2022年3月31日木曜日

「いまの環境は、生まれてくるときにあなたが選んだ」系の考え方……はっきり言って不愉快なんですけど~~

 「いまの環境は、生まれてくるときにあなたが選んだ」系の考え方というのがあるんだよね。けど、その考え方を前提にしてものを言うと、他人を傷つけることがある。

けど、そういうことを言う人たちは、そんなことは、知ったことじゃないのである。どうしてなら、自分がそういうふうなことを言うことも、相手がそういうことを聞いて、なにを思うかも、うまれるまからみんな決まっていたことだから……。

そいつらは、そう考えるのである。傲慢。神様だと思っている。この世のしくみを知っていると思っている。この世どころか、あの世のしくみを知っていると思っている。自分の人生についてそう考えるのは、自由だけど、人の人生について、そう考えて、妄想に基づいた発言をするのは、人に対する侮辱なのだということに、いいかげん、気がつけ。

こいつらは、そういう「わかったようなこと」を言うけど、ほんとうは、ありふれた感情に振り回されて生きている。こいつら考え方は、「起こってしまったら」「それは、決まっていたことだ」という考え方なのである。

実際にそうなったら、それは、生まれるまえから決まっていたことだという考え方なのである。

たとえば、Aさんが、Bさんをいじめて殺したとする。それは、うまれるまえから、決まっていたことなのである。Bさんは、Aさんに、ある時点でいじめられて殺されることを承諾してうまれてきたと考えてしまう。

だから、Aさんは「わるいことをした」わけではないということになる。「わるい」とか「よい」とかということは、決まってないということを言うのである。

けど、自分がなぐられたら、自分がなぐられるということが決まっていたというふうには、考えない。普通におこって、なぐりかえそうとする。医療ミスで、本人が今後の人生に影響をあたえる生涯を背負ってまったら、それは、生まれるまえから決まっていたとは考えずに、あんがい普通に、うらんだり、後悔したりするのである。

実際に、くるしければ、くるしいという反応をしめす。

「医療ミスで、くるしくなるということは、うまれるまえから決まっていた」とすずしい顔をして言うわけではない。ただ単に、ちょっとくるしいだけではなくて、手足を切るような羽目になったら、やはり、動けずに不愉快な気持になるのである。うまれるまえから、決まっていたことだから、不愉快さは感じないということではない。

けど、まあ、死ぬまでそう考えていればいいさ。

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この手の考え方というのは、理由を求めて、理由がない場合にたどりつく考え方なのである。なので、ほんとうは、くるしいのである。

ようするに、理不尽には耐えられないので、「霊界で、選んだ」とか「うまれてくるときに、神様とそういう約束をして、承諾してうまれてきたから、そういうことが、この世で発生した」と考えるのだ。そう考えると、理不尽なことが理不尽ではなくなる。理不尽なことではなくて、自分が選んだからそうなるという理屈がつく。

じゃ、なんで、「霊界」とか「うまれてくるまえの選択」というような「フィクション」をつくったかというと、この世が理不尽だからなのである。この世が理不尽であるという認知のほうが、さきに成り立っている。

本人は、そういう認知についてとくに、自覚はしてないのだけど、そういう認知が成り立っているから、「霊界」「うまれかわり」「たましい」「たましいの選択」というフィクションが必要になる。これは、「妄想」と言い換えてもいい。

そういう妄想にもとづいて、他人の人生をきめつけるのはよくないよ。

この妄想は、明示されるときと、明示されないときがある。明示されないときは、前提として成り立っているだけで、発言のなかには出てこない。

けど、そういう前提が成り立っている発言というのは、人を傷つけるのである。

こんな傲慢なことはない。傲慢だよ。神様になったつもりか。宇宙のしくみを知ったつもりか。まあ、そういうつもりになって、傲慢なことを他人に言うのも、決まっていたことなのだろう……。そういうことを言う人のなかではね。自分の人生だけ決めつけていればいいのに、どうして、他人の人生まで決めつけるのか。

これ、精神世界系だと、「程度が高い話」として語られるのである。こういうのを信じて、自分も他人の人生を決めつけてやろうと思う人が、続出してしまう。めいわく。 

こんなことが、「いい話」として語られるのだから、地球人の精神性も、地に落ちたものさ。これ、自分がどういうことをしているのか、気がついてないんだよな。

むしろ、……精神世界系の言葉を使うのであれば……そうすることによって自分のたましいをけがしている。カルマはないけど、よくない行為だ。この世において「わるい」と「よい」はある。

2022年3月29日火曜日

貧乏リタイアと普通のリタイアのあいだには差がある


たいていの労働者?ビジネスマン?サラリーマン?は、目標をもってがんがん働いているわけではなくて、生きるために、がまんして働いている。なので、がまんしないように、リタイアして貧乏生活をはじめました……というようなコンテンツをもつブログが、あるていど、うける。

あるていど……と書いたのは、やる気にみちている上級労働者や物欲にみちている、そこそこの労働者にとって、貧乏リタイア生活が魅力的なものにうつらないからだ。

ようするに、社会のなかの一部のものは、脱労働をめざして、貧乏系リタイアをするけど、ほかのものは、社会的な『中程度の成功』をめざして、普通に社会生活をするのであるから、貧乏系リタイア生活をそれほど、啓蒙する必要がないという、意見がある。


しかし、そういう議論がまったく成り立たないような、すごい状態になってしまった。

まあ、前投稿の通り、前提が崩れてしまったので、こういう議論には意味がなくなってしまった。

いままでの社会ということを考えるなら、貧乏リタイアと普通のリタイアのあいだには差がある。貧乏リタイアをする人は、労働を毛嫌いしている。普通の労働にはたえられないのである。この切迫感。この切迫感が、五〇代まで普通の労働をしてきた、普通のリタイア者には理解できないのである。

両者は、ともに、「会社での労働がいやだ」と言う。両者はともに会社の仕事の愚痴を言う。けど、『いやさの度合い』がちがいすぎる。だから、話があわない。貧乏リタイアをする人は、普通の会社の労働にたえられないのである。

そういうレベルできらいなのである。

五〇代まで普通の労働をしてきた人は、事実、普通の会社の労働に何十年間も耐えてきた。まあ、三十数年間ということにしておこう。三十数年間にたえてきた。いやいや、たえてきた。……たえてきたという事実。

たえなければ、普通のリタイア生活をおくれない。普通のリタイア生活をささえるじゅうぶんなカネを貯金することができない。あるいは、資本金として運用することができない。

ようするに両者ともに「仕事がいやだ」と言っているけど、その『いやさの度合い』がちがいすぎるのである。

一方は、たえられないと思っている。一方は、たえてきた。このちがいがでかすぎる。

どっちがいいかということではなくて、ともかく、ちがいがある。

このちがいを無視すると、どこまでも、話があわないということになる。『いやさの度合いが違う』……ここのところを、考えるべきだ。

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まあ、すべてが、ひっくりかえるからねぇ。

いままで価値観で生きてきた人たちが……。かわる。

いままでの延長線上にある世界というのは、黒の総攻撃がなかった場合の世界

 いままでの延長線上にある世界というのは、黒の総攻撃がなかった場合の世界だ。総攻撃があったのだから、総攻撃がなかった場合の世界というのは、ない。

白が勝ったのだから、黒が総攻撃後にえがいていた世界もない。みんな、いまの時点だと、いままでの延長線上にある世界しか、想像してない。

セミリタイアやリタイアに関して語るときだって、仕事について語るときだって、いままでの延長線上ある世界を前提にして、未来を語っている。あるいは、いままでの延長線上ある世界を前提にして、今現在あるべき姿について語っている。

けど、それは、もう、むだだ。いままでの延長線上ある世界がなくなってしまったのだから……。

最大限の悪意がなければできないことを、悪意なしでやる

 ほんとうにきちがいは、最大限の悪意がなければできないことを、悪意なしでやるんだからな。きちがい家族に、たたられたことがないやつが、わかったようなことを言うな。えらそうなことを言うな。きれいごとを言うな。きちがい家族にたたられたことがないから、えらそうなことを言える。きちがい家族に、毎日連続で、悪意なしにたたられたことがないから、きれいごとを言える。

俺にえらそうなことを言ってきたやつは、みんな、きちがい家族にたたられたことがない連中だ。それだけで、まったく条件がちがうということがわからないのか? 「できる」のは、たたられてないからできるんだぞ。俺だって、きちがい兄貴にたたられるまえは、通学できた。毎日決まった時間に起きることかできた。これ、ほんとうに、普通の騒音じゃないし、普通の状況じゃない。これ、ちがうんだよ。たたられてないから、通学、通勤ができるだけなのに、えらそうに……。俺は通学ができた。けど、ヘビメタ騒音に破壊された。それは、最大限の努力して、がんばってがんばって、根性を出して根性をして、ずっと毎日やって、破壊されたんだ。けど、きれいごとを言うやつは、「根性を出してやればいい」「通勤ができないなんて言うのはあまえだ」と言う。「できるできると言えばできるようになる」と言う。「いつもニコニコしていればいい」と言う。「鏡の法則が成り立っているから、まず、ゆずればいい」と言う。きれいごとが成り立つなら、兄貴がやめてくれなければならないんだよ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではない、普通の兄貴になってくれなければならないんだよ。「勉強するから静かにしてくれ」と俺が言ったら、しずかにしてくれなければならないんだよ。それが成り立つなら、俺の側が、「きれいごとに」あわせることかできる。きれいごとにあわせられなくなったから、こまっているのに、きれいごとを、おおいかぶせてくる。きれいごとが成り立たないから、毎日、ぎりぎりの努力をしてボロボロになっている、さらに、きれいごとをおおいかぶせてくる。きれいごとで、きちがい兄貴を、きちがいではない兄貴にすることができるのか? 

おまえは!! そういうきれいごとを言う人は、俺のきちがい兄貴を、きちがいではない、普通の兄貴にすることができるのか? できないのであれば、だまっていろ!!!

おまえ、ほんとうに、あの朝を、数千日、経験してみろ。連続で数千日、経験してみろ。そんな、きれいごと、絶対に言えなくなる。「これはちがう」ということがわかる。そういうの……きれいごとやたてまえが……毎日毎日、きちがいヘビメタの音でふっとんじゃう。どれだけくるしい時間が続くか、ほんとうにわかってないな。わかってないやつが、「俺だってくるしいことはあった」とか「俺だって、騒音ぐらい経験した」とかということを言う。けど、きれいごとを言える状態なら、ほんとうに、たいした苦しみじゃなかったということだ。今現在、きれいごとを言える状態なら、過去における騒音は、たいした騒音じゃなかったということだ。そんなにひどい音ではなく、短い期間の騒音だったということだ。もし、俺とおなじぶんの騒音を、経験していたら、絶対に!くちがさけても!!!そんなことは、言えない。ボロボロになって、通えない状態になっている。本人が通える状態で、きれいごとを口にすることができるのであれば、それは、たいした騒音じゃなかったということだ。破壊されてないだろ。睡眠回路を破壊されてないだろ。人生ぜんぶを破壊されてないだろ。そんな、限定的な騒音と、俺の騒音……きちがい家族による、大音量の連続騒音を、いっしょにするな!! 俺に対して、失礼だ。俺とおなじ期間の長さ、俺とおなじ騒音を経験した人であって、なおかつ、通勤通学ができる人だけ、俺にきれいごとを言え!! 未成年で、家族にやられた。これが重要だ。俺とおなじ期間の長さと書いたけど、それだけではなくて、最低でも、一一歳から二〇歳まで、毎日、きちがい的な騒音を鳴らされたやつだけ、俺に説教をしろ。説教をできるたちばならばな!!!

