2020年2月18日火曜日

いつから日本は、こんなことになったんだ?


恵まれない人たちが、さらに恵まれない人たちにマウントを取って喜んでいるような状態なんだよな。けど、喜んでいると言ってもほんとうに喜んでいるわけではなくて、いじめて喜んでいるだけなので、どんどんこころがすさんでいく。

不思議なことに、精神世界の人が、特にそういうことをやる。

『引き寄せ』と『自己責任論』が結びつきやすい。不幸な人は、不幸なことを引き寄せたから不幸なんだと言い出す。病気になった人は、病気を引き寄せたからダメなんだということを言い出す。そして、『病気にならない』と言えば、病気にならないということを言い出す。ようは、対象方法は言霊的な呪文の世界だ。

けど、呪文と病原菌は別の原理で動いている。手短に言うと、抵抗力がおちている状態で、病原菌がいっぱいいるところに行くと、病気になりやすい。病原菌による病気の場合はそうだ。『病気にならない』と言うことと、病原菌が増殖するシステムはちがう。

『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』と言うことで、多少は、抵抗力が上がる場合がある(かもしれない)。しかし、その影響は絶対的なものではなくて、ほんの少しの影響しか与えないか、まったく影響を与えない。

なので、『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』とどれだけ呪文を繰り返しても、病気になってしまう場合がある。それは、他の条件が悪かったからだ。

で、病気になってしまったら、病気になったで、『病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る』と言うと、病気は治るということを言い出す。けど、それも、『病気は治る』と言うと、多少の抵抗力が上がる人もいるかもしれないので、まったく効かないとは言わないけど、『治る』かどうかを決定づけるような要素ではない。

ところが、『治ると言えば治る』と人に言っている人は、そうは思わない。『治る』ということが決定的に重要なことで、『治る』と言えば、どんな病気も治ってしまうのである……。その人の頭のなかでは……。その人は、ほんとうにそういうことを言っているのである。

けど、その人が、実際に病気になった場合は、病院に行ったり、クリスを飲んだりするのである。『治る』と言えばどんな病気も治るんじゃなかったのか? どうして、そういう嘘情報を人には本気で言うのに、自分はちゃっかり、医者に行くのか? だいたい、「病気にならない」と言えば、病気にならないんじゃなかったのか? 病気にならないといっていたにもかかわらず病気になったのなら、自分が言っていたことがまちがっていたということに気がつかないのか?

気がつかないのである。

自分はちゃっかり、医者に行くのに、他の人には、『治る治ると言えば病気は治る』なんてことを言いまくっているのである。

そのときは、本人は病気じゃないから、病気の人に対して、マウントを取れる。『病気になると思ったから病気になるんだ』といい気分で言うことができる。『病気になると思ったから病気になるんだ』のあとには『だから、自己責任だ』という言葉が続くのである。「『病気になる』と思ったから、ダメなんだ」とだめ出しをする。『病気になると思った人が悪い』ということを言い出すのである。思ったから、病気になるわけだから、そんなのは、自己責任なのである。


こういうところで、すぐにマウントをとろうとする。『おまえの責任で病気になったんだ』『おまえが病気を引き寄せたからダメなんだ』と悦に入って言う。ほんとうに、日本はこういう人が多すぎる。いつから、こんなことになったんだ。こんなの、スピリチュアリズムでもなんでもない。

病気と引き寄せについて述べたけど、自称明るい人が、暗い人に投げかける言葉は、だいたいこれと、似ている。バージョンがちがうだけ。こういうのがはやっている。いつから日本は、こんなことになったんだ?

2020年2月17日月曜日

家にいても限界だが、外に行っても限界だ


家にいても限界だが、外に行っても限界だ。ヘビメタ騒音期間中に、俺がどれだけつらい気持ちで、外に出てたと思っているんだ? 学校に行ってたと思っているんだ? 友だちと会ってたと思っているのだ? 決壊しているよ。ほんとうに、気違いヘビメタ騒音のすごさがわかってない。みんな、ぜんぜんわかってない。「過去のことは関係がない」とか言ったやつをデコパッチンBしてやりたい。おまえ、そんなんじゃないから。

それにしてもしんどい。これ、みんなわかってない。ほんとうにみんなわかってない。毎日、あのヘビメタ騒音をあびせられるということがどれだけ、ハンディになるかわかってない。みんな、まるまる。

