、それで、「そういうことがしょうじなかった」ということになってしまうのである。記憶しない。「そういうこと」というのは「弟が、でかい音で鳴らすな」ということを言ってきたということだ。だから、心おきなく、常に、自分が満足できるでかい音で鳴らすことができるのである。弟は、自分の騒音でまったくこまってないという認知が成り立っている状態なのである。何万回言われたって、「そのとき」はねのければ、それでおしまいなのである。記憶に残らない。だから、ゼロ回を何回繰り返しても、一回も言われたことになってないのである。だから、まったく気にしないで、入試の前日だろうが、一三(じゅうさん)時間鳴らせるなら、一三時間鳴らして、絶対にゆずらない。けど、きちがい兄貴のなかでは、たとえば、五分間、〇・一デシベルでもゆずったらゆずったということになってしまうのである。だから、一二(じゅうに)時間五五分、フルの音で鳴らして、五分間、フルの音から〇・一デシベルさげた音で鳴らせば、「ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!」ということになってしまうのである。兄貴の「ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!ゆずった!!!」と、親父の、「死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!死なないよ!!!」は、おなじなんだよ。でっ、こういう家族がない人は、そういうことがわからない。自分の体験を通してわかるということが、人生のなかでない。きちがい兄貴やきちがい親父とおなじ脳みその構造をもったきちがい家族にやられてない人は、まったくわからないまま、人生をとじてしまうのである。だから、その人が生きているあいだは、ぼくのような、きちがい兄貴やきちがいおやじタイプのきちがい家族に、やられた人のことが、わからないのである。こっちも、わからないままだ。しくみはちがうけど、『わからない』というのはおなじなのである。だから、きちがい兄貴やきちがいおやじタイプのきちがい家族に、やられたことがない人は、ぼくを、侮辱してくるのである。これも、本人は、侮辱したつもりがないのである。無理解発言をしているというつもりがないのである。それから、ある特定の常識的な人にとって、「ヘビメタ騒音がどうのこうの」ということ自体が、不愉快な発言だというのがある。「そんなのはない」「そんな人、いない」「そんな音で鳴らしていたら、親が文句を言う」「その話はへんな話だから、エイリさんが嘘を言っている」と思うやつがいるのだ。こいつらも、腹がたつ。ほんとうに、腹がたつ。こいつらは、俺のことを、最大限に見下して、侮辱してくる。どうして、そういうことになってしまうかというと、きちがい兄貴やきちがい親父が、そのタイプの常識的な人にとって、まったく縁がない人たちだからだ。そいつの常識のなかでは「そんな人はいない」ということになっているのである。なので、「そういう人がいる」「そういう人にこういうことをやられた」という話をしているエイリさんこそが、あやしい人だと思うわけだよ。ほんとうに、腹がたつなぁ。ほんとうに、腹がたつ。

2024年3月19日火曜日

その時間の長さ、ぼくは憤まんやるかたない気持ちで、いたんだ。

 ほんとうに、きちがい家族にやられたことがない人はわからないみたいだな。どれだけ、異常な感覚が成り立っているかわかってない。頭がおかしいから、できることなんだぞ。普通の人は、できない。

だから、普通の人が家族である、普通の人は、自分のこととして経験してない。自分の状態として経験してない。自分の状態として経験していなかったら、どれだけ言われたって「そんなのは、関係がない」と思えることなんだよ。

どれだけ俺が、正確に記述したとしても、「そんなのは、影響がない」と思えることなんだよ。

けど、時間の長さがある。

たえて、たえて、たえた時間の長さがある。その時間の長さ、ぼくは憤まんやるかたない気持ちで、いたんだ。

学校から帰ってくると、おなじことが繰り返されてしまう。毎週日曜日はおなじことが繰り返されてしまう。これ、鳴り終わったあと、どんな気持ちになると思っているんだ。

「鳴り終わったら、関係がない」……本当に、殺してやる炊くなるようなセリフだな。

たえてきた怒りが、一気に爆発する。どれだけ長い時間、たえてきたと思っているだ? たえたから、おかしくなっている。たえたから、症状が出ている。たえたから、楽しい感情がない状態で暮らしている。なにもわかってない。

やられた次の日、からだを動かすのが、くるいんだよ。からだを動かしたくない気持ちになる。いま、起きて、動くのであれば、死んだほうがましだという気持になる。そういう時間をすごしたあと、気力を出して、がんばって、出ていく。家を出ていく。

けど、そういうがんばりが、からだをこわす。睡眠回路をこわす。感情回路をこわす。こわしまくり。注意力がなくなる。注意力がなくなれば、トラブルが生じる回数が多くなる。きちがいヘビメタでトラブルにまみれているのに、さらに、トラブルが発生してしまう。

きちがい兄貴とのトラブルだけで精一杯なのに、ちがい兄貴のとのトラブルの結果しょうじた、自分のからだの状態が、他人のとトラブルを引き起こすことになる。

これ、どれだけ、失敗しないように注意してたってむだなんだよ。

ほんとうに、できないことが多くなるんだよ。

あんなことやられて、平気なわけがない。鳴り終わったあと、めちゃくちゃになるんだよ。もちろん、鳴っているあいだはめちゃくちゃだ。いま、幼稚園で工事をやっているけど、そういう普通の音とは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音はちがうんだよ。質がちがうんだよ。どうやっても、無視できない音なんだよ。どうやっても、無視できない距離で鳴っている音なんだよ。 

不可避的にできくなるのに、「そんなのは関係がない」という他人がいっぱい出てくる。そういう他人と、人生のなかで出会うことになる。そりゃ、その他人にしてみれば、ぼくのことは、まさしく他人事だし、自分が経験してないことなので、どれだけ影響をうけるかわからないことなのだ。

きちがい兄貴にしたって、自分がきらいな音をあの音でかさで鳴らされたら、一〇秒で、かんかんに腹がたつような音なんだよ。一〇秒で「やめろ!!!」と怒鳴り込むような音なんだよ。そういう音で鳴らしているのに、本人は、フォークギターぐらいの音で鳴らしているつもりでいる。ぜんぜんちがう。音のでかさがぜんぜんちがう。

きちがい兄貴だって、ほかの人に、ほかの音でやられたわかることなんだよ。きちがい兄貴は、自分が鳴らしたいという気持ちがあるから、絶対にわからない。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、こっちがこまるということを、無視する。その無視のしかたが、普通の人間の無視のしかたではないのである。ほんとう、きちがいの無視のしかたなのである。

ほかの音でやられたら、きちがい兄貴にも、自分がどんだけでかい音で鳴らしているかということがわかる。けど、催眠術にかかったように、自分がやっているときはわからない。

きちがい兄貴も、きちがい兄貴以外の人も、「つみかさなったとき」のつらさがわかってない。どうしても、できなくなる状態が、わかってない。ほかのやつらは……九五%ぐらいのやつらは、みんな、俺がさぼっているように言いやがる。ほんとうにむかつく。

そして、まったく役に立たない言霊のようなアドバイスをしてくる。そんなことで、解決できたら、苦労してないんだ。そんなことじゃ解決できないから、苦労しているんだよ。

だれでも、すぐに思いつくようなことを有効な解決策として口にする人は、だれでも、すぐに思いつくようなことを、俺が、思いつかないと思っている。

だれでもすぐに思いつようなことは、もうすでに、初期の段階でやっている。

きちがい兄貴という壁がある。きちがい兄貴という壁は、きちがいの壁だ。ちがうのである。「お兄さんに言えばいい」という解決方法があるとする。その解決方法で、解決できたかというと、解決できないのである。

言霊……その解決方法で解決できたかというと、できないのである。

言霊的な解決方法を口にする人は、ぼくが、言霊的な解決方法では、解決できなかったと言うと、みんな、あとだしの妄想きちがい理論を口にする。言霊的な解決方法を口にする人は、ぼくが、言霊的な解決方法では、解決できなかったと言うと、みんな、不機嫌になる。腹をたてる。腹をたてたいのは、こっちなんだよ。ほんとうに、こどもだな。ほんとうに、ガキだな。

「いいアドバイスをしてやったのになんだ!!」という気分になるんだよな。

けど、本当に、役に立たない方法なの!! きちがい家族が、意地になってやっていることなんだよ。そんなのぼくがどれだけ、「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」なんて言ったって、鳴りやまない。

きちがい騒音にやられて、めちゃくちゃにつかれて、眠りたいのに眠れないとき「すぐに眠れる」「すぐに眠れる」と言っても、眠れないんだよ。

「兄貴は、すぐに、ヘビメタにあきて、鳴らしたくなくなる」と言っても、きちがいの気持ちがかわらなかった。そりゃ、一五年後に鳴りやんだ。きちがい兄貴が引っ越したから、鳴りやんだ。一五年後でも、鳴りやめばいいのか?

そんなことはない。

これ、言霊の人たちというのは、時間制限を無視するところがある。「鳴りやんだなら、鳴りやんだんじゃないか」と言いやがる。一五年後に、鳴りやんでも、そのころには、ぼくの能力がなくなって、人生がズタボロになっているのだから、意味がないんだよ。

「一秒で鳴りやむ」と言ったのに、一秒じゃ鳴りやまなかった。「一分以内に鳴りやむ」と言っても「一分以内に鳴りやまなかった。一五年後に鳴りやめばいいのか?

そんなことじゃない。

きちがい兄貴! 俺の若い時間をかえせ!!

きちがい兄貴!! 俺の人生をかえせ!!!

やめようと思えば、いつでもやめられたんだぞ。絶対にやめなかった、一五年間はなんなんだ。一五年間、毎日は、なんなんだ。小学六年生の後半から、高校三年生までの六年と半年で、ぼくの人生は終わっている。

2024年3月18日月曜日

「できなくなる」という現実を認めず、無理難題を吹っ掛けてくる人が多かった

 きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴が鳴らした音量とおなじ音量で、きちがい兄貴が鳴らした時間、きちがい兄貴が鳴らした期間、ずっとずっとずっと、その人がきらいな騒音をずっと聞かされ続けたら、「できなくなる」のに、実際に自分が経験したことではないので「できなくなる」ということがわからないままなんだよなぁ。

だから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言ってしまう。言霊主義者は言葉に出して言うけど、言葉には出さないけど、そう思う人もたくさんいる。時間があるんだよ……。やられた時間がある。どうしようもない時間がある。その時間の積み重ねで、できなくなったんだよ。

それを、「できないと言うからできない」と言われたときの、気持ちがわかるか? 兄貴が、ずっと鳴らしていた。よそのうちでは、絶対に鳴らせないような音でずっと鳴らしていた。

どれだけ「しずかにしろ」と言ってもしずかにしなかった。

その積み重ねでできなくなった。

原因は「言うから」ではないのである。

ヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、つみかさなったから、できなくなったのだ。「から」がまちがっている。理由を想定して言っていることなのだけど、想定がまちがっている。まちがった理由を想定しているのである。

こういうことを言う人は、きちがいヘビメタ騒音相当の困難を経験したことがないから、「できないと言うからできない」「できると言えばできる」などと言えるんだよ。こういうことを言う人は、「理解した」と言う。「ヘビメタがうるさかったんだろ」と言う。

たしかにそうなんだけど、「できなくなる」ということは、理解してない。

一日分のヘビメタ騒音でも、怒りが頂点のまま何時間も経過して、心身ともにボロボロになってしまうのに、それが、わかってない。

影響があるに決まっている。宿題をする能力があっても、鳴っていたら、宿題ができなくなるんだよ。

それを、「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」と言ったりする。

これ、どれだけ、くやしい気持ちになるかわかるか? わからないと思う。

「できると言えばできる」も「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」も、おなじように腹がたつ言葉なんだよ。無理解ぶりを発揮した言葉なんだよ。

「できない」ということを認めず、「できなくなる」という現実を認めず、無理難題を吹っ掛けてくる人が多かった。

俺だって、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、できたのぉ!!

それが、ヘビメタ騒音が鳴り始めて、できなくなったのぉ!!

ヘビメタ騒音相当の苦難がなかった人ができる」のは、むしろあたりまえなのである。ところが、「自分はできる。エイリさんはできない」という立場でものを言ってくる。ヘビメタ騒音相当の苦難があったら、あなただってできなくなっている。

それが、わからない。どうしてかというと、経験がないからだ。それを「俺だって困難はあった」「俺だって苦難を経験した」と言えば、同量の苦難を経験したことになってしまうのである。その人の頭のなかでは……。

言っておくけど、同量の苦難を経験したら「できると言えばできる」「できると言えばできる」「宿題をやりたくないから、騒音がうるさいと言い訳をしている」なんて言えなくなる。

どうしてかというと、できなくなっているからだ。

そんなのがまったく無意味だということを、きちがいによる騒音のなかで思い知らされているからだ。

これ、俺が騒音のなかで、なんとかがんばってやろうとした時間を、なんだと思っているんだよ?

その時間、ずっとくるしかったんだぞ。

見積もりの量がちがうんだよ。見積もりと偏見。

  ヘビメタ騒音のハンディを無視する人間やヘビメタ騒音のハンディを過小評価する人間のことを、クソ凡人と呼ぶことにした。クソ凡人は、ほんとうに、クソ凡人だ。

どうしてかというと、想像力がないから、ハンディの大きさを無視してしまうのに、ぼくのことを、バカにしてくるからだ。

これ、バカにしているんつもりがないのかもしれないけど、ヘビメタ騒音を鳴らされたにしても、できると思っている人間は、ぼくのことをバカにしていることになる。

ようするに、自分だったら、ヘビメタ騒音のハンディがあったにしろ、そのくらいのことは、できるはずだという前提のもとに、発言をしているのである。バカにしていると言える。

できると書いたけど、なにができるかということについて、書いておこう。

たとえば、「遅刻をしないで通勤することができる」ということや「そのくらいの騒音のなかで勉強することができる」ということや「騒音にさらされていたとしても、宿題ぐらいできる」ということや「そのくらいの騒音にさらされ続けたとしても、通勤して働くことができる」ということだ。 

あるいは、「そういう騒音にさらされたとしても、楽しいと感じる能力をうしなわずに生きることができる」ということだ。全部、自分の人生に、なかったことだから、そういうふうに思えることなのである。見積もりの量がちがうんだよ。

一瞬一瞬のハンディだけを考えたとしても、きちがいヘビメタの音はひどすぎる。きちがい兄貴の態度は、ひどすぎる。きちがい兄貴の感覚はひどすぎる。腹がたたないわけがないだろ。そういう、きちがい的な感覚で、自分がやっていることを認めずに、きちがい的にでかい音を出し続ける家族がいるということ自体が、たえられないことだ。頭にくることだ。

きちがい兄貴が、つねに、ぼくの能力をうばっているのに、きちがい兄貴がいない人間が、そのことを過小評価したり、そのことを無視して、「できる」という前提でものを言ってくることは、ぼくにとって、くやしいことであり、腹だたしいことだ。

ほんとうに、できないからだ。ほんとうに、できなくなるからだ。

こいつらが、ほんとうにできないということや、ほんとうにできくなるということを、理解してないだけなのだ。

どうして理解しないかというと、経験がないからだ。そりゃ、こいつらの家族は、うちのきちがい家族とはちがう。うちのきちがい家族とはちがう感覚をもって生きている。

だから、うちのきちがい家族が、絶対の意地で、やるようなことを、やらない。やられてないから、わからない。やられてないから「できない」状態になってない。それだけだ。ところが、偏見があると、バカにしてくるのである。



経験していなければ、「遅刻するようになる」ということは、わからないことなので、

 実際の量がすごいんだよ。量がすごい。なんの量かというと、ハンディの量だ。これ、一日でも、ものすごいハンディになる。自分がきらいな音が、あの音量で鳴っているということは、ハンディなんだよ。

けど、ほかの人には、ハンディの大きさがわからない。ハンディの量がわからない。そうするとどういう反応をするかというと、「そんなのは関係がない」「鳴ってたって関係がない」「鳴ってたってできる」と言うような反応をしてくる。

これ、経験がないから、そういうふうに言っているだけで、おなじことが起こったら、やはり、ハンディがでかいので、できなくなる。

けど、きちがい家族がいないから、その人たちにはぼくとおなじことが起こらない。おこらなければひとごとなので、ハンディの量を無視して「できる」と言うことになる。

けど、できない。

けど、できないということを、関係がない一般人は認めない。
 

そうすると、たとえば、「無職は劣っている人間だ」「無職は、ダメ人間だ」と思っている人は、無職のぼくをバカにしてくることになる。ぼくのほうが、ある分野において一〇〇倍能力があっても、バカにしてくることになる。

学生時代で無職というようなことが関係ない場合も、たとえば「遅刻をする人間はダメ人間だ」と思っているやつは、遅刻するぼくを、ダメにしてくるのである。きちがい兄貴の、普通の家ではしょうじない、きちがい行為によって、ぼくがバカにされるようになるのである。

ヘビメタが鳴っていると、どうしても、遅刻するようになる……ということが、普通の人にはわからない。経験的に、自分の嫌いな音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っている毎日というのを、経験してない。自分の嫌いな音が、あの音のでかさで、あの時間の長さ鳴っている毎日、経験すれば、そのバカにしてきた人だって、遅刻するようになって、「遅刻しないと言うことはできない」ということがわかるのだ。

けど、その人にはきちがい兄貴がいないので、きちがい兄貴のような態度で、きちがい兄貴のような感覚で、きちがい行為を横の部屋でずっとやられるということが「ない」わけだ。

