2021年5月12日水曜日

「障害者でも働いているのだから、健常者が働けないということはない」 努力論(6)あたり


「人間働くべきである」と考えていて、なおかつ「努力すればできるようになる」と考えている人たちは、よく「障害者だって働いている」ということを言う。

この場合、五体満足である健常者に言う場合は「障害者だって働いているのに、健常者であるおまえが働かないということはゆるせない」という気持ちが込められている。

しかし、健常者のなかには障害者と健常者の境界線上に位置する者たちがいる。この人たちは、とりあえず健常者に分類されているだけだ。障害がしょうじる範囲がちいさい場合は、障害者とは分類されないが、しかし、その「障害がしょうじる範囲」が「仕事をする」ということに、致命的な影響を与えることがある。ようするに、生活する範囲では、障害があるように見えないのだが、いざ仕事をしようとすると障害がある部分が露見してしまう場合である。

しかし、健常者として生活しているのだから、もちろん、健常者として見なされる。見なされる場合は、自動的に「努力をすればできるようになる」とみなされてしまうので、単に、あまえているだけだということになる。だれが、だれにむかって「努力すればできるようになる」と言っているのかということが、ここでも問題になる。

何度も言うけど、その言葉を発する人が「努力すればできるようになる」と思っているだけなのである。だれが「努力すればできるようになる」かというと、その言葉を発された人ができるようになるのだ。しかし、これは、ただ単にその言葉を発する人がそう信じ込んでいるということでしかない。ほんとうに発された人ができるのかどうかはわからない。

ようするに、健常者のなかにも隠れた障害を持っている人もいるので「障害者でもできるのだから健常者ならできるに決まっている」とか「障害者でも働いているのだから、健常者が働けないということはない」とかという考え方はまちがっている可能性がある。

その言葉を発された人が健常者と障害者の境界線上に位置する人である場合と、ある範囲で見えにくい障害を抱えている人の場合は、その言葉はまちがいであると言える。

2021年5月11日火曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(5)「もっとできる」ようにしなければならない

+++++++++++ 

(本当は、「努力をすればできるようになる」という考え方が、社会に悪影響を及ぼしているという論考の、最後の部分になるけど、あいだをぬかして、さきに書いておく)。

番号をつけるとしたら(5)ぐらいかな?

+++++++++++++

「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方があわさった場合、「努力してもできるようにならない人」にストレスを与える。このストレスは、自身の存在にかかわることなので、めったに消えない。常に、ストレスにさらされているということになる。

このストレスは、「努力してもできるようにならない人」本人にとっても、社会にとっても、よくないストレスだ。はっきり言ってしまうと、そういうふうに、「努力してもできるようにならない人」を追いつめるから、爆発する人が出てきてしまう。

もちろん、そういうストレスで爆発する人だけではないと思う。しかし、爆発する人のなかには、「努力すればできるようになる」と圧力をかけられたにもかかわらず、できなかった人が含まれていると思う。

ここで出てくる「爆発」というのは、ストレスが爆発して他人を傷つけるような行為をしてしまうことを意味している。何度も言うけど、部分にしかすぎない。ほかにもストレスになる理由あるので、ほかの理由で爆発する人もいる。

しかし、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方が両方とも成り立っている社会では、「努力をしてもできない人」は相当においつめられることになる。

また、「できる」というのが、ひととくらべてできるかどうかということなのだから、一応は、適応して働いている社会人も、たいへん強いストレスにさらされていると言っても過言ではない。単にできるのではなくて、「もっとできる」ようにしなければならないからだ。まわりの人の平均か、あるいは中央値よりはできるようにしなければならない。

けど、そうなると、平均があがっていく。けど、実際には「できない」人がいるので平均はそれほどあがらずにすむ。しかし、まわりの人との「比較」が「できる」とか「できない」といったことのベースになっているということは意識しておこう。

ようするに、一応は適応して働いている人も、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすれば、もっとうまくできるようになる」という考え方の結合で、相当にストレスをため込んでいるものと想像できる。

「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方は、日本社会において、人を仕事に縛り付ける役割をしていると思う。それは、多大な圧力をうむことになるので、両方ともうたがってみる必要があるのではないかと思う。

特に「努力をすればできるようになる」という考え方は、いままで見てきたように、理論的に、破綻している。すべての場合において努力をすればできるようになるということは言えないにもかかわらず、あたかも、すべての場合において努力をすればできるようになるというような文脈でその言葉が発せられるのだ。

この言葉を言われたほうは「できるようにしなければならない」のである。「努力をしてもできない」あるいは「努力をしてもできなかった」ということは、認められない。

+++++++++++++

「できる」とか「できない」ということが、他者との比較によって出現する概念だということは、もっと、正確に論じなければならない。あとは、「できるようになる」という考え方と「もっとできるようになる」という考え方はちがうのだけど、おなじこととして認識されているところがある。「できるようになる」と「もっとできるようになる」は一度、別のこととして考えて、あとで、同じ意味を有している場合について考えようと思う。

+++++++++++++

「努力して、できる楽しみ」はある。別にそれを否定しているわけではない。しかし、適応範囲が問題だ。適応範囲が自分であれば問題がない。適応範囲が「他人」だと問題がしょうじる。しかし、「努力すればできる」というのは、職場や学校において他人に発せられる言葉なのだ。それは、他人ができるようにならないとこまる人が言う言葉だ。適応範囲が自分自身なのであれば、問題はない。

「できないことでも、努力してできるようにすればいい」……本人がそうしたいのなら、もちろん、問題はない。できないと思っていたことが、できるようになれば、楽しいと思うこともある。他人におしつけるのは問題があるけど、本人が本人におしつけて、克服する状態……あるいは、できるようにする状態を楽しんでいれば問題はない。

 +++++++++

「その場所で努力するのが肝心だ」という考え方がある。

 

 

俺がほかの人から悪く言われているとき、きちがい兄貴はその場にいない


 蚊が出た。このだるいのに、蚊!!!