(俺は、外で働けない体になった。なので、客観的に見れば、ひきこもりになっている。(今はちょっと違うけど、長い間そうだ)。けど、そういうことは、一切合切関係がないのだ。ヘビメタ騒音にやられてくるしい……このことだけが重要だ。ほかは、ヘビメタ騒音にやられたことの「表現型」で、それ自体が重要な問題じゃないのである。俺がくるしいのはヘビメタ騒音にやられたからだ。だから、ヘビメタ騒音にやられた俺が仕事をしていても、ヘビメタ騒音にやられた俺が家に引きこもっていても、かわりがない。外で働いても、かわりがない。もっとも、気違いヘビメタ騒音の連続で、決まった時間に通勤するという能力を完全に失ってしまったので、通勤して働くとということができなくなってしまった。それは、大きな問題だ。けど、仮にそこをクリアしても、ヘビメタでくるしいということにはかわりがない。俺が、遠くの高校に電車通学していたとき、俺は、引きこもりでなかったけど、ものすごくくるしい思いをして、通学していた。それは、友達がいても、表面的に明るく振る舞っても、かわらないことなのだ。どんだけ長くそういう状態が続いたか? ほんとうに、他の人はまったくわかってない。特に、ヘビメタ騒音の影響を軽くみて、わりと気楽に『なんでも明るく解釈すればだいじょうぶだ』みたいなことを言うやつはわかってない。ほんとーーにわかってない。

2020年2月15日土曜日

やっぱり、ヘビメタで全部の人生がない

やっぱり、ヘビメタで全部の人生がない。
俺の身の上に起こったことで、俺にしかわからない。

『笑うことで認知症が治る』と思っている人は、笑ったにもかかわらず認知症が治らない人について、どのように認識するのだろうか


たとえば、『笑うことで認知症が治る』と思っている人たちは、笑うことでで、認知症を治そうとしない人たちをバカにする。いつまでも、その人が認知症でいるのは、努力して笑おうとしないからだと考えてしまう。なので、認知症であるにもかかわらず、『むりやり笑う努力』をしない人は、認知症を治そうとしていない人だということになる。

認知症なのに認知症を治そうとしていないのだから、自己責任だということになる。『笑えば、認知症は治るのに、笑って治そうとする努力をしてない。だから、いつまでも認知症なのだ。だからダメなのだ』と考えてしまう。

この、『笑って認知症を治そうとしない人たち』のなかには、実は、『笑って認知症を治そうとしたけど、効果がなかった人たち』も含まれている場合がある。『笑うことで認知症が治る』と思っている人たちは複数いるのだけど、そのうちのひとりが、ある認知症患者のことについて知ったときに、『笑えば認知症は治るんですよ』と助言するわけだから、その時点で、その認知症の人が、笑っているか、あるいは、笑って治そうとしているのかが問題になる。

『笑うことで認知症が治る』と思っている人にとっては、笑うことで認知症が治るのだから、笑ったのにもかかわらず認知症が治らないのはおかしいということになる。『笑うことで認知症が治る』と思っている人は、笑ったにもかかわらず認知症が治らない人について、どのように認識するのだろうか。

その認知症が治らなかった人は、何回も何回も、笑ってない。だから、効果がないのだ。何回も何回も笑い続ければ、認知症は治る……と思う場合がある。最初は、笑えば、認知症が治ると言っているのに、何回も何回も笑い続けなければ認知症は治らないと言ったとする。その場合、最初に言っていることと、あとで言っていることがちがうということになる。『笑っても認知症が治らない場合がある』ということを認めてしまった場合、『笑うことで認知症が治る』という命題が、偽であるということ認めるということになる。ようするに『笑うことで認知症が治る』という文は、まちがっているということを認めることになる。

しかし、たぶん、『笑うことで認知症が治る』というような思考をしている人は、それには気がつかない。気がつかないまま『笑うことで認知症が治る』と言ったり『何回も何回も笑い続ければ、認知症は治る』と言ったりすると思う。これは、矛盾した発言なのだけど、発言している人がそれに気がつかない。

2020年2月13日木曜日

根性を出して、笑えば、認知症は治るか


これは、根性を出せば認知症が治るのかという問題にも直結する。たとえば、「笑うこと」が認知症の症状の改善に効果的だとしよう。なら、笑っていれば、認知症が治ってしまうのか? 「笑うこと」がある程度、よい影響を与えるにしろ、「笑うこと」では、脳の萎縮や脳の機能障害が治らずに、認知症が「進行」してしまうという場合がある。むしろ、「笑うこと」によって、認知症が治ってしまう場合のほうが少ない。あるいは、ない。

ようするに、脳の物理的な変化にくらべて、「笑う」という行為がもたらす影響が小さいのだ。けど、たとえば、「笑うと認知症に効果がある」というようなことが言われただけで、『笑うことで認知症が治る』と解釈してしまう人が出てきてしまう。その人のなかでは、『笑えば、認知症は治る』ということになってしまう。

『根性を出せば認知症が治るか』という問題にも直結すると書いたけど、これは、こういうことだ。『根性を出して、笑えば、認知症が治る』ということが、ある人たちの頭のなかでは、確定事項になる。認知症だけではなくて、あらゆる、広い意味で病気が治ってしまう。狭い意味では、認知症は「症」だから、病気ではない。あくまでも、広い意味で病気だとする。