だから、経験しないで、すむということになる。

経験していなければ、「遅刻するようになる」ということは、わからないことなので、その人は、ご自然に、ぼくのことを、自らの偏見に基づいて、バカにしてくるようになる。まさしく、きちがいにやられて、バカにバカにされるということになる。まさに、きちがい家族にやられて、きちがい的な家族に至近距離で何時間も鳴らされる騒音というものを経験しなかった普通の人に、バカにされるということになる。

たとえばの話だけど、その人が……遅刻するという理由でぼくをバカにしたとが……別の機会において、「人がどう思うかなんて、気にしなくてもいい」と言ったとする。

ぼくは、「おまえは、なにを言っているんだ」と思うわけだ。そりゃ、そうだろ。人をバカにしておいて、「人が言うことなんて気にしなくてもいい」と言うわけだから、「こいつ、ふざけるな」と思うわけだよ。


きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。

 ともかく、大音響でヘビメタをきかされているときの、ぼくの頭のなかの状態というのは、ヘビメタが好きな人や、ヘビメタをきいたことがない人にはわからないと思う。

あんな大音響でずっと鳴らしていいわけがない。

きちがい兄貴だって、うち以外のところでは、鳴らせない音なのである。

あれは、きちがい親父とおなじで「うちならなにをやってもいい」「うちなら、外ではやれないことを、がんがんやっても、ゆるされる」という無意識的な自動思考がある人間なのだ。

これ、ほんとうに、きちがい兄貴しても「うちだから」やったことなのだ。

「うちだから」どれだけ言われても、認めずにやったことなのだ。

自分がやっていることを認めないというやり方で、やりきるという方法を採用した。けど、無意識的にそういう方法を採用したので、意識では、そういう方法を採用したつもりがないことになっている。意識では、「やってない」ことになっているのだ。

けど、無意識的に「うちでなら、どれだけやってもいい」「うちでなら、自分の意地をとおしても当たり前だ」と思って、やった。

何度も言うけど、それが無意識的な過程なので、意識にはあがってこない。意識のほうは、「そんなことやってないのに、なんだ!!」と思うだけなのである。

どれだけ言われたって、言われたときに、いかり狂って、はねのければ、はねのけたとたんに、関係がない人になってしまう。ようするに、やっているのかやっていないのか知らないけど、ともかく、自分には関係がないと思ってしまう。そういう態度でやりきる。

だから、意識的には、「ものすごくでかいとで鳴らしている」つもりがない状態なのである。だから、文句を言われたら、文句を言ってくるほうが悪いと思うだけなのである。なので、腹をたてて、やりきる。

けど、本人は、やったつもりがない。

そりゃ、大音響で鳴らしているつもりがないなら、大音響で鳴らしたことはないということになってしまう。意識では、そうなる。

そして、相手の言い分を無視する力が、ものすごく強い。これは、きちがいだからなせるわざだ。これ、普通の人は、まったくちがうのである。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない虫の無視たなのである。

けど、うちのなかで、きちがい的な無視を、きちがい兄貴がしたとしても、うちのなかにいない人にとっては、なんでもないことだ。

ぼくが学校に行った場合、学校に集まってきている人というのは、きちがい兄貴がうちのなかでしたことを、知らない人たちばかりなのである。うちの兄貴の状態を、うちのなかで知っている人じゃないのである。

なので、ズレがある。

普通の人は、普通の家族と住んでいるので、きちがい家族がやることにかんしては、まったく理解がない。大きな音でステレオを鳴らすといっても、封の家族がやることだ。無意識に問題があるきちがい家族がやることではないのである。だから、普通の人は、きちがい家族がいるうちのことについて、常に、過小評価をしてしまう。

「言えばどうにかなるんじゃないか」と思ってしまう。

けど、きちがいはきちがいだから、きちがい回路が発動して、「ちゃんと言っても」どうにもならない。そのままの状態が続く。普通の家では、そのままの状態がずっと続くということがない。

だから、普通の家に住んでいる人は、人生のなかで、そういうことを経験したことがないということになる。ひとごとだ。完全にひとごとだ。別の個体に起こったことだ。自分は、痛くもかゆくもない。自分は、ぜんぜん、(そのことで)つらくない。

なので、必然的に過小評価をしてしまうのである。影響を無視してしまう。

影響は、想像するしかないのだけど、自分の人生経験から言って、想像できないものなのである。あるいは、想像しにくいものなのである。

だから、ほかの人のなかにある「ヘビメタ騒音」と、ぼくが実際に経験した「ヘビメタ騒音」は、そういうレベルで、異なるものなのである。異なるもなのだけど、これがまた、異なるということが、ほかの人にとってはどうでもいいことなのである。

この、どうでもいいというような態度は、きちがい兄貴にもある。

これ、きちがい兄貴が張本人で、「やめてくれ」と言われれば、発狂して怒って、意地になってやるのに、まったくやってないという意味で、まったくまったく、関係がないことなのである。関係がない他人のように、きちがい兄貴は、自分がやっていることについて、無関心でいられる。

鳴らされているときからだのつらさは並じゃないのけど、鳴らされていない他人は、つらくないのである。だから、わからない。鳴らされ終わったあとの、からだのつらさは並じゃないのだけど、鳴らされてない他人は、他人ごとなので、わからない。わからないからわからない。だから、「鳴り終わったら関係がない」などと言う。けど、影響をうけている。

2024年3月17日日曜日

自分が、条件の悪い人をののしっておいて、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言うのだ

  たとえば、アドラーは、条件が悪い人のことを悪く言うことにたけている。アドラーは条件を無視して、「コツコツと努力すれば、成功する」というようなことを言う。条件を無視している。条件を無視している。条件のちがいが、成功するかどうかに影響をあたえるということを、積極的に無視している。

そして、成功してない人を、努力をしなかったダメ人間のように言うのである。成功しなかったなら、その人は、努力をしてないという決めつけをする。

努力をしたけど成功しなかった人は、存在せず、努力をしないような怠け者だから成功しなかっただけなのであるという印象を、アドラーは人々にあたえる。条件を無視している。

そんなの、どれだけ努力したって、失敗する人間だっている。

条件が悪ければ、どれだけ努力しても、失敗することはある。

条件について言及する人間に対しては「負け犬の遠吠えだ」とか「泣き虫が泣きごとを言っているだけだ」とかというののしりの言葉を用意しておく。

これは、ようするに、アドラーが、条件が悪くて失敗した人のことを、悪く言っているということだ。

ところが、アドラーは「人がどう思うかなんて気にしなくていい」というようなことも、言うのである。自分が、条件の悪い人をののしっておいて、「人がどう思うかなんて気にしなくていい」と言うのだ。

悪口を言っておいて、「人がどう思うかなんて気にするな」と言うのである。

こういうことを、やるのは、アドラーだけではない。 

たいして成功してない人間でも、自分より条件が悪い人には、こういうことをしがちなのである。自分を中心にして、比較優位とか比較劣位があると言ったでしょ。

たいした成功をしてない人でも、自分を中心にして考えて、比較劣位にある人には、そういうことを言いがちなのである。本人だって、たいして成功してないのけど、相手よりは、成功していると思うと、相手にそういうことを言いたくなる人がいる。

ヘビメタ騒音のことがわからないということと、無職であることをゆるさない文化が、両方とも影響している

 ほんとう、いろいろな連鎖で不愉快な思いをすることになっているのだ。きちがい家族が、自分の苦手な音を大音響で、十数年にわたって、毎日鳴らし続けたという……人生経験がない人には、ヘビメタ騒音の影響がわからない。そんなの、毎日、ヘビメタ騒音をあびていたとしても、就職ぐらいできるだろ。通勤ぐらいできるだろと、考えてしまうのである。ようするに、多くの人は、ヘビメタ騒音の影響を無視するのだ。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するのだ。なので、「話があわない」というとになる。これ、ヘビメタ騒音の影響を無視する人だって、自分が苦手な音を、家族が、至近距離でずっと鳴らし続けたという体験があれば、わかることなんだよな。どれだけ、被害を受けるかわかるはずなんだよな。けど、普通の家族は、そんなことをしないので、普通の人は、わからない。わからないから、無職である俺に対して、文句を言ってくる。ヘビメタ騒音のことがわからないということと、無職であることをゆるさない文化が、両方とも影響している。


ちゃんちゃらおかしいね。

 現実の世界で発生する出来事といのは、すべて、現実の世界で発生した個別の出来事なんだよ。だから、現実の世界で発生した出来事について考えるなら、個別の出来事として考えなければならないんだよ。個別・具体的な出来事なのに、個別・具体的な出来事だということを無視するのはよくないことなんだよ。出来事における、個別具体性を無視するのはよくないことなんだよ。

個別具体性を無視して、やられたほうに問題があると決めつける。こんなのは、おかしい。しかも、おかしいということに、本人(自己責任論者)が気がついてないということもおかしい。どんな場合であれ、やられたほうが悪いということを言っているのとおなじだ。

どうしてなら、やられたほうに落ち度があると決めつけているからだ。落ち度があるということは、悪いということだ。はたすべき責任をはたさなかったから、そうなったと決めつけているのである。はたすべき責任というのが、あとだしの責任なのである。あとだしの空想的な責任なのである。架空の責任を後からつくりだし、その架空の責任を果たさなかったから、悪いのだと決めつけているのである。これで、精神世界。これで、道徳的なことをしているつもり。ちゃんちゃらおかしいね。

2024年3月16日土曜日

自己責任論というのは、こまっているほうをいじめる思想なのである

 これ、顰蹙を買うかと思うけど、言っておく。自己責任といっても、打っちゃったら、責任がとれないことがしょうじる。打っちゃったら、責任をとれないことがしょうじる。

自己責任論者は、自分の身に、マイナスであることが生じたら、それは、自己責任だと言っているわけだ。

けど、じつは、打ってしまうことで、他人の身にマイナスであることがしょうじる。その場合、自己責任論者は、自分の責任だとは思わないので、まったく責任なんてとらないのである。とろうと思うということが、まったくないのである。

どうしてかというと、「他人の身にマイナスであることがしょうじる」と考えてないからだ。

けど、他人の身にマイナスがしょうじる場合だってあるのである。 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじることがある。

けど、自分が、 自分の行動で、他人の身にマイナスがしょうじたということを認めないのであれば、あるいは、意識にすらのぼらないのであれば、そのままなのである。責任なんてとれるわけがないだろ。責任があると思わないわけだから、責任なんてとれるわけがない。

それから、責任をとることが、可能なのかどうかという問題もある。責任をとることが、そもそも、可能なことではない場合は、いかに自己責任論者だとしても、責任なんてとれない。可能ではないのだから、とれない。自己責任論者というのは、だまされている。即席・洗脳だ。

自己責任論というのは、ワクチンのためにはやらせておいた考え方なんだよなぁ。

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フラットアースという考え方は、陰謀論のためにはやらせておいた考え方だ。これは、根が深い。 

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自己責任論というのは、こまっているほうをいじめる思想なのである。こまっているやつがいたら、「そんなのは、こまっているやつの自己責任」と言って、こまっている人をさらにこまらせるのだ。こんなの、悪質なあおりとおなじだ。「どんな場合だって、自己責任」なのだから、こまっている人に責任がない場合は、こまっている人は、不愉快な気持になる。「どんな場合だって、自己責任」というのは、架空の話。こまっている人にとっては、こまっているのは、現実の話。わからないかな? 勝手に、「こまっている側に責任がある」「やられた側に責任がある」と決めつけているだけなのである。現実世界で発生したことを考えず、現実の状態を考えずに、「どんな場合だって自己責任だから、あなたの場合も自己責任」と勝手に、決めつけているだけなのである。仮想、架空の、クソ理論なのである。架空の前提で、現実に起こったことについて、勝手に決めつけている。自己責任論を振り回すやつの頭のなかに、「架空の現実」があって、その架空現実のなかでは、すべて、やられたほうの責任だということになっているのである。なので、どの現実的な出来事にも、「やられたほうの責任だ」ということを、あてはめることになる。けど、現実的な出来事は、現実的な出来事なのである。個々の具体性をもつもなのである。架空の出来事ではないのである。頭のなかで、だれかがだれかになにかをするというタイプの出来事を考え出し、頭のなかで、抽象的に「それは、なにかされたほうの責任であるにちがいがない」と考えているのである。実際には「責任にちがいがない」という推量の部分がとれて、「責任だ」という断定の部分に置き換わっている。

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自分を対象とした自己責任論ならいいけど、他人を対象にした自己責任論を振り回すなということを書いたけど、自分を対象にした自己責任論も、すべての場合において、肯定されるわけではない。

たとえば、一億二〇〇〇万人のうち、一億人が被害を受けたとしよう。一億人が「すべては自己責任だ」と訴えることをあきらめたら、残りの二〇〇〇万人も影響がある。国が一億人にひどいことをした場合、ひどいことをされた一億人が、みんな、「すべては自己責任」と自分の責任だけを追及して、国の責任を追及しなかったらどうなるか?

二〇〇〇万人が傷つく。

だれかが、声をあげなければ、ほかの人たちが傷つく可能性がある。だれかが、声をあげなければ、傷つく人が、もっともっと、増える可能性がある。自己責任論というのは、声をあげさせないようにする、思想だ。 

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自己責任論というのは、たしかに……「自分に落ち度があると考えると、怒らないですむようになる」……というような高尚な?考え方を含んでいる。あたかも、アンガーコントロールに有効なような感じがする。

けど、その光の部分は、ニセの光だ。

社会的にはやらせたのは、やられたほうをいじめ、声をあげさせないようにするためだ。社会的に、はやったというのが、問題なのである。だれかひとりが、勝手に自己責任論を思いついて、本人が思っているだけだったら、こんなことになってない。

よさそうな話というのは、ニセの光を放っている。ニセの光に弱い人たちがいるんだよなぁ。その人たちが、多数派であれば、世界は、闇に満ちてしまう。ニセの光を放っているものが、「人をひきつけ」「人をたきつけ」悪いほうに誘導する。 

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だまされた一億人は、残りの二〇〇〇万人に対して、だまされた責任を感じてくれるのかというと、感じないと思う。だから、自己責任論者が、自己責任だと思える範囲というは、じつは、限定されている。ほんとうは、二〇〇〇万人に対しても、責任があるのに、一億人の自己責任論者が、残りの二〇〇〇万人に対して、まったく責任を感じなかったら、自己責任論者のなかでは、残りの二〇〇〇万人に対して、責任があることにならないのである。しかし、一億人がだまされてしまったことによって、国は、ますます、ひどいことができるようになる。一億人は、悪いほうにコマを推し進めてしまったのである。なら、悪いほうにコマを推し進めた責任がある。

俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!

  からだがかゆいと、ネズミ対策工事のことで、「やらなくていい」と言った部分を対策業者がやってしまって、逆に穴があいて、被害を受けたということが思い出される。

からだがかゆいと、いろいろなことを思い出す。

ネズミ関係のいろいろなことを思い出す。この、工事に関しては、本当に、ねずみ対策業者が、いろいろな「へま」をしている。

しかも、ヘマがあきらかになったとき、こっちが連絡をしようとしたら、ネズミ対策業者の人が、電話に出なかった。あとで、わかったことなんだけど、脱腸で入院をしていた。

ぼくは、「お勝手のドアは、あかなくてもいい」何回も何回も言ったんだよ。そうしたら、ネズミ対策業者の人が「あけられたほうがいいだろ」と何回も言ったんだよ。

これ、カネを払うのはこっちなのだから、一回「やらなくていい」と言ったことは、やるべきではないんだよ。食い下がるべきではない。

けど、その人が、昭和一桁生まれの人で、ふるい人なんだよ。だから、「一度、関係ができたら、自分がやってあげたいことをやったほうがいい」と考えるような人なんだよ。「これは、こういうふうにしておいたほうがいいだろう」とその人が考えたら、そういうふうにしてやることに、こだわる人なんだよ。

これ、「してやる」という発想なんだよ。

「してやれば、相手はよろこぶにちがいがない」という発想なんだよ。

けど、「やらなくていい」と相手が言ったことは、相手にとって、やらなくていいことなんだよ!!!

きちがい親父が、こういうやつの性格を一〇〇〇兆倍したようなやつなのだから、こういうやつがかかわると、そっちのほうの心理的な問題も出てきてしまう。そっちのほうの心理的な問題というのは、親父がぼくにやってきたことを思い出してしまうという問題だ。そりゃ、記憶があるのだから……。俺がやってほしくないことを、親父が強引にやってしまうというトラブルが……それこそ、幼稚園時代から、たくさん、あったのだから、思い出してしまう。ひとつひとつが、トラウマだ。
 
*     *     *


ねずみ対策業者の人が「あけられたほうがいいだろ」と言ったあと、ぼくが、ネズミ防御力がさがるから、やらなくていい」と言ったら、「ネズミ防御力はさがらない。ちゃんと、やってやるからだいじょうぶだ」「ネズミがはいらないようにちゃんとやってやるからだいじょうぶだ」と言ったんだよ。これ、何回もおなじ会話を繰り返している。

*     *     *

一度!俺が「やらなくていい」と言ったことは、やらなくていいことなんだよ!! 食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!食い下がるな!!!