 

 

2022年3月28日月曜日

「そんなのは、へんだから、ほんとうの話じゃないのだろう」

 ほんとうに、悪い意味で、きちがい的な親にたたられた人間が経験したことなんて、普通の人はわからない。わからないでものを言う。生まれの格差と言っているけど、生まれの格差には、主に、ふたつある。ひとつは、カネの格差。もうひとつは、親の格差だ。正確に言えば「親の性格」の格差だ。「の」が繰り返されるので、あんまり、そういうふうには言いたくないのだけど、「親の性格」の差がでかすぎる。これは、何度も言うけど、時間とともに、拡大していく。生まれの格差というと、生まれたときに固定して、あとはそんなに変わらないような感じがするかもしれないけど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。親の頭が、わるーーい意味でおかしいばあい、むなくそわるい出来事が、積み重なっていくのである。で、普通の人は、わるーーい意味で、頭がおかしい親がどういう態度で、どういうことをするかなんて、まったく、わからない。これ、説明してもわからないんだよ。「そんなこと、ないんじゃないの」とか「なんか、誤解をしているのではないのか」とかと言われてしまう。

ともかく、積み重なることなんだよ。時間の経過とともに、わるい経験がつみかさなって、のすごい差になっていくわけ。まるで、そういうことがないような感覚で、生まれの格差・上の人と生まれの格差・中の人が、 生まれの格差下の人をののしる。無理解な発言をする。これ、親がおかしいのに、やられている子供のほうがおかしいような感じになってしまう。「そういうことがないような感覚」というのは、「そういうことが現実世界で発生しないという認識のもとに(子供側の発言を判断する)」ということだ。もっと平たく言うと、「そんなのは、へんだから、ほんとうの話じゃないのだろう」ということだ。

 

 

「におうから、片づけてくれ」と言われたときの親父の態度と「うるさいから、しずかにしてくれ」と言われたときの兄貴の態度が、おなじ

 親父がやったことで、俺に文句を言うな!!!と絶叫したくなるときがある。みんな、親父が認知症になったから、そういうことをしたと思っているのだけど、ちがうんだよ。もともと!の性格なんだよ!!! 認知症は関係がないの!! はっきり言えば、俺が、幼稚園児のときのほうが、ひどかったんだよ。親父がやったことのしりぬぐいで、俺が批判の矢面に立つのは、いやなんだよ。いつもいつも、いつも、いつも、いつも、そうなる。これ、きちがい親父がそうしようと計画をたててやったことじゃないんだよ。たとえば、俺がネズミ業者との折衝でこまるように、わざと、ネズミ工事に(ずっと反対した)というわけではないのだよ。けど、実際に、ネズミ工事の人がうちにくるとなると、そのときは、親父はうちにいないわけだから、俺が対応することになる。で、ダニだって、俺が気を遣わなければならない話になるんだぞ。ネズミの糞だって、俺が、気を遣わなければならない話になるんだぞ。そして、外に出ると、きちがい親父が、きちがい的な意地で植えた植木がたくさんある。そうなると、やぶ蚊がいっぱいいるということになる。業者の人がやぶ蚊に刺されて、「あっちで、話しましょう」と言って、道路に出て、うちからはなれて、話すことになるんだぞ。俺だって、蚊に刺されたくない。だから、「そとから見なくていい」と言ったのだけど、「それだと見積もりができない」というから、外に出たくないのに、出て話したんだ。俺だって刺されている。けど、業者の人が刺されると、俺が気を遣うんだよ。俺が気を遣うの……。そういうことが、多すぎた。で、ネズミ工事に反対しているときの親父に、どれだけなにを言っても、聞かないんだよ。普通人なら絶対に、あんなに、ネズミの糞がころがっているのに、気にしないなんてことはないんだよ。「ネズミの糞で病気になったらこまるだろ」と言ったって「ならないよ!ならないよ!」と気ちがいみたいに絶叫して終わりなんだ。けど、そういうところを見てない業者の人は、俺と、このうちで会うわけだから、「こんなところに住んでいる人がいるのか」みたいな感想をもつんだよ。蚊だって、ネズミだって、親父が、きちがい的な意地で原因をつくったの!! どれだけ言っても、聞かなかったの!! そして、普通の人の思考だと、「そんなことはないだろう」と思うの!!! 手短に言って、きちがい親父は、ネズミの糞で、病気になったのだと思う。糞じゃなくても、ネズミのばい菌で、急性胆嚢炎になったんだよ。ダニのことだって……。ダニのことだって……。言えば、きちがい的な意地で、否定する。これは、なんていうのかな、自分がやったことでもそうなんだよ。修正がきかない。たとえば、きちがい親父がきちがい的な意地で、酒糟がついた魚の切り身を、一日に二十三時間ぐらい、テーブルの上に置くことに固執した。きちがい親父が意地になってやったことなの。けど、入院したときに、「親父が、酒糟がついた魚の切り身を、一日に二三時間ぐらい、出しておいたから、ネズミがくるようになった」と言えば「出してないよぉ!!出してないよぉ!!」と絶叫するの。で、そのときの態度が、「酒糟のついた魚の切り身がにおうから、出しておかないでくれ」といったときの態度とおなじなんだよ。「におわないよぉ!におわないよぉ!」と発狂して怒鳴っておしまいなんだよ。基本的なところで、そういうことしかできない人なんだよ。自分にとって不都合なことを言われたら、感覚器が正常なら、否定できないことを言って、否定して、怒り狂って、相手が言った通りに動かないようにするんだよ。ぜんぶ、そうなんだよ。俺が幼稚園のときからそうなの!! おかあさんから聞いた話を考えると、俺が生まれるまえからそうなんだよ。そして、この親父の態度は、兄貴の態度おなじなの!! だから、俺が、ずっと、ひとから、誤解をうけるんだよ!! きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度が、きちがい親父のネズミに対する態度とおなじなの。「におうから、片づけてくれ」と言われたときの親父の態度と「うるさいから、しずかにしてくれ」と言われたときの兄貴の態度が、おなじなんだよ!! 俺が人から、誤解をうけるんだよ!!

 

 

2022年3月27日日曜日

日本でも闇が、負ける。闇の支配が終わる

いままでの延長線で、将来のことを考えることがはやっているけど、それはむりだ。ぼくにしても、いままでの延長線で、将来を考えなければならない部分がある。けど、ぼくの場合は、それは、かなり現実可能性が低いこととして認識している。これ、ほんとう、みんな、気づいてないけど、むりだ。もう、こうなってしまったら、いままでの延長線上にある未来というのはない。

リタイア計画をたてるとなると、どうしたって、いままでの延長線上にある未来を前提にして、計画をたてざるをえない。しかし、それがむだなのだ。未知の領域に入ろうとしている。世界は……。日本では、闇が支配しているけど、基本的には光が闇に勝った。なので、時間の問題で、日本でも闇が、負ける。闇の支配が終わる。

けど、移行期間の「つなひき」はある。



 

悪のシステムときれいごと


一段階目のやつが、二段階目のやつを踏んづける。二段階目のやつが、三段階目のやつを踏んづける。三段階目のやつが、四段階目のをやつを踏んづける。


もちろん、一段階目のやつは、二段階目のやつだけではなくて、三段階目のやつや四段階目のやつを踏んづけることができるし、実際、踏んづけている。
N段階目まであるとすると、N段階目のやつは、その上のすべてのやつらに踏んづけられたうえに、「踏んづけられるのが悪い」とせめられる。
こういう世界だ。そして、「いつもニコニコしていれば、しあわせになる」とか、「できると言えば、できる」とか「人に親切にすればしあわせになれる」とか「すべては受け止め方の問題だ」とかというきれいごとが、こういう世界を維持するためにつかわれる。


こういうきれいごとは、こういう支配体系と、セットになっている。補助システムなのである。言論だけではなくて、慈善団体や宗教団体が、このシステムを補助している。だから、N段階目のやつは、うかばれない。踏んづけられて、踏んづけられるからだめなんだと説教を食らい、まったく役に立たない助言をされる。役に立たないどころか、マイナスの助言をされる。

マイナスの助言というのは「いつもニコニコしていれば、しあわせになる」とか、「できると言えば、できる」とか「人に親切にすればしあわせになれる」とか「すべては受け止め方の問題だ」とかということだ。


これらは、N段階目の人の首をしめる。くるしめることにしか貢献しない。「いつもニコニコしていれば、しあわせになる」とか、「できると言えば、できる」とか「人に親切にすればしあわせになれる」とか「すべては受け止め方の問題だ」とかということが成り立つには、まず、こういう段階システムがなくなってないとだめなのだ。
こういう段階システムを維持したままそういうきれいごとを言うことは、こういう段階システムを、強化することになる。


N段階目の人だけではなくて、N-1段階目の人だって、N段階目の人のようにくるしい思いをしている。けど、N-1段階目の人は、N段階目の人には、いばれる。


N-1段階目の人は、N-2段階目以上の人にやられたことを、N段階目の人に、やることができる。踏みつけて、説教をして、ダメ出しをして、おまえが悪いからそういうことになると言って、すべては受け止め方の問題だと言って、いつもニコニコしていれば、しあわせになれると言うことができる。


実際には二段階目以下の人は、こういう状態だ。数はちがうけど、おなじことが成り立っている。一番上以外、幸福にしないシステム。それが、この世で採用されてきたシステムだ。

注意しなければならないことは、精神世界の人が普通に言っているきれいごとは、こういうシステムを、維持することに役立つということだ。こういうシステムが、より強固なものになってしまうのである。
 

2022年3月26日土曜日

言霊と段取り行動 言霊思考と条件の無視

 

 「言えば、言ったことが現実化する」というのは、「私は魔法が使える」と言っているのとおなじなのである。まるまるまると発言するだけで、現実にそうなると言っているのだから、魔法の呪文を唱えると、すべてが現実化すると言っているのとおなじだ。

言うだけで、そうなるのである。言えば、そうなるのである。だから、そういうことが現実化してほしい人は、そうなると「ひとこと」言えば、実際にそうなるのである。「ならないということはないのである」。

たとえば、私は天皇になると言えば、天皇になってしまうのである。言うだけで、天皇になる。実際に天皇になる。頭のなかで、天皇になるだけではなくて、現実世界で天皇になるのである。あるいは、私は、Aさんを天皇にすることができると言えば、できると言ったのだから、できるのである。そういう力をもっているということになる。なので、ほんとうは、「私」が考えたことは、すべて、実現化するということを言っている。そして、実現化させる方法は、言うということなのである。ただ単に、「言えば」そうなるのだから、言うだけで、現実化する。 

 

