2022年9月27日火曜日

ヘビメタ騒音で人生がない。

 ヘビメタ騒音で人生がない。

あの女とつきあっておけばよかったのかな。あの女というのは、あの子とはちがう。ぜんぜん、ちがう人。ヘビメタ騒音のことを説明するのがいやだった。無職だというのがいやだった。あっちから近寄ってきたのだから、適当にだまして……いわないで、つきあっておいたほうがよかったのかな。なんか、いつもそんな感じなんだよな。「言いがたいものをかかえている」。あの女の人と会ったとき、ぼくは35歳で、あの女の人は20歳だったんだよな。15歳ちがう。そして、俺が無職……。かっこう悪くて言えないだろ。ヘビメタ騒音で、どうしても、通勤して働くということができなかった。

こういうふうに言うと、ヘビメタ騒音の問題は就職問題のように思うかもしれないけど、それは、仕事にフォーカスした場合の話で、ぜんぜん、ちがう。全部ちがう。これ、なんか、俺が根性を出して?通勤すれば解決しそうな問題に見えるだろ。けど、ちがうんだよ。破滅、なんだよ。一日に4時間、週に3日でも、自殺をするしかないというような状態だった。そういう体力問題、睡眠リズムの問題がなおらなければ、就職したところでおなじなんだよ。これ、ヘビメタ騒音の6年間がどれだけつらいか、わかってない人にはわからないと思う。だから、普通の人にはまったくわからないんだよね。中学3年間、高校3年間すっぽり、ヘビメタ騒音期間のなかに含まれてしまうのだけど、この6年間で、体力問題、睡眠リズムの問題が発生した。俺が根性を出して、中学3年間、高校3年間、計六年間、通学してしまったから、体力問題、睡眠りずっの問題が発生している。根性を出して頑張ったから、からだがめちゃくちゃになっている。もう、高校を卒業した時点で、終わっているんだよね。きちがい兄貴のヘビメタ騒音がどういうものだかわかってない。ヘビメタ騒音すさまじさがわかってない。きちがい兄貴の態度が異常だということがわかってない。ほんとうに頭がおかしい。おやじとおなじように、頭がおかしい。兄貴や親父の頭のおかしさというのは、ほかの人には、これまたわからないことなんだよな。いっしょに住んでないとわからないし、それがもたらす破壊的な効果がわからない。きちがい兄貴の頭がきちがい兄貴の頭だと、たとえば、ヘビメタ騒音問題が持ち上がった場合、絶対に、解決しないのだ。殺さなければ終わらない。殺さなければ、一秒だって静かにしてくれない毎日、ってなんだよ? 家族がそういうことをしているのに、その当の家族が、まったく気がつかないんだからな。言いがたい。そして、親父もそうなんだよ。だから、ダブルで狂っている。だから、ほかの人が余計に理解しにくくなるんだよな。うちの状態なんて、よそのうちの人に理解できるわけがない。きちがい親父の頭の構造がわからないし、きちがい兄貴の頭の構造が゛からない。きちがい親父の頭の構造やきちがい兄貴の頭の構造がわからなければ、全部が、わからない。俺がなにを言っているのか、わからない。どうしたって、常識で考えて、常識的なアドバイスをする。それだと、もっともっともっと、俺が追いつめられることになるのだ。それだって、どれだけ、くわしく説明したって、よその家の人にはわかないんだよな。たとえば、佐藤に、きちがい親父のことやきちがい兄貴のことや、きちがいヘビメタ騒音について説明したけど、佐藤はまったくわかってない状態だった。これが普通の人の反応だ。普通の人なのに、わかってくれた人って、本当に少ないのである。やはり、兄がヘビメタにこって、6か月間ぐらいうるさくした人は、6か月の体験でも、わかっているんだよね。ほかの、佐藤や、その場にいた人はまったくわかってないからな。これが、世間の普通の人の反応だ。俺の説明の仕方が悪いわけじゃないんだよ。きちがい兄貴の狂い方が、常識的な人には、まったく理解できない。きちがい親父の狂い方が、常識的な人にはまったく理解できない。そうなると、常識的な人は「エイリさんがへんなことを言っている」「エイリさんが、えなことにこだわっている」「エイリさんが、無視できる過去の出来事にこだわっている」と思ってしまうんだよ。無視できる過去の出来事ではないということを、説明したって、そいつらは、わからない。絶対に理解しない。日曜日も含めて毎日ヘビメタが鳴っているということが、どういうことなのかわからない。

ダイヤですら、ほんとうのことはわかってないんだからな。時系列的におなじ体験をすればわかるようになると思うよ。6年間のヘビメタ騒音で、働けないからだになる。働ける人は、それがわかってない。やられてないからな。どれだけ、あの態度と感覚で鳴らされることがつらいか、わかってない。つらいというより、からだの反応としてそうなる。ぜーぜん、ちがう。よその人たち……ヘビメタ騒音が人生のなかで生じなかった人たちの理解しているヘビメタ騒音と、ぼくが実際に経験したヘビメタ騒音は、ぜーーーぜん、ちがう。ヘビメタ騒音が人生のなかで生じなかった人たちは、ぼくに対して、つねにまちがった前提でまちがったことを言っているんだよ。これだって、ほんにんはそんなつもりはないだろ。まちがった前提でまちがったことを言っているとは思わないだろ。たとえ、俺が「あなたはまちがった前提でまちがったことを言っている」と言ったって、理解しないし、認めない。その人にとっては、ヘビメタ騒音……聞いた話のなかに出てくるヘビメタ騒音なんて、そんなものなんだよ。けど、実際に毎日、時系列的にやられた、ぼくにとってはまったくちがうことなんだよ。ぼく人生のなかで15年間続いたことなんだけど、その人の人生のなかでは、聞いた話のなかに出てくる騒音でしかない。これは、体感がちがう。たとえば、ぼくにとっては、きちがいヘビメタが鳴っている1時間というのは、ものすごくつらい1時間なんだよ。何時間も続くとどうしても、眠れなくなって、次の日に影響をあたえるものなんだよ。さらされ続けたら、どうしても、意識や意志とは関係なく、からだにそういう影響が出るものなんだよ。けど、ほかの人は、知らないので、「意識や意志」でどうにかなると思ってしまう。影響をうける必要がないと思ってしまう。『影響をうけないぞ』と思えば、影響をうけないことが可能だと思ってしまう。そういうものでしかない。そういう話でしかない。けど、ちがうんだよ。

2022年9月26日月曜日

だます構造、だまされる構造が成り立っている。○○をしても、しあわせになれない。

すでに、しあわせな人が、しあわせになるには、○○をすればいいというようなことを言ったとする。けど、そのしあわせな人がしあわせなのは、○○をしたからじゃないんだよ。生まれながらに、しあわせだった。経済的にもめぐまれていて、精神的に成熟した親のもとに生まれたから、しあわせだった。生まれながらに経済的にめぐまれていたので、たいした苦労もなく、経済的にめぐまれた生活を維持できた。経済的にめぐまれた家に生まれたから、成人してからも、経済的に恵まれた生活ができたのだということを言うと、経済的にめぐまれた家に生まれた人は、「俺だって努力した」とか「たいして、めぐまれてない」とか「成人してからの収入は、生まれた家の収入とは関係がない」とかと言いがちだ。そういう傾向がある。これは、基準がちがうから、そういう言葉が出てくる。めぐまれた家に生まれた人は、自分がどれだけめぐまれているか、あるいは、めぐまれていたか、わかってないところがあるんだよ。「普通」と言った場合の「普通」の基準が、ぜんぜんちがう。そして、その、ちがいには、無頓着なのだ。仕事をしはじめるときの条件がまるでちがうということがわかってない。そして、仕事をしはじめるときの条件のちがいは、その人の努力の結果ではなくて、生まれてきた家の格差の結果が反映している。

ともかく、意図的なのか、意図的ではないのか、よくわからないけど、すでにしあわせな人は、かならず、本人がしあわせになった本当の理由はかくして、あるいは、無視して、まったく、意味がない方法を、しあわせになる方法だという「くせ」がある。ほんとうは、○○をしたからしあわせになったのではなくて、条件がいいうちに生まれたから、○○をするまえから、すでにしあわせだった。だから、条件が悪いうちに生まれた人が、○○をしても、しあわせにならない。こういうことがまったくわかってないのだ。生まれの格差「上」の人はこういうことがまったくわかってない。自分がどれだけ恵まれた家に生まれて、さまざまな条件で優位だったのかが、わかってないのだ。問題なのは、生まれの格差「上」の人が○○をすればしあわせになれる、というようなことを、生まれの格差「下」の人に向かって言うことだ。これは、社会のしくみからして、そういう順序と方向性が成り立っている。さらに問題なのは、生まれの格差「下」の人が、その方法を「信じてしまう」ことだ。一時的に信じてしまうことだ。生まれの格差「下」の人が、生まれの格差「上」の人がすすめる○○をしても、絶対に、しあわせになれない。だから、基本的に、だます構造、だまされる構造が成り立っている。

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2022年9月25日日曜日

きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじだ

 引用開始

急死した某ピアニストの呟き遡っていくと、最初はピアノについての楽しい投稿だったのに最後はワクチン後遺症で体力も気力も無くなり、無理解な夫への愚痴だらけになっていて、やるせなくなった。 たった3本の注射で人間の身体と精神が破壊される。ワクチン推進派の責任は?厚労省は何してるの?

