2020年2月28日金曜日

迫害者との楽しい思い出なんてあるわけがないだろ


俺、ほんとうに『父との楽しい思い出』なんてないわ。迫害者との楽しい思い出なんてあるわけがないだろ。しかも、つもりがない迫害者。俺のからだが親父よりでかくなったときに、とりあえず、精神的な虐待は、なくなったけど、それだからと行って、親父の基本的な構造がかわったわけじゃないんだよ。脳みその構造が変わったわけじゃない。こういうところがわかってない人がいるんだよな。過去は関係がないとか……。あるに決まっているでしょ。しかも、過去は関係がないなんていっている人は、みんな、健常者に育てられたやつばかりなんだよ。こんなのない。過去は関係がないなんていっている人は、ほんとうの意味での妨害工作がわかってない。人の人生を台無しにする行為にこだわり続けて毎日ずっとやっているのに、まったくそのつもりがない人の構造というのがわからない。たとえば、AさんがBさんにそういうことをした場合、Bさんはどんなことをされても、あきらめてゆるさなければならないということを言っているんだぞ。「過去なんて関係がない」と言っている人はそういうことを言っている。Bさんがゆるさなくても、Aさんはそのうち白骨になって、骨壺におさまり、けっきょく、Bさんがどれだけ責任追及をしても、まったく関係がないところに行ける。だから、「あきらめるしかない」というようなことは、一面正しい。けど、ちがう。これ      わかってないんだよ。人生のなかでずっとやられてきた人じゃないとわからない。

いつもいつもおなじだ。

いろいろ、感じたことはあり、いろいろ、書かなければならないのだけど、書けない。書いたとしても、やばい部分は公開できない。あー、これからどうするかな?
頭のなかをまわっているものはある。あるんだよ。
俺がほんとうにひとりぼっちになってしまった。ときどき、うっっってなる。しかも、最後に親父が俺にしたことがひどいんだよ。たぶん親父はひどいということもわかってないだろう。いつもいつもおなじだ。けっきょく、生きているあいだ、そうだったな。
なんか、俺は、いつも死を意識するようになってしまった。それはやきあがった白骨を見たからじゃない。大きな箸でつまんで壺に入れたからじゃない。ああっ、そうじゃないんだ。けど、それも関係、あるかもしれないなぁ。二重にうつっている。ともかく、死を意識するようになった。もともと、ヘビメタ騒音で楽しめなかったけど……常に、ヘビメタノ影響を受けて、楽しいという感情がわかなかったけど……楽しいと思う時間がなかったけど……さらに、楽しいという感情が……。ちらつくのである。
これは、やばい。
ほんとうに最後までたたってくれたなぁ。俺はちゃんと葬式をやってやったのに。いつも、こうなんだよな。親父が俺にやってくれたことで、俺が助かったと思いをしたことがない。親父自身がやる気になってやったこと……親父時間が思いついて、俺のためにやったことで、俺がしあわせになったことがないのである。そうじゃなくて、苦労、苦痛を与える。とてつもなくイライラする。激しい怒りを感じる。絶望を感じる。あいつが俺のためにやったことというのは、いつもそうだ。いつも、くるしみや不安がつきまとう。あいつが俺にやってくれたことで、俺がうれしいと感じたことがないのである。
ほんとうに、気違い親父。おまえ、俺に怒り狂ってたたるだけじゃなくて、そういうことでもたたっているんだ。おまえが勝手にやりたくなってやったことで俺がどれだけ迷惑を被っているか。もう、いやだ。最後の最後に、ほんとうにいやな思いをさせてくれたな。あんなのないよ。
そんなことじゃなくて、たとえば、俺が「ネズミバスターズにたのんだほうがいい」「ちゃんとネズミ対策用の工事をした方が良い」と言ったとき、「そうだそうしよう」と言ってほしかったのである。それがおまえは「おれがやるからいい!!俺がやるからいい」と怒り狂って絶対に、こっちが言うとおりには動いてくれない。結果、ネズミの糞が家中にまかれることになったじゃないか。そして、ダニにさされながら、ネズミの糞をかたづけるのが俺なのである。親父の部屋に親父の時計をとりに行ってものすごくかゆい思いをするが俺なのである。

2020年2月25日火曜日

相手にも「気持ちがある」ということが、根本の根本でわかってない


自分の気持ちばかりの人っていやだな。相手にも「気持ちがある」ということが、根本の根本でわかってない。どれだけ、そいつが「わかっている。わかっている」と言ったって、根本の根本で、わかってない。人だって……他の人だって、感情があるんだということがわかってない。根本的にわかってない。
根本的にわかってないというのはほんとうに、根本的にわかってないのであり、「わかる脳みそ」がないのである。「わかるつもりの脳みそ」はあるかもしれない。それは、自分勝手な思考に満ちている。自分の感情しかない。「わかるつもりの脳みそ」は、自分の側の感情しか考えてないので、やはり、相手の感情はわからないのである。
これ、ほんとうに構造的に抜け落ちているわけで、脳みその構造に欠陥がある。だから、どれだけ言われてもわからない。どれだけ説明がうまい人が、自分の気持ちについて説明しても、わからない人は、わからない。根本的にわからないから、根本的なところを無視した行動をする。けど、常に根本的なところを無視した行動をしているのに、それがわからない。だから、悪意がないのに、常に、相手の心をボロボロにするということになる。相手がいやがることをするということになる。自分のなかでスイッチが入ったら、相手がどれだけやめてくれ」と言っても、どなってもどなっても、やめない。
「やめてくれ」「やめくてれ」とその人の前で何十回絶叫してもやめてくれない。
頭がおかしい人(やってやるという気持ちになってしまったら、相手がどれだけやめてくれと言ってもやめない人)が、「どうしてだ」と相手に聞くことがある。どうしてやって欲しくないのかについて、相手がどれだけ説明しても、これまた、わからないのである。根本的にわからない。ギャグのように何回も聞きやがる。何十回説明しても、理解しない。相手の気持ちは絶対に理解しないことになっている……のである。

「明るい人は良い。暗い人は悪い」という風潮に異議がある


明るい人と暗い人をくらべると……という話になった場合、かならず、明るい人が良く言われて、暗い人が悪く言われる。けど、善人であるとか悪人であるということは、暗いか明るいかでは決められない。明るい悪人もいれば、暗い善人もいる。善悪ではなくて、ただ単に、性格が良いとか性格が悪いということも、暗いか明るいかでは決められない。しかし、なぜか、暗い人は性格が悪く、明るい人は性格が良いというイメージがある。そして、比較の話しでは、常に、明るい人が良い人で、暗い人は悪い人だということになる。こういうステレオタイプはよくない。こういうイメージしかもてないというのであれば、それはよくないことだと思う。
だいたい「暗い人」と言った場合には、ネガティブなイメージが含まれている。「暗い」という言葉のなかにすでにネガティブなイメージが「こめられている」ので、発言者は暗い人は悪い人だというイメージを持ってしまうのである。暗い人ではなくて、落ち着きがある人、冷静な人、思慮深い人というような言葉を使えば、悪いイメージは払拭される。「おとなしいひと」は中立的で、「おとなしい」ということを良いことだととらえる人と、悪いことだととらえる人がいると思う。「おとなしい」には「従順」などの意味も含まれる。その従順というのがまた、現代では、ネガティブなイメージがあるものだと思う。暗い人が、おとなしい人である場合、明るい人よりも、「他人」のことを気にしている場合が多いと思う。他人に配慮することができる人なのだ。しかし、自己主張の度合いが小さいため、ゆずらなくてもいいところでゆずってしまうかもしれない。しかし、ゆずらなくてもいいところでゆずってしまう人は、悪人だろうか? 善人だろうか? ゆずらなくてもいいところでゆずってしまう人は、本人は苦労するかもしれないけど、まわりの人は、それでたすかる場合がある。まあ、ゆずってしまう人がたすからなくていいということはではない。それは別の問題だ。そして、言語の問題は「ゆずらなくてもいいこと」という言葉にも発生する。作者であるぼくが「ゆずらなくてもいいこと」と書けば、「ゆずらなくてもいいこと」になってしまうのだけど、この世では、それは、一元的には決まらない。それぞれの立場とそれぞれがもっている情報で、「ゆずらなくてもいいこと」が決まってくる。どこか中立的な空間に、中立的に「ゆずらなくてもいいこと」が浮遊しているわけではないのだ。けど、「ことば」という抽象的な世界だと、あたかも、「ゆずらなくてもいいこと」が固定的に存在するかのような影響を与えてしまう。だから、これは、言葉の問題として指摘しておきたい。これは、実は、認知療法の本などを読むときも、注意しなければならないことだ。
ともかく、意図的かどうかはわからないけど、暗いのは悪いというイメージがあり、一種のイメージ運動がある。けど、その人が善人かどうかということと、暗いか明るいかは関係がない。また、その人が「良い人」であるかどうかと、明るいかどうかは関係がない。
「あかるいのはせいぎ」「くらいのはあく」というイメージを育てるための啓蒙が行われているけど、それは、おかしい。啓蒙が行われているかどうかだって? そりゃ、普通の人が文章を書けば、「明るい人は良い。暗い人は悪い」という前提で文章を書いてしまう。それは、ポジティブとネガティブでもおなじだ。積極的と消極的でもおなじだ。ともかく、人のことなんてかまわないで、積極的に、自分の人生を楽しむことが奨励されている。けど、そういう人たちの、犠牲になる人がいる。そういう人たちの犠牲になる人がいるというとが、そういう積極的な人たちにはわからない。

