風呂入ってきた。
あーーーーーーーーーー、いい風呂だった。
久々に良い風呂だ。どうして久々かというと、前回の風呂は、「風呂に入らなければならない」という気持ちで入った風呂であって、やりたくないことをやっている感じがあったので、あんまりいい風呂ではないのである。今回は、「入らなくてもいいけど、入ろうかな」と思って入ったので、いい風呂なのである。余裕の違いといっておこう。
なんかさ、たとえば、寒い日に風呂に入るの嫌でしょ。まあ、嫌じゃない人もいるかもしれないけど、俺は嫌なんだよね。けど、風呂に入って体を綺麗にしないと、白癬菌や雑菌にやられてしまうかもしれない。白癬菌や雑菌にやられてしまうのは、嫌だ。だから、入らなければならない……そういう風呂だと、「無理やり入る風呂」になる。
一方、夏で、暑くて暑くてしかたがなくて、「割と温度低めの、ぬるま湯の風呂に入ろうかな」と思って入った風呂は、気持ちが良い風呂になる。
同じ入浴ということをとっても、気持ちが違えば、結果が異なるのある。行為としては同じ入浴という行為なのだけど、やっている時の気分が違う。これを、利用する手はないかと思う。たとえば、本当は入りたくない風呂なのだけど、まず気分を変えることによって、いい風呂にしてしまうということができないかと考える。
ノウハウものだと、あたかも、そういう手がありそうなことが書いてある。実際、「気分を変えるための一〇個の方法」などというタイトルで、いろいろな人がいろいろなことを書いている。どれも、理論的には使えそうなのだけど、心底疲れているときは、そういう手も無力化してしまう。
方法論と、本当の気持ちの間には、ものすごいクレパスがあって、並大抵の理想論では、到底、太刀打ちができない。人間というのは、そういう言い換えができない部分があるのである。とりあえず、無意識の領域と、意識の領域を分けると、意識の領域で、どれだけ「風呂にはいると、これこれの効能があって、気持ちが良くなる」ということを考えても、気持ちが良くならない時がある。しかも、無意識的なところでは、「気持よくない」「しんどい」にもかかわらず、意識の部分で、「何とかしようと思って、自分をごまかすようなこと」を言うと、なんとも惨めな気持ちになってしまうのである。
だから、表層の「気持ちを変えるための10の方法」は、無意識的なレベルでの主観には、あまり良い影響を与えないといっていいと思う。けど、人間は、なんか知らないけど体調が良くなる時があり、その時は、普通に、「気持ちがいい」方向へ気持ちが無くのである。ならば、その「なんか知らないけど」の部分を明文化できなかと思うのが人類なのである。で、その方法というのは、やはり「気持ちを変えるための10の方法」になってしまう。無意識的なレベルでの主観には、あまり影響を与えないのである。
無意識的なレベルと、意識的なレベル……ここでは、同じ意味なのだけど、深層と表層ということを、分けて考えなければならないのではないかと思うのである。
けど、自分は表層レベルと批判されている「気持ちを変えるための10の方法」でずいぶん気持ちが変わったし、積極的になれたという人もいると思う。そうなると、表層レベルの「気持ちを変えるための10の方法」で気持ちが変わった人と、気持ちがかわらない人の違いはなんなのだということになる。
そうすると、たいていは、「気持ちを変えるための10の方法」で気持ちが変わった人がよくいわれて、気持ちを変えるための10の方法」で気持ちが変わらなかった人は悪くいわれるのではないかと思う。少なくても、そういう傾向があるように思える。
そうすると、「気持ちを変えるための10の方法」で気持ちが変わらないで、同じことを嘆いている人は、ダメ人間だと思われがちになる
うむ~~。こういうところでも、ダメ人間学になってしまうのだな。僕はダメ人間学を完成させなければ。
ということは、まあ、おいておいて、結論からいうと、深層の方の感情や体の調子のほうが、実際には表層の感情よりも、大きな影響を与えている。だから、表層の感情にしか届かない「気持ちを変えるための10の方法」はあまり、深層の方で深く傷ついている人には、あるいは、深層の方でとてつもなく疲れている人には、役に立たない。しかし、深層の方の疲れが、通常レベルの疲れであれば、それは、有効だということが言える。そして、深層の方の疲れの方は、表層レベルのキレイ事、方法論ではどうにも鳴らない部分がある。だから、深層の方の疲れを抱えている人には、別のアプローチが必要になる。ということが、いえるのではないかと思う。
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燃え尽きた人に対しては、たとえ、無職セミリタイア者でも、偏見を持っているということがわかってしまった。まあ、その人が無職セミリタイア者の代表じゃないから、その人が偏見を持っているということなのだけど……。無職セミリタイア者のなかで、どれだけの人が燃え尽きた人なのだろうかと考えると、燃え尽きた人は少ないのではないかと思う。ここでも少数派なのだ。
