2024年1月31日水曜日

「コツコツと努力をすれば成功する」というのも、嘘だ。ペテンなのだ

 たとえばの話だけど、走り幅跳びで三メートルしかとべないとする。そして、走り幅跳びがきらいだとする。

その人が、努力をすれば八メートルとべるようになると言われて、ずっと、何十年間も、きらいな走り幅跳びの練習をしていたら、どう思う?

「努力をすれば、とべるようになる。とべないと言うから、とべない。とべると言えば、とべるようになる。途中であきらめるから、八メートルとべないままなんだ。毎日、コツコツと努力すれば、とべる」……。

こんなことを言われて、四〇年間、ずっと毎日、きらいな走り幅跳びの練習をして、とべるように努力して、死んでしまったら、この人の人生は、いったいなんなんだということにならないか?

きらいではなくて、好きなら、いいんだよ。あるいは、「うまくいかないけど、どうしても、とべるようになりたい」と思っているならいいんだよ。「一センチでもいいから、自分の記録をのばしたい」と、やる気になってやっているなら、いいんだよ。

好きだからやる……。これならいい。

記録を更新することに生きがいを感じるからやる……。これならいい。

けど、きらいなのに、努力をする毎日だ。

そんな毎日を、何十年と繰り返す。むなしい感じがする。走り幅跳びは、普通の人にとっては、日常生活に影響をあたえないマイナーな陸上競技なので、走り幅跳びにこだわってる人は少ない。

けど、「走り幅跳び」を「仕事」にかえると、いろいろなことが見えてくる。

「コツコツ努力すれば成功する」「言えば言ったことが現実化する」「できると言えばできる」「言ったあと、努力することが肝心だ」「すべては自己責任」「すべては受け止め方の問題」「人間は、すべて、おたがいさま」「すべてに、感謝感謝」「言われたことを素直に受け取ることが肝心だ」……こういう言葉は、むだな努力を続けさせるために言われている言葉だ。

こういうことが、言われていると、「そんなものかな」と思ってむだな努力をしなければならなくなる。

たとえば、名前だけ店長が「もう、できません」と言ったとき、ブラック社長が「できないと言うからできない。できると言えばできる」などと言霊的な発言をしても、みんな、その言霊的な発言に、疑問をもたない。

言霊理論は、ここでずっと述べているように、嘘だ。ペテンなのだ。

そして、「コツコツと努力をすれば成功する」というのも、嘘だ。ペテンなのだ。

もちろん、「成功する」の意味があいまいなので、「自分は成功した」と思っている人にとっては、嘘ではない……ということになりそうだ。

けど、「コツコツと努力をすれば成功する」は、XをすればYになると言ったタイプの言葉で、「言えば言ったことが現実化する」というような言葉とおなじ問題を含んでいる。

条件を無視して、そういうことを言うのは、よくない。

成功するという意味を、客観的な意味にしてみよう。たとえば、走り幅跳びで五メートル以上とべるようになることを「成功する」ということの内容だとする。

その場合、どれだけ練習しても、どれだけ努力しても、五メートルとべない人というのは出てくる。

ところが、「コツコツと努力をすれば、五メートルとべるようになる」「コツコツと努力をすれば、五メートルとぶことに成功する」と言ってしまうと、あたかも、とべない人が出てこないような印象をあたえるのだ。

だれでも、「コツコツと努力すれば、それに成功する」ということを言っているわけで、一〇〇%そうなるということを言っている。

一〇〇%の確率で、一〇〇%の人が成功するのである。

そういうことを言っている。

けど、実際には、成功しない人が出てくるわけ。

距離を八メートルということにすれば、九九%ぐらいの人が成功しないわけ。どれだけ、どれだけ、コツコツと毎日努力しても、九九%ぐらいの人は、一生、走り幅跳びで八メートル以上とべるようにはならない。

けど、「コツコツと努力をすれば、八メートルとべるようになる」という文は、とべない人も出てくるということを含んでいない。あるいは、とべない場合もあるということを、含んでいない。

「コツコツと努力をすれば、八メートル以上とべるようになる」という文のなかに「コツコツと努力をしても、八メートル以上とべない場合もある」という意味を含めるのは不可能なのだ。

「コツコツと努力をすれば、八メートルとべるようになる」という文は、「一〇〇%の人が、コツコツと努力をすれば、一〇〇%確率で、八メートルとべるようになる」という文と、意味的に等価なのだ。

なので、実際にはそうならないのに、そういうふうに言っているということになる。嘘。ペテンだ。

さまざまな条件を無視して、どんな条件でも、XをすればYになると言っているわけだ。

けど、現実世界では、条件が非常に重要な役割を果たすことになる。X側のことをしても、条件によっては、Yにならない場合だってある。そういう、意味で、「コツコツと努力をすれば、成功する」という文は、まちがっている。

*     *     *

ただ単にメートルと書いたけど、それは、メートル以上を含むことにする。たとえば、八メートルと書いた場合は、八メートル以上を含むことにする。びったしでもよいのだけど、以上を含めたほうがいいだろう。一度、メートルのあとに以上をつけて書いたのだけど、それだと、どうも、すわりが悪い。

これが、自己責任論の根底にある詐欺部分だ

 自分というのが、他人にいれかわっているのである。「自己責任」といった場合の自己というのが、ある人にとって他人の自己をあらわしているのである。

これが、自己責任論の根底にある詐欺部分だ。

これは、トリックなんだよ。

かならず、他人の「自己」にスライドすることになる。「自己」というのが、自分の自己ではなくて、他人の自己を表現していることになるのである。

ところが、他人の自己を表現しているとことに、特に気がつかなくてもいいことになっているのである。

本人と他人というのであれば、自己責任論というのは、本来は、本人の自己責任なのである。なので、「すべては自己責任」といった場合は、なにが起こっても、本人の自己責任なのである。他人が不幸な目にあっても、本人の自己責任なのである。

ところが、他人が不幸な目にあった場合は、他人の自己責任だということになってしまうのである。他人にとって「自己」というのは、他人自身なので、そうなる。ここに、トリックがある。

2024年1月30日火曜日

生まれながらに条件のちがいがある

 だからまあ、支配者層にやられたときや、支配者層が用意したしくみにやられたときは、「自己責任だ」と思って、おとなしく死んでいくけど、普段は、他人の自己責任を批判して、悦に浸っているような状態になってしまうわけ。

他人の身上に起きた不幸は、その他人の責任だと、断言して、断罪してしまう。

そして、自分が他人に対する攻撃をするときも、攻撃されてだめになった人間(他人)の自己責任になってしまう。自己責任論者というのは、自分が被害者になったとき、それは自分の自己責任だと自動的に考えるようになっているわけ。

けど、それは、自分が被害者である場合だ。

自分が加害者である場合も、被害者の責任だということになってしまう。自分が被害を受ける場合についてだけ、考えているから「いさぎがいい」考え方だと思えるわけ。自分が被害をあたえる立場である場合については、一切合切考えてないわけ。

意識的に空白であるわけ。

空白なら、自動的に、自己責任という考え方が流れ込んでくるわけ。ようするに、被害を受けたなら、被害を受けた人の自己責任だということになってしまう。

生まれながらに条件のちがいがある。不利な条件のもとに生まれた人もいる。その人がこうむるいろいろなことは、自己責任論の立場に立つなら、その人のせいだということになってしまう。