めんどくさぁーー。
++++++++これ以降、言っていることがわからないかと思うけど、気にしないで+++
ときどき、このあいだ書いた「FAにはカセットインターフェイスがついてないんだよ」ってことを言いたくなる。あれ、頭にくる。ほんとう、言ってやればよかった。「なら、かっせとインターフェイスを買えばいいじゃない」と言われるのが、ほんとうに、いやだった。ぶんなぐりたくなる。「ほとんどのことができる。なにができないんだ? 言ってみろ」と、年上の俺に言いやがったな。ふざけるな。

+++++ここまで気にしないで(むかしい、こっちにもこのエピソードは書いた。けど、もう、公開してない+++++++++++

長期騒音がなければ、こんなことがなかったのに……。長期騒音がなければ、俺は一〇年ぐらい早くパソコンを買えたので、こういうことを言われなくてすんだ。長期騒音を打ち消すためにステレオセットを買ってまったんだよな。ともかく、すべてが、ゆるしがたい。俺の立場がないんだよ。長期騒音で俺の立場がない。年上後輩なんて、みっともない。そういうことになってしまうだろ。なっとく、いかない。いかないなぁ。きちがい兄貴がたたらなければ、ほんとうに、そういう細かいいやなことを経験しなくてすんだ。きちがい兄貴がかかわってないようなことなんだけど、きちがい兄貴がかかわっている。

それにしても、ほんとうに、きちがい兄貴がその場にいないし、きちがい兄貴はきちがい兄貴が、かかわっていることだと思ってないわけだけど、きちがい兄貴がかかわっている。鳴らされているときの猛烈な怒りといったら、ない。ヘビメタ騒音というのは、きちがい親父とかかわっている時とおなじなんだよ。きちがい親父に、しつこくやってやるやってやると言われている時とおなじなんだよ。きちがい兄貴にわかるように言ってやると、きちがい兄貴が「このハンダゴテは使えない」と親父に言っているのに、親父が絶対の意地で認めないときとおなじだ。腹がたつだろ。実際、きちがい兄貴は、親父にそういうことをやられて、腹をたてていた。そりゃ、「さいちゅう」だからね。親父が、使えないハンダゴテを、押しつけたわけだから、親父は、「かかわっている」。けど、きちがい兄貴が、技術科の教室で「おまえ、こんなの使えると思っているのか」と教師に言われたとき、きちがい親父は、当然、その場にいない。自分が押しつけたと教師に言ってくれるわけではない。だから、親父は、知らない。けど、うちの人間の問題はそういうところだけではない。言語で説明されてもわからないのだ。「おまえ、こんなの使えると思っているのかと教師に言われた」ということを、どれだけ親父に説明しても、親父はきちがいだから、それがなにを意味しているかわからない。意識的にはわからない。無意識的には理解して反対語を言ってはねのける。きちがい親父にできることは、真っ向から否定することだ。「つかえる!!つかえる!!」「なんだそんなの!!」と発狂して、絶叫する。きちがい親父の頭のなかでは、自分が出してやったハンダゴテは、兄貴からそういう説明を受けたあとも「使えるハンダゴテ」なのである。教師が使えないと言ったということを説明しても、そんな説明は絶対に認めない。認めないし、認めないということも認めない。

きちがい兄貴の場合も、きちがい親父の場合とおなじだ。きちがい兄貴のヘビメタのことで……俺がほかの人から悪く言われているとき、きちがい兄貴はその場にいない。けど、きちがい兄貴がかかわっている。きちがい兄貴が、めちゃくちゃな意地で、ヘビメタを鳴らしてなかったら、そんなことにはなっていない。

