ダイヤだけではなくて、シューマイともわかれているしなぁ。ヘビメタ騒音問題というのは、そのまま、就職問題だから、でかい。「かのじょ」のことだって……。神学のことだって……。ともかく、ヘビメタ騒音はでかい。関係がある。ほかの人は、実際に経験したわけじゃないから、「そこのところ」がすっぽり、ぬけている。ものすごく、関係がある一日というのを経験してない。その一日が一〇年以上続いた場合の人生を経験してない。経験してなきゃわからないよ。どうしたって、「軽い問題」に見える。けど、軽くない。軽いわけがない。重い。
きちがい兄貴は、自分が鳴らした場合の、こっちに対する影響をまったく考えてない。
しらーぷりなんだよな。まったく、ヘビメタ騒音問題に関係がない人なんだよ。本人としては……。けど、絶対の意地で、一秒もゆずらずに、やりきる。やりきっているのだから、関係があるのに、まったくやってないという感じで、関係を認めないんだよな。この特殊な態度は、きちがいおやじとおなじだ。これ、どれだけ俺がほかの人に説明しても、ほかの人はわからないと思う。催眠術にかかったような態度なんだよな。普通だったら絶対に認識することを、まったく認識してない。ほんとうに、きちがいとしか言いようがない。「自分」にとって都合がいい方向で狂っているんだよな。で、この、狂い方が特殊でほかの人にはわからない。そして、ほかの人は、ぼくではないから、ヘビメタ騒音の影響について、無視するのである。だから、鳴っている状態と、他人がそれを認めないという状態の、板挟みになる。これは、ほかの人が考えているよりはるかに、負担がかかることなのである。
* * *
前項で、マサミ君のことを書いたけど、これだって、「気にしないようにする」ことはできる。けど、そうなると、マサミ君が、いやな思いをすることになるのである。たとえば、放送に穴をあけたって、そんなことは気にするべきではない。そういうことを気にして、怒った先生が悪い。そういうことを気にして怒った人の問題だ」と考えることだってできるのである。「その教師が、マサミ君をしかったのは、その教師の行為だから、ぼくには関係がない」と考えることはできる。けど、これだと、同種のトラブルがずっと続くことになる。あのあと、いちおう、機械の操作方法をおぼえたけど、それは、再発防止のために、おぼえたわけだ。けど、これが、心もとない状態なのだ。ヘビメタ騒音が鳴っている生活だから、頭がうまく働かない。寝不足で、くるしい状態がずっと続いた。学校から帰ってきて、こういうことがあっから鳴らすなと言ったって、きちがい兄貴は、きちがい的な意地で、きちがい的な音で鳴らし続ける。「言われたら」怒って、あとはもう、関係がない人としてやり続ける。鳴らし続ける。不都合なことを言われたら、発狂して発狂して発狂して、こだわってこだわってこだわって、きちがい行為を続ける……。これが、うちのやり方だ。きちがい親父ときちがい兄貴は、常にそうしていた。うちでは常識的なやり方なのである。で、やりきったほうは、やったつもりがないままなのである。あれだけこだわってこだわって、不退転の決意でゆずらずにやったのに、やったつもりがまったくない。そういうきちがい頭だ。これ、どうしようもないのである。ほんとうに、自分に都合よく、くるっている。「まったくやってないのとおなじ態度」なんだぞ。「まったくやったつもりがないまま」なんだぞ。「かかわっているということが、まったくわかってないんだぞ。そして、かかわっているということがまったくわかってないまま、自分がやりたいことは、やってしまうのである。アクティングアウト。やってしまっているのだから、普通なら、どれだけ、否定していたって、やってしまったということは、わかっている。ところが、親父と兄貴は、やってしまったということが、まったくわかってない状態のまま、生活しているのである。きちがい的な意地でやったことは、まったくやってないことなのである。相手がどれだ文句を言ったって、相手はまったく文句を言ってこなかったという異世界・幻想世界のなかで、都合よく、生きているのである。言われたら、発狂しておしまい。言われたら、その瞬間に発狂して、すべてをはねのけて、自分がやりたいことを集中してやって、それでおしまいなのである。相手が、それで傷ついたということは、まったく頭にはらないのである。どれだけ言われたって頭の中に入らない。