2021年5月31日月曜日

「なんでも感謝」と思っていても、鍵をかけて家を出るだろ

だいたい、「感謝しよう」と思って「感謝」している場合と、ほんとうに感謝している場合でちがいがあるとは思わないのか?

なんらかの出来事があって、ほんとうに感謝している場合の気持ちと、感謝をしたほうがよいので、感謝をしようと思って感謝をしている場合は、ちがうと思う。作為がある場合と作為がない場合のちがいだ。

あるいは、ほんとうの反応と、演技である反応ちがいだ。「感謝をしよう」と思って感謝をしている人は、感謝をしているという演技をしているのである。

「演技でもかまわない」とか「演技でも、ほんとうになる」というような理論が、成り立っていると思うけど、それも、あわせて考えないとだめだと思う。

あとは、性悪説と性善説のどっちの立場をとるかということが重要なことになる。すでにやられた人が、性善説の立場をとると、実際にはいろいろな悪い人がいるので、ボロボロにされてしまうのである。

これは、ようするに、人から金を奪おうとしている人たちがいっぱいいる街を、無防備な人が歩くというような状態になってしまう。かなりの確率で、金を奪われる。

あるいは、『ぼったくりをするような店なんてない』『ぼったくり店に勧誘する人はいない』と考えて、歓楽街を歩いていると、ぼったくり店に勧誘する人がよってきて、ぼったくり店で金をぼったくられるということになってしまう。

そういう確率があがる。

『ぼったくり店に勧誘する人はいない』というのは、性善説の考え方だ。悪意のある人にたいして無防備なのだ。「なんでも感謝」なのであれば、ぼったくり店に勧誘する人が、そういう目的で、話しかけてきたとしても、感謝するということになってしまう。

また、ぼったくり店で、法外な値段を払えと言われたときも、感謝するということになってしまう。「法外な値段なので払えない」と言ったら、いかつい男性が出てきて、暴力をふるったとしても、感謝するということになってしまう。

ぼくは、ぼったくりをされたことがないので、ぼったくり店に関しては、完全な架空の話だ。しかし、世の中には、いろいろな類似の行為がある。悪意がある人たちがいる。「なんでも感謝」と言っている人たちは、悪意がある人たちが、自分をだましたときも「感謝」をするのか? 

「なんでも感謝」と思っている状態というのは、無防備な状態なのである。この世には、自分勝手なことをする人たちであふれている。自分の利益のためには他人に不利益を与えても問題はないと考えている人たちであふれている。自分さえよければ、他人はどうなってもいいと考えている人たちであふれている。

そういう世界なのに、「なんでも感謝」「なんでも感謝」という気持ちになって、そういう人たちの悪意にたいして無防備になってもいいのかということなのだ……ぼくが言いたいのは……。

「なんでも感謝」と思っていても、鍵をかけて家を出るだろ。「なんでも感謝」なら、鍵なんてかけなくてもいいのだ。家にあるものをもっていく人がいたとしても、「なんでも感謝」だから「感謝」するのである。

けど、そういうことにはならない。

どうしてかというと、「なんでも感謝」と言って人たちも、ほんとうにそういうふうに考えているわけではなくて、感謝できなことには感謝してないからだ。そして、日常生活においては、「なんでも感謝」と考えてない人たちのように、普通に、行動しているからだ。

 

 

2021年5月30日日曜日

「なんでも感謝」と言っている人は、不幸な人に感謝してない

「感謝をしてまわせば、白玉が出る」と言っている人は、「なんでも感謝」「どんなことが起こっても感謝」と言っている人ではない。しかし、今回は、「感謝をしてまわせは白玉が出る」という考えと「なんでも感謝」という考えを、両方とももっている人がいるとして話をすすめる。

白玉が出るということはどういうことかというと、幸福だと感じる出来事が起こるということなのである。そういう前提で書いた。「なんでも感謝」と言っている人は、じつは、不幸な人には感謝してない。

不幸な出来事の報告には感謝してない。

ちょうど、カネモッチーやフツーッチが、「黒玉ばかりが出る」という報告をしたビンボッチ(その人自身)に感謝をしてないのとおなじだ。あるいは、ちょうど、カネモッチーやフツーッチが、「黒玉ばかり出る」という報告をしてくれたこと(そのこと自体)に感謝をしてないのとおなじだ。

「感謝をしてまわしたのに黒玉が出た」というような報告は、「感謝をしてまわせば、白玉が出る」とつよく思っているカネモッチーやフツーッチにとっては、不都合な報告なのである。

なので、不愉快だと感じて、不愉快だと感じたという反応をかえす。

それは、防衛的な反応だ。「そんなのは、おまえが悪い」「感謝をしてまわせば、白玉が出るということは、ただしい」「おまえのやり方がまちがっている」「おまえの報告はまちがっている」と言いたい気持ちになる。こういう気持ちになっているとき、幸福だろうか?

あるいは、こういう気持ちになっているとき「感謝の気持ち」がわくということがあるのだろうか?

はっきり言えば、感謝の気持ちはわいてない。ビンボッチの存在にも、ビンボッチの報告にも感謝してない。

このあいだ書いたのは、そういうことだ。「感謝してまわしたのに黒玉が出た」というような報告は、彼らにとっても、「感謝できるようなもの」ではないのである。本当なら、「黒玉が出た」という報告にも感謝しなければならないのである。

しかし、普通に感謝しない。

それどころか、「不愉快なことを言うな」という反応をする。

これが現実だ。

 けど、「なんでも感謝」という考えをもっているひとは、実際の生活のなかで、不愉快な人には感謝しないということについて、どれだけ、意識することができるだろうか。セミナーで「なんでも感謝」という話を聞いたときはそういう気持ちになるけど、現実生活の中で実践できる人は少ない。

 

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すでに不幸な人が「なんでも感謝」「なんでも感謝」とつよく思っていると、自分の首を絞めるようなことになってしまうのである。(性善説と性悪説のところにつながる)

 

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なんでも感謝なのだから、不幸な人の存在自体にも感謝するべきだし、不幸な人がやったことにも、感謝するべきだ。そりゃ、なんだって感謝なのだからそうなる。

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2021年5月29日土曜日

毒親にやられたことがある人の幸福論が必要なのである 

 俺が……記述しなければならないのか? 俺が……。もう、つかれたな。これ、くるしいな。これ、ほんとうにわからないんだよ。きちがい毒親にたたられたことがない人にはわからない。

きちがい毒親にたたられたことがある人ときちがい毒親にたたられたことがない人の比率というのは、どういうものだろうか?

ようするに、割合の問題なんだけど、きちがい毒親にやられた人は、全体の1%ぐらいなんじゃないかなと思う。毒親にたたられた人の割合はもっと大きいだろう。全体の3%ぐらいか? 全体の10%か?

ともかく、きちがい毒親にやられた人ときちがい毒親にやられてない人の割合を考えると、きちがい毒親にやられてない人のほうが大きな割合を占めるということになる。それはどういうことかというと、きちがい毒親にやられたことがない人の基準で、いろいろなことが語られるということなのである。

たとえば、幸福論ということを考えると、きちがい毒親にやられたことがない人の幸福論ができあがって一般的に流布するのである。その幸福論は、きちがい毒親にやられてない人が書いた幸福論であるわけだ。

統計学的な手法を使うと「科学的」というかんむりをつけることができるのだけど、これは、トートロジーになっている可能性がある。けど、これについては、今回はふれない! ともかく、きちがい毒親にやられたことがある人には、きちがい毒親にやられたことがある人の幸福論が必要なのである。

もし、幸福論ということを言うのであれば……。

……けど、そんなことにはならないのである。

これがまた……。

きちがい毒親にやられたことがある人が少なすぎる。割合としては小さすぎるのである。あまりにも特殊なので、無視される。そうなると、どうなるかというと、あたかも、カネモッチーが「感謝をしてまわせば、白玉が出る」と言っているような状態になってしまう。

それは、カネモッチーやフツーッチにとっては都合がいいことだけど、ビンボッチにとっては都合が悪いことだ。よけいにおいつめられることだ。よけいに、せめたてられるようなことでしかない。それとおなじようなことが、絶対少数であるきちがい毒親にやられた人にも成り立つ。

「言っていることが反対に働く」のである。

たとえば、「幸福になるには感謝すること」が奨励されるとする。しかし、きちがい毒親にやられた人が、きちがい毒親に感謝をすると、不幸になってしまうのである。ここらへんのメカニズムについてそのうち、説明する。

あるいは、きちがい毒親にやられた人が、きちがい毒親で以外の人に感謝すると、幸福感を信じることができるかというと、できる場合とできない場合がある。そして、幸福感を感じないことのほうが多い。これも、そのうち、説明したいと思う。

それから、一般人……研究者を含めてきちがい毒親にやられてない一般人は、そもそも、きちがい毒親にやられた人のことがわかってないのである。まるでわかってない。これは、たとえば、アドラーや認知療法家が、強迫神経症者の世界をまるで理解できないということに対応している。

アドラーの理論や認知療法の理論では、強迫神経症者について語ることができないのである。ただたんに、彼らの理論のなかでは、強迫神経症者はただ単に、へんな人になってしまうのである。

これは、彼らは「強迫神経症になる人がいる」という現象を説明できる言語をもちあわせていないということだ。アドラーの理論や認知療法の理論では、「強迫神経症」という現象を説明できない。

 

死にものぐるいの努力をしても、できない状態になる 「お兄さんに言えばいい」「家族で話し合えばいい」

きちがい兄貴のきちがい感覚が、きちがい親父のきちがい感覚とおなじなんだよな。

ほんとうにこまる~~。ほんとうに、こまる。まるまるたい。まるまるたい。

こんなの、ほんとうにまるまるもの。みんな、きちがい兄貴の態度がわかってない。きちがい兄貴の認識がわかってない。「やめてくれ」と言われたときのきちがい兄貴の気持ちがわかってない。きちがいだからな。

ほかの人は、想像ができない。

だから、「お兄さんに言えばいい」「家族で話し合えばいい」など言う。

これ、が、また、くるしさを作り出す。

「そんなんじゃないんだ」「言っても聞かないんだ」と言っても、相手は「聞かない」。

「言えばわかってくれるじゃないの」というような感覚が成り立っている。それに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音問題は、その人の問題じゃない。俺から話を聞いて、「そういうことがあったんだ」と思うようなレベルのことでしかない。

俺は、きちがい兄貴のヘビメタ騒音で死にそうだった。毎日、まるまるまだった。こんなのは、ない。どれだけ、切羽詰まった生活になるか。どれだけ、将来の希望が、ズタボロ生活のなかで消えていくか?

生活の希望というのは、きちがいヘビメタ騒音なしで、普通に生活できる状態でなければ、成り立たない。

「そんなことはない」と言う人は、実際に、ヘビメタ騒音生活をしてないから……きちがい家族によるしつこくて、ものすごくでかい騒音を経験してないから……そういうふうに言えるだけだ。

もう、とっくに赤字なんだよ。生活が全部赤字になってしまうの! 体力が赤字になってしまうの! やれることがなくなってしまうの! できていたことが、できなくなってしまうの! どれだけどれだけ、がんばっても、できなくなってしまうの!!

そういう深刻さや、影響力のレベルが……まるでわかってないんだよな。

そりゃ、他人は他人だからわからないのも当然だけど、それを抜いても、きちがい兄貴のやり方が、あまりにも特殊だから、その人たちの経験の範囲に入ってないんだよ。

きちがい兄貴そのものや、きちがい兄貴の騒音そのものが、そういう人たちの、認識の範囲に入ってない。

どうしたって、きちがいではない普通の兄貴を想像してしまう。

どうしたって、きちがい兄貴が鳴らすような騒音ではない騒音を想像してしまう。

どうしたって、ほんとうに、きちがい家族が、この世で自分がきらいな音を、ものすごくでかい音で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らし続ける一日というのが、想像できない。

影響力を過小評価してしまう。

その人たちが、日常的に経験している騒音でものを考えてしまう。

きちがい兄貴なんて「非・日常的な騒音」を毎日、日常的に鳴らしている状態だ。

きちがい兄貴の騒音は、非、日常的な騒音なんだよ。

うちでなければ、絶対にゆるされない騒音なんだよ。

 

きちがいおやじがつくったうちだから、ゆるされた。あたりまえになってしまった。きちがい兄貴が、きちがい親父の脳みそを受け継いでいるから、ほんとうは非・日常的な「ありえない騒音」を、「ありえない意地」で鳴らし続けた。普通なら、一日だって続かないんだよ。

お母さんも、親父とはまったく別方向に、普通の人ではないんだよ。ともかく、きちがいおやじとおなじ頭の構造を持っている人が、四人家族のうち、ふたりいるというのがめちゃくちゃに問題なんだよ。

で、そういうことは、異常な家族がひとりもいない人にはまったく想像ができない。だから、異常な家族がひとりもいない家の常識で、ものを言う。そして、実際にいないのだから、きちがい兄貴が鳴らしたような騒音が続くこともない。

続くことがなければ、わからない。

どういう影響が、あるか、わからない。

死にものぐるいの努力をしても、できない状態になる。死にものぐるいの努力をしても、失敗してしまう。ヘビメタ騒音が鳴るまえは、普通にできていたことが、どれだけ努力してもできなくなる。これがどういうことなのかわかるか?