食い下がって、無理やりやったやつは、みんな、ヘマをする。みんな、ヘマをする。できあがったものがよくないのである。これ、みんな、そうなんだよ。これ、おしが強い、食い下がるやつってなんだ。

これ、あっちがプロで、こっちが依頼者なのだから、依頼者が「やらなくていい」と言ったことをやるのはおかしいだろ。俺が、見てないうちに、やっちゃって「あれは、やっておいたよ」なんて、事後報告だ。

自分のなかでやりたくなったら、エンジンがかかって、人がとめても、やってしまうやつがいるんだよな。これ、どうにかならないのか?

こういう、おしが強いやつは、みんな、みんな、ヘマをする。

依頼者がたのんだことをやってやるのがプロなのに、自分がやりたいことをやってしまう。これ、なんなんだよ? しかも、自分では「相手のためになっている」「相手のためにしてやった」と思っているんだよ。そういう思考スタイルなんだよ。相手が「やらなくていい」とひとこと言ったら、それは、相手にとって不必要なことなんだよ。なんで、それがわからないのか?

*     *     *

「どうしても、気にくわなかったら、あとであなた(俺のこと)がつけなおせばいい」というようなことも言ってたんだよね。けっきょく、ネズミ対策業者の人がパティをとったら、ぼくがつけなおすことになってしまう。けど、ネズミ対策業者の人は、パティのことを知らないのだ。

これ、プロだから知っていると思ったのだけど、一度つけたパティは、とったらダメなんだよ。つけなおせないんだよ。時間がたったやつはつけなおせないの。まるでわかってないな。

どうしても気にくわないから、「やらなくていい」「とらなくていい」「ドアはあけられるようにしなくていい」と言っているのに、「ドア、あけられたほうがいいだろ」「あけられるようにしてやる」と言ってきかない。俺は、「ドアは、あけらなくてもいい」と言っているんだぞ。このドアというのは、お勝手のドアだ。使わない。

俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!俺が、とるな、と言ったら、とるな!!!!!!!!!

どうして、きちがい親父が起点だと、こういうことになるかな??

かゆい!!!!!かゆ!い!!!!くそ、くそ、くそ。どうして、親父が起点だとこういうことになるんだ。

きちがい兄貴が起点でもそうだ。きちがい兄貴がやったことについて、対処しようとすると、次から次へと、起点が影響しているトラブルが発生する。

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いま、衣類の熱湯消毒処理をしているけど、これも、どれだけ効果があるのかわからない。ともかく、この部屋に入られたのは、問題だ。最後の最後で、はいられた。あそこで、パティをネズミ対策業者が、とらなかったら、入らなかったネズミだ。

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ネズミに関しては、時間が問題なのである。侵入されている期間がのびればのびるほど、ひどいことになる。「侵入経路をふさぐしかない」と俺が言ったのに、きちがい親父が「俺が(ネズミシートで)つかまえるからいい」と絶叫して、ガン無視だ。

これも、何十回も、押し問答だ。

何十回、説明しても、「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と言いやがる。

入ってきたやつを、ネズミシートで捕まえたって、あとからあとから、入ってくるわけだから、問題が解決しない。ネズミの糞が増え、ダニが増える。どれだけ、「それだと、ネズミの糞が増えちゃうだろ」とか「それだと、ダニが発生してたいへんなことになる」とかと言っても、きちがい親父が発狂して、 「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」「俺がつかまえるからいい」と絶叫して、無視だ。俺が言っていることを無視する。

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まあ、ネズミのことは、俺の超個人的な問題だ。そして、あれのことは社会的な問題だ。けど、ネズミのダニも、あれのトランスミッションも、いやだなぁ。目に見えないけど、圧力になる。目に見えないけど、いろいろな病気や症状の原因になる。どっちもそうだ。実際、からだがかゆいというのは、こまった問題だよ。

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押しつけがましい人は、「やってやれば、相手がよろこぶはずだ」という考え方をずっと持っている。相手が「こまるからやめてくれ。やらないでいい」と言ったあとも、そういう考え方がずっと、頭のなかに成り立っている。自分がやったことで、相手がこまるということが、ぜんぜんわかってない。その場に対応した「理由」を(相手が)説明してもだめなのである。どうしても、どうしても、『自分がやってやりたいこと』が優先してしまう。

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手短に言うと、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人も、押しつけがましい人とおなじような状態になってしまう。人に親切にしようと「過剰」に思っている人は、自分が思いついた「親切」を他人にやってやりたくなる。その、やってやりたい度合いがあがっている状態なのである。

そりゃ、「人に親切にすれば、(自分が)しあわせになる」のであれば、しあわせになりたい人は、いろいろと理由をつけて、他人に親切なことをしたくなる。

けど、その「親切なこと」というのは、その人が考えたものなのである。その人が考えた親切は、相手の状態や、相手の考えを無視したものになりやすいのである。どうしてかというと、「やってやりたい」からだ。

本人のなかで「やってやりたい気持ち」がブーストアップされる。

「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人は、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということをまったく気にしてない人よりも、押しつけがましくなるのである。

自分が「親切にしてやりたいこと」に集中してしまうのである。

相手が、のぞんでいるものを吟味して、相手がのぞんでいるなら、やってやるという「かまえ」のほうが、相手がのぞんでいることを、やってあげられる確率があがる。「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じてしまうと、一時的にだけど、「押しつけがましい人」とおなじ性格になってしまうのである。おなじ思考スタイルになってしまうのである。

まあ、もともと押しつけがましい人のほうが、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを「一時的に」信じている人よりも、押しつけがましさの度合いがうえだとは思うけど。

「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じている人は、そのぶん、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを信じていない人よりも、トラブルが多くなる。自分が親切行為だと思っていることをやってしまう可能性がある。

自分がこうしてやれば、相手がよろこぶはずだということを、相手の感情や相手の状態を無視して、やってしまう可能性がある。「人に親切にすれば、しあわせになる」と強く思っている人は、普通の人よりも、より強く、親切行為を(他人に)やってあげたいと思うようになるわけだ。けど、その親切行為というのが、問題なのである。

きちがい兄貴は、融通が利かない

 きちがい兄貴は、融通が利かないのである。どれだけ、こっちがこまっていても、ガン無視して、やり続ける。「一〇分間だけ、特別にゆずってやる」ということができない人間だ。一〇噛んだろうが、絶対に、自分が相手のために我慢するのは、いやなのだ。そして、こういう態度だと、どれだけ、ピンチなときも、やられるわけで、対処のしようがなくなる。それは、パニックになるようなことだし、普通の人であれば、その場で、きちがい兄貴を、殺しているようなことだ。普通の人は、たえられずに、殺している。そういうがまん力が、ぼくの場合、人並みすぐれて、あった。がまん力が強かった。けど、そのぼくですら、けっきょく、がまんのししすぎでだめになった。これ、突き付けられていることが、ちがうのである。普通の人が、「騒音」とか「うるさかった」という話を聴いて、想像するものと、実際にぼくが突き付けられたことが、ちがう。それは、たしかに騒音なのだけど、普通の人が思い浮かべるような騒音じゃない。普通の人は、普段きちがい兄貴が……うちのきちがい兄貴が……どういう感覚で、どういう意地で……ヘビメタを鳴らしているのか、まったくわかってない。融通が利かないということですら、殺人的な意味を持つということがわかってない。繰り返しで、がまん力が内向して、自分のからだがダメになってしまうということがわかってない。能力をうしなってしまうということがわかってない。

「鳴り終わったら、関係がない」なんて言うやつらのことは、殺したくなる。それで、当然だ。殺しはしないさ。だって、張本人のきちがい兄貴のことも、殺せなかった。殺せるわけがない。けど、「鳴り終わったら、関係がない」なんて言う人は、ほんとうに、なにも、なにも、わかってない。

2024年3月15日金曜日

X側の項目が「一意に決まらない」のであれば、その文は、無意味だ。

 人に親切にすれば、しあわせになれるということだけど、ちょっとだけ、説明しておく。

たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。で、Bさんがエクセルの使い方について質問してきたので、Aさんが、親切に使い方を教えてあげたとする。

そうしたら、Cさんが、Aさんに「ものすごく、くわしいんですね。エクセルやワードを教えてらっしゃるですか」と訊いたとする。

で、Aさんは、当時、無職だったので、「いや、無職ですよ」と簡潔にこたえたとする。そうしたら、Bさんが、無職にものを教えられたということにかんして、腹をたてたとする。

これ、ほんとうにあることなんだよ。

自分のプライドがゆるさないらしく、無職に教えられたということに(Bさんは)腹をたてた。腹をたてたとする。

で、「おまえは、気にくわない」とAさんに、言ったとする。Cさんは「自分がへんなことを訊いたから、へんなことなっちゃって」と言ったとする。

Aさんは、Bさんに親切にしたんだよ。親切に説明してあげた。

けど、どうだ? Aさんは、親切にしたことで、しあわせになったか?

しあわせになってないじゃないか。

無職に、教えられると、腹をたてる人というのは、わりといるんだよ。一定数いる。人に親切にしてあげたことで、トラブルが発生している。

これ、Bさんは、Aさんがパソコンの講師だったら、納得して、文句を言わないんだよ。なんだったら、「さすがパソコン講師の人ですね」とおべっかを使うかもしれない。

これだって、偏見のひとつだ。自分は、無職よりすぐれているはずだというプライドをもっていたのに、そのブライトをキズつけられた。だから、腹をたてている。

実際には、そういうことまで、「親切行為」に影響をあたえる。親切行為も、一意には決まらない。「XをすればYになる」というような構造をもった文において、X側の項目が「一意に決まらない」ということは、ものすごくでかい意味をもっている。

これがわからないのかな?

X側の項目が「一意に決まらない」のであれば、その文は……法則性がある文としては……無意味だ。あたかも、法則性があるようなことを言っているけど、法則性なんてない。X側の項目が「一意に決まらない」……これのもつ意味がわかってない。文としては、それは、たしかに、意味をもっていると言えるけど、法則性がある文としては、意味がない。

文に意味があるとしたら、「その人が、そういうことを言いたい気持ちになっているんだなということが、わかる」というような意味なのだろ。しかし、すくなくても、「XをすればYになる」というような構造をもった文としては、無意味だ。

猛烈ないきおいで、嘘をつくんだよ。

 さすが、きちがい親父、ダニでたたるとか、目の付け所がちがうよな。自分が死んだあともずっとたたることができるからなぁ。ダニのせいで、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? ネズミの糞で、俺がどれだけいやな思いをしていると思っているんだ? こういうことをやっても、まったく気がつかない。

そういえば、思い出したけど、台所に、ネズミが出るから、台所から、いまのほうに出てこないように、いちいち、引き戸式のドアをしめていたんだよ。そうすると、いろいろと不便なんだけど、そうした。

それで、俺が引き戸式のドアを、引いて開けたら、ネズミが、ばばばばばはっと、びっくりしたように、ものすごい速度で、天井付近の横のところをかけたんだよ。だから、あけて、でかいものが動いたので、俺は、びっくりした。

ネズミもビックリしたのだろうけど、俺もビックリした。

そうしたら、きちがい親父が「びくつくな」とか言いやがったんだよ。ほんとうに、なぐりたくなったなぁ。そりゃ、あんだけ、でかくて、黒いものが、ばっばばばばばっ、ダッシュしたら、ビックリするだろ。

きちがい親父が、一日に二三(にじゅうさん)時間、粕漬の魚をテーブルの上に出しておくということにこだわったからこうなっているんだぞ。親父が、ねずみ対策工事をさせてくれないからこうなっているんだぞ。普通の人だったら、絶対に気にすることを気にしないんだよ。

これは、きちがい兄貴もきちがい親父もおなじだ。

こういうところで、頭がおかしい。

頭がおかしいから、自分の責任で、こうなったということがわかってない。それは、言われないからわからないのではなくて、どれだけ言ったってわからないのである。きちがい親父も、きちがい兄貴も、基本的なことを無視して、あれまくって、認めないんだよ。発狂して認めない。

発狂したいのはこっちなんだよ。

全部、こういうことなんだよ。

全部、こういうことなんだよ。

ほかの家だったら、絶対に起こりえないことなんだよ。

ちなみに、天井の横のことろと書いたのは、台所なので、天井と壁がくっついているところに、壁があるわけではなくて、扉がついた収納部分がついている。だから、ネズミが、走ったところは、扉のうえだ。

これ、ほんとうに、でかいネズミなんだよ。引き戸を引いて、開けたときは、開けたとたんに、なにか黒くてでかいものがすごい速度で移動したと認識したわけだから、普通に、反射的に、おどろく。

そりゃ、なにか黒くてでかいものが、ものすごい速度で移動したら、おどろくだろ。「ネズミだ」ということを認識するまでに、ものすごく短い時間だけど、時間がかかる。びくつくとか、そういうことじゃない。

自分が、ネズミを餌付けして、入れたのに、まるで反省しないんだよ。これ、粕漬の魚を出しておいたから、ネズミがきたんだぞ」ということを言うと、きちがい親父が「だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!だしてないよぉ!!!」猛烈ないきおいで、嘘をつくんだよ。

これ、きちがい兄貴に「うるさいから、しずかにしてくれ」と言ったときの、兄貴の態度とおなじなんだよ。兄貴はさけんでないけど、おなじことが、起こっている。

おなじことが頭のなかで起こっている。

きちがい親父だって、無言バージョンがある。

ともかく、事実がなんであれ、発狂して否定して、それでのがれれば、それでいいという考えなんだよ。もちろん、熟考しているわけではないけど、そういうきちがい的な考えに支配されている。

「そのときだけ」認めずに、やりきれば、それで、本人のなかでは、すんでしまっている。「すんでしまったら」やってないことなのである。そんなの自分にまったく関係がないことなのである。

だから、そういうことが、時間的にネスト構造で成り立っている。

だから、「認める」ということがないんだよ。これ、普通の人だったら絶対にありえないことなんだよ。

 無言バージョンと、否定語絶叫バージョンのちがいは、無言バージョンの場合は「こまる」というようなことなんだよ。将来、相手がこまることになるとか、相手がすでにこまっているということだ。きちがい兄貴やきちがい親父は、こまっていない。きちがい兄貴やきちがい親父は、やりたいことをやめさせられるとこまってしまう。

だから、認めない。発狂して認めない。

発狂したいのは、こっちなんだよ。でっ、否定語絶叫バージョンは、自分がすでにやったことを認めない場合や、感覚器が正常であれば、絶対にわかることを認めない場合に、使われることが多い。あくまでも、傾向だ。

普通の人だったら絶対にやらないことをやって、相手がこまっているから、文句を言ってきているのに、反対語を絶叫して認めなかったり、無言のまま認めなかったりする。普通の人だったら、やるまえから「迷惑だ」ということがわかるから、絶対にやらないことなんだよ。

でも、やりたいからやったとする。相手が文句を言ってきたとする。相手が文句を言ってきた場合、相手の気持ちや相手がこまっているということが(普通の人は)わかるのでやめてやる。

けど、きちがい兄貴や、きちがい親父の場合、それがまったくない。頭がおかしいレベルでまったくない。

だから、そうなると、よその人が、きちがい兄貴の行為や、きちがい親父の行為について、誤解をするのである。常識的に考えれば「そんなことはない」ということになってしまう。実際自分が、家族に「そういうことを」やられたことがないので、やる人がいるということが、「経験的に」わかってない。

そうなると、そういうことをされたときの、影響のでかさがわからないのである。

特に、兄貴のヘビメタ騒音は、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もつづくことなので、「ヘビメタ騒音」という一つの行為なんだけど、影響が、計り知れないほどでかい。

きちがいヘビメタ騒音のなかで、宿題をするのはむりなんだということを言っても、ほかの人は、認めない。自分のことじゃないから、基本的に関係がない。自分のことじゃないから、基本的に関心がない。そんなへんな人(家族)の話なんて、自分にとっておもしろくないことだから、関心がない。

「そんなのは、お兄さんに言えばいいだろ」と思ったり、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思ったりする。けど、「どんだけうるさくたって宿題ぐらいできる」と思っていられるのは、その人の家族が、きちがい家族ではなくて、自分がこの世で一番嫌いな音を、至近距離で、大爆音で鳴らされないから、わかってないだけなんだよ。

きちがい親父や、きちがい兄貴もわかってないけど、普通の人もわかってない。普通の人は『きちがい親父の行為』や『きちがい兄貴の行為』不可避的に影響をうけるということがわかってない。その影響が、でかいということがわかってない。

普通の人が、考えている以上に、でかいでかい影響をあたえるのだけど、普通の人は、それがわかってない。

2024年3月14日木曜日

不可避的に影響をうけてしまうことがある

 親には真剣があるので、影響をうける。アドラーとか、きちがい的な親にたたられたことがない人は、「影響をうけないことが可能だ」と前提でものを言うのである。『影響をうけないぞと、かたい決心をすれば、影響をうけることがない」のである。けど、親は真剣をもっているので、子供側の人間は影響をうけることがある。「影響をうけないことが可能だ」というのは、どんな場合でも影響をうけないことが可能だと言っているのである。けど、実際には、未成年であるうちは、影響をうける。「親」というのは、一番みじかな「他人」だ。他人なのである。他者存在なのである。影響をうけないというのは、他者の影響をうけないということなのである。けど、親と言う他人の影響をうけることはある。親がやることでも、影響をうけないこともある。ようするに、「影響をうけないぞ! 断固無視して、影響をうけないようにするんだ!!」と思って、影響をうけずにすむこともある。けど、そうではないこともある。影響をうけることはゼロではないのである。不可避的に影響をうけてしまうことがある。なので、「他人の影響をうけないことは可能だ」というのは、嘘なのである。

