2022年2月28日月曜日

じつは、ダイヤからツーリングにさそわれたことがある 1

いろいろと、悩んでいる。とどのつまり、楽しくない。モヤモヤした気持ちがある。あとは、これは本格的に説明しなければならないのだけど、海馬と視床下部がおかしくなっているんじゃないかなぁと思っている。騒音という物理刺激でそうなることがあると思う。

ひとことで言えば、気分の落ち込みなんだけど、これが、普通の人の経験している気分の落ち込みとはちがうみたいなのだ。あまりにも、期間が長い。気分の落ち込みというのは、単独では気分の落ち込みなのだけど、感情がうまく動かないということだから、普通の人といっしょにいると、あんまりいいことにならない。

ヘビメタ騒音がなければ、普通に対応できるのだけど、長期騒音で普通に対応できなくなってしまったのだ。どういうことかというと、興味や関心がうすれてしまったために、相手が言うことに同意できなくなってしまうのである。これは、どういうことかというと、たとえば、「ツーリングに行こう」と言われても、興味がない状態で「やりたくないな」「めんどうくさいな」「行きたくないな」と思ってしまうのだ。

きちがいヘビメタがなければ、「おもしろそうだな。よし、行こう」ということになるのだけど、そういう気持ちが、根本的なところで破壊された。頭がモヤモヤするとか、憂鬱とか、気分の落ち込みとかそういうこともあるのだけど、もっと、根本的なところで、興味がなくなっているのだ。もし、きちがいヘビメタが続かなければ、興味を持って、生き生きとやれたことが、やれなくなってしまった。これがでかいのである。でかすぎる。じつは、ダイヤから、「バイクを買ったから、ツリーリングに行こうぜ」と言われたのだ。ぼくは、「ふん」というような態度をとった。「興味がないな」「やりたくないな」「行きたくないな」と、全部のセリフを言わなかったけど、「行きたくない」とは言った。行きたくないのだ。「なんだ、くそ」というような気分になるのだ。それが、ヘビメタ騒音生活の効果だ。負の効果だ。これが、理屈でなく、そうなってしまうのである。ものすごく、くるしいことなのである。佐藤が理解できるようなことではないのである。そりゃ、だれだって「眠たいときはある」「やりたくないことはある」。しかし、そういうことが、そういうレベルではなくなる。「ヘビメタ騒音が毎日、鳴っていた」ということを説明したあと、それでも「人間働くべきだ」「過去のことなんて関係がない」「だれだって、つらい思いをして働いている」「だれだって、起きるのがつらいときはある」「誰だって朝はつらい」というようなことを言う人は、根本的なところがまったくわかってないのだ。

国語で言えば読解力の不足。読解力がまったくない。

これ、どうして、「ちがう」と言っているのに、そういうレベルの「困難」だと思うのだ?? 

自分だってつらい。自分だって困難を感じている。けど、がんばってやっている……。ヘビメタ騒音がないからだろ。「ぜんぜんちがう」と言っているのに、ほんとうに「ぜんぜんちがう」ということを無視してやがる。

おなじだと思っている。おなじだから、「そんな騒音は鳴ってたってたいしたことはない」「鳴り終わったら(もう影響がないから)関係がない」と思ってしまうのだ。「ぜんぜんちがう」と言っているでしょ。ほんとうに、読解力がないな。人の状態がわからないやつだな。ヘビメタ騒音のことを無視するな。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するな。……こいつら、ほんとうに……。こいつら……。

「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言っている人が、今現在、楽しい気持ちでツーリングができるのであれば、ちがうと思う。悪いけど、その人の「つらいこと」はたいしたことじゃないと思う。ほんとうに、水銀や放射能のように不可避的に影響をうける。長い騒音というのは、そういう効果がある。兄貴のヘビメタ騒音の場合、期間的にも長いし、一日のなかの時間も長い。

けど、「長い騒音」と言った場合、期間が長い騒音ということだ。ほんとうに、毒のように効くのである。だから、そういう毒のように効く長い騒音を経験したことがない人が、 「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言うのは「おかどちがい」だと思う。だって、その人は、その発言をするとき、楽しい気分でツーリングに行くことができるのだから。

もし、ぼくとおなじ経験をして、今も苦しんでいる人がいたとして、その人が「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」ということを、「あったとしても、そんなのは影響がなく、楽しい気分でツーリングに行けるはずだ」という文脈で、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言うとは、とても、思えない。

この人らは、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」ということを言う場合、「影響があったとしても、そんなのは、時間がたてばなくなってしまうし、影響をうけないぞと思えば影響をうけないですむ」という前提で、「俺だってつらいことがあった」「だれだって、つらいことはある」と言っている。

その発言をするときは、その「つらいこと」の影響をうけてないのだ。そのつらいことというのは、長期にわたって、感情障害?を引き起こすような「つらいこと」ではなかったということだ。だから、「ちがう」。

 

 


 

 

2022年2月26日土曜日

そういうことが、毎回毎回、発生する。 どんだけ、こまるか!!!

 なにを見ても、わずかに関連した、いやなことを思い出すなぁ。

アイドルの服を見ただけで、掲示板の発言や掲示板の出来事を思い出してしまうとする。で、それが不愉快なことだったりするわけで……。複数の人がかかわっていると、複数の人の気持ちを考えなければならないから、この発言をすると、Aさんが傷つくかもしれないけど、この発言をしないと、Bさんが傷つくかもしれない……というようなことがある。で、めんどうなので、なにも書かなかったのだけど、Bさんがそれに対して不満を書いたんだよなぁ。

なんか、全部、めんどう。そんなの、ずっと忘れていたのに、ぱーって、思い出してしまうんだよなぁ。思い出すな!俺!!

あと、俺に気を使って、先回りして、なんか、他人が「俺に」出した質問に答えてしまうやつがいた。こいつも、やっかいなんだよな。なんか、あらためて答えを書く、気力がなくなる。そいつの回答のほうが、さきなんだよ。俺が見たときには、俺の過去の書き込みに対して、最初に発言した人と、そいつのやりとりが、書いてある。

だから、そいつの書いたことを、否定してまうのもなんだし、否定しないのもなんだし……というような感じになってしまうことがあった。いま考えてみると、書くべきだったんだよな。ちゃんと説明してあげればよかった。

 

しかし、もう、全部が全部、つまんないな。

 

今日見た夢がまた……。これは、父親とのトラブルだ。父親の、こっちに迷惑がかかるきちがい行為。これがこまるんだよ。どれだけ「やめろ」「やめてくれ」と言っても、理解しないでやりきるから……。自分の感情しかないんだよな。

夢のなかで、親父が、壁にあるものをスプレーする(散布する)と言ってきかないんだよ。で、それを散布すると、カビがはえて、ダニが発生するからやめろとぼくが、言うわけ。何回も何回も言うわけ。けど、きちがい親父が、それを無視する。二〇回、理由を述べているのに、「どうしてだ?」って親父が訊いてくる。おかしいだろ。そんなの……。

けど、ほんとうに、こういうことになってしまう。リアルでそうなる……。学校の宿題をやっているときだって、プラモデルをつくっているときだって、自転車の修理をしているときだって、親父がかかわると、全部、そうなるんだよ。こんなのはない。正常な頭をもった人は、「そういうふうにしてやろう」と思ってもできないことだ。