引用終了

きちがい兄貴のヘビメタ騒音とおなじだ。どれだけつらいかまわりは理解しない。 

ヘビメタでできなくなったと言っているのに、働いたほうがいいと言ってくるやつは、〇〇〇。自分だって、ヘビメタ騒音生活(そいつにとってのヘビメタ騒音生活)を6年間、経験すれば、俺が言っているとがわかるようになるのに……。俺が遅刻をするかしないかは別にして、ヘビメタ騒音生活の6年間、学校に通ったということが、どれほどすごいことなのか、奇跡的なことなのか、みんなわかってない。そいつらだって、6年間……6年でいい……6年間、あのヘビメタ騒音と同じレベルの騒音が鳴っているうちで生活すれば、みんな、わかるようになるのに、生活してないから、まるでわかってないんだよな。

俺が「ヘビメタ騒音で、できなくなった」と言ったら、ヘビメタ騒音でできなくなったということなんだよ。それを、無視して、「できないなんてことはないだろう」と勝手に思って、好き勝手なことを言うな。言うな。言うな。

これ、どれだけひどい生活なのか、みんな、わかってないんだよな。

どれだけ努力しても、「できなくなる」。で、努力する過程と、できなくなる過程が、おなじだから。だから、「ヘビメタ騒音で通勤することができなくなった」と言っているのに、きちがい野郎どもが、信じない。「努力すればできるようになる」って、おまえ、どの口で言っているんだ? と言いたくなる。言いたくなる。言いたくなる。

2022年9月24日土曜日

39度のお湯につかっている人間には、1度の水につかっている人間の状態がわからない。

 めぐまれている人とめぐまれていない人とでは、条件がちがうんだよ。だから、条件について、まず最初に考えなければならない。ところが、めぐまれた人が、X(エックス)をすればY(ワイ)になるといったようなことを言う場合は、条件のちがいを考えてない。

たとえば、比喩になってしまうけど、ふかふかな椅子に座っている人と、一〇〇本の毒針がはえている椅子に座っている人とでは、条件がちがう。ふかふかな椅子に座っている人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ったとして、それがふかふかな椅子に座っている人にとっては事実であるとしても、トゲがはえている椅子に座っている人にとっては、事実ではない。トゲがはえている椅子に座っている人は「楽しい楽しいと言っても、楽しくなれない」のである。それは、ふかふかな椅子に座っているか、トゲがはえている椅子に座っているかによってちがうわけ。ようするに、座っている椅子の条件がちがう。ところが、ふかふかな椅子に座っている人は、生まれたときからふかふかな椅子に座っているので、トゲがはえている椅子に座っている人のいたさがわからない。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」などと言うわけだ。本人は、実際に、ふかふかな椅子に座っているとき「楽しい楽しい」と言ったら楽しくなったという経験があるわけだから、「これは真実だ」と思ってしまう。けど、それは、ふかふかな椅子に座っているからこそ成り立つ経験だ。どんな条件でも成り立つ「絶対法則」なんかではない。

もうひとつ、比喩的な話をしておこう。たとえば、摂氏三十九度のおゆにつかっているひと、摂氏一度の水につかっている人では言うことがちがうわけだよ。けど、摂氏三十九度のお湯につかっている人が、摂氏一度の水につかっているひとの『条件』を無視して、好き勝手なことを言う。

横道にそれるけど、ちょっとだけ、水とかお湯という単語について考えてみよう。日本語だと、水とお湯で、使いわけているけど、英語だとwaterであって、水とお湯の使い分けはない。お湯はhot waterであって、なんかそれをあらわす別の単語があるわけではない。温度によって、単語を使いわけているわけではないのだ。けど、じゃあ、氷と水をわけていないかというとそうではない。氷に関してはiceという単語がある。氷と水のちがいもじつは温度のちがいなので、温度のちがいによって、単語を使いわけていないというわけではないのだ。ただ、お湯と水の場合は、両方とも、液体なので、英語だとどっちもおなじ単語であらわすのだろう。こういうのは、じつは、ものの認知と結びついている。これはこれで、人間が世界をどのように見るかという問題にかかわっている。これは、格差の認知よりも、さきにたつ、世界認知の差だ。土台になっている認知の問題だ。

日本語だと、湯船のお湯、湯船の水というような使いわけになるので、「お湯」か「水」かでちがうではないかと思う人がいるかもしれないけど、それは、言葉がちがうだけであって、お湯も水も、温度がちがう水として認識して話をすることにする。

ようするに、摂氏三十九度のお湯につかっている人間には、摂氏一度の水につかっている人間の状態がわからない。摂氏三十九度のお湯と摂氏一度の水では、条件がちがう。にもかかわらず、摂氏三十九度お湯につかっている人間が、条件のちがいを無視して、いろいろなことを言う。たとえば「快適だと快適だ言えば、快適だと感じる」「お風呂に入れることに感謝すればいい」「お風呂は気持ちがいい」というようなことを言う。いっぽう、これは、摂氏一度の水につかって、凍えそうになっている人間にとっては「真実」ではない。「正しいこと」ではない。摂氏一度の水につかって、凍えそうになっていれば、「快適だ、快適だ」と言っても、快適だと感じることができない。つらい状態で「快適だ、快適だ」と言っても、つらい状態のままだということを経験してしまうのである。めぐまれた人の助言というのは、そういう問題を含んでいる。めぐまれた人は、相手の状態を理解せず、条件があることを無視して、ただ単に「言うこと」や「感謝すること」にフォーカスしてしまう。そして、いつもお決まりの「宇宙を貫く絶対法則」だと言う。「だれだって、そうだ」「どんな条件でもそうだ」と言う。条件を無視して、「人間はこうだ」ということを言う。決めつけ。大上段に構えて、決めつけをしてしまう。相手の条件を無視するということが、そもそも、相手を尊重してないということなのである。ところが、言霊っぽいことを言えば、なんか、スピリチュアルだと感じてしまう。宇宙の大法則について語っているような素敵な気分を、味わってしまう。相手のことなんて、お構いなしに、自分だけ、いい気持ちになってしまっているのである。

基本的には、せいぜいのところ、38度と摂氏三十九度のちがいぐらいにしなければならないのである。しかし、摂氏一度と摂氏三十九度ぐらいの差がある。生まれてこのかた摂氏三十九度のお湯にしか、つかったことがない人には、摂氏一度の水につかっているということが、どういうことなのか、根本的に理解できない。そして、温度のちがいを無視してしまう。

たとえば、摂氏一度の水につかっている人が「つめたい。つらい」と言ったとしよう。言霊主義者は「つめたいと言うから、つめたい」「つらいと言うから、つらくなる」と言って、摂氏一度の水につかっている人のことをせめる。そういうことを言う言霊主義者は何度の水(お湯)につかっているかというと摂氏三十九度の水(お湯)につかっているのである。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「あったかいあったかい」と言ってもあったかくならない。摂氏一度の水につかっている人がどれだけ「快適、快適」と言っても、快適にならない。不快な、つらい状態が続く。どうしてかというと、言ったから、そう感じているわけではなくて、摂氏一度の水につかっているという状態がそういう感覚を引き起こしているからだ。

たとえば、摂氏三十九度のお湯につかっている人は、「入浴は気持ちいい」と感じるだろう。あるいは、「風呂は気持ちいい」と感じるだろう。なので、入浴できることに感謝することもできる。風呂をつくってくれた人やガス窯を設置してくれた人に感謝することができるだろう。しかし、摂氏一度の水につかっている人は、「入浴は気持ちいい」とは感じない。「風呂は気持ちいい」と感じない。この人が、入浴できることに感謝すれば、しあわせになれるかというとしあわせになれない。入浴できることに感謝しても、摂氏一度の水につかっていることは、つらい。入浴自体が、つらいことなのだから、風呂をつくってくれた人やガス窯を設置にしてくれた人に対して感謝の気持ちがわくかというと、わかない。摂氏一度の水につかっている状態が、くるしくて、つらい状態だからだ。やせがまんをしてつかっているのである。しかし、感謝をすれば、しあわせになれるということ言う人の意見に従って、摂氏一度の水につかりながら「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と感謝の言葉を述べても、摂氏一度の水につかっているという、つらい状態が、かわらないので、しあわせにならない。しあわせを感じない。記憶に残るのは、つらい状態で「風呂をつくってくれた人、ありがとう」「ガス窯を設置してくれた、ありがとう」と(自分がほんとうには感じてないことを無理やり言った)という記憶だけだ。その記憶はつらい記憶なのである。



不可避的にそうなる……けど、経験がない人はそこのところが、わからない

 風呂から出たあと、右足首が猛烈にかゆくなった。あとは、あごのしたがかゆくなった。どっちも、かいたので、ひっかきキズができている。

こういうのが、不愉快なんだよ。はやくここから離脱しなければならない。離脱しなければならないのだけど、エネルギーがない。離脱するべきなんだよな。

もう、全部がいやなんだよね。特に、手続きとか……。自分がいつ起きているのかわからないから、たとえば、不動産屋の人といっしょに物件を見る予約を入れるということができないんだよね。不動産屋に、ふらりと入ることはできるけど、そのあと、「いついつに、こういうことをしましょう」ということになると、それは、かなりやりにくいということになる。けど、そうなるでしょ。まあ、だいたい、だいじょうぶそうな時間で予約するけど、「予約の時間」を気にすると、どれだけ眠たくても、実際には眠れないということになる。これは、ヘビメタ騒音の繰り返しでそうなった。きちがい兄貴がきちがい的な意地で、毎日毎日、毎時間毎時間きちがいヘビメタを、とてつもなくでかい音で鳴らさなければ、こういう状態になってない。これが、行動に影響をあたえているか、ほかの人はわからない。

普通の人は、きちがい家族にやられると、こういうことになるということがわからない。自分がきちがい家族にやられたことがないのでわからない。自分の経験をとおして、毎日、何年間も、家族の騒音によって、睡眠時間が削られるということがどういう意味をもつかわかってない。「そんなの、お兄さんにいばいい」と言う人は、きちがい兄貴のことがわかってない。「どれだけ、騒音を鳴らされたって、寝る時間に鳴ってなければ関係がない」という人は、実際に、きちがいによる騒音によって、日常生活のあれやこれやがみだされるということを経験してないのでわからない。実際に、一日に、数時間、あの音のでかさで、きちがいヘビメタを聞かされると、眠れなくなるということがわからない。そして、ヘビメタの影響を無視したり過小評価するので「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」と思ってしまう。そうなると、常識人・佐藤(仮名)のように「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」という無意識的な前提のもとに、ヘビメタ騒音の影響をうけた人にはできないことを、やれと言うようになる。実際には「やったほうがいい」という表現なのだけど、やらない以上は、一人前の人間としてあつかわないという態度をとる。そういう行動をする。しかも、そういう行動をすることが悪いことだと思ってないのである。こういう、まぬけ。まぬけに、わかったようなことを言われるようなことになってしまうのである。うちの!!家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らしていると!! これ、ほんとうは、せめられるべきは、きちがい的な意地で、きちがい的なしつこさで、きちがい的な音のでかさで、きちがいヘビメタ騒音を鳴らした、きちがい兄貴が責められるべきなのに、常識人・佐藤(仮名)のような人間は、きちがい兄貴のことはまったくせめずに、俺のことをせめるのである。俺が、ヘビメタ騒音の影響で、働けなくなったと言っているのに、「働くべきだ」と言ってくるのである。俺の発言を無視していやがる。こういうろくでもないやつが、多い。非常識なことをやったのは、きちがい兄貴なのに、非常識なことをやられて、能力をなくした俺が、だらしがないとせめられ、自己責任だとせめられることになってしまうのである。何度も言うけど、べつに常識人・佐藤(仮名)は悪いことをしているつもりはないのである。そういう、意識のずれがある。ぼくとしては、「できないと言ったらできない」「俺ができないと言ったらできないということなんだ」ということを言うしかない。どうしてかというと、普通の人間としての能力を破壊されたからだ。これ、ヘビメタ騒音なかった人が、「通勤ができない」と言っているわけではないのだ。俺だって、ヘビメタ騒音の前は、通学できた。通学ができるということは通勤ができるということだ。しかし、ヘビメタ騒音期間中に通学をしてしまった。毎日、たえにたえて、通学をしてしまった。その結果、通勤・通学ができないからだになった。これが、事実なのである。影響をうけるつもりがなくても、そういうことになるのである。不可避的にそうなる。ところが、佐藤(仮名)のように、きちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがない人は、そういうことが、わからないのである。自分の感覚として『そんなことはないだろう』と思ってしまうのである。どうして、そのように思ってしまうかというと、トートロジーになるけど、経験がないからだ。経験がないから、わからない。自分のからだをとおして、それがどういうことか、学習してないからわからない。わからないだけなのに、自分のほうが「能力がある」「能力的にうえだ」と思ってしまうのである。なので、意識しているかしてないかは別にして「自分のほうがエイリさんより能力がある」とか「自分はエイリさんより能力的にうえだ」と思ってしまう。たぶん、明確には意識してないと思う。しかし、そうう無意識的な意識内容が、実際のエイリ(他者)に対する(自分)の態度に影響をあたえるのである。実際のエイリというのは、現実的な対象であるエイリさんという意味だ。佐藤(仮名)の前に他者としてエイリが存在しているのである。まあ、これは、親友のダイヤでもおなじだよ。どーーしたって、そういうことになる。