幼稚園

幼稚園はいつも通り、うるさい。
死んでいく人と幼稚園生。
まあ、いまは、たいていの人が幼稚園生を経験して死んでいく。親父は、幼稚園生というのは経験してないな。

ともかく、俺は、日時を決められるとだめだ


ともかく、俺は、日時を決められるとだめだ。前の日から眠れなくなる。それは、毎日、ピンチだったからだ。毎日、時間の都合がつかなかったからだ。毎日、ヘビメタ騒音が鳴っていたからだ。ヘビメタ騒音を平日は午後四時から午後一一時一〇分まで、土曜は午後一時から午後一一時一〇分まで、日曜日は午前一〇時から午後一一時一〇分まで、鳴らされていると、眠れなくなる。夏休み、冬休み、春休みは、午前九時一五分から午後一一時一〇分までだ。で、ほんとうに、毎日続く。「途中でやめてくれる」ということが一切合切ない。だから、試験前の冬休みだって、もめてもめてもめてもめて、いるのに、気違い兄貴が自分がやりたい時間、ずっと鳴らしている状態でもめているので、まったく勉強ができないのである。それでまったく悪いと思ってないんだよ。まったく勉強の邪魔をしていると思ってない。試験の邪魔をしていると思ってない。俺の進学を邪魔していると思ってない。

希望とのせめぎ合いによる合成絶望


基本、この雰囲気は、気違いヘビメタが鳴っていた、試験前日の雰囲気だ。いま
2020年02月24日23時55分22秒
で、午後11時11分には鳴り終わっているのだけど、午後11時11分まで、大切な試験の前だというのに、一〇時間ぐらい、気違いヘビメタ騒音に……どれだけやめろ言っても……さらされて、くるしい状態になっている。勉強の復習をしたいのに、それができない。ヘビメタ騒音のなかで復習しようとすればするほど、頭がこんがらがって、爆発してしまう。こころが爆発。覚えていたことも忘れてしまう。学校で聞いているときはできた文章問題もできなくなってしまう。横暴な人……気違いが鳴らしている……家族である気違いが鳴らしている騒音のなかで……ぼくがひとりで発狂している状態なんだぞ。発狂して問題集とにらめっこをしている状態なんだぞ。どれだけ言っても、気違い兄貴は、ハンダゴテの親父のように認めない。ハンダゴテの親父というのは、ハンダゴテ事件の時の親父のようにという意味だ。おなじなんだよね。破壊的にうるさい音が鳴っている。佐藤のような人間は、「うち」で、ヘビメタ騒音レベルの音を聞いたことが、一生のなかで一度もないと思う。だから、音のデカさがわからない。普通の騒音だと思ってしまう。くるしくても笑えばどうにかなる(たえられる)という人も、たぶん「うち」でヘビメタ騒音レベルの音を聞いたことがない人だと思う。

……そんなんじゃないから……。
話し合えばいい……。
……そんなんじゃないから……。
話し合えばいいという人に『兄貴のことを説明しても』通じないんだよな。こっちはこっちで通じない。佐藤もそういう「け」がある。そういうやつらの感覚はわかる。普通の人の感覚だ。異常者が家にいない人の感覚だ。どれだけの意地でやるかわかってない。そして、やり通しているのに、まったくやったつもりがないという主観も、わからない。気違い兄貴や気違い親父が普通にもっている主観が、たぶんまったくわからない。見たことがないから、わからない。「うち」にいるときの気違い兄貴の状態を見たことがないからわからない。ほんとうにまったくやったつもりがないんだからな。そして、親父とおなじように、まったく役に立たない譲歩をしてやれば、一〇〇%ゆずってやったと思ってしまう。だから、ほんとうに「ゆずってやったのになんだ」と怒って、気違い的な音でひきやがるんである。エレキギターをひきやがるのである。で、俺が、ヨソの人になめられる。俺がヨソの人に、だらしない人間だと思われる。俺がヨソの人に甘えていると思われる。たとえば、起きている時間に一〇時間……六時間でも、ヘビメタ騒音にさらされると、眠れなくなる。これも、佐藤や「笑えばどんなにくるしいことも乗り越えられる」と言っている人が経験したことがないことなのである。こいつらは、経験してないのに、自分なら、眠れると思って、俺をバカにする。これも、バカにしているつもりがないのだろうけど、「自分はできる」という立場で、それができなかった俺のことを揶揄しているのだから、バカにしているのとおなじなんだよ。「できないのは、だらしがない」「できないのは、甘えている」と思っているわけだから。そんなのは、「のりこえられる」ことなのである。「どれだけ騒音が鳴ってたって、終わってしまえば眠れるわけで、眠れないなんてことはない」と思っている。眠れないとしたら、エイリさんが悪いんだ(こだわりすぎるから悪いんだ)(神経質だから悪いのだ)と、そもそもの前提として思っている。いろいろな思いこみが重層的に積み重なって、実際に発音される言葉が発せられるのである。
「俺ならそんな騒音は気にしないで勉強できる」……という前提が頭の中に成り立っている成り立っている。「どんなにでかい音で鳴っていても、それがどれだけ長い期間毎日続いていたにせよ、俺だったら、音が鳴りやめばすぐに眠れる。眠れないなんてことはない」……という前提が頭の中に成り立っている。人生の中で一回も経験したことがない騒音なのに、そういうことを勝手に思って、勝手なことを言う。
もう、いやだよ。気違いヘビメタで他のやつからなめれるのはいやだよ。ダイヤだって……親友のダイヤだって……のちにちには、本当に心配して言ってくれたことだけど……。俺にはたえられない発言があった。これ、ほんとうに、気違い兄貴の態度で気違いヘビメタ相当の音にさらされ続けた人間じゃないと、まったくわからない部分がある。それを、想像して、軽く決めつけて、発言する。発言するとしたら、(実際には経験してないのだから)そういう発言をするしかないということになる。で、そこには、距離がある。ぼくが感じた絶望との距離。ぼくが何万時間も十何万時間も感じた、絶望との距離。その絶望というのは、単なる絶望じゃなくて、希望とのせめぎ合いによる合成絶望なのである。これがわかってない。「どうにかしよう」という気持ちが長く続かなかったら、あんなに絶望しない。どうにかしよう」という気持ちが、気違いヘビメタ騒音のなかで続かなかったら、あんなにひきつって疲れ果てて、ボロボロになってない。これがわかってない。なにもやってないのだと思っている。自分がちょっと考えて思いつく方法で解決できることだと思っている。そうじゃないと言っても、これまた、わからない。相手はわからない。どうしてかというと、気違い兄貴のような家族がその人にはいないからだ。そして、気違い的な思考の持ち主が、気違い的な感覚で、気違い的な態度で、気違い的なヘビメタを、気違い的にデカイ音で鳴らしたということがないからだ。「言えば」静かにしてくれる家族なのである。
この、ちがい。どれだけはいっちゃっているかわからない。あにきがどれだけはいっちゃっているかわからない。そして、兄貴はほんとうに気違い的に「自分にとって都合がいい」考え方しかしない。そういう知覚・感覚システムが成り立っている。自分の感情で、事実を言いかえてしまっても、それに気がつかない。ほんとうは、ものすごくデカイ音でデカイ音で鳴らしていても、「こんなのはたいした音じゃない」と本人が思ったら、その瞬間から、何十年でも「たいした音じゃない」ということになってしまうのである。気違い兄貴の頭の中でそうなる。気違い兄貴が正常な耳を持っているのに、事実を言いかえて「小さな音だ」「普通の音だ」と認知・認識してしまう。まあ、自分のヘビメタ騒音で実際に耳が悪くなるんだけど。そういう耳が悪くなるようなでかい音で鳴らしているのに、こんなのはフォークギターぐらいの音だと思ったら、フォークギターぐらいの音にしか聞こえないのである。