『おかしくなくても、笑えば、おかしいと感じる。おかしいから笑うのではなくて、笑うからおかしいのだ。なので、根性を出して、笑えば、認知症は治る』と言い出す人が出てきてしまう。自称明るい人(たち)だ。『根性療法』『笑顔療法』……そんな言い方はしてないけどさ。中身はそういうことだよ。

で、『笑えば認知症は治る』というようなコピーで本を出せば、売れる。

2020年2月12日水曜日

「つらさ」の「つらさ」がちがう


時間というのがなぁ~~~
いまは、なんとなく、時間が「お・し・い」感じだ。おいしいじゃなくて、おしい。けど、そういうふうに思っている時間は、おいしい時間なのかもしれないなぁ。


基本的に言って、ぼくはダウンしている時間がすごく長いのである。これは、他の人にはない長期騒音が影響している。長期騒音の影響がからだからぬけない。なので、普通の人とは、からだが、ちがう。

前向きな人や明るい人が他人について言及するとき、基本的に、後ろ向きな人や暗い人をディするというのがある。本人は、そんな気持ちは、さらさらないという感じなのだろうけど、実際には、ディすっている。ディするというのは悪く言うという意味ね。だったら、悪く言うと書けば良いのだが、なんとなく、ディすると使いたかった。まあ、いいや。これからは、悪く言うと書こう。

まあ、ともかく、ここで言いたいのは、明るい人たちには見えないハンディがあるということだ。これ、ほんとうに、見えないのである。明るい人たちは、自分の基準で物事を考える。経験してない、つかれはわからない。経験してないつらさはわからない。

人間は生きていれば、つかれることもあるし、つらいと感じることもある。なので、明るい人は、『自分だって、つかれるときはある』『自分だって、つらいときはある』と言う。そして、そう思っている。けど、これは、明るい人が感じるつらさと、暗い人が感じるつらさがおなじだという前提が成り立っている。

「つらさのつらさがちがう」ということは、頭にない。

おなじつらさなんだけど、自分は、たえてきた。跳ね返してきたという自負があるのだ。だから、自分はすぐれているのだが、つらさにまけた人間は、すぐれていないという思いこみがある。ほんとうは、そういう比較でものを言っている。

「つらさ」がおなじで、自分は、暗い人よりも『強いので』つらさを跳ね返してきたと思っているのだ。自分は、暗い人にくらべて強いとか、すぐれているという認識がある。これは、「つらさ」の量がおなじで、「つらさ」の質がおなじだという前提において成り立つ『認識』だ。この認識について、明るい人が、どれだけ明確に意識しているかはわからない。むしろ、意識的には、それは、否定される。謙虚でなければならないからだ。傲慢な態度はよくないからだ。

だから、表面的には「別にそんなことは思ってない」という意識を抱えている……場合が多いと思う。けど、ほんとうは、つらさはおなじなのだけど、自分が強いからたえてきたという自負があるのだ。その自負は、暗い人に対する軽蔑につながる。

これは、自然につながるであって、そういう自負をもっていながら、軽蔑してないということはない。本人が自覚しているかどうかはわからないけど、かならず、軽蔑している。これは、軽蔑ではなくて『蔑視』というような言葉を使ったほうがいいのかもしれないけど、言いたいことはおなじだ。

そこで問題なのは、「つらさ」の程度がおなじだと思っているということと「つらさ」の質がおなじだと思っているということだ。問題なのは、こっちなのである。明るい人が経験したことがないつらい状態を、暗い人は経験しているかもしれないのだ。

しかし、明るい人は、暗い人の抱えているものがわからない。まさに、氷山の一角しか見てないのである。氷山の一角は、目に見える部分であり、海水の下に見えない部分がある。明るい人が『俺だってつらいことを経験した』と言う場合、ほんとうに、氷山の一角が浮かんでいる状態なのだ。なので、見えてない部分もある氷山の一角と、見えてない部分がない氷山の一角が、どう見てもおなじものに見える。

ほんとうに、つらさの程度や質に、ちがいがある場合というのがわかってない。

たとえば、父が死んだというばあい、普通はつらい経験として語られるだろう。あるいは、妻が死んだという場合でもいい。あるいは、入試におちたという場合でもいい。あるいは、友達に裏切られたという場合でもいい。あるいは、失恋したという場合でもいい。

しかし、それらの、単発のつらいこととは別に、家族による激しい騒音など、毎日続くつらいことがある。この毎日続くつらいこと……と……単発のつらいことを同様に扱ってはいけない。どうしてなら、質も量もちがうからだ。毎日つらいことを経験している人でも、そりゃ、家族が死ねば、つらいと感じることがあるだろう。これは、連続の上に単発がかさなったかたちになる。

その場合、単発だけを「くらっている」人とはちがう状態になる。だいたい、毎日、連続してつらいことを経験している人は、単発のつらいことも発生しがちなのである。もちろん、家族の死に関しては、確率的におなじだろうけど。毎日、激しい騒音などを経験している人は、失敗が多くなるのである。あらゆることにトライすることができなくなってしまうのである。それは、身体的につかれて、能力がさがっていることによって発生する。ともかく、毎日つらいことがある人の場合は、そもそも、活性状態がちがう。普通に生活ができない状態なのである。普通に生活している人の状態とはちがう。