きちがい兄貴は、認めてしまったら、自分がしずかにしてやらなければならないことはどんなにあきらかなことでも認めない。きちがい親父は、自分が認めてしまったら、金を出さなければならないことは、どんなにあきらかなことでも認めない。兄貴は無意識的にしずかにしずかにしたくないわけで、自分が「本当にしずかにしてやるのは」絶対にいやなんだよ。しずかにしてやるとしたら、自分がやりたいやり方でしずかにしてやるということにこだわる。けど、きちがい兄貴のやり方でしずかにするというのは、実際にはまったくしずかにしないということなんだよ。だから、相手にとってはまったく意味がない譲歩なんだよ。きちがい親父のハンダゴテというのは、相手にとってまったく意味がない譲歩……が具現化したものなのだよ。これも、使えないハンダゴテなのだから、意味がなぃ。けど、「ハンダゴテは出してやった」という名目上の理由がつく。きちがい兄貴の「しずかにしてやった」というのも、ただ単にきちがい兄貴がそう思っているだけで、ほんとうは、まったくしずかにしてない。親父の場合兄貴が「ハンダゴテをもっていかなければならない」と言ったからハンダゴテを出してやったわけで、ハンダゴテを出してやったのだから、それでいいのだということになってしまっている。きちがい兄貴の場合は、自分のやり方でしずかにしてやったにしろ、しずかにしてやったのだからいいのだということになってしまっている。けど、相手にとってはまったく意味がない譲歩なのである。譲歩になってない譲歩なのである。きちがい兄貴が静かにしてやったつもりで、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らすから、こっちはこまった。こまっていたんだよ。何時間も何時間も、中間試験だろうが、期末試験だろうが入学試験だろうが、鳴らしやがって。その日、休みで一三時間鳴らせるなら、絶対の意地で一三時間鳴らしやがって。それで、「ゆずってやった」だからな。きちがい親父とやっていることが、おなじなんだよな。兄貴はきちがい親父とおなじ。その日が、早帰りで、九時間鳴らせるなら、九時間絶対の意地で鳴らして譲ってくれなかった。俺がどれだけ「明日も試験だから、やめてくれ」と言っても、一分もやめてくれなかった。それなのに、譲ってやったと思っている。試験勉強の邪魔をしてないと思っている。「試験の邪魔だ」「これから、試験勉強をするから静かにしてくれ」と言われても、親父のような気持ちになって、親父のような態度で鳴らし続けた。親父のように、相手が言っていることが「まったくわからない」のである。何万回言われても、まったくわからない。きちがい兄貴の態度と、親父の態度がおなじなんだよ。きちがい兄貴の感覚ときちがい親父の感覚がおなじなんだよ。ほんとうに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、きちがい親父のハンダゴテとおなじだ。こっちが、どれだけ兄貴のヘビメタ騒音でこまっているということを言っても、こまっているということを認めない。きちがい親父のように反対語を繰り返すということはなかったけど、おなじなんだよ。親父にも無言バージョンがあるからね。はねのけておこったとたんに「言われてないことになっている」。「言われなかったからぜんぜん知らない」という態度になっている。ほんとうに、そういう認知が成り立っているのである。だから、何万回言われても、一回も言われてないことになってしまう。きちがい兄貴ときちがい親父は、そういうところで、まったく同じなんだよ。兄貴の態度は親父の態度のコピー。瓜二つ。おなじ!!

*きちがい兄貴の場合、反対語バージョンが出てくるのは一六年目以降。

 *     *     *
(これにはちょっといきさつがあるんだけど、説明する気になれない。簡単に説明すると、28歳の女性アルバイター(パート)が、もってくるコーヒーカップが、性格をあらわしているというようなことを言い出して、ぼくのは、ぼくの性格をあらわしてないと思ってのだけど、28歳の女性アルバイター(パート)に言わせると、ぼくがのコーヒーカップはぼくの性格をよく表しているものらしいのだ。28歳の女性アルバイター(パート)は、持ってきているコーヒーカップや湯飲みが、その人の性格をあらわしていると言っていて、その流れで……)

あとは、俺が所長の湯飲みを「えらそうな湯飲み」と言ってしまったのには理由がある。所長の湯飲みが、きちがい親父の湯飲みとおなじなのである。そっくりなのである。俺が幼児のとき、きちがい親父が怒り狂って、俺を虐待していたわけだけど、そのときに使っていた湯飲みと、おなじなのである。だから、「えらそうな湯飲み」と言ってしまった。所長が「えらそうななのかな?」と気にしてしまったのだ。俺は、「えらいんだからいいじゃないですか」と言っておいたけど、「親父に虐待されていたころに見た!親父の湯飲みとおなじような湯飲みだから、ついそう言ってしまった」とは、言えないんだよね。全体が深い緑色で、薄い黄色の文字で寿司のネタが書いてある湯飲みなんだよね。緑色は、かなり、黒に近い緑色だ。

 「ぼくがおさなかったころ、親父がぼくのことを虐待ていたのだけど、そのころに親父が使っていた湯飲みにそっくりなんですよ」って、言えないよ。ここでは、虐待系のことについていろいろと説明しているけど、普段の生活のなかでは、なかなか言えない。特に、アルバイトとはいえ、職場では言えない。


2021年5月9日日曜日

えらそうなことを言っているやつは、俺と一緒に生活しているわけではない 感覚がずれた人にやられた人じゃないとわからない。

ヘビメタ騒音「で」どーーーーーーしても、人生がない。全部が不可能になる。やりたかったことがまったくできない。やりたかったことがどうしてもできない人生になってしまった。

そして、きちがいヘビメタのつらさが、ほかの人にはわからないのである。ぼくのハンディがほかの人にはわからない。ほかの人は、ヘビメタ騒音を一分も経験してないし、うちの兄貴によるしつこいヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何陣も鳴っている状態を経験してない。そうなると、「思うこと」がちがう。このちがいが、でかすぎる。

「どんだけ」と思う。

けど、そんなのは、関係がない人間には、ほんとうにまったく関係がない。なので、ヘビメタ騒音ぶんを無視して、俺と対峙することになる。そうなると、砂糖のような普通の人が「敵」になる。「どうにかなってくれ」としつこく言ってくるかつての親友が「敵」になる。

そりゃ、やられてないという意味で、きちがいヘビメタ騒音が、わからない……。わからないやつばかりだ。俺以外の人間は、うちの兄貴のヘビメタ騒音を経験してない。毎日、深夜、どういう気持ちになるかわかってない。毎日、深夜、どういうからだの状態になるかわかってない。

宿題ができないまま、横になっているということになってしまう。

「一度、寝てから、午前四時ぐらいに起きてやればよいのでは。それなら、しずかな時間に勉強ができる」。きちがいヘビメタ騒音が毎日毎分毎秒!!鳴っているような状態で、生活してない人には、わからない。