条件のちがいは、無視してしまうのである。悪い条件の人と、良い条件の人は、ちがう。悪い条件の人はいる。

ところが、『条件なんて関係がない』と最初から無視してしまうのである。 無視したところで、自己責任論について考えるのである。

だから、これも、セットになっているというところがある。

どれだけ、不利な条件のもとに生まれてきたとしても、そんなのは、自己責任だということになる。不利な条件からしょうじる、さまざまな、事件にかんしても、そんなのは、自己責任だということになる。そいつの自己責任だということになる。

なので、人が人に対して、つめたくなる考え方なんだよ……。自己責任論というのは。 


2024年1月29日月曜日

ニセモノの自己責任論者

 そりゃ、本人が死ぬようなことをして死んだ場合や、本人が病気になるようなことをして病気になった場合は、自己責任だと言うことができるかもしれないけど、本人が死ぬようなことをされて死んだ場合や、本人が病気にされるようなことをされて、病気になった場合は、自己責任とは言えない。

死ぬようなことをして死んだ場合も、病気になるようなことをして病気になった場合も、自己責任じゃないかもしれない。

いろいろな連鎖があるから、自己責任とは言いがたいケースが出てくる。

それから、死ぬようなこととか、病気になるようなことというのが、だれからの目線でそういうふうに見えるのかという問題がある。

よく事情を知らない他人から見ると、そういうふうに見えるけど、ほんとうはちがうかもしれない。

ともかく、譲歩したとしても、「自己責任だと言うことができるかもしれない」というレベルだ。あくまで、可能性だ。

どうして、断定してしまうのか。

少ない情報で、勝手に断定してもいいのかどうか、どうして、気にしないのか?

ともかく、条件が悪い人の場合は、条件のせいだ。これ、自己責任論者って、人のせいにしてないような感じがするけど、少ない情報なのに、人のせいにして、責任追及をしている。

どんなことが起こっても、すべては、その人の「せいだ」と言っているのだ。

ちゃんと、人のせいにしている。

自分のせいにしてない。

こういうアホな考え方が、社会にはびこっている状態だと、条件の悪い人が、濡れ衣を着せられたまま、死んでいくことになる。

「その人」の身に起こったことは、すべてその人の責任という考え方なのだから、条件が悪い人がひどいことをされた場合も、されたほうの責任だと考えるのだ。そして、自分の責任だとは考えない。

条件が悪い人がひどいことをされた場合、条件の悪い人が、ひどいことをされたのは、自己責任論者のせいだ。自己責任論者は「すべては、自分の責任」と言っているのだから、そういうことになる。

世界でどのようなことが発生したとしても、それは、すべて自分の責任であると考える自己責任論者が、ほんとうの自己責任論者で、その人の身の上に起こったことは、どんなことであれ、すべてその人の責任だと考えるのが、ニセモノの自己責任論者だからだ。

この、ニセモノの自己責任論者は、「その人」のせいにする。

不幸なのは、不幸なやつの責任だと、責任転嫁をしているのである。不幸な人がいるということは、自己責任論者の責任だ。どうしてなら、すべては、自分の責任であると考えるのが、自己責任論者だからだ。 

不幸な人が不幸な思いをしているのも、自己責任論者の責任だ。たとえ、外から見て、そういうふうに思えなくても、自己責任論者のなかから見ると、そう見えるのである。どうしてかというと、「すべては、自分の責任である」と自己責任論者が考えているからだ。

かりに、「自分の身の上に起きたことは、すべて自分の責任だ」と自己責任論者が考えているとしよう。その場合は、「自分のことにしか」言及できないはずなのである。

なんで、他人の身の上に起きたことに言及して、他人の責任だと言うのか。

 「自分の身の上に起きたことは、すべて自分の責任だ」と言っているのであれば、他人のことには言及できないことになるのである。本人が、本人の責任についてしか言及できないことになるのである。

すべては、自己責任だからだ。他人の責任を追及することはできない。

ぼくの目から見れば、「それはしかたがないよ」と思えるケースでも、ニセモノの自己責任論者から見ると、「やられたほう」のせいになってしまう。

ニセモノの自己責任論者は、どのようなケースであれ、「やられたほう」の責任を追及してしまう。自動的にそうなる。一〇〇%のケースにおいて、ニセモノの自己責任論者は、「やられたほう」の責任にしてしまう。

けど、そうなのだろうか?

だれかの行為によって、だれかが被害を受けるということがある。

「なんだろうが」被害を受けたほうの責任だ……と言っているのが、ニセモノの自己責任論者だ。

自己責任というと「いさぎがいい感じ」がするけど、勝手に決めつけて、勝手に人のせいにしているだけだ。行為としては、悪質な行為だ。

ニセモノの自己責任論者が他人を(身勝手な理由で)攻撃した場合は、自分(ニセモノの自己責任論者)が勝手に他人を攻撃したのに、ニセモノの自己責任論者は、攻撃されたやつの責任だと思うのだ。すべては自己責任なので、攻撃されたやつの自己責任だと考えてしまうのだ。これが、ちまたにあふれている自己責任論のなかみだ。

見知らぬ他人(Aさん)が、見知らぬ他人(Bさん)を、攻撃した場合も、ニセモノの自己責任論者は、見知らぬ他人(Bさん)の責任だと思ってしまうのである。そういうふうに、きめつけてしまう。

実際に、Bさんが被害をうければ、なんだろうがかんだろうが、どんな理由だろうが、被害を受けたほうの責任だと思ってしまうのである。たとえ、どんな理由があろうとも、ニセモノの自己責任論者は、やられたやつの自己責任だと考えて、やられたほうの責任を追及するのだ。

ニセモノの自己責任論者は被害を受けた人を、かならず、せめる。

被害をあたえたやつのことは、絶対にせめない。どんな理由があっても、被害をあたえたやつの責任を追及することがないのである。まさに、逆転の発想だなぁ。加害者の責任は絶対に追及しないけど、被害者の責任は絶対に追及するという、逆転ぶりだ。

どうして、こんな考え方が、世にはびこっているかというと、やはり、洗脳の影響があると思う。


言霊的な解決法は、疑似的な躁状態をつくりだしてしまう

 言霊的な対策というのは、疑似的な躁状態をつくりだすのである。なので、言霊的な宣言をしたあと、無謀なことや危険なことをやりがちになる。

たとえば、賭け事だ。賭け事というのは、胴元が儲けられるようになっている。賭けるほうとして参加すると、長期的にやれば、負ける確率のほうがはるかに高い。

しかし、「勝てると言えば勝てる」のだから、「勝てる」と言って、賭け事をしてしまう。そうすると、長期的にやれば、負ける人のほうが多くなる。「自分は勝てる」と言っても、勝てない場合が多い。

どうしてかというと、言霊による解決方法が、外部環境に影響をあたえないからだ。言っただけなのだ。

「わたしなら勝てる」「俺なら勝てる」……本人が言っただけ。

外部環境はかわらない。

なので、外部環境によって、もたらされるものがかわらないので、かわらない。これは、滑りやすい道という外部環境がかわらず、滑りやすい靴という外部環境がかわらない状態なのだ。普通の人は、ほかの人の外部環境なんて、全部理解しているわけではない。まったく理解していない場合だってある。だから、他人には、(その人)の外部環境を無視して、言霊的な助言をすることができる。

