2022年10月31日月曜日

鳴っているときの不利感も、鳴り終わったあとの不利感も、尋常じゃないほどある

 起きた。

これじゃあ、おんなじだよね。おなじだ。おんなじだ。これじゃ、らちがあかない。どうするかな? このままいくしかないのか??

ヘビメタ騒音でくるしい。これは、ヘビメタ騒音の雰囲気だ。鳴っている感じがする。こういう世の中。ものすごく、不利な感じがするんだよ。それは、鳴っているときもそうなんだけど、鳴り終わったときも、そうなんだよ。これ、みんな、ほんとうに誤解している。鳴り終わったら関係がないと思っている。けど、まるでちがうんだよね。睡眠時間を圧迫する。鳴っているときの不利感も、鳴り終わったあとの不利感も、尋常じゃないほどある。人生「ばんばらばん」で、感情「ばんばらばん」なんだよ。常に、死にたいほど怒っている。常に、きちがい兄貴を〇したいほど怒っている。常に、緊張緊張。常に、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、爆発的に、緊張している状態なんだよ。発狂して、気ちがい兄貴をめった刺しにして、〇して、しずかにさせたい気持ちがあるのだけど、それをがまんして、座っている状態なんだよ。勉強しようとして座っている状態なんだよ。それがずっと、鳴っている間続く。鳴り終わったときには、もう、つかれはてている。ぜんぜんちがうんだよ。無傷なまま、つかれないまま、鳴り終わるのをまてばいいということにはならない。そういうことにはならない。これ、実際に、きちがい兄貴の態度で、自分がこの世で一番苦手な音を、あの音のでかさで、常に常に、鳴らされている状態というのを、経験しないと……自分のからだで経験しないと、それがどれだけこたえることか……わからない。鳴り終わったあと、どれだけ、つかれているか、わからない。わかってない。「鳴り終わったら関係がない」と言うやつも、ぶっ〇してやりたいほどむかつく。そのセリフを聞いたとき、ほんとうに、なぐり〇してやりたい気持ちになる。不利感がちがう。つもりつもった、絶対的な不利感がちがう。こいつ、わかってないだけなのに、わかったようなことをいいやがって」となぐりたくなる。ぼこぼこになぐりたくなる。それも、がまんだ。そして、うちに帰れば、ヘビメタが鳴っていたのである。休みの日は、朝からヘビメタが鳴っていたのである。だから、不利感がどうしようもないほど、つもる。「ヘビメタが鳴ってたって、ちゃんとやらなきゃだめだよ」と言ったやつも、ぶっ〇してやりたい。ぶっ〇してやりたい。そういう怒りがわいてくる。どうしようもなく、わいてくる。そりゃ、そうだろ。人間として生きていて……この不公平な社会に生きていて……この不利な状態を経験したことがないやつが、わかったようなことを言う。言えるのは、そいつが、経験してないからだ。自分がこの世で、一番嫌いな音が、がんがんでかい音で長時間鳴っているということが、どういうことなのか、体験を通してわかってないだけだ。これ、きちがい家族による騒音に限るからな。意味がちがうんだよ。これ、家族と、他人だと意味がちがうんだよ。そして、家族のほうが、物理的な距離が近い。家族の鳴らしている音のほうが、音源が、実際に近いのである。音源の近さは、ものすごい影響をあたえる。人間が感知する音のでかさというのは、じつは、言うほど簡単じゃないのである。「でかい音」というのが、ほんとうに、いろいろとちがうのである。これも、わかってない。この世で一番嫌いな音が、壁のうしろでがんがん鳴っていていいわけがない。これは、工事の音とか、幼稚園の音とか、電車の音とかとは、ちがうのである。きちがい家族による、騒音。そして、これは、きちがい家族でなければ鳴らさない音なのである絶対に、普通の家族だったら、一分間でも鳴らしたら、「やばいな」と思う音なのである。そして、鳴らしたとき、ほかの家族が「うるさいからやめろ」と言った場合、「うるさい音で鳴らした」ということが、わかるのである。きちがいだから「うるさい音で鳴らした」と言うことが、永遠にわからない。どれだけ強く言ってもわからない。自分が鳴らしたい音なら、どれだけうるさい音で鳴らしたって、うるさい音で鳴らしているとは思わないのであるどうしてかと言うと、そういう、でかい音で鳴らしたいからだ。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということを認めない。それが、無意識的なレベルで起こってしまうのである。「感覚器」を書き換えてしまうのである。だから、本人はほんとうに、でかい音で鳴らしているつもりがないのである。なら、聴覚が異常なのかと言うと、異常じゃないのである。もっとも、自分のヘビメタ騒音で、聴力がさがったわけだけど、最初は、聴力が普通だった。そして、自分のヘビメタのでかさで、聴力がさがったのである。で、聴力が普通のときと、聴力がさがったときと、態度がまったかわらないのだから、やはり、無意識的な「感覚器」の書き換えがあったと判断するべきなのである。

 

このきちがい的な家族にやられた人間が、ほかの人からわかったようなことを言われなきゃならなくなるというのは、納得がいかない。これ、みんな、ルール違反をやっているほうはせめないのである。ルール違反をやられて、結果的に、できなくなって、こまっているほうをせめる。「ちゃんとやらなきゃだめじゃないか」とせめる。「そんなのは関係がない」と言う。これ、どれだけ地獄かわかってんの?

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きちがい家族にやられたことがない人はわからない。わかってない。

そんなことじゃない、と言っているだろ。こういう人たちが、持ち出す「俺だって、つらい思いをした」「俺だって困難があった」という話が、全部ちがうのである。どこが違うかと言うと、その問題の家族が、きちがいかどうかがちがうのである。ほんとうのきちがいは、ぶっとんでいる。そういう常識が通じないからこまっているんだろ。これ、ほんとうに、きちがい親父と、きちがいでなはい普通の親父は、ちがうんだよ。なんでそれがわからないのか。きちがい親父とのトラブルときちがいではない普通の親父とのトラブルは、ちがうんだよ。「不愉快な思いをした」と言ってもちがうんだよ。

きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがうんだよ。質がちがうんだよ。「もっている意味」がちがうんだよ。

みんなわかってない。すくなくても、「鳴ってたってちゃんとしなきゃだめだろ」と言うようなことを言うやつにはわかってない。わかってないから、言える。これ、どれだけの侮辱か、わかってないだろ。侮辱なんだよ!! さきに侮辱しているのは、そっちなの!!

いま言ったようなことを「鳴ってたってちゃんとしなきゃだめだろ」と言ったやつに言えば、言ったやつは、一〇〇%、怒るんだよ。これ、「困難の困難がちがう」とか「きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがうんだよ」とかと言って、怒らなかったやつがいない。これは、「騒音のなかで、どれだけ、楽しいと言っても楽しくならなかった」「騒音のなかで、どれだけ、だいじょうぶだだいじょうぶだと言っても、だいじょうぶじゃなかった」というようなことを言われた、言霊主義者の態度とおなじなのである。みんな、腹をたてる。言霊主義者は、腹をたてたとたんに、「エイリさんと話すと楽しい」と言えば、「楽しく感じる」はずだから、問題はない。けど、それは、なんて言うのかな? ただが自分の意見を否定されただけの話なんだぞ。おまえ、そんなの、ヘビメタ騒音の〇・一秒にも相当しない。そんなことで腹をたてるなら、きちがいヘビメタのことで絶対に腹をたてる。小さなことなんだぞ。自分の意見が否定されたなんてことより、ヘビメタ騒音が鳴っているということのほうが、一〇〇京倍も、影響をあたえることなんだぞ。きちがい兄貴は、「うるさい音だ」という意見を無視して鳴らしている。鳴らしていれば、うるさい。実際に、こたえる。俺が、言霊主義者の意見を否定したとき、俺は、うるさくしてない。どかどか、ものすごい、騒音を鳴らしているわけではない。音の振動を与えているわけではない。どかっすっかどかすっか、ほんとうに、ひどい状態なんだぞ。それが影響をあたえないというのであれば、俺が、意見を否定したとしても、影響なんてないよ。そんなことで怒る必要はないから、怒らなければいいよ。「きちがい兄貴とのトラブルは、きちがいではない兄貴とのトラブルとはちがう」と言うとき、俺は、意見を言っているだけなのだから……実際にきちがいヘビメタを鳴らして、迷惑をかけているわけではないのだから、気にしなければいい。「そんなちょっとのことで、腹をたてるのが異常だ」。

迷惑度の度合い、影響の度合いが、まるでわかってないんだよな。この人たち……。こういうやつらが、わかったようなことを言う。きちがいヘビメタ騒音の積み重ねで、そういうことを言われる立場に追い込まれる。きちがいヘビメタが、……きちがい兄貴のきちがいヘビメタが鳴ってなかったら、俺はそんなことを言われる立場に追い込まれてない。そいつらよりも、社会的な地位の高い職業について暮らしている。ふざけんな。こいつらは、自分よりも社会的な地位の高い職業についている人に対してこんなことは言わない。そいつらのなかにある上下関係の妄想が、そういう行動に影響をあたえている。

そして、こういうとを言うのが、一般的にはみっともないことなのである。それは、悪魔が支配している社会だからだ。きちがい兄貴というブラックホールが、ほかの人にはわからない。きちがい兄貴というハンディがほかの人にはわからない。どれだけ不利なことになるかわかってない。きちがい親父というハンディがほかの人にはわからない。どれだけ不利なことになるかわかってない。
 

2022年10月30日日曜日

生活体力をもっていかれた

ほんとーーに、つかれた。ほんとうに、きちがい兄貴ときちがい親父に、体力をもっていかれた。生活体力をもっていかれた。憂鬱なんだよね。動きたくない。なにかをするとなると憂鬱。 

きちがい兄貴やきちがい親父と暮らしたことがない人には、わからない。実際に、人生のなかで、きちがい兄貴やきちがい親父と暮らした時間が、何時間あるかで、憂鬱かどうかがちがう。これは、今現在、いっしょに暮らしてなくても、過去において、いっしょに暮らしていた時期があるということが影響をあたえる。いまの、憂鬱度に影響をあたえる。みんな、「憂鬱な感じがする」ということについて、勘違いをしている。疲労とおなじように、憂鬱な体験がつみかさなれば、それは、やはり「今現在の憂鬱度」に影響をあたえる。関係がないわけじゃないのである。この世の感覚……に影響をあたえる。今現在の時間感覚に影響をあたえる。きちがい兄貴はきちがいヘビメタ騒音で、きちがい親父はきちがい行為で、それぞれ影響をあたえた。そして、きちがい親父のきちがい行為が、ネズミ事件・ネズミの糞事件・ダニ事件を引き起こしたので、それも影響をあたえる。ネズミの糞は、まだ、下の部屋と兄貴の部屋に散らかっている状態だ。そして、ダニが発生する。

だれもが、きちがいヘビメタをあれだけ、横の部屋で鳴らされたら、働けないからだになるのに、ぼく以外のだれも、それを経験してないから、そうなるということがわかってない。彼らのなかでは、「ヘビメタが鳴ってたって働ける」ということになっているのである。あるいは、「自分なら、ヘビメタを鳴らさせないようにできた」ということになっているのである。「かりに、ヘビメタを鳴らされたにしろ、過去のことなら関係がない」ということになっているのである。いずれも、まちがっている。


2022年10月29日土曜日

抵抗力

 どうするかな? もう、ワクチンのことは書きたくないんだけどなぁ。ここには、書きたくないという話。あとで、編集するときに邪魔になるから。

基本的に理解しなければならないのは、ワクチンを打ったから、免疫システムが弱っているということだ。最終的には、免疫システムが破壊される。これは、時間の問題。ロッドによって、免疫システムを破壊するまでの時間がちがうのである。だから、打ってもなんともない人はいる。また、プラシーボの場合は、ほかのものはいろいろとはいっているけど、m-RNAは入ってないかもしれないので、その場合は、免疫システムを破壊しない。しかし、プラシーボの場合も、ほかのものはいろいろとはいっているので、完全に安全とは言えない。

で、ワクチンを打つと、風邪にかかりやすくなのである。風だけではなくて、さまざまな病原体によって引き起こされる病気になりやすくなる。けど、新型コロナだけには感染しないのである。どうしてかというと、人間の体の中には新型コロナウィルスが物理的に存在しないので、新型コロナウィルス感染症患者になろうと思っても、新型コロナウィルス感染症患者になれないからだ。

 ともかく、ワクチンを打ったから、風邪をひきやすくなっているんだよ。

PCR検査をうけてしまうから、陽性にされてしまう。そして、陽性だということを、感染したと思い込んでしまう。だから、新型コロナウィルス感染症患者ができあがってしまう。

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新型コロナウィルスが物理的に存在するかどうかについては、話が長くなる。これは、もう、ここではない場所にさんざん書いたので、省略する。

ともかく、新型コロナ用ワクチンを打てば打つほど、病気にかかりやすくなるので、やめておいたほうがいい。風邪症候群を引き起こす病原体はなんたくさんある。なので、免疫力が落ちると、物理的に存在する、風邪症候群を引き起こす病原体に「やられ」やすくなる。ワクチンを打つと抵抗力がじょじょになくなっていくのだ。だから、なるべくはやく解毒したほうがいい。

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ワクチンを打つと、あらゆる病気にかかりやすくなるので、注意!

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風邪症候群を引き起こす病原体はたくさんあります。それらの病原体でも、重症化したり、後遺症残すことはあります。通常の状態でもそうです。ワクチンを打ったからだは、そういう病原体に軽くやられてしまいます。重症化したり後遺症を残すことがあります。

 基本、新型コロナウィルスは患者の体内に存在しないので、「ただの風邪」を引き起こす病原体どころか、風邪の病原体にはなりえません。新型コロナウィルスは「ただの風邪」も引き起こすことはできません。

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新型コロナにかかったとき、くるしかったから、ただの風邪じゃないと言っている人がいるけど、まず、新型コロナにかかったわけではないということを理解する必要があります。

2022年10月28日金曜日

同等のつらさを経験した俺が働いているのだから、エイリも働ける。

 そりゃ、「俺だってつらいことがあった」で、やめるなら「つらいことがあったんだな」と思うけど、「俺だってつらいことがあった」と言う人は、みんな、そろいもそろって「だけど働いている」というようなことを言うのである。あるいは「自分が働いていることを前提として」そういうことを言うのである。「つらいことがあった」……それは、「あなた(エイリ)のヘビメタ騒音のつらさとおなじだ」……けど、「俺は」がんばっている……ということを言うわけだ。それは、ただ単に「俺は、つらいことがあったけどかんばっている」ということではないんだよ。「同等のつらさを経験した俺が働いているのだから、エイリも働ける。エイリも働くべきだ」ということを言っているわけ。

けど、同等のつらさじゃない。 ちがう。大いにちがう。けど、俺(エイリ)がどれだけ「ちがう」言っても、相手には伝わらない。相手は「同等のつらさを経験した」と思っている。同等のつらさを経験したのにもかかわらず、がんばって働いている俺、すげーー」という感情がある。そういうふうに見なしている。逆に言えば、「同等のつらさしか経験してないのに、働けなくなっているエイリは弱い」とか「同等のつらさしか経験してないのに、働かないエイリはずるい」という感情がある。みなし方がある。

けど、ちがう。同等じゃない。ほんとうに、同等じゃないのである。その困難、つらさを経験させた相手は、家族なのかというと、家族ではないのだ。その困難、つらさがどのくらい、長引いたのかという期間の長さをくらべると、同等ではないのだ。だいたい、きちがい的な相手に鳴らされ続けているときの状態というのがちがう。その相手の困難、つらさが騒音である場合、ぼくの騒音より、物理的な音のレベルが小さいと思う。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃない。おなじじゃないのに、勝手に、「おなじだ」とみなして、えらそうなことを言ってくるな。ぼくは、こういっちゃなんだけど、騒音耐性も、根性も、ほかの人よりは、ある。平均よりもある。普通の多くの人よりもある。けど、それを、覆すほどのきちがい騒音だったんだよ。だいたい、きちがい兄貴のような家族をもつ人が、どれだけいるのか? きちがい親父のような家族をもつ人がどれだけいるのか?