*     *     *

他人、親という他人、子供側の人間ということについて考えてみよう。子供側の人間が未成年だとする。けど、きちがい的な兄の騒音を逃れるために、アパートを借りたいと思ったとする。けど、未成年なので、親の承諾が必要になる。たとえ、お小遣いをためたカネをもっていて、一年ぐらいは借りられるカネがあったとしても、親の承諾が必要になる。親が承諾しなければ、アパートを借りられないということになる。影響をうけるではないか。学生用のクレジットカードだってそうだ。親の承諾が必要になる。影響をうけるではないか。影響は、うける。なんで、「影響をうける必要はない」とか「影響をうけないことは可能だ」ということを言うのだ? それ、まちがってるぞ。嘘を言うな。

*     *     *

きちがいが、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為をするのか、ぜんぜんわかってないなぁ。わかってないやつが、「影響をうけないことは可能だ」と言う。そりゃ、人生のなかで、きちがい家族の影響をうけたことがないのだから、そういう感覚になるのだろう。そりゃ、きちがい家族といっしょに暮らしたことがなければ、きちがい家族にやられたことが一度もないというとになる。自分の人生のなかで「一回もしょうじなかったこと」については、想像するしかない。たしかに、そうだ。想像するしかない。なんてたって、自分の人生のなかで一度も経験したことがないことなのだからな。そして、自分は「一度も影響をけたことがない」ので、「影響をうけないことは可能」だと、思ってしまう。そりゃ、なかったことなのだから、あった場合のことよりも、なかった場合のことを、下地として考えてしまう。下地というのは、「考えの下地」だ。自分の経験になじみやすいことを下地として考えるので、本当は、きちがい家族の影響をうけないことなんて、可能じゃないのに、きちがい家族の影響を実際に受けなかった人は、「影響をうけないことは可能だ」と思ってしまうのである。そんなのは、きちがい家族と、実際に、一緒に暮らしたことがないから、どうしても影響をうけてしまうことがあるといこうとが、わかってないだけだろ。きちがいの意地が、そもそも、わかってないんだよ。きちがいの感覚が、そもそも、わかってないんだよ。きちがい的な意地でやっていることを「やってない」と思っているんだからな。きちがいだから、そういうことが可能なんだよ。常識的な考えで言えば、「そんなことはない」のである。だから、「そんなことはない」という前提で考えてしまう。「考えの下地」というのは、ひとつひとつの前提よりも、もっと大きなひろがりをもった……無意識的な「多数の前提」の集合体だ。「の」の重複は指摘しなくてもいい。

いっしょに住んでいれば、どうしても影響をうけてしまうというところがある

 きちがい兄貴やきちがい親父が、やったことで、俺がへんな人間だと思われるのが、あまりにも多かった。ほかの人には、きちがい兄貴やきちがい親父がいないので、本当は、わかってない。俺が説明をしても、わかってない。わかってないまま、「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言いやがる。そういうことも含めて、ぼくは、きちがい家族にやられていない普通の人間から、誤解をうけている。本当に、きちがい家族が、どれだけの意地で、どれだけこまることをやるか、ぜんぜんわかってないんだよね。普通の人は……。どうしてかというと、自分がきちがい家族に、日常的にやられなかったからだ。自分が、きちがい家族と、日常生活のなかで、接触しなかったからだ。実際に、やられた時間がないのだから、やられた時間について、誤解をする。「ぜんぜんちがうんだ」と言っても、「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言う人は、自分がやられてないから、わからない。しくみがわからない。きちがいのしくみがわかるのかよ。不可避的に影響をうけると言っても、こいつらはわからない。「人のせいにしている」「そんなのは、自己責任だ」と言っている人はわからない。どれだけ、ちゃんと説明をしても「わからない」という点では、なんと、きちがい兄貴やきちがい親父とおなじなのである。似ている。構造が似ているんだよね。わからなければ、そいつのなかでは、そのままだ。

*     *     *

やっぱり、いっしょに住んでいれば、どうしても影響をうけてしまうというところがある。不可避的に、影響をうけるのである。ところが、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人は、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないので、きちがい家族特有の影響というのがわからない。きちがい家族にしかないような部分というのがわからない。きちがい家族にだけにあって、普通の家族にはない部分がわからない。きちがい家族の行動、態度、感覚……全部、きちがい家族と一緒に暮らしたことがない人にはわからない。けど、わからなくても、「判断」はするのである。完全に誤解をしている。

あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。

 まあ、うんと手短に言って、ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつとは、対立することになっている。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがいヘビメタを鳴らしたら、「ヘビメタ騒音で宿題ができないということを認めないやつ」と対立することになっている。

もう、セットなんだよ。

決まっていることなんだよ。

あいつらは、「できない」ということを認めないわけだから。

そして、本当に「できない」わけだから。「宿題をやってこない」ということにかんして、「不愉快な気持ち」になるものと、対立することになっている。

こいつらはこいつらで、実際に、俺の部屋で暮らしているわけではないから、きちがいヘビメタ騒音のすさまじさが、わからない。経験してない。経験的にわからない。

だから、ヘビメタ騒音が終わったあとも、眠れないということがわからない。そりゃ、午後四時から午後一一時一〇分まで、ヘビメタをあびていれば、そういう状態になるのだけど、これも、ぼくと同じ部屋にいて、ぼくとおなじぶんだけヘビメタをあびているわけではないから、ヘビメタを鳴らされたあと、眠れないというのがわからない。

「ヘビメタが鳴りやんでいるのだから、眠れるだろ」と思ってしまう。こいつらは、こいつらで、「眠れない」というとを認めない。自分だって、眠れなくなる。

おなじことをやられたら、自分だって眠れなくなる。

けど、そいつの家には、きちがい家族がいない。きちがい家族がいないから、きちがい家族が、きちがい的な意地でやることの、影響をうけてない。自分の生活のなかで発生しないことだ。だから、経験的にわからない。

わからなければ、「そんなのはどうでもいい」とか「鳴り終わったら眠れるだろ」とかと思うことになる。こいつらにしてみれば、「鳴り終わったあと眠れない」などと「わけのわからないことを言っている」ということになる。

そして、俺に対して、「わけのわからないことを言っているやつ」という気持をいだくようになるのである。

途中から、「眠れない」という話になったけど、その「眠れない時間に、宿題ができるかというと、できないのである。これも、俺ができないと言ったらできないんだよ。俺が、ものすごく努力して、やろうとしたけど、できなかったから、できないと言っているんだよ。一回だけではなくて、何回も何回もできなかったから、「できない」と言っているんだよ。

けど、そういう、「どうしようもな状態」を経験してない人には、それがどういう状態なのかわからない。きちがいヘビメタ騒音を毎日、長時間あびるということは、そういうことなんだよ」と言ったって。経験がない人には、わからない。

経験がない人にとっては、そういうふうに言われたあとも「そんなの、できるだろ」「根性、だせば、できるだろ」「努力をしたくないからそういうふうに言っているだけなんじゃないか」と思うようことなんだよ。

ぼくの感想を言ってしまえば、ぼくにとってのヘビメタ騒音のような音を、あの音のでかさで、家族が、至近距離で、何時間も何時間も鳴らしていたら、そういうふうに言っているやつらだって、できなくなる。

もう、俺にとっては、これも確定事項だ。

もちろん、俺がそういうふうに確信しているだけだ。そういう状態に、そいつらが、おかれなければ、実際のところは、わからない。本人にとって、一番苦手な音が、あの音のでかさでずっと鳴っていたら、俺とおなじような状態になると思うけど、そんなのは、そういうことをやる異常な人間と一緒に暮らしていなければ、人生において生じないことだ。

しょうじないのだから、確かめようがない。

けど、ぼくは、そうなると思っているよ。

けど、そいつらは、「そうならない」と思っているんだよ。これも、確信に近いわけ。だから、「そうなる」と思っている人間と、「そうならない」と思っている人間のあいだには、溝がある。革新における、溝がある。

ならば、その核心について、特に、言及されなくても、確信しているのだから、確信している部分がいろいろな「その他の思考」に影響をあたえる。

ようするに、前提として「そうなる」と思っている人間が考えることと、前提として「そうならない」と思っている人間が考えることは、必然的にちがってくる。

なので、両者の間には、根本的な対立がうまれる。

じゃあ、どうして、この対立が生まれるのかというと、きちがいきちがい兄貴が、よその家では、一分だって鳴らせないような・でかい音で、ヘビメタを鳴らすことにこだわって、そうしたからだ。

これ、俺の人生のなかにでだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、「すべて」を無視して、鳴らすということをしなかったら、しょうじなかったことだ。

2024年3月13日水曜日

現実はちがうので、現実における意味が、まったく、ない。

 「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの法則性がありそうな文について、ちょっと述べておく。「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文は、その人の属性や相手の認知をまったく無視している。だから、現実的ではない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、無職だとする。そうすると、BさんがAさんのことを無職だと認知した場合、Bさんのなかにある無職に対する考え方の総体が、BさんのAさんに対する認知に影響をあたえるのである。

人間として暮らしている以上、そういう、認知の影響なしにAさんを見ることはできないのである。

その場合、Aさんが、どれだけ誠実な人であったとしても、Bさんが「無職者は信用できない」と考えているのであれば、Bさんは、Aさんを信用しないのである。「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文には、Aさんの属性も、Bさんの「属性に対する」考えの総体も、ぜんぜん、出てこない。なので、現実的な話ではないのである。無職だとしても、無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職と、一か月前まで働いていた無職とでは、ちがうと考える人が多いのではないかと思う。「無職」という属性に対する考え方と、無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職という属性に対する考え方と、一か月前まで働いていた無職という属性に対する考え方は、一般にちがうと思う。ようするに、多くの人の頭のなかで、この三つは、おなじものではない。たとえば、Aさんが無職歴一〇年の、まったく働いたことがない無職であった場合のBさんの認知からしょうじるAさんに対する態度と、一か月前まで働いていた無職であった場合のBさんの認知からしょうじるAさんに対する態度は、ちがうのである。さらに、たとえば、Aさんが一か月前まで働いていた企業が超有名な大企業である場合と、Aさんが一か月前まで働いていた企業が零細企業である場合は、また、ちがうのである。さらにまた、Aさんが一か月前まで非正規従業員として働いていたのか、Aさんが一か月前まで正規従業員として働いていたのか、Aさんが一か月前まで、経営者として働いていたのかということは、Bさんの認知に影響をあたえる。こういうことは、Aさんの話のなかに織り込まれていて、Bさんの認知に影響をあたえる。Bさんの認知というのは、「無職」というような大まかな認知ではなくて、もっと細分化された「無職」に対する認知なのだ。だから、「無職」という属性のなかにも、もっと細分化された属性があるということになる。だから、人の行動に影響をあたえる認知が、(対象となる)人全体に対する認知のちがいなのか、詳細化された属性に対する認知のちがいなのかは、わからない。詳細化された属性に対する認知というのは、まあ、経験によって、セットになっている認知なのである。

で、まあ、実際にはだれかがもっている認知セット(偏見)は、だれか他人に関する認知に影響をあたえる。認知に影響をあたえるものは、その人の行動にも影響をあたえる。相手をそういうものだと認知することは、その人の相手に対する行動に影響をあたえる。なので、そういうことをまったく捨象した「Xをすれば、Yになる」というようなタイプの文は、まったく、意味がない。現実はちがうので、現実における意味が、まったく、ない。

2024年3月12日火曜日

フォークギターぐらいの音で聞いてくれたら、そういうこと自体が、そもそも、しょうじてないことなんだよ

 きちがい兄貴にやられると、能力がさがる。なんていうのかな? ヘビメタの音は、勉強時間をうばっただけではなくて、ものすごく、能力がさがるものなんだよ。

そして、簡単にできる宿題ができなくなる。

どうしても、できなくなる。

どれだけがんばってもできなくなる。

きちがいヘビメタ騒音のなかで、教科書や問題集と、にらめっこしていることになる。で、その時間が、ただ単に、「勉強ができない時間」ではなくて、体力や思考力や睡眠力をうばっていく。明るい気持ちをうばっていく。明るい見通しをうばっていく。

ヘビメタで、見通しがないなかで、アファーメーションで、どれだけ「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と叫んでも、ぜんぜん、それは、意味がないわけ。

むしろ、逆効果なんだよね。

ヘビメタ騒音のなかで叫ぶと、怒りと不安が、ピークになるほど、増大する。アファーメーションと言ったけど、言霊と言ってもおなじだ。言霊について、いろいろと書いてきたけど、言霊信者というのは、アファーメーション、プラス、神秘的な力を期待しているわけ。

だから、「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と言っているのに、不安が増大するなんてことは、まったく考えてないわけ。自分の経験から言って、「だいじょうぶだ」「だいじょうぶだ」と言うと、安心して、だいじょうぶだと思えるようになったから、効果があると思っているわけ。

アファーメーションにも効果があるし、アファーメーション・プラス・神秘的な力をもつ言霊は、なおさら、効果があると思っているわけ。

で、そういうふうに思っている人は、きちがいヘビメタが鳴ってない、しずかな部屋で、アファーメーションなり、言霊宣言をしているわけ。しずかな部屋と言っても、ものすごく静かな部屋である必要はないわけ。

ようするに、ぼくの状態で言えば、きちがい兄貴が、まだ、エレキギターを買ってない状態で、ヘビメタに興味がない状態で、フォークギターを部屋で引いているような状態なら、じゅうぶん、しずかな部屋と言えるわけ。きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすために、巨大なオーディオセットを買う前は、普通のステレオで、普通に(当時の歌謡曲)を聴いていたわけだけど、そういうふうに、普通の音で鳴らしてくれるなら、別に、兄貴が自分の部屋で、好きな音楽を聴いていても、よかったわけ。

そういう状態なら……フォークギターを鳴らしたり、普通のステレオを鳴らしている状態なら、特別に静かな部屋ではなくても、いろいろと聞こえる部屋でも、普通の部屋であるわけ。きちがい騒音部屋じゃないわけ。

みんな、ほんとうに、きちがい兄貴が、こだわってこだわってこだわってこだわって、鳴らしたヘビメタの音がわかってない。ヘビメタの音のでかさがわかってない。ちがうんだって言っているのに、フォークギターぐらいの騒音を想定して、ぼくの話を聴くというか、受け流すわけ。

これじゃ、俺が、たいしてうるさくない音に、こだわって、「うるさいうるさい」と言っているみたいじゃないか。ちがうんだよ。けど、まず、ヘビメタ騒音の話をされたということ自体が、不愉快に感じる人もいるわけ。

まあ、自分に関係がない「愚痴」を聴かされたと、強く思う人は、それだけで、不愉快な気持になるわけ。だから、そのとたんにというか、ほぼ同時に、ぼくに対して、「憎悪」の気持ちをいだくわけ。愚痴を聞かされたと思ったあとは、ぼくのことが「不愉快な人間」であるかのように、感じるわけ。

だから、「そんなやつが言うことは、まちがいにちがいがない」とか「そんなのは、お兄さんにしずかにしてと言えばすむ話だろ」と思って、基本的に、怒るわけなんだよ。まあ、すごく怒るわけじゃないけど、小さな怒りは発生するわけ。

で、そういうのも、きちがい兄貴が、こだわってこだわってこだわって、こだわりの音で鳴らさなかったら、しょうじてないんだよ。ヘビメタを聴くにしろ、フォークギターぐらいの音で聞いてくれたら、そういうこと自体が、そもそも、しょうじてないことなんだよ。

そして、たとえば、遅刻をしたとか、宿題を忘れたとか、そういう「ダメなこと」が発生していると、「なんだ、こいつは!!」と思う気持ちが強くなるわけ。

だから、基本的に、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを説明しても、そいつは、ぼくに腹をたてた状態になるわけ。

そういうことの繰り返しで、つかれたよ。きちがい兄貴がやっていることは、フォークギターぐらいの音で、ヘビメタを鳴らすというような、普通のことではないんだよ。

それが、ほかの人にはわからない。

「できない」と言っても、ほかの人は「できるはずだ」と考える。だから、溝がしょうじる。そして、こっちの能力がさがっていれば、そいつは、さらに、「えいりというやつは、本当にダメ人間だな」と思うわけだよ。

そういうふうに、見下げてくるわけ。だから、そういうのがいやだったから、「ヘビメタを鳴らさないでくれ」ときちがい兄貴の部屋に行って、何度も何度も、言うのだけど、きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい親父の感覚で、頭がおかしい人にしかできないような無視をして、やり続けるわけ。

だから、こまるんだよ。

けど、きちがい兄貴は、そんなのは、知らないわけ。どれだけ、言っても、まったくなにも、兄貴にはつたわらないわけ。その「つたわらない状態」というのが、また、きちがい的な状態で、普通の人にはわからないんだよね。

どうしてかというと、普通の人のうちには、きちがい的な状態で、無視する人がいないから。きちがい的な状態で、どれだけ言われても、言われた内容が、まったく理解できない状態になる人が、いないから、わからない。

