2021年8月30日月曜日

「しあわせを感じる」という場合の持続時間を問題にしなければならない

「しあわせだと感じること」はかならずしも、しあわせだということではないのである。しあわせだと感じたとして、その持続時間が問題なのである。たとえば、いじめられて自殺を考えている女子中学生が、道で出会った、中年の女性に道を聞かれたので、丁寧に答えてあげたとする。その場合、その女中学生は、中年の女性に親切にした可能性が高い。中年の女性が「ありがとう」とにこにこして言ったとしよう。この場合、その可能性はかなり高くなる。ぼくが、作者なので「還元」はおこなわずに、親切にしたということにしておこう。そして、女子中学生は、一瞬幸せを感じたとしよう。けど、学校に行けば、いじめが始まる。学校に行く道のとちゅう……中年の女性とわかれたあと、どんな気持ちになるだろうか。自分がいじめられるような「学校」に行かなければならないというのは、気持ちが重いものではないだろうか。このとき、自殺を考えている女子中学生は「しあわせ」なのだろうか。ぼくが作者なので、しあわせではないということにしておく。問題は、親切にすればしあわせになる」ということが、そんなには簡単に成り立たないということだ。しかし、ニュートラルな人を集めて、人に親切にしたときに幸せを感じましたか、不幸せを感じましたか、なにも感じませんでしたか? と訊けば、たいていの人は「幸せに感じた」と答えてしまう。ならば、それが、一〇〇%成り立つのか。仮説をたてたとする。「人は、人に親切にしたときしあわせを感じる」という仮説を立てたとする。そして、アンケートでなくてなんらかの心理的な実験を行うとする。その場合、仮説の検定を行う時点で、確率論になる。けど、それを無視して、「人は、人に親切にしたときしあわせを感じる」という仮説は正しいと言ってしまった場合、ある種の誤解がしょうじるのである。

「しあわせを感じる」という場合の持続時間を問題にしなければならないのだ。そして、「くるしく感じる」「いたいと感じる」「かゆいと感じる」「いたがゆいと感じる」「怒りを感じる」「不愉快に感じる」「悲しく感じる」「不安を感じる」といった、ネガティブな感情の持続時間を考えなければならない。一日に一回、一分ぐらいしあわせを感じれば、一日に二三時間五九分、不しあわせだと感じていても、しあわせなのだろうか。

 

2021年8月27日金曜日

読めば、だれでもしあわせになれるような幸福論なんてあるわけがない。矛盾している。

 これ、言っちゃって、いいのかどうかわからないけど、……。どうするかな。あんまり、細かいことを言うのは問題があるしなぁ。けど、言っておくか。

いや、いいや。やめておこう。

ともかく、だれもが幸せになれる幸福論なんてないということだ。だいたい、年収八〇〇万円までは、年収と幸福感に正の相関関係があるとする。そして、年収八〇〇万円をこえたところから、年収と幸福感に負の相関関係があるとする。その場合、年収八〇〇万円以上の人は、不幸に感じる必要がないのに、金がありすぎて、不幸に感じているというような仮説が立てられる。

そういう場合、年収八〇〇万円以上の人に対する幸福論はあるかもしれないけど、年収一〇〇万円未満の人には、その幸福論は通用しないということになる。年収的にはみたされている?にもかかわらず、不幸だと感じる人と、年収的に満たされてないから、不幸だと感じる人は、ちがう感じ方を持った人たちだ。もし、「読めば、だれでも幸福になれるような幸福論」があるとしたら、その両方に対応していなければならないのである。 

たとえば、生存が脅かされるレベルで貧乏なのであれば、幸福論では幸福にならないということを認めるのであれば、だれでも読めば幸福になるような幸福論はないということを認めているということになる。

生存が脅かされるレベルで貧乏なのであれば、必要なのは、じゅうぶんな食べ物や快適な家だ。まず、そういうものがみたされてからじゃないと、「幸福論」では幸福にならない。なので、「だれでも読めば幸福になれるような幸福論」はないと言える。生存が脅かされるレベルで貧乏な人は、幸福論を読んだだけでは幸せになれないということを、認めてしまっている。もし、読めば、だれでも幸せになれる幸福論があるというなら、「だれでも」のなかに生存が脅かされるレベルで貧乏な人は入ってないということになる。

「年収が八〇〇万円以上なのに不幸だ感じている人が読めば幸福になれるような幸福論」はあるかもしれないので、そういうふうに言うべきだと思う。「だれでも」とか「だれもが」という言葉は、敵をつくりやすいのである。

どうしてかと言うと生存が脅かされるレベルで貧乏な人が、「だれでも読めば幸福になれるような幸福論」読んだ場合、「自分は、『だれでも』のなかにはいってない」とか「まず、じゅうぶんな食べ物と快適な家が必要なのに、なにを言っているんだ」という感想を持つからだ。

『マズローの欲求五段階説』が正しいとする。その場合、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなければ、幸福を感じにくい状態になる。『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされていなくても、しばし、人間は幸福を感じることがある。

一瞬かもしれないけどね。

その一瞬を抜かして、くるしいばかりの生活かもしれないけどね……。これに関して言っておくと、たとえ『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなくても、幸福を感じることがあるのだから、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてなくても、だれもが幸福を感じることができると言ってしまっていいものかどうか?

よくないと思う。けど、これの問題は、ちょっと横に置いておこう。

『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされて、はじめて、幸福を感じることができるとする。この場合、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてない人が、「誰もが幸福になれる幸福論」を読んでも、幸福にならない。

どうしてなら、『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされてないからだ。

もし、『マズローの欲求五段階説』が正しいなら、そして、しあわせを感じるには、まず『 生理的欲求』と『安全の欲求』がみたされていなければならないということが正しいなら、「誰もが幸福になれる幸福論」はないということになる。『マズローの欲求五段階説』が正しいと言っているにもかかわらず、「誰もが幸福になれる幸福論」があると言うのであれば、それは、矛盾している。

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人間の幸福感には、実際に生じた出来事が影響を与える。実際に生じた出来事がつらいことばかりなのに、幸福感を感じるということはない。繰り返しが重要なのだ。

それから、「心理学の実験でも証明された」とか言うのはよくないことだ。これ、ほんとうはわかってない。もとの論文を読めば、どういう検定をしたということが書いてあるはずだ。で、検定というのは、確率論なんだよ。確率の話をしているの。

「人間は、親切にするとしあわせを感じる生き物だ」とは言えない。それだと、「親切にしたとき、しあわせを感じない場合がない生き物だ」ということになる。これは、ありえない。ぼくが人間で、ぼくの経験から言って、親切にしても、しあわせを感じなかったことがあるので、「人間は、親切にするとしあわせを感じる生き物だ」とは言えない。

2021年8月26日木曜日

ヘビメタ騒音でできなくなることがあるのに、それがほかの人にはわからない

 やっぱり、ヘビメタ騒音でくるしい。俺は、どれだけ人から、誤解を受けてきたかわからない。どれだけ。どれだけ。どれだけ。ネットでもそうだけど、リアルではもっとすごいよ。だいたい、小学六年生のときから、ずっと誤解を受けてきている。その誤解というのは、やはり、ヘビメタ騒音に関する誤解だ。ヘビメタ騒音でできなくなることがあるのに、それがほかの人にはわからない。俺がどれだけ「ヘビメタ騒音でできない」と言っても、ほかの人は「ヘビメタ騒音でできなくなっている」ということを認めない。できるはずのことなのである。もちろん、ヘビメタ騒音がなければ、俺だってできる。けど、ヘビメタ騒音がずっとずっと、鳴っているので、できなくなる。この『できなくなるプロセス』がわからないのだ。ほかの人にはわからない。ヘビメタ騒音が毎日積もっていくということの影響・負の効果がわからない。わからないとなったらわからない。どうしてかというと、その人たちは、騒音は経験したことがあるけど、きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音は経験したことがないからだ。そして、ほかの人がわからないことは、もう、二つある。きちがい兄貴の性格だ。きちがい兄貴の態度と言ってもいい。きちがい兄貴の認識システムと言ってもいい。常識の範囲内に入ってないので、わからない。「そんな人はいない」という前提でもの考えてまう。「言えばわかるはずだ」という前提でものを考えてしまう。「ちゃんと説明をすればわかるはずだ」という前提でものを考えてしまう。そして、きちがい親父の性格に関してもおなじことが成り立つ。おかあさんも、じつは、親父とはちがうかたちで、普通の人とは、ずれまくりなんだよね。普通の人じゃない。そういうことがあわさると、普通の人は「そんな音で鳴っているのに、親が文句を言わないのはおかしい」と思ってしまう。全部まちがいなんだけど、普通の人は、自分が言っていることがまちがっているとは思わない。自分が言っていることの前提がまちがっているとは思わない。ということで、ぼくは、誤解を受ける。

で、体で感じるヘビメタ騒音の影響というのは、本当ずっと、毎日毎日、さらされた人じゃないわからない。これ、本当にきついのだ。すべての能力が下げられる。きちがいヘビメタで、人知れず、自分の能力が下げられた状態でくらすというのが、どれだけきついか、ほかの人にはわからない。まったくわからない。ほかの人の困難というのが、困難ではないのだ。たとえば、受験勉強をした。2か月ぐらい缶詰で勉強した……だから、たいへんだった。……これ、ヘビメタ騒音で、小学六年生のときから、中学三年間、ずっと毎日、勉強ができないという困難といっしょであるはずがない。ちなみに、缶詰でというのは、缶詰になってという意味で、缶詰になってというのは、ホテルや家にとじこもって、ほかのところにいはないでずっとひとつの作業をすることを意味している。ラストスパートで二か月間、自宅に?缶詰になって?勉強をした。夜までずっと勉強をした。夜までずっと、ヘビメタ騒音が、本当にでかい音で鳴っている状態というのがわかるか? 勉強なんてできない。勉強をしたいにもかかわらず勉強することかできないという困難と、勉強したいと思って勉強をしている困難では、室がちがうだろう。しかも、本当に、俺の場合は、中学の三年間毎日、ヘビメタ騒音が鳴っている。きちがい兄貴のこだわりようが、ほかのひとにはわからない。どんなこまかい時間も使って、絶対の意地で鳴らす。絶対の意地で鳴らし切れば、まったく鳴らしてないのと同じ気持ちになってしまう。そんなの、ほかの人にわかるわけがない。そして、もうひとり、そういう頭の構造をもった人間が、家族内にいるということが、どういう効果をもたらすか、ほかの人に、わかるはずがない。きちがい兄貴は自分がやりたい時間、自分がやりたい音で鳴らすことしか考えてないので、日曜日も、朝からずっと夜まで鳴らしてしまう。ヘビメタが鳴り始めて一分目の体の状態と、ヘビメタが鳴り始めて一三時間と一分目の体の状態は、ぜんぜんちがう。けど、これだってわからないだろ。日曜日、どれだけ「鳴らすな!!鳴らすな!!」「勉強をするからやめろ!!」と怒鳴り込んでも、きちがいが、きちがいの形相で無視して鳴らしてしまうのだ。そうなったら、もう、殺さなければ、やめさせることができない。この殺さなければやめさせることができないということは、きちがい親父が、幼児の俺におしつけてきたこととおなじだ。きちがい親父もきちがい兄貴も、「おしつけた」つもりなんてないんだよ。そんなのは、否定する。やったことさえ、時間がちょっとでもたてば、否定するわけだから、「おしつけた」なんて思ってないよ。けど、きちがい親父の「ハンダゴテ事件のときの態度」とおなじように、爆発して、意地をとおしているほうは、まったく、やっているつもりがない。さらに、自分がやっていることが、相手に影響を与えているということがわからない。自分の気持ちしかないからだ。自分がやっていることが相手に与える影響なんて、そんな高度なことが、わかるわけがない。そんなの、ミジンコに、人間の思考を理解させるようなものだ。自分の感情しかない化け物。自分がやりたくなったし絶対の意地でやって、絶対にほかの人の言うことを聞かない。けど、「聞かなかったつもり」なんて言うのもないんだよ。「無視したつもり」もないんだよ。自分がやっていることで相手がこまったとか、こまっているんだなということを、感じることが一切合切できない。自分はやるし、相手がこまるということはないか、あるいは、相手がこまるということ自体を、そうなる可能性を含めて認めないので、自分のなかでは、「相手がこまっている」あるいは、「相手がこまった」ということにならないのである。自分のなかで「相手がこまっている」あるいは、「相手がこまった」ということにならないのであれば、何千回何万回、おなじことをして、相手を困らしていても、そういう行為をして相手を困らせたということをしてないということとイコールになってしまうのである。どれだけ、実際にやっても、やったことにならない。何万回やっても、そんなことは一回もしてないという認知が成り立ってしまう。あるいは、「やったかどうか」に対してまったく関係がない状態が成り立ってしまう。実際にやったことでもそうだ。相手のことが最初から、わからない。相手の存在が最初からわからない。相手だって、自分とおなじように、感情がある人間なのだということがわからない。自分のやりたいという感情が張り出している状態で、ほかの人の感情が入ってくる余地がまったくない。だから、発狂して、発狂的な意地でやり切ったことなのに、やったつもりがないままなのである。これは、現在進行形でそうなる。そしてもちろん、過去形でもそうなる。そりゃ、そうだろ。現在進行形で認知してないものを、認知できるのか? 現在進行形で認知したから、過去においてそうしたということがわかるわけだろ。過去においてそうしたという認知が成り立つわけだろ。現在進行形で「やったってやってない」が成り立っているのであれば、「過去のある時点で、自分がそうした」という認知が成り立つわけがない。