家に帰って、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っているなかで、眠れるわけがない。

俺の部屋ではそうだ。お母さんの部屋では眠れた。

けど、これだとお母さんが寝る場所がなくなってしまうので、けっきょく、二か月ぐらいで、「やっぱりむりだよ」と言われてやめた。お母さんは、当時も、具合が悪かった。最初は、俺が寝ているあいだ、起きて、テレビを見ていたのだけど、それが、つらかったみたいなのだ。だから、お母さんの部屋で寝るということは、できなくなった。

で、お母さんの部屋で寝る場合も、二時間ぐらいの仮眠だ。たとえば、午後四時二〇分から、午後六時二〇分まで寝るにしろ、そのあいだ、がんがんヘビメタが鳴っているわけだし、午後六時二〇分から、自分の部屋に戻って、「宿題をする」ということが、どーーーしても、できない。

これも、ヘビメタ騒音が鳴っていても、「宿題ぐらいできる」という考えたを持っているやつが、えらそうなことを言うのだけど、「できない」。

で、そういうえらそうなことを言っているやつは、俺と一緒に生活しているわけではない。「うちの」ヘビメタ騒音を、俺の部屋で経験しているわけではない。そういうやつが、偉そうなことを言うな!! という気持ちになる。この気持ちは、相当に怒りを含んだ気持ちだ。

しかし、そういうことを言うやつは、なんで俺が怒っているのかわからない。俺が怒れば、「ただ、意見を言っただけなのにエイリさんが怒った。エイリさんは未熟だから怒った」と思うのだ。裏切られた気持ちというのがある。それは、きちがい兄貴に対する感情だ。ぼくが鳴らされているあいだ、いつも、きちがい兄貴は、「うらぎって」鳴らしていた。普通なら絶対にわかることを理解しない……そういう態度。きちがいおやじとおなじ態度だ。これは、感覚に対する裏切りでもあるのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚を裏切って鳴らしていた。耳が正常なら、絶対に「でかい音だ」「でかすぎる音だ」ということがわかるのである。けど、そういう現実を無視する。現実を無視しているということを、きちがい的な意地で認めない。これは、感覚に対する裏切りなのである。本人が本人の感覚を裏切っている……わけだが、これは、同時に、「でかい音だ」ということは、耳が正常なら、「認識するはずだ」という俺の感覚も、裏切っている。そういう、嘘くさい態度があるのである。けど、嘘くさいと言っても、嘘をついている本人が、嘘だと思っていないわけで、そういうところに対する「怒り」がある。そりゃ、「認めずに鳴らしていれば」そういうことになるだろ。ハンダゴテ事件で、きちがいおやじが、きちがいおやじが持ってきたハンダゴテが「使えないハンダゴテだ」ということを一切合切、認めなかった。これは、そういうスイッチが入ったら、どれだけ説明がうまい人が説明しても認めないのである。

だから、そういう意味で「感覚を裏切っている」。

この、感覚が正常なら、本来、説明しなくてもわかることがわかってないという「嘘くさい」態度……が、むかつくのである。怒りを感じるのである。怒りを感じざるを得ないのである。それは、やられた人じゃないとわからない。感覚がずれた人にやられた人じゃないとわからない。

で、感覚がずれた人が、一緒に暮らす家族だと、問題がでかくなるのである。会社や学校という、公共の場所とは違う問題がある。そして、きちがいおやじにしろ、きちがい兄貴にしろ、公共の場所ではめったに、そういうところでは、そういうことをめった死にしないのである。うちのなかなら、一〇〇%の時間、一〇〇%意地でそういうことをする。

けど、そういうことをしているいうつもりが、これまた、一〇〇%ない。

そういう、「ずるい」やりかたなんだよ。自分の感覚をだまして、普通なら絶対にわかることを認めないでやり切るという……きちがい的な態度。しかも、本人は、それに無頓着なのである。「やったってやってない」ことなのである。

 

 

2021年5月8日土曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(2)言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる

「努力論」は、「努力をすればできるようになる」という理論だとする。

これは、宗教的な信仰に近い。

自分が自分に適応しているのであれば問題はないけど、相手に適応するのであれば、問題がしょうじる。どうしてかというと、「相手が努力をしてない」という認識にたって、相手を責めることになるからだ。

それは、いつまで続くかというと、Aさんができるようになるまで続くのである。

つまり、Aさんは、その作業ができるようにならないと、Bさんの叱責から解放されない。

しかし、ほんとうに、Aさんが「できない」ことを「できない」と言っている場合は、できないのだから、努力をしてもできないということになる。

Aさんが努力をしてもできないことを、「努力をすればできる」という幻想を持っているBさんが指導をすると、Bさんの幻想通りに動かないAさんが、Bさんにとってはゆるせない存在になってしまうのである。

だいたい、「努力をすればできるようになる」という幻想は、まちがっている。

そんなことが成り立つなら、「障害」という概念自体がない。

しかし、障害という概念がある。

これは、「努力しても、できない人がいる」ということを意味している。

たとえば、Cさんがコミュニケーション障害者だとする。その場合、Cさんは、努力をしても、相手の表情を読み取れるようにはならない。もし、Cさんが、相手の表情を読み取れるようになるのであれば、Cさんはコミュニケーション障害者ではないということになる。

これは、身体障害者の場合もおなじだ。たとえば、たつことができないという障害がある人がいるとする。この人が、普通にたてるようになるのであれば、その人は、普通にたてるようになった時点で、障害者ではなくなる。