言葉がわからないわけではないし、知能が低いわけではないのだけど、あたかも、言葉がわからないというような感じで、わからない。

俺が何回言っても、兄貴のほうは、言われた感じがしないのである。

俺が何回言っても、兄貴は、なにも言われてないと思っている状態が続くわけ。

俺が、何百回言っても、兄貴は、ゼロ回しか言われなかったと思っているわけ。

俺が、何百回言っても、兄貴は、一回も言われてないと思っている状態が続くわけ。

これだって、普通のうちの人にはわからないことだ。どうしてかというと、自分のうちにはそんな人がいないからだ。

2024年3月11日月曜日

きちがい家族に、毎日やられたことがないやつが、えらそうなことを言ってくる

 なんで、ぼくだけ……。なんで、ぼくだけ……きちがい家族にやられなければならないんだ。きちがい兄貴の、きちがいヘビメタ騒音。きちがい親父のきちがい行為。

なんで、ぼくだけ。

きちがい家族がいないから、きちがい家族に、毎日やられたことがないやつが、えらそうなことを言ってくる。おまえらなんて、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていたら、六カ月で、廃人だ。ボロボロになって、布団にくるまって、再起不能になっているよ。

ヘビメタが好きなやつだって、自分が聴きたくない時間に、あの大音量でやられたら、頭にくるだろ。まあ、ヘビメタが好きなやつのことはどうでもいい。ヘビメタが好きな人は、なんか自分がきらいな音を思い浮かべてくれ。

まあ、そんなことを言っても、けっきょく、経験がなければ、わからない。みんな、好き勝手なことを言う。みんな、なめてかかってくる。

みんな、きちがい家族にやられたことがないから、被害の大きさがわからずに、俺のことを、なめてかかってくる。

「そんなことを言ったって、あたえられたカードを使って、努力するしかない」

 努力成功論について書いてきたわけだけど、多くの人は、「そんなことを言ったって、あたえられたカードを使って、努力するしかない」というようなことを思っているのではないかと思う。

ようするに、条件の格差はあるけど、しかたがないので、自分にあたえられた条件のなかで、努力するしかないということだ。

それは、それで、いい。そういう対処のしかたを、ぼくは認める。

けど、ぼくが言いたいのは、それでも、「わくぐみ」にかんして、考えるべきだということだ。現実的な対処として、あたえられたカードを最大限に利用して、自分がなるべくしあわせになることを優先して行動する……ということは、重要だ。

けど、そういうことをしているときも、「わくぐみ」に目をむけなければならないのである。「わくぐみ」を無視すると、この「わくぐみ」が維持されてしまう。この「わくぐみ」は、こわさなければならない。

だから、まあ、ぼくが、ほかの人にもとめていることというのは、「わくぐみ」に目をむけることだ。格差がありすぎる「わくぐみ」はよくないのである。

そのなかで、努力をすると、自分の首をしめて、他人の首をしめることになってしまうのである。そういう「わくぐみ」がある。

ところが、自己責任論者は、他人の責任を追及するのである

 いろいろなことが、つみかさなって、いま、背中がめちゃくちゃに、かゆくて、いたい状態ができあがっているんだよなぁ。これ、ぼくのほうに、落ち度はないのである。通常、考えられる落ち度はない。

これ、ほんとうに、他人が勝手に動いて、あるいは、他人が頑固に動いて、そうなっている。連鎖があるんだよな。

たしかに、俺は食い止められなかったけど、最大限の努力をした。最大限の努力の結果がこれじゃあなぁ。最後のネズミが強烈に問題なんだよな。最後のネズミの影響を、大きく受けている。最後のネズミに到達するまでの連鎖。これ、普通の家だったら、絶対にないことなんだよな。

ともかく、背中がいたがゆくて、いらいらする。破滅的な気分になる。連鎖を考えると、発狂しそうになる。

まあ、こういうことを書くと、「自己責任、自己責任」とはやしたてるやつが発生する。

こいつらは、自分が、自己責任、自己責任とあおって、不幸な他人を不愉快にした責任を、いつ感じるのだろう。こういうことにかんしては、自己責任を感じないんだろうな。

けど、言っておく。そういうことにこそ、自己責任を感じるべきだ。自分が悪い行いをしたのに、まったく責任を感じないなんておかしい。悪い環境に生まれた人の、自己責任を追及するなんて、悪い行為だ。だれがそういうことをすることを、ゆるされているのか?

こいつらは、常にあおり行為をしているのに、本人は、あおり行為をしているつもりがないやつらだ。生まれながらの条件が悪い人の「責任」を追及するってなんだよ?

それが、いい行為なのか、悪い行為なのか、まったくわからないようになっているんだよな。こいつらには、良心がない。こいつらは、独自の道徳観をもっているのだろう。

けど、その道徳観は、悪い道徳観だ。洗脳されて、そういうことをすることが、いいことだと思っている。まさしく、自分が洗脳されたことに気がついてないわけだけど、自分が洗脳されてしまったということにかんして、「責任」を感じるべきだ。こいつらはみんな、悪い宗教の信者みたいなもんなんだよ。

たとえば、しつこい勧誘をされた人は、不愉快な気持になる。ところが、しつこい勧誘をするほうは、しつこい勧誘が悪いことだとは思ってない。「善行」だと思っている。だから、そういうところに、ズレがあるわけ。

*     *     *

何回も言うけど、不幸な家に生まれれば、不幸な出来事を経験するようになる。不幸な環境のもとに生まれれば不幸な出来事が発生する。不幸な環境をその人が選んだわけじゃない。

ところが、自己責任論者は、その人が不幸な環境を選んだのだと決めつけ、その人のせいにしてしまうのだ。自分のせいだと言うのであれば……すべては自己責任だと言うのであれば……その人が不幸な環境のもとに生まれたのは、まさしく、自己責任論者のせいだということになる。

そりゃ、すべのことが、自分の責任なのだから、自分の責任なんだよ。他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。自己責任論者が、そういうふうに言っている。

すべては、自分の責任だと言っているだろ。不幸な事故が起こったら、自己責任論者の責任だ。すべては、自己責任論者の責任だから、すべての出来事に対して、自己責任論者は、責任がある。そういうふうに自分で言っているのだから、そうだ。

ところが、自己責任論者は、他人の責任を追及するのである。

他人が不可避的に不幸になったら、その他人のせいだと言うのである。

いや、自己責任論者のせいだろう。自己責任論者が「すべては、自分の責任だ」と言っているのだから、もちろん、その他人が不幸なのは、自己責任論者の責任だ。

自己責任論者は、あらゆる意味で、他人の責任を追及してはいけないのである。

ところが、不幸な人がいれば、不幸なのは、その人のせいだと、なにも知らないのに、決めつけて、その人の責任を追及しはじめる。

自己責任論者にとって、その人は、他人なのだから、他人の責任を追及していることになる。

他人の責任を追及するな。

よく事情がわからないのに、とにもかくにも、不幸な人がいたら、その人が不幸なのは、その人の責任だと決めつけてしまうのである。こういうことにこそ、責任を感じるべきだ。 

*     *     *

しつこい勧誘をされて、不愉快な気持になった人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんに、しつこい勧誘をした人をBさんだとする。自己責任論者というのは、かならず、Bさんの責任を追及することになっている。

「不愉快な思いをしたほう」が悪いということになってしまう。「不愉快な思いをしたほうが、不愉快な思いをせずにすんだはずなのに、不愉快な思いをしたのだから、不愉快な思いをしたほうには、責任がある」と言って、不愉快な思いをしたAさんの、自己責任を追及する。

しつこい勧誘をしたほうの責任は、一切合切問わないのである。

どうしてかというと、しつこい勧誘をしたほうは、しつこい勧誘をすることで、一切合切、不愉快な思いをしてないからだ。

「本人」が不愉快な思いをしたら、不愉快な思いをしたということに、絶対的な責任があると考えるのが、自己責任論者なのだ。

そして、自己責任論者にとって他人である人間の責任を追及しはじめる。

しつこい勧誘をしたBさんが、自己責任論者だとしよう。自分が不愉快な思いをしていないのだから、勧誘をしたということについて、自己責任を感じるわけがない。Bさんは、自分が、Aさんを不愉快な気持にさせたことにかんしては、一切合切、責任を感じないのだ。それなのに、「すべては自己責任」なんて、言っている。

*     *     *

「不愉快な思いをせずにすんだ」ということについて、ちょっとだけ言っておく。

「Aさんが、Bさんの勧誘をさいしょにぴしゃりと断っていれば、Bさんはそれ以上勧誘をしなかったはずだ。それなのに、最初にぴしゃりと断らなかったから、Bさんが勧誘を続けた。Aさんは、防衛できるのに、防衛なかった。だから、Aさんの自己責任だ」というふうに、勝手に、空想的な設定をつくりあげてしまうのである。

勝手に、そういうものだと、設定してしまう。

自己責任論者が勝手に、Aさんには、落ち度があるはずだと勝手に決めつけてしまうのである。

自己責任論者は、「最初にAさんがぴしゃりと断ったのに、それを無視して、Bさんが勧誘をした」という可能性は考えないのだ。

じゃ、ぼくは、作者だからそういうことにしておこう。

Aさんが、最初にぴしゃりと、Bさんの勧誘を断った。だから、その点において、Aさんは、責任をはたしている。ところが、BさんがAさんの言葉をガン無視して、勧誘を続けたのである。

当然、普通に考えれば、しつこい勧誘を続けたのは、Bさんの責任だということになる。Aさんが断ったのに、それを無視したのは、Bさんの責任だということになる。

ところが、無視したほうの責任は問わずに、「無視されないことわり方ができたはずなのにそれをしなかったのが、Aさんだから、Aさんの責任だ」ということになってしまうのである。「無視されないことわり方ができたはずだ」というのも、また、自己責任論者が、頭のなかで、かってにこしらえたものなのである。

勝手に考えついた前提なのである。

自己責任論者は、言霊主義者や努力論者とおなじで、あとだしジャンケンが得意なのである。事実、無視されたなら、無視されたほうの責任だということになってしまう。結果的に、無視されたなら、無視されたほうに、それ相応の責任があると考えてしまうのだ。

「結果的に無視された……自分なら無視されない方法で言うことができたはずだ……実際に無視された人は、無視される方法でいったからダメなんだ」……と自動的に考えてしまうのである。

「結果が、『黒』なら、やれたほうが、適切に回避しなかったから、やられたのだ」……と自動的に考えてしまうのである。

自己責任論者のなかでは、常に、防衛が可能なのである。

その可能な防衛をしなかったAさんの責任だということになってしまう。Bさんが、無視して、やったことなのに、Aさんの責任だということになってしまうのである。その可能な防衛というのは、防衛できなかったという事実(結果)から、自己責任論者が、空想的に考え出したことなのである。ほんとうは、なかみがないことなのである。

防衛できなかったからこそ、自己責任論者のなかで、防衛できたはずのことになってしまうのである。結果を知っている自己責任論者が、そういう結果をうみださなかった可能性について考えて、そういう可能性があったはずだと勝手に思ってしまうのである。

頭のなかで思っているだけだ。

現実世界で起こったことについて、どれだけのことを、(話を聴いただけの)自己責任論者が知っているのかということが問題になる。

自己責任論者が、頭のなかでひっくり返して、「正反対の結果があったはずだ」と思っているだけなのである。

結果から、そういう結果ではない結果について考えて、そういう結果ではない結果を選択できなかったのは、その人のせいだということにしてしまうのである。自己責任論者が、頭のなかで、そういうことにしてしまう。

ほんとうに、人のせいにばかりしている、自己責任論者なのである。


2024年3月10日日曜日

だからなんなんだ

 もう、つかれた。「だからなんなんだ」っていうの……あるからなぁ。「だからなんなんだ」っていうの……あるよ。だからなんなんだ。だからなんなんだ。

もう、つかれたなぁ。つかれたよ。

2024年3月9日土曜日

ときには、霧雨がふるというのと、毎日ずっと二四時間中二四時間、土砂降りの雨だというのは、ちがう

「俺だって苦労した」と言うけど、「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」なんてことを、のんきに言えるような身分なんだよ。そんなこと、言えるわけがないだろ。そういうのんきな考え方を維持できるというのは、たいして、苦労してないということだ。「ぜんぜんちがう」と言ってるのに、本当に、わかってくれないなぁ。「ぜんぜん、ちがう」と言っているだろ。ときには、霧雨が降るというのと、毎日ずっと二四時間中二四時間、土砂降りの雨だというのは、ちがうんだよ。状況がちがう。ともかく、思霊、言霊、引き寄せ、努力論について、説明しはじめる人は、みんな、ヘビメタ騒音級の苦労をしてない。そういうことを、信じていられるということ自体が、ヘビメタ騒音級の(どうしようもない)苦労をしてないということを物語っている。証明している。

そもそも、認知・認識してないことなのだから、記憶には残らない。

 ほんとうに、ひとごとだと思って、無視したり、ものすごい過小評価をして、好き勝手なことを言いやがって。「無理だ」と言っているのに、それを無視して、「無理だと言うから、無理なんだ。できると言えばできる」なんて言いやがって。これは、言霊主義者の反応だけど、言霊主義者じゃなくても、一般人は、そういう反応だったよ。まあ、九五%の一般人ということだけど……。本とんどの人が、そういう反応なんだよな。で、帰ってから、きちがい兄貴ともめる。けど、どれだけもめても、きちがいがきちがいの反応をして、一分間もしずかにしてくれない。きちがいがきちがい構造をとおして、「一分間もしずかにしてやらなかった」ということを、認知・認識しない。そもそも、認知・認識してないことなのだから、記憶には残らない。これは、普通の忘却ではない。普通の記憶障害ではない。最初から、認知・認識してない。最初から、そのことは、認知・認識されてない。きちがい親父とおなじ認知・認識なんだよ。やり方が、全部、いっしょだ。きちがい兄貴が、きちがい親父にやられたら、どんなこまかいことだって、認知・認識して腹をたてるのに、自分が、弟にやったことは、どんなにでかいことだって、認知・認識しないのだ。きちがい親父とおなじやり方で、認知・認識しない。だから、本人にとっては、「記憶にないこと」になっている。けど、ものすごく、意地をはって、それをやるのである。絶対にゆずらないのである。意地をはってそうしたのだから、意地をはってそうしたという記憶があって当然なのに、まったく、まったく、まったく、ないのだ。本人としては、正直に言って「おぼえてない」ということになる。本人のなかでは「そんなのやってない」「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」ということになる。きちがい兄貴のやることが、すべての使える時間を使って、きちがいヘビメタ騒音をでかい音で鳴らすということなのだから、となりの部屋にいる俺は、影響をうけて当然だ。とろが、影響をけてないやつが……きちがい家族がいないからそういう影響をうけてないやつが……「そんなのは、気にしなければいい」ということを言う。「騒音にこだわるからダメなんだ」ということを言う。「俺だって騒音ぐらいある」ということを言う。「俺だって、朝はつらい」ということを言う。言う。言う。言う。けど、ちがうんだよ。

もう、ぼくの人生は、こういうことの、繰り返しだった。ずっとずっとずっと、繰り返しだった。もう、いいよ。

ヘビメタ騒音がはじまってから、ほとんどの他人が、いやな他人になった

 ヘビメタ騒音がはじまってから、ほとんどの他人が、いやな他人になった。これも、不可避的なことだ。すぐに鳴りやまなければ、そうなる。だれたって、そうなる。

ところが、だれも、俺以外、きちがい兄貴のきちがいヘビメタにさらされ続けたことがないので、「だれだってそうなる」という部分がまったくわからない。「だれだってそうなる」という部分がまったくわかってない他人は、ぼくにとって、不愉快な他人なんだよ。

そして、そういう他人は、かならず、不愉快なことを言ってくることになる。

そりゃ、そうだろ。

「だれだってそうなる」ということを理解せずに、「俺なら大丈夫だ」「私なら大丈夫だ」という前提で、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分が思いついたことを言うわけだから、それは、必然的に、俺にとって、不愉快な発言になる。

俺からすれば、相手が、めちゃくちゃに、無理解な、不愉快なことを言ってきたということになる。

そりゃ、三日で、完全に鳴りやむのなら、別だけど。それなら、「よくはある話」ですむけど。

きちがい兄貴が長期間にわたってやったので、そういうことにならない。そういうことではない。「そういうことではない」ということが、普通の人にはわからない。「そういうことではない」ということが、やられてない人には、まったくまったくまったく、わからない。

わからなければ、こっちには、あるヘビメタ騒音の影響を無視して、思ったことを言うことになる。ヘビメタ騒音の影響を無視しているので、ぼくにとっては、無理難題を言われたことになる。