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言霊的なことを言う人たちは、自分のことについては、自分の条件について、知っているので、その条件を重視して、現実世界において重要な行動をすることになる。この、現実世界において重要な行動というのは、「言うこと」以外の行動だ。とりあえず、これを段取り行動ということにしよう。たとえば、おいしいカレーを食べたいとする。おいしいカレーを食べるには、「目の前においしいカレーがあらわれる」「私は目の前のカレーを食べることができる」と言えばいい。しかし、実際には「目の前においしいカレーがあらわれる」と言っても、目の前においしいカレーがあらわれることはない。それだけでは、おいしいカレーがあらわれない場合のほうが多い。だれかと打ち合わせをしておいて、私が「目の前においしいカレーがあらわれる」と言ったら、事前に作っておいたおいしいカレーを私の前に運んでくれと言っておけば、「目の前においしいカレーがあらわれる」と「言っただけ」で、おいいカレーがあらわれることになる。しかし、それは、例外だ。「目の前においしいカレーがあらわれる」と何千回言っても、「それだけ」では、おいしいカレーがあらわれることは、わずかな例外をのぞいてない。わずかな例外に関しても、事前に段取りをしておいたということにすぎない。実際には、おいしいカレーを食べたいと思ったときには、おいしいカレーをつくって食べるとか、おいしいカレーを食べさせてくれるレストランに行くとか、おいしいカレーを配達してくれるところに注文の電話をするということになる。それは、段取りでしょ。こういう段取り行動が必要だということは、「言っただけでは出てこない」ということが成り立っているということを意味している。そして、「言っただけでは出てこない」ということを言霊信者も知っているということを意味している。特別な段取りをすませておく場合を除いて、言霊信者だって、「言っただけでは出てこない」と言うことを知っているのだ。言霊信者だって、おいしいカレーを食べたいと思ったら、「目の前においしいカレーがあらわれる」ということを言わずに、おいしいカレーを提供している店に行くという行動をとったり、おいしいカレーを提供しているところに出前の電話をかけるという行動をとったり、あるいは、自分でおいしいカレーをつくるために、カレーの材料を買いに行ったり、あるいは、すでに買ってあるカレーの材料で、おいしいカレーをつくるということをする。実際には「言えばそうなるのだから、そうなるように言う」というような行動をとってない。「おいしいカレーを食べられる」と言えば、おいしいカレーが食べられるようになるのだから、「おいしいカレーを食べられる」と言うだけで、おいしいカレーが食べられなければならない。具体的には、目の前に、おいしいカレーがあらわれなければならない。実際には、さらに、おいしいカレーの一部を取り出し、くちまで運ぶというような行動や、くちのなかに入れたカレーの一部を咀嚼するという行動が必要になる。こういう、あたりまえの行動だって、できない人はできない。これは、できない人には、できる条件がかけていると表現してもいい。自分の手を動かさず、「カレーよ、私の口の中に入っておいで」と言えば、カレーが勝手に口の中に入ってくるということは、普通の場合はない。そして、普通の場合はないということを、普通の言霊信者は知っている。しかし、「言えば、現実化する」ということを言う。「言えば、現実化する」のであれば、おいしいカレーを食べるには、まず、目の前においしいカレーがあらわれる」と言ったあと、私の口の中に入っておいで」と言えばいいということになる。それ以外の方法は「必要がない」のである。……もしかりに、言霊信者が言うように「言えば、現実化する」と言うことが真実であるのであれば、そうなる。ところが、言霊信者は、「言っても、現実化しない」ということを知っているので、言霊信者にしても、おいしいれカレーが食べたくなったら、具体的な段取り行動をするということになる。どの、段取り行動が選ばれるかは、その人が抱えている条件によってちがう。そして、条件を判断したあと、本人にとって最適な、あるいは、本人が最適だと思うような段取り行動をするということになる。なのであれば、現実化させているのは、実際の段取り行動だということになる。「言うこと」とはまったく関係がない「段取り行動」をするということが、現実化させている。なにを現実化させているかというと、その人の、願いだ。この場合は「おいしいカレーを食べたい」という願いを、この人が、実際の段取り行動をすることによって、現実化させている。言霊信者さえも、じつは、そういうことをしている。考えるまでもなく、自分の『条件』を考えて、どういう段取り行動がふさわしいかを判断して、「自分がその時点でふさわしいと思った」段取り行動をするから、願いが叶うのだ。けっして、言っただけでは、かなわない。しかし、言霊信者の場合、たとえば、「私はおいしいカレーを食べる」と言ったあと、「自分がその時点でふさわしいと思った」段取り行動をしはじめるのである。そうすれば、「言ったから、現実化した」と考えることができる。「私はおいしいカレーを食べる」と言ったから、おいしいカレーが食べられたと考えることができる。本人のなかでは、言ったから、現実化したということになる。しかし、その人は、自分が実際に段取り行動をしたということを無視している。そして、段取り行動が可能でなければ、おいしいカレーを食べることができなかったということを、無視してしまう。

 

 

2022年3月24日木曜日

悪が支配していたということを、認めずに、あるいは、無視して、「精神世界の話」をすると、全部、まちがうことになる

 いままで、悪が支配していたということは、肝に銘じなければならない。ところが、いままで、悪が支配していたということを、認めずに、あるいは、無視して、「精神世界の話」をすると、全部、まちがうことになる。無視してはいけないことだ。これからは、ひかりの時代になるのだから、そんなのは関係がないとは、言えない。悪が支配していた社会に住んでいて、その社会の構成員なのに、あたかも、悪が支配してないかのようなことを言うのは、まちがっている。引き寄せ、言霊、思ったことは現実化する(ぼくの言葉で、思霊)というのは、「悪が支配していた」ということを無視してしまっている。だから、悪のなかの「きれいごと」になってしまう。これでは、悪の支配者が発しているメッセージとおなじになってしまう。悪の支配者が、悪の支配者にとって都合がいいことを、ささやき続けてきた。それらは、けっして、悪く見えないのである。ポジティブ思考、プラグマティズム、アドラー心理学、成功哲学、全部が全部、悪の側の、都合がいい、きれいごとだ。なぜ!! なぜ!! 実際にはある格差を無視してしまうのか? 生まれの格差を無視してしまうのか。あたかも、生まれの格差がないような前提で、きれいごとを言うことは、じつは、悪いことなのである。神の光がとどかない世界を維持しようとするたくらみなのである。悪魔のささやきというのは、けっして、悪いように聞こえないのである。悪魔に感情を支配されている人は、ポジティブ思考、プラグマティズム、アドラー心理学、成功哲学、に価値があると思っているのである。そうやって、積極的に、自分の思いをとおそうとする。けど、それが、じつは、悪になる。とくに、人が抱えているハンディを無視して、きれいごとを語ることは、むしろ、悪いことなのである。まず、これに気がつかないと、一切合切、よくならない。社会はよくならない。地球はよくならない。人間はよくならない。

友だちと、えらく差がついてしまったなぁ

 ヘビメタ騒音がはじまってから、ほんとうに、ズタボロなんだよな。すべてがズタボロだ。睡眠回路を子をされたのが一番でかいけど、勉強時間も、すべての楽しい時間も、うばわれた。ヘビメタ! ヘビメタ! ヘビメタ! の人生。友だちと、えらく差がついてしまったなぁ。

ほんとう、体力も、恋愛の機会も全部、うばわれた。あの騒音のなかで、女の人と付き合っても、うまくいかない。ぼろくそにしんどい。そして、ほかの人はわからないと思うけど、一定の期間続いてしまったら、鳴り終わっても、鳴らされて続けているのとおなじような、身体状態になる。眠るべき時間に眠れないからだになる。つねに、ボロボロにつかれているからだになる。一定の期間って、だいたい一〇年間毎日だ。 

ともかく、つまらない。ともかく、つかれた。ともかく、ヘビメタ騒音でくるしい。ずっと、くるしい。切れ目なく、ずっとくるしい。だれにも、わからない。

正直言って、つかれた。

 正直言って、つかれた。

眠たくはないし、買い物にも行きたくはない。なんか、きのうと、今日と、寒い。このあいだ、やたらとあたたかくなったのだけど……最近、寒くなっている。

二階のドアの下に、両面テープを使ってプラダンを貼っておいた。切って加工したけど……。めんどうであった。しかも、あの作業をすると、あそこで、床と顔が近くなる。そうなると、ダニに刺される可能性が高くなるのでいやなのだ。どうも、だいじょうぶだったみたいだ。

ほんとうは、いきいきと引っ越しの段取りをしなければならないのだけど、元気がない。気力がない。きちがい親父とネズミとダニに最後の気力をもっていかれた。気力が減ってしまったのは、きちがい兄貴のヘビメタ騒音だ。ともかく、つかれた。

 

2022年3月23日水曜日

まじで、飢え死にでおどす社会が終わるよ~~

 まじで、飢え死にでおどす社会が終わるよ~~。終わることは決定しているよ~~。問題は、移行期間と、移行期間の長さだ。移行期間の長さは、個々人の人生に決定的な影響をあたえる。けど、飢え死にでおどす社会は、そのうちに、おわる。

飢え死にでおどす社会というのは、働かないやつは飢え死にするがいいというコンセプトによって成り立つ社会だ。ようするに、「働かざるもの食わざるべし」が基本的なルールとして実行されている社会だ。こういう社会に生きてきた。

しかし、これは、そのうち、ほんとうに終わる。

成人したら、関係がない」というようなことが言われる。ようするに、二〇歳になった瞬間に、いままでのことは「なにしなる」ということだ。

しかし、これが嘘なのだ。

生まれの格差というのは、時間の経過とともに、拡大していく。これはもう、幾何級数的に拡大していくと言っていい。

どういうことかと言うと、「生まれの格差・下」の人は、悪い出来事を経験して、悪い出来事がつみかさなり、「生まれの格差・上」の人はいい出来事を経験して、いい出来事がつみかさなるということだ。

時間の経過とともに、経験がつもっていくのである。悪い経験は、次の悪い経験をうみだす下地になるので、幾何級数的に、格差が拡大していく。生まれ落ちた時点の「格差」がそのまま続くようなことを考えている人たちがいると思うけど、それは、ちがう。

生まれ落ちた時点の格差が「格差」がひろがっていくのが、この世なのである。この、悪に支配された世界なのである。最初から、拡大するようにできているのであって、最大限の努力をしても、拡大していく。圧倒的な力で拡大していく……そういうふうにできている。

「意志」の力で、拡大を最小限にするということもできない。「意志」の力で、逆転するなんてことはもっとできない。この、意志の力というのも、じつは、優位に立つ人が、作り上げた幻想なのだ。

ていのいい嘘なのだ。

成功者はいるというかもしれないけど、詐欺行為で成り上がったような人たちばかりだ。

こういうのは、生まれの格差を克服したとは言えない。それに、ぼくが言っているのは、親の格差とおカネの格差だ。このふたつをあわせて、「生まれの格差」と言っている。

言霊や認知療法の理論、アドラー心理学の理論、意志教は、じつは、悪い社会を維持することに役立つ。悪い社会をこわすような要素というのがない。これにさらに、寄付行為と「経済的に成功しさえすればいい」というような意味での「成り上がり思考」も、悪い社会をこわすような要素というのがない。

生まれの格差が、幾何級数的に拡大する社会を「維持する」のに役立つだけで、生まれの格差の問題を解決することはない。これは、ワクチンとおなじような構造をもっている。(ワクチンに関してはここでは書かない)。

ともかく、努力で、格差を縮めることができるというような考え方は、じつは、格差がある社会を是認して、維持することにだけ寄与する。

個人史的には、不利な状態で生まれた人は、不利な出来事をたくさん経験するようにできているし、有利な状態で生まれた人は、有利な出来事をたくさん経験するようにできている。

逆はない。

常に、不利な状態で生まれた人には、不利で不愉快な経験がつみかさなり、有利な状態で生まれた人には、有利で楽しい経験がつみかさなるようにできている。

もちろん、「悪が支配する」社会だから、転落はある。他人をおおく蹴落とした人が勝ちというルールが成り立っている社会なので、有利な状態で生まれても、蹴落とされる可能性はある。

なので、「有利な状態で生まれた人には、有利で楽しい経験がつみかさなるようにできている」とは言えないと考えるかもしれないが、それはちがう。

有利な状態で生まれても、蹴落とされる可能性はあるけど、その可能性は、不利な状態で生まれた人が蹴落とされる可能性よりも、低いのである。こういうところで、有利な状態で生まれた人のほうが、有利なのだ。

地合いが「黒」であるといこうことは、非常に重要なことだ。しかし、地合いが黒であることは、たとえば、努力について語られるときは、無視されてしまう。

つねに、そういうトリックがある。努力という軸を考えた場合、努力をする人間と努力をしない人間という二種類の人間にわけられる。そして、努力をする人間についても、ものすごく努力する人と、たいして努力しない人の段階ができあがる。

ようするに、努力という軸考えた時点で、努力という軸だけで、すべてのことが「努力のありなし」や、「努力の段階」で、説明されることになるのである。「地合いが黒」であることは、少しは関係があるかもしれないけど、関係があったとしても、たいして関係がないということで、無視されてしまう。

生まれの格差に関しても、少しは関係があるかもしれないけど、関係があったとしても、たいして関係がないということで、無視されてしまう。「努力の軸」だけを考えれば、ほかのことは、はるか後方にしりぞいて、影響をあたえないものになってしまうのである。

しかし、実際には、努力の軸よりも、生まれの格差や、地合いが黒であるか白であるかということが、影響をあたえる。その人の人生や現在の立場に影響をあたえる。努力の軸というのは、生まれの格差の一要素でしかない。

努力の軸というのは、地合いが黒のなかで、意味をなすので、地合いが黒であるということのなかに、含まれている。

ようするに、努力の軸のほうが、生まれの格差や地合いが黒であるということよりも、小さいのである。努力の軸のなかに、生まれの格差や地合いが黒であることが含まれているのではなくて、生まれの格差や地合いが黒であるということのなかに、努力の軸が含まれている。努力の軸というのは、人生の格差や、地合いが黒であるということを前提にした話なのだ。