もし、「努力をすればできるようになる」という幻想が正しいのであれば、たつことができないという障害を持っている障害者は、「たとうと努力すればたてるようになる」のである。

なので、「たとうとしない人が悪い」ということになってしまう。「努力をすればたてるようになるのに、努力をしないからだめなんだ」ということになってまう。「努力をすればできるようになる」のであれば障害者なんて、ひとりもいないことになる。

みんな、努力してできるようになればよいのだから……。

しかし、障害を持ってる人がいる。

これは、どれだけ努力しても、特定のあることができない人がいるということを、明示している。暗示じゃない。明示している。

 ある作業が、複数の行為の連続だとする。その場合、複数の行為のうち、ひとつの行為ができないのであれば、ある作業ができないということになる。Aさんは、ある作業ができないとする。その場合、Aさんが努力をしないからできないのか、あるいは、努力をしてもできないのかは、Bさんを含む他人には判断することができない。

もし、Aさんが努力をして、できるようになれば、それは、Aさんにとって努力をすればできることなのであるし、もしAさんが努力をしてもできるようにならないとするならば、それは、Aさんにとって、努力をしてもできないことなのである。

健常者が「ある行為」について努力をしてもできないということは、障害者が「ある行為」について努力をしてもできないということと、同じだ。その健常者にとっては、「ある行為」は障害者ができないようにできない行為なのである。

しかし、障害者が障害者であると認められているのであれば、条件がつくけど「ある行為ができない」ということは、他人から認められるはずだ。あるいは、比較的に言って認められやすい状態であると言える。

しかし、Aさんが健常者である場合は「ある行為ができない」ということは認められない。努力をすればできるようになるのだから、努力をしないAさんが悪いというとになる。

「努力をすればできるようになるのだから努力をしろ」と誰かが誰かに言った場合、言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる。

けど、「努力をしてもできないこと」はある。

その人は「努力をしてもできない」ということを言っているのに「努力をすればできるようになる」という悪の呪文を言われて、へこむのである。やる気をなくすのである。生きる気力がなくなるのである。その人は、時間の問題で、その職場をさらなければならなくなる。

努力をすればできるようになることなのに、できるようにならないのだから、さるしかないだろう。叱責され、こづかれ、なぐられても、できるようにならないのであれば、さるしかない。

しかし、その職場をさるにしろ、似たような職場にしかアクセスできない。なので、その人は、死を考えるようになる。なぜなら、「働かざる者、食うべからず」という共同幻想が成り立っているからだ。

(2)

 

*     *     *

2021年5月7日金曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(1)

 基本、相手が「できない」と言ったら「できない」ということを認めてあげることが必要だ。しかし、いまの世の中は、「できない」と言っても、「できない」ということを認めない。「できない」と言っている相手が、がんばってできるようになればいいと思ってしまう。

相手とか人というような言葉を使っているとよくわからなくなってしまうので、とりあえず、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、ある仕事場のある仕事ができなかった。その作業がうまくできないのである。なので、Aさんが「自分にはできない」とBさんに言ったとしよう。BさんはAさん上司で、Aさんに対して、Aさんの作業について、順序だてて詳しく説明をしていた。

しかし、Aさんが何回も同じ失敗を繰り返すので、最後のほうは、頭にきて、「どうして、できないんだ」「ばかやろう!!」というようなことをどなったとする。さらに、そのあと、Bさんは、Aさんをこづいた。しかし、そのあとも失敗し続けるので、しまいには、BさんがAさんをなぐった。

このばあい、悪いのはAさんだろうか? Bさんだろうか?

 まあ、暴力はいけないということになるのだろう。けど、なぐるかどうかは別にして、Bさんの反応は、ある意味、人間として当然だ。

基本的には、人間は、「自分が思ったとおりに相手が動かないと」腹が立つ生物なのである。じつは、「対人間」だけではなくて、「対物質」だって、自分が思ったとおりにならないと腹をたてるのが人間だ。

自分がなんらかの作業をしようとして、その作業がうまくいかないと、自分のことなのに、腹をたてたりする。なおさら、自分のことでなければ、腹がたつ。思い通りに動かない他人は、腹がたつ。これが、「人間の基本」なのである。

けど、思い通りに動かない他人が、まったく関係がない他人であれば、腹がたたない。その他人が、自分と同じ職場にいて、その他人がするべき仕事をしてないから、腹がたつ。

AさんはAさんで「人間は働かなければならない」と思って仕事をしているわけで、ほんとうは、その職場で働きたくはないのだ。

「なら、職場をかえればいいじゃないか」と思う人がいるかとは思うけど、Aさんが基本的にうまく仕事ができない人間なのであれば、どこに行っても、おなじ問題が発生する。「職場をかえればいい」というような助言は、うまく仕事ができない人間にとっては、まったく意味がない。

さらに、「はめ込まれている現実」というのがある。Aさんが実際にアクセスすることができる仕事というのは、だいたい決まっている。

さらに、職場の状態も、にたりよったりだ。

たまたま、「神職場」を引き当てることができないのであれば、Aさんは、ほぼ一〇〇%の確率で、次も同じような職場で、同じような仕事をするしかない。

ともかく、「人間は仕事をするべきだ」というような幻想が成り立っていると、仕事ができない人が、仕事をしなければならなくなるのである。

さらに、「(できないことでも)努力すればできるになる」という幻想が成り立っていると、仕事ができない人間がさらに追い込まれてしまうのである。職場で、ものすごくいやな思いをすることになるのである。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しようとしないやつがわるい」ということになる。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しないやつがさぼっている」ということになる。「努力すればできるのだから、『できない』と言うのはあまえにほかならない」ということになる。

「努力をしてもできない」ということは認められないので、できない人は、できないということを他人からせめられることになる。叱責され、ぶんなぐられる職場にだれが行きたいと思うのか?