毎日のたいへん大きな物理刺激が、からだを疲弊させ、能力を下げる。人間の生活なんて、学校に入ったときから、細かい作業の連続だ。その細かい作業でいろいろなミスが発生しやすくなる。だから、連続的につらい思いをしている人は、単発のつらいことも経験しやすくなるのである。


まあ、ともかく、「どんだけつらいことを経験しても、笑えばつらくなくなる」とか「つらくても、元気だ元気だと言えば、元気になる」というようなことを言える人が経験した「つらいこと」は、たいしてつらいことではないということがはっきりと言える。どうしてかというと、そのつらさは、「笑うこと」や「元気だ元気だ」と言うことによって、消滅する「つらさ」だからだ。

そういう質のつらさやそういう程度のつらさしか経験してないから、そんなことが言える。その人たちが経験しているつらさというのは、『笑うこと』できえるようなつらさなのだ。その人たちが経験しているつらさというのは『元気だ元気だと言うこと』できえるようなつらさなのだ。そういうつらさしか経験してないのであれば、そういう発言ができるだろう。暗い人の背後にある「つらさ」のかたまりを見ないまま、そういう発言ができるだろう。暗い人を、自分より弱い人間だと、こころのなかで蔑視することができるだろう。

(つづく)

2020年2月10日月曜日

明るい人が暗い人について述べた文章について考えてみよう


話しの前提になることをちょっとだけ話しておこう。それは、暗い人とか、明るい人という言葉についてである。『暗い人』というのはどういう人か? 『明るい人』というのはどういう人か? こんなものは、定義ができない。本人が主観的に『暗い人』だと思っていても、まわりの人から見ると『明るい人』にうつるという場合だってある。その逆もある。要するに、『明るい人』というのは、本人の主観に基づいたイメージであり、他人の主観にもとついたイメージなのである。たとえば、日本に生まれた日は日本人である場合が多く、日本国籍を持っている人は、日本人であるということができる。しかし、『明るい人』『暗い人』と言う場合は、国籍のような明確なしるしがない。ただ単に、本人が『明るい』と思ったり、本人以外の人が『明るい』と思っているだけなのである。『明るい人』の定義ができるような感じがするかもしれないけど、それは、明るい人にまつわるようなイメージを言っているだけなのである。暗い人の場合もおなじだ。「言っていると」書いたけど、言っているのは、本人である場合と他人である場合がある。暗い人の定義を形作っているようにみえる、いろいろな要素は、(その発言者)がなにを「暗い」ととらえているかの写し絵でしかない。これは、定義にはならない。けど、一般的に、暗い人なら暗い人のイメージとして出てくる言葉が決まっているというのであれば、定義ではないけど、暗い人をこのようにとらえている人が多いということが言える。けど、これは、要素部分のトートロジーでしかない。しかも、発言者のなかのイメージについて語っているにすぎないので、あんまり意味があるとは言えない。
たいていの場合は本人が本人のことを『明るい人』だと考えている人が、本人が暗い人だと考えている人のことを悪く言うときに、『暗い』と言うのである。本人が本人のことを明るい人だと考えていることは問題ではない。けど、暗い人全般のことを悪く言うのは問題がある。自称明るい人だっていっているではないか。『暗い人は人の悪口を言う』と。しかし、明るい人が、自分にとって好ましくない性格を持ってる他者を『暗い人』だと決めつけ、『暗い人』の悪口を言っているという解釈はできないのだろうか?

明るい人が暗い人について述べた文章について考えてみよう。だれか、明るい人が『暗い人はああだこうだ』と書いた記事があるとする。その場合、自分が暗い人間だと思っている人間がその文章を読んだ場合どういう気持ちになるかということを考えてみよう。

けど、自称明るい人は、自分が暗い人だという(かりの)前提で文章を読むことは、苦手だと思う。なので、日本人の場合は、文中の『暗い人』を『日本人』に読み替えて、日本人である自分が、その文章を読んでどう感じるかを考えるようにした方がよいのではないかと思う。暗い人を日本人と読み替えて、文章を読んだとき、いい気持ちになるだろうか。不愉快な気持ちになるだろうか。たぶんだけど、不愉快な気持ちになるのではないかと思う。

これは、いまの時点では、ぼくがそう思っているだけなのだけど、たぶん、好ましくないと感じられる特徴?が述べられている。特徴に「?」をつけたのは、その特徴が日本人の特徴ではなくて、その人が考えている日本人の特徴だからだ。