「そんなのはおかしい」と言ったり、思ったりする人たちは、みんな、みんな、みんな、ぼくの家族とはちがった種類の家族をもっている人たちなんだよ。ようするに、家族のなかにきちがい親父やきちがい兄貴のような人がいない。だから、ぼくの話を聞いたとき「そんなのはおかしい」と思うんだよ。「そんなのはおかしい」「そんなひとはいない」「そんなことってあるのかな」と思う人は、そう思って、ぼくの話を信じないというところがある。これも、やっかいなんだよな。そして、ぼくが実際に無職だったり引きこもりだったりすると、「無職だから嘘をついている」「引きこもりだから、嘘をついている」と思うのだ。ようするに、無職や引きこもりは、信頼できる人間ではないのである。その信頼できない人間が、「へんなことを言っているのだから」「嘘にちがいがあるまい」と思うのである。頭がわるいのか、偏見に見ているからそう考えるのかわからないけど、そう考えてしまう。

きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度について、語ると、そういうことが発生する……場合がある。きちがい兄貴の態度やきちがい親父の態度が「普通の人にとって」異常なので、信じないのである。「それは、なんかちがう理由があるのではないか」と考えてまうのである。きちがい親父における「ハンダゴテの話」だって、信じない人は信じない。兄貴が親父の態度について正確に説明したとき、学校の先生やほかの生徒は信じなかった。「説明がへたくそだから親父さんがわからなかっただけだろ」とゆがんだ会社をしてしまったのである。けど、これは、ゆがんだ解釈だ。きちがい兄貴は、親父の態度のことで、そういうふうにいやな思いをしているのに、自分が相手にやる場合は、親父の態度とおなじ態度でやってしまうのである。自分が親父の態度で、いやな思いをしたから、ほかの人にはそういう態度をとらないようにしよう……なんて考えないのだ。考えるわけがない。自分が「やられれれば」腹がたつけど、自分がやっているときは、「そういうことをしている」とは思わないのだ。これは、指摘されないから、わからないということではなくて、明確に指摘されても、まったくわからないままのことだ。きちがい兄貴における「ヘビメタ騒音」はまさしく、きちがい親父における「ハンダゴテ」なのである。どれだけ意地になっているか? どれだけ、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているか? そして、普通の人が理解できないような感覚に基づいて行動をしているということを、どれだけ、認めないか。全部、ほんとうにおなじなのである。きちがい親父の態度ときちがい兄貴の態度はおなじなの。けど、普通の人には、『きちがい親父の態度もきちがい兄貴の態度も』わからない。自分の人生のなかでそういう人に出会ったことがないので、わからないのだ。そうなると、そういう人とのトラブルも「よそよそしいこと」になる。どこかちがう世界の話のように聞こえるのである。それが、「へんなかんじがする」「そんなのはおかしい」という判断になる。なので、きちがい的な意地でやった人のことは、無視してしまう。話のなかに出てくるへんな人のことは無視してしまう。軽く考えてしまう。その人がやったことを……話のなかに出てくるへんな人がやったことを軽く考えてしまう。そうなると、「たとえ、そうだとしても、いつまでも影響をうける必要がない」とか「過去のことは関係がない」という考えが頭に浮かんでしまう。そして、それを前提に、目の前のぼくに、説教をしはじめるるのである。頭にくる。

ぜんぜんちがうのに、「つらさはおなじ」「困難の度合いはおなじ」と思って、勝手に、へんなことを言ってくることになる。それは、へんなことだ。まちがったことだ。なぐりたくなることだ。

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それだと現実が説明できないの!

 ヘビメタ騒音の影響がどれだけでかいか、想像することができない、想像力がない人から、俺が、……この俺が……ばかにされるんだぞ。説教、されるんだぞ。こういうことになってしまうから、「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」「静かにしてくれ!!」ときちがい秋にの部屋に行って、絶叫したのに、きちがい兄貴は、ほんとうに、まったくわかってないなぁ。きちがい的なやり方で「のりきって」やってしまうのである。けど、「のりきってやった」ということを、これまた、きちがい的なやり方で「認識しない」のである。初めから認識してないのだから、「忘れた」わけじゃないんだよ。一度、認識したことを、忘れたわけじゃない。けど、認識したのかどうかなんて、外から見てわかるわけじゃないのだから、おなじ意味を持ってしまうのである。「認識して忘れたということ」と「最初から認識してないということ」は、おなじ意味を持ってしまうのである。そうなると、ほかの人は、忘れただけなのではないかと思ってしまうのである。そうなると、きちがい兄貴はきちがい兄貴ではなくて、忘れやすい人だということになってしまうのである。忘れたのであれば、よくある話になってしまう。けど、ちがう。それから、きちがい兄貴自体が認識してないのだから、きちがい兄貴のなかでは「そんなことはやってない」ということに、なっているのである。だから、こっちから見ると、きちがい兄貴の態度は、すっとぼけて腹がたつことなのだけど、きちがい兄貴のほうは、そんなことは、もちろん、一切合切気にしてない。「そとから見てわかるわけじゃない」のだから、エイリが、想像して話していることだということになるのだけど、それは、そうだ。現実の態度やきちがい兄貴の発言をもっとも、うまく説明できるのが、そういう仮説なんだよ。そりゃ、きちがい兄貴の頭のなかのことなんてわかるわけがない。けど、もし、「一度は認識した」と考えると、おかしなことがあるんだよ。それだと現実が説明できないの! きちがい兄貴の発言は、そう考えないと説明ができないことなんだよ。

こういう感覚器を書き換える「うそ」は普通の人では、つけない「うそ」なんだよ。きちがい兄貴ときちがい親父は、感覚器を書き換えてしまうタイプなのだけど、それは、認知症の人を相手にしているのよりも、はるかに、骨が折れることなんだよ。で、ほかの人は、これがわかってない。どれだけ、そういう態度……で……腹がたつかわかってない。これは、腹がたつ態度なんだよ。「そういう態度」というのは、きちがい兄貴やきちがい親父が、きちがい的な意地で、自分のやりたいことを押し通してしまうときの態度だ。そして、それを認めないときの態度だ。普通の家に生まれた人でも、親が認知症になった場合、あるいは、家族の誰かが認知症になった場合、認知症である人との間の「もめごと」は、健常者同士のもめごととはちがうということがわかるだろう。けど、感覚器を書き換えてしまうタイプの人は、認知症の人よりも、レアなんだよ。そして、こういっちゃ悪いけど、認知症の人なんかよりずっと悪質なことをするわけ。だから、腹がたつわけ。しくみがあるの!!! しくみがあるの!!

それを、まるで、俺の問題のように言いやがって。「気にするやつが悪い」「他人をかえることはできないから自分を変えるしかない」「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というようこと言うような人たちがいる。この人たちたちが、どれだけ、ひどいことを言っているかの、この人たちはわからない。けど、それは、きちがい兄貴やきちがい親父にある感覚器の言い換えとは関係がないんだよ。けど、「ひどいことを言っている」ということについて説明すると、そういう人たちも、「俺が、そんなきちがい親父や兄貴とおなじだというのか?」と言って、腹をたててしまう場合がある。こういうこと、ひとつをとっても、きちがい兄貴とのあいだにあったこと、きちがい親父とのあいだにあったことというのは、ぼくの人間づきあいに影響をあたえる。「きちがい親父とのあいだにあったこと」というのは「ぼくときちがい親父とのあいだにあったこと」という意味だ。おなじように、「きちがい兄貴とのあいだにあったこと」というのは、「ぼくたきちがい兄貴のとのあいだにあったこと」だ。この、「あいだにあったこと」というのは、実際にしょうじたことだ。実際の出来事だ。ぼくが、頭の中で考えているだけのことではないのだ。みんな、これも無視してしまうけど、実際に発生したことが、人間関係に影響をあたえるんだよ。ちょっとだけ、言っておくと、「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」ということは、実際にあったことではなくて、その人が頭の中で想像して考えていることなんだよ。「たましいが、そのうちを選んだ(うまれるまえに、たましいが、その親を選んだ)」というのは、想像して考えていることなんだよ。そういう想像をして考えたことを、あたかも、現実的な前提のようにして言うのは、よくないよ。そりゃ、信じているのは勝手だけど、ひとのことについて、そういう前提でものを考えて言うのはよくないよ。失礼だよ。そして、これも、ちょっとだけ言ってしまうけど、認知療法家のきれいごとも、じつは、「むりなこと」を含んでいる。きれいごとにあわせて、実際の現象を認知すればよいということになるのだけど、そうはならないのである。どうしてかというと、そのきれいごとでは、説明ができない出来事が、実際に、たーーくさん、たーーくさん、おこったからだ。現実が説明できないきれいごとを認知の方法として採用する気がするか? ……認知療法家が推奨するような「現実の認識」というのは、まったくもって現実的じゃないのである。認知療法の場合、患者の認知がゆがんでいて、自分たちの認知はゆがんでない……ということが前提に成り立っている。患者の「現実認知」がゆがんでいるからだめなんだということになっているのである。けど、ほんとうにそうなのかということには、ずっとまえから疑問を感じている。

2022年10月27日木曜日

そういう暮らしをしていれば「楽しく感じない」のである

  この気持ち、なんだよ。だれも、わかってくれないなぁ。あたりまえだが……。わかるわけがない。わかるわけがない。もう、こんなことを続けていてもしたがない。全部、が、くもって、しまった。くもってしまった。どれだけ、やる気を出そうとしても、「あのときの気分」とおなじ気分になる。切羽詰まっている気分になる。あの不安な気持ちはない。きちがいヘビメタ騒音にたたられたときの、不安な気持ちはない。腹立たしい気持ちはない。たとえば、きちがいヘビメタが鳴っていないとき……ぼくが自転車をこいでいるとき……ぼくの気持ちは、ぐたぐたなのである。どれだけ、元気づけようと思っても、元気づけることができない気持ちなのである。それは、体験があるからそうなる。前の日、ヘビメタにやられていたからそうなる。三〇〇〇日前、ヘビメタにやられていたからそうなる。経験がない人に、どれだけ言ったってわからない。きちがいが家にいるということが、そもそも、わからない。きちがい家族が家にいない人には、きちがいが家にいるということ自体がわからない。これ、ほんとうに、卑怯なんだ。卑怯なんだけど、ごり押しでやる。もちろん卑怯なので、「やった」ということすら、認めない。そういう認知構造が成り立っている。普通の人なら……やったことをやってないと言って、嘘をついているとき、嘘をついしているという認識がある。ところが、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定しているとき、嘘をついているという認識がない。こういうところが、こまるんだよ。そのこまり方は、健常者を相手にしているときのこまり方ではないんだよ!!

ほんとう、ほかのやつら、まったくわかってない。

ともかく、つかれた。で、実際にそういう家族がいないので、そういう家族が、きちがい的な構造で、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らし続けるということが、発生しないのである。普通の家族と一緒に暮らしている人にはそういうことが発生しない。普通の家族と一緒に暮らしている人の場合は、どれだけ騒音のことで喧嘩をしたと言っても、三日ぐらいで、うるさくしているほうがおれて、きちがい的な意地で鳴らさないようにするということになる。きちがい的にでかい音なのだからそうなる。常識的な家ならそうなる。普通の家ならそうなる。両親が普通の人なら、きちがい長男がどれだけがんばってもそうなる。けど、うちはちがう。きちがい親父がつくった家だ。きちがい親父がやっていることだ。きちがい親父がずっとやってきたことなのである。きちがい兄貴が「ヘビメタ騒音でやったこと」というのは、きちがい親父が、ずっとずっとずっと、何十年間もやってきたことなのである。そういうタイプの反応をして、そういう行動ずっとずっとずっとしてきたのである。……きちがい親父が。親であるきちがい親父が……やってきたことなんだよ。 そういうところがちがうのだけど、「騒音」ということになると、「騒音」ということが問題になって、そういう『きちがい的な父親』の話は、はるか後方に退くことになる。しかも、これ、言っても、わからないのである。だから、無視する。そういう父親だということを無視する。そういう兄だということを無視する。そして、けっきょくやられたほうが、がまんして、社会のルールに従わなければならないということになるのである。ところが、ヘビメタ騒音で、どうしても、社会のルールにしたがうことができない状態になっているのである。けど、普通の人は、経験したことがないので、「できない状態になっている」ということがわからない。ずっと追いつめられる。きちがい兄貴の騒音にやられながら、社会のルールにあわせようとして、ものすごく切羽詰まった状態で暮らすことになる。その状態で暮らして、「楽しい気分を維持する」ということは、できないことなのである。「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、そういう暮らしをしていれば「楽しく感じない」のである。けど、世の中には言霊主義者がたくさんいて、「楽しい楽しいと言えば、楽しく感じる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」「これは、宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言って、聞かないのである。言霊主義者にとっては、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」のに、楽しい楽しいと言って楽しくなろうとしない人なのだということになるのである。楽しくなるような努力をしないからダメなんだということになってしまうのである。言霊主義者にとってエイリはそういう存在になってしまうのである。そして、きちがいヘビメタにやられたために、社会的な地位がひくぃのでぁ。自分よりも社会的な地位がひくければ、自分よりも下の人間なのである。自分より下の人間が言うことは、「絶対になにがなんだろうが正しいと認めない」という、判断感覚と言うべきものをもっている人たちがいる。で、言霊主義者のなかにはそういう人が多いのである。たぶん、かさなるところがある。相手と自分の力関係を考えて、相手に対する態度を決めるということは、ごく普通のことなのである。ほぼ一〇〇%の日本人が、普通にやっていることなのである。だから、日本人のなかに言霊主義者がいたとすると、その言霊主義者は「相手と自分の力関係を考えて、相手に対する態度を決める」人である場合が多い。きちがいヘビメタにやらなければ、ぼくの社会的な地位は高いので、そういうことでいやな思いをする必要もなかった。立場が上である人間に「説教ができるか」という問題だかある。説教をしはじめるやつというのは、立場が下の人間に「説教をしやすい」のである。そういう傾向がある。きちがいヘビメタが毎日続いて、通勤通学ができなくなると、かなりの高確率で、無職にならざるをえないのであった。すくなくても当時はそうだ。そうなると、よその言霊主義者に説教をくらいやすくなる、のである。その言霊主義者だって、きちがいヘビメタをあれだけでかい音であれだけ長い期間、ずっとやられれば……鳴らされ続ければ、通勤通学できないからだになるのに、そいつには、きちがい兄貴がいないのでそういうことにはならないのである。ならなかったら、そいつにとっては、きちがいヘビメタ騒音にたたられる毎日にというのは、「想像のなかにあるもの」でしかない。どういうことになるか、ほんとうにはわからない。「楽しい楽しい」とどれだけ言っても、楽しく感じないからだになるのに、そいつは、そういう経験がないので、わからないのである。だから、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる。これは、宇宙をつらりく絶対法則だ」と言って聞かない状態になる。だから、そうなると、「みぞ」ができるのである。これは、言霊主義者との間にだけ、できる溝ではない。「人間働くべきだ」と考えている人との間にも「みぞ」ができるのである。ほとんどの日本人を敵にまわしてしまうのである。自動的に……。そういうことがわかっていたから「しずかにしてくれしずかにしてくれ」ときちがい兄貴の部屋に行って、きちがい兄貴に聞こえるように絶叫して絶叫して絶叫していたのけど、きちがいが、きちがい的な意地を、押し通して、鳴らしてしまうのである。