けど、それは、無防備な状態でトライすることをすすめていることになるのである。他人とか、その人という言い方を使って説明したけど、これだとわかりにくいところがある。なので、AさんとかBさんという言い方で説明をしよう。

たとえば、Aさんが言霊主義者で、相手の外部環境を無視する人だとする。Bさんが実際に賭け事をする人だとする。その場合、Aさんは、Bさんが、Bさんの外部環境について説明をしたとしても、外部環境の重要さを理解してないので、外部環境を無視した言霊的な助言をすることになる。

言霊的な助言でかえられるものは、「言わなかった状態」から「言った状態」にすることだ。これで、そのことを言わなかった状態から、そのことを言った状態にすることができる。

できる……のだけど、それは、その人の内部環境にしか影響をあたえない。どういう影響かというと「言った」という影響だ。言霊には、外部環境をかえるような力がない。どうしてかというと、言霊に宿っていると、言霊主義者が主張する、超自然的な力が、言霊には、宿ってないからだ。

言霊の超自然的な力によって、Bさんが言ったとおりになるように、外界が変化するかというと、変化しない。外部環境が、大きくかわることがない。賭け事に関しては、賭け事に関する外部環境が大きくかわることがない。

けど、実際の行為なら、言っただけでも、言ったという外部的な変化はある……場合がある。というのは、たとえば、Bさんが、「俺は、この賭けに勝つ」とAさんに言ったら、Aさんには、Bさんに「そのように」言われたという経験がしょうじる。Bさんが「そのように」言ったという出来事と、Aさんが、Bさんの発言を聞いたという出来事がしょうじる。

しかし、BさんもAさんも、賭け事の外部環境に大きな影響をあたえることができない人なので、賭け事の外部環境はかわらない。Bさんが「俺は、この賭けに勝つ」と言い、Bさんが「俺は、この賭けに勝つ」と言ったということを、Aさんが経験しただけだ。

たとえば、Bさんが競馬のある賭けに参加するなら、Bさんが参加する賭けに、Bさんが「俺は、この賭けに勝つ」と言い、Aさんが、それを聞いたということだけが、変化する。

不正でもしない限りは、競馬のレース結果に、このことは、影響をあたえない。

しかし、「言えば、言ったとおりになる」という理論だと、Bさんが言ったとおりに、競馬のレースが展開して、Bさんが言ったとおりになるのである。そういうことを想定しているのである。

これは、自分にとってだけ都合がいい、想定だ。

これは、疑似的な躁状態なのである。

「すべてが、自分の言ったとおりになる」と自信をもった状態なのだけど、これは、病的な理由で躁状態になって自信をもった状態に似ている。

言霊的な解決法は、(もし本当に、言霊を信じているなら)疑似的な躁状態をつくりだしてしまうのである。疑似的な躁状態でも、躁病の躁状態や、躁うつ病の躁状態と、おなじような精神状態になっているのである。

なので、危険なことや、あとあとこまるようなことを、積極的にやってしまう場合がある。そういう機会を、言霊的な解決方法は、増やしてしまう。これが、言霊的な解決法の、現実的なひとつの問題なのである。

*     *     *

疑似的なと書いたけど、ほんとうに言霊を信じているのであれば、まさしく、病的な躁状態になってしまうのである。言霊主義者は、自分の現実的なことにかんしては、言霊的な解決法を採用しないので、そういう問題からは無縁でいられる。けど、たぶんだけど、疑似的な躁状態にはなっていると思う。「すべてが、自分の言ったとおりになる」という思い込み(妄想)は、外部環境には影響をあたえないので、本当にそういう思い込み(妄想)が強い場合は、さまざまな問題を引き起こすことになる。

2024年1月27日土曜日

「言ったことが現実化する場合もあるし、言ったことが現実化しない場合もある」

 「言ったら、言ったことが現実化する」という文のなかに、「言っても、現実化しない場合もある」という意味をふくめることは、不可能なんだよ。

けど、言霊主義者は「言ったら、言ったことが現実化する」という文のなかに、「言っても、現実化しない場合もある」という意味をふくめて、「言ったら、言ったことが現実化する」と言っているのだ。最初から、矛盾している。

最初から、みずからの矛盾に気がついてない。

だから、「私は蚊に刺されない」と言ったあと、蚊に刺されても、なんとも思わない。矛盾しているとは思わないのだ。 

「言ったことが現実化する場合もあるし、言ったことが現実化しない場合もある」のであれば、「言ったことが現実化する」とは言わずに、「言ったことが現実化する場合もあるし、言ったことが現実化しない場合もある」と言うべきなのだ。

言ったことが、現実化する場合はある。

その場合は、言ったあとに、言霊の力とは関係なく、ほかの原因で、言ったことが現実化するのである。言霊の力によって現実化したのではないのだから、「言ったから、現実化した」としても、言霊理論が正しいということにもならないし、言霊には言ったことを現実化させる力があるということにもならない。

日常生活の場合は、だれかが言って、だれかがそれを実行した場合、「だれかが言ったから現実化した」と言ってもまちがいではない場合がある。 それは、表現としてまちがってないだけだ。

この場合も、別に、言霊のすごい力で、現実化したわけではない。

だれがか、身体を使ってやったから、現実化しただけだ。

自己暗示の場合も、これとおなじで、言ったあと、自分が身体を使ってやったから、現実化しただけだ。言霊のすごい力で、自分がなにもしてないのに、現実化したわけではない。


これだけで、もう、言霊理論が正しくないということを証明できる

 ちなみに、体温、呼吸するときに出る二酸化炭素、汗(水分)が、蚊をひきよせてしまう。ほかにも、顔の脂、足のにおいでも、よってくるらしい。しかし、メインは体温、二酸化炭素、汗だ。そして、じつは蚊のオスは血を吸わない。血を吸うのは、メスだけだ。なので、蚊のオスしかいない竹藪に入っても、刺されない。けど、オスしかいない竹藪だということを確かめることができないし、オスしかいない竹藪なんて、たぶん、ない。

「私は蚊に刺されない」と言ったあと、蚊に刺された。

これだけで、もう、言霊理論が正しくないということを証明できる。

これだけで、もう、言霊にはそんな力がないということが、わかる。

言霊主義者は、自分にとって都合が悪い現実を、無視している。言霊理論がまちがっているということを認めたくないので、現実生活のなかで、言霊理論が正しくないということがわかる出来事に遭遇しても、そのときは、言霊のことは考えないで、現実の出来事をうけいれる。

言霊と現実の出来事の関係は、無視されるのである。

だから、現実に押し切られた場合は、言霊や言霊理論のことが頭から、消えているのである。

 

言霊のすごい力で、言霊主義者は「言霊理論はまちがっている」と思うようになる。

「相手をかえることは、できないから、自分がかわるしかない」なんてことを精神世界の人は言うけど、それと同時に、言霊の力を信じているとなると、問題がある。

言霊の力で、相手をかえることはできる。自分がかわらなくても、相手をかえることができる。

「相手をかえることができない」という認識は、どこからしょうじるのか?

言霊の力で、相手の言い分なんていくらでもかえることができる。どうして、「相手をかえることができない」と言うのか?