わからないだろ。

そうすると、「過去のことは関係がない」「鳴り終わったなら関係がない」というようなことを言い出すことになる。 

あるよ。

過去のことでも影響があるんだよ!!

過去のことだから!!!影響があるんだよ!!!

実際に発生した!!!過去の出来事だから!!!影響がある!!!

何千日も毎日、何時間も何時間も何時間も、何時間も何時間も何時間も、何時間も何時間も何時間も、続いたことだから、影響がある。

何千日も毎日続いたことが、影響を与えないわけがないだろ!!

こいつらも、ほんとうに、なにも考えてないな。

 

 

2021年5月27日木曜日

「黒玉ばかり出るなんて言っているから、黒玉が出るんだ」 ビンボッチが、苦しい思いをするようにできている。

 カネモッチーが無視してしまうのが、ビンボッチの落胆だ。ビンボッチが「白よ出ろ」と願いを込めてまわしたのに、黒玉が出た。これは、ビンボッチにとってつらいことなのである。カネモッチーだって、黒玉が出るときはある。

だから、黒玉が出たときの落胆について知っていると言えるだろうか。

カネモッチーの場合は、一〇〇回まわせば九〇回ぐらいは白玉が出る。一〇〇回でだいたい一〇回ぐらいしか、黒玉が出ないのだから、落胆は小さい。

「どうせすぐに白玉が出る」と思うことができる。

そして、実際に、白玉が出る。

一〇回まわせば、だいたい九個ぐらいが白玉で、一個が黒玉という割合だ。もちろん、これが、白玉八個、黒玉二個になるときもあるし、白玉七個、黒玉三個になることもある。一〇の一〇乗分の一という非常にひくい確率だけど、一〇回まわして、一〇回とも、黒玉になることだってある。けど、「たいていの場合は」白玉のほうが多く出る。

『ほら、みろ。白玉よ出ろと言ってまわせば、白玉が出るんだよ』と思うことができる。九〇%の確率で白玉が出るのだから、ダメージが少ない。

しかし、ビンボッチの場合はちがう。「白玉よ出ろ」と言って、まわしたとき、黒玉が出たときの落胆がでかい。気がつかずに、黒玉ばかり出る抽選機をまわしているということが、ダメージを増幅させる。

それに、実際に黒玉ばかり出るのだけど、「黒玉ばかり出る」と言ってしまうと、「黒玉ばかり出るなんて言っているから、黒玉が出るんだ」と、説教されてしまうのである。そういう状態になっている。「くやしかったら、白玉を出してみろ」ということだ。

九〇%の確率で、黒玉が出る抽選機をまわしているから、実際に、黒玉が出やすい。黒玉が出やすいということは事実なのである。しかし、「黒玉が出やすい」という言葉がネガティブな言葉だと、ビンボッチ、フツーッチ、カネモッチーによって認識されているのである。

なので、「ネガティブなことを言っているから、黒玉が出るんだ」という説明には、それなりの、説得力がある。しかし、嘘だ。『黒玉ばかり出る』と思っているから、黒玉が出るわけではない。

たとえば、あるビンボッチが『黒玉ばかり出る』と考えて抽選機をまわしても、『絶対に白玉が出る』と考えて抽選機をまわしても、黒玉が出る確率は、かわらない。どうしてなら、その抽選機には黒玉が九〇個入っているからだ。

一〇〇個の玉のうち、九〇個が黒玉であるという事実が、「黒玉ばかり出る」という感想や事実認識の「もと」になっている。「黒玉ばかり出る」と思ってまわしたことは、結果とは関係がない。

しかし、黒玉ばかり出るので、『黒玉ばかり出る』という事実認識が強化される。そして、そういう感想を持つ回数が増える。この回数が増えるということが、やはり、全体の気分に影響を与えるのである。

だれだって、黒玉なんて出したくない。黒玉には出てほしくない……そういう気持ちがある。そして、人間は、だれでも幼児期の万能感が残っている。幼児期をこえて生きている人は、みんな幼児期を経験している。幼児期の万能感が『思ったとおりになる』『言ったとおりになる』という気持ちをささえている。苦しい時の神頼みもおなじだ。

どういうことかというと、カネモッチーが、気楽に言っていることが、カネモッチーばかりではなくて、フツーッチやビンボッチにも、基本的には支持されているということだ。なので、問題が複雑になるのである。なので、ビンボッチが余計においつめられるのである。

ビンボッチが、苦しい思いをするようにできている。



 

2021年5月26日水曜日

「感謝をしてまわすと、白玉が出る」……カネモッチーが、「嘘情報」を流して、フツーッチとビンボッチがそれを信じてしまう

(以降、重複あり)

 

 もうちょっと、複雑な設定として、超・金持ち、金持ち、普通、貧乏、極貧の五段階に分ける設定を考えたとする。超・金持ちは白一〇〇個、金持ちは、白九〇個に黒一〇個、普通は白五〇個に黒五〇個、貧乏は白一〇個に、黒九〇個、極貧は白〇個に黒一〇〇個。


こうすると、だいぶリアルに近くなる。カネモッチーが、「感謝をしてまわすと、白玉が出る」と言ったとする。

そうなると、フツーッチは、「感謝をしてまわす」ようになる。そして、二回続けて白玉が出れば、「感謝をしてまわせば、白玉が出る」というのは真実だと感じるだろう。そのあと、二回連続して、黒玉が出ても、気にしない。

最初の、白玉二連続のほうが、印象が強烈なので、あとの黒玉に連続は無視してしまう。これは、言ってみれば、失敗にはこだわらないという意味で「ポジティブ思考」だ。

しかし、フツーッチがそのまま、ずっと、何回も何回もガラポンをまわすと、白玉五〇%、黒玉五〇%という確率に近づいていく。しかも、たぶんだけど、「感謝をしてまわせば、白玉が出る」と信じているフツーッチは、「感謝をしてまわしても、確率はおなじだ」ということに気がつかないだろう。


カネモッチーが、白玉をいっぱい出せるのは、金持ちがまわすガラポンのなかにつねに九〇個の白玉が入っているからだ。黒玉は一〇個しかない。

たまには、失敗する。それがまた、リアルだろ。

ずるはしてないという印象ができあがる。

しかし、感謝をしてまわすかどうかは、白玉が出る確率とはまったく関係がない。白玉が出る頻度と言ってもいいのだけど、白玉が出る頻度は「感謝をしてまわすか」「感謝をしないでまわすか」とはまったく!関係がない。

関係がないのだけど、カネモッチーが、「嘘情報」を流して、フツーッチとビンボッチがそれを信じてしまう。問題なのは、カネモッチーには、人をだましてやろうという気持ちがないことだ。これが、どれだけ悪質なことか、カネモッチーもフツーッチもビンボッチも気がつけない。

気がつけるのは、抽選機の秘密を知っている人だけだ。「市場」に参加している人たちは、気がつけない。まあ、市場って「リアル人生ゲーム」の市場ということね。

 

眠たい状態で動いて、ものすごく腹が立つ思いをしたことがある

 いま、ものすごく眠たい状態なんだけど、眠たい状態で動いて、ものすごく腹が立つ思いをしたことがある。眠たい状態なのに動いたのは、医者に行く必要があったからだ。

ともかく、腹が立つ。いま、思い出したら、爆発的に頭にきた。眠たいときに動いて、いい思いをしたことなんてない。かならず、トラブルがしょうじる。しかも、俺は「罠にかけられるタイプ」のトラブルがものすごくいやなんだけど、そういうトラブルなんだよな。しかも、相手は「罠にかけるつもりがない」というタイプのトラブル……。これ、ほんとうに頭にくる。

頭がすっきりしていれば、トラブルに発展してない。だいたい、医者に行かなければならなくなったのも、うちの連中にやられたからなんだよな。そして、ヘビメタ騒音障害の一部である睡眠障害が爆発する。睡眠障害が効力を発揮する。睡眠障害が「出来事」に負の影響を与える。こんなの、たえられない。「過去のことだから関係がない」。どの口でそういうことが言えるんだ? 頭がおかしいレベルだぞ。

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医者は皮膚科だ。しかも、むかしみたいに医者で薬をくれればいいのに、薬局に行ってもらわなければならない。その薬局がくそなんだよ。入ってから、くそだということに気がついた。

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ヘビメタ騒音で睡眠相をこわされてから、ほんとうに、いいことがない。くるしいことばかりだ。 

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頭にくるまでのプロセスは、はぶく。説明をはぶく。いま、むりだ。けど、これが複雑なんだよ。かなり複雑なプロセスを説明しなければならなくなる。

結論から言うと、そういうところで、怒鳴るのはいやなんだけど、怒鳴ってもよかったかなと思う。あと、あまりにも礼儀正しくしようとして、関係のない人の「相談」を中断させることができなかった。これは、中断させないと、おつりを返してもらえない。中断させるということは、横入りとおなじだという認識がある。

これも、説明するとなるとめんどうなんだよな。

いまも、眠れずに起きてきてこれを書いているわけで、眠たいのだ。この状態はほんとうにいやだ。まあ、タイプをすることは、自分がやりたくてやっていることだから、問題はないけど、これが、やりたくないことを時間内にやらなければならないという状態だと問題がある。

中断させるということは、割り込むのとおなじなんだよね。けど、そうしないと、言うべき人がいない状態なんだよな。あれ、おなじ薬剤師が同じ椅子に座っているわけではなくて、ひとつの要件が終わるとまったく別の薬剤師が座ることになっているんだよな。これも、腹が立つ。ちょっと歩いて、ふりかえったら、別の薬剤師になっている。別の薬剤師が、ほかのクライアント(患者)と話をしているわけで、その別の薬剤師にとっては、前の薬剤師……その椅子に少し前に腰かけていた薬剤師のことは関係がないことなんだよ。もし、その薬剤師に話しかけるとなると、そのクライアントにとっては、自分に関係がない人が、「自分の薬剤師」に話しかけるということになる。とりあえず、自分の薬剤師という表現を使ったけど、これは、いま、自分の件を担当して自分に話しかけている薬剤師という意味だ。これ、薬剤師に話しかけるとなると、そのクライアントのうしろから、その薬剤師に話しかけるということになる。そのクライアントにしてみれば、別の人が、自分の薬剤師に話しかけて、自分のこととは関係がない用事をたのむということになる。もし、その薬剤師が対応したら、自分に関係した話を一時中断して、割り込んできた人の用件に対応するということになってしまう。そのクライアントにしてみれば、ずっと待って相談しているのに、割り込みで中断されることになる。これは、不愉快なことか愉快なことか? 不愉快なことだと思う。割り込みで中断がしょうじる。

 

2021年5月25日火曜日

そういうことが、常識がある家族に囲まれて生きてきた人にはまったくわからない

 ヘビメタで、人生がない。ヘビメタで人生がない。

こんなの、ない。こんなのは、ない。

俺がぽつんとひとりだ。いま静かなんだけど、あのときもこのくらい静かだった問題がなかった。マンションに住んでいたら、きちがい兄貴だってあんな音で鳴らせない。たまたま、家が離れていたのと、たまたま、目の前がでかい幼稚園の敷地が広がっているわけで、なんか、自由にでかい音鳴らしていいような雰囲気がある。

ぼくの部屋は、兄貴の部屋とおなじぐらいの音で鳴っていた。うちのなかですら、お母さんの部屋はぼくの部屋よりもずっと?静かだ。けど、それは、ぼくの部屋と比較した話だ。普通に言えば、うるさい。お母さんはちょっと耳が悪くて、寝ていただけだから、勉強する必要があるぼくとは立場がちがっていた。

きちがい兄貴がうちでやれたのには、いろいろと理由がある。絶対に、マンションとか住宅が密集している状態だとできなかったんだよな。それでも、横の家の人は、「ずっと、言いたかった」らしい。言ってくれよ。うちの人が言ったって、きかないんだよ。親父とおなじで……。

ともかく、あんなのはない。あんなのはない。きちがい兄貴が、こだわらなければ、ほんとうに、ぼくの人生がちがっていた。きちがい兄貴が、「なまのでかい音」にこだわって、ヘッドホンをしなかったことが、ぼくの人生を破壊した。

きちがい兄貴の感覚は、絶対に、ほかの人にはわからない。あと、きちがい兄貴は、親父とおなじで、自分がやっていることはわからない。 空白地帯になってしまうんだよな。

本人が、きちがい的な意地でやったことは、絶対に認めない。そういうところがある。本人が意地になって(頭がおかしいことをこだわってこだわって)やった場合、まったくやってないのとおなじだなんだよ。感覚としては「まったくやってない」場合の感覚が成り立っている。「ない」んだよね。「やめろ」と言われたら発狂して、こだわってこだわって、絶対の意地でやっていることは、やってないのとおなじだという感覚が成り立っているみたいなのだ。

兄貴の感覚ではそうなの。

気分的にはそういう気分になっている。まったくやってない場合の気分とおなじ気分になってしまう。で、これは、親父もおなじ。きちがい的な意地でやったことは、きちがい的な意地で、否定する。認めない。そういうところがある。

なんて言うのかな?

