2021年6月17日木曜日

「自分は自家用ジェット機なんて買えない」と思ったから、「自家用ジェット機が買えない自分がいる」


ちょっと、繰り返しなるけど、アフリカの貧しい地域に住んでいる貧しい子供が、「三〇〇〇円のステーキ」を食べられるかどうかということについて、もう一度、考えてみよう。三〇〇〇円と書いているけど、各国の通貨に換算して三〇〇〇円相当のステーキということだ。

まず、おカネをかせがないことには三〇〇〇円のステーキは食べられない。そして、近くに三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店があるかどうかを調べなければならない。

近くにない場合は、どこにそういう店があるか調べなければならない。遠くにある三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店に行くまでの道のりについて考えなければならない。そして、その交通費をかせがなければならない。

いっぽう、たとえば、東京のサラリーマンは、三〇〇〇円のステーキを食わせてくれる店について、たぶん、知っている。街を歩けば、いろいろな店があり、そういう店でどのくらいの値段で、ステーキを提供しているかわかる。

もし、わからないとしても、スマホで調べればすぐにわかる。給料をもらっているので、一食三〇〇〇円ぐらい払うことは、なんでもないことだ。まあ、「奮発して食べないと食べられない」ということもあるかもしれないけど、奮発すれば食べられる値段だ。

なので、三〇〇〇円のステーキを食べようと思ったら、三〇〇〇円のステーキを食べることができる。

アフリカの子供は、三〇〇〇円のステーキが食べられるのに、食べないということを「選択」しているのだろうか? ぼくは、「選択」してないと思う。

それなのに、精神世界の人は生まれの格差を無視して、「あなたの現実は、あなたが選択したものだ」と言ってしまう。

ようするに、いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が作り出したものだということを言っているのである。いろいろな方法を考えても食べられないという状況は、自分が選択したものだと言っているのである。

しかし、現実世界ではそうではない。精神世界の人たちは、生まれの格差というものを無視して、すべては、自分が選択したものだと言う。

たしかに、昼食で、牛丼を食べるか、冷や麦を食べるか、ハンバーガーを食べるか、チャーシュー麺を食べるか、タンメンを食べるか、寿司を食べるか、パンを食べるか選択できる……人はいる。店がたくさんあるところに住んでいるか、そういう地域に通っていて、なおかつ、おカネを持っている人は、なにを食べるか選択できる。

そういうふうに、選択できるものは選択できる。

選択肢のなかに、牛丼を食べるという選択肢が含まれているので、数ある選択肢のなかから牛丼を食べるということを「選択」することができる。

しかし、これは、自分には所持金があるということや、自分がいる場所の近くに、いろいろな店があるという「条件」が、みたされてなければならない。店もあるし、おカネもある……そういう状態で選択できることなのだ。

なので、「なんでも選択できる」ということではない。

東京に住んでいるサラリーマンだって、自家用ジェット飛行機は、たいていの場合、買えない。一億円する食べ物は、たいていの場合、食べられない。これは、選択肢のなかに入ってない。

人によって選択肢がちがう。条件がちがう。

こういうことをまったく考えないで、「選択」「選択」と言っているのが、精神世界の人たちだ。

これ、「選択」と言っているけど、「思ったことが現実化する」という言い方にスライドさせることができる。「どういう現実だって選べるのに、あなたが、いまのような現実を選んだからそうなった」というような考え方だ。

自家用ジェット機を買える自分を思い浮かべれば、自家用ジェット機を買える自分になったはずなのである。それなのに、自分に制限をもうけて、「自分は自家用ジェット機なんて買えない」と思ったから、「自家用ジェット機が買えない自分がいる」のである。

なので、「自家用ジェット機を買える自分」を思い浮かべればそれだけで、「自家用ジェット機を買える自分になる」のである。

この場合、「思った」ということと、「選択した」ということは、おなじことだ。等価だ。言い換えているだけだ。「思ったこと」を「関心」と言い換える場合もある。

あるいは、言い換える方向がちがうけど、「引き寄せ」という言葉にも言い換えることができる。強く思えば、引き寄せることができるのである。これは、「思えば、現実化する」ということと、同じだ。

ともかく、「選択」という言葉を使っているけど、言っていることは「思っていることは現実化する」ということと同じだ。

「思う」というところを「言う」と言い換えると、「言ったことが現実化する」ということになる。言うことで、現実を選択できる……こういうふうに言い換えれば、言霊的な考え方になる。わざわざ「選択」というような用語を使う必要は、なくなる。

こういう考え方は精神世界の中では、くり返し現れる考え方だ。
 

2021年6月16日水曜日

しくみがわかったって、やられてしまったことは、かわりがない

 しくみがわかったって、やられてしまったことは、かわりがない。なので、やられてしまったことの影響を受けている。いまも、だるい。しくみがわかったところで、しかたがないのだ。

どうするかな?

ほんとうに、つまらない。こんなの、意味がない。どれだけのことが起こったか、そして、どれだけのことが起こらなかったか。起こすことができなかったか?

いやなことばかり起きて、希望していたことは起こらなかった。

 *     *     *

家に帰ってからのヘビメタ騒音時間が長いんだよ。あれをやられてないやつが、俺に対してえらそうなことを言う。やられてないからできるだけなのに、えらそうなんだよ。まるまるまる。

「おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為……「選択をした」1

 「選択をした」ということについて考えてみよう。

ようするに、自分が選択をしたから、こういう結果になっているという考え方について考えてみよう。これは、一見、正しいように見えるかもしれないけど、いろいろとまちがっている。

はっきり言ってしまうと、ペテン。

こういう初級レベルのペテンに引っかかってしまう人たちがいる。

まあ、ショーを見て、気持ちがよくなるのとおなじだから、ショーだと思って、セミナーに参加しているのであれば問題はない。

いや、ある。

これは、生まれついて不幸な人をバカにしている。

これは、たとえば、アフリカの貧しい地域に生まれた子供に対して、「飢えることをおまえが選択した」と言っているのとおなじだ。

こういう、無慈悲な考え方なのである。そして、「わたしは、うえてないもーん」と続く。「わたしはステーキ、食べられるもーん」と続く。


これが、ひどい話なのだけど、精神世界の人たちは、貧しい家に生まれることを選んだから、貧しい家に生まれたのだと考えている。しかも、自分のことではなくて、他人のこと……。

はっきり言えば、こういう人たちは、精神世界につかっていながら、精神世界のことがまったくわかってない人たちだ。そういうことを言って問題のない人は「受け止められる人」だ。たいていの人は「受け止められる人」ではないので、言うべきではない。

話をもとに戻す。食べるものさえほとんどない、貧しい家の子供に生まれたということは、その子供が、選択したことではない。

どうしてなら、生まれる前に選択などはできないからだ。選択というのは、意識的な意志で選択した場合においてのみ使われるべき言葉だ。それを、無視して、すべては意識的な意志によって選択されているという前提に立って、いろいろな「罪」をなすりつけているだけだ。

これは、貧乏人に向かって、「やい!ビンボーニン!! おまえが貧乏なのはおまえが選んだことなんだよ」と言って、石を投げるような行為だ。道徳的にただしいとは思えない。