二〇回も、「やめてくれやめてくれ」と言って、そのつど、理由を述べているのに「どうしてだ?」って訊くことなんて、できるはずがないだろ。普通の人だったら、悪意があってもそんなのは、ギャグみたいでできない。やりすぎだと思ってできない。

けど、きちがい親父は、普通にそうする。それから、手短に言って、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らしているときの態度も、きちがい親父のそういう態度とおなじようなところがある。理由は聞いてこないけど、おなじだ。自分の気持ちしかないんだよね。

夢のなかで、なんかの液体を壁に散布したい親父は、なんかの液体を壁に散布するしたいという気持ちがある。そういう気持ちがあると、「やめてくれ」とこっちが言っても、親父はきかない。言うことを、きかない。相手が言ったことを無視してしまうところがある。

普通の人だと、無視しようと思って無視するわけで、相手が言ったことを(今)無視してやったという気持ちがある。認知がある。認識がある。ところが、親父と兄貴はそういう、認知、認識が、ぬけおちている。

だから、やられたほうとしては、ものすごく腹がたつんだよ。そういう認知、認識は、そういう態度をうむわけだから……。どれだけ(こっちが)やめろと言っても、頑固に無視して、強情にやりきってしまう。

けど、本人は「やった」つもりもないし、相手に言われた気持ちもないんだよ。これ、何十回、横でどなっていても、言われたことになってないんだよね。もちろん、聴力があるし、聞こえたからそういう態度をとっている。けど、自分の気持ちしかない状態だから、相手が言ってきたたということを、普通に無視してしまう。 自分の気持ちが張り出している状態で、自分にとって都合が悪いことは、どれだけ言われても、言われたことにならない。

「今現在」都合が悪いことなら、どれだけ言われても、言われたことにならないのである。

で、未来のある時点では、「どれだけ言っても無視してやった」ということ自体が、未来のある時点での「今現在」の自分にとって不都合なことなので、認めないのである。おなじ態度をとって認めない。で、認めなかったという記憶もなくなる。

認知、認識が成り立ってないのだから、そういう記憶ができあがるわけがないだろ。

ようするに、「はねのけている」。

はねのけたら、ぜんぜん関係がないんだよ。はねのけたら、言われなかったことになってしまう。もう、なんか、相手が言っていることを、聞こえてはいるけど、はじく状態になってしまう。

はじく状態になったら、相手がなにを言おうが、何回言おうが、言わなかったということになってしまう。記憶がないことで、関係がないことなのである。関係がないというのは、「自分はやってない」ということにひとしいことなのである。

これも、言いようがないんだよな。ほかの人にこういうことを言っても、わからないんだよな。親父や兄貴の「関係のなさ」というのはひどいんだよ。

発狂的な意地で、頑固にやったことは、全部、自分がやったことじゃなくて、やってないことだというような感じになってしまう。感じになってしまうと書いたけど、「やってない」し「関係もない」と認識している状態とイコールである状態になってしまう。

きちがい的な意地でやったことは、きちがい的な意地で無視するのである。きちがい的な意地でやろうとしていることは、どれだけ相手になにを言われてもやってしまうのだけど、「やったつもり」というのが、ぬけおちている状態になってしまう。

そういうことが、毎回毎回、発生する。

どんだけ、こまるか!!!

これ、佐藤みたいな普通の人に言って、わかるの??

もう、全部がいやだな。

親父も兄貴もこっちがこまることを、きちがい的な意地でやって、やったということを認めない。そういう毎日だ。毎回そうなんだよ。どれだけ言っても、なにもつたわらない状態なんだよ。佐藤(仮名)みたいな普通の人は、そういう家族といっしょに住んでいたわけではない。

だから、わからない。

根本的にわからない。毎日、毎回発生する、こういうことが、どれだけ、全体感情に影響を与えるかわからない。毎日毎日、何回も何回もこういうことが、発生していたら、影響をうけるだろ。不愉快な気持になるだろ。何十年も、そんなことが続いていいわけがない。何十年も毎日そういうことが続いたのに、影響がないなんてことはない。

けど、そういう家族に囲まれて育ったわけではない普通の人だって、トラブルはある。それは、家族がきちがい家族でなければ、正常な人との間にしょうじたトラブルだ。正常な人には感覚のずれがない。いま説明したような感覚のズレがない。認知、認識のズレがない。いま説明したような、認知認識のズレがない。

だから、そもそも、体験していることがちがうのである。だれだってトラブルはある。だれだって腹がたつことはある。だれだって、いやなことはある……。家族間のトラブルというのはある……。

けど、その相手の家族というのは、親父や兄貴みたいにくるっているやつなのかどうかということだ。そういう人間と、いしっょにすんだことがある人が、ぼくの言っていることを、否定するとは思えない。

「そんなことはあるはずがない」と言うはずがないのだ。「そんなことはあるはずがない」「そんなのはおかしい」という発言をした人は……ぼくの説明を聞いて、そういうたぐいの発言をした人は、その人が、うちの兄貴や、うちの親父のような家族に、こかまれて、育ってきたわけではない。

そりゃ、そういう家族にかこまれて、育ってきたのであれば、俺が言ったことが一発でわかるからだ。自分の体験とおなじなのだから、まさしくそういうことが、自分にもあったと、膝を打ってこたえるだろう。そういう反応がないということは、そういう家族がいなかったということを明示している。

そういう家族というのは「うちの兄貴やうちの親父のような家族」という意味だ。そういう家族がいなかったから、俺の話を信じない。「そんな人はいない」とか「そんなことはない」と言ってくる。

ようするに、その人が言っている、家族関係の不愉快なことは、きちがい家族とのあいだの不愉快なことではなくて、きちがいではない家族とのあいだの不愉快なことだということだ。だから、「おなじ」じゃない。ところが、これまた、「俺だって、不愉快な思いをしたことがある(けど、不満を言わないでがんばって生きている。

なのに、どうしておまえは不満を言うのだ)というようなことを言う人が出てくる。次から次へと出てくる。ようするに、よくあることなのだから、そんなにこだわるのはおかしいということを言ってくるやつがいる。「そういうトラブルがあったとしても、そんなのは、どうでもいい」とトラブルの効力を無視するやつが出てくる。

そいつにとっては、どうでもいいことかもしれないけど、親父と兄貴にやられた俺にとっては、どうでもいいことじゃない。つみかさなれば、そりゃ、不可避的に影響を与える。何万個も何十万個もつみあがっていれば、影響をうけるだろ。

そいつがやられてないからわからないだけかもしれないんだぞ。きちがい家族にやられたことがないから、きちがい家族にやられるということがどういうことなのか、体験を通してわかってないだけかもしれないんだぞ。

それを、これまた、さも、えらそうに……。自分なら、影響をうけないという前提で、さもえらそうなことを言いやがって……。

こんなのは、ない。

 

 

2022年2月25日金曜日

 親父と兄貴のことで、俺がよその人に誤解されるということがおおすぎた。もう、いやなんだよ。けど、続くわけ。そりゃ、どうしてかというと、いままでの延長線上に現在の生活があるから。過去のつみかさねの上に、現在があるから。

「過去なんて関係がない」と言うやつか、どれだけ、はじめてあった人の履歴を気にするか? 知っているか?  「過去なんて関係がない」なんていうのは、うそっぱちなんだよ。本人が、気がついてないけど、うそなんだよ。範囲限定なんだよ。条件付きなんだよ。けど、「過去なんて関係がない」なんて言っているときは、範囲とか、条件についてまったく考えてない状態なんだよ。まあ、親父や兄貴といっしょにするつもりはない。けど、「過去なんて関係がない」なんていうのは、相当のうそ。自分がどれだけ、過去の情報に基づいて他人を判断しているか、ちょっとは、気がつけ。

 

2022年2月23日水曜日

ダイヤとツーリングに行きたかった。きちがいヘビメタ騒音なしで!!