2020年2月22日土曜日

言っていることよりも、立ち位置を見なければならないのである


話す人がいない。けど、話す人がいれば俺が気持ちよく、楽しく、くらしていけるのかというとちがうのだ。これが問題だ。これが、問題なんだ。どうしても、ヘビメタ騒音の問題がある。そして、これは、精神や経済の問題の基盤になる問題だ。完全にリンクしている問題だ……。これ、が、きつい。どのみち、きつい。どうしても、きつい。
どうしたって、これがかかわる。そして、他者は、理解不能なのである。これに関して、他者は理解不能。だから、気楽なことを言う。気楽なことを言われると、基本的に落ち込む。それは、やられていたさいちゅうもそうだ。
俺がどれだけいい人でも、孤立せざるを得ないのである。これが、ヘビメタ騒音問題だ。俺がどれだけ能力のある人でも、低能力で暮らし好かないという問題なのである。もちろん、他人の能力なんて、ほんとうは関係がない。けど、そういうことではなくて、ほんとうに、なんて言うのかな、気違い兄貴なめられてヘビメタ騒音を鳴らされていると、他の人からなめられるようになるのである。能力的になめられるようになる。「働いたほうがいい」というアドバイスをする佐藤のような人間だって、ぼくが、ヘビメタ騒音にさらされずに、教育職についていたら、絶対に、そういう「なめた」発言をしない。あれ、全然なめてないように思っているかもしれないけど、ほんとうになめている。完全に格下のものとして、見下している。だから、そういう発言ができる。そして、それが「とうぜん」なのである。どうしてかと言えば、「はたらいてないのだから、(そう言って)当然だ」という気持ちになる。相手は(つまり、佐藤からみて俺は)そう言われて当然の存在なのである。どうしてかというと、働いてないからだ。で、そういう「みなしかた」全体が、俺のばかにしているのである。
「過去なんて関係がない」「いましかない」などと言っている人たちは、他人の過去を見ている。いま現在の職業は、その人が過去においてなにをしてきたかのバロメーターなのである。「現在の職業」はその人の「過去の業績」に関するバロメーターみたいなものなのである。


だいたい、「過去なんて関係がない」「いましかない」などと言っている人たちは社会的な地位がある人と社会的な地位がない人だ。これはどういうことかというと、いちおうは社会的な地位の高い人達が、いちおうは社会的な地位が低い人達をだましている。ある人は、ミスリーディングなどと言っているけど、ミスリーディングなんてものじゃないのだ。発言者の言葉よりも、発言者の立ち位置をまずみなければならないのである。そうしないと、完全にだまされる。社会的な地位が高い人達が言うことを、社会的な地位が低い人たちがありがたがって聞くのは、みずからすすんでだまされるようなものだ。言っていることよりも、立ち位置を見なければならないのである。
「いまに集中すればいい」という人たちが無視していることが、社会的な地位が低い人達の現実なのだ。だから、社会的な地位が低い人達は、「いっしゅん」だまされてしまうのである。現実に集中すればいいというのが、現実無視なのである。一八〇度意味がちがう。どうしてそれがわからないのか? 「だまされた?」「ミスリーディングを誘う表現だ?」……「いや、だまされたくてだまされたんでしょ」「ミスリーディングしたくてミスリーディングしたんでしょ」……。
どうして、彼らが言っていることに集中してしまうのだ。彼らの立ち位置をまずみて、彼らが言っていることを、聞かなければならないんだよ。


まあ、話がずれたな。けど、だましている方も、だましているつもりがないんだよね。まさしく、自分自身をだましている。

2020年2月20日木曜日

ぼくにはどうなのだろう?


小学生には未来がある。
親父にはない。
ぼくにはどうなのだろう?
あと、ヘビメタ騒音の話を聞いたあとの態度で、その人の才能がわかる。

どうして、ヘビメタ騒音を、気楽な問題としてとらえるんだ


生活の基盤を壊されて生活していて、いいはずがないだろ。どうして、ヘビメタ騒音を、気楽な問題としてとらえるんだ。毎日、一日がぼろぼろでいいわけがないだろ。世界一嫌いな音が、横の部屋でがんがんがんがん、何時間も何時間も鳴っている一日が何千日も続いて、いいわけがないだろ。どうして、佐藤のような人間はそれがわからないのか。佐藤のみならず、教師は、みんなそんな対応だったぞ。

進学に影響を与えないわけがないだろ。生活態度に影響を与えないわけがないだろ。

けっきょく、昨日眠ってない。また、28時間起きているような状態で行動しなければならない。俺は、ヘビメタ騒音以降、毎日、そんな感じなんだよ。そういう身体感覚なんだよ。


ほんとうに、こっちがどれだけこまっていても、一分もやめてくれなかった。それが気違い兄貴だ。気違い兄貴の意地がわかってない。他のやつらは、気違い兄貴の意地がわかってない。感覚がわかってない。頭の構造がわかってない。毎日、そうやって、基本的な人権を踏みにじられていいわけがないだろ。

葬式のことで業者と会わなければならないけど、そういうときだって、まったく眠ってない状態であわなきゃならないんだぞ。そして、そういうときの身体状態、は、ヘビメタ騒音を鳴らされていたときの身体状態とおなじだ。憂鬱は、どうにもならない。親父の死よりも、気違い兄貴のヘビメタのほうがずっとずっとずっとずっと、重要な問題なんだよ。気違い兄貴が5000日以上、気違い的な意地でやり続けたから、俺の一生が全部、パーなんだぞ。そして、そういう状態で、葬式の相談をしなければならないんだぞ。葬式には、兄貴は呼ばない。それはもう、ずっと前から言ってある。

ヘビメタ騒音を鳴らされていたときの身体状態は、たとえばの話しだけど、日中活動しているときも、こんな感じなのである。これが、どういう意味を持つか、他の人はまったくわかってない。

気楽な問題であるはずがないだろ。過去のことになれば、忘れられる問題であるはずがないだろ。可のことになれば影響を与えない問題であるはずがないだろ。どうしてわからないんだ。気違い兄貴のやり方が、異常すぎるから、他の人にはわからないのだろう。ヘビメタ騒音なんて、簡単な問題だと思っていやがる。これ、ほんとうに、俺とおなじ、状態で毎日暮らしてろ。どれだけ、言霊や積極思考が、意味のないものかわかる。

言霊や積極思考は、俺をくるしめるものでしかなかった。ヘビメタ騒音という圧力がある以上、普通の人とつかれ方が違う。一日の時間のたちかたがちがう。一日の身体感覚がちがう。

いま、数百人の幼稚園生の内何十人かがさわいでいるけど、そういう騒音じゃないと言っているだろ。どうして、わからないんだ。ヘビメタ騒音はそういう日常的な騒音じゃないんだよ。あんな異常な音を何時間も何時間も続けて聞かされて、いいわけがない。一日で死にたい。どれだけがんばっても、死にたくなる。がんばるとか精神論的なことは、一日が普通にたつ人間が言うことなんだよ。普通に、部活動や社会人生活が成り立つ環境の人が言うことなんだよ。そいつらだって、気違い兄貴のヘビメタとおなじ音をずっと俺の環境でやられたら、そういうことは言ってられなくなる。くるしいと言ったって、スポーツや残業でくるしいと言うことだろ。それが、成り立っているなら普通の生活だ。おまえ、帰ったあと、気違いが、横の部屋で、気違い的にデカイ音で、おまえの嫌いな音をずっとならしていたら、どう思うんだよ。それが家族だったらどう思うんだよ。どれだけ言っても、聞かなかったら、どう思うんだよ。殺したい気持ちで、ずっと、気違いの音を聞かされてしまうんだぞ。その異常な空間の苦痛がわかるか?


親の死は、普通に考えて、騒音一分よりもでかい出来事だと思うだろ。けどちがうんだよ。ヘビメタ騒音の一分は……内のヘビメタ騒音の一分は、親の死よりもでかいことなんだよ。なんで、それがわからない。全部が崩壊する。気違い兄貴のせいで、人生の用意がまったくできないまま、親の死を迎えてしまっただろ。

つらくても明るく振る舞うべきだということを言っているやつは、ここらへんのことがまったくわかってない。どんなにつらいことがあっても、笑えば、(元気になるとか言っているやつは、ヘビメタ騒音のことがまったくわかってない。そんなんじゃない。そんなのは、言ってられない。何千日も続いたらどれだけ、『笑えば元気になる』と言う人だって、つらい顔になる。憂鬱な顔になる。元気がない状態になる)
そのとき、他の人が、『笑えば元気になる』なんて言ったら、どう思うよ。

あっけないね


俺が小さいとき、あんなに怒り狂っていたのに、あっけないね。小さなことで怒り狂うというのはわかるけど、理由がないことで怒り狂っているんだからな。あれは、こたえたね。それに、『気にしなければいい』系の人に言っておきたいけど、それは無理なのだ。理不尽なことで四六時中怒り狂われているということは、そういうレベルのことではない。