それは、現実的な場面で、相手をかえられなかったから、相手をかえられないと思ったのだ。そして、言霊の力は、現実的な問題に関しては、まったく無力なのである。

言ったって、言っただけで終わってしまう。

それを知っているから、「相手をかえることは、できないから、自分がかわるしかない」などと言いだすのだ。

たとえばの話だけど、言霊主義者に、ぼくが「言霊理論はまちがっている」という話をしても、言霊主義者の意見はかえられない。言霊理論が正しいなら、ぼくが、言霊の力で、言霊主義者の意見をかえることができるのだけど、言霊の力では、言霊主義者の意見をかえることができないのだ。

*     *     *

 「相手をかえることは、できないから、自分がかわるしかない」というような考えを、とりあえず、自分変換主義と呼んでおこう。そういうことを信じている人を、自分変換主義者と呼んでおこう。 

*     *     *

 自分変換主義者であって、なおかつ、言霊主義者である人について考えてみよう。このふたつの考え方は、「精神世界」のなかでは、よくある考え方だ。かさなっている場合だって、多い。

自分変換主義者であって、なおかつ、言霊主義者である人は、他人には「相手をかえることは、できないから、自分がかわるしかない」と言うけれども、言霊理論がまちがっているということは認めない傾向がある。

ぼくが、「言霊理論はまちがっている」と言ったら、相手であるぼくの意見をかえることができないのだから、自分変換主義者であって、なおかつ、言霊主義者である人が、自分の意見をかえればいいのだ。「自分がかわるしかない」と言っているのだから、そうすればいい。

けど、実際にはそうしない。「単純なのが正しい」「アバウトでいいんだ」「正しさにこだわるな」と言って、言霊理論を信じたままなのである。

*     *     *

「すべては受け止め方の問題だ」というようなことを言っている人のことを、受け止め方主義者と呼ぶことにしよう。

 受け止め方主義者であって、言霊主義者である人は、言霊の力を使って、相手の意見や相手のありかたをかえればよいのだ。そうすれば、自分の受け止め方をかえる必要はない。言霊理論にしたがえば、「言ったことが現実化する」のだから、ある人の意見や行動を、自分の言葉でかえることができるということになる。

それは、言霊の力によって、言ったことが現実化するのだからそうすることができる。

たとえば、AさんとBさんがいるとする。Aさんが、「言霊理論はまちがている」と言ったとする。Bさんが言霊主義者であって、なおかつ、言霊にはすごい力があるなら、Bさんは、「Aさんは、言霊理論が正しいと思うようになる」と言えば、それで、Aさんは、言霊のすごい力によって、『言霊理論が正しい』と思うようになる……はずだ。

言霊がそれほど大きな力をもっているのであれば、人の意見を、自由自在にかえることができるのだから、別に、自分の意見をかえる必要がないのである。

言霊がそれほど大きな力をもっているのであれば、人のありようを、自由自在にかえることができるのだから、別に、自分の受け止め方をかえる必要がないのである。

逆の立場で考えてみよう。言霊にすごい力があるなら、「言霊理論はまちがっている」と考えている人は、言霊主義者に、「言霊理論はまちがっていると思うようになる」と言えばよいのだ。そうすると、言霊のすごい力で、言霊主義者は「言霊理論はまちがっている」と思うようになる。

*     *     *

言霊にはほんとうに、すごい力があるけど、言霊の力を使って、人の意見や人のありようをかえるのよくないことだから、言霊主義者は、このような場合、言霊の力を使わないようにしているのだろうか。いや、ちがう。 単に、言霊の力がないだけだ。

これは、「言ったことが現実化する」と言っておきながら、「言ったって死んだ人は生き返らない」と言うのとおなじタイプのあやまりだ。

「言えば、言ったとおりになる」→「人はかわらないから、自分がかわるしかない」

言霊のすごい力で、言えば、人がかわるのだけど、そういうことは悪いことだからやめておこう……(いつわり)。言っても、人はかわらないから、自分がかわるしかない……(現実に押し切られたときに感じること)。 

「言えば、言ったとおりになる」→「受け止め方をかえればいいんだ」。いやー、言えば言ったとおりになるなら、受け止め方なんてかえないで、言霊の力を使って、現実をかえたほうがよいと思うけどなぁ~~。

似てる

 ほんとう、「たまにあたらない、と言えば、たまにあたらない」と言って、若者を戦場に送り出し、若者がたまにあたって、死んだら、「そんなのは、行ったやつが悪い。すべては自己責任」と言って、そのあとすぐに「明るいことを考えると明るいことが起こるから、明るいことを考えればいい」と言っているやつに、似てるなぁ。精神世界の人なんて、こんなものだよ。

今回のあれのように、支配者側が、うまく誘導したんだよ。戦争のことだけど……。「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」なんて言ってたやつが、戦争協力者だ。そうなってしまう。洗脳されすぎ。 

「明るいことを考えれば、明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」なんて言っているやつが、考えつきもしない連鎖でそうなる。これ、ちゃんと説明して聞かせてやっても、納得しないんだよな。これ、連鎖があるんだよ。

*     *     *

「そんなのは、行ったやつが悪い。すべては自己責任」というのは、「そんなのは、戦場に行ったやつが悪い。すべては自己責任だから、戦場に行って、たまにあたったやつの自己責任だ」という意味だ。「たまにあたらない、と言えば、たまにあたらない」と嘘を言った責任については、まったく言及しない。

嘘だということを認めないから……。

けど、「たまにあたらない、と言えば、たまにあたらない」と言われた若者が「たまにあたらない」と言ったのに、たまにあたって死んだ。だったら、嘘だ。ほんとうのことなら、たまにあたらないはずだ。

2024年1月26日金曜日

送り出すほうの人間は、それでいいかもしれないけど、送り出されるほうの人間はそれではよくない

 言霊主義者だって、「蚊に刺されてかゆくなった」と考えているのである。

普段の生活のなかでは、自分に関係することであり、なおかつ、その人にとって、理由があきらかなことにかんしては、言霊思考が入り込むすきがなく、言霊思考は、奥のほうに閉じこもって、前面に出てこないのである。

言霊主義者(本人)にとっても、現実的で、はっきりした理由があることにかんしては、言霊思考は放棄された思考方法なのである。

まあ、どれだけ言ってもわからないかもしれないけど、蚊がたくさんいる竹藪に入っていくことについて考えよう。その竹藪に入ると、蚊に刺されるということが、経験的にわかっているとする。

竹藪に入る必要があるけど、蚊に刺されたくない場合、言霊的な解決法が有効であるのか、ないのかについて、考えてみよう。

「自分は蚊に刺されない」と言ったあと、竹藪に入れば、蚊に刺されないようになるかというと、そうではなくて、やぶ蚊に刺される。

どうしてかというと、「蚊は蚊で、機能しているから」である。蚊には、人を刺す理由があり、本能行動として、刺すのである。なので、蚊がたくさんいる竹藪に入れば、蚊に刺される確率が増す。

たとえばの話だけど、蚊のいない部屋にいて「蚊に刺されない」と言うと、蚊に刺されない。「蚊に刺されない」と言っても、蚊に刺されないし、「蚊に刺される」と言っても、蚊に刺される。

蚊のいない部屋にとどまることは、蚊に刺されないようにするという点では、「蚊に刺されない」と言って竹藪につっこむ方法よりも、有効な方法なのである。

問題なのは、「送り出す側の人間」と「送り出される側の人間」が別の人間だということなのである。

竹藪に送り出す人間が、言霊主義者で、言霊は絶対だと信じているとする。そうすると、竹藪に送り出される人間に対して「自分は蚊に刺されないと言えば、蚊に刺されない」というようなアドバイスをしてしまうのである。