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あー、あのころ、あの子と、つきあいたかった。ヘビメタ騒音なしでつきあいたかった。それは、可能だった。あーんなことや、こーーんなことをしたかった。

いい思い出がない。全部、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだ。いま、午後8時9分。ヘビメタ騒音が鳴ってる雰囲気がする。どーーーれだけ、言っても、どれだけ絶叫しても、やめてくれなかった。なんだろうが、きちがい的な意地で鳴らした。きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじような形相で鳴らした。やめてくれ」というのは、おもっいきりでかい音で鳴らしたい兄貴にとっては、「不都合なこと」なんだけど、「不都合なこと」を言われたときの態度や形相が、親父と兄貴でまったくおなじなんだよな。ほんとうにこまる。こまるーー。おなじなんだよ。ダブルでこまる。きちがい親父は、きちがい兄貴が、普通の家ではありえない音で鳴らしたら、兄貴の味方になってしまう。黙認して一切合切注意しなかった。けど、これが……。親父と、兄貴と、よその人にはわからない。「そんなにうるさい音で鳴らしているのに、親が注意しないなんておかしい」と他人に、ぼくが言われる。言われる。これ、くやしいけど、……。くやしいんだよ。で、他人に親父のことを説明しても、わかってくれないんだよ。「そんなのはおかしい。そんなひとはいない」……。ふざけんな。で、全般の文書で書いたけど、たいした音で鳴ってなかったと判断して、まるで俺が気にしすぎているからダメなんだというようなことを言いやがる。こういうことの繰り返しなんだよ。きちがい兄貴の性格やきちがい親父の性格が、普通の人には理解できない性格なので、俺がごく自然に普通の人から誤解されるということが、多すぎた。人生のなかで、多すぎ。こういう、ごく自然に生じるトラブルだって、きちがい的な兄や、きちがい的な父がいない人にはわからない。しょっぱなからわからないし、わかる必要が、その人にはない。その人は、普通の父や普通の兄とすごしたわけで、自分の経験の範囲外のことを、理解してもなにもいいことがない。俺の言い分を理解しても、その人にはなにもいいことがないのだ。だから……というわけではないけど、ともかく、「エイリがへんなことを言っている」と総合的には思うことになる。もともと関心がないし、自分の持っている価値観を否定されたことを言われて、不愉快だという感覚がしょうじる。これは、自我と世界観の話でもう、話したからいい。

せいぜいのところ、「自分はそんなうちに生まれなくてよかった」とか「自分はそんな兄に邪魔されなくてよかった」とかというようなことしか、考えない。それとは別に、「人間は働かなければならない」とか「通勤できないなんていうのは、あまえだ」というような考え方があるので、人をばかにする。「自分はそんな兄に邪魔されなくてよかった」と「通勤できないなんていうのは、あまえだ」ということが、むすびつかない。そういうことを言った人だって、きちがい兄貴に邪魔され続ければ、通勤できないからだになるのに……だいたい7年間ぐらいかかるけど……通勤できないからだになるのに……自分がたまたまそういうきちがい的な兄と一緒に住んでいなかったからといって、そういう条件がしょうじたとき、本当に自分が通勤できる体を維持できるのかどうか、本気で考えない。まあ、考えても、「経験が実際にはないのだから」……「自分ならできるにちがいがない」と思って、俺のことを下に見るのだろう。そういうこと、ばかり、で、いいわけがない。

もう一度言うと、きちがいヘビメタ騒音なしで、あの子と、つきあいたかった。このころ、あの子と、つきあいたかった。これ、いまじゃ、だめなんだよ。かりに、自分のからだを若くすることができたとしても、だめなんだよ。

ダイヤとツーリングに行きたかった。ツーリングじゃなくても、旅行に行きたかった。自分たちの会社をつくりたかった。自分たちの同人誌をつくりたかった。きちがいヘビメタ騒音なしで!! きちがいヘビメタ騒音にたたられたからだではないからだで!!

からだで……。からだで……。あのとき……。あのとき……。

 

 

2022年2月22日火曜日

影響の持続時間がわからない。わからないだけなのに、えらそうなことを言って!!!