これも、不可避的にしょうじることだ

 みんなには、わからないのだけど、「おしだされるもの」がある。それは、不可避的に押し出されてしまう。睡眠不足が続くと、つかれた体になるのとおなじだ。どれだけ、がんばって、元気を出そうとしても、つかれたからだのままだ。どうしてかというと、きちがいヘビメタが鳴って、睡眠不足が続くからだ。けど、そういうことを、あまえているとか、努力不足だというのだ。けど、そういうのを、自己責任だというのだ。けど、そういうことを言っているやつらには、きちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴がもたらす、騒音を経験してない。なので、自分は、そういうきちがい刺激から守られているのだ。自分は、自分の意志ではなく、睡眠不足になってしまうということがしょうじていない。もちろん、仕事で睡眠不足になったことがあると言うだろう。けど、きちがい家族の、日常的な、騒音による睡眠不足ではない。「仕事で睡眠不足になった」と言えば、みんな、納得するけど、「家族の騒音で睡眠不足になった」と言うと、みんな、納得しない。「仕事をしている」という体裁がある。「仕事をしていたのだ」ということで、体裁をたもてる。面子をたもてる。しかし、「ヘビメタ騒音」だと、体裁をたもてず、面子も、たもてない。これ、世間の態度が「仕事」と「家族の騒音」だとちがうのだ。そして、仕事の場合は、最悪、やめれば、問題が解決する。けど、きちがい兄貴の場合は、殺さないと問題が解決しない。なので、そういうところでも、ちがう。「家族によるヘビメタ騒音」なんて、まったく理解されない。まーーったく、理解されない。そして、経験してないやつが、えらそうなことを言ってくるということになる。どんだけ、えらそうか。「不可避的にそうなる」ということをまったく理解しない発言をくりかえす。くりかえす。くりかえす。きちがいヘビメタが、しょうじると、他人がそういう態度になる。これも、不可避的にしょうじることだ。あの騒音をあびせられて、ちゃんと、夜眠れるなんてことはないんだよ。けど、「夜眠れるということはない」ということが、他人には、経験としてわからない。きちがいヘビメタ騒音相当の騒音にずっとさらされているわけではない。ぜんぜんちがう。たとえば、「眠れない」というときの状態が、ぼくと、普通の人とでは、ぜんぜんちがうのだ。普通の人というのは、「俺だって、仕事で睡眠不足になったことがある」というようことを言う人を含んでいる。この人たちは、質がちがう睡眠不足について、語っている。しかも、質はおなじだという前提で語っているのだ。きちがいが、きちがい行為というブラックホールをつくってしまったために、世間の人全員が、敵になるのだ。世間の人全員が、無理解ぶり発揮して、「質のちがい」を理解せず、つっこんでくる。こんなもの、敵だろ。敵以外のなにものでもない。だから、きちがい家族が、きちがい感覚で、普通の家ではありえないことを、長期間やると、やられたほうと、世間との間に、乖離がしょうじるのだ。そして、それは、やられたほうにだけしょうじるということになる。こんな不公平があるか? 世間のやつらは、「不可避的にそうなる」ということを、無視しやがる。頭がおかしいことを言ってくる。そいつらの基準で、まちがった状態を考えて、無理難題を言ってくる。

2024年3月8日金曜日

「じゅうぶんでない」とか「回数がたりない」とか「熱心さがたりない」とか「こころをこめてない」とか

  「努力したかどうかは、一意には決まらない」ということを書いたけど、これは、重要なことだ。けど、重要なことだと、多くの人は認識しないだろう。特に、「努力をすれば成功する」と思っている人は、ぼくの言っていることを認めないと思う。

問題なのは、最初からセットされているということだ。それこそ、いいわけがセットされているのだ。そして、努力したかどうかが、一意には決まらないのだから、「相手」が失敗したら、「そんなのは、努力したことにならない」と言えばすむ話になっている。

「相手」といういい方を「行為者」といういい方にしよう。

とりあえず、Xをすれば、Yになるという助言を聞いて、その通りにした人を、行為者と呼ぶことにする。行為者は、努力をしても、努力をしたことにならないのである。もし、その行為者が失敗したなら、あるいは、成功しないなら、「努力をしてない」ということになってしまうのである。

あるいは、「じゅうぶんでない」とか「回数がたりない」とか「熱心さがたりない」とか「こころをこめてない」とかというようなことが言われる。この 「じゅうぶんでない」とか「回数がたりない」とか「熱心さがたりない」とか「こころをこめてない」とかというようなことが、最初から、セットになっているのだ。

行為者が、Yにならなかったら、行為者の行動が不適切だから、Yにならないのだということになる……ということが、最初から……まったく見えないけど……「XをすればYになる」という法則性があるような文のなかに含まれている。

もし、Yにならなかったら、「こう言ってやろう」ということが決まっている。

だから、あとだしジャンケンで、どのようにも言えるという要素を残しておくのだ。

ようするに、「XをすればYになる」という文がまちがっていたのではなくて、「行為者が、じつはXをしてないから、Yにならない」ということを言うのだ。

こういう、いいわけを、用意しておくと、「XをすればYになる」という文が正しいということを言うことができるのだ。

しかし、まちがっている。

あとだしジャンケンで、「行為者がXをしなかったから、Yにならない」と言って、法則性がないということを認めない。法則性がないということを認めないようにするために、Xしたかどうかを一意には決められないようにしておくのだ。

行為者がYにならなかったら、「行為者はXをしたことにならない」と言って、行為者をせめれば、「文が正しい」ということを維持できる。こういう、しかけだ。「きたないやり方だな」とぼくは思うけど、ほかの人はそういうふうに思わないようだ。

ムダな時間とは、なにか?

 ほんとう、人生って、なんだ?

ムダな時間とは、なにか?

ある一つの価値観にしたがうと、ある時間がムダな時間だと認識されるわけだ。その価値観がかわってしまえば、そのある時間がムダな時間ではなくて、有益な時間だったと認識されるわけだ。だから、価値観しだいなんだよね。けど、じゃあ、この価値観から、この価値観にかえるべきだと思って、かえるということができるかというと、できない場合が多い。本人の「納得度」が問題になる。ある時間をムダだと認識した価値観は、自分のなかにある、ほかの価値観と連動しているのである。価値観をうみだす、親のような価値観や、親ような価値観をうみだす、祖先のような価値観が重層的に影響をあたえている。

まあ、けっきょく、ツユのような小さな「やる気」をうみだすための長い時間も、有効な休み時間だと思えば、むだな時間ではなくなる。けど、効率は、悪い。けど、効率がいいことをしようとすると、全部、失敗する。これは、もう、やってきたからわかる。結果が出ている。人によって条件がちがうんだよ。長期ヘビメタ騒音がない人には、わからない話だ。からだが、ちがうから、わからない。長期ヘビメタ騒音だけで、ボロボロになっている。長期ヘビメタ騒音のなかでやる気を出してやってきたけど、それが、根本的な「やる気回路」をこわしてしまった。あるいは、「やる気の源泉」をこわしてしまった。なので、だめだ。

ほかの人には、きちがい親父がいないので、まったくわからないのである

  どーするかな? ほんとう、どうするかなぁ? まったく、わからない。どうしていいのか、まったくわからない。いろいろと、不愉快な記憶がおそってくるというのがある。ほんとうに、おそってくる感じだなぁ。愉快な記憶は、おそってこない。まったく、うかばない。最後に、親父がネズミの餌付けをやったことが、破壊的なんだよな。それを起点にして、いろいろと連鎖的なことが起こっている。そのすべてが、ぼくをおいつめるものだった。そして、おいつめられている。いまだって、かゆい。

ほかの人には、きちがい親父がいないので、まったくわからないのである。言えば、魚を出すことをやめてくれる人なんでしょ。ちがうんだよ。ネズミがはいってきたら、食い止めなければならないと思う人なんでしょ。ちがうんだよ。ネズミの糞が増えたら、ネズミの糞をゼロしなければならないと思う人なんでしょ。ちがうんだよ。きちがい親父が、部屋のなかのネズミの糞を無視する態度と、きちがい兄貴が、ヘビメタの音がでかいということを無視する態度が、まーーったく、まーーったく、おなじなのである。どれだけ、こまるか?

2024年3月7日木曜日

そういうレベルのことですら、「過去の出来事」は重要だ

たとえば、六五歳の人が、「年齢なんて関係がない」と思っていたとしよう。

けど、相手がある話では、相手がどう思っているのかということが、重要なことになるのである。本人としては、年齢という条件を無視して、活動しても、相手が年齢という条件を重視しているのであれば、相手の基準で、判断をするわけだから、相手の判断は、実際にしょうじる出来事に影響をあたえる。

たとえば、六五歳の男性であるAさんが、ある企業の従業員募集に、応募したとする。Aさんは、「年齢なんて関係がない」と年齢という条件を無視した。

しかし、相手側の企業における人事担当者が「六〇歳までの男性を希望しているので、六五歳の男性は従業員にはできない」と思っていたとする。

その場合、六五歳の男性は、条件を無視したけど、相手は条件を無視しなかったということが、実際の出来事に影響をあたえる。年齢という条件を無視して応募したけど、採用されなかったという出来事が発生する。

条件は、六五歳の男性であるAさんの気持ちとは関係なく、Aさんが採用されるかどうかという現実の出来事に影響する。だから、Aさんの気持ちだけを考えても、無理だということになる。

ところが、説得者は、説得される側のいろいろな条件を無視してしまうのである。

そして、「条件なんて関係がない」と言ってしまう。

けど、Aさんが、たとえば、六五歳であるということは、Aさんが説得者に話したから、説得者がそういうふうに認識しただけのことなのである。

これは、どういうことかというと、こういうことも、「過去の出来事」が影響をあたえているということになる。

まあ、Aさんが言ったことが真実である場合は、実際に、Aさんの属性が、Aさんが言ったとおりのものであるということになる。

けど、それを(説得者が)知りえたのはどうしてかというと、過去においてそういう情報をAさんが言ったからだということになる。そういうレベルのことですら、「過去の出来事」は重要だ。説得者が、説得するときの判断に影響をあたえているのだから、もちろん、過去の出来事が現在の判断に影響をあたえているということになる。

*     *     *

言霊思考は、その人がその言葉を言ったかどうかだけを問題にするのである。「言った」という条件と、「言わなかった」という条件だけが、現在における「結果」あるいは、未来における結果に影響をあたえるのである。「言ったか言わなかったか」ということだけしか考えない。ほかの条件はすべて、無視する。積極的に、無視する。ほかのどんな条件もないことになっている。

引き寄せ思考は、その人が、引き寄せ行為をしたかどうかということだけを問題にするのである。「引き寄せ行為をした」という条件と、「引き寄せ行為をしなかった」という条件だけが、現在における「結果」あるいは、未来における結果に影響をあたえるのである。「引き寄せ行為をしたか、引き寄せ行為をしなかったか」ということだけしか考えない。ほかの条件はすべて、無視する。積極的に、無視する。ほかのどんな条件もないことになっている。

「努力をすれば成功する」という思考は、「努力をしたか」どうかだけを問題にするのである。「努力をした」という条件と、「努力をしなかった」という条件だけが、現在における「結果」あるいは、未来における結果に影響をあたえるのである。「努力をしたか努力をしなかったか」ということだけしか考えない。ほかの条件はすべて、無視する。積極的に、無視する。ほかのどんな条件もないことになっている。

ところが、ある人は、ある人の条件をかかえている。言霊主義者が無視しても、引き寄せ主義者が無視しても、努力成功主義者が無視しても、条件が成り立っている。もう、無数の条件が成り立っていると言っても過言ではない。

無数の条件のうち、重要な条件がいくつかある。

そして、無数の条件のうち、相手が重視する条件がいくつかある。

相手が重視する条件は、「本人」が無視しても、現実の出来事に影響をあたえるのである。言霊主義者が無視しても、引き寄せ主義者が無視しても、努力成功主義者が無視しても、本人がかかえている条件が、本人における「現実の出来事」に影響をあたえる。

この(本人がもっている)現実感覚を、言霊主義者、引き寄せ主義者、努力成功主義者は、一時的にマヒさせる。本人の現実的な感覚をマヒさせて、それぞれの条件だけが、現実の出来事に影響をあたえると言い切るのである。こういう人たちは、ある種の詐欺的な説明で、人をだましている。

いやな気持で、自転車、こいでたなぁ。

いやな気持で、自転車、こいでたなぁ。いやな気持で、歩ていたなぁ。

もう、風景がヘビメタ騒音なんだよ。

どんだけ、ヘビメタ騒音のことで、こころが重いかわからない。

これ、ヘビメタ騒音が空想のものでしかない人にとっては、「それでも、気持ちを取り直して、がんばればいい」と軽く言えることなのだけど、ちがうんだよね。

毎日、あのきちがい的な態度、あのきちがい的な感覚で、鳴らされる。殺さないと排除できない。きちがいだから、自分のきちがい行為が、相手にあたえる影響というのをまったく考えてない。

言われなかったから、気がつかないのではなくて、三万回、四万回、言われたって、気がつかないんだよ。一回も言われなかった状態で、こだわりの音を鳴らす。どれだけ、もめたって、「言われなかった」設定で、鳴らしやがる。

きちがいだから、可能なことなんだよ。兄貴が、親父タイプのきちがいだから、可能なことなんだよ。

本当に、「やったって、やったことになってない」のだ。それが、毎日毎日、続く。毎回、毎回、続く。はじまってから、三カ月で、ズタボロになっているのに、一日も鳴らしてない設定で、うちのきちがい家族が、きちがいヘビメタを鳴らしまくる。

みんな、空想のなかで「気持ちを取り直して、さっとやる」というようなことを考えるけど、気持ちを取り直したって、もうすでに、きちがいヘビメタをあびているし……その日のぶん……あびているし……それまでの、きちがいヘビメタの積み重ねがあるから……からだが思うように動かない。

みんな、ヘビメタ騒音とデートなんて関係がないと思っているけど、関係があるんだよ。

ヘビメタが鳴り始めた日から、うまくいかない。すべてが、ピンチなんだよね。

 ともかく、ヘビメタが鳴り始めた日から、うまくいかない。すべてが、ピンチなんだよね。すべてがうまくいかない。うまくいかなくなる圧力がかがる。他人の反応なんて、ここに書いてきたようなものばかりだから、ヘビメタ騒音そのもので、ものすごく不愉快な気持になり、ヘビメタ騒音の結果しょうじたいろいろなことにかんする他人の反応で、ものすごく不愉快な気持になる。もう、そういうふうに、最初から、できあがっている。きちがい兄貴は「無視して」鳴らすべきではなかった。無視して、毎日毎日、何時間も何時間も鳴っていると、「やりようがない」のである。で、この「やりようがない」ということだって、実際に鳴らされているぼくにしか、どういうふうに「やりようがない」のか、わからないのだ。他人には……実際には……ぼくとおなじように……鳴らされていない……他人には、まったくわからないことだ。だから、他人は、他人の常識と、他人の判断で、「やりようがある」ようなことを言う。それがまた、不愉快だ。それがまた、不愉快だ。不愉快な出来事なのである。不愉快な出来事なんだよ。

毒ガスのなかで、からだがうまく動かないような状態でずっと暮らしてきた。毒ガスのなかで、睡眠不足のまま、動かないからだを、無理やり動かすように暮らしてきた。けど、それが、また、次の「悪い状態」をうみだすのだ。だから、時間の経過とともに、きつくなる。よくならない。からだが騒音になれるというようなことを言うやつもいた。なぐりたくなる。なぐると、また、不愉快なトラブルがしょうじるからなぐらないけど、なぐりたくなるような発言にはかわりがない。

全部が、ピンチなんだよね。きちがいヘビメタ騒音を、きちがい兄貴が鳴らし始めた日から、ずっとずっとずっと、何十年も毎日、ずっとずっとずっと、すべてが、ピンチだ。不愉快だ。楽しくない。トラブル続きで、つかれはてる。その上に、きちがい親父が、きちがい行為で、さらにトラブルをのせるのだ。きちがい兄貴ときちがい親父のやり方はおなじだ。そして、きちがい兄貴ときちがい親父の認知のしかたがおなじだ。絶対に認めない。きちがい兄貴がやっていることで、くるしいんだよ。きちがい親父がやっていることでくるしいんだよ。これ、どれだけ言っても、こいつらが認めない。こいつらのきちがい回路で、認めない。認めなかったら、どれだけやったって、やってないことになっているんだよ。こいつらの頭の中でそうなんだよ。どれだけ言っても、通じないんだよ。よそのやつらは、それも、俺の自己責任だというのだ。しかも、本人は、これまた、道徳的な発言をしていると思っているのだ。正しい発言をしていると思っているのだ。こういうことが、二重、三重、四重、五重、六重、七重にかさなってくるしかったのが、ぼくの人生だ。ほかの人には、きちがい兄貴がいない。ほかの人のうちには、きちがい兄貴がいない。ほかの人には、きちがい親父がいない。ほかの人のうちには、きちがい親父がいない。ぜんぜん、ちがう。けど、「俺だって苦労した」のひとことで、その差が打ち消される。もちろん、本当は、打ち消されたわけではない。差がないことになったわけではない。現実世界で、差がないことになったわけじゃない。ところが、そいつの脳みそのなかでは、差がないことになってしまうのである。だから、これまた、実際に、しょうじたことによって、くるしくなっているのに、「くるしくなると思うから、くるしくなる」などということを、こういうやつらは、言い出す。全部が全部、こういうことになってしまう。きちがい家族にやられたら、きちがい家族にやられたことがない人が、勘違いして、勘違い発言をしてくるようになる。ところが、その、ノーマルな他人は、やはり、きちがい兄貴のように、きちがいヘビメタ騒音の効果(ものすごく悪い影響)を無視するし、きちがい親父のように、きちがい親父の、きちがい的な行動の結果しょうじる、ものすごく悪い影響を無視する。無視して、まちがった発言をする。

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ほんとうに、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通に言えばわかってくれる、普通の兄貴だったらよかったのに……。きちがい兄貴が意地をはって、よその家では一分だって鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを鳴らすから、こっちは、その影響で、いろいろなことができなくなるんだよ。つかれはてて、体調が悪い状態のまま、一日をすごすことになるんだよ。けど、きちがい家族がいないから、そういう騒音を聞かされない人たちは、普通に暮らしているのである。俺だって、きちがい兄貴が、普通の音で鳴らしているうちは、家で宿題ができた。だから、できるのである。けど、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがい的な音のでかさで鳴らすようになってから、宿題ができなくなってしまったのである。だれだけ、踏ん張っても、どれだけがんばっても、宿題ができなくなってしまったのである。けど、それを、ほかの人たちはわからないから、「宿題をやりたくないから、きちがいヘビメタ騒音で宿題ができないなどと、いいわけをしているだけなんだ」と考えるのである。そして、「楽しいと言えば楽しくなる」というような言霊的なことを言うのである。これが、こたえた。これも、こたえた。

