2023年7月31日月曜日

おなじことを話しているようでいて、じつはちがったことを話している。

 やられたことがない人は、俺にむりなことを要求しているのに、やられたことがないから、むりなことを要求しているということがわからない。人間として、むりなことを要求している。むりなことを要求しているやつだって、俺とおなじ環境で、生まれ育ったら、やっぱり、その、要求していることが、むりなことになるのに、むりなことになると言うことが、わからない。経験がないからわからない。どれだけの出来事がつみかさなるかわからない。人間のからだがどういう反応をするのか、わからない。長期的に、人間のからだが、どういう状態になるのか、わからない。わからなくても、「疲労」とか「困難」という単語には、反応できる。ところが、反応しているときには、自分が経験した「疲労」、自分が経験した「困難」というものを、もとにして、ものを言うのである。けど、そのときは、もう、俺が経験した「疲労」ではないし、俺が経験した「困難」でもない。ぜんぜん、内容がちがってしまっている。しかし、抽象的には、「疲労」だろ……しかし、抽象的には「困難」だろ……なにもまちがってない……と感じる。しかし、しかし、やはり、その人の言っている「疲労」はヘビメタ騒音の疲労をさしてないのである。その人の言っている「困難」はヘビメタ騒音によって生じた困難をさしてないのである。一度、抽象的な言葉に変換されているから、そのものが、つたわってない。だから、抽象的な言葉を使って、その人の「疲労」やその人の「困難」について語りはじめるのだ。しかし、しかし、その人は、きちがい家族にやられたわけではない。きちがい家族と一緒に暮らしてきたわけではない。家族にやられたこと……に関しても、いちおうは、正常な家族にやられたことになる。正常な家族にやられたことをもとにして「疲労」とか「困難」について語っているのだ。だから、おなじことを話しているようでいて、じつはちがったことを話している。

いずれにせよ、通うことができる状態なのであれば……その困難は、そういう困難なのである。いずれにせよ、通うことができるのであれば、その疲労は、そういう疲労なのである。ぜんぜん、ちがう。 

あと、もうつとつ付け加えるなら「身になった」困難なんて、困難じゃないよと……いうことだ。「身になった」か「身にならなかった」かは、重要な問題。けど、通っている人は、そういうことも無視してしまう。これ、通うことができる人……通勤通学ができる状態で、俺に対して説教をしている人は、みんな、まちがっている。みんな、みんな、まちがっている。そんな「身になる」困難じゃないのである。不利になるだけで、なにも生み出さない。マイナスなだけの困難……。きちがいヘビメタ騒音の困難は、そういう困難なんだよ。これも、みんな、……ほんとうに、みんな……勘違いしている。この、きちがい家族によって鳴らされた……ずっとずっとずっと鳴らされた音というのは、きちがい家族と一緒に暮らしている人にしわからない。相手が、きちがいなんだぞ。普通にくるっているんだぞ。いつもいつも、普通にくるっているんだぞ。普通の人だったら、言わなくてもわかることが、永遠にわからないんだぞ。おまえら……きちがい家族にやられてないやつらは……それが、わかってない。わかってないんだよ。わかってないだけなんだよ。

人間としてむりなことがある。人間としてむりなことを要求するな。まあ、人間としてむりなことなんだということが、経験的にわかってないんだよな。だから、この言葉も、どれだけ言っても、むだなのだろう。

2023年7月30日日曜日

「かくされた法律」

*     *     *

きちがい兄貴が、無視して鳴らしているわけだけど、これは、普通の家では絶対にありないことだ。だから、普通の人にとっては、「盲点」になる。ところが、うちでは、きちがいが絶対の意地で、きちがい行為をしてもいいということが、「かくされた法律」なのである。「あたりまえ」のことなのである。そして、もうひとつ、「かくされた法律」がある。きちがいは、どれだけやっても、やったと言うことを認めなくてもいという法律だ。こんなのは、普通のうちではない。普通の社会では、ない。「見えない法律」としてこういう基準が成り立っている。こんな「うち」ない。ないから、よその人にとってみれば、エイリさんがへんなことにこだわって、へんなことを言っているということになってしまうのである。そして、もうひとつ、普通の人が信じられないことがある。普通の人にとって信じられないことというのは、普通の人にとってあったとしても無視していいことになっていることだ。あったとしても、無視をしていいことになっていること……。ごく自然に無視してしまうこと……だ。それは、きちがい兄貴は、ほんとうにやったつもりがないのである。これ、きちがい的こだわってこだわってこだわってやったことが、やってないことになっている。こんなことはない。けど、きちがい兄貴の感覚を正直に表現すると、こうなる。こんなのは、ない。意地になってやったことなのに、意地になってやったという記憶がない。本人としては、きちがい的な意地でやったことと、やってないこと……実際にやってないことが、おなじように、認識されているのだ。こんなのはない。けど、これが盲点になってしまうのである。これが、ブラックフォールになってしまうのである。きちがい兄貴は、いつもいつも、きちがい的な意地でやっているけど、いつもいつも、感覚としては「やってない」ことになっているのである。『そんなことは自分がやったことじゃないから知らない』という感覚が成り立っている。そういう、無責任な状態なのである。で、ほかの人には、わからないことがもう一つある。きちがい親父の感覚が、きちがい兄貴の感覚とおなじだということだ。きちがい兄貴が騒音でやってきたことは、きちがい親父がいろいろなことでやってきたことと、おなじなのである。で、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に関しても、じつは、きちがい親父が、きちがい兄貴と同じ感覚をもっているということが、かげで影響をあたえる。それは、じつは、みんなの認知にも影響をあたえる。「よそのひと」の認知にも影響をあたえる。「部外者」の認知にも影響をあたえる。きちがい兄貴のヘビメタ騒音のことについて、ぼくが説明したから、はじめて聞いた人にも、影響をあたえる。そうすると、「眠れるといえば眠れる」という言葉を「かなでる」のである。「言ったことが現実化する」という言葉を「かなでる」のである。けど、それは、きちがい家族と一緒に住んでないから言えることなのである。実際に、ヘビメタ騒音が「現前」してないから言えることなのである。実際に、きちがい兄貴の態度が「現前」してないから言えることなのである。

 「言ったことが現実化する」という言葉をその文脈の中で、ぼくが聞いたとき、思うことはどういうことかというと「それじゃ、まるで、ぼくが……ぼくはヘビメタ騒音でくるしむようになる……と言ったから、くるしんでいるということになってしまうではないか。そんことはない」……ということだ。こういうのも、言霊主義者にはわからない。これ、説明しても、すりぬけしまう。

2023年7月29日土曜日

「だれだって朝はきつい」

 家族が、きちがい的な音を鳴らすことに、こだわってこだわって鳴らしたという経験がない人には、わからない。鳴り終わったあと、興奮して眠れなくなるということがわからない。

それが、何千日も続いたときの、体(からだ)の状態がわからない。動かない体(からだ)を無理やり雨後しているときの気分がわからない。わからないから、好き勝手なことを言える。

きちがいヘビメタを、数時間鳴らされ続けたあとの、体(からだ)の状態がわからない。

脳みその状態がわからない。あんなもの、眠ろうと思ったって眠れないのである。めちゃくちゃにつかれているのに、眠れないのである。

あの感覚を経験したことがないやつに、なにがわかるか?

そういうやつが言っている「だれだって朝はきつい」とか「俺だって眠たいときはある」とかというようなことではないんだよ。こいつら、勝手に勘違いして、見当違いのことを言っている。しかも、きちがいヘビメタを一五年間鳴らされたことで、ぼくの社会的な地位がおちているので、「自分」のほうが、エイリさんよりも、社会的な地位が上だと思っているバカ野郎が、えらそうなことをぬかすのである。

きちがいヘビメタが鳴るまえ、一一年間にわたって、きちがいヘビメタがない状態で毎日暮らしてきたわけだが、そのときだって「朝がきつい」と感じるときはあった。けど、それがちがうのである。ぼくは、きちがいヘビメタを経験したので、「ちがい」がわかるけど、ほかの人は、一一歳までのぼくとおなじで、きちがいヘビメタという異質な音を、何時間も聞かされる毎日というものを経験したことがないのだ。

だから、「ちがい」がわからない。

比較の対象がないからな。そして、自分が経験した「朝のつきつさ」とぼくが経験した「朝のきつさ」がおなじだと思って、きちがい的な提案をしてくるのである。完全になめられている。

けど、こういう状態がしょうじたのは、基本的に言って、きちがいヘビメタが鳴っていた「から」なのである。

鳴ってなかったら、こんなやつらに、こんなことを言われるわけがない。

普通の人が経験している「朝のきつさ」しか経験してないわけだから、そんなことを言われる状態になってない。

もし、きちがい兄貴がきちがい的な意地で毎日きちがいヘビメタを鳴らさなかったなら……ということだ。鳴らさなかったなら、普通の人が経験している朝のきつさ」しか、ぼくも経験しなかったから、そういうことがしょうじてないということだ。


2023年7月27日木曜日

あたかも、すべての条件でこういうことが成り立つというようなことを言ってしまう

 簡単に言っておくけど、「相手の問題だ」と思えば、相手の問題からか解放されるわけではないのである。これも、何度も言うけど、「相手の問題だ」と切り分ければ、相手の影響をうけなくてもすむという問題ではないのである。けど、「相手の問題だ」と切り分ければ、相手の影響をうけないことが可能だという自動思考がある。アドラーやアドラー信者は、あたかも、自分が問題を切り分ければ、それで、相手の影響をうけずにすむと考えてしまっているところがあるけど、それは、まちがった思考だ。一緒の家に住んでいれば、相手の影響をうけることがある。相手が、きちがい的な脳みそを搭載しているから、きちがい的な行動をする……という認知ができあがれば……自分の側の相手に対する認知ができあがれば、相手が、なにをしても、自分が影響をうけることはない……。そんなことはない。いっしょに住んでいれば、きちがい的な脳みそを搭載している相手の影響をうける。相手は、常に、二四時間中二四時間、その、きちがい的な思考する脳みそを搭載して生きている。勝手にやってしまうことがある。いっしょに住んでいれば、勝手にやってしまったことの影響をうけることがある。どうして、「相手の問題だ」と「問題を切り分ける」と影響をうけずにすむことになるのか? それは、アドラーやアドラー主義者が考えていることが、限定された条件で成り立つことだからだ。ちがう条件のもとでは、影響をうけるのである。ところが、そういうことを、事前に排除して、あたかも、すべての条件でこういうことが成り立つというようなことを言ってしまう。これは、トリックだ。 

相手が自分のことを「こういうふうに」思っていたとしても、相手のその思いの影響をうけることがないのであれば、相手の問題だと切り分ければ、相手が自分のことを「こういうふうに思っている」ということからしょうじる問題とは、縁が切れる。けど、相手が思っているだけではなくて、実際に、自分になんらかの行為をするのであれば、相手が自分のことを「こういうふうに」思っているということの影響をうける。

「ウン、コロコロ、アップ」と言えば、運があがる

 「ウン、コロコロ、アップ」と言えば、運があがるということを言っている人がいるとする。この人は、ほんとうに、「ウン、コロコロ、アップ」の効果を信じているのである。

この人は、日当たり条件の人で、日当たり条件の人だから成功した。ところが、「うん」と言ったから成功したと思い込んでいるのだ。

「ウン、コロコロ、アップ」には、すごいチカラが宿っていると思い込んでいるのだ。

あるとき、その人は、不幸な人たちにこの素晴らしい方法を教えてあげようと思ったので、「ウン、コロコロ、アップ」と言えば運があがるということを、ほかの人たちにむかって言いだした。

けど、不幸な人たちは、いろいろな悪い条件をかかえているから不幸なのである。生まれの条件が悪いから、生まれたときから不幸で……不幸な出来事に見舞われて……不幸な状態で暮らしているのである。そういう条件が初期値としてあると、げんに不幸だし、時間の経過とともに不幸の度合いがあがるのである。基本的は、初期値で、不幸になりやすいか幸福になりやすいかが決まってしまう。

幸福な人たちは、いろいろなよい条件をかかえているからしあわせなのである。初期値が、幸福条件を満たすような初期値だったので、げんに、幸福だし、時間の経過とともに、幸福の度合いがあがるのである。幸福な人たちは、幸福な家に生まれて、時間経過とともに、いろいろなことがあるけど、基本的には優位に事を進めることができるし、きちがい的な親の影響をうけなくてもすむのである。

不幸な人と幸福な人には、こういう、ちがいがある。

「ウン、コロコロ、アップ」と言ったかどうかのちがいではない。

普通に考えれば「うん」ということには、「運」をあげるしくみはない。なにか具体的なしくみや、なにか具体的な理由がないのである。ただ単に、「ウン、コロコロ、アップ」と言うと、運があがると思っている人が、そう思っているだけだ。

「ウン、コロコロ、アップ」と言うと運があがり幸福になると言っている人のことを、ウンコロ教の教祖と呼ぶことにしよう。

とある不幸な人が「ウン、コロコロ、アップ」と言ったけど、運があがらなかったとウンコロ教の教祖に言ったとする。

その場合、教祖はなんと言うか?

そんなのは、方法が悪いからダメなんだと言いはじめるのである。「ウン、コロコロ、アップ」というときのイントネーションが自分のとはちがうので、運をあげることに失敗するのだということを言いはじめる。けっして、「ウン、コロコロ、アップ」と言うことには、運をあげるしくみはないということは認めない。

 

これ、みんな、無視してしまうのだけど、じつは、生まれの格差というのは、重要な問題だ。幸福とか成功とかということを考えるときには、絶対に考えなければならない重要な要素だ。

しかし、それには絶対にふれないようになっているのである。

ほんとうは、好条件いっぱい組と、悪条件いっぱい組の差はでかい。生活しているときに、好条件の影響や悪条件の影響をいっぱいいっぱいうけている。それなのに、そういうことは、全部無視して、「ウン、コロコロ、アップ」と言ったかどうかということだけを問題にするのである。ウンコロ教だけではなくて、すべての、「Xをすれば成功する」「Xをすれば幸福になる」というような方法論は、生まれの格差を無視して、「XをすればYになる」と言うことを言う。
 

2023年7月26日水曜日

おなじ部屋にいたら、そうなるんだよ

 おまえ、あの一日が、どういう一日だと思っているんだ? と言いたくなる。言いたくなる。

「ヘビメタ騒音『で』働けなくなった」と言っているのに、「働いたほうがいい」と言ってくるやつは、もう、俺のなかでは、人間ではない。人間もどき。一見、人間に見えるけど、人間じゃない存在。そいつだって、おなじことを繰り返せば、働けないからだになるのに、自分は平気だと思っている。そいつには、きちがい兄貴がいない。きちがい家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な意地で、ほかのうちではありえない騒音を鳴らすということがなかっただけだ。おなじ部屋にいたら、そうなるんだよ。もちろん、そいつにとってヘビメタがいい音であるならちがうけど……。ようするに、そいつにとって、がまんできないきらいな音が、ずっと鳴っている環境で、すごしたら、睡眠回路を破壊されて、どうしても、通勤・通学、できないからだになるということだ。そういうことが、わかってない。で、魔法的解決法というのは、まったく役に立たなかった解決法だ。そして、根性とか努力というのは、俺のからだを破壊した、もう一方の立役者だ。かりに、がんばらなくても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の感覚でずっと鳴らしていたら、やっぱり、通勤・通学ができないからだになっていたと思う。けど、あの緊張感はない。あの緊張感が、いろいろな症状を形成した。睡眠回路がこわれたことにも関係がある。そういうことを、無視して、自分の労働観について語りだすやつってなんなの? 最初から、「ヘビメタ騒音で働けなくなった」「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」と言っているだろ。

 

 


 

 

 

 

2023年7月25日火曜日

なぐられて不愉快な思いをした日よりも、ずっとずっとずっと、不愉快

 むりだったんだよなぁ……。ヘビメタで……。兄貴のヘビメタで、むりだった。

ほんとうに、むりだった。あの生活がどういう生活か、ぼくしか知らない。知らないやつが、なんのかんのと言ったって、ひびかない。それ、知らないから言っているだけでしょ。「それ、自分のことじゃないか言っているだけでしょ。これ、ヘビメタ騒音の一日というのが、どういう一日なのか、みんなわかってない。いま、幼稚園の工事をやっているのだけど、こういう騒音じゃないんだよ。騒音は、いやだけど、騒音の種類がちがう。破滅度がちがう。破壊度がちがう。おやじの頭を搭載した、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしているんだぞ。一日が、どれだけ精神を保とうとしても、「へちゃむくれ」。なぐられて不愉快な思いをした日よりも、ずっとずっとずっと、不愉快。常に鳴っている……。この「常に鳴っている」ということの意味が、ほかの人にはわからない。そして、きちがい兄貴のきちがい度が、ほかの人にはわからない。 

あれ、毎日、鳴らされて、三年と半年後に受験とか、ありえない。 あれ、毎日、鳴らされて、六年と半年後に受験とか、ありえない。そりゃ、受験で苦労した人はいると思うけど、苦労の意味合いがちがうんだよ。中学、高校の、六年間、ずっと毎日、ヘビメタ騒音なしですごしたかった。ぜんぜんちがう。中学、高校の、六年間、ずっと毎日、ヘビメタ騒音なしですごした人の苦労とはぜんぜんちがう。中学、高校の、六年間、ずっと毎日、ヘビメタ騒音なしですごした人が、「自分だって、たいへんだった」と言ってもなぁ……。中学、高校の、六年間、ずっと毎日、ヘビメタ騒音なしですごした人が、「自分だって、苦労した」と言ってもなぁ……。

そりゃ、苦労としたと思うけど、ぜんぜんちがう。 

持続してしまうんだよ。鳴っているあいだ持続してしまう。そして、鳴ってないあいだも、持続してしまう。みんな、鳴ってないあいだは、ヘビメタ騒音の影響をうけないと思っているんだよな。うけるに決まっているだろ。そういうことさえ、わからない人間が、言い出す、苦労。じゅうぶんにキャリアを積んでいるやつが言う「苦労」。なんじゃそりゃ。

これを言っちゃおしまいなんだけど、たとえば、佐藤は、その時点で、無職だったけど、二〇年ぐらいはちゃんと働いている。それは、二〇年ぐらいは、ちゃんと朝起きることができたということだ。そういう人間が言う「俺だって朝はつらい」という言葉……。そういう人間が言う「俺だって朝はつらい」と、ぼくの言っている「朝、つらい」という言葉の意味がぜんぜんちがうのである。 「俺だって朝はつらい」という言葉……ということを言う人は、ヘビメタ騒音をま毎日毎日、一〇年はおろか、六年ですら、経験してないのである。六年、毎日経験してみろ。「ちがう」ということがわかるから。

げんにやっているということは、それが「破滅的ではなかった」ということだ。やっているのだから、破滅的ではない。きちがいヘビメタ騒音は、「やれなくなる」ほど、破滅的なんだよ。ぜんぜんちがうじゃないか。

こんなの、ほんとうに、日当たり良好条件の種や、日陰条件の種が「私だって苦労した」「けど、のびた」と言っているのとおなじ。ぜんぜんちがうんだよ。

破壊されて、できなくなったあとに、破壊されてない人から「私だって苦労した」と言われてもなぁ……。げんに、できているじゃないか。


 

 

 

 

 

なってないあいだはへびたそう

 


2023年7月24日月曜日

カルマ論は、決定的にまちがっている。そう断言できる。

 何度も言うけど、カルマ論は絶対にやっつけなければならない。カルマ論をやっつけるのがぼくの使命だ。考えてもごらんよ。カルマ論が、不幸をつくりだし、カルマ論が不幸を肯定するのである。この世で、不幸な家に生まれてきたら、それは、前世でわるいことをしたからだということになってしまうのである。こんなことがゆるされていいのか?

社会的なヒエラルキーがある。その場合、社会的なヒエラルキーで上層部の人は、前世でいいことをしてきたということになる……。……カルマ論にしたがえば、そうなる。ところが、実際には、社会的なヒエラルキーで上層部の人は、虚誕に悪いことをしてきたのである。上層部と書いたけど、これは、普通に裕福な人のことではない。支配者層のごく一部だ。支配者層のごく一部は、前世で、悪いことをしたから、支配者層のごく一部に生まれ変わっているのである。ようするに、頂点に近いところにいる人たちというのは、みんな、悪魔の家計なのである。そして、前世、前前世、前前前世と悪いことをしてきたから、悪魔の家系に生まれることができるのである。

前世でいいことをした人たちが、あんな悪いことをすると思う? 前世でいいことをした人たちが、今世では、突然、悪魔の手先となって、民衆をくるしめ、抑圧するのか? そんなことはない。前世でも悪魔の手先だったから、今世でも、悪魔の手先なのである。

いっぽう、前世で善人だった人は、今世でも、くるしめられる善人なのである。もう、決まっている。こうなっている以上、カルマ論は、決定的にまちがっている。そう断言できる。

「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、デートぐらいできるだろ」

 ヘビメタを鳴らされると、他人との関係がかわるんだよ。他人との関係がかわることは、副次的なものだけど、とても、副次的なものだとは言えない。むしろ、メインなんじゃないかと思えるほど、重要な変化だ。これ、ただ単に「騒音が鳴ってたんだろ」ぐらいの理解の人には、逆立ちしたってわからないことだ。そして、ただ単に「騒音が鳴ってたんだろ」ぐらいの理解の人が、必然的に、俺のことをばかにしてくる。この「騒音が鳴ってたんだろ」ぐらいの理解が、そもそも、あれを考えると、バカにしていることなのである。あれって、実際のヘビメタ騒音だ。実際のヘビメタ騒音が流れている、時間だ。きちがいヘビメタの音圧がひどすぎる。そして、きちがい兄貴の態度がひどすぎる。きちがい兄貴の態度を、ほかの人は理解しない。きちがい兄貴のきちがい的な構造をほかの人は理解しない。だから、「単なる騒音」なのである。いま、幼稚園の工事をやっているのだけど、幼稚園の工事の音と、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、根本的にちがう騒音なんだよ。あんな、発狂的な音のなかで、勉強ができるはずがない。幼稚園の工事の音なら、勉強ができる。このちがいがわかってない。だから、そういうふうに「ほかの人間」からなめられるからやめろと、何万回も言ってきたのに、きちがい兄貴が、きちがいおやじとおなじきちがい回路で、無視しやがるのだ。これは、屈辱だ。これ、一分でも、一秒でも、なぐり殺してやりたい感情がしょうじる。一分間鳴っていたら、一分間、ずっと、なぐり殺してやりたい感情になるのである。腹がたって腹がたって、へちゃむくれになる。こころがめちゃくちゃになるのである。そういう、数万時間を経験したことがない人が、「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、デートぐらいできるだろ」「ヘビメタ騒音が鳴ってたって、女の子とつきあうことは可能だ」と言うのだ。これ、ヘビメタ騒音のなかから出ていって、人に会うということがどういうことだかわかってない。前日ヘビメタ騒音が鳴っていて、頭がフラフラな状態で、なおかつ、今日のきちがいヘビメタ騒音の不安を抱えながら、ほかの人に会うということが、どういうことなのかわかってない。わかってないだけなんだよ。つきあえるわけがないだろ。数千日続いている時点で、毎日が、尋常じゃない毎日なんだよ。

*     *     *

兄貴の嫁さんとは、親父の入院や退院のことで、つきあいがある。で、兄貴の嫁さんに、きちがい兄貴のことをずっと言っていた。で、兄貴の嫁さんが、兄貴に、「そういうことをしていた」ということを言ったんだよ。そうしたら、兄貴が「ぜんぜん気がつかなかった」と言ったんだよね。きちがいおやじとおなじ脳みそなんだよな。兄貴の嫁さんが「そういうところがおかしい」と、兄貴に言ったんだけど、まったくその通りだ。これ、きちがいの度合いがわかってない人だと、まったくわからないと思うけど、ほんとうに、きちがいなんだよ。きちがいの度合いが強すぎる。あんなに頑固に、絶対譲らずに、ずっとずっと、どれだけもめてもやってきたのに、「つもりがない」のだ。こういうふざけた態度。きちがい的な態度。こんなの、ほかの人に、絶対にわかるわけがない。だから、ほかの人に話が通じないし、なめられることになる。「そんなのは、言えばいい」とほかの人は言う。「そんなのは、言えばいい」というのは、「そんなのは、お兄さんに相談すればいい」「そんなのは、お兄さんに、うるさいと言えばいい」という意味だ。もう、ぜんぜんちがうんだよね。言えば、しずかにしてくれる家族しか、相手にしたことがないんだよね。もめて、もめて、もめて、もめれば、しずかにしてくれる家族しか、相手にしたことがないんだよね。一三時間鳴らせるなら、一三時間鳴らすけど、鳴らしたつもりがまったくないというきちがい的な感覚をもっている家族と一緒に住んだことがないからそういうことが言える。そして、「鳴らさないでくれ」「しずかにしてくれ」とこっちが言ったときの、きちがい兄貴の態度がわかってないから、そういうことが言える。きちがいなんだよ!!! きちがいなの!! 親父とおなじ気ちがいなんだよ。脳みその構造がまったくおなじなの!!!