たとえば、アフリカのまずいし子供は、高いステーキを食べられない。

けど、高いステーキを食べるということを選択しなかったから、そういう結果になっているだけだと言うのである……彼らは……。「すべては、選択の結果だ」「自分ですべてを選択していている」という言い方には、意識的な意志ですべてを選択できるという前提がある。

貧しい子供が、高いステーキを選択できるのかというと、できない。けど、「選択」の問題にしてしまっている。

それが問題だ。

ほんとうは、条件によって選択肢が限られている。この世では、選択肢が限られている場合のほうが多い。しかし、すべてを選択できるという架空の話をして、すべては選択の結果だという現実の話をするのである。なので、嘘がある。

セミナー講師をしておカネを儲けている人なら、高いステーキを食べる選択肢があるというだけの話だ。自分にはある。だから、ほかの人にもある……と思い込んでいるだけだ。

高いステーキを食べない人がいたら、それは、高いステーキを食べないということを選択したからだということになっているのである……セミナー講師の頭のなかでは……。

選択することができたのに、選択しなかった……こういう言い方で、選択できない状態を無視している。

たとえば、サラリーマンがいるとする。そのサラリーマンは、普段は一〇〇〇円ぐらいの昼食をとっているとする。しかし、ある日、「五万円するステーキを食べよう」と思って、五万円するステーキを食べたとする。

これは、まさに、五万円するステーキを食べるということを選択したと言える。

「みろ、選択したじゃないか。選択できたじゃないか」と精神世界の人は言うかもしれない。

「選択の結果」……そのサラリーマンは、五万円のステーキを食べるという新しい経験をしたじゃないか。

これは、選択の結果かどうか?

選択の結果だと思う。

けど、それは、そのサラリーマンが、決意をすれば、五万円のステーキを食べることができたという話でしかない。アフリカでうえている子供は、五万円のステーキを食べるということを選択したくても、選択できない。

選択できないのだから、五万円のステーキを食べることは、現実化しない。

それだけの話しだ。

精神世界の人たちが語っている世界は、「選択できるのか、選択できないのか」ということが問題にならない世界だ。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べられる世界の話をしているのである。精神世界の人たちは、誰もが、五万円するステーキを食べるということを選択できる世界の話「しか」してない。

世の中には、五万円のステーキを、食べられない人はいる。たとえば、貧しい地域のこどもは食べられない。彼らには五万円のステーキを食べるという選択肢はない。

だいたい、最低五万円は持っているということ以外に、いろいろな条件が成り立っているから、そのサラリーマンは五万円のステーキを食べることができたのだ。

たとえば、近くに五万円のステーキを出す店がない場合は、どうなる? 五万円のステーキを出す店を探すということができなければ、五万円ステーキは食べれない。

条件がある。

五万円するステーキを出す店が、「貧しい地域に」あるか? たいていはない。実行可能なことしか、選択できない。

どういうことが実行可能なのかということに関しては、個々人によって条件がちがう。だから、もちろん、一〇〇万円ステーキを食べられる人だっている。一〇〇万円のステーキを食べられる人がいたとしても、みんながみんな一〇〇万円のステーキを食べられるわけではない。

なら、一億円のステーキならどうか? 大抵の人は、食べられない。そんなものがあるのかどうかも知らないけど、普通の人は、一億円のステーキを食べられない。

一億円以上の貯金?がある人か、一億円の借金をすることができる人か、一億円ぶんおごってくれる人がいる人しか、一億円のステーキは食べられない。

それなのに、一億円のステーキを食べないことを選択したと言えるのか?

選択もなにも、最初から選択肢のなかに入っていないのだから選択できない。具体的な選択肢は、個々人によって、それぞれ、ちがう。

ちがうにもかかわらず、精神世界の人は、「みんな、どんなことでも選択しようと思えば選択できるのだ」という前提で、ものごとを語ってしまう。こういうところに、誤謬がある。トリックがある。

2021年6月15日火曜日

ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、ぼろっぼろっ

 ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、ぼろっぼろっ。みんなわかってくれない。ヘビメタ騒音がどれだけ強烈かわかってくれない。ヘビメタ騒音がどれだけ影響を与えるかわかってくれない。こんな不公平なことがあるか。あいつらはヘビメタ騒音がない状態で勉強ができて、今の地位を手に入れている。そいつらは、ヘビメタ騒音がなかった。ヘビメタ騒音がなければ、俺だって(通って)働くことができた。それなのに、ヘビメタ騒音がなかったやつが「人間は働いたほうがいい」と俺に説教をしてくるような状態になっていた。これがどれだけ頭にくることか、わかるか? まあ、「人間は働いたほうがいい」と言ってくるやつは、まったくわかってないのだろう。まるまるまる。

 

2021年6月14日月曜日

毎日の一秒一秒がヘビメタ騒音だ。

  毎日の一秒一秒がヘビメタ騒音だ。

2021年6月13日日曜日

セミナー会場から出れば、ディズニーランドから出たように、魔法がとけてしまう。

精神世界のセミナーは、ほとんどが、アトラクションやショーみたいなものだ。これは、ディズニーランドのアトラクションと同じなのである。

だから、セミナー会場を出てしまうと、効力を失う。

けど、はめ込まれている人たちは、ショーでも見ないとやってられない状態なのである。ショーはショーでも、「方法を教わる」ということだから、自分が主人公になれるショーなのだ。

もちろん、セミナーの主人公は、セミナー講師や主催者だ。

けど、方法を教わって、現実世界に戻れば、自分が主人公なのである。だから、あたかも、その方法が有効であるような気分でいられるのである。次の日、会社に行くまでは……。仕事場に行くまでは……。

しかし、会社や仕事場では、自分の地位や自分のやるべきことが決まっている。なので、ショーで教わった方法を試みることが、そもそもできないという状態になっている。ショーで教わった方法についてよく考えてみよう。

ショーで教わった方法というのは、全部が全部、幼児的万能感に根ざしたものだ。

だから、幼児期に、自分が採用していた方法なのである。

しかし、「潜在意識」とか「宇宙意識」とか「波動」とか「引き寄せ」とか「関心」とかという、衣をまとっているので、それが昔自分が採用して放棄した方法だとは気がつかないのだ。

まず、この人達……ショーの人たち……セミナーの人たちは、すべての現実は自分が選んできたものだという理屈を押しつける。これは、ものの見方だ。ここでやっていることは、「はめ込まれた状態などはない」ということを押しつけて、一時的に、縛りがない状態にするということだ。

縛りというのも、自分が勝手に選んで、縛っているだけだという言い方になる。

この場合の縛りというのは、会社に行ったり、会社で期待された行為をして働くということだ。あるいは、夫であるなら、夫としての役割、妻であるなら妻としての役割を、一時的に忘れるということだ。

本当は、そういうものがないと、人間は普通に暮らすことができないのだけど、セミナー会場では、一時的に、そういう縛りから自由になるのである。

過去の否定、過去の無視、過去の過小評価も同じ理屈で必要になる。「はめ込まれている状況」なんてないんだよということを、印象づけようとしているのである。

ようするに、自分が選び方をかえれば、現実がかわるという理屈を説明するために、まず、すべては自分の選択だということと、はめ込まれた状態などというものはないということを、説明するのである。