 


「過去は関係がある」し「条件は関係がある」のである。

たとえば、属性というのは、現在の属性だけど、その属性の値は、過去の影響をうけたものになる。だから、過去を無視すれば、現在の属性が消えるのかというと消えない。

けど、詐欺的な説明のなかで、あたかも、本人が、過去を無視すれば、属性を無視することが可能だということを言ったりする。

詐欺なんだよ。

たとえば、本人が、六五歳なら、属性は、六五歳だ。六五年間生きてきたという過去の事実があるから、今現在の属性が、六五歳になる。六五歳の人が、婚活をするとする。その場合、六五歳というのは、『条件』になる。ひとつの条件だ。

それは、本人が無視しても、他人は無視しない。

たとえば、婚活パーティーに出たいとする。けど、婚活パーティーには、年齢制限がある場合が多い。その場合、年齢で落とされる。本人が、自分の年齢という属性を無視しようとしても、他人がその人の年齢という属性を重視しているのなら、本人が、どれだけ、年齢という属性を無視しようと思っても、現実的には、年齢という属性を無視することができないということになる。

そういうことについて、本人が、どれだけ、過去の積み重ねである現在の属性を無視しようとしても、他人が無視しないのだから、条件として成り立ってしまう。

ようするに、本人の属性を気にしているのは、本人だけではない。他人や他人の集合も、本人の属性を気にしている。

なので、何回も言うけど、過去の積み重ねによってしょうじた現在の属性が、条件になる。本人が条件を無視しても、無効化されない。

けど、説得をしたい人は「過去なんて関係がない」「条件なんて関係がない」と言って、説得をしようとする。

とりあえず、説得をする人を、説得者と呼んでおくことにする。

説得者だって、過去を重視して、過去の出来事を考えて、現在のことを判断しているのである。普段の生活においては、説得者だって「過去は関係がある」「条件は関係がある」と思って、生活しているのである。

けど、説得をしようと思うと「過去は関係がない」「条件なんて関係がない」と言い出す。これ、説得者本人が意識してないだけで、相当に矛盾がある行為なのである。一貫性はない。

六五歳の婚活パーティーの話だと、説得者がどうして、説得しようと思っているのかわからないと思う。

たとえば、三四歳の男性ニートがいたとする。その男性ニートを労働市場に送り込みたいと思っている人がいたとする。その労働市場に送り込みたいと思っている人のことを、説得者と呼ぶことにする。

説得者は、なんとかして、その三四歳の男性ニートに仕事をさせたいと思っている。そいういう、意図がある場合は、「過去は関係がない」「条件なんて関係がない」と説得したくなるのである。

けど、この場合も、説得者のほうは、その人(そのニートの人)が、男性であり、三四才であるということを認識して、そういうふうに言っているわけだから、もちろん……説得者も……本当は……過去を重視している。

男性という属性は、受精するときに決まったのである。過去の出来事が現在に影響をあたえている。

三四歳であるということは、三四年前に生まれて、三四年間生きてきたという過去の出来事が影響をあたえている。

「過去は関係がある」し「条件は関係がある」のである。説得者だけが、説得したい場面で、「過去は関係がない」「条件なんて関係がない」と言っているだけなのである。説得のためのトリックが成り立っている。まちがった前提に立って、まちがったことを言っている。

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「可能性がある」ということと、「条件は関係がない」ということは、ちがうことなのに、こういうことも、ごっちゃにして言っているんだよね。これ、相当に妄想的なまちがった発言なのだけど、説得者は、気にしてない。 

たとえば、全女性のなかで、六五歳の男性と結婚したいと思っている人が一〇%いたとする。

その場合、九〇%の女性は、その男性が六五歳の男性であるということを重視して、その男性と結婚をするということについては、まったく考えないということになる。

一〇%女性も、その男性が六五歳の男性であるということを重視して、とりあえず、結婚する可能性があると思ったとしよう。

その場合、六五歳の男性でも、結婚できる可能性はあるということになる。

けど、これは、『条件は関係がない』ということではない。年齢という条件が、影響をあたえている。年齢という条件は、結婚できるかどうかということに影響をあたえている。可能はあるけど、条件が影響をあたえてないということではない。

属性が条件になり、条件が影響をあたえている。

属性の値は、その男性が六五年前に生まれたという過去の出来事によって決まっている。また、属性の値は、その男性が六五年間、死なずに生きてきたという過去の出来事によって決まっている。他人……この場合は、女性が、その属性の値をどのように評価するかということが、男性の結婚についての条件になる。

その男性が、『自分は六五歳だけど、そんなのは、関係がない』と思っていても、評価をする女性のほうが、年齢を重視するのであれば、その男性は、全女性の考え方を書き換えることができないのだから、女性の評価は、男性が結婚できるかどうかということに影響をあたえる。

結婚できる可能性はあるけど、結婚できる確率は低い。

可能であるということは、「過去は関係がない」ということを意味していない。可能であるということは、「条件は関係がない」ということを意味していない。

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属性と書いてきたけど、本当は、属性の値と書くべきところがある。けど、そういうふうに書くと、ややこしくなるので、属性と書いておいた。たとえば、年齢という属性の値が、六五歳なのである。性別という属性の値が、男性であったり、女性であったりするわけだ。だから、属性の値と書いたほうが正確なのだけど、じゃあ、それは、属性ではないのかというと、属性だと考えることができるのだ。女性という属性、男性という属性、六五歳という属性……。そういう言い方でもいい。


2024年3月6日水曜日

俺だけ、レベルダウンな件

俺だけレベルアップな件じゃなくて、俺だけ、レベルダウンな件になってしまう。きちがいヘビメタ騒音で、俺が、どれだけ、レベルダウンしているか、みんなわかってない。

そして、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴のやり方で、ヘビメタを鳴らすなら、不可避的にレベルダウンするしかないということが、みんなわかってない。

どれだけ、努力しても、レベルダウンしていく。

どれだけ、気を取り直してやってみても、けっきょく、きちがいヘビメタのマイナス効果のほうが、ずっとずっとでかいので、失敗する。うまくいかない。

たとえば、レベルダウンをとめることができない。

どれだけ、気を取り直してがんばってみても、レベルダウンがとまらない。そのうち、器質的な変化がはじまって、不可逆的な効果がしょうじる。この効果が、マイナスの効果なのだ。

ようするに、どれだけがんばってみても、器質的にレベルダウンしていくことが決まっている。器質的にということは、ようするに、そのあとも続くということだ。ストレスをもたらす、刺激がさったあとも、その症状が続くということだ。

2024年3月5日火曜日

「努力をする」というのは、じつは、一意に決まるものではない

  努力についてちょっとだけ書いておく。これはもう、以前、書いたはずなので、軽く概要だけ書いておく。まず、「努力をする」というのは、じつは、一意に決まるものではない。これ、なにか、努力をするということが、一意に決まるものだと思っている人がいるかもしれないけど、これは、一意には決まらない。本人が「こういう行動をしているから、自分は努力している」と考えることはできる。しかし、それは、本人が「努力をしている」と思っているだけだ。他人がどう考えるかは、わからない。たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、自分は、こういう行動をしているから、自分は努力していると思っているとする。けど、そういうAさんのすがたを見て、Bさんが、Aさんは努力してないと思った場合、Bさんのなかでは、Aさんは努力をしてないということになる。Bさんは、Aさんの努力がじゅうぶんではないと感じている場合は、「Aさんは、じゅうぶんな努力をしてない」と思うわけだ。Aさんが、ある資格試験に向けて、勉強をしているとする。勉強をしているので、努力していると思うかもしれない。けど、Bさんは、Aさんが勉強しているとは思うけど、じゅうぶんな努力をしてないと思うかもしれないのだ。あるいは、「じゅうぶんな」という部分をとって「努力をしてない」と思うかもしれないのだ。「そんなのは、努力のうちに、入らない」とBさんが、Aさんの行動について思うなら、Bさんのなかでは、Aさんは、努力をしている人ではないのである。だから、勉強をするということは、まあ、いちおう、客観的に勉強しているなら、勉強しているということにしておこう。これも、本当は、努力の場合とおなじことが成り立っているかもしれないけど、いちおう、今回は、客観的に勉強しているなら、勉強しているということにしておこう。なにを「努力」として認識するかによって、努力しているか、努力していないかが、主観的に決まってしまうのである。あくまでも、主観的に決まっているだけで、客観的には、努力しているか、努力してないのかは、決まっていない。ある人が主観的に努力していると思っている場合でも、その、ある人以外の人が、ある人は努力していないと思っている場合があるので、努力をしているかどうかは、一意には決まらない。

そして、『自分が好きで、やっていることは、努力をしていることになるのかどうか』という問題が、よこたわっている。これ、じつは、人によって感じ方がちがうのである。自分がやりたくて、やっていることは、努力なのだろうか、努力ではないのだろうか。ぼくの考えだと、自分が好きでやっている場合は、努力をしていることにならないと思う。どうしてかというと、好きでやっているからだ。「やりたいから、やっている」という場合、努力をしていることになるのだろうかというと、努力をしていることにはならないだろうと思う。努力をするというのは、なにか、自分が抵抗を感じることを、「つとめて」やることなのである……。ぼくのなかではそうだ。自分がやりたくてやりたくてしかたがないことをやっているときに、努力をしていることになるか? ぼくの感覚で言うと、ならない。そうすると、楽しいからやる……という場合は、努力をしているわけではないと、ぼくは感じてしまう。こどもがかわいいから、こどもをかわいがる……。こどもが、かわいいとは思わないのだけど、つとめて、こどもをかわいがるようにする。たんに、こどもがかわいいから、子供をかわいがっている場合は、努力をしているわけではなくて、こどもがかわいいとは思えないのに、その思いにあがなって、こどもをかわいがろうとする場合は、かわいがる努力をするということになる。なにか「やりたくない部分」があるのに、自分を説得して、無理やり、その行為をしている場合は、努力をしていると(本人が)感じるのである。他人から見て、……他人が見ているかどうかはわからないのだけど、他人が見て、ある人が、こどもをかわいがっているように見えるか、あるいは、ある人が、こどもをかわいがる努力をしているのかということは、別の問題だ。

たとえば、C君とD君がいたとする。C君は、D君と遊ぶのが楽しいから、D君と遊びたいと思って、D君とよく遊んでいる。楽しいから、遊んでいるだけだ。D君と遊ぶ努力を、C君がしているようには、見えない。あくまでも、ぼくから見ると、C君がD君と遊ぶ努力をしているようには見えないということだ。けど、C君が、D君のことがあんまり好きではなくて、D君と遊びたくないのだけど、しかたがなく、遊んでいるとする。なにか、D君と遊んでやらなければならない理由があって、D君としかたがなく、(他人から見ればあそんでいるような行為をしている)とする。その場合は、C君は、D君と遊ぶ努力をしているということになる。なにか、やりたくない気持ちがあるのだけど、それを、無視して、そうするから、努力をしているということになる……。本当は、D君と遊びたくないけど、遊ぶ……という場合は、努力をしているというとになり、本当にD君と遊びたいから、遊ぶという場合は、遊ぶ努力をしているということにはならない。これも、ぼくがそういうふうに思っているだけかもしれない。けど、どうも、「努力をする」という場合は、「なにかやりたくない要素がある」のに「ほかの利益を考えて」あるいは「そうする義務があると感じているので」そうするというニュアンスがあるように思えるのである。

たとえば、自分が知りたいことを調べているとする。自分が知りたいことを知りたいので、調べているとき、自分が努力をしていると思うのかどうか? ぼくの場合は、自分が知りたいことを、調べているときは、特に努力をしているわけではないと思う。どうしてかというと、「やりたくない部分」がないからだ。知りたいから、調べている……。知りたい人が、知りたいことを調べているとき、本当に、努力していると思うのだろうか。自分の知りたいことを、自分が調べているときの様子を、他人が見たとする。他人は、「ぼく(自分)が、勉強をしている」と思うかもしれない。あるいは、他人は「ぼく(自分)が努力をしている」と思うかもしれない。けど、すくなくても、ぼくは、自分が知りたいことを調べているとき、努力をしているという感じはない。本当にやりたいことを、そのことがやりたいからという理由で、やっている場合は、努力をしていることにならないのではないかと、思うのである。なにか、ほかの理由があって、つとめてやっている場合は、努力をしているということになる。それをやりたいという理由だけで、やっているのか、それをやりたいという理由以外にほかの理由があって、それをやっているのか、そんなのは、外から見て、わかることではない。主観的には、わかることだ。「そうするべきだ」と思っているから、「やりたくないと感じる要素があるけど」やる……という場合は、本人は主観的に自分ば努力していると感じるだろう。けど、それは、他人から見て、(本人であるその人が)努力をしているように見えるかどうかとは、関係がない。まったく関係がない。

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「努力をすれば成功する」というような言葉の場合も、ぼくがここで書いたような「努力をする」ということが一意には決まらないということが、成り立っている。「努力をすれば、成功する」……これを、命題として真であるように見せかける場合、成功しなかった人は、努力をしてないということにすればよいのだ。「そんなのは、努力をしたうちに入らない」と他人が言えば、他人から見たら、その人は努力しなかったことになる。「じゅうぶんな努力をしなかったから、成功しなかった」ということにすれば、あたかも、「努力をすれば成功する」というような言葉が正しいような印象をあたえることができる。あとだしでそれをやれば、あたかも法則性があるような印象をあたえることができる。本当は、法則性なんてない。ある人が、努力をしたにもかかわらず、成功しなかったとする。その場合、「努力をすれば成功する」ということを信じている人は、ある人が、努力をしなかったことにしてしまえばよいのである。結果が出たあと、「努力をしたかどうか」を決めれば、常に、あたっているということになる。見せかけの法則性……。詐欺的なやり方……。

説明したらわかってくれるか? そんなことは、ない。

  いろいろと、つまらないんだよねーー。まあ、ダニという特殊事情があるのだけど……。これは、親父がネズミを導入するまで、考えもしなかったことだ。

思ってなかったことが現実化した。なので、明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こるというのは、まちがっている。法則性がないのに、法則性があるようなことを言うな。そして、たとえば、親父や世間の人は、俺が思った通りには動かない。言えば言ったとおりになるのであれば、「親父がネズミのことを気にして、ねずみ対策工事をする」と言えば、そうしたのである。けど、そんなことはなかった。だいたい、魚を一日に二三(にじゅうさん)時間、テーブルの上に出すことにこだわるなんておかしい。「親父は、魚をテーブルの上に出しておくことにこだわらずに、焼いたらすぐに食べてくれる」と言えば、すぐに食べてくれるはずなのである。だいたい、親父がネズミを餌付けしたのに、ねずみ対策工事をさせないというのがおかしいだろ。もうひとつ、言っておくと、きちがい親父の「魚」に対する態度と、きちがい兄貴の「ヘビメタ」に対する態度がおなじなのである。これについて、言霊的な解決方法が有効だったかというと、ぜんぜん、有効ではなかった。そういうきちがい的な性格がなおると言えば、なおるはずなのである。けど、なおらなかった。だいたい、「言えば、言ったとおりになる」と言っているのに、「他人はかえられない」と言うのが、おかしい。この矛盾に、気がつかないんだよなーー。言霊主義者であって、なんでもうけとめ主義者である人は……。これだって、おかしい。気がつけよ。言えば言ったとおりになるのだから、人のことだって、かえられるだろ。「Aさんは、こういう性格になる」と言えば、そういう性格になるのである。なんで、「Aさんの性格はかえられないから、自分がかわるしかない」という話になるのか。矛盾しているのが、わからないのかな? まあ、世間の人と、きちがい親父は、ぜんぜんちがう。質がちがう。レベルがちがう。そして、世間の人と、きちがい兄貴も、ぜんぜんちがう。質がちがう。レベルがちがう。なので、世間の人は、きちがい兄貴やきちがい親父のことについて、まったく、まったく、無理解なのである。だから、「言えばわかるだろう」という前提でものを言ってくる。その前提を明言する場合と、明言しない場合があるのだけど、どっちもおなじだ。「お兄さんにちゃんと説明すれば、お兄さんは理解してくれる」「お父さんに、ちゃんと説明すれば、お父さんは理解してくれる」……こんな、現実的ではない前提が、話の前提として成り立っているのである。世間の人は、世間の人で、「いえ」のなかで、くるっている人が、どういうふうにくるっているか、まったく理解しないのである。理解してくれない。これだって、「世間の人は、うちの親父やうちの兄貴の性格について、たちどころに、理解する」とひとこと、言えば、理解してくれるようになるのであれば、ぼくにとって都合がいい。けど、そんなこと、どれだけ言ったって、世間の人は、なかなか、うちの親父やうちの兄貴の性格について、理解しない。説明したって、「そんなのへんだ」「そんなのはおかしい」と言って、認めない。「そんなのは、へんだから、そんなことはない」「そんなのは、おかしいから、そんなことはない」「きっとエイリさんが勘違いしているのだろう」「エイリさんの説明能力が低くて、お父さんやお兄さんに、ちゃんと言うことができないのだろう」と思ってしまう。そういうふうに思っているやつは、そういう前提でものを言ってくる。これは、ぼくの能力に疑問をもっているわけで、はっきり言えば、侮辱に相当する。けど、これまた、相手は……そういうふうに言う相手は、『侮辱なんてしない』と思っているのである。そういうごたごたが、しょうじてしまう。きちがい親父が、きちがい親父だと、普通の人が理解しないので、そういうごたごたが、ぼくの身の上にしょうじてしまう。きちがい兄貴が、きちがい兄貴だと、普通の人が理解しないので、そういうごたごたが、ぼくの身の上にしょうじてしまう。普通の人が、普通に、きちがい家族について、誤解をする。きちがい家族のほうがきちがいではなくて、ぼくの説明能力が低いからそうなのだと思ってしまう。きちがい家族にやられた人は、みんな、世間の無理解にさらされることになるのだ。もちろん、きちがい家族はそんなことに、気がつくわけがない。説明したらわかってくれるか? そんなことは、ない。