けど、まあ、ほかの人に……「 きちがいなんだよ!!! きちがいなの!! 親父とおなじ気ちがいなんだよ。脳みその構造がまったくおなじなの!!!」……と言ったって、ほかの人は、きちがい兄貴といっしょに住んでいるわけではないので、きちがい兄貴がやることによって生じる損害のでかさがわかってない。影響のでかさがわかってない。からだでわかってないから、過小評価する。無視する。そうなると、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、ぼくの、能力にダイレクトにかかわることだから、ぼくにとっては、重要なことなのである。

これ、たとえば、気持ちの持ちようで解決できる問題じゃないのである。けど、きちがいヘビメタ騒音生活をずっとずっとずっと、おくってきた人じゃない人は、「きちがいヘビメタ騒音なんて影響がない」「過去のことは影響がない」と考えるので、「気持ちの持ちようで解決すればいい」というようなことを言ってくる。これがまた、屈辱なのである。相手は、別に、まとはずれなことを言っているつもりがないかもしれないけど、それは、経験してないから、必然性がわからず、まとはずれなことを言っているつもりがしょうじないだけだ。まとはずれなんだよ。

これも、ほかの人には絶対にわからないことなんだよな。きちがい兄貴が、きちがい脳みそで、きちがい的な意地で、無視してやって、無視してやったということを、無意識的に、きちがい的な感覚で、きちがい的な意地で無視してしまったので、こういうことがしょうじる。ほかの人の人生にはしょうじない。しょうじてない。しょうじてない人が、(自分の理解)で適当なことを言う。本人は、適切なことを言っているつもりなのである。けど、不適切だ。まったくわかってないだけ。 

*     *     *

きちがい兄貴に鳴らされていると、ぼくが必然的に、他人からなめられるようになる。

こんな、人生、おしつけられて、いいわけがないだろ。

*     *     *

他人には、しょうじなかったことなんだぞ。きちがい兄貴が、普通に、しずかにてくれたら、それですんだ話なんだぞ。それを、十数年も、きちがい的な意地で、毎日毎日、一分もゆずらずに鳴らし続けるなんておかしいだろ。けど、本人はまったく、やったつもりがないのである。本人はまったく、影響をあたえたつもりがないのである。一日目から、ものすごい影響があるよ。勉強だけじゃないんだよ。睡眠に影響をあたえる。生活体力に影響をあたえる。勉強以外の全体的な能力が、がんがんさがっていく。そして、たとえば、言霊的な解説ほうは、きちがい兄貴が鳴らしているあいだずっとずっと、毎日、まったくまったく、役に立たなかったことなんだよ。けど、俺が「ヘビメタ騒音でつかれた」と言えば、言霊主義者は「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってくる。そういうことが、多発する人生になってしまう。そういうふうに言う言霊主義者には、きちがい家族がいないのである。きちがい的な意地で、普通の家では絶対に鳴らせないような音で、一日に何時間も何時間も、こだわってこだわってこだわって、鳴らすような家族がいないのである。そういう家族と、学生時代ずっといしっょに住んでいたわけではないのである。その言霊主義者は、学生時代、きちがい的な家族による、きちがい的な騒音に悩まされたことがないのである。

そういうレベルで、生きているのである。ほんとうに、五分で、出てた。

 やられたことがちがいすぎるんだよな。みんな、毎日続くヘビメタ騒音のことがわかってない。きちがい兄貴のことがわかってない。

けっきょく、ひとごとなら、なんとだって言えるのだ。

自分の身に起こったことでなければ、いたくも、かゆくもないことだ。

だから、「関係ない」と言える。ところが、この身体を使って生きているぼくとしては、きちがい兄貴がしたことは、関係があることなんだよな。出来事としては過去のことだけど、いまでも、影響がある。

影響があることなんだよ。

いま、影響があることなんだよ。

ずっとずっと、はじまったその日から、影響があることなんだよ。もう、何十年も毎日毎日影響があることなんだよ。そりゃ、やられてないから影響がない人にはわからない。

やられてない他人だから「影響なんてない」と言える。やられてない他人だから「過去なんて関係がない」と言える。それは、やられてないからだ。毎日毎日、あの状況で暮らしていなかったからだ。あれが影響をあたえないわけがない。

「さいちゅう」のときもつらかったけど、終わったあとも、つらいね。障害がしょうじた。長期間の物理刺激で、障害はしょうじるるよ。障害がしょうじたら、障害がしょうじた体(からだ)で、生きている以上、影響があるんだよ。

他人はもちろん関係がない。

経験がないし、自分のからだではないからだ。もし、おなじことを経験したら……ずっとずっとやられたら……人間のからだをもっている以上、影響が続く。「続かない」と思っているのは、やらてれないからだ。

一日がどういう一日なのかわかってない。

それが一〇〇〇日続くとどういうことになるかわかってない。それが三〇〇〇日続くとどういうことになるかわかってない。それが五〇〇〇日続くとどういうことになるかわかってない。きちがい兄貴を殺さなかっただけましだ。いや、殺さなかったから、こっちが、いまこまっている。

他人との温度差はある。

そりゃ、「うち」で鳴っているわけだから、「よそ」の人は関係がない。とくに、学校の人は関係がない。職場の人?は関係がない。出会った人は、関係がない。関係がない。関係がない。その人たちが、「鳴らされて」毎日蔵ているわけではないのだから、関係がない。関係がない。

けど、俺には関係がある。横の部屋で、鳴っていたから関係がある。

きちがいが、きちがい的な意地で鳴らしていたから関係がある。きちがいがきちがい的な感覚で鳴らしていたか関係がある。

きちがいだから、なにを言ってもつたわらない。

そして、おなじ頭の構造をもつ、きちがい的な父親が、それを支援していた。それというのは、きちがい兄貴が、きちがい的な音で鳴らすことだ。あれ、普通なら、とめるのだけど、黙認して、支援していた。そんなのは、普通の家では、ないことだ。そういう父親は、普通の家にはいない。

だから、すべてが、普通の人にはわからないことになってしまう。

この重要性がわからない。

平日は帰ったあと、ずっと鳴らされるということがもつ意味が、わからない。

眠れくなるということがわからない。眠れないまま午前四時、午前五時になってしまうということがわからな。そして、七時四五分に起きて学校に行くことが、わからない。七時四五分って、七時五〇分に出ても、遅刻ギリギリ。七時五六分になったら、もう、遅刻確定だ。

そういうレベルで、生きているのである。ほんとうに、五分で、出てた。

それもパニックなのである。もっと早く起きればいい……きちがいヘビメタが鳴っていて、眠れないのだ。

あれは、夜、眠れなくなる音だ。ほんとうに、みんなわかってない。鳴り終われば、眠れると思っている。そんなことはないんだよ。

2023/07/16 23:51作成

2023年7月23日日曜日

「ヘビメタ騒音で、くるしい」とは言わないで、がんばって動いていた

 たとえばの話だけど、「睡眠障害」とという言葉に、どれだけの経験と、どれだけの気持ちがつめこまれていると思っているんだ? 毎日のことなんだぞ。毎朝、からだが動かないんだぞ。深夜、眠たいのに、眠れないんだぞ。日中、からだがくるしくてくるして、それでも、「ヘビメタ騒音で、くるしい」とは言わないで、がんばって動いていたんだぞ。そのすべてが、睡眠障害なのである。これを繰り返していると、たとえばの話だけど「楽しく感じることができなくなる」のである。そうなったら、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくないんだよ。意欲がなくなるのぉ。それは、数千日のヘビメタ騒音が影響をあたえていることなんだよ。意識的な意志が「意欲的になれ」と言っても、ぜんぜん意欲的になれない状態が続くんだよ。そして、俺の、地位が、どんどん低くなる。

体力がなくなり、能力がなくなる。

 

家族に対するスキーマがある。会社の人間関係に対するスキーマがある

 実際に、経験したことがない人にはわからないことが多すぎる。大きすぎる。これ、わからないんだよ。きちがい的な家族との生活というのが、経験したことがない人にはわからない。きちがい兄貴の、きちがいヘビメタ騒音というのは、みんなが理解しているようなものじゃない。経験がない人が、ぼくの話を聞いて、推し量って理解するわけだけど、その理解したそれと、実際のそれが、おーーきく、おーーきく、異なるのである。ほかの人には、きちがい兄貴がいない。きちがい親父もいない。きちがい親父は、きちがい兄貴に一切注意をしないということで、きちがい兄貴の行動に影響をあたえている。けど、きちがい親父のことがわかってない人には、それがわからないのである。だから、「そんなに大きな音で鳴っているなら、親が注意するはずだ。エイリさんが、嘘をついている」と思ってしまう。そういうふうに推論してしまぅ。普通の人のうちには、(うちの)きちがい親父のようなタイプのきちがい、(うちの)きちがい兄貴のようなタイプのきちがいがいない。それは、そういうやつに、やられた経験がないということだ。そういう「家族」にやられた家族にやられた経験がないということだ。これは、たとえば、アタオカ上司にいじめられたということとはちがう。アタオカ上司の場合は、最悪、自分がその仕事をやめれば、アタオカ上司の影響から逃れることができる。けど、自分のうち……自分が生まれたうちに、きちがい的な親やきちがい的な兄弟がいるということは、アタオカ上司のように、縁を切れないということを意味している。そんなの大人になれば、縁を切ることも可能だ……。けど、大人になるまでに、破壊的な影響をうけている場合は、それも、むずかしいことになる。それから、付け加えておくと、「上司との関係」ということに関して、「普通の人が考えていること」と「家族との関係」ということに関して「普通の人が考えていること」はちがう。家族に対するスキーマがある。会社の人間関係に対するスキーマがある。不可避的に、無意識的に、その人が「家族」というものについてどう考えているかということが、反映してしまうのだ。これは、ようするに、自分と他人というものを考えた場合、他人がもっている「家族関係」というスキーマと「上司部下関係」というスキーマがちがうということを影響をうけるということだ。ようするに、社会のなかの人が、「家族」というものに関して、ある一定の考えをもっているとすると、きちがい的な家族にやられた人が、その社会で住みにくくなってしまうのである。これ、わかるやついるかな?

 

2023年7月22日土曜日

失礼なことだ。

 「病は気から」というような言い方がある。言霊主義者がよく言うことだ。そして、「病気は鳴ると思うからなる」という言い方がある。言霊主義者がよく言うことだ。そして、「病気にならないと言えば病気にならない」という言い方がある。言霊主義者がよく言うことだ。そして、「病気は治ると言えば治る」」という言い方がある。言霊主義者がよく言うことだ。

こういう言い方は、全部、失礼な言い方だ。これ、言霊主義者は、ガキなので、いいことを言ったつもりになっていると思う。けど、物理的なしくみでそうなっている人に、そういうことを言うことは、失礼なことだ。ちょっとは、学習しろ。

自分がおなじ立場でやられていたら、エイリさんとおなじ状態になっただろう ということがわからない

 きちがい的な兄が横に住んでいて、きちがい的な意地で、きちがい的な音楽を何時間も何時間も鳴らしているという状態でずっと暮らせば、普通の人だって、ぼくとおなじ状態になるのである。ぼくは、案外強いほうなので、普通の人だと、ぼくよりもひどい状態になると思う。しかし、普通の人には、きちがい的な兄がいない。きちがい的な兄と一緒に住んでいない。もちろん、当時の話だ。けど、けっきょく、人生で最も重要な一一(じゅういち)歳から二五(にじゅうご)歳までを、きちがいヘビメタ騒音にとられてしまう。これがどういことだか、経験してない人にはわからない。そうなると、経験してない人は、だめになったぼくに対して、勝ち誇ったように、まとはずれなことを言うようになるのである。それは、労働観が影響しているのだけど、労働観をぬかしたとしても、いまの世の中だと、普通の人がもっている世界観が、労働観とおなじような働きをしてしまうのである。ようするに、自動的に、労働観や世界観にもとづいて、ぼくのことを下に見る。きちがい的な兄が家にいて、きちがい的な信念に基づいて、きちがい的な妄想にもとづいて、ともかく、自分がやりたい音でずっと鳴らしてしまうということが、人生のなかで起こらなかった人にとっては、もし、自分がおなじ立場でやられていたら、エイリさんとおなじ状態になっただろう、エイリさんよりももっとひどい状態になったかもしれないということがわからないのである。

けど、きちがい兄貴にって、それが、もっともっとわからない話なのである。

 きちがい兄貴は、きちがい的な行為を、まったくやってないつもりでやっている。きちがい兄貴にしたって、「よそのいえでは」鳴らせない音なのである。「いま住んでいるマンションでは」鳴らせない音なのである。けど、きちがい親父がつくった、家なら、鳴らしてもいいと思ってまう。しかも、きちがい親父が、「うち」と「そと」で態度を使いわけているように、きちがい兄貴も、「うち」と「そと」で態度を使いわけている。そして、態度を使いわけているということについて、本人はまったく無頓着なのである。これに関しても、まったくそんなつもりはない状態で生活しているのである。ようするに、無意識的なレベルで、態度を使いわけている。だから、意識的なレベルでは、これまた、『そんなことは絶対にない』『そんなことはしてない』と思えることなのである。きちがい兄貴にしても、きちがい親父にしてもそうだ。だから、くるっている部分……はげしくはげしく、くるっている部分は、本人にとっては「ない」ことなのである。どれだけ見ようとしても見えないことなのである。しかし、頑固にやりきる。「うち」だと、そういうスイッチが入っている。意識的に「スイッチを入れよう」とか「スイッチを切ろう」というような操作をしてないぶんだけ、頑固なものになっている。ようするに、スイッチが入ったときは、きちがい的な意地で頑固にやるのに、そういうふうにしたという気持がまったくない状態なのである。意識していれば「頑固さ」がゆるむ。けど、意識してないので、頑固さが、より強固になり、行動が、決まったものになってしまうのである。まあ、ものすごい意地で「ゆずらずに」やっていることは、常に、「やってないこと」なのである。きちがい兄貴にとっては、「よそでは、一分も鳴らせないようなでかい音でヘビメタを鳴らす」ということが、絶対の至上命令だった。無意識の至上命令だった。だから、耳が正常なら、わかることが、わからなくなってしまうのである。そして、その状態が、頑固なのである。普通の人が理解できないぐらい頑固なのである。しかし、腹がたつところは、普通の人以上に、きちがい兄貴が、わかってないということだ。これが、ほんとうに腹だしたい。こだわってこだわってこだわって、きちがい的な意地でやっているのに、やっているつもりがないということになっている。そして、普通の人……この事件に関係がない人よりも、自分がやっていることがわかってないことになっている。普通の人が、きちがい兄貴行為について聞いたとき、どの程度、理解できるかというと、表面的なことしか理解できないのである。きちがい兄貴の意地とか、感覚の無視ということは、わからない話なのである。けど、きちがい兄貴にって、それが、もっともっとわからない話なのである。きちがい兄貴にとって『きちがい兄貴の維持』とか「感覚の無視」ということが、よその人以上に、よその人のことなんだよ。自分のことじゃないと、思っている。完全にできあがっている状態で、きちがい的な意地で、「よそでは、一分だって鳴らせないようなでかい音」で鳴らし切る。けど、本人は、まったくそういうことをしたつもりがない状態がずっと成り立っているのである。これが、頭にくる。

2023年7月21日金曜日

父親が死んだことで、明るくなる人はいる。ぜんぜん、おかしくない

 俺は、ほんとうは、親父が死んだら、明るい人になるはずだったのだ。まあ、きちがい兄貴のことはあるから、「相対的に」ということだ。きちがい親父がいるときの俺にくらべれば、きちがい兄貴のヘビメタ騒音の影響はあるけど、相対的に!明るくなるはずだったのだ。けど、きちがい親父が、ネズミを入れてしまったことで、一変する。これで、また、きちがい親父が、ネズミを餌付けしたり、餌付けされたネズミががんがん入ってくるようになったときの態度が、おなじなのだ。きちがい親父特有の態度なのだ。ネズミの糞は、普通の人なら、絶対に気にする。けど、きちがい親父は、どれだけネズミの糞が増えても気にしない。「そんなの気にしすぎだ」と思っているのだ。「おまえは神経質だ」と思っているのだ。きちがい親父が、なんでもないことで怒り狂っていたことは、俺が神経質になったことと関係しているんだけどなぁ……と言いたくなる。普通の人なら、絶対に気にすること、どれだけ気にするように言っても、気にしない。これ、きちがい親父の態度だけど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する態度が、これとまったく同じなのだ。こういうところで、非常に似ているのだ……親父と兄貴は……。こいつら、そっくり。まったくおなじ脳みその構造をもっている。そうなると、じつは、うちなかで狂っている人間に、やられた人間が、「よその人」からへんな風に思われるのだ。こんなのない……。けど、ある。きちがい的な親兄弟にたたられたやつは、みんな、こういう思いをしている。こういう体験がある。けど、きちがい的な親兄弟にたたられてないやつは、みんな、「やられた側のこういう体験」について、誤解をすることになっている。かならず、誤解をする。そういう構造が成り立っている。やられてない人間の理解力が、ぜんぜんたりないのだ。経験として、知ってないので、「やられた側が言うことが」へんなことだと思えるのだ。「やられた側の人が」へんだと思って、解釈を中断するのである。そういうふうに、判断してしまう。これは、言霊主義者に、言霊理論はまちがっているということを、どれだけ説明しても、言霊主義者が理解しないということと、一致している。普通の人の理解力なんてそんなもの。経験がないことに関する理解力なんてそんなもの。普通の人は、きちがい的な親のもとにうまれてないのである。だから、きちがい的な親が、家で、どんな行動をするかわかってない。きちがい的な親がきちがい的な行動をしたとして、その行動に関するきちがい的な親の側の認知が、まったくわかってない。「よそのひと」……きちがい的な親のもとに生まれてない人は、きちがい的な親の行動だけではなくて、きちがい的な親の認知もわかってない。この、きちがい的な親の認知というのは、きちがい的な親自身の行動に関する認知のことだ。まあ、これ、きちがい兄貴がきちがいヘビメタを頑固にやったときも、発揮されているんだよな。きちがい兄貴なんて、普通の人なら気にする騒音をずっと鳴らしても、「まったくそんなことはやってない」と気がつかない状態の膜なのである。きちがい的な意地できちがい的な騒音を鳴らしているのに、きちがい的な意地できちがい的な騒音を鳴らしているという認知がまったく生じない。鳴らしているときにしょうじなければ、鳴らし終わったあとにもしょうじない。なので、本人の認知としては、「そんなことはやってない」という認知なのである。まったく鳴らしてないときとおなじ認知のままなのである。とことん、親父と兄貴は似ている。おやじの行為と、きちがい兄貴の公開が本質的におなじなんだよ。ただ、きちがい親父は、ヘビメタに興味をもたず、ヘビメタを鳴らさなかっただけで、きちがい的な脳みその構造がおなじなんだよ。

ともかく、きちがい親父が死んだら、ぼくは相対的に明るくなるはずったんだけど、それが、ネズミと墓で、こわされてしまった。ネズミの問題は、ネズミだけの問題じゃなくて、ネズミの糞の問題や、ダニの問題や、ナメクジの問題や、ネズミ対策工事業者の問題や、粗大ごみ回収業者の問題なんだよ。粗大ごみ回収業者の人にたいして、もうしわけがない気持ちになったり、うちのなかに入ってくる人に対して、ぼくがはずかしい思いをしなければならなくなる。 

むかし、どこかのブログで「父親が死んだら、明るくなって、旅行に行きまくっているやつがいる」というようなことが書いてあった。旅行に行きまくった人は、「ひきこもり」系の人だ。「ひきこもり」系の人が、父親が死んだことによって、明るくなり、積極的に旅行に行くようになったという記事が書いてあったのだ。で、記事を書いた人は、「親が死んで明るくなるとか、おかしいだろ」みたいなノリがあったんだけど、そんなことはない。父親がきちがいなら、父親が死んだことで、明るくなる人はいる。ぜんぜん、おかしくない。これをおかしいと感じるほうがおかしい。ガキ。こども。

いかりが消えない

 たとえ、きちがい親父が死んでも、きちがい親父に対するうらみが消えない。あいつがやったことに対する、いかりが消えない。こっちが、幼児だと思って、どんだけやったと思っているんだ。まったくやってないと思っているんだろ。ふざけんな。ほんとうに、きちがい兄貴もきちがい親父も、頭の構造がおなじなんだよな。

2023年7月19日水曜日

きちがい的な意地でやっちゃうけど、なにも残らない

 ほんとうに、ヘビメタ騒音でつかれたなぁ。あれがどういうことなのか、ほかの人はわかってない。経験しなければ、どういう範囲で破損するのかがわからない。生活が破損する。感情が破損する。精神が破損する。からだが破損する。

きちがいヘビメタが鳴っているとき、階段の上り下りをするのがたいへんなんだよ。あの不愉快な圧迫感はない。耳をふさいで、「あーー」とか言いながら、階段をおりたりあがったりする。両手で両耳をふさいでも、がんがんがんがん、音がはいってくる。ものすごい音圧で、狂いそうになる。きちがい兄貴の部屋に行って、「やめろ」「やめろ」「しずかにしろ」「勉強するから静かにしろ」と怒鳴りまくっても、一秒もしずかにしてくれなかった。それが事実だ。ところが、「がんがん鳴らして、一秒もしずかにしてやらなかった」という認知・認識がないのだ。まったくない。弟が、必死になって「やめてくれ」と怒鳴っていたという記憶もない状態なのだ。まったく鳴らしてない状態ですごしているのとおなじなのだ。本人が……きちがい兄貴本人が、まったく、一秒もヘビメタを鳴らしてない状態とおなじなのだ。実際の行動は、きちがい的な意地で、こだわってこだわって、一秒もゆずらずに、鳴らしているのだけど、あたかも、「まったく鳴らしてない」つもりのままなのだ。そういう感情と認知と感覚なのだ。これが、きちがいなんだよ。

自分の感情しかないんだよね。親父が「やってやるやってやる」と言っているときのことを、前投稿で書いたけど、それは、親父がこっちにやってやりたくなって、言っているバージョンなんだよね。親父が、勝手にやっているときは、相手の言うことを絶対にきかないのだけど、きかなかったというつもりがないんだよね。むかし、おかあさんが「竹を植えないで!」「そんなところに、竹を植えたらあとでたいへんなことになるから、竹を植えないで」と何回も言っているのに、きちがい親父が、きちがい的な形相で無視して、植えちゃったんだよね。で、おかあさんが「竹を植えないでくれ」と言ってきたという、ことは、きちがい親父のなかで、ないわけ。言われたとき、顔を真っ赤にして、無視してやり続けたわけなんだけど、そういう記憶が、ごっそりぬけている状態なんだよね。だから、「竹を植えないで」と必死に言っていた、おかあさんに、「どうだ、いいだろ」なんて言うところがある。まるでわかってない。言われたら、「不都合なこと」はきちがい的な形相ではねのけて、なかったことにしちゃうんだよね。言われたときだけ、怒り狂って、反対のことを何回もさけんだり、あるいは、まったくなにも言わないまま、脂汗をかいて、からだじゅうを真っ赤にしてやってしまう。まったくなにも言わないバージョンを、とりあえず、無視バージョンとよぶことにする。そして、反対のことを逆上してさけぶバージョンを、反対語バージョンとよぶことにする。その場合、無視バージョンも、反対語バージョンも、なかで起こっていることは、ほとんど同じなんだよ。これ、きちがい的な人間……親父や兄貴のようなタイプのきちがいと一緒に暮らしたことがないと、わからない。このすさまじさがわからない。これ、無視バージョンのときも、反対語バージョンのときも、相手に言われたときだけ、きちがい的な意地でやっちゃうけど、なにも残らない。「やった」ということも残らないし、「相手が、自分にやめてくれと言ってきた」ということも残らない。まっーーったく、まっーーたく、残らない。これ、相手がどれだけ言っても、「なかったことに」になっているんだよね。自動的に……。このきちがい構造がわかるか? これがどういう影響をあたえるかわかるか? きちがい兄貴やきちがい親父が、きちがい的な意地でやったことは、本人にとって、とくに、きちがい的な意地でやったことではないことになっている。相手が「やめてくれ」と言ってきたということは、「なかったこと」になっている。相手の必死さと、自分の必死さがわかってないのである。自分が、必死になってやり勝ちをした……相手の言うことを聞いてやらなかったということが、まったく頭のなかに、残らないのである。出来事の記憶として残らないのである。それだと、「相手がまったく、(やめてくれと)言ってこなかったから、気がつかずにやった」ということと、記憶的にイコールなのである。このきちがい。このきちがい構造。「自分にとってだけ都合がいい」……この、脳みその構造。

「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」

 動きたくない。ここって、机の下なんだけど、机の下は、やばい領域になっていた。動きたくないので、いろいろと積もっていく。昨日とおとといとかけて、平面的な電気行火の布部分と本体部分を熱湯処理したのだけど、まだまだ、いろいろと、置いてあった。まあ、ここやばいじゃないかなと思いながらも、「そんなことはないだろう」と思う部分もあり……。じつは、足の甲に関しては、ダニにやられなくても、暑い日が続くとかゆくなる。なぜか知らないけど、三七度ぐらいの日が一〇日ぐらい続くと、ダニとは関係なく、手の甲と足の甲がかゆくなる。けど、今回それじゃない。

基本、長期騒音で、動きたくないんだよ。そのとき片づけないで、先延ばしにしてしまう。そして、布団の上に倒れてしまう。そういうことがずっと続くと、机の下は、相当にやばいことになる。むかしのんだジュースの缶からが放置してある。

これ、長期騒音で消耗すると、できなくなってしまうのである。そのとき片づけるというのができなくなってしまう。そのあと、きちがい親父が、まず、物置にネズミを引き寄せて、そのあと、部屋にネズミを引き寄せたのである。これも、「必要ないことはしなくていい」「いちいち、物置に、今日の生ごみをもって行かなくてもいい」と言っているのに、「やってやる、やってやる」と言ってきかない。これ、何十回おなじやりとりをしても、きちがいだから、訊く前の状態なんだよね。精神的にそうなの。何回も、否定しているのに……否定されたことをその都度、無視して、「やってやるやってやる」と言いやがる。それまで、ほんとうに五〇年間、ネズミなんて、一度も、きてないんだよ。

俺がずっと料理をしてたんだけど、おかあさんが死んで、親父が、やらなくていいことを思いつくようになってしまったんだよな。むかしからそうなんだけど、台所のことは、一切合切関心がなかったの。けど、急に、台所のゴミを、いちいちに、物置に置いてあるごみ袋にうつすということを、強く主張し始めた。これ、意味がないんだよ。いままで、台所に、なまゴミの袋を置いて、そのなまゴミの袋に毎日、なまゴミなどを入れて、それで、ゴミを出す日に、(親父がゴミを)出していた。で、それで問題がなかった。それが、きちがい親父がきちがいだから、一日のぶんの」なまごみを、物置に置いてあるなまごみの袋にうつしかえてやると言ってきた。で、「意味がないからやらなくていい」と二〇回も、三〇回も、四〇回も言ったんだけど、きちがい親父はきちがいなので、一度自分が思いつくと、やらないと、いてもたてもいられない状態になってしまうのである。台所の生ごみの袋に、捨てるまでの何日分かの生ごみがはいっているのは、不潔だと言いやがるのだ。「ないほうがいいだろ」と言いやがる。 俺は、普通にやりたいから、ゴミがたまるまで、ここに置いておいていい。いちいち、すてることにいったい、なんの意味がある。毎日、ここに置いてあるごみの袋から、物置に置いてあるごみの袋にうつしかえても意味がないだろ」ということを、何回も何回も、バカでも気ちがいでもわかるように、何回も何回も何回も何回も、説明したのに、きちがい親父は、自分の気持ちしかないから、「やってやりたくなったら」「やってやるまでひかない」という発想と態度がある。そういう感覚なのである。もう、一度「毎日、台所にある生ごみを、物置に置いてある生ごみの袋に入れてやる」「そうしたほうがいい」ということを、思いついたら、きかないのである。どれだけ言っても、きかないのである。きかない。どれだけ言っても、きかない。こっちが何回も、やらなくていいということを言っているのに、それはまったく聞かなかったような状態で「やってやるやってやる」と言ってきかない。こういうふうにスイッチが入ってしまうとだめなのである。