自称明るい人は気がつかないかもしれないけど、対象になる人がその文章を読んだとき、不愉快な気持ちになることを書いていると思う。(これも、俺が思うだけだけど……)。

これは、たぶん、『暗いこと』と『悪いこと』が結びつけられているからだと思う。なのでやっぱり、自称明るい人は、暗い人の悪口を言っているのではないかと思うのである。

けど、自称明るい人が、暗い人の特徴としてあげる要素のなかに『人の悪口を言う』ということが、ほぼ一〇〇%入っている。(入っている場合のほう非常に多い)。なので、いちおう、自称明るい人は、『暗い人』の悪口を言っているということは、正しいことなのではないかと思うのである。

2020年2月9日日曜日

ヘビメタ騒音によってできあがった、あの状態と、あの気持ちはない


どうするかな? まじでつかれた。

この雰囲気は、やなぎ荘の雰囲気とおなじだなぁ。
本当につかれた。あれから三〇年もたっているのに……。本当につかれたなぁ。あんまり進歩してないなぁ。

本当につかれた。来世に期待するしかないか。
あの、気持ちはない。強烈に自分勝手な兄貴のヘビメタ騒音によってできあがった、あの状態と、あの気持ちはない。

2020年2月8日土曜日

言論に限られるけど、明るい人は暗い人を攻撃している。


しゃくぜんとしないものを感じる。これは、なんなんだろう。まあ、こういう人たちは、『楽しいから、わらうのではなく、わらうから楽しく感じるのだ』といった言い方を好む。これは、これでいい。それに、たとえば、明るい人たちが、明るい人たちといっしょにいたいと思って、それを実行することはまったく問題がない。しかし、『明るい人たち』による、『暗い人たちに対する』攻撃は、看過できない。これは、おかしいと思う。この人たちはまったく、暗い人たちを攻撃するつもりはない。つもりはないし、そうしているとも思ってないだろう。

けど、暗示はしているのだ。

『明るいのは、いい』『暗いのは、ダメだ』と暗に言っている。この人たちは、人の悪口を言うのは、きらいであるそうなのだけど、『暗いのはダメだ』と暗示するのだから、ある特定の人たちの悪口を言っているのとおなじなのではないか。『暗いのは』というのは、『暗い人は』という意味なのだから。『明るい人たちは、いい。暗い人たちは、ダメだ』と言っているのとおなじわけだから……「のは」と言っても、ものについて、言及しているのではない。まあ、明るい人たちが作ったものは、よくて、暗い人たちが作ったものは悪いということも、暗示しているのだけど……。これは、価値観だ。個人の価値観だ。それは、わかる。けど、やはり、攻撃になってないのだろうか?

明るい人たちは『暗い人たちはダメだ』『暗い人たちは、悪い』ということを言っておきながら、人の悪口を言っているつもりがない。なので、『人の悪口を言うのは良くない』と言ったあとに、『暗い人たちはダメだ』『暗い人たちは、悪い』ということを言ってもまるで気にしない。『事実そうだろ』と思っているのだ。けど、暗い人たちとまとめられている人たちの、背後にあるいろいろなものに目を向けてないので、そういうことが言えるのではないかと思う。世の中というのはほんとうに不公平にできている。

だから、それがあたりまえで、実は差別的な言葉を口にしているのに、差別的な言葉を口にしていると思わない人たちも出てくる。そういう人たちは、明るい人として、暗い人を差別し、攻撃する。けど、明るい人たちにとっては、『事実そうだろ』と思えることなのだ。そして、そういう気持ちが強いぶんだけ、余計に、実は、差別的なことを言っているということに、気がつかない。

自称明るい人は、実は、暗い人の悪口を言っている、暗い人なのだということになってしまう。彼らの理論に従えば、人の悪口を言う人は、暗い人なのであるから。
まあ、ここらへん、まったく気がつかないと思う。だから、言っていて、暗い人の悪口を言っているという気持ちにはならないのだろう。『事実を言っているだけだ』という気持ちなのだろう。

さらに、暗い人は、切らなければならないのである。暗い人との付き合いは切るべきなのである。暗い人とはなるべくあわないようにしなければならないのである。これにも、『事実そうだろ』という気持ちがつきまとっていると思う。
まあ、他にも言いたいことはあるけど、とりあえず、言いたいことは以下の通りである。
(1)明るい人は、暗い人の悪口を言っている。
(2)明るい人は、暗いの人の悪口を言っているということに気がついてない。
(3)明るい人は、暗い人を追い詰めている(もちろん言葉の上でだけだけど)
明るい人は、(1)(2)(3)をとてもわかりやすく説明してしまうのである。(もちろん、まったく悪気がないまま説明する。その説明は、正直に言って、わかりやすい。どうしてそういうことが成り立つかというと、『一部』をたしかに説明しているからである。また、人間にとってなじみやすい「けがれ」という考え方を利用しているからである。基本的に、人間は、原始人が持っていたと推測できるとても、原始的な感覚を持っている。これは、幼児的万能感とも関係している。なので、個体発生的にだれもが『分有』しているものなのである。だから、うったえかけやすい。だから、他の人が「なっとく」しやすい。けど、わかりやすくなっとくしやすいから、『暗い人の悪口を言ってない』ということではない。また、他の人が「なっとく」しやすいことだから、正しいことだ(まちがってないことだ)とも、言えない。

