2023年8月31日木曜日

それ以降の「すべて」にたたっている

 ほんとうに、ヘビメタ騒音は、それ以降の「すべて」にたたっている。これ、正しい文なのである。そして、実際に正しい。「すべて」だから、非合理的かというとそうではないのだ。ほんとうに、すべてだ。

2023年8月30日水曜日

他人との関係に影響をあたえる

 なんで、他人との小さな傷が、大きな傷になってしまうかと言うと、きちがい兄貴やきちがい親父とのかかわりで、全身が傷だらけだからなんだよ。きちがい兄貴との関係で、からだが、傷だらけ。満身創痍。きちがい親父との関係で、からだが、傷だらけ。満身創痍。もう、すべてすべて、限界値に達している。もう、瀕死の重傷状態で、ほかの人とつきあうわけだ。だから、少しの傷でも、致命傷になってしまう。そして、瀕死の重傷状態だから、動きがおそかったりするのである。これは、比喩なんだけど、きちがいヘビメタにやられて、睡眠時間がとれず、慢性的にくるしいわけだから、動きがおそくなるのである。チカラがでない状態になるのである。それは、やはり、他人との関係に影響をあたえる。

それで、たとえば、ネズミ対策工事で、ある意味、親父と似たような人とかかわるようになってしまうのである。この人は、正常な人だ。きちがい親父みたいに異常な人ではない。けど、少しだけ、似ているところがあるのである。この人のことをティーさんと言っておこう。ぼくが、ティーさんにやってほいしいことと、ティーさんがぼくにやってやりたいことがくいちがう場合がある。その場合、プロであるなら、ぼくがティーさんにやってほしいことを優先するべきだ。ようするに、ぼくが「ここはやらなくていい」「お勝手のドアはあかなくもいいから、ぼくが貼り付けたパティをとらないで」と言ったのに、「お勝手のドアは、あいたほうがいいだろ。ネズミがちゃんと入らないようにしてやるからだじょうぶだ」と言うのである。けど、ぼくは、「ドアはあけられなくていいから、ぼくがつけたパティをとらないでくれ」と言ったのだ。言ったんだけど、とっちゃった。「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ」と言う。「とるな」と言ったのに、とった。で、これが、結果的には、だいじょうぶじゃなかったのである。しかも、パティは捨てられないと、パティをもって行かなかったのだ。ようするに、俺がパティをすてることになる。家庭ごみとして捨てることになる。俺は、「とらないでくれ」と言ったんだよ。行為のがわかってないやつがいる。そして、問題がしょうじたとき……ネズミが、お勝手のドアの下から入ってくるようになったとき、電話をしたら、電話に出ないのである。ティーさんが出ない。あとでわかったことだけど、脱腸で入院していた。だから、けっきょく、助けにきてほしいときは、助けにきてくれなかったのである。同種のことを、さらにでかい場所でやられているのである。で、これが、ネズミのことで、いろいろな影響をあたえているのである。ネズミがはいらないように工事をしたのに、二か所、ネズミがはいるようにしてしまったのである。で、ぼくは、何回も「パティはとらなくていい」と言ったのに、とっちゃったのである。じつは、ヘビメタ騒音も影響をあたえている。ヘビメタ騒音のせいで、睡眠時間が普通の人とは、ずれまくっている俺は、ティーさんに「あっちのパティはとらないでください」と言ったとき、三〇時間ぐらい起きている状態だったのである。これ、睡眠がうまくいかない。工事をするとなると、昼間やることになる。ところが、睡眠時間があわないのである。前日まったく寝てない状態で、人に対処することになる。頭が、モヤモヤしているのである。これは、親父の入院や退院、親父の老人ホーム入居などのときも、おなじだ。人と会うことになると、時間の調整ができないのである。前の日から眠ってない状態で人に会うようなことになってしまうのである。だから、頭がモヤモヤしているときに、自分が思っていることを、言うわけだけど、押しが強い人の場合は、こっちが言っていることを、無視してしまうのである。俺が、強く言わなくても、ひとこと言えば、俺が言ったことを優先してくれる人だと問題は起こらないのだけど、自分がやりたいことが優先する人の場合だと、問題がしょうじる。一回、しずかに言っただけでは、納得せず、自分がやりたいようにやってしまうのだ。これ、問題があるよ。俺がティーさんにやってほしいことをティーさんはやるべきなんだよ。ティーさんが俺にやってやりたいことを、やるべきではないんだよ。俺が、「ドアはあけられなくていいい」「パティはとらなくていい」とひとこと言ったら、そうしてくれないとこまるんだよ。

家が古いので、ふるい家のつくりについてよく知っている人じゃないとだめだったのだ。で、そういう人は当然、歳をとっている。「昭和一桁の呪い」と言っているのだけど「昭和一桁」の人は、自分が相手にやってやりたいことが優先する人が多い。ティーさんは、親父のように気ちがいではない。ティーさんの逸脱の程度は、親父とは比べ物にならないほど小さい。けど、「相手が(自分に)やってほしいこと」よりも「自分が相手にやってやりたいこと」をやりたいという気持が、強いのだ。「相手が(自分に)やってほしいこと」よりも「自分が相手にやってやりたいこと」を優先してしまう。こういう人は、部分的には、親父と似ているのである。だから、きちがいではなくても、同種の性格傾向をもっている人たちが、社会にはいる。

きちがい兄貴の騒音で、満身創痍になっていなければ、対処できるのに、それが対処できないのである。睡眠障害と体力障害をかかえている状態で、うまく対処できないのだ。体力障害と書いたけど、これは、まあ、慢性疲労症候群のようなものだと考えてくれ。体力測定で測れるような体力と、生活体力のようなものはちがうのではないかと思っているわけ。たとえばの話だけど、前日眠っていない状態で、体力測定をうけたとする。その場合、なんとか力をふりしぼって対応するわけだけど、意識水準は当然、前日眠っているときとくらべれば、さがっている。そして、「持続時間」というものを、考えなければならない。「気をはって」「無理やり動いている状態」……が、数時間、十数時間にわたって、持続するわけでしょ。無理やり動いている時間の体力というのは、体力測定で測れる瞬間的な体力とはちがうと思うんだよね。十数時間にわたって、持続して行動することができる体力と瞬間的な体力はちがう。ぼくの場合、持続して行動することができる体力も、ヘビメタ騒音以前は、人並みにあった。けど、毎日のヘビメタ騒音が「不可避的に」けずっていく。生活体力というべき体力がさがった。

「敵」のなかで暮らしている

 きちがい家族による激しい騒音というのを、みんな、経験してないんだよな。それが、数千日続いてしまう状態というのを経験してない。その、はげしい騒音が、自分がこの世で、一番嫌いな音なんだよ。だから、この世で一番嫌いな音、家族による騒音、ほかの家族が黙認している騒音、一日のなかで、長時間鳴る騒音という、条件をみたしている。この条件(群)とおなじ条件(群)をみたしたことを経験している人が非常に少ない。人数としても少ないし、割合としたら、無視できるような割合だ。ようするに、九九・九九九九九%ぐらいの大多数の人はぼくが経験した騒音を経験してない。経験してない以上、からだがちがう。

まあ、言いたいことは、こういうことだ。「敵」のなかで暮らしている。「無理解さを発揮する敵」のなかで暮らしている……。 敵の言っていることは、すべて、きちがい家族による激しい騒音なんて関係がないという前提の上に成り立っている。そりゃ、そいつにとってみれば、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響がわからない。そして、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響を「実際に受けてない」。そういう騒音の影響がない体で暮らしている。そういう騒音の影響がない体で生きている。これが、ちがう。

いま、ほんとうに、このタイミングで、工事が始まって、がーがー、うるさい。けど、ぼくは、こういう文章を書いている。ががががーーと電動工具でものをけずっているような音がする。けど、ぼくはこういう文章を書いている。きちがいヘビメタ騒音なかで、文章が書けるかというと、書けない。きちがいヘビメタ騒音で頭がいっぱいで、文章を書くということができない。当然「眠る」ということもできない。当然「勉強をする」ということもできない。もう、まったく不可能な状態だ。こういう状態を、一日に何時間も、毎日経験してないやつが、騒音について語る。自分のつらい経験について語る。……それ、関係がないから。そして、そのえらそうなクソ野郎が(毎日通勤できる体を保持している)ということは、そいつの経験した騒音やそいつの経験したつらいことは、(毎日通勤できる体を保持できるよう)な騒音やつらいことでしかないということ意味している。通勤できる体を保持しているのでそういうことが言える。通勤できる体を保持して通勤しているので、通勤してない俺(エイリ)に対してえらそうなことを言える立場を保持できるのだ。発言の意味を考えるときには、発言の背景について考えなければならない。

工事の音源からだいたい一〇メートルぐらいは離れている。そして、きちがいヘビメタの音源とは一メートルも離れてなかった。音のでかさというのは、距離でぜんぜんちがう。音源の音のでかさで想像しがちなのだけど、音源の音のでかさとおなじように、あるいは、それ以上に、音源との距離が影響をあたえる。ぼくの部屋ときちがい兄貴の部屋はつながっている。床もつながっている。床からの個体振動だってある。あのでかいスピーカが、壁のうしろにあるわけだから、当然、床からの振動もある。壁からの振動もある。音ではなくて、振動なのだけど、音に合わせた振動もある。こういうことが「音圧」と表現したくなるようなちがいをつくりだす。ほんとうに、圧力がちがう。無視できない。ぜんぜん、ちがう。

「の」の連続は指摘しなくていい。

人間

人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らせば、俺とおなじような精神状態になるとする。そして、俺以外の人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らしてないとする。こういう世界なんだよな。実際に俺とおなじ騒音環境で暮らしてない人間は、俺とおなじ騒音環境で暮らしてないので、俺とおなじような精神状態にはならない。なので、俺の言っていることが理解できない。あるいは、理解する必要がない。あるいは、俺の言っていることが『偽』であると思う。その場合、人間は、俺(エイリ)とおなじ騒音環境で暮らしても、俺(エイリ)とおなじような精神状態にならないという前提でものを言うようになる。しかし、 人間が、俺とおなじ騒音環境で暮らせば、俺とおなじような精神状態になる。つまり、実際に、俺とおなじ騒音環境を経験したかどうかが、その人の考えに影響をあたえる。

2023年8月29日火曜日

「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっている人はニセモノ

 ほんとうにつらい思いをした人が、「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているというとはない。リトマス試験紙のようにわかる。「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているのであれば、その人は、ほんとうにつらいことなんて経験してない。ものすごくつらいときは、どれだけ楽しいと言っても、楽しくはならない。そういう経験がいっぱいつみかさなる。そういう経験がいっぱいつみかさなることがなかった、気楽な人が「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっているのだ。リトマス試験紙のようにわかる。ほんとうにつらい経験をしているのか、ほんとうにつらい経験はしてないのか、リトマス試験紙のようにわかる。結果が、すべてを物語っている。「どんなにつらくても、楽しいと言えば楽しくなる」という考え方をもっている人は、たいしてつらいことを経験してない。「楽しいと言えば楽しくなる」というようなつらさしか経験してない。「楽しいと言えば楽しくなる」というようなレベルのつらさしか経験してないから、「楽しいと言えば楽しくなる」と思っている。

おまえ、それ、ぜんぜんちがう。

 まあ、正直に言うけど、「憂鬱」と言っても「憂鬱」のレベルがちがうんだよ。そして、その憂鬱をつくりだしたのが、一方では「正論」なんだよ。「やらなければならないことだから、やるべきだ」という正論だ。

これが、きちがいヘビメタが鳴っている状態だと、どうしても、通せないことになる。ところが、きちがい家族が鳴らす、きちがいヘビメタ騒音がない人だと、「やらなければならないことだから、やるべきだ」ということを、通せる。やり通すことができる。

それは、それなりにくるしいことだから、本人は「どんなにくるしいことだって」と言いたくなる。そして、言う。けど、その人だって、ヘビメタ騒音があれば、ちがってくる。

その人だって、ヘビメタ騒音の繰り返しがあればちがってくる。

ヘビメタ騒音だけでは、そういう状態は、しょうじない。作用と反作用のように、ヘビメタ騒音が押し出すものに関して、押し返してくるものがなければ、「ほんとうにくるしい状態」というのがしょうじない。

ほんとうにくるしい状態……。ヘビメタ騒音ありの本当にくるしい状態と、へびめたそうおんなしのほんとうにくるしい状態がちがう。けど、世の中の人というのは、きちがい家族がいないので、きちがい家族が、くりだす、ヘビメタ騒音を知らない。残酷さを知らない。無関心さを知らない。

これ、きちがいだからできることなんだよ。

そして、まあ、「うち」だからできることなんだよ。きちがいヘビメタをやらてれない人が言う、「どんなにくるしいことだって」というのは、ヘビメタ騒音がないくるしさなんだよ。ヘビメタ騒音がない人が感じる、日常的なくるしさなんだよ。

おまえ、きちがい家族と一緒暮らしてないじゃないか。

きちがい家族が、息をするように、毎日毎日鳴らす、ヘビメタ騒音にさらされたことがないじゃないか。

おまえ、それ、ぜんぜんちがう。

2023年8月28日月曜日

ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる

 どれだけ説明しても、たいていの人にはわからないと思うけど、ぼくとおなじような環境で育ってきた人には、ひょっとしたらわかるかもしれないので、書いておく。

基本、きちがい家族と一緒に住んでいる人と、正常な家族と住んでいる人とでは、すんでいる世界がちがう。それぞれに、「自分はこうだった」という記憶がある。なので、その人が言う一般論は、「自分はこうだった」という記憶がベースになっている。

たとえば、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に住んでいる人が、店を出した場合と、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人である町に住んでいる人が、店をだした場合とを、くらべてみよう。

一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に店をだした人の場合は、かならず、トラブルがしょうじるのである。ものを売るとき、かならず、すべての人とトラブルが生じるようになる。

きちがいばかりが住んでいるので、きちがい的な基準でつっかかってくる人ばかりなので、ただたんに、ものを売るということでも、トラブルが続くということになる。

いっぽう、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に店を出した人の場合は、ときどき、トラブルがしょうじるということになる。

そして、そのトラブルも、正常な人が引き起こすトラブルなのである。正常な人だって、機嫌が悪いときはある。八つ当たりしたい気持ちになって、八つ当たりする場合もある。

けど、その場合は、感覚器を書き換えていないので、自分が八つ当たりをしているということは、認識できるのである。なので、感覚器を書き換えているような異常な人とのトラブルとは、質がちがうということになる。

そういうトラブルに対する対象方法だって、ちがってくるのだ。

たとえば、自分の言い分をおさえて、まずゆずってあげれば、相手だって、自分がやったことはまずいことだったと反省して、今度は、八つ当たりをしなくなるという方法があるとする。そういう方法は、相手が正常なら、有効である場合がある。

その場合、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に住んでいる人が、「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる(ゆずりかえしてくれる)」ということを言いだす。これは、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町では、真実なのである。正しいことなのである。しかし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町では、正しくないことなのである。真実ではないのである。

これが、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人には、わからない。法則性があることとして「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言う。「Xをすれば、Yが起こる」「ゆずるということをすれば、相手もゆずってくれるということが起こる」ということを言う。「どんなばあいだってそうだ」と言ってしまうのである。

もし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人が、一〇〇〇人中一〇〇〇人がきちがいの町に住んでいる人に助言をするとしたらどうなるか?

「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言うのである。この場合、相手の悩みを解決するような、すごい方法を教えてあげているというとになる。だって、法則性があることなんだよ。どんな条件だって、それは成り立つという前提で言っているんだよ。そうしたら、「成り立たないなんてことはない」ということになるじゃないか。ところが、成り立たないのである。条件がちがうから成り立たない。けど、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な町に住んでいる人は、『条件のちがいなんてない』と思っているのである。

だから、たちが悪い。

そうなると、不思議なことに、こまっている人が、もっともっと、追い込まれることになる。一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人も、まちがった前提でものを言ってくるということになる。こまっている人が、自分が助言したことを実行しないから、こまったままなんだと判断することになる。けど、この判断はまちがっている。

そのためだったら、どんな現実認知でも、捻じ曲げるんだよ

 やっぱり、あとにも、さきにも、ヘビメタ騒音もヘビメタ騒音級の騒音もないな。きちがいヘビメタにやられ続けたので、「ヘビメタがはじまるのではないか」「ヘビメタ騒音級の騒音がはじまるのではないか」と思うときがあるのだけど……いまだにあるのだけど、ない。そりゃ、工事の音や幼稚園の音はあるけど、ヘビメタ騒音級の騒音じゃないんだよね。きちがい兄貴だって、いま住んでいるところでは鳴らしてない。鳴らせないのだ。けど、「うちでは」鳴らせた。「鳴らしたって問題ない」と思っていた。その思いが、また、消えないのである。きちがい親父が「このはんだごては使える」と思ったら、どれだけ使えないということがあきらになっても、現実を無視して「使える」「使える」と言い張るのである。これも、いじわるでやっているわけではないのである。死にものぐるいなんだよ。絶対に、カネははらいたくないんだよ。そのためだったら、どんな現実認知でも、捻じ曲げるんだよ。そういう意地がある。そして、それが無意識的なレベルでおこなわれるために、意識的なベルでは、ほんとうにそうしているつもりがないのである。なので、「そうした」という記憶が残ることがないのである。これとおなじことが、きちがいヘビメタ騒音にも成り立っている。まえにも言ったけど、兄貴のヘビメタ騒音と親父のハンダゴテはまったくおなじ。でっ、どっちの出来事も、「ふつうのうち」ではしょうじない出来事なのである。どうしてかというと、無意識的なレベルで、現実認知を捻じ曲げてしまうほど、くるっている人がいないからだ。そりゃ、だれだって、機嫌が悪いときはある。そりゃ、だれだって、都合が悪いことは認めないようにするときがある。けど、それは、やっている本人が知っていることなのである。きちがいは、きちがい的な意地でやったことは、全部、知らないことなのである。そんなのやったってやってなくたって、関係がないことなのである。こういうレベルで、くるっているのである。だから、反省もしないし、責任があるとも感じない。自己責任なんて感じるわけがないだろ。これは、ようするに、やり勝ちした人が、やり勝ちできる思想なんだよ。

2023年8月27日日曜日

この現実はなんだ??

 ここは、やなぎ荘だ。やなぎ荘の日曜日だ。やなぎ荘だ……。まだ、おかあさんも生きていた。まだ、親友とつきあっていた。まだ、友だちがたくさんいた。あーー。ヘビメタ騒音でつらかったけど、まだ、希望だけはあった。そりゃ、どうなるかわからないわけだから……。どうなるかわからないだろ。ものすごい幸運にめぐまれる「かも」しれない。そんなのはわからない。だから、希望はあった。しかし……。この現実。この現実はなんだ?? 