きちがい兄貴にやられて、動くのがたいへんなのに……。きちがい兄貴にやられて、やっとの思いで動いているのに、きちがい親父が、そういう、無意味なことを思いついてしまうである。そうなると、もう、ほんとうに、頭の病気としか言いようがない状態で、こだわってこだわってこだわって、「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」「やってやる」と言ってくる。これ、何回、ちゃんと否定してもむだなんだよ。きちがい親父のなかでスイッチがはいっちゃったら、もう、それをするまでとまらないの。これ、ほんとうに頭の病気なんだよな。発達障碍者の「無視」なんて、くらべものにならないよ。これ、どれだけ言っても、自分の気持ちだけで、相手が否定しているということを、無意識的に拒否して、意識的には認めない。だから、相手が「やらなくていい」と拒否しているのに、きちがい親父の頭のなかでは、「拒否されたこと」になってないんだよ。何回も何回もおなじやりとりがおこなわれてしまう。こういう状態のきちがい親父というのは、ほかの人にはわからないんだよな。

「言わなかったことが現実化した場合」について

 2023/07/11 16:55ごろ書いた文章

 じつは「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という言葉は、「言わなかったこと」がどうなるのかということについては、なにも語ってない。

なので、「言わなかったことは現実化しない」なんてことは言ってない。

言わなくても現実化してしまうことがいっぱいある。

しかし、言霊主義者は「言ったことが現実化する」と考えているので、「現実化したことは、言ったことだ」と考えてしまう傾向がある。他人の現実は見えないので、「そういうことになっているなら、そういうことを言ったはずだ」と思ってしまう。

今現在、げんに病気である人を見た場合は、「病気になる」と言ったから、病気になったのだろうと考えてしまうのである。たぶん、そういうところがある。

自分のことに関しては、言わなかったことが現実化したとしても、言わなかったことが現実化した理由がわかっているので、特に「言ったにちがいがない」とは思わないのである。

言霊主義者が「言わなかったことが現実化した場合」について、どう考えているのか、いまいち、わからない。

ひょっとしたら、自分のことに関しては「言わなかったことが現実化した」場合は、無視しているのかもしれない。「言わなかった」ということは、わかっているので、「言ったにちがいがない」とは考えないのだろう。 


2023年7月17日月曜日

きちがい兄貴は「まったくやったつもりがないまま」なのである

 いやなこと、ばっかりだったなぁ。ヘビメタ騒音で立場が弱くなる。この、ヘビメタ騒音という悩みが、ほかの人にはまったくわからないのである。どうしたって、普通の騒音を想像してしまう。普通の騒音を想像して、ものを言う。けど、きちがい兄貴は、頭がおかしいから、頭がおかしい人が、横の部屋で鳴らしている、騒音なんだよ。これがわからないんだよな。頭がおかしい人が鳴らしているということの、意味がわからない。そして、頭がおかしい人の行為を、大家である、きちがい親父が支持している。これも、ほかの人には、まったく、まったくわからないことなんだよな。そうなると、ぼくが誤解される。どうしたって、遅刻するようになるのに、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音の深刻さがわからない人には、ぼくが、あまえてさぼっているようにしか見えないのだ。そして、弱くなれば……立場が弱くなれば「できないというからできないんだ」とか妄想的なことを言われるようになる。ヘビメタ騒音でできないのに、ヘビメタ騒音でできないということは、ヘビメタ騒音に、うちでやられたことがない人には、まったく、まったくわからない。そういうことの繰り返しだった。どれだけ、はりつめてがんばっても、きちがいヘビメタが鳴っている限り、できないんだよ。遅刻もせざるをえないんだよ。けど、ほかの人には、『きちがい家族』がいないので、そういう状態がない。そういうことを経験して、毎日生きているわけではない。だから、根本のところがわからない。わからなければ、事実上できなければ、「なめてかかってくる」。だから、「こういうことでこまる」「こういうトラブルが発生してこまる」ときちがい兄貴の部屋に行って、きちがい兄貴に説明するけど、一分だってやめてくれたことがないのだ。自分がやりたい音で鳴らすということに、きちがい的な意地でこだわって、きちがい的な意地で鳴らす。殺さなければやめさせることができない。しかも、そういうことあったあとでも、きちがい兄貴は「まったくやったつもりがないまま」なのである。自分がかかわっているということがわからない。自分がかかわっていることで、おとうとが文句を言ってきたということが、わからない。きちがい兄貴の態度というのは、きちがい的にこだわって鳴らすけど、「まったく鳴らした記憶がない」という態度なんだよ。「そんなことは、一回も、一秒してない」という認識に基づいた態度なんだよ。気ちがいだろ。こんなの。けど、ごく普通にそうなっているんだよ。

*     *     *

ヘビメタ騒音って、ひとことで言っているけど、ほんとうに、長い時間やられた。この長しい時間、ずっと、言霊なんて成り立ってないのである。もう、使えないから、放棄された方法なんだよ。

ヘビメタ騒音って、ひとことで言っているけど、ほんとうに、一日のなかでも、鳴っている時間が長い。その鳴っている時間、全部、ほんとうに、くるしい。そして、その影響が、鳴り終わったあとも続く。トラブルのもとなのである。「鳴り終わったら関係がない」などと言っているやつに、なにがわかるか。そいつは、きちがい家族による、しつこいしつこい、騒音を経験してないだけだ。全部が全部、ちがってきてしまうのである。破壊的な騒音で、生活ぜんぶがぶっ壊れる。どれだけ、ぶっ壊れないように頑張っても頑張っても、生活ぜんぶがぶっ壊れる。だいたい、そういう経験がない人が、「愚痴を言っている」と思うわけだ。これも、ひどい話なんだよ。こういう人は、「愚痴を言いやすい性格の人」と「愚痴を言わない性格の人」をわけている。どういう条件で暮らしているかなんて関係がないのである。その人は、たまたま、好条件で暮らせただけなのである。その人は、たまたま、普通の条件で暮らせただけなのである。日陰条件だって、暗闇条件とはちがうのである。その生活のなかで、実際にしょうじた出来事に注目しないで、そんなことばかり言っている。人によって、不愉快な出来事の個数が、ぜんぜんちがうのである。一〇〇〇〇個の不愉快な出来事にたえて、五〇個の愚痴を言う人……。一〇〇個の不愉快な出来事にたえて、一〇の愚痴を言う人。愚痴の数は五〇個の人のほうが多いけど、五〇個の人のほうが一〇個の人よりも、「愚痴を言いにくい」性格の人なのである。こういうことをまったく考えてない。おなじぐらいの出来事がしょうじていると考えて、「愚痴を言いやすい人」「愚痴を言いにくい人」という「人の性格」について考えている。けど、これ、まちがいだ。条件がちがえば、発生する出来事がちがうのである。そういうことを無視して、「みんなたいだいおなじ」という設定のもとでわかってようなことを言う……ということがはやっている。みんな、そうだ。


2023年7月16日日曜日

「自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる」

 たとえばの話だけど、自分が「すきですきでたまらない」人とデートできて「うれくしくて、くれしくて」たまらないときに、「頭にきた」と言えば、頭にくるのか? 腹がたったといえば、腹がたつのか。うれしいときは、うれしいと感じているわけで、出来事に関係なく、自分に言葉で命令すれば、その通りに感じるようになるとでも言うのか? 言っているんだよね。

ほんとうは、自分の日常生活のなかでは、そんなことはしてない。そういうことをこころみたとしても、そういうふうには、いかないのである。そんなことにはならないのである。うれしくうれしくてたまらないとき、文脈に関係なく、出来事に関係なく「腹がたつ」と言えば、腹がたつか? ほんとうは、腹なんて立たないのではないか。うれしいままなのではないか。

どうして、「自分の感情なら、自分が制御できる」というようなライフハックがはやってしまうのか。ほんとうは日常生活のなかで、そういうことをしてないのに、どうして、あたかも可能であるかのような話をするのか。真実であるという前提で、大ぶろしきをひろげるのか? 自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる……。こんなおかしい話に、疑問をもたないのか?


そして、「そういうことは成り立たない」ということを、ぼくが言えば、ぼくに対して、敵対心をもつのか? 自分が信じているのことを、否定されたから、不愉快になったんでしょ。

じゃあ、ぼくが、「言霊は成り立たない」「言霊理論はまちがっている」ということを話したとき、ぼくに対して敵愾心を感じて、不愉快になったとする。そのとき、「エイリさんからありがたい話を聞いた」と思わないのか?

「エイリさんが言っていることは正しい」「エイリさんが自分の目を覚まさせてくれた」……こう思って、「感謝感謝、なんでも感謝」と思えば、それでいいのではないか?

「言霊理論を否定されて、うれしくしてうれしくてたまらない」と言えば、うれしくなるのではないか?

ところが、実際には、不愉快なままなのである。「こんなの読むんじゃなかった」「言霊は正しい」と思って、なんとか、気持ちを切り替えようと思って、ほかのところを読むのである。

この、「自分の感情なら、自分が制御できる」というような理論は、ひらたく言ってしまえば、かなりやばい。「自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる」というような理論は、ひらたく言ってしまえば、かなりやばい。

暗闇条件の人を、追いつめるのである。「条件なんて関係がない。過去なんて関係がない。すべては、自己責任」……という考え方とセットになって暗闇条件の人をおいつめる。

そういうふうにできている。 

さらに言ってしまうと、カルマ論がこういう理論の礎(いしずえ)になっているのである。カルマ論が、精神的な正しさを付与するのである。カルマ論は、じつは、悪の理論だ。この世の差別を肯定するための理論だ。

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 「自分が言葉で命令すれば、自分は、その命令通りに感じるようになる」という考え方と他人による感情制御は、多少似ている。これ、こういうことに鈍感にさせるための理論なのではないか。

一秒に一回、地球が爆発して、次の瞬間には、五〇〇個の地球があらわれるというような世界

 (注)2023/07/10 3:51に書いた文章

そもそもの話だけど、「言ったことが現実化する」「言霊はものすごいパワーをもっている」ということが事実であるなら、「いつか夢がかなう」系の言霊は、意味をなさないものになる。

どうしてかというと、「いつか」ではなく、「いますぐ」現実化させればいいからだ。

なぜ、またなければならないのか?

それは、言霊の力(ちから)がないということを知っているからだ。

言霊には現実をかえるようなすごい力(ちから)はない。

言霊主義者だって、そんなことは知っている。

だからこそ、妥協の産物として、「いつか夢がかなう」系の「弱い言霊」を考え出すのだ。これは、現実に負けた言霊的な妄想が、その人のなかで、生き残った結果だ。

超・物理的な力(ちから)をもっている言霊というのは、自然の摂理を捻じ曲げる力(ちから)をもっている。

超・物理的な力(ちから)と言うべきか、超・自然的な力(ちから)と言うべきか、まよったけど、両者はおなじことを言っている。ここでは、「超・物理的」と「超・自然的」というのは、おなじ意味をもっているとする。

自然の摂理を、「自分の言霊」の力(ちから)が、書き換えてしまうのである。

そういう強大な力(ちから)をもっているという(幼児的な)妄想があるのである。

そういう個人的な妄想が、言霊思考の根源にある。

人間は誰でも、そういう妄想をもっていたし、いまでも、部分的にもっている。大人になっても、自分がそういう力(ちから)をもっているのではないかという妄想が消えないのである。

自然の摂理にさからって、現実を書き換えてしまうような膨大な力(ちから)としての「強い言霊」と、「いつか、夢がかなうかもしれない」というような考えを維持するような「弱い言霊」が、おなじ「言霊」であるはずがないのだ。

強い言霊が、ほんとうに成り立っているなら、人は、強い言霊を使っている。そして、強い言霊の管理を気にしている存在になる。

ところが、だれも、そんなに強い言霊をもってないので、「現実化してしまったらどうしよう」というような心配だけに終わる。「三秒後にアタオカ上司が死ぬと言って、ほんとうに死んでしまったら、どうしよう」というような心配だけに終わる。

たいていの場合は、「三秒後にアタオカ上司が死ぬ」と言っても、アタオカ上司がぴんぴんしていて、いじめがとまらないということになる。そういうことがわかっているので「三秒後にアタオカ上司が死ぬ」というような言霊的な解決法は選択されず、もっと現実的な方法が選択されることになる。

自分のことならそうだ。

ところが、他人のことになると、そういう「しばり」がなくなってしまうのである。「強い言霊・優位の思考」が成り立ってしまうのである。もちろん、他人にアドバイスをしているときも、実際には、「強い言霊」なんて成り立ってないということは、無意識的には知っている。

もし、みんなが「強い言霊力(ちから)」をもっていたとする。

そういう世界はどういう世界だろうか?

一秒に一回、地球が爆発して、次の瞬間には、五〇〇個の地球があらわれるというような世界だ。

「みんなに言霊の力(ちから)がある」と思っているかもしれないけど、ほんとうは「自分だけ」言霊の力(ちから)があると思っているのだ。魔法使いのドラマのように、自分以外の人は、普通の人で、自分だけ、「チチンプイプ」と魔法が使えると思っているのだ。

まあ、ライバルとか、おなじような力(ちから)をもっている少数の人間はいるかもしれないけど……。みんなじゃない。

「強い言霊力(ちから)」というのは「物理法則をこえる力(ちから)」だ。

つまり、魔法の力(ちから)なのだ。

魔法使いのように、魔法が使えるという設定なのだ。

「強い言霊力(ちから)」について語るときは、そういう設定でものを言っているのだ。

しかし、現実的な問題に関しては、その「強い言霊力(ちから)」をぜんぜん使わない。「魔法は、使わない」という約束をした魔法使いのように、現実生活では、魔法の力(ちから)である「言霊力(ちから)」を使わない。

現実的な話になると、急に、しょぼい話になるのだ。

この人たちは、「言霊の力(ちから)」と「言葉の力(ちから)」を混同している。

たとえば、自己暗示というのが、言霊の力(ちから)として語られる。けど、この「自己暗示」の話に出てくる言霊は「一〇〇%のことを、一〇〇%の確率で実現化するような言霊力」ではない。

この「自己暗示」の話に出てくる言霊は「超・自然的な言霊力」ではない。ぜーんぜん、ちがう。

たんに、自分の意識に影響をあたえたいだけ……。

自分の意識に影響をあたえなければならないのは、そもそも、「超・自然的な言霊力」を使えないからなのだ。

使えないから、しょぼい解決法で、自分の潜在意識に影響をあたえて、自分が実際に「なす」ことによって、自分が現実化したいことを現実化するということになる。

「魔法のような言霊の力(ちから)」……「強い言霊」の力(ちから)を使うためのものではなくて、自分に言い聞かせるためのものなのだ。イメージトレーニングとおなじだ。

どうして、自分に言い聞かせなければならないのか?

何度も言うけど、自分が「超・自然的な言霊力」を使えないからだ。使えないから、自分に対して説得をするということをしなければならない。そして、説得をされた自分は、なんとか行動を起こして、現実的な解決法を模索するのである。

「魔法の力(ちから)」ではなくて、自分のからだを使って、物理法則にしたがった対象を動かすことによって、自分がやりたいことをやろうとしているだけだ。物理法則にしたがった対象というのは、ものである場合もあるし、他人である場合もある。

ものも、他人も物理法則にしたがっている。

他人のなかには、人間のからだの「しくみ」が宿っている。このしくみは、けっきょくのところ、物理法則にしたがっているのである。「自分」の場合も、人間のからだを使っているのであれば、物理法則にしたがった人間のからだを使っているということになる。

この場合、人間に効く毒は、「自分」にも効くということだ。

作用機序があるからね。

もちろん個体差はある。

けど、青酸カリを飲むと、青酸カリと、自分のからだを構成している物質が化学的な変化を起こして、死ぬ。その化学的な変化というのは、けっきょくは、物理的な運動のことだ。物理法則にしたがって、原子や分子が運動をした結果、死ぬのだ。

たとえば、「青酸カリを飲んでも死なない」と言って、青酸カリを飲んだ場合、「言霊の力(ちから)」がまさって、物理法則にしたがった原子や分子の運動が発生しないかというと、そうではないのである。

普通に、物理法則にしたがって、原子や分子の運動が発生する。

これは、言霊の力(ちから)が、物理法則の力(ちから)に負けたということだ。

ぜんぜん、言霊の力(ちから)が、影響を及ぼしてないのである。青酸カリを飲んでも死なない場合は、青酸カリの物理的な量や、ほかの物質の運動の結果、効かないのである。トッリクがあるなら、トリックの作用機序がある。そのトリックの作用機序は、物理法則にしたがった作用機序なのである。


「言ったから」と「言ったあと」の混同と、「強い言霊」と「弱い言霊」の混同がある。
 




2023年7月15日土曜日

「おわらない……」「おわらない……」「ずっとつづく……」

 やっぱり、きちがいヘビメタがはじまったときに、すべてが終わっているんだな。

どれだけ、努力しても、くるしいだけだった。

これ、みんな、けっきょく、きちがいヘビメタ生活というのがないんだよな。みんな、けっきょく、経験してない。経験してないから、いろいろなことが言える。

そして、それが全部、マトずれなんだよ。

ほんとうに、全部、マトはずれなんだよ。

これ、言いようがないな。どれだけ言ったって、相手はわからないのだから。マトはずれなだけなら、それでいいけど、ちがうんだよな。屈辱がある。まちがった理由についてのべている。誤解をしている。

自分が、盲腸で腹がいたくていたくて、たおれてもだえていたとする。そとの道でたおれたとする。そのとき、通りがかりの人が、「いたいと言うからいたくなる」と言って、通りすぎて行ってしまったとする。「いたい」といったから、いたくなったわけではないのだ。的外れなことを言われると、腹がたつんだよ。「おまえ、ひとごとだと思って」……という気持になる。

「そんなこと、俺がヘビメタにやられているとき、くるしいなかで、どれだけ、こころみたか……」。

いろいろなことを言う人がいるけど、そんなのは、全部、こころみて、だめだったことなんだよ……。そんなのは、全部、こころみたら、もっともっと、くるしくなるようなことだったんだよ……。もっともっと、はりつめて、いろいろなトラブルがしょうじるようなことだったんだよ。

「私は、それでうまくいった」「私はそれで成功した」……。

そりゃ、きちがい家族と一緒に住んでないからでしょ。

きちがい家族が、勝手に動いて、こまるということを経験してないからでしょ。きちがい家族というのは、きちがい的な脳みそを搭載しているから、きちがいなんだよ。ずっと、そういう脳みそを搭載して生きているんだよ。

「おわらない……」「おわらない……」「ずっとつづく……」。

ずっと続いたことがない人が、言っていることなんだよ。そういう生活が何十年も続いたことがない人が、言っていることなんだよ。ちがうんだよ。

ほんとうに、全部が全部、「おまえ、ほんとうに、きちがい家族がどういう影響をあたえるか、まったくまったく、わかってないな」と言いたくなることなんだよ。

マトはずれなんだよ。

もっとくるしくなるようなことなんだよ。

有害なことなんだよ。無害じゃなくて有害なことなんだよ。

まあ、まったくなにも、わかってない子供が、勝手に言ってると思ってゆるしてやるしかないか。悪意はないんだからな。 

*     *     *

Aさんが急に、盲腸になってくるしんでいたとする。そして、「いたい」と言ったとする。Bさんが通りかかって「いたいと言ったからいたくなった」「いたくないと言えばいたくない」と言ったとする。

Bさんは、Aさんのいたみについて誤解をしている。

Aさんは、盲腸『で』いたいと感じている。言ったからじゃない。盲腸でいたいと感じているから、いたくないと言っても、いたさが消えない。

原因を取り除かなければ、いたさが消えない。一時的に神経をマヒさせる方法もあるけど、それでは、問題が解決しない。

誤解しているだけなのに、勝ち誇ったようにそういうことを言う。「言霊は絶対だ」「言霊は、絶対に正しい」と言う。わかってないだけだろ。勘違い、するな。

そして、たとえば、Bさんが、バックドロップをくらっとしよう。Cさんが、Bさんにバックドロップというプロレスの技をかけたとする。その場合、Bさんが「いたい」と言ったとしよう。

バックドロップ『で』いたくなっている。

「いたい」と言ったから、いたくなっているわけではない。

自分の場合は、そういうことに、疑問をもたないのである。いたくなった理由がはっきりしているからだ。自分の文脈の中で、いたくなった理由がはっきりしていることに関しては、いたくなったあと「いたい」と言ったから、いたくなったとは考えないのである。

自分のことなら、そういうふうに、言霊的な思考をしてない。

首を床に打ちつけるまえに、「いたい」と言って、「いたい」と言ったから、「いたくなった」わけではないのである。首を床に打ちつけて、首がいたくなったあと、「いたい」と言っている。


2023年7月14日金曜日

「言えば」そうなるのだから、「言えば」いいでしょ。

言霊主義者が「言わなったことが現実化した場合」について、どう考えているのか気になるぼくは気になる。世界で発生していることについて、事細かに「言っているのだろうか」。

そんなことはあるはずがない。自分がかかわってないことが、世界中で発生している。

自分がかかわっていることと、自分がかかわっていないことをくらべると、圧倒的に、自分がかかわってないことのほうか多い。そりゃ、そうだろ。世界中で、いろいろな人が生きている。

その人たちの身に生じることについて、「だれか、言霊主義者一人(ひとり)」が語っているのだろうか?

そんなことはない。言霊主義者は、自分の身の回りのことしか語っていない。ところが、世界中でいろいろなことが発生している。つまり、「言わなかったこと」が発生している。

「言ったことが現実化する」確率より、言わなかったことが現実化する確率のほうが高いのである。「言ったことが現実化する」数より、言わなかったことが現実化する数のほうが多いのである。こういう世界だ。

自己中心的で、自分が言ったことが現実化すると思っている人以外、世界中で発生していることを、無視できるわけがない。

そして、たとえば、金の価格、銀の価格、パラジウムの価格というものを、自分が「言うだけで」制御できるのか?