説教する人というのは、みんなおなじだよ。そういうところではね……。説教だと思ってないだろうけど……。

 

2022年9月22日木曜日

かくされた項目があるということに気がつかないか? (2)

(ふたつ前の投稿のつづき)

もうひとつ、「成功すると言えば、成功する」この場合も、出ている二項目は「成功すると言うこと」と「成功」だけだ。成功すると言った人は成功するし、成功すると言わなかった人は成功しない。左の項目に関しては言うか、言わないかのふたつの値しかない。そして、右の項目に関しては、「成功する」というひとつの値しかない。ほかの条件は、すべて無視しているのである。左の項目をするかどうかが、右の項目の値を決定すると言っているのである。「成功すると言えば、成功する」ということばには「成功すると言わなければ、成功しない」ということばは含まれていない。「成功すると言えば、成功する」と言っているだけで、「成功すると言わなければ、成功しない」とは言ってない。それは、事実だ。しかし、「成功すると言わなければ、成功しない」ということも、暗示しているのである。どうしてなら、「成功すると言わなければ、成功することがないからだ。成功すると言えば、成功するのだから、成功すると言わなければ、成功しないということを暗示している。しかし、成功すると言葉に出して言わなくても、「成功」する場合はある。暗示していることに関しても、じつは、法則性があることを言ってないのだ。しかし、「成功すると言った人が、成功するところだけ」を見ているので?成功すると言った人は、かならず成功すると思っていられる。「成功すると言った人が成功する」ところだけを見れば、「成功すると言った人が成功する」ということを信じたい人は、納得してしまう。自分で自分をごまかすことができる。「成功する」といったにもかかわらず、成功しなかった人のことは、無視すればよいのだ。無視すれば「そんなことはない」ということになる……その人の頭のなかでは。……その人の世界では……。なので、事実とは関係なく「成功すると言えば成功する」ということを信じることができるのである。これは、科学ではない。しかし、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが科学的証明されたとか、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということが心理学の実験で証明されたということを、信じたい人が聞けば、「成功すると言えば成功する」ということが、科学的証明されたとか、心理学の実験で証明されたということになってしまうのである……その人の頭のなかでは。……その人の世界では……。

こいつらは、みんな、個別の条件というものを無視しやがるのである

 ワクチンのなかに、あーーんなものや、こんーーんなものがはいってることは、ぬきにして、もうだめだ。

復活しないな。ほかの人よりも、不幸量が大きいんだよな。きちがい家族と一緒に住んできたので、不幸な出来事の回数が多い。 

これ、ちがうんだよ。ぼくはもともと、きちがい兄貴やきちがい親父がかかわってない人づきあいは、好きだったんだよな。友達も多かったし、楽しく遊んでいた。深くつきあった親友もいた。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分で、「浸食」がはじまる。「汚染」がはじまる。きちがい兄貴やきちがい親父がかかわる部分が、ほかの人との付き合いを、だめなものにする。破壊する。不可避的なんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音は特にひどかった。一日だけでも、どれだけつらいものか、ほかの人にはわからない。たとえば、佐藤にはわからな。わからないやつは、「ヘビメタ騒音でできない」ということを認めない。わからないやつは、「ヘビメタ騒音の影響」を認めない。そうすると、いろいろと、不愉快な気持になる。トラブルが発生する。親友との絶交だって、それが、影響している。一番大きな原因だ。そりゃ、どれだけ、「知っていたって」他人は他人だから、自分のからだをとおして、一日に二十四時間経験したわけじゃな。たとえば、一日に十二時間しかなってなかったとしても、残りの十二時間が影響をうける。鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。鳴ってない時間である十二時間が、鳴っていた十二時間の影響をうけてしまう。そして、それは、どれだけ努力しても、無効化できない。鳴らされていれば、どれだけ「気にしないようにしていても」影響をうけてしまう。からだが影響をうけてしまう。そういう一日を、経験したことがない人が、ヘビメタ騒音の影響を軽く無視して、あと倍するのだから、こっちとしては、たまったものではない。「それちがうよ」と言いたくなる。だれだって、あの騒音生活を経験すれば、俺とおなじ状態になる。騒音というのは、その人にとって、一番苦手な音だ。別にヘビメタじゃなくてもいい。いや、ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタじゃだめだ。その人が一番苦手な音が、ああいう音のでかさで鳴っていたら、どれだけ影響をうけないように努力しても、どうしても、影響をうけて、いろいろなところがダメになっていく。どうしても、からだが影響をけて、ほかの時間も、いろいろなトラブルに巻き込まれることになる。だいたい、鳴っているので勉強ができない」というのは、本人とって一番苦手な音を、きちがい家族が、きちがい家族の好きな音量で、好きな時間ずっと鳴らしている生活をしているのであれば、わかることなんだよ。けど、そんな、きちがい家族はほかの人にはいない。ほかの人の家族は、どれだけヘビメタを思いっきり鳴らしたいと思っても、ちゃんと遠慮をして鳴らす。遠慮をせずに鳴らしているときは、遠慮をせずに、でかい音で鳴らしているということを、知っている。きちがい兄貴は、つねにそうしているのだけど、つねに、知らない状態なのである。これがまた、わからないのだろうと思う。ほかの人にはわからない。こんな家族がいる人がいない。そういう人は、ヘビメタ騒音についても「常識的に」考えてしまう。鳴らしていれば、鳴らしているということを、鳴らしている本人は知っているはずだと思ってしまう。そう前提してしまう。けど、それがそうじゃないんだよ。ちなみに、きちがい親父もおなじなんだよ。自分にとって不都合なことは、どれだけやったってやってないことになっている。だから、認知自体がちがう。認識自体がちがう。普通ならそういう音で鳴らされたらこまるというとが、わかる。本人が、意識的にどれだけ否定しても、自分が騒音を鳴らされて不愉快な思いをしたという経験があれば、その経験から、相手が言っていることを推量してしまう。けど、きちがい兄貴の場合、「やりたければ」どれだけ明確に言われたって、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないということになる。これは、ハンダゴテ事件で、親父が、「このはんだごては使えない」ということを認めなかったのとおなじだ。しかも、本人は発狂して、そういうことを、主張するのに、発狂して、相手が言っていることを絶対に認めないで、否定したということも、やっぱり認めないのだ。だから、行動だけが、アクティングアウトしている状態になってしまっている。このアクティングアウトは、無意識に対応したアクティングアウトなのである。やっていることも認めないし、相手がこれこれこういう理由でこまるということを認めないし、それを自分が怒り狂って否定して、自分の意地をとおして、それ以降もおなじ行為をしたということを認めないのである。認めないということも認めない状態で認めない。どれだけ言われても、自分が関係していることとして認知できないのである。主語? 主体なら、きちがい親父ときちがい兄貴だよ。両方。両方とも同じなんだよ。おなじなんだよ。

おなじ家で生活している人の影響はうける。これも、アドラーみたいに頑固な人は、影響をうけるということを認めない。やぱっり、アドラーの態度は、きちがい親父やきちがい兄貴と似ているところがある。アドラーの家族がまともだったから、共同幻想からはずれたことをしないので、問題にならないという部分と、アドラーの場合、無意識のほうにスイッチが入っていて、自分が意地になってやっていることを認めないということがないのである。だから、そういう点でちがっているけど、頑固なところは似ているんだよ。アドラーの場合、きちがい家族にやられなかったから『影響をうけないことが可能だ』と考えるわけ。こいつも、ほんとうに、やかっいだな。こいつの信者の、レベルが低すぎる。こいつらは、みんな、個別の条件というものを無視しやがるのである。アドラー信者はまともな家に生まれてきた人で、まともじゃない家に生まれてきた人のことを、バカにする。勘違いして、バカにする。おまえらが理解できないだけのことなんだよ。これ、理解できてないだけなのである。不幸な人の条件というのを、無視するのである。特に、生まれの家族に関係する条件を無視する。条件はたばになって、環境。環境を無視して、そいつ個人の「人格」の問題にするのである。こいつらは、ほんとうに失礼な人間だよ。

 

2022年9月21日水曜日

かくされた項目があるということに気がつかないか?

