だいたい、「感謝しよう」と思って「感謝」している場合と、ほんとうに感謝している場合でちがいがあるとは思わないのか?
なんらかの出来事があって、ほんとうに感謝している場合の気持ちと、感謝をしたほうがよいので、感謝をしようと思って感謝をしている場合は、ちがうと思う。作為がある場合と作為がない場合のちがいだ。
あるいは、ほんとうの反応と、演技である反応ちがいだ。「感謝をしよう」と思って感謝をしている人は、感謝をしているという演技をしているのである。
「演技でもかまわない」とか「演技でも、ほんとうになる」というような理論が、成り立っていると思うけど、それも、あわせて考えないとだめだと思う。
あとは、性悪説と性善説のどっちの立場をとるかということが重要なことになる。すでにやられた人が、性善説の立場をとると、実際にはいろいろな悪い人がいるので、ボロボロにされてしまうのである。
これは、ようするに、人から金を奪おうとしている人たちがいっぱいいる街を、無防備な人が歩くというような状態になってしまう。かなりの確率で、金を奪われる。
あるいは、『ぼったくりをするような店なんてない』『ぼったくり店に勧誘する人はいない』と考えて、歓楽街を歩いていると、ぼったくり店に勧誘する人がよってきて、ぼったくり店で金をぼったくられるということになってしまう。
そういう確率があがる。
『ぼったくり店に勧誘する人はいない』というのは、性善説の考え方だ。悪意のある人にたいして無防備なのだ。「なんでも感謝」なのであれば、ぼったくり店に勧誘する人が、そういう目的で、話しかけてきたとしても、感謝するということになってしまう。
また、ぼったくり店で、法外な値段を払えと言われたときも、感謝するということになってしまう。「法外な値段なので払えない」と言ったら、いかつい男性が出てきて、暴力をふるったとしても、感謝するということになってしまう。
ぼくは、ぼったくりをされたことがないので、ぼったくり店に関しては、完全な架空の話だ。しかし、世の中には、いろいろな類似の行為がある。悪意がある人たちがいる。「なんでも感謝」と言っている人たちは、悪意がある人たちが、自分をだましたときも「感謝」をするのか?
「なんでも感謝」と思っている状態というのは、無防備な状態なのである。この世には、自分勝手なことをする人たちであふれている。自分の利益のためには他人に不利益を与えても問題はないと考えている人たちであふれている。自分さえよければ、他人はどうなってもいいと考えている人たちであふれている。
そういう世界なのに、「なんでも感謝」「なんでも感謝」という気持ちになって、そういう人たちの悪意にたいして無防備になってもいいのかということなのだ……ぼくが言いたいのは……。
「なんでも感謝」と思っていても、鍵をかけて家を出るだろ。「なんでも感謝」なら、鍵なんてかけなくてもいいのだ。家にあるものをもっていく人がいたとしても、「なんでも感謝」だから「感謝」するのである。
けど、そういうことにはならない。
どうしてかというと、「なんでも感謝」と言って人たちも、ほんとうにそういうふうに考えているわけではなくて、感謝できなことには感謝してないからだ。そして、日常生活においては、「なんでも感謝」と考えてない人たちのように、普通に、行動しているからだ。