自分が、今日の金価格は、まるまるになると言ったら、まるまるになるのである。言霊理論が正しいなら、かならずそうなる。言ったことが、かならず現実化するからだ。

言霊主義者は、「呪文」をとなえれば、どんなことだって、かなうと思っている。呪文の内容が、自分が現実化させたいことなのである。自分が現実化させたいことを、「言えば」かなうのである。呪文として自分が現実化させたいことを「言えば」その内容が現実化するのである。

そういうパワーを自分は持っていると言っているのである。

自分は、そういう魔法が使えると言っているのである。

けど、実際には、現実的な部分に関しては、現実的な対処をしているのである。「言えば」そうなるのだから、「言えば」いいでしょ。

言うことで、対処してくださいよ。

そうすれば、言ったとおりにならないということを経験するでしょう。

株価を予想する必要なんてない。「まるまるの株はまるまるという値になる」と言えば、そうなるのである。競馬の予想なんてする必要がない。「今日のまるまるのレースでは、まるまるが一番、まるまるが二番になる」と言えば、その通りになるのである。

言ったら言ったことが現実化するのだからそうなるのである。言霊には、そういうすごいパワーが宿っているので、言っただけでそうなるのである。

そうならないなら、そういう言霊理論がまちがっているということになる。

感情と表情というのは、関連しているものなのである

感情と表情というのは、関連しているものなのである。感情が表情をつくっている。その場合、たとえば、この世で一番嫌いな音を、強制的に一三時間(じゅうさんじかん)も聞かされたとしたら、それは、憂鬱な表情になる。

「やめてくれ」とどれだけ言っても、相手がやめてくれなければ、腹だたしい気分になる。腹立たしい気分になれば、腹立たしそうな顔になる。けど、これは、わざつくっているわけではない。他人が見て、「おこった表情」と言うことになる。

普通に、そういう表情になるわけで、他人から見て、おこった表情にしようと思っているわけではない。他人が、こういう表情の場合はおこっていると、推測するのは、その表情がそういう感情をあらわすものだということを、学習したからなのである。

ちなみに、鏡を見て、自分の表情を観察して、学習する場合もあるかもしれないけど、たいていは、他人の表情を見て、これは、おこっているとか、これは、悲しんでいるとか、そういうことを推測することを学習するのである。

これは、つくってない表情が感情と対応しているということなのである。つくった表情は、そういう学習のうえになっている。こういう表情なら、たぶん、相手は、こういうふうな感情なのだと思ってくれるということが成り立っている。

けど、実際には、つくった表情とつくってない表情は微妙に違っている場合が多いので、役者じゃなければ、そんなにはうまく、他人をだませない。役者にしたって、日常生活においては、おこっているけど、わらうということはしてない。

そして、おこっているけど、わらった場合の表情は、おかしくてわらっている場合の表情と、たしょうちがうはずなのである。いずれにせよ、人間というのは、表情のちがいに敏感で、つくった表情と、つくってない表情のちがいはだいたいわかるはずだ。もちろん、かならず、わかるわけではなくて、たいていの場合は、区別がつくはずだということだ。

たとえば、騒音で宿題ができないときは、腹がたった表情になるのである。相手がきちがいで、どれだけ言っても、でかい音で鳴らす場合は腹がたつのである。宿題をやっていかないと、こまったことになるので、やりたいのだけどできないという状態が何時間も続けば、腹がたつのである。

しずかにしてくれない兄に対する怒りがわいてくれるのである。けっきょく、宿題ができなかった場合の不安がわいてくるのである。

かりに、たとえばのなしだけど、ひどい騒音が鳴っている自分の部屋で、笑顔をつくっていればいいことがあるだろうか? そんなことはない。「笑っていればいいことがある」と言う人は、自分の場合は、「笑っていたら」いいことがあったということなのである。

その場合、まわりにいる人が……たとえば、「いつもニコニコしていて、明るくていいね」とかそういうことを言ったということなのである。その場合、まわりの人がいい人だからそういうことを言うわけである。

きちがい的な兄が、きちがい的な理由で、きちがい的な感覚で、きちがい的にでかい騒音鳴らしている部屋で、ニコニコしてたって、兄がやめてくれるわけではないので、いいことはない。

そして、きちがい的な兄が、きちがい的な理由で、きちがい的な感覚で、きちがい的にでかい騒音鳴らしているにもかかわらず、父親がそれに協力して、うしろから支援している場合は、やはり、そういう父親は、普通の人ではないのである。悪い人なのである。その場合、悪い人に囲まれて生きているということになる。

いい人に囲まれて生きていれば、いい人が、いい反応をかえしてくれるかもしれないけど、悪い人にこまれて生きていれば、悪い人は、いい反応かえさないのである。

悪い人は、きちがい的な理由で怒ってくる。きちがい的な父親がそうだった。きちがい的な理由で発狂するのである。きちがい的な兄は、弟が自分の騒音でこまっているということを、きちがい的な父のように理解せず、きちがい的な感覚で、鳴らし続けるてのである。その場合、ニコニコしていてもいいことはない。 

他にも言いたいとはあるけど、省略して言っておく。どれだけ無理なことをおしつけているかわかってない。因果関係を逆転させて言う人たちがいるのである。言霊主義者もそうだ。実際に、現実的な理由で不幸な思いをして暮らしている人に、「ニコニコしていればいいことがある」などということをおしつけるということがどういうことなのかわかってない。まあ、そういうふうに言えば「おしつけてない」と言いかえしてくると思う。なので、おしつけるという表現はさけることにする。「無理難題をふっかけている」。

「悲しいから泣くのではなく、なくから悲しくなるのだ」とか「楽しいから、わらうのではなく、わらうから楽しいのだ」というような行動主義的な考え方について、ずっとまえに、書いたことがある。だから、それに関しては、ここでは省略する。こういうふうに、原因と結果を逆転して考えることが、はやっているのである。けど、まちがっている。省略したけど……。すでに、学習が成り立ってなければならないのである。どうして学習が成り立っているかということを考えなければならないのである。まあ、省略するけど……。言霊主義者も、原因と結果を逆転させて考えることがある。とくに、「ひとごと」だとその傾向が強い。「いたいと言うから、いたくなる」「くるしいと言うから、くるしくなる」というような考え方を、言霊主義者は、よくクチにする。しかし、いままで見てきたように、たいていの場合は、いたいと感じたあと、いたいと言うのである。これは、言霊主義者だってそうだ。たいていの場合は、くるしいと感じたあとに、くるしいと言うのだ。いたいと言うから、よけいにいたくなる……ちがうね。くるしいと言うから、よけいにくるしくなる……ちがうね。くるしいと言うかどうかと関係なく、くるしさがある。いたいと言うかどうかと関係なく、いたさがある。「いたいと言うから、いたくなる」という言葉を「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味で言っているのではないかということを言う人たちがいるけど、いたいと言うから、よけいにいたくなる」と言う意味ではなくて、「いたいと言うからいたくなる」という意味で言っているのだ……言霊主義者は。まあ、普通の意味で言ったとしてもいい。ようするに、「いたいと言うから、いたくなる」という言葉には、「いたいと言うから、いたくなる」という意味と、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味の、両方があるとする。まず、「いたいと言うから、いたくなる」という意味のほうだけど、いたいと言う「から」いたくなるわけではない。いたいと感じたあと、いたいという言葉を言うだけだ。いたいと感じたあと、いたいと言っている。どこもいたくないのに、急に「いたい」と言って、いたいと感じたわけではない。「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味の場合は、「いたいと言うから、よけいにいたくなるんじゃないかと、言霊主義者が感じているだけである。バイアスがかかっているだけだ。「言霊は正しい」と思っている人が、そういうふうに思っているときに、そういうふうに「感じる」だけだ。言霊主義者だって、実際の生活のなかでは、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」ということを、忘れてしまっている場合があり、そういう場合は、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」とは感じないのである。いたさは、「いたい」と、実際にクチに出して、わざわざ言うかどうかと関係なく、増減している。

まあ、主観の問題と表現の問題があるので「バイアスがかかっているだけだ」と言い切るのはやめておこう。バイアスがかかっているだけなのではないかと思う。

あと、言葉をしゃべれない人は、「いたい」と言わないので、「いたいと言うからいたくなる」ということは成り立たない。言葉をしゃべれず、なおかつ、神経がない人は、「いたい」と言わないし、「いたい」と感じない。ここでは、言葉がしゃべれず、関係がある人にかんして言及することにしよう。「いたいと言うから、いたくなる」という説の場合は、神経が正常であっても、言葉がしゃべれない人はいたさを感じないのである。そんなことがあるだろうか。ない。痛覚があるので、「いたい」と感じるのである。いたみを感じるレセプターが、打撲のような機械刺激を電気的な信号に変換し、その電気的な信号が……まあ……おおざっぱに言えば、神経を通って、脊髄に到達し、脳に到達するから、「いたい」と感じるのである。ようするに、たとえば、言葉をしゃべれない人でも、ころんでひざをうったときは、「いたい」と感じる。言葉をしゃべれない人でも、ひざをうつと、ひざが「いたくなる」のである。こういうことを考えた場合、やはり、「から」ではなく、「あと」だということがわかる。この場合は、「いたい」と感じたあと、「いたい」と言うことがあるということだ。「花を咲かせる」と言ったあと、花が咲く場合とはちがう。

まあ、言霊主義者だって、バックドロップをくらえば、「いたい」と言う前に、いたさを感じるのである。 いたさを感じたあと、「いたい」と言うのである。バックドロップをくったときのいたさは、「いたい」と言うかどうかとは、あんまり関係がない。言霊主義者だって、「いたい」と思わず言うときがあるかもしれないけど、「いたい」と言うから、「いたくなった」と考えるよゆうがないはずだ。「いたさ」がさき、「いたい」と言うのが、あと。いたさを感じてないときに、「いたい」と言って、突然、いたくなるということではない。いたさを感じたから「いたい」と言っている。

 

 

2023年7月13日木曜日

そういうことが発生しなかったから、影響をうけずに生活できると思っているだけだ。

 きちがい家族による、ヘビメタ騒音の意味がわかってないのである。毎日、きちがい的な音を聞かされるということの意味がわかってないのである。どうしたって、つかれる。どうしたって、いやな気持になる。ところが、言霊主義者は、他人のことだと、そういうことを認めないのである。「元気だ元気だと言えば元気になる」「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」……こんなのことばかり言う。

数少ない人は、「それはたいへんでしたね」「そんなことやられたら、俺だって働けなくなっちゃうよ」と言った。「そんなんじゃ、働けなくなっちゃうよな」と言った。それでいいのである。それを、まるで、さぼっているダメ人間のように……俺のことを……見下して、えらそうなことを言うやつばかりだった。

これ、どれだけ言ってもわからないと思うけど、自分がこの世で一番嫌いな音を、強制的に、何時間も何時間も聞かされている人に「ニコニコしたら、いいことある」と言うことが、どれだけ、めちゃくちゃなことかわかってない。わかってないやつらが多い。こっちが無職だと思えば、ヘビメタ騒音のことを話しても「そんなことは関係がない」「過去のことは関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と影響を認めず、きちがい的なことを言いやがる。自分だって、自分がきらいな音を、家族に、ずっと鳴らされ続けたら、働けなくなるのに、そういうことが、一切合切わからない。そういうバカなのだ。ばかにばかにされる人生になっちゃったよ。きちがい兄貴の態度が、きちがい親父とおなじで、ほかの人にはわからないことなんだよな。こんなの説明したってわからない。その人たちの人生には、そういうことがなかった。だから、影響をうけてないだけだ。俺と同じ部屋にいて、影響をうけなかったわけではないのである。それを……。それをーー。

どうしたって、影響をうける。そういうことが発生しなかったから、影響をうけずに生活できると思っているだけだ。

この条件の意味がわからない。根本的にわからない。

 異質の、騒音がはじまってしまったんだよな。ぼくだって、幼稚園の横に住んでいるわけだから、それまでだって、騒音を経験しているわけ。となりの家を建て直したときの騒音を経験しているわけ。北の家と西の家が、ヘビメタ騒音がはじまる前の一二年間のあいだに、建て直した。だから、工事の音も経験しているわけ。幼稚園の園舎だって、補修工事をしているわけ。だから、工事の音も、幼稚園の音も、普通の生活騒音も経験しているわけ。きちがい兄貴が、あのヘビメタ騒音を鳴らす前に、兄貴のステレオで、普通に曲を聞いていたので、普通のステレオの騒音も経験しているわけ。兄貴が、フォークギターにこって、ずっと弾いていたので、楽器騒音も経験しているわけ。となりの人が、三味線にこっていたときがあったので、楽器騒音も経験しているわけ。一階のテレビの音だって、聞こえるわけ。けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は、異質であるわけ。音のでかさも、音の質も、異質であるわけ。けど、ほかの人が、「僕のきちがいヘビメタ騒音」のことを聞いたとき、思い浮かべるのは、普通の騒音であるわけ。ヘビメタがはじまる前の騒音とは、ぜんぜんちがうわけ。生活ができなくなる、騒音であるわけ。生活のすべてが破壊される騒音であるわけ。この、生活のすべてが破壊される音というのが、ほかの人にはわからない。道路工事の騒音、普通の楽器騒音、家の改築の騒音、家を建て直す騒音、近くの学校やビルを建て直す騒音、普通のステレオの騒音、普通のテレビの騒音……そういうものしか、体験してないわけ。きちがい兄貴による、きちがい的な騒音を経験してないわけ。異質な長時間騒音が、毎日毎日、長期間、続くということを経験してないわけ。だから、普通の騒音を思い浮かべてしまう。どれだけ「ちがうんだ」と言っても、自分が経験した普通の騒音しか思い浮かべることができないので、けっきょくは、自分が経験した普通の騒音を思い浮かべてしまうわけ。どれだけ、俺がちがうと言っても、ほの人は、経験がないから、それがどれだけ、影響をあたえるかわからない。どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめてくれない、きちがい兄貴の態度がわからないわけ。「やめてくれ」「やめてくれ」と言っているのに、まったくやめないで、長時間鳴らしているときの態度がわからないだろ。きちがいの感覚がわからないだろ。これ、きちがい家族と一緒に暮らした人じゃないとわからないことなんだよ。だから、どれだけ言っても、つたわらない。まあ、きちがい兄貴に「しずかにしてくれ」と言っていることがつたわらないのと、普通の人に「きちがい兄貴のこと」がつたわらないのは、ちがうことなんだよ。ちがうしくみが成り立っている。レベルもちがう。けど、つたわらないのはたしかなんだよ。だから、普通の人は、自分が経験した騒音を思い浮かべて、「言霊的な解決法」や「相談すればいい」というようなことを言うわけ。けど、きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのは、言ってみれば、「暗闇条件」であるわけ。きちがい親父も「暗闇条件」なのだけど、まだ、こっちのほうが「一般的」だ。きちがい親父がいる人も、わずかだけど、いる。「暗闇条件」がふたつかさなってしまうということの、意味が、ほかの人には、まったく、わからない。だから、条件を無視して話し始めることというのは、ぼくにとって、土台「無理なこと」なんだよ。「そんなことができたら、苦労しない」と思うことなんだよ。「そんなことで解決できるなら、苦労しない」と思うことなんだよ。みんな、きちがい家族のすさまじさがわかってない。みんな、きちがい家族のしくみがわかってない。みんな、きちがい家族の、感覚がわかってない。こういったことも、どれだけ説明しても、伝わらないことだ。実際に、『きちがい的な父』『きちがい的な兄』という「暗闇条件」が成り立っている人にしか、この条件の意味がわからない。根本的にわからない。

 

そもそも、ゲームに参加できない人

 まあ、言霊信者は、特に悪い人たちではないのけど、「暗闇条件」の人とは相性が悪すぎる。強い言霊を信じている人は、「無理なこと」を言うのである。そりゃ、「法が使える」「呪文をとなえれば、どんなことだってできる」というくそ理論を、根底で信じているやつだ。根底で信じているのだけど、自分の現実的な問題に関しては、「魔法」や「呪文」を使わずに、現実的に対処しているのである。けど、信じているので、そういう「魔法が使える」「呪文は絶対」というような非・現実的な理論を展開するのである。そして、言霊にはそういう力が宿っているということを前提にして、非・現実的な助言をするのである。これは、暗闇条件の人ならまいるだろ。だって、そんなの、きかないわけだから。そして、「そんなのは、きかない」というと、強い言霊を信じている人は、まるで自分がバカにされたようにおこるのだから、こまるだろ。ともかく、強い言霊を信じている人は、相手の現実を理解せずに、非・現実的な方法を、現実的な方法だと言って、おしつけてくるのである。こんなの、相手にするだけつかれる。

いっぽう、弱い言霊を信じている人は、自己暗示系の助言をしてくるのである。これは、一見理にかなっているように思えるかもしれないけど、だめなのだ。弱い言霊を信じている人は、暗闇条件の人の暗闇条件を無視している。だから、日当たり良好条件の種が、暗闇条件の種に「いつか、花を咲かせることができる」と思って生きていけばいいというようなことを言ってしまう。「花を咲かせる」「花を咲かせる」と言って、自分に暗示をかければ、それが、いつか、現実化するということを言うわけだ。けど、条件がちがうので、むだなのである。暗闇条件の人は、ゲームのたとえで言えば、ゲームに参加することさえできないのである。ゲームに参加できない条件というのを無視して、「自分は、ゲームクリアしようと思ってやってきた」というようなことを言ってしまう。「ゲームクリアできると自分に暗示をかけてやってきた」「だから、自分はゲームクリアできたんだ」と言ってしまう。けど、それって、ゲームに参加できるということが所与の条件として与えられている人の言葉だよね。ゲームに参加できない人にとっては、意味がない言葉なのである。けど、ゲームに参加できない人がいるということを、簡単に無視してしまうので、そういう、ひどいことを言うということになる。ゲームに参加できる人にとって、ぜんぜんひどいことじゃないけど、そもそも、ゲームに参加できない人にとっては、ひどいことなのである。

*     *     *

強い言霊を信じている人……「言えば、なんだってできる」「できないと言うから、できないんだ」 。なんだってできるわけじゃないのに、言霊のすごいチカラでできると言ってしまう。しかも、本人は、日常生活のなかで、そのすごい言霊を使ってる話ではないのである。強い言霊を信じている人も、日常生活のなかでは、「自己暗示系」「いつか夢が可能系」の弱い言霊しか使ってないのである。しかも、そういう矛盾があるということに、本人がまったく気がついてないのである。気がつかせようとすると、相当におこってしまうので、手におえない。

 

つかっているわて

2023年7月12日水曜日

出来事の発生順番について、ちょっと言っておきたい

 注)「言霊主義者だって実際には、こんな感じで暮らしている。」よりも前に書いた文章。

 2023/07/10 15:54

 

出来事の発生順番について、ちょっと言っておきたい。言霊主義者というのは、「言ったからそうなった」という思考にこだわる人たちだ。だから、だれか、「つらい」と言っている人を見かけたら、「つらいっと言ったから、つらくなった」と考えてしまう。

たとえば、汚染魚を食べて、水俣病になった人がいたとする。

その人が「(水俣病で)つらい」と言ったとする。その場合、言霊主義者は「つらいと言ったからつらくなった」と考えてしまうのである。この場合、「(水俣病で)つらいと言ったから、水俣病になった」ということなのである。

時系列的な順番は、こうだ。(1)水銀を含んだ魚を食べる(この時点では、魚のなかに水銀が含まれているということはわかってない)(2)水銀の働きによって(のちに)水俣病と呼ばれる症状が出る(3)(水俣病の症状で)くるしいので、くるしいと言った(4)水俣病の症状で、「くるしい」といった人を見て、言霊主義者が「くるしいと言ったからくるしくなった」と言った。

とりあえず、水俣病になってしまった人を、Aさんと呼ぶことにする。「くるしいと言ったからくるしくなった」と言った人をBさんと呼ぶことにする。

出来事の発生順番は、(1)(2)(3)だ。別に、Aさんが「俺は、水銀の入った魚をくって、くるしくなるぞ」と言ったあと、Aさんが、水銀の入った魚を食べて、実際にくるしくなったわけではないのだ。

この場合も、実際には、水銀の「せいで」くるしくなったわけで、「俺は、水銀の入った魚をくって、くるしくなるぞ」と言ったから、くるしくなったわけではない。

「から」と「あと」の混同については、すでに、語っておいた。

今回、言いたいのは、時系列的な混乱なのである。言霊主義者の頭のなかにある、時系列的な混乱について語りたい。多くの言霊主義者は「言ったから言ったとおりになった」と考える力があまりにも強いので、時系列的なことを逆転して考える人になってしまうのだ。

因果を逆転させて考えてしまう。

原因のほうが、時系列的にさきに起こっているのに、「結果」のほうを見て、結果がさきに起こったと考えてしまうのである。原因になる出来事が、時系列的に言って、さきに発生している。

原因になる出来事が発生したあと、結果が発生している。

たとえば、水銀と細胞がむすびついて……物理的な運動が体内でおこって、くるしくなる。Aさんがくるしいと感じた。その結果、Aさんが「くるしい」と言った。

ところが、「くるしい」と言ったあと、Aさんが水俣病になり、くるしいと言ったという解釈を、言霊主義者はしてしまうのである。時系列的なことがまったくわかってない。

言霊主義者にとって、「原因」は「言った」ということなのである。なので、それ以外の原因は考えられない。なので、「言ったあと」結果がしょうじたということになってしまうのである。

けど、どうして、Aさんが「くるしい」と言ったかというと、事前に、水銀の入った魚を食べたからなのだ。本人は意識せず、水銀を摂取してしまった。水銀とからだを構成する分子の、物理的な運動の結果、くるしいと感じる状態になった。

これが、事実だ。

しかし、そういう原因を考えないのであれば、そして、「言った」ということが原因だと考えるなら、言ったあとに、「くるしい」という結果がしょうじたと考えてしまうのである。

だから、もし、時系列的に考えるなら、「本当の原因になることをするぞ」と、過去に言ってなければならない。たとえば、「俺は汚染魚を食べて、病気になるぞ」と言ったあと、汚染魚を食べて、病気にならなければならないのだ。

くるしくないときに、くるしいなんて、普通は言わない。そりゃ、お芝居をしていれば別だから、例外はある。けど、普通に、くるしいとき、「くるしい」と言う場合は、実際にくるしくなってから「くるしい」と言っている。

くるしくなる前に、「くるしい」と言い、「くるしい」と言ったから、くるしくなったと考える人たちがいるけど、これは、おかしい。

どうして、こういうことになってしまうかというと、「ひとごと」だからだ。普通の人だって、他人のことは、他人のことなので、自分のことのようには考えられない。

けど、言霊主義者はこの傾向は、強すぎる。

自分の現実については、言霊思考をしないで、普通に考えている場合のほうが多いのだ。言霊主義者だって、自分の現実に関しては、ちゃんと、言霊思考をしないで、考えることができる。

けど、他人のことになると、途端に、言霊思考が優位になって、言霊思考で、他人の状態を考えてしまう。「くるしいと言ったから、くるしくなった」……言霊主義者が、他人の現実を考えないで放つ言葉だけど、言われたほうは、それなりに、傷つく。不愉快な気持になる。「ちがう」と言いたくなる。

たとえば、言霊主義者が、魚を食べて、食中毒になったとする。その場合は、「よし、俺は、魚を食べて、食中毒になるぞ」と言ったあと、魚を食べたので、食中毒になったとは考えないのだ。

下痢でくるしいとき、「くるしいと言ったから、下痢になった」とは考えないのだ。言霊主義者だって「なにか下痢になるようなものでも食べたかな?」と思ったりする。言霊主義者だって「あの魚があやしいんじゃないか」と思ったりする。

おなかがいたくないときに、「おなかがいたくなる」と言って、言ったあと、おなかがいたくなったわけではないのだ。普通の人は、おなかがいたくないときに、「おなかがいたい」とは言わない。言霊主義者だって、普通の人とおなじように、おなかがいたくなってから「おなかがいたい」と言うのだ。

しかし、言霊思考だと、「いたいと言ったから」いたくなったということになってしまうのである。順番としては、「いたい」と言ったあと、「いたくなった」ということになる。言霊思考だと、そうなる。

言霊主義者だって、ころんだあと、いたいと言うのである。ころぶ前に「いたい」と言うわけではない。「いたい」と言ったから「いたくなった」わけではないのだ。自分がころんだ場合は、ころんで、地面に自分の膝を打ったから、「いたい」と言ったわけで、ころぶ前に、「いたい」と言って、そのあところんだわけではないということが、わかるのだ。ところが、他人のことだとわからなくなる。


おこっているとき、「楽しい」とひとこと言えば、「ほんとうに」楽しくなるのだろうか?

 「楽しいと言えば、楽しくなる」と言霊主義者はよく言うけど、ほんとうに、楽しくなるのだろうか? たとえば、ぼくが、「言霊理論はまちがっている」という説明をしたとする。その場合、言霊主義者は、かなりの確率でおこる。おこっているとき、「楽しい」とひとこと言えば、「ほんとうに」楽しくなるのだろうか? ほんとうは、楽しくならないのではないかと思う。不愉快な気持をかかえていると思う。かりに、楽しくなるとしよう。その場合の楽しい気持ちというのは、「楽しい」と言う前に楽しいと感じたときの楽しい気持ちと、ほんとうにおなじなのだろうか? 言霊主義者は、おなじだと思っているらしいのだ。けど、ぼくは、言霊によって、人工的に?意識的に?つくりだした「楽しい気持ち」というのは、「楽しい」などとは言わないで、ほんとうに楽しんでいるときの「楽しい気持ち」とはちがうと思う。「言えば、楽しくなる」というは、意識的な操作なのである。自分の脳みそに対して、この意識的な操作をおこない、楽しいと感じる……。脳みその一部である「意識的な脳みそ」が命令して、楽しく感じるのである。言霊理論を考えると、言霊には現実を変える力があるので、脳みその物理的な状態をかえる力があるということになるのである。これは、ほんとうに物理的な操作であって、自己暗示ではない。「楽しい」と言うと、脳みその状態に関係なく、そういう状態になるということ言っているのである。なぜなら、「楽しい」と言ったからだ。これは、脳のシナプスに影響をあたえて、楽しい状態を、まあ、言ってみれば分子的につくりだすのである。しかし、これは、現実的ではない。前にも見てきたように、「強い言霊」で物理法則を捻じ曲げて自分が思ったとおりの物理運動させるというとは、できない。言霊には、実はそういう力がない。言霊には、超物理的なパワーがないのだ。なので、ほんとうは、おこっているときに、「楽しい」といっだ場合は、言わなくても楽しいときのような状態にはならない。物理的に言って、ならない。シナプス間隙というのがあって、シナプス間隙に神経伝達物質を放出しているから、楽しいと感じているのである。もちろん、受容体に神経伝達物質がとどかなければならないのだが。この物理的な状態を完全に再現できるのだろうか? 完全に再現しているとは思えない。ともかく、おこっているのに「楽しい」と言って「楽しく感じた」ときの脳内の物質的な運動は、ほんとうに楽しいときの脳内の物質的な運動とはちがうはずなのである。

たとえば、A子ちゃんとB子ちゃんがいたとする。A子ちゃんは、B子ちゃんと遊ぶのが好きで、B子ちゃんとなんかのゲームをして遊んだとする。このとき、A子ちゃんは、別に「楽しい」と言わなくても、楽しいと感じている。そして、出来事の文脈がある。いろいろな時系列的な経験と、その経験の記憶があるから、A子ちゃんは、B子ちゃんと遊ぶのが好きになったのだ。こういう文脈を抜きにして、「楽しい」ということについて考えるというのは、「楽しい」という抽象的な状態について考えるということなのである。「楽しいと言えば、楽しく感じる」と言霊主義者は簡単に言うけど、この場合の「楽しい(状態)」というのは、抽象的な意味での「楽しい(状態)」なのである。自分が思い浮かべる、抽象的な意味での楽しい状態に、近い状態になったような気がするというのが、「楽しくなると言えば楽しくなる」ということのほんとうの意味だ。個別具体的な「楽しさ」ではなくて、抽象的な「楽しさ」をなんとなく考えてる状態に近い。抽象的な「楽しさ」を自分は感じているのだと、意識的に感じているのである。これは、出来事の文脈がある場合とは、完全にちがう。言霊主義者には「楽しいと言えば楽しくなる」という信念があるので、その信念にしたがって、「自分は楽しく感じいるにちがいがない」と思っている状態が「楽しくなる」の実情?だ。信念があるので、楽しく感じるにちがいがないと思って、楽しく感じたような気分になっているだけだ。これは、自然に楽しいときはちがう。脳内で発生している(様々な物質の)物理的な運動も、たぶん、ちがう。

*     *     *

じゃあ、逆に、楽しいときに「腹がたった」と言えば、腹がたつのだろうか? うれしいときに「頭にきた」と言えば「頭にくる」のだろうか。言霊主義者は、言霊の絶対的なチカラを信じていたので、具体的な文脈と言うものを無視してしまう。われわれは、出来事の連続体のなかにいるのである。出来事が、連続して起こっている。A子ちゃんがB子ちゃんといるときは楽しいなと思ったのだって、B子ちゃんといるときに、楽しいことが起こったので、B子ちゃんといるときは、楽しいことがあると思ったのだ。そういう過去の記憶と関係なしに相手に対する気持ちが決まるわけではない。きちがい的な父親と一緒にいると、きちがい的な父親がきちがい的な理由で、怒り狂って、ぶってくるので、きちがい的な父親といると「楽しくない」と感じるのである。そのとき、「楽しい」と言っても楽しくならない。

具体的な出来事と、出来事の連続を無視するのはよくない。具体的な出来事が連続して、「楽しい」と感じているのに、「腹がたつ」と言えば「腹がたつ」の? そんなことはないだろ。人間は、普通、具体的な文脈の中で「楽しい」とか「腹がたつ」と感じているのである。別に、具体的な文脈とは、関係なしに「楽しい」と言うから「楽しいと感じる」ということはない。ちゃんと、楽しいく感じているなら、それに至るまでの具体的な文脈と言うものがあるのである。その文脈というのは、出来事の文脈なのである。現実に起こったことの文脈なのである。