かくされた項目があるということに気がつかないか? 二項目の関係で述べることが多い。たとえば、「努力をすれば成功する」ということについて考えてみよう。ここで出てくる二項目は、「努力」と「成功」だ。努力をすれば、成功するし、努力をしなければ、成功しない……こういうことを言っている。しかし、成功するかどうかは、「環境」で決まってしまうとする。この環境というのは、じつは、さまざまな『条件』を含んでいるのだけど、今回は、条件については説明しない。ともかく、さまざまな条件の束を「環境」ということにする。たとえば、どういう家に生まれたか、どういう性格の家族と一緒に住んでいるかということが条件になる。そういうものをぜんぶひっくるめて環境ということにする。ただし、「努力」という項目はこの環境の中には含まれないとする。また、「努力をする才能」ということを言って「努力するチカラ」を才能と言い換えることもしない。「環境」と「努力」は、排他的な項目だとする。環境のなかには努力は含まれてない。

「環境がよければ、成功する」ということが正しいとする。その場合「努力をすれば成功する」という二項目のなかには、ほんとうに「成功するかどうかを決定する要素(項目)」としての「環境」が含まれてないことになる。ほんとうは、「環境」が「成功するかどうか」を決めるにもかかをらず、「努力」が成功するかどうかを決めると言っているのである……「努力をすれば成功する」と言っている人は……。

もうひとつ、「根性があれば、成功する」という文について考えてみよう。この場合も、出ている二項目は「根性」と「成功」だけだ。根性がある人は成功するし、根性がない人は成功しない。日本語としてどうかと思うが「根性を出せば、成功する」というような言い方もある。「根性を出さなければ、成功しない」「成功した人はみんな根性を出した人だ」「成功しなかった人は根性を出さなかった人だ」「成功するかどうかは、根性を出すか出さないかで決まる」……こういうことを言っている人もいる。この場合は、「根性」と「成功」の二項目にしか言及してない。根性を「環境」という項目のなかに含めないとすると、ほんとうは、成功するかどうかを決める「環境」という項目についてはまったく言及せずに、「成功」について語っているということになる。


 

いま、影響がある。いま、くるしい。

 

 全部、つまらない。おもしろいわけがない。騒音事件。ネズミ・ダニ事件。全部、くるしい。

いま、影響がある。いま、くるしい。

別に影響が消失してしまったわけではない。影響がある。過去の出来事でも影響がある。過去の出来事なら影響がないと考える、バカな人たちが、みんな、バカなことを言う。バカなことを言うな。そいつらだって、ちょっと自説を批判されたら、おこるくせに。過去の出来事が、今現在の感情に影響をあたえないなら、おこる必要だってない。やけどをしたとする。やけどをした瞬間がすぎれば、影響がなくなるか? やけどをした瞬間がすぎたあと、ひりひり痛いとか、実際に肌がやけて、肌の色がかわるといったことが起こる。瞬間がすぎればどんなことだって、過去のことだ。影響をあたえる過去の出来事と、影響をあたえない過去の出来事があると考えるべきだ。厳密に言えば、どんな過去の出来事も現在に影響をあたえている。無視できるほど小さい影響しか与えなかったものを、影響がないものとして認識しているだけだ。それをおまえらは、どうして、「過去のことは関係がない」と言うのか?

つかれたときのからだの状態が、ヘビメタ騒音でつかれたときのからだの状態とおなじなんだよ。眠れないときの頭の状態が、ヘビメタ騒音で眠れないときの頭の状態とおなじなんだよ。どっちも、とてつもなく、くるしい。くるしい。くるしい。

2022年9月19日月曜日

彼らのやり方は、いつも同じだ。二つの項目の関係について述べるのである。

 彼らのやり方は、いつも同じだ。二つの項目の関係について述べるのである。その場合、『条件』はガン無視だ。二つの項目についてしか考えない。たとえば、「成功すると言えば、成功する」というようなことについて考えてみよう。「成功すると言うこと」と「未来の出来事」のふたつの項目についてしか言及してない。「成功すると言えば」成功するのだから、成功しないやつは、成功すると言わなかったらだめなんだということになる。二項目、ダメダシなんだよ。ほかの条件は無視してしまう。そして、「だからダメなんだ」と言い出す。これが、ほんとうの話ならいいのだけど、実際には、条件が「成功するか」「成功しないか」を決めてしまう。「成功する」といったかどうかは、成功するかどうかとはまったく関係がないことなのだ。「自分は成功する」と言って、成功しなかったやつがどれだけ多いか? これ、宗教的な信仰とおなじなのである。言葉には「ちから」がある。だから、「成功すると言えば成功する」。これは、単なる、妄想。二項目しか考えていない妄想。けど、この妄想は、気持ちがいいのである。だから、この妄想にとりつかれた人は、この妄想を否定することができない。本人が信じているぶんには、かまわない。しかし、彼らはかならず「これは、宇宙を貫く絶対法則だ」ということを言いだす。なので、人に害を及ぼすのである。不愉快。条件を無視するな。不愉快。きわめて、不愉快。

 

ほんとうに生まれの格差ってあると思うよ。

 

 ほんとう、どうするかな?

なんか、いろいろと「どうしようかな」とまよっている。ひとつは世界の情勢。もうひとつは、俺の個人的なこと。いろいろと、ありすぎた。人生のなかで、いろいろとありすぎた。もう、やっぱり、限界をむかえているのかもしれない。ほんとうに生まれの格差ってあると思うよ。生まれた家の人間がどういう人間かに一生を左右されてしまう。どれだけがんばったって、きちがい家族の騒音がはじまってしまったらおしまいだ。

2022年9月18日日曜日

。くるしいだけだ。

  奮発して買ったうなぎのかば焼きを食べてもまったく、おいしくないなぁ。あーー。やっぱりね。こころが破壊されてない状態で、好きな人といっしょに食べるのがうまいんだよね。こころが破壊されていたら、ひとりで食べていても、うまくない。こころが破壊されていたら、好きな人といっしょに食べていても、たぶん、うまくないと思う。くるしいだけだ。

想像力がない凡人が……ヘビメタ騒音の影響を過小評価しやがるんだよ

 ほーーんと、つまんない。

なにをやるにして憂鬱だ。つまり、賃貸を借りるにしろ、中古マンションを買うにしろ憂鬱だ。どうにもならないほど憂鬱だ。もう、やっぱり、むりかな。俺は、よくやってきたよな。あんな状態で、暮らしたなぁ。俺だから生きていられる。ほかのやつだったら死んでたな。ヘビメタ騒音一年目で自殺だよ。俺が、自分の生命にどれだけこだわっているか。普通の人とは比べ物にならないほどのこだわりがあるから、生きている。ヘビメタ騒音をずっと鳴らされたけど生きている。けど、限界はある。無傷じゃない。影響がある。過去のことになれば、影響がなくなるかというとそうではない。佐藤のような凡人が……想像力がない凡人が……ヘビメタ騒音の影響を過小評価しやがるんだよ。ヘビメタ騒音をやられてない人は、あれがどれだけ、日常生活に影響をあたえるかわかってない。

一日のなかで、どれだけ破壊的な影響をあたえるかわかってないな。きちがい兄貴は、鳴らしている張本人なんだけど、完全な部外者なんだよ。どれだけ言っても、一切合切かかわりがない人間として、自分のことを認知しているんだよ。頭が正常ならこんなことはありえない。けど、ずっとそうなんだよ。そして、そういう頭であることが、かわらない。どれだけ言ったって、注意したって、訴えたって、まるで、かわらないのだ。やってない人として、部外者として、やり続ける。かかわっている気持ちが、ない。けど、めちゃくちゃな意地があるんだよ。このやりかだきちがい親父とおなじなんだよ。きちがい兄貴は……。

佐藤はヘビメタを鳴らした張本人だから、ヘビメタのことは関係がないと言えば関係がない。けど、佐藤以上に、きちがい兄貴は、関係がないと思っているんだよ。ヘビメタ騒音と関係がないと思っている。ヘビメタ騒音から生まれる俺の不調と自分のヘビメタ騒音が関係、ないと思っている。こういうところが、きちがいなんだよ。で、このきちがいの度合いも、このきちがいのありさまも、ほかの人にはわからないんだよな。そして、そういう状態で、こっちのことを無視して暮らしてきた……絶対の意地で鳴らしてきたということが、ほんとうに、きちがい兄貴はわかってない。だから、いつも、とんちんかんなことを言う。当事者なんだよ。張本人なんだよ。鳴らしている人間なんだよ。それが……。それが……。

異常な毎日が、まったく普通の日として、流れて行く……。どれだけつらいか。ようやっと立っているようなものなんだぞ。ほんとうに……。

ヘビメタ騒音でめちゃくちゃに能力をさげられて暮らしているので、くるしい。もう、何十年間もずっとそうだ。こんなの、ない。ヘビメタ騒音がどういうものか、ほんとうにまるでわかってないな。きちがい兄貴も、きちがい兄貴以外の人も。

 

きちがい兄貴やきちがい親父がブラックホールになっている

 きちがい兄貴やきちがい親父がブラックホールになっている。ほかの人にはわからない、ブラックホール。ほかの人は、「父親」ということばで、きちがい親父ではない普通の父親を想像してしまうのである。ほかの人は「兄」ということばで、きちがい兄貴ではない、普通の兄を想像してしまうのである。普通の人の想像がとどかないところにあるから、彼ら……兄貴や親父がやったことについて、普通の人はかならず、誤解をするのである。そして、想像に基づいて、いろいろなことを言うしかないという状態になる。その想像というのが、ちがうのである。けど、ブラックホールのようにわからない存在なので、想像がちがうということをぼくが、その人たちに説明しても、けっきょくは、究極的なところはわからないままなのである。ようするに、ブラックホールのままだ。

不幸の量


アドラー主義者やポジティブ思考愛好者は、不幸の量は、だいたい同じだが、ひとによって、不満を言いやすい人と不満を言いにくい人にわかれるという、人格モデルをほぼ無意識的に採用しているのである。なお、この無意識というのは、ただ単に意識してないという意味であってフロイトの「無意識」とはちがう。ようするに、もともとの不幸量のが一定で、ちがうのはその人がどのくらい、自分の不幸について語りやすいかどうかの問題であると思っているのだ。しかし、ふかふかな椅子に座っている人間と、トゲがついた椅子に座っている人間の不幸量がちがうように、現実社会においても、めぐまれたうちに生まれた人間は、不幸の量が少なく、めぐまれないうちに生まれた人間は不幸の量が多いと思う。この場合は、不幸量が一定ではなくて、不幸量には大きな違いあるという理論に立つのである。だから、まずもって、人格と不幸量の関係において、整理しておかなければならない。たとえば、不幸について語りやすい度合を1とする。だれもが1だとする。その場合、不幸量が10の人は10不幸について語り、不幸量が1000の人は1000の不幸について語るということになる。実際には、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増す。人格的に成熟した親に育てられた人間よりも、きちがい的な親にたたられた人間は、不幸量が増すのである。それは、きちがい的な親が、つねに、きちがい的な感情をもって、その人間に働きかけるからである。これ、わからないと思うけど、きちがいはきちがいだから、つねにきちがい的な行動をするのである。つねにきちがい的な感情をもっているのである。この場合、時間とともに、攻撃をうける回数が増えていくのである。それは、おぎゃーと生まれたときから決まっている。なにか、きちがい的な親のもとに生まれた人間も、きちがい的な親に生まれたあと、不幸が一定の量だと、勘違いしているような人間が多い。たとえば、アドラー主義者や認知療法家だ。こいつらは、不幸量が一定で、人格の問題があるから、不幸について語りやすいと考えているのだ。こいつらは!! こいつらは!! けど、それは、まちがっている。きちがい的な親が支配するうちに生まれた子供は、実際に不幸なことを経験するのである。それは、親によるいじめ?が、ずっと続くからである。わかりやすいように「いじめ」とか書いたけど、きちがい的な親は、死にものぐるいで、子どもにからんでくるのである。からむ。死にものぐるいで、子どもをいじめる。それは、内側の感情の爆発なのである。子どもは、人間サンドバックだから、どれだけたたいてもかまわないという「内的な」規定がある。思い込みがある。しかし、これまた、この思い込みが、無意識的なもので、本人が自覚できないものなのである。この無意識的なもの、の、無意識は、フロイトの無意識と関係がある無意識だ。ただ単に、自覚してないというレベルのものではない。ともかく、本人は、いじめているつもりはないのだけど、死にものぐるいになって、攻撃をする。その攻撃は、あたりまえの攻撃だから、息を吸って吐くように、攻撃をするのである。それは、生活のあらゆる点において、発揮されるのである。だから、不幸量は、毎日、不可避的に増えていく。一定じゃないのだ。ところが、「不幸な出来事」と「不満」という二項目をぬきだすと、そういう、条件がすべてぬけおちてしまう。そして、「不幸な出来事」の総数がだいたい同じなのだけど、不満を言いやすい人は不満を言うというモデルを採用して、不幸な出来事と不満の関係について語りだしてしまう。まず、条件がぬけているということに注目しなければならないのである。そして、不幸量が、ひとによってちがうということを重視しなければならないのである。それなのに、バカな人は、「不満を言う人は、みんな不幸だ」と言ってしまう。これは、不満を言いやすいという人格そのものに問題があるから不幸なのだと言っているのとおなじだ。こういう、発言は、条件を無視した発言だ。人によってまったく条件がちがうのに、条件のちがいは、無視されているのである。また、こういう発言は、不幸量を無視しているのである。無視しちゃ、いけないんだよね。