たとえばの話

 たとえばの話なんだけど、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」というような解決法を提示されること自体が、不愉快なことなんだよ。「きちがい家族によるヘビメタ騒音で、楽しめなくなった」と言っているだろ。自分の家族が、きちがい家族ではなかった人間……そういう人間は、当然、きちがい家族がきちがいヘビメタを鳴らすということもない。きちがい的にでかい音で、長時間、長期間にわたって鳴らすということだ。そして、「鳴らすな」ということを言われれば、腹をたてて、きちがい的にこだわってこだわって、鳴らした……。そういうときに、くるしいのである。楽しくないのである。そういう時間が、楽しく感じられない構造をつくりだすのである。そういう、実際の経験が、楽しく感じられない「脳みそ」「こころ」をつくりだすのである。やられてないやつが、中立的な状態で、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」ということではないのである。そういうやつには、きちがい家族がいない。きちがい家族が毎日、きちがい行為をするということがなかった。人生のなかでなかった。だから、「楽しいと言ったら、なんとなく楽しくなったような感じがする」という状態を維持できているだけなのである。そして、こういう状態のちがいを無視して、ただ単に、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」「これは、真実だ」と言う。状態のちがいを無視するな。けど、そういう、普通の人に「状態のちがいを無視するな」と言っても、むだなのである。そいつは、きちがい家族のもとに生まれたわけじゃない。きちがい家族が、どういう状態で、きちがい行為をするの、感覚的にわかってない。わかってないし、人生のなかでそういうことがしょうじなかったので、そういうことが、はなから、問題になっていないのである。その結果、「楽しい、楽しいと言えば、楽しくなる」ような状態を維持できた。維持できたというだけの話だ。だから、きちがい家族のもとに生まれた人と、きちがい家族のもとに生まれなかった人では、基本的な経験がちがう。基本的な経験がちがうということは、基本的な経験が生み出す、基本的な感覚値がちがうということだ。この感覚のちがいは、でかい。話の根底にあるものだ。けど、その根底にあるものを無視して、「XをすればYになる」というようことを言う人が多い。「楽しいと言えば、楽しくなる」というのも、そういう構造をもった言葉のひとつだ。

 

2023年8月26日土曜日

本人が怒り狂って否定すれば、それで本人は、まったく関係がない人になってしまう

 きちがい兄貴に言っておく。きちがい兄貴が、ハンダゴテのことでこまっているとき、きちがい親父は、まったく気にしてないんだよ。気にすることができない。関係がない人になっている。けど、きちがい親父が、きちがい回路にしたがって、きちがい行為をしたの。きちがい親父が原因をつくっているんだよ。こんなの、きちがい的な親のもとに生まれなかったやつにはわからない。逆立ちしたってわからない。そして、そいつらは、逆立ちしてわかる気持ちもない。そんなの、関係がない。「へんな話」。「そんなの人、いるの?」で、すんでしまう。「言い方が悪かったんだよ」「俺だったら、ちゃんと説明できる」と思っているんだよ。そんなことは絶対にできないのに、そう思っている。そいつの頭のなかだとそうなんだよ。

きちがい兄貴に言っておく、親父はまったく、ハンダゴテのことを忘れている。きちがい兄貴が、きちがい親父に、「ハンダゴテは、やっぱり使えなかった」「ハンダゴテのことで、バカにされてはじをかいた」と言ったとき、きちがい親父の頭に去来するのはなにか? 「使える!!使える」ということだ。絶対に認めないのである。そういう態度。そういう態度、頭にくるよな。きちがい兄貴のヘビメタに対する態度というのがそういう態度なんだよ。相手がこまったということがわからない。自分が発狂的な意地でやったことで、相手がこまったということが、発狂的にわからない。本人が怒り狂ったら、もう、それで関係がないことになっている。ひとつひとつが切れているんだよ!! 連続してない。関係がわからない。きちがい親父のなかになにがあるかというと、「買わされたらたいへんだ」という気持しかないんだよ。それが、無意識的なレベルで思っていることなんだよ。そうしたら、絶対に「使える」ということになってしまう。「使えない」ということは、絶対にどんなことがあっても認めない。きちがい兄貴が、ヘビメタが、普通の家でありえないほどでかい音で鳴っているということを、認めなかったのとおなじだ。きちがい兄貴にとっては、「でかい音で鳴らしている」ということが、そういうことだったのである。命がけで、否定して、それでおしまいだ。本人が怒り狂って否定すれば、それで本人は、まったく関係がない人になってしまう。このきちがい回路が、ほかの人にはわからない。そして、本人もわかってないんだよ。こんなのない。きちがい的な意地で、本人が主張していることが、わかってない。本人がまったくわかってない。きちがい的な意地でやったことが、本人にとってはやってないことなのである。本人がきちがい的な意地でやるからそういうことが生じているんだぞ。相手の身にそういうことが生じているんだぞ。それを、全否定だ。でっ、ほんとうに、関係がない人になってしまって、記憶がない状態になってしまう。 関係がない人になってしまうし、自分がやったことで相手がこまったということは、ほんとうに、言われたことがないことになってしまうのである。言われた記憶がまったくないことになってしまうのである。そういう意味でも、関係がないことなのである。けど、身体は、きちがい的な意地でやってしまうのである。普通なら、意地をはってやったことは、記憶に残るはずだ。けど、まったく残らない。そんなことはなかったという「態度」になる。そんなことはなかったという「感覚」で、それ以降くらすということになる。それ以降の時間は、そういうことがなかったという記憶にもとづいた時間なのである。ようするに、本人は、「相手が自分に言ってきた」ということがわかってない状態になってしまう。だから、瞬間瞬間は、きちがい的に怒るのだけど、行動がまったくかわらないのである。

きちがい兄貴は、どれだけ言われても、俺がきちがい兄貴のヘビメタでこまっているということを認めなかった。これは、認めなかっただけではなくて、そのとき!きちがい的な意地でひっくり返せば、もう、記憶にないことになってしまうのである。相手は言ってこなかったということになってしまうのである。それ以降の時間は、相手は言ってこなかったという前提で暮らししているのである。まったく記憶にないことなのである。相手が「抗議をしてきた」ということは、まったく記憶にないことになってしまうのである。そういうことの繰り返しだ。何万回繰り返したって、おなじなのである。態度がおなじ。やることがおなじ。感覚がおなじ。本人はまったく気がついてない状態なんだよな。そのとき、爆発的に起こったら、もう、記憶にないことになってしまう。きちがい的な意地で怒って、自分のきちがい的な意地をとおしたのに、そういうことをしたという記憶がまったくない状態になってしまうのである。 本人が「そうやって」「はねのけるから」相手がこまっているのに、そういうことに関して、一切合切の記憶がない状態になってしまうのである。もちろん「関係」なんて認めない。認めるわけがないだろ。あっ、あとは、一切合切の「関心」もないわけ。自分がやったことで、相手がこまっているんだなということが、まったくわからないわけ。それは、きちがい思考回路で、否定されている。否定されたら、そういうことがなかったという記憶と態度なんだよ。相手に対する「関心」がないんだよね。自分がきちがい的な「やったこと」に関しても、まったく関心がないんだよね。これ、「やらなかったこと」とほんとうにおなじなんだよ。けど、無意識が「外貨」して、きちがい的な意地で破裂して、やる。やりきる。殺さなければ、やめさせることができない。そういう、意地がぶつかるようなトラブルがあったら、普通記憶に残るはずなんだけど、ほんとうにまったく記憶に残らないのである。そういう意味で、きちがい兄貴はへんだ。きちがい兄貴だって、きちがい親父におなじことをやられていたら怒っていたのに、自分がヘビメタ騒音のことで、おとうとにそうしているということは、きちがい親父とおなじしくみで、きちがい親父とおなじように、わからないんだよ。わからなかったら、やってないんだよ。記憶にないんだよ。感心がないんだよ。関係があるとは思ってない状態のまま、すごしているんだよ。毎日やりきっていの……。

2023年8月25日金曜日

他人は、必然性がわからないので、まちがった前提に立ったまちがった提案をする

 毎日鳴っていたということを、ぼくが言ったとする。他人には、毎日鳴っていたということがわかるわけだ。しかし、それは、それだけだ。毎日鳴って、毎日積もっていると、体と心にどういう影響があるのかは、わからない。これは、説明したってわからない。「そんなの気にしなければいい」というレベルの反応だ。自分のことではなくて、ほかの人のことだから、わからない。「遅刻することになる」「精神が影響をうけて、他人との関係にひびが入る」「楽しめない状態になる」というようなことを、どれだけ言っても、他人ごとなので、「必然性」がわからい。自分だったら、たとえそういうことがあったとしても、いまの自分の状態を保てると思っている。自分だったら、たとえそういうことがあっても、そんなことにはならないという「へんな」自信がある。そういう人が多い。そういう人ばかりだ。これは、ぼくにとっては屈辱的なことなのだ。ところが、ぼくにとって、……必然性があるぼくにとって……実際に体験してしまったぼくにとって……屈辱的なことだということがわからない。「そんなの気にしなければいい」と言った人は、別にそんなことは気にしてない。ほんとうに気にしてない。

他人は、必然性がわからないので、ぼくに対して、失礼なことを言う。他人は、必然性がわからないので、まちがった前提に立ったまちがった提案をする。しかし、まちがった前提に立っているということがわからない。こんなの、どれだけ説明したって、今度は、相手が腹をたてるだけで、どれだけ言っても、まちがった前提に立っているということがわからない。認めない。

 

努力せざるをえないのである

きちがいヘビメタが、無職や遅刻常習者や引きこもりというレッテルを自動的に貼りつけてしまうのだ。きちがいヘビメタが、運び込んでしまう。こっちは、最大の努力をして、そういうふうにならないように頑張ってきた。それが、そういう状態を運び込んでしまうのだ。

いま、つくづく思うのは、「無職だ」と言わなければよかったということだ。相手が、俺のことを研究者だと思っているのなら、研究者だということにしておけばよかった。これ、バカ正直に、「研究者じゃない」と言ったので、いろいろなトラブルが発生しているのである。 

努力うんぬんと言えば、「努力の方向がちがう」と言ってくるやつがいる。こういうのも、そいつが、きちがいヘビメタにさらされたことがないから、思いつくことだ。ぜんぜんちがうのである。ヘビメタ騒音を経験したものと、ヘビメタ騒音を経験してない者では、考えることが、ぜんぜんちがう。努力の方向もなにも、ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、「生きる」としたら、努力せざるをえないのである。死にものぐるいの努力をしなければならなくなるのである。死にものぐるいの努力をして、遅刻常習者になり、働けなくなって無職になり、友だちとヘビメタ騒音をめぐるケンカをして、定義的に引きこもりにあてはまるようになる。ヘビメタが鳴っているということが、どういうことなのかぜんぜんわかってない。ヘビメタが、生活的に、常に!鳴っているということが、どういうことなのかわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、気ちがいだということがわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、家族の一員だということが、わかってない。ぼくが、家族の一員だということを言えば、わかったわけで、わかってないということにはならないと思うだろう。正確に言えば、家族の一員だということの意味がわかってないのである。ヘビメタの主が家族の一員であるか、他人であるかということは、じつは、ものすごくでかい意味をもっている。これが、「生活的に」わかってないのである。そりゃ、きちがい兄貴が鳴らしたと言えば、兄が鳴らしたということ自体は伝わるわけだから、家族の一員が鳴らしたということは、理解できるということになる。わかったということになる。けど、ちがうのだ。家族が鳴らしているということが、どういう意味を持つのか、ぜんぜんわかってない。

ヘビメタが鳴っているからと言って、友達とケンカをする必要はないということを考えるやつがいると思う。ようするに、ヘビメタと友達とのケンカは関係がないということを考えるやつが出てくると思う。必然性に関する疑問だ。必然性……あるんだよ。時の流れとともにどうしても、そうなるのだ。こんなのは、ほんとうに、経験してみなければなわからないと思う。みんな、必然性が見えてない。こんなにはっきりしたものはないのに、みんな、見えてない。十数年続けば、そりゃ、おかしくなる。こっちがいい人で、あっちもいい人でも、十数年、家族によるきちがいヘビメタ騒音が続けば、交友にひびが入るのである。それは、社会システムとも関係があるのだけど、そうなる。必然性、ある。十数年の変化で、交友関係がかわる。人間の関係がかわる。そうなると、必然的に、ケンカ別れをすることになる。これは、不可思議な力でそうなると言ってもいい。不可思議な、符合的な力によって、そこに押し出されてしまうということだ。不可思議な力というのは、じつは、社会常識と個人の思考によってもたらされるものだ。これ、ほんとうにそうなるのである。

 

2023年8月24日木曜日

ぼくは、人間の性格というのは、ロウソク型だと思っている

 「人間の性格」のモデルとして、ロウソク型とペラペラ一枚紙型というものを考えたとする。ロウソク型というのは、年代による層があり、その層が、表面の性格に影響をあたえるというものである。ロウソクの芯を、赤いロウソク液につけるとする。そのあと、ろうそくの芯を引き上げてさめるまでまったあと、もう一度赤いロウソク液につけるとする。そういうことを一〇回繰り返すとする。そのあと、今度は、青いロウソク液につけて、おなじことを一〇回繰り返すとする。そのあと、今度は黄色いロウソク液につけて、おなじことを一〇回繰り返すとする。その場合、芯のまわりには、赤いロウソクがあり、その赤いロウソクのまわりには、青いロウソクがあり、その青いロウソクのまわりには、黄色いロウソクがあるということになる。表面を見れば、黄色に見える。けど、赤いロウソクも、青いロウソクも残っている。

いっぽう、ペラペラ一枚紙型の場合は、最初に、赤で塗りつぶしたとする。そのあと、青で塗りつぶしたとする。そのあと、黄色で塗りつぶしたとする。その場合、まあ、かわいてから、塗りつぶすのであれば、たしょうの層は残っているけど、そんなのは関係なくて、表面的に見える色が、そのときの色だということになる。黄色で塗りつぶした場合は、赤い色や青い色の影響をうけないという考え方だ。あたらしい色で塗りつぶしたとき、過去の色は、消えてしまって、新しい色に影響を及ぼさないという考え方だ。まあ、これ、紙じゃなくて、パソコンのお絵かきソフトを考えたほうがいい。過去において、新規作成した「キャンバス」を赤く塗った。そして、それを消して、青く塗った。そして、それを消して、黄色く塗った。もう、黄色く塗ったので、赤く塗ったということや、青く塗ったということは、関係がない。こういう考え方だ。

まあ、基本的には、ぼくは、人間の性格というのは、ロウソク型だと思っている。年輪として残っている。


びくびくしているこども

 きちがい的な親が、きちがい的な理由で、怒り狂って攻撃をしてくるとする。そういう親に育てられた人間は、いちおう、びくびくするようになる。それは、攻撃に対して、気をはった状態になっているということなのだ。そりゃ、三六〇度、どこからでも、きちがいやくざが、いちゃもんをつけて攻撃をしてくるとなったら、心休まる感じがしないだろう。学校で、びくびくしているこどもというのは、うちで、常に攻撃をうけているこどもなのである。この現実認識は正しいのである。この現実認識というのは、こどもの側の現実認識のことだ。ほんとうは、やさしい性格親なのに、こどもの側の人間が、妄想で、攻撃されたと思っているということではない。親が、きちがい的な攻撃を、してないにもかかわらず、こどもの側の人間が勝手にそういうふうに思っているという場合もあるかもしれないけど、今回話したケースの場合は、ちゃんと、親のほうが攻撃をしているということにしておく。きちがい的な親が、一日に何十回も何百回も、きちがい的な理由で怒り狂って、攻撃をしているとする。この場合、どうしたって、防衛的な性格になる。しかも、防衛が失敗しているのである。どれだけ防衛しても、きちがいが攻撃の手を休めないからだ。どれだけがんばって、防衛しても、きちがいがきちがい的な理由で攻撃をしてくる。その攻撃をしてくる相手が、自分の親だという地獄。普通の人は、そういう親にやられてないので、「そんなひとはいない」と思っている。そして、びくびくしているやつは、びくびくするような性格だから、だめなんだと思っている。びくびくしているこどもが、学校の教室にいたとしよう。悪戯が好きなこどもは、「わっ」とうしろから声を出し、びくびくしているこどもがおどろく様子を見て楽しんだりする。でっ、みんなでわらいものにするわけだ。まあ、そういう経験もつみかさなるとは思う。どうしてかというと、びくびくしているからだ。凡人は、そのこどもにびくびくしなければならないような状況がある……ということに関しては、考えもしない。「びくびくしているから、からかわれる」とえらそうに言うだけだ。引き寄せにこっている人は、「びくびくしているこどもが、攻撃を引き寄せている」と言い出す。こういうことが、まかり通っている。この世は、そういう世の中だ。

 

きちがい的な親と般化

 般化についてちょっとだけ説明をしておこう。たとえば、ピッというブザーの音を聞かせたあと、ネズミに餌をやると、ピッというブザーの音に反応するようになる。そのあと、プッというブザーの音を聞かせても同様の反応が起こるようになる。ピッというブザーの音とプッというブザーの音は、ちがう音なのだけど、両方とも、短いブザーの音だという点では、おなじなのである。ピッという音と、プッという音はちがう刺激なのだけど、似たような刺激なので、プッという音にも、ピッという音で形成された反応が起こるようになる。これが般化だ。また、プッという音のあとには、エサがでてこないということを何回か繰り返すと、プッというあとの音には、ピッという音で形成された反応が起こらなくなる。これが、弁別だ。ピッという音とプッという音は、ちがう音なのだけど、どちらも、短い音であるという点では同じだ。とりあえず、短い音であるという属性をもっているという表現することにする。当然、どちらも音であるという属性をもっている。ブザーの音だという属性もある。この、属性うんぬんという話は、ぼくが、これ以降の話をするために、つけたした話だ。般化と弁別については、ここでは、ここまでの話とする。

で、ぼくがなにを言いたいのかというと、うちのきちがい親父は、うちのきちがい親父なのだけど、男性であるという属性をもってるし、大人であるという属性ももっている。当時、中年だったので、大人という属性のなかにある、中年という属性をもっている。きちがい親父は、個別のきちがい親父なんだよ。けど、きちがい親父が、こっちのいろいろなことに腹をたてて、ぶつかってくるということが繰り返されると、大人というのは、そういうものなのではないかという気持がしょうじる。きちがい親父は、個別のきちがい親父なのだけど、中年の男性は、そういう性格があるのではないかという「うたがい」がしょうじるのである。かりに、あとで、個別の人は個別の性格をもっているということを学習したとしても、それは、このうたがいを完全に打ち消すようなものにはならないのである。つまり、しんの部分にきちがい親父のイメージが、中年男性のイメージとして残ってしまうのである。人というところまで抽象化すると、芯の部分にきちがい親父のイメージが、人間のイメージとして残ってしまうのである。