つまーーんない。

やっとだよ。やっと。やっと風呂に入れた。やっと、殺虫剤をまいた。しかし、どうするかな? 引っ越すしかないのだけど、エネルギーがたりない。じつは、今日は資源ごみの日なんだけど、時間内に行けなかった。じつは、なまごみもたまっている。じつは、プラスチックごみもたまっている。最近、起きる時間が、ちょうど、清掃車が行ったあと、だから、問題がある。はやめに起きて出しに行くということはできない。これができたら、出勤して働ける状態だ。通勤できるね。その能力を、きちがい家族によってはかいされた。俺は、もともとは、できるんだぞ。これ……。ほんとうに……。きちがい家族がヘビメタ騒音を鳴らさなかったから、その能力をもっているやつが、俺を侮辱する。「できない」と思ってバカにする。自分はできるけど、エイリさんはできない……。だから、俺のほうが能力がある。だから、俺のほうがえらいと勘違いしたやつが、いろいろと勘違いしたことを言ってくる。そういうことになってしまう。きちがい家族が、きちがい的な基準で、自分のやりたいことを、やると……何年間も、十数年間も、毎日毎日やると、やられたほうの家族が、能力をうしなうことがある。その場合、能力をうしなったほうの人(家族の一員)が、「よその人」から文句を言われることになる。「よその人」からばかにされる。「よその人」だって、100人中100人、おなじ状態で暮らしていたら、できなくなるのに、それがわからない。傲慢でばかだから、わからない。想像力がないから、俺の話を聞いても、わからない。自分は、できると思っているから、できない俺を侮辱してくる。「通勤ができない」……そんなばかなことはない。「たるんでいる」「あまえている」と言ってくる。こういうことになってまうんだよな。あの音の連続で、夜、眠れるわけがないだろ。それまで、普通に寝ていた時間、どうしても眠れなくなる。起きているときになっていたヘビメタ騒音の効果でどうしても眠れなくなる。普通の人は、俺とおなじ経験がないので、それがわからない。起きているときになっていた音で、夜、眠れなくなるなんてことはない……と、悪い頭で思っている。「鳴り終わったら関係がない」「眠る時間に鳴っていなければ眠れるはずだ」と、悪い頭で思ってしまう。これは、本当に悪い頭だと思う。悪すぎる。まあ、経験がないだけかもしれないけど。ぼくとにとって、それがどういうことなのか、ぜんぜんわかってないんだよな。説明すればわかるかというと、わからない。説明をすると、「いいわけをするな」とか「なきごとはいい」と言ってくる。おまえだって、きちがい親父の家に生まれて、きちがい親父にやられて育ち、きちがいおやじとおなじ頭のクセをもっている、きちがい兄貴に、ずっとずっと、自分がこの世で一番嫌いな音を、新規りょりで鳴らされ続ければ、そういう状態になる。「できなくなる」。そういう経験がないから……長年の経験がないから……できるつもりでいるだけだ。「自分なら、たとえそういうことがあったとしてもできる」と思っている。経験してないから、そう思えるだけなのに……。自信をもってそう思っている。頭が悪すぎる。きちがい親父とか、よその家では絶対にならことができない大きな音でずっと、ヘビメタを鳴らし続ける兄が「いない」家で育った人は、実際にそういう家で育った場合、どういうことが起きて、どういうふうに疲弊して、できなくなっていくのか、わかってないだけだ。このハンディは、ほかの人にとってめちゃくちゃにわかりにくいハンディなのである。そして、絶対数も、少ない。はっきり言えば、ぼくが抱えているようなハンディと、発達障碍者が抱えているハンディが、ほかの人にとってどのくらい分かりやすいということをくらべれば、ほかの人にとっては、発達障碍者が抱えているハンディのほうが、まだ分かりやすというところがある。けど、このハンディを抱えていると普通に働くことはできない。普通に働くことができないということがどういう影響を与えるか、他人にはわからない、不可避的な理由で働けなくなった人じゃないとわからない。手短に言えば、発達障碍者のほうが、長く続くひどい騒音で一定の時間に起きることができない障碍者よりも、多い。発達障碍者のほうが、人数が多く、理解されやすい状態なのだ。『家族性』の睡眠障害なんて、理解されない。「家族」だから、理解されない。「家族なら言えばいいでしょ」「家族なら、言えばわかってくれるよ」というのが、こういうやつらの、言い分だ。信じていることだ。ぜんぜん、ちがう。こういう人たちが考えていることでは、ぼくの現象は説明できないのだ。認知療法はじつは、普通の人や恵まれた人が、普通の感覚に基づいて作った療法だ。前提がちがうのである。前提がちがうと、その前提を使って考え出されることも、ちがうということになる。けど、前提がちがうということを認知療法家やその信者は理解してない。理解できるわけがない。どうしてかというと、そういう理解をないことによって成り立っている療法だからだ。現象を説明でなくても、そんなのは関係がない……のである。非・合理的な思想なのである。非・科学的な思想なのである。最初から、理解しないことにしている療法なのだ。理解できないから理解しないように決めたということだ。そのほうが、とじた体系のなかでは、合理性が成り立つ。この合理性は、せまい範囲内での合理性だ。そして、その体系ないの言語で説明することができない現象は、無視する。説明できない現象があるということは、本来はまずいことなのに、まずいことだと思ってない。逆に、無視することで合理的だと思ってしまう。そりゃ、体系内のことは、過不足なく説明できるのだから、合理的だと思うだろ。その体系のなかで思考している人はそう思う。

(障碍者と書くと、睡眠障碍と書かなければならない感じがする。)

 

兄貴に関して言っておくと、ずっと、やめようと思えばやめられる状態だったのに、ずっとやめなかったんだぞ。 そんなの、すぐにやめられる。普通の家だったら、一日目の、一分目にやめなければならない音のでかさだ。家族に言われてもわからない。きちがい兄貴の場合、兄貴の友達に言われても、わからないんだよな。その感覚が、おやじとおなじなんだよな。脳みそがまった同じ。脳の構造がまったくおなじ。感じ方が同じ。態度が同じ。これ、ほんとうに、親父や兄貴を見たことがない人はわからない。うちにいるときの!!親父や兄貴を見たことがない人はわからない。「あんな態度ない」という態度で無視して、やりきる。相手がどれだけどなって言っても、言われたという記憶がまったく残らないんだよね。ほんとうに頭がおかしい。無視モード?でやったことは、やってないことだし、無視モード中に言われたことは、言われたことになってない。そういう、都合のいい頭なんだよね。ごく、自然にそうなっている。そうなると、俺が佐藤のような凡人から、説教をされることになる。佐藤は、普通の家とはちょっとちがうけど、きちがい兄貴やきちがい親父がいないという意味では、普通の家に育った人間だ。普通の家で生まれて育った人間は、きちがい親父やきちがい兄貴のことが、根本的にわからない。俺の話に疑いをもっている。そして、「だったとしても」関係がないという思考をしてしまう。「過去のことなら関係がない」「過去のことなら、今現在に影響をあたえることはない」と自動思考してしまう。

もう、こういう世界はやめようよ。こういう世界。 

凡人が、特別に不利な人を、ぼろくそに言う世界。

凡人が、「自分は経験したことがない」とい理由で「そんなことはない」と思う世界。過小評価する世界。どれだけのことがおこなわれているか、わかってない。凡人すぎる。思考レベルが普通の人なので、わからない。俺の言っていることがわからない。自分が経験したことがないから、影響のでかさがわからない。影響の持続時間がわからない。わからないだけなのに、えらそうなことを言って!!! 


2022年2月21日月曜日

俺も、俺に、復活してほしい

 俺も、俺に、復活してほしい。しかし、自分の本当の体験から離れた、感情を、こしらえることはできるだろうか? と言うと、できない。これ、いろいろとあって、こういう状態なのだから、いろいろなことは、無視できない。ようするに、ぼくは、その体験の影響をうけたくない……その体験から自由でいたいと思っても……意識的に思っても、だめなのだ。影響はうけているので、影響をうけてないからだでできることを想像してもしかたがない。いや、たしかに、想像してもいい。それで、いいなら、いい。けど、どうなんだろう。

自分の本当の感情を認めないで……「元気だ元気だ」と言えば元気になるとか、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるとかという……そういう話のレベルで、現実を語らないでほしいんだよな。こっちは、現実の話をしているんだぞ。この、言えばそうなる系の話というのは、俺を、不愉快な気持にさせる。こういう話が、鬱を作り出す。鬱をひどくする。

 

2022年2月20日日曜日

「生まれの格差・上」というのは、96%の富を、とられたあとの4%の富のなかで「上だ」

前回の記事で言いたかったことは、ぼくが普段、「生まれの格差・上」とか「生まれの格差・下」と言っている場合は、小さい箱のなかの話をしているということだ。大きい箱の格差に関しては、ほとんど見えないような感じになっている。ようするに、「生まれの格差・上」というのは、96%の富を、とられたあとの4%の富のなかで「上だ」ということだ。 96%の富を、とられたあとの4%の富のなかの格差について言及しているということだ。これは、普通に見える。年収1500万ぐらいあれば、上だ。まあ、年収15億ぐらいでも、上だ。だから、幅はある。けど、これは、96%の富をとられたあとの世界の話だ。まあ、勤め人と、経営者はちがう。勤め人であれば年収1500万円もあれば、「上」だろう。経営者の場合は年収15億だと、そんなには、高くないということになる。経営者のなかでは、高くないということだ。けど、この両方を、いちおう、「生まれの格差・上」のなかに入れる。「生まれの格差・下」のほうには、年収150万円以下がはいる。この生まれの格差上も、生まれの格差下も、最初に話した通り、96%の富を、とられたあとの4%の富のなかでの格差だ。