 

2022年10月26日水曜日

「すぐ隣に幼稚園があるけど、幼稚園の騒音とはちがう」

 この世で一番嫌いな音が、一日中鳴っているということが、ほかの人にはわからないのである。わからない。そういう一日が、どういう一日なのかわかってない。わかってない。これ、ほんとうに、常にからだを締め付けられているような状態なのである。圧迫されているような状態なのである。からだをぐりぐりにねじられているような状態なのである。腸がぐりぐりにねじられているような状態なのである。頭をたたかれ続けているような状態なのである。あの、切迫した、気持ちがわかるか。あの切迫した状態がわかるか? からだが、くるしい。ただ単に、「うっさいなぁ」と感じるような音じゃないのである。だから、ぼくは「すぐ隣に幼稚園があるけど、幼稚園の騒音とはちがう」と言っているのに、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音を聞いたことがないやつはわかってないなぁ。きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音なんだよ。そして、相手は、きちがい的な意地でやるけど、やっているつもりがまったくない状態なんだよ。この状態が、成り立っているということは、腹がたつことだ。こんな汚いことをやっているやつが、壁のうしろにいる。自分の部屋の壁のうしろにいる。すぐ後ろにいる。壁がなかったら、すぐそこで鳴らしている状態が見えるんだぞ。そういう距離で鳴らしているんだぞ。ぜんぜん、ちがう。そういう距離で、あの音が鳴っていていいわけがないだろ。これ、佐藤のようなやつは、普通の騒音だと思っている。普通の!騒音だと思っている。「そんなんじゃない」ってどれだけ言っても、わからないんだよな。きちがい家族による、至近距離の、しつこいしつこい、騒音を聞いたことがないやつは、だめだ。経験がないと、ほんとうにわからないのである。きちがい兄貴の態度に関して言えば、きちがい兄貴のような家族が、家族のなかにいない場合は、きちがい兄貴の態度とぼくが言っても、わからないんだよね。どれだけ、不愉快か、わからない。どれだけ腹がたつかわからない。そりゃ、耳が正常なら、絶対にわかることを、わからないまま、やってのける態度は、むかつくだろ。むかつくんだよ。そういうやつが鳴らしている騒音はむかつくだろ。むかつくんだよ。もう、切羽詰まった状態で、教科書を開いて、机の前に座っているという状態が、どれだけ、ひどい状態かまるでわかってない。あの音を聞かされてないかわからならない。あの態度で鳴らしているやつを知らないから、わからない。そんなのが、毎時間、毎時間続いていいわけがないだろ。

絶対の意地で無視して鳴らしているのに、鳴らしているつもりがないなんておかしいだろ。けど、いつもそうなんだよ。毎時間、毎分、毎秒そうなんだよ。どれだけきちがい兄貴に言っても、かわらないんだよ。この態度は、きちがい親父の態度とおなじだ。「うち」にふたりも、こういう人間がいるということがわからない。普通の人にはわからない。普通は、ひとりだっていない。

相手が「やめてくれ、やめてくれ」と絶叫していることを、やっているのに、「やった」ということを認めないのだ。こんなのは、ない。相手が、自分の横で、「やめてくれ、やめてくれ」と絶叫していることを、きちがい的な意地でやっているのに、やったというつもりがないまま暮らしている。こんなのはない。これ、きちがい的な意地でやったことを、きちがい的な意地で否定するんだよ。で、きちがい的なことをやっているときの態度と、きちがい的な意地で否定するときの態度がおなじなんだよ。これ、ただ単に「態度」と書くと、まるでなにもつたわらないかもしれない。これ、意地がかかっているのである。とりつかれているような態度なのである。だから、とりつかれているような態度で、強引にやったことを、認めないんだよ。とりつかれているような態度で強引に認めない。強引に認めないというのは、ちょっと日本語としておかしい感じもするけど、ほんとうに、そういう態度なの!!

こういう人間が家族のなかにいない人の場合、ぼくがなにを言っているのか、わからない。こういう人間が、うちのなかで、実際にやったことが、こういう人間が、家族のなかにいない人には、まったくわからない。 

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「強引に」のあとにはなにか動きがある動作がつづくのが一般的だ。認めるだと、動きがないのでちょっとおかしく感じるのである。グーグルで調べたら六件しかヒットしないので、言い方としては、おかしいのだろうなぁと思う。「強引に認めさせる」だと、動きがあるのでへんな感じがしない。「認めない」のは、状態であって、動作じゃないんだよな。普通の感覚だと。行動主義心理学だと認めないのも、「行動」だ。


 

2022年10月25日火曜日

だまされてつらい思いをする人がひとりでも減るようにするために

 

だまされてつらい思いをする人がひとりでも減るようにするために、二項目うんぬんとか生まれの格差うんぬんということを書いている。すでに、カネをもっている人が書いた、カネを儲ける方法というのが、ほんとうにはカネを儲ける方法ではないということが、「しあわせになる方法」にも成り立っているんだよね。

生まれの格差を無視して、それぞれの条件を無視している。あったってないことになっている。そういう前提で、二項目的な文にまとめられることを書くのは、じつは、悪魔的な行為だ。

これ、役に立たない情報商材とおなじなのである。

これ、善意で行われているのだけど、悪魔の構造を維持している。悪魔の構造を維持することに寄与している。

生まれの格差「上」の人が、意図的に、生まれの格差「下」の人をだましているとは、言わない。意図的ではないのだ。

すくなくても、本人は、善意でやっている。これが問題なんだよな。いや、これも、問題なんだよな。一番の問題は、すでにしあわせな人が提唱している「〇〇をすればしあわせになる」という方法が「うその情報」だということだ。カス情報と言ってもいい。

 情報商材に書いてある、「おカネを儲ける方法」とおなじように、役に立たない情報なのだ。で、そういうふうになってしまうのには、理由がある。けど、書いている人も、読んでいる人も、その理由には目もむけない。

こういう、不幸な構造がある。

じつは、読んでいるほうも、『条件』を無視したいのだ。ほんとうは、自分の生活を縛り付けている『条件』を無視したい。

条件を無視して、「一時的に」しあわせになりたいのだ。

これは、自己啓発セミナーとおなじ問題を含んでいる。条件を無視しているから、一時的に「しあわせになれるような感じ」がしているだけだ。自己啓発セミナー会場から帰ってくるときは、なんでもできるような気分になっているけど、次の日は、満員電車で通勤している自分というものについて、考えたほうがいい。

自己啓発セミナーに行っている人は……考えたほうがいい。

なぜ、自分はいやな会社に通勤しているのか?

どうして、自分は乗りたくもない満員電車に乗っているのか?

なぜだ?? なぜだ??

どうしてだ?? どうしてだ??

 

……条件がちがうからだよ。

2022年10月24日月曜日

「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」

 これ、ものすごく、うけないし、きらわれるのはわかっているのだけど、「僕はこう感じた」ということを言っておく。実際に、そう感じたことがあるのだから、書いておく。何度も言うけど、これを言うと、きらわれるのだ。憎まれる可能性もある。けど、言っておく。

これ、むかし書いて、顰蹙をかったことなのだけど……。「つらさのつらさがちがう」ということは言っておきたいことのひとつだ。世の中には、「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」ということを言う人がいるのである。けど、そういうことを言う人は、俺とおなじきちがいヘビメタ騒音をあびてない。俺と同じ部屋に一一歳から二〇歳まで住んで、俺とおなじヘビメタ騒音生活をしたわけではない。だから、つらさのつらさがちがう。

今現在働いているのであれば、働ける状態を維持できるぐらいのつらさなんだよ。だから、その人(おまえ)が働いているということは、俺が働けるということの根拠にはならないんだよ。 

どうして、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するんだ?

どうして、俺が、ヘビメタ騒音の影響で働けないと言ったあとに、ヘビメタ騒音の影響を無視して、「働いている」ということを言って、(自分が)働いているということを根拠にして、(エイリも)働けると決めつけるのか?

どうして、ヘビメタ騒音の数千日を経験してない(おまえ)が、ヘビメタ騒音の数千日を経験してないのに、ヘビメタ騒音の数千日を経験しても、働けると決めつけるのだ?

どうしてだ?

どうしてだ?

おなじじゃない。勝手に、きめつけるな。

これ、みんな、軽く決めつけているけど、ヘビメタ騒音の数千日というのはそういうものではない。ちがうじゃないか。

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きちがい兄貴は、がん無視して、つねに最大限の音で聞いているのだけど、最大限の音で聞いている感覚がないのである。聴覚が正常なら絶対にわかることがわかってないのである。これは、「言えばわかること」ではなくて、「言わなくてもわかること」だ。聴覚が正常なら絶対に、わかることなのである。けど、きちがいだから、感覚器を書き換えて、「わからないこと」にしてしまっている。そうしたら、どれだけ言われたって、わからないままなのである。何千回、何万回、何十万回、「でかい音で鳴らしている」と言われても、わからないのである。本人は、「普通の音」で鳴らしているつもりなのである。頭がおかしいから、そういうことができる。これは、意地悪なことなのである。頭がおかしいから、そういう意地悪なことができる。きったなーーい手段を使って、やりきることができる。「どれだやったってやってない」と本気で思っている状態が続く。こういう人がまわりにいないのである。普通の人ばあい、こういう家族が家族の構成メンバーのなかにいない。なので、こういう家族にやられたことがない。こういう家族が、ずっとずっとずっと毎日、きちがい的な音で鳴らし切るということを経験してない。そういう一日がわかってない。そういう毎日がわかってない。そういう毎年がわかってない。どれだけ、つもるかわかってない。

しかし、だれだって、「つらい経験」はある。日本の労働現場を考えると、くるしいこともあるだろう。けど、ちがう。程度がちがう。けど「程度がちがう」ということを言うと、たいていの人はおこる。「俺だってつらい思いをしている」「ヘビメタ騒音なんかより、つらい思いをしている」「それなのに、なんだ!!!」という気持になるのである。けど、働いているなら、働いている状態を維持できるということなので、働けるということだ。つらさがちがう。 

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「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音生活を経験してないのである。そして、家族のなかにきちがい兄貴のような家族がいない人なのである。だから、きちがい兄貴のような家族にやられたことがない。

 「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、きちがい兄貴のことはせめない。通勤して働いていないエイリのことはせめるけど、きちがい兄貴のことは、せめない。これは、共通している性格だ。ほんとうに、「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、きちがい兄貴のことを問題にすることがない。せめない。せめるのは、働いていないエイリのことだけなのである。目の前のエイリのことだけなのである。

「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人にとっては、でかい音で、きちがいヘビメタを鳴らし続けること……よりも、働かないことのほうが、道徳的にゆるせないことなのである。たとえ、エイリが働かないことで、自分が一切合切、迷惑をこうむらないとしても、「道徳的」にゆるしがたいことなのである。エイリの花のしなかに出てくる「兄」が、エイリが「やめてくれ」と言っているを無視して、きちがい的な意地で、長い時間、長い期間にわたって、ヘビメタをでかい音で鳴らしたことは、「道徳的」に言って、ゆるせることなのである。問題ではないことなのである。こういう感じ方がある。こういう感じ方こそが、道徳的ではない。そうは、思わないか?

大きな悪は無視して、小さな悪を問題にする。あるいは、大きな悪は無視して、悪くないことを問題にする。俺は兄貴の騒音で迷惑をかけられていた。「俺だってつらい思いをしたけど、働いているから、エイリも働くべきだ」と言う人はみんな、俺が働かないことで、迷惑をかけられてない。(言っておくけど、働くというのは、通勤して働くということだ。そのころは、資本をもたないものが働くには、通勤して働くしかなかった。)ともかく、道徳観について言うなら、その人たちは、みんな、兄貴の悪は問題にせず、エイリの悪ではないことを問題にしたのだ。これが、どういうことだかわかるか? せめているやつら……道徳的に(相手が)働いていないということをせめているやつらには、これがどういうことなのかわかってない。道徳を持ち出すなら、悪をせめずに、悪ではないものをせめている、そいつらが、悪だ。不善をなしている。悪いことをしているうちの兄貴をせめずに、悪いことをしてない俺をせめるということが悪だ。


2022年10月22日土曜日

人間のあいだにふっかい、ふっかい溝がしょうじることになる

 横になっているとき、自分の人生……ぜーーんぶ……について考える。いろいろなシーンが浮かぶ。ここ五年間であったことが影響をあたえているのか、腹がたつ記憶ばかり、うかんでくる。

ほんとう、だれにも相談できない。相談したってしかたがないけど……。これ、何回も書いているけど、ほんとうに、そう思う。いったい、なんだったんだという話だ。

こんなことになるとは……。ほんとうに、ヘビメタ騒音で人間づきあいが破壊されている。そして、睡眠障害や体力問題(易疲労性)などは、悪くなることはあってもよくなることがないのだ。

ちょっとでも、相手側の都合に合わせて予定を組むとなると、ぼろっぼろになっちゃうんだよね。一か月間、睡眠時間の調節をしようと思ってもうまくいかない。

けっきょく、前の日、眠らないまま、相手に会うことになる。ぼろっぼろなんだよな。くるしい。それに、気分が、ヘビメタ騒音にやられてこまりはてていたときの気分とおなじ気分なので、楽しいという気分じゃないのである。

ともかく、つらい。楽しい気分はない。一切合切ない。つらい状態でからだを動かしている。

 

それが、ヘビメタ騒音の結果だ。

 

そして、ほかの人の人生には、ぼくが経験したようなヘビメタ騒音がないのである。なので、わからない。「そんなのは、勝手にどうにかしてくれよ」という話になる。

が、どうにかすることができない。

なので、溝がしょうじる。人間のあいだにふっかい、ふっかい溝がしょうじることになる。

「薬を飲めばいいだろ」ということになるかもしれないけど、あの手の薬は、受容体を破壊する。長期的に考えると脳みそにはいい効果をあたえない。話は、長くなるからはしおるけど、薬じゃダメなのである。

あの長い期間、騒音で脳みそに損傷がしょうじたことが原因だ。

これは、なにも騒音だけではない。そりゃ、相手の態度に対する、怒りもある。相手の態度というのは、きちがい兄貴の態度のことだ。きちがいが、きちがい的な意地で、つねに、ヘビメタを鳴らしている。すぐそこで、がんがんがんがん、ヘビメタを鳴らしている。

 

これは、ホシオメタシスをくずす。


相手の「態度」に対する怒りがしょうじる。鳴っているあいだもそうだけど、鳴っていないときも、鳴っているときの影響をうけているので、当然、鳴っていないときも、きちがい兄貴の態度について「怒っている」ということになる。


一日のなかで、相当に長い時間やられるのだけど、その長い時間、ずっと、発狂状態……爆発しそうな状態……そして、爆発しそうな状態を無理やり意志の力でおさえつけている状態なので……やばいのである。