 ヘビメタ騒音でつらいのは鳴っている時間だけじゃないのである。むしろ、鳴っていない時間、ほかの人からずっと、誤解をされてくるしいということになる。自分の能力を一〇分の一にさげられて、この競争社会で暮らしてみろ。けっきょく、勝てば官軍、負ければ賊軍だ。幾何級数的に、侮辱が積み重なっていく。幾何級数的に「困難」が積み重なっていく。これ、ほんとうに、まるでわかってないんだよな。ただ単に、普通に通勤通学をすることができなくなって、レールからはずれたということだけで、どれだけの、困難がつみかさなるか……。つみかさなるか、レールからはずれたことがない人にはわからない。俺の場合は、それだけじゃない。根本が、きちがいヘビメタだ。きちがいヘビメタなしでも、レールからはずれれば、困難がつみかさなる。それは、幸福論なんかを書いている作者が住んでいる世界とはちがう世界だ。これが、幸福論を書いている作者にはわからないのである。まあ、幸福論はいいよ。そんなもの、ほかの「普通の人」は相手にしてない。幸福論の作者と普通の人のあいだには「困難」においてひらきがあると思うけど、普通の人とぼくとの間には、もっともっとでかいひらきがある。

普通の人が、人生のなかで経験した騒音とはちがう。普通の人が、人生のなかで経験した騒音とはちがうのに、普通の人は、それがわからないまま、普通の騒音ときちがい兄貴によるヘビメタ騒音が「おなじものだ」という前提でものを判断し、ものを言う。

2021年8月24日火曜日

トータルでは何万回も言った。十数万回か。もっとか? もっとだな。何十万回も言った

+++++どのみち、ほんとうにほかの人にはわからない。「積み重ね」がないからだ。実際にヘビメタ騒音が鳴っていた時間がないからだ。もちろん、この世で一番嫌いな音を大音量でずっと、家にいるあいだ、聞かされた人は、ヘビメタ騒音でなくてもよい。きちがい家族が、きちがい的な意地で、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間もとりつかれたように鳴らすけど、本人は、それについて、まったく知らないという態度で鳴らし切る。自分がやったことじゃないから知らないという態度だ。こういう態度がものすごく腹が立つ。いったい俺が、どれだけ、きちがい兄貴に「静かにしてくれ」と言ったか? トータルでは何万回も言った。十数万回か。もっとか? もっとだな。何十万回も言った。けど、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で無視をする。きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、否定する。そして、きちがい親父の形相で、鳴らす。おかあさんも、普通の人は、ぜんぜんちがう人なんだよ。親父とはベクトルがまったく反対なんだけどちがう。ことなかれ主義みたいなところはある。ともかく、市に相談に行ったり、警察に相談に行くということがなかった。よその人を巻き込んでどうにかしようという気持ちは、まったくなかった。けど、俺のことは心配して「こまったこまった」と言っていた。こまっているだけなのだ。おかあさんが兄貴に注意したことは何回かあるけど、きちがい兄貴が効かなければ、強制力はないのだから、きちがい兄貴がいつものように「まったく気にしないで」きちがい親父となじ態度で鳴らしてしまう。自分が一〇〇%時間、一〇〇%の音で鳴らせれば、一分も鳴らしたことになってないのだ。鳴らし終わったら、その日。一日中、ずっと静かにしてやって、ずっと鳴らしてない……のと……同じ認識になってしまう。こういうきちがい。こういうきちがいは、よそのうちにいないから、よその人はわからない。こういうきちがい構造は、よその人の家族は持ってないので、降雨きちがい構造をもった家族がいるということがどれだけの困難をうみだすか、自分の体験を通してわかってない。よそのうちにいる人は……ヘビメタをでかい音で鳴らしたいとしても、三日ぐらいずっともめれば、しずかになる人なのだ。うちにいるのは、きちがいだから、まったく気にしないで鳴らす。鳴らしたら、鳴らしたことになってないのだ。これが、ほかの人にはわからない。本人にもわからない。きちがい兄貴本人にもわからない。この、「無視のしかた」「やってないつもり」「関係がない人のつもり」というのは、ほんとうに、同タイプのきちがい家族がいる人しかわからない。家族ってことが問題なんだよ。それが、よその人にはわかってない。わかってないから「ちゃんと言えばわかってくれる」とか「エイリさんの説明が悪いのではないか」と思ってしまう。あるいは、ぼくが、三味線やフォークギターぐらいの音で、うるさいうるさいと、さわいでいると思ってしまうのだ。「そんなんじゃない」と言っても、実際にやられて、こまってない人にはわからない。どれだけの影響があるかわかってない。


2021年8月23日月曜日

経営者が労働者から巻き上げたお金で、寄付行為をするのはよいことなのかわるいことなのかという問題がある

 経営者が労働者から巻き上げたお金で、寄付行為をするのはよいことなのかわるいことなのかという問題がある。たとえば、ある世界的な企業の経営者が、10兆円稼いだとする。まあ、10兆円稼ぐまでに30年間かかったとする。10兆円のうち、7兆円は、本来は、労働者に還元されるべきお金だったとする。つまり、労働者に賃金として払うはずのお金を、払わずに7兆円自分のものにしたとする。そして、1兆円の寄付をしたとする。その場合、寄付をするという善行をしたのだから、労働者に本来払う金を、払わなかったという悪行がゆるされるのかどうかという問題だ。額で言えば、ゆるされないのではないか。まあ、これ、本来払われるべき金額というのがわからない。だから、架空の架空の話になってしまう。

経営者が労働者側から見れば「すごい額の寄付」をしたとしても、それは、免罪符にはならないのではないかということだ。さきの話に関して言えば、経営者は、30年間にわたって、7兆円分、労働者にこそ、金をあげるべきだった。労働者からうばって?宗教団体や慈善事業団体にお金あげるというのは、そういうことを考えれば、よくない行為だ。しかし、「慈善事業団体にお金を寄付した」となると、寄付ができない労働者や、寄付をしたとしても額で負ける労働者は、「よくない行為だ」と大きな声で言えない心理状態になる。ようするに、実際に多額の寄付をするということは、多くの人を黙らせる効果がある。

 

2021年8月22日日曜日

「やられたやつが悪い」「いじめられたやつが悪い」ということになってしまう

 経済ニュース専門の二か国語放送ってないかな。むかしは、日経であったんだけどな。けど、あれは、コマーシャルが多すぎた。たとえばの話だけど、サーモテが二か国語放送になってくれるとうれしいな。サーモテみたいなものでいいんだよ。経済ニュースがいい。ほんとうは、一般的なニュースは見たくない。聴きたくない。けど、英語を聴きたいので、コマーシャルなしのNHKニュースを見ている。(たいていは、音声だけ聴いている)。

そうすると、いじめの話や、アフガニスタンの難民の話などを聴いてしまう。ほんとう、かわいそう。ほんとうに、ゆるせない。特に、いじめの話はゆるせない。ゆるせないものを感じる。感じる。けど、画面の前で怒ってたって、なにもならない。ほんとうに、あの中学二年生の人がかわいそう。10人でいじめていたそうだ。そして、学校が、いじめる側に立ってしまっている。これは、まずい。けど、今はそうなんだよな。自己責任論とか「受け止め方の問題」というような認知療法の理論が、いじめられた人間のほうを攻撃するんだよ。「あいつは気にくわない」と思っても、攻撃しない人は、いい人。「あいつは気にくわない」と思って攻撃する人は悪い人。それも、正面切って攻撃するわけではなくて、見えないところで攻撃する。こんなのは、よくない。けど、攻撃されている人にかかわるのは、まずいということになってしまう。普通の人がそう判断する。そうなると、もうだめだ。「やられたやつが悪い」「いじめられたやつが悪い」ということになってしまう。これが、今の日本社会だ。精神世界の人も、「すべては受け止め方の問題」「どんなにつらくても、ニコニコしていれば、しあわせがやってくる(つらい顔をするともっとつらいことが起こるようになるぞ)」「相手をかえるのではなくて、自分をかえよう」などと、攻撃をする。攻撃しているつもり、ないでしょ。攻撃してるんだよ。さらに、そういう言い方に文句を言えば、「物事にはいい面と悪い面があるのに、悪い面を見るからいけないんだ」とか「被害者意識ばっかり」というような攻撃を受ける。この、最後の「被害者意識ばっかり」というのは、まるで、あらしのあおり行為のようなものだ。完全に言いがかりなのである。


 

2021年8月21日土曜日

親の種類と子供の幸福感について 八つ当たりをしているという自覚がちょっとでもある親、そうでない親

 

これを言ってしまってはおしまいだけど、破滅破綻がつみかさなっている。

「子供にまるまる体験」などと言っている親の感覚とはちがうんだよ。

「子供をまるまるにのせてやろうと思って、いっしょにまるまる体験をしてきた」などと書いてしまう親。俺がなにを言っているか、こういうことが普通の家に生まれた人にはわからないだろう。

きちがいの親と一緒に行動するということがどれだけおそろしいことか、わからないだろう。きちがいやくざと一緒にいるということがどれだけつらいことかわからないだろう。

これは、収入の問題ではない。

けど、きちがいやくざであって、なおかつ収入が少ない親はいる。ダブルパンチだ。けど、収入の少なさの話をしているときは、収入の少なさに焦点があってしまう。そうなると、収入が少ないにもかかわらず、人格はまともな親に育てられた人が、いろいろと言うことになる。

で、それは、正しいのだけど、焦点は、人格がまともな親にあってしまっている。言っていることがわかるだろうか。ようするに、世の中には、「人格まとも・金持ち」「人格まとも・貧乏」「きちがい・金持ち」「きちがい・貧乏」という四種類の親がいる。そして、この四種類の親を、子供は選べない。そこに生まれたら、そこの親の影響をどうしても受ける。

けど、「きちがい・貧乏」のダブルパンチを食らった人は、少ない。それは、人格がまともな人ときちがいとでは、きちがいのほうが少ないからだ。はっきり言ってしまうと「きちがい・貧乏」な人と「人格まとも・貧乏」な人とは、話があわない。あわないんだよ。そして、基本的なことを言ってしまうと、世間で取りざたされるのは、「人格まとも・貧乏」の話だ。こっちに、焦点があってしまう。これ、「きちがい・貧乏」と「人格まとも、貧乏」は、どっちとも、収入が少ないという意味で貧乏なんだけど、質がちがう。問題の質がちがう。

そして、「人格まとも・貧乏」VS「人格まとも・金持ち」の話になってしまうのである。これは、話自体が分かりやすい。「人格まとも・貧乏」と「人格まとも・金持ち」の比率を比べれば、「人格まとも・貧乏」のほうが比率が高い。