どっちが前提なのかということは、ものすごく重要なことだ。

しかし、努力について語っているときは、努力ですべてが決まると言って、どっちが前提なのかということについては、話さない。

あるいは、文脈のなかで無視をする。たとえば、生まれの格差などというものは、努力でねじ伏せることができるものであるということが言われる。おなじように、地合いが黒であるということも、たゆまない努力でねじ伏せることができるということが言われる。

まあ、「地合いが黒」なんて表現は使わないけどね……。努力教徒は、努力をすれば「そんなのは」どうにでもなるという主張をする……。努力と言ってきたけど、努力を「意志の力」と言い換えてもまったくおなじことが成り立つ。意志教徒は、意志が強ければ「そんなのは」どうにでもなるという主張をする。

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地合いが白になれば、そもそも、他人を蹴落とす必要がなくなる。飢え死にするかもしれないから、働かなければならないと思うことがなくなる。

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ワクチンに関してはほかのところで書くことにした。 

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2022年3月22日火曜日

ああいうノリになってしまうのはおかしい

 死ぬわけにもいかないし……。けど、すごいテクノロジーでわかがえったとしても、たいして、かわりがないんだよな。失敗したなぁ。やっぱり、前日の騒音がこたえているんだよなぁ。どうしても、あれ、無理やりにポジティブな気持をもとうとすると、失敗する。その手の失敗なんだよな。騒音が半日あると、もう半日に影響をあたえる。不可避的でのがれならない。寝不足で、むりやり、モチベーションをあげようとすると、いいことにならない。人を巻き込んで、いいことにならない。ああいうノリになってしまうのはおかしいんだよな。いろいろとあって……つまり、騒音の影響をうけた体をひきずって行動していると……「もう、人はいいや(もう、人づきあいはいいや)」と思うようなことが発生する。そういう体験が、騒音生活のなかで、積み重なっていく。

 

この世のきれいごとは、じつは、ものすごく、きたないしくみのうえに成り立っている……地合いが黒なので

わかったようなことを言う人たちは、全員、悪に奉仕をしている。この世のきれいごとは、じつは、ものすごく、きたないしくみのうえに成り立っている。きれいごとではなくて、きたないことだったのだ。あっているようで、まったくあってないものだったのだ。道徳的なようでいて、ものすごく非道徳的なものだったのだ。

地合いが黒であることと、生まれの格差を無視した言説というのは、全部、まちがっている。地合いが黒であることと、生まれの格差を無視するな。サイコパスの支配構造を維持することに親和的な価値観というのは、全部、悪。 地合いが黒であることと、生まれの格差を無視して、きれいごとを言う人たちは、みんな、悪に奉仕している。本人がそれを自覚しているかどうかは別にして、悪に奉仕している。悪の構造を維持するために役立っている。

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できないからこまっているのに、できるようにすればいいという「クソ禅問答」。 しかも、地合いが黒であるということと、生まれの格差は、無視されている。

 

他人のうえに、非科学的な『意志の力』という幻想をおしつけるな

 

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地合いが黒であることや、生まれの格差を無視して、「言ったことが現実化する」「思ったことが現実化する」ということは 「強い意志をもてば、自分のことはすべて制御できる」ということと、かぶる部分がある。

「(自分は)ヤコブ病にならない」と言えば、ヤコブ病にならないのだし、「(自分は)ヤコブ病にならない」思えば、プリオンたんぱく質なんてまったく関係なく、ヤコブ病にならないのだ。「ヤコブ病にならないという、強い意志をもてば、自分はヤコブ病にならない」のである。

どうしてなら、自分のからだのことは自分の意志で制御できるからだ。

『自分のからだなのに、自分の意志で制御できないなんてことはない』と考えているからだ。本人が、自分ことについて、そう思うのは、別にどうでもいいけど、本人が他人に「強い意志をもてば、自分のことはすべて制御できる」という考えをおしつけるのは問題がある。

そして、「自分のからだなのに、自分の意志で制御できないなんてことはないのだから、自分のからだを自分の制御できないなんてことを言うのはあまえだ」と他人を侮辱するのはよくないことだ。これ、侮辱なのである。

意志教徒と意志教徒ではない人は、見えているものがちがうのである。逆に言えば、「無視している部分」がちがう。相手ということを考えると、相手の身の上にしょうじている物理的な現象を無視してしまうというのは、失礼なことなのである。

これ、ほんとうに、頭にくる。他人のうえに、非科学的な『意志の力』という幻想をおしつけるな。そういう幻想のうえに成り立つ侮辱的な発言をするな。 

これほんとうに、他人が抱えているものが「見えてないだけ」なのである。そういう、傲慢なところがある。地合いが黒なのだから、こういう考え方に基づいた他人に対するアドバイスは、侮辱的なものになる。

これ、種明かしをされてみれば、なんてことはないトリックだったのだ。きれいごとが、悪い支配構造を維持するために役立っているだけだ。押しつけられたほうは、自殺するしかないというところまで、おいつめられる。これが悪ではなくてなんだ。これが、善であるように見えてしまうところに問題がある。

 

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2022年3月20日日曜日

できないからこまっているのに、できるようにすればいいという「クソ禅問答」

 いろいろと、説明するとなるとめんどうなことがしょうじるのだけど、いちおう、気楽に言っておくと、これからは、ひかりの時代になるので、さまざまなことが解決される可能性があるということだ。

もちろん、ひとによって、からだの問題が異なるので、ひとによって見える光景がちがう。ちがうんだ。けど、「方向性」としては、ひかりのほうに行くということだ。

いままで、ぼくは、地合いが黒とか、地合いが白と言ってきたのだけど、これは、そのまま地合いが闇、地合いがひかりと言い換えることができる。

これからは、いままでの常識がくずれて、(まるまるをからだに入れてない人は)生きやすい状態になる。けど、ぼくは、ここにたどりつくまでに、いろいろなことを経験しすぎた。からだの問題が異なるので、人によって見える光景がちがうと言ったでしょ。

ぼくにもそれが成り立つ。

からだの問題は、大きな問題だ。

もちろん、本人の意思ではどうにもならない!脳みその問題なども含まれる。これ、「意欲」とか「やる気」というのは、本人の意思とは関係がない脳みその物理的な都合で決まってしまうところが大きい。

しかし、意志教徒は、それを無視する。どうしてなら、脳みその物理的な都合まで、「意志」で制御できると思っているからだ。「制御できないなんていうのは、あまえだ」と思っているからだ。

けど、そういうふう思っている人だって、じつは、脳内で大きな血管が破裂すれば、動かせない部分が出てくる。あんまり言いたくない名称の物質が、脳内で増えれば、「意志とは関係がなく」ヤコブ病になってしまう。

まあ、たとえば、プリオンたんぱく質という物質がある。これは、ヤコブ病の原因になる。その場合、脳内のプリオンたんぱく質の増殖を、意志によって妨げることができるかというと、できないのだ。

まあ、意志の力で「よくなる」場合もあるだろう。奇跡が起きればね。

けど、それって、ほんとうに「意志の力」なのかな?

物理的なしくみが成り立っているから、なんらかの理由で、プリオンたんぱく質が急激に減ってなくなったのだろう。もし、復活するなら……。たとえば、プリオンたんぱく質を分解する物質が脳みそに入ってきたり、あるいは、免疫システムがプリオンたんぱく質を分解するのを助ける物質が入ってきたりして、実際にプリオンたんぱく質が減ったから、復活したのだ思う。

というわけで、からだの生化学的な物理的な事柄の進行に関しては、じつは「意志」で制御することができない。

けど、意志教徒はそれを認めない。意志教徒が信じているぶんには問題がない。けど、意志教徒が、そういうでたらめな意見を人におしつけると問題がしょうじる。

あるいは、ほんとうは、非合理的なことを言っているのにもかかわらず、合理的な装いをまとうと問題がしょうじる。まあ、手短に言うと、人におしつけるなということになる。ほんとうは、意志で制御できる部分というのは、限られているのに、あたかも、自分のことならすべて意志で制御できるという考え方がある。

この考え方は、一種の宗教的な信仰だ。生化学的な物理法則を無視しているのである。だから、ある意志教徒が、他者に向かって、「自分のことは、自分のことなのだから、すべて自分の意志で制御できるはずだ」という前提でものを言いだすと、問題がしょうじる。

はっきり言えば、めいわくなんだよ。「自分のことは、すべて、自分の意志で制御できる」という前提は、ほかの人にとって迷惑な前提なんだよ。

そして、じつは、非科学的だ。ところが、意志教徒のなかでは、「そういうこと」は科学的なことだということになっている。ほんとうは、非科学的な信仰なのに、科学だと言い切ってしまう意志教徒が、いかに多いか? めいわくなの! 

意志教徒こそが、あまえている。意志教徒にあまえていると言われてるものがもっとも、独立していて、もっとも、あまえていない。意志教徒は、自分の有利な立場を使って、人をののしっているような人間だ。生まれもった自分の有利な立場を利用して、不利な立場の人に無理難題を押し付けて、いい気になっているだけのサイコパスだ。 

じつは、言霊信仰や「思ったことは現実化する」という意味での思霊信仰は、意志教と同じ問題をもっている。


2022年3月19日土曜日

破滅的な気分のなかで、きちがいヘビメタを大音量で聞かされるといこうとになってしまう

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ほんとうにヘビメタ騒音がひどかった。どうしても、くるしい。どれだけ「やめてくれ」と絶叫しても、やめてくれなかった。あのときの、破滅的な気分と言ったらない。ヘビメタ騒音でトラブルが生じているから、「やめてくれ」と言っているのに、あのきちがいが……。ぜーーったいにやめてくれなかった。そうなると、破滅的な気分のなかで、きちがいヘビメタを大音量で聞かされるといこうとになってしまうのである。それが、どういう体験なのか、ほかの人にはわからない。影響をあたえないわけがないだろ。そんなのが毎日、何年間も続いて、いいわけがないだろ。経験がない人が、経験がないから「関係がない」「過去のことだから影響がない」と言っているだけだ。関係があるに決まっているだろ。影響があるに決まっているだろ。

 

 

「ポジティブのほうがネガティブよりいい」とか「効率的なほうが、非効率的な場合より、すぐれている」とか

それからちょっと言っておくけど、「ポジティブか」「ネガティブか」が価値基準の支柱になってしまうのは、よくないことだ。それは人間のこころを貧しくする。おなじように「効率的か」「非効率的か」が価値基準の支柱になってしまうのは、よくないことだ。それは人間のこころを貧しくする。

けど、悪が支配するこの世では、「ポジティブのほうがネガティブよりいい」とか「効率的なほうが、非効率的な場合より、すぐれている」とかということが言われる。

けど、これは、「すべての状態において」成り立つことではない。

けど、「すべての状態において成り立つことではないけど」というようなまえおきを置かないで、そういうことを言う。言っている人も、実際に、「すべての場合においてポジティブなほうがネガティブなほうよりもすぐれている」と思っているし「すべての場合において、効率的なほうが、非効率的な場合より、すぐれている」と特に意識することなく思っている。

効率的か非効率的かということを考える場合、じつは、視点が限られている。

ひとつの点において、効率性を優先すると、不可避的で連鎖的な一連の出来事がしょうじて、じつは、ある部分を阻害する。そのある部分というのは(その視点から見ると)非効率的なものであるかもしれないけど、じつは、こころの安定にとって必要なものだったりするのだ。

ならば、こころの安定という視点を導入すればいいということになるかもしれないけど、複数の視点について考えたとしても、個々の視点が、個々の視点である限り、ひとつの視点を導入したときおなじ問題がしょうじる。

複数の視点を導入しても、不可避的で連鎖的な一連の出来事がしょうじてしまう。不可避的で連鎖的な一連の出来事がしょうじてしまうと、導入されなかった視点から見ると、ネガティブなことがしょうじているということになってしまう。