しかし、「ものこずくいやな思いをするのはいやだから、仕事をしない」ということも、認められない。どうしてかというと、「人間は仕事をするべきだ」という共同幻想が成り立っているからだ。

(1) 

これは、7日前に書いてためておいた文章です。べつに誰かの影響を受けて書いている文章ではありません。シンクロしちゃっているんだけど。

2021年5月4日火曜日

やられた人が、「がまんして」あるいは「のりこえて」人間的に成長すればそれでいいんだということになってしまう

 きちがい兄貴がどれだけ俺の足を引っ張ったか。きちがいおやじが、どれだけ、きちがい的なやり方で俺の足を引っ張ったか。

そりゃ、何十年も毎日積もれば、すごい量になる。けど、ほかの人にはそれがわからない。きちがい兄貴やきちがいおやじが、「普通ではない行為」をしていても、わからない。

きちがい兄貴やきちがいおやじにどれだけ言っても、きちがいおやじやきちがい兄貴は、わからないということが、ほかの人にはわからない。俺にかかわることであれば、なんであれ、やられたやつが悪いということになってしまう。

ともかく、ほかの人にはわからないレベルで、積み重なる。きちがいがきちがい頭を搭載していて、ごく普通に、毎日やるということが、ほかの人にはわからない。

こんなの、なおる、わけがない。

なおるわけがないのに、「エイリさんがお父さんにやめてと言わなかったのが悪いんだ」「エイリさんがお兄さんにやめてと言わなかったのが悪いんだ」ということになってしまう。 

さらに、頭の癖がある人がいる……という言い方で、頭の癖がある人やられた人は……あたかも、頭の癖がある人を、ゆるさなければならないという圧力をかけてくる。こういうひどい人たちもいる。この人たちは、自分がなにをやっているのかわかってない。

こういうやつらのなかには学者もいる。こういう学者は、頭の癖がある人が事件を起こすたびに、被害者を弾圧する。社会的な文脈としては、そういう学者の記事を載せているメディアはいいことをしたつもりになっている。

「人間性」とか「成長」というようなことを言う。やられた人が、「がまんして」あるいは「のりこえて」人間的に成長すればそれでいいんだということになってしまう。

++++++++++++++

++++++

騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。

 

 

2021年5月3日月曜日

まったく関係がない人として、きちがい的な意地で迷惑行為をする


ずっとやられているのに、全体的な気分に影響がないなんてことはない。睡眠不足、体力消耗、兄貴の態度に対するイラつきがずっと続いている。きちがい兄貴の態度なんてないよ。ああいう態度はものすごく腹が立つということを、きちがいおやじとのやり取りで、兄貴は学習しているはずなのに、まったくわかってないんだよな。自分がきちがいおやじとおなじようなことを、俺にしているということがわかってない。自分の態度(きちがい兄貴の態度)がおやじの態度になっているということがわかってない。きちがい兄貴の気持ちや、その気持ちから出てくる言葉が、まさしく、きちがいおやじのそれらになっているということが、まったくわかってない。まあ、きちがいおやじも、自分がやっていることに関してはまったく無頓着で、さらに「やってない」ということになっているから、認知のしようがないのだけど……。その、自分が昂然としていることに関してまったく認知がないというのも、きちがいおやじときちがい兄貴で、おなじなんだよ。けっきょく、きちがい的な意地でやっていることは、きちがい的な意地で認めないということになっている。で、迷惑行為を、自分勝手な理由でやり続ける。けど、迷惑行為をしているということは、絶対に認めないのである。これは、いちおう知っているけど……認知しているけど、認めないということとは違う。最初からまったく認知してない。だから、認めないときに、「うそをついている」気持ちはない。別の言い方をすると、自分の認知とはちがうことを主張しているという気持ちはない。

自分が迷惑行為をめちゃくちゃに意地になってやっているのに、迷惑行為をしている「つもり」はないのだ。どれだけ言われても、みじんも、そういうふうに感じなのである。だから、本人はいつも「しらんぷり」なのである。関係がない人のつもりでいる。きちがいが、きちがい的な意地でやっているから問題が生じているのに、本人は、いつもいつも、まったく関係がない人のつもりでいて、まったく関係がない人として、きちがい的な意地で迷惑行為をする。けど、ほんとうに、迷惑行為をしているつもりがないのである。発狂して、やり切るのに、まったくそういうつもりがない。

認知全体がそういうふうにできあがっている。頭の構造が、そういうふうにできあがっている。だから、どれだけ言っても、無駄なのである。なのに、そういう頭の構造を(兄貴が)持っているということを、ほかの人は知らないから、「お兄さんに言えばいい」「お兄さんと話し合えばいい」と俺に助言する。あるいは、「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれるのに、言わないからダメなんだ」とか「ちゃんと説明しないからダメなんだろ」「話し合ううとしないからダメなんだろ」とかと言ってくる。「家族で話し合えばいい」というのは、おやじも含んだ話になるけど、おやじが兄貴と同じ頭の構造を持っているのだから、そういう頭の構造を持っていいるやつが「ふたり」そろうことになるんだぞ。これがどういうことだかわかるのか? わからないだろうな。

 

兄貴なんてどれだけ言ったって、知らんぷりだよ。「やめろ」と言われた瞬間だけ真っ赤な顔をして怒って、やり続ける。「絶対にゆずってやらない」という態度でやり続ける。けど、「ゆずってやらなかった」という気持ちはまったくないんだよ。それが、きちがい兄貴のやり方だ。おやじのやり方だ。ほんとうに、そっくりなんだよ。これ!!!