そりゃ、仕事はいやだけど、生活すること自体は楽しいというやつらが、セミリタイアしているわけだから、そっちのほうが、人数は多いよなぁ。無職セミリタイア者という少数派のなかでも、燃え尽きてどうにもならないタイプは少数派だ。あるいは、燃え尽きた人は、声をあげない。声をあげる気力もないという状態で、うずくまっていると思う。ブログで情報発信をしている人は、元気なタイプが多いのだろうと思う。俺は、執念で「書くこと」だけは続けているけど……。
しかし、無職セミリタイア者で元気な人たちも、仕事に関しては、「元気ではない」。仕事には対しては、ネガティブな意見を持っている。けど、生活全体に対しては……あるいは、人生全体に対してはポジティブな意見を持っている。なんでなら、浸食された部分が、「仕事」に限定されているからだ。浸食された部分の「大きさの問題」なんだよな。
セミリタイア者のなかでも、やっぱり、燃え尽きタイプと燃え尽きてないタイプ(元気タイプ)の差があるなぁ。
まあ、これ、理解しろというのが無理なんだよな。
問題なのは、ライフハック的な浅知恵だ。ライフハックは、問題解決とか言っているけど、問題解決にならない。だから、仕事に関しては脳内変換なんてできないやつが、生活に関しては、「こんなふうに脳内変換すればいいんだ」ということを言い出す。
これは、これで問題なんだけど、なんと言っても少数派のなかの少数派だから、問題だと理解できる人間が少ない。少数派のなかの多数派は、「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている。「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」と思っている人は、「だれでも」脳内変換が可能だと思っている。自分だって、仕事に関しては脳内変換して楽しむなんてことはできなかったくせに……。
いままで、言霊や認知療法と「たたかってきた」けど、ライフハック的な助言やライフハック的な浅知恵は、燃え尽きたタイプを「うちのめす」のである。ほんとうにしんどい問題を抱えているタイプを、ぶちのめす。「脳内変換して楽しんだほうが勝ちだ」という意見には、じつは、脳内変換は一〇〇%可能だという「前提」が含まれている。なので、脳内変換ができないということは、認めていない。
しかし、脳内変換ができない人はいる。なので、話がくいちがっていくのである。
「脳内変換が可能だ」と「脳内変換が可能だ」と言っている人が言う場合、じつは、「だれでも」という補足事項が含まれている。しかし、この条件に関しては、無自覚なのである。ようするに、言霊主義者のように、場合によって使い分けている。
脳内変換ができない人に脳内変換すればいいと言ってもむだだ。むだなんだけど、「脳内変換ができない」ということは、認めてないので、言ってしまうのである。もちろん、ほんとうは、自分自身だって「脳内変換」できない分野はあるのだけど、それに関しては、無自覚なのである。あるいは、人に言う場合と、自分のことの考える場合で、「気分」がちがってしまっている。「気分」の違いが「補足事項」の有無にあらわれる。
「できない」から、こまっている人に、「(できるから)すればいい」と言ってもむだなのに、むだだと思ってない。「できないからこまっている人」はいないと思っているから、「やらないからだめなんだ」というような感情が沸き上がる。こういう場合は、基本的に「努力」の問題になる。「根性」の問題になる。「脳内変換すればいい」と「つまらないと言っている人に」助言する場合、「脳内変換すればいい」と言っている人は、『つまらないと言っている人も脳内変換することができる』と思って言っているので、「つまらないと言っている人」が「できない」ということを言い出すと、『それは、努力しないからだ』『努力がたりないからだ』と思ってしまう。ほんとうに「できない」場合を、根底では認めていない。「だれでもできる」と思って発言しているので、できないとしたら、「努力しないから、できないんだ」「やろうとしないから、できないんだ」と思ってしまう。
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手短に言うと、俺だって、ヘビメタ騒音にやられてなかったら、浅知恵をふりまわしていたと思う。きちがいおやじ……毒親にやられただけであれば、浅知恵ライフハックをふりまわしていたと思う。 毒親にやられて、なおかつ貧乏家出身なのに、努力で、いまの地位を勝ち得たという気分になっていたと思う。「俺が、どれだけ努力してきたか」と言っていたと思う。毒親・貧乏という二重苦(ハンディ)を自分の努力と才能で跳ね返したというプライドを持っていたと思う。