この場合は、ネガティブなことというのは、非効率的なことと言い換えてもいい。ふたつの視点を導入したときに、ほんとうに、そのふたつの視点が両立するのかという問題も含まれている。

おなじことなんだけど、そういうことだ。

そうなると、優先順位をつけるということになる。優先順位をつけるということは、優先順位をつけるという上位の視点を導入したことになる。

なので、けっきょく、こういう問題を解決できない。


2022年3月18日金曜日

生まれの格差格差を無視した「幸福論」はすべて、うそ

生まれの格差格差を無視した「幸福論」はすべて、うそだ。眉唾物だ。

おなじように、生まれの格差を無視した成功法則は、うそだ。

生まれの格差を無視した「言霊の理論」はすべて、うそだ。

生まれの格差を無視した「認知療法の理論」はすべて、うそだ。生まれの格差を無視した「精神世界の話」はすべて、うそだ。

生まれの格差を無視して、「ポジティブだ」とか「ネガティブだ」と言っているものは、すべて、うそ。幻影。その人たちの勝手な妄想。

たぶん、そういう妄想が「いまの自分」にとって都合がいいものなのだろう。そういうレベルの話だ。成人するまでに経験したことが、成人したあとは関係がないなどいうことはない。成人するまでに経験したことは、そのあとの人生すべてに影響をあたえる。

生まれの格差というのは、なにも、経済的なことだけではない。どういう親の元に生まれたかということが、基本的な「格差」になる。この格差の上に、人格が成り立って、人生じょうのさまざまなな経験が発生するわけだから、影響がないということはない。

時期的に、ここまでなら、影響があるけど、ここからは影響がないと言えるようなものではない。上記の妄想をとなえる人たちは、よく、「大人になったら関係がない」ということを言うけど、それ自体も、まちがっている。

彼らが、そういう境遇のもとに生まれたということを意味しているだけだ。ようするに、「生まれの格差・上」か「生まれの格差・中」だから、そういうことを言える。「生まれの格差・下」の人が経験してきたことを経験してないので、想像上の経験になってしまうのである。

「生まれの格差・上」か「生まれの格差・中」の人が考える「生まれの格差・下」の人の経験というのは、「生まれの格差・上」か「生まれの格差・中」の人が、頭の中で想像した経験でしかない。これは、自己満足や自己優越感を感じることなので、「生まれの格差・上」か「生まれの格差・中」の人にとって都合がよいことなのだ。

じつは、逆のことも言える。「生まれの格差・下」の人が考える「生まれの格差・上」と「生まれの格差・中」の人の経験というのは、「生まれの格差・下」の人が、頭の中で想像した経験でしかない。しかし、それは、この世で、「生まれの格差・下」にとって、都合がいいものではない。


2022年3月16日水曜日

これは社会的な偏見だから、その社会に住んでいる人はみんなもっている偏見だ

 いままで、引きこもりや無職のために、がんばって、たたかってきたけど、もう、いいかなという感じがする。ほんとうに差別されているのは、「そんなことはないだろう」と思えるような属性をもった人たちなのだ。たとえば、外国人の差別撤廃とか障碍者の差別撤廃とか、言いやすいだろ。言いやすくなっているということは、差別がほとんどないということだ。逆差別すら、場合によっては生じてしまう状態だ。「差別撤廃」と言いやすいところは、もう、じゅうぶんに「たがやされている」ところ……「その主張が通りやすいところ」だ。そうじゃなくて、言いにくい感じがするところには、差別がある。これがわかってないんだよな。佐藤のような、俗物は。だってそうだろ。どれだけ、障碍者の差別撤廃をうったえていたって、本人は、無職や引きこもりに、俗物的な差別心をもっているわけだからさ。俗物と書いたけど、「ぼんじん」と書いてもいい。普通の人……。普通の人がもっているような差別心がある。その差別心は当たり前すぎて、差別だと感じないのである。逆に「無職だっていい」「ひきこもりだっていい」と言うことには、抵抗があるだろ。抵抗はどういう抵抗なのか? 自分のなかに、そういう人たちを「下に見る」というしくみがあるから、肯定できないことになっている。

けど、もう、ひかりの時代がくる。ひかりの時代になれば、少しずつかわっていく。ぼくの役目は終わったかな。まあ、自分が差別されたということが、実際の原動力であることは、否定しないよ。けど、これが、ヘビメタ騒音でしょうじたことなんだよ。ぼくの個人史ではそうだ。ヘビメタで、働けない体になったから無職になった。ヘビメタで、ひととのまじわりが、なくなってしまったので、ひきこもりになった。これは、おのおの、定義に合致するという意味で、無職であり、引きこもりなのである。この無職であるという属性や、引きこもりであるという属性は、本来は、ぼくには関係がないことだ。……もうちょっと正確に言うと、 無職であるという属性や、引きこもりであるという属性から「ふつうのひとなかに」しょうじる、ある種の偏見と、ぼくがぼくであるという意味でのぼくという存在との関係を考えてみると、「ふつうのひとなかに」しょうじる、ある種の偏見はぼくという存在そのものとは関係がないのである。わかるかな? 勝手に、こいつら……じゃなかった、凡人……じゃなかった……普通の人が、それぞれ、「無職」や「ひきこもり」に対して、ごく普通の偏見をもっているということだけなのである。この偏見は、だれにでもある偏見だ。ぼくにだってあるのだ。ぼくは意識しているけどね。そして、その偏見にやられないようにしてきたけどね……。これは社会的な偏見だから、その社会に住んでいる人はみんなもっている偏見だ。みんながもっているのであれば、「偏見」ではないのではないかということが、言えそうだけど、その問題はここでは、あつかわない。みんながもっていて、みんなが、特に偏見だとは思ってない偏見……こういうものを、ぼくはあつかってきたのだ。あつかいやすいものをあつかってきたわけじゃない。もう、公民権をもっている「差別に関する言論」をあつかってきたわけじゃないのだ。わっかっるっかっな?

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きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、きちがい的にでかい音で、ヘビメタを鳴らし続けたら……そういう毎日が何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も何年間も……続いたら、だれもが、通勤できなくなるのに、本当にそういうことがわかってない。かりにぼくが、「誰もが通勤でなくなる」と言ったとしても、実際に経験してないやつは、そう考えない。そいつは、自分なら通勤できると考えてしまう。あるいは、蚊のことが現在に影響をあたえるはずがないという、まちがった考え方にとりつかれていて、そういうふうに考えてしまう。ばかなんだよ。こいつらが、ばか。 

まったく、意味合いがわかってないんだよな。こんなやつら……。きちがいヘビメタがなかったら、相手にもしてやらないやつらなのに……。ほんとうに、ばか。思考力がない。人の立場に立って考えることができないやつ。そいつらが、俺のことをコミュ障だという。どうしてなら、エイリさんは引きこもりだからだ。引きこもりならコミュ障だという、まちがった考え方にとらわれているのだ。さらに、そういう考え方が間違いだということに気がつかないレベルのバカ。思考力のなさ。ほんとうに、きちがい兄貴にやられなかったら、こんなことになってない。さらに言っておくと、ぼくは別にたましいの学習のために、こういう環境を選んで生まれてきたわけじゃない。これも、そういう考えをもっている人は自動的にそう考えて、あほなことを言ってくる。たましいとか、うまれかわりということを考えてもいいけど、その場合でも、じつは、ランダムなんだよ。特に、意味がないわけ。ほんとうは、ぼくの環境が君の環境であった可能性もあるわけ。まったく、わかってないね。ある人がいたとしよう。その人がぼくの環境で育ったなら、やはり、通勤できないからだになる。ぼくだって、きちがい兄貴という「環境の要素」がなかったら、通勤できないからだにはなってなかった。ようするに、君だって、ぼくの環境なら、通勤できないからだになっていた。高校を卒業したとき、通勤できるからだだったということは、たまたま、『きちがい兄貴』という予想がなかったからだ。それなのに、まるで、自分が(エイリにくらべて)すぐれていると思って「人間は働くべきだ」と説教をしてしまう、底の浅いやつ。くそばか。こんなやつばかりの世界で、生きていたくないと思うのは、当然のことだ。佐藤みたいなやつは、そういうことを理解する頭がない。なんで、そこまで、横柄になれるのか。ばかすぎてはなしにもならない。

しかし、どうだ? 当時の状況を考えると、ほとんどの人が「佐藤さんのほうが正しい」と思ってしまうような状況だった。インターネットの発達で通勤できなくても、働けるようになったけど、当時は、働くというのは、通勤して働くということだった。もちろん、当時だって自営業というのはある。しかし、それだって、それなりの資本と社会経験(通勤歴)が必要だったのである。それなりの資本と社会経験(通勤歴)がないやつが、働けるような状態じゃなかった。当時は、働くというのは、通勤して働くということだったのである。

 

「元気だ元気だと言えば、元気が出る」なんて、言えない状態になる

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うんと手短に言ってしまうと、「元気だ元気だと言えば、元気が出る」と言っている人が経験した「困難」と、ぼくが経験した「困難」が困難の質において違うのではないかと思う。きちがい家族による頑固な、そして、自覚がないきちがい的にでかい騒音が毎日続くというのは、その人たちが、想像できない困難なのである。どうしてそういうことが言えるかというと、もし、きちがい家族によるヘビメタ騒音という困難を経験したなら……ずっと毎日、何年間も何年間も経験し続けたなら「元気だ元気だと言えば、元気が出る」なんて、言えない状態になるからだ。ぜんぜんちがうということに、気がつくだろう。何千日目に気がつくかは別にして。「元気だ元気だと言えば、元気が出る」と言っていられるということが、そういうことを明示している。そんなことは、言ってられなくなる。くるしくてくるしくてたまらない状態になる。

 

2022年3月15日火曜日

それらは、しつこくしつこく、俺が試してみて、負の効果しかなかったことだ。(2)

ヘビメタ騒音期間中はだめなのだ。ヘビメタ騒音期間が約十五年間と長いので、そのあとも、ヘビメタ騒音期間中とおなじ状態ですごすことになる。これが、ほかの人にはわからないんだよな。鳴り終わったのであれば、鳴り終わったのだから、影響はないと考えてしまう。けど、十五年間も毎日、やられたことが影響をあたえないなんてことはない。している。ともかく、言霊を信じている人には、きちがい兄貴がいなかったし、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音という出来事もしょうじなかった。……なので、わかってない。なので、自分のからだをとおして、わかってない。自分の経験をとおして、わかってない。わかってないので、影響を無視する。無視したところで「元気だ元気だと言えば元気になる」ということを言う。無視するな・・という気持ちが……こっちにはしょうじる。いずれにせよ、つきあえない。相手がのぞんでいるかいとうは「元気だ元気だと言ったら元気になりましたよ」ということだ。あるいは、ぼくが、実際に元気になっているということだ。「元気だ元気だと言えば元気になる」というすごいことを教えてあげたにもかがらず、元気じゃないというのは、言ってみればゆるしがたいことなのである。「なんで、おしえてあげたのにそうしないんだ」と思ったりする。言ったあと、ぼくが元気じゃないと、ぼくが元気じゃないということに不満を持ってしまうのだ。なので、対応としては、元気になってないけど、元気になったというようなふりをしなければならなくなってしまうのである。つきあうとするとそうなる……。けど、これは、よけいにつかれる。けど、言霊ではないけど、人間というのは、ある程度、ポジティブな状態を維持しているようしていなければならないのである。きちがいヘビメタが鳴ってない状態なら、そういうふりもできるけど、ヘビメタが毎日鳴っている状態だと、そういうふりをする期間にも上限ができてしまう。ヘビメタ騒音がはじまってからの期間と、ヘビメタ騒音がはじまるまえの期間をくらべると、普通の人の感覚というのは、ぼくにとってヘビメタ騒音がはじまるまえの期間の感覚に近い。だいたいおなじだ。ヘビメタ騒音がほんとうに毎日鳴ってからは、つかれ方がちがうのである。別次元のつかれ方なんだよ。きちがいが横の部屋で毎日同じ時間にずっとヘビメタを鳴らしているという状態になるまでは、なにか不愉快な出来事があっても、時間がたてば、それなりに復活できた。けど、それが、できくなるのが、ヘビメタ騒音なのである。で、これは、ほんとうに毎日やられるということが続かないとわからない……。経験的にわからない。言霊的な助言をする人は、わかってない人だ。