 ていよく、生まれながらにして不幸量が大きい人(不幸な出来事の数が多い人)のことを、おいこんでいる。こいつらの、無邪気な発言で、不幸な人がより不幸になるのである。

 

ほんとうは成り立たない「宇宙をつらぬく絶対法則」

 実際に経験したことのほうが、ほんとうは成り立たない「宇宙をつらぬく絶対法則」なんかより、実際の行動に影響をあたえるんだよ。

 

2022年9月17日土曜日

だれにでもわかる方向で、ずれているわけではないのだ

 やられてない人はわからないだろうけど、ほんとうに「出口」がないのだ。あのやり方だと、そうなる。こっちは十一歳だったんだ。きちがいヘビメタがはじまったとき、十一歳だったんだ。父親がきちがいだったんだ。兄貴が、きちがいだったんだ。あの状態だと、普通なら、親が、注意して、終わる。どれだけ、ヘビメタをでかい音で鳴らしたくても、それは、がまんする……ということになる。我慢させられる。母はまともな人で、注意してくれたけど、きちがい兄貴は、母の言うことを聞かない。で、きちがい親父のきちがいの度合いというか、方向性が、ほかの人にはまったくわからないんだよな。だから「そんなにうるさい音で鳴っているのに、親が注意しないのはおかしい」とか言って俺の発言に疑問をもつ。こういうしくみが、じつは、親のことにも成り立っている。きちがい親父の行為について、俺が説明しても、普通の人が信じないということが、たびたびあった。これ、たとえば、だれにでもわかる方向で、ずれているわけではないのだ。暴力はあったけど、少なかった。けど、きちがい親父の場合は、暴力にいたるまでが問題なんだよ。普通の人では理解できないことで、もめる。ハンダゴテのことだって、どうしてそんなことになるのか、ほかの人にはわからないことなんだよ。そして、普通の家ですんできた人、めぐまれた家ですんできた人にとっては、そういうことは、「はなから」関係がないことなんだよ。で、これも、自分のことではないから、わからない。だから、これも、なんて言うのかな? 軽く見るんだよね。アドラーの発言なんて、まったくそういうものだ。こいつは、自分が経験してないから、軽く見て、そんなは気にしないことが可能だというようなことを言う。けど、ちがうんだよね。まあ、家に、きちがいがいなかった人にはわからないよ。どういう状態でもめ事が起こるのかわってない。「どれだけがみがみ怒鳴られても、自分は気にしない」……そういうふうに言えるのは、生まれたときから、きちがいといっしょに住んでないやつの特権だ。ぜんぜんちがうのである。けど、「ぜんぜんちがうのである」と言っても、これまた、こいつらにはわからないんだよ。ある種、似たような頑固さがあるよ。人格はちがうし、ていどもちがうけど、頑固さが似ているんだよ。だから、きちがい的な親にやられた人は、アドラーが言っていることを聞いてしまうと、腹がたって腹が立ってしかたがない状態になる。親が気ちがいかどうかは、アドラーの本をぶったたかずに読めるかどうかで判断できる。認知療法家の本もおなじだ。アドラーとか、認知療法家の「わかってなさ」がひどいんだよ。これは、ひどい。あいつらは、考え違いをしている。どうしてそういうことが起こるかというと、きちがい的な親についてなにも知らないからだ。実際に自分が赤ちゃんのときからやられたことがないからだ。これ、外から見て、わかりやすいタイプの、ダメな親とはちがうのである。わかるわけがない。自分で経験していないのにわかるわけがない。ものすごく、複雑な状態で「くるっている」。そのくるっている、さまを、ほかの人に納得ができるように説明することができないのだ。どうしてかというと、ほかの人は、そういう親に育てられたことがないから、感覚的にわからない部分があるからだ。そして、自分のの常識的な感覚を信じてしまう。常識的な感覚とはちがう感じの話を「相手がする」ので、理解しがたいということになる。けど、きちがい的な親にやられたほうの認知……子供側の認知が、おかしいわけじゃないのだ。ここが感じなんだけど、わからないんだよね。わかりにくいタイプのきちがい的な親にやられた人のことは、普通の人はわからない。

ともかく、普通の人は、筋違いであることを言う。わかってないから、不適切な発言をする。不適切な発言だというのは、ぼくの側の意見だ……。もちろんぼくの側の意見だ。その不適切な発言をした人は、……普通の人は……自分が不適切な発言をしたとは思ってないのだ。たとえば、佐藤のように……。 

親の格差といった場合、たいていは、親の収入の格差になる。貧乏な家に生まれて、安い給料で働いている人は、かならずしも、きちがい的な親にやられた人ではないので、これは、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」には、わからないことだ。あるいは、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」でもわからないことだ。これ、いっしょじゃないのである。まあ、わからない程度は、「貧乏な家に生まれて、安い給料で働ている人」とおなじだけど「普通の家に生まれて、普通レベルの給料で働いしている人」にもわからないよ。

きちがい兄貴が、ヘビメタをはじめなければ、きちがい親父の問題だけで済んだのに……。きちがい兄貴が、きちがいおやじとおなじ脳みそで、おなじ反応で、きちがいヘビメタをでかい音で鳴らすことにこだわってこだわってこだわって、実際に鳴らし続けたので、こまったよ。これも、ほかの人には想像ができないのかな? かならず、ヘビメタ騒音の効果を過小評価するんだよね。「そんなんじゃない」と言いたくなる。言いたくなって、言ったって、わからない。相手は、わからないままだよ。そいつの脳みそが、これまた、突然、かわるわけじゃないからな。そいつは、そいつが搭載している脳みそで考えるわけだし、そいつが搭載している脳みそは、そいつがいままで経験したことをもとにして、ヘビメタ騒音について考えるわけだから、そいつのいままでの経験がものをいうことになる。

 

2022年9月15日木曜日

そういう理由で、そいつらは、わからない。

 人生の時期を、ヘビメタ騒音以前、ヘビメタ騒音中、ヘビメタ騒音以後の三つにわけるとする。その場合、ほかの人は、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだと考えてしまうのである。ところが、これがまったくちがう。まったくちがうのだけど、ほかの人には、「ヘビメタ騒音中」の経験がないから、自分のからだの経験として、わからないのである。ヘビメタ騒音相当の騒音にやられた人は、ごく少数だろう。どれだけ多く見積っても、〇・一%ぐらいだと思う。その場合、九九・九%の人は、自分のからだの経験として、わからない人たちだということになる。つまり、九九・九%の人が、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、鳴り終わったのだから、ヘビメタ騒音以前のからだに復帰するはずだとナチュラルに、考えてしまうわけだ。つまり、ぼくが社会に出ていけば、一〇〇〇人中九九九人が、そういう解釈をするということだ。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、ものごとを言ってくるということになる。そうなると、佐藤のように、そういう前提に立って、俺のすべての行動に関して、解釈をするということになる。まあ、すべての行動というのは一度、そういう認知的誤謬が成り立つと、その線にあわせて、エイリさんの行動を解釈するようになるということだ。彼らにとっては、たとえば、ぼくが、(その時)無職であるということや、職歴がないということがものすごく重要なことに思えるのである。そして、「人間は働くべきだ」という考え方は、「ヘビメタ騒音は過去のことだから影響がない(はずだ)」と考えて、「人間は働くべきだ」と言ってくるわけだ。そして、この「人間は働くべきだ」というのは、「人間はポジティブに生きるべきだ」とか「人間は効率的に生きるべきだ」とか「人間は、過去のことにこだわって生きるべきではない」とかという考え方と親和性がある。そういうふうな一般的な考え方をもっている人たちは、「ヘビメタ騒音が鳴り終わったなら、たとえ、一五年間にわたって鳴っていたとしても、過去のことは過去のことだから、いまのエイリさんには関係がないことだ」と考えてしまうのである。エイリさんが、過去にこだわっているから、過去のことが問題になる」と考えてしまうのである。けど、このふたつの考え方は、間違いだ。あきらかにまちがっている。けど、あきらかにまちがっていると俺が言ったとしても、自分のこととして、ヘビメタ騒音の経験がない人は、それがわからない。ヘビメタ騒音以降のからだは、ヘビメタ騒音以前のからだとおなじではないのである。それが、根本的に!!決定的に!!わからない。わからない以上は、わからない。そいつにとっては、それが真実だ。だから、こういう決定的にばかな人、考え違いをしている人を、相手にすることになる。それは、ぼくにとって、苦痛なことだ。そりゃ、ばかを相手にするのはいやだからな。これが、どれだけ言ってもわからないんだよ。どれだけ言ってもわからない理由は、書いておいた。そういう理由で、そいつらは、わからない。

 

 

 

