これは、軽い感じで書く。そんなには、深く考えていない。かーーんじとして、そういうことがあるんじゃないかなと思って書く。
アドラーは、善悪の基準が確固たるものだと思っているみたいなのだけど、善悪の基準というのは、出来事をとおして、ある程度かわるのではないかと思う。大人になった場合はそうだ。
こどものうちは、もっとやわらかくて、善悪の基準をつくっている時期なのである。幼児だと、こどもよりも、もっともっとやわらかくて、善悪の基準をつくっているような時期なのだと思う。幼児がどうやって、善悪の基準を獲得していくのかというと、じつは、「親」の反応を見て、善悪の基準を獲得していくのだ。
この場合の「親」というのは、身近な他人という意味だ。
親じゃなくても、同じ家に住んでいる身近な他人の反応を見て、善悪の基準を獲得していく。赤ちゃんのときから大人になるまで、そして、じつは、死ぬまで、この善悪の基準は発達していく。
しかし、時系列的なことを考えると、赤ちゃんから子供時代までの発達のほうが成人以降の発達よりも、でかい影響をあたえる。赤ちゃんから子供時代に獲得した善悪の基準が大人になったあとも、「しん」として残るのである。
ちょっと、ちがうけど、たとえば、身長の伸びは、赤ちゃんから成人するまで大きく変化して、一度成人してからは、あまり変化しない。
逆に、背骨の影響で年をとるとじゃっかん縮む場合もある。身長の伸びがぴったり比喩としてあてはまるわけではないけど、小さいときのほうが、大きくなったときよりも、「善悪の基準」の変化量が大きいのである。
つまり、ちいさいときの変化は、大きくなったときの変化よりも、でかい。
そして、いわば、「骨格」のようなものになってしまうのである。ちいさいときの善悪の基準が、大きくなったときの善悪の基準の「コア」になるのである。
たとえば、ろうそくを溶かした缶のなかに、ろうそくのシンを入れて、取り出すとする。一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけて、ひっぱりあげて、もう一回つけてひっぱりあげるという行為をn回繰り返すとする。その場合、表面から見えなくても、一回目のろうそくが、表面のろうそくの「シン」として成り立っているということがわかる。
比喩は比喩なので、比喩には問題がある。
たとえば、真に近いほうが影響力がでかく、大きく変化しなければならないわけだから、一回目のほうが、二〇回目よりたくさんろうそくがつかなければならないのである。そういう意味で、比喩としては問題がある。
しかし、子どものころにつちかった善悪の基準は、その人の善悪の基準の「コア」として残るということだ。成人してから、善悪の基準を大きくかえるような出来事に遭遇するかもしれない。その場合だって、それまである善悪の基準を新しい基準に書き換えるとなると、葛藤がしょうじる。
今現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」をもとに少しずつ作り上げてきたものであって、現在の「善悪の基準」は過去の「善悪の基準」を「もと」にして作り上げてきたものだから、過去の「善悪の基準」は現在の「善悪の基準」と関係がないわけではない。
過去の「善悪の基準」はコアとして、現在の「善悪の基準」に大きな影響をあたえている。さらに、意識すれば意識できる意識的な善悪の基準と、意識しようとしてもなかなか意識できない無意識的な善悪の基準がある。この無意識的な善悪の基準は、ふつう「良心」とよばれるものだ。明確な言葉にならなくても、明確な基準として抜きだすことができないとしても、「なにかそれ」として、人間の行動や判断に影響をあたえる。
基本的には、自分のまわりにいる「他者」の反応を見て、人間は赤ちゃんのころから善悪の基準を獲得していくのである。善悪の基準を獲得していくには、いろいろな経験が必要だ。相手(身近な他者)が関係する出来事をとおして、善悪の基準を獲得していくのである。
「こういうことをしたら、親が怒った」とか「こういうことをしたら、親にほめられた」とか「こういうことをしたら親がよろこんだ」とか「こういうことをたら、親が悲しそうな顔をした」というようなことをとおして、善悪の基準が「かたちづくられていく」のである。
アドラーは、生まれたときから、善悪の基準がしっかりと成り立って、それが、生涯にわたってかわらないものだというような前提でものをはなしているところがある。
アドラーにしたって、赤ん坊のときから、しっかりと成り立っているとは、意識的には思ってないだろう。しかし、アドラーが考えている善悪の基準(そのものは)固定的で、あまり変化をうけないものなのである。
アドラーが絶対に無視したいのは、過去の影響なのである。「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」という宗教的な信念があるのである。
この信念は、単なる宗教的な信念で、合理的な根拠がない。
しかし、あたかも合理的な思考にしたがって、「過去は関係がない」「過去の出来事は、現在の状態に影響をあたえない」と言っているのだという思い込みがある。アドラーの考える合理性は、彼が考える範囲のなかで成り立つ合理性なのである。