送り出すほうの人間は、それでいいかもしれないけど、送り出されるほうの人間はそれではよくないのである。言霊的な解決方法は、まったく無意味なので、無防備なまま、対策をたてないまま、竹藪に突進した場合とおなじことになってしまうのである。

刺されるのは、送り出されたほうなのである。たとえば、パクチーを食べれば、蚊に刺されにくくなるという方法があるとする。この方法は、有効だとする。アドバイスをするなら、そういう有効な方法をアドバイスするべきなのだ。

虫よけスプレーに関しては、ほかに問題があるかもしれないから、ぼくは特にすすめないけど、体にまったく無害な虫よけスプレーがあるとするなら、虫よけスプレーを服にかけておくというのも有効な対策だ。

それらの対策に対して、「自分は蚊に刺されない」と言霊的な宣言をする方法は、まったく、有効ではないのである。無効。まったく意味がないことなのである。

そして、体じゅうを蚊に刺されるのは、送り出されたほうなのである。

問題は、社会のしくみなのである

「 言霊には、自分を元気づける力がある」と思っている人たちがいる。その人たちは、自分に対して、言霊的なアファーメーションをすればよいのである。問題は、社会のしくみなのである。

言霊的な解決法というのは、じつは、まったく無意味なので、無防備なまま特攻をさせるようなことになってしまう。

条件が悪い人が、条件のいい人に特攻を命じられるような状態になってしまう。

条件の悪い人が、言われたまま、特攻してハチの巣になってしまうのである。

言ったほうは、そのまま、平気だ。特攻して、ハチの巣になった人の姿を見ても、「自己責任だ」「言霊は絶対だ」と「言ったほう」は思ってしまうのである。こういうところがある。

2024年1月25日木曜日

だれも知らない場所に、一輪のチューリップが咲いている

 たとえば、だれも知らない場所に、一輪のチューリップが咲いているとする。

これって、だれかが、「その場所に一輪のチューリップが咲く」と言ったから、咲いたの?

ほかの理由で咲いたんじゃないの?

ほかに物理的な理由がまったくないのに、「言っただけで」「言ったから」チューリップの花が咲いたの?

ちがうでしょ。どうして、そういう、でたらめなことを言うのか?

言ったか言わなかったかなんて、ぜんぜん関係がない。じゃあ、宇宙のどこかにある星(あある星と命名することにする)は、だれかが、過去において「あある星がそこに生まれる」と言ったから、そこにあるのか?

だれも知らないところにある星は、だれかが言ったから誕生したのか?

ちがうでしょ。だれかが言ったとか言わなかったとかということは、関係なしに誕生したのだ。

人類が地球に発生する前からある星は、どうやって誕生したのだ?

言ったら言ったことが現実化する?

なにを言っているんだ?

誰も言わなかったのに、誕生した。発生した。そこに存在することになった。

一回でも言ったら、言ったとたんにそうなるのである

 じつは、言霊を考えるときに重要なことがある。それは、「言った」「言わなかった」の二値しかないということだ。言わなかった状態から、言った状態に移行するのである。だれが、その内容を言えば、その内容が言われなかった世界から、その内容が言われた世界に移行する。これは、どういうことかいうと、言ったとたんに、そうなるということだ。時間制限がない場合は、言ったとたんにそうなるのである。言い終わった瞬間にそうなるのである。言った瞬間にそうなるのである。たとえば、Aさんが「Cさんが死ぬ」と言ったとする。この場合、「Cさんが死ぬ」と言ったとたんに、Cさんが死ぬということになる。Cさんが、いつか死ぬということではないのである。言わなかった状態から、言った状態に移行した。これが重要なのである。一回言ってしまえば、言ったわけだから、何回も言う必要はない。一回でも言ったら、そうなる。一回でも言ったら、言ったとたんにそうなるのである。言霊に力があるなら、そうなる。言霊理論が正しいならそうなる。

「あと」の非常に特殊なケース

 たとえば、AさんとBさんがいたとする。そして、AさんとBさんは同じ会社に勤めていて、Aさんは、Bさんの上司だとする。AさんがBさんに「今日中に、あること(アルファ)をやっておけ」と言ったとする。

Bさんは、Aさんが言ったとおりにあること(アルファ)をやったとする。

この場合、日常会話のなかでは「Aさんが言ったとおりにBさんが動いた」わけだから、「Aさんが言ったから、言ったことが現実化した」と表現してもいいと思う。

会話レベルの話を考えるなら「言ったから」でいい。

軍隊のような指揮命令系統がはっきりした組織では「命令」されたから、命令通りにしたという場合がある。だれかが命令したから、その通りになった……。こういう場合は、日常会話のなかでは「から」と言っても、まちがいではない。

けど、それはほんとうに、「から」なのだろうかということを考えると、これは、言った「あと」の特殊なケースだということになる。

いづれにせよ、言霊のすごい力によって、Bさんがそうしたのではないということが言える。

さまざまな条件が成り立っているから、Bさんがそうしたと言えるからだ。

AさんとBさんは同じ会社に勤めているという条件が成り立っている。AさんがBさんの上司だという条件が成り立っている。Bさんが、上司の言うことは、きくべきだと考えているという条件が成り立っている。実際に、Bさんがそのことを遂行できるというフィジカルな条件が成り立っている。

Bさんは、Aさんに言われたあと、Aさんが言ったこと実行したにすぎない。これは、「言ったあと」だ。

けど、日常表現のなかでは、「言ったから」そうなったということが、言える。けど、現象として考えるなら、「あと」の非常に特殊なケースだ。

この場合も、じつは、言霊の力によってそうなったのではなくて、言葉の力によってそうなった。これ、言葉の力なのである。言葉には、意思伝達機能がある。言葉になにか不思議な力が宿っているから、なにか不思議な力によってそうなったのではなくて、ただ単に、命令されたほうが、命令されたということを理解しただけだ。

Bさんが、Aさんの部下でなければ、Bさんは、Aさんの命令通りに動くかどうかわからない。Bさんが、Aさんとおなじ会社に勤めていない場合は、Bさんは、Aさんの命令通りに動くかどうかわからない。

Aさんだって、自分がBさんに命令する立場だと思って、Bさんに命令しているのである。

AさんとBさんが、それまであったことがない関係だったら、いきなり、AさんがBさんに命令することは、ほとんどない。

会社の仕事に関係する用事を、以前あったことがないBさんに、命令するということは、ほとんどない。

かりに、命令したとしても、Bさんは、Aさんの命令通りに動かない場合が多い。Bさんが言うことをきかない確率が非常に高い。そして、Aさんが、精神病なのではないかとBさんが思う場合が多い。Bさんがそう思う確率が非常に高い。

言葉に言霊が宿っていて、その言霊が非常強烈な力をもっていると設定するなら、Aさんが会社の仕事に関係する用事を、以前あったことがないBさんに、命令する場合でも、Bさんは、言霊の非常に強烈な力によって、Aさんが言ったことを実行してしまうのである。

言霊の力によって、そうなると言うのであれば、当然、そうなる。

けど、実際には、そうならない。言霊なる非常に強烈な力がないからだ。

言ったら、言っただけで、言ったことが現実化されるのだ。それなら、Aさんが、「Cさんが一秒以内に死ぬ」と言っただけで、Cさんは一秒以内に死ななければならない。物理的な理由がなくても、超物理的な理由によって、Cさんが一秒以内に死ぬ。

