「人にあたえることでしあわせになれる」「人にお金をあげることで、お金がしあわせをつれてくる」というような考え方がある一方で、「できないやつはくず」というような考え方もあるのだ。
普通に考えれば、お金がない家に生まれた人は、「いやな仕事」「もうからない仕事」を押し付けられがちだ。
そして、底辺に行けば行くほど、「過剰な労働」を求められるようになるのである。「
障害者も働くべきだ」というキラキラ理論のかげには、いろいろな不幸がある。
たとえば、知的障害者が、障害者雇用に志願したけど、雇われなかった場合、自力で障害者雇用ではないという意味で、普通の仕事を見つけなければならなくなるのだけど、その人の能力を超えた仕事を押し付けられるようになる。
世の中は、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」でいっぱいなので、「がんばってできるようになる」ことを押し付けられる。できなければ、なぐられるというような状態になる。なぐられるかどうかはわからないけど、まあ、最低でも怒られるということになるだろう。その場合、怒られて、できるようになれば、いちおうは、問題はない。
けど、どれだけ怒られても、「できるようにならなかったら」どうなるか?
やめざるを得ない。
しかし、やめたところで、また、同じような仕事をするしかないという事情がある。しかし、同じような仕事でさえもやはり務まらないので、けっきょくはやめるということになる。そういうことを繰り返していれば、転職歴が増えるということになる。
あるいは、怒られて、仕事をやめたあと、次の仕事を始めるまでの期間が長くなるのであれば、ブランクがしょうじることになる。無職期間が長ければ長いほど、次の仕事にありつけなくなるということになる。
そして、そういう人たちがありつける仕事というのは、これがまた、人権無視のひどい仕事なのである。
基本的には、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」は、人を追いつめるような効果しかない。
できてたら、苦労はしてないのである。
「できると言えばできる」とか「努力をすればできるようになる」とか、そういうことが成り立たないから、できない人はこまってしまうのである。
いちおう、通りがよいように、知的障害者の話にしておいたけど、ギリギリ健常者でも同じことが成り立つ。むしろ、障害者ではないということが、ギリギリ健常者を追いつめるのである。
そのしくみは、いままで見てきたようなしくみと同じだ。『ギリギリ健常者』ではなくても、『できないほう』に入っている人たちはいる。その人たちにとっては、その作業は、ほんとうにできないことかもしれないのだ。
しかし、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」の流行が、より不幸な状態を作り出してしまうのだ。「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」を信じている人たちが、「できない人」を追い込むような状態ができあがってしまう。
しかし、その一方で「あたえればしあわせになれる」というような「純粋にとぼけたこと」や「性善説に基づいたきれいごと」が言われる。これは、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」の「うら」なのである。補完しあって、できない人を、追いつめる。最悪、自殺に追い込む。
認知療法の理論は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」に入れておかなかったけど、ほぼ同じ役割をする。内因性のうつ病患者以外、救われない理論が認知療法の理論だ。
けど、うつ病患者という「くくり」にしたばあい、いちいち、そんなことを気にするかね? うつ病患者は認知がゆがんでいるということになる……。
認知療法の理論に従えばそうなる。
けど、ぼくは、認知がゆがんでないにもかかわらず、うつ病になっている人たちがいると思う。それから、上記の記述との関連で言えば、たとえば、「仕事ができない」という認知を持っている知的障害者の認知は、ゆがんでいない。
そりゃ、現実の世界で、現実的にどうしてもわからないことがあり、仕事ができないのだから、「仕事ができない」という認知は、ゆがんでいない。
もちろん、その場合の「仕事」というのは、抽象的な「仕事」なるものではなくて、その職場の特定の「仕事」である。「なら、職場の人にたのんで、できる仕事をさせてもらえばいいじゃないか」というようなことを「関係がない人」は考えるかもしれないけど、たのめば、その人ができる仕事をあたえてくれるのかというと、そうではないと思う。
そういうレベルのことで、問題が片づいているのであれば、問題になってないと考えるべきだ。理想的な職場ではなくて、底辺の職場で働いているということを考慮しなければならない。
仕事ができない人が追いつめられる状態と「あたえることでしあわせになる」というような性善説に基づいた考え方が同居している状態だ。「あたえることでしあわせになる」ということを信じている人がたくさんいるのであれば、仕事ができない人に金をぜんぶ渡してしまえばいいじゃないか。
ところが、そういうことは、特別な美談にしかならない。数がすくなくて、まれなことだから美談として語られるのである。ようするに、普通に行われないことだということを意味している。美談は美談で、いろいろな条件が、じつは成り立っている。しかし、その条件を無視する人たちが、美談に感動するということになる。
実際の場面で、美談に感動した人が、こまった人に全財産に近いお金をあげるかというと、あげない。半分もあげない。四分の一もあげない。八分の一もあげない。一六分の一もあげない。あげないかわりに、説教をしはじめるのである。
その説教は「できないなんてことはない。あまえているだけだ」というような考え方がベースにある説教だ。「できない」ということを認めてないのである。なので、こういう人に必要なのは、まず、「できない」ということを認めるということになる。
Aさんが障害者で「できない」と言っている場合、Aさんはできないのだなと認識してあげることが必要だ。しかし、障害者教育の専門家も「障害者が働くことはすばらしい」という考え方にとりつかれていると、「できない」ということを認めずに、「自分に合った仕事を見つけて働くこと」を推奨することになる。
しかし、「自分に合った仕事」がないのである。