2020年2月5日水曜日

それを必死で、追い払って、つっぱって、生きてきた


ほんとうに、すべての時間、勉強の邪魔をされ続けるというのが、つらい。なっている時間は勉強ができない。勉強ができないだけではなく、体力がおちて、夜眠れなくなる。激しく興奮している状態で、その興奮自体が、気持ちが悪い。激しく怒っているのに、それを抑制しようとする気持ちがあって、くるしい。激しく怒るちからと、怒りを抑えるちからが拮抗している状態でくるしい。こんなの、何年間も毎日、続いたら、そりゃ、精神も睡眠回路担当部分の脳も壊れる。

   *   *   *

俺はやっぱり相当にダメだ。つかれた。猛烈につかれた。いま、ご飯を炊くのがめんどうくさい。ただ単に、米を入れて、水を入れて、セットして、スイッチを押すだけなのに、できない。まあ、これは、できないのではなくてやりたくないだけなのだけど……。けど、これ、押してやってもいいことがないんだよな。がんばってやってもいいことがない。よけいにつかれるだけ……。どこかでまた、そのつかれが出る。
押してやった、つかれがでてしまう。それは、気違いヘビメタ騒音のときからずっとそう。気違いヘビメタが鳴り始めてからずっとそうだ。ほんとうに、どれだけ気にしないようにしても、眠れない状態ですごして、体力が一〇分の一、二〇分の一になっちゃうんだよな。他の人にはわからないから、俺がもともと、そういう体力しかないと思ってしまう。で、普通にバカにする。もう、そういうことでも、つかれはてた。昨日やなぎ荘のことを思い出したんだけど、気違い兄貴のヘビメタなんて、気違い兄貴があの音で鳴らしていたら、一号室から九号室の人まで、みんな出てきて、「やめてくれ」って言うと思う。苦情が出ると思うよ。五分間で……。そういうレベルの騒音が、ずっとずっと続いた。

佐藤みたいなやつも普通にバカにするわけだけど、バカにしているとは思ってないんだろうな。けど、じゃあ、ぼくが、助教授として働いていたらどうなんだよ。絶対にあんな態度を、とってない。俺が塾を経営している経営者だったらどうなんだよ? 絶対にあんな態度をとってない。ああいう態度を普通とれるということは、見下して、バカにしているんだよ。日本は、無職に対する偏見がすごい。これは、もう、病気のレベルで、すり込まれている。これは、なんとしても、小さいときから、すり込まなければならないことだから、すり込んでいると言ってもいい。だから、佐藤みたいなやつは、「ふ・つ・う」の人なのである。これが、問題だ。佐藤は普通の人の感覚を持っている。これが、問題だ。

けど、無職じゃなくても、……気違いヘビメタ騒音で、引きこもったとすると、引きこもりということで、バカにするやつが出てくるんだよ。で、これは、小学生のときから続いている。俺は、家でヘビメタが鳴っていたわけだから、学校にいるときよりも家にいるときのほうが、何千倍も、何万倍もつらかった。けど、家で勉強ができないとなると、なめられるのである。あるいは、家で、なめられていると、学校でもなめられるようになるのである。それを必死で、追い払って、つっぱって、生きてきた。わからないんだろうな。気違いヘビメタが鳴っていると言うことがどれだけの威力があるか? 気違い兄貴の態度そのものが、気違い的なレベルで人をなめているので、他の人から、なめられがちになる。家でなめられているやつは、学校でもなめられるようになる……これ、よっぽどのことがないとくつがえせない。ほんとうに、教育学とかそういうことを学んでいる人は、そういうことについてちょっとは真剣に考えたほうがいいよ。これがまた、小さいときに親や兄弟にやられたことは関係がありません……という立場なんだからな。そりゃ、認知療法のレベルだとそうなる。

ほんとうに、そこでどういう交流が為されているのか、ちょっとは真剣に考えたほうがいいよ。

2020年2月4日火曜日

ヘビメタ騒音波及物のことがわからないだけだ


市役所に行くのはやめた。銀行に行こうかと思う。けど、買い物もする。けど、もう、どうでもいいような感じもする。……よくはないのだけど……。

どうするかな。

ヘビメタ騒音のことで、こころがやばい感じになっている。ヘビメタ騒音と長期騒音の波及物。波及物と書いたけど、波及して発生してしまう出来事のこと。これは、どうなんだろな? ヘビメタ騒音波及発生出来事と言うべきか?