 

たとえば、きちがい親父が帰ってきそうな時間になると、ぼくは、全身に蕁麻疹ができた。これ、雰囲気としてあるのである。帰ってくる時間というのは、特に決まっているわけではなくて、帰ってきそうな時間がだいたい、決まっているだけなのである。で、蕁麻疹のことで病院に行ったとする。その病院の医師が、中年の男性だったのだけど、やさしい性格で、きちがい的な理由で怒り狂う人ではないということがわかった。なので、きちがい親父とこの医師は性格がちがうということがわかったわけだ。しかし、見ず知らずの中年男性の性格を推し量るイメージ(基準)として、きちがい親父のイメージが残っているのである。やさしい医者との出会いによって、そのイメージが完全に消えるかというとそうではないのである。

 

 

 

2023年8月23日水曜日

『影響をうけないぞ』とがんばっていても、脳みそまで含めて不可避的な影響をうける

 毎日つもる騒音が、すごい騒音なのである。なので、不可避的に、つかれる。体力をけずられる。不可避的に、睡眠力をけずられる。不可避的に、精神的な疲れを感じるようになる。不可避的に、腹がたった状態になる。不可避的に、猛烈に憂鬱な状態になる。こういうのは、不可避的なんだよ。やられたら、どれだけ影響をうけないようにしようとしても、影響をうける。がんがん鳴っているわけで、これは、物理刺激だ。なぐられているのでおなじなのである。なぐられたけど、影響をうけないぞと思っているから、影響をうけない。肌が青くならない。そんなことはない。なぐられたら、影響をうける。ものすごい音に、なぐられたら、影響をうける。どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっていても、影響をうける。そもそも、『影響をうけないぞ』とがんばっている状態、はりつめている状態が、「つかれ」を引き起こすのである。様々な、からだの障害をひき押す子のである。からだのなかには、臓器としての脳みそも含まれている。脳みそまで含めて、不可避的な影響をうける。どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっていても、脳みそまで含めて不可避的な影響をうける。この不可避的な影響は、きちがいヘビメタが鳴ってない、日中の時間まで、はげしく、影響をあたえるである。ようするに、学校にいる時間に影響をあたえる。ほかの人と、下校している時間に影響をあたえる。影響をあたえない』なんてことはないのである。前の日の騒音の影響をうける。汚染された状態で生きている。汚染された空気を吸ったあと、からだに症状が出たとする。汚染された空気を吸ったのは、前の日の数時間だとする。けど、その影響が、その日の夜と、次の日の昼間に出る。汚染された状態で生きているということになる。汚染物質が体の中に入って影響をうけた状態で、汚染されていない空気のなかにいたとしても、汚染された空気を吸ったという出来事の影響をうける。この出来事は、過去の出来事だ。『過去の出来事』の影響をうけるんだよ。ところが、ヘビメタにやられていないやつ……きちがい的な家族がきちがい的な意地でずっときちがい的な騒音を鳴らすということが、人生のなかでなかった人間が……えらそうなことを言うのである。「過去は関係がない」『影響をうけないぞとつよく思えば、影響をうけないで済む」……。あーー。バカにバカにされる状態ができあがる。ばかになめられる状態ができあがる。

きちがいヘビメタを、きちがい兄貴になられさという事実がない人間にとっては、それは、「想像のなか」の「出来事」にしかすぎない。想像の影響しか受けない。けど、ぼくは、実際に鳴らされているので、「鳴らされた過去」の「影響」をうける。「の」の連続に関しては、指摘する必要はない。

2023年8月22日火曜日

ヘビメタ騒音相当の困難を経験したなら、「言霊は正しい」とは言えなくなる

 ヘビメタ騒音じゃなくても、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人は、絶対に、口がさけても「元気だといえば元気になる」というようなことは言わない。言霊を信じているという時点で、その人の経験した苦難というのは、ヘビメタ騒音相当ではないということがわかる。はっきりしていることだ。だから、言っていることで、その人がどのくらいの苦難を経験したかわかるのである。魔法的解決法が役に立たないことぐらい、ヘビメタ騒音相当の苦難を経験してきた人は、わかっている。体でわかっている。体でわかってないから、魔法的解決法が、さも、有効であるようなことを言う。あるいは、信じている。信じていなければ、ほかの人に助言できないだろう。もし、その人が、ヘビメタ騒音相当の「苦難」を経験した人なのであれば、「そういうこと」を言われたとき、どんな気持ちになるか知っている。「そういうこと」というのは、魔法的解決法のことだ。そういうことじゃ、どうにもならないことを、体で知っている。

ヘビメタ騒音の苦難とヘビメタ騒音以外の苦難を分けたとする。その場合、たいてい、ぼく以外の人は、ヘビメタ騒音の苦難は経験してない。きちがい兄貴がやったほどのヘビメタ騒音という意味だ。普通の騒音じゃない。ヘビメタ騒音じゃなくても、その人がきらいな音ならいい。基本的に言って、家族がやって、ほかの家族がそれをゆるしてしまっているところがある。これも、異常なんだよ。こういうのは、ほかの人が認めたがらない。ほかの人は、正常な家族のもとに生まれて、正常な家族に囲まれて生活しているからだ。異常な家族がやることなんて、経験してないのである。異常な家族は、異常な脳みそを搭載しているから、四六時中、異常なことをするのである。それは、普通の範囲に入らないという意味でも、異常なのである。きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音に対するこだわりと言ったらない。異常なこだわりをもっている。ヘビメタを絶対に、自分が鳴らしたい音で、鳴らしたい方法で鳴らすということに、いのちが掛かっている。だから、一秒でもゆずったら、自分が死んでしまうような感覚で、鳴らしている。絶対にゆずらないのである。そういう態度は、きちがい兄貴が、気ちがい兄貴である以上、自然に出てくる態度なんだよ。正常な人が、異常な人の態度をまねして、ふりをしているわけではない。ごく普通に、そういうふうになってしまう。ごく普通に、そういう状態でいる。そうしたら、それをかえることができないのである。けど、正常な家族に囲まれてすごしている人は、「自分のうちで」そういうことを経験してないんだよ。自分の人生のなかで、そういうことを経験してない。なので、「困難」と言っても、きちがい家族によってもたらされる困難と、ほかの困難はちがうと言える。けど、騒音なら騒音で、「にてはいる」。なので、「自分だって騒音ぐらいあった」というようなことを言う。けど、その人が、普通に働いて、言霊や引き寄せを信じている状態なら、やはり、その騒音は、うちのきちがいヘビメタ騒音とは、質がちがう騒音だと言うことができるのである。つまり、普通の騒音だ。きちがい家族による異常な騒音ではないのである。

きちがい兄貴は、スピーカーで鳴らすことにこだって、ヘッドホンをしてくれなった。これだって、もし、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなく、弟がこまっているということを普通に認識できる兄貴だったら、ちがうのである。普通に、ヘッドホンをしてくれる。何十回かもめたら、本人は、ヘッドホンをしたくなくても、ヘッドホンをすることになる。家族が、おなじように被害を受けているわけだから、家族が応援してくれる。これ、言いたくはないけど、おかあさんもちょっと普通の人とはちがうのである。ともかく、兄貴に、おかあさんが注意しても、兄貴は、おかあさんが言うことをきかなかった。これも、かつて書いたから、ここでは省略する。おかあさんも、普通の人だったら、「たいへんだ」と思って、よその人に働きかけているはずなんだけど、横になって、「こまったこまった」と言っているだけだったのである。普通の母親だったら、長男が毎日あんな音で鳴らしていたら、怒る。怒って怒って怒って怒る。そして、どうしても、長男が言うことをきかないら、市の相談所とかそういうところに行って、ものすごい音で鳴らしているからこまっているということを言うはずだ。けど、おかあさんは、横になって「こまったこまった」と言っていただけなのである。そして、言いたくはないけど、おかあさんは、問題をかくそうとするところがある。よその人にきかれたとき、すっとぼけてしまうようなところがある。ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、けっきょく、自分の意地をとおすということになる。なお、きちがい兄貴脳みそが、きちがい親父の脳みそとおなじなので、通したことになってないのである。きちがい兄貴の脳みそのなかでは、自分はなにもやってないという認知が生じている状態とおなじなのである。これもこまたっことなんだけど、そうなのだ。そして、家族に、ふたりそういう人間がいるということが、ほかの人が考えている以上に、きちがい兄貴が鳴らし続けるという状態に影響をあたえる。これ、ほかの人は、そういう状態で暮らしている話ではないので、根本から、わからないのだ。なので、こういう部分に関しても「普通に」誤解がしょうじる。しょうじるんだよ。しょうじないわけがないだろ。そして、やっている本人ふたりは、赤の他人よりも、自分のその状態について、知らんぷりなのである。認識してない。あかの他人よりも、自分がきちがい的な意地で押し通しているということについて無頓着なのである。あかの他人よりも、自分がやっていることがわかってない状態なのである。じゃあ、言えばわかるのかというと、わからないのだ。これが、へんな状態なんだけど、そういう状態で暮らしている。これ、脳みその構造がかわらないと、かわらないんだよ。だから、普通にやりきるし、普通にやりきったということを、普通に無視してしまう。本人の主観としては「そんなことは一度もやっていない」という主観に近い主観なのである。だから、「きちがいだ」と言っているわけ。そういう部分があるから、きちがい兄貴と言わないと、意味が通じないのだ。どうしてなら、普通の兄貴がそんなことをするわけがないので、普通の兄貴がそういうことをしたということになると、へんな印象をあたえる文になってしまうのである。

ともかく、言霊は正しいと思っている人が、どれだけ「俺だって困難を経験した」と言っても、その困難は、たいした困難じゃないということが言える。どうしてかというと、ほんとうにヘビメタ騒音相当の困難を経験したなら、「言霊は正しい」とは言えなくなるからだ。「言霊は正しい」と言える状態を維持している以上、ヘビメタ騒音相当の困難は経験してないと言える。どれだけ言霊的な解決法をこころみても、まったく無駄だということが、わかってしまう。わかってないのであれば、それは、ヘビメタ騒音相当のくるしみではないから、わかってないということになる。「言霊はまったくだめだ」ということをいやというほど思い知らされることになる。思い知らされてないのであれば、それは、そういう困難でしかない。それは、そういうくるしみでしかない。軽い。浅い。ぜーーぜん、ちがう。ちがうのでちがう。そんなこと、言えるわけがないだろ。「言霊は正しい」なんて言えなくなるんだよ。そういう、長い長い時間があるんだよ。長い長い時間の経験があるんだよ。重たい。深い。

*     *     *

きちがい兄貴は、きちがい親父と同じタイプの脳みそを搭載しているので、きかない。絶対にきかない。俺が言っても、おかあさんが言っても、きかない。きかない。こんなの、ちゃんときいてくれるなら、苦労はしてない。こんなことになってない。どうして、そういうことを無視して、普通の基準でものを考えて、まちがったことを言ってくるんだ?

まちがっている。

*     *     *

ヘビメタ騒音を経験してなくても、ヘビメタ騒音相当の困難を経験した人は、わかっている。だから、ヘビメタ騒音を経験してない人のなかにも、二タイプ、いるということになる。ヘビメタ騒音を経験してなくても、わかっている人と、ヘビメタ騒音を経験してないし、まったくわかってないやつと、二タイプいる。わかってないやつは、みんな、えらそうなことを言う。「自分は平気だ(自分なら、鳴らされても平気だっただろう)」という前提で、ものを言う。ヘビメタ騒音なんてたいしたことがないという前提でものを言う。こういうやつらは、思考力のかけらもない。「おまえ、自分がどういう前提でものを言っているのか、わかっているのか」と言いたくなる。

こういうやつらに、下に見られ、バカにされる俺の気にもなってみろ。ほんとうに、そういうことも、全部、きちがい兄貴がきちがい的な意地で鳴らしたことから、はじまっているのだ。きちがい兄貴がきちがい兄貴ではなく、一回言ったら、しずかにしてくれる普通の兄貴だったら、絶対にこんなことにはなってない。

こういうやつらは絶対に、きちがい兄貴のことはせめない。よわっている弟のほうをせめる。できなくなったなら、できなくなったやつが悪いと思っている。こういうやつが言う、道徳、善、神、宇宙の絶対法則……。あほらしい。

きちがい的な親が「人間存在」の「元型」になる。

 きちがい的な親にやられるというのは、きちがい的ではない親にやられるのとは、ちょっとちがうのである。そして、きちがい的な親のほうが人数が少ないために、きちがい的ではない親に育てられた者たちから、悪く言われるようになるのである。

たとえば、きちがい的な親に、『きちがい的な理由で』怒り狂われた子供というのは、いつもおどおどしているような子供になるのである。どうしてかというと、四六時中、「気をはって」いなければならないからだ。そして、どれだけ「気をはって」いても、攻撃がやむことがないのである。三六〇度から、攻撃をうけるのである。その攻撃は、その子供が(想像のなかで)勝手につくっている攻撃じゃない。実際に、三六〇度、どの方向からも、きちがい的な親と一緒にいれば、攻撃をうけるということになる。きちがい的な親は、きちがい的な理由で怒る。別に、子供側の人間が、悪いことをしたわけではないのである。これを、理由もなく怒ると表現するとなると、まさしく、きちがい的な親は、理由もなく怒っているのである。三六〇度、どの方向からも、攻撃をうけるとなると、攻撃に対して身構えた状態になる。これが、気をはっている状態なのである。三六〇度、やりをもった敵に囲まれて、やりをぶさぶさと刺されている状態なのである。なので、そういうふうになるのには、理由がある。きちがい的な親と一緒にいると言うことは、きちがい的なやくざと一緒にいるというような状態なのである。わけのわからないことで、いきなり、攻撃をうけるという状態なのである。当然、気をはって、身構えた状態になる。こういう時間が長く続くと、他者といるときは、安心ができない状態になるのである。きちがい的な親は、きちがい的な親であって、他者の代表ではない。しかし、人間の場合は、脳みそが正常なら、「般化」という機能が働くのである。だから、特定の「人物」が「人間」の代表として、意識されるようになるのである。きちがい的な理由で怒る親にやられた人間は、他者というのは、そういう存在だと、かなり深いレベルで思うようになるのである。これは、強迫神経症を引き起こすような無意識ではないけど、かなり、無意識的なレベルで、「人間」というものが、「理由もなく、攻撃してくる存在だ」という学習が生じてしまうのである。たしかに、きちがい的親はきちがい的な親であって、やさしい人間もいるのである。そして、やさしい人間は、理由もなく攻撃をしてくると言うことがない。なので、あとで、やさしい人間といるときは、別に気をはらなくてもいいということを学習することもある。その場合、きちがい的な親とそのやさしい人間を区別するようになるのである。これが、弁別だ。弁別という機能もあるので、きちがい的な親と、だれか他者はちがう存在だということを学習することもできるのである。ただ、親のほうがちいさいときから、いっしょにいるという問題がある。核の部分というのは、きちがい的な他者なのだ。きちがい的な親にやられた人間の場合、ものすごく根本的なところで、きちがい的な親が「人間存在」の「元型」になる。

2023年8月21日月曜日

そんなことがゆるされていいわけがない

 「そんなのは関係がない」「過去のことは関係がない」「気にしなければいい」と言ってる人は、実際に、ぼくとおなじように、きちがいヘビメタ騒音にさらされたわけじゃないんだよね。まあ、ヘビメタが好きな人は、その人がきらいな音にずっとさらされていたわけじゃないということにしておく。

時間の長さというのがあるんだよね。その「時空間」というのがある。苦しみは、苦しみだ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい的な理由で、きちがい的にでかい音を鳴らして、いいわけがない。そんなことがゆるされていいわけがない。


2023年8月20日日曜日

そういうことがわかる回路が脳みそのなかにないから、わからない

 生きていくだけで、けっこうたいへんだ。そういう体になってしまった。あーー、めんどい。ほんとう、常に鳴ってたからなぁ。こういう雰囲気だったなぁ。鳴っているとき、こういう雰囲気だった。もう、外の雰囲気というか、うちの雰囲気というか、この世の雰囲気というものが、ヘビメタ騒音の雰囲気なんだよ。これは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。ヘビメタ騒音が鳴っていた日の、鳴っていた時間の雰囲気だ。だれもわからないと思うけど、ヘビメタ騒音が鳴っていた日の、鳴っていない時間……というのも、地獄なんだよ。鳴っていない時間というのは、ぼくが、外にいる時間だ。家にいる時間は、きちがい兄貴が寝るまでずっと鳴っていた。こっちにだってつごうがあるのに、きちがい兄貴も、きちがい親父とおなじように、一切合切、融通がきかないのだ。自分がやりたくなったら、絶対の意地でやる。絶対に、やめない。やめろ」と言われると、火がついて、きちがい的な意地でやる。融通がきかないんだよね。相手の状態というのが、一切合切わからないから。普通の人だと、相手が言わなくても、わかるんだよ。なおさら、言ってきたら、わかる。ところが、きちがい兄貴や、きちがい親父だと、わからない。そもそも、そういうことがわかる回路が脳みそのなかにないから、わからないというレベルで、わからない。「相手」というのがないんだよね。もちろん、「相手の感情」というのもない。相手が、どれだけ、(自分のやっていることでこまっていても)「相手がこまっている」ということが、ほんとうに、まったく、わからない。わからなければ、きちがい兄貴やきちがい親父の頭のなかでは、相手がこまってないということになっているのである。あるいは、相手がこまっているか困っていないのかということについて、まったく、まったくまったく、関心がないということになっているのである。関心がないというよりも、やっぱり、関心をもつ機能そのものが、脳みそにないというレベルで、関心がない。けど、自分だってやられれば、わかるんだよ。そのときは、やられたほうの感情がある。だから、きちがい兄貴だって、きちがい親父に、やられれば、やられたと言うことがわかる。おやじのやり方がおかしいということがわかる。おやじのやり方に、腹をたてる。けど、自分が相手にやっているときは、まったくわからないのだ。自分が相手にやっているときは、きちがい親父とまったくおなじ状態になる。だから、相手が「腹をたてている」ということも、無視する。