そういう状態は、短期間なら、復調できるのだけど、長期間にわたって、毎日毎日そういう状態が続くと、復調できなくなる。まあ、復調なんて言ったけど、ようするに、その刺激が発生する前の状態にもどらなくなる。

もう、缶詰め状態で、ボイラー状態なのだ。「今すぐにでも、兄貴をめった刺しにして殺したい。刺し殺して、しずかにさせたい!!」という気持を、この部屋で、おさえておさえておさえて、暮らしていた。

その時間が、ぼくの脳みそを破壊した。

気分の障害は、そういう経験があって発生したものだ。

だから、そういう経験がない人が「快適だ快適だと言えば快適になる」とか「元気だ元気だと言えば元気になる」と言っても、ぼくの場合は、そうならない。これ、普通に暮らしている人は「中立的な状態を」たもてるのである。

けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に毎日さらされたぼくは、すでに、中立的な状態ではないのである。一度の水に長時間つかっている状態なのである。たとえて、言うなら……。騒音というストレッサー、きちがい兄貴の態度というストレッサー、学校の宿題や騒音のなかでやらなければならないというストレッサーが加わった状態でずっと暮らすということは、ストレッサーに対する反応が自然な反応だとしても……問題をもたらす。

ようするに、ストレッサーに対する反応自体は自然なのだけど、この反応自体が、からだに無理がかかっている状態なのである。全体の機能としては、ストレッサーに対してそういう反応をする。これは、一時的に、踏ん張って力を出している状態だ。ひきつった状態で、何時間も、十何時間もすごしているのである。

そういうことが、毎日、続いたら、ぼろっぼろになってしまう。

一日のなかで、長時間続いたら、ボロボロになってしまう。 


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まじ、むなしいーー。むなしい。むなしい。


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ヘビメタ騒音は睡眠に影響をあたえる。鳴ってない時間の生命活動全体に影響をあたえる。きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で、ヘビメタを、すぐ横で鳴らしていると、やはり、怒りがしょうじる。

目の前の人と話しているときも、脳みその奥底では、きちがい兄貴の態度に、怒りを感じている。目の前の人と話しているときも、前の日に鳴らされたきちがいヘビメタ騒音の影響をうけている。で、影響は減衰するにしても、つもるので、三〇〇〇日続けば、三〇〇一日目は、一日まえの、ヘビメタ騒音の影響だけではなくて、三〇〇〇日続いたヘビメタ騒音の影響をうけている。

2022年10月21日金曜日

一日がヘビメタ騒音の一日とおなじ……楽しくない

 じつは、自分でご飯をつくって食べて生きているだけで、相当にたいへんなのだ。

また、横になる。

今日は、おつかいに行きたかったんだけど、むりかな。

ほんとうに、ぼろっぼろ。楽しくない。そして、たとえば、楽しむために、電車に乗ってどこかに行ったとするだろ。楽しめないんだよ。ヘビメタ騒音でさ迷い歩いていたときの気分になる。さみしくて、不安な気分だ。けっきょく、ヘビメタ騒音で一日が台なしになる。その一日の繰り返しが、ぼくの人生をつくった。で、一日がヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。十五年間毎日鳴らされたあとは、十六年目からも、ヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。一日が、ヘビメタ騒音の一日とおなじなのである。これが、ほかの人にはわからないんだろうな。どんだけ、くるしいか。

 だれと会っても、どこに行っても、ヘビメタ騒音で楽しくないんだよ。

これ、ほかの人にはわからない。ほかの人には、ヘビメタ騒音の十五年間がないから。十五年間、毎日!がないから。毎日毎日、十五年間やられたら、そりゃ、からだに影響が残る。十六年目から、鳴ってないから、影響がないかというと、ある。けど、ほかの人はそういうことを無視する。自分がやられてないからわからない。自分が実際に、この世で経験したわけじゃないからわからない。

ヘビメタ騒音の「いちにち」というのが、わからない。「いちにち」だけでも、どれだけつらいか……。どれだけつらいかわからない。精神に影響がある。物理的な身体に影響がある。これ、前にも言ったけど「仕事も人づきあいもうまくいっているけど、なんとなく憂鬱だ」というような憂鬱とはちがうのである。アメリカ人の認知療法家が書いた本だから、アメリカ人の話になるけど、あるアメリカ人が、仕事のあと、同僚とスカッシュをしたんだって。で、スカッシュの試合が終わったあと、更衣室で、憂鬱を感じたんだって。それは、認知のゆがみによるものだと認知療法家は言うわけ。

ヘビメタ騒音が原因なんだよ。ヘビメタ騒音でどれだけつらいか。認知がゆがんでいるわけじゃないのである。俺にとって、兄貴のヘビメタ騒音は、めちゃくちゃにこたえる騒音なのである。あの至近距離で、あんな音で、ヘビメタを鳴らされ続けていいわけがない。きちがいだから、すべての時間を使ってきちがいヘビメタを鳴らしていた。鳴らすとなったら、絶対に、自分が思ったとおりの音で鳴らさなければ気がすまないのである。だから、ゆずらない。けど、ゆずらなかったという気持がないのだ。ほんとうは、一分だって、一秒だってゆずらないのに、本人は、そんなつもりがないままなのだ。この、アクティングアウトと、本人の意識のちがい。認知のちがい。普通の家じゃ、一分間だって絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、ゆずってやったと思っている。きちがいだからそうなる。この感覚のちがいも、きちがい兄貴と一緒に住んでいない人にはわからない。きちがい兄貴が、どういう感覚で、どういう態度できちがいヘビメタを、きちがい的な意地で鳴らしているか、みんな、まったく知らない。

 

「楽しい」とか「明るい」とか光側のタームを出して、じつは、「悪い」ほうに人を導く(2)いきなり(2)

 なるほど。だから、怒らないようにして、自分の世界、自分たちの世界に埋没するようにしむけているのか。怒りは悪いことしかうみださないから怒るべきではないというのが、あやしいんだよな。現実から目をそらせる目的か?


だから、「怒りの波動をもたないようにしろ」「怒りは、なにも生み出さない」「怒りは、悪いことしかうみださない」と言って、自分の世界、自分たちの世界に埋没するようにしむけているのか。ちなみに、「怒りは、なにも生み出さない」ということと「怒りは、悪いことしかうみださない」ということは、矛盾している。なにも生み出さないのであれば、悪いことも生み出さない。基本的には、「怒りはなにも生み出さない」は「怒りはなにも、いいことは生み出さない」を意味していると考えるべきなのだろう。このように考えて「怒りはなにも生み出さない」と「怒りは、悪いことしかうみださない」とはおなじ意味をもっていると考えることにする。


明るい世界を願っていれば、明るい世界になるというのがおかしいんだよな。それだったら、あのようなことはなされずに、明るい世界になっていた。あぶない支配者が、人口削減とか次世代削減とか奴隷化を行うことはなかった。


削除対象になる人たちや、奴隷化の対象になる人たちが、怒りの感情をもたないように、制御しようとしているグループがあると思う。この人たちは、怒りの波動というようなことを言うけど、この人たちの言うことを聞いていると、とてつもなく悪いほうに誘導される。
 

精神世界的に正しそうなことを言うのだけど、危ないと思う。けど、精神世界的に正しそうなことなので、精神世界にあこがれをもっている人たちには、ひびく。けど、誘導されて行くところは、地獄なのではないか。人口削減と奴隷化なのではないか。
 

「自分たちさえ明るい気持ちですごせればいいんだ」と言うような考えにほかの人たちを誘導しようとしている人たちがいるのだけど、これって、現実から目をそむけるように誘導しているのではないか?


これ、やっぱり、黒側の発言なのではないかと思う。そういうふうに(現実に)関心をもたないように誘導したところで、何事かをすすめるつもりなのではないかと思う。現実というのは、彼らがつくりだした「わるい現実」だ。黒の流れもある。


むしろ、いまの社会というのは、現実から目をそむけると、悪いことが現実化してしまう社会なのではないか。まあ、白の流れがあるからなぁ。けど、「怒りは悪いことしかうみださないから、怒らないようにして自分が楽しいことだけすればいい」という考え方は、いまの社会では、あぶない。


だますほうからすれば、ワクチンを打てば、こういう暗い社会になるのはわかっていることだけど、だまされたほうは、そういうことがまったくわからないまま、明るい社会を目指していた。明るい社会を目指していたから、明るい社会が現実化されるのかというと、ちがう。だましがある。


おなじことが、「怒りは悪いことしかうみださないから、怒らずに、楽しいことを考えていればいいのだ」という意見にも成り立つのではないかと思う。「楽しいことを考えていれば、楽しい社会が現実化する」……こういう考えにしたがって、ワクチンを打つと、悪いことが現実化してしまうのである。


こういう、だましがある。悪魔側の誘いというのは、そういうふうに、巧妙だ。「楽しい」とか「明るい」とか光側のタームを出して、じつは、「悪い」ほうに人を導く。


彼らの言うことを信じて、行動すると、「明るいこと」「楽しいこと」を目指したのに、なぜか?悪いことが現実化してしまうのである。「明るいこと」「楽しいこと」を目指す……ということを否定したり、批判するのは、現実的にはむずかしい。批判したほうが「悪いやつらだ」ということになってしまう。


けど、注意深く考えると、彼らのやり方というのは、いつもそういうやり方だ。悪いほうに誘導するために、明るいことや楽しいことを言うので、善悪が逆転してしまう。しかも、精神世界の人がだまされそうなタームを使っている。だましがある。


「明るいことを考えて行動すれば、明るい社会が現実化する」とか「明るいことを考えれば、明るいことが現実化する」とかという考え方が、暗い社会を現実化してしまった。みんなが、明るい気持ちでワクチンを打てば、明るい社会が現実化するか?


すでに、暗い社会が現実化しているのに、同じ理論で目くらましをしようとする。「明るい気持ちでワクチンを打ちに行ったのに、暗い現実をひきよせてしまった」という部分がある。いまこの時点で、「明るいことを考えれば明るい社会になる」と言うことは、よくないことだ。
ワクチンがそれを証明してしまった。明るい気持ちでワクチンを打っても、暗い現実が引き寄せられる。明るい気持ちでやれば、明るい現実が引き寄せられるという考え方は、まちがっている。ワクチンがそれを証明してしまった。


けど、まあ、個人レベルで楽しいことをするのは、いいことだと思うよ。それと、社会の話は別。


「やめくれて」と言ったら、やめてくれれば……

 やっぱり、ヘビメタで、ズタボロだわ。もう、つかれた。あーあ。ヘビメタ騒音さえなければ!! ヘビメタ騒音さえなければ!!

「やめくれて」と言ったら、やめてくれれば……。どんだけ、つらいかみんなわかってない。どういう日々になるか、ぜんぜん、みんなわかってない。どういう時間になるか、ぜんぜんみんなわかってない。きちがいヘビメタが鳴ってない時間……次の日の日中……めちゃくちゃにくるしいのである。みんな、ぜんぜんわかってない。俺がどれだけ切羽詰まった状態で暮らしていたか、ぜんぜん、わかってない。 

もう、つかれた。くそ、ハンディがないやつが好き勝手なことを言いやがって……。きちがい兄貴によるヘビメタ騒音のハンディがないやつが、好き勝手なことを言いやがって。好き勝手に、ヘビメタ騒音の影響を無視しやがって……。おまえらはゆるさん。おまえらもゆるさん。

あとは、掃除をするとなると顔をダニに刺されるのがいやだなぁ。刺される可能性があるんだよ。だから、やれない。で、これだって、ヘビメタ騒音の上に、きちがい親父のネズミがつみかさなって、そうなっている。「ネズミがはいってくる穴があるわけだから、ネズミがはいってくる穴をふさごう」と言っているのに、「俺が、(ネズミシートで)つかまえるからいい」ときちがい的に絶叫しやがって……。そうなるまえに、「くさいから魚を出しっぱなしにするな」と言ったら、「くさくない!くさくない」と絶叫しやがって。さらに、そのまえに、「物置に、ごみをもって行ってやる」と言い張った。別に、毎日、台所にあるなまゴミを、物置にもっていく必要はないのに、なぜか、なまゴミの袋を毎日からにすることにこだわってこだわって、一度言い出すと、聞かないんだよ。そのときは、「まったく意味がないけど、エンジンがかかってしまうと、聞かないから、好きなようにさせておくしかないか」と思ったのだけど、これが間違いだった。ネズミが、物置にくるようになったのである。で、つねにネズミが物置にくるようになって、そのあと、親父がほぼ一日中、粕漬の魚を出しっぱなしにしたから、ネズミがはいってくるようになったのである。で、普通の人だった、ネズミの糞がころがっていれば、気にするのに、一切合切、気にしないんだよ。どれだけ転がっていたって、一切合切気にしない。きちがい親父が気になるのは、ネズミ本体だけで、ネズミ本体をネズミシートで捕まえればそれでおしまいなのである。けど、それだと、ネズミの流入がとまらなくなる。ヘビメタだって、俺にとっては、毎日毎日、大事件だったのだけど、どれだけ親父に言っても、親父が兄貴に注意をしないんだよ。こういう感覚……。こういう感覚がくるっている。普段から、くるっているんだよ。くるっているんだよ。きちがい兄貴だって、騒音の感覚が、くるっているんだよ。普通の人だったら、あんな音で鳴らさない。あんな音で鳴らすことに、こだわってこだわってこだわって、絶対の意地で、どれだけなにを言われても、鳴らすなんてことは、ないんだよ。思いつきもしないんだよ。そうしようと思わないんだよ。普通の人は……。普通の人の感覚だとそうなの!! けど、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじだから、普通の人の感覚がないんだよね。で、きちがい的な感覚で自分の意地を押し通す。あとは、昨日も書いたけど、そうやってやったことは、全部、自分に関係がないことだという感覚が成り立っている。「やったってやってない」が、これまた、普通に成り立っている。普通の人は、この「やったってやってない」が普通に成り立っているということが、普通に、わからない。だって、家族の構成メンバーにそんな人がいないもん。

 

 

2022年10月20日木曜日

がん無視したら「やってないこと」になってしまうのである

 まっていると、青いかごが出てこない。青いかごが出てくるのを、いまかいまかと、ずっとまっているけど、出てこない。青いかごというのは、カラスよけのかごだ。このかごが出てくるまでなまゴミを出せなくなってしまったのである。

ヘビメタ騒音の朝みたいな感じになってきた。鳴っているときの、一日の始まりみたいな雰囲気だ。これは、こたえる。

みんなわかってないけど、ヘビメタ騒音がこたえる。昨日の夜鳴った、ヘビメタ騒音が次の日の朝にこたえるのである。一日のなかでも「過去のことは関係がない」なんてことはない。どんだけ、関係あるか。どれだけ毎日、おなじように、ヘビメタ騒音が積もりにつもって、くるしいか。つもるんだよ。で、この雰囲気と、たとえば、女の子とつきあえなかったということは、つながりがある。ヘビメタ騒音の日々なのである。たとえ、はじめてあった……理想的な相手が、話しかけてきても、そうなのである。