2022年2月19日土曜日

富の不均衡が二重に成り立っているような感じなんだよ

 96%の富を所有する1%の人が、残りの99%の人を支配しているような世の中なのだ。96%というのは、地球の富の96%ということだ。ところで、地球の富の4%にも、おなじことが成り立っている。4%のほうにも、4%のうちの96%を所有する1%の人と、4%のうちの4%を所有する96%の人にわかれてしまう。まあ、4%のうちの96%を所有する人は、実際には、10%ぐらい、いるんじゃないかなと思う。けど、富のかたよりというのは、否定できないと思う。なんか、二重に成り立っているんだよね。箱の中の箱、みたいなもの。じゃ、96%対4%じゃなくていいよ。90%と10%にしよう。全体の箱がある。これが100だとする。その箱の中にはしきりがついていて、そのしきりは、90%の大きさと10%の大きさにわかれている。そのうち、10%のしきりのなかに、90%と10%のしきりがついているのだ。富の不均衡が二重に成り立っているような感じなんだよな。

まあ、しきりじゃなくて、箱だとすると、全体の箱のなかに、90%の大きさの箱と、10%の大きさの箱が入っていて、その10%の箱のなかに、また、90%の大きさの箱と10%の大きさの箱が入っている。この10%の箱のなかにある10%箱を「みんな」で取り合いをしている状態だ。実際には箱をとりあいしているのではなくて、10%の箱のなかにある「富」を「ほとんどの人」で取り合いをしている状態だ。比喩としてはそうだ。

 

条件はある。けど、条件を無視してしまうのだ。これは、適切な態度とは言えない。

 生まれの格差を無視して、「みんなおなじだ」という前提でものを言う人たちがいるんだよな。これは、まちがっている。単純に言ってまちがっている。けど、どういう条件下でもまがっているわけではない。逆に言えば、すべての条件下で正しいわけでもないのだ。ぼくが言いたいのは、すべての条件下で正しいとはかぎらないことを、あたかも、すべての条件下で正しいというのは、まちがいではないかということだ。生まれの格差を無視して「みんなおなじだ」という前提でものを言う人たちは、じつは「じょうけんわけ」をしてない。条件わけをしていないのだから、「すべての条件下で正しい」と言っているのと同じことになる。

おカネにおける「生まれの格差」と親の性格にける「生まれの格差」というのはある。で、「生まれの格差・上」の人は、「生まれの格差・下」の人の状態がわからない。 「生まれの格差・下」の人が「実際に」経験してきたことを、経験してない。「生まれの格差・上」の人は、経験してない。自分のこととして経験してない。「話を聞いて」想像で理解していることにしすぎない。しかし、『苦労』とか『困難』とかという単語を使ってしまうと、あたかも、わかっているようなつもりになってしまうのだ。そりゃ、言葉のうえでは理解しているのだから『理解している』とか『正確に理解している』とかということになってしまう。けど、経験がないのだから、理解しているとは言えない。そして、ふたつ前の投稿で書いたように、理解してないのに、理解したことにして、自分の見解を述べるということになってしまう。そのなかでは、「生まれの格差・下」の人は本来こだわる必要がないことに、こだわっている……ということになってしまうのである。また、「生まれの格差・下」の人は本来こだわる必要がないことに、こだわっている「から」だめなのだ……ということになってしまうのである。

条件はある。けど、条件を無視してしまうのだ。これは、適切な態度とは言えない。

 

「まず、動く」というような助言を与える人がいるけど、それは、まちがっている

 「俺のやりたくなさ」が並じゃない。

だめだ。こりゃ。自分でわかる。つかれすぎている。すべてが、めんどうな感じになっている。旅の途中なのに、もう一歩も動きたくないという感じなんだよな。やすめば、ちょっとは復活するかな。

ともかく、基本的なところで、やる気が出ないとしょーーがないなぁ。

なんか、動きたくない感じがある。生活をするとなると、どうしても動かなければならないときがある。そのときは、動く。けど、動いたから、はずみがついて、動きやすくなるということがないんだよね。ヘビメタ騒音以降、そういうのはない。つかれはててしまった。動いたから、横になりたくなるというのが、現実だ。

動きたくないけど、しかたがないので、動く……。まず、動けは、自然にもっと動きたくなる……というような理論は、まちがっていると思う。あるいは、それが成り立つには、条件が成り立っていなければならないのではないかと思う。ようするに、「すべて」ではないのに「まず、動けば」と言って、動いた場合のすべてについて言及しているので、それは、まずいのではないかということだ。

「まず、動く」というのは、行動主義心理学の言い方だ。「まず、動く」→「そうすれば、動きやすくなる」→「普通に動けるようになる」。こういう理屈が、成り立っている。けど、それは、根本的につかれはててない人なら……というような条件がつくのではないかということを言いたかったわけだ。

横になっている人、つかれはてている人、だめな人、ぐずな人に……「まず、動く」というような助言を与える人がいるけど、それは、まちがっているのではないかということだ。あとは、「休めば、かならず、復活する」というようなまちがった前提がある。復活すると書いたけど、休めば、かならず、つかれから回復するという前提のことだ。回復する場合もあるし、回復しない場合もあるのではないか。それを、休めば、かならず、復活するはずだという、まちがった前提で話をすすめるからおかしくなるのではないかと思う。

 

他人だから……実際には、やられてないから「関係がない」と思えるだけだろ

 まじで楽しくないわぁーーー。プロペラ戦闘機・室外機のばばばばばという音でめざめたのだけど、正直言って、これも影響を与えている。ヘビメタ騒音以降、こういうのもだめなんだよね。まあ、音のでかさはちがうけど。プロペラ戦闘機・室外機のほうがずっと静かだ。じゃあ、いいかというと、そうでもないんだよな。

あーーつかれた。

全部が全部つかれて、楽しく感じる回路が全面的にダウンしている。ハードウエア的にダウンしているみたい……だな。ハードウエア的にダウンしているので、どうにもならないぞ。 

ずっと前から、ヘビメタ騒音は人生的な問題だったのに、きちがい兄貴が認めないで、がんがんやりきるんだよな。あれ、ほんとうに、張本人なのに、まったく関係がない人なんだよ。本人は、まったく関係がない人だと思っている。

そういう思い込みで、毎日すべての時間を使って、普通の家ではありえない音のでかさで、きちがいヘビメタを鳴らし続ける。どれだけ言ったって、まったく悪いと思わないんだよ。俺に影響を与えているとは思わないんだよ。ヘビメタ騒音で苦しめているとは思わないんだよ。思わなければ、やってないのとおなじだ。まったくやってないのとおなじ気分でいる。じゃあ、気がついてないだけなのかと言うと、そうでもないんだよ。

知っている。もちろん、知っている。

知っているけど、あたかも知らないような態度「全体」なんだよ。この態度全体は、きちがい親父の態度全体とおなじなわけ。きちがい親父が、きちがい親父の意志で、きちがい的なことをやっているときと、同じなわけ。だから、俺は、ハンダゴテのことを例に出して、きちがい親父の態度と兄貴の態度はおなじだと言っているのだけど、きちがい兄貴は、なにを言っているのかわからないという状態だ。この「なにを言っているかわからない」というような態度というのは、ようするに、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らすときの態度とおなじだ。きちがい親父がハンダゴテを買ってやることをきひょしているときの態度とおなじだ。全部同じなのである。