ぼくが「できない」と言っていることは、できないことなんだよ

 小学六年生の10月から、きちがいヘビメタがはじまっているわけだけど、俺のからだには、きちがいヘビメタ騒音の経験が「つまっている」。

で、ほんとうに、繰り返しで「できなくなる」。できたことができなくなるの……。それは、ちゃんと眠れるということにもあらわれる。ヘビメタ騒音前は、努力なんてしなくたって、ちゃんと眠れたの。そういう能力があったの……。

ところが、ヘビメタ騒音期間中と、ヘビメタ騒音期間後は、どれだけ努力しても、ちゃんと眠れなくなった。

いちおう省略して言うけど、ぼくが「できない」と言っていることは、できないことなんだよ。ぼくが、できないと言っていることは、いまのぼくにできないことなんだよ。ところが、「できる」という前提でものを言ってくる。「過去なんて関係がない」「過去の影響は関係がない」「できるといえば、できる」というような意見は、「できる」ということを前提にして言っている。

俺が「できない」と言っているのに、「できる」ということを前提にしてものを言うやつ……と、うまくいくわけがないでしょ。これはもう、宗教裁判みたいなもんなんだよ。「できない」と言っているの、「こうすればできるようになる」と魔法的解決法を提示するやつがいる……。その魔法的解決法は、役に立たないので、魔法的解決法をこころみても、「できないまま」なんだよ。それは、ずっとずっとやってきて、わかってることなんだよ。

きちがいヘビメタの時間というのは、こういうことを言う人たちが考えているような時間ではない。きちがいヘビメタの生活というのは、こういうことを言う人たちが考えているような生活ではない。もう、最初から、考えていることがちがう。

「できる」か「できないか」に関しても、ぼくができるかできないかについて話しているのに、ぼくが「できない」と言っているのに、それを無視して、「できる」という前提で話をすすめるやつが、「ぼくにとって」いい人間だとは思えない。

そこで提示される「方法」が現実的な方法とは思えない。きちがい兄貴が、きちがいでなければ、こんなことになってない。

「できる」という前提でものを言ってくる人間は、みんな、きちがいヘビメタ騒音や、それに相当する騒音を経験してない。

「想像」でものを言っているだけだ。ヘビメタ騒音や、それに相当する騒音の影響を、過小評価しているのである。あるいは、もっと言ってしまえば、無視している。

これは、言っちゃいけないことだけど、ヘビメタ騒音の影響を無視しているという意味で、きちがい兄貴や、きちがい親父とおなじなのである。きちがい兄貴やきちがい親父と、ヘビメタ騒音に関する認識がおなじなのである。

どうして、「言っちゃいけないことなんだけど」と言ったかというと、これを言うと、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人は、みんな、「俺(妄想的な方法を提示した人)と、きちがい兄貴とやらが一緒だというのか?」とものすごい剣幕で言ってくるからだ。

まあ、すくなくても、ぼくの発言で、気分が悪くなったと言うことだろう。これ、なかなか、むずかしいことなのである。とりあえず、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人のことをAさんと呼ぶことにする。

Aさんと、きちがい兄貴はおなじなのかどうか?

おなじじゃない。

Aさんは、うちでヘビメタを鳴らしてない。ぜんぜんちがう。ぼくに対して、騒音を浴びせかけてない。だから、ちがう。

けど、「できない」とぼくが言っているのに、「できる」という前提でものを言っていることにはかわりがないし、ヘビメタ騒音がそういうレベルの影響しかないと(まちがった)見積もりをしているということ関しては、きちがい兄貴とおなじなのである。

これ、ほんとうに、わかってないだけなのだ。自分がおなじことを経験したら……人生のおなじ時期に、おなじ期間の長さ、経験したら、わかることなんだよ。「できるわけがない」。「そんなことで、できるようになるわけがない」。こういったことが、普通にわかるはずなんだよ。経験してないからわからないだけなんだよ。

そして、きちがいヘビメタ騒音に関しては、この人たちは、犯人じゃない。Aさんは、犯人ではない。Aさんが、きちがいヘビメタを鳴らし続けたわけじゃない。だから、ちがう。「同じような人間だ」と言っているわけではないのだ。そういうことをするような「似たような人間」だと言っているわけではないのだ。

けど、Aさんは、自分と、きちがい兄貴とやらがおなじような人間だといわれたと、勘違いする可能性がある。あるいは、Aさんは、自分ときちがい兄貴とやらが人いる人間だと、言われたと勘違いする可能性がある。これは、勘違いだ。

ぼくは、たしかに、きちがい兄貴とAさんは、ヘビメタ騒音の影響を無視する点で似ていると言っている。けど、きちがい兄貴と、Aさんがおなじことをするような、おなじような性格の持ち主だとは言ってない。言ってないのだ。けど、誤解する可能性はある。

こういうことだって、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったらしょうじないことなんだよ。みんな、きちがい兄貴の性格と、きちがい兄貴がやったことの影響ののでかさについて、考え違いをしている。「の」の重複は指摘しなくていい。

普通の家には、きちがい兄貴がいない。

きちがい兄貴のような感覚、あるいは、きちがい兄貴のような脳みそをもっている人がいない。ひとりもいない。だから、ほかの人にとって、きちがい兄貴は未知の存在なのである。あるいは、ほかの人にとって、きちがい兄貴がやったことは、未知のことなのである。自分の経験の範囲にはないことなのである。

だから、自分の経験の範囲にないことについて、「特に影響がない」と推論してましう。それは、本当に自分がおなじことを経験していたら、ありえないことだ。そんな推論は、絶対に成り立たない。おなじ経験をしているのに、そういう推論が成り立つということはない。

これ、みんな、わかってないから、そういうふうに勘違いしてしまうだけなのだ。

きちがい兄貴と、普通の兄貴は、ちがうんだよ。きちがい家族と、普通の家族は、根本において、ちがうんだよ。きちがい家族やこることの影響というのは、普通の家族がやることの影響とは、ちがうんだよ。

けど、やはり、おなじようなものだと仮定して、推論してしまう。だから、「俺だって、朝、眠りたいときはある」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、徹夜したことがある」「俺だって、夜、眠れないときはある」……ちがうんだよ。きちがい兄貴の行為によってもたらさる、それらのことと、きちがい兄貴の行為によっもたらされたわけではない、それらのことは、ちがう。ぜんぜんちがう。質も、期間の長さも、ちがう。ぜんぜんちがう。


きちがい兄貴の態度というのは、普通の人には、永遠にわからないと思う

 けっきょく、きちがい兄貴の態度というのは、普通の人には、永遠にわからないと思う。ほかの人は、常にまとはずれなことを言うことになる。そりゃ、わからないのだから、まちがった認識をして、まちがったことをことを言うことになる。

まちがっている。

そりゃ、やられてないわけだから、本人にとっては、どうでもいいことであり、影響がないことなのである。ゼロに見積れることなのである。自分のことではないのだから、もちろんそうだ。そして、えらそうなことを言う。

自分だって、ほんとうに、きちがい的な家族に、やられたら、俺とおなじ状態になるか、俺よりもひどい状態になるのに、それがわからないやつらなんだよ。やられてないから、やられてない前提でものを言う。まったく、勘違いをしている。

けど、勘違いをしていると思うことに失敗する。

そりゃ、それぐらいの関心しかないし、自分の身の上に怒らなかったことなのだから、そういうふうに、「小さく」見積る。

そして、きちがい的な家族にやられた人の「あれやこれや」を小さく見積ることがはやっている。ずっとそうだ。それは、たとえば、自己責任論やアドラー心理学や言霊思考や引き寄せ思考によって、強化されるのである。

関係がないと思われると思うけど、ワクチン接種と自己責任論はリンクしている。自己責任論だけではなくて、アドラー心理学や言霊思考や引き寄せ思考もリンクしている。自己責任論を例にとって言うけど、だまされてワクチンを打った人が、自己責任だと感じたほうが、支配者層にとっては都合がいいのだ。支配者層は、だました責任なんてとらない。こういうことだ。


ヘビメタにやられてからずっとずっとずっと

 ああっ、やなぎ荘時代ですら、もう、遠い過去か……。あーーあ。

このさき、どうすりゃ、いいんだ?

体がきついんだよなぁ。きちがいヘビメタにやられてからずっとずっとずっと、体がきつい。これ、もう、どうにもなんないな。どれだけ、誤解されてきたか?

2023年8月19日土曜日

どんだけちがうか、きちがい家族といっしょに住んだことがない人にはわからない

 問題なのは、かつての『いやな記憶』をありありと思い出してしまうことだ。ほんとうに、そのときの感情がそのまま復活してしまう。そして、ぼくは、いろいろとくるしかった。

どうしたって、きちがい家族の影響はうける。

きちがい家族の影響というのは、きちがい家族との間にとどまらずに、他人との間に影響をあたえる。「不可避的」。

ところが、きちがい家族と一緒に住んでいない人が、「不可避的なことではない」というようなことを言いやがるのだ。そして、そのあとにつづく、助言なり説教なり、精神的な世界観なりというのは、とっくのとうに、ぼくによって、捨てられたものなのだ。

まったく、当時役に立たなかったことなのだ。そして、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから言える、いろいろなことというのがある。

これ、基準がちがうのである。

けど、基準がちがうということについて気がついているのは、ぼくと、少数の人たちだけなのである。少数の人たちというのは、きちがい家族にたたられたことがある人たちだ。

きちがい家族といっしょに住んでいた人たちだ。ま・る・で・ち・が・う。

普通の家でそんなことがあるわけがないということが、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、成り立っている。

話がちがう。

ぜんぜんちがう。

話の前提がちがう。

ぜんぜんちがう。

どんだけちがうか、きちがい家族といっしょに住んだことがない人にはわからない。

2023年8月17日木曜日

ヘビメタ騒音なしの、若い時期がほしい

 ヘビメタ騒音なしで暮らしたかった。ヘビメタ騒音なしの、若い時期がほしい。ほんーーんとう、ほかの人はわからないと思うけど、ヘビメタ騒音が生活にしみわたって、つねにくるしいのである。あの眠れなさと、朝の緊張状態を毎日経験したことがないやつが、語るくるしさなんて、たいしたことがない……。そういうふうに言いたくなるような状態がずっと続いた。やっているほうは、まったくなにも感じないんだよ。言われたら、怒るだけだからな。「やめろ」と言われたら、目を三角にして、脂汗をかいて、からだを真っ赤にして、きちがい的な形相で、続けてしまう。あのとき、あのとき殺さなければ、やめさせることができない。きちがい親父のトイレ事件とおなじなんだよ。「ちょっとだけどいて」と言われたら、発狂してどけない。けど、まるで気にしてない。相手がこまったということは、まったく無視しているのである。無視するというのは、ちょっと語弊がある。というのは、一度意識にのぼったことを無視するという意味になってしまうからだ。どれだけ言っても、最初から、最後まで、相手が自分の行為でこまったということは、意識にのぼらないことなのである。相手がどれだけ明確に、言っても、「わからない」ことなのである。これ、認識する前に、きちがい的に怒り狂って「はねのけている」。はねのけたら、関係がないんだよ。

きちがい兄貴の場合も「しずかにしてくれ」と言われたら、スイッチが入ってしまうんだよ。やった「責任」はあるぞ。実際、本人だって、「よそ」じゃやれないようなことなのだから……。よその人のことは、気にするんだよ。これも、きちがいおやじとおなじ態度だ。よその人に対する態度と、うちの人に対する態度がちがう。よその人に対する基準と、うちの人に対する基準がちがう。そして、これが肝要なことなのだけど、本人はまったくそういうふうに思ってない。二重基準が成り立っているとは思ってないのだ。よその人に対する態度とうちの人に対する態度がちがうと思ってないのだ。ごく自然に、うちの人には、きちがい的な方法で迷惑をかける。迷惑をかけた「責任」はある。

2023年8月16日水曜日

きちがい家族が家でやる行為がわかってないだけ

 ヘビメタ騒音のきつさが、みんな、わかってない。わかってないところで、えらそうなことを言う。むりなことを言う。鳴ってないからわかってないだけ。

きちがい家族がいないから、きちがい家族が家でやる行為がわかってないだけ。きちがい家族の態度がわかってないだけ。きちがい家族の「反応」がわかってないだけ。

こっちが「やめろ」と言ったときの、きちがい家族側の反応がわかってないだけ。

きちがい家族と一緒に住んでないからわかってないだけ。

わかってないだけなのに、えらそうに……。

きちがい兄貴は、知らんぷりでやってきたけど、毎日毎日つみかさなって、できないことが増えていく。普通なら、できることができなくなる。

これは、きちがいヘビメタ騒音によって、押し出されてできなくなる。普通に眠るということだって、どれだけ努力してもできなくなる。きちがいヘビメタ騒音を何時間も何時間も何時間も何時間も、あびていると、どうしても、夜、眠れなくなる。眠るべき時間に眠れなくなる。

普通なら、なんの努力もしなくても、普通に眠れるのに、きちがいヘビメタが鳴っている生活だと、どれだけ努力しても、眠れなくなる。

そして、きちがいヘビメタ騒音が原因で眠れなくなっているのに、「眠れる」と言えば眠れるというようなことを言われる。そういうあほなことを言われることになる。これは、屈辱だ。

けど、「眠れるといえば眠れる(ようになる)」と、じょげーーんしているほうは、別に、侮辱しようと思ってそう言っているわけではない。ほんとうに、そう思って言っているだけだ。けど、ヘビメタ騒音という要素を付け加えて考えると、ちがうのである。

じょげーーんしているほうは、ヘビメタ騒音に悩まされてないのである。きちがい兄貴のきちがい的な部分に悩まされているわけではないのである。なので、問題が発生してない。「理由となる」問題が発生してない。

「理由となる問題が発生していない人」……が、理由を無視して、じょげーーんをする。

けど、それは、こっちにしてみれば、腹がたつことなんだよ。これだって、言霊主義者に、説明したって、言霊主義者は、怒って「言霊は正しい」と言うだけだ。まあ、言霊主義者なのだから「楽しい楽しい」と言えば、すぐに楽しくなるのだから、問題はないのだろう。

問題は、言霊主義者が、勘違いをしているということだ。ぼくは、ヘビメタ騒音で眠れなくなってこまっているのである。ヘビメタ騒音が鳴っいなければ、「眠れる眠れる」なんて言わなくても、眠れる。そして、ヘビメタ騒音が鳴っている以上、「眠れる眠れる」とどれだけ言っても、眠れない状態になる。いま、「ヘビメタ騒音が鳴っていれば」ということを書いたけど、これは、「日中、夕方、夜」……午後一一時一一分まで鳴っていればということだ。

たとえば、午後一一時一二分の時点で、ヘビメタが鳴っていなければ、鳴ってないのだから眠れると考えるのだ。ところが、ヘビメタを毎日浴びていると、どうやっても、眠れなくなる。ヘビメタ騒音が続く日々ということを考えた場合、たとえ、午後一一時一二分には、ヘビメタ騒音が鳴り終わっていても、「鳴っていれば」と表現していいということになる。

こういうのも、めんどうなことなんだよな。

この、異常な状態がわからない。

どれだけひどい音で鳴らしているか、鳴らされているか、みんなわかってない。

そして、みんな、きちがい兄貴の脳みそについて誤解をしているのだ。脳みその構造ということだけど、脳みその構造について、誤解をしている。この誤解は、深くて、普段は、気にならない。ようするに、フォーカスされることがない。

ところが、「現前」してしまうのである。うちなのかで、「現前」してしまうのである。よその人の家では「現前」してないのである。

なので、よその人にとってみれば、「そんなのはない」ことなのである。

けど、うちでは、「現前」してしまう。それが、『きちがいヘビメタ』になっあらわれる。それが、『きちがいヘビメタを一切合切の常識を無視して鳴らすこと」にあらわれる。あらわれてないやつにとっては、「ないこと」だから、「影響力がないこと」なのであり、「無視していいこと」なのである。知りもしないことなのである。

2023年8月15日火曜日

けど、「眠れなかった日」はあるので、それを基準して、助言をしてくる

 きちがい兄貴は、がん無視でやっていたけど、こたえた。これ、鳴らされているあいだ、地獄なんだよ。さらに、鳴らされたあと、本来、眠るべき時間になって、眠れないという地獄を経験することになる。「眠れる」「眠れる」なんて言わなくても、きちがい兄貴がヘビメタ騒音を鳴らすまえは、普通に眠れたわけ。そして、なかなか眠れない日もあったわけ。けど、なかなか眠れない日というのは、続かなかったわけ。なかなか眠れない日が、続くのと、続かないのとではぜんぜんちがう。そして、きちがいヘビメタのつかれと、ほかの、眠れない日のつかれが、ぜんぜんちがうのである。ほかの人……ぼく以外の人にとってみれば、ぼくのヘビメタ騒音の話を聞いて、思い浮かべる「眠れない日」というのが、普通の眠れない日なのである。ようするに、ぼくにとって、ヘビメタ騒音がはじまるまえに、人生のなかで数値ぐらいあったような「眠れない日」なのである。ぜんぜんちがうのだけど、ほかの人は、比較対象をもってないので、そういう「眠れない日」を思い浮かべてしまう。ぼくのヘビメタ騒音の話を聞いて、そういうレベルの、普通の「眠れない日」を思い浮かべてしまう。そして、それを基準して、いろいろな提案をしてくる。けど、その提案は、全部、役に立たない提案なんだよ。普通の人は「普通の眠れない日」を思い浮かべて、それを基準して、助言をしてくる……。その助言は、言っちゃ悪いけど、全部まちがっている。不適切な助言だ。そして、普通の人は、えらそうなことを言いたがるのである。自分の問題ではなければ、えらそうなことを言いたがる。とくに、きちがい家族によってもたらされた、きちがい的な騒音というのが、ほかの人にはわからない。そりゃ、人生のなかで経験してないのだからわからない。期間の長さがわかってない。それは、こっちが言っても、実際にそういう、長い期間鳴っていた場合の、からだの状態なんてわかるわけじゃないのだ。経験がないからわからない。けど、「眠れなかった日」はあるので、それを基準して、助言をしてくる。けど、その助言が、まちがっている。

この世というのは、きちがい的な家族にやられた人が、とことん、やられる世の中なんだよ。普通の人が、弱っている人間……かわった理由で弱っている人間に言ってくることというのは、まちがっていることだ。弱っている人間には、高い立場から、説教をしていいという気持が成り立っている。その説教が、全部、まちがっているのだ。「全部」というのは、イ・ラショナルではない。まちがってない。全部で、まちがってない。

 

2023年8月14日月曜日

言霊主義者は、「その通りだ」と納得するだろうか。

 ヘビメタ騒音が鳴っているということが、ぼくにとってどれだけつらいことか、まるでわかってないなぁ。

そして、きちがい兄貴のことがわかってない。

きちがいだからやった。

きちがいだから、やり続けた。

きちがいだから、ゆずってやらなかった。

きちがいだから、一日だけ、ゆずらなかったのではなくて、五〇〇〇日以上、ゆずらなかった。

影響をうけないわけないだろ。

ところで、言霊主義者に言っておきたいことがある。たとえばのはなしだけど、言霊主義者が、ぼくに対して、「くるしいと言うから、くるしいのだ」「くるしくないと言えばくるしくない」と言ったとする。

そして、ぼくが、怒って、その言霊主義者や、なぐってなぐって、なぐってなぐって、なぐってなぐって、なぐってなぐったとしよう。何十発もなぐったとしよう。

言霊主義者が、思わず「いたい」と言ったとする。

ぼくは、「いたいと言うから、いたくなる」「いたくないと言えば、いたくない」と言ったとする。言霊主義者は、「その通りだ」と納得するだろうか?