物理的な理由を無視して、言霊のすごい力によって、Cさんが一秒以内に死んでしまう。

Aさんが「Cさんが一秒以内に死ぬと言ったから」死んでしまう。

そういうことはない。

Cさんが死ぬ場合は、ちゃんと、Cさんが死ぬだけの物理的な理由がある。Aさんが「Cさんが一秒以内に死ぬ」と言ったから、ほかになんの理由もないのに、言霊という超物理的な力によってCさんが一秒以内に死ぬということはない。

かならず、物理的な理由がある。

それに、言霊理論にしたがえば、そういう力をもっているのはAさんだけではないのである。

だれだろうが、だれかが言ったことが、超物理的な力によって、現実化されてしまうのである。

こんなことが成り立っているなら、そこらじゅうで、超物理的な現象が起こっている。

蚊という存在が気にくわないDさんがいたとする。Dさんがあるとき「地球上から、すべての蚊が消え去る」「蚊は、地球上に存在しなくなる」と言えば、蚊が存在しなくなるのだ。

言霊が力をもっている世界というのは、そういうことが頻繁に起こる世界だ。

そして、別の人がが、蚊が存在しなくなったことに驚いて、「地球上には、蚊が存在する」と言えば、こんどは、蚊が地球上に存在するようになるのである。

そういう、神のような力を、個々人がもっている世界を、想像しなければならなくなる。

言えば、言っただけで、言った内容が現実化するのである。

どんな場合でも、どんな言葉でも、現実化するのである。

実際には、そういうふうになってない。

「自分は、瞬間移動できる」と言っても、瞬間移動できないままだ。「生き返ると言えば、死んだ人は生き返る」と言っても、死んだ人は生き返らない。「走り幅跳びで、一〇〇〇キロメートルとべる」と言っても、一〇〇〇キロメートルとべるようにならない。言っても、現実化しない。

言霊主義者は「相手」に対して、無礼な発言をしている。

 言霊主義者は「言った」という別の原因について考えてしまう。そして、「そうなったのは、言ったからだ」と別の原因について言及することになる。これは、ちゃんと理由があって、くるしい状態になっている人にとっては、屈辱的なことなのだ。ここのところは、言霊主義者にはわからないと思うけど、言霊主義者は、たいへん「失礼なこと」をしている。たとえば、有機水銀の接種で、水俣病になった人は、有機水銀を摂取したから、水俣病になったのだ。これがまあ、ぼくの言うところの「ちゃんとした理由」だ。有機水銀で水俣病になった人が、「くるしい」と言った場合、体内に入った有機水銀と体の働きによって、「くるしい」と感じる事態がしょうじて、「くるしい」と言っているわけだ。ところが、言霊主義者は、「くるしい」と言ったから、くるしくなったと判断してしまう。水俣病になってくるしいと言っているのに、「くるしい」と言ったから、くるしくなったのだと考えてしまう。水俣病ということを認めるなら、「くるしいと言ったから、くるしいと感じる水俣病になった」と思ってしまう。まあ、水俣病と言うことをはさまなくても、言霊主義者は、「水俣病になると言ったから、水俣病になった」と考えてしまう。「言ったことが現実化する」と考えているのだから、そう考えてしまう。けど、言ったからではなくて、水銀を摂取してしまったから、水俣病になったのだ。だから、そういう「ちゃんとした理由」を無視して、「言ったからそうなった」と断言してしまう。「相手」のことについて、そういう勘違いをして、「相手」のことについて、別の理由を考え出して、「別の理由でそうなった」と言ってしまうのだ。別の理由というのは、この場合「言った」ということだ。「相手が言った」ということだ。「水俣病になる」と、実際に水俣病になった人が言わなくても、言霊主義者の頭のなかでは、「現に、水俣病になっているなら、水俣病になると言った」ということになってしまう。だから、そういう意味でも、「勘違いしたこと」を言っていることになる。「言ったことが現実化する」と考えているので、水俣病になったなら、どこかで「水俣病になる」と言ったにちがいがないと考えてしまうのだ。「ちがいかない」と言うのは、強い推量であって、断定ではない。けど、言霊主義者にとっては、それは、断定だ。事実、「水俣病になる」とその人が言ったから、その人は、水俣病になったと考えてしまうのだ。こういう意味で、言霊主義者は、「相手」に対して、無礼なことをする。しかし、言霊主義者は、「言霊は絶対だ」「言霊は、宇宙をつらぬく絶対法則だ」と考えているので、自分がまちがったことを言っているとは思わない。無礼なことをしたとは思わないのだ。言霊主義者が、いま書いたような説明を読んでも、納得しない。「言霊は絶対に正しい」と言って、「言霊が正しい」ということにこだわる。実際には、言霊ではなくて、言霊理論が正しいということにこだわるのだけど、言霊主義者が、言霊と言霊理論を区別しないので、言霊に関する、言霊主義者の発言について言及する場合は、そのまま、書く場合もある。

言霊主義者は認めないと思うけど、言霊主義者は「相手」に対して、無礼な発言をしている。

*     *     *

水俣病の場合が、一番説明しやすいので、水俣病の場合について語ったけど、これは、別に水俣病の場合だけではなく、ほかのことにも成り立っている。きちがい的な理由で、こどもを虐待する父親がいたとする。この場合、子供側の人間が「父親が自分を虐待する」と言ったから、子供側の人間が実際に「虐待されたのだ」と考えてしまうのだ。言ったことが現実化すると、考えるので、そういうふう人が得てしまう。どこかで、子供側の人間が「きちがい的な理由で、父親に虐待される」と言ったから、実際に「虐待される」ということが発生したと考えしまうのだ。言霊理論にしたがえば、そうなる。けど、これはまちがっている。たとえ、子供側の人間が「きちがい的な理由で、父親に虐待される」と言ったって、親がまともな頭を搭載しているのであれば、その親がきちがい的な理由で子供を虐待することはない。言ったって、虐待されない。「虐待される」と言ったって、実際には、虐待されない。親がまともなら、子供側の人間がどれだけ「親に虐待される」と言ったって、虐待されない。逆に、親がきちがい的な理由で虐待するような人間なら、「親に虐待される」と言わなくても、虐待される。きちがい的な理由で虐待される。親が正常なら、「虐待される」と言ったって、虐待されないけど、親が異常なら「虐待される」と言わなくても、虐待される。この、「やられたほう」が「言った」ということが原因で、そうなったと考えるのは、この世のなかでは、「不自然な考え」なのだ。何度も言うけど、言霊主義者は、言った人の言ったという行為にしか注目してない。虐待というようなことを考えると、虐待したほうと、虐待されたほうの二者がいるということになる。ところが、言霊主義者は、虐待されたほうのせいにしてしまうのだ。どんな場合でも、「虐待したほう」の話は、言霊主義者の話のなかには出てこない。言霊主義者の話のなかには「虐待されたほう」しか出てこない。これは、現実の事象を考えるなら、「不自然」なことだ。こういう思考の偏りについて、言霊主義者は、まったく考えてない。