 ほかの人の人権はともかく、俺の人権はものすごく基本的なところでおかされている。無視されている。きちがい家族が俺の基本的な生きる権利を無視して、きちがい的な意地で、騒音を鳴らし続ける。しかも、本人はまったく何もしているつもりがないのである。どれだけ「こまるからやめてくれ」ということを言われても、まったくなにも認知しないまま、関係がない人としてやり続ける。きちがい兄貴がこだわって、鳴らしているからこまっているのに、まったく関係がないわけがないだろ。きちがい兄貴にしたって、よその家だったら、一分間だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、鳴らしている張本人のきちがい兄貴が、それをまったく理解しない。絶対に、きちがい兄貴が、よそのアパートを借りていたら、あんな音じゃ鳴らせない。きちがい兄貴は、「よそ」で鳴らすなら、ちゃんと、ヘッドホンをする。そういうところが、これまた、きちがいおやじとおなじなのである。よその顔と、うちの顔がちがう。で、うちの顔は、きちがいなんだよ。絶対に自分が思ったとおりにやっていい」というきちがい的な思想がある。きちがい的な意地がある。で、そういう、思想や意地に関しては、これまた、まったく無頓着なんだよ。「そんなんじゃない」ということになる。言えば!「そんなんじゃない」と発狂することになる。この態度は「やめてくれ」と言われて発狂するときの態度とおなじだ。自分がやりたいことを「家族に」にとめられたら、発狂してしまうのである。発狂して、絶対の意地でやる。それなら、相手が「やめてくれ」と言っていることを、やり続けたということになるのだけど、そうならない。きちがいの頭のなかでは、そういうふうに理解されない。「やってない」ということになってしまう。相手がこまっているということも認めない。「やめてくれ」と言ってきたということも、記憶にとどまらない。「言われてない」という認知が成り立つか、あるいは、「言われてない」というような気分になる。「言われてない」という気分になったら、どれだけ言われたって、言われた感じがしない。気にもとめない。この「気にもとめない」という言い方が一番あっている。「やったのかやってないのか」ということに一切合切、関心がない状態になる。その場合、記憶としてはやったということが残っているとか、残っていないということは、関係がないことになる。だから、認知症とは違う。記憶としてやったということが残っていたにしろ……(相手の前で認めないにしろ)……残っていたにしろ、それは、気分的にはやってないのとまったく同じなのである。気分的には!! 一切合切関心がない状態で、またやってしまう。そうなると、「こまるので」俺がきちがい兄貴に言わなければならなくなる。そして、言う。けど、きちがい兄貴のなかでは、つもらない。こっちは、毎日、やられてつもっている。ハンダゴテ事件で、二日目に「使えなかった」と兄貴が言ったときの、きちがいおやじの態度とまったく同じなのである。のこらないんだよ。こいつらは!!! 一切合切、なにも残らない。一回、言われたあと、ゼロ回にリセットされる。だから、トータルで三〇〇〇回言われても、ゼロ回だ。毎日、一回言われるとして、毎日、ゼロ回にリセットされるので、三〇〇〇日目に、三〇〇〇回目を言われても、はじめて言われたことで、怒って、リセットしてしまう。「やめてくれ」ということを言われたら、自動的に怒るんだよ。怒ったら、怒ったとたんに、忘れてしまう。だから、どこまで言っても、「しらない」状態が成り立つ。こういうやつと、どうやって「相談」するんだよ。

張本人なのに、つねに関係がない人として、きちがいヘビメタを、こだわりの大音量で鳴らす。「やめてくれ」と言われたら、きちがいおやじの態度で怒って、おしまいだ。やり続ける。きちがい的な意地でやり続ける。けど、「やめろ」と言われたあと、「ずっとやり続けた」ということにはなってないのである。本人の頭のなかでは、そういうことをしたということになってない。

それなのに、他人は、「お前の説明が悪いからダメなんだろ」と言ってくる。そういうことの繰り返しで、いいわけがないだろ。

きちがい兄貴の態度でずっと騒音を鳴らされて、いいわけがない。

2021年5月2日日曜日

「負の言葉」を聞いたとき、「楽しい」と思えばそれで、不愉快にはならない


+++++++++++
 やっぱり、きちがいヘビメタでむりだ。もう、むりだ。どうして、きちがい兄貴はほかの人が信じられないような態度で、きちがいヘビメタを、こだわってこだわって、鳴らすんだ。俺がこまるだろ。

しかも、あかの他人からすると、俺が「ヘビメタ騒音にこだわっている」ように見えてしまうのである。

そりゃ、十代という若い時期に、毎日毎日、自分の時間が持てなかったということが、どれだけの影響を与えるか?

