2023年5月31日水曜日

本人が、わからないのであれば、「自分は相手をこまらせてない」のである。

 ダイヤだけではなくて、シューマイともわかれているしなぁ。ヘビメタ騒音問題というのは、そのまま、就職問題だから、でかい。「かのじょ」のことだって……。神学のことだって……。ともかく、ヘビメタ騒音はでかい。関係がある。ほかの人は、実際に経験したわけじゃないから、「そこのところ」がすっぽり、ぬけている。ものすごく、関係がある一日というのを経験してない。その一日が一〇年以上続いた場合の人生を経験してない。経験してなきゃわからないよ。どうしたって、「軽い問題」に見える。けど、軽くない。軽いわけがない。重い。

きちがい兄貴は、自分が鳴らした場合の、こっちに対する影響をまったく考えてない。

しらーぷりなんだよな。まったく、ヘビメタ騒音問題に関係がない人なんだよ。本人としては……。けど、絶対の意地で、一秒もゆずらずに、やりきる。やりきっているのだから、関係があるのに、まったくやってないという感じで、関係を認めないんだよな。この特殊な態度は、きちがいおやじとおなじだ。これ、どれだけ俺がほかの人に説明しても、ほかの人はわからないと思う。催眠術にかかったような態度なんだよな。普通だったら絶対に認識することを、まったく認識してない。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない。「自分」にとって都合がいい方向で狂っているんだよな。で、この、狂い方が特殊でほかの人にはわからない。そして、ほかの人は、ぼくではないから、ヘビメタ騒音の影響について、無視するのである。だから、鳴っている状態と、他人がそれを認めないという状態の、板挟みになる。これは、ほかの人が考えているよりはるかに、負担がかかることなのである。

*     *     *

前項で、マサミ君のことを書いたけど、これだって、「気にしないようにする」ことはできる。けど、そうなると、マサミ君が、いやな思いをすることになるのである。たとえば、放送に穴をあけたって、そんなことは気にするべきではない。そういうことを気にして、怒った先生が悪い。そういうことを気にして怒った人の問題だ」と考えることだってできるのである。「その教師が、マサミ君をしかったのは、その教師の行為だから、ぼくには関係がない」と考えることはできる。けど、これだと、同種のトラブルがずっと続くことになる。あのあと、いちおう、機械の操作方法をおぼえたけど、それは、再発防止のために、おぼえたわけだ。けど、これが、心もとない状態なのだ。ヘビメタ騒音が鳴っている生活だから、頭がうまく働かない。寝不足で、くるしい状態がずっと続いた。学校から帰ってきて、こういうことがあっから鳴らすなと言ったって、きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、きちがい的な音で鳴らし続ける。「言われたら」怒って、あとはもう、関係がない人としてやり続ける。鳴らし続ける。不都合なことを言われたら、発狂して発狂して発狂して、こだわってこだわってこだわって、きちがい行為を続ける……。これが、うちのやり方だ。きちがい親父ときちがい兄貴は、常にそうしていた。うちでは常識的なやり方なのである。で、やりきったほうは、やったつもりがないままなのである。あれだけこだわってこだわって、不退転の決意でゆずらずにやったのに、やったつもりがまったくない。そういうきちがい頭だ。これ、どうしようもないのである。ほんとうに、自分に都合よく、くるっている。「まったくやってないのとおなじ態度」なんだぞ。「まったくやったつもりがないまま」なんだぞ。「かかわっているということが、まったくわかってないんだぞ。そして、かかわっているということがまったくわかってないまま、自分がやりたいことは、やってしまうのである。アクティングアウト。やってしまっているのだから、普通なら、どれだけ、否定していたって、やってしまったということは、わかっている。ところが、親父と兄貴は、やってしまったということが、まったくわかってない状態のまま、生活しているのである。きちがい的な意地でやったことは、まったくやってないことなのである。相手がどれだ文句を言ったって、相手はまったく文句を言ってこなかったという異世界・幻想世界のなかで、都合よく、生きているのである。言われたら、発狂しておしまい。言われたら、その瞬間に発狂して、すべてをはねのけて、自分がやりたいことを集中してやって、それでおしまいなのである。相手が、それで傷ついたということは、まったく頭にはらないのである。どれだけ言われたって頭の中に入らない。どうしてかというと、「やめろと言ったのに、やった」ということが、次の瞬間には、「不都合なこと」「認めたくないこと」になるので、これも、発狂して認めないのである。「言われたら」「発狂して認めない」。このループになる。日常生活のなかで、ずっとそうなのだから、ずっとそうなのである。そういう頭を搭載して生きているので、そうではない頭を搭載して生きている時間がないのである。だから、いつも、そういう頭を搭載しているのだから、いつも同じように、発狂して否定しておしまいなのである。もちろん、行動はかわらなわけだから、やりきるのである。けど、本人の主観としては「やりきったことになってない」のである。「そんなのは知らない」。「そんなんじゃない」。……そういうことになっていて、矛盾を感じない。そういう頭なのである。そういう頭を搭載して、毎日生きているのである。そうではない日がないのである。そうではない頭を搭載している日が、一日もないのである。だから、ずっとやり通す。こっちが殺さなければ、ずっとやり通す。やったつもりなんて、一ミリもないよ。きちがい的な意地で毎日やっていることなのに、「言われたら」瞬間的に発狂して、あとは、無視してやってしまう。だから、やっているのに、あるいはやったのに、本人はまったくそのつもりがないのである。関係がしょうじているということ自体がわかってない。なおさら、相手がこまっているということは、まったくわからない。本人が、わからないのであれば、「自分は相手をこまらせてない」のである。自分がやってることで相手がこまっているということを、本人が気にしなければ、相手は、自分のやっていることでこまっているわけではないという認識になってしまう。相手がこまっているということが、わからない。それは、言われないからわからないのではなくて、どれだけ言われても、言われた瞬間に、怒り狂ってはねのけているから、わからないだけなのである。けど、わからなかったから、一切合切関係がない人間なのである。わからなかったら、どれだけやったって、やってことにならないのである。言われたあと、意地になってやり続けたという記憶そのものがない状態になっているのである。そもそも、言われたときに、発狂して、「相手がこういうことを言ってきた」ということも忘れてしまう。あるいは、もっと正確に言うのならば、最初から認識してない状態になってしまう。一度認識したものを忘れるのではなくて、最初から認識してない状態なのだ。そう考えたほうが、きちがい兄貴の態度をうまく説明できる。こういう特殊な人間。言っておくけど、親父もおなじなので、どっちのことを言っているのかわからない場合は、両方のことを言ってると思ってくれ。話の流れでわかるとは、思うけど。

*     *     *

もう、つかれた。ぼくは、もう、いやだ。

死にたくなるほどこまっているのに、きちがい家族が「まったく気にしないで」がんがんやり続けるって、なんだよ。しかも、きちがい的な意地でやっているのに、やっているということ自体を、感覚、認識しないのである。こういうきちがい。こういうきちがいにやられた場合、他者の理解というのは得られない。どうしてかというと、他者の家族はそういう家族ではないからだ。「そんなことはないだろう」と思ってまう。「話し合えばわかってくれるだろう」と思ってまう。きちがいはそんなに甘いものじゃない。きちがい家族はそんなに甘いものじゃない。だから、きちがい家族にやられているほうが、ほかの人から悪く言われてこまり続けるということになってしまう。これが、現実だ。ほかの人は、実際にやられてないから、きちがい家族の「感覚」がわかってない。肌でわかってない。こっちも、わかってなければ、あまく見る。軽く考える。感覚は、どれだけ言ったってわからないと思うけど、きちがい兄貴のように、大音響でステレオを鳴らすことにこだわると、こまるのである。そうすると、佐藤のような凡人が、その影響を、軽く見るのである。佐藤だって、やられたら、働けないからだになり、無職引きこもりになるのに、それがまったくわかってないのである。そういうやつが、「エイリさんは、無職引きこもりだから、コミュ障なのだろう」と、勝手に決めつけて、えらそうなことを言ってくるのである。こんな失礼なやつらが、「助言してやった」つもりでいる。そうなる。きちがい家族にやられると、ほかの人から……きちがい家族の感覚がそもそもわからない人たちから、侮辱される。そりゃ、理解なんてない。佐藤の態度は、教師の態度おなじだ。

2023年5月30日火曜日

ほんとうに、ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱい

 あー。マサミ君には悪いことをしたなぁ。ほんとうに、ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいで、放送委員として、放送にかかわる機器の使い方を覚える気持ちがなかった。中学のときだなぁ。マサミ君が、風邪で、学校を休んだんだよ。そのとき、俺がほんとうは、放送しなければならなかったのだけど、機械の使い方がわからなくて、給食時間用の放送ができなかった。で、俺は、ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音でくたくただった。その日の前日も、眠れなかった。まあ、午前中の睡眠時間ということを考えるなら、その日も眠れなかった。ほんとうに、ぼろっぼろなんだよ。この、ぼろっぼろの状態がほかの人にはわからないんだよな。だから、ヘビメタ騒音のことについて説明しても「なにがヘビメタ騒音だ」と思うことになる。そう思う人の気持ちもわかる。放送委員会の顧問教師が、最初、俺に対して怒ってきたのだけど、マサミ君にも怒ったのだ。ヘビメタ騒音でいっぱいいっぱいなので、放送委員会の顧問教師が俺に怒ってきたときも、俺の対応は、グタグタだった。それで、放送委員会の顧問教師が「おまえがしっかりしないとだめじゃないか」みたいなことを言って、怒った……らしい。その場には、ぼくはいなかった。あとで、マサミ君から聞いた。

ヘビメタ騒音が連日連夜つづくと、いろいろな感覚がおかしくなるんだよ。いろいろな判断がおかしくなる。いろいろなところで、やる気がなくなる。壊滅的にやる気がなくなる。包装にかかわる機器の使い方なんて、ヘビメタ騒音がなければ、簡単に、おぼえられたことだ。普段、マサミ君が全部やってくれたの……。マサミ君にたよりすぎたわけだけど、そもそも、そういう状態が発生しているのは、きちがいヘビメタ騒音の「せい」なの。ヘビメタ騒音が原因で、そうなっているの。ヘビメタ騒音が連日連夜鳴ってなかったら、そうなってないの。そういう状態になってないの。この、ぼろっぼろのぼろぼろぐあいがわからないんだよな。他人には……。連日連夜つづくと、どれだけぼろぼろになるか、わからない。ほんとうに、くるしいんだよ。ほかの人にはわからないと思うけど。

一日目から、本人が、がんばってがんばってがんばって、がんばりきって、そういう状態になっているんだよ。あのころは、数百日目か。放送事件のときは、中学一年生だったから、数百数十数日目だ。

教師に言えばいい……。言ったさ。

「お兄さんに言えばいい」「家族で話し合えばいい」と言われたよ。

「意欲が低下する」とか、そういう上品な言葉では、あらわすことができない状況がある。ほんとう、地獄なんだよ。どれだけがんばってもがんばっても、地獄なんだよ。

2023年5月29日月曜日

やっぱり、ヘビメタで、つねに、不愉快だ。

 やっぱり、ヘビメタで、つねに、不愉快だ。ヘビメタ騒音のことで、つねに、腹がたっている。『あれだけ言ったのに、無視して、鳴らしやがって』という気持が、ずっとある。つねに、くるしい。きちがいだから、きちがい的な意地でやったことは、きちがい的なしくみでやってないと思っているんだよね。きちがい兄貴が張本人。きちがい兄貴が、こだわってやったことだ。ところが、本人は「やってないから無関係」という態度だ。こういう態度で、きちがい的にこだわってこだわって、鳴らしている。時間も、音のでかさも、こだわってこだわって鳴らしている。鳴らしているのに「まったく鳴らしてないから関係がない」という態度なんだよ。これは、態度だけではなくて、きちがい兄貴の認知はそういう認知だ。これが、きちがいでなくて、なんだ?? ゆずってくれなかったのに、「ゆずってやったつもり」でいる。これが、きちがいでなくてなんだ? 

そりゃ、よその家で鳴っていたのであれば関係がないけど、うちで鳴っていたから関係がある。壁のすぐ後ろで鳴らしていた。壁のすぐ後ろに、きちがい野郎のスピーカーがある。こっちの部屋の壁が、きちがい野郎のスピーカーみたいなものだ。スピーカーの表面になっている。あんな音で鳴らしているうちなんて、ない。うち以外にない。うち以外になかったし、うち以外にない。そういうふうに、『程度』において、でたらめなんだよ。あれを……あれだけでかい音で、鳴らして、でかい音で鳴らしているつもりがまったくしょうじないというのがおかしい。きちがい。 

だから、教師や佐藤みたいな鈍感な他人から、俺が誤解をうけるんだぞ。「ヘビメタなんて、たいしたものじゃない」「どれだけでかい音で鳴っていたと言ったって、たいしたことなかったんだろう」と凡人思考をしてしまう凡人に、俺が、へんな人だと思われて、俺がバカにされる。きちがい兄貴が、きちがい感覚で、鳴らしていたから、そうなる。あんなの、ほかの家だったら絶対にありえない音なんだよ。だから、ほかの人は、自分のうちのレベルで考えて、ごく自然に、誤解をする。きちがい兄貴のきちがい感覚なんて、絶対に理解しない。きちがい兄貴が、ブラックホールになっている。きちがい兄貴の感覚が、ほかの人には、絶対に理解できない感覚なのである。だから、俺がへんな人だと思われる。こだわる必要がないことに、こだわっている人だと思われる。ちがうんだよ。凡人も含めて、普通の人なら、絶対に、気になる。きちがい兄貴の程度で鳴らされたら、生活が、ボロボロになる。俺は、よく持ったほうなんだぞ。俺は、騒音耐性があるほうなんだぞ。そのぼくが……ボロボロになった。こういうことを、凡人は理解しない。凡人の理解をこえている。きちがい兄貴の態度自体が、凡人にはわからない。きちがい兄貴の感覚が凡人にはわからない。そして、きちがいヘビメタ騒音があの音で鳴っている場合の、生活全体というのが、凡人にはわからない。なので、ぼくが必然的に、凡人にばかにされる。凡人は、ひとのことを考えられないばかなのに、その凡人にばかにされる。こんな侮辱はない。ほんとうに、凡人は、経験がないとわからない。凡人は、「そんな音で鳴ってたら、そりゃそうなるよな」とは思わない。「俺だったら、たとえ鳴っていても、通勤・通学できる。引きこもりにならない。無職じゃない」と思う。けど、きちがいヘビメタ騒音レベルの騒音だったら、きちがい家族が自分のうちで鳴らしている騒音だったら、一年間で、再起不能になる。通勤・通学できなくなる。俺よりも勉強ができない状態になる。俺だから、生きてきた。こいつらみんな、わかってない。一年間も続いたら、どんな生活になるか、ぜんぜんわかってないな。凡人はわかってない。一年と一日目の、一日が、どういう生活になるか、ぜーーんぜん、わかってない。

 

2023年5月28日日曜日

自動的にそうなる。こまるんだよ。こまるんだよ。

 「やめろ!!やめろ!!」って、あんなに言ったのに! きちがい兄貴の部屋まで行って「やめろ!!やめろ!!」っ必死になって言ったのに! きちがい兄貴の脳みそが、きちがい親父とおなじだから、「不愉快なことを言われた」というレベルの認識しかしょうじてない。ちゃんと言っていることを理解して、そのうえで、無視して鳴らしたということではないのである。その場合、無視して鳴らした……(1)という認識が成り立っている。相手が、自分の部屋に「やめろ」と言うために、きた……(2)という認識が成り立っている。ところが、(1)も(2)も、よく認識しないまま、逆上して、しがみついて鳴らしている状態なのである。だから、最初から、(1)と(2)の認識は、普通の状態では成り立っていない。これは、一度、(1)と(2)を認識したあと、(1)と(2)の記憶をなくしたということとはちがうのである。普通の健忘は、(1)と(2)を認識したあと、(1)と(2)の記憶をうしなうのである。つまり、忘れてしまう。けど、それがちがうんだよ。きちがい兄貴の場合はちがう。きちがい親父の場合もちがう。けど、いつもそうなのかというとそうではないのだ。自分にとって不都合なことを言われたときだ、そういう反応になる。もっと、厳密に言えば、うちにいるとき、うちのひとに、自分にとって不都合なことを言われたときだけそうなる。だから、社会的には適応した状態を維持できるのである。なら、会社や学校にいるときと同じように、おなじ認識をしろと言いたくないけど、きちがい的な感覚で、使いわけているのだ。そして、きちがい的な感覚で使いわけているという認識がない。つもりがない。だから、本人はそう行こうとをしてないつもりだ。けど、会社や学校にいるときも、同種の態度があらわることがあるのである。だから、そういうときは、もめる。けど、「もめごと」なんていくらでもある。「よそ」では、「うち」のような頑固さを発揮する機会は少ない。無意識的に「よそ」の人に言われているということを意識している。これが、意識的に意識しているわけではないから、わかりにくくなる。よその人には、ぼくの言っていることが、わかりにくくなる。きちがい親父やきちがい兄貴の状態が、よその人にはわかりにくくなる。

 

あれだけ、言ったのに、つもりがないんだからな。これ、つもりがないというのは、本人の主観としては、ほんとうなんだよ。嘘をついているつもりがない。せめて、嘘をついているつもりぐらい生じろ。これ、どれだけこまるか、みんなわかってないな。

きちがい的に認めたくないことは、ほんのちょっと言われただけで、逆上して、怒り狂って、執着して、その行為をやり続けておしまいだよ。やり続けたつもりなんてないんだよ。言われたつもりなんてないんだよ。自分が「はねのけた」つもりなんてないんだよ。自分が相手の言っていることを「否定して」はねのけたつもりが、まったくない。本人とって、言われたらこまることに関しては、いつも、こういう反応になる。自動的にそうなる。こまるんだよ。こまるんだよ。 