なので、「人格まとも・貧乏」が言っていることは、共感を得やすい。しかし、「人格まとも・貧乏」と「きちがい・貧乏」のあいだには、ふっかーーーい溝がある。溝がある。けど、「きちがい・貧乏」しか、その溝に気がつかない。「きちがい・金持ち」は、「お金の問題ではない」という話のときに、ちょっと、例として、出てくる。

「金があったって、しあわせとは限らない」「金はしあわせ感に影響を与えない」ということの例として出てくるのだ。今までの話で「人格まとも・金持ち」「人格まとも・貧乏」「きちがい・金持ち」「きちがい・貧乏」」というのは、そういう親を持った子供の話だ。

けど、「金があったって、しあわせとは限らない」「金はしあわせ感に影響を与えない」ということに、話がうつっている場合は、まあ、本人が金持ちで、しあわせではない人の話だ。ここらへんも、焦点のあいかたがちがう。

まあ、親が「きちがい・金持ち」である子供は不幸だ。これは、はっきりと言える。「まともな人」だっていろいろな不遇が重なっておいつめられているときは、「きちがい」的な行動をすることがある。けど、つねに狂っている人と、おいつめられたときにきちがい的な行動をする人は、ぜんぜんちがう。そこらへんの区別は大切だ。


ときどき、悪いことをするのと、つねに悪いことをするのはちがうから……。けど、これも、わかってないんだろうな。たとえば、子供に八つ当たりをするとき、八つ当たりをしているという自覚がちょっとでもある親と、子供に八つ当たりをするとき、八つ当たりをしているという自覚がまったくない親とでは、やっぱり、ぜんぜんちがうということだ。自覚があるほうが、ときどきは、理不尽なことで怒るとはいえ「まともな親」で、自覚がないほうは、きちがいだ。これは、猛烈に重要なことなんだけど、「俺だって……」とか「うちのおやだって……」という話になると忘れがちな点だ。普通の人の範囲に入る人は、普通の人だ。

 

2021年8月20日金曜日

からだの感じがヘビメタ騒音でこまった時とおなじだからね

 

 顔をダニに刺されたのか、ニキビなのかわからないやつがあるんだよな。むかし刺された感じがする。あのときはかゆくて、いまはかゆみがおさまった感じなんだけど、これ、ニキビなのかな? ぼくは、バターで、ニキビが出る。バターは効果てきめんなのだ。なぜか、マーガリンだと出ない。バターだと出る。

もう、まるまるなら、カネをぱーーっと使って、気にしないようにしようかな。まあ、カネのことだけは気にしないという意味。どのみち、ヘビメタ騒音からはのがれられない。からだの感じがヘビメタ騒音でこまった時とおなじだからね。特に、疲れたときはひどい。あの感じが、復活してしまう。これ、実際にやられてない人は、「鳴り終わったなら関係がない」とか「過去のことなら関係がない」と言うのだけど、関係があるんだよね。関係があるどころじゃないわけ。からだが、おなじわけだから。どのみち、鳴り終わったら関係がないような騒音しか経験してないんでしょ。……人生のなかで……。これはもう、話がちがうんだよ。そういうことを言う人たちがわかってないだけ。けど、そういうことを言う人たちは、自分がまちがったことを言っているとは思わないだろ。それがこまるんだよ。合理的で正しいことを言っていると思っている。けど、経験すればわかる。わかるのだけど、経験してない。だからわからない。わからないところで、自分の経験をもとに、推論して言っているだけだ。自分の騒音経験をもとに、推論して、エイリの騒音経験について判断を下し、その判断に従って、あーだ、こーだと言うわけだ。「それ、ちがうから」とぼくが言っても、彼らは認めない。 

俺もう、親父のネズミとかダニとか、兄貴の騒音とか、いやだから。おかあさんも、じつは、のら猫でダニをぶちまけている。どれだけ小さくてかわいくても、入れちゃダメなんだよ。俺は、もう、いやだ。どうして、俺がひとりでいるんだよ。「騒音が終わったから」と言って、働いてくれと言ってきたのは、親友だ。あのとき、騒音、終わって、なかった。そんなことを何回も言われたら、いっしょにいれなくなってしまうだろ。どうして、それがわからないのか。「いっしょにいたくない」と思うよ。どうして、それがわからないのか。

 

 

2021年8月19日木曜日

また、ネズミが出てしまったわけだけど

 また、ネズミが出てしまったわけだけど、ほんとうに、一匹目のネズミを殺したくなかった。殺したくなかった。ネズミシートに上半身はくっついているけど、下半身はネズミシートにはついてない状態なので、後ろ足をがたがた、動かして、ネズミシートごと動いていた。まだ、元気なやつだったんだね。

で、じつは、親父が座っていた椅子とおかあさんが座っていた椅子とテーブルが置いてあった。このイスとテーブルは、親父をタンカで運び出すときに俺の救急隊員で移動したものだ。本来の位置にあるわけではない。

で、なにを言いたいかというと、ネズミシートにうまくアクセスすることができないのである。うちは、一階だけで、玄関が三つある。もともと、人に貸していたために、一軒家としては作りがおかしいのである。

で、使ってない玄関のところに、背骨を伸ばすための「ぶら下がり健康器」というのが置いてあった。その健康木のサイド側に手すりのようなものがついているのだけど、その左右の手すりの上に板を載せて、その上に、箱を載せて、箱のなかにペンチとか荷造り用テープとかドライバーを、親父が入れておいたのだ。で、この箱に入っている工具が、めちゃくちゃにきたないんだよ。あと、ぶら下がり健康器の手でつかんでぶら下がる部分に、洋服をかけておいたわけ。親父が……。

2021年8月18日水曜日

ほかの人にはわからないんだよ。どれだけこまるかわからない

 石けんをネズミにかじられた。これ、二個目なんだよね。やっぱり、出てるんだな。

みんな、ほんとうに、幸福論とか言っている人は、きちがい家族がどんなものかわかってない。どれだけこまるかわかってない。わかってない。きちがい家族が、めちゃくちゃに意地をはって、きちがい行為をするんだよ。言いようがないな。被害甚大。親父が残したものって……ネズミの穴と、ネズミの糞と、ナメクジと、ダニだ。おかあさんが死んだとき、「なにかやってほいしことはあるか」なんて言ってたんだよ。それが、これだよ。実際に俺がやってほしいことは、死にものぐるいで否定する。やってくれない。こっちがどれだけこまってたってやってくれない。そのなんていうのかな、頭の回路が、ほかの人にはわからないんだよね。たとえば、「意地になって否定する」と言った場合の、「意地になっている状態」というのが、ほかの人には、わからない。病院の人だって、自分が、親父のそういう姿を目の当たりにすれば、「あんなに強くいやがった人はいない」とかそういうことを言うのに、やられてないうちは、わからない。きちがい親父は頭がおかしい繰り返しというのがある。これが、絶望的なんだよ。悪意がないんだよ。けど、こっちがめちゃくちゃになるようになっている。で、どれだけ言っても、通じない。で、きちがい親父だけではなくて、きちがい兄貴もそうなんだよ。で、きちがい兄貴が夢中になってやったことが、ヘビメタだから、問題がある。 

ほかの人にはわからないんだよ。どれだけこまるかわからない。頭がおかしい人の反応というのが、根本的にわかってないんだよな。で、きちがい親父も、きちがい兄貴も、「うちでだけ」そういう反応をするわけ。よその家ではそういうことはしない。だから、よその人がわからないんだよ。そうすると、言っている「こっち」がへんな人だと思われる。「そんなのは言えばいいのに」なんて言われることになる。

きちがい親父の頭というのは、きちがい親父にだけ都合がいいようにできていて、きちがい親父がやりたくなったことは、どれだけ、理由がないことでも、きちがい的な意地でやるんだよ。きちがい的な意地で拒否することもある。やるのを拒否することもある。これも、おなじ。どれだけ何回言っても、オウム返しに否定するというようなことになる。自分のなかに言いたいことがあると、こわれた装置のように、それを言う。相手が、「それだとこまる」と言えば、それは、聞こえない状態で無視して、言いたいことを言う。繰り返し言う。だから、会話が成立しないところがある。

 あー、鼻の頭がかゆい。刺されたな。いつもこうなんだよ。

ヘビメタのときだってそうなんだよ。きちがいヘビメタで、こまって余裕がなくなっているのに、きちがいだから、絶対の意地で鳴らす。あと、工事の人が、また……。親父世代でこまるなぁ。俺はほんとうにたたられている。どうしてこんなにうまくいかないんだ」ということが、何千回もかさなって、ぼろぼろになる。そして、張本人が、知らんぷりでこっちがこまることをやる。どれだけ言っても、伝わらない。まあ、工事の人は関係がないけど……これに関しては……。きちがいヘビメタ騒音で睡眠回路が壊れていることは、工事にも影響をあたえている。

2021年8月17日火曜日

認知療法家も幸福論の論者も、みんな、普通の親のもとにうまれて、普通に生活をしている(改)

 

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やっぱり、なんだかんだと言って、ヘビメタでくるしいな。これ、わずかな知り合いをのぞいては、ひとりで悩んできたことなんだよな。きちがい兄貴の態度なんて、ほかの人にわかるわけがない。矛盾だらけだからな。親父とおなじで……。あんなのはない。あんなでかい音で鳴らして、普通の音で鳴らしているつもりとか、そういうのも、おかしい。そういうところから、ずれている。親父のように、おおきくずれている。で、それが脳みその基本的な構造みたいで、「なおらない」んだよ。どれだけ言っても、まったく通じない。ほんとうに、きちがい状態。頭がおかしい。けど、その頭のおかしさが、「よその人」にはわからない。わからないんだよ。これ、おやじとおなじなんだよな。

認知療法家も幸福論の論者も、みんな、普通の親のもとにうまれて、普通に生活をしている。きちがい親父に、きちがい行為をされ続けた十数年間というのがない。十数年と言ったら、十数年間毎日なんだよ。「あまたの構造」でそうなっているわけだから、そいつが、そいつの頭を搭載している限り、ずっと、そうし続ける。息をするようにそう、し続ける。し続けてあたりまえだ。普通の人のように反応するということがないのである。いつも、そいつの、ずれた頭で反応するこということになる。これがどういう意味を持つのか、そういう親や兄と一緒に住んでいない人はわからない。これも、まったくわからないんだよな。親父や兄貴がわからないということとは、また、ちがった意味でわからない。けど、わからないことにはわかりがない。これは言ってしまうと、問題があるかもしれないけど、認知療法家も幸福論の論者も、ものすごく恵まれている。恵まれた家庭に生まれた人間だ。で、そういう人たちは、「それがふつうだ」と思っているのである。そして、人間だから、そりゃ「困難」はある。「くるいしこと」だってある。けど、それは、きちがい親父やきちがい兄貴にたたられている「困難」とはちがう「困難」だ。こんなの質がちがう。あるいは、そりゃ、生きていれば「くるしいこと」だってあるけど、きちがい親父やきちがい兄貴がおしつけてくるくることから発生する「くるしいこと」とは質がちがう。普通の「困難」。普通の「苦しいこと」なのである。普通の人が理解しやすい困難。普通の人がふうに語れる「くるしいこと」なのである。ぜんぜんちがう。


ヘビメタ騒音が鳴ってない一〇代がほしい ヘビメタ騒音が鳴ってない一〇代をすごした人には、まったくわからないことだ

一〇歳をのぞく一〇代、ずっとヘビメタをやられていいわけがないだろ。学生時代ずっと毎日、きちがいヘビメタがうちに帰れば鳴っている状態でいいわけがないだろ。ないんだよ。実際に経験したことが、たいせつ。実際に経験したことが、不愉快なことばかりなのに、しあわせを感じるなんてことはないんだよ。

この、「すべては受け止め方の問題だ」とか「暗い側面ではなくて、明るい側面に目をむければいい」というような考え方は、ニュートラルな人には成り立つけど、めちゃくちゃにやられてきた人間には成り立たない。

 

 

2021年8月16日月曜日

ヘビメタ騒音がなければ……あったはずのさまざまな機会をうしなった。

 ほんとうにつまらないな。つまらない。おもしろいわけがないか?