 これは、催眠術みたいなものだ。ほんとうは、自分が選んだことではないことも、自分で選んだということにしてしまう。どの地域に生まれかということや、どういう親のもとに生まれるかということは、自分が選んだことではない。

これも、前世を出せば、どういう親のもとに生まれるかも自分が選んだことになるということになるのだけど、前世はあるのかということが問題になる。前世という前提を信じないと、自分で選んだという結論も信じられないということになる。

けど、そういうところに行く人は、前世というような考え方が好きなので、抵抗なく信じるのだろう。

実際には、本人が選択したことではないことまで、本人が選択したことにされてしまうのだ。まず、ここに、嘘がある。その嘘は、強烈な効果を持つ。はめ込まれた状態のなかで、本人の選択が限られたものになっているということは認めない。そういうことは、絶対の意地で無視するのである。

はっきり言ってしまうと、自分にとって都合が悪いことは無視するということも、幼児的万能感の根幹をなす性質だ。自分にとって都合が悪いこというのは、自分にとって都合が悪い現実を含んでいる。

「現実」という言葉の持つ意味が、セミナー会場と、会社では、一八〇度かわってしまうのである。

基本的には、セミナーで教わる方法というのは、自分が幼児期に採用した方法だから目新しい方法ではない。しかし、それを、目新しい方法に見せかけるために、いろいろな用語を持ち出すだけだ。

ようするに、もともと、自分が知っていた方法しか、教わらないので、その方法では、「世界」はかわらない。自分が放棄した方法なのである。

どうして放棄したかというと、その方法が役に立たなかったからだ。

はめ込まれた状態のなかで、役に立たなかった。

一時的に、幼児的な思考に戻されて、なんでもできるような気分になっているだけなのである。セミナー会場から出れば、ディズニーランドから出たように、魔法がとけてしまう。

自分の文章が受けないのはわかるのだ

自分の文章が受けないのはわかるのだ。わかる。わかる。普通の人は、「どんなことにも感謝感謝」と言うような話を求めているわけで、「どんなことにも感謝感謝」という考え方には問題があるという話を求めてない。「できると言えばできる」という話を求めているわけで「できると言えばできる」という考え方には問題があるという話を求めていない。  


2021年6月12日土曜日

「できると言えばどんなことだってできる」「垂直飛びで三〇メートルジャンプできますか」(書き直し)

できるとかできないというのは、他人との比較なのだ。

たとえば、垂直飛びで三〇メートルジャンプできる人はいない。いないので、「できると言えばできる」と言っている人も、じつは、垂直飛びで三〇メートルジャンプできるとは思ってない。

思ってないのだけど、「人間ができないことは、できると言っても、できない」というようなことは、捨象されている。「人間ができないこと」と書いたけど厳密に言えば「人間ができないと(その人が思っていること)」だ。

「できると言えばできる」という言い方をするとき、その人は、例外をもうけてない。

「できると言えば、どんなことだってできる」のだ。そういう意味で言っている。だから、こういう人たちは、言うたびに、じつは、同じ言葉にちがう意味を込めて使っている。

これが、言ってみれば「意味のバッファ」になっていて、自分では矛盾に気がつかないようになっている。「そういう意味で言ったんじゃない」と言うことができるからだ。

+++会話例・開始

信者「できると言えばどんなことだってできる」

俺「垂直飛びで三〇メートルジャンプできますか」

信者「そんなことは言ってない。人間ができることは、できると言えばできるようになると言っているのだ」

++++会話例・終了

たとえば、こういう会話のあとでも、信者はなんとなく、「できると言えばどんなことだってできる」というようなファンタージを信じているところがある。「例外」があるのかないのかということについて境界線があいまいなのである。ファンタジーの世界のことを話しているのか、現実世界のことについて話しているのかについて、境界線があいまいなのである。「例外があるのかないのか」については考えないことにしている。すぐに「できると言えば、どんなことだってできる」という考えが復活してしまう。

この場合は、「例外」なんてないのである。

そういう、理論的な飛躍がある。

竹槍で、飛行機を落とすことだって、できると言えばできるのだ。

まあ、「できると言えばできる」と言うことに関しては、本人が本人に対して言う場合は、なんの問題もないので、追及はしないけど、「できると言えばどんなことだってできる」と他人に言う場合は、ちょっといろいろと、相手の状態を気にするべきだ。

「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言う人が、その言葉を言われる人のなにを理解しているのか?

なにも理解してないのである。

はげまして、いい気持ちになっているのは、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」という言葉をはなったほうだ。言われたほうは、いい気持にならない場合があるということを理解しておいたほうがいい。

できない人にとってみれば、そのことが三〇メートル、ジャンプするぐらいにできないことなのである。人によって、できることとできないことの内容がちがう。「できると言えばどんなことだってできる」という発言は、そういう「内容」のちがいを無視した発言なのだ。

何度も言うけど、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言って、自分を鼓舞するのはまったく問題がない。問題なのは、他人におしつける場合だ。

努力論とむすびつくと、「努力しないからできない」「努力がたりないからできない」と思って、ずっと、「 できると言えばどんなことだってできる」という言葉を相手におしつけることになる。その場合、相手が「努力をしてもできないタイプ」だと問題が発生する。

もちろん、言われたほうがきつくなって、その場を去るとかその仕事をやめるとかということになる。だから、言ったほうは、そのまま残って、相手を追いつめたことにすら気がつかない。「根性のないやつは去れ」といった気持ちになるのだろう。むなくそわるい気持ちになるのだ。

その相手が去ったあとではなくて、その相手がいるときの話だけど、自分が言ったとおりのことをしなかった人に対して、怒りの感情がわくことがあるのだ。そりゃ、相手は努力をしなかった!わけだし、できるようにならなかったわけだから、頭にくる。相手ができないので、自分がいろいろとやらなければならないということが続けば、普通の人間は、ものすごく頭にくる。相手に対して、憎しみの感情がうまれる。むなくそわるい気分になる。

「努力をしなかった!」と書いたけど、努力はしたかもしれない。努力をしてもできるようにならなかっただけかもしれない。しかし、その言葉を言っているほうにしてみれば、「できるようにならなかったのだから、努力をしてない」「努力をしなかった」ということになるのである。

 障害者論のところで書いたけど、どれだけ努力をしてもできない場合がある。そういうことを認めなければならない。そして、道具を使えば補えるところであれば、道具を使って補うということを考えなければならない。工夫をすればできるのであれば、工夫をすることを考えなければならない。そういう配慮をしないで「できると言えばどんなことだってできる」と繰り返し、繰り返し、言うことは、相手を、むだに追いこむことになるのである。むだ。むだであるばかりか有害。どっちも、むなくそわるい気分になる。どっちも、いい気分でいられる言葉を選ぶべきだ。どっちも、いい気分でいられるような方法を選ぶべきだ。

 

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この時間も鳴ってた。どれだけ言っても、やめてくれなかった。きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい的な無視をして鳴らす。