2020年2月19日水曜日

ヘビメタで人生がない。どうしても、つらい


ヘビメタで人生がない。どうしても、つらい。俺がやってきたことはなんだったんだ。おれがやってきたことは……。

あんまりにも、他の人とちがうから、認知療法的な理論やポジティブ思考なんて吹き飛んでいる。言霊とか、根性論とか、他の人が受け入れやすい考え方もふっとんでいる。これ、だれにでもある幼児的な万能感にもとづいているものだから、人間はだれもこういう考え方に親和性があるのである。しかし、ちがう。ちがうのだ。

俺の考え方は、他の人に受け入れにくいわけで……。ほんとうに、気違いヘビメタ騒音がなく、認知療法的な理論やポジティブ思考、言霊や根性論のゆりかごのなかですごせたら、どれだけ俺にとって楽だったか。

ヘビメタ騒音でそういうものは吹き飛んだ。

佐藤みたいなやつは、ヘビメタ騒音にやられても普通に働けると思っているんだよな

親父、死す。

これで、俺は本当にひとりぼっちになったな。
(俺がうちに一人で住んでいたのは事実)
長期騒音で嫁さんとかいないしな。


このさきどうするかな?
まあ、もちろん、いろいろとやらなきゃならないことがあるんだけど。
いちおう、葬式は25日だ。いま、決めてきた。

どうするかな。

義理の姉には電話を掛けたけど、親戚の電話番号がわからない。だから、それ、書いておいてと言っておいのたに。それはおかあさんの時だ。


兄の長期騒音にやられてから、俺はくるしいだけの人生だったぞ。だったぞ。親父は俺のことを(つもりはないわけだけど)さんざん精神的に虐待しやがって。暴力は二回だけだ。あー。しかし、あっけないものだな。



特養から電話がきたとき、また入院かなと思った。

けど、今回は、入院じゃなかった。死亡確認だけ。死亡届をもらってきたよ。本当にヘビメタ騒音が鳴ってからの俺の人生というのがつらすぎる。ヘビメタ騒音の原因は、親父にもある。親父が気違い兄貴をいじめたから気違い兄貴があんな風になってしまった。で、気違い兄貴の頭の構造と親父の頭の構造がおなじなんだよ。ヨソの人にはまったくわかってないけど。なので、気違い兄貴が、気違い親父みたいな態度で、ヘビメタを鳴らしまくって絶対にゆずってくれなかった。ゆずってくれなかった。ゆずってくれなかった。

佐藤みたいなやつは、ヘビメタ騒音にやられても普通に働けると思っているんだよな。ヘビメタ騒音にやられても、やられてないときとおなじような大学に(努力で進学できると思っているんだよ)。けど、ちがう。進学も結婚も、ヘビメタ騒音にやられて、できなくなった。




あの中で、殺せずにすごしてみろ


まじ、肩がいたい。
俺は本当にどうなっちゃうんだ??
いろんな記憶の断片が浮かぶ。まじで、むなしい。
ほんとうに、鳴ってたな。でかい、でかい音で鳴ってたな。
絶対にやめてくれなかったな。あの音が全部、ぶっ壊した。

ヘビメタ騒音なしで生きたかった。いちおん、いちおんが、俺の神経をぶっ壊す。睡眠回路をぶっ壊す。能力をぶっ壊す。


ぜーーったいにやめてくれなかったんだよな。


あの音の持続が、くるしい。


じぞく!だから。じぞく!だから。終わらない。さがったまま、時間がすぎていく。むだな時間だけど、むだと言うよりも、マイナス。あれ、俺が騒音のなかでがんばればがんばるほど、神経が壊れて能力がけずられていく。

完全なマイナス時間。

過去のことは関係がない?
そういうことを言ったやつはまるまるまるまるたい。

自己責任?
おまえ、あの中ですごしてみろ。おまえ、あの中で、殺せずにすごしてみろ。あの気違い騒音のなかで暮らしてみろ。そういうことを言うやつはまるまるまるまるたい。

なんで俺だけ、気違い家に生まれて、気違い騒音漬けになるんだよ? 他のやつら、まったくわかってないから、普通の騒音だと思っちゃうだろ。「そんなんじゃない」って何回も言っているのに。

殺さずに、我慢した俺がまるで悪いみたいに言われる。どれだけの騒音が鳴ってたか。あのなかで勉強ができる人なんていない。ヘビメタが好きなら別かもしれないけど、自分のヘビメタじゃなくて人のヘビメタだったらどうかな。あんなの、ない。じゃあ、ヘビメタじゃなくて、自分が一番この世で嫌いな音でいいよ。あのおとのデカさで、自分がこの世で一番嫌いな音が鳴ってたら、勉強なんてできる人はいない。で、ただ単に勉強ができないだけではなくて、ほんとうに、能力がけずられていく。つねに、マイナス。つねに、毒。プラスマイナスゼロじゃなくて、マイナス。つねに、毒。鳴らされたあと何時間も眠れなくなる。あのときの疲労感と言ったらない。頂点で腹が立ち続けて、感情がおかしくなっている。眠れない。五時間は眠れない。成長期、学生時代、ずっと毎日、日曜日も含めて、そんなことが続いて、いいわけがない。けど、ヨソの人は、知らないから、俺がサボっていると思う。ヨソの人に気違い兄貴のことを説明しても、佐藤みたいに、『そんな人いるのかな』と思って、俺が嘘を言っているように思う。佐藤みたいに『鳴っていたとしても親がなにも言わないのだったら、たいした音じゃないのだろう』とヘビメタの効果をあまくみる。






2020年2月18日火曜日

いつから日本は、こんなことになったんだ?


恵まれない人たちが、さらに恵まれない人たちにマウントを取って喜んでいるような状態なんだよな。けど、喜んでいると言ってもほんとうに喜んでいるわけではなくて、いじめて喜んでいるだけなので、どんどんこころがすさんでいく。

不思議なことに、精神世界の人が、特にそういうことをやる。

『引き寄せ』と『自己責任論』が結びつきやすい。不幸な人は、不幸なことを引き寄せたから不幸なんだと言い出す。病気になった人は、病気を引き寄せたからダメなんだということを言い出す。そして、『病気にならない』と言えば、病気にならないということを言い出す。ようは、対象方法は言霊的な呪文の世界だ。

けど、呪文と病原菌は別の原理で動いている。手短に言うと、抵抗力がおちている状態で、病原菌がいっぱいいるところに行くと、病気になりやすい。病原菌による病気の場合はそうだ。『病気にならない』と言うことと、病原菌が増殖するシステムはちがう。

『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』と言うことで、多少は、抵抗力が上がる場合がある(かもしれない)。しかし、その影響は絶対的なものではなくて、ほんの少しの影響しか与えないか、まったく影響を与えない。

なので、『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』『病気にならない』とどれだけ呪文を繰り返しても、病気になってしまう場合がある。それは、他の条件が悪かったからだ。

で、病気になってしまったら、病気になったで、『病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る病気は治る』と言うと、病気は治るということを言い出す。けど、それも、『病気は治る』と言うと、多少の抵抗力が上がる人もいるかもしれないので、まったく効かないとは言わないけど、『治る』かどうかを決定づけるような要素ではない。

ところが、『治ると言えば治る』と人に言っている人は、そうは思わない。『治る』ということが決定的に重要なことで、『治る』と言えば、どんな病気も治ってしまうのである……。その人の頭のなかでは……。その人は、ほんとうにそういうことを言っているのである。

けど、その人が、実際に病気になった場合は、病院に行ったり、クリスを飲んだりするのである。『治る』と言えばどんな病気も治るんじゃなかったのか? どうして、そういう嘘情報を人には本気で言うのに、自分はちゃっかり、医者に行くのか? だいたい、「病気にならない」と言えば、病気にならないんじゃなかったのか? 病気にならないといっていたにもかかわらず病気になったのなら、自分が言っていたことがまちがっていたということに気がつかないのか?

気がつかないのである。

自分はちゃっかり、医者に行くのに、他の人には、『治る治ると言えば病気は治る』なんてことを言いまくっているのである。

そのときは、本人は病気じゃないから、病気の人に対して、マウントを取れる。『病気になると思ったから病気になるんだ』といい気分で言うことができる。『病気になると思ったから病気になるんだ』のあとには『だから、自己責任だ』という言葉が続くのである。「『病気になる』と思ったから、ダメなんだ」とだめ出しをする。『病気になると思った人が悪い』ということを言い出すのである。思ったから、病気になるわけだから、そんなのは、自己責任なのである。


こういうところで、すぐにマウントをとろうとする。『おまえの責任で病気になったんだ』『おまえが病気を引き寄せたからダメなんだ』と悦に入って言う。ほんとうに、日本はこういう人が多すぎる。いつから、こんなことになったんだ。こんなの、スピリチュアリズムでもなんでもない。

病気と引き寄せについて述べたけど、自称明るい人が、暗い人に投げかける言葉は、だいたいこれと、似ている。バージョンがちがうだけ。こういうのがはやっている。いつから日本は、こんなことになったんだ?