このふたりがやったことの、ダメージが、大きすぎる

 みんなには、きちがい兄貴がいないから、きちがい兄貴がやることがわからない。どういう態度で、きちがい行為をするかわからない。みんなには、きちがい親父がいないから、きちがい親父がやることがわからない。どういう態度で、きちがい行為をするかわからない。

世の中で一番嫌いな人間が兄貴。世の中で二番目に嫌いな人間が父親。このふたりのやったことがひどすぎる。このふたりがやったことの、ダメージが、大きすぎる。こんなの、普通のだって、やられれば、ダメージをうけるのに、普通の人は、こういう家族に、家族としてやられたことがないから、ダメージのおおきさがわからない。 

自分が人生のなかで、実際に長期間にわたってやられたことがないことなら、「そんなのは、たいしたことがない」と無視できるのである。自分が人生のなかで、実際に長期間にわたってやられたことがないことなら、「過去は関係がない」と無視できるのである。自分が人生のなかで、実際に長期間にわたってやられたことがないことなら、「過去のことは現在に影響をあたえない」と無視できるのである。それは、やられたことの内容と、期間の長さが影響する。だいたい、「過去のことは現在に影響をあたえない」なんて、どれだけのカルト思考か、わかっているのか? これ、カルト思考なんだよ。言霊とおなじように、カルト思考なんだよ。

そういう、カルト妄想的なことを言って、人を傷つける。

ほかの人にはないことだから、ほかの人には、わからない

 これ、ぼくにしかわからないことなのだけど、ヘビメタ騒音のことは、言っても、悪く思われるし、言わなくても、悪く思われる。やられてしまったら、……一日中やられてしまったら……もうそれだけで、他人から悪く言われることが決定している。学校から帰ってからの時間ということを考えると、睡眠時間に割り当てられている時間帯をぬかせば、「いちにちじゅう」鳴らされることになる。そして、休みの日は、睡眠時間に割り当てられている時間帯をぬかせば、それこそ、本当に「いちにちじゅう」鳴らされることになる。そして、その期間が長いと、「騒音」というものについて理解がある人からも、悪く言われることになるのである。ぼくが、悪く言われることになる。これ、きちがい兄貴のきちがい行為によって決定していることなんだよ。ほかの人にはないことだから、ほかの人には、わからない。俺だって実際に、きちがいヘビメタが鳴り始めなかったら、そして、ずっとつづなかったら、こんなことは、わからい。けど、経験をとおして、わかったことがある。わかってしまったことがある。やられてしまったら……毎日やられてしまったら……いい人だろうが、悪い人だろうが……ぼくが、悪く言われるのである。いい人からも、悪い人からも、ぼくが悪く言われるのである。そういうしくみが成り立っている。それは、ようするに、働かない人間がダメ人間だとか、遅刻をする人間がダメ人間だとか、宿題をしない人間がダメ人間だとか、ネガティブなことを言う人間はダメ人間だとか、いいわけ?をする人間は、ダメ人間だとかというような、ちまたにみちあふれた認識も、関係している。この認識と、多くの人にとって、きちがい家族による「いのちのかかった」「しつこい」「がんこな」騒音が、ありえない騒音だということが、関係している。多くの人にとって、人生のなかで発生しない騒音であり、多くの人にとって、人生のなかで発生しない経験なのである。なので、多くの人にとっては、そんなの、どうでもいいことであり、経験上知りえないことなので、経験的にわかる障害部分がわからないということになる。

みんな、そういうふうに言うのである。こんなのない。

 よその家の人には、きちがい家族がいない。きちがい家族が、ある日、思いついてやったことについて、やられたほうが責任があると考えてしまうのだ。きちがい家族を、注意してかえられると思っているのだ。きちがい家族の考えをかえられなかったら、かえられなかったほうの責任だというのだ。きちがい家族の・脳みそを、かえられなかったら、きちがい家族の脳みそをかえられなかったやつの責任だというのだ。自分だって、きちがい家族の脳みそを「かえられない」のに、きちがい家族にやられたやつになにかを言う場合は、それが、前提になっている。きちがい家族の行動をかえられなかったやつが、だめなんだ……。これが、前提になっていることを言う。こんなの、ない。こいつらが、きちがい家族にやられないのは、きちがい家族と一緒に住んでいないからなのである。こいつらが、きちがい家族の脳みそをかえられると思っているのは、きちがい家族と一緒に住んでいないからなのである。きちがい家族の脳みそ、かえられないのは、残りの家族の責任だと考えて、きちがい家族がやることによってしょうじる……どうしてもしょうじる症状や障害を、きちがい家族にやられたほうの責任だと考えるのだ。そして、きちがい家族にやられたほうに、(自分はきちがい家族にやられたことがないからという理由で)(あたかも、自分だったらきちがい家族の脳みそをかえられるという前提で)ものを言う。こんなの、ない。けど、きちがい家族にたたられてない人は、みんな、そういうふうに言うのである。こんなのない。ほんとうは、そういうふうに言っている「みんな」だって、きちがい家族の脳みそをかえられるわけではないのだ。

2024年3月4日月曜日

楽しく感じる回路を、やられた。ヤキキラレタ

 あーー。つまんない。つまーーんない。まあ、感情、かれたわぁ。いろいろとあって、「楽しめなくなった」。どういうことかいうと、楽しい感情がわいてこないのだ。楽しい気分にならない。根本的なところで、楽しく感じる回路を、やられた。ヤキキラレタ、みたい。どうにもならないんだわ。これ。

普通に「テレビの音がうるさい」とかそういうレベルの音じゃないんだよ。

  まあ、基本的にさぁ……。いろいろとあって……。頭が、もやもやになっている。たとえば、ゴミ出しをするときも、風呂に入るときも、基本的に、憂鬱なのである。憂鬱で動きたくないのだけど、それを無理して、動いている。どうしてかというと、さきのばしにすると、やばいからだ。けど、さきのばしにすることがある。これも、意図的に、さきのばしにしているわけではなくて、そのときは動けないので、さきのばしにしたことになってしまう。たとえば、生ごみゴミなら、生ごみの袋が、たまってしまう。これは、やばい。夏でなくてもやばい。うちは、ネズミにねらわれているので、ネズミにねらわれるような原因をつくるべきではない。けど、動けないときはむりなんだね。どうしても、動けないときがある。その……どうしても動けないときに、何年間も毎日、無理やり動いた。これが、いま、動けない理由になっている。学校に通っていたとき、ただ単に学校に通っていたわけではなくて、ヘビメタ騒音をかかえながら……学校に通っていた。この、毎日のヘビメタ騒音が……。この平日も休日も鳴り続ける……ずっとずっと鳴り続けるヘビメタ騒音が、毎日の、気持ちにあたえる影響がでかすぎる。からだの状態にあたえる影響がでかすぎる。けど、これは、毎日、苦手な音が、至近距離で、何時間も何時間もずっと鳴っている状態を経験したことがない人にはわからない。俺だって、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の意地で、ヘビメタを鳴らさなかったら、わからないことだ。ほんとうに、「聞いた話」と「実際の話」がちがいすぎる。軽く思いつくような対策は全部したけど、きちがいがきちがいなので、ぜんぜん、うまくいかない。効果がない。きちがいが、きちがいをやめて、しずかにしてくれないとこまるんだよ。実際に、ずっとずっと、毎日、何時間も何時間も、しずかにしてくれなければ、こまるんだよ。ずっとずっと、毎日、何時間も何時間も、鳴らすにしても、フォークギターや三味線ぐらいの音で鳴らさなければ、こまるんだよ。きちがい兄貴の、きちがいヘビメタは、そんなものじゃない。あきらかに、大きな音なのである。普通の家では、一分間だけでも鳴らせないようなでかい音なのである。それが、きちがい兄貴の、こだわりの音なのである。きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすとなると、絶対に、一分間だって譲らずに、自分の『こだわりの音』で鳴らすから、けっきょくずっと、どんなことがあっても、でかい音で鳴らし続けるということになってしまうのである。みんな、ぼくが、フォークギターや三味線ぐらいの音で、文句を言っていると思っている。宿題ができないといっていると思っている。ぜんぜんちがうんだよ。別次元の騒音なの。それを、同じ次元の騒音だと考えるな。普通に「テレビの音がうるさい」とかそういうレベルの音じゃないんだよ。けど、うちにいないと、それがわからない。実際に、何時間も何時間もあびないと……そういう騒音をあびないと……からだがおかしくならない。からだがおかしくなってない人が、からだがおかしくなってない感覚で、ものを言う。けど、それは、全部、ぼくにとってちがうことなんだよ。

2024年3月3日日曜日

わからなければ、ないようなものなんだよ。

 不可避的に、朝、だるくなるし、だるい体を無理やり動かすときは、果てしなく、憂鬱なのである。だれだって、朝、だるいときはある」ということになるのだけど、ヘビメタ騒音が鳴っている環境で感じる「朝のだるさ」ときちがいヘビメタ騒音が鳴っていない環境で感じる「朝のだるさ」はまったく、まったく、まったく、まったくまったく、ちがうのである。けど、実際に、自分の人生中で、ヘビメタ騒音が鳴らなかった人に、どれだけ、「ちがう」と言っても、ちがいがわからないのである。ほかの人は、自分の経験のなかで「朝のだるさ」について考える。その場合、自分が感じる「朝のだるさ」とエイリさんが感じる「朝のだるさ」はだいたいおなじものだろうと、想像してしまうのである。けど、ちがうのである。根本的にちがう。ぼくだって、きちがいヘビメタ騒音が実際に、なるまでは、きちがいヘビメタ騒音がつみかさなったときの「朝のだるさ」を知らなかった。ぜんぜん、ちがうのである。ぼくは、きちがい親父にやられていたので、ほかの人より、しあわせなわけではない。きちがい親父のことで腹をたててよく眠れないときだってあった。きちがい親父という要素があると、「よその人」とも、もめがちになるのである。ともかく、ぼくは、普通の人より悪い環境で暮らしていた。そのぼくが、ヘビメタ騒音が鳴るまえの朝のだるさと、ヘビメタ騒音が鳴ったあとの朝のだるさがちがうといっているのだ。ようするに、普通の人の朝のだるさというのは、ぼくが、ヘビメタ騒音発生前に、感じた朝のだるさとだいたいおなじだと予想できる。普通の暮らしの中で、感じる「朝のだるさ」とヘビメタ騒音発生後の「朝のだるさ」はちがう。ぜんぜん、ちがう。ぜんぜん、ちがうのだけど、これまた、「ぜんぜんちがう」と言っていも、ほかの人にはわからないということになる。必然的にわからないのだ。どうしてかというと、ほかの人の人生のなかには、ヘビメタ騒音がないから。ヘビメタ騒音相当騒音がないから。ヘビメタ騒音相当騒音というのは、その人におけるヘビメタ騒音に相当した騒音のことだ。たとえば、ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタ騒音は、騒音ではないのである。まあ、自分が鳴らすのではなくて、ほかの人が鳴らすなら、騒音だと感じる場合があるとは思うけど。ともかく、その人にとって、この世で一番嫌いな音が、実際の、きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじ音のでかさで、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さ、鳴ってる場合を、ヘビメタ騒音相当騒音と呼ぶことにした。ほかの人には、ヘビメタ騒音相当騒音がないので、ヘビメタ騒音相当騒音以降の「朝のだるさ」と、ヘビメタ騒音相当騒音以前の「朝のだるさ」のちがいが、わからない。ぜーーぜんちがうのだけど、どれだけ、ぜーーんぜんちがうと(ぼくが言っても)ほかの人には、ぜーーーーんぜん、わからない。わからなければ、ないようなものなんだよ。

 

 

 


 

 

 

 

 

実際に自分が……そういうことを……やられたことがないので、わからない

 態度というものを考えると、きちがい兄貴の態度は、むかつく態度なのである。そりゃ、きちがい的な意地で、こだわってこだわってこだわって、やっているのだけど、本人は「まったくやってないつもり」だからだ。

「やっている」ということは、普通は、言わなくてもわかる。

「でかい音で鳴らしているなら」ほかの人から指摘されなくても、でかい音で鳴らしているということが、耳が正常なら、わかる。言われなくてもわかることが、わからない。どれだけ指摘されてもわからない。

「やってない」つもりのまま、こだわってこだわってこだわって、こだわってこだわってこだわって、毎日毎日、絶対の意地でやって、やめてくれない。

きちがい兄貴のほうは、最初から「やってないつもり」なのである。

そして、どれだけなにを言っても「やってないつもり」がこわれないのである。

そして、「やってないつもりのまま」ずっと、こだわってこだわって、こだわって、こだわりのきちがい的な音で、鳴らすのである。「やっている」。

どこからどう見てもやっている。

ところが、きちがいの頭のなかではちがうのである。普通なら絶対にわかることを無視して、やってしまう。

やられたほうにしてみれば、腹がたつ。この異常な行為に対する、(やられたほうの)異常な腹立ちは、やられた人にしかわからない。

そういうことを、毎日毎日、毎時間毎時間、ふつーーーに、やってしまうきちがいがいる家なんて、めったにない。だから、被害者が少ないのだ。そうなると、ほかの人は、理解しないのである。実際に自分が……そういうことを……やられたことがないので、わからない。

 

 

けど、「うちでは」ごく自然に、そういう態度になって、そうしていた。

 がんばるといったって、どういう状態で「がんばっている」のか、他人はわからない。きちがいヘビメタが鳴っているこの部屋に、いること自体が、ものすごい毒なのだから、きちがいヘビメタが鳴っているこの部屋にいるだけで、「がんばっている」のだ。そして、そのがんばりが、ものすごく悪い状態をうんでしまうのである。これは、不可避的にそうなるのだ。人間のからだをもっていれば、不可避的にそうなる。けど、きちがい兄貴が、ほかの家にはいない。きちがい兄貴とおなじような情熱、こだわりで、きちがいヘビメタを鳴らす人が、ほかの家にはいない。きちがい兄貴とおなじような、感覚器の問題をもっている人間がいない。きちがいお兄貴とおなじような、無意識の問題をもっている人間がいない。いない。いない。いないとどうなるか? そういう人間……そういう家族にやられるということが、わからないということになる。だって、自分の人生にまったく生じなかったことなのだから、わからない。かわりに、きちがい家族ではない人が、ステレオを鳴らしてうるさいという問題がしょうじる。しょうじたとしよう。おなじかというと、おなじではないのだ。きちがいと、きちがいではない人とでは、感じ方がちがう。やり方がちがう。けっきょく、そんなにはでかい音で鳴らさないし、そんなには、長い時間、鳴らさないし、そんなのには、長い期間鳴らさない。無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人なんて、そんなには、いない。だから、そういう人間が家族のなかにいる人も、そんなにはいない。無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人のなかで、自分のこだわりの音にこだわってこだわって、すべての使える時間を使って鳴らす人は、さらに少ない。きちがい親父も無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人なのだけど、きちがい親父の場合は、騒音をでかい音で鳴らし続けることには、こだわりがなかった。ほかのことで、きちがい行為をした。だから、きちがい兄貴とおなじような人間は、無意識に問題があって、自分の感覚器を書き換えてしまう人であって、なおかつ、ヘビメタをでかい音で鳴らすことに特別なこだわりがある人間なのである。さらに、きちがい兄貴にしたって、マンションでは、鳴らせないのである。俺のことさえ無視すれば、鳴らせる環境だった。これもでかい。ここは、でかい幼稚園の敷地がある関係で、鳴らしやすいのだ。ほかの家とも、離れていた。当時はそうだ。きちがい兄貴だって、よそのうち」では鳴らせないのである。うちの人だけしかいないうちであって、なおかつ、うちの人を無視すれば、鳴らせる環境でなければならせないのだ。しかし、別に、きちがい兄貴が、うちと、よそを、使いわけているわけではないのだ。意識的には、まったく使いわけてないつもりだ。けど、きちがい兄貴が15歳なったとき、そういう環境だったのだ。そういう環境だということを、まったく意識してないけど、そういう環境だった。きちがい親父だって、親戚のうちで、普段、うちで行動するように行動するかというと、行動しないのだ。「うちでは」きちがい的な理由で、こどもや妻に、怒りをぶつけて、発狂していたけど、「よそのうち」ではそんなことは、しない。なら、親父が、「意識的に」使いわけて、いたかというと、そうではないのだ。きちがい親父は、まったく、使いわけているつもりがなかった。けど、「うちでは」ごく自然に、そういう態度になって、そうしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。