たぶん納得しないと思う。

自分のことなら、納得しないのである。

さらにぼくが「言ったことが現実化する」と言ったとしよう。ぼくは、言霊主義者をなぐるまえに、「なぐる」「何十発も殴る」と言ってない。言ってないことが、現実化したのである。

その言霊主義者も「なぐられる」「何十発もなぐられる」と言ってない。言ってないことが、現実化したのである。

しかし、ぼくが「何十発もなぐられると言霊主義者が言ったから、言霊主義者がなぐられたのだ」と言ったら、言霊主義者はどう思うのか?

ぼくが言霊主義者をなぐるという……出来事が発生するまえ、ぼくは、「なぐる」とは言ってない。そして、言霊主義者も「なぐられる」とは言ってない。

けど、ぼくが、現実を見ないで「言霊主義者が何十発もなぐられる」と言った「から」なぐられたんだと言ったら、言霊主義者はどう思うのか?

実際には、自分……その言霊主義者……は「何十発もなぐられる」と言ってないのに、「何十発もなぐられる」と言ったということにされてしまう。

こんなのは、ひどい。

ひどいと思わないのか?

悪質な言霊主義者は、こういうことがあったあとも「言わなかったことが現実化した」ということを認めない。

あきらかに、言わなかったことが現実化したにもかかわらず、言わないかったことが現実化したということを認識しないのである。現実を無視するな。

言わなかったことが現実化したあとも、「言ったことが現実化する」と言い続けるのである。言わなかったことが起こったという現実は、無視してしまうのである。

無視するな。

現実を無視するな。

言ったことが現実化することもあるし、言わなかったことが現実化するともある。 言ったことが現実化することもあるということは、ぼくは、否定しない。

「本人の意思で動かせる場合」以外のことや、「本人の命令を相手が聞く場合」以外のことに関しては、本人が言った「あと」現実化しているだけだけどな。

ともかく、言霊主義者は「言わなかったことが現実化することもある」ということを認めたほうがいい。「言わなかったことが現実化することもある」ということを認めたあと「言ったことが現実化する」と言い続けることができるのかどうか?

あんまり言いたくないけど、自分にとって不都合な現実を無視してしまう傾向というのも、きちがい兄貴やきちがい親父と似ているぞ。言霊主義者はきちがい兄貴やきちがい親父と似ている。

けど、ぼくは、言霊主義者が、ヘビメタを鳴らしたわけではないということを理解している。さらに、ぼくは、言霊主義者が、子供時代のぼくを虐待したわけではないということを理解している。

なので、なぐらない。

けど、「現実を無視するな」と、言いたくなる。

*     *     *

おまえ、ぶんなぐってきた相手が「過去なんて関係がない」「いたいと言うからいたくなる」「いたいと言わなければいたくない」と言ったら、どう思うんだよ?


「影響なんてない」と言うやつがまちがっている

 ぼくのからだのなには、きちがい兄貴がやったことが、「つまっている」。実際に、きちがい兄貴が、何万時間も使ってやったことが、つまっている。その時間、ぼくは、くるしかった。それが、影響をあたえている。いまのぼくに影響をあたえている。これは、まちがってない。「影響なんてない」と言うやつがまちがっている。

ついでに言っておくと、「過去なんて関係がない」というやつも、おなじ理由で、まちがっている。こいつらは、自分の話をしはじめるんだよな。たしかに、ぼくの過去は、そいつの現在に関係してない。関係がない。けど、ぼくの過去は、ぼくの今現在に影響をあたえている。関係がないなんてことはない。

*     *     *

自分には、きちがい兄貴のような家族がいなかった。自分は、自分がきらいな音をずっと毎日、何時間も何時間も、大音響で浴びせられることがなかった……。それだけなのである。だから、自分はそういうことの影響をうけてない。だから、エイリさんもそんなものだろ……と考える。騒音なんて、どんだけでかい音でも、どんだけ長い期間でも、鳴り終わったら関係がないと考えてしまう。

こんな、バカなやつに、バカにされる。

えらそうなことを言われる。

きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らしたからそうなっている。これ、きちがい兄貴がもし、一日目にやめてくれたら、そういうことにはなってないての゛ある。そいつは、俺に対してそういう態度をとってないのである。そいつは、俺に対して、そういうことを言ってないのである。

自分がいま元気だと、自分は元気だから、エイリさんよりえらいと思っているところがある。自分がいま働いているなら、自分はいま働いているから、エイリさんよりえらいと思っているところがある。そういう、自動思考が働ている。

こんなばかなやつら……。こんな、自分勝手なやつら……。こんな、自己中心的な思考しかできないやつら……。こんなやつらに、えらそうなことを言われる。屈辱以外のなにものでもない。

ただ単に、聞いた話だ。

「ヘビメタ騒音『で』できない」と言っているのに、「ヘビメタ騒音『で』できない」と言うことを理解しないのである。

そういうやつが、大半だった。

たとえばの話だ、遅刻は悪いことだとする。遅刻はいけないことだとする。遅刻はするべきことではないとする。で、俺も、それは、わかっているとする。わかっている。

けど、きちがいヘビメタが鳴っていると、遅刻せざるをえないのである。どれだけ死にものぐるいの努力をしても、遅刻してしまうのである。「毎日」何時間も何時間も鳴っているということが非常に重要なのである。

これ、一日でも、ほんとうは、ひどいことなのである。つみかさなったら、ほんとうに、眠れくなるのである。これ、一日でも、「非日常」なのである。

けど、きちがいヘビメタに実際にやられてない人は、ヘビメタ騒音で眠れなくなるということがわからないのである。体験的にわからない。だから、ぼくが、ヘビメタ騒音でできなくなったということを言っても、いまいち、ピンとこないのである。

彼らのなかでは、ヘビメタ騒音が鳴り終われば、眠れるはずだから、眠れるはずなのである。午後一一時一一分までヘビメタが鳴っていたとしても、午後一一時一二分になったら、ヘビメタ騒音が鳴ってないわけだから、午後一一時一二分からは、眠れるはずなのである。

死にものぐるいの努力をしても、眠れないのである。

どれだけつかれきっていても、眠れないのである。それが、日中、あるいは、夕方から夜にかけて、ずっと、ヘビメタ騒音にさらされるということなのである。

あっち側からすれば、エイリさんは、わかってないから、遅刻するということになっているのである。

そういうことについて言われたとき、「ヘビメタ騒音で眠れない。ヘビメタ騒音が鳴っているとどうしても遅刻してしまう」ということを(こっちが)言っても、相手は、ヘビメタ騒音で眠れないということも(経験的に)認めないし、ヘビメタ騒音が鳴っているとどうしてもに刻してしまうということも、(経験的に)認めないのである。

ただ単に、聞いた話だ。

これも、経験がないので、「まちがっている」ということは、認めないと思うけどな……。

ヘビメタ騒音でたましいをぬかれた。生きていてもくるしいだけなのである。必死だった。これ、みんなわかってないけど、全力で頑張っているけど、普通の生活ができなくなっていくのである。汚染されていく。ヘビメタ騒音に汚染されいく。

 *     *     *

努力という言葉を使うと、「努力する必要はない」とか「努力の方法がまちがっている」とか「努力の方向がまちがっている」とかというようなことを言う人がいるのだけど……ちがうのである。ぜーーんぜんちがう。ちがうのである。

いままで普通に、できていたことができなくなるのである。いままで、夜になれば普通に眠れた。ところが、どれだけがんばっても、夜、眠れなくなってしまうのである。

原因は、きちがいヘビメタだ。

あびていたら、そうなるのである。

そうしたら、努力しないわけにはいかなくなるのである。朝、ずっと眠れる状態なら、まあ、いいけど、学校があるとする。その場合、明るくなってから眠ったのに、すぐに起きなければならなくなる。

ほかの人には、きちがいヘビメタがないから、ずっと、きちがいヘビメタにさらされた「あと」の状態というのがわからないのである。さらされているときの状態もひどいけど、さらされた「あと」の状態もおなじぐらいにひどいのだ。

ひとことで言うと、眠れない。眠れないのだけど、それが、ただの、眠れない状態ではないのだ。ものすごく眠たいのに、眠れないという状態なのだ。

時間がたてば、そりゃ、あせる。

不安になる。

猛烈に眠たいのに、眠れないという状態がずっと続く。

これは、危機的な状態なのである。一日だけじゃなくて、きちがいヘビメタが毎日続く。

そうなると、毎日そういう状態になるのである。

一日目に、きちがい兄貴が、やめてくれたらこんなことになってないのである。

けど、これも、普通の人が「お兄さんのせいにしている」と言うようなことなのだ。

どんだけの、屈辱か。 

選べる問題じゃないのである。強制的にダメな状態になるのである。そして、それに関して、きちがい兄貴も、他人も、まったく理解しない状態なのである。どうしてかというと、「うち」で鳴っているからだ。

学校の先生とか、学校の友達が、学校で聞かされているわけじゃない。

うちに帰って、聞かされているわけだから、ほかの人には、まったく関係がないということになる。そして、ほかの人には、きちがい的な感覚をもっている家族がいないので、そういうこと自体がしょうじないのである。

きちがい兄貴がきちがい兄貴でなければ、ほんとうに、やめてくれたのである。

そもそも、そういう音で鳴らそうとしてない。きちがい兄貴だって、「よそ」では、ちゃんと、音のルールを守って暮らしているのである。いま住んでいるマンションで、きちがい兄貴は、一分間、きちがいヘビメタを『うちで鳴らしていたように』鳴らしてない。

鳴らせないのだ。

マンションでは、ルール違反になるから鳴らせない。

けど、きちがい兄貴の感覚では、『うちでは鳴らしていい』音だったのである。この特殊な感覚は、きちがい親父の感覚とおなじなのである。きちがい兄貴も、きちがい親父も、「うち」と「そと」で、感覚を使いわけている。

態度を使いわけている。

やることを使いわけている。

けど、本人たちは、そういうつもりがないのである。

うちだと、ごく普通にそうなるし、そうなってるということを認めないのである。よそ」では一分間だってできないことを、うちでは、一三(じゅうさん)時間やったって、なんとも思わないのである。

これが異常なのである。

そして、「よそのうち」にはそういう「兄」がいないのである。だから、そういう「兄」が鳴らす騒音に、さらさなくてよいのである。

これは、ぼくと、よその人の「能力のちがい」ではない。ところが、「朝、起きられる能力」「一定の時間に起きる能力」「毎晩、眠れる能力」ということを考えると、ぼくが、よその人より、ずっとおとっているということになる。

よその人にはないことで、ぼくが悩んでいるということになる。

そして、きちがい兄貴の騒音のことは、軽く見られたり、無視されたりするのである。人々は、ヘビメタ騒音の経験がないから、ヘビメタ騒音の影響を、無視する。「

そんなの関係がない」と言う。

けど、関係があるから、そういうことを言う他者との関係が、(こちらにとって)不愉快なものになる。これだって、「そんなの関係がない」と言っている他者は、別に俺に対して、俺が不愉快に感じることを言っているつもりがない。

まあ、この「つもりがない」と兄貴の「つもりがない」はちがうけど、こっちの気持ちを無視していることには、ちがいがない。それから、言っていることが、まちがっているのである。言っていることが、まちがっていることには、ちがいがない。

そいつだって、おなじ状態で、自分がきらいな音を鳴らされ続けたら、「関係がある」ということを認めることになる。関係がないわけないだろ。影響がないわけないだろ。やられてないから、軽く考えて、あるいは、完全に無視して、「関係がない」と言えるだけだ。まちがっているのである。これも、経験がないので、「まちがっている」ということは、認めないと思うけどな……。

 


2023年8月13日日曜日

家族と他人

 きちがい的な家族が鳴らすきちがいヘビメタ騒音にやられると、バカにバカにされることになる。こんな、人生、いやだよな。みんな、考えが浅い。浅すぎる。

そして、偏見に基づいて、バカにしてくる。

きちがいヘビメタ騒音がどういう騒音なのか、みんなわかってない。気ちがいによって鳴らされる騒音がどういうものなのか、わかってない。そのきちがいが家族の一員である場合についてわかってない。

さらに、一家の大黒柱である父親が、きちがい騒音を鳴らすきちがい家族をサポートしてしまうということがわかってない。サポートしてしまうということがわかってないし、サポートしてしまうということの意味がわかってない。

きちがい兄貴なんて、こだわってこだわってこだわって、絶対に一秒もゆずらないで、自分が鳴らしたい、最大の音で鳴らしているのに、ぜんぜん、でかい音で鳴らしてつもりがないんだよな。

それが、「ふりをしている」わけではなくて、きちがい的な頭の構造で、無視できるようになっている。こんなの、わかるわけがない。こんなのは、普通の人にわかるわけがない。そこが、ブラックボックスになっているんだよ。

そして、きちがい兄貴にとっては、まさしく、それが、ラッキーな能力になっている。気にしなくてもいいわけだから。そとから見れば、きちがい的な意地で鳴らしているのは一目瞭然なのに、本人は、「まったく鳴らしてない」「つもり」で暮らすことができる。

こんなのはない。

世間の人もわかってないけど、一番わかってないのが、きちがい兄貴なのだ。そういう、状態をさして「きちがい」だと言っているのに、それがまた、ほかの人にはわからないんだよな。そして、それがもたらすことのでかさがわからない。

実際に、一日でも経験してみろ。

五〇〇〇日、続いた状態を経験してみろ。

頭で考えていることとは、ちがうんだよ。

五〇〇〇日、鳴っていたということを、話で聞いた場合の「ぼく(エイリ)における影響」に関する考えと、実際に自分が経験した「自分における影響」に関する考えは、ちがってくる。けど、経験してないのだから、そんなのは、関係がないということになる。

実際、人生のなかでそういうことがしょうじなかったのだから、ひとごとであり、関係がない。関係がないということは、あっている。あっている。だから、ひとごととして、経験がないものとして、「おしはかっている」わけ。

で、その「おしはかった」結果が、現実とはまったくちがうわけ。おしはかって「関係がない」と言っているやつだって、実際に自分の人生において、そういうことがしょうじたら「関係がない」なんて言えない。

「いま(このとき)に集中すればいいんだ」なんて言えない。「受け止め方をかえればいいんだ」なんて言えない。

けど、実際には、自分の人生には発生しなかったので、「わかったつもり」になって、「関係がない」「いま(このとき)に集中すればいいんだ」「受け止め方をかえればいいんだ」と言える。

だから、まあ、きちがいにやられて、バカにバカにされる状態になっている。 

実際には、五〇〇〇日以上、鳴ってた。

「いまこのとき」に影響がないわけがないだろ。ほんとうに、考えがあさいな。あさすぎる。

なので、暗闇条件の種が、悪く言われる。

 だから、まあ、スネ夫は、「自分は、親が金持ちの家に生まれてよかった。親が金持ちだから、自分がほしいものを買ってくれた。ありがたいことだ」と言えばいいのに、そういうふうには言わないで「自分は、引き寄せの能力が高いから、買いたいものを引き寄せることができるんだ」と言ってしまうのである。

まあ、作中のスネ夫は、そんなことを言わないけど、「引き寄せ能力が高い」と思っている人の状態を表現するために、スネ夫に登場してもらった。

「自分は親切にしたから、しあわせになったんだ」と思っている人は、「人に親切にするとしあわせになる」と言ってしまう。それは、悪いことではないように思える。

しかし、いろいろとまずいことがしょうじる。

で、この「しあわせバージョン」は「引き寄せバージョン」とおなじことが起こっているので、引き寄せバージョンについてだけ、語っておいた。

「けど……、けど……、引き寄せでしあわせになる人もいるんだからいいじゃない」と言う人もいるかもしれない。

けど、それは、引き寄せでしあわせになっているわけではない。「引き寄せでしあわせになった」と誤解している人がいるだけだ。

「日あた良好条件の種」「日陰条件の種」「暗闇条件の種」について、書いたけど、あれとおなじことが成り立っているのだ。

日陰条件の種だって、少しは、枝がのびるし、少しは、根をはることができる。相対的に「日当たり良好条件の種」よりも、のび方がみじかいだけだ。

もし、「日当たり良好条件の種」が「枝がのびるところをイメージすれば枝がのびる」と言ったとする。そして、日陰条件の種が、「枝がのびるところをイメージした」とする。そして、そのあと、枝が少し、のびた。

この場合、別に「枝がのびるところをイメージしなくても」枝がのびる。この場合も「あと」と「から」を混同しているだけなのだ。ほんとうは、イメージした「あと」枝がのびた。

けど、日陰条件の種が、イメージをした「から」のびたと勘違いしてしまうのである。

正体は、勘違い。

そして、これが、「引き寄せ方法を人に助言するな」と言っている理由のひとつなのだけど、暗闇条件の種はどれだけイメージしても、枝がのびることがないのである。

それも、最初から決まっている。日当たり良好条件の種が「イメージすれば枝がのびる」と言うまえから、決まっている。日陰条件の種が、日当たり良好条件の種の言うことを聞いて「イメージしたから枝がのびた」と言うまえから、決まっている。

さいしょから、決まっていることだ。

しかし、暗闇条件の種は、「イメージすることがへたくそだ」というレッテルを貼られるのである。引き寄せ方法は有効な方法なのだけど、暗闇条件の種が、へたくそだから、引き寄せ方法をうまく利用することができないということに、なってしまうのである。

日当たり良好条件の種と、日陰条件の種の頭のなかではそういうことになってしまう。そうしたら、その種のなかでは、それは「たしかなこと」なのである。

なので、暗闇条件の種が、悪く言われる。

「能力がないからダメなんだ」と言われることになるのである。

こういうひどいことが、普通におこなわれるのがこの世だ。

*     *     *

さらに、自己責任という考え方がはやっていると、枝をのばすことができないのは、自己責任。根をのばすことができないのは自己責任と言うことになる。そんなのは、能力がないやつが悪いんだ。そんなのは、努力しないやつが悪いんだというとになってしまう。

努力というのは、「引き寄せる努力」のことも入っている。そして、「引き寄せに失敗した」なら、それは、引き寄せの努力を「じゅうぶんに」しなかったことになるのである。

これもまた、日当たり良好条件の種の「頭のなか」と、日陰条件の種の「頭のなか」でそうなる。「の」の重複は指摘しなくていい。日当たり良好条件の種と日陰条件の種は、「それが原因だ」と決めつけてしまうのである。

暗闇条件の種が、枝をのばすことができないのは、「引き寄せ能力が低いからだ」とか、「引き寄せる努力をしないからだ」とかということになってしまうのである。こういうでたらめな言い分が、正しいこととして流通してしまう。これも、問題のひとつだ。

*     *     *

暗闇条件の種は、枝をのばすことができない。なので、暗闇条件の種が「枝がのびない」と言ったとする。そうたら、善意の言霊主義「種」が、「のびないと言うから、のびない」「のびると言えばのびる」と魔法的な助言をする。これ、助言をしたほうは、いい気持になるかもしれないけど、助言をされたほうは、いい気持にならない。そして、試してみても、のびない。

のびないので、「魔法的な方法は役に立たない。言霊は有効ではない」と、暗闇条件の種が言うと、日当たり良好条件の種や日陰条件の種が「そういうネガティブなことを言うからだめなんだ」とダメ出しをするのである。

しかし、「理由」について勘違いしているのは、日当たり良好条件の種や日陰条件の種だ。

そして、「魔法的な方法は役に立たない。言霊は有効ではない」という判断は正しいのである。正しいのにまちがっていると言われる。「暗いからダメなんだ」「ネガティブだからダメなんだ」と悪口を言われることになるのである。

暗闇条件の種が、暗闇条件でくるしんでいるのに、暗闇条件の種のせいにして悪口を言っているのはどっちか。

勘違いをして、暗闇条件の種について、悪く言っているのはどっちか?