*     *     *

 よそのひとから俺が……「ちゃんと言えばわかる」とか「相談すればいい」とか「お兄さんがそんな音で鳴らしているのに、親が注意しないなんておかしい。たいした音で鳴ってないんじゃないか」と言われるんだよ。俺が言われるの……。きちがい兄貴の脳みその構造や、きちがい親父の脳みその構造から、押し出されることだ。「ちゃんと言えばわかる」はずだと思っている人は、俺の言い方が悪いと思っているのである。「ちゃんと言ってもつたわらない」ということを言っても、そいつはそいつで、ちゃんと言ってもつたわらないということを認めない。「そいつ」にとっては、(エイリの)ヘビメタ騒音問題なんて、どうでもいいことだ。「愚痴を聞かされた」ぐらいのことしか思わない。けど、俺にとっては、毎日毎日、たいへんなことなのである。毎日毎日、死にたくなるような大問題なのである。

 

たまたま、きちがい的な家族がいない家に生まれただけなのに……たまたま、きちがい家族がきちがい的な意地で鳴らす騒音に、毎日毎日、さらされなかっただけなのに……「自分は通勤できるけど、エイリさんは通勤できない」という認識をもち、くそえらそうなことを言ったやつは、ゆるさない。ゆるせない。「自分は通勤できるけど、エイリさんは通勤できない」……できないやつより、できるやつのほうが、えらい……自分は「できる」のだから、「できない」エイリさんに、そういうふうに言う権利がある……こういう考え方なんだよね……。根底にあるのが……。きちがいヘビメタ騒音で通勤できなくなったと、最初に言ってだろ。なにを聞いているんだ? 注意力がたりないのでは? あるいは、コミュニケーション力がたりないのでは? コミュ障だ、コミュ障。こういう反応をしたやつは、コミュ障。けど、このコミュ障野郎が、「エイリさんは、引きこもりだからコミュ障だ」と思うのだ。こういうレベルの思考しかできないやつ。こういう、鈍感な人。きちがいヘビメタを毎日毎日、何時間も何時間も鳴らされれば、非・二四時間睡眠覚醒症候群になる。通勤通学がどうしても、できなくなる。ヘビメタ騒音のことで、友だちとも縁が切れる。非・二四時間睡眠覚醒症候群になったあと、一〇年間、二〇年間、つきあいが続いた友だちと縁が切れれば……切れると、引きこもりの定義にあてはまるようになる。きちがいヘビメタ騒音期間があしかけ一五年間と長いうえに、ヘビメタ騒音の後遺症がずっと続くとなると、ほんとうに、ヘビメタ騒音のことで、友達とけんかするようになる。これは、就職という問題が関係している。そして、ヘビメタ騒音障害、ヘビメタ騒音後遺症が、なおらないということが関係している。そして、ぼくは、現実世界で現実のヘビメタ騒音を経験したけど、友だちは、別に、現実世界で現実のヘビメタ騒音を経験したわけではないということが、関係している。引きこもりという状態も、きちがいヘビメタ騒音によって、強制的に押し出され状態で、引きこもりと言われる状態(引きこもりとして定義できる状態)になっているだけだ。

コミュニケーション力がたりないから、あるいは、言語の理解力がたりないから、あるいは、ただ単にバカだから、あるいは、ただ単に傲慢だから「自分のほうが上だ」「自分のほうが能力がある」「自分はコミュ障じゃないけど、エイリさんはコミュ障だ」と思っただけだろ。すべてのことに関する理解力がたりないんだよ。すべてのことに関する思考力がたりないんだよ。……こういう鈍感で傲慢なやつらは。

たとえば、引きこもりは、ヘビメタ騒音の結果であって、原因じゃないんだよ。ヘビメタ騒音が原因で引きこもりになったんだよ。そして、だれもが否定すると思うけど……だれもが、そうなると断言できる。あの時間の長さ……あの期間の長さ……自分がきらいな音を……あの音のでかさで七年間、毎日毎日聞かされて……普通に通勤できる人はいない。人間!は、だれでも!!七年間で、回復不能な睡眠障害になって、通勤できなくなる。どうして、そういう知識が一般化されないかというと、きちがい兄貴のように、こだわって、自分がでかい音で鳴らしていることを無視して、でかい音で鳴らす人間が、この世には、少ししかいないからである。そういう人間と家族として住んでいる人間が、少ししか、いないからである。ほぼ全員がこういう状態なら……ほぼ全員が、ぼくの言っていることを理解できる。「こういう時間の長さ、こういう期間の長さ、こういう音のレベルで、(自分がきらいな音を)聞かされたら、通勤する能力がなくなる」ということは公知の事実になる。ほとんどの人が、そういう認識をもつようになる。もっとも、そんなことはありえないけどね。きちがい兄貴のように、こだわって、自分がでかい音で鳴らしていることを無視して、でかい音で鳴らす人間が多い世界というのは、想像しにくい。実際には、ない。だから、少数者の身の上にしょうじた出来事と結果を、多数者が理解できないということになる。

はっきり言えば、やられてないから理解できないだけの話だ。やられてないから「そうなる」という認識が一般的ではないだけだ。だから、やられてない一般人は「やられてもそうならない」という認識でものを言うのである。屈辱。侮辱。きちがい兄貴にやられると、そういうことが押し出されてしまう。きちがい兄貴の騒音は、顕著だけど、しくみとしては、親父がやったことでも成り立つ。特殊な家族がいる家にうまれなかった人は……事実生まれなかった人は……特殊な家族がいる家に生まれた人のことが、まったく、まったく、わからない。自分にとって経験がないことだから、経験があったとしても、影響をうけないと、ごく自然に考えてしまうのである。 ……自分ならその経験の影響をうけないと、ごく自然に思い込んでしまうのである。そして、特殊な経験をした人に、無理難題を吹っ掛ける。自分だっておなじことを、長期間にわたってやられれば、できなくなるのに……。自分だって、睡眠障害者になるのに……。

鈍感な人は理解できないと思うけど「元気だ元気だと言えば元気になる」というのは、かなりの無理難題だ。「元気だ元気だと言っても、元気にならない」から問題をかかえて生活しているわけでしょ。そんなことで解決するなら、苦労してない。

「この騒音は、一秒後に鳴りやむ」と言えば鳴りやむか。きちがいヘビメタ騒音の場合は鳴りやまなかった。何千回言ったって鳴りやまないものは鳴りやまない。鳴りやまないから、問題なんでしょ。なんで……「この騒音は、一秒後に鳴りやむと言えば鳴りやむ」ということを前提にしてものを言うかな? 失礼だろ。

あーー、ヘビメタ騒音ひどかったな

 あーー、ヘビメタ騒音ひどかったな。死にたいほどの憂鬱。毎日、くるしかった。ヘビメタ騒音が一日中鳴っているということが、どういうことなのか、経験してない人はわからない。あーー。どのみち、だれにもわからないか。きちがいの態度。兄貴のきちがい的な態度。現実世界に存在した、きちがい的な態度の兄貴。これ、わからないだろうな。すぐ横の部屋に住んでいるということが、どういうことなのかわからないと思う。西側のとなりのひとが、まだ引っ越してないので、当時の記憶がある人がいるんだよ。西側の家族のなかに、当時を知っている人がいる。で、その人がいなかったら、俺が妄想で言っているだけになってしまう。そういう可能性がある。実際、佐藤らは、俺の話がほんとうなのかどうかうたがったわけだ。そして、北側の家族のなかには、俺が、言っているだけかもしれないと考えていたやつがいた。とりあえず、Aさんだとする。Aさんの妻が、西側の人と話して、ぼくが言っている騒音話がほんとうのことだということを、Aさんにつたえたから、妄想でないということを、Aさんは、理解しているけど、西側の人がいなかったら、誤解をしたままだったと思う。

きちがい兄貴の態度が、きちがいの態度なんだよ。で、きちがいだから、絶対に認めないし、本人は、絶対に、そんなことをしているというつもりがない。どれだけでかい音で鳴らしていても、でかい音で鳴らしているつもりがないし、自分の音で弟がこまっているということを、絶対に認めない。これも、認めなかったらつもりがないわけで、おとうとを困らせているつもりがないままなのである。どれだけ、勉強のじゃまだと言われても、じゃまをしているとはまったく思わないまま、きちがいヘビメタを、きちがい的な音で鳴らす。で、これも、鳴らすとなったら、自分のこだわりの音で鳴らさなければ気がすまないのである。フォークギターぐらいの音で鳴らせと言っても、絶対に、フォークギターぐらいの音には、さげない。けど、さげてやらなかったというつもりもないのだ。どれだけなにを言われても、言われたときだけ、(本人が)爆発的に起こって、それでおしまいなのである。「やってないつもりのまま」やり続ける。「宿題ができなくてこまるから、しずかにしてくれ」と言われても、しずかにしてやらないし、しずかにしないまま鳴らしていても、しずかにしないまま鳴らしているつもりがまったくない状態なのである。 精神科医になった人が、留学しているときに、ひどい音で音楽を鳴らす人が、となりの部屋にいたんだって。で、その人はけっきょく、引っ越して問題を解決した。ぼくは、当時一一歳で、きちがい親父か親だったので、引っ越せなかった。引っ越して問題を解決した人は、六カ月間で、社会的に抹殺されるところだったと言っている。この人は、ただが六か月間だけど、きちがい的な音ががんがん鳴っている生活というのがどういう生活なのか、知っている。六か月間で社会的に抹殺される。六か月間で社会的に抹殺される音に悩まされながら、六年と六か月間、毎日、学校にかよったんだぞ。六か月で学校にかえよなくなって、自殺するしかない状態だった。それを、六年と六か月間もやったんだぞ。日曜日なんて、一日に一三時間、鳴らされてしまうのだから、平日よりもひどい。つかれがたまる。休日に、猛烈な疲れがたまる。そして、月曜日がやってくる。これがどういうことなのかわかるか?

ともかく、ゆるせない。そして、自分は、そういう経験をしなかったのに、「通勤ができないなんていうのはあまえだ」と言うやつがゆるせない。ゆるせない。ゆるせない。俺だって、あの六年と六か月間がなかったら、普通に通勤できる。普通に通勤できる体だった。そういう条件の差を無視して、えらそうなことを言うやつは、ゆるせない。「あまえだ」と言っているということは、ぼくを、侮辱していることになるんだけど、わかっているのか?

なんで、条件の差を無視する? 自分がたまたま、きちがい家族がいるところに生まれず、ぼくが経験したことを経験してないだけじゃないか。おまえだって、きちがい家族に、自分の嫌いな音を、ずっと鳴らされ続けたら、通勤できなくなる。それがわからないのは、おまえの想像力がかけているからだ。かけているんだよ。ほんとう、とっちゃん坊や。くそボンボン。

 

「コツコツ努力すれば、どれだけ条件が悪くても成功する」という話の裏側

  底辺労働者なのに、不動産投資で成功したという週刊誌の記事があったとする。まず、重要なのは、週刊誌にのるほど、レアなことだということだ。レアなのである。

たとえば、底辺労働者になっていた人……が、生まれの格差「下」の人だとする。そうすると、生まれの格差「下」の人でも、成功できるということになる。しかし、記事自体が嘘である可能性がある。だから、以下の話は、記事自体は嘘でないという前提で書く。

もし、記事自体が嘘でないならば、記事になるほどレアなのだから、たいていの人は、成功しないというのが、現実だ。

たとえば、生まれの格差「下」で成功する人が、一〇〇万人にひとりいるとする。その場合、九九万九九九九人は、成功しないということになる。九九万九九九九人は、だめな人だということになってしまうのである。

成功できるのに成功しないとしたら、それは、個人の素質の問題だ……ということになってしまうのである。成功できるのに失敗したのだから、失敗した人は、努力がたりなかったのだろう……ということになってしまうのである。生まれの格差「下」の人でも成功する人がいる……だから、生まれの格差と成功率は関係がないということになってしまう。

けど、この理論は、まちがっている。生まれの格差「下」一〇〇万人のうち、九九万九九九九人は、だめなのであれば、それは、生まれの格差「下」と、成功しないということには、強い相関関係があるということだ。生まれの格差と成功するかどうかは関係ない……なんてことは言えない。生まれの格差と成功率が関係ないとは言えない。むしろ、関係があると言える。強い相関関係があると言える。

「なにを言っているんだ?」という話だ。

そして、こういう記事には、「不動産勉強会のまるまるまるに入ったら、そこのみなさんはみんな成功していたので、自分も入って勉強したら成功した」というようなことが、ごく自然に記述されていたりする。

これは、不動産勉強会のまるまるまるの強力な宣伝になる。おカネがないから、おカネをもうけたいという人たちは、不動産勉強会のまるまるまるにたいへん強い興味をもってしまう。自分も、入って勉強したら、お金持ちになれるのではないかと空想してしまう。なれればいい。

けど、宣伝にはなっているということは、注目するべきだ。そして、そういうことに注目することができない人間は、あんまり投資にはむいてない人間だと、ぼくは思う。

こういう記事全体が不動産勉強会のまるまるまるの、ものすごくうまくできた宣伝になっているということは、いちおう、認識しておかなければならない。

だって、そうでしょ。もし、記事を読んだ人が不動産勉強会のまるまるまるにはいって勉強をしたいと思うなら、それは、そういう動機をあたえたということだ。宣伝としてよくできていると思うよ。

メディアというのは、DSメディアだ。こういう紹介記事はいくらでも書ける。成功話ひとつのうしろに、どれだけのしかばねが横たわっているか、わからない。こういうのも「コツコツ努力すれば、どれだけ条件が悪くても成功する」ということのひとつの例だ。ほんとうかどうかわからないけど、そういう例になる。

*     *     *

付け足して言っておくと『そこのみなさんはみんな成功していたので……』というような文言を聞いたとき「おかしいな」と思うセンスが必要だ。『みんな成功している』……これは、どちらかと言えばおかしいことだ。時代が時代だから、みんな……不動産投資をした人は……だれもが成功するという場合はある。可能性はある。けど、確率は低い。猛烈に低い。『その会の人がみんな成功している』……これは、警戒するべき文章だ。可能性はあるのだから、否定はしないけど、たいへん確率が低いことがおこっているという認識は必要だね。さらっと聞いて、さらっと『そうなんだな』と思ったら、だめだめーー。

2023年5月27日土曜日

ほんとうに、つかれた

 いやーー。書いてもしかたがないんだけど、ほんとうに、つかれた。意味がない。環境がちがえば、やりようはあった。出来事がちがえば、やりようはあった。けど、もう、つかれたよ。あんまり、興味ないわぁ。なんか、楽しくなれる感じがしない。まあ、いろいろな出来事があって、ぼろっぼろになったわけだけど……。なったわけだけど、回復する感じがまったくない。

「意味がない」っていろいろなことにかんして、意味がないということなんだけど、言うの、やめておく。まあ、そういう気分だってことよ。

まあ、いっくらなんでも、もうちょっと楽しかったなぁ。これは、ないわぁ。ここまで「楽しい気持ち」が死ぬとは……。いろいろ、ありすぎた。ありすぎ。

とくに、親父との介護?(入院・転院の繰り返しと老人ホーム探し)とネズミ騒動で、死んだ。こころが死んだ。ほんとう、ほかの人にはわからないいろいろがある。親がきちがいだと……特殊な気ちがいだと、こころを破壊される。その破壊のプロセスやしくみが、ほかの人にはわからないだけなのであーーる。ほかの人にはわからないだろう。救急車のなかで、いろいろと訊かれるんだけど「そんなの知らないよ」ということばかりだ。救急隊員の人は「親子なら知っているはずだ」「一緒に住んでいるなら知っているはずだ」という前提でものを言ってくる。だから、普通の水準にあわせるのがむずかしい。

きちがい親父は、よそでは、普通の人としてふるまうことがあるのだけど、それだって、「ふあんにみちたもの」だ。そして、「そういうふうにできるなら、うちでもそうすればいいだろ」という感情がわきがある。これは、小さいときからそうだ。きちがい親父は、別に、使いわけているつもりはないのである。ほんとうに、きちがい的な父親がいない人にはわからないなんだよ。きちがい的父親と言ってもいろいろなタイプがあるだろうから、限定しておくと「親父のようなきちがい的な父親」がいない人にはわからない。たとえば、救急隊員の人もをわからないし、いちおう、血のつながりがない世帯がちがう「おじいちゃん」にもわからないのである。



 

2023年5月26日金曜日

『負の効果』を回復しようとするこころみが、失敗する

 ほかの人はヘビメタ騒音がどういう影響をあたえるか、まったくわかってない。それから、ほかの人は、ヘビメタ騒音の『負の効果』を回復しようとするこころみが、失敗するということがわかってない。ヘビメタ騒音というのは、ほのか人が考えるようなヘビメタ騒音じゃない。回復のこころみがことごとく失敗するということがわかってない。本人が、その立場で、本人が考えるような回復のこころみを試したわけではないので、現実の世界のなかで、どういうことが、しょうじるかわかってない。魔法的なこころみは、特にそういう傾向がある。まったく役に立たないのだ。まったく役に立たないばかりか、もっと、トラブルをうみ、もっと、不幸度が増すのだ。窮地に追い込まれるのだ。普通の人は、ヘビメタ騒音のことを自分のこととして考えることができないけど、自分のこととして考えても、それは、考えただけだから、わからない。どういうことがおこるのかわからない。ほんとうに、くそボンボンが、くそボンボンの解決法を言っているだけなんだよな。助言が全部的外れ。助言が全部、けっきょく、ヘビメタ騒音にやられた人を、追い込むようなものになっている。自殺に追い込むようなものになっている。