人生のなかでも、「過去のことは関係がない」なんてことはない。これ、ちがうのである。そういうことを言う人たちが経験した過去と、ぼくが経験した過去は、ぜんぜんちがう。そういう人たちは、きちがい家族と一緒に住んでいるわけでもなく、きちがい家族と一緒に住んでいたわけでもない。普通の家族と一緒に住んでいたのである。あるいは、普通の他人と一緒に住んでいたのである。きちがい家族が、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為を、きちがい的な意地でやり続けるかなんて、まったくわかってない。その人たちが、想像する「他人」とは、ちがう「他人」なのである。その人たちが想像する「家族」とはちがう「家族」なのである。で、きちがい的な意地で鳴らしたきちがい兄貴が、一番、わかってないのだ。きちがい的な意地でやってるやつが、きちがい的な意地でやったということを、がん無視する。がん無視したら「やってないこと」になってしまうのである。やるということは決まっているけど……どれだけなにを言ってきたって、一秒もゆずらずに、自分がやりたい時間は絶対にやるということは決まっているのだけど、「やった」という気持がまったくしょうじないのである。「まったくやってないから、そんなのは知らない」という意味で、他人ごとなのである。自分が意地になってやったことがまったくわかってない状態なのである。自分がやったことじゃないから、知らないという無関心さが、ある。そういう無関心さは、やっているときのきちがい的な意地とおなじで、きちがい的な無関心さなのである。だから、こまるのである。

実際に、きちがいヘビメタをあびせられると、鳴り終わったあと、どうしても眠れなくなるのである。だから、朝は、めちゃくちゃにきついのである。そういうことだって、そういうことを経験したことがないやつが、「眠ろうと思えば眠れる」とか言い出すわけで、こまるのである。「健康管理ができないやつはだめだ」とか言い出すわけで、こまるのである。同じ条件で暮らしているわけではないのに、どうしてそういうことが言えるのか? ぶんなぐってやりたくなる。ぶんなぐってやりたくなるのを、おさえて生きているのである。こんなのない。こういう、きちがい兄貴といっしょにすんだことがない人が言う、正論みたいなものは、全部、ぼくにとって、正論じゃないのである。そもそもが、状況を理解してない、自分勝手な発言なのである。

けど、そういう人間のほうが多い。兄貴みたいな家族と一緒に住んでる人間が少ないからだ。ぼく以外の人は、きちがい兄貴といっしょに住んでいるわけではないのである。きちがい的な感覚をもった人が鳴らす、騒音に、くるしめられているわけではないのである。きちがい的な家族が、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らし続けるなんてことは、そういうことを言う人たちの人生のなかでは、発生しなかったことだ。家族であるということが、どれだけ重要なことかわかってない。家族なんだよ。家族だからこそ、追い込まれるんだよ。その家族からも、まったく関係がない他人からも。大多数の人が、きちがい家族による騒音を経験してないのだから、ぼくの言っていることは、根本的なところで、大多数の人にはつうじない。大多数の人が、必然的に理解しないのである。

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あーーーー、ヘビメタ騒音なしで暮らしたい。ヘビメタ騒音が発生しなかった場合の人生を歩みたい。あんなの、ない。あんなのは、きちがい親父がつくった家じゃなければ絶対に発生しないことなのである。きちがい親父がつくった家ではない家の場合、どれだけ、きちがい兄貴が、弟の言うことを無視して、がんがんでかい音で鳴らしたいと思っても、鳴らせなくなってしまうのである。きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らし始めたら、きちがい親父がそれに協力をしてしまうのである。理解をしめしてしまうのである。「鳴らすなんて言えない」とか言い出すのである。横の家の人がきちがい兄貴の騒音に文句を言ったときは……きちがい親父に聞こえるように文句を言ったときには……「なんだ、せっかく、人の息子が鳴らしているのに!」なんて、すごい目つきでおこってしまうのである。俺が「きちがい兄貴に注意してくれ」ときちがい親父に言えば、きちがい親父は「なっちゃったらなっちゃったでしかたがない」などと俺に絶叫して、自分の寝床にもぐりこんでしまうのである。こんなのはない。頭がおかいから、そういう反応をする。よその人は、親が文句を言わないのであればそんなにでかい音で鳴っているのではないのではないか」と考えてしまうのである。こうやって、おいつめられていくのである。

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きちがい兄貴は、ほんとうに、自分に都合よく狂っているきちがいなので、ほんとうに、「でかい音で鳴らしているつもりがない」のだ。もし、きちがい兄貴が鳴らしている音と同じ音のでかさで、だれか他人が、きちがい兄貴の聴きたくない曲を聴いていたら、「損にでかい音で鳴らすな!!!」と一秒で怒り狂うような音で鳴らしているのに、自分が鳴らしたい曲だと、ものすごくでかい音で鳴らしても、ぜんぜん、でかい音で鳴らしているつもりがないという状態になる。普通は、きちがいでなければ、そういうことはできないのである。普通の人の場合、耳が正常なら、自分の気持ちと関係なく、でかい音はでかく聞こえるのである。普通の人が鳴らさないようなでかい音で、鳴らすときは、でかい音で鳴らしているという認知がしょうじるのである。けど、きちがい兄貴はきちがいだから、自分の都合がよくなるように、感覚を書き換えてしまうのである。なので、その感覚からしょうじる認知は、正真正銘、でかくない音で鳴らしているという認知になってしまうのである。こういう「だまし」はきちがい親父もおなじで、普通にそういうことをするから、腹がたつ。やられた人は腹がたつ。やられた家族は腹がたつ。ほかの人の場合は、感覚を書き換えるわけではなくて、でかい音で鳴らしているということは、感覚して、でかい音で鳴らしているという認知がある状態なのである。そういう状態で、自分の意地を通して鳴らしている場合、でかい音で鳴らしたいからでかい音で鳴らしているという認知も成り立つのである。だから、どれだけうそをついて「でかい音で鳴らしてない」と言っても、本人は「でかい音で鳴らしている」ということを知っている状態が成り立つのである。けど、きちがい兄貴の場合は、でかい音で鳴らしたいという気持が無意識的に成り立って、その無意識的な内容によって、感覚が書き換えられてしまうのである。だから、特別に悪いことをしているつもりが、どれだけやったって、しょうじないのである。また、特別に悪いことをしているつもりが、どれだけ言われても、しょうじないのである。自分だって、ほかの人にやられたらこまることを、やっているのに、自分は、そういうことをしているつもりがまったくないまま暮らしているのである。どれだけ「でかい音で鳴らしている」と言われても、まったく「でかい音で鳴らしている」ということがわからないのである。まったくわからないという状態が、都合よく成り立っている。だから、本人としては、悪意があるつもりがないということになるし、困らせている行為をしているつもりがないということになってしまうのである。どうしてそうなってしまうかというと、ずるをするからだ。感覚器を書き換えるというずるをして、やりたいことをやってしまうのである。そして、やりたいことをやったあとは、まったくやってないつもりになってしまうのである。おそろしいことに、やっている最中ですら、まったくやってないつもりでいる。
 

2022年10月19日水曜日

「おカネがありすぎると幸福度がさがる(こともある)」ということまでは、わかる。

 たとえば、39度のお湯につかっている人が、「45度だと熱すぎる」「熱すぎても快適ではない」「水温と快適さとは関係がない」と言ったとしよう。

ずっと1度の水につかっている人にとっては、39度も45度もつかったことがないので、関係がない話だ。

39度のお湯につかっている人が「快適な温度について」語ったとしても、関係がないことなのである。さらに言っておくと「熱すぎても快適ではない」というのは、正しいけど、「水温と快適さとは関係がない」というのは、まちがっている。

「45度だと熱すぎる」と言っているではないか。関係がないわけがない。どうして、「熱すぎても快適ではない」ということが「水温と快適さとは関係がない」ということになってしまうのか?

水温がおカネで、快適さが幸福度だとする。

「おカネがありすぎても、不幸な人がいる」あるいは「おカネがありすぎると幸福度がさがる(こともある)」ということまでは、わかる。

しかし、「おカネがありすぎると、幸福度がさがるので、おカネと幸福度は関係がない」ということは、まったくわからない。

おカネがありすぎると、幸福度がさがるのであれば、もちろん、おカネと幸福度は関係しているのである。なぜ、これがわからないか?

おカネを、ちょうどいいていど、持っている人が「おカネなんて幸福度とは関係がない」と、おカネをもっていない人に言うのは、問題がある。

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問題なのは、39度のお湯につかれる人にとって、1度の水につかっている人の「つらさ」は関係がないことだということだ。39度の湯につかっている人が「1度の水につかっている人 つらさなんて、自分には関係がないことだ」と言った場合、その言葉の意味は正しいのである。

なのであれば、もちろん、「人に親切にするとしあわせになる」とか「人に親切にすると幸福度があがる」というようなことは言うべきではない。「つらい」状態の人を見すてているのだから、「つらい」状態の人に対して親切にしてない。

「そんなのは俺に関係があることではない」と言って、1度の水につかっている人には、親切な行為をしないのだから、親切な行為をしない人が、「人に親切にすると幸福度があがる」というようなことを言っているということになる。

生まれの格差は、おおきなおおきな格差で、その格差が生み出す、不幸な体験は、毎日毎日、つもっていくものなのである。生まれの格差・下の人は、毎日毎日、不幸な出来事を経験することになるのである。

それは、その人がもっている「幸福感に」影響をあたえる。

これは、でかい影響をあたえると言っていい。

なんでなら、きれいごととはちがって、実際に生じていることだからだ。実際に生じていることを、感覚認知しているわけだから、実際に生じてないこと……えそらごとの話……よりも、実際に生じていることが、その人の幸福感にでかい影響をあたえる。

このでかい影響をあたえる部分に関しては、「そんなのは差がない」「あったとしてもたいした差じゃない」ということを言って、無視する人が「親切な人である」はずがないのだ。

しかし、そういう人でも、「小さな親切」は自分の身の回りの人にできる。身の回りに生まれの格差・下の人がいなかったら、当然に、小さな親切も、生まれの格差・下の人にはしないということになる。

その人は、生まれの格差・下の人にかんしては、小さな親切もしなければ、大きな親切もしないということになる。無関心なのである。

大きな親切というのは、その人の状況をかえてしまうような親切だ。水温のたとえを使うのであれば、39度の人が、1度の人に対して、39度のお湯をあたえるということだ。

けど、そうなると、39度の人が、今度は、つめたい水につかることになるのである。なので、大きな親切は、なしがたいのである。

39度のお湯につかっている人にとっては、1度の水につかっている人の話は「えそらごと」の話なのである。いっぽう、1度の水につかっているひとにとっては、39度のお湯につかっている人の話は「えそらごと」の話なのである。現実的ではない話なのである。

状況がちがうのだから、そうなる。生まれてからずっと体験していることがちがうのだから、そうなる。

実際に発生する出来事が、その人の「幸福な感じ」や「不幸な感じ」を決定しているのである。「えそらごと」のいい話が、その人の、「幸福な感じ」や「不幸な感じ」を決定しているのではない。

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おカネと幸福度は関係があるから、おカネがありすぎると幸福度がさがるのでしょ。どうして、関係がないということになってしまうのか?

2022年10月18日火曜日

「鳴らすな」と言われたら、きちがい的な意地で鳴らす

 ヘビメタ騒音でくるしい。みんなわかってない。どのみち、みんな、わかってない。わかるわけがない。わかるわけがないけど、ヘビメタ騒音がなかったやつらが……人生のなかで、きちがい家族によるヘビメタ騒音がなかったやつらが……ヘビメタ騒音のことを無視して、あるいは、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、ガタガタ言うのは、気にくわない。ほんとうに、自分だって、あの状況で7年間暮らしたら、通勤通学ができないからだになるのに、それがまったくわかってない。俺が、通勤通学ができなくなったと言ったら、できなくなったということなんだよ。ヘビメタ騒音『で』できなくなったと言ったらヘビメタ騒音『で』できなくなったということなんだよ。それを理解しないで、えらそうなことを、ぬかしやがって……。ぶっ殺したい。ぶっ殺したい。ヘビメタ騒音の影響を過小評価するな。おまえが過小評価できるのは、経験してないから。きちがい兄貴というハンディがないから……。きちがい的な兄貴というハンディがなければ、なんとだって言える。きちがい兄貴が鳴らしているときの意識状態や、きちがい兄貴が、「鳴らすな」と言われたときの意識状態なんて、ほかのやつらにわかるわけがない。きちがい兄貴は、一秒だってゆずってくれないけど……意地になって鳴らすけど……「鳴らすな」と言われたら、きちがい的な意地で鳴らすけど……自分が鳴らしたつもりはというのは、「いつも」ないんだぞ。そういうきちがいが家族にいる状態というのがわからないだろ。そういうきちがい家族が、とりつかれたように、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らすということがどういうことなのかわからないだろ。そういう生活をしてなければ、一日でも、どれだけヘビメタ騒音がこたえるかわからないだろ。千数百日続いて、高校入試をうけるときの気分がわからないだろ。毎日、こっぴどくやられる。けど、きちがい兄貴のなかでは、自分がかかわっているつもりがないんだよ。どれだけ言われたって、自分がかかわっているつもりがない。きちがい兄貴が張本人なのに、張本人のきちがい兄貴がまったくやったつもりがないのだ。頭がおかしいからそういうことが平気でできる。そして、いつも、そういうモードなんだよ。いつも頭がそういうモードなんだよ。反省なんてするわけがないだろ。こんなの、他人にわかるわけがない。

 

2022年10月16日日曜日

ヘビメタ騒音で、どうしても、生きていてつらい。生きているあいだじゅう、つらい。

まあ、ともかく、だるい。やっとのこと、洗濯をしたけど、ほんとうに、やっとのこと、したという感じだ。ほんとうに、しんどい。全部がしんどい。気分的には、まあ、落ち込んだままで、あんまりいい気分になれない。どうしても、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。いやな記憶が残っている。どうしても、生きていてつらい。ヘビメタ騒音で、どうしても、生きていてつらい。生きているあいだじゅう、つらい。だから、「やめてくれ」「やめろやめろやめろやめろやめろ」と絶叫してきたのに、ぜーーったいにやめてくれなかった。一秒もやめてくれなかった。一〇分間中断してしずかにしてくれなかった。毎日全部、きちがい兄貴が好きなだけ、鳴らした。地獄だった。 

ほんとう、俺がどんな状態で暮らしてきたか、みんなわかってない

 ほんとう、俺がどんな状態で暮らしてきたか、みんなわかってない。きちがい家族がいるということがわかってない。きちがい家族の、態度がわかってない。きちがい家族の感覚がわかってない。きちがいだから自分ことしか考えてないんだよな。

自分の感覚器を書き換えて、やりきる。

そうやってやりきったことは、やったことになってない。

自分がまったく無関係な人間だと思っている。

けど、スイッチが入ってしまうと、そうなる。そして、きちがい兄貴は、ヘビメタ騒音に関しては、ずっとスイッチが入っていた。どれだけ言ったって、聞かない。自分はやる権利があると思ってやっている。

ゆずってないのに、「最大限ゆずってやった」と思っている。きちがいだから、そういう感覚で生きていける。これがわかってない。

そして、実際に、ヘビメタ騒音が鳴っているときの感覚がわかってない。この感覚というのはぼくのほうの感覚だ。もちろん、鳴らしているときのきちがい兄貴の感覚なんて、ほかの人にわかるわけがない。

ほかの人は、わかってないから、「話し合えばいい」「お兄さんに言えばいい」と言う。これが、どれだけまとはずれなアドバイスかわかってない。

きちがいのことがわかってないから、わかってない。

普通の人は、自分の家族のなかに、きちがい兄貴のような家族がいないので、まったくわかってない。きちがい兄貴のような家族といった場合の家族というのは、家族全体をさすのではなくて、家族の構成員のことをさしているとする。