暗闇条件の種のことを悪く言っているは、日当たり良好条件の種や日陰条件の種なのである。ネガティブなことを言っているのは、日当たり良好条件の種や日陰条件の種なのである。

「ほんとうは、暗闇条件の種のせいではないのに、暗闇条件の種のせいにしてしまうのは、いいことではない。暗闇条件の種の「自己責任」ではないのに、暗闇条件の種の「自己責任」にしてしまうのである。

種が、種を、こういうふうにせめるのである。

これは、全体的にみればよくないことだ。自己責任ではないのに、自動的に、自己責任ということにされてしまう。ネガティブなことをしているのは、実際には、勘違いをしている日当たり良好条件の種と日陰条件の種なのに、暗闇条件の種がネガティブなことをしたということになってしまうのである。



2023年8月11日金曜日

親が正常な人間は、親が異常な人間の「現実」を、無視する

たとえば、条件を考えてみよう。親がきちがいかどうかという条件と、親が金をもっているかという条件について考えるとする。そうなると、以下の四つの組み合わせができる。

(1)親が正常で、親が金持ち

(2)親が正常で、親が金持ちではない

(3)親が異常で、親が金持ち

(4)親が異常で、親が金持ちではない

 (1)と(4)では、相当に開きがある。そして、(4)の子どもが経験する不愉快な出来事を(1)の子供は経験しないということになる。(1)の子供には、(4)の「つらさ」がまったくわからないのである。(4)はきちがい的な親にやられて必然的に不愉快な思いをすることになるけど、(1)の子供には、そういう経験がないので、(1)の子供には、(4)の「つらさ」はわからないということになる。けど、正常な親の子供だって、「つらさ」は経験する。そりゃ、人間として生きていれば、「つらいこと」を経験することもある。しかし、(1)の子供がもっているつらさと、(4)の子供がもっているつらさは、比較することができないほど、質的にちがっているのだ。けど、それは、(1)(2)の子供にはわからない。(3)の子供の場合、親が子供に、金を使うとは限らない。こどもになにかをしてやることに、異常な抵抗がある親は、たとえ、本人が金持ちであっても、こどもに金を使わない。そうなると、子供側の人間から見ると、親が金持ちではない場合とおなじになる。金持ちではないというグループのなかには、「普通」と「貧乏」が含まれる。「普通」と「貧乏」は相当にちがうので、ほんとうは、わけるべきだ。しかし、ここで、三つの分類をつくると、複雑になるので、とりあえず、ふたつの分類で話をすすめることにする。なので、(3)の親が、こどもに金を使うことを拒むようなタイプだと、(3)は、本質的には(4)になる。なので、(3)の親がどういうタイプの異常者なのかで、(3)になるか、(4)になるかがちがってくる。一部の(3)の子供は、実質的には(4)だ。子供に、ありとあらゆるものを買ってあげて、こどものやる気をそぐ親だっている。これは、貧乏な親にはできないけど、金持ちの親ならできることだ。だから、(3)場合、親がどの分野で異常なのかということが問題になる。まあ、とりあえず、(3)の親が異常なケチだった場合は、(3)の子供は(4)に変化する場合があるということを指摘しておきたい。以降、(4)に変化した(3)の子供は、(4)としてあつかうことにする。子供の目線で、いろいろなものを買ってもらえるかどうかが重要なので、親が金持ちかどうかというのは、条件として重要だけど、その条件というのは、親の性格のほうに従属する条件なので、親の性格が異常なケチだった場合は、金持ちの親でも、金持ちではない親とおなじだということになる。

(1)と(2)をたした割合と(3)と(4)をたした割合をくらべると、(1)と(1)をたした割合のほうが大きいと言うことになる。なんでなら、異常なほうが大きな割合を占めるなら、その異常が、正常になってしまうからだ。その異常な性格は、正常な性格になる。なので、割合がひっくりかえるということはない。正常な親グループのほうが、異常な親グループよりも、圧倒的に、割合が大きい。なので、正常な親グループは、圧倒的な多数派になり、異常な親グループは少数派になる。その場合、(1)と(2)属する子供側の人間は、(3)と(4)に属する子供側の感覚が経験的にわからないのだから、(1)と(2)に属する子供側の人間は、ずっと(3)と(4)に属する子供側の感覚を理解することができない。感覚と書いたけど、(3)と(4)の「現実」と書いてもいい。しかし、(1)と(2)の人間にしても、生きていれば、親とのトラブルがある。なので、「私だって、親とのトラブルを経験した」と言うことができる。しかし、それは、(3)と(4)のに属する子供側の人間が経験するトラブルとは質的に異なるトラブルなのである。なので、質的に異なるトラブルは質的に異なる影響をあたえる。しかし、(1)と(2)に属する子供側の人間には、それがまったくわからないのである。なので、(1)と(2)に属する子供側の人間は、常に、無理解ぶりを発揮する。しかし、無理解なほうが多数派なのだから、無理解な感覚にもとづいた発言のほうが正しいということになってしまうのだ。別に、公的な多数決をやらなくても、「考え方」の多数決はつねにやっている。行動や発言で、それをしめしている。

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「子供時代のことは大人になったら関係がない」「すべては、自己責任」「すべては、感じ方の問題」……こういう考え方は、(1)と(2)発言なのだ。「関係がないわけがないだろ」「(すべてが)自己責任であるはずがないだろ」「(すべてが)感じ方の問題であるはずがないだろ」と言いたくなる。しかし、それは、多数派である(1)と(2)によって無視されるのである。

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はっきり言ってしまうと、親が気ちがいであった場合、経験するトラブルの質がちがうのである。正常な親とのあいだにあるトラブルと、きちがい的な親との間にあるトラブルの質がちがう。うちの場合、母親が正常で、父親が気ちがいだったから、それは、わかる。両親とも正常である親に育てられた人が、『うちの親だって』と言って語る内容が、ちがいすぎるのである。きちがい的な親というのは、正常な親に育てられた正常な人が思うようなやり方でたたっているわけではないのである。正常な親に育てられた正常な人が、考えることができないよう方法で、常に!たたっている。そういう脳みそを搭載しているので、そういう行動を自動的にするのである。そして、そういう脳みそがかわらない限り、そういう行動がかわらないのである。本質的なところで狂っている人といっしょに暮らすということが、どういうことなのか、普通の人は想像することすらできない。できないのだけど、話を聞いて、想像したつもりになり、自分の想像が正しいと思い込んでしまうのである。そして、正常な親とのトラブルについて、『わたしだって』と語りだす。

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影響はあるに決まっているのに、『影響なんてない』と決めつけるやつがいる。こういうやつは、こういうやつで、宗教家に似た、妄想的な信念をもっている。ただ、その信念は、悪が支配するこの世では、有効な信念なのである。


 



  

めぐまれた環境で育ったということを、積極的に無視してしまう

 自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人は、そういうふうに思っているのである。

だから、善意で、ほかの人に「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやけば、しあわせになれるということを言うわけだ。

けど、ほかの人が「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいても、しあわせにはなれない。「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやくことで、運を引き寄せて、しあわせになることができるというのは、その人の妄想だからだ。

考え違いをしているのである。

  自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人の家は、じつは、たいへん裕福で、親の性格もよかったとする。

その場合、裕福であることと、親性格がいいということは、その人のしあわせに影響をあたえる。とりあえず、その人と書いたけど、自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人のことだ。

「自分」は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人のことを、Zさんと呼ぶことにする。Zさんは、たいへん裕福な家に生まれたし、親の性格もよかった。その場合、「自分」は、たいへん裕福な家に生まれたし、親の性格もよかったから、しあわせになったと考えたほうが、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいたからしあわせになったと考えるよりも、合理的なのである。

ところが、Zさんは、「たいへん裕福な家に生まれて、親の性格もよかった」ということをガン無視してしまう。そして、「ウン・コロコロ・アップ」だけに注目してしまう。

言霊のところでも書いたけど、「理由」について勘違いしている人は多い。

とくに、めぐまれた環境で育った人は、めぐまれた環境で育ったということを、積極的に無視してしまう。「自分は普通の環境で育った」と考えてしまうのだ。そして、「自分のへんなくせ」に注目する。そして、自分はその固有能力があるから、しあわせになったと考えてしまうのだ。

たとえば、「引き寄せ」という固有能力があったから、しあわせになったと考えてしまう。たとえば、「ウン・コロコロ・アップ」のすごいチカラに気がついて、それを実践してきたから、しあわせになったのだと考えてしまう。たとえば、言霊のチカラに気がついて、「成功するぞ、成功するぞ」と言ってきたから、成功したと考えてしまう。

こういうところに、そういう人たちの「自己中心性」とか「傲慢さ」がある。

 

 

2023年8月10日木曜日

自分が比較優位。相手は比較劣位。

 たとえば、引き寄せができる人と、引き寄せができない人をくらべた場合、引き寄せができる人が優位になる。引き寄せができない人は、劣位になる。

じつは、引き寄せができるとか、できないということは、ない。ようするに、「引き寄せる能力」なるものが、ニセの能力なのだ。

架空の能力。

だから、本当は、「引き寄せができる人」もいないし「引き寄せができない人」もいない。

しかし、自分がしあわせになれたのは、しあわせを引き寄せる能力があったからだと思っている人は、そういう世界観でものを見るようになるのである。

なので、とりあえず、「引き寄せ世界観」と言ってしまうけど、「引き寄せ世界観」をもっている人の「なか」では、やはり、引き寄せができない人は、能力がない人だということになる。

「実際、自分のほうが引き寄せ能力がある」「実際、相手は、不幸で、引き寄せ能力がない」という見方を、もってしまう。実際に「不幸な相手」に対して、そういう見方をもってしまう。

自分が比較優位。相手は比較劣位。

こういう認識のセットができあがってまう。

で、これには悪意がないのだけど、へんな考え方に基づいて、相手を見下していることにはかわりがない。そして、本人は、「見下している」とは思ってないのだ。本人には、「相手を見下している」という認識がない。けど、ほんとうは、「能力がないから不幸なのだ」「事実、不幸なのは、能力がない証拠だ」と思って、見下しているのである。

2023年8月9日水曜日

自分は、引き寄せという方法でしあわせになった……善意と悪意

 自分は、引き寄せという方法でしあわせになったので、ほかの人に引き寄せという方法を教えてあげよう」と善意で引き寄せという方法について語りだすのである。善意。善意。しかし、その人は、引き寄せという方法でしあわせになったと思っているのかもしれないけど、じつは、引き寄せという方法でしあわせになったのではない。いい親のところに生まれたから、しあわせになったのだ。たとえば、スネ夫が、「自分がしあわせなのは、引き寄せという方法を知っていたからなんだ」と思っているとする。たとえば、スネ夫が「自分が、いろいろなものをもらえるのは、引き寄せの雨量があるからなんだ」と思ったとする。スネ夫は、自分が「いい親のところに生まれた」という要素……ほんとうの原因を……無視しているのである。その、ほんとうの原因を無視して、「引き寄せ能力がある」から「いろいろなものを引き寄せることができる」と勘違いしているのだ。だから、自分がやっている「引き寄せ能力を高める方法」が、ほかの人に有効であるはずがない。それは、げんに、いい親のもとに生まれて、ものをいっぱい買いあたらえれる人が、「引き寄せる方法を知っているから」自分は、ものをいっぱい引き寄せることができると思っている状態で『有効』な方法なので、貧乏な家に生まれたこどもが「その引き寄せる方法」を実行しても、ものを引き寄せることができないのである。これは、最初から決まっている。引き寄せ方法を知っているから、引き寄せることができるのではなくて、いい家に生まれたから、引き寄せることができるだけなのだ。方法の問題じゃない。だから、貧乏な家の子どもは、最初から、その方法だと失敗することが決まっているのである。しかし、そういう問題が「引き寄せる方法を知っているかどうか」という問題にすりかえらてれいる。

自分は、引き寄せという方法でしあわせになったと思っている人が、自分は引き寄せることがうまいから、引き寄せることがへたくそな人に、うまく引き寄せる方法を教えてあげようと思ったとする。それは、本人にとっては、「いいこと」なのである。カルマうんぬんで言えば、善行をしていることになる。ところが、実際には、悪い家に生まれたこどもを、追い込むことになる。悪い家に生まれたこども側の人間は、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」と言われ始めるのである。「引き寄せトレーニングをしないからダメなんだ」ということを言われ始める。悪い家に生まれたから、不可避的に悪いことが起こっているにもかかわらず、「悪いことを引き寄せるからダメなんだ」と言われることになる。きちがい的な親がきちがい的な理由で怒っているとする。怒られているほうはなにもわるいことをしてないし、能力がないから怒られているわけではない。ところが、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」「悪いことを引き寄せるからダメなんだ」と言われるのである。

そして、役に立たないばかりか、有害な方法をおしつけられるのである。善意で、極めて有害な方法をおしつけられることになる。そして、その方法ができないからダメなんだと言われることになる。これが、現世で起こっていることなのである。 

それから、付け加えておくと、きちがい的な親にやられれば、不愉快そうな顔になる。それは、出来事に対応しているのである。ところが、幼稚な人は「不愉快な顔をしているから、不愉快な出来事を引き寄せる」と言って、きちがい的な親にやられた人を、せめはじめるのである。きちがい的な親ではなくて、きちがい的な親にやられている子供側の人を、せめはじめる。「どんだけ、幼稚なんだよ」とぼくは言いたくなる。

『スネ夫』と『引き寄せ能力』

『ドラえもん』というマンガに、スネ夫という子供が出てくる。スネ夫の親は、お金持ちで、スネ夫にものを買い与えることが好きな性格だ。スネ夫は、親が金持ち親だから、いろいろなものを買ってもらっている。これは、スネ夫の固有能力ではない。ところが、スネ夫は、自分には「引き寄せの力がある」から「もの」を引き寄せることができるのだと考えているとする。その場合、スネ夫にとって「引き寄せの力」というのがあるというというのは、あたりまえのことで、「自分には、その引き寄せの力がある」と考えているわけだ。それだけなら、別にいい。ところが、スネ夫が、「引き寄せの力があれば、ものを引き寄せることができる」と貧乏な家の子供に言ったらどうなるか? 貧乏な家の子供がどれだけ、「引き寄せの力」をつけようにしても、ものを引き寄せることができない。スネ夫からすれば、その貧乏な家の子供は、「引き寄せる力がないから貧乏なのだ」ということになる。しかし、それはちがうことを原因として考えているだけだ。つまり、まちがっている。『ドラえもん』というマンガには、のび太という子供が出てくる。のび太の家は、普通の家で、けっして、貧乏ではない。さらにのび太には、ドラえもんという強い味方がいる。貧乏な家の子供というのは、のび太よりも、はるかに貧乏で、カネがなく、ドラえもんもいない子供だ。その子供の、固有能力が低いからそうなっているわけではない。その子どもというのを、とりあえず、A君だとしよう。A君の親は、おカネがなく、こどもに物を買ってやれるよゆうがない。そして、A君の親は、こどもに物を買ってやることに非常に心理的な抵抗がある親だ。ようするにA君の親は、たとえ、金持ちでも、A君に、ものを買ってやるつもりがない親なのだ。そういう親のもとに生まれたということは、たしかに、不幸なことだ。しかし、これを、A君の自己責任だと言うことができるだろうか。まあ、前世とか、カルマという考え方を持ち出す人にとっては、それは、A君の自己責任なのである。まあ、自己責任論については、いろいろ語ってきたので、ここでは省略する。問題なのは、スネ夫が、貧乏な家の子供に「引き寄せる力を育てれば、ほしいものが手に入る」というようなことを言うことだ。あるいは、スネ夫が、「自分には、強い引き寄せの力があるけど、A君には、引き寄せの力がない」と考えることだ。スネ夫は、この時点で、自分には能力があり、A君には、能力がないと考えているということになる。そして、能力がないA君が、かわいそうだと思って、「引き寄せる力を強くすることを提案する」のである。引き寄せる力を強くするには、そのほしいものを強くイメージすればいい」というようなことを、スネ夫がA君に言ったとする。A君が、どれだけ、「そのほしいものを強くイメージしても、A君は、そのほしいものを手に入れることができない。A君はそのほしいものを引き寄せることができない。これは、A君の引き寄せる力が弱いからなのか? ちがう。A君の親が、金持ちではなく、A君に物を買ってあげるのがきらいな性格だから、A君は、A君がほしいものを手に入れることができないのだ。ほしいものを手に入れることができないということを、引き寄せる力が低いと言っているのだから、トートロジーになってしまっている。循環している。