 

*     *     *

 

ヘビメタ騒音の一日が、どういう一日なのか、みんなわかってない。

それが、一〇〇〇日つみかさなったら、どうなるのか、みんなわかってない。

「そんなんじゃない」と言っているだろ。

「鳴り終わったら関係がない」

「そんなんじゃない」と言っているだろ。

一日のなかでも、人生のなかでも、「鳴り終わったら関係がない」なんて、とても言えない状態だ。きちがい的な家族が、いない人には、それがどういうことなのかわからない。一日だって、くるしい。鳴り終わったあと、眠れなくなる。あんなものを、何時間も浴びていいはずがない。十何時間もあびていいはずがない。影響は、うけるよ。

俺より、条件がいいやつが、好き勝手なことを言う。そりゃ、そいつの家族はそうだったかもしれないけど、うちの家族はちがうんだよ。


2023年5月25日木曜日

そういうアドバイスにしたがって、過剰にやりすぎないようにするべきだ。

  もともと、良心的で人にやさしい人が、不幸であった場合、どうしたって、ちまたに流れていることを実行すると、トラブルがしょうじる。過剰に良心的な人、過剰にやさしい人になってしまうからだ。挨拶をしすぎること、親切にしすぎること、ありがとうと言いすぎること……こういうことは、じつは、いいことじゃない。普通がよいのだ。けど、「挨拶をしたほうがいい」「親切にしたほうがいい」「ありがとうという言葉をたくさん使ったほうがいい」と、プラス方向の助言しかない。さらに、その不幸な人が、きちがい的な親にやられて不幸である人、きちがい的な家族にやられて不幸である人だと、過剰さに神経質さが付け加わることになる。こういうことは、普通の良心しか持ってない人、あるいは、助言をするような立場にありながら、じつはまったく良心的ではない人には、わからないことだ。神経症に、さわるのである。神経質さにさわるのである。そして、もともと、良心的ではない人にやられて、不幸になっているのだから、マイナスがあるのである。これは、中立的な立場の人が、それらのことを、やる場合とはちがうのである。人間関係というものに、無意識的なトラブルがあるのである。ともかく、中立的な人、あるいは、じつはめぐまれている人が考えているようなことは、起こらない。むしろ、反対のことが起こるのだ。

ともかく、もともと、良心的で、もともと、親切な人は、そういうアドバイスにしたがって、過剰にやりすぎないようにするべきだ。まあ、ぜんぜん、わからないとは思うけど。あの注射の人に打てる人、抗がん剤を人に打てる人には、絶対にわからないと思うけど。

もともと、良心的な人は、へんなアドバイスにしたがって、過剰に良心的な人になる必要がない。もともと良心的な人が、へんなアドバイスにしたがったばあい、ただ単にへんな人になってしまうのである。もともと、親切な人は、へんなアドバイスにしたがって、過剰に親切な人になる必要がない。もともと親切な人が、へんなアドバイスにしたがったばあい、ただ単にへんな人になってしまうのである。

そうなるしくみがある。もし、もともと良心的な人で不幸な人である人や、もともと親切な人であって不幸な人が、そういうアドバイスにしたがったばあい、トラブルが発生する。 


2023年5月24日水曜日

魔法的な解決法というのは、人間を低賃金労働に縛り付けるための、解決法だ

 魔法的な解決法というのは、人間を低賃金労働に縛り付けるための、解決法だ。ぜんぜん、解決にならないのである。しかし、悪魔の社会では、あたかも、現実的で効果的な解決法だということになる。たとえば、「楽しいと言えば、ほんとうに楽しくなるんですよ」「楽しいと言って、自分のご機嫌をとれば楽しく暮らしていけるんですよ」という発言には、労働者の縛り付けと、魔法的な解決法が含まれている。人間はそうだ……という前提なので、底辺労働者も含まれている。あるいは、中間管理職でこまっている人も含まれている。この人たちだって、「楽しい」とひとこと言えば、あら不思議、楽しくなって、問題が解決してしまうのだ。どれだけつらくたって……それはつらいと感じているだけだから……「楽しい」とひとこと言えば、解決してしまう「つらさ」なのである。あるいは、「楽しい」とひとこと言えば、解決してしまう「問題」なのである。そうやって、個別具体的なつらさをうみだす、システムを、継続させようとする。個人の身の上に起きた、個別具体的な問題は、ひとこと「楽しい」と言えば、解決してしまうような問題なのだ。ほんとうはちがうのだけど、そういう問題だと、断言せずに、そういう問題であるような印象をあたえている。「ひとこと「楽しい」と言えば、解決してしまうような問題」とは言わないけど、そういう印象をあたえるのである。断定的な言葉をさけ、相手が同意しやすくするようにするというのは、テクニックだ。洗脳のテクニック。説得のテクニック。なので、その発言のぬしが、労働者のことを、心底、心配するような、いい人だから、そういうことを言っているということではない。むしろ逆で、労働者を追い込むために、そういうことを言ってると考えたほうがいい。労働者側は、そういうふうに考えたほうがいいよ。これは、テクニック。いい人だから、そういうふうに言っているというわけではない。「楽しい」人は「楽しくない人より好感が持てる」……これだって、表面的な言葉をもとにした、表面的な判断だ。印象操作。こういうことを言う人は、ニコニコしながら、こういうことを言っている。言われたほうは、ニコニコしている人は、暗い顔をした人より、いい人だと判断しがちだけど、それだって、表面的な視覚情報をもとにした、表面的な判断だ。「明るい人」はポジティブな人で、いい人だ……「暗い人は」ネガティブな人で、悪い人だ……こういう「判断」の刷り込みがおこなわれているのである。そして、もうひとつ考えなければならないことは、「自分はこうだ」という話と、「人間はこうだ」という話を、区別なく語り、「自分はこうだ」という話を「人間はこうだ」という話にすり替えている部分があるということだ。これは、理論的な誤謬なのだけど、普通は、気がつかない。とても深いレベルでおこなわれる洗脳のテクニックだ。おまえだって、そうしているじゃないかと言うかもしれない。けど、ちがうところがあるのだ。ぼくが言っていることは、ぼくだけではなくて、理想的な人間には成り立つことだ。自分がきらいな音を爆音で何時間も聞かされると、夜、眠れなくなるというのは、理想的な人間には成り立つことだ。けど、条件に関係なく、……あるいは、出来事に関係なく「楽しい」と言えば、「楽しい」と感じるというのは、理想的な人間には成り立たないことだ。嘘がある。

2023年5月23日火曜日

これと、「感覚器の書き換え」は、ちがうことなのである。

 きちがい親父にとって、自分の幼児(幼児期のこども)というのは、なにかというと、どれだけあたりちらしてもいい、「敵」なのである。一種の敵。自分の感情的な爆発をぶちまけていい、道具のようなものなのである。で、これと、「感覚器の書き換え」は、ちがうことなのである。だから、これは、おなじものではない。なので、きちがい親父の場合は「感情のぶちまけ(あたりちらし)」と「感覚器の書き換え」が両方とも、成り立っているけど、ひとつずつ、成り立っているきちがい的な親もいると思える。ようするに、「あたりちらし」はあるけど、「感覚器の書き換え」はないきちがい的な親と、「あたりちらし」はないけど、「感覚器の書き換え」はあるきちがい的な親と、「あたりちらし」があり、「感覚器の書き換え」もあるきちがい的な親の三タイプがいると思う。けど、「あたりちらし」と「感覚器の書き換え」は「系をなしている」と言える部分もある。「あたりちらし」があり、「感覚器の書き換え」もあるきちがい的な親の場合、このふたつは、系をなしている。まざって、あらわれるから、こまるんだよな。

*     *     *

それから、どれだけやっても、悪気がないというところが、またまた、こまるところなのである。やられたほうがこまる、やっているほうの「性格」だ。これ、こまるんだよ。兄貴だって親父だって、まったく「悪気がない」んだぞ。これ、こまるんだよ。

自分がどのくらいの音を出しているのか、わかっているはずなのだ

きちがい兄貴があまりにもへんな性格で、ほかの人の想像をこえるような感覚をもっているのだ。だから、俺が誤解をされる。自分だって、騒音でうるさいと感じたことがある人は、相手が、自分の音でそう感じているということは、「否定したい気持ちがあっても」わかるものなのだ。けど、それが、「否定したい気持ちがある」とまったくわからなくなる。自分だって、騒音でおこるくせに、自分の騒音でおこってきた人の言っていることがまったくわからないのだ。これは、きちがい親父の感覚とおなじだ。どうして、相手が自分にそういうことを言っているのか、まったくわからないのだ。そして、この人たちがやることというのは、へんなことなのだ。一日中、でかい音で鳴らすとか、ほぼ一日中、魚の切り身を出しておくとか、へんなことをする。自分の耳が正常な人は、どのくらいの音で鳴らしているか、どれだけ自分がでかい音で鳴らしたくても、わかる。だから、普通の人が……めちゃくちゃにでかい音で鳴らしたくて、でかい音で鳴らしている場合、「でかい音で鳴らしてない」と(相手には)嘘を言っても、自分が嘘を言っているというのは、わかってることなのだ。これは、自分の感覚を否定することになるから、いくら、でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしてないふりをする……でかい音で鳴らしているということに気がつかないふりをする場合でも、感覚器が正常だから、でかい音で鳴らしているという自覚がしょうじる。何回も言うけど、相手に言われたけど、無視して鳴らしたいから「でかくない」と言い切って、相手を無視しているのとはちがうのだ。「でかくない」と言い切っていても、それは、嘘だということを知っている。芝居をしているだけなのだ。自分が鳴らしたいから、知らないふりをしているだけなのだ。けど、きちがい兄貴の場合は、そうじゃない。自分がでかい音で鳴らしたいなら、感覚器を書き換えてしまう。ほんとうに、でかい音で鳴らしているつもりがないということになってしまう。感覚器が正常なら、絶対に、でかい音で鳴らしているということがわかるようなでかい音で鳴らしていても、「こんなのは、小さな音だ」「こんなのは普通の音だ」と思ってしまう。そう思ってしまったら、相手がどれだけ言ってきても、そう思ったままなのだ。そういうずるい部分がある。ちなみに、親父の場合もおなじで「くさい」ということを認めると、自分が魚の切り身を片づけなればならない場合は、どれだけ臭いにおいが部屋中に充満していても、「くさくない」と感じるのだ。感覚器を書き換えてしまう。自分の都合がいいように、感覚器を書き換えてしまう。で、それが、言ってみれば無意識的な段階で行われることなので、意識的な自我はそういうことをしているつもりが、ないのである。だから、兄貴の場合は「でかくない」と言っているとき、ほんとうに「でかくない」と感じているからそう言っているということになるし、親父の場合は「くさくない」と言っているときは、ほんとうに「くさくない」と感じているからそう言っているということになる。こういう、きたないやり方で、自分をだまして、自分にとって都合がいい行為を続けようとする。もちろん、きたないやり方で、自分をだますということが、わかってないので、常に、自覚なく、そうしてしまうのである。「都合が悪いときはいつもそうする」。「都合が悪いときは、いつも自然に、そうする」。自分にうそをついているつもりがないし、自分が嘘をついているつもりつもりもないのだ。そういう「だまし」がある。自分自身に対する「だまし」がある。だから、もう、底抜けだよ。この、きちがい親父が、きちがい行為をするときの「そこぬけ」も、この、きちがい兄貴が、きちがい的にでかい音で、きちがい的に長い時間、ずっときちがいヘビメタを鳴らすときの「そこぬけ」も、おなじなのである。自分がどのくらいの音を出しているのか、わかっているはずなのだ。そこぬけだから、いつもそうしているのに、いつもそうしている自覚だけはまったくないということになる。普通の人だったら、たとえば、兄貴の場合だと、「でかい音で鳴らしているけど」「でかい音で鳴らしてるということを認めると、でかい音で鳴らせなくなってしまうので」「でかい音で鳴らしてないという芝居をした」ということが、わかっているのである。無視して、鳴らしているときも、わかって、鳴らしている。だから、相手が文句を言ってきたときも、相手が文句を言う理由が、(否定したいけど)わかる。これは、考えるとかそういうことではなくて、感覚的にわかることなのだ。普通の人なら……。感覚器を書き換えない人なら……。けど、きちがい兄貴は感覚器を書き換えているので、わからない。相手がどうして、文句を言ってくるのかわからない。自分が普通の音で鳴らしているのに、「でかい音で鳴らしていると言ってくるので頭にくる」……。こういう気持しかない。「人がせっかく鳴らしているのに、なんだ!このやろう!!文句を言ってきて」という気持しかない。そして、そういう気持しかなくて、「相手がこまっているから文句を言ってきた」という認知がまったくないのである。自分は「普通の音で鳴らしている」気持ちしかない。ほんとうは、きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、わからない。そして、その音には、こだわりがある。絶対にゆずらない。さげたとしても、きちがい親父の譲歩とおなじで、まったく意味がない譲歩になる。「おまえ、ふざけるな!!」と相手が言いたくなるような譲歩しかしないのである。譲歩されてないのだけど、譲歩されたとしても、まったく問題が解決しない譲歩しかないのである。ほんとうは、でかい音で鳴らしているのに、「しずかにしてやった」と思ってしまうのである。これは、きちがい親父のハンダゴテとおなじなんだよ。きちがい親父にとって、使えないハンダゴテを出してやるのは、最大限譲歩なのである。けど、「使えない」ということを認めないのだ。だから、親父にとっては、ずっと永遠に「使えるハンダゴテ」なのだ。で、それを、親父にどれだけ言っても認めない。だから、先生に「こんなので、やるつもりなのか」とバカにされ、みんなにわらわれたということを話しても、使えないということは、絶対に認めないのである。これも、意識して、わざとそういう意地悪しているのではなくて、ごく自然に、そうなってしまう。ごく自然にそうなったときの、頑固さが、これまた、普通の人の想像をはるかに超えることなのである。だから、普通の人には、うちのなかにいるきちがい親父の態度や反応というものが、まったくわからない。普通の人は、兄貴の説明が悪かったから、お父さんが誤解をして、そういう……エレクトロニクス工作にはまったく使えない……ハンダゴテを出してきたと思ってしまうのだ。普通なら、説明すればわかることが、きちがい親父にはわからないということが、ぬけてしまう。普通の人の判断のなかで、ぬけてしまう。そうなると、兄貴の説明のしかたが悪かったから、お父さんがわからなかっただけなんだと思ってしまうのである。これが、兄貴と俺の関係だと、兄貴のヘビメタ騒音について、成り立ってしまうのである。ほかの人は、ごく自然に誤解をする。ごく自然にまちがっ判断をする。けど、ほかの人は、かかわりがあるわけではないので、深くは考えない。俺が、いま、これだけ説明していても、わからない人にはわからないのだ。このほかの人にはわからない理由と、きちがい兄貴が、自分が鳴らしているヘビメタ騒音のでかさについてわからない理由は、ちがう。しかし、これも、ごく自然に押し出されてしまう。きちがい兄貴がまったく気がつかずにやっていることが、ほかの人の誤解をさそうのである。ほかの人たちは、きちがい兄貴のきちがい感覚がわからないので、誤解をすることになる。「言わないからダメなんだ」「ちゃんと説明すればわかるはずだ」と思ってしまう。そして、普通の人は、普通の騒音を知っているけど、きちがい家族が日常的に鳴らす騒音のことは知らないので、そういう生活……きちがい家族がきちがい的でかい音で長時間、鳴らす生活……がどういうものなのか、根本的にわかってない。わかってないところで、やられている人に、「クソ」を言う。ほんとうに、クソ。ほかの人に「クソ」を言わす、しくみが成り立っている。そして、きちがい兄貴本人は、自分自身にそういうしくみが成り立っているということが、当然ながらまったくわかってないということになる。きちがい親父もおなじだ。家に、ふたり、こういう人間がいるということが、ほかの人にはわかってない。わかるわけがない。

2023年5月22日月曜日

解釈がちがっていたから、ケンカになった。


かりに、当時のあの子に似た、ものすごい美少女がぼく世話をしてくたれたとしても、ぼくは、あんまりしあわせじゃないんだよ。ものすごい美少女が、ぼくのことを好きで好きで好きで、いろいろとやってくれたとしても、あんまり復活しないと思う。……精神的にね。

まあ、いまの設定は、普通なら、はずかしくて言えないことだけど、かりに、そういうことが成り立ったとしても、たいして、復活できないということを言いたいわけ。もう、そのくらいに、だめになっている。奇跡的なことが起こっても、あんまり、復活できない。うかびあがれない。

まあ、これは、たとえばの話だけど……たとえば、親友といっぱいおもしろいことをしたんだよ。いっぱい遊んだ記憶がある。楽しかった。楽しいことをしていた。けど、思い浮かぶのは、最後の、わかれた時の記憶なんだよね。楽しいときの記憶は、なにか蜃気楼のようだ。親友と楽しかった時間をすごした。おもしろかった。当時、ヘビメタ騒音にやられていたけど、いろいろと親友がたすけてくれた。楽しい記憶だってあるはずなのに……。親友といろいろなところに行った。ものすごく、おもしろかった。楽しかった。けど、そういうことを思い出しても……「けっきょくは、ああやってわかれるんだよな」みたいな感想がうかぶ。そういう感想がうかんでいるとき……楽しいかどうか。楽しくない。親友とわかれた直接の原因は、働くかどうかなんだけど、働けなくなったのは、きちがいヘビメタが原因だ。ヘビメタ騒音のことについて、解釈がちがっていたから、ケンカになった。きちがいヘビメタがなければ、親友とケンカをしてない。働けるわけだから……。

2023年5月21日日曜日

こんなの、魔法

  「一秒後に、おいしい卵焼きが、あらわれる」と言ったら、一秒後に、おいしい卵焼きがあらわれなければならないのである。もし、かりに、「言ったことが現実化する」なら。言ったことは、言わなかったことを含まないので、すべての言ったことが現実化するはずなのである。さらに、言霊主義者の場合は、言霊は、宇宙をつらぬく、絶対法則だと言っているのだから、 「一秒後に、おいしい卵焼きが、あらわれる」と言ったら、一秒後に、おいしい卵焼きがあらわれなければならないのである。言うと、宇宙意識が、がーーーっと動いて、それを現実化してしまうのである。だから、 「一秒後に、おいしい卵焼きが、あらわれる」と言ったら、一秒後に、おいしい卵焼きがあらわれなければならないのである。

ところが、実際には 「一秒後に、おいしい卵焼きが、あらわれる」と言っても、おいしい卵焼きがあらわれるということはない。タマゴを買ってきて、タマゴをといて、フライパンのうえに、といたタマゴをおとさなければならない。といたタマゴと書いたけど、撹拌したタマゴでもいいや。

 「一秒後に、おいしい卵焼きが、あらわれる」と言ったら、床の上に、おいしそうな卵焼きがあらわれたので、今度は、「 一秒後に、机の上においしい卵焼きが、あらわれる」と言ったら、どこか、知らない人の机の上に、突然、おいしそうな卵焼きがあらわれて、知らない人がおどろいたとか、そういうことを想像してしまったよ。

よし、今度は言い方に気をつけよう。「一秒後に、この机の上に、おいしい卵焼きがあらわれる」と言ったら、この机の上に、おいしそうな卵焼きがあらわれたのだけど、ほんとうに机の上にあらわれたので、お皿のことを考えてなかったということに、気がついて、「一秒後に、お皿の上にある、おいしい卵焼きが、この机の上にあらわれる」と言ったら、やっと食べられる状態で出てきて、それを、手でつかんで食べました……というような話を考えてしまったよ。手でつかんだら、熱かったので、やけどしそうになって、卵焼きが床に落ちてしまいましたーーなんてギャグはどう?