気違い兄貴は、かまわずに鳴らしたわけだけど、鳴らされているあいだ、こっちには、気違い兄貴の騒音が関係のあるものになった。気違い兄貴の騒音が、自分の状態や意識と関係があるものなのである。

しかも、「ヘビメタなんて鳴ってたって、どうだっていい」「ヘビメタなんて鳴ってたって平気だ」「ヘビメタなんて鳴ってたって、俺はだいじょうぶだ」とヘビメタ騒音のなかで、俺がどれだけ言っても……けっきょく、影響を受けた。

言霊とか、思いこみとか、自己暗示とか……気違い兄貴のは快適な騒音ですべて吹っ飛んでしまう。そういう影響を受けた。不可避的な影響を受けた。

どれだけ『影響を受けない』とまじないのように、繰り返して、言っても、受けた。

受けたんだよ。

これ、ほんとうに、今世で、ヘビメタ騒音を鳴らされたことがない人にはわからない。別にヘビメタでなくてもいいんだよ。その人にとって、一番苦手な音が、鳴っていたということだ。その人が一番、この世で嫌いな音が、ものすごい音で鳴っていたということだ。こういう経験がずっと積み重なった人じゃないとわからない。

しかも、やっているのが家族で、ヨソの人は『家族なら相談すればいい』『家族なら相談すれば静かにしてくれるはずだ』と思ってしまう。『どれだけ鳴らしていると言っても、たいしたことはない』と思ってしまう。

また、経験して知っているわけではないから、ヘビメタ騒音波及物に重いがおよばず、『俺なら鳴らされたって、だいじょうぶだ』と思ってしまう。けど、それは、実際に鳴らされたことがないから、ヘビメタ騒音波及物のことがわからないだけだ。

ほんとうに、何時間も浴びていると、鳴り終わったあと、眠れなくなる。何時間も何時間も、どうしても眠れなくなる。この、眠らなければならないのに眠れない数時間というのが、どれだけ、一日の生活に影響を与えるかわかってない。あるいは、一日の精神に影響を与えるかわかってない。

2020年2月3日月曜日

今世のそういった記憶を保持したまま、この世で一番嫌いな音を聞かされ続ける人生を来世ですごしたなら


ちょっと掃除をしたあと、洗濯をして、洗濯物を干したあと、また、掃除をした。しかし、だるい。もうれつにだるい。これはもうだめだな。

ヨソの人たちが考えるヘビメタ騒音と、俺が体験したヘビメタ騒音がちがいすぎる。俺が体験したヘビメタ騒音について、俺が述べるわけだけど、俺が述べたことによって『ヨソの人たち』のなかにできあがるヘビメタ騒音のイメージと、俺が体験したヘビメタ騒音のイメージはちがう。

これが、いろいろな「いさかい」の原因になる。


なんてたって、『鳴ってたって、たいしたことはない』と思う人たちにとっては、俺の「障害」がゆるせないことになるわけだから……。俺が、俺の、障害を考えて、「できない」と言うことを、彼らはゆるさないわけだから。

どうしてなら、そんなに深くてデカイ障害になるわけがないと思っているからだ。だから、俺が言っていることは、まちがっているように感じるのである。

要するに、彼らにとって見れば、ヘビメタ騒音は「できない」理由にならない。

しかし、今世のそういった記憶を保持したまま、この世で一番嫌いな音を聞かされ続ける人生を来世ですごしたなら……おくったなら、こういうことだったのかとわかるはずだ。

けど、そんなのはなくて、今世でのできごとしか脳みそにないわけだから、『ヘビメタ騒音でできなんてことはない』『過去のことは関係がない』『鳴り終わっているのであれば(いまの状態には)関係がない』と思ってしまうわけだ。

いま、2020年02月02日13時26分09秒
日曜日の午後一時二六分で、日曜日の午後一時二六分は、鳴っていた。何年間も、十何年間も、日曜日の午後一時二六分は鳴っていた。そして、午後七時一〇分から、午後七時四〇分までの休みはあるけど、他の時間はすべて、気違い的にデカイ音で鳴っている。

ヨソの家じゃ、絶対に一分だってあり得ないような音で鳴っている。で、俺の部屋は、騒音地獄になっている。もちろん、二〇メートル離れたところでどのように聞こえるのかは知らない。けど、俺の部屋は、騒音のうずだ。

以前、幼稚園の園児の出すキーーという音について考えてみたことがあるのだけど、やはり、距離によってだいぶちがう。それこそ、受けとめ方がだいぶちがう。

これは、実際に距離によって物理的な音のデカさが変わっているから、受けとめ方に差ができる。

気違いヘビメタ騒音は、幼稚園生の絶叫でいうと、耳元で絶叫している音よりもデカイ音だ。で、それは、一〇メートルも離れれば、『許容できる音』になる。

実際、平日は、ずっと、二百何十人の幼稚園生の絶叫にさらされる。もちろん、全員が同時に奇声を発してるいるわけではなく、数十人が同時に奇声を発生しているレベルだと思う。