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たとえば、言葉を知らない赤ん坊には、「楽しい」というような気持ちはないのだろうか? 言葉を知らない赤ん坊は「いたい」ということを感じることができないのだろうか? そんなことはない。

実際に行動したから、クリアできた。思ったから、クリアしたわけじゃない。

 「思ったこと」が現実化したとき「思ったから」現実化したと言うことができるかというと、できる。

けど、思っただけでは、現実化しないのである。

思って、行動したから、現実化したのである。この、「思ったから現実化した」というのは、完全に「思ったあと現実化した」という部分以外のものが含まれている。

たしかに、きっかけとしては、「思った」ということが「原因」なのである。

けど、「思った」だけでは、現実化しないのである。段階を踏んでやらなければならないことは、各々の段階に、「やらなければならないこと」があって、「やらなければならないこと」をやったから、現実化したのである。

たとえば、なんかのゲームがあるとする。なんかのゲームをやろうと思っただけで、ゲームをクリアできるわけではない。そのゲームは二〇の階層(二〇面)があり、一階層目からクリアして、順番にクリアしないと、さきにすすめないとする。

その場合、「ゲームをクリア」しようと思っただけでは、クリアできない。ゲームをクリアしようと思ったあと、一階層目をやって、二階層目をやって、……一九階層目を実際にやって、二〇階層目を実際にやったから、クリアできたのだ。

これなら、「思ったから」と言うよりも「実際にやったから」と言ったほうがいいのではないかと思う。たしかに、「思った」ことはきっかけになっている。「思ったから」やりはじめた。けど、実際には行動することが必要で、行動したから、現実化したのだ。

そして、行動しただけではなくて、クリアしなければならないのだ。一階層目をやったけど……クリアできなかった……とする。

その場合、思っても、現実化しなかったということになる。一階層目から二〇階層目まで、クリアしたから、ゲームをクリアできたのだ。実際に行動したから、クリアできた。思ったから、クリアしたわけじゃない。

 

言霊主義者だって、現実的な問題に関しては、「言霊パワー」を使わずに、現実的に対処しようとしている

「言ったことが現実化する」ということをファンタジーの世界で信じていたい人は、「言霊理論がまちがっている」ということを聞かされると、怒ってしまう。

何度も言うけど、自分の幼児的万能感が傷つくのである。自分の幼児的万能感が傷つき、ファンタジーの世界がこわれるのである。ファンタジーの世界では、自分の万能感が「いろこく」残っていて、そういう「夢」を見られるのである。

「夢」が破壊されたら、そりゃ、だれだって、怒るよなぁ。

で、まあ、言霊信仰?というのは、妥協の産物だということを言ってきたわけだ。どういうことかというと、言霊主義者は、自分の生活のなかで、言霊が成り立たないことに関しては、がん無視して、くらしている。

そして、言霊が成り立ったと思うようなことだけ、見て暮らしている。言霊が成り立ったと思うことに関しても、じつは、「言ったあと」現実化しただけで「言ったから」現実化したわけではない。

言霊に関しては、つねに、理由に関して、誤解をしているのである。言霊主義者は誤解している。

 けど、言霊がかかわらない「ような気分がしている部分」に関しては、現実的な思考をしているのである。言霊主義者は、現実的な思考をしている。

とりあえず、現実的な思考を「現実思考」と呼ぶことにする。普段は、意識してないけど、人間というのは、暗黙知にもとづいて生活しているのである。なので、言霊理論が成り立たないとき言霊理論が成り立ってないということに気がつかなくても、普通に暮らしていける。言霊はすごい力をもっているという考えは、現実生活のなかで、部分的に存在するファンタジーの世界で成り立っていることなのである。

本人は、それでいいけど、暗闇条件の人、言霊的なファンタジーをぶつけるのは、どうかと思う。

それ、言霊主義者が、相手の現実を理解してないだけだから~~。

「他人」だから、他人の現実は無視できるだけだから~~。

暗闇条件の人には、暗闇条件の人の現実があるのである。それなのに、自分だって普段は、使ってない「言霊パワー」があるような前提でものを言うのは、よくない。言霊主義者だって、現実的な問題に関しては、「言霊パワー」を使わずに……使えないから使わずに……現実的に対処しようとしている。

そのとき、自分が「言霊のパワー」を否定しているということに気がついてないだけだ。

だから、「言霊のパワーがある」という前提で、人に助言するというのは、よくないことなのである。

どうしてかというと、そういう意味での「言霊パワー」が現実にはないからだ。他人の現実にはそういう言霊パワーが「ない」。存在しない。だから、「ある」という前提で助言されると、とてつもなく、こまる。暗闇条件の助言された人がこまることになる。

2023年7月11日火曜日

自分だって普段は、「いたい」と感じたあとに、「いたい」と言っているのである

 言霊信者だって、普段は、いたいと感じたあとに、いたいと言っているのである。いたいと言ってから、いたいと感じるわけではないのである。

ところが、ひとごとになると「いたいと言うから、いたい」などと、わけがわからないことを言いだす。

時間的な出来事の順番を、無視してしまうのである。

ひとごとだと、無視してしまう。

いま、かりに、AさんとBさんがいて、Aさんが言霊主義者で、Bさんがいたいと言ったところを見たとする。そして、そのあと、いたいと言った理由を聞いたとする。

その場合、Aさんを中心にして考えると、Bさんがさきに、「いたい」と言って、いたくなった理由をそのあと、述べたということになる。その場合、Aさんの経験では、「いたい」とBさんが言ったという出来事のほうがさきなのである。

自分のことなら……Aさんのことなら、いたいと感じたあとに、いたいと言うので、時間的な出来事の順番は、Aさんを中心にしてみた場合の、時間的な出来事の順番と一致する。

言霊主義者は認めないかもしれないけど、自分だって普段は、「いたい」と感じたあとに、「いたい」と言っているのである。いたくないときに、いたいと言って、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じたという経験は、きわめて、少ないはずだ。

「いたい」と感じるようなモーションにすでに入っていて「このままだと、いたくなる」と感じることは、わずかだけどある。

けど、その場合は、たぶん言葉には出さず、わずかな時間に、「このままだ、落ちる」とか「このままだと、衝突する」とかと思っただけだ。すでに、いたくなるモーションに入っている。その場合は、「いたくなるだろう」と言うかもしれない。

けど、自分の経験を思い出せばわかるけど、いたくなる前に「いたい」と、突然、言って、「いたい」と言ったあと、「いたくなった」ということはない。

言霊主義者だって、ころんで、膝小僧を、道路の表面にぶつけてから「いたい」と言っているはずだ。ころぶまえに、「いたい」と言って、そのあと、膝小僧を、道路の表面にぶつけて、「いたい」と感じたわけではない。

けど、自分を中心にして考えると、他人の経験に関しては、時間的な順番について、あんまりうまく認識でない人が多いので、「いたいと言うから、いたくなる」と言ってしまうのである。その場合、他人がいたくなった理由は、(自分には)ほんとうに関係がないのである。ここらへんも、自己中心的な性格があらわれている。 

ともかく、「いたい」と言ったあと、「いたい」と感じることが現実化したのではないのである。「いたい」と感じたあと、「いたい」と言っている。こういう、基本的なことを無視するな。

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言霊主義者だって、そんなことはわかっているけど、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしているのではないか……と思う人もいるだろう。

けど、これは、本人の場合だ。

他人のことに関しては、「いたいと言うから、いたくなる」と本気で思っている。 だいたい、「いたくない」と言えば、言霊のすごい力によって、たちどころに、いたくなくなるはずなのである。言霊にはそういうパワーが宿っているはずなのである。

どうして、「やわらげようとする」必要があるのか?

「やわらげようとする」ほど、いたく感じているんじゃないか。

ようするに、いたく感じたあと、「いたい」と言うと、よけいにいたくなると考えて、いたいとは言わないようにしようと思ったわけだ。「いたい」と言いたくなるような原因は、いたいと言わないようにしようと思う前に発生しているのである。

「いたい」と言わなくても、「いたい」と感じている。何度も言うけど、突然「いたい」と言ったあと、ころぶという……いたく感じる原因が発生しわけじゃないのである。これは、「いたい」と言うと、よけいにいたく感じるから、「いたくない」と言って、「いたさ」をやわらげようとしている場合でも、おなじだ。

ころんだあと、「いたい」と感じたけど、「いたい」と言わなかった場合でも、出来事の順番はかわらない。「いたい」と言わなかった場合は、「いたい」と感じたけど、言わなかっただけだ。「いたい」と感じただけで、「いたい」と言わなかった場合は、いたくならないはずなのである。「いたい」と言ったから、そのあと「いたく感じる」というのは、嘘だ。

言ったことが現実化するわけではないのである。ころぶということが現実化したあと、「いたい」と感じたのである。ころんだって、うちどころがよければ、いたくないのである。あるいは、クッションのうえでころんでもいたくないのである。

しかし、「いたい」と言ったから、ころんだわけじゃない。「いたい」と言ったあと、いたく感じるような出来事が発生したわけじゃない。

突然、足がいたくなって、足がいたくなったから、足に力がはいらず、その結果ころんだという場合について考えてみよう。この場合も、けっきょくのところ、とつぜん、足がいたくなったなら、足の部分になんらかの異変が起きたわけで、その異変というのは、からだを構成する物質の物理的な変化によってしょうじたのである。

物理的な変化がしょうじたあと「いたい」と感じたのである。

たとえば、突然、足の血管が切れたとする。足の血管が切れたあと、いたいと感じたり、足に力が入らなくなるのである。この場合、足の血管が切れたほうが、さきだ。

原因となる出来事のほうがさきにしょうじている。そのあと、痛覚を刺激するのであれば、「いたい」と感じるのである。

「いたい」と感じたとき、わずかに遅れて、「いたい」と言うのである。

もちろん、「いたい」と感じたあと「いたい」と言うと、「よけいにいたくなるかもしれない」と考えて、「いたい」とは、言わなかったという特殊な場合においても、まず、原因となる出来事が発生したのである。原因となる出来事が発生する前に「いたい」と感じたわけではない。

「いたい」と感じることと、「いたい」と言うことがほぼ同時である場合もあるけど、やはり、いたいと感じていなければ「いたい」という言葉をださないのが普通なので、さきに「いたい」と感じて、あとで「いたい」と言っている。頭の構造的を考えると、感じるほうがさき。わずかにでも、さき。

いずれにせよ、いたいと言ったあと、いたいと感じる出来事が発生したわけではないし、いたいと感じたあと、原因となる出来事が発生したわけでもない。

*     *     *

だいたい、言霊理論が正しいなら、「いたくない」と言ったあと、いたく感じるということはない。いたみをやわらげるために「いたくない」と言った?

いたくないと言ったあとも、いたさが残っているのではないか?

「いたくない」と言ったことで、どの程度、いたさが緩和されたのかは、知らないけど、「いたみ」が残っているわけで、それは、「いたくない」と言ったあとも、「いたい」ということを意味している。

緩和されたけど、すこしは、いたく感じているのか?

だとしたら、言霊理論は、すでに破綻している。「いたくない」と言ったら、すぐに「いたくなるくなる」のである。「言霊には言ったことを現実化させるすごいチカラがある」ので、「いたくない」と言ったら、言霊のすごいチカラによって、いたくない状態が実現化するはずだ。「いたくない」と言ったあと、いたみを感じているなんて、おかしい。ありえない。

言霊理論が正しいなら、ありえないことだ。

言霊理論が正しくないから、そういうことがあるのだ。言霊主義者だって、「いたくない」と言ったにもかかわらず、「いたいままだ」ということを経験しているはずなのである。そういう経験があるはずなのである。

けど、言霊理論について語っているときは、「言霊にはものすごいチカラがあるから、言ったことが現実化する」と言って、そういう自分の経験については、まったく、考えないのである。

 *     *     *

しかし、こういうことを指摘された場合、言霊主義者は、その通りだと、現実を受け入れるだろうか? たぶんだけど、自分の幼児的万能感が傷つくのは、不愉快なので、受け入れないと思う。

「いたくない」と言ったあとも「いたみ」が残っているという現実は、無視されるのである。

そして、ぼくがここに書いてきたことも「屁理屈、言うな」と言って、認めない。それは、自分の幼児的万能感が傷つくことなのである。

言霊には、ほんとうは、本人が言っているようなチカラがないということを認めるのは、いやなことなのである。

だから、認めないのである。 


精神が、ヘビメタになぐられて、腫れあがった状態なのだ。

 ほんとうに、どんなときもくるしかったなぁ。どんなときも、ヘビメタ騒音でふくれあがって、くるしかった。からだが腫れている状態なのである。精神が腫れている状態なのである。どんな時間も、くるしかった。ダイヤと遊ぶのはおもしろかったけど、やっぱり、一日中ヘビメタがない状態とはちがうんだよね。ダイヤにあいに行くまえ、ずっとヘビメタが鳴っていて、ダイヤと遊んで帰ってきたあと、ヘビメタが鳴っているわけだから。きちがい的な音で鳴っている。どれだけ、「やめろ」「うるさいからやめろ」「でかい音で鳴らすな」と言っても、きちがいが、きちがい感覚で鳴らす。あのでかい音で鳴らしても、まったく悪いとは思わないのだ。自分がやりたい音で鳴らしたいから、「でかい音だ」ということを、感覚器を書き換えて、否定してまう。こんなきちがいのことが、わかるわけがない。ほかの人にわかるわけがない。それに、ほかの人には、こんな家族はいないので、こんな家族にやられたこともないということになる。でっ……。だから、わからない。ほんとうに、からだが、きちがいヘビメタの音になぐられて、ボコボコな状態なのだ。精神が、ヘビメタの音になぐられて、腫れあがった状態なのだ。一日中腫れあがっている。あの状態が、毎日毎日、続いていいわけがない。ところど、一日もなかった人は、一日の状態がわからないし、毎日一〇年間続かなかった人には、毎日一〇年間続いたときの状態というのが、わからない。わからないから、勝手に、過小評価して、「過去は関係ない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。「ヘビメタでできない」と言えば「できないなんてことはない」と言う。自分が経験してないから、そう言えるだけなのに、ぼく以外の人が経験してないから、みんなそういうふうに言うわけで、多数決でやったら、ぼくが負けるのだ。ぼくの一人なのだから……実際に、うちのきちがい兄貴にやられたのは、ぼくひとりであるわけだから、絶対少数派なのだ。もう、決まっている。時間がたてば、つかれがとれると思っている。けど、きちがいヘビメタに何千日もやられると、つかれがとれない。睡眠回路も、もとにはもどらない。きちがいヘビメタが鳴ってなかった期間の、普通の睡眠回路に、鳴り終わって十数年たっても、何十年たっても、戻らない。 

気分というのは、つながっているから、一日のなかで、あれだけ長い時間鳴っているのであれば、鳴ってない時間も影響をうける。なぐられたあと、あざができるようなもので、そのときなぐられてなくても、あざが消えない時間がある。それとおなじなんだよ。あんなに、ドシドシ、きちがい音に脳みそを激しくたたかれていいわけかない。からだじゅう、なぐられた。からだじゅう、なぐれしていいわけがない。「鳴り終われば、それでおしまい」なんてことはない。「鳴り終われば、それで影響なし」なんてことじゃない。ちがう。ちがう。ぜんぜちがう。けど、そういう体験がない人には、わからない。

日当たり良好条件と、日当たり良好条件に近い日陰条件……このくらいの差でいい

だから、まあ、暗闇条件というのを社会からなくさなければならないと思うわけだよ。日当たり良好条件と、日当たり良好条件に近い日陰条件……このくらいの差でいいのではないかと思うわけだよ。「差」というのは『条件の差』だ。これが、生まれの格差・中の人が考えているよりもずっとでかい。せめて、暗闇条件はなくさなければならない。そして、条件の差が、いまよりはないところで、みんなが、わりと楽できることやって、くらすべきなのだ。本人にとって楽にできること……という意味だ。楽にできることは、人によってちがう。

暗闇条件の人に「できると言えばできる」と言ってもむだだ。できないものは、できない。ところが、条件がちがうと、それが、まったくわからなくなる。自分のことではないから、わからないのだ。自分の経験をもとに相手の言っていることを考えることになる。自分の経験というのは、たとえば、当たり良好条件の人なら、当たり良好条件の暮らしのなかで、成り立つ経験だ。だから、まったく見当違いのことを言っているというとになる。けど、日当たりの条件の人が考えると、見当違いのことを言っているとは、思えないのである。もう、そういうところまで、ちがってしまっている。

当たり良好条件とか、日陰条件とか、暗闇条件というものが、そのまま、スライドするなら、当たり良好条件の人が、日陰条件の人や暗闇条件の人に、助言をすることになる。一方通行なのである。そうなると、現実を離れた、精神論や魔法的解決法になってしまうのである。魔法的解決法というのは、マンガやアニメのなかでは、非常に有効なのだけど、現実社会では、まったく役に立たない。無効で、有害だ。ほんとうのピンチになったとき、魔法的解決法はまったく役に立たないのだ。しかし、当たり良好条件の人が、魔法的解決法を信じているのは、そこそこ、リターンがあったからだ。つまり、「成長する」と言えば、実際に成長した。いままで見てきたように、「言ったから」ではない。からだのしくみと、時間経過と、条件がそれをもたらしたわけだ。しかし、からだのしくみと時間経過は、暗闇条件の人にも、あるものだ。だから、実質的には『条件』だけが問題になる。努力だって、そもそも、努力できない……努力することができない条件の人もいる。ところが、精神論や魔法的解決法は、「ひとごと」なら、非・現実的な話をするわけだから、「努力することができない」という状態を、認めないのである。認めなければ、「ない」のである。実際、当たり良好条件の人や日陰条件の人には、「努力することができない」環境というものがなかった。当たり良好条件の人や日陰条件の人には、「努力することができない」現実というものがなかった。だから、経験的にも「ない」のである。なので、むりなことをおしつけるわけなんだけど、むりなことをおしつけているつもりがないということになる。

『条件の格差』から目をそらさせるためにあったわけ

 だから、『条件』の格差に目をむけましょうということを言いたいわけ。いま、そのうち、みんなが暗闇条件組になってしまう。支配者層に属する人以外は、みーーんな、みーーんな、暗闇条件組になってしまう。

魔法的な解決法というのは、じつは、「無防備」になることなんだよ。わからないかな? 悪い支配者にとっては、都合がいいことなんだよ。庶民がそういう夢を見ていてくれたほうが、支配しやすいわけ。自分……支配者層にとって、都合のいい政策をがんがん進めていくためのには、みんながみんな、そういう夢を見ていたほうがいいわけ。わっからないかな~~ぁ。

いままでのことを言えば、格差があったほうがいいわけ。条件の格差が、頑固に成り立っているのだけど、まったく成り立ってないということにして、やってきたわけ。けど、最終段階になって、みんなを、暗闇条件組にすることにしたわけ。

だから、「慣性」で、動いているだけだ。言霊や引き寄せといった魔法的な解決法というのは、じつは、『条件の格差』から目をそらさせるためにあったわけ。人々が条件の格差に目をむけないように、精神世界みたいな話が好きな人には、言霊や引き寄せをあてがってきたわけ。ビジネス世界が好きな人には、努力論、根性論、認知療法理論、行動心理学理論、アドラー心理学をあてがってきたわけ。自己責任論を信じると、みんながみんな、自分勝手になるようにできている。『条件の格差』に目をむけずに、自分のことだけ考えるようにしむけてきたわけ。 


言ったか?言わなかったか?なんてまったく関係がないのである

 条件のちがいというものは、絶対に無視してはいけないのだけど、条件を無視することが、はやっている。条件を無視して、いきなり話をはじめる。

話には『条件』が含まれてない。

「条件は関係がある」ということをだれかが言えば「条件なんて関係がない」と条件反射のように言うことになっている。「そんなのは、関係がない」「条件なんてことを言うやつは、負け犬だ」「できない人が、そういうふうに言っているだけだ」と決めつけるようになっている。

強迫的に『条件に関する思考』を排除するようになっている。この社会では『条件』について言及するのは、みっともないことなのである。この態度は、公平ではない。

ところで、日当たり条件と暗闇条件について書いたとき、もうひとつ、書こうと思っていた条件がある。それは、「日影条件」だ。日当たり良好ではないけど、暗闇というほどでもない。

じつは、「日影条件」にも、日当たり良好条件に近い条件から、暗闇条件に近い条件まで、いろいろな条件がある。日陰条件のなかでグラデーションがある。

たとえば、「希望をもつことは重要だ」という意味で「いつか花を咲かせると言えば、花が咲く」と、日当たり良好条件の種が言ったとしよう。これは、強い言霊じゃなくて、弱い言霊だ。強い言霊なら、すぐに、言霊の力で、花を咲かせることができるのである。どんだけでかい花でも咲かせることができるのである。

一〇〇%言ったことが、一〇〇%現実化する。言霊にはそういう力があるということだから、別に「いつか」なんてことを言って、まつ必要がない。

もう、「いつか」なんて言ってる時点で、強い言霊の力はないと言っているのとおなじだ。強い言霊の力と書いたけど、言霊信者は、強い言霊の力を力説するのである。真実だと力説している。

そして、なぜか、弱い言霊の話になってしまうのである。

言葉には、言っただけで、現実化させる力なんてない……。言葉には、言ったことを現実化されせるような超・自然的な、神秘的な力がない。宿ってない。そういうことだ。

けど、ともかく、今回言いたいのは、日陰条件の種が、「言えば現実化する」と言うことを信じて、「幹をのばすぞ」と言った場合、幹がのびるということだ。

これは、からだのしくみと、時間経過で幹がのびただけなんだけど、「から」と「あと」を混同しているので、まさしく、言ったから、幹がのびたんだと思うわけだ。

もともとは、言霊思考というものは、だれにでもある。

なので、伝播したとは言わないけど、「言霊が正しい」と思う人が増えたということだ。日当たり良好条件の人が、強い言霊の嘘をついたあと、弱い言霊について語ると、信じる人がでてくる。「確かに、のびた」「言霊は正しい」と思う人が増える。

けど、それは、「から」と「あと」を混同している人が増えただけだ。

そして、暗闇条件の種は、あいかわらず、「のびる」と言っても、のびないのである。なので、暗闇の条件の種にとっては、「嘘だ」ということになる。真実じゃないのである。

日当たり良好条件の種が言っていることは、嘘だ。

「から」と「あと」を言い換えて、嘘をついている。弱い言霊の話というのは、条件の無視と「から」と「あと」の言い換えと、「言葉」と「言霊」の言い換えによって、できあがっている。条件の無視が、最初から横たわっているのだから、条件がちがえば、「言ったこと」が成り立ったり成り立たなかったりするのである。

言ったことが成り立つというのは、言ったとおりになるということだ。そして、言ったことが成り立たなかったというのは、言ったとおりにならなかったということだ。

しかし、言霊主義者は、条件を無視して、条件のちがいではなくて、「こころがけのちがいだ」と言っているのである。「希望をもつか持たないか」のちがいが結果になってあらわれるということを言っているのである。

ここにも、嘘がある。嘘なんだよ。条件のちがいが結果に影響をあたえているだけなの……。それなのに、嘘ばかりついて、人をだます。だましまくっている。だましているということに、本人が気がついてない状態だ。どうしてかというと、本人が、言霊の嘘を信じているからだ。

*     *     *

条件を無視しているので、残酷な助言ができるのである。言ったほうが、いい気持になっているだけだ。そりゃ、暗闇条件ではなくて、日陰条件なら、小さな花を咲かせることもできるかもしれない。できるだろう。

その場合、「言ったから」咲かせることができたのか?