こんなの、魔法。魔法を使えるようになった人が、卵焼きを出してみようとしたら、こんなギャグみたいな話になりましたとさ。

事実

 いま、服を六十度のお湯につけているところだ。あとで、洗濯する。

このさき、どうするかな?

全部がめんどい。この特殊な洗濯だって意味があるのかどうかわからない。というのは、どうも、ダニじゃなくて、蕁麻疹である可能性があるからだ。けど、ダニである可能性もあるんだよな。まあ、こういう洗濯をしても、それで一回着たらおしまいだから、部屋が片づくわけじゃないわけ。けど、部屋を片づける必要がある。

まあ、元気だったらとっくに引っ越しているんだけどなぁ。どうしても、チカラがでない。

ある程度片づけないと引っ越せないんだよ。で、本をどうするかということがまず問題になってしまう。

「もう、人生、どうでもいいか」という感じもしないではない。一日に何回かそう思う。けど、今後の世界を見てみたい気持ちがある。二十年後、世界はどうなっているのか? 三十年後、世界はどうなっているのか? 興味がある。これは、だいぶちがうんだよ。たとえば、一九八〇年から二〇二〇年までの四十年間とは、まったくちがう変化がおとずれるわけだよ。十年で四十年以上の変化があると思っているよ。本質的な変化だからね。

女の人のことも、どうでもいいかなという感じになるときはある。そりゃ、むかしとは、感情がちがう。からだの老化ぐあいもちがうしね。けど、からだよりも、感情のほうが、ちがう。けど、さみしくないかというと、さみしいときもある。「ヘビメタ騒音なしで、あのころ、あの子とつきあいたかったなぁ」と思うことがある。あのころ、なんだよね。けっきょく……。

ともかく、ヘビメタ騒音の影響がでかすぎる。で、ヘビメタ騒音の影響はほかの人には、まったくまったくまったく、わからない。わからないんだよ。もし、つきあう人がいたとしても、その人にも、わからないと思う。そうなると、いろいろな問題がしょうじる。もう、しょうじてきた。人間関係上の問題が、どうしたって、しょうじるんだよ。相対的に言って、ほかの人よりは、理解が、ある人とも、もめてしまう。じゃあ、「だまっておく」という手をとった場合、それでも、問題がしょうじる。 「適当に言うけど、そんなには言わない」という手をとったとしても、問題がしょうじる。ぼくのなかには、言うか、言わないかにかかわらず、ある。そうなると、たとえば、その相手に直接言うようなことではなくても、ぼくが、ひとりで、どなっていたりすると、その姿を相手が見た場合、いろいろと思うことがあるだろう。じゃあ、うちがわでどんなことを考えても、どならないでおくという手をとれるかというと、とれないんだな。感情の爆発がある。ヘビメタ騒音に関連したいろいろなやりとりを思い出してしまう。それは、ヘビメタ騒音をかかえた状態で何十年間もすごしていると、そうなる。気ちがい兄貴とのやり取りだけではなくて、それに関連した、他人とのやり取りだってあるわけだから……。思い出したら、腹をたてて、あのとき言いたかったことを、どなるときだってあるわけだよ。ほんとうに、ヘビメタ騒音のことでどんだけなめられたか。なめられたことを言われたか。腹がたつね。ヘビメタ騒音で、能力をなくして、勉強時間もなくして、いろいろとなめられたことを言われることになる。きちがいヘビメタのなかで勉強することはできない。これ、みんなわかってないけど、ほんとうに、できない。やろうとした分だけ、マイナスになってしまう。きちがいヘビメタの記憶が、勉強内容についてしまう。あのきちがいヘビメタ騒音なかで、見たもの、読んだもの……無理して、見たもの……無理して読んだものに、ヘビメタ騒音が鳴っていたという記憶がついてしまうのだ。ヘビメタ騒音が鳴っているときに読んだやつだという記憶がついてしまう。それが、無意識的な障害になる。それから、いま文では、読んだものと書いたけど、ヘビメタ騒音のなかで読むってことが、どういうことなのか、きちがい的な態度で、きちがい的にでかい音で鳴らしているきちがい騒音を経験した人じゃないわかない。そもそも、態度がおかしいのだけど、その態度のおかしさに対する怒りも、やっぱり、関係している。音はでかい。音はでかいけど、でかさのほかに、鳴らしている相手に対する怒りが、実際に鳴っている音に対する怒りに影響をあたえてしまう。 

ヘビメタ騒音が〇・〇〇〇〇一秒で、記憶内容を流してしまう。強制的に、流してしまう。記憶が残らないまま、文字をおっているということになる。これが、ヘビメタ騒音が鳴っているときの読書だ。ただたんに、教科書を読むことだってできなくなる。そして、読んだ内容がよくわからないまま、読んだ内容に拒否反応がでてしまうのである。なんか、意味がわからないまま、がんがんがんがん鳴ってるなかで、文字だけおっているというとになってしまう。読むのではなくて、ただ見ているだけ。きちがいヘビメタががんがん鳴っているつらい状況のなかで、文字を見ているだけ。追っているだけ。そういうことになってしまう。これ、本来もっている記憶力とか、本来もっている理解力とか、そういうものが、一切合切関係がない世界の話だ。そして、『いやな感じ』だけが残るということになってしまう。がんがん鳴っていて、内容が頭に入ってこない状態で読んでいたって、つかれる。はげしく、つかれる。きちがい兄貴と、きちがい兄貴が鳴らしている実際の音に対して腹をたてて、消耗してしまう。つかれきってしまう。そして、怒りというのは、一種の興奮なんだけど、怒りをがまんして、椅子に座って、教科書を読もうとしているわけでだよ。そういう、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、六時間四六分であるわけ。平日はそれで、休日だと、七時間、八時間、九時間、一〇時間、十一時間、十二時間、十三時間とのびてしまう。平日の遅れを取り戻すとか、むりなんだよ。けど、実際にやられているわけではない人……は、「平日の遅れなんて、休日に取り戻せばいいじゃない」と言うわけ。「ヘビメタ騒音が鳴っているから勉強ができないなんて、あまえだ」と言うわけ。あびてないくせに、言うわけ。

日本語の「せいにする」というのは、相当に問題がある表現なのだ

 あと、日本語の「せいにする」というのは、相当に問題がある表現なのだ。ほんとうは、「その人のせいじゃないのに、その人のせいにしている」というニュアンスがかならず、付け加わる。たとえば、Aさんと、Bさんと、Cさんがいたとする。Aさんが、Bさんを非難していたとする。非難という言葉も問題があるかな? じゃあ、AさんがBさんの責任を追及していたとする。そして、Cさんが「Bさんのせいにしている」と言ったとしよう。もちろん、「Aさんは、Bさんのせいにしている」という意味だ。その場合、Cさんは、AさんのBさんに対する責任追及は不当なものだと思っているのである。Cさんが、AさんのBさんに対する責任追及は、不当なものではないと思っている場合は、「せいにしている」とは言わない。かならず、「せいにしている」というときは、責任追及しているほうが、まちがった、責任追及をしているという認識と、それこそ、それに対する非難の気持ちが、背後にあるのである。なので、Cさんの認識では、Bさんに責任はないのに、AさんがBさんの「せい」しているということになるのでる。Bさんには責任がないのに、Aさんが、誤解して、あるいは、悪い性格なので、Bさんのことをせめているという認識なのである。Cさんがもっている認識というのは、そういう認識なのである。なので、それこそ、Cさんは、Aさんを非難している。責任のないBさんに、責任をおわせようとしている悪い人なのだ。Cさんにとって、Aさんは。こういうことが「せいにする」という言葉のなかには含まれている。

Aさんが「Bさんのせいだ」と実際に言ったとする。その場合、たしかに、「せいだ」と言っている。だから、「Bさんのせいだ」と言っているのだから「Bさんのせいにしている」ということになり、別に、「Bさんのせいにしてる」という点では、まちがってない……ということは成り立つだろうか? 実際に言っている。「せいだ」と言っている。だから、「せいにしている」わけであって、「せいにしている」という認識は正しいと言うことができるかということだ。

ぼくは、できないと思う。たしかに、言ってるけど、その場合は、「責任がBさんにある」ということを言っているのである。その場合の「せい」には、別にいままで説明してきたような意味が込められていない。つまり、「せいだ」とは言っているけど、この場合の『生だ』という言葉には、自分の認識がまちがっているという意味が含まれていない。ただたんに、「責任がある」という意味で「せいだ」と言っているのだ。しかし、他人(Cさん)が、その状態を判断するときに使う「せいだ」という言葉のなかには、いままで説明してきたとおり……Aさんの判断はまちがっているというCさんの認識(判断)を表現している。

きれいごと

 ほんとうに人によって、生まれたときのハンディがちがう。それを、単純な二項目文に、落としこみやがって。「どんな条件だって」「どんな環境だって」「どんなことがあったって」と簡単に言う。それって、底上げされているから言えることなんだぞ。底上げされていることにいいかげん、気がつけ。

この世というのは、ほんとうに不公平にできている。きちがい家に生まれたら、まわりのやつから、わかったようなことを言われる人生になる。これ、決まっているんだよな。まわりのやつらというのは、きちがい的な家族がどんな態度で、どんなことをするか、まったくわかってない。まず、きちがい家族によって、きれいごとが破壊されているのに、どうして、きれいごとを言われなければならないのか。やられたほうに、きれいごとを言うようになっている。きちがい家族にやられたことがない人たちが、きちがい家族にやられた人に、きれいごとを言うようになっている。きれいごとは、基準だ。人としての基準だ。行動の指針だ。判断の指針だ。道徳観だ。……そういったものを、破壊したやつには、そういうことを言わない。やられたほうが、受け止め方をかえるのである。やられたほうが、「楽しい」と言って、楽しくなればいいのである。……こんなの。こんなのは、集団リンチみたいなものだ。

2023年5月20日土曜日

どうも無理っぽいな。

  そろそろ、寝るーー。

あんまり言いたくないけど、どうも、このまま……。そりゃ俺だって、楽しい感情をとりもどしたい。いきいきとした感情をとりもどしたい。けど、どうも、ヘビメタ騒音以前の感情をとりもどすのは無理だという感じがしてきた。 

どうも無理っぽいな。

逆転、逆転、逆転。奇跡の大逆転。

あーー。


到底、無理なからだになった。

 ほんとうに、みんな、わかってないなぁ。あの子と、普通に、つきあいたかったな。きちがいヘビメタが鳴ってない、普通の気持ちで、普通につきあいたかった。あのとき、つきあったとしてうまくいったのかな。

ともかく、一八歳のときには、もうだめだったんだよね。中学、高校の六年間がでかいわ。フルの音で、毎日、土日も含めて、極限まで鳴らされた。一八歳になったときには、もうからだがこわれていた。到底無理なんだよな。通学も通勤も、到底、無理なからだになった。この「無理なからだになった」というのは、小学六年生から高校三年生までの七年間で、めちゃくちゃに、あきらかなことなんだよ。ぼくにとっては、めちゃくちゃにあきらかなことなんだよ。けど、その七年間がない、ほかの人にとっては、ぜんぜんあきらかなことじゃない。その差がでかい。こんなの、七年間毎日、俺とおなじ状態で暮らさなければわからない。どれだけ、むりな状態になるか、実際に毎日毎日、おなじぶん量のヘビメタ騒音をあびなければ……あびてくらさなければわからない。わからない。わからない。わかるわけがない。ほんとうに、聞いただけの話と、毎日、一倍速で体験していることとは、ちがう。ほかの人には、まったく「必然性」が見えない。自分のからだに起こっていることじゃないからな。実際に、一倍速で、毎日、経験してみなければわからないよ。どれだけ、からだに影響が出るか、わからない。どれだけ精神に影響が出るかわからない。どれだけ、他人との人間関係に影響が出るかわからない。

必然性が見えなければ、勝手に無視したり、過小評価して、七年間、あびせられた、俺のからだではむりなことを要求しくる。だから、人間関係がめちゃくちゃになる。それだけでなく、実際に睡眠回路がこわれると、いろいろなトラブルが発生する。いつも、騒音でくるしいと、精神的においつめられているので、いろいろなトラブルが発生する。いつも、騒音でくるしいと、注意力がなくなって、いろいろなトラブルが発生する。

「俺ならだいじょうぶ」と思っているやつは、必然的に、俺を「なめてくる」。なめてかかってくる。そうなる。

2023年5月19日金曜日

「すべての二極思考」

 すべて、自分のせいなのか? すべて、他人のせいなのか?

そもそも、個別の出来事について考えないというのがおかしい。ある出来事に関しては、他人(個別の他人)のせいであり、別のある出来事に関しては、自分のせいであるという認識は成り立つ。どうして「すべて」なのか? どうして、「すべてが、他人のせい」であったり「すべてが、自分のせい」であったりするのか? おかしいでしょ。どうして、個別具体的な出来事に関して考えないのか? 個別具体的な出来事を考えずに、集合的な「出来事」を考えて、「すべては自分のせい」と考えるのはおかしい。個別具体的な出来事を考えずに、集合的な「出来事」を考えて、「すべてが他人のせい」と考えるのはおかしい。

「すべての二極思考」というべきものが成り立っている人がいて、その人は、「すべて、自分のせいである」と思ったり、「すべて、他人のせいである」と思ったりする。それから、「人のせいにする」というのは、ほんらい、その他人の責任ではないことについて、その他人の責任だと考えることを意味しているので、もとからその他人の責任である場合は、「せい」という言葉を使うべきではない。

責任の所在をあきらかにして、責任を追及しなければならないことだってあるよ。そうしないと、悪が増える。「責任を追及しなければならないこと」の「こと」というのは、出来事のことだ。悪いやつがやり勝ちして、味をしめると、また悪いことをする。社会全体のなかでトラブルが増える。社会全体のなかで被害者が増える。

「すべては自己責任」という考え方は、悪いやつが悪いことをしたとしても、悪いことをされた人の責任だという考え方にいきつく。これ自体が、悪だ。そして、「責任の所在をあきらかにして、責任を追及している人」を「人のせいにしている人」だと言うこと……は、もっと悪いことだ。それこそ、発言の責任がある。

それから、効率の問題ではないということについて言っておきたい。これは、効率の問題ではなくて善悪の問題だ。道徳の問題なのである。それから、かりに効率がかかわっているとした場合、再犯防止に役立つのだから、効率はいい。悪い人が、悪いことを繰り返すことを、そこでやめるわけだから、「役に立った」と言える。「責任の所在をあきらかにして、責任を追及する」ことは、未来の被害者を救うという効果がある。ちゃんと、役にたっている。未来の被害者というのは、もし、責任追及をしなかった場合の「未来の被害者」だ。

いま、政府は、国民に対して、ひどいことをしているのだから、ちゃんと責任追及したほうがいい。責任追及をしないと、さらに、行為がエスカレートする。 

++++++++


あれを打っちゃった人は、政府の責任、厚労省の責任を追及したほうがいいよ。だましたわけだから……。

ヘビメタ騒音さえなければ……

ヘビメタ騒音さえなければ……。ヘビメタ騒音さえ続かなければ……。きちがい兄貴が、すぐにやめてくれたら……。きちがい兄貴が普通の兄貴で、せいぜい鳴らしたとしても、二年間だったら。きちがい兄貴が普通の兄貴で、せいぜい鳴らしても、フォークギターぐらいの音だった。きちがい兄貴が普通の兄貴で、一日に十三時間鳴らしても、せいぜい、幼稚園児の絶叫ぐらいの音だったら。あーあ。全部、めちゃくちゃ。どれだけ、めちゃくちゃになるか、ほかの人はまったくわかってない。きちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音がなかったからだ。毎日、鳴っているきちがい兄貴のきちがいヘビメタ騒音がなかったからだ。みんな、ヘビメタ騒音の効果を過小評価している。ぜんぜんちがうのに、ぜんぜんちがうということがわかってない。