2020年2月17日月曜日

家にいても限界だが、外に行っても限界だ


家にいても限界だが、外に行っても限界だ。ヘビメタ騒音期間中に、俺がどれだけつらい気持ちで、外に出てたと思っているんだ? 学校に行ってたと思っているんだ? 友だちと会ってたと思っているのだ? 決壊しているよ。ほんとうに、気違いヘビメタ騒音のすごさがわかってない。みんな、ぜんぜんわかってない。「過去のことは関係がない」とか言ったやつをデコパッチンBしてやりたい。おまえ、そんなんじゃないから。

それにしてもしんどい。これ、みんなわかってない。ほんとうにみんなわかってない。毎日、あのヘビメタ騒音をあびせられるということがどれだけ、ハンディになるかわかってない。みんな、まるまる。

(俺は、外で働けない体になった。なので、客観的に見れば、ひきこもりになっている。(今はちょっと違うけど、長い間そうだ)。けど、そういうことは、一切合切関係がないのだ。ヘビメタ騒音にやられてくるしい……このことだけが重要だ。ほかは、ヘビメタ騒音にやられたことの「表現型」で、それ自体が重要な問題じゃないのである。俺がくるしいのはヘビメタ騒音にやられたからだ。だから、ヘビメタ騒音にやられた俺が仕事をしていても、ヘビメタ騒音にやられた俺が家に引きこもっていても、かわりがない。外で働いても、かわりがない。もっとも、気違いヘビメタ騒音の連続で、決まった時間に通勤するという能力を完全に失ってしまったので、通勤して働くとということができなくなってしまった。それは、大きな問題だ。けど、仮にそこをクリアしても、ヘビメタでくるしいということにはかわりがない。俺が、遠くの高校に電車通学していたとき、俺は、引きこもりでなかったけど、ものすごくくるしい思いをして、通学していた。それは、友達がいても、表面的に明るく振る舞っても、かわらないことなのだ。どんだけ長くそういう状態が続いたか? ほんとうに、他の人はまったくわかってない。特に、ヘビメタ騒音の影響を軽くみて、わりと気楽に『なんでも明るく解釈すればだいじょうぶだ』みたいなことを言うやつはわかってない。ほんとーーにわかってない。

2020年2月15日土曜日

やっぱり、ヘビメタで全部の人生がない

やっぱり、ヘビメタで全部の人生がない。
俺の身の上に起こったことで、俺にしかわからない。

『笑うことで認知症が治る』と思っている人は、笑ったにもかかわらず認知症が治らない人について、どのように認識するのだろうか


たとえば、『笑うことで認知症が治る』と思っている人たちは、笑うことでで、認知症を治そうとしない人たちをバカにする。いつまでも、その人が認知症でいるのは、努力して笑おうとしないからだと考えてしまう。なので、認知症であるにもかかわらず、『むりやり笑う努力』をしない人は、認知症を治そうとしていない人だということになる。

認知症なのに認知症を治そうとしていないのだから、自己責任だということになる。『笑えば、認知症は治るのに、笑って治そうとする努力をしてない。だから、いつまでも認知症なのだ。だからダメなのだ』と考えてしまう。

この、『笑って認知症を治そうとしない人たち』のなかには、実は、『笑って認知症を治そうとしたけど、効果がなかった人たち』も含まれている場合がある。『笑うことで認知症が治る』と思っている人たちは複数いるのだけど、そのうちのひとりが、ある認知症患者のことについて知ったときに、『笑えば認知症は治るんですよ』と助言するわけだから、その時点で、その認知症の人が、笑っているか、あるいは、笑って治そうとしているのかが問題になる。

『笑うことで認知症が治る』と思っている人にとっては、笑うことで認知症が治るのだから、笑ったのにもかかわらず認知症が治らないのはおかしいということになる。『笑うことで認知症が治る』と思っている人は、笑ったにもかかわらず認知症が治らない人について、どのように認識するのだろうか。

その認知症が治らなかった人は、何回も何回も、笑ってない。だから、効果がないのだ。何回も何回も笑い続ければ、認知症は治る……と思う場合がある。最初は、笑えば、認知症が治ると言っているのに、何回も何回も笑い続けなければ認知症は治らないと言ったとする。その場合、最初に言っていることと、あとで言っていることがちがうということになる。『笑っても認知症が治らない場合がある』ということを認めてしまった場合、『笑うことで認知症が治る』という命題が、偽であるということ認めるということになる。ようするに『笑うことで認知症が治る』という文は、まちがっているということを認めることになる。

しかし、たぶん、『笑うことで認知症が治る』というような思考をしている人は、それには気がつかない。気がつかないまま『笑うことで認知症が治る』と言ったり『何回も何回も笑い続ければ、認知症は治る』と言ったりすると思う。これは、矛盾した発言なのだけど、発言している人がそれに気がつかない。

2020年2月13日木曜日

根性を出して、笑えば、認知症は治るか


これは、根性を出せば認知症が治るのかという問題にも直結する。たとえば、「笑うこと」が認知症の症状の改善に効果的だとしよう。なら、笑っていれば、認知症が治ってしまうのか? 「笑うこと」がある程度、よい影響を与えるにしろ、「笑うこと」では、脳の萎縮や脳の機能障害が治らずに、認知症が「進行」してしまうという場合がある。むしろ、「笑うこと」によって、認知症が治ってしまう場合のほうが少ない。あるいは、ない。

ようするに、脳の物理的な変化にくらべて、「笑う」という行為がもたらす影響が小さいのだ。けど、たとえば、「笑うと認知症に効果がある」というようなことが言われただけで、『笑うことで認知症が治る』と解釈してしまう人が出てきてしまう。その人のなかでは、『笑えば、認知症は治る』ということになってしまう。

『根性を出せば認知症が治るか』という問題にも直結すると書いたけど、これは、こういうことだ。『根性を出して、笑えば、認知症が治る』ということが、ある人たちの頭のなかでは、確定事項になる。認知症だけではなくて、あらゆる、広い意味で病気が治ってしまう。狭い意味では、認知症は「症」だから、病気ではない。あくまでも、広い意味で病気だとする。

『おかしくなくても、笑えば、おかしいと感じる。おかしいから笑うのではなくて、笑うからおかしいのだ。なので、根性を出して、笑えば、認知症は治る』と言い出す人が出てきてしまう。自称明るい人(たち)だ。『根性療法』『笑顔療法』……そんな言い方はしてないけどさ。中身はそういうことだよ。

で、『笑えば認知症は治る』というようなコピーで本を出せば、売れる。

2020年2月12日水曜日

「つらさ」の「つらさ」がちがう


時間というのがなぁ~~~
いまは、なんとなく、時間が「お・し・い」感じだ。おいしいじゃなくて、おしい。けど、そういうふうに思っている時間は、おいしい時間なのかもしれないなぁ。


基本的に言って、ぼくはダウンしている時間がすごく長いのである。これは、他の人にはない長期騒音が影響している。長期騒音の影響がからだからぬけない。なので、普通の人とは、からだが、ちがう。

前向きな人や明るい人が他人について言及するとき、基本的に、後ろ向きな人や暗い人をディするというのがある。本人は、そんな気持ちは、さらさらないという感じなのだろうけど、実際には、ディすっている。ディするというのは悪く言うという意味ね。だったら、悪く言うと書けば良いのだが、なんとなく、ディすると使いたかった。まあ、いいや。これからは、悪く言うと書こう。

まあ、ともかく、ここで言いたいのは、明るい人たちには見えないハンディがあるということだ。これ、ほんとうに、見えないのである。明るい人たちは、自分の基準で物事を考える。経験してない、つかれはわからない。経験してないつらさはわからない。

人間は生きていれば、つかれることもあるし、つらいと感じることもある。なので、明るい人は、『自分だって、つかれるときはある』『自分だって、つらいときはある』と言う。そして、そう思っている。けど、これは、明るい人が感じるつらさと、暗い人が感じるつらさがおなじだという前提が成り立っている。

「つらさのつらさがちがう」ということは、頭にない。

おなじつらさなんだけど、自分は、たえてきた。跳ね返してきたという自負があるのだ。だから、自分はすぐれているのだが、つらさにまけた人間は、すぐれていないという思いこみがある。ほんとうは、そういう比較でものを言っている。

「つらさ」がおなじで、自分は、暗い人よりも『強いので』つらさを跳ね返してきたと思っているのだ。自分は、暗い人にくらべて強いとか、すぐれているという認識がある。これは、「つらさ」の量がおなじで、「つらさ」の質がおなじだという前提において成り立つ『認識』だ。この認識について、明るい人が、どれだけ明確に意識しているかはわからない。むしろ、意識的には、それは、否定される。謙虚でなければならないからだ。傲慢な態度はよくないからだ。