ほんとうに、ヘビメタ騒音ですべてをうしなった。「けど、すべてではないでしょ」というような問いかけは、意味がない。

じゃあ、言い換える。「ぼくがほしいものはすべて、手に入らなかった」。

そして、たとえば、親友とか友人とか彼女といった、たいせつな人間を、うしなった。

まあ、人間そのものではなくて、人間関係なのだけど……。いろいろな機会を失った。いろいろな機会というのは、進学や就職の機会だ。学問研究を職業としてやる機会だ。いろいろな仕事をやる機会だ。ヘビメタ騒音がなければ……あったはずのさまざまな機会をうしなった。

ほんとうに、まるでちがうと思う。

きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなければまるでちがう。きちがい兄貴が、ヘビメタに興味を持たなけれは、まるでちがう。ほんとうにできることがちがう。

そして、履歴として「やってきたことがちがう」ということになる。

人間なんて、他人を見るとき、肩書を見るんだよ。立場を見るんだよ。そうすると、立場や肩書に関する「せん妄」が始まる。まあ、偏見の眼で見るということになるのだけど、これが「偏見」と切り離せるものかどうかわからない。「認知」そのものだからだ。そして、その認知が、まちがっているとは、思えないのである。

きちがい兄貴のやり方があまりにもひどいので、ほかの人たち……鳴らされてない人たちが誤解をすることに「なっている」のである。ほかの人たちは、まるで、催眠術にかかったように、偏見に基づいた、よくあるパターンの反応をしめす。

まあ、催眠術じゃないのだけど。本人のなかにある偏見回路が働く。その偏見回路は、特に、本人にとっては、「偏見回路ではない偏見回路」だ。偏見じゃない。常識だと思っている。「それが正しい」と思っている。「これが間違いだなんてことはない」と思っている。

「これが、偏見だということはありえない」と思っている。

つまり、自分の「騒音体験」をもとにして、きちがい兄貴のヘビメタ騒音を考えてしまう。やはり、実際とはちがった、「騒音」を想像してしまうのである。そして、自分が思い浮かべた「騒音」について話をしてしまうのである。あるいは、自分が思い浮かべた「騒音」をもとにして、「人間は働くべきである」というようなことを考えてしまうのである。

こっちは、働『け』ないから、働けないと言っているのに、「騒音」ぐらいでそうなることはないと考えるのであれば、もちろん、その人が思い浮かべた「騒音」をもとにして、「エイリさんは働けるのに働けないと言っている」と判断してしまう。これが、自動的に発生する。まあ、「働『け』ない」と言っても「通勤して働『け』ない」ということだ。「働く」ということが、「通勤して働く」ということを意味しているのであれば、もちろん、そうなる。

いまは、たしょうちがうけど、むかしは、「働く」ということは「通勤して働く」ということを意味していたのである。

もちろん、例外はある。自営業者は自宅けん職場で働くことがある。しかし、普通の人が……働くと言ったら、通勤して働くことを意味していたのである。自営業者が働く場合も、なんらかの社会経験があるのが普通だった。

ようするに、会社に通勤して働いて、スキルとコネを獲得して、そして、自立するというようなことが一般的だった。あとは、作家とか芸術家か。最初から運よく、そういうことができた人。

そして、農業や林業、漁業に関しては、通勤はしないかもしれないけど、一定の時間に起きなければならないという意味で、俺にとっては通勤するのとおなじなのである。

農業や林業や漁業に関しては、親の影響がある。

普通に、普通科の高校を卒業した人は、通勤して働くのが一般的で、働くと言ったら、通勤して働くことだった。相手の頭のなかにある「働く」ということが、そういうことであり、ぼくが「相手が働くと言った場合、そういうことを意味しているのだろう」と思っている以上、働くというのは、通勤して働くことなのである。

内職? 内職なんて、都市伝説だよ。通勤できない人が、なんとか内職をして働こうとすると、ほぼ一〇〇%の確率で内職詐欺に引っかかってしまうような時代だったんだよ。

 まあ、ともかく、「相手」というのは、自分が「ヘビメタ騒音」を経験したことがないから、その騒音がどういうものかほんとうに知らない。ヘビメタ騒音というのは、この場合、うちの兄貴によるヘビメタ騒音という意味だ。特別に言及しない場合は、ヘビメタ騒音といったら、うちの兄貴によるヘビメタ騒音を意味するとする。

 

 



 

2021年8月15日日曜日

まるで、わかってない。

きちがい兄貴にヘビメタ騒音ででやられてないやつが言うことは、すべてが、的外れだ。他人というのは、ほんとうにおそろしいな。まるで、わかってない。

 

 おもしろくない。おもしろいわけがない。おまえら、きちがい家族と一緒に住んで、影響を受けないなんてことはないということがわかってない。影響を受ける。けど、ポジティブ思考信者や認知療法信者は、影響を受けるということを否定してしまう。「俺だったら、影響を受けないで済む」「俺だったら、影響を受けない状態を維持できる」と言うわけだ。けど、そいつらは、ごくまともな家で暮らしてきたやつらだ。本物の、こまったきちがいがどういう意地でどういう行動をするのかわかってない。きちがい的な意地でやったことに関する本人の認知がわかってない。どういう態度で、きちがい行為をやるのかわかってない。「影響を受ける必要がない」というようなくそ言語。どれだけそういう、きちがい家族知らず(世間知らずのきちがい家族知らず版)な発言が、きちがい家族にやられた人間を追い込むのか、こいつらも、まったく自覚がない。こいつらの「合理性」はじつは限られている。無意識を認めてないので、じつは、こいつらの合理性では説明ができない現象がある。そういう現象に関しては、「おかしな人はいます」というひとことで済ます。トッリク。トリック。さらに、アドラー信者、言霊信者、幸福論信者が、追い打ちをかける。無理解無理解無理解。アドラー信者、言霊信者、幸福論信者もきちがい的な親にやられてないやつ。アドラー信者、言霊信者、幸福論信者も、きちがい的な兄にやられてないやつ。

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あと、きちがい家族にやられた人のなかで、やろうと思えば、「公的な力を借りて」きちがい家族から離脱することができると言う人たちがいるけど、それは、ただ単に、運がよかっただけだから……。これも、個々の事情がある。だいたい、きちがい的な親と言っても、ほかの人にはわかりにくい『きちがい的な親』がいるんだよ。どういうことをやるのか、エピソードを説明すれば、世帯分離と生活保護の手続きをしてくれるというわけではないのだ。手続きの手助け……の場合も含まれる。これ、おもに、若い女の人が、「自分の場合は、生活保護をもらえたから、親と離れて暮らすことができた」「自分の場合は、障害年金をもらえたから、親と離れて暮らすことができた」と言う場合がある。男で、働くべき年齢の人は、うつ病で障害年金をもらうということが非常にむずかしい。あってはならないことだけど、性差別がある。それから、たまたま、障害年金を出しやすい医者にあたったというのもある。ともかく、事実上、働けなくても、「そんなのはあまえだ」で済まされてしまう場合がある。若い女の人は薬漬けになるけど、障害年金をもらいやすいという傾向がある。言ってみれば、「ギリケン(ぎりぎり健常者)」問題があるのだ。だいたい、「症」とか「障害」なので、狭い意味で「病気」ではないのだけど、もらいやすい「症」ともらいにくい「症」があるし、もらいやすい「障害」ともらいにくい「障害」があるのだ。「もらいやすい」というのは、障害年金をもらいやすいという意味ね。生活保護も、同じ傾向がある。

ともかく、こういうのは「私がもらえたから、あなたももらえる」というようなスタンスでものを言うべきではないのだ。けど、きちがい的な親にやられてこまっている人がたまたま、もらえたとすると、それがその人のなかの基準になってしまう。自分と同じ程度の症状を抱えている人……親にやられてそういう症状が出ている人は、みんな、障害年金がもらえるというわけではないのだけど、もえらると思ってしまう。もらえるのに、親と離れようとしないというようなことを言い出す。その人は、たまたま、運がよかっただけ。相談すれば、きちがい的な親と離れて、一人で住めるというわけではないのだ。

 

 

 


 

「うるさくして、弟の勉強の邪魔をしてやろう」と思ってなければ、どれだけうるさくしたって、「邪魔なんかしてない」ということになってしまう

 中古マンションを買うとなると、いろいろな手続きをしなければならなくなる。めんどい。しかし、いま、洗濯機のところまで行って、買ってきたところなのだけど、首がかゆくなった。もう、ダニやネズミとの戦いにはあきた。むり。けど、引っ越すにしろ、ネズミ屋敷にはできない。近所から、苦情がくる。引っ越したら、なるべく早く解体して、更地にしなければならない。

さっき、カードをなくしたかと思って探していたわけだけど、もうなんか、すべてがいやなんだよな。頭に熱がこもっているというか、頭が混乱しているというか、ともかく、いやな気分なわけ。手続き事項が、ほんとうに、いやなの。いやなんだよ。ネズミやダニの問題がおさまるなら、こっちにいるほうが、手続き事項が少ないので、こっちにいるほうがいい。しかし、おさまるかどうかだよ。こっちにいる場合、時間の問題で、外壁の修理をしなければならない。 そういうことに関しても、めんどうだということが言える。

ずっと横になってたい。動きたくない。手続き事項をしたくない。動きたくない。休んでいるうちに、体力が回復してくれればよいのだけど、体力がなかなか回復しない。ネズミとダニに、追いやられている感じだ。ネズミとダニの問題がなければ、体力を回復するための時間を確保できるのに、それができない。

*     *     *

 

首と書いたけど、顎のあたりもかゆくなった。もう、まるまるまる。なんか、大雨が降るみたいだ。けど、ちょっとだけコースを外れているからだいじょうぶだ。隣の市がけっこうやばいみたい。いままで、こんなことはなかったけどなぁ。

風呂をたてた。風呂に入る。で、問題はそのあとだ。どのみち、近いうちに、バルサンをたく。天気が良くなってからだけど……。もう一回、殺虫剤をまこうかな。おなじ殺虫剤を使っているので、耐性がついているやつが活躍しているのかもしれない。そうなると、あの殺虫剤ではダメだということになる。あとは、本籍をうつさずに、こっちにずっと本籍を置いておくかたちで、引っ越すかなと思っている。けど、税金のことを考えると、それは、やらないほうがいい方法だ。あとは、二か所のいろいろを保持しなければならないわけだから、やっぱり、よけいにカネがかかる。けど、カネの問題じゃない。ダニとネズミの問題だ。 

顎がかゆい。

*     *     *

 

ほんとう、つまらない人生。夜、考えていることが、ヘビメタ騒音やヘビメタ騒音から生じたトラブルのことばかりだ。これ、他人にわからないからな。他人にはぜったいわからない。あー、腕がかゆい。たぶん、風呂に入ってるときにやられた感じがする。風呂場もやんなきゃダメか。殺虫剤がちょっとでもかかった風呂なんか使いたくないよ。

 *     *     *

 殺虫剤をお盛大にかけてきた。お勝手と、居間と、もう一つの部屋にかけてきた。空中に向けて、殺虫剤をまいている。霧のように殺虫剤の粒がまっている。ズボンのほうにもついたかもしれない。寝巻はあったかな?