本人が、きちがい的な意地でやっているのに、本人はやったつもりがないし、やったということを、認めないのである。本人の正直な気持ちとして、やってないし、関係がないという気持ちが成り立っている。で、それは、やっている最中もそうなんだよ。というか、やっているさいちゅう、つねに、そういう状態なんだよ。だから、やっているときにどれだけ「やめてくれ」と言っても、やめない。やめないし、やめてやらなかったという気持ちも、ないんだよ。つねに、そういうやり方で、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、やりきる。

頭が、ハードウエア的にそうなっているので、そういうことを監督するハードウエアの脳がない状態なんだよ。監督すると書いたけど、認知するでも同じだ。

きちがい兄貴は、きちがい兄貴の脳みそを搭載して一日、二四時間中、二四時間生きているんだよ。そうなると、やっているさいちゅうもそういう頭を搭載してやっているので、認めるということがないのである。また、「やめてやる」と言うこともないのである。けど、「やめてやらなかった」という認知がまったくない状態なのである。

どれだけ言ったって「自分に関係がないことなのになに言ってんだ」「やってないのに、なにを言っているんだ」という気分がある。兄貴が実際に鳴らしてないときは、そういう状態なのである。だから、一階でめしをくっている兄貴にどれだけ言ったってむだなのである。

鳴らしているときは、絶対の意地で、鳴らす。「やめろ」と言われたら、親父の形相で、兄貴が鳴らすのである。この時の顔は、ゆるせない。ほんとうに、つねに毎秒毎秒、毎ナノセカンド毎ナノセカンド、こういうことをおしつけられる。

きちがい親父の頭の構造も、きちがい兄貴の頭の構造も、普通の人はわからない。どれだけのきちがい的な意地でやるかわかってない。ほんとうに殺さなかったら、やめさせることができない。常にそういう状態を相手……家族に限定されるけど……相手におつけている。きちがい親父がやる、きちがい行為なら、そのつど、問題になるだけだけど、きちがい兄貴がやるヘビメタ騒音行為は、ちがう。ほんとうに、同じ種類の問題をずっと突き付けられる。

 自分がきちがい的な意地でやっていることに関して「やっている」という認知が常にぬけている相手というのを、見たことがないんだろ。たまたま、一時的にそうなっているやつしか見たことがないんだろ。うちにいるときは、つねにそうなんだよ。兄貴も親父も、うちにいるときはつねにそうなんだよ。

これは、一般の人の誤解を常に生みだす。常に生み出す根源だ。けど、これを説明しても、関係ない一般の人は、関係がないので、どうでもいいことなのである。どうでもいいことだと判断したら、一般の人にとって、それは、どうでもいいことなので、どうでもいいこととして処理されるのである。これも頭の中で処理される。一般の人は、一般の人にとってどうでもいいことだと判断したときに、ぼくのなかでもどうでもいいことだと、ちょっと思っているところがある。これ、ようするに、自分が体験しなかったことだから、体験したあいだの時間の経験を経験してないのである。で、話として聞いた、ヘビメタ騒音しか頭に浮かばない。そして、話に出てきたヘビメタ騒音が自分にとって関係がないことであるという判断と認知は、そのまま、エイリの話に出てきたヘビメタ騒音はエイリにとっても、たいして関係があることではないというような判断と認知にそのまま影響を与えてしまう。ぜんぜんちがうことなのだけど、そういうちがいに気がつくほどの「関心」もない状態なのだ。だから、「そんなのは、どうでもいい」「そんなのは関係がない」などと言う。ヘビメタ騒音の「影響の無視」というのは、ぼく以外の人には簡単に成り立つことだ。それは、経験したことがちがうのでそうなる。しかし、それは、労働観や道徳観と、むすびついていることなのである。関係がないと判断したのだから、そんなのは影響を与えない……今現在のエイリさんに影響を与えているはずがない……と思ってしまうのである。そう思うのであれば「エイリさんが働かないのはけしからん」ということになってしまうのである。「ヘビメタ騒音なんて言うのは、いいわけだ」と思ってしまうのである。どうしてなら、ヘビメタ騒音の影響は、今現在、ないはずだからだ。

だから、こういうことにかんして、きちがい兄貴の態度は、自動的に他人の「エイリに対する態度」に影響を与える。 ヘビメタでくるしいと言っても、わからない。その言われた他人は、わからない。ほんとうのところではわからない。わからないところで、ヘビメタ騒音の影響を無視して、その人の労働観に基づいたことを言ってくるということになってしまう。経験がないのだからしかたがないと言っても、腹がたつ。

そして、きちがいヘビメタ騒音によって、働けないとなると、そういうふうな、他人のほうが、今現在のエイリよりも、立場が高いということになってしまうのである。こんな、現実は、うけいれがたいだろ。どれだけ想像力がないやつだって、もし、きちがい的な家族に、自分がやられた場合度思うのかということだ?

他人だから……実際には、やられてないから「関係がない」と思えるだけだろ。「過去のことは関係がない」とか「そんなのは関係がない」と思えるだけだろ。「過去のことにはこだわらず、今現在に集中する」というようなことを言う人もいるけど、そういうことを言う人も、けっきょく、ぼくとおなじ経験をしてない。「過去のことにはこだわらず、今現在に集中する」という「もっともらしそうなこと」に関しては、ぼくが、過去において、詳細に説明したので、ここではあつかわないけど、失礼な話なんだよ。これも、「失礼な話だ」と言えば、相手は、おもしろくない気分になる。

そいつが、俺に対して、失礼なことを言っているのに、俺が「失礼なことを言うな」とそいつに言えば、そいつが、気にしておこる。こういうことになってしまう。

それから、そういうやつは、俺とのあいだにそういうことがあったという「過去の出来事」には案外こだわっていることが多い。「過去のことだからどうでもいい」ということにならないのである。そいつの記憶のなかで、エイリは、俺に生意気なことを言ったという記憶が成り立つ。

そして、その記憶が、「今現在」のエイリに対する態度に影響を与えているとしか思えない態度をとるときがある。あるいは、「今現在」のエイリに対する発言に影響を与えているとしか思えない発言をするときがある。「の」が重複するので単に「今現在」のエイリに対する態度と書いたけど、言いたいことは、そいつの!「今現在」のエイリに対する態度に影響をするということである。

 「過去のことだからどうでもいい」ということを言う人は、「過去のこと」にこだわっていないかというと、それはちがうのである。こだわっている。

 

2022年2月16日水曜日

「つもる」日々が数千日も続いて、どれだけ、くるしかったか?

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でつらかったな。だれも、わかってくれない。まあ、わかるわけがないか。あれがどういう状態のなのか、わかるわけがない。毎日毎日、きちがいヘビメタがつもって、どれだけつらかったか? 毎日毎日、どれだけ言っても、きちがいヘビメタが「つもる」日々が数千日も続いて、どれだけ、くるしかったか? どれだけ、いまの俺に影響を与えているか? 影響のでかさがわからない。

本人じゃないと、影響のでかさがわからない。

そうなると、人々は、勝手なことを言う。かっっってっっなことを言いやがって」と思う。思わざるをえない。けど、「勝手なことを言うな」と言うと、その人と俺のあいだに、亀裂が走る。じゃあ、言わないでおくとどうなるかというと、俺のほうが勝手に、その人と、いにくくなるという状態になってしまうのだ。 まあ、言ったって、いにくくなる、のは、決まっているけどね。そういうことの繰り返しだよ。特に、日本は、日本労働教徒が多いから、無職の言うことは、無職が言うという理由で、無視する。まちがいだと、自動的に思ってしまう。どんだけ、不利に働くか?