毎日なんだからな。休みが休みじゃないんだよ。休みの日は、朝から夜までやられて、くるしい。休みの日は、ヘビメタ騒音時間が七時間ぐらい増えてしまう。どれだけつらいか。

朝の九時一五分から夜の一一時一一分まで続くヘビメタ騒音がどれだけつらいか。三分だけだって、俺の精神が崩壊している。

どれだけくるしいか……。

鳴っている最中どれだけくるしいか、やられてない人はまったくわからない。

毎日続いているということがどれだけ精神や体に影響を与えるか? そして、人生ぜんぶに負の影響を与えるか? やられてない人はわからない。

長く、ずっと毎日やられてない人は、わからない。自分の人生のなかでそういうことがしょうじた人以外、まったくわからない。簡単に、考える。軽く考える。ちょっと俺が、愚痴を言わずにがんばれば、解決できる問題と思ってやがる。

「できるできる」と言えばできると思っている。ヘビメタ騒音「で」できない。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「できるできる」と言ったって、できない状態がかわらない。

頭が、がんがん、やられて、切羽詰まっている状態がわからない。それは、やられたあとつかれはてた状態で、「できるできる」と言っても、おなじだ。こういう、つらさがまるでわかってない。

人間は確かに、他人の、「負の言葉」に関しては、負の感情をいだく。

そういう、生き物だ。

けど、そういう負の感情よりも、ヘビメタ騒音が鳴っていたということのほうが重要なんだよ。負の感情には「総量」はないけど、かりに、自分には関係がない負の言葉を言われて不愉快になる度合いが、一だとすると、きちがいヘビメタ騒音に一秒間さらされることは、一兆ぐらいのことだ。

そのくらいに、ちがいがある。

けど、ほかのやつらは、そういうことを、体験的に知らないので、自分の感じた「一」の「不快」が気になるわけだろ。たしかに、それはわかる。わかるけど、もし、きちがい兄貴が俺にやったことがゆるされるなら、俺が「負の言葉」を言うことは、ゆるされることだ。「負の言葉」を言われても、気にしなければいいだろ。

こだわらなければいいだろ。
不愉快だと感じなければいいだろ。

「楽しい楽しい」と思えば、負の言葉を聞かされても、楽しい気分になるのだろ。

すべては感じ方の問題なので、「負の言葉」を聞いたとき、「楽しい楽しい」と思えばそれで、不愉快にはならないわけだろ。

「負の言葉を聞かされた」と思うのは、思った人がそういう現実をつくっているだけなんだろ。

だったら、「負の言葉を聞かされた」と思わずに、「たいへんに役に立つことを教えていただいた」と思って、楽しい気持ちになればいいじゃないか。
 +++++++

騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。

 

2021年5月1日土曜日

きちがいヘビメタ騒音によって、他者から見た場合の、ぼくのグレードがさがった

これはもう、説明したから、簡単に言うけど……つまり、前のバージョンのほうが詳しい説明なのだけど……ヘビメタ騒音が、帰宅した時間から午後一一時一一分まで、鳴っていると、宿題ができない。

ヘビメタ騒音「で」その日の宿題ができないということは、次の日の用意をして眠れないということだ。

そりゃ、まるでできていないノートを、カバンに入れるわけにはいかない。ノートだけじゃなく、教科書も副教材もプリントもカバンのなかに入れるわけにはいかない。それは、現在使っている状態だから、おわった状態にしてカバンのなかに入れるというとができない。

そうなると、どうなるかというと、朝、用意をするということになる。そうなると、きちがいヘビメタ騒音のなかで用意をしたり、きちがいヘビメタ騒音で寝不足のまま用意するということになる。

ヘビメタ騒音で朝の四時か五時ぐらいまで眠れないので、朝の七時三四分ぐらいに起こされたときは、めちゃくちゃに眠たい状態で起きるということになる。そして、朝の七時四五分には、家を出ないと、どれだけ急いでも、遅刻をするということになっている。これは、データから導き出されている。

きちがいヘビメタという要素がわかってない友達は「あいつは、遅刻ばかりしてダメなやつだ」と思うわけだよ。口に出すか出さないかは別にして……。だから、ぼくの名誉の問題なんだよ。

きちがいヘビメタが鳴っているかどうかというのは、名誉の問題だ。

普通に、人がほかの人のことを認知する場合、ほかの人の日常的な行動を見て、その人の人格を認識するわけだから、直接、ぼくに、遅刻のことで文句を言ってこなかったにしろ、その人の認識に影響する。

「その人」とか「人」だとわからないから、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんが遅刻した場合、BさんのAさんに関する認識に影響を与える。Aさんが何回も何回も遅刻したのであれば、Bさんは「Aさんは何回も何回も遅刻するようなダメなやつだ」と思うようになる。

もちろん、それは、Bさんの価値観が影響をしている。遅刻する人間がダメな人間かどうかはわからない。けど、Bさんがそういう価値観を持っていれば、何回も何回も遅刻をする人を、Bさんは、だめな人間だとみなすようになる。

この場合、直接、遅刻のことがかかわってない場合でも、一度、Bさんのなかに「Aさんはだめな人間だ」という考えができあがっていると、BさんのAさんに対する態度や発言に影響を与える。遅刻に限ったことではなくて、ほかのことにも影響を与える。

Aさんがなにかを言った場合、Bさんのなかでは、「ダメな人間であるAさんが言ったことだからまちがっているにちがいがない」というような考えが浮かぶのである。人間というのはそういうふうにできている。

きちがいヘビメタ騒音によって、他者から見た場合の、ぼくのグレードがさがった。

猛烈にさがった。

極端にさがった。

(1)

+++++++

騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。