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2021年6月11日金曜日

親・精神・ビンボッチであるような学者は少ない

たとえば、感謝ということだって、きちがい親がいるようなうちでは、いろいろな問題がしょうじる。この問題は、たとえば、無意識的なところに問題がある親に育てられた人間じゃないとわからない。そして、無意識的なところに問題がない親に育てられた人間が、学者になりやすいので、無意識的なところに問題がある親に育てられた人間に対する無理解な発言をするということになる。そりゃ、「無意識なんてない」と言うのであればそうなる。

はっきり言ってしまうとビンボッチと親・精神・ビンボッチという要素がふたつともそろってしまうと、学者になれないので(とてつもなくなりにくくなるので)、どーしても、無理解な発言のほうが多くなる。収入はともかくとして、親・精神・ビンボッチであるような学者は少ない。特に心理学者は少ない。フロイトや岸田秀は特別なんだよ。

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2021年6月9日水曜日

学校は「比較」の「容器」だ。「比較をするな」と言ってもむり。

日本の学校に入れられてしまったら、動作がにぶい人は、いろいろとせめられることになる。人よりも早く動くことができるというのは、才能だ。 才能がある場合はいいけど、才能がない場合は、それだけで、せめられるのである。「クラスの足をひっぱる」と言われる。この「せめ」は、学校公認である。近代的な教育システムが作り出しているものだ。必然的に、せめられることになっている。もし、せめられることを回避したいなら、「努力をする」しかない。しかし、努力をしてもできない人はいる。努力をしても動作がにぶい人は、動作がにぶいということだけで、せめられる。なぜか? 「足をひっぱるから」である。そして、「努力をしてない」ということになってまうからだ。「努力をすればできるようになる」と考えている人から見ると「できるようにならないのだから、努力をしてない」ということになってしまう。

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学校は「比較」の「容器」だ。学校自体が比較の容器なのだから、学校に入っているのに、比較されないということはない。かならず、比較される。全体のなかでの自分の位置(地位)みたいなものを思い知らせるために、学校があると言っても過言ではない。学校は比較の容器だから、学校のなかにいて、「比較をするな」と言うのはむりなのである。あるいは、学校のなかにいる人間にたいして「人と比較をしても意味がない」というようなことを言うのは、まったく無意味なことだ。どうしてなら、自主的に比較しようがしまいが、比較されていることにはかわりがないからだ。そして、特に比較という意味を持たないものまで、比較された結果が反映されることになる。たとえば、AさんとBさんがいるとする。その場合、Aさんが、別に比較をしてなくても、Bさんのなかで、Aさんが自分より下なのであれば、BさんのAさんに対する行動にその認識が反映される。Aさんは、抽象的な意味での比較を無視することができるけど、Bさんの自分に対する行動は無視できない。Bさんのことについて書いたけど、学校に参加しているすべての人間が、Bさんとおなじような他者なのだから、Aさんがもし、ほんとうに、実際に行動にあらわれる「比較」を無視するのであれば、学校に参加しているすべての他人の「比較」を無視しなければならなくなるのである。これは、現実的ではない。どうしてなら、特に比較という要素を持っているように見えないものに関してまで、比較が影響を及ぼしているからだ。

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たとえば、「自分は自分」「他人は他人」「自分は自分なのであいつがどれだけできるかは関係がない」という考えを持っている人がいたとする。しかし、「自分は自分、他人は他人」という考え方もじつは、比較のうえに成り立っている考え方のである。一度は、比較を受け入れ、比較を内面化したから、「自分は自分」「他人は他人」と言っているにすぎない。「自分は自分」といった「自画像」は、他者との比較によって作り出された「自画像」なのだ。ここでいう、「自画像」というのは、「自己のイメージ」だ。自分のなかにある自己のイメージ自体が、他人との比較によって作り出された自己のイメージなのであるから、「自分は自分」「他人は他人」と言っても、「他者との比較」を含んでいる。

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この時間も鳴ってた。どれだけ言っても、やめてくれなかった。きちがい兄貴が、きちがい親父の形相で、きちがい的な無視をして鳴らす。

この時間も鳴ってた。

 

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2021年6月7日月曜日

最初にセットされた要素が、最後まで、影響を与える

以降、思考断片

*     *     *

「金持ちは、金持ちの家の子供として生まれたから、運がいい」と言えるか? 「運」ということを考えると、じつは、言える。けど、この運は、それ以降の運とわけて考えたい。

最初のこの運で、だいたいのことが決まってしまう。

どういううちに生まれるかという要素のほかには、「才能」という要素がある。

「才能」というのは、「能力」と言ってもいいのだけど、能力だと言葉がきつくなるので、「才能」と言うことにしておく。

「お金」と「才能」が決まってしまうと、それ以降の「運」がだいたい決まってしまう。「金持ち」×「才能・あり」だと、白玉が出やすく、「貧乏」×「才能・なし」だと黒玉が出やすい。

「お金・普通」×「才能・普通」だと、白玉と黒玉が半々ずつになる。なかなか、これをかえられない。容姿は才能のなかに含むとする。あとは、社会のレールからはずれたあとの時間の長さが問題になる。

これも、「お金」と「才能」のかけ合わせで、出てきてしまうようなところがある。社会のレールからははずれた期間を「ブランク」と呼ぶことにする。この「ブランク」というのは、「お金」と「才能」の従属的な要素なのだけど、日本のような社会だと、それ自体がものすごい効力を発揮してしまう。

*     *     *

もちろん、金持ちでも、不幸はある。人間は誰でも死ぬので、死という黒玉が最後に出るということは、金持ちも貧乏人もかわりがない。それに、最初は金持ちでも、途中で貧乏になることがある。それならば、ぼくがずっと語ってきたことは、成り立たないのか? ぼくが抽選機のたとえをもちいて語ってきたことは、ひとつのことを説明するためのモデルだ。

だから、完全に現実に対応してなくてもいい。もちろん、親が途中で貧乏になれば、最初は金持ちだった人も、金持ちではなくなる。

カネモッチーだって、いろいろな不幸なことはある。超・カネモッチーだっていろいろな不幸なことはある。だから、ぼくが言ったことは全部、無意味か?

そうじゃない。そうじゃないんだ。

最初にセットされた要素が、最後まで、影響を与える傾向があると思う。

あくまでも、「傾向」。

例外はある。

たとえば、ビンボッチだけど、情報商材で金をつくって、その金を投資してカネモッチーになる人もいる。この情報商材が詐欺的な情報商材でも、ビンボッチからカネモッチーになったということが事実なら、ビンボッチは貧乏エリアの抽選機しかまわせないのではなくて、貧乏エリアから金持ちエリアに移動して、金持ちエリアの抽選機をまわせるということになる。これは、最初の前提とはちがう話だ。

だから、ぼくが言ったことが否定されるか?