ちょっとでも、それがほんとうは「やばい」ことだということを認めると、「やめなければならない」から、ひきつって、発狂して、「やばい」ということをはねのけているようなところがある。認めてしまったら、やめなければならなくなる……というのが、恐怖だから、認めるまえに、発狂して爆発して、認めないうちに……意識的な認識ができあがるまえに……はねのけているようなところがある。

何度も言うけど、親父とおなじだ。

一家にふたりそういうやつらがいる。これが、どういうことなのか、普通の人には、これまた、絶対にわからない。「やばい」ことというのは、普通じゃないこと。普通の人ならやらないことのことだ。非常識なこと。やってはいけないことだ。

ちょっとでも、でかい音だということを認めると、「本当に静かしなければならなくなる」から絶対に、でかい音だと認めないというようなところがある。無意識的には、でかい音だというのがわかっていたんだろうな。そういう音で鳴らすのはやばいことだということがわかっていたのかもしれない。

けど、意識的には、ぜんぜんわかってない状態で、どれだけ言われても、まったく気にしないで鳴らす。「言われた直後だけ」発狂するけど、あとの長い時間は、まったく気にしないで鳴らす。言われたら、言われたということが記憶に残りそうなものなのだけど、何万回言われても記憶に残らない。これは、そもそも、言われたということにまったく関心がないという態度だ。

一日に、三〇回、「やめろ!!やめろ!!やめろ!!」「静かにしてくれ!!!」「静かにしてくれ!!!」と怒鳴られても、その都度、忘れてしまう。言われた直後だけ頭にきて、真っ赤な顔をしてやり続けるというところがある。

「絶対にやめてやらない」という態度でやりきる。

けど、親父とおなじように、自分がそうしたという、記憶がない状態になってしまう。これは、兄貴の場合一五年間続いた。鳴らしたい期間のあいだずっと続いた。一六年目に、なれば、「きちがい兄貴がでかい音で鳴らしたので困った」と言われれば、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」という言い出す。これも、きちがいおやじとおなじなんだよな。

きちがい兄貴の「自分のヘビメタ」に関するそういう態度は、ほかのうちの人には、絶対にわからない。きちがい兄貴と同じタイプのきちがいがいる「うちの人」じゃないとわからない。だから、俺やそういう人は、ヨソの人から自動的に、誤解を受けることになる。

けど、「自動的に誤解を受けるようになる」ということだって、ヨソの人にはわからない。

ヨソの人にはそんなことは、関係がない。

なんでなら、きちがい的な他者が、「うちのなかに」いないからだ。こんなのは、ない。

きちがい的な他者が、家族である場合、やられた人が、世間の人からも攻撃されるということになってしまう。「常識」という攻撃。

「常識」が成り立ってない「うち」だから、こまっているんだろ!!

「常識」が成り立たない家族だから、こまっているんだろ!!

そういうことが、常識がある家族に囲まれて生きてきた人にはまったくわからない。かならず、誤解をする。こっちが説明しても、自分がそれまで持っている「常識」にこだわって、こっちが言っていることをなかば無視するような態度をとる。

 佐藤、おまえのことだよ! いや、佐藤だけではなくて、中学時代の友達や中学時代の先生もそうだった。高校時代もおなじだ。ずっと、誤解をされている。で、そういう人たちは、「ヘビメタ騒音の総量」「ヘビメタ騒音の影響」を少なく見積もるんだよな。俺の話を聞いたあとも、兄貴やおやじの性格について、誤解をしているままなんだよな。「そんな人、いるわけがない」というのが、やつらの理屈だ。

それを否定できるのは、貧乏、普通、金持ちのガラポン抽選機の「なかみ」を知っている人だけ

(2)のつもりだったけど、草稿。重複した文章を(3)に書くつもり。


もうちょっと、複雑な設定をしたほうが、言いたいことが言える。けど、ぼくがガラポンのたとえ話で言いたいことは、ほんとうは、金持ちには、「白玉を出す固有の能力」がないのだけど、あたかも「白玉を出す固有の能力」が備わっているように見えてしまうということだ。

それを否定できるのは、貧乏、普通、金持ちのガラポン抽選機の「なかみ」を知っている人だけだ。「なかみ」が秘密のベールに隠されていたら、なんとなく、そういう傾向が成り立っているということは言えるけど、「だからこうだ」とは言えない。

以降、金持ちの人をカネモッチー、普通の人をフツーッチ、貧乏な人をビンボッチと言うようにする。これは、それぞれの「人」をあらわすとする。

もし、カネモッチーが「白玉よ、出ろ」と念じて回すと、白玉が出るということを、言ったとしよう。そうしたら、どうなるか?

フツーッチは、白玉を出したいわけだから「白玉よ、出ろ」と念じてしまわすということになる。

「白玉よ、出ろ」と念じてまわしたとき、たまたま、白玉が出たとする。

そうしたら、そのフツーッチはどう思うか?

「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」といういうことは、正しいと思う。真実だと思う。そのフツーッチのなかでは、これは、絶対に正しいことだということになる。そして、もう一度「白玉よ、出ろ」と念じてまわしたら、また、白玉が出たとする。

そうしたらもう、「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」と言ったカネモッチーは、そのフツーッチにとって、教祖だ。「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」というのは宇宙の絶対法則だと思ってしまう。教祖の言うことは、どんなことでも正しいと思ってしまう。本当は正しくないことを言ったカネモッチーを、完全に、尊敬してしまう。

試行回数を増やせば、白玉が出る率は、おのおのの抽選機のなかに入っている白玉の割合に近づいていく。だから、「白玉よ、出ろと念じてまわすと、白玉が出る」わけではない。

それから、その発言をしたカネモッチーには白玉を出す能力があるわけではない。また、その発言をしたカネモッチーは、白玉を出す「方法」を知っているわけではない。

カネモッチーだから、白玉が出やすいガラポン抽選機をまわせるだけだ。九〇個が白玉で、黒玉は一〇個しか入ってないガラポン抽選機をまわしているから、白玉が出る回数が多いだけだ。白玉を出す「なにか特別な方法」を知っているわけではない。

「そういう抽選機」をまわすから、白玉が多く出るだけなので、そのカネモッチーが白玉ばかりを出すということは、そのカネモッチーが「白玉よ出ろ」と念じることとは関係がない。

そのカネモッチーが、ビンボッチがまわすガラポン抽選機をまわしたら、黒玉ばかりで出てくるということになる。どれだけ念じても、まわす回数が増えれば、黒玉が出る回数が増える。

試行回数が増えれば、実際に白玉を出した回数と、実際に黒玉を出した回数の割合は、抽選機のなかの白玉と黒玉の割合に近くなる。

白玉は幸福、黒玉は不幸の比喩だ。抽選機は、一生のあいだ、ずっとまわし続けることになるので、相当の回数をまわすことになる。回数がじゅうぶんに多いなら、幸福なことと不幸なことの割合は、最初にセットされた白玉と黒玉の割合に近い割合になる。

まあ、ほんとうは、一個目に黒が出たか白が出たかで、二回めに黒が出る確率と白が出る確率はかわってしまう。この問題を回避するために、白玉が一個、出たら、白玉を一個たして、黒玉が一個、出たら黒玉を一個たすということにする。ようするに、ガラポン抽選機のなかには常に一〇〇個の玉が入っていて、その割合は、最初に設定した割合のままだとする。なお、玉は一回に一個しか出ないものとする。


2021年5月23日日曜日

強迫神経症に関しては、岸田秀やカレン・ホーナイが言っていることが正しい

 きちがいの親にたたられる生活というのは、アドラーや認知療法家にはまったく想像できないと思う。ほんとうに、つねに、頭がおかしい理由で怒り狂われていると、強迫神経症になる。そういう部分が「補償」としてでてきてしまう。その場合、じつは、人間として正常な反応をしているということになる。「人間」の場合、そうならざるを得ないところがある。アドラーや認知療法家が「合理的なこと」として理解できないからと言って、「合理的な部分」というのが、ないわけではない。強迫神経症に関しては、岸田秀やカレン・ホーナイが言っていることが正しい。ジークムント・フロイトから性欲論的な部分を洗い流した?精神分析理論が正しい。ともかく、きちがい的な親に常に怒りくるわれて、強迫神経症になった人が、認知療法家が言うことを理解しても強迫神経症は治らない。だいたい、認知療法家は「現象」を説明することができない。アドラーもおなじだ。彼らは強迫神経症を説明する言語を持ってない。

それから、白玉・黒玉ということに関して言うと、きちがい的な親にきちがい的な理由でいちゃもんをつけられ怒り狂われている子供は、黒玉をひき続ける。そりゃ、きちがいの親が「かかってくる」ときは、黒玉が出ているときだ。きちがいの親が、きちがい的な理由で、何回も何回も怒り狂ったということは、何回も何回も黒玉が出たということだ。さらに、強迫神経症になって、ほかの人との間にも問題がしょうじる。問題がしょうじるというのは、黒玉が出たということだ。ともかく、この世は不公平。不公平。


2021年5月22日土曜日

「白玉を出すには、白玉が出ると念じてまわせばいい」……貧乏には「白玉を出す能力」がないのだろうか?

(1)

社会的に「はめこまれた状態」というのがある。この「はめこまれた状態」というのは、制度や制度になってない社会的習慣によって成り立っている。

たとえば、金がないうちに生まれた子供は、金があるうちに生まれた子供にくらべて、買い物にかかわる「願い事」が現実化する確率が低い。そのうちに生まれた子供の世話は、そのうちの親がするということになっている。そして、恒常的に子供になにかを買ってやるのは、親の役目だという考え方がおおくの人の頭のなかに成り立っている。

「その社会の子供」は「その社会の子供」だから、どんな子供にも、「その社会」が、だいたい同じようなものをやってやるということにはなってない。別にそういう考えがいいということを言っているわけではない。

これも、考えの枠組みがあるということだ。
社会の構成員が「当然」と考える考え方がある。これも、「はめ込まれた状態」を形成する条件の一つになる。普段、意識はされないのだけど、網の目状の「常識」が成り立っていて、「その社会の構成員」の行動を制限するのである。

ということをいちおうの前提にして、たとえ話をする。これは、たとえ話だ。金持ちの家に生まれた子供を「金持ち」、普通の家に生まれた子供を「普通」、貧乏な家に生まれた子供を「貧乏」と呼ぶことにする。

ところで、ガラポン抽選機というのを知っているだろうか? これは、ガラガラとまわすと、玉が出てくるという抽選機の一種だ。

出てくる玉の色で、一等賞や二等賞、三等賞、四等賞などが決まるようになっている。今回は、白と黒の二色に限定しておく。

白があたりで、黒がはずれだ。
 

白い玉が出たときは、「幸福なことが起こる」とする。黒い玉が出たときは、「不幸なことが起こる」とする。こういうガラポン抽選機があるとする。以降、白い玉のことを白玉(しろだま)とい言い、黒い玉のことを黒玉(くろだま)と言うことにする。

問題なのは、ガラポン抽選機が置いてある場所で、ガラポン抽選機のなかにはっている玉の割合がちがうということだ。

貧乏が住んでいる地域には、黒玉が90個、白玉が10個入っているガラポン抽選機が置いてある。

普通の子供が住んでいる地域には、黒玉が50個、白玉が50個入っているガラポン抽選機が置いてある。

金持ちが住んでいる地域には、黒玉が10個、白玉が90個入っているガラポン抽選機が置いてある。

貧乏は、貧乏が住んでいる地域のガラポンしかまわせない。

普通は、普通が住んでいる地域のガラポンしか回せない。

金持ちは、金持ちが住んでいる地域のガラポンしかまわせない。


この場合、当然、貧乏は、何回やっても、黒玉しかでない。金持ちは、何回まわしても白玉しか出ない。普通は、白玉が出たり、黒玉が出たりする。

こういうことが成り立っているとき、貧乏が「白玉を出すにはどうしたらいいか」ということにこだわったとする。そのとき、金持ちが「白玉を出すには、白玉が出ると念じてまわせばいい」と言ったとする。

しかし、貧乏がどれだけ「白玉が出る」と念じてまわしても、白玉は出ない。

貧乏は、念じる力が弱いのだろうか?