どうしてかというと、「やめろと言ったのに、やった」ということが、次の瞬間には、「不都合なこと」「認めたくないこと」になるので、これも、発狂して認めないのである。「言われたら」「発狂して認めない」。このループになる。日常生活のなかで、ずっとそうなのだから、ずっとそうなのである。そういう頭を搭載して生きているので、そうではない頭を搭載して生きている時間がないのである。だから、いつも、そういう頭を搭載しているのだから、いつも同じように、発狂して否定しておしまいなのである。もちろん、行動はかわらなわけだから、やりきるのである。けど、本人の主観としては「やりきったことになってない」のである。「そんなのは知らない」。「そんなんじゃない」。……そういうことになっていて、矛盾を感じない。そういう頭なのである。そういう頭を搭載して、毎日生きているのである。そうではない日がないのである。そうではない頭を搭載している日が、一日もないのである。だから、ずっとやり通す。こっちが殺さなければ、ずっとやり通す。やったつもりなんて、一ミリもないよ。きちがい的な意地で毎日やっていることなのに、「言われたら」瞬間的に発狂して、あとは、無視してやってしまう。だから、やっているのに、あるいはやったのに、本人はまったくそのつもりがないのである。関係がしょうじているということ自体がわかってない。なおさら、相手がこまっているということは、まったくわからない。本人が、わからないのであれば、「自分は相手をこまらせてない」のである。自分がやってることで相手がこまっているということを、本人が気にしなければ、相手は、自分のやっていることでこまっているわけではないという認識になってしまう。相手がこまっているということが、わからない。それは、言われないからわからないのではなくて、どれだけ言われても、言われた瞬間に、怒り狂ってはねのけているから、わからないだけなのである。けど、わからなかったから、一切合切関係がない人間なのである。わからなかったら、どれだけやったって、やってことにならないのである。言われたあと、意地になってやり続けたという記憶そのものがない状態になっているのである。そもそも、言われたときに、発狂して、「相手がこういうことを言ってきた」ということも忘れてしまう。あるいは、もっと正確に言うのならば、最初から認識してない状態になってしまう。一度認識したものを忘れるのではなくて、最初から認識してない状態なのだ。そう考えたほうが、きちがい兄貴の態度をうまく説明できる。こういう特殊な人間。言っておくけど、親父もおなじなので、どっちのことを言っているのかわからない場合は、両方のことを言ってると思ってくれ。話の流れでわかるとは、思うけど。
* * *
もう、つかれた。ぼくは、もう、いやだ。
死にたくなるほどこまっているのに、きちがい家族が「まったく気にしないで」がんがんやり続けるって、なんだよ。しかも、きちがい的な意地でやっているのに、やっているということ自体を、感覚、認識しないのである。こういうきちがい。こういうきちがいにやられた場合、他者の理解というのは得られない。どうしてかというと、他者の家族はそういう家族ではないからだ。「そんなことはないだろう」と思ってまう。「話し合えばわかってくれるだろう」と思ってまう。きちがいはそんなに甘いものじゃない。きちがい家族はそんなに甘いものじゃない。だから、きちがい家族にやられているほうが、ほかの人から悪く言われてこまり続けるということになってしまう。これが、現実だ。ほかの人は、実際にやられてないから、きちがい家族の「感覚」がわかってない。肌でわかってない。こっちも、わかってなければ、あまく見る。軽く考える。感覚は、どれだけ言ったってわからないと思うけど、きちがい兄貴のように、大音響でステレオを鳴らすことにこだわると、こまるのである。そうすると、佐藤のような凡人が、その影響を、軽く見るのである。佐藤だって、やられたら、働けないからだになり、無職引きこもりになるのに、それがまったくわかってないのである。そういうやつが、「エイリさんは、無職引きこもりだから、コミュ障なのだろう」と、勝手に決めつけて、えらそうなことを言ってくるのである。こんな失礼なやつらが、「助言してやった」つもりでいる。そうなる。きちがい家族にやられると、ほかの人から……きちがい家族の感覚がそもそもわからない人たちから、侮辱される。そりゃ、理解なんてない。佐藤の態度は、教師の態度おなじだ。