ちがう。言わなくても、条件とからだのしくみがそろっていれば、小さな花を咲かせることができる。だから、「言ったことが現実化した」と日陰条件の種も思うことができる。けど、それは、「言ったことは、現実化する」という意味ではないのだ。

「言ったことが現実化することもある」という意味だ。

言ったか言わなかったかではなくて、ほかのことが原因で、花が咲くか花が咲かないかが、わかれる。言ったか?言わなかったか?なんてまったく関係がないのである。

ところが、ほかの条件……つまり、ほかの原因……をまったく無視して、「言ったかどうか」だけを気にするのである。そして、「言ったあと」実現化すれば、「言ったから」実現化したと、ごまかしてしまうのである。

けど、暗闇条件の種は、そもそも、花を咲かせることも、幹をのばすこともできないので、いくら言っても、花が咲かない。どれだけ言っても、花が咲かない。条件で……つまり、ほかの理由で……花が咲くかどうか決まっている。

なので、日当たり良好条件の種や日陰条件の種が言ったことが、成り立たないのである。むだな努力をさせたということだ。かなわない期待をもたせたということだ。

言葉たくみにだまして、むだな努力をさせたのである。

けど、「そんなのは、自己責任」ということになっている。「努力がたりなかったのがいけないんだ」ということになる。あいかわらず、条件には目をむけない。

言霊主義者だって実際には、こんな感じで暮らしている。

 たとえばの話だけど、ある言霊主義者がベッドから落ちて、いたい思いをしたとする。原因は、ベッドから落ちて、床に身体をぶつけたということだ。言霊主義者は、こういうことは疑問に思わないのである。

自分のことだから、自分が現実的に体験したことだから、「原因」がわかっている。

なので、「言霊が原因だ」「落ちると言ったから、落ちた」とは思わない。

さらに、いたいと感じているときは、ベッドから落ち前に、「いたくなる」と言ったから、いたくなったのだとは考えない。実際に、自分がベッドから落ちるまえに、「いたくなる」とは言わなかった。そういう記憶がある。

だから、「言ったから」「こうなった」とは思わないのである。つまり、「いたい」と言ったから、「いたくなった」とは思わないのである。

ほかの理由がはっきりしているので……自分にとってはっきりしているだけなのだけど……ほかの理由がはっきりしているので、ほかの理由で説明して、「言ったからこうなった」とは思わないのだ。

言霊主義者だって実際には、こんな感じで暮らしている。

ある言霊主義者が、「三年後の一二月二五日に、俺は、あの道で、ころぶ」と言ったとしよう。けど、三年後の一二月二五日に、ころばなかったとする。言ったということを、忘れていたので、ころぶ芝居ができなかったのだ。

そして、四年後の一二月二五日に、『そういえば、四年前に、「三年後の一二月二五日に、俺は、あの道で、ころぶ」と言ったのに、ころばなかった』ということを思い出したとする。

「言ったことが現実化しないこともあるんだな」と思って、「言霊理論はまちがっていた」ということに、思い至るべきなのである。言霊主義者は思い至るべきなのである。

「言ったことが現実化する」「言霊にはそういう神秘的な力がある」……これが言霊理論だ。「言ったことが現実化する」ということの意味は、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味なのである。

「言ったことは、現実化することもある」という意味ではないのだ。それだと、「言ったことは、現実化することもあるし、言ったことは現実化しないこともある」という意味になってしまうので、言霊理論にはならない。

「言ったにもかかわらず」「現実化しなかった」ということに直面したなら、「言ったことでも、現実化しないことがある」ということを、さとるべきなのだ。言霊主義者はさとるべきなのだ。

ところが、言霊主義者は、最初から「言ったことが現実化する」という言葉のなかに「言ったことは、現実化することもある」という意味をふくめて使っている。つまり、「言ったことは、現実化する」というひとつの言葉のなかに、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」という意味と「(言ったことは、現実化することもあるし)言ったことは、現実化しないこともある」という意味を込めて使っているのだ。

両方とも成り立つことは絶対にない。矛盾している。「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」と「言ったことが現実化しないこともある」ということは、両立しない。いいかげん、そういうことに気がつけ。


2023年7月10日月曜日

からだがしんどいのに、無理やりからだを動かしているときの雰囲気

 ゴミを出してきたんだけど、ゴミを出しに行くのがくるしい。めんどうくさい。それに、この雰囲気、なんなの? この雰囲気。あーー。これは、ヘビメタ騒音でからだがしんどい時の雰囲気か。からだがしんどいのに、無理やりからだを動かしているときの雰囲気か。あーー。ほんとうに、ヘビメタ騒音でくるしかったなぁ。これ、前の日と表現するしかないのだけど、じつは、ずっとつながっている。ヘビメタ騒音が午後一一時一一分に鳴り終わっても、ヘビメタ騒音のくるしさが、「地続き」で持続している。なので、ほんとうは、切れ目がない。切れ目なく、くるしい。別に、前の日のヘビメタ騒音だけが、くるしいわけではないのだ。その前の前の日も、その前の前の前の日も、くるしい。くるしいんだよ。ずっとずっと、何年間も、くるしいんだよ。切れ目なく、くるしいんだよ。だから、「雰囲気」が持続している。毎日付け加わるヘビメタ騒音の不遺誡な刺激……これは、もちろん影響をあたえている。けど、けど、これ、なおらないのだ。雰囲気が消えないのだ。雰囲気の持続が消えない。だいたい、たぶんだけど……三年間毎日続いてしまったら、四年目以降も、雰囲気が消えないと思う。実際には、一四年間鳴っていたわけで、くるしい。一五年目に、くるしくなくなるかというと、くるしいままなのだ。ところが、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」とやられなかった人たちが言う。「やられなかった人」たちが言う。これ、なんなんだよ?

ほかの「うち」では、ないことだ

 きちがい兄貴が、普通にヘビメタを鳴らすのだが、それがとてもつらい。これ、だれも経験してないからわからない。『きちがい兄貴』によるきちがいヘビメタ騒音というのは、『きちがい兄貴』独自のものだ。ほかの「うち」では、ないことだ。ほかの「うち」では、起こりえないことだ。ほかのうちには、「うち」のきちがい兄貴がいないからだ。ほかのうちに住んでいる人は、ぼくとおなじヘビメタ騒音を聞いたわけではない。聞かされたわけではない。これ、誤解をしているのである。自分がやられてないから、ほんとうのところがわかってない。

2023年7月9日日曜日

縁起をかついだり、ジンクスを気にしたりするのはそのせいだ。

 「三秒後に、アタオカ上司が死ぬ」と言って、三秒後にアタオカ上司が死んでしまったらどう思うか? これは、けっこう問題なのである。「言霊の力はすごい」と思うだろう。「俺の言霊は強力すぎるので、使い方を考えないとだめだ」と思うだろう。三秒後に突然死したとしても、言霊の力で死んだわけではなくて、○○○○などの毒でホワイト・クロットが大静脈をふさぎ、死んだのだとしても、気になるだろう。 「三秒後に、アタオカ上司が死ぬ」と言って、三日後にアタオカ上司が死んだらどうだろう。三秒後と三日後では、だいぶちがうから、俺は関係ないと思うだろうか。それとも、ちょっとずれてあたったと思うだろうか。これ、じつは、強迫神経症と関係がある。もっと弱いところで言うと、ジンクスだ。あたまでは、「関係がない」と思っていても、幼児的万能感に支配された時期をすごしているので、そういう力があるという考え方は、そんなに異常ではないのだ。ともかく、頭では、言霊の力は関係がないということがわかっていても、なんとなく、言霊の力をもってるのではないかというような妄想的思考が、人間にはあるのである。だから、人の問題だと、現実が見えず、言霊の力がすごいという妄想が、力を発揮するのである。自分の問題だと、現実が見えているので、言霊の力がすごいという妄想は、力を弱めて、現実的な対処をするのである。自分の問題だと、現実が見えているので、「言ったって、どうにもならないから、言わない」というようなことが、発生する。けど、その人は、言霊の力を信じているのである。こういう矛盾した態度が、どういうふうにしょうじるかというと、後期幼児期や幼児期をすぎたころ、言霊的な対処をするのだけど、それでは、まったく現実に対処できないということを学ぶのである。「どれだけ言っても、現実化しない」「どれだけ言っても、言ったとおりにならない」という経験がつみかさなるのである。その後も、ずっとずっと、「言っても、現実化しない」「言っても、言ったとおりにならない」という事態に遭遇して、だんだんと、言霊的な思考が力を弱めるのだ。けど、力を弱めるだけで、まったくなくなってしまうわけではない。縁起をかついだり、ジンクスを気にしたりするのはそのせいだ。

「三秒後に、アタオカ上司が転勤する」と言うということを選択したとしよう

 これ、ほんとうに、言っていいのかどうかわからないけど……。あんまり言いたくないことなのだけど……。

ともかく、ぼくは、せめるつもりはないから……。

で、言っておくと、言霊主義者というのは、自分の具体的な問題に関しては、言霊の力(ちから)に頼ってないのである。



言霊の力(ちから)で、問題を解決しようとしないのである。



相手の問題だと、相手の事情がわからないので、言霊的な解決法をすすめるのである。相手の事情というのは、聴けば、あるていどはわかるけど、ほんとうには、わかっているわけではないんだよ。

相手のことだから……。

自分は「相手のからだ」を使って生活しているわけではないから、わからない。自分は、相手の立場でほかの人と接しているわけではないので、わからない。相手の立場そのものと、自分が理解している相手の立場というのには、相当の隔たりがある。

けど、このへだたりを、無視してしまうのである。だいたいわかれば、わかったのとおなじだと考えてしまうのである。

だから、自分には適応しない言霊的な解決法を、相手にはすすめるということになる。

たとえば、頭がおかしい上司にいじめられている人がいたとする。その人をAさんと呼び、頭がおかしい上司のことを「アタオカ上司と呼ぶとする。Aさんは言霊主義者だ。かなり熱心な言霊信者と言ってもい。

言霊的解決法が有効なら、Aさんは、「今日中に、アタオカ上司がクビになる」と言えば、それですむことになる。明日になれば、アタオカ上司はいないので、安心して職場にくることができる。

あるいは、会社をやめて「自分のなになに銀行の口座に、今日中に、六〇〇〇万円が振り込まれる」と言えばいいのである。

そうすれば、そんな、アタオカ上司がいるような会社で、働く必要がなくなる。

他にもいろいろとあるけど、それを言っちゃうと、やばいので、まあ、こんなことを言えばいいということを書いておいた。

ところが、Aさんは言霊主義者で、言霊には、超・物理的なすごい力(ちから)が宿っていると考えているにもかかわらず、こういう現実的な問題に関しては、言霊的解決法を使わないのである。

これは、仮定の話だけど、アタオカ上司に丁寧な言葉を使うようにしたら、アタオカ上司の自分に対する印象がよくなり、いじめがやんだとする。その場合、Aさんは、「言霊はすごい」「丁寧な言葉を使うようにしたら、アタオカ上司がかわった」と言ったとする。

これは、悪いけど、言霊の力(ちから)ではなくて、言葉の力(ちから)だ。こういうちがいがわかってない。

言霊の力(ちから)というのは、超・物理的な、魔法の力(ちから)なのである。アタオカ上司が、日本語を理解しなかったら、アタオカ上司の変化はない。

言霊は、日本語を理解しない相手にも通用するものだ。

言霊は、非・生命体にも通用するものだ。

たとえば、普通は、リンゴの木からリンゴがおちる。万有引力によって、リンゴが地球にひっぱられているからだ。

しかし、「リンゴよ、あがれ」と言えば、リンゴが、超・物理的な魔法の力(ちから)によって、あがるようになるのだ。

言霊には、そういう、超・物理的な力(ちから)が宿っているというのが、言霊理論なのだ。「木になっているリンゴは、上にむかって移動して、地球から出ていく」と言えば、超・物理的な力(ちから)によってそうなる。

「言ったことが現実化する」というのは、そういうことなのだ。

なぜなら、言ったことが現実化するというのは、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化する」ということだからだ。

物質は、物理法則にしたがわず、言霊の法則にしたがって、運動するのだ。これが、「言霊にはものすごい力(ちから)が宿っている」と言ったときの「言霊の力(ちから)」だ。
 

ところが、そういうふうに言っている本人が、そういう力(ちから)を「信じていない」のである。

なので、自分がよく知っていることに関しては、物理法則をうらぎるようなことは、言わない。超・物理的な力(ちから)によって、それが、現実化することがないことを知っているから、そういうことを言わない。



人に言うときは「超物理的な力(ちから)が宿っている」「言ったことが現実化する(一〇〇%の言ったことが、一〇〇%の確率で現実化するという意味)」「言霊はすごいパワーをもっている」ということを言うわけだけど、自分のことに関しては、言霊の神秘的な力(ちから)を使うことはないのだ。

「三秒後に、アタオカ上司が転勤する」と言えば、三秒後にアタオカ上司が転勤するのである。「三秒後に、アタオカ上司が死ぬ」と言えば、三秒後にアタオカ上司が死ぬのである。これが、その人たちが言っている言霊の神秘的な力(ちから)なのだ。超・物理的な力(ちから)なのだ。

ところが、この人たちは、そういうことをしない。さすがに、「三秒後に、アタオカ上司が死ぬ」と言うのは、倫理的に問題がある。なので、「三秒後に、アタオカ上司が転勤する」と言うということを選択したとしよう。

「三秒後に、アタオカ上司が転勤する」と言った。……三秒後に、転勤するだろうか。転勤しない。なので、三秒後には、結果がわかってしまうことなので、言わない。こころみようともしない。言ったってむだだからだ。



言霊にはそんな神秘的な力(ちから)、魔法的な力(ちから)、超・物理的な力(ちから)がないということを、言霊主義者のAさんは知っているから、言わない。

けど、他人には、言霊には、神秘的な力(ちから)、魔法的な力(ちから)、超・物理的な力(ちから)があると言う。

さらに、たとえば、Aさんが「アタオカ上司が転勤する」と言ったあと、三年したら、、アタオカ上司が転勤したとする。

そうしたら、Aさんは、「言霊は正しい」「言霊にはすごいパワーが宿っている」と言い出すのだ。この場合は、神秘的な力(ちから)、魔法的な力(ちから)、超・物理的な力(ちから)が働いたと考えるのだ。

けど、これは、ほかの理由で、転勤しただけだ。まさに、「から」と「あと」を勘違いしている。言ったからではなくて、言ったあと、アタオカ上司が転勤したのだ。



 



 

「言霊」よりも「思霊」のほうが、やっかいだ。

じつは、「言う」よりも「思う」ほうがやっかいだ。「言霊」よりも「思霊」のほうが、やっかいだ。

人間は、種とはちがって、手も足もある。思考することだってできる。だから、思ったことが、現実化する……というタイプの反論が想定される。けど、ぼくが言いたいことは、「言霊」でも「思霊」でも基本はおなじだ。この社会は、ものすごい、条件差別社会、あるいは、条件格差社会で、社会が、条件を肯定しているのである。だから、悪い条件のもとに生まれた人と、いい条件のもとに生まれた人の差が大きすぎる。個体が思って、努力するということでは、まったく解決がつかない問題を、悪条件が生み出す。悪条件がない人は、最初からない。生まれたときからない。生まれたときから好条件の人と、生まれたときから悪条件の人の差がでかすぎる。ところが、条件は無視される。『条件なんて関係がない』という考え方が支配的なのである。これは、悪い支配者がしくんだことだ。長い長い間、悪い支配者側ががんばって、がんばって、庶民を洗脳したから、いまこういう状態になってる。

条件の無視と、魔法的な解決法の提案は、セットだ。魔法的な解決法は、じつは、悪条件だと、まったく意味をなさないのだ。まったく意味をなさないどころか、有害なのだ。けど、「有害だ」ということを、これたま、好条件の人が理解しない。「自分は思ってやってきた」「自分は言ってやってきた」……「思うことは重要だ」「言うことは重要だ」……これで、あっているのである。好条件なら、こういう思い込みであっている。プラスの効果をあたえる。けど、悪条件だと、こういう思い込みに基づいた行動が、トラブルをひきこ押すのだ。いいことにならない。さらに、こういう思い込みに基づいた行動で、残り少ないエネルギーを使ってしまう。有害な行為のために、エネルギーを使ってしまう。これが、さらなるトラブルを引き起こすのだ。いままで述べてきたように、悪条件組の人というのは、もともと、ピンチなのである。やられている存在なのである。その、やられている存在が、有害なアドバイスにしたがって行動すると、かなりの確率で、トラブルがしょうじる。そして、時系列的には、トラブルをしょうじさせるために、残り少ないエネルギーを使ったということになってしまう。

まあ、なんのことを言っているのかわからない人もいるかと思う。まあ、じゃあ、いろいろとはぶいて、ごくごく簡単に説明しておこう。目的地に行けば、問題が解決するという情報があるとする。ここに行けば、問題が解決するというアドバイスを受けた。なので、なけなしのカネをはたいて、電車で目的地に行ったとする。ところが、その目的地に行っても、問題が解決しなかった。その目的地の情報が嘘だったのである。で、そういうことを何回か繰り返しているうちに、おカネ、体力、時間を消費してしまった。そうしているうちに、病気になって、動けなくなってしまった……。こんな感じなんだよ。ニセのアドバイスにだまされて、行動してしまったから、「おカネと、体力と、時間」を消費してしまうということが起こる。何回も、だまされて、何回もトライしていれば、時間の問題で、だめになる。「おカネと、体力と、時間」と言った場合の時間というのは、たとえば、電車に乗るために、駅まで歩く時間、電車に乗っている時間、ニセの目的地まで歩く時間のことだ。「時間の問題で」と言った場合の時間というのは、そういうことを何回も繰り返して、ときが流れたということだ。手短に言うと、数年とか、十数年とか、何十年という時間経過のことだ。だから、まあ、この場合は、「時間」の意味がちがう。

 

暗闇条件に置かれれば、花どころか、葉っぱもつけられずに終わる。

たとえば、日当たり良好条件の種が、暗闇条件の種に「花を咲かせる方法」についてアドバイスしてもむだなのだ。

このアドバイスは、まちがっている。

日当たり良好条件の種は、「自分は大きな花を咲かせるぞ」と言ったから、大きな花を咲かせたと思っている。だから、嘘を言っているつもりはないのである。

ただ、「言ったから」と「言ったあと」を混同し、『条件』を無視してるから、そういうことが、言える。

言われたほうの暗闇条件の種がどれだけ、一生懸命に「自分は大きな花を咲かせるぞ」「自分は大きな花を咲かせるぞ」と繰り返し言っても、花は咲かない。花が咲かないどころか、幹も枝もない状態のままだ。まあ、茎でもいい。ともくは、育たないまま終わる。

言っても、そうならなかったのは、暗闇条件の種の「言い方が悪かったから」だろうか。

ちがう。

条件が決めている。光がある条件なのか、それとも、光がない条件なのかということが、花をつけるかどうかという結果を決めている。なので、種が日当たり良好条件のもとに置かれたときには、花がほぼ一〇〇%の確率で咲くということが決まっいて、種が暗闇条件のもとに置かれたときには、一〇〇%の確率で咲かないということが決まっている。

条件が、結果を決めている。

そして、時間が経過して、その条件の差が結果としてあらわれただけなのだ。

ところが、大きな花を咲かせた種は、暗闇条件の種に善意で「花を咲かせる方法」についてアドバイスをする。これ、善意なのだ。けど、いままで見てきたように、二重の勘違いがある。

これが、じつは、人間社会で起こっていることだ。

「大きな花を咲かせる方法」については、大きな花を咲かせた人にしか語れない。大きな花どころか、花さえ咲かせてない人が「大きな花を咲かせる方法」について語ったとしても、だれも耳を傾けない。そういう意味で、成功したほうが、ニセの方法について語るということが、決まっている。一方通行なんだよ。一方通行。

大きな花を咲かせた種も言うんだよ……。

「私だって、台風を経験した。台風で身がもっていかれそうになった。雨が何日も続いた日があった。日照りでたいへんな日々があった。風が強い日だってあった。けど、大きな花を咲かせるぞとがんばった。だから、花が咲いた」というようなことを言う。

けど、日当たり良好条件に置かれたから、花が咲いた。

こういうことを言っている種だって、暗闇条件に置かれれば、花どころか、葉っぱもつけられずに終わる。幹もない。枝もない。そういう状態で終わる。それは、条件で決まっている。



 

2023年7月8日土曜日

自動的に学習してしまう

 なんか、「もう、おれ、どうでもいいや」という気分になっている。学習は重要だよ。この学習というのは、行動心理学における学習だ。人間というのは、いやおうなく、出来事を学習してしまう。不愉快な出来事だって、学習してしまう。これは不愉快な出来事だから、学習しないようにしよう……なんてことはできない。自動的に学習してしまう。脳みその機能が正常ならということだけど……。脳みその機能が正常なとき、いい出来事を学習すれば、意欲が増す。脳みその機能が正常なとき、悪い出来事を学習すれば、意欲が減る。これ、あたりまえ。あたりまえなんだよ。時系列的な出来事の発生というものがある。過去のできごとは、現在の状態に影響をあたえるのである。こういうことを無視しているアドラー心理学は、まちがった心理学だ。

セットされた条件が、開花している

種のところで、話したけど、条件によって、ちがうのである。日当たり良好条件と暗闇条件はちがう。種という「からだ」は、種という「体」のしくみをもっている。これは、すごいことなのだ。条件が成り立てば、発芽して、根をのばし、幹をのばし、葉っぱをつけ、花を咲かせることができる。

このからだのしくみは、種というものにセットされたものなのだ。かりに、このセットされたしくみを、「能力」と呼ぶことにしよう。その種には、花を咲かせる能力があったということだ。けど、その種にしても、暗闇条件では、花を咲かせることができない。「能力」はあるのだ。

けど、「能力」を発現させる「条件」がそろわなかった。

なので、花を咲かせることができない。

けど、これは、条件の問題であって、その種固有の問題ではないのだ。

つまり、「能力がなかった」ということではない。しかし、結果として、花を咲かせることができなかったら、その種は「花を咲かせる能力がなかった」ということになってしまうのである。他人……はそういうふうに判断する。ここで、突然……「他人」という言葉が出てきてしまうのだけど、他者であるような人間は、そういうふうに判断する。

日当たり良好条件の種が花を咲かせて、暗闇条件の種が花を咲かせないというのは、最初に、条件によってセットされているのである。セットされた条件が、時間経過とともに、あきらかになっただけなのだ。

けど、これは、日当たり良好条件の種と、暗闇条件の種に能力の差があるということではない。

能力の差はない。

けど、日当たり良好条件の種は、花を咲かせることができたので、その種には、花を咲かせる能力があったと、判断されるのである。また、暗闇条件の種は花を咲かせなかったので、花を咲かせる能力がなかったと判断されるのである。

たとえば、日当たり良好条件の種のなかで、花の大きさにばらつきがあったとする。その場合は、(相対的に言って)小さな花を咲かせる能力と(相対的に言って)大きな花を咲かせる能力について考えることができる。

しかし、その場合も、日当たり良好条件というのが、ほんとうにおなじように成り立っていたのかという問題や、ほかの条件に差がなかったかという問題を考えなければならない。

いずれにせよ、花が大きいか小さいかの個体的な問題は、花を咲かせることができたか、花を咲かせることができなかったかという条件的な問題よりも、小さな問題だ。まあ、これ、ほんとうは、いろいろと言いたいことがある。まあ、おおざっぱに言うと、言いたいことはこんな感じだ。

「言ったところで、それが現実化するわけではない」……言霊主義者の態度

 どうせ、説明したってわからないとは思うけど、言霊信者は、自分の現実的な問題に関しては、言霊の力を使わないのである。言霊的な解決方法をこころみない。

なぜかというと、言霊には、そんな力はないということを知っているからだ。魔法的な解決法と言ったけど、これは、現実的にはまったく無力な解決法なのだ。役に立たないし、言ってもそうならない。

自分のことであれば、現実を知っているので、魔法的な解決法で、解決しようとしないのである。けど、ひとごとなら、ちがう。人のことは、わからないので、さも、魔法的な解決法が役に立つようなことを言ってしまう。

「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味で、「言ったことが現実化する」と言ってしまう。「言霊には、そういうすごいパワーがある」と言ってしまう。

だから、現実的な問題に関しても、言霊は有効なのである。言霊的な解決法は役に立つ解決法なのだ。ところが、実際には、「言ったって」解決しない。呪文として、どれだけ、言ったって、言った通りにはならない。

なので、言霊的な解決法は役に立たないということになるのである……。言われたほうの世界では、そうなる。ところが、言霊信者は、自分の……具体的であって、なおかつ、現実的な問題……には、言霊的解決法を使わないから、言霊信者のなかでは……具体的であって、なおかつ、現実的な問題……にも(言霊的解決法は)有効だと信じ込んでいるのである。

どうしてそういうことが可能かというと、相手が、言霊的解決法をもちいて、失敗したことは、どうでもいいことだからだ。「そんなのはおかしい」のである。自分のことではないので「そんなのはおかしい」とひとこと言えば、それですんでしまう。

他人が言霊的解決法に失敗したとしても、言霊的解決法は……具体的であって、なおかつ、現実的な問題……に関しても、有効なはずだと……言霊信者は信じ続けることができる。

こういうところでも、言霊信者は、自己中心的だ。相手の身に起こったことは、認めないのである。認めないで、見ないことにすれば……具体的であって、なおかつ、現実的な問題……に関しても、言霊は有効だということを信じ続けることができる。

ひとごとだから関係がない。ひとごとなので、その人がかかえている問題の根本が見えない。その人がかかえている現実や、その人がかかえている現実的な条件が見えない。自分の場合は、特に言及しなくても、見えているのである。

自分の現実や、自分の現実的な条件が見えている。

だから、言霊的解決法は、こころみることがないまま、封印?される。

最初から「そんなことあるわけない」「言ったところで、それが現実化するわけではない」と思っているので、自分の現実的な問題に関しては、言霊的解決法を使わないのである。


そういう世界に、ぼくは住んでいる。

超・暗闇条件の人が悩んでいるとする。超・暗闇条件の人が、超暗闇条件でくるしめられているとする。これは、条件がもたらすものだ。生まれたとき、きちがい的な父親がいるうちに生まれれば、『きちがい的な父親』という負の条件が成立してしまう。そして、たいていの人には、『きちがい的な父親』とい負の条件が成立してない。『きちがい的ではない父親』という条件が成立しているのだ。きちがい的ではない父親条件の人が99%、きちがい的な父や条件の人が1%いるとする。その場合、きちがい的ではない父親条件の人は、1%『きちがい的な父親』条件の人がかかえる問題を、理解しない。自分が経験してない問題だから、わからない。そして、『きちがい的な父親』という条件は単なる条件ではなくて、一定期間ずっと続く条件なのだ。なので、きちがい的な父親がもたらす問題が累積する。時間の経過とともに、不愉快な出来事が累積していく。 

一日のなかで、たくさんの出来事があったとして、そのすべてが「負の出来事」だとすると、やはり、精神的にくるしくなる。どれだけ、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくない気分のまま、泣き出しそうになる。この、きちがい的な父親がもたらす、負の出来事ということ自体が、ほかの人にはわからないことなのである。基本、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というような「うその励まし」は、いい効果をあたえない。きちがい的な父親だけではなくて、きちがい的な家族によってもたらされる「負の出来事」は、ほかのすべての出来事を、「負の出来事にかえてしまう」力がある。それこそ、そういう力が宿っている。「カード」というか「条件」というかは別にして、ともかく、きちがい的な父親というカードをもっている人は、きちがい的な父親というカードをもってない人には、まったく理解できない出来事を経験する。そして、そのカードがあると、ほかのカードがどれだけよくてもだめなのだ。これは、マイナスカードで、Aという才能のカードをもっているにしろ、Aという才能カートがマイナスカードになってしまうような力がある。プラスの数字に、マイナス数字をかけるとマイナスになるわけだけど、そういう力があるカードがある。その特殊なマイナスカード以外のカードは、全部プラスカードなのである。だから、プラスカードとプラスカードを掛け合わせたような効果がある。しかし、特殊なマイナスカードは、プラカードとの組み合わせでも、結果をマイナスにしてしまう。マイナスカードとマイナスカードをかけるということは、できないとする。たいていのカードは、プラスなのである。格差があるという場合、プラスの値の格差になる。プラス一とプラス一〇の差だ。普通、プラスカードしかない状態だから、マイナスカードの効果が、まったくわからない。経験としてまったくわからない。理解できない。予想できない。まったくまったく、マイナスカードがどういうふうにマイナスの効果をおよぼすのか、推測できない。プラスカードしかない人にはまったくまったくわからない。だから、プラスカードしかない人の、マイナスカードをもっている人に対する助言というのが、マトのはずれたものになる。また、マイナスカードをもっている人に対する助言というのが、マイナスになる。意味をなさないというよりも、はっきりと、マイナスになる。

*     *     *

「ぴっぱらぷぷ」という言葉にはすごい力が宿っていると考えている人がいるとする。その人のなかでは「ぴっぱらぷぷ」と言ったあと、自分の願望を言えば、どんな願望でもかなう……ということになっている。とりあえず、ぷぷ信者と呼んでおこう。

で、ぼくが、きちがいヘビメタのことで悩んでいたとする。あるいは、きちがい親父がもたらした不幸な出来事で悩んでいたとする。あるとき、ぷぷ信者と会ったとする。ぷぷ信者は「ぴっぱらぷぷ」と言ったあと、「きちがい親父が、きちがい親父ではなくて、普通の親父になる」と言えば、きちがい親父が普通の親父になると言った。「ぴっぱらぷぷ」という言葉にはものすごい力が宿っているので、なんでも、「ぴっぱらぷぷ」という言葉のあとに言ったことが、現実化すると言った。なので、ぷぷ信者の言うとおりに、「ぴっぱらぷぷ」「きちがい親父が、きちがい親父ではなくて、普通の親父になる」と、ぼくは、言った。ところが、どれたけ言っても、きちがい親父はきちがい親父のままで、普通の親父にならなかった。「ぴっぱらぷぷ」と言葉に、現実を買えるような力があるとは思えない。「ぴっぱらぷぷ」という言葉を言うと、物理法則をこえて、きちがい親父の頭を改変するようには思えなかった。なので、ぷぷ信者に「言ったけど、現実化しなかった」というということを言った。そうしたら、ぷぷ信者が「ぴっぱらぷぷという言葉には、ものすごいパワーが宿っている」「これは真実だ」と言って、怒りだした。いやー、怒ったとしても、「ぴっぱらぷぷ」「きちがい親父が、きちがい親父ではなくて、普通の親父になる」と言ったのに、きちがも親父が、きちがい親父のままで、普通の親父にならなかったのは、事実だ。怒られてもこまるのである。で、まあ、それはいいとする。ところが、つぎからつぎへとぷぷ信者があらわれて、まえのぷぷ信者とおなじことを言うのだ。そのたびに「ぴっぱらぷぷ」という言葉には、ものすごいい力はない。「ぴっぱらぷぷ」という言葉で現実を改変することはできないということを言うのだけけど、みんな、おなじように怒って、帰っていく。まあ、帰ってくれるだけ、ましなんだけどさぁ。ある日、ぷぷ信者が「人のことをかえることはできない。人のことをかえるより、自分をかえたほうがいい」と言っているところを目にしてしまう。ぼくは「あれ?」と思った。「ぴっぱらぷぷ」と言ったあと、願望を言えば、どんな願望でもかなうんじゃないの? ぷぷ信者というのは、こんな人たちばかりなのだ。入れ代わり立ち代わり、ぷぷ信者があらわれて、「ぴっぱらぷぷ」という言葉にはすごい力が宿っていると言う……世界。そういう世界……。そういう世界に、ぼくは住んでいる。

月曜日の午前一時の気分がわかるか?