そんなことはない!!

貧乏は「運がない」のだろうか?

そんなことはない!!

貧乏には「白玉を出す能力」がないのだろうか?

そんなことはない!!


たとえば、「白玉を出す能力」というのはどういうものだろうか?

 

なにか、その人……実際にガラポン抽選機をまわす人に固有の「白玉を出す能力」があるという前提でものを言っているのだけど、そんな能力ははたしてあるのだろうか?

地域がちがうだけだ。

まわすガラポンがちがうだけだ。

その人に固有の「白玉を出す能力」なんてものはない。しかし、「白玉を出す能力」いうわけのわからない能力を想定して、あたかもそれが、実際にあるようなものの言い方をするのだ。

これは、まちがっている。

ぼくが言いたいのは、そういうことだ。その地域に住んでいるということが、「はめこまれている」いうことであって、その地域に住んでいる限り、黒玉ばかりが出るということになっている。

「白玉を出す能力」なんてものはない。

しかし、黒玉ばかりが出ると、「どうして、ぼくは黒玉ばかり出るのだ」と人は考え込んでしまうのだ。そして、白玉を出している人は、白玉を出してきた人として、白玉を出す方法について、まちがった説明をし出す。

ほんとうは、まちがっているのだけど、その説明がまちがっているということを知っているのは、地域によって差があるということを知っている人だけだ。「固有の能力」とか「特別なコツ」なんてものはない。

しかし、あたかも、白玉を出す人には「白玉を出す能力」があるように見えてしまう。また、白玉を出す人は、白玉を出す「なにか特別なコツ」を知っているように見えてしまぅ。コツなんてものは、もちろんない。「白玉を出す能力」なんてものもない。

それが証拠に、白玉ばかり出している人を、貧乏地域に連れてきて、貧乏地域のガラポン抽選機をまわさせれば、何回まわしても黒玉が出るようになる。そりゃ、貧乏がまわすガラポン抽選機のなかには黒玉しか入っていない「から」そうなる。

(2)に


 

2021年5月19日水曜日

人に「できるようになる努力」を強要するのは、よくない


「できる」とか「できない」というのは、他人と比較して「できる」とか「できない」ということを言っているにすぎない。

たとえば、垂直飛びで30メートルジャンプできる人はいない。いないので、「できると言えばできる」と言っている人も、じつは、垂直飛びで30メートルジャンプできるとは思ってない。

思ってないのだけど、「人間ができないことは、できると言っても、できない」というようなことは、捨象されている。無視されている。

「人間ができないこと」と書いたけど厳密に言えば「人間ができないと(その人が思っていること)」だ。「できると言えばできる」という言い方をするとき、その人は、例外をもうけていない。「できると言えば、どんなことだってできる」のだ。そういう意味で言っている。文字通り「どんなこと」だってできるという意味で言っている。

だから、こういう人たちは、言うたびに、じつは、同じ言葉にちがう意味を込めて使っている。これが、言ってみれば「意味のバッファ」になっていて、自分では矛盾に気がつかないようになっている。

*     *     *

言霊信者「できると言えば、どんなことだって!!!できる」

俺「垂直飛びで30メートルジャンプできますか」

言霊信者「そんなことは言ってない。人間ができることは、できると言えばできるようになると言っているのだ」

*     *     *

たとえば、こういう会話があったとする。しかし、このような会話があったあとも、制限をつけずに「どんなことだって」ということを言う。「できると言えば、すべて、できるようになる」のである。そういう架空の「できる」が含まれている。

こういう人たちは、「人間ができないことに関しては、できると言ってもできない」ということは、認めていない。すぐに「できると言えば、どんなことだってできる」という考えが復活してしまう。

この場合は、「例外」なんてないのである。

そういう、理論的な矛盾がある。

「架空の抽象世界」では、もちろん、30メートルジャンプすることだって、できると言えばできるのである。「架空の抽象世界」というのは、その人の「こころの世界」だ。

まあ、「できると言えばできる」と言うことに関しては、本人が本人に対して言う場合は、なんの問題もないので、追及はしないけど、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と他人に言う場合は、問題がある。

相手の状態を気にするべきだ。「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」と言う人が、その言葉を言われる人の!なにを!理解しているのか?

なにも理解してないのである。

はげましていい気持ちになっているのは、「できると言えばできる」「できると言えばどんなことだってできる」という言葉を放ったほうだ。言われたほうは、いい気持にならない場合があるということを理解しておいたほうがいい。

 自分が「できると言えばできる」と思って、「できるように努力する」というのはまったく問題がない。しかし、他人にその言葉を投げかけるときは、他人が「できるように努力しなければならない」のだから問題がしょうじる。

他人が自分の思った通りに動かないと、不愉快になるという反応はよくない。人に「できるようになる努力」を強要するのは、よくない。どうして、こういうことがわからないのか?

「できると言えばできる」なんて言葉は、自分を対象にして言うべきで、他人を対象にして言うべきではない。

たぶん、本人は、相手の可能性を信じているという意味で、いいことをしたつもりなのだろうけど、その言葉を投げられた他人が「できない」と判断していて、なおかつ、「できない」という判断が正しい場合は、「できると言えばできる」という言葉は、無意味であるばかりか有害なのである。

その、言われる他者にとって、有害。

どうして、こういうことがわからないのか? 


 

2021年5月18日火曜日

「関心」がなくても、コロナウィルスに感染する可能性はある



「コロナウィルスに関心があるとコロナウィルスにやられて、コロナウィルスに関心がないとコロナウィルスにやられない」と考える人たちがいるみたいだ。はっきりと言ってしまうけど、「関心」は関係がない。


どうしてそう言い切れるかというと、コロナウィルス(COVID-19)の存在を知らない人が、コロナウィルス(COVID-19)による新型肺炎にかかったからだ。

思い出してもごらん。

豪華客船に乗った人は、コロナウィルス(COVID-19)のことなんてまったく知らなかった。コロナウィルス(COVID-19)が、この世に存在するということを知らなかったのだから、当然、コロナウィルス(COVID-19)に関心なんてない。みじんもない。

どうやって、存在すら知らないことに「関心」をもつのだ。まあ、用語が「関心」なので、「関心」をもつという言葉を使うけど、本来なら、「存在すら知らないことに注意をむけるのだ?」ということになる。「関心」と言ってしまっているけど、ほんとうは「注意」を含んでいる。フォーカスの問題だから……。この場合の「関心」には、静的な「関心」ではなくて、注意を向けるという動的な意味が含まれている。対象に注意を向けた結果、対象に関心をもつことになる。

ともかく、コロナウィルス(COVID-19)の存在を知らず、コロナウィルス(COVID-19)に関心がない人が、新型肺炎にかかった。この事実は、「コロナウィルスに関心があるとコロナウィルスにやられて、コロナウィルスに関心がないとコロナウィルスにやられない」という考え方を完全に否定している。なので、関心があるとか関心がないということは関係がない。

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豪華客船に乗った人たちは、「よーし、この豪華客船に乗って、未知の病気にかかるぞ!」と思って豪華客船に乗ったわけじゃない。最初から、未知の病気について「関心」があったわけじゃない。

本人は、豪華客船の旅を楽しむつもりで豪華客船に乗ったのである。

もし、その豪華客船に乗ると、得体の知れない病気にかかるということを知っていたら、豪華客船に乗ってないと思う。「得体の知れない病気にかかる可能性がある」ということを情報として知っているということが、得体の知れない病気に「関心がある」ということなのである。

なので、得体の知れない病気に「関心」があれば、豪華客船に乗らなかった。「関心」を向けたから新型肺炎にかかったのではなくて、「関心」を向けなかったから、新型肺炎にかかった。

これが、すべてだ。

自分のなかから、そのことに関する「関心」を追い出せば、「そのこと」が、自分の未来に「到来」しないということはない。

もちろん、「関心」があることが、現実化することもある。「関心を持っていても、それが到来する場合もあるし、関心を持っていても、それが到来しない場合もある」と言うのであれば、「関心があるから到来した」とは言えないだろう。

さらに、「関心がまったくない状態になれば、到来しない」ということも言えない。新型肺炎にまったく関心がない人が、新型肺炎にかかった。なので、関心がないことは、絶対に発生しないとは言えない。

過去のある時点で、「関心」があったから、今現在「そういうことになっている」ということは、成り立つ場合と成り立たない場合がある。常に成り立つことではない。現在の時点で関心を持たなければ、未来のある時点で「そうなることはない」とは言えない。

 

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2021年5月16日日曜日

適切な割合の資本主義(なかぬき主義)であれば、問題はない。

 搾取に関しては、資本主義の構造的な問題として指摘されるけど、ようは、バランスの問題だから、搾取しすぎなければ、問題はない……ということにしておかなければならない。いわゆる「なかぬき」の問題は本来的な意味で搾取とは、区別して語られなければならない。「なかぬき」の問題と搾取を同一視することはできない。議論を混乱させるだけだ。「なかぬき」は搾取の部分集合だから、イコールじゃない。イコールだと思ってその言葉を使うべきではない。

なかぬきは、一段階のなかぬきと、n段階のなかぬきがある。このふたつは、わけて考えるべきだ。n段階のなかぬきは、情報がいきわたって、制度が改革されれば、一段階のなかぬきにすることができる。一段階のなかぬきはなくすことができないけど、割合をかえることはできる。一段階のなかぬきは、真の意味での搾取なので、なくならない。資本主義を維持する以上、一段階のなかぬきはなくならない。しかし、割合をかえることはできる。適切な割合の資本主義(なかぬき主義)であれば、問題はない。搾取は存在の問題ではなくて、割合の問題なのだ。もちろん、実際に働く人が、たくさんもらったほうがいいわけ。

 

 

2021年5月15日土曜日

社会がスキルなし中年をいじめている……認知療法の理論や霊界の理論がそれをあとおししている


技能のなし中年は、いじめていい存在である……ということになっているみたいなのだ。技能なし中年だと言葉が強いので、スキルなし中年と言っておこう。けど、意味はおなじだ。まるでもう、社会がスキルなし中年をいじめているような状態がある。これが、説教を含んだいじめなのである。これは、モラハラと言ってもいいだろう。モラハラの内容には、認知療法の理論や霊界の理論が組み込まれている。ようするに、認知療法の理論や霊界の理論を「つかって」いじめている。なので、認知療法の理論や霊界の理論には、いじめをやめさせるようなちからがない。そりゃ、そうだろう。認知療法の理論や霊界の理論を「つかって」いじめているのだから、認知療法の理論や霊界の理論には、それを浄化するちからなんてない。はっきり言えば、いじめが制度化されている。


2021年5月14日金曜日

「そんなことはいってられなくなる」


ヘビメタで人生がない。ヘビメタで人生がない。ヘビメタ「で」……。ヘビメタ「で」……。どんだけたたってきたか? どれだけやられてきたか? きちがい兄貴が、どれだけ言っても、息を吸うように、毎日、頑固に、鳴らしきる。どれだけ、誤解されたか? どれだけ、エネルギーを奪われたか? どれだけ、できることができなくなったか? どれだけ、チャンスを逃してきたか? どれだけ、なめられたか?