学習はある。そりゃ、脳みそが正常なら、学習はある。出来事の学習がある。経験の学習がある。この実際の学習が、この世の認知に大きな影響をあたえるのである。この実際の学習が、からだの状態に大きな影響をあたえるのである。

それを……。出来事の学習を無視して、「Xをすれば、Yになる」「これは、正しい」と言うやつばかりだ。どうして、出来事の学習を無視するんだ? 「どれだけつらくても」というひとことで、消せるようなものじゃない。ところが、仮想空間では、「どれだけつらくても、Xをすれば、Yになる」ということが成り立っている。その人の頭のなかでは、成り立っている。ならば、きちがいヘビメタというケースだっ、もちろん、「どれだけつらくても」と言えることになる。けど、その人は、実際にきちがいヘビメタをあびたわけじゃない。きちがい兄貴といっしょに生活したわけじゃない。きちがい兄貴の部屋が隣の部屋であったわけではない。きちがいが、どういう認知・認識をしているのか、肌でわかってない。ほんとうに、頭がおかしいからどれだけ言っても、聞かない。「やってないつもりで」……やり続ける。この「やってないつもりで」……やり続けるなんて、おかしい。おかしいけど、毎日ずっと成り立っている。「うちにいる」という条件が成り立つなら、絶対の意地で、本人が鳴らしたい時間は、鳴らす。こっちがどれだけこまっていても、鳴らす。日本語がわかれば理解できることを、きちがい兄貴は、無視する。耳が正常なら、わかることを、きちがい兄貴は、無視する。ほかの人は、実際に鳴らされてないわけだから、これがどういうことなのか、わかってない。わかってないのに「どれだけつらくても」と「まくらことばのように」言ってしまう。

 

2023年5月18日木曜日

ところが、「XをすればYになる」というたいへん断定的な言葉が「ひとりあるき」をしてしまう

 たとえば、ブラック企業の社長が「楽しいと言えば楽しくなる」「楽だと言えば、楽になる」と言ったとする。これ自体は、まったく問題がないように見えるだろう。けど、こういうことが流布されると、実際につらい人が、もっとつらい思いをすることになるのである。ブラック企業の社長をCさん、ブラック企業の底辺従業員をDさんとする。Cさんは、別に、ほんとうに、つらい作業をしているわけではないので、つらくない。Dさんは、めちゃくちゃにつらい作業をしているので、つらい。けど、人間は「楽しいと言えば楽しくなる」という考えが正しいとするなら、Dさんは「楽しい」と言えば、つらい作業をしているときも「楽しくなる」はずなのである。人間というのは、そういう動物だということになっている。そして、Dさんは人間なので、当然、あてはまる。Dさんが、きつくてきつくてつらい作業をしているとき、「楽しい」と言えば、楽しくなるのである。連日の作業で疲労がつみかさなり、からだが重たくてしかたがないときも「楽だ」と言えば、「楽になる」はずなのである。これは、魔法的な解決法だ。だれにでもできる。「言えばいい」のだから、だれにでもできる。そして、人間なら、だれにでも、効くのである。効くということになっている。そういう文脈で、Cさんは、楽しいと言えば楽しくなる」「楽だと言えば、楽になる」と言っている。まさに、そういう意味で言っているのである。けど、ほんとうは、Cさんにしても、Dさんと同じ作業をすれば、苦しくなる。つかれる。つかれているのに、無理やり動くと、つらい思いをすることになる。ところが、自分はそういうことしなくていいのである。自分は、ほんとうに、楽なことしかやらないのである。だから、「楽だ」と言って、楽な気持になっている。だから、「楽しい」と言って、楽しい気持ちになっている。やっていることがちがう。ちがうにもかかわらず、その部分は捨象されている。最初から、人間という動物は「楽しい」と言えば楽しくなる動物だという意味で、「楽しいと言えば楽しくなる」と言っているのである。最初から、人間という動物は「楽だ」と言えば楽になる動物だという意味で、「楽だと言えば楽になる」と言っているのである。条件なんて関係がないのである。どういう作業をしているのかなんて関係がないのである。こういうことが、社会全体で繰り返されている。

生まれの格差について言及すると、底辺の人からも、「そんなのはあまい」「くばられたカードで戦っていくしかない」ということを言われる。生まれの格差はでかい。社会全体のなかでは、支配者層がCさんのような役目をして、被・支配者層がDさんのような役目をしているのである。条件がちがう。条件は無視できない。「楽だと言えば楽になる」というようなことは、ほんとうは、条件を無視して言ってはいけないのである。しかし、かならず、条件を無視して言うことになっている。「どんな条件だって」「どんな環境だって」「どんなにつらくたって」と条件を無視する、まくらことばのようなものすらある。これらの言葉が追加されなくても、そういう意味をもっているのである。つまり、条件は、かならず、無視される。しかし、条件こそが重要なのだ。

人間にかかわることを、まるで、物理現象のように、法則性をもったものとして言う場合の弊害がある。「人間なら、XをすればYになる」というような意味合いをもっているものは、すべて、個人の条件を無視している。個人の条件こそが、Yになるかどうかを決定している場合について考えてない。「ある特定の条件が成り立てば、XをすればYになる場合が多い」と言うべきなのである。ある特定の条件が成り立っている人間ですら、そうはならない場合がある。どうしてかというと、じつは、条件をそろえることができないからだ。ある条件だけを、かえるということができないのだ。人間だから、ほかの条件が成り立ってしまっている。ほかの無数の条件が成り立ってしまっている。なので、ひとつだけ条件をかえて、あとは、すべて条件をそろえるということができない。社会生活のなかで、その人なりの条件が成り立ってしまっている。まったくおなじ経験をした人というのがいない。出来事は、個別に、発生している。条件がそろうわけがないのだ。しかし、それを言っては、おしまいだから? なるべくほかの条件をそろえて、こういう条件だけをかえた場合は、どういう傾向があるだろうかということについて調べているのである。……学者やいろいろなことを考える人たちは。ところが、「XをすればYになる」というたいへん断定的な言葉が「ひとりあるき」をしてしまう。これは、支配者層にとっては、いいことだけど、被・支配者層にとっては、悪いことだ。いいかげん、気がつけ。これは、言ってみれば「法則性詐欺」だ。

 



気がつかないかな?

 詐欺師がいい人に見えるという問題は、どこに行っても、ある。みんな、詐欺師が悪い人に見えると思っているのだろうか? 詐欺師は、いい人に見えるんですよ。そして、悪魔的な人も、いい人に見えるんですよ。どうして、だまされちゃって、気がつかないかな?

 

出来事とは関係なく、「自分のご機嫌を取る能力」だけが問題になる

 楽しいと言えば、どんなつらいときも、楽しくなる……とする。そうであるならば、そうしないやつが悪いということになってしまうのである。

出来事とは関係なく、不愉快な気持になったやつが悪い。条件とはまったく関係なく、つらい気持ちになったやつが悪いということになってしまうのである。

「人間」というものは「楽しい」と言えば、どれだけつらいときでも、「楽しくなる」動物だ……。この前提がおかしいのではないかと思う。

もちろん、「自分は、どんなつらいつきでも、楽しいと言うとほんとうに楽しくなる」とAという人が言った場合、自分のことにしか言及してない。「人間は」なんて言ってない。けど、いまの世の中というのは、条件が個人によってちがいすぎる世の中なのである。だから、ほんとうはつらい思いをしてない人が、「自分は、どんなつらいつきでも、楽しいと言うとほんとうに楽しくなる」と言ってしまうと、問題がしょうじる。もともと、生まれの格差・上の人と、生まれの格差・下の人が経験する「つらさ」の量がちがう。「つらさ」の質がちがう。「つらさ」の頻度がちがう。その場合、「どんな条件でも」とは言えない。ところが、条件を無視して、わかったようなことを言うのがはやっているのでそう言ってしまう。これは、カルマ理論とおなじ役割をする。生まれの格差・下だからこそ、つらい思いをしている人が、ただ単に、「自分のご機嫌を取ることが下手な人」になってしまうのである。生まれの格差・下だからこそ、つらい思いをしている人が、ただ単に、「自分のご機嫌を取る能力がたりない人」になってしまうのである。能力の問題になってしまう。そうなると、能力がないやつが悪いということになってしまうのである。みんな、おなじ量のつらさを経験している……けど……人によって……自分のご機嫌を取る能力がちがうので……自分のご機嫌を取る能力がない人は……つらい思いをすることになるのである。それは、「能力」のちがいだからしかたがないというとになってしまうのである。けど、おなじ量のつらさを経験しているという前提がまちがっているのである。しかし、あたかも、「おなじ量」のつらさを経験しているのだけど、自分のご機嫌を取る能力が高い人は、つらく感じないで、楽しく感じることができるということになってしまうのである。そうなった場合、やはり、能力がないやつが悪いんだということになってしまうのである。それなら、「つらい思いをさせた人」は、なんなんだということになる。「つらい思いをさせた人」は一切合切、責任を追及されないのである。ただ単に、「能力がない人が悪い」ということになってしまうのである。つらい思いをさせられたほうの処理能力のちがいに、すべてが、おとしこまれてしまうのである。ある出来事の特殊性、ある出来事の条件……そういったものが、すべて水に流されてしまう。「どんなにつらいことが起こっても」ということは「どんなにつらい思いをさせられても」ということを含んでいる。なので、両者の関係性は、そこでは、捨象されてしまうのである。「やったほう」と「やられたほう」……このちがいはおおきい。「やられたほう」にだけ責任をかぶせるのである。そして、処理できない……つらく感じるなら……つらく感じるやつが悪いということになってしまう。どうしてかというと、「こうすれば処理できるのにこうしないやつが悪い」ということになるからだ。能力のちがいは、個人の問題だから、その個人が責任をおう。たとえば、AさんがBさんの能力をどうにかすることができない……。それならば、Bさんの問題だからBさんの能力だけの問題だというとになってしまうのである。「自分のご機嫌を取る能力が低いからダメなんだ」ということになってしまうのである。出来事とは関係なく、「自分のご機嫌を取る能力」だけが問題になる。けど、実際には、出来事が影響している。


「楽しい」と言えば楽しくなるような「つらさ」?

 ここにくるまでに、エネルギーをつかいはたしてしまったなぁ。どうするかな? これ以上は、とべないな。しかし、なんとかしないとなぁ。このやっかいな気持はなんだ? これ、ほんとう、やっかいだよな。ほかの人にはないハンディがあるんだよな。きちがい兄貴のヘビメタ騒音ときちがい親父の頑固なきちがい行為だ。まあ、ちがい兄貴も頑固だよな。この頑固さが、病的なんだよな。殺さないと、やめさせることができない。どっちも……。こういうきちがい的な兄やきちがい的な父がいない人にとっては、なんでもないことなんだよな。いないから、そもそも、そういう行為の影響をうけない。だって、やる人がいないもん。

この人たちが「楽しいと言えば、本当に楽しく感じる」などと言う。そして、こっちが、自分のことについて言えば、「どんな条件だって」とか「どれだけつらくても」と言うことを付け足す。「どんなにつらくても、楽しいと言えば、本当に楽しく感じる」……。おかしいと思う。人間じゃないんじゃないか。あるいは、「どんなにつらくても」と言っているけど、ほんとうは、つらい思いをしたことがないんじゃないか。ほんとうは、ほんとうに、つらい思いをしたことがない。けど、「つらかった」と言うことにして、「どんだけつらくても」と言っているのではないか?

「楽しい」と言えば楽しくなるような「つらさ」? そんなのあるの?

なにをして「つらさ」と言っているの?

 

2023年5月17日水曜日

こんな状態で、ほんとうに、よく生きてきたなぁ

 こんな状態で、ほんとうに、よく生きてきたなぁ。俺、よく生きてきたなぁ。普通、十一歳あたりで死んでいる。それを、俺は、生きてきたんだ。

きちがいヘビメタがなければ、すべてが、ちがっていた

 きちがいヘビメタ騒音がなければ、サカマのことだって……。サカマのことだって……。ヤマモトのことだって……。ミタライのことだって……。

「つもる」というのが、ほかのひとには、わからないんだよな。どれだけ、「つもった」か。どれだけ、つもったか。全部が全部、ヘビメタ騒音がらみの問題になっちゃうんだぞ。そして、働けないからだになってしまうんだぞ。通学できないからだになってしまうんだぞ。どんだけ、恥をかいたか。どんだけ、下に見られたか……。ヘビメタのせいで……。頑固になってた。絶対にやめてくれないんだよな。一〇分だって、やめてがまんすることができない。一〇秒だって、がまんできない。一秒だって我慢できない。けっきょく、全部、がまんしないでやった。そして、全部、やってないとになっているのである。きちがいだから。そういう感覚なんだよ。やってないつもりでいるから、そういう態度なんだよ。どれだけ言っても、まったくなにも通じない。きちがい親父とおなじ脳みそなんだよな。ほかの人は、ほんとうに、自分がやられたことがないので、わからない。こまるんだよ。きちがい感覚が成り立っているからこまるんだよ。いまだって、あんな音で鳴っているうちなんてないよ。いまだって、幼稚園はうるさいけど、まったくちがう騒音だ。あのきちがい騒音はない。きちがい兄貴のきちがい騒音はない。ほんとうに、時空間がめちゃくちゃ。影響をうける。どれだけ、無視しようとしても影響をうける。鳴り終わったあと、眠れなくなるので、眠れなかったという影響が、次の日、不可避的に、でる。きちがい兄貴がやめてくれないと、毎日毎日、不可避的に、ヘビメタ騒音の影響下で生活することになる。この生活が、地獄なのだ。みんな、ぜんぜんわかってない。勝手に影響を過小評価しやがって……。勝手に影響を無視しやがって……。勝手なことを言いやがって……。

きちがいヘビメタがなければ、すべてが、ちがっていた。だいたい、こうやって、書くことだって、ぼくにとっては、愚痴ではないけど、ほかの人には、愚痴に聞こえるんだろ。きちがい兄貴が、きちがい的な態度でヘビメタを頑固に頑固に、鳴らさなかったから、書くということもないんだよ。俺がほかの人から「愚痴を言っている」ように思われることがないんだよ。きちがい兄貴の騒音は、特殊すぎる。きちがい兄貴の感覚が特殊すぎる。特殊すぎて、みんな、まったくわかってない。 

この、生きている感覚が、ヘビメタ騒音の感覚なのである。この生きている日が、ヘビメタ騒音の日なのである。鳴り終わったって、ヘビメタ騒音の日なんだよ。

+++++++

 

2023年5月13日土曜日

「話を聞いただけでわかる範囲」と、「話を聞いただけじゃわからない範囲」

 本人の意思ではどうすることもできない、影響がある。けど、きちがい兄貴が、家にいない人……自分のうちにいない人にとっては、それは、えそらごとだ。ぜんぜん関係がないことだ。想像でしかわからないことだ。

だから、きちがい兄貴の影響もわからない。きちがい兄貴の行為の影響がわからない。ヘビメタ騒音の影響がわからない。きちがい兄貴がどういう態度で鳴らしたのかも、わからない。きちがい兄貴がヘビメタの音に関して、どういう感覚をもっていたのかも、経験がない人にはわかない。絶対的に、わからない。

だから、自分の想像の範囲でものを言うとになる。

そして、その想像が、現実とはまったくちがうのである。これが、やかっいだ。そうなると、ほかの人が、ぼくにとって「敵に」ならざるをえないのである。そりゃ、無理解な発言を繰り返すことになるわけだからさ……。「おまえは、実際に鳴らされたわけじゃないから、わからない」「かんがえちがいをしている」と言ったって、なにもつたわらない。だって、経験がないわけだからさ。

ぼくにしたって、実際にやられたぼくじゃなければ、わからないと思う。「話を聞いただけでわかる範囲」と、「話を聞いただけじゃわからない範囲」をくらべると、「話を聞いただけじゃわからない範囲」のほうが、圧倒的に大きい。ひろい。「話を聞いただけでわかる範囲」をイチ平方メートルだとすると、 「話を聞いただけじゃわからない範囲」はイチ無量大数(むりょうたいすう)平方メートルだ。

実際に、経験がないとわからないんだよな。影響のでかさがわからない。毎日つもる、感覚がわからない。全部がつもっていくんだよ。全部が……。そういう積もったものを無視して、どれだけきれいごとを言ったってむだだ。積もっているものが、ものを言う。現実のからだをつくっている。 

*     *     *

俺にしたって、こういう状態から抜け出たいけど、からだが言うことを聞かない。

そういうことがなかった人の「きれいごと」なんだよなぁ。世間の人が信じていることは、そういうことがなかった人の「きれいごと」だ。世間の人だって「なかったひと」だから、通じやすい。通じにくいんだよな。通じにくいというよりも、不可能か。

*     *     *

「そんなの、むりに決まっているだろ」と言いたくなることが、たくさんあった。ほんとうに、そういう体験も、つもりにつもった。十一歳のときから、そういう人生だったなぁ。もう、つかれたよ。

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でできなくなるのに、みんな、わかってない。ヘビメタ騒音でできなくなるというのがわかってない。こっちは、ぎりぎりでやっているんだぞ。ヘビメタ騒音がなければ簡単にできることでも、ヘビメタ騒音があると、むりなことになってしまうんだよ。それがせんぜん、わかってない。みんな、わかってない。この、時間の経過が、わかってない。どれだけのことが、つみかさなるかわかってない。

ぎりぎりの状態で、どうにか、生活しているのに、みんなわかってない。きちがい兄貴にどれだけ言っても、しずかにしない。しずかにしない。きちがい兄貴の基準で、しずかにしたつもりになる時間は、あったけど……きちがい兄貴は、その時間も、普通の基準でいえば、ありえないほどでかい音で鳴らしている。きちがいだから、そういう、基準のずれがある。

ぎりぎりで暮らしているのに、「元気だ元気だと言えば、元気になる」なんて、ヘビメタ騒音がないやつから言われたときの、気持ちがわかるか? 何千日も、何万日も、くるしい状態で暮らしているんだぞ。くるしい状態で「元気だ元気だ」と言ったときの、気持ちがわかるか? くるしい状態のままだよ。元気にならないよ。そういう、くそ嘘を、あたかも、宇宙をつらぬく絶対法則のように言うな。

きちがい兄貴の、きちがい的な態度が、毎日「きいている」。俺のからだに「きいている」。悪いイフェクトをあたえている。そういう毎日なんだぞ。くるしい状態で「元気だ元気だ」と言ったら、死にたくなるんだよ。きちがい兄貴に対するはげしい怒りと、言いようのないむなしさがおそってきて、死にたくなる。

*     *     *

言霊主義者とぼくのあいだには、クレパスがある。常識的な人とぼくのあいだにも、言霊主義者とぼくのあいだにあるクレパスとおなじようなクレパスがある。深さはちがう。言霊主義者とぼくのあいだにあるクレパスのほうが深い。けど、おなじようなクレパスだ。

社交辞令として、「そうですね」と言っておけばいいか?