 

2022年10月15日土曜日

「うえじに」なんてことを前提にした社会は、そもそも、おかしい。

日本は、特にDSメディアのディフェンス力がすごいんだよなぁ。まあ、メディアに限ったことじゃないけど、日本はほんとうにものすごい「結界」がはられているようだな。まあ、アニメふうに表現すると……。


四面楚歌じゃなくて、四面DS歌なんだよね。立法、行政、司法、アイドル(芸能界)、テレビ新聞あらゆるメディア、医者、大企業、すべてが、DS側なんだよね。洗脳されている人(DSに親和的な人)の価値観がダメなんだよね。人生観も含めて。


けど、ホワイトハットが、どのくらい、ホワイトなのかというのは、気になる。シールズは、世界統一政府を目指していた過去がある。白も黒も、世界統一政府という考え方は、すててないんだよね。


けど、黒が世界統一政府をつくるなら、私は○○するしかない。

で、そういうことに、おろかにも賛成してしまう人たちがいる。多い。みんな、それぞれ、いちおう、道徳観は持ってるのだけど、最悪の選択をしてしまう。ワクチンを打つということの意味がわかってない。


たとえば、職域接種の圧力に負けた人がいると思うんだけど、これは、「うえじに」を前提とした社会だからそうなる。「うえじに」を前提とした社会がおかしいとは思わないのか? 「働かなければ、うえじに」なんてことを前提にした社会は、そもそも、おかしい。


けど、家族のためにも、打ってしまってはいけないのだ。だから、こういう社会をかえなければならない。「働かなくても、うえじにしない」社会を目指すべき。こういうことを言うと「あまい」という反応がかえってくると思うけど、そういう人たちは、まちがっている。


生まれながらの格差があり、生まれながらの格差が、時間とともに、経験をとおして、ひろがっていくのだから、生まれの格差はなるべく小さくするべきなのだ。

けど、生まれの格差は小さくするべきだ」と言えば、「そんなのはあまい」という反応が、普通の人から!!かえってくる。


「自己責任」という考え方が、どれだけ社会をくさらせてきたか、ぜんぜんわかってない。これは、悪魔に魂を売った人の考え方だ。

けど、普通の人の考え方になっている。巧妙な洗脳がある。


「自己責任」という考え方だけではなくて、一見、正しく見えるうな考え方も、じつは、「自己責任」という考え方とおなじような目的をもって広められたのだと思う。


「認知療法的な考え方」「プラグマティズム」「認知行動療法的な考え方」「行動主義心理学的な考え方」こういうことが、すべて、同じように機能するのである。「言ったことが現実化する」「思ったことが現実化する」「ひきよせという考え方」こういった考え方が、すべて、悪魔側の考え方なのである。


精神世界系の考え方が、どうして、悪魔側の考え方になるかということについて、説明すると、ながくなるんだよな。巧妙な仕組みによって、この世では……悪魔が支配するこの世では……じつは、「自己責任」という考えたのように、他人に対してつめたくなる考え方なのである。


「他人に親切にすれば、しあわせになれる」「感謝をすれば、しあわせになれる」というような考え方ですら、悪魔側の考え方なのである。悪魔に親和的な考え方なのである。この人たちは、自分は光の側だと思っていると思うけど、実はこういう考え方は、社会適応的で、悪魔側の考え方だ。


どうしてかというと、「生まれながらの格差」を無視しているからだ。これ、ほんとうに、説明すると長くなる。ほとんどの人が、ぼくの考えに反対すると思うけど、巧妙なしくみによってそうなっている。

じつは、この世界で「言霊的なことを言うこと」は、悪魔の支配をより強固にすることになるのだ。


「生まれの格差」があるのに、「生まれの格差を無視して」あたかも、「言霊で問題が解決できるようなこと」を言うのは、じつは、悪魔が支配している社会に協力するようなことを言うということなのだ。悪魔の支配を助長するようなことなのだ。わかるかな?


言霊という考えたは、強烈だ。どうしてかというと、幼児的万能感とむすびついているからだ。これ、別に、自己啓発セミナーに参加しなくても、言霊に関する本を読まなくても、みんな、知っていることなのである。


だから、言霊をそういうふうに言うのは……悪魔の支配をより強固にするというようなことを言うのは……わりと負担がかかることなのである。


自分自身のことに関しては、言霊的な元気づけをおこなうことは、いいことだと思う。けど、他人が言霊で、問題を解決できると思うべきではないのだ。


悪魔が支配している社会でしょうじている問題は、呪術的な方法では解決しないことが多い。


 

これ、うけないよね。

 

わかっている。

 

けど、ほんとうに、そうなってしまうしくみがあるんだよ。

 

個人が自分のことについて呪術的な方法をためすことはよいことなのだけど、他人も呪術的な方法で、人生をよくすることができると考えてしまうのは、(悪魔が支配する世界では)よくないことなんだよ。
 

それは、かならず、「自己責任論」と結びつく。「生まれの格差」を無視した「自己責任論」と結びつく。言霊を信じしている人にとっては、「生まれの格差」なんて「言霊でどうにでもできること」なのだ。けど、この見なし方は、悪魔側の「自己実現論」とおなじなのである。

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DSというのは、ディープステートの略で、悪の組織です。厳密に言えばちがいがあるのかもしれないけど、ディープステートとカバールとフリーメーソン(フリーメイソン)とイルミナティーはおなじ組織です。言い方がちがうだけで、だいたい、おなじものを意味しているという考え方でかまいません。悪の組織ではなくて、国際金融資本というような言い方もあります。

ユダヤ金融資本という言い方や、ユダヤ資本という言い方もあるのだけど、この人たちは、ユダヤ人ではありません。なので、不適切と言えば不適切かなぁ。

まあ、韓国人が日本に入ってきて、日本人のような名前をつけて、日本人になっているというような感じなんですよね。その場合、その人たちは韓国人なのか日本人なのかということですよ。 韓国人だけど日本に入って日本人のように暮らしている人たちがいたとして、その人たちの資本のことを、日本資本と言っていいのかどうかという問題ですよ。

 ディープステートとか、カバールとか、フリーメーソンとか、イルミナティーとか、国際金融資本という言い方をすると、陰謀論的な感じがするので、いやなのですが、そういうふうな言葉を出さざるをえない部分があるのです。

 「悪の組織が悪いことをしているなんて、そんなバカなことがあるか」と思うかもしれないけど、あるんですよ。

けど、その金持ちのくそ理論で、貧乏人が、金持ちになることはない。

 基本的に差があるのだけど、その差を無視した状態で暮らしているわけだ。そして、貧乏なほうが、金持ちのくそ理論を「買う」のである。一時的な気晴らしのために、現実的ではないくそ理論を買うのである。そうしないと、やっていけないから、そうする。けど、その金持ちのくそ理論で、貧乏人が、金持ちになることはない。

貧乏人は、「どうにかなりそうな気分」を1000円ぐらいで買うのである。本なら1000円ぐらいで買えるだろう。本を読んでいるあいだは、その呪術的な方法でどうにかなりそうな文を味わえるのである。

しかし、「差」は「基本的な差」によって生じている差なので、その呪術的な方法は、まったく、意味がない。どれだけ、呪文をとなえても、金持ちになれない。

買ったのは、「呪文をとなえれば、金持ちになれる」という素敵な気分だ。金持ちは、基本的な差において、金持ちなのである。呪文をとなえたから、金持ちになったのではない。

ここに、トリックがあるのだけど、気がつかない。

だまされているほうは、気がつかない。

しかし、だまされているほうではなくて、だましているほうも、気がつかない場合がある。この場合は、金持ちは、ほんとうに、呪文をとなえたから、金持ちになったと思っているタイプだ。

じつは、こういう人は多い。

両方とも、基本的な差を無視して、呪文をとなえたかどうかということに注目してしまう。まあ、この場合でも、金持ちのほうは、もっと金持ちになり、貧乏人は、もっと貧乏になるのである。

金持ちが呪術的な方法を信じている場合、実際に、呪術的な方法でカネが入ってきたと確信するだろう。そりゃ、呪術的な方法を売ることで、おカネが入ってくるのだから、そういうふうに錯覚しても、まったく問題はない。錯覚しやすい状態が成り立っている。いっぽう、貧乏人は、本を買ったぶんだけ、損をしている。カネが出ていっている。

 

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2022年10月14日金曜日

めぐまれない人は、めぐまれている人の「うそ」を信じたい

 めぐまれた人が生れの格差を無視したいのは当然だが、めぐまれてない人も生まれの格差を無視したいときがあるのだ。めぐまれてない人が生れの格差を無視したいときは、そういうことを無視して、空想の世界で、解放されるときなのである。しかし、これは、空想の世界で解放されただけで、現実の世界では、解放されてない。現実の世界では、あいかわらず、しばられた生活をしている。なにによってしばられているか? さまざまな条件によってしばられているのである。

39度のお湯につかっているのか、1度のお湯につかっているのかで、「快適だ快適だ」と言ったときの反応がちがうということについて、のべた。これは、快適さを感じる「能力」のちがいなのだろうか? 人間的にすぐれているから、「どんな状態でも」快適にすごせる人がいるのだろうか?

また、残酷なことだけど、「他人」としてみた場合、「快適だ」と思っている人間と「不快だ」と思てっいる人間のどちらに、好意をいだくだろうか? もし、「快適だ」と思っている人間には好意をいだくけど、「不快だ」と思っている人間には好意をいだかないとなると、条件として不利な人は、自分に対して好意をいだけないということになってしまうのである。けど、これは、完全に他人としてみた場合であって、実際には、自分のことを他人だとは認識しない。1度のお湯につかっている人は、それだけでも、きついのに、他人からは「不快に思われる」のだ。これは、けっこう重要なことだ。しかし、今回は、この問題には深入りしないで、軽く流す。

今回、言いたいことは、生まれの格差において「下」である人も、生まれの格差という条件を無視したいという欲求があるということだ。だから、二項文がはやる。エックスをすればワイになるという二項文は、条件を無視している。さいしょから、重要な条件を無視している。その条件が、ワイの部分を決定するのに、エックスという項目を持ち出して、エックスがワイの部分を決定すると言うのである。これは、子供だましで、完全にまちがったことだ。しかし、「わすれたいひと」はそれにしがみつく。実際には、条件のほうが重要なのに、一瞬、「エックスさえすれば」よいのだと思い込んでしまう。エックスは、簡単にできることであり、自分でもできることだ。自分でも簡単にできることで、ワイになってしまうのだ。あるいは、ワイを手にすることができるのだ。それなら、やったほうがいいということになる。ところが、実際にやってみても、ワイにはならないし、ワイを手にすることがない。妄想の世界、空想の世界では、簡単に、ワイになれるし、ワイを手にすることができるのに、どうして、現実の世界では、ワイになれないし、ワイを手にすることができないのか? 条件があるからだ。現実の世界においては、生まれの格差という「初期値」が、さまざまな条件をうみだしてしまう。人間は、そのさまざまな条件の「格差」のなかでいきている。その「格差」は現実的な行動を、規定するのである。なので、現実の世界では、エックスをやっても、ワイになれないし、ワイを手に入れることもできない。

けど、エックスをやって、ワイになれたという人もいるし、ワイを手に入れたという人もる……じゃない? と思うだろうか? これは、ちがう。ワイになった人もいるし、ワイを手に入れた人もいる。しかし、エックスで、ワイになったわけではないし、エックスでワイを手にいれたわけでもないのだ。悪意があるのかどうかわからない。ただ単に本人も誤解しているのだけなのかもしれない。けど、エックスをしてワイになったわけではなくて、エックスをするまえから、ワイだったのだ。あるいは、エックスをして、ワイを手に入れたわけではなくて、エックスをするまえから、ワイを手に入れられる状態だったのだ。

 たとえば、39度のお湯につかっている人は「きもちいい」と言う前に、きもちよかった。けど、これを「きもちがいい」と言ったから「きもちがいい」と感じたと理解していたらどうだろう? 1度の水につかっている人にも「きもちがいい」と言えば「きもちよく感じる」と言うわけだ。そして、それは、39度の人にとっては、正しいことだ。主観的に、まさしくそう思っているのだから、正しいことを言っているようにしか思えない。しかし、「きもちがいい」と言う前から、きもちがよかった。

たとえば、お金持ちが「おカネがある」と言ったとする。その、お金持ちは「おカネがある」と言ったから、おカネがあるのだと勘違いしたとする。そうなると、二項文としては「おカネがあると言えば、おカネがある状態になる」ということになる。エックスは「おカネがある」と言うことであり、ワイは、おカネがある状態になるということだ。けど、その人は、もともと、おカネがあった。お金持ちだった。「おカネがある」と言う前から、お金持ちだった。お金のない人が「おカネがある」「おカネがある」と言っても、おカネがある状態にならない。

 

2022年10月13日木曜日

ただたんに、知らないから、そういうふうに言えるだけだ

 普通の家には普通の家族しかおらず、普通の家に、きちがい家族がいるということがない。きちがい家族がいる家は、普通の家ではなくて、きちがい家族がいる家だ。これが、みんな、わかってないのである。あるいは、ちがいがあったとしても、それはたいしたちがいではないという妄想にしがみついている。両方の「いえ」を言経験したことがある人しか、ちがいがわからないので、架空の話、仮定の話になってしまうのである。「あったとしても」……「たいしたことがない」。あるいは、「あったとしても」……「影響をうけないぞという強い決心をすれば、影響をうけることはない」。あるいは、「そんな家があるのかどうかわからないけど」……「そんなのは、関係がない」。「ちがい家族のことを、気にするからダメなんだ」……「気にしなければいい」。……気にしなければ、影響をうけることがないのである。自分は、たとえそういう人間が近くにいたとしても……家族として近くにいたとしても……自分なら……影響をうけないことが可能だ! という妄想的な自信があるのである。たいていの人は、実際にきちがい家族と一緒に暮らしたことがないので、実際のことはわからないので、「自分ならそんなのは無視できる」「自分なら、そんな人の影響をうけずに暮らすことができる」と、かってに妄想して信じ込んでいるのである。そして、そういう立場から、「人のせいにするな」「家族のせいにするな」「親のせいにするな」「兄のせいにする」と大上段に説教をしてくる。あの、凡人の佐藤(仮名)でさえ、そういう傲慢さがある。けど、これは、ただたんに、知らないから、そういうふうに言えるだけだ。経験がないので、そういうふうに言えるだけだ。これ、経験して言っている言葉ではないのである。けど、その人たちだって、「俺だって……」「親とのトラブルがあった……」「家族とケンカしたことがある」ということを言うだろう。けど、それは、ボンボンの「困難」とおなじだ。実際、そういうことを言う人たちは、きちがい家族と一緒に暮らしているわけではない。経験がないのである。その人たちは、「普通の家族」と暮らしている。感覚器まで、ずれこんでいるきちがい家族とはいっしょに暮らしていない。そして、働けるなら……働ける体力状態を維持しているのであれば、その「トラブル」や「ケンカ」は実際に、影響がなかったということなのである。その「トラブル」や「ケンカ」は、働けなくなるほどの影響がなかったということなのである。これは、うちの兄貴の、ヘビメタ騒音とはちがう。これは、きちがいの兄貴の、長期にわたるヘビメタ騒音とはちがう。いっしょにするべきではない。けど、いっしょにして、話してしまうのである。大上段に説教をしてくる。そんなものであるはずかないだろ。うちの兄貴の!ヘビメタ騒音がそんなものであるはずがないだろ。みあやまるな。