いやいや、否定されない。「傾向がある」と言っているだけだからね。

例外というものについて考えるとモデルがどんどん複雑になる。

そうなると、なにを言いたいのかということがぼけてしまう。ぼくがなにを言いたいかというと、いままで、二回ぐらい説明したことを言いたい。もう、書かないけど、言いたいことは、そういうこと。


2021年6月6日日曜日

「素直に助言を聞いて実行しても、結果はかわらないじゃないか」「ビンボッチが、感謝をしてまわさなかったから、黒玉ばかりが出る」

「感謝をしてまわせば、白玉が出る」と言ったあとに、 「素直に人の話を聞くということがだいじ」とカネモッチーが言ったとする。その場合、「感謝をしてまわせば、白玉が出る」という助言を素直に聞いて、それを実行するということが大切だということを言っているわけだ。

ビンボッチが、この助言を素直に聞いて、実行したとしても、一〇回に一回ぐらいしか、白玉が出ない。

助言を聞いたあと、感謝をしてまわしたところ、白玉が出たとする。ビンボッチは、よろこぶだろう。「感謝をしてまわすと白玉が出るんだな」と思うだろう。

しかし、二回、三回、四回、五回……一〇〇回、二〇〇回と回数を増やしていくと、やはり、一〇回に一回ぐらいしか、白玉が出ないということに気がつく。

もともと、ビンボッチがまわすガラポン抽選機には、九〇個の黒玉と一〇個の白玉が入っているので、感謝してまわしても、感謝せずにまわしても、だいたい、一〇回に一回白玉が出ることになっている。

実際に、何回も、黒玉が出れば……「感謝をしてまわしても、白玉なんてほとんど出ないじゃないか」……と思ったりする。

なので、「素直に助言を聞いて実行しても、結果なんてかわらないじゃないか」と言ったとする。

ビンボッチは、ほとんど毎回、黒玉が出るので、こまっているのである。本当に有効な情報がほしいと思っている。

しかし、有効ではない嘘情報を聞いてしまう。そして、素直に嘘情報を実行した。

なので、ほんとうは、ビンボッチは、せめられるようなことをしてない。せめられるべきは、嘘情報をながしているカネモッチーとその信者だ。

しかし、「素直に助言を聞いて実行しても、結果はかわらないじゃないか」とビンボッチが言ってしまうと、「ビンボッチは素直じゃない」ということになってしまうのだ。

カネモッチーの助言が役に立たなかったということを言ってしまっているわけだから、カネモッチーの信者は頭にくる。

「素直に実行しないから、だめなんだ」とカネモッチーの信者はビンボッチをせめる。ビンボッチはせめられる。


素直に実行したのに、黒玉ばかり出るから、「素直に助言を聞いて実行しても、結果はかわらなかった」と言っているのに、それが素直じゃないと言われるのである。

「人の言うことを素直に聞いて、ためしてみるということをしないから、黒玉ばかり出るんだ」と言われるのである。

ビンボッチが「いや、ためしたんだよ」と言ってもむだだ。「ビンボッチが素直じゃないから、黒玉が出る」というようなことを言う人たちが多数、あらわれることになる。

カネモッチーを信じている人にしてみれば、感謝をしてまわせば、白玉が出るというのは、確かな方法なので、感謝をしてまわしても、黒玉ばかりが出るということは、受け入れられないことなのである。「そういうネガティブなことを言うから、黒玉が出る」と信者たちが言い出す。

自分が信じている方法を否定するビンボッチは、「素直な人じゃない」のである。……信者からすれば!!

「素直じゃないからだめなんだ」と信者がビンボッチを攻撃する。

ビンボッチは、素直に言うことを聞いて、何回も何十回も何百回もこころみたのである。こころみた結果、「黒玉ばかりが出る現実がかわらない」と言っているのである。

しかし、信者たちは、「ネガティブなことを言うな。ネガティブなことを言うから、だめなんだ」とだめだしをする。


「感謝をしてまわせば、白玉が出る」というのは、嘘。真か偽かで言えば、偽。白玉を出す回数を増やす方法、あるいは、白玉が出るようにする方法ではない。信じるのは勝手だけど、嘘情報だ。

さらに、ビンボッチが、素直に言うことを聞いて、「感謝をしてまわしていた」のは、事実。「感謝をしてまわしていなかった」ということはない。

しかし、黒玉ばかりが出るので、信者たちから見ると、「感謝をしてまわしてない」ように見えるのである。

本当に感謝をしてまわせば、白玉が出るのに、黒玉が出るということは、じつはそのビンボッチが感謝をしてまわしてないからではないかと、信者たちは思ってしまう。そういう疑念が信者たちの胸のなかにわきあがる。

そういう解釈をしたい気持ちが信者にはある。……カネモッチーの発言をぜんぶ、信じているのだからそうなる。

感謝をしてまわしていたのに、黒玉ばかり出るということは、信者にとっては「おかしなこと」なのである。「感謝をしてまわした」というビンボッチの報告よりも、ビンボッチが感謝をしてまわしてないから、黒玉ばかりが出るという解釈のほうを信じたくなる。

ビンボッチが、感謝をしてまわさなかったから、黒玉ばかりが出るということにしておけば、カネモッチーの言ったことは、正しいということになる。なので、そういう解釈をしたほうが気持ちがよいので、そういう解釈を採用する。

ビンボッチは、感謝をしてまわしてないからだめなんだということになってしまう。ビンボッチは、黒玉ばかり出るというネガティブなことを言うから、だめなんだということになってしまう。ビンボッチは「感謝をしてまわした」と嘘を言っているということになってしまう。

何回もやって、だめな方法なら、そのうちやらなくなる。けど、ビンボッチが、「もう、感謝をしてまわしてない」と言えば、時系列的なことを無視する信者たちは、「そら、みろ。やっぱり、感謝をしてまわしてないんじゃないか」「だから、だめなんだ」と言う。

ビンボッチが「いや、むかしは感謝してまわしていた」「何回もためしてみた。実行してみた」と言ってもむだだ。「感謝がたりてない」とか「本当は感謝してまわしてなかった」とかということを、信者たちが言って、おしまいだ。

もう一つ言っておくと、ビンボッチは、信者たちにとって不吉な存在なのだ。「感謝してまわしても、白玉が出なかった」ということを言ったときから、不吉なことを言う存在だと思われる。

出なかったから、出なかったと言っているだけなのに、けがれた存在だと思われるのである。そもそも、「黒玉ばかりが出る」というのは、ビンボッチがけがれた存在だからではないかというような疑念が、信者たちにはある。 ここで、いわれなき差別が発生する。

本当は、精神世界系の人たちは、こういう差別を撤廃する方向でがんばらなければならない存在だ。そういうしくみを理解しなければならない存在だ。

けど、やることは、差別なのである。そういうしくみというのは、黒玉ばかりが出る抽選機しかまわせない人たちがいるにもかかわらず、そういう人たちが差別されるしくみだ。 黒玉ばかりが出る抽選機しかまわせないのは、じつはビンボッチが悪いわけじゃない。しかし、ビンボッチが悪いということにされて、そういうことを言われるという現実が発生してしまう。

 

2021年6月5日土曜日

「素直に人の話を聞くということがだいじ」(2)  素直さのかけらもないのが、この人。このカネモッチー

 
じつは、このカネモッチーはぜんぜん素直じゃないのだ。学生時代、先生の言うことを素直に聞かなかった。先生が言ってくることを、絶対の意地ではねかえした。子供のころから、そういうところがある人なんだよ。このカネモッチーは。

このカネモッチーは、人の言うことは聞かない。人の言うことを素直に聞くなんてことはない人なんだよ。ぜんぜん素直じゃない人なの!