その人……という言葉を使うと、問題があるので、とりあえず、Aさんともう人がいるとする。Aさんの身の上に起こったことは、Aさんが、「言ったから」Aさんの身の上にしょうじたと、言霊主義者は考えてしまう。Aさんが赤ん坊で言葉を話せないときから、ずっと、Aさんが言ったからそうなったと考えてしまうのだ。自己というものを考えるなら、Aさんの身の上に起こったことは、Aさんのまわりの人とはまったく関係なく、Aさんの自己内の「言葉」によってしょうじたと、言霊主義者は考えてしまうのだ。「自己」しか考えてないのである。「自己」を中心とした、自己にかかわりのある人は、出てこない。原因としては出てこない。相互作用は一切合切ないのだ。Aさんの自己内のことだけが問題なのだと考えてしまうのだ……言霊主義者は。そういう意味で、言霊主義者と自己責任論の相性はいい。

 「他人」について考えている考えている場合でも、その他人というのは、「自己」だけで存在する他人なのだ。ようするに、「自己内」の言葉だけが問題なのだ。これが、問題だ。実際には、この世の事象というのは、「自己内」で生成したものだけではない。この世の事象というのは、外界の物質や外界の人間と「自己」との触れ合いによってしょうじる部分もある。ようするに、外界の物質や外界の人間と「自己」との関係によってうみだされてしまう出来事がある。ところが、言霊主義者の場合は、「自己内」ですべてが完結してしまうのだ。(注1)

まあ、そういう意味では言霊主義者と「すべては受け止め方の問題だ」というような意見との相性はいい。

*     *     *

けど、これも、言霊主義者が、「言霊思考」をしているときだけだ。言霊主義者は、現実的な生活のなかで、「言霊思考」をしない場合がある。

*     *     *

たとえば、母親が赤ん坊を抱いていたとしよう。ところが、母親が、赤ん坊を床に落としてしまったとしよう。その場合、「母親が、自分を床に落とす」と赤ん坊が言ったから「床に落ちた」わけではない。あるいは、赤ん坊が「落ちる」と言ったから「落ちる」ということが現実化したわけではない。ところが、言霊主義者は、そういうことなのだということを、言っているのだ。赤ん坊のほうが「落ちる」と言ったから、「落ちる」ということが現実化したと考えるのだ。「赤ん坊が、落ちると言ったから、言ったとおりになった」と言霊主義者者は考えるのだ。けど、その赤ん坊は、言ってない。母親が落とした。落とされたほうの赤ん坊は、「母親が、自分を床に落とす」は言ってない。言ってないのだから、現実化しないはずなのである……言霊理論にしたがえば……。

言葉を使えない者が、どうやって、言葉を使うのだ? 言葉をしゃべれないとしても、いろいろな出来事が発生している。そういうことから考えても、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方は、まちがった考え方だ。 「言えば、言ったとおりになる」という考え方は、まちがった考え方だ。言わなくても、いろいろなことが発生している。「その人」が経験する「出来事」はその人が言った「出来事」だけではない。


2024年1月24日水曜日

言霊では対処できなかった。これが事実だ。

言霊主義者「そんなのは、言霊で簡単に対処できる」→俺「実際には、対処できない」→言霊主義者「そんなのは、言霊で簡単に対処できる」。これの無限ループなのである。対処できないのに、対処できるはずだという思考(妄想)が流通している。これだと、言霊で対処できるのに、言霊で対処しないからダメなんだということになってしまう。けど、どれだけ「すぐに鳴りやむ」と言っても、鳴りやまなかった。言霊では対処できなかった。これが事実だ。

くそ解決法が、役に立つ解決法として流通していることは、よくないことなんだよ。くそ解決法について語るやつは、それで、いい気分が味わえるからいいのかもしれないけど、実際に問題をかかえているに人にとっては、そういうくそ情報が流通していることは、悪いことなんだよ。

こんなの、ほんとうにこまっているやつを、おいつめることにしかならない。

こんなの、条件が悪いやつを、おいつめることにしかならない。

きちがい家族にやられちゃったやつ差別

 きちがい家族にやられちゃったやつ差別が、すごいんだよ。きちがい家族にやられたやつは、ほかのやつにもやられることになる。社会全体が、きちがい家族にやられちゃったやつをおいつめるような思想でいっぱいだ。いーーぱい、いーーぱい、差別がある。その差別の根本的な思想というのが、これまた、一般市民にしてみれば、正しいしそうに見えるのである。「いいことを言っている」と普通の人が思うようなことなのである。けど、それは、入り口で、出口は、「きちがい家族にやられちゃったやつ」の人に対する差別行為だ。障害者差別よりも、きちがい家族にやられちゃったやつ差別のほうが、問題がある。障害者差別よりも、きちがい家族にやられちゃったやつ差別のほうが強烈だ。「正しいことをしている」「正しいことを言っている」と思っているわけだからなぁ。これ、ほんとう、差別行為なのにまったくわかってないな。一種の、いじめ、一種の、いびりだということがわかってないんだよな。ともかく、きちがい家族にやられちゃったやつ差別が、すごい。きちがい家族にやられたやつは、ほかのやつらにもやられる。これが、悪魔側がつくりだした世界の現実だ。この人たちは……一般人は、知らず知らずに、悪魔に誘導されて、悪い行為をしている。けど、気がつかないんだよ。

自信をもって、まちがったことを言うな。

 きちがい兄貴がやったことの「総量」というものが、みんな、みんな、みんな、わかってない。不可避的にどういう状態になるか、みんな、みんな、みんな、わかってない。わかってないところで、くそを言う。

自分はそうならなかった」という立場でくそを言う。もちろん、自分はやられたけどそうならなかったわけじゃない。やられてないから、そういう状態にならずにすんだだけだ。

だから、別に能力的なちがいではないのだけど、能力的なちがいがあると勘違いして、「自分はそうならなかった」という立場で、くそを言うのである。くそを言うのである。

そして、たとえば、言霊みたいな話だけど、言霊みたいな話をする人は、みんな、みんな、みんな、地震をもっている。言霊理論に自信をもっている。これが、どれだけ幼稚なことか、ぜんぜんわかってない。

自信をもって、まちがったことを言うな。

でたらめなことを言うな。

ほんとうに、でたらめなのに、「真実」だと思っている。

くそえらそうな態度で、くそなことを言ってくる。

けど、この人たちは、きちがい家族に毎日毎日、ずっとずっと、何時間も何時間も、きちがい騒音でじゃされたことがないので、そういう騒音生活全体がどういうことなのかわかってないのだ。

これの、影響は、この人たちが考えているよりもずっとでかいことなんだよ。

けど、この人たちは、過小評価する。無視する。影響を無視する。影響のでかさを無視する。影響の不可避性を無視する。

だから、やられてないところで、「自分がやられたって平気だ」ということを、ずっと言うわけである。それは、やられてないから、わかってないだけだ。

この理解力のなさというのが、ひどいのである。理解力のなかさが、……これは、言ってしまってはいけないことなのだけど……きちがい兄貴とおなじだ。相手の状態が、まったくわかってないのである。

けど、きちがい兄貴は、俺にやった人間だけど、そういう人たちは俺にやった人間ではないのである。そのちがいがある。だから、そのちがいを認めている。理解力のなさは、きちがい兄貴とおなじだけど、ほかのところはちがっている。理解力のなさにかんしても、きちがい兄貴は頭の構造がおかしいから、理解できないのだけど、ほかの人は、ただ単に経験がないからわかってないだけだということは、理解している。