2022年10月12日水曜日

ヘビメタ騒音でくるしい。みんなわかってない

  ヘビメタ騒音でくるしい。みんなわかってない。どのみち、みんな、わかってない。わかるわけがない。わかるわけがないけど、ヘビメタ騒音がなかったやつらが……人生のなかで、きちがい家族によるヘビメタ騒音がなかったやつらが……ヘビメタ騒音のことを無視して、あるいは、ヘビメタ騒音のことを過小評価して、ガタガタ言うのは、気にくわない。ほんとうに、自分だって、あの状況で七年間暮らしたら、通勤通学ができないからだになるのに、それがまったくわかってない。俺が、通勤通学ができなくなったと言ったら、できなくなったということなんだよ。ヘビメタ騒音『で』できなくなったと言ったらヘビメタ騒音『で』できなくなったということなんだよ。それを理解しないで、えらそうなことを、ぬかしやがって……。

ヘビメタ騒音の影響を過小評価するな。おまえが過小評価できるのは、経験してないから。きちがい兄貴というハンディがないから……。きちがい的な兄貴というハンディがなければ、なんとだって言える。きちがい兄貴が鳴らしているときの意識状態や、きちがい兄貴が、「鳴らすな」と言われたときの意識状態なんて、ほかのやつらにわかるわけがない。きちがい兄貴は、一秒だってゆずってくれないけど……意地になって鳴らすけど……「鳴らすな」と言われたら、きちがい的な意地で鳴らすけど……自分が鳴らしたつもりはというのは、「いつも」ないんだぞ。そういうきちがいが家族にいる状態というのがわからないだろ。そういうきちがい家族が、とりつかれたように、きちがい的な意地で、ヘビメタを鳴らすということがどういうことなのかわからないだろ。そういう生活をしてなければ、一日でも、どれだけヘビメタ騒音がこたえるかわからないだろ。千数百日続いて、高校入試をうけるときの気分がわからないだろ。毎日、こっぴどくやられる。けど、きちがい兄貴のなかでは、自分がかかわっているつもりがないんだよ。どれだけ言われたって、自分がかかわっているつもりがない。きちがい兄貴が張本人なのに、張本人のきちがい兄貴がまったくやったつもりがないのだ。頭がおかしいからそういうことが平気でできる。そして、いつも、そういうモードなんだよ。いつも頭がそういうモードなんだよ。反省なんてするわけがないだろ。こんなの、他人にわかるわけがない。

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きちがい兄貴のヘビメタに対する態度は、きちがい親父のいろいろな物事に対する態度おなじなんだよ。こまるんだよ。

みんな、ヘビメタ騒音のしつこさと、きちがい兄貴の頑固さがわかってない。頭がおかしい。ほんとうに、普通なら絶対にわかることが、どれだけ説明してわからないんだよね。自分に都合よく、現実認知を書き換えてしまう。頭がおかしいからそういうことが、できる。頭がおかしくない人だと、自分がわざとやっているということを、どうしても、(現実認知を書き換えていると)認識せざるをえないんだよ。

こういうことに関する、世間の人の「わからなさ」がまた、すごいんだよな。世間の親兄弟は、そういう人間じゃないから、そういう人間のことがわからない。そういう人間といっしょの家にすむということがどういうことなのか、わかってない。これも、こっちがどれだけ説明したって、経験がなければわからないという世界だ。

発狂的な意地でやったことが、全部やってないことになっている。そういう頭をもっている。これが、どれだけ、ほかの人に言いにくいことか、みんな、わかってない。けっきょく、ほかの人は、きちがい兄貴のような家族から、騒音攻撃を受けたことがないからそういう騒音攻撃を受けた一日というのがどれだけつらい一日になるかわらない。次の日も、必然的につらい一日になる。そりゃ、鳴らされていると、眠るべき時間に眠れなくなるから、次の日も影響をうけるのである。それが毎日続いたら、どんなことになるか、ほかの人は、わかってない。自分のからだで経験したことがないから、俺がヘビメタ騒音のことを説明しても、ヘビメタ騒音の影響を過小評価したり無視したりする。これが、ほんとうに、頭にくる。きちがい的な家族にやられているからこそ、きちがい的な家族にやられたことがない、普通の人たちには、まったく経験がないことになる。どうしてかというと、普通の人たちの場合は、きちがい的な家族と一緒に住んでいるわけではないので、そういう経験がまったくないということになるのである。これ、職場や学校で、きちがい的な人にやられる……というのはとちがうのだ。職場や学校で、きちがい的な他人にやられるというのとは、ちがうのだ。これがまずわかってないんだよな。普通の人は、普通の親に育てられているから、わからない。普通の人は、普通の家族に囲まれて生活しているので、わからない。きちがい的な家族……きちがい的なみうちにやられたことがないんだよね。そうなると、きちがい的な家族というものがどういうものだか、根本的にわかってないということになる。佐藤(仮名)のような障碍児教育にかかわっている人間だって、きちがい的な家族がいない家庭で育った場合は、きちがい的な家族がどういうものかわかってないというところがある。そうすると、きちがい家族がどういう感覚で、どういう認知で、どういう態度で、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らすかということが、「肌感覚で」わからないということになる。だから、自動的に、過小評価する。自分の家……きちがい家族がいない家庭……のなかで起こったことを基準にして、きちがい家族のことについて考えてしまう。きちがい家族がいない家庭のもめごとを基準にして、きちがい家族がいる家庭のもめごとを考えてしまう。自動的にそうなする。それ以外にないということになる。考えられるわけがない。普通の家族に囲まれて育った人は、気普通の家族の基準で、きちがい兄貴による「ヘビメタ騒音」というものを認知・認識してしまう。けど、それは、まちがった、認知・認識なのである。きちがい家族が行為の主だというとが、根本的にわかってない。だから、そういう「自分が経験したことがない」騒音について、過小評価したり、無視したりしてしまうのである。ヘビメタ騒音そのものだけではなくて、ヘビメタ騒音の影響も、過小評価したり、無視したりしてしまうのである。

2022年10月9日日曜日

39度のお湯につかっている人は、別に、能力があるわけでもなく、性格がいいわけではない

39度のお湯につかっている人は、別に、能力があるわけでもなく、性格がいいわけではない。最初から39度のお湯につかっているから「快適だ」と感じることができるわけだ。

そして、39度のお湯につかっている人は、1度の水につかっている状態から39度のお湯につかっている状態を、自分の努力で、手に入れたわけではない。

つまり、1度の水につかっている人がどうすればよいのかということは、知らないのである。知らないのに、「快適になる方法」を、1度の水につかっている人に教えて、優越感にひたっているのである。

「1度の水につかっているところから、自分の力で39度のお湯につかれるようにした」ということではないのだ。このことは、絶対におぼえておかなければならないことだ。

彼らは、最初から39度のお湯につかっていて、1度の状態を知らない。

1度のお湯につかっている人は、1度の水につかっているので、「つめたい、つめたい」と言うわけだ。「つめたい、つめたい」というのは、39度のお湯につかっている人から見れば、「愚痴」と認識できることである。また、「不満を言っている」と認識できることなのである。

それは、1度の水につかっているから出る言葉なんだけど、それを、条件的にめぐまれている人は「愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言っている」と決めつけるのである。

それを、条件的にめぐまれている人は「不満を言いやすい性格だから不満を言っている」と決めつけるのである。

自分は愚痴を言わない性格でポジティブな性格だから「快適だ快適だ」と言っていると思ってしまう。完全に、うぬぼれている。

人間のからだの構造を考えれば、1度の水につかっていれば「つめたい」と思うのがあたりまえだ。

そして、それは、からだに悪いことなので、「つらい」と思って、「つらい」と言う。それは、人間のからだをもつものにとっては、あたりまえのことだ。

ところが、めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は、めぐまれていない人に対して「愚痴を言うから不幸になる」「不満を言うから不幸になる」と言い放ってしまう。

39度のお湯につかっている人が、1度の水につかっている人間に対して、「愚痴を言うから不幸なのだ」言い放ってしまう。1度の水につかっている人のことをバカにする。もちろん、バカにするつもりはないのだろうけど、バカにしている。

さらに「自分は愚痴を言わない(いい性格だから)しあわせなんだ」という自分勝手な解釈をしているのである。39度のお湯につかっている人は……。うぬぼれ。うぬぼれ。

1度の水につかれば、自分だって「つめたい」「つめたい」と言うようになるのだけど、そういうことに関して想像することができないのである。生まれたときから、めぐまれているから、めぐまれない人のことが、自分の経験をとおして理解できない。

うぬぼれている人は、一生のなかで一度も、1度の水につかったことがない。だから、うぬぼれている人は、めぐまれてない人がさらされている状態がわからない。

めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は「つめたいと愚痴を言うから、不幸になる」「不幸な人はみんな、愚痴を言う」と、因果関係を無視した二項文を言うことになる。まるで、アドラーのように。

ようするに、「1度の水につかっている人は、愚痴を言うから不幸になる」ということを、39度のお湯につかっている人が言う。しかし、ほんとうは、1度の水につかっているから、不幸なのだ。

愚痴を言うから不幸になるのではなくて、1度の水につかっているということ自体が、不幸な状態なのだ。その状態自体が不幸だ。

いっぽう、39度のお湯につかっている人は、その状態自体が、幸福なのだ。別に、能力や性格の問題ではないのだ。

状態が発言をつくりだしている。

条件が発言のちがいをつくりだしている。

ところが、めぐまれているがゆえに、うぬぼれている人は、状態や条件のちがいを無視して、「自分は性格がいいから、幸福」「愚痴ばかり言って性格が悪い人は、不幸」などということを言い出す。

「快適だ快適だと言えば快適になる」ということは、すでに、39度のお湯につかって、快適だと感じている人が言う言葉なのだ。

この人たちは、「快適だ快適だ」と言う前に、快適な状態を経験している。言葉にしなくても、快適なのだ。すでに快適。

ところが、「快適だ快適だと言ったから快適に感じることができるのだ」とまちがった解釈してしまうのである。

1度の水につかっている人は「快適だ快適だ」と言っても、快適な状態にならない。1度の水につかっているからだ。1度の水につかっているということが、くるしさをうみだすのである。

1度の水につかりながら「快適だ快適だ」と言っても、水温があがるわけではないので、快適にならない。言えば快適になるというのは、まちがった理論だ。めぐまれた人がめぐまれてない人に対して言う言霊的なアドバイスは、まちがっている。状況を無視したアドバイスなので不適切だ。

快適な人が、だれに、アドバイスをするのかというと、快適ではない人にアドバイスをするのだ。しかし、このアドバイスでは、水温をあげることができない。

そうなると、1度の水につかっている人は「快適だ快適だ」と言いながら、1度の水につかっているということになる。アドバイスを聞くとそういうことになってしまう。

こごえながら、「快適だ快適だ」と言うことになるのである。

これは、快適な状態じゃない。

そして、認識としては、こごえながら「快適だ快適だ」と言っているという認識がしょうじる。

これは、つらい状態だ。やせ我慢をして、自分をごまかしている状態なのである。

アドバイスにしたがう場合、39度のお湯につかっている人が、水温という条件を無視したように、1度の水につかっている人も、水温という条件を無視してしまう。

39度のお湯につかっている人が「快適だ快適だ」と言いやすいのは、39度のお湯につかっているからだ。そして、1度の水につかっている人が「つめたい」と言いやすいのは、1度の水につかっているからだ。

ところが、39度のお湯につかっている人がそういう条件を無視して、「快適だ快適だ」と言えば快適になるというアドバイスをしてしまう。

1度の水につかって「快適だ快適だ」と言っても、快適にならない。

その方法は無効な方法なのである。

どうして無効かと言うと、1度という水温が不幸感をうみだしているのだからだ。1度という水温がかわらなければ、不幸感がへることはない。ようするに、快適だ快適だということよりも、実際に温度がかわることが必要なのである。

「快適だ快適だ」と言うことで水温があがればいいけど、あがらない。39度にならない。39度の人は、「快適だ快適だ」と言うまえから「快適」なのである。

この人たちは、これがわかってない。そして、この人たちは無効なアドバイスをする。

けど、39度のお湯につかっている人は、自分のアドバイスが無効なアドバイスだとは思ってないのである。

どうしてかというと、自分には有効なことだからである。

自分は「快適だ快適だ」と言ったら快適に感じた……と思っているのである。

なので、その方法は有効なのであり、「無効だ」と言ってくるやつは、言いがかりをつけているだけだと思うようになる。「無効だ」と言ってくるやつのの性格が悪いと思うようになる。

もともと、快適なのだけど「快適だ快適だ」と言ったら、快適であると認識をしたということなのであるけど、この人たちは「快適だ快適だ」と言った「から」快適なのだと誤認してしまう。

そして、「つめたい」と言っている人たちを見て、「愚痴を言う人」「文句を言う人」「ネガティブな人」と決めつけてしまう。

快適な温度のお湯につかっている側から見ると、「つめたい」と言っている人は、そういう「ダメな人」にしか、見えないのである。だから、これに関しても、……彼ら……恵まれた人は……「自信がある」状態なのである。

「つめたい」とネガティブなことを言うやつは性格が暗くて、不幸だけど、「快適だ」とポジティブなことを言う私は、性格が明るくて、幸福な人間だと思ってしまうのである。

「つめたいと言うからだめなんだ」「つめたいとつらいとうけとめるから、だめなんだ」と言って、「ダメな人が不満を言った」「ダメな人が愚痴を言った」ということを問題にする。

また「つめたいと言っている人は、つめたいとうけとめているからだめなんだ」と言って、うけとめかたを問題にする。

 

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「つめたいと愚痴を言う人は、愚痴を言うような性格だからダメなんだ」と言って、「つめたい」と言う人のことを、「愚痴を言う人」と決めつける。さらに、「愚痴を言うような性格だからダメなんだ」と性格のせいにする。

こういう人のなかでは、一度の水につかっているときに「つめたい」というのは、愚痴なのだ。そういう経験がない人には、そういうふうに見えるのである。

AさんとBさんがいたとする。Aさんが「つめたい」と言ったとする。Bさんが、Aさんが「つめたい」と言ったところを見て、「Aさんは愚痴を言った」と認識した場合、Bさんにとって、「Aさんが愚痴を言った」という認識ができあがっただけだ。

Bさんのなかでは、Aさんが愚痴を言ったということは、事実として認識されるのである。しかし、愚痴かどうかはわからない。Aさんは「つめたい」と言っただけ、「愚痴」を言ったわけではない。「つめたい」と言ったということを、「愚痴を言った」と変換してとらえたのは、Bさんのなのである。

しかし、Bさんは、Aさんが愚痴を言ったと決めつけている。

しかも、Aさんが、ずっと、1度の水につかっているという、状態は無視して、そういうことを言う。「愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言う」「愚痴を言いやすい性格だから、不幸なのだ」と決めつけてしまう。