意地のかたまり。負けずぎらい。人の言うことをはねのけて自分の意地を絶対に通す人。負けん気の強さだけは誰にも負けない人。

結果的には、それがうまい具合に働いて、カネを儲けることができた。

だいたい、このカネモッチーは、別のところで「人間はなめられたらおしまいだ」ということを言っている。これは、正しい。しかし、人の話を素直に聞いて行動する人は、なめられている人なのだ。

このカネモッチーは、本当はそういうふうに、考えている。認識している。自分が、言われる立場か、自分が言う立場かで、話が一八〇度違う。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。そして、AさんがBさんになにかを言って、BさんがAさんの言うとおりに行動したとする。

この場合、このカネモッチーがBさんだったら、Aさんの言うことを聞かない。BさんはAさんが言ったことを、実行するべきだとAさんが思っている状態を、AさんがBさんのことをなめている状態だと、このカネモッチーは考えているのだ。

このカネモッチーは社員(従業員)としては、失格なのである。ダメ人間。経営者としては立派でも、社員(従業員)としては失格。

なめるということについて、もうちょっと説明しておこう。

たとえば、Bさんがずっと、Aさんの言うことを聞いてやってきたのに、ある日、Aさんの言うことを聞かなかったとしたら、AさんはBさんのことをどう思うか?

BさんがBさんの方法やBさんの考えにこだわって、Aさんが言うように行動しなかったということが起こったとき、AさんはBさんのことをどう思うか?

生意気だと思うだろう。

これが、なめているということなのだ。

自分の言うことを聞いていた人間が、さからってきた……そういうふうに感じるのは、それまでは、その人間のことをなめていたからなのである。自分が言うように動く人間だとみなしてきたということだ。これが、なめているということの「なかみ」だ。

人間はなめられたら、おしまい……このカネモッチーはそういうふうに認識している。人間は、なめられたら、だめだ……このカネモッチーはそういうふうに認識している。

素直さのかけらもないのが、この人! このカネモッチー!!

自分が人に言うことを聞かせる立場になったから、コロッと言うことがかわってしまっただけ。ほんとうは、絶対に人の言うことを聞かない性格をしている……。


そういう、ある意味こまった人なのだ。ほかの人が自分の言うことを聞くことはだいじだと思っているけど、自分は絶対にほかの人の言うことを聞きたくないと思っている人なのだ。

こういうカネモッチーの話を聞くときには、こういうことを理解しておいたほうがいい。

ちょっとだけ、「なめる」「なめられる」ということについて、書いておく。

「なめる」というのは、相手のことを下に見るということなのだ。

(1)自分のほうがケンカが強い。相手は弱い。→なめる

(2)自分のほうが頭がいい。相手はばか。→ なめる

(3)自分のほうが立場が上。相手は立場が下。→なめる

なめるというのは、自分のほうが優れていて、相手は劣っているとみなすということだ。なめられるというのは、下に見られるということだ。今回の話は、主に(3)にかかわることだ。(3)だけの意味しかないということではない。このカネモッチーは、いまや、会社のトップだ。会社には下の人しかいない。セミナーにくる人は、みんな、このカネモッチーの「信者」「生徒」みたいなものだ。このカネモッチーにとって、「上」の人じゃない。だから、「素直に人の話を聞くということがだいじ」などと、自分のことは棚に上げて言うことができる。

少年時代、このカネモッチーは絶対に先生の言うことを聞かなかった。この性格は、じつは今もかわってしまったわけではないのである。

たとえば、セミナー会場にきた信者Aが、このカネモッチー教祖に向かって「あなたは、こうするべきです」「こうしなさい」「素直に人の言うことを聞くということはだいじなことですよ」 と言ったら、このカネモッチー教祖は、信者Aの言うとおりにするかね? 

たぶん、カネモッチー教祖は、「なんだこいつは!」と思って腹をたてるのではないかと思う。たぶん、怒って、信者Aが言ったことを、実行しない。へそをまげて、Aさんの言うことを素直に聞かない。

基本的には、じつは!助言と命令の区別はある。言われたほうが、自主的に判断する余地があるかどうかというのは決定的に重要なことだ。しかし、助言の場合でも、問題がある。

ここまでが前振りで、ここからが本番だ。

2021年6月4日金曜日

「素直にやってみるということがだいじ」 「素直に人の話を聞くということがだいじ」(1)


「素直にやってみるということがだいじ」 「素直に人の話を聞くということがだいじ」とカネモッチーが言ったとする。フツーッチは「そうだ」と思ってしまう。

カネモッチーが「素直にやってみるということがだいじ」と言ったのは、「自分が言ったことを、素直にやってみるのがだいじ」という意味で言ったわけだ。別にほかの人が言っていることを素直にやってみることがだいじと言ったわけではない。自分が!言っていることを!素直にやることがだいじだと言っているだけなのである。

「素直に人の話を聞くということがだいじ」ということに関しても、ほかの人が自分の話を素直に聞くということがだいじだということしか言ってない。

「自分が言ったこと」のなかみは「おカネを儲けるにはおカネに好かれることがだいじだから、おカネをかわいがればいい」というようなことだ。めでれば、いいのだ。

「おカネは、仲間が大好きだからおカネがあるところによってくる」とか「おカネを二つ折りにすることはけしからんことだ」というようなことを言う。こういうフェティシズム。フェチ。物神崇拝。フェチはフェティシズムの略で、物神崇拝という意味。以降、フェチと言うことにする。

こういうフェチ的なことは、じつは、このカネモッチーがおカネ持ちになったこととは関係がない。このカネモッチーは、米胚芽を使った安いダイエット食品をつくって、それを特別に高い値段で売ったから金持ちになっている。

なので、金持ちになる方法について述べるなら、まずそれについて述べなければならない。しかし、金持ちになる方法として、おカネをかわいがるというようフェチ的なことを言う。

ならば、このカネモッチーが、おカネをかわいがっているだけで、安いダイエット食品をつくって、それを特別に高い値段で売るということをしなかったら、どうなるか?

金持ちになってない。

問題なのは、このカネモッチーが嘘をついている気持ちがないということだ。金持ちになる方法とは関係がないことを言って、おカネを儲けている。

どうしてなら、このカネモッチーの話を聞くために、信者のフツーッチはおカネを払っているからだ。事業をしてないフツーッチは、おカネをかわいがる方法では金持ちになれない。

もちろん、働いておカネを儲けて、ちょっとずつおカネをためて金持ちになるということをすれば、金持ちになるだろう。まあ、「金持ち」のレベルがちがうのだけど、「金持ち」にはかわりがない。

たぶん、このカネモッチーも、 米胚芽を使った安いダイエット食品をつくって、それを特別に高い値段で売るというビジネス(事業)をしているとき、おカネをかわいがっていたのだろう。

だから、「おカネをかわいがっていたから、金持ちになった」というような認識ができあがったのかもしれない。しかし、おカネをかわいがっていたから金持ちになったのではなくて、ビジネス(事業)が成功したから金持ちになったのだ。

金持ちになった理由は、ビジネス(事業)のほうで、フェチ行為じゃない。

けど、なぜか、高く売れるものを安い値段でつくったというような本質的なことは言わないで、フェチ行為に関することだけ言う。

2021年6月3日木曜日

ヘビメタ騒音なんて鳴ってたって、鳴ってなくたって同じようなものだろ」

 ほーんと、どれだけのことが起こったか? そして、どれだけのことが起こらなかったか?