ともかく、ひととちがう。普通は家族は助け合うものだろ。よその人にやられたら、少しは助けるだろ。ところが、うちのやつは、家族がよそのやつよりも一万倍ぐらも、攻撃してくる。しかも、わかってないから、本人はつもりがないという状態だ。これ、言いようがないんだよな。で、ぼくが夜考えていることというのは、こういうことだ。もっと詳しいバージョンね。

足のひっぱり方が並じゃない。ダメージの与え方が並じゃない。死にものぐるいになって、一日にあたえることができる、最大限のダメージを、あたえている。きちがい親父にしてみれば、家族ぜんぶ。きちがい兄貴にしてみれば、弟とおかあさん。「うるさくして、弟の勉強の邪魔をしてやろう」と思ってなければ、どれだけうるさくしたって、「邪魔なんかしてない」ということになってしまうのである。そういうふうに思ったら、こっちが何万回、言ったってむだだ。で、こういう態度が、まさしく、親父の態度なのである。兄貴が親父の態度で、ヘビメタを鳴らした。きちがい親父のやり方で、きちがい兄貴がヘビメタを鳴らした。きちがい兄貴が騒音でやっていたとは、それまで、きちがい親父がきちがい行為でずっとやってきたことだ。 同じなのである。両方とも、ほかの人の理解の範囲にない。ほかの人は、きちがい兄貴やきちがい親父のような人間ではない、人間と一緒に住んでいる。ほかのつとは、きちがい兄貴やきちがい親父のような人間が、家族ではない。だから、わからない。

 *     *     *

自分が認めたくないことは、発狂して否認すれば、やってないことになってしまうのだ。これ、ずっと続くわけだから……。そういう回路が頭のなかにある。いつも、認めたくないことにふれられると、その回路のスイッチが入って、同じように反応して、同じように否認する。そうしたら、もう、本人はその瞬間から、関係がない人になってしまう。そして、「やりたいことはやりたいことなので」やり続ける。だから、どれだけ、「その迷惑行為をやめろ」とこっちが言っても、きちがい兄貴やきちがい親父はやめない。一日中頑固にやったとしても、毎回、頑固にやったとしても、本人は「やってないつもり」のままだ。「やってないつもりのまま」一日中やってしまう。回路がそうなんだよ。まったく矛盾を感じない。本人だけはまったく矛盾を感じない。一回一回、全部、切れている。一回目が終わったら、〇ロ回目になってしまう。だから、何十万回、こだわってやったとしても、〇回だ。本人のなかでは、ゼロ回。やってないことになっている。それで矛盾を感じない。矛盾なんて感じたら、やれなくなってしまうだろ。親父における、きちがい的な意地で怒り狂うことだって、兄貴における、きちがい的な意地でヘビメタを鳴らすことだって、おなじなんだよ。一回一回、切れているから、毎回毎回やってないことになってしまう。だから、どれだけ長い期間やっていても、やってないということなってしまう。

こんなの、ほかの人にわかるわけがない。「ちゃんと言えばつたわる」などと、こまっている人が言われてしまう。そうすると、さらにこまることになる。で、相手が誤解するようなことばかりするんだよ。きちがい兄貴もきちがい親父も、そうだ。なぜか、ほかの人が誤解をすることばかりする。手口、なんだよ。きちがい回路が発動してやったことは、ほんとうに、ほかの人から、誤解をされて、迷惑行為をされた人が、わるい人にされてしまう。できない人にされてしまう。そりゃ、「ちゃんと言えばわかってくれるのに、ちゃんと言わないからダメなんだ」ということになったら、「ちゃんと言えない人なのだ」と認知しているということになるだろ。いちおう、おぎなって書くと「ちゃんと言えば(お兄さんはわかってくれるのに)あなた(エイリ)がちゃんと言わないからダメなんだ」と考えている人がいるとする。その人の頭のなかでは、エイリさんは、説明能力がないということになってしまっている。エイリさんの「説明のしかた」が悪いから……(お兄さんは)わからないのだと、相手が考えているということは、相手は、お兄さんの理解力は普通で、エイリさんの説明能力が低いと考えていることになる。相手というのは、ぼくの話し相手だ。で、こういうことは、親父とのことでもいっぱいあったの。いまだって、理解力がない人が、そう考えているよ。だから、理解力がないばかにばかにされるということだ。

2021年8月13日金曜日

ヘビメタ騒音で、足をひっぱられて、人生がない。 しあわせだと感じるように自分をしむけているときの切羽詰まった感じはないね

 ヘビメタ騒音で、足をひっぱられて、やってられない。ずっとずっと、やられた。これはもう、取り返しがつかない。

*     *     *

 たとえばの話だけど、きちがい的な家族と一緒に住んでいたら、どんな「幸福論」を読んでもしあわせになれない。しあわせを感じない。どうして、そういうことがわからないのか? たとえばの話だけど、きちがい的な親に、きちがい的な理論、きちがい的な感覚で、虐待されている子供がいるとする。この子供が、「だれでもしあわせになれる幸福論」を読めば、しあわせになれるか? しあわせを感じることができるか? ぼくはできないと思う。たてまえの感情しか出てこない。自分がほんとうに感じていることを、ニセの理論で書き換えて、納得しようとするような努力をするしかないのだ。しかし、「しあわせだと感じること」と「しあわせだと感じるように努力すること」はちがう。また、「しあわせだと感じているときの精神状態」と「しあわせだと感じるように努力していると感じているときの精神状態」はちがう。激しく頭にくる状態で、なんとかしあわせだと感じようとしている状態が、いい状態だと思えるか? 同じ家に、家族として住んでいるきちがいが迷惑行為をして、きちがいに注意たにもかかわらず、きちがいが絶対の意地で、迷惑行為をした場合、……きちがい行為をされているにもかかわらず、「しあわせだ」と感じることができるか? 

きちがい家族が、きちがい的な意地で、がんがん、きちがいヘビメタを鳴らしているのに、しあわせだと感じるように自分をしむけているときの切羽詰まった感じはないね。


 

2021年8月12日木曜日

「人間は働くべきだ」と言ったやつは、死ぬまで働くべきだと思う。それができないなら、そんなことを他人に言うべきではない

 ほんとうに、いろいろと、どうするかまよっている。

ダニと格闘するよりも、引っ越したほうがいいんだよ。引っ越せる金はある。けど、けど、けど……。使ってしまっていいのかどうか、まようのである。

基本的にエネルギー不足で、引っ越しにまつわるいろいろな作業ができないという問題もある。かならずしも、金の問題だけではない。

金ではなくて、「働くということ」について、ぼくはいろいろと、言いたいことがある。ほんとうに、ボケた発言をする人がおおいんだよな。「人間は働くべきだ」などと人には言っておきながら、 本人は、退職して無職になってしまう人間とかさ。

本人は、退職して働かなくなっても、人間であるつもりだし、無職ではないつもりなのだ。こんな矛盾したことを平気でやるやつが、えらそうなことを言っている。こういう世の中は、まるまるまる。ひどいと思うなぁ。

まあ、「人間は働くべきだ」と言ったやつは、どんなに!つらくても、どれだけ!からだが思うように動かなくなっても、死ぬ直前まで働くべきだと思う。それができないなら、そんなことを他人に言うべきではない。

こういうやつらは、ヘビメタ騒音『で』できないということを認めてないんだよな。

けど、本人が老化して、からだが動かなくなったら、老化で退職するのは問題がないと思っている。こういう、自分勝手な考え。そして、自分勝手な考えにもとづいて、人をバカにしたということに、まったく、気がついてない。ほんとうに、自分勝手なやつ。

けど、これが標準なんだよな。俺以外の人は、きちがい家族によるヘビメタ騒音を、自分のからだで体験したわけではないから、それが、からだにどういう影響を与えるか、まったくわかってない。

鳴り終わったら、影響がなくなると思っている。

そういう、あほな人間。

そういうあほな人間が、この俺をばかにするんだぜ。こんな世の中はない。こんな世の中でいいはずがない。こんな世の中で生きていたくないと思うのはあたりまえだろ。*1どうして、それがわからない。あほなことを言ったやつは、自分が正しいことを言ったと思っているんだぞ。そして、反省しないんだぞ。

*1 俺は、生きるけど。ようするに、そういう人たちは、はげますためにそういうことを言ったりするわけだけど、逆の効果があるということさ。相手が死にたくなるようなことを言うのはよくないと思うぞ。注意喚起のために、書いておいた。

これは、自殺防止のために必要だ。これ、ほんとうに、「もし、通勤して働くなら、死ぬしかない」という人に対して、「人間は働くべきだ」ということを言う人は、自分がなにを言っているのかわかっているのかと言いたい。

これって、けっきょく、体力問題なんだよな。主観的な体力問題。「人間働くべきだ」と言った人は、「人間は、どれだけつらくても、働くべきだ」ということを言っているんだよ。けど、それは、本人が標準的な体力状態をキープしているときに言っていることだ。本人が、標準的な体力状態をキープできなくなったら、「俺はもう、働かなくてもいい」と思ってしまうのである。こういう、自分勝手な思考。

ともかく、積極思考、認知療法的な思考、幸福論的な考え方を、すでに、働けなくなって困っている人に言うのは、問題がある。何度も言うけど、首を絞めるような効果がある。がけっぷちに立っている人の背中を押してしまうような効果がある。

死んでしまえば、「どうして相談してくれなかったのか」などと言いだすけど、ダメダシされるだけなのだから、それはそれは、相談したくないと思うだろう。どうしてこれがわからないのか。いちおう、主語をおぎなって言っておく。「(働けない人が)死んでしまえば、「どうして相談してくれなかったのか」などと(相談者きどりは)言いだすけど、(働けない人は)(相談者きどりから)ダメダシされるだけなのだから、(働けない人は)それはそれは、相談したくないと思うだろう」ということだ。

相談者きどりというのは、「人間は働くべきだ」と考えているような常識的な人だ。働けない人と書いたけど、たとえば、「働けるように見えるけど実際には働けない人」とか「働いてないニート」とか「働いてない引きこもり」でもいい。「引きこもり」は相当なネガティブワードだから、それだけで、常識的な人の嫌悪感を引き出すのである。この「引きこもり」という言葉がもつ、ネガティブなパワーについては、そのうち書くか。まあ、ちょっとずつ、いろいろなところに、すでに書いたとは思うけど。ちなみに、言葉自体にパワーがあるのではない。その言葉を使う人の、対象に対するネガティブな感情にパワーがある。

2021年8月11日水曜日

「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」というべきものがある ポジティブ思考にとらわれている人が言う「困難」は「困難」じゃない

 本当に、「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」というべきものがある。これは、本人は無視できなない。けど、きれいごとを言う人たちは、勝手に無視してしまう。そして、「できる」という説得をしてしまう。しかし、「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」というべきものがあるので、うまくいかない。これは、無視する人たちが悪い。そして、なるべく、無視するような言語が説得の言語として選ばれるのである。「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」というべきものは、無視してはいけない。けど、「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」というべきものは、無視しないと、「できない」ということになってしまうのである。だから、「はめ込まれた状態」「はめ込まれた状況」をひとつずつ、ときほぐす必要がある。無視ではないんだよね。

 

あと、無理なものは無理だから。

 

ときほぐすとか言うと、無理なものを押し付けることだと解釈するやつが出てくるからこまる。

 *     *     *

認知療法家やポジティブ思考にとらわれている人が言う「困難」は「困難」じゃない。ぜんぜんちがう。「困難」の「困難」がちがう。それが、わからない。そういう種類の「困難」しか経験してない人は「それが」「困難」だと思ってしまう。「困難」という言葉の内容であらわされているものがぜんぜんちがう。

しかし、たとえば、困難Aと困難Bを両方とも経験した人が、困難Aと困難Bを使いわける(切り分けて考える)ということはできるのだけど、困難Aを経験したことがない人は、困難Aを困難だと思ってしまうのだ。話に聞く困難Bというものは、困難Aとおなじだと思ってしまうのだ。経験の範囲のなかで、困難Aしか経験したことがないので、その人のなかでは、困難と言えば、困難Aでしかない。 そして、困難Aが「困難」であるとしか思えない。

 

2021年8月10日火曜日

繰り返された回数は、きれいごとの理論よりも重要

 理論物理学とかじゃなくて、幸福学や臨床心理学とかだと自分の経験の範囲でしか、考えられないという部分があるんだよな。あとは、繰り返された回数は、きれいごとの理論よりも重要。この、回数を無視しちゃいけないんだよな。あとは、「はめこまれた」状況というのはある。けど、これも、カウンセラーや学者は無視しがちだ。

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しょせん、自分も含めて全員、死ぬまでのゲームだと割り切れば、だるさが無視できるのかというと、それはちがう。だるさは無視できない。だるさと書いたけど、しんどさでもおなじだ。

2021年8月9日月曜日

彼らとぼくのあいだには、ヘビメタ騒音の効果に関する認知の差異がある

 キミ、ヘビメタ騒音にやられた朝、街がどういうふうに見えるかわかるか?

キミ、ヘビメタ騒音にやられた朝、木がどういうふうに見えるかわかるか?

キミ、ヘビメタ騒音にやられた朝、道路がどういうふうに見えるかわかるか?