一人だけに注目すれば、奇声をできるだけ全力で発生しているときと、黙っているときがあるわけだけど、数が多いと、誰かが奇声を発生しているとことになる。しかし、外壁を隔てて、一〇メートルぐらいの距離があるために、ヘビメタ騒音よりは、静かだ。ずっと、静かだ。



気違い兄貴のヘビメタ騒音は、二百人の園児が「みみもと」でぜっょきうしているのよりもうるさい。そういう、ドタバタした音だ。いてもたってもいられない。落ちけつない。どれだけ落ちつこうと思っても落ち着けない。ともかく鳴ってたら、くるしい。


『ヘビメタ騒音がどれだけ鳴っていると言ったって、たいした音じゃない』『ヘビメタ騒音が鳴り終わったのであれば、そんなのは関係がない』と思っているやつは、ただ単に想像力がたりないだけだ。そういう人の経験に対して、だぶん、過小評価する傲慢な体質なのだろう。頭の体質。


関係がないわけないだろ。ほんとうに頭が悪いなぁ。

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2020年2月1日土曜日

しかも、家族。


いろいろと他の人から誤解を受けてつらかったという気持ちになった。いろいろなシーンが浮かんでくる。ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、他の人に誤解されまくりだ。

他の人は、俺じゃないから、ヘビメタ騒音がどれだけすごい音でなっているかわからないし、ヘビメタ騒音がずっと鳴った場合、どれだけ、体に影響が出るかもわからない。

わかってないところでものを言う。

俺にわかったようなことを言った人たちが、今世の記憶を保持したまま、一一歳のときから、ずっと、自分が一番きらいな騒音にさらされる人生を歩んだら、きっと、「こういうことだったんだな」ということがわかると思う。

佐藤にしたって、自分で体験すれば、来世の佐藤にとっての一番嫌いな音……俺にとってのヘビメタ騒音が……どれだけ「からだにのこるか」わかる。わかるようになると思う。

ヘビメタ騒音が人生全体にどれだけでかい影響を与えるかわかる。わかるようになると思う。

ヘビメタ騒音の結果、ひととあらそわなければならなくなるというのがわかる。わかるようになると思う。

こいつら、ほんとうに、まったくわかってないんだからな。想像しろ。まあ、想像してもわからないか。うちの兄貴は、この人らの想像の範囲外にいる。だから、想像しようと思ってもわからない。

「そんな人、いるのかな」なんて、疑問を持つ。

じゃあ、来世で、うちの兄貴のような家族に、たたられてごらんよ。わかるから。『こういう人もいるんだな」というのがわかる。気違い兄貴がどれだけの意地でやっているかわかってない。

普通の人は、それ自体がわかってない。気違い兄貴の意地なんて他の人にわかるわけがない。気違い兄貴の「やってない」感覚だってわかるわけがない。兄貴は、あれだけデカイ音で鳴らしているのに、デカイ音で鳴らしてないと思っているということ自体がわからない。

そんなことはないだろうと『普通の人は』思う。

聴覚が正常なら、デカイ音で鳴らしているときはでかい音で慣らしているという認知が生じるはずだと思っている。ところが、どっこい、そうじゃない。そして、普通の人以上に、気違い兄貴がその点についてわかってない。

わかってないから、どれだけ「やめてくれ」と言われても、まったく気にしないでずっとずっと鳴らし続けることができる。普通は、気にする。普通は気になる。

どうしたって、本人が「これはないな」と思うほどデカイ音で鳴らしていれば、「デカイ音で鳴らしすぎている」ということが気になるし、そういう状態で鳴らしているとき「やめてくれ」と言われたら「やめてくれ」と言ってきた人のことが気になる。

「やめてくれ」と言ってきた人が、こまっているということがわかる。自分の騒音でこまっているということがわかる。けど、気違い兄貴は、まったくわからない。親父のように、怒っておしまいだ。

これ、ほんとうにうちの親父と、ウチの兄貴の反応がまったくおなじなんだよな。あれは、ほんとうにわかってないよ。自分の腹が立ったという感覚しかない。自分にとって不都合なことを言われたから、腹が立った……それだけ。相手のことなんて、微塵も考えない。考える脳みそがない。

だから、自分が腹を立てたあと、ずっと馴しづけても、なにも感じない。「相手がこまっているのだろう」ということが頭の中にまったくない。そういう状態でどれだけ言われても、まったく悪気がないまま、迷惑をかけてないつもりで鳴らし続けることができる。

こういう人間にやられたことがない人はわからない。

しかも、家族。

『家族なんだから、話せばわかってくれる』と普通の人は考える。『ちゃんと言わないから、お兄さんがわかってくれないだけなんだ』と考える。『エイリさんがちゃんといわないからだめなんだ』と考える。そして、「お兄さんに言えばいい」と助言をする。その助言についてぼくが、上(右に修正)で述べたようなことを言えば、不可思議な顔をする。今度は、助言してくるやつが、俺の言うことを認めない。こういうしくみになっている。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。