きちがい兄貴がヘビメタを始めたために、たいへんなことになった。

ぼくとはちがう個体は、けっきょくのところ、ヘビメタ騒音がどういう影響を与えるかわかってない。からだと人生にどういう影響を与えるかわかってない。

ぜーんぜん、わかってない。

だから、「ヘビメタ騒音なんて鳴ってたって、鳴ってなくたって同じようなものだろ」 とそいつらは考えてしまう。

いくら説明したって、「鳴っている生活」と「鳴ってない生活」のちがいなんて、わからない。これは、経験を通さないとわからない。ほんとうに、ぼくの人生は、まったくちがったものになっていたと思う。

きちがいヘビメタが鳴っていなければ、こいつらが俺に投げかけるいろいろな侮辱的な意見を、聞かなくてすんだ。そもそも、そいつらは、俺にそういう言葉を投げかけない。俺が、ヘビメタにやられて学歴がない人間になっているから、そいつらは、そういう言葉を俺に投げかける。

俺が、ヘビメタにやられて職歴がない人間になっているから、そいつらは、そういう言葉を俺に投げかける。ヘビメタが鳴ってなければ、全部ちがうと思う。そして、そいつらにとっては、そんなちがいはどうでもいいことだ。なんたって、自分の人生ではないからな。

そして、自分の人生のなかには、きちがい家族による、はげしいきちがい騒音という項目がなかったわけだからな。

きちがい家族によるしつこい騒音が「日頃の生活」にどれだけ影響を与えるか、自分の体を通してわかってない。きちがい家族によるしつこい騒音が「自分の学力に」にどれだけ影響を与えるか、自分の経験を通してわかってない。

ぜんぶ、自分の人生にはなかったことなのだから、それは、小さく見積もれる。

そして、まちがった見積もりを、生涯……正しい見積もりだと思って暮らして、死ぬのだろう。つまり、生きているあいだ、このことに関して、俺とそいつらで、「意見があう」ということがない。

きちがい兄貴の態度というのがまったくわかってないんだよ。ほかの人にはわからない。で、こういうことを言うときにいつも思うことなんだけど、きちがい兄貴の態度はない。そして、きちがい兄貴自身が、ほかの人よりも、自分のことがわかってないのだ。

自分がやっていることがわかってないのだ。きちがい的な意地で、悪いことを押し通すときには、まるで、そんなことは一秒もやってないのとおなじ気分でいられる。一回も、そんなことはやってない気分でいられる。

これ、複雑なんだけど、やはり、無意識と意識ということを考えるしかない。

意識的には、やってないつもりでいるときの態度とおなじなのである。もっと正確に言うと、意識的には、まったくやってないときの態度とおなじだ。

これ、きちがい親父も、じつはそうなんだよ。これ、こういう頭の持ち主が、一家にふたりいるということの意味がわかるか。そして、そういう頭を持っている人は、そういう頭を持っているわけで、たまたま、そうなるということではないのだ。

そういう頭を持っている以上、つねに、基本的にそうなんだよ。

ずっと、気がつかないまま、自分の意地を通してやるということになってしまう。

そして、自分が意地を通してやった悪いことに関しては、「絶対無責任」の境地に立っているのである。「やってないつもり」だから、そうなる。

自分に関係がないことで、相手が文句を言っているという感覚しかない。自分が、きちがい的な内容をやっているときは……そりゃ、やめさせられそうになったら、発狂しておこる。おこっておこって、おこりまくる。おこってやりきるのである。

自分のやりたいことをやりきる。

自分が無意識的にやりたいことを絶対の意地でやりきる。

けど、相手の制止をおしきって、やったということになってないのである。ほんとうは、相手がやめろと言っていることを発狂して認めずに、頑固にやり切った。……これが、与える影響がでかすぎる。こういう態度が与える影響がでかすぎる。

きちがいヘビメタ騒音が俺の学業成績に与えた影響はでかい。けど、そんなことが気になるのは俺だけだ。ほかの人は、鳴ってない場合と鳴っている場合の区別なんて気にしない。そして、現実世界では鳴っていたのだから……中学時代、高校時代をすっぽりつつんで、毎日毎日鳴っていたのだから……鳴っていなかった世界の話は、架空の話になる。

架空の話なんて、関係がない。……そういうことになる。

ほかの人にはない、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタというハンディが、あった。

けど、ほかの人には、鳴ってなかった世界の話なんて、関係がないということになってしまうのである。きちがい兄貴が、強引に毎日毎日、絶対の意地で、自分が鳴らせるすべての時間、きちがいヘビメタを、鳴らしたから、そうなっている。

そういう毎日がなかった人にとっては、どうでもいいことなのである。

俺には、どうでもいいことではない。

そういう毎日が続いたということは、でかい影響を与えている。

いまの俺にでかい影響を与えている。

「過去のことだからどうでもいい」ということにはならない。「過去のことだから影響がない」ということにもならない。


2021年6月2日水曜日

ヘビメタ騒音のことで仲たがいするにしろ、あの子とつきあっておけばよかった

 ヘビメタ騒音のことで仲たがいするにしろ、あの子とつきあっておけばよかった。あのころの時間は、もどってこない。ヘビメタ騒音で、受かる自信がなかった。鳴っている毎日が、六年間続いていいわけがない。どんだけもめたか? きちがい兄貴のやつ、きちがい親父とおなじで、本人が怒ったあとのことは、覚えてない状態なんだよな。正確に言えば、覚えてないのとおなじぐらいに関心がない。自分が押し通すことができれば、一切合切の関心がなくなる。けど、かりに一分間でも、自分がほんとうに我慢しなければならなくなったら、一分間、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になる。逆上して、やろうとする。逆上してやり続ける。この時、殺さなければやられてしまう。で、そういう意地でやったことは、みんな、「そんなのは知らない」ことなんだよ。こういう、頭の構造。こういう、頭のきちがい構造。ヘビメタで、ほんとうにこまっていたの。女の子とつきあうとか合格するということについて、ヘビメタ騒音はものすごい影響を与えた。影響が大きすぎる。毎日なんだよ。毎日ということが、やられてない人にはわからない。だから、「そんなのは、気にしなければいい」とか「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、女の子とつきあえばいいだろ」と思ってしまう。そーーんな、状態じゃないんだよ。一日のうち、一分間もそんなことが思える状態じゃない。切羽詰まっている。常に、死ぬか、殺すかの問題だ。ほんとうに、きちがい兄貴にやられた体で、女の子とつきあうのがむりなんだよ。常に、ヘビメタ騒音で身もこころもずたぼろだった。ほんとうに、あの状態は、二四時間、きちがい的に腹が立っている状態で、普通に女の子とつきあえる状態じゃない。ヘビメタ騒音自体やきちがい兄貴の態度そのものによって、頭もこころもかきむしられている。尋常じゃない。怒っている。

2021年6月1日火曜日

よれよれの格好で、よれよれの体で学校に行くことになる

 ぼろぼろ。ヘビメタ騒音でボロボロ。だれもわからない。だれもわからない。だれも……。だれもわからないんだよ。ぼく以外、だれもわからない。あれがどういう騒音だったかわからない。あの騒音にさらされ続けるとどういう状態になるか、わからない。

どーしょうもない状態になる。このあいだ書いたけど、宿題ができなくなるので、「明日の用意」もできなくなる。宿題が完成しないまま眠って、朝、起きることになる。

しかし、その朝は、ヘビメタ騒音にたたられたどろどろの朝なのである。

どれだけつらいか!