よくないんだよ。これが、よくない。出血大サービス。こっちが、出血している。助言をされるほうが、助言をするほうに、気をつかって、「そうですね」と言う。どっちがどっちのおもりをしているのか? ほんとうは「そうじゃない」と思っているのに、「そうですね」と言う。負担がかかるじゃないか。

*     *     *

ヘビメタ騒音が鳴っているとき、元気じゃないので「元気だ元気だと言う」……元気になるか? はらわたが煮えくり返ってしかたがない状態のままだ。ストレスで死にそうなの状態だ。発狂寸前なのに、がんがん鳴っているなかで、発狂しないように、自分をおさえている状態だ。きちがい兄貴を殺しに行きたいのに、殺しに行かないようにしている状態だ。ぜんぜん、元気にならないよ。まあ、「はらわたが煮えくり返ってしかたがない状態」は元気なのかもしれない。じゃあ、ヘビメタ騒音が鳴っているとき「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」か? ならないよ。

ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、元気だ元気だと言えば、元気になるか? ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、普通の人が経験したことがないつかれを感じで、ぐったりする。活力がない状態だ。元気だ元気だと言えば、元気になるか? これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音で、ヘビメタ騒音が鳴ってなければできたことが、まったくできてない状態なのである。ヘビメタ騒音が鳴っている時間というのは、むだな時間……使えない時間であるばかりではなくて、あきらかに「負の時間」なのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴ってなければ、ぼくの能力でできる宿題をすることができたのである。鳴ってなければ……。けど、ずっと、学校から帰ってきたあと、何時間も何時間も鳴っていたで、宿題をすることができないのである。宿題をしないで、次の日学校に行くと、恥をかくのは僕なのである。悪く言われるのは僕なのである。きちがい兄貴は、原因をつくっているけど、そんなことは、知らない。どれだけ俺が「宿題をやるから静かにしろ」と言ったって、きちがいがきちがい的な感覚で認めずに、きちがい騒音を鳴らしまくる。しかも、きちがい的な感覚で「鳴らしてないことになっている」のである。これが、ほかの人にはわからないことなんだよな。そして、きちがいだから、どれだけ言っても効かないということがわからない。ほかの人にはわからない。「兄のヘビメタ騒音で宿題ができなかった」と言ったって、「お兄さんと話し合えばいい」「家族で相談すればいい」と言われておしまいだ。恥をかくのは俺だし、俺がきちがい兄貴のことで恥をかいているとき、きちがい兄貴は、その場にいない。そういう意味で、知らない。そして、ほかの人には、きちがいヘビメタ騒音でどうしても、どうしても、宿題ができないということがわからない。「鳴ってたって、できるだろ」と思っていることろがある。そこに、距離がある。

 

2023年5月12日金曜日

みんな、必然的に、誤解する。

  みんな、ほんとうに、俺とおなじぶんだけヘビメタ騒音を経験して……あびせられて……そして、そのうえで、通勤しているから、「ヘビメタ騒音をあび続けても、通勤はできる」と言っているわけじゃないんだぞ。自分は、ヘビメタ騒音を経験してない。自分は、ヘビメタ騒音を毎日ずっと聞かされたことがない。そういう状態で、「通勤はできる」と言っているだけなんだぞ。ちがうじゃないか。俺とおなじぶんだけ、ヘビメタ騒音生活をして、そのうえで、自分が通勤できるから、「通勤は可能だ」と言っているわけではないんだぞ。これ、勘違いしているだろ。勘違いしている。経験がちがう。からだがちがう。からだのちがいというのは、何千日もヘビメタ騒音生活をつづけたからだと、そうではないからだがちがうということだ。ちがう。ちがうので、ちがう。

おまえらの兄貴は、気ちがい兄貴か? どうして、「自分なら静かにさせることができる」というのだ? おまえらの兄貴は、きちがい兄貴じゃないじゃないか。感覚器を「書き換えてしまうような」きちがい兄貴ではないじゃないか。警察を含めて「家族の問題は家族で解決してください」というのがある。家族だということがどういうことなのかわかるのか? きちがい親父もおなじなんだぞ。きちがい親父が、感覚器を書き換えてしまうようなきちがい親父で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を、うらで、支援している状態なんだぞ。支援している。黙認している。まるで、文句を言っているほうが悪いという態度で無視しやがる。絶対の意地で、普段は、注意しないんだよ。きちがい兄貴がこわいから、注意できない状態になったんだよ。どうして、きちがい兄貴がこわいのかというと、きちがい兄貴が小さいとき、自分がいじめていたということを、無意識の無意識の無意識のレベルでは知っているからだ。そして、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度が、きちがい親父のすべてのことに対する態度なのである。無意識の無意識の無意識で知っていた……自分が子供を虐待していたことを知っていたとしても……それは、意識にあがるようなことではないのである。無意識の無意識の無意識のレベルで知っていたということのほかに、意識的なレベル?……他人から見れば……意識的なレベルでの……脳みその活動というのがある。ともかく、自浄能力なんてないんだよ。きちがい親父がやってきたことだ。きちがい兄貴がやっていることは……きちがい兄貴が騒音でやっていることは……きちがい親父がこの家で、むかしから、ずっと、きちがい的な意地でやってきたことだ。そして、きちがい的な意地で「やってきた」ということを無視している。この脳の構造が、いっしょに住んでいる人以外にはわからないのである。だから、いっしょに住んでない人は、かならず、まちがうのである。まちがう。きちがい親父ではなくて、きちがいではない親父を想像してしまう。きちがい兄貴ではなくて、きちがい兄貴ではない兄貴を想像してしまう。俺が、きちがい兄貴がやっていることや、きちがい親父がやっていることについて言及すると、そうなってしまう。俺は、必然的に、誤解されるのである。これが、どういうことなのかわかるか?

2023年5月11日木曜日

ヘビメタ騒音なしで

 ヘビメタ騒音なしで普通に受験したかった。ヘビメタ騒音なしで普通に恋愛したかった。あーー。ヘビメタ騒音でくるしすぎる。そして、ぼくは、誤解される。ごく自然に誤解される。意欲……。ヘビメタ騒音で粉砕だ。きちがいヘビメタがもたらす、影響の量が、みんなわかってない。あんなの、親父がつくった「きちがい家」だから、成り立っていたことだ。普通の家だったら、絶対にあんな音では鳴らせない。しかし、知らない人は、みんな、俺が音に対して神経質なのではないかということを疑う。よその人が、文句を言わないのはおかしいのではないかと疑う。家の人が文句を言わないのはおかしいのではないかと疑う。よその家のなかで、どういうふうにきちがいヘビメタ騒音が聞こえるのかは、知らない。けど、スピーカーから、近いこの部屋では、ものすごい音で鳴っていた。これが事実だ。みんな、ほんとうにわかってない。一日分でも、経験すればどれだけひどいことか、わかるのに……。数千日分、経験すれば、どれだけ影響が出るかわかるのに。「そんなんじゃないから、こまっている」とぼくがどれだけ言いたかったか。「そんなんじゃないから、こまっている」とぼくがどれだけ言っても、本質的なことはわからないんだよな……。実際に経験しないとわからない。自分の人生のなかで十数年にわたって毎日、自分の嫌いな音が、爆音で鳴っているということを経験しないとわからない。十数年後に、ヘビメタ騒音が鳴りやんでも、影響があるに決まっているだろ。影響が残るに決まっているだろ。そんなことも、わからないのか? わからないんだろうな。経験がないと、そういうことを、頑固に、がぜん無視して、説教をし出す。自分がもっている労働観について語りだす。あほだ。こんなあほなやつに、説教をされる身にもなってみろ。

もう、いろいろ、めんどうになってきた。もう、興味がなくなっている。いろいろなことに対する興味がなくなっている。

みんな、ぼくがどれだけくるしんだか、わかってない。「そんなことで解決するなら、とっくに解決している」「そんなことで、どうにかなるなら、とっくにどうにかなっている」……どれだけぼくが叫んだって、バカにされるだけだ。きちがいヘビメタ騒音の効果だ。これ、全部の能力をさげるのである。

きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の感覚で、きちがい兄貴が鳴らしたい音のでかさで、ヘビメタを鳴らされると、被害甚大だ。しかも、被害について語ると、ぼくが、暗い人だということになってしまう。けど、ぎりぎりで生きて、これだ。ヘビメタ騒音のなかで、ぎりぎりの努力をしてこれだ。こんなの、ない。だれだって、ほんとうは、できないのに……人生のなかで、きちがい家族によるきちがい騒音ということが発生しなかったやつは、経験がないから、わからない。わからないから、がん無視する。影響をガン無視して、好き勝手なことを語りやがる。その、好き勝手なことというのは、ヘビメタ騒音がなかった場合の話なのだ。ヘビメタ騒音がそいつの人生のなかで発生しなかったから、言えることなのだ。こういうのが、ぜんぜんわかってない。くそボンボンばかりだ。きちがい家のなんたるかがわからってないな。きちがい家族のなんたるかがわかってないな。どれだけのマイナスか、わかってないな。そんなことが成り立たないからこまっているんだろ。くそボンボン。くそボンボン。正常な親に育てられたやつは、くそボンボン。きちがい家族にやられなかったやつは、くそボンボン。自分がどれだけ優位な立場に立っているかわかってない。こっちがどれだけ、被害を被ったかわかってない。わかってないところで、きれいごとを言いやがる。……そんなことじゃないから、こまっているんだろ。……そんなことが成り立たないからこまっているんだ。ぜんぜんわかってないな。くそボンボン。くそボンボン。

2023年5月8日月曜日

ヘビメタ騒音の「できなさ」というのが、ひどいんだよ

 ヘビメタ騒音のできなさや、ヘビメタ騒音期間中のできなさと言ったらない。ほかの人は、経験的にわかってないから、ぜんぜんわかってない。ぜーーんぜん、わかってない。もともと、経験がない人に、どういうふうに言ったって、おなじだ。つたわらない。おおざっぱに言っても、細かく説明しても、おなじだ。

ヘビメタ騒音の「できなさ」というのが、ひどいんだよ。みんな、ぜんぜん、わかってないけど……。ぜんぜんわかってないから、ヘビメタ騒音が鳴ってないときのぼくと、ヘビメタ騒音が鳴りはじめてからのぼくのちがいがわからないかもしれないけど、ヘビメタ騒音でぜんぜんちがう。もう、ぜーーんぜん、ちがう。つもりにつもった。〇にたい。〇にたいと、だれだって思う。あんな生活、ない。だれに言ってもわからないだろうけど、ものすごい、生活なんだよ。

けっきょく、ああいう生活が、十数年間続いて、そのあとは、ずっと、おなじような生活になってしまった。 

ヘビメタ騒音はものすごいハンディ、で、ほんとうにできなくなる。けど、昨日も書いたけど、ヘビメタ騒音がなかった人たちが、きれいごとを言う。「できる」と言う。けど、ヘビメタ騒音の積み重ねで、「できなくなった」。これが、ほんとうの話だ。

ヘビメタ騒音のハンディがなかった人たちが、俺に対してきれいごとを言う。手短に言って、そんなきれいごとが成り立つ世界だったら、俺はヘビメタ騒音をあびてない。一日目の一〇分目に、やめてくれと、言いに行って、それで「かた」がついた。そのあと、鳴らない生活に移行したはずだ。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなければ、そもそも、その一〇分ですら、鳴ってない。きちがいだから、「このくらいいいだろう」と思って気にせずに鳴らしたんぞだ。きちがいだから……。気ちがいでなければ、絶対にあんな音で鳴らさない。きちがい兄貴だって、ほかのうちでは鳴らしてないじゃないか。ほかの場所では鳴らしてないじゃないか。うちだから、鳴らせた。それに相違ないのである。けど、その重要性が、これまた、ほかの人には、まったくわからないんだよな。けっきょく、ほかの人は、きちがい家族による騒音というものを経験してないから、ヘビメタ騒音の影響について過小評価する。そんなことじゃないんだよ。

耳栓をしてもだめなんだよ。あの音で鳴らされてたら、自分の部屋で、耳栓をしていても、だめだ。神経が破壊される。身にまとわりつく、あの、いやな感じと言ったらない。空気の振動、ひどすぎる。

おかあさんの部屋では、ヘビメタ騒音が鳴っているとき、眠れたけど、俺の部屋では眠れなかった。きちがい兄貴のスピーカーが近すぎる。

そんなことができたら、こまってないんだよ!!

 ほんとうに、みんな、ヘビメタ騒音のことことがわかってないな!! そんな、小さなことであるはずがないだろ。そんな、小さな影響しか与えないものであるはずがないだろ。すべてだよ。ぼくの生活のすべてだよ。ぼくの人生のほとんどすべてだよ。どれだけ、大きな影響をあたえるか、みんな、みんな、わかってない。わかってない。過小評価して好き勝手なことを言いやがって。そんなことができたら、こまってないんだよ!!

2023年5月6日土曜日

きちがい親父がかかわってきたときの、不愉快さが並じゃないのである

 きちがい親父がかかわってきたときの、不愉快さが並じゃないのである。不愉快さが並じゃない。こんなの、きちがい的な父親にたたられなければわからない。常に、頭がおかしいことを言いやがって。常に、こっちがこまるようなことをしやがって。常に、まちがいやがって。

「かかわるな!!」「かかわるな!!」と絶叫しても、かかわってくる。きちがい死神。きちがい疫病神。こいつがいると、どれだけ、問題が起こらないはずのことでも、問題が起こる。凸凹な道で転ぶのわかるけど、平たんな道で転ぶのは、わからない。たとえば、そういうちがいがあるとす。きちがい親父がかかわると、平たんな道でも、転びまくることになるのだ。トラブルの連続。きちがい的な発想。きちがい的な意地。きちがい的な言い方。

 これ、きちがい的な家族がいる家の人じゃないとわからないと思うけど、ぜんぜんちがうのである。普通にしていてくれればいいのに……。きちがい的な意地で、かかわってくる。で、きちがい兄貴とおなじなんだけど、「悪気」がないんだよね。この、気持ち悪さが、わからないだろう。わかないだろ。普通の家に生まれ育った人は、この気持ちわるさがわからないだろ。わかるわけがない。

きちがい的な人間が、悪気もないのに、かかってくるという、理不尽さが、キミたちにはわからない。影響? あるよ。あるに決まっているだろ。憤慨だよ。きちがいがかかわったら、こっちが、損傷する。気持ちが無茶苦茶になる。きちがいは、きちがい的な理由で怒っているとき、きちがい的な理由で怒ってるとは思ってないんだぞ。

「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」「かかわるな!!」と、絶叫しまくっても、かかわってくる。ぜんぜん、こっちの気持ちがわからない。頭がおかしいレベルでわからない。子供が、「かかわるな!!」と二〇回も、三〇回も絶叫していたら「かかわってほしくないんだな」というのが、普通はわかるだろう。けど、わからないのだ。じゃあ、どうして、「かかわるな!!」と絶叫しているかというと、それは、いままでの積み重ねがあるからだ。これも、兄貴のきちがいヘビメタ騒音とおなじで、やっているほうは、なにもやってないつりなのである。どれだけ、こういう態度で、こころが破壊されるかわからないだろ。

診察室という上限関係がはっきりしたところで、上の人が、下の人の言っていることの影響をうけなくてもいいということではないんだぞ。けど、アドラーは、そういうふうに考えているんだよ。 一回だけパーティーであった人が気ちがいだった。けど、気にしない。おなじところに帰るのかよ。普段、いっしょに暮らしているのかよ? 社会的に、生物的親であるという立場なら、まわりの人も、社会的に親であると思ってしまう。それなら、他者の思い込みが正しいというとになる。そして、親子ならこうだという、一般的認識が生まれる。けど、一般的な認識とはちがう親なのである。これがわからないんだよな。まあ、いずれにせよ、一回だけパーティーであった人と、親とは、ちがうんだよ。どうして、そういう関係を無視して、「どれだけがみがみ(相手が言ってきても)影響を受けないということは可能だ」ということを言うのか?