実際に鳴っていたということが重要なのに、鳴っている毎日を実際に経験した人と、鳴っている毎日を実際には経験しなかった人が、毎日、鳴っているとどういう効果がしょうじるかについて話をしているということになってしまう。鳴っている毎日を経験しなかった人が、その効果を推し量って、好き勝手なことを言うわけだ。推し量って言っているだけなのだけど、知らないという意味で、それは、確信なのだ。ようするに、『影響があるはずがない』という考え方が成り立っている。その影響というのはあったとしても、「元気だ元気だ」と言えば、完全に打ち消せるような『小さな影響』なのだ。鳴らされてない人にとっては、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音は、そういうことが起こらなかったのだから、「小さな影響だ」と断定できるものなのだ。何度も言うけど、これは、推測・推量なのだけど、その個人のなかでは、断定だ。そういうものでしかないものなのである。だから、そういうものでしかないものの、影響をうけているということが、「だらしがないこと」になってしまうのである。それは、どうしてかというと、影響をうけるはずがないものについて、影響をうけたと「ぐちぐち」「いつまでも」も言っているということになるからだ。その、経験のない個人のなかでは、こういう考えが否定できない。経験がないのだからしかたがないとは思うけど、そういう「かまえ」自体が、ぼくにとっては、不愉快なことだ。きちがい兄貴は、人をして、ぼくを、侮辱せしめる。きちがい兄貴のやったことというのが、普通の人の経験の範囲にないことなのだ。もちろん、「似たことだ」と経験がない人が判断するような経験はある。けど、似てない。その人には、きちがい兄貴がいなかったのだから、似てない。普通の人は、きちがい兄貴の構造について、普通に誤解をして、自分の経験のなかで判断をしてしまう。そして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、ぼくの社会的な地位、あるいは、学校での地位が低いものにならざるをえないので、ほかの人たち……きちがい家族がいない人たち……きちがい家族による、毎日続く、普通の家では絶対にありえない騒音というものを、経験したことがないほかの人たち……は、ぼくを、ぼくをしやすくなるのである。ぼくを侮辱しやすい地位を得ていると言ってもいい。それは、たとえば、働いているなら、(ヘビメタ騒音で働けなくなった俺)を侮辱しやすい地位にいるということになる。佐藤が、そういうことをしたわけだ。実際には、佐藤は、俺にあった当時、無職だったんだけどね。どうして、そういうことがしょうじるかというと、ヘビメタにやられているからなのだ。このヘビメタ騒音というのが、ほかの人にとって理解しがたいものなのである。普通の人は普通の家族を想定してものを言うから、いくらやりたくても、さんざんもめれば、やめてくれると思っているのだ。さんざん言って、喧嘩して喧嘩して、自己主張すればやめてくれると思っている。そういう、残念な家族がいたとしても、ほかの家族が、自分に賛成して、けっきょくは、やめせてくれると思っているのだ。そんなんじゃないからこまっている。普通の人たちは、きちがい兄貴だけではなくて、きちがい親父に関しても、誤解する。ごく自然に誤解する。しかも、誤解に気がついていない。うちのきちがい親父みたいな人にやられている家族は、ほかの人から、誤解される。ほかの人のうちには、うちのきちがい親父みたいな親父がいないので、想像することができないのである。話として聞いたとしても、「それは、まるまるだからでしょ」と言って別の理由を考え出してしまうのである。きちがい親父にとって、相手が「よそ」のひとか「うち」の人かということは重要なことだ。それですべてがちがってしまう。うちの人にやることは、よその人にやらないのである。これは、兄貴もおなじだ。よその人に、「うるさかいらやめてくれ」と言われたら、やめる人間なのである。けど、うちでは絶対にやめないし、絶対にやめてやらなかったということも、認識しない人間なのである。親父の話と兄貴の話がごっちゃになっているような印象をうける人もいるかもしれないけど、親父と兄貴の「脳みその構造」がおなじなので、別に、ごっちゃにしているわけではない。ちがうなら、言い分けなければならないけど、おなじなのだか、言い分ける必要がない。親父が主語になっているところは、兄貴を主語にしても成り立つし、兄貴が主語になっているところは親父を主語にしても成り立つ。ともかく、両方ともが、「普通の人」にとって理解しがたい存在なのである。なので、普通の人は、誤解をしてしまう。しかも、ほかの人にとって、うちの親父やうちの兄貴のことは、どうでもいいことなので、特に、修正しようとは思わない。自分のなかにある「考え」を修正してまで、俺の話につきあう必要はないと考えているのだ。だから、普通の人は、佐藤が誤解したように、誤解する。

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ヘビメタでどうしてもつらい。くるしい。まるまるたい。 


 

 

それらは、しつこくしつこく、試されてみて、負の効果しかなかったことだ。(1)

きちがいヘビメタの破滅的な影響についてみんな、理解してない。わかってない。完全にわかってない。あの空間の意味がわかってない。あの時空の意味がわかってない。実際に鳴っているとき「どういう気持ちになるか」わかってない。実際に鳴っているとき「どういうからだの状態になるか」わかってない。

俺が、たとえば、やりもしないで「元気だ元気だと言えば元気になる」というようなことを否定していると思っているのか? 俺の数千日の努力がわかってないな。あの体が、わかってないな。あの体の状態がわかってないな。言霊思考で言ってしまうけど、ポジティブ思考も認知療法的な考え方もおなじだ。おなじなんだよ……。

それらは、しつこくしつこく、試されてみて、負の効果しかなかったことだ。きちがいによるヘビメタ騒音だと、そうなのである。けど、「そうなのである」ということが、実際にきちがいにやられた人じゃないとわからない。しかも、そのきちがいが……となりで鳴らしているきちがいが……家族の一員だという人じゃないとわからない。そして、自由に引っ越すことができない、子供……未成年時代に、そういうことを毎日やられたという経験がない人にはわからない。

もう、全部がわからない。

だから、「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言をしている人は、俺がそういうことを試したことがない……と思って言っているわけだよ。あるいは「元気だ元気だと言えば元気になる」と助言をしている人は、そういう方法があるということを、俺が知らないと思って言っているわけだよ。

……けど、たとえばの話だけど「さんざんやってみたけどだめだった」というような話は、そういうことを言う人は、のぞんでいないのである。たいてい、そういうふうに言われると機嫌が悪くなる。その人にとっては、「そんなことはない」と思えるようなことなのである。

これ……、たとえば……、じゃあ……『知らないふり』をした場合どうなるかと言うと、「どうして、ためさないんだ」「まず、やってみることが必要」などと言われることになる。

その時点で、「やったけどだめだった」ということを言えば、「やり方が悪い」などと言われるのだ。けど、そういうことを言っている人は、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音を経験したわけじゃない。

なので、ちがうところにたってそういうふうに言っているだけだ。

ともかく、そういう助言を自分がしたあと、相手があいかわらず「つかれた」「くるしい」と言っていれば、「だから、元気だ元気だと言えば、元気になると言っているだろ」と言いたくなるではないか。

言いたくなるようなパーソナリティーの人なんだよ。

「せっかく助言してやったのに、試そうともしない」などと、不満をもつことになる。

……ヘビメタ騒音十五年間で、ぼくのからだはつかれはてているので、「つかれた」と言うわけだよ。

だから、その人にとっては、自分が「元気だ元気だと言えば、元気になる」と助言してあげたあともずっと、そういうふうに言っている……ということで、俺に対して不満をいだくことになるんだよ。

けど、じゃあ、「ヘビメタ騒音期間中に、毎日やったけど、くるしくなるだけだった」ということを言ったって、そいつは、認めない。「だれでも」「どんなばあいでも」言霊は成り立つからだ……。

その方法は、その人のなかでは、「だれでも、どんな状態でも成り立つ」ということになっているのである。それに「傷がつく」というのが、いやなのである。

そういう話をされると不愉快になるのである。「どんな場合でも有効だ」と思っているのに「こういう場合は、有効じゃない」と言われると、「傷」がつく。

「俺は、元気だ元気だと言ったら元気になった」「どんなくるしいときだって、元気だ元気だと言えば、元気になる」「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないということはない」「そんなのは、エイリさんがおかしいんだ」「そんなのは、エイリさんのやり方がまちがっているのだ」「エイリさんの努力の方向がまちがっているからダメなんだ」「言い方がまちがっているからダメなんだ」「何回も何回も言わないからダメなんだ」と言ってくる。

これは、宗教的なあらそいなのである。

ぼくがどれだけ、「元気だ 元気だ」「だいじょうぶだ たいじょうぶだ」と言ったにしろ、ヘビメタ騒音が鳴っている以上はだめなのだ。……こういう状態が実際に成り立ってしまったという経験をぼくは持っている。けど、「元気だ元気だと言ったのに、元気にならないということはない」と言った人は、そういう経験をもってない。

ぼくは、自分の経験から、「元気だ元気だと言っても、元気にならないときがある」ということを言って、相手は「元気だ元気だと言えば、だれもが、どんな状態でも元気になる」ということ言っているわけだから、あらそいがしょうじているということになる。あるいは、認識の違いが生じているということになる。 

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2022年3月14日月曜日

とつぜんだけど、大原さん、あのときお返しができなくて、ごめん

 とつぜんだけど、大原さん、あのときお返しができなくて、ごめん。ヘビメタ騒音で高校、おちて、めちゃくちゃになってた。その、落ちていたときですら、きちがい兄貴が無慈悲に、鳴らしてたんだよね。どれだけ言っても、一日に6時間鳴らせるなら、絶対の意地で6時間、ものすごい音で鳴らしていた。で、それは毎日続いていたことだった。毎日寝不足で、少しずつ、性格がかわった。これ、かわるんだよ。かわるというか、余裕がなくなる。反応ができなくなる。杉中さんも、エイリが高校、落ちてから性格がかわったみたいに思ったかもしれないけど、ヘビメタ騒音のせいなんだよ。ヘビメタで、対応できなくなった。そりゃ、ああいう態度で、ずっと鳴らされれば、対応できなくなる。気持ちが、しずむ。気持ちが、正常ではなくなる。中学の三年間、毎日、きちがいヘビメタを、鳴らされてくるしかった。ダイヤとひろしは知っていたけど、ほかの人は、クラスでは知ってなかったんじゃないかなと思う。小学六年生の9月からヘビメタが鳴り始めて、中学三年間、高校を「おちている」ときも、ずっと、家に帰ればヘビメタ騒音がものすごい音で鳴っている状態だった。日曜日は一日中、鳴っている状態だった。どれだけ言ってもやめてくれなかった。あの金属音はぼくをうちのめした。あれを浴びせられていて、……何時間も何時間も浴びせられていて……普通の気持ちを維持するということができなかった。普通の睡眠時間を維持するということができなかった。睡眠時間は、すべてに影響をあたえる。不可避的に影響をあたえる。意志の問題じゃないのである。意志教徒は、意志で自分を制御できると言うのだけど、できない部分がある。ともかく、くるしかった。鳴っているあいだひきつっていた。安心して普通にすごすことができなかった。まったくできなかった。くるしかった。

2022年3月12日土曜日

人間関係

 どれだけ、言ったって、「ヘビメタ騒音が鳴っていた」「ヘビメタ騒音でつかれた」「ヘビメタ騒音で夜眠れなかった」「ヘビメタ騒音で、睡眠回路が破壊されて、一定の時間に起きることができなくなった」ということしか、つたわらない。そんなのは、全体の〇・五%だ。残りの九九・五%のほうが、でかい。この九九・五%は人間関係だ。ヘビメタ騒音……きちがい兄貴の脳みそによるきちがいヘビメタ騒音によって、俺の人間関係が破壊されてしまう。〇・五%のことしかつたわらないということだって、人間関係を破壊する。

人間は、中立性を保とうとする。一方の話を聞いたときは、話のなかに出てくる悪い人の立場というものを考えて、言っている人が言っているだけかもしれないというような前提に立って、人の話を聞く……ことが多い。そういう構えをもっている人は多い。 