 もう、全部ボロボロ。全部、色がないような状態だ。異次元空間に迷い込んだような感じだよ。そして、憂鬱だ。おぼろげに死にたいと思う。あとは、ひきつっている。ひきつっている。学校に遅刻しそうになって、ひきつって、走っている。どれだけ、力を出そうとしても、チカラが出ない状態だ。ほんとうに、騒音で頭をやられた。これ、「意志」とか関係がないから。あんなのやられて、いいわけがない。あんなのが毎日続いていいわけがない。あれを毎日経験してないやつらに、わかったことを言われたくない。けど、言うんだよ。言うの。言う。

彼らとぼくのあいだには、ヘビメタ騒音の効果に関する認知の差異がある。ぜんぜんちがうんだよ。ぼくが実際に経験したことと、彼らがぼくの話を聞いて、想像したものが、ぜんぜんちがうの。あんなに長い時間、毎日、やられていいわけがない。

 

2021年8月8日日曜日

たとえば、八五デシベルの音で一三時間聞かせた場合の「幸福感」について調べることができない。これは、虐待に相当する

  幸福学という学問分野がある。これは、不幸な人に不愉快な感じをあたえる。ダメ出しをしてしまうのだね。しかも、これ、やっぱり、統計的なトートロジーであるような感じもする。

しかも、アンケート調査の結果を統計処理しているわけで、もとは、アンケート調査だ。アンケート調査で拾える領域は小さいのではないか。じつは、生活のなかでは広範な文脈を持つ「出来事」に関して「しあわせだ」と感じたり「ふしあわせだ」と感じたりしているのではないか。文脈は無視されているアンケート調査が基本である限り、文脈は拾えない。ほんとうに必要なのは不幸学。

基本的には、倫理規定に反するような実験はできない。実験が終わったあとの人間関係に影響を与えるうな実験はできない。実験というのはそういうレベルでないとだめなのだ。

これは、どういうことかというと、たとえば、本人が本気で「やめてくれ」と言っているのに、ヘビメタを八五デシベルの音で、一三時間聞かせ続けるというような実験ができないということを意味している。

なのであれば、八五デシベルの音で一三時間聞かせた場合の、からだの状態や精神の状態についてデータを得ることができない。これは、虐待に相当する。そういう問題のある実験はできないのだ。

それとおなじで、ニュートラルな状態での「幸福感」について、アンケート調査をしているだけだ。これだと、たとえば、八五デシベルの音で一三時間聞かせた場合の「幸福感」について調べることができない。正確には、実験して調べることができない。

2021年8月7日土曜日

(3)「人に親切にする……それは、単純によいことだ。なにを、ガタガタ言ってんだ?」「金でも親切でも、出血大サービスはだめだ」

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社会の底辺でズタボロになりながら生きている人……こういう人は、すでにいろいろな人にしんせつしてあげている。普通に、生きているとき、親切にしてあげている。別に、意図的に親切にしてあげようと思わなくてもいい。じゅうぶんに、親切にしてあげている。

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芸能人、有名な経営者……こういう注目されている人が数十億円の寄付をすれば、話題になる。そして、「あたえることでしあわせになる」というようなことがマスメディアやネットを通じで流される。そういう場合と、普通の人が行う普通の寄付はちがう。

「おカネの話ではなくて行為の話だ」というようなことになる場合も、同様のことが成り立つ。注目されている人が、大げさなことをする場合と、普通の人が普通のことをする場合はちがう。

けど、大げさなことをしている場合について、語ってしまうのである。

しかも、普遍的な一般法則として語ってしまう。

対象が人間、普遍的な一般法則なら、一〇〇%の人がやったばあい、一〇〇%そうなるということなのである。なので、誤謬が生まれる。

 対象が人間だということになっていると、そういうことが成り立たない人間が存在するので、そういうことが成り立たない場合があるのだけど、そういうことが成り立たない場合について、無視してしまう。

……ようするに、わかってない人が、「対象はすべての人間だ」と思って、そういう言葉について語ってしまうのである。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる生き物だという前提がまちがっている。「人間は……だ」ではなくて、「人間のうちのある人間たちは……だ」ということなのだ。

ひかえめに言っても、じつは 「。人間というものは、親切にしたら、よい気持ちになる傾向がある」としか言えない。もし、そういうことなのであれば、もちろん、そうではない人もるということや、そうならない場合もあるということを暗に言っていることになる。「……という傾向がある」ということだから、「そうではない場合もある」ということになる。これ(アンケート調査から言えること)は、確率の問題であり、可能性の問題なのだ。どれだけ、複雑な統計処理をしても、確率の問題であり、可能性の問題であるという点は、かわらない。

幸福学について語っている人は……やったら……つまり、ほかの人に親切にしたら……一〇〇%、そうなる……つまり、しあわせを感じるようになる……という前提で語っているけど、ほんとうは、一〇〇%とは言えない。

成り立つ場合もあるけど、成り立たない場合もある。……そういうことについて語っている。しかし、語っている人は、一〇〇%成り立つと思っているのである。

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余裕のある人が人に親切にするのはいいことだけど、そういうことばかりではないのだ。余裕のない人はいる。余裕のない人が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明にふれると、もっと余裕がなくなるのである。

こういう効果が、「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人にはわからない。「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をする人は、むかしはどうだか知らないけど、いまは、余裕のある状態になっているのである。

常に、だれがだれに対して親切にするのかということを問題にしない、普遍的な「親切」というもの考えているのだけど、それは、この世にはない。親切にしたつもりの人間が、ほんとうに親切にしたのかどうかわからないというところがある。

相手にしてみれば「ありがた迷惑」だったかもしれないのだ。こういうことは、だれがだれに対して親切にしたのかということが、本当は重要なのだけど、普遍的な真理? 普遍的な法則として語られてしまう場合には、そういう要素や、そういう要素から生じた現実が無視されてしまうのである。

そういうことのひとつの問題として、じつは、ただ単に「人には親切にするべきだ」「それが自分のためなのだ」というような説明をすること、自体の問題がある。

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常に、捨身飼虎(しゃしんしこ)に近いことをやってたら、もう生きてないよ。一回でも、捨身飼虎(しゃしんしこ)をやったら、生きてないのだから。

金でも親切でも、出血大サービスはだめだということだ。

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「人に親切にする……それは、単純によいことだ。なにを、ガタガタ言ってんだ?」と思う人がたくさんいると思う。まあ、普通はそうだ。けど、世の中にはいろいろな人がいるから「そうとは言えない」側面がある。

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捨身飼コ(しゃしんしこ)……コロナウイルスに自分の細胞をあたえて、死んでしまうこと。正確には、自分の体を構成している細胞の一部分をあげて、死んでしまうことなのだけど、これも、コロナウイルスに細胞の一部を食わせてやったということになる。自分の細胞を与えてコロナウィルスをやしなうという善行をしたことになる。善行をしたので、たましいの格があがる。

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コロナウイルスは感謝はしてないだろう。けど、それは、虎が感謝してないのとおなじだ。

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AさんがBさんになにか(X)をしてあげて親切にしたとする。けど、それは、AさんがBさんに、親切にしてあげたと思っただけかもしれない。Bさんがどう考えているかは、わからない。Bさんが、Aさんがやったことは、迷惑行為だと感じている場合、Aさんは、Bさんに親切にしたと言えるのかどうか?

たしかに、Aさんの頭のなかでは、たしかに、Bさんに親切にしたということになっている。

しかし、親切にしたということが固定されるには、Bさんが、Aさんに親切にしてもらったと感じてなければならないのである。そして、Bさんがそれを表明しなければ、わからないのである。

表明した場合は、AさんがBさんに親切にしてあげたといこうとが、「いちおうは」固定される。

しかし、これがまた、時間がたって、Bさんの気持ちに変化があった場合はどうかと言うと、時間がたって、Bさんが、あのときのAさんの行為は親切な行為ではなかったと思ったなら、そのときは、AさんのあのときのBさんに対する行為は、親切な行為ではなかったということになる。

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Aさんから見て、Bさんが「助かった状態」になれば、Bさんがどう感じているかは関係なく、AさんはBさんによいことをしたと思うことができるだろう。こういうのは、別にいい。けど、ほんとうにいろいろな人がいるから、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまうと、不幸になる人が出てくる。

それは、いろいろな人がいるからだ。

ニュートラルな人たちばかりではないのだ。

感じ方すべてが自分勝手な人がいる。自分がよければ人はどうなってもいいという考え方を無意識的に持っている人たちがいる。意識的にはそうではないのである。これが厄介だ。意識的にも無意識的にも、人のことを利用することしか考えてない人たちもいる。

そういう人がたくさんいる社会で生きている場合、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を真に受けてしまう人は、ズタボロな状態になる。

出血大サービスで、輸血が必要な状態になってしまうのである。

本人に輸血が必要な状態になる。

しかし、本人に輸血が必要な状態で出血大サービスをしたらどうなるか?

死んでしまうではないか。あたかも、虎に身を投げ出すような行為だ。しかし、人間の社会ではそういう人が、ばかにされて、踏んづけられるのである。そういう部分ある。

けど、「人に親切にするのはいいことだ」「人にお金をあげることで自分がしあわせになる」というような意見を普通に言う人たちは、そんなことは考えてない。

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*1 いつもかならずしあわせを感じるということと、数回に一回はしあわせを感じることがあるということは、ちがう。

「人にしてあげることは、自分に返ってくる」とか、あるいは「親切にするのは他人のためではなくて自分のためだ」というようなことを言っている人が、想定しているのは、「いつもかならず」しあわせを感じるはずだということだ。ようするに、親切にしたとき、一〇〇%の確率で、人間という存在は、しあわせを感じるようにできているという前提でものを言っている。ぼくは、これはちがうのではないかと思っている。一〇〇%の確率じゃない。

 

 

2021年8月6日金曜日

幸福学は「生まれの格差」を無視してしまっている

幸福学は「生まれの格差」を無視してしまっている。その人がそれまで経験してきたことを無視してしまっている。そりゃ、いやな思いをたくさんしてきた人は、不幸感があるだろう。

たとえば、仕事に積極的に取り組んでいる人は、幸福を感じやすい……仕事に消極的な人は、幸福を感じにくい……とする。

けど、仕事というけど、その仕事といのは、やりがいのある仕事なのかどうかということがまったく問題になってない。

そして、やりがいのある仕事にアクセスできる人は、それなりに、恵まれた人だと思う。仕事に消極的な人は、自分に合った仕事を見つければよいということになるかもしれないが、生まれの格差やそれまでの経験の差があるので、自分に合っていると思えるような仕事に就けない場合がある。

その場合、やはり、幸福感が低いのではないかと思う。自分に合った仕事をしているという点で、もう、「幸福であるという主観的な自覚」があるのではないか。

そして、それは、やはり、生まれの格差が影響している。

けど、生まれの格差なんて、たとえばの話だけど「仕事に積極的に取り組んでいる人は、幸福を感じやすい」というような項目のなかには出てこない。原因としても結果としても出てこなぃ。

生まれの格差は仕事の選択に影響を与えているはずだ。しかし、これも、たしかにそういうことが言えるということを調べてからではないと、なんとも言えないということになる。

「生まれの格差」ということになると、じつは、膨大な数の因子がかかわってしまう。しかし、やはり、「生まれの格差」は職業の選択に影響を与えると、ぼくは思う。思うだけなんだけどな。

楽しく仕事をしている人は幸福感を得やすいとする……。幸福感を得やすい仕事をしているから、楽しく仕事をしている状態が成り立っているのかもしれない。楽しく仕事のところを有益だと思える仕事をしている人はと言い換えてもおなじことが成り立ってしまうのではないか。 

やりたい仕事をしている人は幸福感を感じやすい……やりたくない仕事をしている人は幸福感を感じにくいとする……。幸福だから、やりたい仕事ができるのではないか。幸福ではないから、やりたくない仕事をしているのではないのか。やりたくない仕事をしていて、幸福だということはあるのか? そりゃ、やりたくない仕事をしていても、家に帰ると、ものすごくかわいい奥さんがいて、しあわせだということはありえる。

しかし、仕事中はどうだ?

そもそも、やりたくない仕事をしなければならない状態というのは、不幸なのではないか。どうしてやりたくない仕事をしているのか? 