午前四時とか、五時まで起きていて、やっと眠れたと思ったら、午前七時四〇分には起こされる。その午前七時四〇分というのは、一番、眠りが深くなっているときなのである。

一番眠りが深くなっているときに起こされる。

「遅刻」がちらつく。

もう、起きたとたんに遅刻がちらつく。

ちらかった部屋のなかで、教科書をひろう。

歯磨きもできない。

くしで髪をとかすこともできない。

朝ご飯を食べることもできない。

よれよれの格好で、よれよれの体で学校に行くことになる。

きちがい兄貴は、朝、ヘビメタを鳴らしていたときがある。それが、午前七時四〇分付近なのである。ほんとうに、きちがい。『どれだけ言ってもやめてくれない』のは朝もおなじだ。午前七時四〇分になってなかった時期もある。

それなら、午前七時四〇分に、鳴ってなかった時期は、楽だったかと言うと、楽じゃない。死にたい気分。朝から死にたい気分。あせって、行かなければならない。けど、体が動かない。ほんとうにつらい。

これ、みんなわからない。きちがい兄貴は、自分が鳴らし終わったあと、すやすや眠れる。そりゃ、自分ががんがん鳴らしたいから鳴らしたわけで、ストレス発散になっている。

何度も言うけど、普通の家だったら一分だって鳴らせないようなでかい音で何時間も何時間も鳴らし続ける。きちがい兄貴の耳が、難聴になるほど、でかい音で鳴らす。

そういうでかい音で鳴らしているのに、本人は、「三味線とおなじだ」と思っているのである。そんなわけないだろ。ともかく、くるしい。

そして、このくるしさが、ほかの人には、わからないのである。だから、俺がさぼっているように見える。

それから、そういう毎日が、何年間も何年間も学生時代続いたら、「通えないからだ」になるのだけど、そういうこともわからない。ほかのやつらはわからない。経験がないからわからない。「過去のことなんて関係がない」と言いやがる。俺が、どれだけの努力の末に、「通えないからだ」を手に入れたか、わかってない。

そうなってしまったか、ぜんぜんわかってない。繰り返し……毎日の繰り返しというのが、どういう意味を持っているのか、経験がないからわからない。こいつらは、みんな、まとはずれなことを言っている。俺のことを不当に侮辱している。

ともかく、教科書を忘れるわけだけど、そうなると、友達に借りなければならなくなる。自分のクラス以外の友達に借りなければならなくなる。俺だって、そういうめんどうをかけたくない。格好、悪いと思う。「どうして、そんなに忘れるんだよ」と言われて、たしょうはヘビメタ騒音のことを説明するけど、まあ、ヘビメタ騒音のことなんて、ほかの人はわからない。「それなら、お兄さんに言えばいい」と言われる。

「兄貴には言っているけど、やめてくれない」と言っても、きちがい兄貴の性格がわからないから……ほかの人には想像ができないものだから……あんまり、俺が言っていることがわからないままの状態にとどまる。

ともかく、借りなければならないんだよ。で、それがいやなんだよ。けど、ヘビメタ騒音が毎日、何時間も何時間も鳴っているので、そうしなければならなくなる。

毎回、そういうことの繰り返しだ。そりゃ、何回もかりに言ったら、いやだよな。それから、これは、中学のときなのだけど、転校してきた人がいて、その人が、教科書を持ってなかったので、その人のぶんまで、借りに行ったことがある。

ようするに、借りに行く回数が増えた。別の友達に借りたりするんだけど、それでも、二人分借りるわけで、たいへんだった。で、まあ、その二人分借りていたときは、転校生に教科書が届いた時点で終わった。

けど、きちがいヘビメタは続く。俺のぶんは、借りることがあった。そりゃ、なるべく、借りたくないの多気ド、前の日、きちがいヘビメタに何時間も何時間もやられて、眠たいのに起きて、制限時間内で、教科書やノートをそろえるとなると、なにかと忘れる。

このあいだは、「遅刻」について書いたけど、「忘れ物」でも同じことが起こる。ディスグレードされてしまう。「だめなやつだ」と思われることが多くなる。

で、これは、高校のときの話なのだけど、高校に入っても、きちがいヘビメタががんがん鳴っていた。鳴っている日々というのがかわらない。ともかく、くるしい。で、教科書を忘れたから、別のクラスの友達に、教科書を借りるために、別クラスに入った。そうしたら、友達ではない人が、「ほかのクラスのやつを入れるなって、言っただろ」と強い声で叫んだ。

で、ぼくの友達のほうが「だって、入ってきちゃったんだから、仕方がないだろ」とこれまた、強い声で言い返した。で、ようするに、盗難事件が起きたんだって……。だから、別のクラスの人間を入れるのは、やめようということになったらしい。……けど、俺はそういうことがあったということを知らなかった。

で、ともかく、友達に迷惑をかけてしまったわけだ。で、まあ、すぐに、クラスから出て、ドアのところから、友達を「ちょっとちょっと 」と呼び、着た友達に、「教科書を貸してくれ」と頼んだ。で、これも、何回もやっていることだから、あきれられるわけよ。

で、「お兄さんに静かにしてと言えばいい」というようなことを言われる。中学の時と変わらないんだよね。そういうことが、起こるんだよ。で、ともかく、くるしい。立場がない。ヘビメタ騒音が鳴っていると、次の日まで影響が出るということがわかってない。

みんなわかってない。きちがい兄貴が一番わかってない。これは、説明しないからわからないのではなくて、説明すると、発狂してはねのけるから、わからないだけだ。このきちがい兄貴の態度が、親父の態度とおなじなんだよ。

で、はねのけたら、言われてないことになってしまうというのも、そっくりだ。

だから、つねに、悪気がないのである。

きちがい兄貴が、きちがい親父のような頑固な態度で、押し付けてくるヘビメタ騒音でこっちの生活はたいへんなことになっているのに、それを、説明しても、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、まったくわからない。

そのわからなさ、というのが、ひどいんだよ。

「このハンダゴテは使えなかった」と説明されても、「使える使える」と何度も絶叫して、「このハンダゴテは使えない」ということを認めなかった親父とおなじなの……。

兄貴と親父は頭の構造が同じなの。

「このハンダゴテのせいではじをかいた」ということを説明されても、親父は、自分に関係があることだとは思えないんだよ。自分が発狂して押し付けたハンダゴテで、子供が恥をかいたということを理解するのは、親父には、むりだ。逆立ちしてもむり。

で、兄貴もおなじなの。

説明されても、自分任継があることだとはおもぇなぃ。ともかく、自分が鳴らしたい音で、自分が鳴らしたい時間鳴らすということが、決まっているので、絶対の意地でそうする。これも、きちがいおやじが「使える使える」と言って、押し通すのとおなじなんだよ。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。