 きちがい兄貴が、しずかにしてくれなかったときの「すがた」というのが思い浮かぶ。ほんとうに、長かったからなぁ。一日だけじゃないからなぁ。ほんとうに、積もるんだよ。あの調子は、きちがい家族がいる人間じゃないとわからない。きちがいだから、なにもわかってない。普通の人は、きちがいについて誤解をしている。普通の人は、きちがい的な人間の「わからなさ」がわかってない。あの、頑固な状態……。あの、まったくわかってない状態……。あの状態で、どれだけ言っても、鳴らし続けるということが、わかってない。どれだけ、ほかの時間にこたえるかわかってない。だからぁ……。たしかに、入学試験用の願書をとりに行くとき、別に、その時間は、きちがいヘビメタが鳴っているわけではない。ならハッピーかというとちがう。なら、三年間鳴ってないときの、からだの状態かというと、ちがう。帰れば、鳴っている。試験が近いから、やめてくれ」「しずかにしてくれ」と言っても、きちがいがきちがい的な態度でやめない。そういうことの重要性が、ほかの人にはわからない。切迫感がわからない。……続いてしまうんだよ。そして、その日も、眠れないんだよ。そういうことが、三年間続いている状態で、高校入試をうける……じつは、三年と半年間続いている状態で、高校入試をうけるということがわかってない。そして、どれだけ気持ちをとりなおして、高校生生活をおくっていても、また、大学受験で同じ思いをするのである。高校3年間ずっと鳴らされた。日曜日も鳴らされた。一日中鳴っているときの、日曜日の気分がわかるか? 月曜日の午前一時の気分がわかるか?

2023年7月7日金曜日

「言霊のすごいパワーのまえでは、生まれの格差なんて関係がない」

 「一秒後に、地球が爆発する」と言えば、一秒後に地球が爆発するのである。そういうことを言いたい気分になっている人が、ひとりいるとする。そのひとりが「一秒後に、地球が爆発する」と言えば、一秒後に地球が爆発するのである。言霊理論が正しければ……。

「一秒後に、みんなの銀行口座に、一〇〇〇万円振り込まれる」と言えば、一秒後に「みんなの銀行口座に、一〇〇〇万円振り込まれる」のである。言霊理論が正しければ……。

けど、そんなことにはならない。言霊理論が正しくないからだ。

「そんなことは言ってない」「希望をもって生きていくことがたいせつなんだ」……だったら、言霊理論などは持ち出さず、「希望をもって生きていくことがたいせつなんだ」と言えばいいだろ。

ところが、「言霊は、すごい力をもっている」「言霊には、すごい力が宿っている」「言ったことが、現実化する」ということを言うのである。

そりゃ、いくつかのことは、「言ったあと」現実化するので、「言ったあと」と「言ったから」を混同する人は、「言ったから」現実化したのだと思うことができる。

なので、生まれの条件に目をむけなくてすむことになる。

けど、言霊理論がはやっているのは、生まれの条件に目をむけさせたくない人たちの、意図かもしれない。ようするに、そういう考えを被支配民がもってくれたほうが、都合がいいので、そういうことをはやらせている……かもしれない。

幼児的万能感は、別に、支配者層が、はやらせたことではないし、支配者層が、人間に、幼児的万能感をうえつけた、わけではない。支配者層は、もともと人間に備わっている「幼児的万能感」を利用しただけだ。

幼児的万能感は、幼児期に達するまでに死んだ人間以外は、みんな持っているものだ。つまり、まあ、赤ちゃんのときに死んだ人をのぞけば、みんながみんな、幼児的万能感をもっている。

そこのところを、うまく利用されているだけだ。

ひとびとが、生まれの条件を無視して、物事を考える状態というのは、「悪い」支配者層にとって、都合がいいことだ。

いまの世の中、普通に暮らしていたら、言霊的な言い分を信じてしまう。けど、それは、まちがっている。使いわけている。トリックがある。

「言霊のすごいパワーのまえでは、生まれの格差なんて関係がない」……こういう言い分が含まれている。

「生まれの格差なんてまったく関係がなく、絶対的な言霊の力が、作用するのである。言霊の力は、絶大なので、生まれの格差なんて関係がない」……こういう言い分が含まれている。

生まれの格差というのは、生まれたときの条件のことだ。「の」の重複になるけど、「生まれたときの条件」の格差ということだ。ここでは、そういう意味で「生まれの格差」という言葉を使っている。別に、「条件の格差」という言葉を、それとなく「生まれの格差」という言葉に言いかえたわけではない。


温存させることに意味がある。 「いつか」に意味があるのだ。

もし、 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味で、 「言ったことが現実化する」のであれば、「一秒後に(願い)がかなう」と言えば、願いがかなうのである。

もし、言霊には「一〇〇%の言ったことを一〇〇%の確率で現実化させる」ものすごい力が宿っているのであれば、「一秒後に(願い)がかなう」と言えば、願いがかなうのである。

どちらも、現実的ではなく、一秒後には「一〇〇%の言ったことを一〇〇%の確率で現実化させる」ものすごい力が宿っていないことがばれてしまうし、「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という文は「偽」であるということが、ばれてしまう。

ばれないように「一秒後」とは言わないようにしているのである。

一秒後に、「現実」に直面してしまったら、まずいのである。「いつか」願いがかなうはずだと、願いを「温存」させなければならないのである。「いつか」夢が現実化するはずだと、夢を「温存」させなければならないのである。

温存させることに意味がある。

「いつか」に意味があるのだ。

そして、たいていのことは、『条件』で決まっている。つまり、願いがかなうかどうかは、その人が(現にもっている)条件によってちがってくる。

条件がたいせつ。

ところが、言霊主義者は、みんな、条件を無視するのである。

条件を無視して「言ったか言わないかが重要」「言えば願いがかなう」ということを言う。

これは、条件に関係なく「ぷっぷるぺこぺ」と言えば願いがかなうということとおなじだ。条件に関係なく、「ぷっぷるぺこぺ」と言えば願いがかなうのだ。「ぷっぷるぺこぺ」信者にとってみれば、そうなのである。「ぷっぷるぺこぺ」信者の頭のなかでは、「ぷっぷるぺこぺ」と言えば願いがかなうということは、真実なのだ。

 

自分の現実的な問題に関しては、「希望をもって生きていこう」という意味で「言ったことが現実化する」と言っている

 繰り返しになるけど、言霊主義者は「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」……(2)という意味と「言ったことが、現実化することもあるし、現実化しないこともある」……(3)という意味を、 「言ったことが現実化する」……(1)という同じ言葉に込めて、使っている。使いわけている。

けど、意識して使いわけているわけではなくて、無意識的に使い分けているのだ。

なので、本人は、(2)と(3)の区別をせず、「おなじものだ」「おなじ意味だ」と思っている。

なので、悩みを抱えた他人に言うときは、(2)の意味で 「言ったことが現実化する」と言っている。

この場合は「言ったことが、現実化するかもしれないし、現実化しないかもしれないし、そんなのはわからない」ということを言っているわけではないのである。

人に助言するときは、かならず、「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味で、 「言ったことが現実化する」と言っているのだ。

いっぽう、自分の現実的な問題に関しては、「言ったことが、現実化するかもしれないので、希望をもって生きていこう」という意味で「言ったことが現実化する」と自分自身に言っている。

ようするに、「言ったことが、現実化しないこともある」ということを、認めてしまっている。「言ったことが現実化しないこともある」という意味と「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味は、ちがう。ちがいすぎる。

しかし、おなじ文でこのふたつを表現しているのである。おなじ文というのは、もちろん、 「言ったことが現実化する」という文だ。

言霊主義者は、特に意識してないけど、こういうふうに「言ったことが現実化する」という言葉の『意味』を使いわけて、生活している。


「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉には、すごい力がある

「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉には、すべての病気治す力がある……と言う人がいたとしよう。

とりあえず、Aさんだとする。Bさんは、毒によって引き起こされた病気で悩んでいるとする。Aさんにとって、Bさんの病気は、どうでもいい。

Aさんは、くるしんでない。

Aさんはつらくない。

Aさんは、Bさんのからだを使って生きているわけではないので、ひとごと、だ。なので、どういう理由で、どういう毒で、どういう作用機序でくるしんでいるのかということは、関係がない。

関係がないという意味で、Bさんのくるしみには、関心がない。毒の作用機序を解明しようなどという気持はないのだ。

ただ、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉には、すごい力があるので、どんな病気も治すことができるということを言うだけだ。

Bさんは、わらをもつかむ気持ちで、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言った。

「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉の、すごい力によって、病気が治るということはなかった。

あたりまえだ。

冷静に考えてみれば、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉に、そんな力はない。

けど、Aさんは、「俺がぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーーと言ったら、病気が治った」「これは事実だ」「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーーという言葉にはすごい力が宿っている」と言うのだ。

Aさんが「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言ったときは、病気が治った。

けど、これがほんとうだとして、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言ったから、治ったのか、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言ったあと自然治癒力によって病気が治ったのかわからない。

けど、Aさんは、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言った「から」治ったと確信しているのである。

Aさんの世界のなかでは、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉には病気を治す力があるということになっている。

けど、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉には、その病気を治す、作用機序はない。

ただ単に、Aさんが、「から」と「あと」を混同しているだけなのだ。

けど、Aさんは、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」という言葉に宿る力を信じている。

これと、言霊主義者の言霊はまったくおなじだ。

「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」ではなくて、「願望」「希望」「夢」「願い」を言うことになっている。だから、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」よりは、不自然ではない。

けど、おなじなのだ。

よく、「自分は、実際に願いがかなった」「だから、言霊は正しい」「言霊にはすごい力が宿っている」と言う言霊主義者がいるけど、それは、「から」と「あと」を混同しているだけだ。

願いを言ったあとに、その願いがかなっただけだ。

そして、願いがかなうかどうかというのは、条件によってちがう。

ほんとうは、条件のちがいが、時間の経過とともに「開花」しただけなのだ。条件と、時間の経過は、「願い」がかなうかどうかに、ものすごい影響をあたえる。「願い」を言ったかどうかよりも、ずっとずっとずっと、強い影響をあたえる。

だいたい、「願い」を言うことができる条件で、「願い」を言っているのである。「願い」を言うことができない条件なら、どれだけ何回、言霊の力を信じて「願い」の呪文を言っても、「願い」はかなわない。

それは、「ぴーぽっぱっ、ぷっぷぷぷーー」と言っても病気が治らないのとおなじだ。あるいは、「一秒後に、一億円が、机の表面からでてくる」と言っても、でてこないのとおなじだ。

2023年7月6日木曜日

言霊理論が正しくないので、「いつか」と言って、先のばしにする

 言霊理論が正しいなら、「いつか、夢がかなう」なんてことを言わなくていいわけ。「一秒後には、その夢がかなう」と言えば、一秒後には、その夢がかなっている。別に、「いつか」なんて言って、先のばしにする必要がない。

先のばしにしなければならないのは、言霊理論が正しくないからだ。

言霊理論が正しくないから、「一秒後には、夢がかなう」とは言わず、「いつか、夢がかなう」と言って、先のばしにする必要がでてくる。「いつか」「かなうだろう」と夢をもって生きていける。

けど、それは、言霊理論が正しくないということを、逆に証明してしまっている。「いつか、夢がかなう」と言い続ければ、いつかは、夢がかなう……。

これは、おかしい。

「一秒後には、夢がかなう」と言えば、一秒後には夢がかなうのだから、「一秒後には、夢がかなう」と言えばいい。その人は、無意識的なレベルでは、言霊理論が正しくないと思っているので「一秒後には、夢がかなう」とは言えないのだ。

無意識的には 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」……(2)という言霊理論が正しくないことを知っているので、「言ったことが、現実化することもあるし、現実化しないこともある」……(3)という意味で 「言ったことが現実化する」……(1)と言っているのだ。 

「言ったことが、現実化することもあるし、現実化しないこともある」「だから、いつかは、かなうかもしれない」……こういう意味で「言ったことが現実化する」と言っているのだ。

ならば、 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」……(2)という意味での言霊理論は正しくないということを知っているということになる。無意識的なレベルでは、知っているのだ。だから、「一秒後」などの時間制限がある言葉は言わないようにしているのだ。

言霊主義者は、相手の事情を無視し、相手の理由を無視する

「一秒後に、一億円が、机の引き出しからでてくる」とは、言霊主義者でも言わない。言霊主義者だって、そんなことにはならないことがわかっているから、言わない。

一億円ぶんの札束が、机の引き出しから、でてくる。札束が、勝手に、動いてでてくる。百取り虫のように、はいだしてくる。札束が、机の引き出しを、おしてあけて、にょきににょきと、はいだしてくる。……そんなことはない。……「ない」ということがわかっている。

だから言わない。

いくら言霊主義者だって、妄想的な精神状態になっていなければ、そういうことは言わない。けど、それは、「言ったって」「その通りにならない」ことがわかっているからだ。相手のことに関しては、「言ったって」「その通りにならない」ことがわかってない。

だから、言霊的な助言をしてしまう。

これは、魔法を使えるということとおなじだ。

相手には、そうならない理由がわかっている。けど、言霊主義者には、相手の事情がわかってないので、ある事柄に関しては、相手の事情を無視して、そうならないことを言う。「言えばそうなる」と言うのだ。

相手は、自分の事情がわかっているので、言ったところでそうならないことが、わかっている。つまり、相手は「言ったところでそうならない理由がわかっている」。

けど、魔法的な助言をする言霊主義者と「相手」のちがいは、「そうならない理由を理解しているかどうか」なのである。言霊主義者は、相手の事情を無視し、相手の理由を無視するので、相手が「言ったところでそうならない」と言っても認めない。

「言ったことが、現実化する。これが正しい」と思って、そういうことを主張する。 相手にとって、そうならない理由があきらかであるときも、言霊主義者にとっては、そうならない理由があきらかではない場合がある。

言霊主義者が、相手が考えている理由を認めなければ、自分(その言霊主義者)の魔法的な解決法が(相手にとって)役に立つことだという信念を持ち続ける。そういう信念がゆらがない。そういう信念に傷がつかない。自分の魔法的な解決法は、相手にとって役に立つはずなのである。

けど、相手は、それが無理なことだと「知っている」。情報量がちがう。 言霊主義者にとっては、相手の理由は簡単に無視できることなのだ。どうしてかというと、別の個体だからだ。言霊主義者は、相手のことがよくわかってないのに、わかっているつもりで、魔法的な助言をする。そういう、生き物だ。

AさんとBさんがいたとする。Aさんは接種してしまった遅効性毒がききだして、くるしいと感じている。Bさんは言霊主義者だったとする。Aさんが「くるしい、くるしい」と言ったとする。言霊主義者のBさんが「くるしい、くるしいと言うから、くるしくなる」とAさんに言ったとしよう。

どうしてこういうことができるかというと、AさんとBさんが別の個体で、Aさんのくるしみが、Bさんにはまったくつたわらないからだ。

Aさんが、「くるしい、くるしい」と言うのは、Aさんのからだのなかで、Aさんのからだを構成している物質(あるいは、細胞を構成している物質)と毒を構成している物質が化学的な反応をしたからだ。そして、AさんはAさんの神経をもっているので、からだのしくみとして「くるしみ」を感じる。Bさんは、Bさんのからだをもっているので、Bさんはまったく、「くるしみ」を感じない。

BさんにはAさんのくるしみがわからない。

だから、言霊的な思考ができる。だから「元気だと言えば元気になる」というような魔法的な助言をする。これは、AさんとBさんが別の個体だからできることだ。Aさんのくるしみが、Bさんの神経をとおして、Bさんにちゃんとつたわるなら、Bさんだって、そんなことは、言わない。かわりに、「くるしい、くるしい」と言う。

Bさんは、実際にはくるしくないので、くるしいときに「くるしいと言うから、くるしくなる」と言われたときの気持ちがわからない。Bさんだって、自分にとって理由があきらかなことで、自分がくるしいときに、だれかから「くるしいと言うから、くるしくなる」と言われれば、そういうことを言われたとき、どういう気持になるか、わかる? 「その通りだ」と思うわけがない。

「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」

 「言ったことが現実化する」……(1)

「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」……(2)

「言ったことが、現実化することもあるし、現実化しないこともある」……(3)

 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」……(2)と「言ったことが、現実化することもあるし、現実化しないこともある」……(3)は、まったく別の意味をもっている。

しかし、言霊主義者の頭のなかではおなじなのだ。等価だ。

ときどき、使いわけているのである。

「ひとごと」であれば、相手の事情はわからないので、 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という意味で 「言ったことが現実化する」と言うのだ。

あるいは、 「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という前提に立ち、「言えばいい」と助言する。

 

「一秒後に、一億円が、あらわれる」

 たとえばの話だけど、言霊主義者にしたって「一秒後に、一億円が、あらわれる」というようなことは、言わないでしょ。

どこから、あらわれるのか?

まあ、机の上から、あらわれるということにしておこう。「あらわれる」ではなくて「でてくる」でもいいなぁ。「一秒後に、一億円が、机の上から、でてくる」……。札束が次から次へと、机の表面からでてくるのだ……。

なんで、言ったことが現実化しないか?

物理的にありえないことだから、現実化しない。

けど、普段は、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。「言ったこと」というのは「言わなかったこと」ではないので、一〇〇%の言ったことだということになる。

「現実化する」ということは、「現実化しない」ということを含んでないので、一〇〇%現実化するということになる。「現実化するときもあるし」「現実化しないときもある」……こういうことは言ってない。「現実化するのである」。

これは、まえにも書いたけど、「言ったことが現実化する」という言葉は「一〇〇%の言ったことが現実化する」という言葉と等価なのだ。

そして、「言ったことが現実化する」という言葉は「言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という言葉と等価なのだ。

そしてさらに、「言ったことが現実化する」という言葉は「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という言葉と等価なのだ。

だから、言ってしまったら、どんなことでも、一〇〇%の確率で、現実化するのである。

例外はないのである。

けど、文頭に述べたようなことは、さすがに、言霊主義者でも言わない。どうしてかというと、「あらわれない」ことがわかっているからだ。「でてこない」ことがあきらかだからだ。

本人が、「でてこない」と思っていることに関しては「でてくる」とは言わないのである。

でてこない……「あきらかな理由」がわかること……こういうことに関しては、「でてくる」とは、言霊主義者だって言わない。

もし、言霊主義者が言った場合、言霊理論は、正しくないということが、言霊主義者にも、わかってしまうからだ。「言霊理論が正しくない」という現実にはふれたくないのだ。

言ったにもかかわらず「その通りにならない」という現実は見たくないのだ。なので、言わない。

これは、言霊主義者が、言ってもそうならないと考えているから、言わないだけだ。

言霊主義者も、じつは、「一〇〇%の言ったことが一〇〇%の確率で現実化する」という理論は正しくないと感じているのだ。


自分の身に起こったことと、相手の身に起こったこと

 言霊主義者はまったくわかってないけど、ちがう原因を考え出して、ちがう原因を相手にぶつけるということ自体が失礼なことなのである。たとえば、水俣病患者には、じつは、非がない。水銀と体を構成する分子が物理的な運動をした結果、神経がおかされ、くるしいと感じているとする。実際そうなんだけど……。そして、ある水俣病患者が「くるしい」と言ったとする。そのとき、言霊主義者が出てきて、「くるしいと言うから、くるしくなる」と言ったら、言われたほうはどういう気持になるかということだ。そして、言霊主義者が「元気だ元だと言えば元気になる」と非科学的な方法・まったく役に立たない方法を提示・推奨したとき、提示・推奨されたほうは、どういう気持になるかというとことだ。こういうことが、言霊主義者にはまったくわからないのである。幼稚だからわからない。幼稚だから、「あと」と「から」を混同する。幼稚だから、自分の身に起こったことなら、理由がはっきりしているので、言霊的な思考をしないけど、相手の身に起こったことなら、(自分にとって)理由がはっきりしてないことだから、言霊的な思考をして、言霊的なことを(相手に)言う。こども~~。やっていることが、こども~~~。

ヘビメタ騒音のことも、言霊主義者にはわからないことなのである。どうしてかというと、ヘビメタ騒音がぼくの身の上に起こったことだからだ。ぼくにとっては、ヘビメタ騒音はくるしくなる理由のひとつなのだ。そして、それは、あきらかなのだ。けど、他人には、あきらかではない。ぼくがかりに、適切に説明したとしても、相手がわからなければ、相手にとっては、それは、あきらかな理由ではない。相手というのが、言霊主義者だった場合、その言霊主義者にとって、ヘビメタ騒音は、あきらかな理由ではないので、言霊的な誤解をして、『くるしいと言う「から」くるしくなる』という説明をしてしまう。ほんとうにそう思っている。「から」だと思っている。誤解。誤解をして、へんなことを言ってくるな!!

きちがいに毎日毎日やられて、バカに、見下される人生か?

いやだなぁ~~。いやだ。いやだ。

で、バカが多いのである。ヘビメタ騒音のことを説明して、ぼくが言ったことを、そのまま、ちゃんと受け取ってくれない。バカが、解釈する。うぬぼれ屋が解釈する。「おなじことが起こっても、自分は平気だ」と思っている。バカだからそう思えるだけ。うぬぼれ屋だから、そう思えるだけ。実際に自分の身にしょうじなかったことだから、そう思えるだけ。勝手に誤解して、好き勝手なことを言いやがって。

言霊主義者といっても、言霊理論を無視して、暮らしているのだ。

 言霊主義者は、時系列的なことを考えられないんだよなぁ。だから、ほかの人に対して失礼なことを言うことになるのだけど、本人は、ぜんぜん失礼なことを言ったと思ってないんだよなぁ。こまるなぁ。

Aさんと、Bさんがいたとする。Aさんが、毒を打たれて、苦しんでいるとする。あまりにもくるしいので「苦しい」と言ったとする。そこに、Bさんが登場して「苦しいと言うから苦しくなる」と、Aさんに対して言うのだ。

Bさんは、Aさんが苦しんでいる理由について、まちがった考えをもっている。見当違いのことを言っている。Aさんは、毒を打たれたあと、くるしいと言っているわけで、毒を打たれたということが、さきで、くるしいと言ったのは、あとだ。

「苦しい」と言ったから、毒が、超・自然的な方法で、Aさんのなかに入って、Aさんが苦しみだしたというわけではない。

Bさんは、Aさんを侮辱しているつもりはないかもしれないけど、これは、侮辱だ。

きちがい的な親のもとに生まれてきた子供は、きちがい的な親に虐待されて、くるしい思いをするわけだけど、きちがい的な親のもとに生まれなかった子供は、きちがい的ではない親に虐待されない。たとえば、きちがい的な親が、きちがい的な理由で、幼児である子供に「いどみかかっていって」ぶんなぐったとする。ぶんなぐられた子供は、「いたい」といったとする。その場合「いたい」と言ったから、いたくなったのか?