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プーチンを悪者にしたてあげているのが、ほんとうの悪者

いま、プーチンを悪者にしたてあげているのが、ほんとうの悪者なのだ。まあ、まるまるとメディアだけどな。このメディアには、ネットのメディアも含まれる。最近の言い方だと、メインストリームメディアだ。

はっきり言えば、日本のマスメディアは、悪いほうについている。悪いやつの味方だ。なので、ほんとうの敵は、プーチンではなくて、マスメディアの支配者たちだ。まあ、これも、そのうちわかるときが、くるだろう。けど、ほんとうにくるのかな?という気持ちもある。

あっち側の人が言っていることは、いろいろと矛盾しているところもあるんだよ……。じつは……。けど、言わないけどね……。まあ、あっち側の人が言っていることのうち、いくつかは現実化されるよ。たとえば、10個、あっちの人たちが言っていることがあったとする。

そのうちの、3個ぐらいは、5月が終わるごろまでには現実化されるだろう。いくつかは、ずっと現実化されないかもしれない。あっち側の人たちの言っていることには、ある程度ファンタジーがある。だから、どの程度現実化されるかということについては、差し引いて考える必要がある。

けど、じゃあ、マスメディアにおかされている?現代の人と、あっち側の人が言っていることと、どっちが正しいかと言ったら、あっち側の人が言っていることが正しい。

テレビを見ている人が言っていることは、すべてまちがっている。

2022年3月11日金曜日

ヘビメタ騒音でどれだけつかれるかわかってない

ヘビメタ騒音でどれだけつかれるかわかってないのだ。自分の経験をとおしてわかってない。自分の経験をとおしてわかってないことは、『影響を与えないこと』に分類されてしまう。もちろん、その人の頭の中で、ヘビメタ騒音なんてものは(エイリに)たいして影響を与えないものだということになるということだ。あるいは、その人の頭の中で、ヘビメタ騒音なんてものは(人間に)たいして影響を与えないものだということになるということだ。経験がないから、わかってないだけなのに、経験がないから、影響がないと普通に考えてしまうのだ。こういう、思考回路。こういう思考回路はわりと普遍的にみられるものだ。


2022年3月9日水曜日

「引きこもりなら悪人だ」ということはない。「ひきこもってないなら善人だ」ということもない

無職であるかどうかは、善人であるかどうかとは関係がないということは事実なんだけど……もう、いいかな。つかれたな。

リトマス試験紙にならないのに、リトマス試験紙になると思っている人たちばかりなんだよな。だから、リトマス試験紙にはならないということ書いてきたのだけど、……もう、いいか。

つかれた。

もう、つかれた。

もう、いいや。つかれたなぁ……。まあ、いまは、そういう気分だということで、また、言いはじめることもあるかもね。 まあ、無職については、もう、いいか。

けど、専業主婦とか仕事をやめて無職になった人が、無職をばかにし続けるんだよな。専業主婦は無職。男女問わず、退職をしたら無職。老人になって働いてない人は、無職。学生で働いてない人は、無職。なんでわからないかな?

無職が無職をきたないものでも見るような目で見る。無職が無職に対して「働いてないのはけしからん」と文句を言う。おかしいでしょ。もっとおかしいのは、おかしいと感じない人のほうが多いということだ。 

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引きこもりに関してもそうだ。無職と書いたところを引きこもりに置き換えればそれで済むわけなんだけど、いちおう、書いておくかな。

引きこもりは、たいへん、だらしない人であり、言いたいことをうまく言えない人であるというようなイメージがある。引きこもりは、ダメ人間なのである。ちゃんと自己主張をできないコミュ障なのである。

こういう、悪いイメージをもっている。

こういう先入観や偏見があると、その人の本質を見誤ることがあるということを言いたいわけだ。

引きこもりであるかどうかは、善人であるかどうかとは関係がない。引きこもりのなかにも悪人はいるけど、引きこもりかどうかは、善人か悪人かを見分けるためのリトマス試験紙にはならない。

むしろ、その人をして、引きこもりにさせた人が悪人かもしれない。

「引きこもりなら悪人だ」ということはない。「ひきこもってないなら善人だ」ということもない。「ない」にもかかわらず、あたかもそういう線引きが成り立っている。普通の人の頭のなかに!!そういう線引きが成り立っている。

これは、おろかだ。これは、おろかものがやることだ。普通の人がやっちゃいけない。

「引きこもりなら悪人だ」ということはない。「ひきこもってないなら善人だ」ということはない……この、ごく当たり前のことを、あえて言わなければならない状態というのはなんだ?

佐藤(仮名)は普通の人だけど、「ひきこもり」や「無職」に対しては、相当の偏見がある。たいていの人が、佐藤レベルの偏見をもっている。これが、現実だ。これがこの世の実態だ。

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ぼくはすでに無職ではないのだけど、無職期間が長かったから、そのときの記憶をもとに書いている。ヘビメタ騒音の連続で働けなくなった。通勤して働けなくなったということだけど、これは、ぼくにとってとてもつらいことだ。

しかし、他人は……きちがいヘビメタ騒音を経験してない他人にとっては、ヘビメタ騒音がどういうものか、ほんとうにはわからない。

なので、他人はヘビメタ騒音の影響を無視して「働くべきだ」「ヘビメタ騒音で働けないなんていうのはあまえだ」ということを言うようになる。

ヘビメタ騒音もきつかったけど、こういう経験もつらかった。

日本人は、無職を見たら、説教をしはじめる。「働くべきだ」と言う。

無職が、「これこれこうだから働けない」と言えば、「そんなことはない」「そんなことは理由にならない」「そんなのはあまえだ」ということを言いはじめる。

もう、これ、決まっているんだよ。

 もう、これ、決まっているんだよ。

けど、じゃあ、ぼくが無職のなかで、多数派なのかというとそうではないのだ。これがまた問題なんだよ。きちがい兄貴という原因が、ほかの無職にはない。少数派の無職のなかで、少数派になってしまう。

普通の人が、きちがい兄貴という原因を理解できないように、無職にしても、 きちがい兄貴という原因は理解できない。そりゃ、無職の人でも、きちがい兄貴の騒音を何千日も経験したわけじゃない。そういう点では、普通の人も、無職の人もかわりがない。

だから?

「もう、いいか」という気分になるときがある。無職に対する偏見とたたかってきたわけだけど、「もう、いいかな」という気持ちになるときがある。

時代がかわるしなぁ。奴隷資本主義は終了するわけだしなぁ。

 

ほんとうに、みんな、どれだけ、ヘビメタ騒音がどれだけ深く、からだに、影響を与えるかわかってない。わかってない。わかってないとどうなるかというと? 自動的にぼくを侮辱するようになるのだ。 この、ぼくを……。

佐藤、おまえわかってんの?



ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかったなぁ。いま、午後八時五七分。ヘビメタ騒音が鳴っていた。どれだけ、「やめてくれ」と言ってもやめてくれなかった。どれだけ「しずかにしてくれ」と言ってもしずかにしてくれなかった。午後八時五七分はいつも、こんな雰囲気だな。午後八時五八分も。

俺が「できない」と言ったら「できない」のに、どうして、おまえらが、否定するの? 俺がどんな気持ちで「できない」と言っているか、ぜんぜんわかってないな。数万時間のつみかさねが、からだに影響をあたえないわけがないだろ。くそ!ほんとう!どんだけ!!

ほんとうに、つうじない。

佐藤、おまえわかってんの?

 

2022年3月8日火曜日

人間界で、実際に起こったことが、影響を与えないなんてことはない

 きちがい親父の世話をしたのが問題だったのかな? きちがい親父がきちがい親父ではなく普通の親父だったら、どんだけ、楽だったか? きちがい親父の、きちがい的な態度というのは、ほかの人たちにはわからない。きちがい親父といっしょにすんだことがない人にはわからない。根本的にわからない。そうすると、その人たちは、誤解をするんだよな。そうなると、母親ときちがい兄貴と俺しか、きちがい親父の態度について、正確に理解することができないということになる。しかし、母親は死んでしまったし、きちがい兄貴は、きちがいおやじとおなじ頭の構造をもっているので、自分が(きちがい親父に)やられたことに関しては理解できるのだけど、自分(きちがい兄貴)が(弟に)やったことは、きちがい親父とおなじように理解できないということになる。きちがい兄貴の「家族」に対する態度というのは、きちがい親父の「家族」に対する態度とまったく同じだ。思考法や感じ方が同じなのだ。たぶん、人間の要素としてぬけている部分もおなじだ。こいつら、まったく、気がつかないまま、意地をはってひどいことをする。けど、それがわからないんだよ。どれだけ言ったってわからない。頭の構造的な欠落によってわからない。普通の人なら、そういうことがわかる部分が脳みそのなかにあるのだけど、きちがい親父ときちがい兄貴は、そういうことがわかる部分が脳みそのなかにないので、どれだけ言っても、「わかる」ということがない。さらに、世間の人は……「わかる」ということがない……ということがわからない。俺と母親しか実際にはわからない。だから、俺は必然的に誤解されるのである。佐藤の言ったこと……佐藤の態度について、ながながと書いてきたけど、佐藤の態度は、一般的な人の態度だ。佐藤の言ったことは、一般的な人が……言うか言わないかは別にして、普通に、思うことだ。佐藤らは、きちがい親父の性格や、きちがい兄貴の性格がわからない。きちがい親父の認知構造ときちがい兄貴の認知構造がわからない。家族として一緒に生きていれば……そういう期間があれば……必然的に『影響をうける』のにもかかわらず、『影響をうけない』と考えてしまうのだ。あるいは、影響をうけたにしろ、そんなものは、『今現在の状態」に影響を与えるはずがないと思ってしまうのだ、あるいは、影響は少しはあるかもしれないけど、『小さな影響』だと思ってしまうのだ。そんなのは、意志でどうにでもできる……と思ってしまうのだ。どうしてなら『小さな影響』だからだ。あるいは、『影響なんてないから』だ。時間がたてば、影響はゼロになると思っているからだ。おろか。おろか。おろか。屈辱。屈辱。屈辱。

人間界で、実際に起こったことが、影響を与えないなんてことはない。その「へんなうち」にうまれて、「へんなうち」の人の実際の行動が、そのうちの、別の家族に影響を与えないなんてことはない。何万回、何十万回と繰り返されたことは、影響を与える。そして、影響を与え続ける。それを、「へんなうち」にうまれず、「へんな家族」の影響をうけなかった人が、過小評価する。過小評価なんてものじゃなくて、実際には、無視する。「へんな家族」の影響なんて、関係がないのである。そりゃ、その人は、関係がないだろ。「へんなうち」にうまれなかったのだから……。自分の身に生じなかったから……と言って、影響がないとは言えないのに、自分の身に生じなかったから、影響がないと言ってしまうのだ。最初からわからないのだから、影響があるかどうかについて言及できるわけがない。判断できるわけがない。しかし、かりそめの判断をして、影響がないと決めつけしまうのだ。決めつけちゃったら、かりそめの判断ではないんだよ。ようするに、かりそめの判断として、影響がないということにした……ということを、忘れてしまう。

もう、ほんとうに、多勢に無勢だよ。少数派のなかの、少数派。 

人生のなかで何万回も何十万回も繰り返されてきたことが、その人の「今の状態」に影響を与えないなんてことはないんだよ。

これは、すなわち……生まれの格差の無視につながる。生まれの格差。生まれの格差。生まれの格差。

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同じパターンで繰り返し繰り返しおこることは、人間の感じ方に影響を与える。同じパターンで繰り返し繰り返しおこることは、人間の体力や体調に影響を与える。どうして、それを無視するのか? 普通の人とはちがう脳の構造をもった人が、その脳の構造にしたがって、怒り狂うということをずっとし続けるなら、怒り狂われた人は、そういう出来事の影響をうける。普通の人とはちがう脳の構造をもった人のもとに生まれた人は……繰り返し繰り返し、同じパターンで攻撃をうけるので、どうしても、その影響をうける。けど、そういういえにうまれなかったひとが、「そんなのは関係がない」と言う。「そんなのは、気にしているからダメなんだ」と言う。