ゆるせない……。ゆるせない……。ゆるせない……。

きちがいヘビメタがなければ、俺はできたんだ。やりたいことができた。勉強もできた。普通に女ことつきあうこともできた。それが、きちがい兄貴が、こだわりの音で、こだわってこだわって、鳴らし続けるから、全部できない。

全部が不可能になる。

そして、「全部が不可能になる」と言うと、わらわれるんだよ。下に見られるんだよ。言い訳しているように思われるんだよ。愚痴を言っているように思われるんだよ。

けど、そういうふうに、わらい、下に見て、言い訳していると思い、愚痴を言っていると思うやつは……やつは……一度もヘビメタにやられてないやつだ。

俺だって言いたくはない。

君らは、想像でものを言っている。俺だって、二週間ぐらいはそんなつもりでいた。けど、一か月、一年、一〇年と、月日がのびていくと、そんなことは言ってられなくなる。「そんなことはいってられなくなる」ということが、ほかの人たちにはわからない。 

みんな、きちがい兄貴がどれだけ頑固かわかってない。正常な感覚器を無視して、頑固にやりきったことは、やってないことになってしまう。そういうスイッチが入ってしまう。スイッチが入って、頑固にやったことを、今度は、頑固に否定するということになってしまう。頑固に否定しているときも、スイッチが入っている。 

本人は、知らんぷりたよ。「やったつもりがない」ままだからな。

そうやって、正常な感覚器を無視して、自分がやりたいことをやってしまう。

けど、「やったつもりがない」んだよ。やったつもりがない。感覚器とおなじように自分がやった「まずいこと」を無視してしまう。「そんなのやったってやってなくたっておなじだ」と思ってしまう。じゃあ、「やらないですます」ということができるかというと、できない。きちがい的な意地でやりきる。

きちがい的な意地でやりきろうとするとき、やめさせるとしたら、殺さなければならない。

そういう切迫感が、ほかの人にはまったくわからない。

「言えば通じる」と思っている。「やったなら、やったつもりがある(はずだ)」ということになってしまう。そうなると、矛盾を感じる。認知的不協和がしょうじる。だから俺の言っていることをそのまま認めるということは、なんとなく、不愉快な感じがする。矛盾のあるうそを言われて不愉快な気持になる状態とおなじ状態になってしまう。けど、俺の話にはうそはない。きちがい兄貴の態度にうそがある。

これは、親父もおなじだから。そっくりなんだよ。まったくおなじなんだよ。家族にふたり、そういう人間がいるということがどういうことなのか、ほかの人はまったくわかってない。


2021年5月13日木曜日

「障害者だから、働けないというのは、あまえだ」……努力論(8)

「障害者だって働いている」ということを障害者に言う場合について考えてみよう。そういうことを言う人はどういうことを考えているのだろうか。


そういう人を言う人は「障害者だから、働けないというのは、あまえだ」「あまえてないで働くべきだ」「障害者だって働いているのだから、障害者だから働けないなんていうのはあまえだ」とかと考えていると思う。

しかし、これは、正しいのだろうか?

たとえば、Cさんは障害者なのだけど、働いているとする。そうなると、たとえば、Aさんが「自分は障害者だから働けない」と言った場合、「障害者でも働いている人はいる」「障害者だから働けないということはない」「障害者だから働けないというのは、あまえだ」とAさんに言い返すことができるのである。

しかし、ここでは、障碍のレベルがはっきりと語られてない。

そして、「働く」ということのレベルが語られてない。

ひとくちに「障害者」と言っても「障害のレベル」に差がある。また、障害がおよぶ範囲もさまざまなのだから、ある障害者が働いているからといって、別のある障害者が働けるとは限らない。

個々の障害者は抽象的な意味で、障害者の枠組みのなかに入る。

なので、一度、抽象化が行われると、個々人にとってどういう障害があるのかということが見えなくなってしまうのである。「抽象化」というのは「障害者という抽象化」が行われるということだ。いちど、障害者という言葉で、表現されると、Aさんの障害やCさんの障害といった、障害の個別性が失われてしまうのである。

もちろん、そういう「かんがえ」のなかでうしなわれるだけで、ほんとうは、Aさんの障害はAさんに影響を与え、Cさんの障害はCさんに障害を与える。だから、抽象化を行っても、個々人の障害は変化しない。

しかし、抽象化をしたために、個別性は捨象され、ただたんに、「障害者」という一個のまとまった存在として言及されるのである。

Cさんという障害者は働いている。だから、Aさんという障害者も働けるはずだというのは、正しくない理論なのである。Cさんが働いているかどうかは、Aさんの障害には関係がない。「障害者でも働いているのだから、(同じように障害者である)Aさんも働ける」という理論は、理論として破綻している。しかし、こういう理論を、使ってしまう人が多い。

障害者にとって適切な仕事場がないということは重要な問題だ。それは、日本では「無職」に対する風当たりが強いから、自意識にかかわる問題になる。

日本では「働いてない」というのは許されない状態なのである。ただし、働いていないということがゆるされない人は決まっている。だいたい二二歳から六五歳までの男性は、働いていないということがゆるされない。障害者ですら、二二歳から六五歳までの男性は働くべきなのである。

なおさら、障害者ではない者が働かないとなれば、ものすごくばかにされる。下に見られる。これは、障害者と健常者のボーダーラインにいるものにとってもおなじだ。

ともかく、日本では労働至上主義が成り立っているので、「働いていない」ということはゆるされないことであると考えている人が多い。

専業主婦と定年退職者は、ともに、無職なのであるが、「無職性」が低いので、本人たちもまわりの人も無職だとは考えていない。おなじように無職である専業主婦や定年退職者ですら、二二歳から六五歳までの男性が働いていない状態にはたえられない。そういう人間がいるということにたいへんな不満をもらす。たとえ、無職の男性が自分に直接迷惑をかけていなくても、二二歳から六五歳までの男性が働いていないということは感情的に「ゆるせないこと」なのである。
一般人だけではなく、無職である専業主婦と退職者と学生も、非・無職者の一般人とおなじようにそういう感情を持っている。ここには、注目しなければならない。

はっきり言ってしまえば、職場に適応できなくて、逃げるようにして職場をやめた人ですら、そういう感情を持っているのである。だから、「自分がゆるせない」というような感情におそわれる。あるいは、自分が軽蔑している無職に自分がなってしまったということについて、負の感情をいだくことになる。日本社会において無職であるということは、たいへんな、「スティグマ」だ。汚点なのである。

まとめると、障害には程度があるから、「障害者でも働いている人はいるから、障害者でも働ける」と考えるのは、まちがっている。そして、日本社会において無職であるということはたいへんなスティグマなので、ほんとうは働けない障害者は、精神的に追い込まれる。

 

2021年5月12日水曜日

「障害者でも働いているのだから、健常者が働けないということはない」 努力論(6)あたり


「人間働くべきである」と考えていて、なおかつ「努力すればできるようになる」と考えている人たちは、よく「障害者だって働いている」ということを言う。

この場合、五体満足である健常者に言う場合は「障害者だって働いているのに、健常者であるおまえが働かないということはゆるせない」という気持ちが込められている。

しかし、健常者のなかには障害者と健常者の境界線上に位置する者たちがいる。この人たちは、とりあえず健常者に分類されているだけだ。障害がしょうじる範囲がちいさい場合は、障害者とは分類されないが、しかし、その「障害がしょうじる範囲」が「仕事をする」ということに、致命的な影響を与えることがある。ようするに、生活する範囲では、障害があるように見えないのだが、いざ仕事をしようとすると障害がある部分が露見してしまう場合である。

しかし、健常者として生活しているのだから、もちろん、健常者として見なされる。見なされる場合は、自動的に「努力をすればできるようになる」とみなされてしまうので、単に、あまえているだけだということになる。だれが、だれにむかって「努力すればできるようになる」と言っているのかということが、ここでも問題になる。

何度も言うけど、その言葉を発する人が「努力すればできるようになる」と思っているだけなのである。だれが「努力すればできるようになる」かというと、その言葉を発された人ができるようになるのだ。しかし、これは、ただ単にその言葉を発する人がそう信じ込んでいるということでしかない。ほんとうに発された人ができるのかどうかはわからない。

ようするに、健常者のなかにも隠れた障害を持っている人もいるので「障害者でもできるのだから健常者ならできるに決まっている」とか「障害者でも働いているのだから、健常者が働けないということはない」とかという考え方はまちがっている可能性がある。

その言葉を発された人が健常者と障害者の境界線上に位置する人である場合と、ある範囲で見えにくい障害を抱えている人の場合は、その言葉はまちがいであると言える。 

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2021年5月11日火曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(5)「もっとできる」ようにしなければならない

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(本当は、「努力をすればできるようになる」という考え方が、社会に悪影響を及ぼしているという論考の、最後の部分になるけど、あいだをぬかして、さきに書いておく)。

番号をつけるとしたら(5)ぐらいかな?

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「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方があわさった場合、「努力してもできるようにならない人」にストレスを与える。このストレスは、自身の存在にかかわることなので、めったに消えない。常に、ストレスにさらされているということになる。

このストレスは、「努力してもできるようにならない人」本人にとっても、社会にとっても、よくないストレスだ。はっきり言ってしまうと、そういうふうに、「努力してもできるようにならない人」を追いつめるから、爆発する人が出てきてしまう。

もちろん、そういうストレスで爆発する人だけではないと思う。しかし、爆発する人のなかには、「努力すればできるようになる」と圧力をかけられたにもかかわらず、できなかった人が含まれていると思う。

ここで出てくる「爆発」というのは、ストレスが爆発して他人を傷つけるような行為をしてしまうことを意味している。何度も言うけど、部分にしかすぎない。ほかにもストレスになる理由あるので、ほかの理由で爆発する人もいる。

しかし、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方が両方とも成り立っている社会では、「努力をしてもできない人」は相当においつめられることになる。

また、「できる」というのが、ひととくらべてできるかどうかということなのだから、一応は、適応して働いている社会人も、たいへん強いストレスにさらされていると言っても過言ではない。単にできるのではなくて、「もっとできる」ようにしなければならないからだ。まわりの人の平均か、あるいは中央値よりはできるようにしなければならない。

けど、そうなると、平均があがっていく。けど、実際には「できない」人がいるので平均はそれほどあがらずにすむ。しかし、まわりの人との「比較」が「できる」とか「できない」といったことのベースになっているということは意識しておこう。

ようするに、一応は適応して働いている人も、「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすれば、もっとうまくできるようになる」という考え方の結合で、相当にストレスをため込んでいるものと想像できる。

「人間は働くべきだ」という考え方と「努力をすればできるようになる」という考え方は、日本社会において、人を仕事に縛り付ける役割をしていると思う。それは、多大な圧力をうむことになるので、両方ともうたがってみる必要があるのではないかと思う。

特に「努力をすればできるようになる」という考え方は、いままで見てきたように、理論的に、破綻している。すべての場合において努力をすればできるようになるということは言えないにもかかわらず、あたかも、すべての場合において努力をすればできるようになるというような文脈でその言葉が発せられるのだ。

この言葉を言われたほうは「できるようにしなければならない」のである。「努力をしてもできない」あるいは「努力をしてもできなかった」ということは、認められない。

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「できる」とか「できない」ということが、他者との比較によって出現する概念だということは、もっと、正確に論じなければならない。あとは、「できるようになる」という考え方と「もっとできるようになる」という考え方はちがうのだけど、おなじこととして認識されているところがある。「できるようになる」と「もっとできるようになる」は一度、別のこととして考えて、あとで、同じ意味を有している場合について考えようと思う。

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「努力して、できる楽しみ」はある。別にそれを否定しているわけではない。しかし、適応範囲が問題だ。適応範囲が自分であれば問題がない。適応範囲が「他人」だと問題がしょうじる。しかし、「努力すればできる」というのは、職場や学校において他人に発せられる言葉なのだ。それは、他人ができるようにならないとこまる人が言う言葉だ。適応範囲が自分自身なのであれば、問題はない。

「できないことでも、努力してできるようにすればいい」……本人がそうしたいのなら、もちろん、問題はない。できないと思っていたことが、できるようになれば、楽しいと思うこともある。他人におしつけるのは問題があるけど、本人が本人におしつけて、克服する状態……あるいは、できるようにする状態を楽しんでいれば問題はない。

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「その場所で努力するのが肝心だ」という考え方がある。

 

 

俺がほかの人から悪く言われているとき、きちがい兄貴はその場にいない


 蚊が出た。このだるいのに、蚊!!!