だから、表面的には「別にそんなことは思ってない」という意識を抱えている……場合が多いと思う。けど、ほんとうは、つらさはおなじなのだけど、自分が強いからたえてきたという自負があるのだ。その自負は、暗い人に対する軽蔑につながる。

これは、自然につながるであって、そういう自負をもっていながら、軽蔑してないということはない。本人が自覚しているかどうかはわからないけど、かならず、軽蔑している。これは、軽蔑ではなくて『蔑視』というような言葉を使ったほうがいいのかもしれないけど、言いたいことはおなじだ。

そこで問題なのは、「つらさ」の程度がおなじだと思っているということと「つらさ」の質がおなじだと思っているということだ。問題なのは、こっちなのである。明るい人が経験したことがないつらい状態を、暗い人は経験しているかもしれないのだ。

しかし、明るい人は、暗い人の抱えているものがわからない。まさに、氷山の一角しか見てないのである。氷山の一角は、目に見える部分であり、海水の下に見えない部分がある。明るい人が『俺だってつらいことを経験した』と言う場合、ほんとうに、氷山の一角が浮かんでいる状態なのだ。なので、見えてない部分もある氷山の一角と、見えてない部分がない氷山の一角が、どう見てもおなじものに見える。

ほんとうに、つらさの程度や質に、ちがいがある場合というのがわかってない。

たとえば、父が死んだというばあい、普通はつらい経験として語られるだろう。あるいは、妻が死んだという場合でもいい。あるいは、入試におちたという場合でもいい。あるいは、友達に裏切られたという場合でもいい。あるいは、失恋したという場合でもいい。

しかし、それらの、単発のつらいこととは別に、家族による激しい騒音など、毎日続くつらいことがある。この毎日続くつらいこと……と……単発のつらいことを同様に扱ってはいけない。どうしてなら、質も量もちがうからだ。毎日つらいことを経験している人でも、そりゃ、家族が死ねば、つらいと感じることがあるだろう。これは、連続の上に単発がかさなったかたちになる。

その場合、単発だけを「くらっている」人とはちがう状態になる。だいたい、毎日、連続してつらいことを経験している人は、単発のつらいことも発生しがちなのである。もちろん、家族の死に関しては、確率的におなじだろうけど。毎日、激しい騒音などを経験している人は、失敗が多くなるのである。あらゆることにトライすることができなくなってしまうのである。それは、身体的につかれて、能力がさがっていることによって発生する。ともかく、毎日つらいことがある人の場合は、そもそも、活性状態がちがう。普通に生活ができない状態なのである。普通に生活している人の状態とはちがう。

毎日のたいへん大きな物理刺激が、からだを疲弊させ、能力を下げる。人間の生活なんて、学校に入ったときから、細かい作業の連続だ。その細かい作業でいろいろなミスが発生しやすくなる。だから、連続的につらい思いをしている人は、単発のつらいことも経験しやすくなるのである。


まあ、ともかく、「どんだけつらいことを経験しても、笑えばつらくなくなる」とか「つらくても、元気だ元気だと言えば、元気になる」というようなことを言える人が経験した「つらいこと」は、たいしてつらいことではないということがはっきりと言える。どうしてかというと、そのつらさは、「笑うこと」や「元気だ元気だ」と言うことによって、消滅する「つらさ」だからだ。

そういう質のつらさやそういう程度のつらさしか経験してないから、そんなことが言える。その人たちが経験しているつらさというのは、『笑うこと』できえるようなつらさなのだ。その人たちが経験しているつらさというのは『元気だ元気だと言うこと』できえるようなつらさなのだ。そういうつらさしか経験してないのであれば、そういう発言ができるだろう。暗い人の背後にある「つらさ」のかたまりを見ないまま、そういう発言ができるだろう。暗い人を、自分より弱い人間だと、こころのなかで蔑視することができるだろう。

(つづく)

2020年2月10日月曜日

明るい人が暗い人について述べた文章について考えてみよう


話しの前提になることをちょっとだけ話しておこう。それは、暗い人とか、明るい人という言葉についてである。『暗い人』というのはどういう人か? 『明るい人』というのはどういう人か? こんなものは、定義ができない。本人が主観的に『暗い人』だと思っていても、まわりの人から見ると『明るい人』にうつるという場合だってある。その逆もある。要するに、『明るい人』というのは、本人の主観に基づいたイメージであり、他人の主観にもとついたイメージなのである。たとえば、日本に生まれた日は日本人である場合が多く、日本国籍を持っている人は、日本人であるということができる。しかし、『明るい人』『暗い人』と言う場合は、国籍のような明確なしるしがない。ただ単に、本人が『明るい』と思ったり、本人以外の人が『明るい』と思っているだけなのである。『明るい人』の定義ができるような感じがするかもしれないけど、それは、明るい人にまつわるようなイメージを言っているだけなのである。暗い人の場合もおなじだ。「言っていると」書いたけど、言っているのは、本人である場合と他人である場合がある。暗い人の定義を形作っているようにみえる、いろいろな要素は、(その発言者)がなにを「暗い」ととらえているかの写し絵でしかない。これは、定義にはならない。けど、一般的に、暗い人なら暗い人のイメージとして出てくる言葉が決まっているというのであれば、定義ではないけど、暗い人をこのようにとらえている人が多いということが言える。けど、これは、要素部分のトートロジーでしかない。しかも、発言者のなかのイメージについて語っているにすぎないので、あんまり意味があるとは言えない。
たいていの場合は本人が本人のことを『明るい人』だと考えている人が、本人が暗い人だと考えている人のことを悪く言うときに、『暗い』と言うのである。本人が本人のことを明るい人だと考えていることは問題ではない。けど、暗い人全般のことを悪く言うのは問題がある。自称明るい人だっていっているではないか。『暗い人は人の悪口を言う』と。しかし、明るい人が、自分にとって好ましくない性格を持ってる他者を『暗い人』だと決めつけ、『暗い人』の悪口を言っているという解釈はできないのだろうか?

明るい人が暗い人について述べた文章について考えてみよう。だれか、明るい人が『暗い人はああだこうだ』と書いた記事があるとする。その場合、自分が暗い人間だと思っている人間がその文章を読んだ場合どういう気持ちになるかということを考えてみよう。

けど、自称明るい人は、自分が暗い人だという(かりの)前提で文章を読むことは、苦手だと思う。なので、日本人の場合は、文中の『暗い人』を『日本人』に読み替えて、日本人である自分が、その文章を読んでどう感じるかを考えるようにした方がよいのではないかと思う。暗い人を日本人と読み替えて、文章を読んだとき、いい気持ちになるだろうか。不愉快な気持ちになるだろうか。たぶんだけど、不愉快な気持ちになるのではないかと思う。

これは、いまの時点では、ぼくがそう思っているだけなのだけど、たぶん、好ましくないと感じられる特徴?が述べられている。特徴に「?」をつけたのは、その特徴が日本人の特徴ではなくて、その人が考えている日本人の特徴だからだ。

自称明るい人は気がつかないかもしれないけど、対象になる人がその文章を読んだとき、不愉快な気持ちになることを書いていると思う。(これも、俺が思うだけだけど……)。

これは、たぶん、『暗いこと』と『悪いこと』が結びつけられているからだと思う。なのでやっぱり、自称明るい人は、暗い人の悪口を言っているのではないかと思うのである。

けど、自称明るい人が、暗い人の特徴としてあげる要素のなかに『人の悪口を言う』ということが、ほぼ一〇〇%入っている。(入っている場合のほう非常に多い)。なので、いちおう、自称明るい人は、『暗い人』の悪口を言っているということは、正しいことなのではないかと思うのである。

2020年2月9日日曜日

ヘビメタ騒音によってできあがった、あの状態と、あの気持ちはない


どうするかな? まじでつかれた。

この雰囲気は、やなぎ荘の雰囲気とおなじだなぁ。
本当につかれた。あれから三〇年もたっているのに……。本当につかれたなぁ。あんまり進歩してないなぁ。

本当につかれた。来世に期待するしかないか。
あの、気持ちはない。強烈に自分勝手な兄貴のヘビメタ騒音によってできあがった、あの状態と、あの気持ちはない。

2020年2月8日土曜日

言論に限られるけど、明るい人は暗い人を攻撃している。


しゃくぜんとしないものを感じる。これは、なんなんだろう。まあ、こういう人たちは、『楽しいから、わらうのではなく、わらうから楽しく感じるのだ』といった言い方を好む。これは、これでいい。それに、たとえば、明るい人たちが、明るい人たちといっしょにいたいと思って、それを実行することはまったく問題がない。しかし、『明るい人たち』による、『暗い人たちに対する』攻撃は、看過できない。これは、おかしいと思う。この人たちはまったく、暗い人たちを攻撃するつもりはない。つもりはないし、そうしているとも思ってないだろう。

けど、暗示はしているのだ。

『明るいのは、いい』『暗いのは、ダメだ』と暗に言っている。この人たちは、人の悪口を言うのは、きらいであるそうなのだけど、『暗いのはダメだ』と暗示するのだから、ある特定の人たちの悪口を言っているのとおなじなのではないか。『暗いのは』というのは、『暗い人は』という意味なのだから。『明るい人たちは、いい。暗い人たちは、ダメだ』と言っているのとおなじわけだから……「のは」と言っても、ものについて、言及しているのではない。まあ、明るい人たちが作ったものは、よくて、暗い人たちが作ったものは悪いということも、暗示しているのだけど……。これは、価値観だ。個人の価値観だ。それは、わかる。けど、やはり、攻撃になってないのだろうか?