2022年9月11日日曜日

ほんとうに、「よそのいえ」だったら、絶対に鳴らせない音なんだよ。

つかれたぁーーー。ほんとーーに、つかれた。

このつかれは、一生とれないなぁ。たぶん……。ながい……。ながすぎる。ヘビメタ騒音がはじまったときからずっととれないつかれがある。

二の曜日の午後2時9分。この時間帯もヘビメタがものすごい音で鳴っていた。どれだけ「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と言ってもやめてくれなかった。それで、「なにもしたつもりがない」わけだからな。くさっている。きちがい親父も、きちがい兄貴も脳みその構造がおなじ。これ、普通なら、ほんとうに、どれだけ鳴らしたくても、がまんしなければならない音なんだよ。我慢して鳴らさないようにしなければならない音なんだよ。そういうでかさだ。これがわかってないのである。「よそのひと」にはこれがわかってない。「よそのひと」は、そういう音に毎日さらされた場合、どういう状態になるか、まったくわかってない。自分の経験をとおして、自分のからだでわかっているわけじゃないから、想像でものを言うことになる。その想像のなかでは、「たいした騒音じゃない」のである。鳴っていても、影響をうけないことが可能な騒音」なのである。「鳴り終わったら、どれだけ長くなっていても、関係がない騒音」なのである。いまの状態には、関係がないという意味だ。これは、一日のなかでも、人生のなかでも言える。これ、ほんとうに、ぜんぜんちがうのに、まるでわかってないんだよな。「よそのひと」はきちがい兄貴の態度も、きちがい親父の態度もわかってない。よそのひと」はきちがい兄貴の感覚も、きちがい親父の感覚もわかってない。だから、好き勝手なことが言える。ほんとうに、「よそのいえ」だったら、絶対に鳴らせない音なんだよ。そして、仮に、長男が鳴らしたとしても、絶対に、「よそのいえ」だったら、二日でやめさせられることなんだよ。二日以上鳴っているようなことがない音なんだよ。普通の家だったら、その長男は、絶対にベッド本をして鳴らすということになるんだよ。一日中、ヘビメタを鳴らすときは、ヘッド本をして鳴らすということになるんだよ。あるいは、一日中、普通の人が聞くような音で鳴らすということになるんだよ。ぜんーーぜん、ちがう。こういう日々、が、続いたときのからだの状態なんて、本当にみんなわかってない。わかってないから、「ヘビメタ騒音の影響はない」「過去のことなら関係がない」という前提で物事を言う。それは、実際に鳴らされなかったから言えることだ。きちがい家族に鳴らされることがなかったから、言えることだ。きちがい家族が、しつこくしつこく、普通の家ではありえない状態で、鳴らすことがなかったから言えることだ。人生のなかで、そういう「毎日」が十年以上続くということがなかったから、言えることだ。ぜんぜんちがうのに……こいつら……好き勝手なことを言いやがって。

 

2022年9月10日土曜日

普通の親に育てられた人は、きちがい的な親にやられた人のことがわからない

 やっぱり、親父が導入したネズミの存在がでかい。しかも、親父が約3年間、ネズミ対策工事に反対したので、そのあいだに、ネズミの糞が増えた。で、防衛していたのだけど、二階の西側の部屋にも入った。その部屋には、ぼくの本がたくさんつまっているのだ。どうしようかな。あそこは、ネズミの糞を掃除しようとして、入ったら、めちゃくちゃにダニに刺されたので、入れなくなっている部屋だ。本に、バルサンの煙をつけたくない。ほんとうに、いやなんだよな。ほんとうに、ネズミの糞とダニの存在で、片づけるというのが、ものすごく難しいことになってしまった。やる気がしない。もう、さんざん、ネズミの糞を片づけてきたけど、ものがあると、うまく片づけられないところが出てくるのだ。ほんとうに、いろいろなところに落ちている。自分の頭よりも高いところにある平面に落ちている。たとえば、本棚とか神棚とか。粗大ごみ業者を頼むときだって、ネズミの糞のこととダニのことを説明しなければならないので、ぼくが、恥をかくのである。いつもいつも、ほんとうに、ずっとずっと、きちがい親父にかかわるということになるんだよな。かかわらないわけにはかいないんだよ。これ、人間として成熟した親に育てられた人にはまったくわからないだろうけど、親父は、きちがいだ。おかしい。けど、そのおかしさが、ほかの人にはまったくわからないのである。どうしてかというと、そういう親にたたられたことがないからだ。そういう親とおなじうちで暮らしたことがないからだ。上司であれば、会社を辞めれば縁がきれる。しかも、成人して働いているのだろう。まあ、未成年のときもあるかもしれないけど、いちおう体は大きくなっているとしで働いているということになる。じゃあ、たとえば、15歳から働き始めたとして、15歳までの15年間は、でかい15年間じゃないのかということだ。これ、ちがうじゃないか。1歳のときから、影響をうけている。うまれたときから影響をうけている。小さいときの影響は、でかい。15歳になったときには、14年間、ずっと影響をうけている状態なのである。

いっしょに住んでいても、影響をうける必要がないとか、そういう言いまわしはよくないと思うんだよね。影響をうける必要があるのか、影響をうける必要がないのか、判断したあとに、影響をうけようと思って、影響をうけているというわけではないのだから……。そういうことを無視して、あたかも、影響をうけないことが可能であるのに、その可能なことを、さぼってやらなかったからダメなんだと、ダメダシをする。責任を追及する。これは、きたない。そして、そういう言いまわしを選ぶやつは、実際には、きちがい的な親にやられたわけではないやつなのだ。まともな親に育てられたやつが、そういうことを言う。まともな親に育てられたやつのほうが、社会的な地位が高いことが多いので、普通の人は、そいつが言うことを信じてしまう。普通の人というのも、けっきょくは、きちがい的な親にたたられてない、人だ。普通の親に育てられた普通の人だ。普通の人であっても、考え方のちがいや、言った言わなかったというタイプのあらそいはしょうじる。けど、それは、普通の人同士のあらそいだ。いっぽうが、きちがいである場合は、ちがうんだよ。けど、普通の人は、それがわからない。どうしても、普通の人が経験したトラブルの延長線で、きちがい的な人とのトラブルについて考えてしまう。特に、親兄弟といった家族に関しては、普通の人である親兄弟とのトラブルの延長線で考えてしまう。けど、ちがうんだよ。これ、普通の親に育てられた人に、きちがい的な親のことについて語ってもわからないと思う。だから、「影響をうけないことは可能なのに、影響をうけたからダメなんだ」というような意見がうかんでくるわけだから。影響をうけないことは不可能だとこっちが言っても、そいつらは、「強い意志をもっていれば影響をうけないことは可能だ」という意見をかえない。

ほんとうに、きちがいがどういう態度で、どういう行為でたたるのか、(きちがいにやられてない人は)わからない。家のなかにきちがいがいるということがどういうことなのかわからない。そのきちがいが、自分の親である場合、どんなことになるかわかってない。あたかも、影響をうけないことが可能だという前提でものを言うのは、やめろ。それは、失礼なことだぞ。自分がやられてないからわかってないだけだ。 

*     *     *

なにを見ても、いやなことを思い出すなぁ。これも、しかたがない。実際この世で経験したことなのだから、記憶がある。人間には学習能力があるので、いやなことも学習してしまう。


2022年9月9日金曜日

生まれの格差について言及するのは、みっともないという意識

 生まれの格差について文句をつけるのは、「みっともないことだ」という意識をもっている人がいっーーっぱい、いっーーっぱい、いると思う。これ、この社会のなかで普通に生きているとそういう意識をもってしまうのである。これは、洗脳の結果だ。2022年1月に、マスクをしているような人は、特別にマスクをつけなければならない理由がある人以外、 生まれの格差について文句をつけるのは、「みっともないことだ」という意識をもっている人だと思う。生まれの格差はある。環境の格差はある。しかし、生まれの格差について言及してはいけないのである。もし、言及すれば、「そんなのは、ない」「あっても、たいしたことはない」「嫉妬はみっともない」「不満を言うのはみっともない」ということばを浴びせられるだろう。これが、「洗脳の結果」だとしたらどうだろう? ぼくは、今現在、これは、度重なる洗脳の結果だと確信している。

実際には、生まれの格差の格差の度合いがひどいのである。大きいのである。でかすぎるほどでかいのである。しかし、「でかい」といってはいけない。そして、生まれの格差の影響もでかいのである。けど、生まれの格差の影響に関しても、でかくないことになっている。生まれの格差がそもそも、でかいということと、その格差の影響が、その人の人生に大きな影響をあたえるということが、「ともに」否定される。否定される傾向にある。たいていの人が、生まれの格差は、ないと思っている。あるいは、生まれの格差があったとしても、ちいさい格差しかないと思っている。たいていの人が、生まれの格差の影響は、ないと思っている。あるいは、生まれの格差の影響があったとしても、ちいさい影響しかないと思っている。これは、おかしい。さらに、格差や格差の影響について述べることは、みっともないことだという共通の認識があるのである。これは、操作されて、つくられた認識だ。

支配者躁にとって、そういう認識をつくることは、意味があることだ。もし、そういう認識をつくらなければ、格差の頂点にいる彼らの立場があやうくなる。

2022年9月8日木曜日

影響がなくなるわけがないんだよな

 どーーし、よっかーーなーーーーーー。

つまんない。

ほんとうに、きちがい兄貴のことでこまっている。いま、こまっている。行為はかつての行為だけど、いま、こまっている。影響がなくなるわけがないんだよな。あんなにやられて……。あの生活がどういうものだと思っているんだよ? 思っているんだよ?? 全部、だよ。全部。全部、なんだよ。わからんやつはわからんと思うけど。わかるわけがない。あの生活がどういう生活かわかるわけがない。これ、ほんとうに、わからないから、『影響なんてない』とくそずれたことを言えるだけだ。ちがうのに。けど、 実際に自分の人生のなかで経験したことじゃないのだから、わからないというのは、しかたがないことだ。しかし、前提がまちがっているんだよ。まちがった前提のもとに、あほなことを言うな。まちがった前提のもとにまちがったことを言うな。まちがった前提のもとに、アドバイスをするな。言っていることが、まちがっている。けど、経験がないのなら、その前提は、正しい前提だと思うことができる。だとしたら、そいつは、一生、まちがっているということを認めないだろう。

 

2022年9月7日水曜日

「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」と信じている

もう、ぼくがどれだけなにを言っても、普通の人にはなにもつたわらないというとがわかっているので、普通の人ではなくて、少し変わった人にぼくの言葉を残そうと思っている。
生まれの格差はある。特に、親の性格やほかの家族の性格によって、不幸がもたらされる。しかし、普通の人は、生まれの格差を認めない。どうしてかというと「生まれの格差を認めることが、みっもないこと」になっているからだ。どうして、「生まれの格差を認めることがみっともないこと」になっているかというと、悪魔がつくりだした社会だらそうなっている……と言っておこう。悪魔が人を支配するときに、「生まれの格差」があるということに人々が気がつくと、支配ができなくなってしまうのだ。悪魔がつくりだした社会のなかでは「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」ということになっている。格差の上に、悪魔が社会をつくっている。格差は、必要なのである。そして、そういう格差について、人がまちがった考えをするように、つねに、洗脳しているのである。なので、普通の人たちは、「生まれの格差はない」あるいは、「あったとしても、たいして影響がない」と信じている。しかし、そのことについては、あまり触れられず、二項目関係が論じられる。たとえば、愚痴をう言う人は不幸になる」とか「不幸な人は、みんな、愚痴を言う」というようなことが言われる。これは、「不幸」と「愚痴」の相関関係について言及しているのである。あるいは、「不幸」と「愚痴を言うこと」の因果関係について言及しいるのである。言っているやつは、気持ちがいいわけで、たいして「悪いことをしている」というつもりにはならない。いや、まったく「悪いことをしている」というつもりにはならない。しかし、「生まれの格差がある」ということと「生まれの格差の影響がでかい」ということを無視してまっている。無視して、「不幸」と「愚痴」について言及しているのである。これは、まちがった態度だ。そこで言われていることも、正しくない。どうしてなら、当然にして認められなければならない「生まれの格差」と「生まれ格差の影響」を無視してしまっているからだ。これを無視して人生に関係することを論じても、まちがった結論にしか、いたらない。いたらないのだ。 

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2022年9月5日月曜日

つねに!!!そういう反応をするということになる。

 しかし、このさき、どうしようかな?