とえば、やりたいことができる会社には入社できず、やりたくないことをする会社には入社できたので、やりたくないことをする会社で働いているとする。やりたいことができる会社に入社できなかったのは、そもそも、不運なことなのではないか。

不運であると感じる経験があるのだから、その経験をしたときは、不幸感があると言えるのではないか。その不運であると感じる経験の「延長線上にある」仕事は、やっぱり、楽しくないのではないか。

いづれにせよ、望めばどんなことだってできるということは実際には成り立たないので、たとえば、働いている時間のことを考えさて、働いているときに幸福かどうかを訊いて、そのあと、積極的に仕事をしているか消極的に仕事をしているかということを訊いた場合、やはり、積極的に仕事をしている人は幸福感を感じやすいということや、消極的に仕事をしている人は幸福感を感じにくいということが、言えてしまうのではないか。 


(2)親切を、積み重ねても、その人の「つらい現実」はかわらない 

(2)

どうして、こういうことを言う人たちは、はめ込まれた条件や、それまでの文脈を無視してしまうのかと、疑問に思う。

一般的な傾向について、語っているにもかかわらず、絶対法則について語っているつもりになってしまう。対象となる人が、じつは限られているにもかかわらず、対象となる人が全人類だという前提でものごとを語ってしまっている。対象が限られているということがわかってない。

底辺ではいつくばって生きている人は、他人に「おカネ」をあげても、しあわせになれない。しあわせを感じることができない。そういうことを言えば、「おカネ」じゃなくてもいい。ものだって、いいし、親切にしてあげることだっていいと言ってくると思う。

最初は、「おカネ」の話をしているわけだし、三〇億円寄付したとか、全財産を寄付したとかと『感動の美談』としての条件を備えている。そういう話が話題になるのは、派手だったり、めったにないという意味でかわっている話だからだ。

いつの間にか、「おカネ」の話ではなくなって、親切にしてあげるということでもよいのだということになってしまう。「おカネ」に関して言えば、「おカネ」をどれだけあげたかという競争になってしまう。親切でもおなじで、どれだけ人に親切にあげたかという競争になってしまう。

親切だって、本人と、対象の人で感じ方や考え方がちがうので、かならずしも、相手も自分もしあわせになるとはかぎらない。かぎらないにもかかわらず、一〇〇%そうなるという前提でものを言っている。

対象が人間で、一〇〇%そうなるという前提で話をしているなら、頭がおかしい家族にやられて、不幸である人も対象になっている。

じゃあ、頭がおかしい家族にやられている人が、頭がおかしい家族に親切にしてあげれば、それでしあわせになるかというとならないのである。不幸なことに、頭がおかしい家族にやられている人が、頭がおかしくない普通の他人にしんせつしてあげた場合も、しあわせになれない。

そりゃ、最初は、たしょうのしあわせを感じるかもしれないけど、普段、頭がおかしい家族にやられているために、そのしあわせ感が続かない。他人に親切にして感じたしあわせ感が「一」だとすると、普段普通に家族にやられていることで生じる不幸感が「一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」ぐらいなので、すぐに、しあわせ感が不幸感に打ち消されてしまう。

これは、頭がおかしい家族にやられている人だけではなくて、社会のなかでやられてきた人にもあてはまる。

ひとことで言って、社会のなかでやられ続けてきた人は、他人に親切にすることでは、しあわせになれないし、他人にお金をあげることでは、しあわせになれない。まあ、他人に親切にした場合、時と場合によっては、しあわせを感じることもあると思う。*1

しかし、そういうことを、積み重ねても、その人の「つらい現実」はかわらない。これ、かわらないのである。

しかも、「親切にしてやろう」という気持ちが強い場合は、意図的な親切になりがちなので、あんまりいいことにはならない。最初は、親切にしてあげて、Win-Win関係になったにもかかわらず、親切にしてあげることが習慣になって、けっきょくは、親切にしたほうが親切にされたほうに利用されるというようなことだって、発生する。

これが、人間社会。

だいたい、きちがい的な家族にやられている人や、損な役割を押しつけられている人は、ほんとうは、根がやさしくて、人に親切なんだよ。

搾取してやろうとしないの。

利用してやろうとしないの。

ほんとうは、そうやってこの世に存在しているだけでも人に親切にしているのとおなじだ。

けど、この「親切にする」ということの基準が、人によってちがうのである。ようするに、「なにが親切」で「どういうことをすることが親切なことをすることなのか」ということなのかについて、相当に考え方がちがう。そして、おカネではないけど、親切に関して競争するようなことになると、おカネのときと同じようなことが発生して、だめなのである。

けど、「親切にしてあげれば、しあわせになれる」というような「絶対法則」を提示されると、人間は「自分がしあわせになるために、ひとに親切にしてあげよう」とするわけなのだけど、意図的な親切というのは、そんなには、しあわせをもたらさない。むしろ、トラブルを招来してしまう。 

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コロナウィルス(COVID-19)なんかより、ヘビメタ騒音のほうが重要な問題なんだよ。どうしてそれがわからないのか。ヘビメタ騒音がどれだけ有害かみんなわかってない。あの生活はない。あの生活をしてない人に、とやかく言われたくない。


2021年8月5日木曜日

普遍的な法則として語られてしまう場合には、そういう要素や、そういう要素から生じた現実が無視されてしまう

 基本的なことを言ってしまえば、きちがい家族にやられて、こまっている人は、きちがい家族に感謝しても、しあわせになれない。きちがい家族にやられて、ほかの人たちから誤解をされている人は、ほかの人たちに感謝しても、しあわせになれない。

社会のなかでやられまくった底辺の労働者は、ほかの人に「お金をあげて」もしあわせになれない。いままで、社会のなかでやられまくった底辺の労働者は、ほかの人に「親切にしてあげて」もしあわせになれない。

だれが、と言うことを考える必要がある。しかし、たとえば、「感謝することでしあわせになれる」と言った場合の対象範囲は、人間なのである。なので、無意識に問題があるきちがい家族に虐待されている人も含まれてしまう。

たとえば、ある人(家族の一員)が、めちゃくちゃにでかい騒音を鳴らし続けているのだけど、その人(家族の一員)は特にでかい音で騒音を鳴らしているというつもりがない場合、その人(家族の一員)に感謝をしても、親切にしてあげても、鳴らされている人はしあわせにならない。

騒音を何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らされていると、関係のない他者とのあいだにトラブルが発生しがちになる。その場合も、感謝をしたり、親切にしてあげても、しあわせになれない。問題がちがう。くるしみの根源がちがう。

「感謝をすればしあわせになれる」「人にあたえることでしあわせになる」というような話は、対象が人間だ。しかし、やられまくっている人間には成り立たないことなのである。 

たとえばの話をするけど、くるしんでいる人間が「感謝をすればしあわせになれる」「人にあたえることでしあわせになる」ということを真に受けて、感謝をしたり、人にあたえるとどうなるか? トラブルが発生して、もっとくるしむことになる。

あるいは、問題の根源がかわらずに、くるしみ続ける。別に、そういうことをしたから、いい気持になったり、しあわせを感じるということがない。

それは、無意識的な人の悪意にさらされ続けて実際にトラブルが生じている人間だからそうなるのである。無意識的な人の悪意というのは、その悪い行為をする人のなかでは、あたりまえのことだから、その無意識的な悪意にしたがった行動というのは、無意識的に繰り返されることなのである。


迷惑をかけられた人が、こまって、「こまるからやめてくれ」と言ってきたとしても、そんなのは、発狂して無視しておしまいなのである。相手の言っていることを理解するということがないから、相手がこまっているということを認めないまま、ずっと、相手にとって「迷惑な行為」をし続けることになる。

あたりまえもなにも、人が呼吸をするように、迷惑行為をするのである。その人は、そういう原理で動いているから、ほかの人の働きかけとは関係なく、そういう人であり続けるのである。やり続ける。

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2021年8月4日水曜日

あれは、友達の責任ではないんだよ。友達が、うなだれちゃっただろ

 

 ヘビメタ騒音で、ずっと人から誤解されている人生だ。誤解され続けている人生だ。やってられない。俺が、どれだけ誤解されたか。能力において誤解されたか。意図において誤解されたか。あのときの、友達の、あの、顔。俺が迷惑をかけることになってしまうんだぞ。ほかの人に迷惑をかけることになってしまうんだぞ。こんな人生やってられない。全部、きちがい兄貴のきちがい行為をかぶっている。全部、きちがい親父のきちがい行為をかぶっている。かぶりすぎている。そして、これが事実なのに、こういうことを言えば、「人のせいにしている」というやつが出てくる。そいつは、きちがい親父にきちがい的な理由で毎日毎日、怒り狂われていたわけでもないし、きちがい兄貴に、きちがいヘビメタを、毎日毎日押しつけられたこともないやつだ。どれだけ広範な範囲に被害が及ぶかわかってない。鳴らされたあと、眠れない。これすら、「眠れると言えば眠れる」とか「健康管理は自己責任」などと言われる。そういうふうに言うやつは、あのでかい音で、がんがんがんがん、自分がこの世で一番嫌いな音を、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も、しつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこくしつこく聞かされ続けたあと、どうなるかわかってない。

放送委員会のことだって、毎日毎日、ちゃんと眠っていたらあんなことになってない。どんだけ、眠れな日が積もっていたか。俺が、友達に迷惑をかけることになるんだぞ。そして、友達がいやな思いをする。放送委員会担当の教師が、俺に対して怒ったわけだけど、友達に対しても怒った。あれは、友達の責任ではないんだよ。友達が、うなだれちゃっただろ。その日、家に帰って、「やめてくれ、やめてくれ」と言ったとき、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴の形相で、きちがいヘビメタを鳴らし続けた。あれ、鳴らし続けたんだからな。やめてくれたわけじゃない。それなのに、きちがい親父とおなじで「ゆずってやった。ゆずってやった」と言う。頭がほんとうにおかしいから、どういうレベルのことだわりで、どういうレベルの「無視」で、自分がやりたいことをやったか、わかってない。都合が悪いことは否定しておしまいだ。当時、自分がヘビメタを鳴らしたい以上、ヘビメタをやめてくれ」ということは、きちがい兄貴にとって、都合が悪いことなんだよ。都合が悪いことは、きちがい的な『無視力』を発揮して、無視する。きちがい親父と頭の構造が同じ。

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2021年8月3日火曜日

だれだれさんが三〇億円寄付したということが、美談として語られるなら、あたえることができない人は、惨めな思いをすることになる。

たとえば、「あたえること」はいいことだとする。そうすると、あたえることに関して競争が始まる。「たくさんあたえた人」が勝者だ。「少ない人」や「あえることができない人」は敗者だ。こういうことは、宗教団体の内部で発生することがある。より多く寄付した人がえらいというというとになる。寄付ができない人は、惨めな思いをすることになる。「あたえることでしあわせになる」ということが言われ、だれだれさんが三〇億円寄付したということが、美談として語られるなら、あたえることができない人は、惨めな思いをすることになる。

あるいは、あたえられるほうは、あたえられることで、人をしあわせにしてあげているのだから、惨めに感じる必要はないのだけど、あたえられることによって人をしあわせにしてやったのだから、いいということを言ってしまうと、問題があるかもしれない。

人間は、そういうところがある。 

「あたえられることで、人をしあわせにしてあげている」というのは、「あえることで、しあわせになる」という理論が成り立っていればの話だ。そういう理論が成り立っていなければ、成り立たない話だ。宗教団体内では、ありふれた考え方かもしれないけど、普通の人が普通に暮らしている場合、「あえることで、しあわせになる」という考え方は、いつも成り立つわけではない。あたえられたら、感謝するべきだという考え方が支配的だろう。


 

 

 

2021年8月2日月曜日

「性善説的な教え(受けの言語)」は「できない人」を攻撃するのである。 できないということを認めないのはわるいことだ。

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手短に言うと「与えることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような一見、よさそうな考え方が、じつは、「できない人」を追い込むのである。 「性善説的な教え(受けの言語)」は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった「攻めの言語」と対になってあらわれ、「できない人」を攻撃するのである。