明るい人たちは『暗い人たちはダメだ』『暗い人たちは、悪い』ということを言っておきながら、人の悪口を言っているつもりがない。なので、『人の悪口を言うのは良くない』と言ったあとに、『暗い人たちはダメだ』『暗い人たちは、悪い』ということを言ってもまるで気にしない。『事実そうだろ』と思っているのだ。けど、暗い人たちとまとめられている人たちの、背後にあるいろいろなものに目を向けてないので、そういうことが言えるのではないかと思う。世の中というのはほんとうに不公平にできている。

だから、それがあたりまえで、実は差別的な言葉を口にしているのに、差別的な言葉を口にしていると思わない人たちも出てくる。そういう人たちは、明るい人として、暗い人を差別し、攻撃する。けど、明るい人たちにとっては、『事実そうだろ』と思えることなのだ。そして、そういう気持ちが強いぶんだけ、余計に、実は、差別的なことを言っているということに、気がつかない。

自称明るい人は、実は、暗い人の悪口を言っている、暗い人なのだということになってしまう。彼らの理論に従えば、人の悪口を言う人は、暗い人なのであるから。
まあ、ここらへん、まったく気がつかないと思う。だから、言っていて、暗い人の悪口を言っているという気持ちにはならないのだろう。『事実を言っているだけだ』という気持ちなのだろう。

さらに、暗い人は、切らなければならないのである。暗い人との付き合いは切るべきなのである。暗い人とはなるべくあわないようにしなければならないのである。これにも、『事実そうだろ』という気持ちがつきまとっていると思う。
まあ、他にも言いたいことはあるけど、とりあえず、言いたいことは以下の通りである。
(1)明るい人は、暗い人の悪口を言っている。
(2)明るい人は、暗いの人の悪口を言っているということに気がついてない。
(3)明るい人は、暗い人を追い詰めている(もちろん言葉の上でだけだけど)
明るい人は、(1)(2)(3)をとてもわかりやすく説明してしまうのである。(もちろん、まったく悪気がないまま説明する。その説明は、正直に言って、わかりやすい。どうしてそういうことが成り立つかというと、『一部』をたしかに説明しているからである。また、人間にとってなじみやすい「けがれ」という考え方を利用しているからである。基本的に、人間は、原始人が持っていたと推測できるとても、原始的な感覚を持っている。これは、幼児的万能感とも関係している。なので、個体発生的にだれもが『分有』しているものなのである。だから、うったえかけやすい。だから、他の人が「なっとく」しやすい。けど、わかりやすくなっとくしやすいから、『暗い人の悪口を言ってない』ということではない。また、他の人が「なっとく」しやすいことだから、正しいことだ(まちがってないことだ)とも、言えない。

2020年2月5日水曜日

それを必死で、追い払って、つっぱって、生きてきた


ほんとうに、すべての時間、勉強の邪魔をされ続けるというのが、つらい。なっている時間は勉強ができない。勉強ができないだけではなく、体力がおちて、夜眠れなくなる。激しく興奮している状態で、その興奮自体が、気持ちが悪い。激しく怒っているのに、それを抑制しようとする気持ちがあって、くるしい。激しく怒るちからと、怒りを抑えるちからが拮抗している状態でくるしい。こんなの、何年間も毎日、続いたら、そりゃ、精神も睡眠回路担当部分の脳も壊れる。

   *   *   *

俺はやっぱり相当にダメだ。つかれた。猛烈につかれた。いま、ご飯を炊くのがめんどうくさい。ただ単に、米を入れて、水を入れて、セットして、スイッチを押すだけなのに、できない。まあ、これは、できないのではなくてやりたくないだけなのだけど……。けど、これ、押してやってもいいことがないんだよな。がんばってやってもいいことがない。よけいにつかれるだけ……。どこかでまた、そのつかれが出る。
押してやった、つかれがでてしまう。それは、気違いヘビメタ騒音のときからずっとそう。気違いヘビメタが鳴り始めてからずっとそうだ。ほんとうに、どれだけ気にしないようにしても、眠れない状態ですごして、体力が一〇分の一、二〇分の一になっちゃうんだよな。他の人にはわからないから、俺がもともと、そういう体力しかないと思ってしまう。で、普通にバカにする。もう、そういうことでも、つかれはてた。昨日やなぎ荘のことを思い出したんだけど、気違い兄貴のヘビメタなんて、気違い兄貴があの音で鳴らしていたら、一号室から九号室の人まで、みんな出てきて、「やめてくれ」って言うと思う。苦情が出ると思うよ。五分間で……。そういうレベルの騒音が、ずっとずっと続いた。

佐藤みたいなやつも普通にバカにするわけだけど、バカにしているとは思ってないんだろうな。けど、じゃあ、ぼくが、助教授として働いていたらどうなんだよ。絶対にあんな態度を、とってない。俺が塾を経営している経営者だったらどうなんだよ? 絶対にあんな態度をとってない。ああいう態度を普通とれるということは、見下して、バカにしているんだよ。日本は、無職に対する偏見がすごい。これは、もう、病気のレベルで、すり込まれている。これは、なんとしても、小さいときから、すり込まなければならないことだから、すり込んでいると言ってもいい。だから、佐藤みたいなやつは、「ふ・つ・う」の人なのである。これが、問題だ。佐藤は普通の人の感覚を持っている。これが、問題だ。

けど、無職じゃなくても、……気違いヘビメタ騒音で、引きこもったとすると、引きこもりということで、バカにするやつが出てくるんだよ。で、これは、小学生のときから続いている。俺は、家でヘビメタが鳴っていたわけだから、学校にいるときよりも家にいるときのほうが、何千倍も、何万倍もつらかった。けど、家で勉強ができないとなると、なめられるのである。あるいは、家で、なめられていると、学校でもなめられるようになるのである。それを必死で、追い払って、つっぱって、生きてきた。わからないんだろうな。気違いヘビメタが鳴っていると言うことがどれだけの威力があるか? 気違い兄貴の態度そのものが、気違い的なレベルで人をなめているので、他の人から、なめられがちになる。家でなめられているやつは、学校でもなめられるようになる……これ、よっぽどのことがないとくつがえせない。ほんとうに、教育学とかそういうことを学んでいる人は、そういうことについてちょっとは真剣に考えたほうがいいよ。これがまた、小さいときに親や兄弟にやられたことは関係がありません……という立場なんだからな。そりゃ、認知療法のレベルだとそうなる。

ほんとうに、そこでどういう交流が為されているのか、ちょっとは真剣に考えたほうがいいよ。

2020年2月4日火曜日

ヘビメタ騒音波及物のことがわからないだけだ


市役所に行くのはやめた。銀行に行こうかと思う。けど、買い物もする。けど、もう、どうでもいいような感じもする。……よくはないのだけど……。

どうするかな。

ヘビメタ騒音のことで、こころがやばい感じになっている。ヘビメタ騒音と長期騒音の波及物。波及物と書いたけど、波及して発生してしまう出来事のこと。これは、どうなんだろな? ヘビメタ騒音波及発生出来事と言うべきか?