しかも、その問題のある家族を、やられたほうの家族が助けてやれば、「共依存だ」と言う。 「そんなのは関係がない」「そんなのは、気にしているからダメなんだ」と言うやつが、今度は「共依存だ」と言い出す。「介護なんてしてやるからダメなんだ」と言い出す。俺の場合、親父と兄貴が問題だ。問題のある人だ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がなければ、ぼくは、家を出れた。働けた。もっとずっと早く働けた。この「早く働いて、この家を出たい」というような欲求が、小学生のころから、つきあげるようにあった。けど、三分の一日、きちがいヘビメタ騒音にさらされてしまうと、すべての力(ちから)がなくなる。これ、やられてみないとわからないかもしれないけど、三分の一日というのは長い。一日、二四時間中、八時間やられると、残りの一六時間が、めちゃくちゃになる。やはり、一日の長さだけを考えてみても、影響がある。八時間……あの音にさらされ続けると、眠れなくなる。眠るために、保持されている八時間が、眠れない八時間になってしまうのだ。そのときの、からだのきつさと言ったら、ない。みんな、経験してないからわからない。

 

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2022年3月6日日曜日

有力な仮説は無力な仮説よりも信頼できるのだ。……こういうことだ。

 いろいろな情報が流れているわけだけど、まず、どんな情報も、一度は仮説として受け入れるんだよ。そして、現実の現象を説明できるかどうかを考える。一連の現象は、いろいろなところにつながっている。こういう場合、個々の仮説は、系をなしている。系をなしているので、無力な仮説は無力な仮説につながっているし、有力な仮説は有力な仮説につながっている。

だいたい、現実をどのように把握しているのかというと、それは、自分が『直接』見聞きしたものと、メディアを通して、見聞きしたものがある。メディアを通して、見聞きしたものは、けっきょくは、仮説にすぎない。有力な仮説も、有力な仮説にすぎない。

けっきょくは、有力な仮説にすぎないのだけど、有力な仮説は無力な仮説よりも信頼できるのだ。……こういうことだ。

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 それなら、自分が『直接』見聞きしたことは、ほんとうに、信頼できるかというと、信頼はできない。まず、自分の五感に影響をうけない、「現実」というのが、設定しにくいのである。これが、たしかたものだとは言いがたい性質をもつものなのである。「そと」にある「現実」はたしかな現実で、この現実が現実であるということは、個々人の認知に関係かなく成り立っているということ自体が、仮説だ。ぼくは、個々人……あるいは、人間の認知に関係がない「たしかなる現実」あるいは人間の認知に関係がない「たしかなる外の世界」というものは、話をしやすいように、一時的にそういうふうに設定したものだと考えている。だから、そういう意味では、「たしかなる現実」仮説のひとつだ。けど、そういうことを言ってしまうと、哲学的な話になってしまう。いちおう、上に書いたような文章を書くときは、「現実は現実だ」ということで、打ち止めしておこうと思う。

まあ、これは、「それなら、自分が『直接』見聞きしたことは、ほんとうに、信頼できるか」という問いに関連して書いておいたことだ。

 

きちがい家族のにやられた人間は、自動的に、誤解される。

 ヘビメタで人生、ないわぁ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、人生がない。ほんとうに鳴っていた。どれだけやめろ」と言っても、鳴っていた。やめてくれなかった。しかも、やめてやらなかったという記憶がないんだよな。しかも、ほんとうにのよその家じゃ一分だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしているという認識がないままなんだよな。きちがい親父の態度で、鳴らしやがって。俺がほかの人から、自動的に!誤解されるだろ。きちがい兄貴だって、親父におなじ態度で、同じようなことをやられれば腹がたつんだよ。ハンダゴテ事件のときがそうだ。きちがい兄貴は、きちがい親父の態度で、ヘビメタを鳴らしていた。ハンダゴテとヘビメタ騒音のちがいはあるけど、態度と認識が同じだ。腹がたつんだよ。普通の人が、普通の態度で、普通の認識でやったときよりも腹がたつんだよな。自分が実際にやられなかったことに関しては、人は、自動的に誤解する。経験がないから、わからない。経験がないから、「そのこと」がひきおこす、いろいろなことがわからない。そして、時間というのは、目には見えない。通りすぎてしまえば、なんでもないことだと思ってしまう。「今現在」に影響を与えないと思ってしまう。これが、誤謬だということにどうして気がつかないのか? 本当に勝手なことばかり言いやがって。きちがい的な家族にやられた俺に、きちがい的な家族にやられてない、おまえらが、きれいごとを言いやがって……。俺があまえているだと! そういういい環境にあまえていたのは、おまえらだ。おまえらが、ひどい環境にいた俺をそうやって、ばかにするのはゆるさない。きちがい家族がいないということが、どれだけのアドバンテージになるかわかってない、おぼっちゃん、おじょうちゃん、普通の人間は、おまえらだ。ほんとうに、きちがい家族にやられると、全部が全部、誤解される。誤解してくるほうは、一生涯、誤解だとは思わない。思わなければ、誤解じゃない。そいつらにとっては、事実、真実だ。 俺がどれだけひどい環境で暮らしてきたかわかってないやつらが、好き勝手なことを言う。勝手に誤解する。死ぬまで、誤解だと思わない。こんなの、ない。きちがいがきちがい的な行為を、きちがい的な意地でやるとそうなってしまう。家族の場合はそうだ……。家族……ということが、どれだけの重荷になるか、おまえらはほんとうにわかってない。家族に対する感情や社会的な基準も、普通の人たちによって、醸成されるものだからだ。きちがい家族にやられた人間は少ない。きちがい家族のにやられた人間は、自動的に、誤解される。

 

 

2022年3月3日木曜日

意志一元教……意志教徒の誤謬。

 興味とか、やる気というのは、いったいなんたなんだろうな? これ、おかしいんだよな。おかしい。ともかく、ほんとうのことを言ってしまうと、ほんとうの興味とか、ほんとうのやる気というのは、人間が、思考によって制御できるようなものではない。ようするに、意志的な意志で、自分の気持ちをコントロールできるという仮説はまちがっている。もーれつに、まちがっている。けど、これは、ある人たちにとっては、仮説じゃない。信念だ。これが、やっかいなのだ。彼らは、科学的に正しいというのだ。けど、ほんとうは、宗教的な信念だ。彼らは、これがわかってない。さらに、主語が「人間」になってしまう。人間というのは、みんな、そうだという考え方があるのだ。例外的な人は、その能力がないか、あるいは、ないと思い込んでいるだけなんだということになる。けど、この人たちが、ただたんに、ほんとうの興味とか、ほんとうのやる気をうしなった経験がないだけだ。経験がないので、人間にはないと思っているのだ。この人たちにおいて、ただ単に、経験がなかっただけなのだけど、人間とはそういうものだと考えてしまっている。 

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今日のひとこと

人間を主語にすると、ろくなことにならない。

2022年3月2日水曜日

まるでちがうのだから、まるでわからない。

 これ、だめなんだよな。書けない。腹がたちすぎて書けない。書けない。

だいたい、きちがい親父のことを書いてもほかの人にはわからないからなぁ。これが、だれもが経験する労働問題だったら、共感をよぶだろう。きちがい的な親にやられてた人はそういうところでも、損をしている。まるでちがうのだから、まるでわからない。

世界がニセの核戦争問題に突入しているのに、俺は、きちがい親父のバブル事件を思い出して、めちゃくちゃに腹をたてているわけだからな。核兵器を使用するかもしれない第三次世界大戦の危機と、きちがい親父のバブル事件、どっちがでかいか?と言うと、俺にとっては、きちがい親父のバブル事件のほうがでかい。まあ、第三次世界大戦の危機は演出だけどな。今回は、ニセでーす。けど、ニセだけど、意味があるんだよ。ちゃんと、意味がある。

手短に言っておくと、ロシア軍+ウクライナ軍VSまるまる闇軍の戦いで、ロシア軍とウクライナ軍がたたかっているわけじゃない。ロシア軍はウクライナ人民の敵ではない。むしろ、味方だ。

ともかく、第三次世界大戦開始の危機よりも、きちがい親父のバブル事件のほうがでかい。でかいんだよ。

2022年3月1日火曜日

むかしのこと

 むかしのことなんだけど、「これ、わからない人、いるのかな」なんて書いたことがあったんだけど、あれは、書くべきじゃなかった。まあ、どのくらいの人が『客』になってくれるのかなということが気になっていただけだ。まあ、こっちにも、いろいろとコンプレックスはあるからなぁ。どこまで、サービスとしてやってあげるのかということが、気になっていたんだよね。

本人も無職なのに、無職をばかにしたことを書いた人がいたんだけど、その人はその人で、 「これ、わからない人、いるのかな」に腹をたてのかもしれない。ばかにするつもりはなかったんだなぁ。

しかし、ヘビメタ騒音がなければこんなこともなかったな。俺は、ちゃんとしたところにつとめていただろうから、自営業をやる必要がなかった。そして、神経症的なところがあるから、どこまでサポートすればいいのかどういう契約書を書けばいいのか、気になっていたのだ。あとは、需要があるのかどうか知りたかった。

けど、考えてみれば、侮辱されたように思ったのかなと思ってさぁ。このあいだ、急に気になったんだよね。それまでは、忘れていたことだし、それが原因で、その人が無職をばかにしたことを書いたとは思ってなかったから。「ひょっとして、これが原因なのか?」と思った。急に思った。

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ツーリングしにしてもそうなんだけど、相当に腰が重いのだ。これは、数千日のヘビメタ騒音で生じたことだ。だから、数千日のヘビメタ騒音がなかった人……人生のなかでそういうことが生じなかった人には……わからないことだ。数千日のヘビメタ騒音がなかった人には、わからない「腰の重さ」なのだ。それは、困難とか、つかれということでもおなじだ。

それなら……ツーリングにさそわれたのであれば、行けばいいじゃん

それなら……ツーリングにさそわれたのであれば、行けばいいじゃん……ということになる。ヘビメタ騒音にやられてなかったら、当然、そうなる。普通に、自分も行きたい気持ちになって、相手の提案に同意することができた。けど、ヘビメタ騒音に長年やられると、器質的にだめになる。普通の人だって、やる気がない状態はあるわけだし、憂鬱な状態もあるわけだし、つかれた状態もある。さらに、「眠れない状態」だって経験しているわけだ。眠れない状態というのは、眠るべき時間なのに眠れないということだ。あるいは、ふだんなら眠っている時間なのに、なかなか眠れないということだ。ヘビメタ騒音がはじまるまえもそういうことはあった。やる気がない状態、憂鬱な状態、つかれた状態、眠れない状態というのを、「ぼくも」経験した。だからわかるのだけど、ヘビメタ騒音中、あるいは、ヘビメタ騒音以降の、やる気がない状態、憂鬱な状態、つかれた状態、眠れない状態と、ヘビメタ騒音以前のやる気がない状態、憂鬱な状態、つかれた状態、眠れない状態は、まったく、ちがうのだ。別物。別物なんだけど、ほかの人は、ぼくとおなじようにヘビメタ騒音を経験したわけではないから、ヘビメタ騒音中、あるいは、ヘビメタ騒音以降の、からだの状態というのがわからない。はっきり言えば、ぼくが言っている!やる気がない状態、憂鬱な状態、つかれた状態、眠れない状態は、ほかの人が言っている!やる気がない状態、憂鬱な状態、つかれた状態、眠れない状態とはちがうのだ。しかし、同じ言葉で説明するしかないことなのだ。これは、前にも話したけど、同じ言葉を使っているのだけど、経験がちがうと、その言葉に関連付けられている各々の身体感覚的な意味がちがうということになる。経験がないとわからないことに関しては、どれだけ言葉を尽くして語っても、わからないということになる。ようするに、経験をもっているほうが、そのことについて、どれだけ、経験がない人に語っても、経験がない人はわからないということだ。そりゃ、言葉に対応した身体的な感覚がないわけだから、わからない。 

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毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。