言霊信者だって、普段は、いたいと感じたあとに、いたいと言っているのである。いたいと言ってから、いたいと感じるわけではないのである。
ところが、ひとごとになると「いたいと言うから、いたい」などと、わけがわからないことを言いだす。
時間的な出来事の順番を、無視してしまうのである。
ひとごとだと、無視してしまう。
いま、かりに、AさんとBさんがいて、Aさんが言霊主義者で、Bさんがいたいと言ったところを見たとする。そして、そのあと、いたいと言った理由を聞いたとする。
その場合、Aさんを中心にして考えると、Bさんがさきに、「いたい」と言って、いたくなった理由をそのあと、述べたということになる。その場合、Aさんの経験では、「いたい」とBさんが言ったという出来事のほうがさきなのである。
自分のことなら……Aさんのことなら、いたいと感じたあとに、いたいと言うので、時間的な出来事の順番は、Aさんを中心にしてみた場合の、時間的な出来事の順番と一致する。
言霊主義者は認めないかもしれないけど、自分だって普段は、「いたい」と感じたあとに、「いたい」と言っているのである。いたくないときに、いたいと言って、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じたという経験は、きわめて、少ないはずだ。
「いたい」と感じるようなモーションにすでに入っていて「このままだと、いたくなる」と感じることは、わずかだけどある。
けど、その場合は、たぶん言葉には出さず、わずかな時間に、「このままだ、落ちる」とか「このままだと、衝突する」とかと思っただけだ。すでに、いたくなるモーションに入っている。その場合は、「いたくなるだろう」と言うかもしれない。
けど、自分の経験を思い出せばわかるけど、いたくなる前に「いたい」と、突然、言って、「いたい」と言ったあと、「いたくなった」ということはない。
言霊主義者だって、ころんで、膝小僧を、道路の表面にぶつけてから「いたい」と言っているはずだ。ころぶまえに、「いたい」と言って、そのあと、膝小僧を、道路の表面にぶつけて、「いたい」と感じたわけではない。
けど、自分を中心にして考えると、他人の経験に関しては、時間的な順番について、あんまりうまく認識でない人が多いので、「いたいと言うから、いたくなる」と言ってしまうのである。その場合、他人がいたくなった理由は、(自分には)ほんとうに関係がないのである。ここらへんも、自己中心的な性格があらわれている。
ともかく、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じることが現実化したのではないのである。「いたい」と感じたあと、「いたい」と言っている。こういう、基本的なことを無視するな。
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言霊主義者だって、そんなことはわかっているけど、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしているのではないか……と思う人もいるだろう。
けど、これは、本人の場合だ。
他人のことに関しては、「いたいと言うから、いたくなる」と本気で思っている。 だいたい、「いたくない」と言えば、言霊のすごい力によって、たちどころに、いたくなくなるはずなのである。言霊にはそういうパワーが宿っているはずなのである。
どうして、「やわらげようとする」必要があるのか?
「やわらげようとする」ほど、いたく感じているんじゃないか。
ようするに、いたく感じたあと、「いたい」と言うと、よけいにいたくなると考えて、いたいとは言わないようにしようと思ったわけだ。「いたい」と言いたくなるような原因は、いたいと言わないようにしようと思う前に発生しているのである。
「いたい」と言わなくても、「いたい」と感じている。何度も言うけど、突然「いたい」と言ったあと、ころぶという……いたく感じる原因が発生しわけじゃないのである。これは、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしている場合でも、おなじだ。
ころんだあと、「いたい」と感じたけど、「いたい」と言わなかった場合でも、出来事の順番はかわらない。「いたい」と言わなかった場合は、「いたい」と感じたけど、言わなかっただけだ。「いたい」と感じただけで、「いたい」と言わなかった場合は、いたくならないはずなのである。「いたい」と言ったから、そのあと「いたく感じる」というのは、嘘だ。
言ったことが現実化するわけではないのである。ころぶということが現実化したあと、「いたい」と感じたのである。ころんだって、うちどころがよければ、いたくないのである。あるいは、クッションのうえでころんでもいたくないのである。
しかし、「いたい」と言ったから、ころんだわけじゃない。「いたい」と言ったあと、いたく感じるような出来事が発生したわけじゃない。
突然、足がいたくなって、足がいたくなったから、足に力がはいらず、その結果ころんだという場合について考えてみよう。この場合も、けっきょくのところ、とつぜん、足がいたくなったなら、足の部分になんらかの異変が起きたわけで、その異変というのは、からだを構成する物質の物理的な変化によってしょうじたのである。
物理的な変化がしょうじたあと「いたい」と感じたのである。
たとえば、突然、足の血管が切れたとする。足の血管が切れたあと、いたいと感じたり、足に力が入らなくなるのである。この場合、足の血管が切れたほうが、さきだ。
原因となる出来事のほうがさきにしょうじている。そのあと、痛覚を刺激するのであれば、「いたい」と感じるのである。
「いたい」と感じたとき、わずかに遅れて、「いたい」と言うのである。
もちろん、「いたい」と感じたあと「いたい」と言うと、「よけいにいたくなるかもしれない」と考えて、「いたい」とは、言わなかったという特殊な場合においても、まず、原因となる出来事が発生したのである。原因となる出来事が発生する前に「いたい」と感じたわけではない。
「いたい」と感じることと、「いたい」と言うことがほぼ同時である場合もあるけど、やはり、いたいと感じていなければ「いたい」という言葉をださないのが普通なので、さきに「いたい」と感じて、あとで「いたい」と言っている。頭の構造的を考えると、感じるほうがさき。わずかにでも、さき。
いずれにせよ、いたいと言ったあと、いたいと感じる出来事が発生したわけではないし、いたいと感じたあと、原因となる出来事が発生したわけでもない。
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だいたい、言霊理論が正しいなら、「いたくない」と言ったあと、いたく感じるということはない。いたみをやわらげるために「いたくない」と言った?
いたくないと言ったあとも、いたさが残っているのではないか?
「いたくない」と言ったことで、どの程度、いたさが緩和されたのかは、知らないけど、「いたみ」が残っているわけで、それは、「いたくない」と言ったあとも、「いたい」ということを意味している。
緩和されたけど、すこしは、いたく感じているのか?
だとしたら、言霊理論は、すでに破綻している。「いたくない」と言ったら、すぐに「いたくなるくなる」のである。「言霊には言ったことを現実化させるすごいチカラがある」ので、「いたくない」と言ったら、言霊のすごいチカラによって、いたくない状態が実現化するはずだ。「いたくない」と言ったあと、いたみを感じているなんて、おかしい。ありえない。
言霊理論が正しいなら、ありえないことだ。
言霊理論が正しくないから、そういうことがあるのだ。言霊主義者だって、「いたくない」と言ったにもかかわらず、「いたいままだ」ということを経験しているはずなのである。そういう経験があるはずなのである。
けど、言霊理論について語っているときは、「言霊にはものすごいチカラがあるから、言ったことが現実化する」と言って、そういう自分の経験については、まったく、考えないのである。
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しかし、こういうことを指摘された場合、言霊主義者は、その通りだと、現実を受け入れるだろうか? たぶんだけど、自分の幼児的万能感が傷つくのは、不愉快なので、受け入れないと思う。
「いたくない」と言ったあとも「いたみ」が残っているという現実は、無視されるのである。
そして、ぼくがここに書いてきたことも「屁理屈、言うな」と言って、認めない。それは、自分の幼児的万能感が傷つくことなのである。
言霊には、ほんとうは、本人が言っているようなチカラがないということを認めるのは、いやなことなのである。
だから、認めないのである。