これは、首を絞めるような効果がある。

実際には、できない人を自殺においつめるのは……一見よさそうな「攻めの言語」と一見よさそうな「受けの言語」なのである。

「できない」と言っている以上できないということを認めてあげたほうがいい。「できる」と説教することは、わるいことだ。

そして、はっきり言うけど、たとえば、「できない」と言っている人のうち、ほんとうはできる人がいると思う。その人は、人をだましして、たとえば、生活保護や障害年金をもらうということになる。だから、「できない」と言っている人のうち、できる人とできない人がいるという問題がある。しかし、これに関して言うと、「できない」ということにしておいたほうが全体の損傷が小さくなる。

自殺を減らすには、じつは、 「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった攻めの言語を減らし、「あたえることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような受けの言語を減らすべきなのだ。

社会に、攻めの言語と、それを補う受けの言語が流布しているので、「できない人」は死ぬしかないということになる。そういう圧力が、うみだされる。一見わかったような話である「受けの言語」も、じつは、攻撃的な言語だということに気がつかなければならない。

気がつくわけがないだろうけど。

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 努力してできるようにすることが、わるいことなのか?と思う人がいるかもしれない。いちおう説明しておこう。努力してできるようにすることは、わるいことではない。けど、他人が、できないということを認めないのはわるいことだ。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、努力をしてできるようにすることはすばらしいことだと考えているとする。 実際にAさんは、いままで、できなかったことができるようになったことがある。そのとき、快感を感じた。そして、Aさんは「どんなことでも努力をすればできるようになる」と思ったとする。なので、そういう信念に従って生活していたとする。これは、別にいい。

しかし、Bさんができないということを、Aさんが理解しないというのはよくない。別の人の話……。ほかの人の話……。ほかの人が「できない」と言っているのに、ほかの人ができると思うのはよくない。


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2021年8月1日日曜日

できてたら、苦労はしてないのである。補完しあって、できない人を、追いつめる。

「人にあたえることでしあわせになれる」「人にお金をあげることで、お金がしあわせをつれてくる」というような考え方がある一方で、「できないやつはくず」というような考え方もあるのだ。

普通に考えれば、お金がない家に生まれた人は、「いやな仕事」「もうからない仕事」を押し付けられがちだ。

そして、底辺に行けば行くほど、「過剰な労働」を求められるようになるのである。「 障害者も働くべきだ」というキラキラ理論のかげには、いろいろな不幸がある。

 

たとえば、知的障害者が、障害者雇用に志願したけど、雇われなかった場合、自力で障害者雇用ではないという意味で、普通の仕事を見つけなければならなくなるのだけど、その人の能力を超えた仕事を押し付けられるようになる。

世の中は、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」でいっぱいなので、「がんばってできるようになる」ことを押し付けられる。できなければ、なぐられるというような状態になる。なぐられるかどうかはわからないけど、まあ、最低でも怒られるということになるだろう。その場合、怒られて、できるようになれば、いちおうは、問題はない。

けど、どれだけ怒られても、「できるようにならなかったら」どうなるか?

やめざるを得ない。

しかし、やめたところで、また、同じような仕事をするしかないという事情がある。しかし、同じような仕事でさえもやはり務まらないので、けっきょくはやめるということになる。そういうことを繰り返していれば、転職歴が増えるということになる。

あるいは、怒られて、仕事をやめたあと、次の仕事を始めるまでの期間が長くなるのであれば、ブランクがしょうじることになる。無職期間が長ければ長いほど、次の仕事にありつけなくなるということになる。

そして、そういう人たちがありつける仕事というのは、これがまた、人権無視のひどい仕事なのである。

基本的には、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」は、人を追いつめるような効果しかない。

できてたら、苦労はしてないのである。

「できると言えばできる」とか「努力をすればできるようになる」とか、そういうことが成り立たないから、できない人はこまってしまうのである。

いちおう、通りがよいように、知的障害者の話にしておいたけど、ギリギリ健常者でも同じことが成り立つ。むしろ、障害者ではないということが、ギリギリ健常者を追いつめるのである。

そのしくみは、いままで見てきたようなしくみと同じだ。『ギリギリ健常者』ではなくても、『できないほう』に入っている人たちはいる。その人たちにとっては、その作業は、ほんとうにできないことかもしれないのだ。

しかし、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」の流行が、より不幸な状態を作り出してしまうのだ。「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」を信じている人たちが、「できない人」を追い込むような状態ができあがってしまう。

しかし、その一方で「あたえればしあわせになれる」というような「純粋にとぼけたこと」や「性善説に基づいたきれいごと」が言われる。これは、「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」の「うら」なのである。補完しあって、できない人を、追いつめる。最悪、自殺に追い込む。

認知療法の理論は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」に入れておかなかったけど、ほぼ同じ役割をする。内因性のうつ病患者以外、救われない理論が認知療法の理論だ。

けど、うつ病患者という「くくり」にしたばあい、いちいち、そんなことを気にするかね? うつ病患者は認知がゆがんでいるということになる……。

認知療法の理論に従えばそうなる。

けど、ぼくは、認知がゆがんでないにもかかわらず、うつ病になっている人たちがいると思う。それから、上記の記述との関連で言えば、たとえば、「仕事ができない」という認知を持っている知的障害者の認知は、ゆがんでいない。

そりゃ、現実の世界で、現実的にどうしてもわからないことがあり、仕事ができないのだから、「仕事ができない」という認知は、ゆがんでいない。

もちろん、その場合の「仕事」というのは、抽象的な「仕事」なるものではなくて、その職場の特定の「仕事」である。「なら、職場の人にたのんで、できる仕事をさせてもらえばいいじゃないか」というようなことを「関係がない人」は考えるかもしれないけど、たのめば、その人ができる仕事をあたえてくれるのかというと、そうではないと思う。

そういうレベルのことで、問題が片づいているのであれば、問題になってないと考えるべきだ。理想的な職場ではなくて、底辺の職場で働いているということを考慮しなければならない。

仕事ができない人が追いつめられる状態と「あたえることでしあわせになる」というような性善説に基づいた考え方が同居している状態だ。「あたえることでしあわせになる」ということを信じている人がたくさんいるのであれば、仕事ができない人に金をぜんぶ渡してしまえばいいじゃないか。

ところが、そういうことは、特別な美談にしかならない。数がすくなくて、まれなことだから美談として語られるのである。ようするに、普通に行われないことだということを意味している。美談は美談で、いろいろな条件が、じつは成り立っている。しかし、その条件を無視する人たちが、美談に感動するということになる。

実際の場面で、美談に感動した人が、こまった人に全財産に近いお金をあげるかというと、あげない。半分もあげない。四分の一もあげない。八分の一もあげない。一六分の一もあげない。あげないかわりに、説教をしはじめるのである。

その説教は「できないなんてことはない。あまえているだけだ」というような考え方がベースにある説教だ。「できない」ということを認めてないのである。なので、こういう人に必要なのは、まず、「できない」ということを認めるということになる。

Aさんが障害者で「できない」と言っている場合、Aさんはできないのだなと認識してあげることが必要だ。しかし、障害者教育の専門家も「障害者が働くことはすばらしい」という考え方にとりつかれていると、「できない」ということを認めずに、「自分に合った仕事を見つけて働くこと」を推奨することになる。

しかし、「自分に合った仕事」がないのである。

しかし、これも、働くことを推奨する人が「見つけようとすれば見つけられるはずだ」という考え方に支配されている場合は、その障害者が「見つけらない」と言っても、見つけられないということを認めないということになる。

「がんばれば見つけられる」という努力論的な考えに支配されているので「見つけられない」ということは認めない。がんばれば見つけられるのだから、がんばればいいということになる。ともかく、「なんだろうが、仕事はできるはずなので、障害があるから仕事ができないということはない」という考えに立って、説教をしてしまうのである。

いま、『障害者』ということで説明したけど、『ギリギリ健常者』でも同じだ。しかし、ギリギリ健常者健常者は『健常者』なので、いま述べたようなことを、もっとはっきりと言われるということになる。

つまり、ギリギリ健常者が「できない」と言っても、できないということは認められず、「できる」という前提で説教をされるということになる。

しかし、その説教は、的を得ていない。

ギリギリ健常者が「できない」と言っているにもかかわらず、「できる」という前提でものを言うということが、不適切なことなのである。「できる」には「できる」と「努力すればできる」という二種類の「できる」があるけど、両者は同じ意味でつかわれているので同じ意味を持つということにしておく。

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手短に言うと「あたえることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような一見、よさそうな考え方が、じつは、「できない人」を追い込むのである。 「与えることでしあわせになる」というような性善説に基づいた考え方「受けの言語」は「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった「攻めの言語」と対になってあらわれ、「できない人」を攻撃するのである。


これは、首を絞めるような効果がある。

実際には、できない人を追いつめるのは……自殺においつめるのは……一見よさそうな「攻めの言語」と一見よさそうな「受けの言語」なのである。

「できない」と言っている以上できないということを認めてあげたほうがいい。「できる」と説教するよりも、できないということを認めてあげたほうがいい。もし、ほんとうに、あたえることで幸福になるなら、「できない人」に直接、あたえて、幸福になればいい。

そして、はっきり言うけど、たとえば、「できない」と言っている人のうち、ほんとうはできる人がいると思う。その人は、人をだましして、たとえば、生活保護や障害年金をもらうということになる。だから、「できない」といっている人のうち、できる人とできない人がいるという問題がある。しかし、これに関して言うと、「できない」ということにしておいたほうが全体の損傷が小さくなる。

自殺を減らすには、じつは、 「努力論」「根性論」「言霊思考」「積極思考」といった攻めの言語を減らし、「与えることでしあわせになる」「置かれた場所で咲きなさい」「感謝をすればいい」「すべては受け止め方の問題(受け止め方をかえれば現実がかわる)」というような受けの言語を減らすべきなのだ。

社会に、攻めの言語と、それを補う受けの言語が流布しているので、「できない人」は死ぬしかないということになる。そういう圧力が、うみだされる。一見わかったような話である「受けの言語」も、じつは、攻撃的な言語だということに気がつかなければならない。

気がつくわけがないだろうけど。

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 努力してできるようにすることが、わるいことなのか?と思う人がいるかもしれない。いちおう説明しておこう。努力してできるようにすることは、わるいことではない。けど、ひとが、できないということを認めないのはわるいことだ。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんは、努力をしてできるようにすることは素晴らしいことだと考えているとする。 実際にAさんは、いままで、できなかったことができるようになったことがある。そのとき、快感を感じた。そして、Aさんは「どんなことでも努力をすればできるようになる」と思ったとする。なので、そういう信念に従って生活していたとする。これは、別にいい。

しかし、Bさんができないということを、Aさんが理解しないというのはよくない。別の人の話……。ほかの人の話……。ほかの人が「できない」と言っている。ほかの人が「できない」と言っているのに、ほかの人ができると思うのはよくない。それと、「努力をしてできるようにする」ということ自体はちがう。

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「美談」に感動した人も、実際には、生活保護をもらっている人をたたく。あたえることでしあわせになるのであれば、税金をとおして、生活を保護をもらっている人に金をあげていることになるのだから、問題はないはずだ。特に、慈善活動をしてない人も、税金をとおして、お金をあげていることになるから、心配するな。だいじょうぶだ。税金を払うことにしあわせを感じればいい。

 

できない人は「あたえないから」不幸なのだという、因果関係を逆転した理論も成り立ってしまう。精神世界の人は、因果関係を逆転させた理論が大好きだからな。

できない人は、人にあたえない。そして、不幸だ。その場合、「あたえることでしあわせになる」と言うのであれば、「できない人は、あたえないから不幸なのだ」という連想が成り立ってしまう。そりゃ、できない人は、現にあたえず、現に不幸なのだから、そういうふうに「見える」。

実際には、できない人に、個人的に、直接、全財産をあたえようとする人なんていない。ちゃんと、なんとか団体に寄付とか、かっこうがつく形じゃないとだめなのである。

できない人は、できないということを認められず、できるようになる努力をしてない人だということになるのである。普通の人にとって『できない人』はそういうふうに見える。

できないことは、ともかくとして、できないのに努力をしない人はだめな人間なのである。努力をすればできるようになるのだから、できない人は努力をしてないということになる。そして、できない人が不幸であったり、できない人が金を持ってないのは、自業自得だということになる。「自己責任」だから。

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毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。