まあ、やる気がない状態が続いているのだけど、いつかは動かなければならないだろう。

このさき、どうするんだ?

兄貴のヘビメタ騒音から始まった「めちゃくちゃにくるしいじょうたい」が終わらないなぁ。 

つねにひきつっているような限界生活だ。体力も精神も限界……きちがいヘビメタ騒音というのは、そういう騒音だ。そういうことになる騒音だ。これ、不可避的なのである。言霊で回避できるとか、強い意志をもてば回避できるとか、気にしないようにすれば回避できるということではない。けど、横にきちがい兄貴がいない状態で、育ってきた人にとっては……「回避できる」ことなのである。だから、「回避しなかったエイリが悪い」「回避できるのに、回避しようとしたなかったエイリが悪い」ということになる。そして、まちがった前提で「えらそうなこと」を言う。言えるのは、ただ単に、きちがい兄貴が横の部屋にいなかったからだ。どれだけ言ったって、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、きちがい的にこだわって、きちがいヘビメタを鳴らすのだから、そういう状態が続いてしまうのである。そして、きちがいはきちがいだから、ほんとうに、まるで気にしないのである。きちがい兄貴も、きちがい親父も、ヘビメタ騒音のことについては、「まるできにしない」。俺がどれだけ言っても、きちがい兄貴は、一分もゆずらずにやるということが決まっているという認識で、ずっとやり続ける。きちがい親父は絶対に兄貴に文句を言わない。注意をしない。俺に対して「こだわっちゃうからだめなんだ」と言っていたやつなのである。注意できる15年間、ずっと毎日、そういう態度を突き通したやつなのである。ところが、16年目以降「注意してくれなかった」と俺が親父に言うと「注意した!!!注意した!!!注意した!!!」とむくれる。怒り狂う。注意できる15年間は「しかたがない!!しかたがない!!しかたがない!!」とむくれて、注意してくれなかったのが、きちがい親父だ。こういう態度をとり続けるということが、ほかの人には、わからない。わからないから、「ない」と思ってしまう。けど、「うち」では、きちがい親父は、いつもそういうやって反応するのである。どうしてかというと、きちがい親父がきちがい親父の脳みそをつけて、一日24時間中、24時間、生きているからだ。そりゃ、そうなるだろう。それとおなじように、きちがい兄貴はきちがい兄貴の脳みそをつけて生活しているので、つねに!!!そういう反応をするということになる。

 

2022年9月4日日曜日

言葉と実際の経験のちがいが、わからなくなってしまうのである。

けど、いまも鳴っているのだ。午後4時。この間の時間……。時間……現在進行形で聞かされた時、どういう状態になるか? それは、たとえば、「6時間鳴っていた」ということばでは表現できないものだ。5時間鳴っていた」とだれかが書いて、だれかが、「ああっ、6時間鳴っていたのね」と理解する。理解する。理解する。6時間鳴っていたということは、言葉で理解できる。けど、実際に、その人が体験したわけじゃない。自分がきらいな音が、自分がきらいなきちがい家族によって、ずっと鳴らされている状態がきついのだ。腹立たしいのだ。ぜんぜんちがう。だから、「理解した」としても、それは、ぜんぜんちがうことを「理解した」にすぎない。けど、ヘビメタ騒音のことを、聞いた人は、「6時間鳴っていた」ということを文章として理解するようなやり方で理解する。別に、経験したわけじゃない。個別の、自分がこの世で一番嫌いな音をずっと鳴らされて、6時間経過した状態を経験しているわけではない。だから、理解のしかたがぜんぜんちがう。他人の言葉を聞いて理解した内容と、他人が経験した内容を、おなじものだと考えるべきではない。けど、そういうことを経験したということを理解したと思うと、言葉と実際の経験のちがいが、わからなくなってしまうのである。

 

 

ヘビメタがどれだけたいへんなものか、みんなわかってない

 ヘビメタがどれだけたいへんなものか、みんなわかってない。鳴っているあいだの時間がすべて汚染されてしまう。いま日曜日の午前10時36分だけど、この時間は、つねにヘビメタが最大限の音で鳴っていた。空気がよごれる。どれだけ無視しようとしても、からだにこたえる。こんな時間からずっと鳴らされ続けて、からだにこたえないわけがないだろ。そういうことの影響のほうが、たとえば「眠れる眠れる」と言うような暗示よりもでかいんだよ。もう、チリと太陽ぐらいにちがう。ところが、言霊を信じている人は「眠たい眠たい」と言えば眠たくなると言って聞かない。「眠れる眠れる」と言えば眠れると言って聞かない。そして、きちがいヘビメタ騒音でどうしようもなく、「おしだされて」健康管理が出ない状態になるのに、健康管理が出ないのは問題だとせめられるようになる。「受験というのは、健康管理も含んでいるんだよ」などと言われる。そいつには、きちがい兄貴も、きちがい親父もいない。きちがい兄貴が頑固に鳴らす騒音もない。そういう、突き刺さる、騒音が鳴っている時間も短い。あったとしても短いし、きちがい兄貴、きちがい親父でなければ、二日もあれば、解決している問題なんだよ。こいつら……きちがい兄貴ときちがい親父は、自分が、きちがい的な意地でやっているからそういう問題が生じているのに、自分が、まったくの部外者なのだ。まったく関心がない。なら、言うことを普通に聞いてくれるかと言うと、それがまったくない。だから、『きちがい』という単語を使って説明しているわけ。これまた、きちがいと言う単語を理由もなしに使っているわけじゃないんだよ。態度としておかしいんだよ。そりゃ、きちがい的な意地でやっていることなのに、まったくつもりがないことなのだから……主観的にはやってないこととおなじなのだから、自分がやっていることに関する認知がおかしい。けど、自分がやっていることに関する認知がおかしいことで、得をしているのである。きちがい兄貴なら、きちがいヘビメタを、心おきなく、でかい音で鳴らすことができる。これ、おばあちゃんのうち」だったら、きちがい兄貴だって一分間だって鳴らせないほどでかい音なんだよ。けど、「うち」だったら、「こんなのあたりまえ」という感覚で、ずっと鳴らすことができる。殺さなければ、排除できない。そういう意地で鳴らし切る。けど、本人は、ほんとうに「鳴らしたつもりがない」状態なのだ。これがこまるんだよ。「自分」と書いて「自分たち」とは書かなかったけど、おのおの「自分」ということだ。きちがい兄貴にも、きちがい親父も、おなじことが成り立つ。こまるのは、まわりの人なんだよ。 

きちがいヘビメタのことを説明したあと、きちがいヘビメタの影響を無視して、えらそうなことを言ったやつは、みんなまるまるすればいいと思うよ。

人生が、屈辱的な人生になってしまう。兄が、きちがいで、きちがい的な意地で、きちがい的な時間の長さ、きちがい的な騒音を鳴らすという状態になると、こまるのだ。けど、そういうこまり方をしている人間が、ぼく以外にいない。だから、どういうふうにこまるかと言うことは共有できないし、そもそも、話が通じないということになる。そりゃ、他人は全員、きちがいヘビメタ騒音を経験してないのだからそうなる。どれだけつらいか、ほんとうにわかってない。

2022年9月3日土曜日

ヘビメタ騒音さえなければ……

  ほんとうに、つまんない。ヘビメタ騒音さえなければ……。ほんとうにあのとき、すべての感情がほろんだ。あのとき……。あのときからずっとくるしいだけだ。どれだけがんばっても、どれだけ、楽しもうとしても、つらいだけだ。

あれはない。ほんとうに、みんなわかってないなぁ。経験がなければわからないか? 人間の感情というのは、意志的な思考でどうにかなるものではない。実際に経験したことがものをいう。そのとき、実際にからだが影響をうけている。もちろん、ヘビメタ騒音にさらされたからだ全体が影響をうけている。脳みそだって、からだの一部だ。「楽しもうと思えば楽しめるはずだ」というような考えをもっている人は、きちがいヘビメタ騒音のような長期の経験がない人たちなんだよ。だから、そんなことを言っていられる。もちろん、そういうことを言っていられるようなことしか、経験してないというのは、いいことだ。これ、いいことだからな。別に、バカにはしてない。けど、そういうことを言う人たちが、こっちの状態を無視しているのである。だから、「そういうことではない」ということを説明するわけ。だけど、そういう人たちだって、自分が正しいと思っていることを否定されたら、おもしろくないわけだよ。けど、そのおもしろくない経験の「不快度」を1だとすると、ヘビメタ騒音、一秒間の「不快度」は、1兆だよ。そのくらいちがう。

言霊の人もそうだけど、自分が正しいと思っていることを否定されたら、気分が悪いわけだよな。じゃあ、相手が正しいということにして、つきあうとなると、こっちが不愉快な思いをするわけだよ。相手の理論?は、ぼくの体験を裏切っている。ぼくが実際に経験したことから考えると、やっぱり、相手の理論はまちがっているのである。あきらかに、まちがい。どうしようもなく、まちがい。修復しようがないまちがい。

考えてもみろ。横にきちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴のきちがい騒音を体験しなければ、ぼくだって、「そうですね。そうですね」と話をあわせることができたのだ。そして、話をあわせても、不愉快な気持になる家ではなかったのだ。どうしてなら、ぼくだってそう思っているからだ。ところが、ちがうのである。この「ちがいのふかさ」というのは、きちがい的な兄がいない人間にはわからない。きちがい的な兄が、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らすということを毎日続けたということ、実際にはどういう意味をもっているのか、わかるわけがない。これ、ほんとうに、毎日、ひどい。そんなのは、ぶっとぶ。言霊なんてぶっ飛ぶ。どれだけ、「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。だいじょうぶだ。」と言ってもぜんぜん、だいじょうぶじゃない状態が続く。どれだけ「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」「すぐに鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまない。どれだけ「眠れる。眠れる」と言ったって、ぜんぜん眠れない。 

ほんとうに、常識人・佐藤みたいな人間には、そういうことがわからないんだよな。人のことだと思って、ヘビメタ騒音を軽く見積って!! ヘビメタ騒音の影響を無視しをがって!! おれがどれだけ、ヘビメタ騒音の影響でできないと言っても、それは無視して、できるという前提で、くそ説教をしてくる。頭がおかしい。どうして、無視する? 俺が言っているだろ!!!!! 