どんだけ?

さんざん、「やめてくれ」「こういうふうにこまっている」ということを言ったのに、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で認めない。認めないということも認めない。記憶にない状態なんだよね。影響、あるよ。ないわけがないだろ。きちがい兄貴にわかるように、ハンダゴテ事件のことについて書いている。あれは、兄貴と親父のあいだにあったことだ。きちがい兄貴だって、きちがい親父の態度にかんしては、ちゃんと、理解して、おこっているのである。やられたら、腹が立つということがわかっているはずなのである。ところが、きちがいヘビメタに関しては、きちがい兄貴の態度というのは、きちがい親父の態度とまったく同じだ。ハンダゴテ事件は二日間ですんだけど、ヘビメタ騒音事件は二日間ではすまなかった。五〇〇〇日以上、続いてしまう。毎日が、ハンダゴテ事件の日』なんだよ。きちがい兄貴! きちがい兄貴に言っておく。きちがい兄貴のせいで、毎日が『ハンダゴテ事件の日』だよ。おまえ、きちがい兄貴、あのとき、きちがい親父にやられて、どれだけ腹をたててた思っているんだよ。ああいうやりかただと、腹が立つんだよ。ああいう態度で、ああいうやり方をされれば、人間というのは腹が立つんだよ。相手は、腹が立つんだよ。殺したいほど腹が立つんだよ。ずっとずっと、何時間も何時間も、殺してやりたいほど腹がたつんだよ。どれだけいい人でも、どれだけ思慮深い人でも、どれだけやさしい人でも、ああいう態度で、ああいうことをされたら、腹が立つんだよ!! 腹が!!

そして、だれにも理解されない。そりゃ、ほかのうちは、普通の「うち」だからな。普通のうちじゃ絶対にないことなんだよ。だから、想像の範囲外だ。想像の範囲外のことになっている。想像の範囲外のことを、想像すると、まちがってしまうのである。ぜんぜんちがうことについて考えているということになってしまうのである。そこから出た結論は、つねには、事実に対応してないという意味で、「まちがった」結論なのである。

 

神様

 いろいろなシーンを思い出すけど、どれもこれもだめだ。ヘビメタ騒音で、全部が、くもっている。この「くも」が濃いんだよな。「鳴っているときだけ、うるさくて、不愉快になるけど、鳴り終わったら関係がない」と考えている人は、ほんとうに、だめなやつだと思う。そういうレベルの「不愉快さ」で俺のヘビメタ騒音を判断するな!! 

「そういうレベルじゃない」とずっと言っているだろ。「そういうレベルじゃない」と言ったあとも、「たいしたことがない」という考え方を保持ている。ヘビメタが鳴り終わったあと、どれだけくるしいか、わかってないな。わかってない。それが毎日続いたらどういうことになるか、わかってないな。鳴っているときだけ、うるさくてこまるというレベルのことで、こんなに悩むわけがないだろ。

普通の人はそういうレベルの騒音しか経験してない。だから、わからない。わからないやつに、どれだけ言っても、わからないままだ。そういうレベルの経験しかないのだから「なまいき」なことを言う。自分が経験してないから、「その影響」を過小評価して、「そうであっても、これこれができる」「自分ならできる」ということを言う。生意気だろ。生意気だよ。ふざけんな!

きちがい的な兄貴が……きちがい的なレベルで感覚器を書き換えてしまう兄貴が……まるで気にしないで、きちがいヘビメタをものすごい意地で鳴らしたからこうなる。一日のなかで鳴らし続ける時間が長いからこうなる。きちがい兄貴の人生なかで、鳴らし続けた期間が長いからこうなる。だれも、そんなきちがい的な「兄貴」なんていない。どうして、俺だけ、そうなる?

神様、云々のことだけど、神様というのは、初期値を設定しているだけで、すべてを、決定しているわけじゃない。その人がどういう一生をおくって死ぬか、生まれたときから……あるいは、生まれる前から決まっているということを言っている人がいるけど、それはない。

それから、神様という場合、その神様がどういう神様なのか、問題になる。人間をつくった生命体が神様だとする……。その場合、その神様をつくった神様が問題になる。神様が自然に生まれてきたように、人間だって、自然に生まれてきたかもしれないのだ。人間や、その神様……人間をつくるような神様をうみだすような宇宙的なしくみのことを、神様、と言う場合もある。宇宙的なしくみ自体のことを神様というのであれば、その通りだと思う。しかし、そういう神様は、個々の具体的な個人について……人間存在について……いちいち、人生のなかでどういう経験をするのか、設計しているとは思えない。そういうものではなくて、「うみだすもの」でしかないからだ。これ、けっこう、無作為に決まっているんだよ。個人にとっては、もちろん、「初期設定」は重要なんだけど、そういう存在にとっては、個々人の「初期設定」なんて、重要じゃない。どういう生命体が、どういうことを経験するのかなんて、そんなのは、まったく気にもとめない。無数の生命体があるわけだからさ……。無数と言っても、かぞえることができないというだけで、その瞬間、有限の生命体があるのだろう。かぞえられないけどね。それを、かぞえることができる生命体なんているはずがない。瞬時に、宇宙のすべての生命体をかぞえる? 無理でしょ。その生命体が、認識できる範囲の生命体の数をかぞえることは、瞬間を瞬間として考えず、ある程度の時間の長さをもった瞬間だと考えれば、できないことはないと思う。けど、それは、その生命体が、認識できる範囲でかぞえているにすぎない。

ともかく、その個人である必然性や、その個人である必要性がなくなってしまうのだ……。無数で、無限回なのだから……。

自分の人生になにか「意味」をもたせたい人が、「まなび」を夢想するのである。

どうしても、ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい

 どうしても、ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい。どうしても。どうしても。ヘビメタ騒音あり、の、人生じゃ、どうやったって、だめなんだよ。最後には、希望をうしなう。ヘビメタ騒音なしで、やりなおしたい。

 

もう、感情が動かない。どれだけ、理想的な人があらわれてもだめだ。元気がない。関心がない。めんどうくさい。

けど、頭を抱えてしまうときはある。ネズミが出たり、からだの調子が悪くなると、めちゃくちゃな気分になる。ヘビメタ騒音の上に、どれだけのことが、つみかさなってきたか?