そんなことは、ない。

ところが、言霊主義者は、「いたい」と言ったから、いたくなったと推論するのである。言ったから、言ったあとに、痛くなったと、言うわけだ。そして、「いたくない」と言えば、いたくなくなると言い出す。「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなると、言いやがる。

出来事に関係なく、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなる。

こんなの、精神病以外のなにものでもない。言っておくけど、言霊主義者が精神病だと言っているのではなくて、出来事に関係なく、「楽しい」と言えば楽しいと感じるやつが精神病だと言っているのだ。

言霊主義者のなかでは、出来事に関係なく「楽しい」と言えば楽しくなるような精神病患者が正常で、出来事に対応した感情をもつ人が、異常だということになる。だって、「楽しい」と言っても、楽しくないだから、異常だということになるだろう。

言霊理論が正しければそうなる。言霊主義者の、ここらへんの、現実理解というのは、非常に、非・現実的だ。頭の中で、そのとき「つくっている」だけなのである。

ほんとうは、言霊主義者にしたって、出来事に応じた、感情をもっている。言霊主義者だって、出来事に応じた、感情がわきあがるようにできている。それを、否定しまっている。

言霊主義者というのは、現実的な考えができない。しかし、それほど、現実から逸脱しているようにも見えないと思う。それは、言霊主義者が、その都度、現実的な対応をしているからだ。言霊主義者も、言霊とは関係なく、現実的な反応をして暮らしているのだ。

言霊主義者が、言霊主義について語るのは、対象が他人であって、自分ではないときと、言霊理論がうまく合致しているようなことが起こったときだけなのである。それ以外は、言霊主義者といっても、言霊理論を無視して、暮らしているのだ。

そして、そういうことについて、疑問に思わないのだ。これは、言霊主義者が、幼児的万能感に支配されているからだ。幼稚なのである。人のことが考えられないのである。

自分だって、たとえば、ほかの人になぐられて「痛い」と言ったときは、「痛いと言ったから痛くなった」とは考えないで、なぐられたから痛くなったと考えるのだ。なぐられたのだから、痛く感じるというのは当然だと、考えるのだ。自分がなぐられたときは、痛いという反応がしょうじたことについて、確かな証拠?があるので、「痛い」と言ったから「殴られたように痛くなった」と感じるわけではない。あるいは、考えるわけではない。自分にとって、あきらかなことに関しては、言霊思考(言霊理論に基づいた思考)をしない。

他人事だと、他人の事情がわからないので、言霊的な解釈をして、言霊理論にしたがったことを言うのである。

 

2023年7月5日水曜日

言ったからなのか? 言ったあとなのか?

 復習になるけど、言ったあと、言ったことが現実化するということと、言ったから、言ったことが現実化するということはちがう。

しかし、ほんとうは、言ったあと、言ったことが(別の原因で)現実化したのに、言霊主義者は「言ったから」現実化したと考えるのだ。

理由がちがう。

原因として考えられているものがちがう。

思霊でもそうだ。種の話になるけど、日当たり良好条件の種が、「いつか自分は、幹をのばし、葉っぱをつけ、大きくなる」と言ったとする。

そして、日光の条件がよかったので、その種が大きくなったとしよう。

その場合、その種が、条件を無視して「自分が、大きくなると言ったから、自分が大きくなった」と考えてしまうのだ。条件は重要だ。この場合、光という条件が重要だ。光がある条件だったので、大きく育った。

もちろん、実際には、土壌の問題や大気の問題や、水分の問題がある。けど、光も重要な条件のひとつだ。そして、土壌、大気、水分、光といった、条件を満たしていたので、その種は、「幹をのばして、葉っぱつけ、大きくなった」。

その種は、「いつか自分は、幹をのばし、葉っぱをつけ大きくなる」と言ったあと、その通りに大きくなったのだ。これが現実だ。けど、その種は、「いつか自分は、幹をのばし、葉っぱをつけ、大きくなると言ったから、その通りに大きくなった」と思ってしまっている。

これは、誤解だ。

まちがった理由付けをしている。

ただ単に、原因を誤解しているだけだ。

種には、条件を満たせば、発芽をして、成長するというしくみがある。そのしくみは、種によって決まっている。そして、その種を構成している原子や分子が、物理的な運動をして、大きくなるのだ。体内の物理的な運動によって、大きくなった。

だから、物理的な運動の結果おおきくなったのである。

別に「大きくなる」と言った「から」大きくなったのではない。「大きくなる」と言った「あと」大きくなったのである。

今回は、種を擬人化して、表現してみた。もちろん、種は、人ではないので、思ったりしてない……と思う。 

*     *     *

言ったら、その通りになるのだから、言えばいいだろ~~。おカネにこまったら、「三秒後に、おカネがあらわれる」と言えばいいだろ。政治的な不満があるなら、「俺が内閣総理大臣になってこの政治的な問題を解決する」と言えばいいだろ。なんで言わないの? 言霊には、ものすごい力があるんでしょ。だったら言えばいい。別に内閣総理大臣にならなくても、「この問題はこのように解決する」と言えばいいでしょ~~。言えば、解決するんじゃないの?

「三秒後に、自分が内閣総理大臣になる」と言えばいいじゃないか。

言霊主義者は、おカネにこまったりしない。「三秒後に、俺の銀行口座に一〇〇〇万円振り込まれる」とひとこと言えば、おカネの問題が解決してしまうからだ。言霊には、超・物理的な力があるから、言えば、それが現実化する。現実になる。だから、三秒後に、俺の銀行口座に一〇〇〇万円振り込まれる」と言えば、それで、おカネがないという問題は、解決できる。言霊が正しいなら、有効な方法だ。しかし、言霊主義者は、どれだけおカネにこまっても、この解決方法を利用しない。どうしてかというと、言霊には、そういう力がないということを知っているからだ。言霊にはそういう力がないので、言っても、むだと思って、言わないだけだ。かわりに、「いつか、お金持ちになる」というような願望が語られる。この願望を語るときの言葉には、言霊の力が宿ってないのだ。実際には、そんな力は、どの力にも宿ってないので、「希望を温存させたいときだけ」言霊理論があらわれる。「自分の場合」は、自分の身の上に成り立っている条件がわかっているので、現実的な思考をしてしまうのである。言霊は、現実を言っただけでかえる力があるのだ……。にもかかわらず、現実的な問題に関しては、現実的な思考をして、言霊の力をかりない。使わない。これは、使えないから使わないだけだ。けど、人のことになると、現実的な条件というものが、ないことになる。本人が無視すれば、それで、現実機な条件が成り立ってないことになるので、言霊にはすごい力があるという前提でものを言う。たとえば、AさんとBさんがいた場合、Aさんにとっての現実というのは、Bさんには、わからない。聞いた話で判断するしかない。Aさんがかかえている条件を、Bさんが無視しようと思えば無視できる。けど、Bさんが、おなじように、Bさんがかかえている条件を無視できるかというと無視できないのだ。だから、「現実化しそうにないこと」に関しては、「いつかそうなる」ということにして、それ以上、考えないようにするのだ。そうすれば、じつは、言霊には、超・物理的なチカラがないということに、気がつかないですむ。自分の場合は、できそうもないことは、言霊で解決しようと思わないのだ。すべてのことを、自分の思い通りにできるのだ……。超自然的な言霊が成り立つならそうなる。気にくわない政治家を「言っただけで」殺すこともできるし、失脚させることもできる。気にいっている政治家を、内閣総理大臣することもできる。「三秒後に、Cさんが内閣総理大臣になる」と言えば、言霊の力によって、三秒後には、Cさんが内閣総理大臣になるからだ。すべてのことを、このように解決できるのだ……。言霊に、言霊主義者が言っているような力があるなら……。ところが、これも、「三秒後に、Cさんが内閣総理大臣になる」と言っても、三秒後に、Cさんが内閣総理大臣になるということがないということを知っているので、言わない。そういう解決法を選択しない。ところが、人のことだと、超・物理的な言霊の力があるので、言えば、それが現実化するということを言うのだ。あるいは、超・物理的な言霊の法則によって、言えば、それが現実化するので、言えばいいということを言う。そういうことを言っているときは、言霊には、超・物理的なチカラが宿っていると思っているのだ。なら、「三秒後に、Cさんが内閣総理大臣になる」と言えばいいじゃないか。あるいは、「三秒後に、自分が内閣総理大臣になる」と言えばいいじゃないか。三秒後が楽しみだろ。三秒後、自分が内閣総理大臣になっているかどうか、確かめることができる。もし、自分が内閣総理大臣になってないなら、言霊にはそんな力はないということになる。そういう現実に、ふれるのがいやだから、実際に成り立たないと(肌でわかることには)言霊を使わない。言霊にはそんな力がないということに、ふれるのがいやだからそうしている。

問題なのは、普通の人が感じない異質なつかれを感じたということだ

 たとえば、きちがいヘビメタ騒音で眠れなくなるという状態が続き、起きている時間もつらいという状態が続くと、それが定着する。人間の頭が正常なら、学習もある。これ、正常な学習なのである。学習機能が異常なのではなくて、体験のほうが異常なのである。ともかく、朝起きてつらい状態というのは、記憶されてしまう。そして、朝起きてつらい状態でも、なんとかがんばりきって動いたというときの「こころの状態」も記憶されてしまう。かりに、非・二四時間睡眠覚醒症候群になり、起きる時間がずれたとしても、つらい状態なのである。これは、朝だからつらいというわけではない。午後四時に起きたって、朝起きたように、つらいのである。きちがいヘビメタ騒音をあびたので……何時間も何時間もあびたので、眠るべき時間に眠れなくなった。それは、当然のことなのである。人間のからだをもっていれば、だれでもそうなるのである。ヘビメタ騒音ではなくて、その人がこの世で一番嫌いな音が、連続して何時間も何時間も鳴っていたということと、どれだけ何回、「やめてくれ」といいに行っても無視されたということが重要なのである。毎日つみかさなってしまう。ヘビメタ騒音ではなくて、その人が一番嫌いな音ということにすれば、だれもがそうなることなのである。眠れなくなる。それから、ヘビメタ騒音をあびたから、眠れなくなっているとき「眠れる」と何回言っても、眠れなかった。じつは、ものすごく、眠たい状態なのである。けど、脳みその一%が激しく抵抗して眠れない状態なのである。ヘビメタ騒音によって生じるつかれというのも、学校で普通の活動をしょうじるつかれとは、まったくちがうものなのである。普通のつかれじゃない。異常なつかれだ。質がちがう。そもそも、あのきちがい状態のなかで、「我慢してすごした」ということが問題なのである。ところが、言霊主義者は「眠れると言えば眠れたのに、言わなかったからダメなんだ」と俺をせめるのである。「眠れる」と何回も言えば、眠れたのに、そういう努力を怠ったからダメなのだと言ってくるのである。理由がちがうのである。言霊主義者が考えている、眠れない理由と、ぼくが考えている眠れない理由がちがう。その言霊主義者は、ぼくが経験した、きちがい家族による、きちが的な騒音というものを、毎日経験したわけではない。だから、「騒音」とか「疲れ」というものに関しても、ちがうものを思い浮かべている。その言霊主義者だって眠れない夜をすごしたことはあるだろう。なので、そういう自分の記憶をもとにして、考えているのである。ところで、本当にその言霊主義者は、「眠れる」と言えば、脳みその状態に関係なく、眠れるのだろうか。

まあ、言霊主義者のことはいいとする。問題なのは、普通の人が感じない異質なつかれを感じたということだ。そして、異質なつかれが、人生のなかで毎日続いたということだ。これがでかいことなのである。けど、「過去は関係がない」とか「鳴り終わったなら関係がない」と考える人は、そういうことを無視してしまう。腹だたしいことではないか。腹は、たつよ。これ、すべてが、侮辱なんだよ。普通の人が、勘違いをして、普通に、侮辱してくる。きちがい兄貴が、きちがい的な意地でヘビメタを、でかい音で、何時間も何時間も鳴らすとそうなる。そして、普通の人は普通の人なので、「そんな音で鳴っているのに親がなにも言わないなんて言うのはおかしい」と考えるのだ。そして、たとえば、目の前のぼくが、無職であれば、「無職だからへんなことを言っている」「無職だから、嘘を言っているのだろう」と考えるのだ。こうやって、きちがい兄貴がきちがい的な意地で鳴らしたということが、ぼくをおいつめる。普通の人は、きちがい兄貴の行動も、きちがい兄貴の感覚も、きちがい兄貴の態度も、なにもわかってない。自分の普通の感覚で考えて、おかしいと思えるものはおかしいと思ってしまう。

影響があるんだよ。

 ヘビメタ騒音なしの世界で暮らしたかった。これ、みんな、実際にやられてないから、実際にやられたとき、どんな状態になるのかわかってないんだよね。あの音を、あの音圧で、鳴らされたら、不可避的に影響をうける。だから、鳴り終わったあと眠れなくなるというのは当然のことだ。けど、「鳴り終わったなら関係がない」と普通の人は、普通の騒音の範囲で考えてしまう。あと、普通の人が見逃しがちなのは、たとえば、一日に七時間なら七時間鳴っているとして、一日目の七時間と、一〇〇一日目の七時間がおなじだと思っているのだ。おなじじゃない。一〇〇一日目のほうが、つもっているので、影響がでかくなる。それまでの堆積した影響が残っている。当然、一〇〇一日目のほうが、つかれている。で、これをどれだけ説明しても、実際に経験がない人は、そのつかれというのがわからない。「鳴り終わったなら、関係がない」と考えてしまう。一日の範囲でも、人生の範囲でも、鳴り終わったら関係がないと考えてしまう。けど、ちがうんだよね。まったくちがう。で、まあ、ぼくがどれだけ「ちがう」と言っても、わからないわけだよ。わかったところで、なにも得しないしね。で、「鳴り終わったなら、関係がない」という前提で、ものを言う。それは、こっちにとっては、侮辱だ。侮辱にほかならない。けど、相手は、これまた、侮辱をしたつもりがないわけ。それから、相手には、偏見があるわけ。無職や引きこもりに対して偏見がある。その偏見は、すさまじいものだ。偏見の「強さ」「濃さ」が、わかってないと思う。無職なら、見下していいというとになっているのである。自分と相手の関係を考えた場合、相手が無職なら、自分のほうが「上」だと考えてしまうのである。いったん「自分のほうが上だと考える」と、すべての侮辱的な態度が、正当化されてしまうのである。侮辱的な態度ではなくて当然の態度だということになってしまうのである。言っておくけど、ヘビメタ騒音の結果、無職になった。働けないからだになった。七年間、毎日、がんばりとおしたけど、がんばった結果、睡眠障害になり、通勤できないからだになった。一日のなかで、鳴っている時間が七時間だとしても、毎日鳴らされて、毎日眠れないので、一日のなかで、鳴ってない時間もつらいのである。そして、一日のなかの、鳴ってない時間も、はりつめた状態で生きているのである。このはりつめた状態というのも、経験がない人にはわからないと思う。ぎりぎりの状態で「気をはって」生きているのである。息をしているのである。これが、問題なのに、普通の人は、これが問題だとは思わないのだ。どうしてなら、この時間はヘビメタ騒音が鳴ってない時間だからだ。ヘビメタ騒音が鳴ってない時間だから、ヘビメタ騒音とは関係がないと考えてしまうのだ。けど、それが、ちがう。こいつら、考え違いばかりしている。きちがい兄貴がきちがい兄貴だから、そういうことになってしまうのだけど、これだって、どれだけ俺が、言葉尽くして語っても、わからないと思う。きちがい兄貴がいるという条件下に生まれた人でないと、わからないと思う。きちがい兄貴が、きちがい的な頑固さで、きちがい的な感覚で、きちがいヘビメタをでかい音で鳴らことに、こだわってこだわって鳴らしていたことがある……という人以外わからない。「きちがい兄貴」という条件がある人にしかわからない。「きちがい兄貴」という条件は、「暗闇箱」という条件とおなじだ。ある人には、決定的な影響をあたえるけど、ない人には、まったく影響をあたえない。ないのだから、あたりまえだ。ところが、ない人は、ないので、あるという状態について考えることができないのだ。考えたとしても、いろいろなことを無視して、うわっつらだけ、言葉で考えるということになる。そうなると、肝心なことは全部、無視するというこになるのである。自動的にそうなる。必然的にそうなる。そいつらだって、暗闇箱条件なら、育たないというように、「きちがい兄貴条件」なら、働けなくなるのに、自分の人生はちがうので、それがわからない。目の前の人が無職なら、無職としてあつかう。「ヘビメタ騒音で通勤できなくなった」ということは、無視してしまう。これ、本人は、自分なら、ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても……通勤ぐらいできると思っているのだ。で、実際に、そいつの人生のなかで、きちがい家族による破滅的な、頑固な、しつこい騒音がしょうじなかったので、影響がある生活というもの自体がわからないのだ。「そんなものではない」とぼくがどれだ言ったって、わからない人にはわからない。そういう人には俺が、ヘビメタ騒音にこだわっているように思えるのだ。ちがう。そういう人には、俺が、ヘビメタ騒音という過去のことに、こだわっているように思えるのだ。ぜんぜんちがう。ちがうということさえ、わからないだろう。これは、影響を考えてないからそう思えるだけだ。影響があるんだよ。

みんな、わかってないけど、ぜんぜんがう

 ほんとう、ヘビメタ騒音が鳴ってなかった場合の人生を歩みたい。ぜんぜん、ちがう。だいたい、きちがい兄貴という暗闇箱のような暗闇条件がなかったら、言霊のことだって、「ああ、そうですね」ですんだ。「言ったことが現実化するんだよ」……「そうですね」……これですんだ。

吉がヘビメタ騒音の問題は、きちがいヘビメタ騒音の問題であって、言霊の問題じゃないのである。きちがいヘビメタ騒音が鳴っているとき、「一秒で鳴りやむ」「一秒で鳴りやむ」「一秒で鳴りやむ」「一秒で鳴りやむ」「一秒で鳴りやむ」と言ったって、鳴りやまなかった。言霊が成り立ってない。言ったことが現実化してない。現実化してないのだから現実化してない。

今日の夢だって……。みんな、わかってないけど、ぜんぜんがう。

「言う」ことによって、その物理法則をくつがえすことができるか

 「言ったからそうなった」と考えている人は、本気で、そう考えているのである。そういう世界観のなかで生きている。

だから、悪意なく、「言えばいい」ということを言うわけだけど、言われたほうは、こまるのだ。ほんとうのことを言えば、「言ったから、そうなった」のではない。原因について、考え違いをしている。

「言ったから」ではないのに、「言ったから」だと思っている。

「明日は雨がふる」と昨日、言ったから「雨がふった」と考えているのとおなじだ。その人が言ったかどうかとは関係なく、物理的な運動の結果、雨がふっている。空気を構成すると物質の分子と、水の分子と、リチの運動によって、雨がふったのだ。

この一連の運動に対して、だれかが「雨がふる」と言ったことが影響をあたえたかというとあたえてない。

雨がふった原因を考えると、雨がふった原因は、物質の物理的な運動だ。

物理的な運動は物理法則にしたがっているのだけど、「言う」ことによって、その物理法則をくつがえすことができるかというとできない。

言霊には、そういうパワーがじつはない。

「あなたは素晴らしい」と言ったときの相手の反応と、「あなたはバカだ」と言ったときの相手の反応がちがうので、言葉にはすごいパワーがあるということは、……まあ、言えるけど、それは、物理法則をこえる言霊パワーではない。

ところが、これが、同一視されているのである。

相手の反応と言うのも、じつは、言葉以外の表情や、言葉以外のジェスチャーの影響をうけている。

たとえば、AさんとBさんCさんがいたとする。Aさんは、Bさんの歌がすばらしいので、「あなたは、歌がうまい」と言ったとする。その場合、ほんとうに「歌がすばらしい」と思ったので「あなたは、歌がうまい」と言ったわけだ。

しかし、たとえば、Cさんが、Bさんの歌を、うるさいだけのひどい歌だと思ったとする。そして、ほんとうは「あなたの歌はひどい」「あなたは、へたくそすぎる」と言いたかったとする。

けど、そういうことを言うと、問題がしょうじるので、しかたがなく、おべっかで「あなたは、歌がうまい」と言ったとする。

この「あなたは、歌がうまい」という言葉自体はおなじなのである。言葉自体がものすごいパワー(ちから)をもっているものなのであれば、どっちの場合も、Bさんはよろこぶはずなのである。

ところが、Bさんは、Cさんの表情や声のトーンから、Cさんが嘘を言っているということを見抜き、よろこばなかったとする。

「言葉」だけがパワーをもっているのであれば、そういうことは発生しない。

おなじ言葉なら、おなじ反応を引き起こすはずだ。

言霊主義者は、「ことば」だけに注目して、表情やジェスチャーを無視している。

おなじ言葉は、おなじ力(ちから)をもっているはずなのである……言霊理論にしたがえば……。

そして、言霊主義者は、それまでの流れというものを無視してまう。それまでの出来事というのは、無視できない。ところが、「言葉」に注目しているので、言葉がパワー(ちから)をもっているという考えにしたがって、時系列的な出来事を無視してしまう。

時系列的な出来事がちがえば、たとえばの話だけど「あなたの歌はひどい」とだれかがだれかに言ったとき、言われたほうがよろこぶということだってある。よろこんで、わらいだすかもしれないのだ。そういう、可能性だってある。

言葉自体に宿る言霊が、現実をつくりだすという考え方は、まちがっている。

たしかに、おなじ言語を理解するものどうしで、交流をしている場合、言葉は重要だ。

しかし、たんなる「言葉の力(ちから)」と「言霊の力(ちから)」を混同してはいけないのである。 

超・物理的な力(ちから)をもっている言霊と、言葉の意味が、相手の心理に影響をあたえるという意味での言霊は、ちがうのである。

条件が成り立っていたのに、条件のことは無視してしまうのである

 超自然的な言霊と言葉としての言霊がある。

ようするに、言霊主義者のなかで、このふたつが、混在しているのだ。

そして、言霊主義者は、このことについて、無頓着だ。超自然的な言霊について、語ったあと、言葉としての言葉について語るときがある。

とのとき、言霊主義者が両者のちがいについて意識しているかというと、意識してない。

ひどいのになると、言葉としての言霊が人のこころに影響をあたえるということを、根拠にして、超自然的な言霊があるということについて語りだす。ここらへんは、「言霊」というおなじ言葉を使っているから、本人が、混同して、言っているだけなのだけど、本人は、まったく気がつかない。自分の「言霊」という言葉の使い方は、正しいと思っている。

そういうことの背景には、幼児的万能感がある。

問題なのは、悪条件組の人間も、幼児的万能感をもっているということだ。

だから、暗闇箱条件の種が「日当たりがよくなるよくなる」と言い続けるような状態が発生する。日当たり良好条件の種にとって、「思ったことが現実化する」というのは、正しいことなのである。自分の経験から言って、正しいことだ。

ところが、それは、ちがう。

正しいと思っているだけだ。

ほんとうは、日当たり良好条件の種が、幹をのばし、葉っぱをたくさんつけたのは、日当たりがいいからだ。「自分はいっぱい葉っぱをつける」とか「自分はのびてのびてのびまくる」と言ったから、そうなったわけではないのだ。

ここらへん、誤解をしている。

まちがった理由を、正しい理由だと考えている。そういうふうに考えてしまうのは、幼児的万能感があるからだ。幼児的万能感の影響で、そう考えてしまう。まあ、擬人的に言ったので、種というのは、人間のことだ。

ほんとうに、そう思っているので、特に悪意がなく、まったく無駄な方法を、他人に押しつけることができる。

それは、事実、暗闇条件のもとに生まれなかったから、言えることだ。

ところが、条件というものについてまったく考えないで、自分の場合はこうだったから、こうだというふうに考えてしまう。事実、日当たりがよい条件下で、幹をのばし、葉っぱをつけた……ということが、そういう考えに影響をあたえる。

条件が成り立っていたのに、条件のことは無視してしまうのである。

暗闇条件下に生まれた人は、日当たり条件下に生まれた人とおなじ条件が成り立っているわけではない。

なので、当然のごとく、日当たり条件下化の人が無視できることが無視できない。日当たり条件下の人は、たとえば、暗闇箱がないから、暗闇箱があるという条件を無視できるのだ。

けど、暗闇箱がある人は、暗闇箱があるという条件を無視できない。

ところが、暗闇箱がある人も、幼児的万能感をもっているいるのである。だから、一般的なことを言えば、日当たり良好条件下の人が言う「言霊的なこと」「思霊的なこと」を(暗闇条件下の人が)信じてしまうときがある。

そういう場合がある。

ところが、信じてしまっているとき、どういうことがおこるかというと、つらいことがおこるのである。不幸なことがおこるのである。日当たり良好条件下の人が言うようにはならない。

日当たり条件下の人は、特に悪意があるわけではないけど、むだな方法……無効な方法を有効な方法だ言って、おしつけるところがある。

「思えばいい」「言えばいい」と言われても、こまるのだ

  暗闇条件の種は、「日当たり良好だと思えば日当たり良好になる」「日当たり良好だと言えば、日当たり良好になる」というようなことを言われると、こまるのだ。どうしてかというと、どれだけそういうふうに思っても、暗闇条件がかわることがないからだ。どれだけ、そういうことを言っても暗闇箱条件がかわることがないからだ。生まれたときに、セットされている。生まれたときに暗闇条件がセットされているので、「思ったり」「言ったり」することで、その条件がかわるということがない。そして、時間とともに、差がひろがるのである。暗闇条件の種と、日当たり良好条件の種の格差がひろがる。時間というのは大切だ。そして、ある程度時間が経過して、差ができたあとに、「思えばいい」「言えばいい」と魔法的な解決法を提示されても、こまるのだ。暗闇条件をもたらす、箱が、まだ、頭上にある。そういう状態で「思えばいい」「言えばいい」と言われても、こまるのだ。どれだけ思ったって、思った通りにはならないし、どれだけ言ったって、言った通りにはならないからだ。けど、言霊主義者は、「言ったことが現実になる」と言い、思霊主義者は「思ったことが現実になる」と言うのだ。それから、時間の経過は全体に影響をあたえるので、たとえば、種が死ぬ一時間前に、暗闇をもたらす箱がなくなったとしても、意味はない。制限時間がある。過去なんて関係がないとは言えない。臨界期も制限時間もある。条件の無視、おなじことだけど、過去の無視というのは、好条件組がやることなのである。好条件組が、悪条件組の「条件」を無視したり、「過去を否定して過去の影響」を無視するのだ。そういうことが、普通に行われている。そして、「あまえだ」「負け犬だ」「泣き虫だ」「意気地なしだ」とののしる。「努力をすれば、こうなるのに、努力しないからダメなんだ」とダメだをして、いい気になる。アドラーがやっていることというのは、そういうことなんだぞ。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。