気違い兄貴は、かまわずに鳴らしたわけだけど、鳴らされているあいだ、こっちには、気違い兄貴の騒音が関係のあるものになった。気違い兄貴の騒音が、自分の状態や意識と関係があるものなのである。

しかも、「ヘビメタなんて鳴ってたって、どうだっていい」「ヘビメタなんて鳴ってたって平気だ」「ヘビメタなんて鳴ってたって、俺はだいじょうぶだ」とヘビメタ騒音のなかで、俺がどれだけ言っても……けっきょく、影響を受けた。

言霊とか、思いこみとか、自己暗示とか……気違い兄貴のは快適な騒音ですべて吹っ飛んでしまう。そういう影響を受けた。不可避的な影響を受けた。

どれだけ『影響を受けない』とまじないのように、繰り返して、言っても、受けた。

受けたんだよ。

これ、ほんとうに、今世で、ヘビメタ騒音を鳴らされたことがない人にはわからない。別にヘビメタでなくてもいいんだよ。その人にとって、一番苦手な音が、鳴っていたということだ。その人が一番、この世で嫌いな音が、ものすごい音で鳴っていたということだ。こういう経験がずっと積み重なった人じゃないとわからない。

しかも、やっているのが家族で、ヨソの人は『家族なら相談すればいい』『家族なら相談すれば静かにしてくれるはずだ』と思ってしまう。『どれだけ鳴らしていると言っても、たいしたことはない』と思ってしまう。

また、経験して知っているわけではないから、ヘビメタ騒音波及物に重いがおよばず、『俺なら鳴らされたって、だいじょうぶだ』と思ってしまう。けど、それは、実際に鳴らされたことがないから、ヘビメタ騒音波及物のことがわからないだけだ。

ほんとうに、何時間も浴びていると、鳴り終わったあと、眠れなくなる。何時間も何時間も、どうしても眠れなくなる。この、眠らなければならないのに眠れない数時間というのが、どれだけ、一日の生活に影響を与えるかわかってない。あるいは、一日の精神に影響を与えるかわかってない。

2020年2月3日月曜日

今世のそういった記憶を保持したまま、この世で一番嫌いな音を聞かされ続ける人生を来世ですごしたなら


ちょっと掃除をしたあと、洗濯をして、洗濯物を干したあと、また、掃除をした。しかし、だるい。もうれつにだるい。これはもうだめだな。

ヨソの人たちが考えるヘビメタ騒音と、俺が体験したヘビメタ騒音がちがいすぎる。俺が体験したヘビメタ騒音について、俺が述べるわけだけど、俺が述べたことによって『ヨソの人たち』のなかにできあがるヘビメタ騒音のイメージと、俺が体験したヘビメタ騒音のイメージはちがう。

これが、いろいろな「いさかい」の原因になる。


なんてたって、『鳴ってたって、たいしたことはない』と思う人たちにとっては、俺の「障害」がゆるせないことになるわけだから……。俺が、俺の、障害を考えて、「できない」と言うことを、彼らはゆるさないわけだから。

どうしてなら、そんなに深くてデカイ障害になるわけがないと思っているからだ。だから、俺が言っていることは、まちがっているように感じるのである。

要するに、彼らにとって見れば、ヘビメタ騒音は「できない」理由にならない。

しかし、今世のそういった記憶を保持したまま、この世で一番嫌いな音を聞かされ続ける人生を来世ですごしたなら……おくったなら、こういうことだったのかとわかるはずだ。

けど、そんなのはなくて、今世でのできごとしか脳みそにないわけだから、『ヘビメタ騒音でできなんてことはない』『過去のことは関係がない』『鳴り終わっているのであれば(いまの状態には)関係がない』と思ってしまうわけだ。

いま、2020年02月02日13時26分09秒
日曜日の午後一時二六分で、日曜日の午後一時二六分は、鳴っていた。何年間も、十何年間も、日曜日の午後一時二六分は鳴っていた。そして、午後七時一〇分から、午後七時四〇分までの休みはあるけど、他の時間はすべて、気違い的にデカイ音で鳴っている。

ヨソの家じゃ、絶対に一分だってあり得ないような音で鳴っている。で、俺の部屋は、騒音地獄になっている。もちろん、二〇メートル離れたところでどのように聞こえるのかは知らない。けど、俺の部屋は、騒音のうずだ。

以前、幼稚園の園児の出すキーーという音について考えてみたことがあるのだけど、やはり、距離によってだいぶちがう。それこそ、受けとめ方がだいぶちがう。

これは、実際に距離によって物理的な音のデカさが変わっているから、受けとめ方に差ができる。

気違いヘビメタ騒音は、幼稚園生の絶叫でいうと、耳元で絶叫している音よりもデカイ音だ。で、それは、一〇メートルも離れれば、『許容できる音』になる。

実際、平日は、ずっと、二百何十人の幼稚園生の絶叫にさらされる。もちろん、全員が同時に奇声を発してるいるわけではなく、数十人が同時に奇声を発生しているレベルだと思う。

一人だけに注目すれば、奇声をできるだけ全力で発生しているときと、黙っているときがあるわけだけど、数が多いと、誰かが奇声を発生しているとことになる。しかし、外壁を隔てて、一〇メートルぐらいの距離があるために、ヘビメタ騒音よりは、静かだ。ずっと、静かだ。



気違い兄貴のヘビメタ騒音は、二百人の園児が「みみもと」でぜっょきうしているのよりもうるさい。そういう、ドタバタした音だ。いてもたってもいられない。落ちけつない。どれだけ落ちつこうと思っても落ち着けない。ともかく鳴ってたら、くるしい。


『ヘビメタ騒音がどれだけ鳴っていると言ったって、たいした音じゃない』『ヘビメタ騒音が鳴り終わったのであれば、そんなのは関係がない』と思っているやつは、ただ単に想像力がたりないだけだ。そういう人の経験に対して、だぶん、過小評価する傲慢な体質なのだろう。頭の体質。


関係がないわけないだろ。ほんとうに頭が悪いなぁ。

++++++

2020年2月1日土曜日

しかも、家族。


いろいろと他の人から誤解を受けてつらかったという気持ちになった。いろいろなシーンが浮かんでくる。ほんとうに、ヘビメタ騒音以降、他の人に誤解されまくりだ。

他の人は、俺じゃないから、ヘビメタ騒音がどれだけすごい音でなっているかわからないし、ヘビメタ騒音がずっと鳴った場合、どれだけ、体に影響が出るかもわからない。

わかってないところでものを言う。

俺にわかったようなことを言った人たちが、今世の記憶を保持したまま、一一歳のときから、ずっと、自分が一番きらいな騒音にさらされる人生を歩んだら、きっと、「こういうことだったんだな」ということがわかると思う。

佐藤にしたって、自分で体験すれば、来世の佐藤にとっての一番嫌いな音……俺にとってのヘビメタ騒音が……どれだけ「からだにのこるか」わかる。わかるようになると思う。

ヘビメタ騒音が人生全体にどれだけでかい影響を与えるかわかる。わかるようになると思う。

ヘビメタ騒音の結果、ひととあらそわなければならなくなるというのがわかる。わかるようになると思う。

こいつら、ほんとうに、まったくわかってないんだからな。想像しろ。まあ、想像してもわからないか。うちの兄貴は、この人らの想像の範囲外にいる。だから、想像しようと思ってもわからない。

「そんな人、いるのかな」なんて、疑問を持つ。

じゃあ、来世で、うちの兄貴のような家族に、たたられてごらんよ。わかるから。『こういう人もいるんだな」というのがわかる。気違い兄貴がどれだけの意地でやっているかわかってない。

普通の人は、それ自体がわかってない。気違い兄貴の意地なんて他の人にわかるわけがない。気違い兄貴の「やってない」感覚だってわかるわけがない。兄貴は、あれだけデカイ音で鳴らしているのに、デカイ音で鳴らしてないと思っているということ自体がわからない。

そんなことはないだろうと『普通の人は』思う。

聴覚が正常なら、デカイ音で鳴らしているときはでかい音で慣らしているという認知が生じるはずだと思っている。ところが、どっこい、そうじゃない。そして、普通の人以上に、気違い兄貴がその点についてわかってない。

わかってないから、どれだけ「やめてくれ」と言われても、まったく気にしないでずっとずっと鳴らし続けることができる。普通は、気にする。普通は気になる。

どうしたって、本人が「これはないな」と思うほどデカイ音で鳴らしていれば、「デカイ音で鳴らしすぎている」ということが気になるし、そういう状態で鳴らしているとき「やめてくれ」と言われたら「やめてくれ」と言ってきた人のことが気になる。

「やめてくれ」と言ってきた人が、こまっているということがわかる。自分の騒音でこまっているということがわかる。けど、気違い兄貴は、まったくわからない。親父のように、怒っておしまいだ。

これ、ほんとうにうちの親父と、ウチの兄貴の反応がまったくおなじなんだよな。あれは、ほんとうにわかってないよ。自分の腹が立ったという感覚しかない。自分にとって不都合なことを言われたから、腹が立った……それだけ。相手のことなんて、微塵も考えない。考える脳みそがない。

だから、自分が腹を立てたあと、ずっと馴しづけても、なにも感じない。「相手がこまっているのだろう」ということが頭の中にまったくない。そういう状態でどれだけ言われても、まったく悪気がないまま、迷惑をかけてないつもりで鳴らし続けることができる。

こういう人間にやられたことがない人はわからない。

しかも、家族。

『家族なんだから、話せばわかってくれる』と普通の人は考える。『ちゃんと言わないから、お兄さんがわかってくれないだけなんだ』と考える。『エイリさんがちゃんといわないからだめなんだ』と考える。そして、「お兄さんに言えばいい」と助言をする。その助言についてぼくが、上(右に修正)で述べたようなことを言えば、不可思議な顔をする。今度は、助言してくるやつが、俺の言うことを認めない。こういうしくみになっている。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。