 

2022年2月15日火曜日

ヘビメタ騒音生活というのが、並じゃないのである

 

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかった。いま、午後八時。きちがいヘビメタが鳴っていた。どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれなかった。もう、言う前からずっと、我慢しているわけ。ずっと何回も何回も言っているわけ。けど、きちがいが、きちがい的な感覚で無視して鳴らす。きちがい兄貴だって、自分が鳴らしている音で、「ほかの音」が鳴っていたら、怒り狂う。「うるさい」と腹をたてる。そういう「音」だ。そういう音のでかさだ。これ、ぼくが、普通の音に対して、こだわって、うるさいと言っていたわけではないのだ。きちがい兄貴の耳がおかしくなるような音のでかさで鳴っていた。いわゆる、ヘビメタ難聴になった。きちがい兄貴は、自分の耳が悪くなるような音の「でかさ」で鳴らして、まったく、でかい音で鳴らしているという気持ちがなかった。本人は、普通の音で鳴らしていたつもりなのである。こういう感覚のずれ。自分が、でかい音で鳴らしたければ、絶対にでかい音で鳴らしているということを認めない、頑固さ。これが、きちがい兄貴のやり方だ。で、こういうやり方で、悪いことを、やったやつがもうひとり、うちにいる。それが、きちがい親父だ。きちがい兄貴のやり方は、きちがい親父の伝統を引き継いだものだ。「うちでは」あたりまえなのである。きちがいが意地をとおしてやれば、それが通ってしまう。当のきちがいは、「まったくやったつもりがないまま」なのである。こんなことが、成り立ってしまう「うち」というのはなんだ? これ、ほかの人は、わからない。わからないから、わからないまま、ものを言う。きちがい兄貴言えば、どうにかなるような感覚でものを言う。どれだけうるさい音で鳴らしていると言ったって、そんなにうるさい音で鳴らしているわけではないのだろうと思ってしまう。毎日、ずっと、家に帰ってから午後一一時まで鳴らされたら、ほんとうにこまるということが、わからない。自分のからだでわからない。だから、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、「そんなのは関係がない」と言う。ヘビメタ騒音生活というのが、並じゃないのである。このくるしさは、並じゃない。そして、ほんとうに、きちがい兄貴がいないところで、俺がほかの人から悪く言われるという構造がある。こんなの、ずっと毎日押しつけられていいわけがない。学力主義、学歴主義はあった。「生まれの格差」で「下」なのであれば、学歴であがっていくしかないという状態だった。……「こいつら、ほんとうに、ひとことをばかしやがって」と思う。いきなり、「こいつら、ほんとうに、ひとことをばかしやがって」ということばが出てきたけど、これも、この時代に生きた人じゃないとわからなくなることだろう。ほんとうに経験したことがちがうから、結果がちがうのに、経験してないやつが、好き勝手なことを言う。ほんとうに、そういう世の中だ。

 

2022年2月1日火曜日

ワクチンを打つと、流産しやすくなるというのは、デマじゃない。

ワクチンを打つと、流産しやすくなるというのは、デマじゃない。



ワクチンを何回打っても、感染をふせげないばかりか、感染が激しく増大する。

イスラエルを見ろ。ワクチン優等生は、みんな、感染爆発で苦しんでいる。

一方、ワクチンを打たなかったアフリカの国は、とっくに感染者ゼロで、マスクなしの普通の生活。ワクチンを打つから、感染爆発が起こる。

まあ、もっとも、詐欺的なPCR検査がデータのもとになっているので、その点は注意しておくべきだ。

ヘビメタが鳴ってた。 どうしても、くるしい。

 ヘビメタが鳴ってた。

どうしても、くるしい。

この雰囲気。この時間。

ヘビメタが鳴ってた。くるしかった。くるしかった。いまも、くるしい。どうにもならない。けっきょく、こういう人生だったのかな。ほんとうに、きちがい兄貴がきちがいで、鳴らしている最中もまったく関係がない人なんだよな。鳴らしているのだから関係がある。それも、ものすごくでかい音で鳴らしているのに、ものすごくでかい音で鳴らしているということがまったくわかってない状態なんだよな。耳が正常なら絶対にわかることなのに、きちがい親父のような状態で、わかってない。だから、どれだけやったってやったことになってないんだよ。この「どれだやったってやったことになってない」というのは、きちがい親父とおなじだ。これ、ずっとこういう頭で生きているから……生活しているから、二四時間中、二四時間、本人は気がつかないけど、そういう感じ方、そういう認知、認識をもっているということになる。普通に……ごく普通に、そうなんだよ。「ごく普通に、そうなんだよ」というのは、「ごく普通にそういう状態になっている」ということだ。だから、とめようがないんだよな。どれだけ言ったって、そういう状態なのだから、そういう状態で認めない。それが、二四時間中、二四時間、成り立っている。本人は、「わるぎ」なんて、まったくないんだよ。けど、本人が別の音で一分間でも、鳴らされ続けたら、発狂するような音のでかさで、鳴らし続ける。

きちがい兄貴は、まったく悪いことをしているつもりがないんだよ。きちがい親父も、意地をはってわるいことをするとき、悪いことをしているつもりがまったくない。かかわっているとも思ってないからな。自分が発狂して、自分の意地をとおしてわるいことをしているのに、わるいことをしたというつもりがない。やっているさいちゅうだってそうだ。それとまったくおなじことが、兄貴にも成り立つ。

兄貴のことを言っているのか、親父のことを言っているのかと思う人がいるかしれないけど、両方のことを言っている。これ、ほんとうに性格が同じ。やったことが同じ。意識の持ち方が同じ。発狂的な意地でやる部分が同じ。そして、発狂的な意地でやったことには、自分がまったくかかわってないような感じがしているという部分もおなじ。こういうことが、ほかの人にはわからない。どうしてわからないかというと、うちのきちがい兄貴、うちのきちがい親父と一緒に暮らしてないからだ。

で、不幸なことに、なんだか、似たようなことが成り立ってしまうのである。相似形なのである。世間の人が(おやじやあにきのことがわからない)というのが、ちょっとだけ、きちがい親父がやっていることについてきちがい親父がわかってないということや、きちがい兄貴がやっていることについてきちがい兄貴がわかってないということに、似ているのである。ぼくからすると、似ている。そういうところにも、不満があらわれる。他人は理解しないわけだから……。そして、他人のなかに成り立っている常識にしがみつく、わけだから。

他人は、まず、やられてないから、他人が経験した騒音とぼくが、うちの兄貴にやられて経験した騒音のちがいがわからない。そりゃ、家族として、うちにいて、うちの兄貴にやられたわけじゃないからわからない。そうすると、兄貴のヘビメタ騒音の影響を、ほんとうに、軽く見る。「そんなのは、関係がない」と言ってくる。「たとえ、そういうことをやられたにしても、働けないとか、一定の時間に起きることができないというのは、あまえだ」と言ってくる。けど、それ、ほんとうに、俺とおなじ経験をしたら、できなくなるから……。俺とおなじ経験をしてないから、認めないと思うけど……。自分は俺とおなじ経験をしてもできるつもりでいるんだよ。きちがい兄貴のような家族が、自分の家族のなかにいて、そいつが、きちがい兄貴のような態度で、きちがい兄貴が鳴らしていた時間、きちがい兄貴が鳴らしていたような音のでかさで鳴らしたとしても、自分は働くことができるし、自分は一定の時間に起きることができる……と自動的に思っている。ちがうんだよ。けど、ちがうとぼくがどれだけ言ったって、そいつが認めるわけがない。そいつは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したわけではないので、実際のことがわからない。「毎日、つもる」ということが、自分のからだをとおして、あるいは、自分の経験をとおして、わかってない。わかってないところで、ものを言っている。推測でものを言っているわけだけど……自分の経験から、そのヘビメタ騒音とやらの効果(影響)を推し量ってものを言っているのだけど……まちがっている。その推測がまちがっている。けど、俺がどれだけその推測がまちがっていると言っても、その人は、そう思わないんだよ。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。