めんどくさぁーー。
++++++++これ以降、言っていることがわからないかと思うけど、気にしないで+++
ときどき、このあいだ書いた「FAにはカセットインターフェイスがついてないんだよ」ってことを言いたくなる。あれ、頭にくる。ほんとう、言ってやればよかった。「なら、かっせとインターフェイスを買えばいいじゃない」と言われるのが、ほんとうに、いやだった。ぶんなぐりたくなる。「ほとんどのことができる。なにができないんだ? 言ってみろ」と、年上の俺に言いやがったな。ふざけるな。

+++++ここまで気にしないで(むかしい、こっちにもこのエピソードは書いた。けど、もう、公開してない+++++++++++

長期騒音がなければ、こんなことがなかったのに……。長期騒音がなければ、俺は一〇年ぐらい早くパソコンを買えたので、こういうことを言われなくてすんだ。長期騒音を打ち消すためにステレオセットを買ってまったんだよな。ともかく、すべてが、ゆるしがたい。俺の立場がないんだよ。長期騒音で俺の立場がない。年上後輩なんて、みっともない。そういうことになってしまうだろ。なっとく、いかない。いかないなぁ。きちがい兄貴がたたらなければ、ほんとうに、そういう細かいいやなことを経験しなくてすんだ。きちがい兄貴がかかわってないようなことなんだけど、きちがい兄貴がかかわっている。

それにしても、ほんとうに、きちがい兄貴がその場にいないし、きちがい兄貴はきちがい兄貴が、かかわっていることだと思ってないわけだけど、きちがい兄貴がかかわっている。鳴らされているときの猛烈な怒りといったら、ない。ヘビメタ騒音というのは、きちがい親父とかかわっている時とおなじなんだよ。きちがい親父に、しつこくやってやるやってやると言われている時とおなじなんだよ。きちがい兄貴にわかるように言ってやると、きちがい兄貴が「このハンダゴテは使えない」と親父に言っているのに、親父が絶対の意地で認めないときとおなじだ。腹がたつだろ。実際、きちがい兄貴は、親父にそういうことをやられて、腹をたてていた。そりゃ、「さいちゅう」だからね。親父が、使えないハンダゴテを、押しつけたわけだから、親父は、「かかわっている」。けど、きちがい兄貴が、技術科の教室で「おまえ、こんなの使えると思っているのか」と教師に言われたとき、きちがい親父は、当然、その場にいない。自分が押しつけたと教師に言ってくれるわけではない。だから、親父は、知らない。けど、うちの人間の問題はそういうところだけではない。言語で説明されてもわからないのだ。「おまえ、こんなの使えると思っているのかと教師に言われた」ということを、どれだけ親父に説明しても、親父はきちがいだから、それがなにを意味しているかわからない。意識的にはわからない。無意識的には理解して反対語を言ってはねのける。きちがい親父にできることは、真っ向から否定することだ。「つかえる!!つかえる!!」「なんだそんなの!!」と発狂して、絶叫する。きちがい親父の頭のなかでは、自分が出してやったハンダゴテは、兄貴からそういう説明を受けたあとも「使えるハンダゴテ」なのである。教師が使えないと言ったということを説明しても、そんな説明は絶対に認めない。認めないし、認めないということも認めない。

きちがい兄貴の場合も、きちがい親父の場合とおなじだ。きちがい兄貴のヘビメタのことで……俺がほかの人から悪く言われているとき、きちがい兄貴はその場にいない。けど、きちがい兄貴がかかわっている。きちがい兄貴が、めちゃくちゃな意地で、ヘビメタを鳴らしてなかったら、そんなことにはなっていない。

きちがい兄貴は、認めてしまったら、自分がしずかにしてやらなければならないことはどんなにあきらかなことでも認めない。きちがい親父は、自分が認めてしまったら、金を出さなければならないことは、どんなにあきらかなことでも認めない。兄貴は無意識的にしずかにしずかにしたくないわけで、自分が「本当にしずかにしてやるのは」絶対にいやなんだよ。しずかにしてやるとしたら、自分がやりたいやり方でしずかにしてやるということにこだわる。けど、きちがい兄貴のやり方でしずかにするというのは、実際にはまったくしずかにしないということなんだよ。だから、相手にとってはまったく意味がない譲歩なんだよ。きちがい親父のハンダゴテというのは、相手にとってまったく意味がない譲歩……が具現化したものなのだよ。これも、使えないハンダゴテなのだから、意味がなぃ。けど、「ハンダゴテは出してやった」という名目上の理由がつく。きちがい兄貴の「しずかにしてやった」というのも、ただ単にきちがい兄貴がそう思っているだけで、ほんとうは、まったくしずかにしてない。親父の場合兄貴が「ハンダゴテをもっていかなければならない」と言ったからハンダゴテを出してやったわけで、ハンダゴテを出してやったのだから、それでいいのだということになってしまっている。きちがい兄貴の場合は、自分のやり方でしずかにしてやったにしろ、しずかにしてやったのだからいいのだということになってしまっている。けど、相手にとってはまったく意味がない譲歩なのである。譲歩になってない譲歩なのである。きちがい兄貴が静かにしてやったつもりで、きちがい的にでかい音でヘビメタを鳴らすから、こっちはこまった。こまっていたんだよ。何時間も何時間も、中間試験だろうが、期末試験だろうが入学試験だろうが、鳴らしやがって。その日、休みで一三時間鳴らせるなら、絶対の意地で一三時間鳴らしやがって。それで、「ゆずってやった」だからな。きちがい親父とやっていることが、おなじなんだよな。兄貴はきちがい親父とおなじ。その日が、早帰りで、九時間鳴らせるなら、九時間絶対の意地で鳴らして譲ってくれなかった。俺がどれだけ「明日も試験だから、やめてくれ」と言っても、一分もやめてくれなかった。それなのに、譲ってやったと思っている。試験勉強の邪魔をしてないと思っている。「試験の邪魔だ」「これから、試験勉強をするから静かにしてくれ」と言われても、親父のような気持ちになって、親父のような態度で鳴らし続けた。親父のように、相手が言っていることが「まったくわからない」のである。何万回言われても、まったくわからない。きちがい兄貴の態度と、親父の態度がおなじなんだよ。きちがい兄貴の感覚ときちがい親父の感覚がおなじなんだよ。ほんとうに、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、きちがい親父のハンダゴテとおなじだ。こっちが、どれだけ兄貴のヘビメタ騒音でこまっているということを言っても、こまっているということを認めない。きちがい親父のように反対語を繰り返すということはなかったけど、おなじなんだよ。親父にも無言バージョンがあるからね。はねのけておこったとたんに「言われてないことになっている」。「言われなかったからぜんぜん知らない」という態度になっている。ほんとうに、そういう認知が成り立っているのである。だから、何万回言われても、一回も言われてないことになってしまう。きちがい兄貴ときちがい親父は、そういうところで、まったく同じなんだよ。兄貴の態度は親父の態度のコピー。瓜二つ。おなじ!!

*きちがい兄貴の場合、反対語バージョンが出てくるのは一六年目以降。

 *     *     *
(これにはちょっといきさつがあるんだけど、説明する気になれない。簡単に説明すると、28歳の女性アルバイター(パート)が、もってくるコーヒーカップが、性格をあらわしているというようなことを言い出して、ぼくのは、ぼくの性格をあらわしてないと思ってのだけど、28歳の女性アルバイター(パート)に言わせると、ぼくがのコーヒーカップはぼくの性格をよく表しているものらしいのだ。28歳の女性アルバイター(パート)は、持ってきているコーヒーカップや湯飲みが、その人の性格をあらわしていると言っていて、その流れで……)

あとは、俺が所長の湯飲みを「えらそうな湯飲み」と言ってしまったのには理由がある。所長の湯飲みが、きちがい親父の湯飲みとおなじなのである。そっくりなのである。俺が幼児のとき、きちがい親父が怒り狂って、俺を虐待していたわけだけど、そのときに使っていた湯飲みと、おなじなのである。だから、「えらそうな湯飲み」と言ってしまった。所長が「えらそうななのかな?」と気にしてしまったのだ。俺は、「えらいんだからいいじゃないですか」と言っておいたけど、「親父に虐待されていたころに見た!親父の湯飲みとおなじような湯飲みだから、ついそう言ってしまった」とは、言えないんだよね。全体が深い緑色で、薄い黄色の文字で寿司のネタが書いてある湯飲みなんだよね。緑色は、かなり、黒に近い緑色だ。

 「ぼくがおさなかったころ、親父がぼくのことを虐待ていたのだけど、そのころに親父が使っていた湯飲みにそっくりなんですよ」って、言えないよ。ここでは、虐待系のことについていろいろと説明しているけど、普段の生活のなかでは、なかなか言えない。特に、アルバイトとはいえ、職場では言えない。


2021年5月9日日曜日

えらそうなことを言っているやつは、俺と一緒に生活しているわけではない 感覚がずれた人にやられた人じゃないとわからない。

ヘビメタ騒音「で」どーーーーーーしても、人生がない。全部が不可能になる。やりたかったことがまったくできない。やりたかったことがどうしてもできない人生になってしまった。

そして、きちがいヘビメタのつらさが、ほかの人にはわからないのである。ぼくのハンディがほかの人にはわからない。ほかの人は、ヘビメタ騒音を一分も経験してないし、うちの兄貴によるしつこいヘビメタ騒音が毎日毎日、何時間も何陣も鳴っている状態を経験してない。そうなると、「思うこと」がちがう。このちがいが、でかすぎる。

「どんだけ」と思う。

けど、そんなのは、関係がない人間には、ほんとうにまったく関係がない。なので、ヘビメタ騒音ぶんを無視して、俺と対峙することになる。そうなると、砂糖のような普通の人が「敵」になる。「どうにかなってくれ」としつこく言ってくるかつての親友が「敵」になる。

そりゃ、やられてないという意味で、きちがいヘビメタ騒音が、わからない……。わからないやつばかりだ。俺以外の人間は、うちの兄貴のヘビメタ騒音を経験してない。毎日、深夜、どういう気持ちになるかわかってない。毎日、深夜、どういうからだの状態になるかわかってない。

宿題ができないまま、横になっているということになってしまう。

「一度、寝てから、午前四時ぐらいに起きてやればよいのでは。それなら、しずかな時間に勉強ができる」。きちがいヘビメタ騒音が毎日毎分毎秒!!鳴っているような状態で、生活してない人には、わからない。

家に帰って、ヘビメタ騒音ががんがん鳴っているなかで、眠れるわけがない。

俺の部屋ではそうだ。お母さんの部屋では眠れた。

けど、これだとお母さんが寝る場所がなくなってしまうので、けっきょく、二か月ぐらいで、「やっぱりむりだよ」と言われてやめた。お母さんは、当時も、具合が悪かった。最初は、俺が寝ているあいだ、起きて、テレビを見ていたのだけど、それが、つらかったみたいなのだ。だから、お母さんの部屋で寝るということは、できなくなった。

で、お母さんの部屋で寝る場合も、二時間ぐらいの仮眠だ。たとえば、午後四時二〇分から、午後六時二〇分まで寝るにしろ、そのあいだ、がんがんヘビメタが鳴っているわけだし、午後六時二〇分から、自分の部屋に戻って、「宿題をする」ということが、どーーーしても、できない。

これも、ヘビメタ騒音が鳴っていても、「宿題ぐらいできる」という考えたを持っているやつが、えらそうなことを言うのだけど、「できない」。

で、そういうえらそうなことを言っているやつは、俺と一緒に生活しているわけではない。「うちの」ヘビメタ騒音を、俺の部屋で経験しているわけではない。そういうやつが、偉そうなことを言うな!! という気持ちになる。この気持ちは、相当に怒りを含んだ気持ちだ。

しかし、そういうことを言うやつは、なんで俺が怒っているのかわからない。俺が怒れば、「ただ、意見を言っただけなのにエイリさんが怒った。エイリさんは未熟だから怒った」と思うのだ。裏切られた気持ちというのがある。それは、きちがい兄貴に対する感情だ。ぼくが鳴らされているあいだ、いつも、きちがい兄貴は、「うらぎって」鳴らしていた。普通なら絶対にわかることを理解しない……そういう態度。きちがいおやじとおなじ態度だ。これは、感覚に対する裏切りでもあるのである。きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚を裏切って鳴らしていた。耳が正常なら、絶対に「でかい音だ」「でかすぎる音だ」ということがわかるのである。けど、そういう現実を無視する。現実を無視しているということを、きちがい的な意地で認めない。これは、感覚に対する裏切りなのである。本人が本人の感覚を裏切っている……わけだが、これは、同時に、「でかい音だ」ということは、耳が正常なら、「認識するはずだ」という俺の感覚も、裏切っている。そういう、嘘くさい態度があるのである。けど、嘘くさいと言っても、嘘をついている本人が、嘘だと思っていないわけで、そういうところに対する「怒り」がある。そりゃ、「認めずに鳴らしていれば」そういうことになるだろ。ハンダゴテ事件で、きちがいおやじが、きちがいおやじが持ってきたハンダゴテが「使えないハンダゴテだ」ということを一切合切、認めなかった。これは、そういうスイッチが入ったら、どれだけ説明がうまい人が説明しても認めないのである。