こいつらだけは、絶対に許せない。毎日、どれだけ希望をもって暮らしても、きちがいヘビメタが希望をうちくだく。毎秒毎秒、うちくだく。はげしく、うちくだく。そういう毎日が続いて、いいわけがないだろ。そういう毎日が続いて、通勤通学ができるわけがないだろ。働けるわけがないだろ。ところが、きちがい兄貴がおらず、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を経験したことがないやつは、ヘビメタ騒音のことを聞いたあとも、「そんなのは、関係がない」とかってに見積って、頭がおかしいことを言いだす。これ、完全に頭がおかしいことだからな。なにを聞いているのだ!! 

鳴っている状態も、鳴り終わったあとの状態も、まったくわかってないな。鳴り終わったら関係がないと思っているのか? ぜんぜんちがうね。こいつら、想像力がないからまったくわからない。話しても、わからない。わからないやつの頭のなかでは、影響がないことなんだよな。どれだけ、あほか。

2022年9月2日金曜日

こだわりがおなじなのである。「殺さなければならない状態」を突き付ける

 のどがかわいて、起きた。気温がさがったのですごしやすくなっている。けど、ぼくは、あいかわらず、動けない。いちおうやってはいるのだけど、亀の歩みだよ。鼻の横がかゆいのだけど、これが、ダニなのか、ダニじゃないのか、気になる。首のしたは、なんか、ダニに刺された感じがする。きちがい親父が二回、意地をはらなければ、こんなことになってない。ほんとうなら、親父が死んだ時点で、マンションを買って、完全にバルサンをたける状態にして、粗大ごみ回収の人たちにきてもらって、どうにかするということが必要だったんだな。引っ越してしまえば、バルサンをやるときに、食器や調理機の心配をする必要がなくなるからな。

まず、ネズミの流入をとめようとして、工事をしたのだけど、工事がうまくいかなかった。結果的には、工事をしたあとも、ネズミの流入をとめられなかった。これ、もう、においがついちゃうとだめなのだ。

まあ、ともかく、首の下のかゆみは、たぶんだけど、Tシャツが原因だと思う。洗って、ほして、置いておいたのだけど、それでも、ダニがついていたと考えるべきだな。というわけで、今度は熱湯処理をして、洗濯をしたけど、そういうのも、もう、限界なんだよな。動きたくないわけだから。この「うごきたくない」というのは、長期騒音と、親父のネズミ騒動で、引き起こされたことだ。ともかく、もう、「うごきたくない」のである。それを、おして、たとえば、熱湯処理をしている。片づけをしている。

これ、みんなわかってないだろうけど……。ともかく、築58年ぐらいの木造二階建てというのは、もう、むりなんだよね。けど、きちがい親父がネズミの餌付けをするまで、54年間ぐらい、ずっと、一匹も、ネズミなんて入ってこなかったのだ。あとでわかったことだけど、ネズミが侵入できる穴というか隙間があった。複数カ所あった。あったにもかかわらず、親父が餌付けをするまえは、一匹も入ってこなかったのだ。だから、これ、ちがうんだよね。ちがうんだよ。餌付けをして、いっぱいネズミの糞がころがっている状態になったあとは、どれだけ努力しても、次から次へ入ってくるという状態になった。なかなか、とめられないのである。工事をしても、むり。きれいさっぱりと、ネズミが入ってこれない状態というのを、つくれないんだよね。ねらわれちゃったら、だめなんだよ。ねらわれちったら。ねらわれちゃったら、意地でも入ってこようとするわけで、穴があいてなかったとこに、穴をあけて入ってこようとする。ほんとうに、54年間、きちがい親父が、きちがい的な方法でえ付けをするまでは、そんなことがなかった。どれだけ、穴があいていても、ネズミなんて一匹も入ってこなかった。それが、きちがい親父が、酒糟がついた魚の切り身を、24時間中、23時間、テーブルの上に出しておくことに、こだわってこだわってこだわってこだわって、こだわってこだわってこだわって、こだわってこだわってこだわって、殺さないとやめさせることができない状態になった。勝手に片づけてしまうのも、問題があるのである。かかわってしまったら、殺さずにはおけないような行為をすることになる。トラブルの連続になる。我慢すると、こっちの身がもたないような状態になる。どっちにしろ、殺さなきゃならないような状態になってしまうのである。おやじの頭の構造から言ってそうなる。「とおらない」のだよ。ちゃんと言えば、通じるとか、そんなおかしいことに、そんなにこだわるはずがないとか……普通の人は考えるわけだけど、ちがうんだよ。この場合も、かかわってしまって、こっちの意地をとおそうとすると、殺さなければならなくなるのである。それをがまんしている生きている。ともかく、「普通の人がやらないこと」を、親父がやりだすと、こまるのである。こまる。これ、ずっと前からおなじなんだぞ。たまたま、酒糟がついた魚の切り身を出すことにこだわることになったから、ネズミ関係のあれこれが発生しているわけで、こっちが我慢して、問題が発生しなかったことに関しても、こういう状態が成り立っている。おやじの頭が常にそういう状態だから、常にそうなっているのである。たまたま、酒糟のついた魚を「ほぼ」一日中だしっぱなしにすることにこだわったから、見えやすい問題が発生しているだけだ。

これは、兄貴でもおなじだ。おなじなのである。おやじのこだわりと、兄貴のことだわりが同じなのだ。こだわる箇所がちがうけど、親父の酒糟のついた魚の切り身をだしっぱなしにすることに関するこだわりと、兄貴のヘビメタを思いっきり鳴らすことに関するこだわりがおなじなのである。どれだけ言ったって聞きはしない。「殺さなければならない状態」を突き付ける。二十四時間中、二十四時間、つきつける。

 

2022年9月1日木曜日

きちがい兄貴が、毎日鳴らさなかったらこんなことになってない

 しかし、つまんねぇな。これはいったいなんだ??

これは、いったいなんだ?

きちがい兄貴が、毎日鳴らさなかったらこんなことになってない。

気分が、だめなんだよな。こんなの、ない。 

つまーーんない、人生。

ヘビメタの、この感じが、すごいんだよな。だれもわかってくれないけど……。経験がない人たちにとっては「そんなの気にしなければいい」と軽く言えることだからな。そんなことじゃないからこまっているのに……。こういうレベルのことを言われる……。ずっと……。

なんなんだ? この人生は? こんなのない。きちがい兄貴のきちがい度がわかってないなーほんとうに殺さなければ一分間だってやめてくれない。きちがい的な意地で、鳴らしている。自分がやりたい時間に、自分がやりたい音で鳴らすということに「いのち」がかかっているから、絶対にやめてくれない。やめさせるとなれば、殺さなければならなくな。こっちは、人知れず、つねに、きちがいヘビメタ騒音で死にそうな感じだ。爆発して、自害するか、爆発して、きちがい兄貴を殺すしかない。そういう一秒一秒なんだよ。こんなの、一日に七時間から十三時間続いたら、そりゃ、どれだけ我慢したって、つかれる。死にたくなる。憂鬱になる。楽しめなくなる。ところが、楽しめなくなれば楽しめなくなったで、きちがい兄貴がいないやつから、「楽しもうと思えば楽しめるのに、楽しもうと思わないからダメなんだ」と説教をくらうことになる。こういう人生。こ、れ、なんだ、これ?

 

そういうことを言えるぐらいのハンディだ

 ヘビメタ騒音をやられると、一日が、どれだけつらいものになるか、まるでわかってないな。どれだけしつこく、のぞみをもって暮らしても、毎日やられると、そののぞみもなくなっていくというのがわからないな。だいたい、窮地に立っいるわけで、その度合いが、毎日、増す。どれだけ、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない。

ヘビメタ騒音のハンディがないやつが、好き勝手なことを言って!!

きちがい兄貴のハンディ、きちがい親父のハンディがないやつが、好き勝手なことを言って!! 

「そんなことが成り立つなら、こまってない」と絶叫したくなる!!

しかも、そいつらが、こまっているところで……窮地に立って困るているところで、へんな要求をしてくるわけだ。痰的に言えば、気にしないでがんばればいいということを言ってくる。こいつらには、ヘビメタ騒音のハンディがない。けど、そいつらは言うだろう。「俺だってこれこれでくるしい。けど、がんばっている」と。ね。けど、そいつらのハンディというのは、そういうことを言えるぐらいのハンディだ。ちがう。ぜんぜんちがう。そういうものじゃない。毎日、ヘビメタ騒音がつみかさなるというのは、そういうことじゃない。そういうことが、ぜんぜんわかってないということは、そいつのハンディがたいしたハンディじゃないということを、明示している。

「がんばっている」状態を維持できるなら、そいつらのハンディは、ぼくのヘビメタのハンディとはちがう。

おわりがないんだよ。実際には、十五年間で終了したけど、たとえば、一年目の三十日目の俺にとっては、ヘビメタ騒音は、兄貴を殺さなければ「永遠に続きそうな」騒音なんだよ。実際、十五年目に終了したとしても、意味がない。三十一日目に終了しなければ意味がない。この終了というのは、完全に終了するということだ。きちがい兄貴が、「ゆずったつもりで」おなじようにずっと鳴らし続けるということではない。殺さないと絶対にやめない。そういう状態だった。理解してないからね。きちがい兄貴を殴ったらなぐったで、今度は、「なぐった」ということを「ひとじち」にとって、自分を正当化してやる。暴力という悪いことをしたのだから、騒音なんて関係がない。おまえが暴力をふるったのだから、ヘビメタ騒音を思いっきり自分が鳴らしたいように鳴らしたっていい……こういう精神状態になって、きちがい的な意地で鳴らす。ならばやはり、殺すところまでいかなければならなくなる。常に相手にそういうことを突き付ける「いじ」なんだよ。きちがい兄貴の意地というのはそういう意地なの。で、これおなじ意地をもっていたやつが、きちがい兄貴のほかにもいた。きちがい親父だ。二人のきちがいに、はさまれて、どれだけつらい思いをしたか、きちがい兄貴ときちがい親父がいない人には、まったくわからない。どういうことが発生するのか、聞いたって、わからない。自分のことでなければわからない。実際にそういう「うち」で、二十年ぐらい、生活しないとわからない。どんだけのことがつみかさなるか、わからない。どんだけのことがつみかさなるか、実際の時間経過とともに、経験しなければ、二十年間でこうなるということを、説明されたって、わからない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。