アドラーのような人は、こういうことをやっておいて、「自分は性格がいいけど、愚痴を言っているやつらは、性格が悪い」と思っているのである。

2022年10月8日土曜日

「おまえ、わかってないだけじゃないか」と言いたくなる。

 いま、段ボールの箱を解体していたのだけど、そういうことをしているあいだも、ヘビメタ騒音のことが気になる。気になるというか、けっきょく、この部屋で、いろいろなことをやっていたとき、ヘビメタが鳴っていたので、どうしても、「雰囲気」としてあるんだよな。まあ、この部屋じゃなくても、そうなる。しずかで、普通に作業できるときは……なんていうのかな……いってみれば……うまくいっている状態なのだけど……そういう状態が続くのかどうかという不安があるのである。中学のときは、つねに、きちがい兄貴のほうが、はやく、うちに到着していたので、中学のときは、つねに、ぼくがうちに帰ると、ヘビメタが鳴っていたのである。でも、高校のときは、ぼくのほうが、はやく帰れるときがあったのだけど、そういうとき、きちがい兄貴が帰ってきて、きちがいヘビメタを、きちがいしか鳴らなさないような、でかい音で鳴らし始めた。で、きちがい兄貴が鳴らし始めたら、どれだけ言っても、殺さなければ、やめさせることができない状態になる。この、きちがい頭がわからないんだよね。どれだけ、一秒もゆずらないで、鳴らし切ることに、意地がかかっているか? みんなわかってない。きちがい親父の状態とおなじなんだよな。きちがい兄貴だって、きちがい親父の感覚で、きちがい的なことをおしつけられたとき、めちゃくちゃに怒っていたのに、自分が、きちがい親父感覚で、自分の弟にきちがい的なことをおしつけるときは、まったくわかってないんだよね。相手にとって腹がたつことだということがわかってない。腹がたつと言っても、これが、ものすごく腹がたつことなのである。これは、発狂的に腹がたつコードが含まれている。これ、普通の人間じゃないからできることなんだよ。普通の感覚の持ち主じゃないからできることなんだよ。普通の人間が、出来事を記憶するような方法で、出来事を記憶しないことになっているから、できることなんだよ。普通の人間だったら、絶対に、自分が意地をはってやりきったということが、わかるのだけど、きちがいだから、その部分が、抜けちゃっているのである。ごく自然に抜けちゃっている。これは、相手にとっては、やはり、腹がたつことなんだよ。みんな、きちがい家族がどういうことを、どういう感覚で、どういう記憶のしかたでやっているか、わかってない。そこには、普通じゃない感覚や記憶のしかたがあるのである。だから、それ自体が、ものすごくむかつくことなんだよ。こういうことが、ほんとうに「よそ」の人にはわからないんだよな。自分だったら、ちゃんと自分がこまっているということを説明してやめさせることができると思っているんだよね。自分だったら、たとえ鳴らされても、そんなに影響をうけないと思っているんだよね。それは、きちがい兄貴の態度で、きちがい騒音を、聞かされたことがないからそう思っているだけだ。きちがい家族による騒音というのは、普通の家族による騒音とちがうのである。だいたい、あんなことが、ずっと成り立つなんておかしい。けど、それで困っているのが、俺だけなんだよ。おかあさんも困ってはいたけど、俺ほどは困ってないんだよ。俺が困っていた。俺の部屋が一番、きちがい兄貴のスピーカーに近い。ほんとうに、こんなの、和室六畳にもち無用なものじゃないのに、ぼくの部屋の、すぐうしろにスピーカーがある状態なんだよな。部屋を構成する壁のすぐうしろにスピーカーがある状態なんだよ。これ、距離と、建物の構造で、だいぶ、聞こえる音のでかさがちがうのである。おまけに、おかあさんは、ちょっと聴力が弱いところがある。ぼくが、おかあさんの部屋では、眠れたけど、自分の部屋では、どれだけがんばっても眠れないんだよね。きちがい兄貴が鳴らしているときに、おかあさんの部屋では、眠ることができたけど、俺の部屋では眠ることができなかった。音の差がある。ちょうど、ななめ横なんだよな。一階と二階で高さの差があるし、横方向でも、ずれているので、聞こえ方がちがう。まあ、すごくうるさい音で鳴っている状態にはかわりがないのだけど、すっーっと、音圧がちがうようなところがある。おかあさんだって、普通の母親だったら、絶対に、自分の感覚で静かにさせるのである。おかあさんも、きちがい親父とは方向が逆なのだけど、普通じゃないんだよね。あまりにいい人で、自分の理由で、自分ががみがみ怒って、相手をおさえつけるということが、まったくできない。おかあさんが、きちがい兄貴に注意したのは、俺が……弟がこまっているから、しずかにてあげて……ということなんだよね。自分の理由じゃないんだよね。じゃあ、こまってないのかというと、こまってないわけじゃないんだよね。まったく、欲がないような感じの人なんだよ。普通だったら……普通の人だったら……普通の母親だったら、自分の理由で怒っている。絶対にやめさせようとしている。そういう欲を感じるはずだ。けど、欲がないのである。相手をおさえつけて、言うことを聞かせるという部分がまったくない人なんだよなぁ。自分が我慢しちゃうわけ。自然に、自分が我慢しちゃうわけ。こういうところでも、ほんとうに、「うち」はバランスが悪い。けど、兄貴と親父は、特殊なんだよ。頭がおかしい。これ、普通の人がお芝居でまねをしているわけじゃないからね。でかい音で鳴らしているのは、聴力が正常な人間として「知っている」けど、でかい音で鳴らしていないと思い込んでいるふりをしているというのとはちがうんだよね。きちがい親父だって、きちがい兄貴だって、発狂的な意地でやっているのに、根本的に「やった」という記憶が抜け落ちている状態なんだよ。これが、ほかの人にはわからないんだよな。だから、自分は我慢しないわけ。自然に、発狂して、自分がやったことを「相手におしつける」わけ。で、「おしつけたつもり」がまったく、しょうじないわけ。で、これが、頭の構造で、きまっていることなんだよ。どれだけ言っても、頭の構造がわかるわけじゃないから、行動や認識や感覚が、かわらないんだよ。相手がどれだけ言っても、相手がどれだけなぐっても、それで、頭の構造がかわるわけじゃないんだよ。生まれてからずっと、そういう頭の構造の頭を搭載して生きているわけ。だから、気がつかないんだよ。ほかの頭……正常な頭を搭載して、生きてみて、きちがい的な頭を搭載して生きているときと、くらべたわけじゃないから、わからない。なんだろうが、ごく自然にスイッチが入って、絶対の意地で頭がおかしいことをやって、頭がおかしいことをやったということを、絶対の意地で否定することになる。だから、こまるんだよ。こういう家族に困らせられたことが、人生のなかで一度もないやつに、えらそうなことを言われたくない。ゆるせない。それはそれで、ゆるせない。「おまえ、わかってないだけじゃないか」と言いたくなる。

2022年10月7日金曜日

なにもわかってない99%が、普通に無視することが、こっちにとって現実なんだよ!!

 けっきょく、ヘビメタで人生がない。きちがいヘビメタの影響をうける。どれだけの、意地で、きちがいヘビメタを、でかい音で鳴らしていたか? どれだけ、きちがい的な無視のしかたで、こっちが言っていることを無視していたか? きちがい兄貴が鳴らしていた。きちがい兄貴が、こっちが言っていることを無視していた。こういうことがわかってないやつらが……きちがい兄貴によるきちがいヘビメタというハンディのないやつらが、くそずれたことを言う。くそずれたことを言う。そして、くそずれたことを言うやつらが、99%の割合なのでる。こんな、世界、ない。けっきょく、ぼくの部屋にいて、ヘビメタ騒音を、ぼくとおなじように経験してないやつらは、ヘビメタ騒音についてまちがった解釈をして、まちがったことを言いやがる。ヘビメタ騒音は、生活すべてにかかわる問題なので、当然、生活すべてにかかわる問題についてまちがったことを言ってくることになる。

これ、きちがいが、きちがい的な意地でやると、そうなっちゃう。きちがい的な家族がいるという状態がわかってない人たちばかりだ。きちがいが、うちのなかで、どういうふうに、ふるまうかわかってない。きちがいの感覚がわかってない。どれだけやったって、やってないことになっているんだぞ。で、やり方がおかしいのである。けど、やり方がおかしいと言っても、実際にそういうやり方でやられてないやつらにとっては、どうでもいいことなのである。そうなると、こいつらも、そこから!しょうじた!影響について、過小評価をする。あるいは無視をする。こっちにはあることなんだよ。鈍感な99%……なにも知らない99%……なにもわかってない99%が、普通に無視することが、こっちにとって現実なんだよ!! 

影響があると言っているだろ!!!影響があると言っているだろ!!!

2022年10月5日水曜日

条件に関しては、都合よく、無視してしまうのである。

 たとえば、39度のお湯につかっている人にとっては「快適だ快適だと言えば、快適になる(快適な感じがする)」といったことは、「事実」なのである。いっぽう、1度の水に使っている人にとっては、「事実」ではない。

1度の水につかっている人は、39度のお湯につかって「快適だ快適だ」と言えば、快適な感じがするのだろうということを想像しなければならなくなるのである。

水の温度という条件がちがう。

この条件のちがいを無視してしまうのである。

めぐまれた側の人……生まれたときから恵まれた生活をしている人は、39度のお湯につかるのが当たり前なので、1度の水につかっている人のことなんて考えることができないのである。

1度の水につかっている人は……つかるしかない人は、どれだけ「快適だ快適だ」と言っても快適にはならず、つめたい水のなかで、つらい思いをすることになる。

人間のからだというのは、物理的な存在だ。そして、生きていくには、さまざまなしくみがある。体温をだいたい36度あたりで維持しないと生きていけないのである。

それは、言霊の「空想世界」とはちがって、「現実世界」だ。物理的なからだに依存していることは、物理的なからだに依存しているので、「空想世界」でだけ、快適になれば、それでいいということにはならないのだ。

ところが、39度のお湯につかれる人間にとっては、39度のお湯につかっているだけで、物理的な条件が満たされてしまうので、物理的な条件について考える必要がないのである。

所与の条件として、快適に感じられるようになっているのである。

なので、「快適だ快適だ」と言えば「快適に感じることができる」あるいは「快適になる」というのは、その条件において、「真実」なのである。

ようは、条件が成り立っているから、「快適だ快適だと言えば快適になる」ということが真実であるように感じることができるだけなのだ。

ところが、こういう「言霊」的なことを言う人は、そういうことを……つまり、所与の条件を無視してしまう。なので、言霊は絶対法則として成り立つというようなことを言う。条件に関係なく、言霊が成り立つのである。

条件に関しては、都合よく、無視してしまうのである。

しかし、条件はある。そして、言霊なんかよりも、物理的な条件のほうが人間のからだや人間が自然に持つ感じ方に、影響をあたえるのである。

じつは、条件が満たされている人が、条件が満たされてない人の感じ方を無視しているのである。どうして無視することができるかというと、すでに、その条件が満たされているからだ。

これがわかってない人が多すぎる。こういう人たちは、エックスをすればワイになるといった二項文を絶対的な法則だと思っている。

彼らにとっては絶対的な法則なのである。彼らは、条件を考えないので、現実世界において条件を満たしてない人にも、この絶対的な法則が成り立つはずだと考えてしまうのである。

しかし、そういう思い込みや思い込みにもとづく発言が、条件をみたしてない人のこころをゆさぶり、傷つけるのである。



2022年10月3日月曜日

「楽しいと感じよう」と思って、感じている?「楽しさ」とはちがう「楽しさ」

 けっきょく、なにもかもがつまらない。どうすればいいんだろうな?

これ、やっぱり、現実の生活が重要なんだよ。現実の経験が重要なんだよ。自分が経験したことがいっぱいあるはずだ。時系列的につみあがっているはずだ。でっ、ようするに、時系列的につみあがった、自分の経験が、いまのからだの状態と、いまの精神の状態を規定している。自分の経験とは、関係なしに、いまのからだの状態と、精神の状態が決まっている、わけではない。ところが、「意志」は「意志」だから、こういう状態はいやだと思うことがあるのである。しかし、意志の言うことを、聞かない部分がある。どれだけ「意志」が「楽しめ」と命令しても、いままでの経験がつくりだした、からだと精神は、「意志」の言うことを聞かない。むりなものはむりなんだよという反応をする。精神と言ったけど、これは、脳みその活動だ。じつは、全体の知覚も脳みその活動だ。意志も脳みその活動の一部だ。脳みその活動の一部が、ほかの脳みそに、意識的なことを言っても、ほかの脳みそは、「むりものはむりだ」と言ってくる。ようするに、ほかの脳みそも、自律的に活動しているのである。その「意志」以外の自律的に活動している脳みそには、自律的活動しているだけの理由があるのである。なので、脳みその一部である「意志」がどれだけ、命令をしても、「意志」の言うことを聞かない。特に「楽しむ」というような感情的な活動に関しては、全体的に自然な流れがなければならないのである。ようするに、流れの中で「楽しい」と感じることが必要なのである。これは、「楽しいと感じよう」と思って、感じている?「楽しさ」とはちがう「楽しさ」なのである。 

2022年10月2日日曜日

過去

 

 つまんない。

楽しくない。

楽しくない。

これは、しかたがないことだ。あんなことをされ続けて、楽しいわけがない。あの生活の延長線上にあるこの生活が楽しいわけがない。「過去は過去」。「過去は過去だけど、だから、過去の出来事は、いまの状態とは関係がない」と考えるのはおかしい。これは、好みの問題ではない。過去の出来事には、いま現在の状態に影響をあたえる過去の出来事と、影響をあたえない過去の出来事がある。影響をあたえないということは、じつはなくて、影響がないと考えることができるぐらいに小さな影響しかあたえてない過去の出来事だということになる。ある時点で、ワクチンを打てば、ワクチンを打ったということの影響がある。プラシーボにあたった人や、弱毒でまだ影響がない人には、影響がないと思えるような過去の出来事だ。しかし、物理的なからだの変化がある。その変化は、原子の運動に置き換えることができる。ようするに、生化学的な変化が起きてしまう。本人の意思に関係なく、からだを構成している原子に変化がしょうじる。まあ、分子というレベルで考えたほうが、考えやすいのだけど、分子レベルの変化というのも、けっきょく、原子レベルの変化で説明がつくので、原子という言葉を使っておいた。……。まあ、遅延性の毒をからだにいれたら、毒が効果を発揮するということだ。人間の意志とは関係なく、人間のからだに変化がしょうじる。そうしたら、変化の影響をうけないわけにはいかない。わかるかな?

*     *     *

「過去はかわらないけど、過去の解釈は変えることができる。過去の解釈をかえれば、過去がかわったということになる。だから、過去をかえることはできる」……と考える人たちがいる。けど、意志にしたがって書き換えようとしたばあい、意志にしたがって書き換えようとしたという過去の出来事がしょうじるだけだ。たしかに、解釈によって、過去の現実世界に関する解釈はかわる。しかし、それは、自然な変化でなければならないのである。意識的に「こういうふうに思おう」と思って、思い込もうとした場合は、そういうちからがあるぶんだけ、反作用も同時に生じてしまうのである。意識的な書き換えを必要としているということは、その過去の出来事がいまの自分にとってあんまりよくない過去の出来事だということを意識しているということだ。手短に言うと、りきみがある。ご利益主義で、ご利益をもとめている。意識して、改ざんしようとしている自分を知っている。意識して、改ざんしようとしている自分というものに関する意識がしょうじる。改ざんというのは、この場合は、記憶の改ざんだ。自分で記憶の改ざんをしようとしている……ということを知っている。これは、重要なことだ。自然な変化と言ったけど、自然な変化の場合は、そういうりきみがないのである。ご利益のために、書き換えようと思った瞬間に、作用と反作用がしょうじて、うまくいかないのである。ご利益が得られない。



毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。