だから、そういう意味で「感覚を裏切っている」。

この、感覚が正常なら、本来、説明しなくてもわかることがわかってないという「嘘くさい」態度……が、むかつくのである。怒りを感じるのである。怒りを感じざるを得ないのである。それは、やられた人じゃないとわからない。感覚がずれた人にやられた人じゃないとわからない。

で、感覚がずれた人が、一緒に暮らす家族だと、問題がでかくなるのである。会社や学校という、公共の場所とは違う問題がある。そして、きちがいおやじにしろ、きちがい兄貴にしろ、公共の場所ではめったに、そういうところでは、そういうことをめった死にしないのである。うちのなかなら、一〇〇%の時間、一〇〇%意地でそういうことをする。

けど、そういうことをしているいうつもりが、これまた、一〇〇%ない。

そういう、「ずるい」やりかたなんだよ。自分の感覚をだまして、普通なら絶対にわかることを認めないでやり切るという……きちがい的な態度。しかも、本人は、それに無頓着なのである。「やったってやってない」ことなのである。

 

 

2021年5月8日土曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(2)言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる

「努力論」は、「努力をすればできるようになる」という理論だとする。

これは、宗教的な信仰に近い。

自分が自分に適応しているのであれば問題はないけど、相手に適応するのであれば、問題がしょうじる。どうしてかというと、「相手が努力をしてない」という認識にたって、相手を責めることになるからだ。

それは、いつまで続くかというと、Aさんができるようになるまで続くのである。

つまり、Aさんは、その作業ができるようにならないと、Bさんの叱責から解放されない。

しかし、ほんとうに、Aさんが「できない」ことを「できない」と言っている場合は、できないのだから、努力をしてもできないということになる。

Aさんが努力をしてもできないことを、「努力をすればできる」という幻想を持っているBさんが指導をすると、Bさんの幻想通りに動かないAさんが、Bさんにとってはゆるせない存在になってしまうのである。

だいたい、「努力をすればできるようになる」という幻想は、まちがっている。

そんなことが成り立つなら、「障害」という概念自体がない。

しかし、障害という概念がある。

これは、「努力しても、できない人がいる」ということを意味している。

たとえば、Cさんがコミュニケーション障害者だとする。その場合、Cさんは、努力をしても、相手の表情を読み取れるようにはならない。もし、Cさんが、相手の表情を読み取れるようになるのであれば、Cさんはコミュニケーション障害者ではないということになる。

これは、身体障害者の場合もおなじだ。たとえば、たつことができないという障害がある人がいるとする。この人が、普通にたてるようになるのであれば、その人は、普通にたてるようになった時点で、障害者ではなくなる。

もし、「努力をすればできるようになる」という幻想が正しいのであれば、たつことができないという障害を持っている障害者は、「たとうと努力すればたてるようになる」のである。

なので、「たとうとしない人が悪い」ということになってしまう。「努力をすればたてるようになるのに、努力をしないからだめなんだ」ということになってまう。「努力をすればできるようになる」のであれば障害者なんて、ひとりもいないことになる。

みんな、努力してできるようになればよいのだから……。

しかし、障害を持ってる人がいる。

これは、どれだけ努力しても、特定のあることができない人がいるということを、明示している。暗示じゃない。明示している。

 ある作業が、複数の行為の連続だとする。その場合、複数の行為のうち、ひとつの行為ができないのであれば、ある作業ができないということになる。Aさんは、ある作業ができないとする。その場合、Aさんが努力をしないからできないのか、あるいは、努力をしてもできないのかは、Bさんを含む他人には判断することができない。

もし、Aさんが努力をして、できるようになれば、それは、Aさんにとって努力をすればできることなのであるし、もしAさんが努力をしてもできるようにならないとするならば、それは、Aさんにとって、努力をしてもできないことなのである。

健常者が「ある行為」について努力をしてもできないということは、障害者が「ある行為」について努力をしてもできないということと、同じだ。その健常者にとっては、「ある行為」は障害者ができないようにできない行為なのである。

しかし、障害者が障害者であると認められているのであれば、条件がつくけど「ある行為ができない」ということは、他人から認められるはずだ。あるいは、比較的に言って認められやすい状態であると言える。

しかし、Aさんが健常者である場合は「ある行為ができない」ということは認められない。努力をすればできるようになるのだから、努力をしないAさんが悪いというとになる。

「努力をすればできるようになるのだから努力をしろ」と誰かが誰かに言った場合、言われたほうは、自動的に「努力不足だ」ということになる。

けど、「努力をしてもできないこと」はある。

その人は「努力をしてもできない」ということを言っているのに「努力をすればできるようになる」という悪の呪文を言われて、へこむのである。やる気をなくすのである。生きる気力がなくなるのである。その人は、時間の問題で、その職場をさらなければならなくなる。

努力をすればできるようになることなのに、できるようにならないのだから、さるしかないだろう。叱責され、こづかれ、なぐられても、できるようにならないのであれば、さるしかない。

しかし、その職場をさるにしろ、似たような職場にしかアクセスできない。なので、その人は、死を考えるようになる。なぜなら、「働かざる者、食うべからず」という共同幻想が成り立っているからだ。

(2)

 

*     *     *

2021年5月7日金曜日

「努力すればできるようになる」は悪の呪文(1)

 基本、相手が「できない」と言ったら「できない」ということを認めてあげることが必要だ。しかし、いまの世の中は、「できない」と言っても、「できない」ということを認めない。「できない」と言っている相手が、がんばってできるようになればいいと思ってしまう。

相手とか人というような言葉を使っているとよくわからなくなってしまうので、とりあえず、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、ある仕事場のある仕事ができなかった。その作業がうまくできないのである。なので、Aさんが「自分にはできない」とBさんに言ったとしよう。BさんはAさん上司で、Aさんに対して、Aさんの作業について、順序だてて詳しく説明をしていた。

しかし、Aさんが何回も同じ失敗を繰り返すので、最後のほうは、頭にきて、「どうして、できないんだ」「ばかやろう!!」というようなことをどなったとする。さらに、そのあと、Bさんは、Aさんをこづいた。しかし、そのあとも失敗し続けるので、しまいには、BさんがAさんをなぐった。

このばあい、悪いのはAさんだろうか? Bさんだろうか?

 まあ、暴力はいけないということになるのだろう。けど、なぐるかどうかは別にして、Bさんの反応は、ある意味、人間として当然だ。

基本的には、人間は、「自分が思ったとおりに相手が動かないと」腹が立つ生物なのである。じつは、「対人間」だけではなくて、「対物質」だって、自分が思ったとおりにならないと腹をたてるのが人間だ。

自分がなんらかの作業をしようとして、その作業がうまくいかないと、自分のことなのに、腹をたてたりする。なおさら、自分のことでなければ、腹がたつ。思い通りに動かない他人は、腹がたつ。これが、「人間の基本」なのである。

けど、思い通りに動かない他人が、まったく関係がない他人であれば、腹がたたない。その他人が、自分と同じ職場にいて、その他人がするべき仕事をしてないから、腹がたつ。

AさんはAさんで「人間は働かなければならない」と思って仕事をしているわけで、ほんとうは、その職場で働きたくはないのだ。

「なら、職場をかえればいいじゃないか」と思う人がいるかとは思うけど、Aさんが基本的にうまく仕事ができない人間なのであれば、どこに行っても、おなじ問題が発生する。「職場をかえればいい」というような助言は、うまく仕事ができない人間にとっては、まったく意味がない。

さらに、「はめ込まれている現実」というのがある。Aさんが実際にアクセスすることができる仕事というのは、だいたい決まっている。

さらに、職場の状態も、にたりよったりだ。

たまたま、「神職場」を引き当てることができないのであれば、Aさんは、ほぼ一〇〇%の確率で、次も同じような職場で、同じような仕事をするしかない。

ともかく、「人間は仕事をするべきだ」というような幻想が成り立っていると、仕事ができない人が、仕事をしなければならなくなるのである。

さらに、「(できないことでも)努力すればできるになる」という幻想が成り立っていると、仕事ができない人間がさらに追い込まれてしまうのである。職場で、ものすごくいやな思いをすることになるのである。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しようとしないやつがわるい」ということになる。「努力すれば、できるようになるのだから、努力しないやつがさぼっている」ということになる。「努力すればできるのだから、『できない』と言うのはあまえにほかならない」ということになる。

「努力をしてもできない」ということは認められないので、できない人は、できないということを他人からせめられることになる。叱責され、ぶんなぐられる職場にだれが行きたいと思うのか?

しかし、「ものこずくいやな思いをするのはいやだから、仕事をしない」ということも、認められない。どうしてかというと、「人間は仕事をするべきだ」という共同幻想が成り立っているからだ。

(1) 

これは、7日前に書いてためておいた文章です。べつに誰かの影響を受けて書いている文章ではありません。シンクロしちゃっているんだけど。

2021年5月4日火曜日

やられた人が、「がまんして」あるいは「のりこえて」人間的に成長すればそれでいいんだということになってしまう

 きちがい兄貴がどれだけ俺の足を引っ張ったか。きちがいおやじが、どれだけ、きちがい的なやり方で俺の足を引っ張ったか。

そりゃ、何十年も毎日積もれば、すごい量になる。けど、ほかの人にはそれがわからない。きちがい兄貴やきちがいおやじが、「普通ではない行為」をしていても、わからない。

きちがい兄貴やきちがいおやじにどれだけ言っても、きちがいおやじやきちがい兄貴は、わからないということが、ほかの人にはわからない。俺にかかわることであれば、なんであれ、やられたやつが悪いということになってしまう。

ともかく、ほかの人にはわからないレベルで、積み重なる。きちがいがきちがい頭を搭載していて、ごく普通に、毎日やるということが、ほかの人にはわからない。

こんなの、なおる、わけがない。

なおるわけがないのに、「エイリさんがお父さんにやめてと言わなかったのが悪いんだ」「エイリさんがお兄さんにやめてと言わなかったのが悪いんだ」ということになってしまう。 

さらに、頭の癖がある人がいる……という言い方で、頭の癖がある人やられた人は……あたかも、頭の癖がある人を、ゆるさなければならないという圧力をかけてくる。こういうひどい人たちもいる。この人たちは、自分がなにをやっているのかわかってない。

こういうやつらのなかには学者もいる。こういう学者は、頭の癖がある人が事件を起こすたびに、被害者を弾圧する。社会的な文脈としては、そういう学者の記事を載せているメディアはいいことをしたつもりになっている。

「人間性」とか「成長」というようなことを言う。やられた人が、「がまんして」あるいは「のりこえて」人間的に成長すればそれでいいんだということになってしまう。

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騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。

 

 

2021年5月3日月曜日

まったく関係がない人として、きちがい的な意地で迷惑行為をする


ずっとやられているのに、全体的な気分に影響がないなんてことはない。睡眠不足、体力消耗、兄貴の態度に対するイラつきがずっと続いている。きちがい兄貴の態度なんてないよ。ああいう態度はものすごく腹が立つということを、きちがいおやじとのやり取りで、兄貴は学習しているはずなのに、まったくわかってないんだよな。自分がきちがいおやじとおなじようなことを、俺にしているということがわかってない。自分の態度(きちがい兄貴の態度)がおやじの態度になっているということがわかってない。きちがい兄貴の気持ちや、その気持ちから出てくる言葉が、まさしく、きちがいおやじのそれらになっているということが、まったくわかってない。まあ、きちがいおやじも、自分がやっていることに関してはまったく無頓着で、さらに「やってない」ということになっているから、認知のしようがないのだけど……。その、自分が昂然としていることに関してまったく認知がないというのも、きちがいおやじときちがい兄貴で、おなじなんだよ。けっきょく、きちがい的な意地でやっていることは、きちがい的な意地で認めないということになっている。で、迷惑行為を、自分勝手な理由でやり続ける。けど、迷惑行為をしているということは、絶対に認めないのである。これは、いちおう知っているけど……認知しているけど、認めないということとは違う。最初からまったく認知してない。だから、認めないときに、「うそをついている」気持ちはない。別の言い方をすると、自分の認知とはちがうことを主張しているという気持ちはない。