これ、アドラーの思い込みのほうが問題なんだぞ。関係と書いたけど、そういう条件のちがいを無視して、『影響をうけないということは可能だ』と言うことは、本来は、おかしい。まちがったことを言ってる。「Xをすれば、Yになる」というようなことを言う人も、『条件』というものを無視してい。けど、『条件』がめちゃくちゃに重要な影響をあたえるのである。

これ、しくみもちがうし、言っていることもちがうのだけど、ある意味、条件の無視というのは、きちがい親父のきちがい発言やきちがい親父のきちがい発想と、似ている部分がある。言ってみれば、相似だ。一〇〇〇〇〇倍ぐらいちがうけど、似ている部分がある。

条件の無視と頑固さという点だけでしか似てないけど、条件の無視と頑固さという点だけは、アドラーときちがい親父は似ている。これ、普通の人なら別にどうでもいいことだけど、きちがい家族にやられた人にとっては、無性に腹がたつことなのである。まるでわかってないなぁ。

 

それにしても、俺はどうすればいいんだ?

 それにしても、俺はどうすればいいんだ?

だからぁ……ヘビメタ騒音で、できないことが増えると、他人とぼくのあいだに問題がしょうじるんだよ。それは、ある時刻に「そこにいけない」というようなことも含まれている。

2023年5月5日金曜日

感情の爆発

 「つまらなくなる」ように追いつめられている。人生のなかで発生した「できごと」と関係なく、いまの感情が「ある」わけではない。いまの感情が成り立っているわけではない。いまの感情が、できあがっているわけではない。ちゃんと、いまの感情の「こんきょ」がある。人生の経験とは関係ない感情なんてあるわけがないだろ。実際の経験がものをいう。実際の経験とは関係がない感情? 実際の経験とは関係なく「明るい感情」をもてる? 実際の経験とは関係なく楽しくなれる? 頑固にきちがい親父が否定したときの、感情が残っている。頭がおかしい顔をしていたのを覚えている。感情が残っているのは、俺。頭がおかしい顔をしていたのは、親父。たとえばの話だけど、「ネズミ対策工事をしよう」とこっちが言って、きちがい親父が否定したときの顔と、「くさいから、魚の切り身をかたづけてくれ」とこっちが言って、きちがい親父が否定したときの顔が、おなじなのである。これも、たとえばの話だけど、俺が「しずかにしてくれ」と言ったときの、きちがい兄貴の顔つきと、俺が「くさいからかたづけてくれ」と言ったときのきちがい兄貴の顔つきがおなじなのである。おなじ。おなじ。おなじ。あいつらのああいうときの頑固な顔つきと言ったら、ない。ほんとうに、こっちの側に、感情の爆発がある。ほんとうは、その場面で、なぐり殺してやりたかった。なぐり殺したいのをがまんしているんだぞ。そういう感情と、感情のがまんが……人間らしい気持ちをうばうのである。「楽しい」と感じるこころをうばうのである。「こんきょ」というのがあるんだよ。きちがい家族と一緒に暮らしていて、さまざまなトラブルがあるのに「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなるか? ぜんぜんちがうじゃないか。「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなると言っているやつと、俺の環境がちがうじゃないか。「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなると言っているやつが、人生で経験したことと、俺が人生で経験したことはちがうじゃないか。

「楽しい」「楽しい」と言えば楽しくなるということが、事実だとしよう。法則性が成り立っていることだとしよう。その場合、たとえばの話だけど……「楽しい楽しい」と言わないからいけないんだ……というような「せめ」がしょうじるのである。「じこせきにんじこせきにん」「じぶんのかんじょうにせきんにをもて」……。「楽しくなれるのに、楽しくなろうとしないからダメなんだ」とダメ出しをしてくる。つまらないね!! つまらないね!!

こういうやつらは、自分がしていることがわかっているのか?

きちがい家族にやられると、きちがい家族にやられたことがないやつから、へんなことを言われるのだ。しかも、そいつらは、そのへんなことが、絶対の真実だと思っている。こんな、生きにくい世の中、あるか?

「どれだけヘビメタにやられたって、通勤できる」というのも、おなじだ。どうして、俺とおなじぶんだけ、きちがいヘビメタにさらされたことがないやつが、そういう「わかったようなこと」を言うのか? こんなの、侮辱。こいつらだって、俺とおなじ騒音生活を十数年にわたってすれば、おなじような状態になり、通勤できなくなるのに、それがわかってない。一〇〇%、そうなるね。わかってないだけのやつが、えらそうなことを言う。むかつくね!! むかつくね!!


 

ヘビメタ騒音で、きまっちゃう

 ヘビメタ騒音で、きまっちゃう。こんなの、ない。どうやったって、だめなんだよ。このダメさは、きちがいヘビメタ騒音生活を何年間も続けてやった人じゃないとわからないと思う。すべてが、うまくいかない。きちがいヘビメタが鳴っているというハンディがあると、すべてが、うまくいかない。ヘビメタ騒音で、人生、きまちゃっう。くつがえすことができない。死にものぐるいの努力でくつがえそうとしても、鳴っているのだから、負担が増える。マイナスが増える。マイナスが増えていく中での、緊張生活を強いられる。きちがいヘビメタが鳴っている。どれだけ「鳴らすな」と言っても、ヘビメタ騒音が鳴っている。どれだけ、はりつめた生活になるか、実際に、ヘビメタ騒音生活をおくった人じゃないとわからない。

ヘビメタ騒音で、きまっちゃうんだよ。だれにもわからないけど……。ぼく以外、だれにも、わからないけど……。そりゃ、そうだよな。ほかの人にとっては、架空の話なのだから……。実際の一日がどういう一日かわからない。実際の一年間がどういう一年間になるかわからない。三六五日中、三六五日、毎日、ヘビメタ騒音が連続して鳴っているということが、どういうことなのかわからない。つもるんだよ。空想の世界で「そういうことがあったんだな」と理解しているのとはちがう世界なんだよ。

2023年5月4日木曜日

夢がかなったのは、ほかの方法のおかげなのである……儀式の問題

たとえばの話だけど、「夢ノートに、自分の夢を書くと、夢がかなう」と言うことを言っている人がいたとする。たいへん、夢がある話だ。しかし、これが、問題なのである。儀式的な方法で、アップできるのは、自分の気持ちだけだ。だから、メインの理由にはならない。メインの理由はほかにある。

たとえば、なんかの資格試験をうけるとする。その資格試験に合格することが「夢」だとする。

その場合、夢ノート方法にたよるのであれば、「試験に合格する」と何回も書けばいいということになる。しかし、資格試験の勉強をしたほうがよいのではないかと思うのである。その儀式的な方法にかける時間を、資格試験の勉強につかったほうがいいのではないかと思うのである。

たとえばの話だけど、事前に知っている知識というのは、ひとによってちがう。勉強してなくても、そのことについて、知っている人はいる。ほかの機会に、その知識をえた人は、別に、その勉強をしなくても、そのことについて知っている。だから、本当は、「事前の知識」の格差というのがある。

その影響を無視するために、ある資格試験オメガを考えるとする。その資格試験の知識は、オメガの参考書つくった人とオメガの試験問題をつくった人以外の、すべての人にとって未知の知識だとする。

ようするに、ある人Aと、ある人Bのあいだに、事前の知識格差がないようにするのである。そして、オメガの参考書をつくり、オメガの参考書のなかからだけ、オメガの資格試験問題をつくるようにするのである。

いまかりに、オメガの参考書を読んだ人と、オメガの参考書を読まずに「オメガ試験合格」とか「オメガの資格試験に絶対に合格する」と夢ノートに書いた人がいたとする。オメガの参考書を読む方法を選んだ人をCさんだとする。オメガの参考書を読まずに、夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と書く方法を選んだ人をDさんだとする。

試験に受かる可能性があるのは、Cさんだ。Dさんはかならず、落ちる。どうしてかというと、すべての人にとって未知のことが書いてある参考書を読まなければ、その問題を解くことがまったくできないからである。

これは、どういうことを意味していると言うと、「夢ノートに、自分の夢を書くと、夢がかなう」ということは、まちがっているということを意味しているのである。夢を書くことと、夢がかなうことにのあいだには、まったく関連性がないのである。

けど、じゃあ、夢を書いて、夢がかなった人(夢をかなえた人)はどうなの? と思う人がいるかもしれない。

これに関して書いておくと、夢を書いて夢がかなった人というのは、夢を書いたから、夢がかなったのではなくて、夢を書いたということのほかにやったことがあるからだ。

たとえば、Eさんは、「オメガの資格試験に絶対に合格する」と一回だけ書いたあと、ほかの時間を「オメガの参考書を読むこと」につかったとする。そして、Eさんは、オメガの資格試験に合格したとする。

その場合、Eさんは、「オメガの参考書を読んだから」資格試験に合格したということができる。「オメガの資格試験に絶対に合格する」と夢ノートに書いたからではないのである。どうして、そういうふうに言いきれるかと言うと、Dさんが資格試験に落ちているからだ。

まあ、これ、架空の話だけどね。

ようするに、(1)参考書だけを読む方法、(2)夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と書くだけの方法、(3)参考書を読み、夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と書く方法の、三通りの方法があるのである。

で、普通の話のなかでは、事前に知っている場合というのを、消去しておくことができないのである。そして、普通の話のなかでは(1)の方法と(3)の方法を明確に区別してないのである。

なので、夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と書くと、オメガの資格試験に合格できるというような話が、事実であるように流通してしまうのである。実際に夢ノートに書く方法で、夢がかなったという人は、かならず、ほかのことをしている。夢をノートに書くだけではなくて、ほかの方法をやっている。

夢がかなったのは、ほかの方法のおかげなのである。

けど、「夢ノートに夢を書いたから、夢がかなった」と思うことは可能なのである。どうしてかと言うと、実際には、(1)の方法と(3)の方法を明確に区別することができないからだ。

ほんとうは、ほかの方法、だけで、夢がかなったのだけど、本人が、夢ノートに夢を書いたから、夢がかなったと思っている場合、本人にとっては、「夢ノート方法は有効な方法である」と思えるのである。

しかし、夢ノートに「夢がかなう」と書くことは、夢がかなうかどうかに、影響をあたえていない。

ほんとうは、そのほかの方法が影響をあたえている。オメガ資格試験に受かったのは、夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と書いたからではなくて、オメガの参考書を読んだからだ。それ以外にないのである。

*     *     *

試験の方法が選択式で合格点が一〇〇点中、二〇点だと、まあ、勉強をしなかったのに、合格してしまう人も出てくるとは思う。けど、記述式の問題で、正解は四文字以上の漢字を含む文字列(文)であって、合格点は一〇〇点中、八〇点である場合は、「まぐれ」で受かる確率は天文学的に低い確率になるので、「まぐれ」で受かる確率は考えなくていいことになる。問題は選択式の場合も、記述式の場合も一〇〇問で、一問につき一点だとする。

*     *     *

肝心なのは、 夢ノートに「オメガの資格試験に絶対に合格する」と夢ノートに、一〇〇〇〇回書いたとしても、その努力は、まったく合格するかどうかに影響をあたえない点だ。

2023年5月3日水曜日

けど、必然性がまったく見えないわけ

 ほかの人たちは、実際に体験したわけではないから、きちがいヘビメタをあの頻度で、あのでかさで、あの時間の長さ、あの期間の長さ、鳴らされると、どうしても……どーーしても、どーしても……通学通勤ができないからだになるというとが、わからない。これ、必然なのである。けど、必然性がまったく見えないわけ。彼らのまえにあらわれているのは、無職である「ぼく」であるわけ。そうなると、ヘビメタ騒音のことを無視して、無職であるということに注目して、バカにした態度をとることになるんだよ。

きちがいヘビメタがどれだけつらいか、ほんとうにわかってないな。ところが、ヘビメタ騒音がそいつ人生のなかで生じなかったのに、そして、通勤・通学しているのに……俺だってつらい目にあったということを言ってくる。そいつは、通勤・通学できているわけだから、そいつのつらさをもたらした原因は、気ちがいヘビメタよりも、程度が低い、規模が小さい原因なんだよ。絶対に、俺とおなじことをやられたら、通勤通学できなくなる。だれだってそうなんだよ。ヘビメタじゃなくて、そいつがきらいな音という条件にかわるけどな。 

*     *     *

ほんとうに、ヘビメタ騒音で通勤・通学できなくなると、そうではないひとが、まったく想像ができないことが発生する。どれだけ、いやな思いをするか、ほかのやつらはまったくわかってない。無職だということを、事前に言っておいても、無職だということを事前に言わなかったとしても、どっちの場合も、不愉快な思いをすることになる。これ、わからないだろうな。「ヘビメタ騒音」なんだよ。きちがい兄貴ほど、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを長期間鳴らした人はいない。この世にいない。日本だけではなくて、地球上に、きちがい兄貴ほど、こだわりつくして、自宅で、きちがい的な音でヘビメタを鳴らした人間はいない。条件がそろっているんだよ。おとうとさえ無視すれば、鳴らせる条件がそろっているんだよ!!

*     *     *

ともかく、誤解をうける。あとは、「ヘビメタ騒音がなんだぁ!」と言ったやつが数人いるんだけど、いまでも、ぶち○○に行きたくなる。きちがいヘビメタにたえた日々の、きちがい兄貴に対する恨みが、そいつに対して炸裂しそうになる。きちがい兄貴が無視して鳴らした日々、俺がどういう気持で生きてきたか。きちがい兄貴が鳴らしている時間の、きちがいヘビメタでくるしい気持ち……怒り……。そういったものが、その発言の主(ぬし)のうえにふりそそぐことになる。がまんしてんだぞ。こっちががまんしてるんだぞ。きちがい兄貴に対する気持や、きちがい兄貴が鳴らしたヘビメタ騒音そのものに対する怒りが、そいつに対して、爆発しそうになる。俺が我慢したんだよ。「ヘビメタ騒音がなんだぁ!」という発言は起爆装置なんだよ。爆発ボタンなんだよ。ゆるせない。「ヘビメタ騒音がなんだぁ!」と言ったやつら……おまえらが、どうして腹をたてているのか? 俺が腹をたてているんだよ。

*     *     *

いま、午後九時三八分。毎日、この時間は、きちがいヘビメタがものすごい音で鳴っていた。鳴っていた。鳴っていた。どれだけ、「やめてくれ」と言っても、一秒もやめてくれなかった。その時間がどういう時間か、きみたちにわかるか? 「ヘビメタ騒音がなんだぁ!」という発言をしたやつらに、わかるか? 

経験してないから、これっぽっちもわからない。言っておくけど、こいつらの騒音経験とはまるでちがうからね。そんなんじゃないからこまっている。こいつらの騒音経験は幼稚園の騒音以下。俺が相手にしなかった騒音以下。こいつら、たまたま、きちがい家族にやられてないだけなのに、えらそうに。こっちが怒っているんだよ。それこそ、きみたちがおこる必要はない。おまえらが、俺に失礼なことをした。俺はきみたちに失礼なことをしてない。きみたちが、勝手に、誤解しただけだろ。

兄貴の態度があまりにもへんなので

 きちがい兄貴の態度があまりにもへんなので、きちがい兄貴がやってきたことに関して、正直に話してしまうと、ぼくがへんな人になってしまうのである。

これは、親父に関してもおなじだ。 きちがい親父の態度があまりにもへんなので、きちがい親父がやってきたことに関して、正直に話してしまうと、ぼくがへんな人になってしまうのである。

あの部屋

 あの部屋……というのは、きちがい兄貴の部屋だ。「もと」きちがい兄貴の部屋だ。あの部屋に置いてあるものは、精査せずに……全部、おきっぱなしにして、家を売ろうかな。現状で売るというのがあるのかな? 夜逃げをするようにして、引っ越してしまおうか。精査と書いたけど、ようするに、もっていくとものと捨てるものをわけるということだ。ダニがついているものをもっていくとなると、新しいところにダニを導入してしまうことになるから、問題がある。それをさけるために、もっていくものをビニール袋に入れて、そのビニール袋をさらにビニール袋に入れて、それを、冷凍庫に一か月入れておくということを考えている。けど、どのみち、バルサンをやったところにあったものを、ぼくがいじる気になるかというと、いじる気にはならない。安心できない。だいたい、ネズミの糞が本やCDの上にあったとして、それをどけて、上記の処理をしたとしても、いじる気になるか? ここで、捨ててしまうと、手に入らなくなるものというのは、主に、本だ。ヤフー・オークションやアマゾン・マーケット・プレイスなどで、手に入るとは限らない。むかしのものなら、すべてあるというわけではないのだ。中古市場に出てないものもある。