 スネ夫は、原因について、完全に、考え違いをしている。そして、自分の考えちがいに気がついてない。スネ夫の助言を、貧乏人の子ども(A君が)実行しても、A君が、ほしいものを手に入れることができるかというと、できない。ほしいものを手に入れることができないA君の状態」というのは、A君がつくりだしていることではなくて、A君の親がつくりだしていることだ。スネ夫と、A君には、「引き寄せ能力」なるものの、ちがいはない。ところが、スネ夫は、自分とA君のちがいは、「引き寄せ能力だ」と考えている。これに関しては、スネ夫は、別に悪意があるわけではない。ただ単に、勘違いをしているだけだ。まちがった考えにこだわっているだけだ。しかし、助言をするとか、提案をするとかとなると、問題がでかくなる。スネ夫は、A君が、A君の欲しいものを手にいられるように助言するのだけど、その助言がまちがっているのだ。けど、スネ夫が、スネ夫の「引き寄せ」という世界観をもっている限り、スネ夫は、自分のまちがいを認めない。そして、A君が引き寄せられないのは、A君の固有の問題だと思ってしまう。A君の固有の問題ではなくて、A君の親の問題なのだ。いずれにせよ、A君が、どれだけ「引き寄せ」をイメージしても、ほしいものを手に入れるということは、できない。関係がないからだ。原因はA君の親の経済力と、A君の親の考え方だ。「の」の重複は指摘しなくていい。「引き寄せ能力」の問題ではなくて、親の経済力と、親の考え方の問題なのだ。

問題なのは、スネ夫の助言が、A君に、失望をあたえるということだ。A君は、親の経済力と、親の考え方をかえない限り、「引き寄せ」に失敗する。ほしいものが手に入らないというとになる。スネ夫の助言は、意味がないばかりか、A君に「引き寄せ・失敗」の経験をあたえるのだ。 必然的に、失敗する。A君は、「引き寄せ」をイメージしても、ほしいものを手に入れることができない。そして、あろうことか、「引き寄せ能力がない」という「烙印」をおされるのだ。スネ夫が、A君には、引き寄せ能力がないという、烙印をおす。「引き寄せ能力欠如」の烙印。けど、それは、最初から決まっていることなのである。スネ夫の助言がまちがっているだから、スネ夫の言うとおりにしても、のぞんだ結果が得られない。ただ、そういうことが典型しているだけなのに、A君は、失敗の経験をして、引き寄せ能力欠如」の烙印をおされる。

まちがった助言をしているほうが、失敗の経験をして、みじめな思いをするのではなくて、まちがった助言をされたほうが、失敗の経験をして、みじめな思いをするのである。そして、「能力がない」と思うようになる。

いまの世の中というのは、そういう世の中なんだよ。

日当たり条件の人は、みんな、スネ夫のようなことをしている。ここに出てきたスネ夫のようなことをしている。みんな、大人だ。大人だけど、スネ夫のようなことをしている。


2023年8月7日月曜日

幼児のほうが、怒られないようにしようと思っても、むりなのである

なんか、楽しいことを考えようとしても……。

きちがいが現前しているということが重要。きちがいが、襲い掛かってくるということが重要。きちがいが、きちがい的な理由で迷惑行為をしはじめるということが、重要。

きちがいが、きちがい的な理由で、迷惑行為をはじめたら、どんだけ「やめろ」と言っても、やめてくれないということが重要。

やめない理由もきちがい的な理由だ。

やめずにやりきったのに、やってないことになっているという感覚と、その感覚にもとづいた態度も異常だ。そういう異常なことが、常に成り立っているのである。どうしてかというと、きちがいがきちがい的な脳みそを搭載しているからである。

そして、その脳みそは、自分にとってだけ、都合がいいようにできているのである。自分がきちがい的な意地でやった、きちがい行為は、「やってないことになっている」のである。

これだけでも、普通の人とはちがう。

普通の人は、知らないふりをすることはできても、ほんとうに知らない状態になれるわけではない。ところが、きちがい家族だと、ほんとうに知らないのである。ほんとうに知らない状態なのである。こんなのは、ない。

きちがい親父は、きちがい的な理由で、怒り狂って、ぶちあたってきた。

これは、容赦がない。

相手が、小さければ小さいほど、安心して、自分の怒りを、その小さなものに、ぶちまけることができるのだ。相手が、小さければ小さいほど、安心して、相手を攻撃することができるのだ。

幼児なんて、恰好の攻撃対象だよ。

手加減をするはずがない。

その場合、きちがい親父が、人間の「ひながた」になってしまうのである。幼児側の人がもつ、「人間のひな型」になってしまうのである。

たとえば、人の気持ちを考えることが、生きていく上では、重要なのだけど、きちがいがぶちあたってくれば、きちがいの気持ちを必死になって考えることになる。幼児期にこういう経験がないやつには、絶対にわからない。

幼児期にこういう経験んがないやつは、たまたま、親が正常だっただけだ。

別に、異常なきちがいにやられていたにもかかわらず、人間のひな型が、異常なものにならなかったというわけではないのだ。

きちがいは、「気にしてほしく」て爆発しているのである。

そして、爆発することが決まっているのである。

うちのきちがい親父の場合、きちがい親父が自分の幼児に、怒り狂っていたわけだけど、どれだけ怒り狂っても、きちがい的な怒りがおさまることがないのである。どれだけ、目の前の幼児を攻撃しても、どこまでもどこまでも腹がたって、怒りが「解消」することがないのである。

どうしてかというと、怒りが……そこで爆発している怒りは、本来は、自分の育ての親に対する怒りだから、どれだけ、幼児に対して爆発しても、おさまることがなかったのである。

その場合、幼児のほうが、怒られないようにしようと思っても、むりなのである。怒る理由がなくても……その場に怒る理由がなくても……安心して怒り狂える対象に怒りをぶつけ続けるわけだから、幼児側の人にとっては、怒られないということは可能ではないのである。

そういう、きちがい的な親の気持ちが、人間の気持ちのひな型になってしまうのである。幼児が「人間の気持ち」というものを考えるときの、ひな形が、狂った人間の気持ちなのである。きちがい的な理由で、ささいなことで、怒り狂っていた「親」にやられた人は、その親の精神構造をもとにして、人間の精神構造を考えるようになるのである。きちがい的な理由で怒っているきちがい的な親の基準で、物事について考えるようになるのである。善悪について考えるようになるのである。「相手の気持ちを気にするな」というほうがむりなのである。

そして肝心なのは、「防衛」に失敗するということだ。どうして、失敗するかというと、親がきちがいだからだ。小さな理由で怒るという場合、その小さな理由のことを考えて、そういう小さなことが発生しないようにすればよいのだけど、すべてのことで、怒り狂うということになると、どれだけ、小さな理由に対処して、小さな理由が発生しないようにしても、怒り狂われるということは決まっているので、必然的に、「防衛」に失敗するのである。

この場合の「防衛」というのは、起こらないようにするということだ。理由がある場合、理由が発生しないようにすれば、怒られないのである。その理由では怒られない。小さな理由が一〇〇〇〇個あるのであれば、一〇〇〇〇個の理由に対処すれば、その小さな理由(群)では怒られないことになる。

その場合は、「防衛」に成功したということになる。怒られなくなるのだから、防衛に成功したということになる。

しかし、きちがい的な親が気ちがいなので、本来、怒る理由がまったくないところでも、発狂して怒るのである。その場合、それがそうであるということについて怒っているわけだから、根源的な理由を解消することにはいたらないのである。

きちがい的な親というのは「対処不可能性」をおしつけている。「対処不可能性」をともなった経験(実際の出来事)というのは、その人の意欲に影響をあたえる。

話がずれるけど、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲がでてくると言うことではないのである。「意欲が出てきた」と言う経験よりも、毎日の経験のほうが影響力がでかいのである。そして、「意欲が出てきた」と言うという経験は、「意欲が出てきた」と言っても、意欲がでてこないという、経験につながるのである。こっちが、メインになってしまうのである。言霊的な解決法は、まったく意味がないのである。とくに、きちがい的な親にやられている人間にとっては意味がない。きちがい的な親に「対処不可能性」を感じる出来事を、毎日毎日毎日、繰り返し、繰り返し、おしつけられている側の人間にとっては意味がないのである。

ところが、きちがい的な親にやられてない人間が、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲が出てくるというようなことを言う。これは、そういうことを言う人間が、きちがい的な親にやらなかったから、言えることだ。そして、幼児的万能感が残っている幼稚な人だから言えることだ。

意識的な命令よりも、実際に繰り返し繰り返し経験したことのほうが重要なのだ。なんで、それがわからないのか? どうして、杓子定規に、どんな場合でも、言霊は有効だと考えるのか? 意識的な命令というのは、意識的な自分が、自分に対して命令するというとだ。

言霊の場合は、言葉で命令するのである。思霊の場合は、思うことで命令するのである。けど、この場合の「思う」ということは、けっきょく、「言葉で思うこと」なので、言葉で命令するということになる。

なになにのほうが有益だから、なになにと思うように自分に命令しているのだ。「なになにのほうが、自分にとって利益があると思っているから、そうなるように、自分が自分のこころに対して命令をするのだ。このやり方は、合理的に思えるかもしれないが……すくなくても、言霊信者にしてみればじゅうぶんに合理的なやり方に思えるのだけど、実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間にとっては、合理的なやり方ではない。 

ところが、言霊主義者が考える「人間」のなかに「実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間」も含まれているのだ。なので、食い違いがしょうじる。

 

般化や弁別

 般化や弁別という機能は、意識的な意識とは別に機能しているのである。そして、般化や弁別のほうが、「親」なのである。背景になって、成り立っているものなのである。意識的な意識というのは、般化や弁別が機能している「うえ」に成り立っているのである。般化や弁別が意識的な意識の土台になっている。意識的な意識が、「般化するのはやめろ」と命令すれば、般化をやめて、意識的な意識が「弁別するのはやめろ」と命令すれば、弁別をやめるというわけにいはかないのである。ところが、意識教の人は、あたかもそういうことが可能だという前提に立ってものを言うのである。土台からして、まちがっている。

般化を無意識的にやめて、般化の結果として起こる不都合な結果をさけるということができるかどうか?

 人間には般化という能力があるので、きちがい的な親の影響をうける。自分にとって都合が悪いところだけ、般化しないというのは、きちがい兄貴やきちがい親父のように、自分にとって都合が悪いことは、無意識的なレベルで排除するということになってしまうのである。それはそれで、不都合なことなのである。自動的に働く、般化という機能を、自分にとって不都合なときだけ、意識的にオフにする。働かないようにする……。そんなことをしたら、きちがいになってしまうだろ。

2023年8月6日日曜日

まったく残らないのである。

 ヘビメタ騒音の影響がわかってないのである。これ、ブラックボックスになっている。経験がない人は、みんな、ヘビメタ騒音の影響を無視したり、過小評価する。「そんなんじゃない」とどれだけ言ってもむだだ。そいつらの頭のなかでは、ヘビメタ騒音なんてたいしたことじゃないのである。たいしたことじゃないと思えるのは、自分がやられなかったからだ。自分が、『きちがい的な家族』といっしょに住んだことがないからだ。きちがい兄貴は、きちがい兄貴の感覚で、やりきる。やったってやってない」が常に成り立っているのである。どれだけ、こまるということを説明したって、きちがい兄貴は、認めないのである。そして、発狂して、意地になってやるのである。しかし、発狂して意地になってやったという記憶がまったくない状態なのである。だから、相手が、こまったということが、まずわかってない状態なのである。普通なら、一回やっただけでも……そういうケンカを一回しただけでも、記憶には残る。ところが、きちがいだから、まったく残らないのである。これは、ほんとうにまったく残らない。何万回ケンカをしても、まったく残らないのである。「まったく残らない」から、「気にしないいい人か」というとそうではないのである。「まったく残らない」から、いやな人なのである。こまった人なのである。こういうことも、一般人は誤解をする。「ケンカをしたけど、すぐに水に流す人」だと思っているのである。そんなことであるわけがないだろ。一般人は、自分が、きちがい家族と一緒に住んだことがないから、きちがい的な人のこういう性格のまずさが、わからない。やっかいさがわからない。どれだけこまるかわかってない。そして、きちがい側の人にしてみれば、ほんとうに、「やってない」ことになっているのである。だから、相手が自分をことをどう思っているかと言うことについて、正しい認識がない状態で生きているということになる。これが、やっかいなのである。相手が、やめてくれと言ってきたけど、一秒だってゆずりたくないので、一秒もゆずらにやりきった……これが、きちがい兄貴の行動なのである。ところが、きちがい兄貴本人が、瞬間的におこって、瞬間的に忘れてしまうのである。だから、相手がいやがることを、ゆずらずにやりきったという記憶がない状態になっている。これが、普段の状態なのである。言っておくけど、親父もおなじだ。おんなじなんだよーー。どこまでもどこまでもおなじ。「みずにながす」って、それ、あくどい行為をやりきったほうが、その悪井戸い行為をやったということを忘れてしまうということではないよ。けど、表面上はあたかもそう見えるのである。一般の人は、自分がやられてないから、どれだけあくどい行為をやっているのか、わかってない。やられてないから、「中立的な立場」にいられる。そして、「ケンカ」だと思うわけだ。普通のケンカだと思っている。ぜんぜんちがうね。こんなの、きちがいやくざの味方。一般人が、きちがいやくざの味方をしているようなものなのである。これも、きちがい行為がブラックホールになるから、みんな、わからなくなってしまう。いちおうは両方の言い分を理解できる、普通のケンカではないんだよ。

「俺だって騒音ぐらいある」。ぜんぜんちがうよ。

 けっきょく、人知れず、ヘビメタ騒音にさらされていたときに、終わっているのか。

ぼくの人生、終わった。だれにもわからない。ほかの人にはわからない。どれだけひどい影響をあたえるか、ぜんぜんわかってないんだよな。

わかってないところで、ものを言う。

『そんなのむりに決まっているだろ』ということを言う。

どうしてそういうことを言えるかというと、ぼくとおなじ経験がないからなのである。人知れず、毎日ヘビメタ騒音に、さらされたことがないからなのである。

……「俺だって騒音ぐらいある」

……「ぜんぜんちがうよ」

おなじレベルの騒音にさらされた人がそんなことを言うわけがない。言っている意味、わかるかな? 同じレベルの騒音にずっとさらされていた人は、ぼくに、同意する。同意してないのだから、さらされてない。さらされてないから、同意しない。

くるしみに意味なんてない

くるしかったなぁ。くるしみに意味なんてない。誤解されて、誤解されて、誤解されて、くるしみが、つみかさなっていくだけだ。くるしみに意味なんてない。くるしかったなぁ。

くるしみなんてないほうがいいのである。くるしみのない人生のほうがいいのである。みんな、まちがっている。カルマ論にやられて、頭がおかしくなっている。倒錯している。悪魔が利用して、考え方を逆転させてしまった。もともとは、くるしみがない人生なのである。人の一生というのは、そういうものだったのである。それが、狡猾な悪魔にだまされて、くるしみが、導入されてしまった。さらに、くるしみに意味をあたえて、ほかの人のくるしみをバカにするようになった。こんなのは、倒錯。

それが、言葉でつむぎだすのが不可能な部分にもおよんでいるのである

 ヘビメタ騒音でだめになる」といった場合の「だめになる」という部分が、「毎日つみかさなったことがない人」にはわからないんだよな。友だちだろうが、先生だろうが、同僚だろうが、先輩だろうが、後輩だろうが、ともかく、わからない。「だめになる」……。これ、どれだけの、だめにならない努力をして、だめになっているか? わかるか? わかるわけがないんだよな。友だちをなくしたよ。これ、必然なんだよな。ずっと毎日続くと、どれだけ、そうならないように努力しても、そうなる。ヘビメタ騒音の毎日というのが、ほかの人には、わからない。経験的にわからない。人生のなかで、あんな特殊なことを経験したのは、俺だけだ。ぼくの知っている限りそうだ。六か月間だけやられた人を知っているけど、その人以外知らない。その人は、六カ月で終わっているので、ぼくとはちがう。「友だちの離れ方」というのが、人の想像をこえるものなのだ。こんなの、わかるわけがない。「どうしてもそうなっていく」という部分がわからない。「毎日」ということがわからない。毎日そうだと、この世では、そうなっていくのだ。友だちとわかれることになる。友だちとの間に、いろいろなトラブルがしょうじる。それは、毎日鳴ってたら、さけられないトラブルなのだ。いろいろなところで、いろいろなものがたまっていく。きちがい兄貴が鳴らしてた期間は、重要な期間だ。きちがい兄貴は、そういうことも、当然わかってない。いま、きちがい兄貴が、すんでいるマンションで、一分も鳴らさないことが可能なら、もちろん、うちでも、可能だったのだ。ところが、そういう気持がまったくないんだよね。可能だと重くってない。それどころか、一分間のあいだ、「こっちのために」しずかにしてやることすら、絶対に不可能なことなのだ。そういうモードでずっとやってきた。で、説明してもわからないと思うけど、きちがい家族によって、そうされているということは、ぼくの気分や能力に影響をあたえるのである。そうなると、ほかの人との人間関係にも、不可避的に、影響をあたえるのである。それが、言葉でつむぎだすのが不可能な部分にもおよんでいるのである。だから、ほかの人にはわからない。言葉で言えば、きちがいヘビメタにやられた影響があり、それが、人間関係にも影響をあたえるということになるのだけど、それだけじゃないのだ。そんな言葉に、もれない部分が、ある。そして、その見えない部分が、でかいのだ。そのでかい部分を、普通の人は無視する。宗教的なことを言う人も無視する。

重要なのは、鳴らされたことではなくて、きちがい的な家族によって鳴らされたことなのである。きちがい的な家族が、きちがい的な脳みその構造によって、無視した部分……それが、うめき声をあげているのである。あんなこと、やられて、いいわけがない。

ほかの人は、きちがい兄貴の『きちがい部分』がわかってない。きちがい的な感覚がわかってない。きちがい的な認知がわかってない。きちがい的な認識がわかってない。きちがい的な感覚で鳴らしているということが、ほかの人には絶対に理解不可能なのだけど、ものすごく、でかい影響をあたえている。それが、ほんとうは、ダイレクトに、友人関係に影響をあたえているのである。そりゃ、ぼくの行動をとおしてそれが発言されるわけだけど、「それ」に関しては、語ることができない部分なのだから、不可避的に、ぼくが誤解されることになる。