自分が迷惑行為をめちゃくちゃに意地になってやっているのに、迷惑行為をしている「つもり」はないのだ。どれだけ言われても、みじんも、そういうふうに感じなのである。だから、本人はいつも「しらんぷり」なのである。関係がない人のつもりでいる。きちがいが、きちがい的な意地でやっているから問題が生じているのに、本人は、いつもいつも、まったく関係がない人のつもりでいて、まったく関係がない人として、きちがい的な意地で迷惑行為をする。けど、ほんとうに、迷惑行為をしているつもりがないのである。発狂して、やり切るのに、まったくそういうつもりがない。

認知全体がそういうふうにできあがっている。頭の構造が、そういうふうにできあがっている。だから、どれだけ言っても、無駄なのである。なのに、そういう頭の構造を(兄貴が)持っているということを、ほかの人は知らないから、「お兄さんに言えばいい」「お兄さんと話し合えばいい」と俺に助言する。あるいは、「ちゃんと言えば、お兄さんだってわかってくれるのに、言わないからダメなんだ」とか「ちゃんと説明しないからダメなんだろ」「話し合ううとしないからダメなんだろ」とかと言ってくる。「家族で話し合えばいい」というのは、おやじも含んだ話になるけど、おやじが兄貴と同じ頭の構造を持っているのだから、そういう頭の構造を持っていいるやつが「ふたり」そろうことになるんだぞ。これがどういうことだかわかるのか? わからないだろうな。

 

兄貴なんてどれだけ言ったって、知らんぷりだよ。「やめろ」と言われた瞬間だけ真っ赤な顔をして怒って、やり続ける。「絶対にゆずってやらない」という態度でやり続ける。けど、「ゆずってやらなかった」という気持ちはまったくないんだよ。それが、きちがい兄貴のやり方だ。おやじのやり方だ。ほんとうに、そっくりなんだよ。これ!!!

 ほかの人の人権はともかく、俺の人権はものすごく基本的なところでおかされている。無視されている。きちがい家族が俺の基本的な生きる権利を無視して、きちがい的な意地で、騒音を鳴らし続ける。しかも、本人はまったく何もしているつもりがないのである。どれだけ「こまるからやめてくれ」ということを言われても、まったくなにも認知しないまま、関係がない人としてやり続ける。きちがい兄貴がこだわって、鳴らしているからこまっているのに、まったく関係がないわけがないだろ。きちがい兄貴にしたって、よその家だったら、一分間だって鳴らせないようなでかい音で鳴らしているのに、鳴らしている張本人のきちがい兄貴が、それをまったく理解しない。絶対に、きちがい兄貴が、よそのアパートを借りていたら、あんな音じゃ鳴らせない。きちがい兄貴は、「よそ」で鳴らすなら、ちゃんと、ヘッドホンをする。そういうところが、これまた、きちがいおやじとおなじなのである。よその顔と、うちの顔がちがう。で、うちの顔は、きちがいなんだよ。絶対に自分が思ったとおりにやっていい」というきちがい的な思想がある。きちがい的な意地がある。で、そういう、思想や意地に関しては、これまた、まったく無頓着なんだよ。「そんなんじゃない」ということになる。言えば!「そんなんじゃない」と発狂することになる。この態度は「やめてくれ」と言われて発狂するときの態度とおなじだ。自分がやりたいことを「家族に」にとめられたら、発狂してしまうのである。発狂して、絶対の意地でやる。それなら、相手が「やめてくれ」と言っていることを、やり続けたということになるのだけど、そうならない。きちがいの頭のなかでは、そういうふうに理解されない。「やってない」ということになってしまう。相手がこまっているということも認めない。「やめてくれ」と言ってきたということも、記憶にとどまらない。「言われてない」という認知が成り立つか、あるいは、「言われてない」というような気分になる。「言われてない」という気分になったら、どれだけ言われたって、言われた感じがしない。気にもとめない。この「気にもとめない」という言い方が一番あっている。「やったのかやってないのか」ということに一切合切、関心がない状態になる。その場合、記憶としてはやったということが残っているとか、残っていないということは、関係がないことになる。だから、認知症とは違う。記憶としてやったということが残っていたにしろ……(相手の前で認めないにしろ)……残っていたにしろ、それは、気分的にはやってないのとまったく同じなのである。気分的には!! 一切合切関心がない状態で、またやってしまう。そうなると、「こまるので」俺がきちがい兄貴に言わなければならなくなる。そして、言う。けど、きちがい兄貴のなかでは、つもらない。こっちは、毎日、やられてつもっている。ハンダゴテ事件で、二日目に「使えなかった」と兄貴が言ったときの、きちがいおやじの態度とまったく同じなのである。のこらないんだよ。こいつらは!!! 一切合切、なにも残らない。一回、言われたあと、ゼロ回にリセットされる。だから、トータルで三〇〇〇回言われても、ゼロ回だ。毎日、一回言われるとして、毎日、ゼロ回にリセットされるので、三〇〇〇日目に、三〇〇〇回目を言われても、はじめて言われたことで、怒って、リセットしてしまう。「やめてくれ」ということを言われたら、自動的に怒るんだよ。怒ったら、怒ったとたんに、忘れてしまう。だから、どこまで言っても、「しらない」状態が成り立つ。こういうやつと、どうやって「相談」するんだよ。

張本人なのに、つねに関係がない人として、きちがいヘビメタを、こだわりの大音量で鳴らす。「やめてくれ」と言われたら、きちがいおやじの態度で怒って、おしまいだ。やり続ける。きちがい的な意地でやり続ける。けど、「やめろ」と言われたあと、「ずっとやり続けた」ということにはなってないのである。本人の頭のなかでは、そういうことをしたということになってない。

それなのに、他人は、「お前の説明が悪いからダメなんだろ」と言ってくる。そういうことの繰り返しで、いいわけがないだろ。

きちがい兄貴の態度でずっと騒音を鳴らされて、いいわけがない。

2021年5月2日日曜日

「負の言葉」を聞いたとき、「楽しい」と思えばそれで、不愉快にはならない


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 やっぱり、きちがいヘビメタでむりだ。もう、むりだ。どうして、きちがい兄貴はほかの人が信じられないような態度で、きちがいヘビメタを、こだわってこだわって、鳴らすんだ。俺がこまるだろ。

しかも、あかの他人からすると、俺が「ヘビメタ騒音にこだわっている」ように見えてしまうのである。

そりゃ、十代という若い時期に、毎日毎日、自分の時間が持てなかったということが、どれだけの影響を与えるか?

毎日なんだからな。休みが休みじゃないんだよ。休みの日は、朝から夜までやられて、くるしい。休みの日は、ヘビメタ騒音時間が七時間ぐらい増えてしまう。どれだけつらいか。

朝の九時一五分から夜の一一時一一分まで続くヘビメタ騒音がどれだけつらいか。三分だけだって、俺の精神が崩壊している。

どれだけくるしいか……。

鳴っている最中どれだけくるしいか、やられてない人はまったくわからない。

毎日続いているということがどれだけ精神や体に影響を与えるか? そして、人生ぜんぶに負の影響を与えるか? やられてない人はわからない。

長く、ずっと毎日やられてない人は、わからない。自分の人生のなかでそういうことがしょうじた人以外、まったくわからない。簡単に、考える。軽く考える。ちょっと俺が、愚痴を言わずにがんばれば、解決できる問題と思ってやがる。

「できるできる」と言えばできると思っている。ヘビメタ騒音「で」できない。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「できるできる」と言ったって、できない状態がかわらない。

頭が、がんがん、やられて、切羽詰まっている状態がわからない。それは、やられたあとつかれはてた状態で、「できるできる」と言っても、おなじだ。こういう、つらさがまるでわかってない。

人間は確かに、他人の、「負の言葉」に関しては、負の感情をいだく。

そういう、生き物だ。

けど、そういう負の感情よりも、ヘビメタ騒音が鳴っていたということのほうが重要なんだよ。負の感情には「総量」はないけど、かりに、自分には関係がない負の言葉を言われて不愉快になる度合いが、一だとすると、きちがいヘビメタ騒音に一秒間さらされることは、一兆ぐらいのことだ。

そのくらいに、ちがいがある。

けど、ほかのやつらは、そういうことを、体験的に知らないので、自分の感じた「一」の「不快」が気になるわけだろ。たしかに、それはわかる。わかるけど、もし、きちがい兄貴が俺にやったことがゆるされるなら、俺が「負の言葉」を言うことは、ゆるされることだ。「負の言葉」を言われても、気にしなければいいだろ。

こだわらなければいいだろ。
不愉快だと感じなければいいだろ。

「楽しい楽しい」と思えば、負の言葉を聞かされても、楽しい気分になるのだろ。

すべては感じ方の問題なので、「負の言葉」を聞いたとき、「楽しい楽しい」と思えばそれで、不愉快にはならないわけだろ。

「負の言葉を聞かされた」と思うのは、思った人がそういう現実をつくっているだけなんだろ。

だったら、「負の言葉を聞かされた」と思わずに、「たいへんに役に立つことを教えていただいた」と思って、楽しい気持ちになればいいじゃないか。
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騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。

 

2021年5月1日土曜日

きちがいヘビメタ騒音によって、他者から見た場合の、ぼくのグレードがさがった

これはもう、説明したから、簡単に言うけど……つまり、前のバージョンのほうが詳しい説明なのだけど……ヘビメタ騒音が、帰宅した時間から午後一一時一一分まで、鳴っていると、宿題ができない。

ヘビメタ騒音「で」その日の宿題ができないということは、次の日の用意をして眠れないということだ。

そりゃ、まるでできていないノートを、カバンに入れるわけにはいかない。ノートだけじゃなく、教科書も副教材もプリントもカバンのなかに入れるわけにはいかない。それは、現在使っている状態だから、おわった状態にしてカバンのなかに入れるというとができない。

そうなると、どうなるかというと、朝、用意をするということになる。そうなると、きちがいヘビメタ騒音のなかで用意をしたり、きちがいヘビメタ騒音で寝不足のまま用意するということになる。

ヘビメタ騒音で朝の四時か五時ぐらいまで眠れないので、朝の七時三四分ぐらいに起こされたときは、めちゃくちゃに眠たい状態で起きるということになる。そして、朝の七時四五分には、家を出ないと、どれだけ急いでも、遅刻をするということになっている。これは、データから導き出されている。

きちがいヘビメタという要素がわかってない友達は「あいつは、遅刻ばかりしてダメなやつだ」と思うわけだよ。口に出すか出さないかは別にして……。だから、ぼくの名誉の問題なんだよ。

きちがいヘビメタが鳴っているかどうかというのは、名誉の問題だ。

普通に、人がほかの人のことを認知する場合、ほかの人の日常的な行動を見て、その人の人格を認識するわけだから、直接、ぼくに、遅刻のことで文句を言ってこなかったにしろ、その人の認識に影響する。

「その人」とか「人」だとわからないから、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんが遅刻した場合、BさんのAさんに関する認識に影響を与える。Aさんが何回も何回も遅刻したのであれば、Bさんは「Aさんは何回も何回も遅刻するようなダメなやつだ」と思うようになる。

もちろん、それは、Bさんの価値観が影響をしている。遅刻する人間がダメな人間かどうかはわからない。けど、Bさんがそういう価値観を持っていれば、何回も何回も遅刻をする人を、Bさんは、だめな人間だとみなすようになる。

この場合、直接、遅刻のことがかかわってない場合でも、一度、Bさんのなかに「Aさんはだめな人間だ」という考えができあがっていると、BさんのAさんに対する態度や発言に影響を与える。遅刻に限ったことではなくて、ほかのことにも影響を与える。

Aさんがなにかを言った場合、Bさんのなかでは、「ダメな人間であるAさんが言ったことだからまちがっているにちがいがない」というような考えが浮かぶのである。人間というのはそういうふうにできている。

きちがいヘビメタ騒音によって、他者から見た場合の、ぼくのグレードがさがった。

猛烈にさがった。

極端にさがった。

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騒音サイコパス 20 

 

5月 1
日~ 5月 4日

の日程で無料公開します。感想など聞けるとうれしいですね。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。