もう、あの部屋に、ネズミがはいった時点で、俺のものは、おしまいだったのか? そうなんだろうな。これ、一階と二階のあいだにある、引き戸のドア……階段のまえにあるドアを……めちゃくちゃに気をつかって、開け閉めしていたのだけど……重たいドアなんだけど、がんばって、開け閉めしていたのだけど……どうしても、いろいろあって……閉め忘れるときがあるんだよな。あれ、「閉めればいい」と考えたときは、軽くできることのように思ったのだけど、じつは、できない。 食べ物を持ち運ぶときは、どうしても、一時的にあいた状態になる。だいたい、食べ物を、一時的にその付近において、すぐに閉めるということができない。そりゃ、そうだろ。スリッパをはいているけど、ネズミエリアを歩いているわけだから、いろいろとよごれている。基本、たとえ、見かけ上、そのエリアにネズミの糞がないとしてもネズミが通ったかもしれないところを、スリッパをはいて歩いている。ドアのこっち側だって、置くとなると、問題がある。たとえ一時的にでも、床や階段のうえにはおけない。昼間、人がいるのに、ネズミがはい出すということはなかった。けど、ひそんではいるんだよな。だから、昼間なら、一時的にドアを切っりと閉めなくてもだいじょうぶかなと思ったりもした。ともかく、一度、一階から二階に食べ物を運んだあと、ドアをきっちり閉めるために、一階におりていくというのが、めんどうくさくて、できなかった。ドアの付近には、食べ物は置けない。それだけではなくて、ほんとうにいろいろと、きっちりと重たいドアをしめるということができないときがあるんだよ。二年間ぐらいは防衛していたんだけど、うまく防衛できないときがあって、そのときに、入られた。一階は、ネズミの侵入をうけていたけど、二階は、ネズミの侵入をふせいでいたときがある。あれはあれで、ほかのこともあるわけだから……ほかのいやなこともあるわけだから、そのことに気をとられて、対応できないときもある。「まあ、昼間だからだいじょうぶか」と思ったりしたので、スキができた。けど、あそこのドアを、通るたびに、完全に閉めるということが、あんなにむずかしいとは思わなかった。考えただけなら、ずっとできそうなことなんだよね。けど、できなかった。やってみないとわからないこともある。考えるのと、実際にやるのはちがう。いろいろな状態があるからね。こっちの精神状態だっていろいろだ。基本、ネズミが出てくるような家に住んでいるわけだし、基本、それをまったく気にしないきちがい的な親と一緒に住んでいるわけだから……そりゃ、いろいろとある。その都度、ドアを閉めるというのは、思ったより、ずっとむずかしいことだった。

きちがい親父は、ネズミの糞のことを一切合切気にしない。これだって、普通の人間としては、おかしいことなんだぞ。きちがい兄貴は、きちがい兄貴の騒音を気にしなかった。これだって、人間としては、おかしいことなんだぞ。普通は、だれに言われなくても、気になる。気にする。ところが、頭のねじがぶっ飛んでいるので、気にしないのだ。頭の回路が普通の人とちがうので、スイッチが入ってしまうと、どれだけ言っても、気にしない。

「バレバレなのに否定している」

 普通、あのでかさで鳴らしたら、だれが言わなくても、「でかい音で鳴らしている」ということは、認めなければならないことになる。ところが、きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじ、脳みその構造をもっている人間なので、そういうところが、普通の人間とはちがう。「でかい音で鳴らしている」と言うことを知っているけど、認めると、しずかにしなければならなくなるから、芝居で、「でかい音で鳴らしてない」と思っているわけではないのだ。芝居じゃない。だから、そういうところが、非常に、くさい。インチキだ。インチキくさいじゃなくて、インチキそのものだ。おやじも兄貴も、嘘をつくわけだけど、それが、嘘だと思ってないのだ。これが、あたまにくる。こういう態度で、毎日、暮らしているわけだから、やられたほうは、あたまにくる。けど、やっているほうは、ごく自然に、「生き物として」やっているという感じでやっているわけだ。だから、悪いとは思ってない。たとえば、ものを盗んだとすると。みんなが見ている前でものを盗んだとする。本人が否定したとしよう。ほんとうに、バレバレなのに否定しているということになる。この「バレバレなのに否定している」という状態なんだよね。本人以外はみんな知っている。本人だけ、知らない。つもりがない。やってないと思っている。これがどれだけ、ほかの人に影響をあたえるかわかるか? 家族に影響をあたえるかわかるか? これ「うち」だと、ごく自然にそういう生き物になって、ごく自然にそうするんだよ。うちの人に囲まれているときは……ごく自然にそうする。そういう認知して住むしかないというような感じでそうする。息をするようにそうする。バレバレなのに、否定しているときの態度が、ひどいのである。本人が、逆上している。バレバレなのに、逆上して、嘘を言うのだ。これが、どれだけこまるかわかるか? 家族として一緒に生活しているとする。その場合、この態度が決定的な問題なることがある。それは、きちがい兄貴側が……そういう脳みそをもっている人が……なんらかの迷惑行為に夢中になった場合だ。まるでやっているつもりがないし、バレバレの嘘をついているのに、バレバレの嘘をついているつもりがないという状態になる。これが、どれだけ、ほかの家族を傷つけるかわかるか? こういう、きちがい的な脳みそをもった人が家族の一員であって、小さいときから、その家族の一員と、いっしょに住んだことがない人には、まったわからないと思う。わからないと、「相談すればいい」「話し合えばいい」と言うことを言う。けど、それがまた、負担になるのだ。


2023年5月2日火曜日

兄貴は、インチキ行為をしているのに、自分がインチキ行為をしているということを知らない

  何万回、ぶつかったって、「なにもやってないつもりでいる」。

こういう態度が、どれだけ人をいらだたせるか、わかるか?

知ってはいるけど、お芝居で、すっとぼけているのではないのである。知らないのである。何万回ぶつかっても、何万回、「そのこと」でもめても、知らないままなのである。こんなのない。気ちがいしか、そういうことは、できない。

ほかの家には、そういうきちがいがいなので、ほかの人は、そういうタイプのきちがいに関する理解がない。

だから、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」のことを想像してしまう。俺がきちがい兄貴ついて話しているとき、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」のことを想像してしまう。

けど、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」は正常な人で、「知らないし、すっとぼけてもない人」は異常な人なのである。ほんとうは知っているけど、わざと無視してやっているわけではないのだ。このちがいはでかい。

何万回、ぶつかったって、「なにもやってないつもりでいる」。何万回、もめても、何万回、「なにもやってないつもりでいる」。本人の主観としては、本当になにもやってないということになっている。けど、もちろんやっているし……もめたときは、その都度、怒っている。怒っているって、きちがい兄貴が怒っているということだからね。もちろんこっちも怒っているけど……。

きちがい兄貴だって、騒音でこまる場合があるのだから、騒音でこまるということはわかる。自分だって、自分が鳴らしている音ではなくて、他人が鳴らしている音なら、ヘビメタ騒音の半分ぐらいの音だって「うるさい」と言って怒るわけだし、うるさいから、自分がやっていることに集中できないという経験があるので、うるさいと、自分がやっていることに集中できないということは、わかっているはずなのだ。

うるさくて、勉強しに集中できず、あたまにくる……うるさいから、あたまにくるという経験は、きちがい兄貴だってある。けど、自分が思いっきりでかい音で鳴らしたいなら、それは、全部、「ない」ことになってしまうのである。そんなことは、この世には「ない」ということになってしまうのである。人間は、そういうふうにできて「ない」ということになってしまうのである。

こういう根本的なところから、否定している。しかも、否定しているつもりがないのだ。これも、意識して、否定してやろうと思って否定しているということではないのだ。

きちがい兄貴は、ヘビメタが好きなきちがい兄貴の友達が「こんな音で鳴らして、だいじょうぶなの」と訊いてくるような音で鳴らしていても、まったく気にしないのだ。気にしないとなったら気にしない。

自分だって、自分が勉強しているときに、他人が、ちょっとでもうるさい音を鳴らせば、腹をたてるくせに、自分が思いっきり遠慮せずに、でかい音でヘビメタを鳴らしたいとなったら……まるで、きちがい親父のように ……そういう普通なら絶対にわかることを……無視してしまう。

「ない」ことになってしまう。

これも、理解してないふりをして、やりきってやろう……と思ってやっているわけではないのだ。普通の人の場合、どれだけ逸脱行為をしている場合でも、自分がやっていることは知っている。

知っているけど、知っているということは、無視してやっているのだ。ようするに、知らないという芝居をして、押し切ろうとする。

ところが、きちがい兄貴の場合は、まったくちがう。ほんとうに、知らない。きちがい的な意地でやっているのに、知らない。やっている最中も、文句を言われたときも、知らない。知らないわけがないんだよ。だから、そういうところで、おかしいわけ。

*     *     *

たとえば、ふつうは、インチキ行為をしている人は、自分がインチキ行為をしているということを知っている。

けど、きちがい兄貴は、インチキ行為をしているのに、自分がインチキ行為をしているということを知らない。そういう、二十年間なり、三十年間なんだよ。実際に鳴らしていのは、十五年間だけど。

*     *     *

たとえば、きちがい親父が、粕漬のついた魚の切り身を、テーブルの上に出しっぱなしにすることにこだわったとき、酒糟のついた魚の切り身で、部屋中が、くさかった。ほんとうに、部屋中に、においが充満して、くさかったの!!

けど、きちがい親父は、無意識的なレベルで、くさいということを認めると、自分が酒糟のついた魚の切り身を、片づけなければならなくなる……テーブルの上からどかさなければならなくなるというとを知っていた。

だから、無意識的なレベルで、臭覚を遮断して、「くさない」と言うのだ。「くさくない」「くさくない」と言って、部屋中がくさくなっているということを認めなければ、テーブルの上から、魚の切り身をどかさなくてもいいということになる。

普通の人は、無意識的なベルで、くさいということを認めないということができない。普通の人は、無意識的なレベルで「臭覚」を遮断することができない。普通の人は、「くさい」ということを知っている状態で「くさくない」と嘘をつく。嘘をついているということを、普通の人は、知っている。

けど、親父は、知らない。自分が嘘をついているということを知らない。きちがい親父の、魚の切り身に対する態度は、そういう態度だ。「におっている」ということを認めてしまうとまずいことになるので認めない。普通の人なら、「におっている」ということを認めてしまうとまずいことになるので認めない……ということを「知っている」。

自分でやっておいて知らないなんてことはない。

ところが、親父は、器用に、無意識的なレベルでこの認知を遮断てしまう。そういうことをしているのに、そういうことをしてないということになる。事実くさくないから、くさくないと言っているということになってしまう。こういう倒錯が成り立っている。

で、きちがい兄貴の場合もおなじなんだよ。きちがい兄貴の場合は、「聴覚」を部分的に遮断してしまう。「うるさい音で鳴らしている」「でかい音で鳴らしている」ということ自体を認めない場合は、聴覚自体を、無意識的なベルで部分的に遮断してしまう。

聴覚の遮断と言っても、きちがいヘビメタは聞こえているわけで、音のでかさに関する遮断だ。「音」を遮断したのではなくて、「音のでかさ」にかかわる感覚を遮断した。一〇〇デシベルぐらいの音を、二八デシベルぐらいの音だと思ってしまう。そういう感覚のマヒ。まあ、「遮断」と言うよりも「書き換え」のほうがぴったりくるかな。聴覚を、無意識的なレベルで、書き換えてしまう。

だから、聴覚障害者ではないのに、一時的に、聴覚障碍者になってしまう。 まあ、もっとも、自分が鳴らしていたヘビメタがあまりにも、でかかったので、ヘビメタ難聴になったのだけど、それは、あとの話だ。ヘビメタを鳴らし始めたときは、別に、ヘビメタ難聴ではなかった。

きちがい兄貴は、ヘビメタを思いっきり、でかい音で鳴らしたかった。ここのところで、譲歩するつもりがまったくないのである。

ようするに、でかい音からでかくない音にかえるつもりが、まったくない。

きちがい兄貴は、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らしたかったので、でかい音で鳴らしているということを認めなかった。ようするに、きちがい親父とおなじように、無意識的なレベルで感覚器を遮断したのだ。

だから、どれだけでかい音で鳴らしていても、きちがい兄貴にとっては、でかい音で鳴らしていることにならないのである。

細かく言えば、意識的なベルのきちがい兄貴にとっては、「それ」は、でかい音ではないのである。

どれだけ、でかい音で鳴らしていても、意識的なレベルの兄貴は、でかい音で鳴らしているということを認めないし、事実、でかい音で鳴らしているという認識がない。

でかい音で鳴らしているという認識もなければ、おとうとに迷惑をかけているという認識もないのだ。これは、どれだけ言われたって、認識がないまま、生き続けるということになる。普通に生活するということになる。

その普通の生活のなかには、でかい音で鳴らしているのにでかい音で鳴らしてないと思って、でかい音で鳴らすという行為が含まれている。

どれだけ、言われたって、それはかえない。

 

「おとうとが自分の騒音でこまっている」ということを認めない

 

 きちがい兄貴がきちがい兄貴でなかったら、おとうとが自分の騒音でこまっているということがわかるんだよ。どれだけ、否定したって、わかったらわかるんだよ。弟が自分の騒音でこまっているということを知っているけど、どうしても鳴らしたいので鳴らす……ということなら、理解だけはできる。

けど、これが、そうではないのだ。

どれだけ言っても、わからないまま鳴らす。きちがい兄貴にとって、「おとうとが自分の騒音でこまっている」ということは、予感のようなものでしかないし、その予感は、すぐに、忘れ去られてしまうのである。

言われたときだけ「予感のようなものとして」感じるけど、それは、内容を理解したということではない。

内容を理解して、はねのけたわけではないのだ。

なんとなく、不愉快なことを言われたということしか、感じない。

「おとうとが自分の騒音でこまっている」ということではなくて「なにか不愉快なことを言われた」ということなのである。きちがい兄貴が理解しているのは……そういうことだ。

だから、きちがい的に発狂して、発狂して発狂して発狂して、はねのけたら、おしまいなんだよ。なにものこらない。あたまに残る内容がなにもない。

だから、「おとうとが自分の騒音でこまっている」というような理解はしょうじない。まったく、しょうじない。「こまっているから、しずかにしてくれ」と言ってきた……ということも頭に残らない。

そのままなのである。「そのまま」なのである。まるで、まったく、注意されなかった状態で、鳴らし続ける。まさしく、毎日、毎分毎秒、それなのである。

だから、本人は、悪気がないままなのである。こっちがどれだけ、高校におちていても、それとは関係なく、絶対に十一時間鳴らせるなら、絶対の意地で、一秒もゆずらずに、自分が満足できる音で鳴らすのである。自分が満足できる音というのは、必然的に、きちがいしか鳴らさないようなでかい音なのである。

きちがいだから、「しずかな音で鳴らしている」「小さな音で鳴らしている」「普通の音で鳴らしている」と思って、絶対に絶対に、でかい音で鳴らしているということ自体を認めないのである。

これも、普通の人なら、でかい音で鳴らしているということ自体は、感覚しているけど、でかい音で鳴らしたいので、でかい音で鳴らしているということを認めないで鳴らすということになるわけだよ。

ところが、きちがい兄貴はきちがいだから、感覚のレベルで、でかい音で鳴らしているということを知らないわけ。こういうきちがい的なしくみが成り立っている。このきちがい的なしくみは兄貴にとってだけ都合がいいしくみだ。

そして、このしくみは、ほかの人には、理解できないしくみなのである。

だから、ほかの人は、エイリさんはでかい音だと言っているけど、ほんとうは、たいしてでかくない音で鳴らしているという可能性について考えてしまう。けど、ちがうのだ。きちがい兄貴がきちがいだから、そうなっている。

この、普通の人が考えると、考えまちがいをしてしまうようなレベルで狂っている人というのは、普通の人にはわからないことをやる人なのである。


 

行動エネルギーが枯渇している

  いちおう、鯛の刺身を食べた。けど、これが養殖なのだ。なんか、へんなものを入れられてないか、気になる。さらに、遺伝子組み換え魚ではないとは言い切れないので、なんかあんまり、うまく感じない。

ともかく、いろいろとあって、行動エネルギーが枯渇している。なので、すべてのことについて、あんまりやる気がない。楽しくない。

夢のなかで、部屋の床をふき掃除したのだけど、それも、あそこらへんを掃除しているいやな記憶が付きまとっているので、いやな気持でやっていたんだよな。

あそこらへんって、ネズミの糞がおちているダニの部屋だよ。おやじの部屋だよ。あそこの、居間だよ。居間だって、きちがい親父が、魚を出しっぱなしにするということをしなければ、あんな状態になってない。掃除をするのは俺なんだぞ。きちがい親父が入院したから。

けど、頑固に魚を出しっぱなしにしているときだって、頑固に工事をしないと言い張っているときだって、きちがい親父は、ネズミの糞は、がん無視だから、けっきょく、掃除なんてしない。

俺も、一階の部屋のことは、無視していたから、時間とともに、ネズミの糞が多くなるのだ。そりゃ、そうだろ。きちがい親父の、ネズミを入れて、ネズミシートでとるというやり方だと、ずっと、そういうことが続くわけだから……ネズミの糞が時間とともに増えていく。

だから、普通の人なら、そういうことがわからなくても、ちゃんと説明すれば、わかるものなのだけど、わからないのだ。くそ気ちがいだからわからない。これ、どれだけわかりやすく説明してもむだなのだ。

このさき、どうするかな?

全部、持ち出さないと掃除できない部分がある。だから、掃除できない部分に関しては、ネズミの糞が残っている。俺の部屋じゃないよ。

けど、基本的なことを言うと、親父のことよりも、兄貴のことで、つかれている。どうにもならないほど、つかれている。ほかのひとにはわからない。きちがい兄貴がいなかったからだ。ほかの人の人生のなかには、きちがい兄貴が登場しない。

この、きちがい兄貴の頑固さと言ったらない。ほんとうに、きちがい兄貴の態度と、きちがい親父の態度がおなじなんだよなぁ。こまるんだよなぁ。まるでわかってないからな。

どれだけ言っても、まるでわからない。

そのまま生活している。

脳みそをつけかえなければ、なおらない。

脳みそが、そのままおなじだから、おなじ感覚で、おなじ行動をする。おなじ態度で、こっちが言ったことをはねのける。おなじ思考回路でまったく気にしない。

どれだけトラブルがしょうじても、どれだけトラブルのたびに『絶叫けんか』をしても、かわらないんだよね。

きちがいだから、『絶叫けんか』をしたあとも、行動がまったくかわらない。悪いと思ってない。あたまがおかしいから、なにもつたわらない。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。