2023年8月4日金曜日

無職の種類

 たとえばの話だけど、医者が退職したとする。その場合、その場合、なんらかのことを職業としてやってない限り、その、もと・医者は無職だということになる。無業者だということになる。ところが、この、もと・医者というのは、普通の無職ではないのである。日本では、無職のあいだに、いくつかの区別がある。学生、専業主婦、定年退職者は、無職であっても、無職であるということを「せめられない」無職なのだ。そして、さらに、「元官僚」とか「元会社経営者」とか「元医者」とか「元大学教授」といったたぐいのものは、いわば、高級無職として考えられる存在だ。彼らは、無職であったとしても、普通の無職のように、バカにされない。普通の人から「下に見られない」。この、下に見るかどうかということが、非常に重要なのである。ところが、「無職」という分類区分にこだわっていると、これがわからなくなってしまう。たとえば、もと・医者が、リタイアしたというので、リタイアについて、講演を依頼されたとする。依頼をしてきたほうは、有名会社の経営者だとする。そして、場所はホテルだとする。ホテルの人は、そりゃ、その医者にたいて、うやうやしい態度で接するでしょう。ゲスト講演者なんだからあたりまえだ。そして、その無職である、元医者が、「自分は、無職だけど、無職だからといって差別されなかった」という感想をもったとする。そして、「無職は差別されない」と言ったとしよう。この場合、その発言は正しいのかどうか? 正しくないのである。無職が差別されないのではなくて、高級無職が差別されないだけなのである。こういう、抽象化の部分で、この元医者(現無職)は勘違いをしている。

世間の側の共同幻想が、実際にもっている内容について勘違いをしているのだ。

理由

 まあ、いろいろな不愉快なことを思い出す。小さいことなんだけど、不愉快にはかわりがない。不愉快なことには、かわりがない。それが、みんな「他人がらみ」なんだよな。とくに、ヘビメタ騒音以降の人間関係は、最悪だ。これ、最悪にならざるをえないのである。きちがいが頑固にヘビメタ騒音を鳴らすと、ぼくと「他人」の人間関係が悪くなるのである。これ、さけられない。けど、「さけらない」ということが、これまた、「他人」にはわからないんだよ。他人は、他人の立場でものを言うし、他人は、きちがい兄貴のきちがい的な態度を知らない。他人は、きちがいヘビメタに毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も連続してさらされる状態というのがどういう状態なのかわかってない。不可避的に、だめになる。不可避的に、できていたことができなくなる。

男にとって、働けなくなるということが、最悪のことなのである。しかも、ほかの人が「働けない理由として認めない理由で」働けなくなるということが、めちゃくちゃに、問題をうみだすことなのである。こいつらは、ヘビメタ騒音のなんたるかがわかってない。もうすでに書いたけど、自分が老化したら、老化を理由に働かなくてもいいと考えるやつらだ。けど、老化なんかより、一〇〇倍もつらい、ヘビメタ騒音は理由にならないのである。老化なんかより一〇〇倍も過酷なヘビメタ騒音が働けない理由にならない。そいつのなかでは、ヘビメタ騒音?なにそれ」というレベルのことだから、「ヘビメタ騒音があったとしても働ける」という前提でものを言ってくる。これが、頭にくることなのである。そもそも、これが頭にくることだ。けど、「これが頭にくることだ」と言うことが、ヘビメタ騒音を経験してない人にはわからないのである。十数年間の、きちがい家族によるヘビメタ騒音を経験してない人には、まったくわからない。 

2023年8月3日木曜日

無意識的なスイッチ

 だからまあ、「ちょっとどいて」と言われたときの、きちがい親父の態度と、「しずかにしてくれ」と言われたときの、きちがい兄貴の態度がまったくおなじなんだよ。きちがい的な意地で、やりきる。けど、相手がそれで、こまったということは、まったく、認識しないんだよ。だから、本人は、まったくつもりがない状態になっている。本人が、言われて怒ったという感覚が、非常に短い時間続いて、それでおしまいだ。そのとき怒り狂って、意地をはってやりきるだけで、やったつもりがないままなのだ。そして、自分が人に迷惑をかけているつもりなんかもまったくない。普通は、言われたら、相手がこまっているということは、理解できるのだけど、その理解が、「とんじゃって」ないのだ。だから、常に、悪気がないまま、きちがい的な意地で、迷惑行為をすることができるわけ。

ともかく、「そのときだけ」なんだよ。しかも、「やめてくれ」と言われて、自分が傷ついたという感覚しかない。相手が、それでこまっているということは、何万回言われても理解しない。感覚的にわからない。感覚的にわからないままなのだ。何万回言われても、感覚的にわからないままだ。だから、本人は「なにもやったつもりがない」まま、やりきってしまう。

ほんとうは、でかい音で鳴らしているということは、耳が正常なら、「言われなくてもわかること」なんだぞ。そういうでかい音で鳴っていると、勉強ができなくてこまるということは、頭が正常なら、「言われなくてもわかること」なんだぞ。けど、何万回言われても、その都度、本人が、怒り狂って、こだわってこだわってこだわって、やりきるだけで、まったくわかってないのだ。だから、全部の時間を、自分が思ったとおりの音で鳴らすということをするわけだけど、感覚的には、一秒も鳴らしてないのとおなじなのである。たとえば、こっちに迷惑をかけたという感じは、その日、30回言われて、30回「ぶつかっても」……しょうじないのである。自分が、言われたとき……そのときだけ、瞬間的に腹をたてる……だけで、ずっとやっていても、それで相手が、こまっているということは、一切合切、頭のなかにしょうじない。だから、きちがい兄貴は、一日に何十回「こまるからやめてくれ」と言われても、まったく、おとうとがこまってないつもりで、ずっとずっと鳴らし切る。こういう毎日だ。どれだけ言っても、きちがい兄貴の態度や感覚がかわらないのである。

卑怯なことなんだけど、よそのうちに行ったら鳴らさないんだよ。きちがい兄貴は、いま、埼玉のマンションに住んでいるのだけど、マンションでは、一秒だって鳴らさない。どうしてかというと、「でかい音だ」ということを知っているから。「でかい音で鳴らすと(ほかの人に迷惑がかかる」ということを知っているから。「でかい音で鳴らすと、他人が恨む」と言うことを知っているから。けど、「うち」では、それは、一切合切ないんだよ。きちがい親父がつくったうちでは、ないんだよ。きちがい親父にしたって、よそでは、きちがい的な理由で怒り狂うということをやってないんだよ。けど、「うち」では、スイッチが入ってしまう。これが……。本人が使いわけているつもりがないのだ。きちがい無意識。無意識的なスイッチ。 この、無意識的なスイッチが、凶暴で強烈だから、俺が……やられた俺が……ほかの人から「へんやつだ」と思われる……ことになっている。これ、ほんとうに「そういうことになっている」という感じだ。実際、よそのやつは、知らないわけだし、きちがい兄貴やきちがい親父も、知らないわけだ。よそのやつは、エイリさんのうちでおこったことなんて知らない。エイリさんの父親や兄がどういう人なのか、知らない。けど、きちがい的な意地でやっている本人が、きちがい的な意地でやっているということを知らないのである。知らない状態なのである。そんな異常なことが、ある、ということが、やはり、他人にはわからないから、俺がおいつめれることになるのである。きちがい兄貴のヘビメタで、ほんとうに、「できなくなっている」のに、他人が「そんなのはあまえだ」と言ってくる状態が生じてしまう。俺の人生なんて、そういうことの繰り返しだ。生まれたときからそうなんだよ。きちがい親父がそういう人間だからな。

*     *     *

ともかく、トイレでどかされそうになったときの「親父の態度」と、ヘビメタを鳴らしているときに、しずかにさせられそうになったときの「兄貴の態度」が、まったくおなじなんだよ。そして、それは、「うちで」そうなるわけ。そして、本人たちは、自分がそうなっているということに関しては、まったく知らないわけ。そういうきちがい構造が成り立っているわけ。だから、そういう、きちがい的な親兄弟がいない人には、まったく、わからない。俺がへんなことを言っているように思えるのである。ほかの人は、エイリさんがへんな人でかんなことを言っていると思うわけ。「そんなのは、お兄さんに、しずかにしてって、言えばいいでしょ(言えば、しずかにしてくれるよ)」と思うわけ。「そんな音で鳴らしているのに、親が注意をしないなんておかしい(だから、エイリさんが嘘を言っている)」と思うわけ。

けど、ごく自然に、「うちでは、そう」なんだよ。

2023年8月2日水曜日

わかってたら、そんなことはできない。

 ヘビメタ騒音に関する、「常識側」からの反応というのが、ひどすぎるんだよな。「そんなんじゃない」とどれだけ言っても、わかってくれない。そりゃ、きちがい兄貴がやることが、常識的ではないのだから、わかるわけがない。普通の人のうちには、きちがい兄貴がいない。だから、「そんなにながく」きちがい兄貴にやられることがない。経験がないから、わからない。だから、きちがい兄貴に関する話が、嘘のように思えてしまう。だから、きちがい兄貴が、無自覚で、きちがいである以上、きちがい的な意地でやるわけだけど、きちがい的な感覚によって、やってないことになっている。で、そういうこと自体が、「よその人」にはわからない。そして、きちがい兄貴もわかってない。わかってたら、そんなことはできない。


 


これ、こまるよ。

 きちがい兄貴は、夢中になって聴いていただけなんだろうけど、ずっとずっとずっと、こっちは、くるしかった。 きちがい兄貴は、夢中になって、エレキギターを弾いていただけなんだろうけど、ずっとずっとずっと、こっちは、くるしかった。

きちがい親父とおなじで、やり方がきちがい。きちがい親父とおなじで、やったつもりがない。こだわりつくして、絶対に、ゆずらないで、頑固にやるのに、まったくやってないつもりなんだよな。これ、こまるよ。

2023年8月1日火曜日

そういうふうに、こっちに『いやな思い』をさせるのである

 たとえばの話なんだけど、きちがい親父が「もつ煮込み」にこったときがあるんだよ。医者が、もつ煮込みを食べたほうがいいといったから、もつ煮込みを食べ始めたんだけど、ただがもつ煮込みでも、トラブルがしょうじる。おやじが買ってくるもつ煮込みというのは、もう、もつ煮込みになっているものなんだよ。もつ煮込みになっているものをパックしてあるものなんだよ。だから、あたためれば、そのまま、もつ煮込みとして食べられるものなんだよ。けど、親父は、もつ煮込みは、ずっと煮込むものだと信じている。だから、あたためれば食べられるということをどれだけ(こっちが)言っても、煮込むことに、こだわる。で、何時間も煮込もうとする。何時間も煮込むと、台所だけではなくて、一階の部屋全部が、ものすごく臭くなる。あとは、きちがい親父が、火をつけたまま、ガスレンジのあるところから、はなれてしまうのである。これも、どれだけ(こっちが)言っても、「だいじょうぶだ」と言ってきかない。そして、何回も、鍋をこがしている。もつ煮込みが、ほとんどスミになった状態というのが、これまた、猛烈に臭いのである。くさいのである。くさいのである。何回もやっているんだよな。ほんとうに、壁がくさくなるわけ。すべてが、くさくなる。においが染みついてとれない状態になる。言っておくけど、これは、「魚の粕漬を出しっぱなしにして、ネズミをえづする」まえの話だ。だいぶまえにもこういうことがあったわけ。で、ぼくが、消臭剤を部屋全体にかけて、においを(たしょう)消すわけだけど、次の日には、親父が、もつ煮込みを……すでに出来上がっているもつ煮込みを、何時間も、煮込んで、部屋中をくさくする。そういうことが続いて、数年たったあと、やっと、やめさせたんだけど……俺が、やめてほしかったことというのは、もつ煮込みを食べることではない。もう、すでにできているもつ煮込みは、あたためれば、そのまま、もつ煮込みとしておいしく食べられるということを理解して、あたためるだけにしてほしかったのである。けど、親父は、「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」と、逆上して怒鳴って、食べないようになったのである。もつ煮込みは、けっきょく、やめさせることができた。おやじにしても、「スミにしてしまうこと」だけは、失敗したと思うらしくて、「スミにしてしまう」ことだけは、さけようとしたのである。これ、鍋が、使い物にならなくなる。一回、もつ煮込みの液体部分をぜんぶ蒸発させて、固形部分をぜんぶスミにしてしまうと、鍋が、使い物にならなくなるのである。で、親父も、それだけは、「失敗した」と思っていたらしいんだよな。だから、親父も、「失敗した」と思う部分があったから、怒り狂って、爆発したあと、やめたわけ。けど、俺は、別に、親父にもつ煮込みを食べないほしいわけではないんだよ。普通のやり方であたためて、普通に食ってほしかっただけなんだよ。けど、そういうことが、まったくまったく通じない。これ、もつ煮込みのことではなくて、すべてのことに成り立っているんだよ。そういう頭の構造だから、そういうふうに反応するの……。おやじが、トイレを占領してしまうときがあるんだよ。で、おかあさんが、「ちょっとだけ、でてきてゆずってください」と言ったときがある。そうしたら、きちがい親父が、きちがい的な意地で、ゆずらない。絶対にゆずらないと、がんばりきる。おかあさんも、そのときは余裕がなかったから、何度も何度も言ったんだけど、何度も何度も言われると、よけいに、こだわってこだわって、でないようになる。トイレから出てこないようになる。で、けっきょく、何十分かして出てきたんだけど、「もう、家のトイレは使わないよ」ってどなりまくっているんだよね。「駅のトイレに行くからいい」と言ってきかない。「エキベンだ!!エキベンだ!!エキベンだ!!エキベンだ!!」と絶叫する。いつもいつも、この調子なんだよ。きちがい親父は、基本的に、「どかされる」のがいやなわけ。それは、よその家で、常に、虐待されて、どかされていたから、そうなっているわけ。おかあさんが言っていることは、ずっと、何十分もねばってないで、ちょっと、どけてくれ……トイレつを使わせてくれということなんだよ。おかあさんが使ったあと、また、入ればいいわけ。いくらなんでも、あれが、何十分も、何時間も出るわけではない。これ、その日は、ほんとうに、六〇分間ぐらい、こもっていた。おかあさんが言う前に、もう、六〇分ぐらいはたっていた。そのあと、もめて、でてこなかったわけだから、一時間、数十分、トイレにいだけだ。で、これも、おかあさんが言っていることは、「ちょっと、使わせて」ということなのだから、おかあさんに使わせてあげて、そのあと、自分が使いたいのであれば、使えばよかったのである。けど、そういうことが、つたわらない。相手が言っていることを理解しない、という、あほなところがある。それが、いつも同じパターンで理解しないのである。で、「こっちが言っていることはそんなことじゃない」ということを、どれだけ説明しても、理解しないのである。で、この親父の態度は、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度とおなじだ。そっくりおなじなのである。うりふたつなのである。構造が、おなじなのである。あにきも、そういうところがある。きちがい兄貴は、たとえば、「でかい音だ」ということを無視している。これも、どれだけ気づかせようとしてもむだなのである。ともかく、自分が思ったとおりの音で鳴らさなければ、気がすまない状態になっているのである。鳴らすときは、いつもそういう状態なのである。ほかの人に、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを言うと、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「言えば静かにしてくれるだろ」と言って返してくるのだけど、ちがうのである。よその人は、よその人で、うちの兄貴のことがわかってない。「でかい音だ」ということは、耳が正常なら絶対に、わかることなのである。けど、そういう基本的なところを、きちがい兄貴が否定する。しかも、ほんとうに、「普通の音だ」「特にでかくない音だ」と思っているのである。芝居でやっているわけではないのである。普通なら、「そういうでかい音で鳴っていると、こまる」ということは、特に言わなくても、経験的に知っていることなのである。きちがい兄貴だって、幼稚園の音は「うるさく」感じるのである。きちがい兄貴だって、工事の音はうるさく感じるのである。耳が正常なのである。もっとも、ヘビメタ難聴になって、耳が正常ではなくなるのだけど、そういう音で鳴らし続けていたということだ。ヘビメタ難聴になるほどでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしていると、ほんとうに思ってない状態なのである。こういうところが、(こっちにしてみれば)異常に腹がたつところなのである。これ、こういう、基本的なところを無視する人間と一緒に住んだことがない人にはわからないことだと思う。普通の人が、うるさい音で鳴らしているのとは、ちがうのである。これも、普通の人は理解しない。普通ではない家族と、いっしょに暮らしたことがない人には、わからない。こういう人間の無視のしかたは、異常だし、やれたほうにしてみれば、ものすごく腹がたつことなのである。普通の人は、「(そういう感覚)(そういう態度)がものすごく腹がたつことだということ」を認めないのである。そういう感覚の持ち主といっしょに暮らしたことがないので、そういう感覚手の持ち主に対して、どれだけのうらみがつみかさなるか、わかってない。そりゃそうだろ。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということは知っているけど、でかい音で鳴らしているということを認めない……というような普通の人の反応じゃないのである。きちがい兄貴は、気ちがいだから、ほんとうにでかい音で鳴らしてないと思っているのである。きちがい親父が「くさくないくさくない」と言っている時とおなじなのである。

話を親父にもどす。こっちが言っていることは、「もつ煮込みを食べるな」と言うことではないのである。こっちが言っていることは、『うちのトイレを使うな』と言うことではないのである。ところが、きちがい親父は、そういうふうに理解して、きちがい的に爆発するのである。これじゃ、まるで、ぼくが「もつ煮込みを食べるな」と言っているみたいじゃないか。これじゃ、まるで、おかあさんが「うちのトイレを使うな」「トイレを使うときは、駅のトイレを使え」と言っているみたいじゃないか。そういうふうに、こっちに『いやな思い』をさせるのである。こういうところは、じつは、老人ホームでも、ちょっとあった。まるで、こっちが、着るものを用意してあげてないみたいな感じになってしまうのである。着るものを買ってやると、「なんでそんなものを買った」「買うな買うな、買うな」と(弱った体で)精一杯の声を出して、どなるのである。よその人がいないところだとそういうふうになるの……。ほかの人が使っていた洋服をもらうと、ものすごく喜ぶのである。スタッフの人が、それじゃあということで、いらなくなった洋服を親父にくれたんだけど、親父はそういうのが好きなわけ。認知症になってからは、さらに複雑で、俺に対してよその人に対する態度が「でる」ときと、よその人に対して、うちの人に対する態度が出るときがあったのである。俺に対してよその人に対する態度が出るときは、「ありがとう。ありがとう」なんて言うんだよ。これは、八六年間ぐらい、ずっとなかった態度だ。入院していると、入院しているところが「うち」になって、ぼくが「よその人」になるときがあるんだねーー。けど、それは、死ぬ一年ぐらい前のことだから、うちにいるあいだは、もちろん、そういうことは、なかった。

 

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。