しかし、これも、働くことを推奨する人が「見つけようとすれば見つけられるはずだ」という考え方に支配されている場合は、その障害者が「見つけらない」と言っても、見つけられないということを認めないということになる。
「がんばれば見つけられる」という努力論的な考えに支配されているので「見つけられない」ということは認めない。がんばれば見つけられるのだから、がんばればいいということになる。ともかく、「なんだろうが、仕事はできるはずなので、障害があるから仕事ができないということはない」という考えに立って、説教をしてしまうのである。
いま、『障害者』ということで説明したけど、『ギリギリ健常者』でも同じだ。しかし、ギリギリ健常者健常者は『健常者』なので、いま述べたようなことを、もっとはっきりと言われるということになる。
つまり、ギリギリ健常者が「できない」と言っても、できないということは認められず、「できる」という前提で説教をされるということになる。
しかし、その説教は、的を得ていない。
ギリギリ健常者が「できない」と言っているにもかかわらず、「できる」という前提でものを言うということが、不適切なことなのである。「できる」には「できる」と「努力すればできる」という二種類の「できる」があるけど、両者は同じ意味でつかわれているので同じ意味を持つということにしておく。
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手短に言うと「あたえることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような一見、よさそうな考え方が、じつは、「できない人」を追い込むのである。 「与えることでしあわせになる」というような性善説に基づいた考え方「受けの言語」は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった「攻めの言語」と対になってあらわれ、「できない人」を攻撃するのである。
これは、首を絞めるような効果がある。
実際には、できない人を追いつめるのは……自殺においつめるのは……一見よさそうな「攻めの言語」と一見よさそうな「受けの言語」なのである。
「できない」と言っている以上できないということを認めてあげたほうがいい。「できる」と説教するよりも、できないということを認めてあげたほうがいい。もし、ほんとうに、あたえることで幸福になるなら、「できない人」に直接、あたえて、幸福になればいい。
そして、はっきり言うけど、たとえば、「できない」と言っている人のうち、ほんとうはできる人がいると思う。その人は、人をだましして、たとえば、生活保護や障害年金をもらうということになる。だから、「できない」といっている人のうち、できる人とできない人がいるという問題がある。しかし、これに関して言うと、「できない」ということにしておいたほうが全体の損傷が小さくなる。
自殺を減らすには、じつは、 「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった攻めの言語を減らし、「与えることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような受けの言語を減らすべきなのだ。
社会に、攻めの言語と、それを補う受けの言語が流布しているので、「できない人」は死ぬしかないということになる。そういう圧力が、うみだされる。一見わかったような話である「受けの言語」も、じつは、攻撃的な言語だということに気がつかなければならない。
気がつくわけがないだろうけど。
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努力してできるようにすることが、わるいことなのか?と思う人がいるかもしれない。いちおう説明しておこう。努力してできるようにすることは、わるいことではない。けど、ひとが、できないということを認めないのはわるいことだ。
たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、努力をしてできるようにすることは素晴らしいことだと考えているとする。 実際にAさんは、いままで、できなかったことができるようになったことがある。そのとき、快感を感じた。そして、Aさんは「どんなことでも努力をすればできるようになる」と思ったとする。なので、そういう信念に従って生活していたとする。これは、別にいい。
しかし、Bさんができないということを、Aさんが理解しないというのはよくない。別の人の話……。ほかの人の話……。ほかの人が「できない」と言っている。ほかの人が「できない」と言っているのに、ほかの人ができると思うのはよくない。それと、「努力をしてできるようにする」ということ自体はちがう。
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「美談」に感動した人も、実際には、生活保護をもらっている人をたたく。あたえることでしあわせになるのであれば、税金をとおして、生活を保護をもらっている人に金をあげていることになるのだから、問題はないはずだ。特に、慈善活動をしてない人も、税金をとおして、お金をあげていることになるから、心配するな。だいじょうぶだ。税金を払うことにしあわせを感じればいい。
できない人は「あたえないから」不幸なのだという、因果関係を逆転した理論も成り立ってしまう。精神世界の人は、因果関係を逆転させた理論が大好きだからな。
できない人は、人にあたえない。そして、不幸だ。その場合、「あたえることでしあわせになる」と言うのであれば、「できない人は、あたえないから不幸なのだ」という連想が成り立ってしまう。そりゃ、できない人は、現にあたえず、現に不幸なのだから、そういうふうに「見える」。
実際には、できない人に、個人的に、直接、全財産をあたえようとする人なんていない。ちゃんと、なんとか団体に寄付とか、かっこうがつく形じゃないとだめなのである。
できない人は、できないということを認められず、できるようになる努力をしてない人だということになるのである。普通の人にとって『できない人』はそういうふうに見える。
できないことは、ともかくとして、できないのに努力をしない人はだめな人間なのである。努力をすればできるようになるのだから、できない人は努力をしてないということになる。そして、できない人が不幸であったり、できない人が金を持ってないのは、自業自得だということになる。「自己責任」だから。
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