2024年1月23日火曜日

おーーーきな、おーーーきな、溝がある。

 ヘビメタ騒音で、すべてがない。ほんとうに、高圧状態で暮らしていた。あんな生活はない。あんな生活をし続けて、健康でいられるわけがない。けっきょく、きちがい家族による、きちがい騒音をぼくより経験した人がいない。たいていの人は、きちがい家族がいないので、そもそも、そういう経験がない。家族の騒音といったって、たいていは、すぐにやむ。けど、きちがいだから、やまない。さらに、ほかの人には、わかりにくいところなのだけど、きちがい親父が黙認してしまうのだ。これ、「そんなにうるさい音で鳴らしているのに家族が文句を言わないはずがない」と、ふつーーーーーの人から言われてしまうのだ。さらに、そのふつーーーーの人たちは、「だから、エイリさんは嘘を言っている」と思ってしまうのだ。こんなの、ない。きちがい兄貴と、きちがい親父が両方とも、きちがいなので、俺がこういう誤解をうける。これ、スタンダードなのである。フツーの人たちにはわからないけど、ハンダゴテ事件の構造は、きちがい親父にかかわるほとんどすべての事件で成り立っている。そして、きちがい兄貴は、きちがい親父のコピーなので、ヘビメタ騒音事件にも、こういう構造が成り立っているのだ。よその人から見えない「うちのひと」がきちがい的な意地で、きちがい的な反応をするから、「こっち」が普通の人から、バカにされたり、誤解されたりする。これ、どんな事件でも、根底では成り立っていることだ。けど、きちがい家族といっしょにすごしたことがない人は、それがわからない。普通の人が言っている「困難」「苦労」というのは、じつは、きちがい家族にたたられたことがない人の「困難」であり「苦労」なのだ。これは、質的に、ちがうことなんだよ。ほかの人がかかえている「困難」「苦労」と、きちがい家族と一緒に暮らしている人の「困難」「苦労」はちがう。けど、普通の人は、きちがい家族との間にしょうじた「困難」も「苦労」も経験してないのに、きちがい家族と一緒に暮らしているからこそしょうじた「困難」や「苦労」について語りだしてしまう。「俺だって、苦労した」「俺だって困難を経験した」と言う。けど、ちがう。ちがうんだよ。それは、言霊主義者が、言霊理論について誤解しているように、誤解がある。どのみち、ウソの言霊理論に依存した「助言」がどれだけ、有害か、言霊理論を信じているひとは、わからない。言霊理論が……正しいと思ってる人はわからない。それとおなじように、きちがい家族と一緒に住んだことがある人と、きちがい家族と一緒に住んだことがない人のあいだには、おーーーきな、おーーーきな、溝がある。これ、きちがい家族と一緒に住んだことがない人は、きちがい家族との間にしょうじる問題の質が、根本的にわかってない。わかってないところで、助言をする。「俺だって、苦労した」「俺だって困難を経験した」と言う。きちがい家族にやられた人だけ、理解できる。もっとも、きちがいの質がちがうと、やられることもちがうので、きちがい家族にやられた人同士でも、話があわないことがある。だから、おなじタイプのきちがい家族にやられた人とだけ、話があうということになる。きちがい家族にやられたことがない人は、さかだちしても、きちがい家族との間に発生する問題の本質がわからない。わからないんだよ。根本的にわからない。そして、きちがい家族ではなくて、きちがい家族にやられた人の、悪口を言い出す。きちがい家族にやられたほうを、悪く言う。

2024年1月22日月曜日

きちがい的に意地をはってやった行為の時間というのが、まったくぬけているのとおなじなんだよ

 やる気というのは、「やる気よ出てこい」と自分に命令すれば、出てくるものではない。これは、じつは、過去のいきさつが重要だ。繰り返された現実が重要だ。現実的な出来事の連鎖が重要だ。そりゃ、だれだって、最初はきれいごとを言って頑張るけど、そのうち、だめになる。一キロ走っている人の状態と、二〇〇〇キロ走っている人の状態は、ちがうのである。

ヘビメタがどれだけきついかわかってないなぁ。ヘビメタ騒音生活がどれだけきついかわかってないなぁ。ヘビメタ騒音生活の連続がどれだけきついかわかってないなぁ。だれにだって、苦手な音はある。ヘビメタが好きな人にとっては、ヘビメタの音は苦痛ではないけど、俺は、ヘビメタの音が苦手な音なので、苦痛だった。それも、床からの、超細かい振動が影響をあたえているみたいなのである。

きちがい兄貴が鳴らした音というのは、でかい。これは、ほんとうに、普通の家では鳴らせない。普通の家で、きちがい兄貴が鳴らしたい音で、一分でも鳴らした「うるさい」と家族が文句を言って、やめさせられる音だ。きちがい兄貴にしたって、マンションに住んでからは、持ち日に一分も鳴らせないのである。そういう音で、自分の気がすむまで、がめてがめて、全部ががめて、鳴らしていた。当時のきちがい兄貴にとっては、それで当然だったのである。もちろん、これには、きちがい親父に対する復讐心がかかわっている。これ、きちがい親父が、うちでずっとやってきたことなのである。自分のきちがい的な意地をとおして、きちがい的な行為を絶対の意地で、どれだけ家族が反対してもやりきるということずっとやってきた。そして、本人だけは、まったくそういうつもりがないのである。これ、自動機械なんだよ。爆発的な意思でやるけど、本人は、他人からどれだけなにを言われても、自分と相手が言っていることがまったく関係ないことのように思えるのである。まあ、本当は、もっとひどくて、ほんとうにほんとうに、「関係」がまったくわからない。たとえば、きちがい兄貴で言えば、自分がきちがいヘビメタをでかい音で鳴らしているわけだから、「うるさいからやめてくれ」と言われたら、相手が言ってきたことと、自分がやっていることの関係が、わかるはずなのである。ところが「やめてくれ」と言われたら、逆上して、「関係性」をぜんぶ、度返しにして、認めないまま、遮断してしまうのである。だから、本人はまったく関係がないつもりのままなのである。これがこまるんだよ。おやじが、きちがい兄貴との関係で、ハンダゴテを買ってやらないということをしたのだけど、それで相手がこまっているということは、発狂して認めないのである。「つかえるつかえる」と絶叫したら、もう、それで、「関係」が切れているのである。だから、言われるたびに、そうやって、発狂して、本人が怒り狂えば、それで、本人としては、関係がないまま、すんでしまっているのである。これが、きちがい兄貴のヘビメタとまったく同じなのである。きちがい親父の竹事件、きちがい親父の悪臭事件、きちがい親父のネズミ事件、きちがい親父のネズミ工事事件、全部が全部、そういう構造が成り立っている。で、本人は、ほんとうに、「そのとき」怒り狂うだけで、ぜんぜん関係がない人のままなんだよ。これが、こまるんだよ。「ぜんぜん関係がない人のまま」というのは、ようするに、ほんとうに、そのことに自分がかかわっている気分というのがまったくない。けど、きちがい的な意地でごり押しする。殺してやめさせないと、やめない。けど、自分がそうやって、踏ん張って、やったというつもりが、ほんとうにないんだよ。一日に一三時間、きちがいヘビメタを鳴らして、一日に四〇回文句を直接言われても、自分が、一三時間ヘビメタを鳴らさないでしずかにしたときの気持ちとおなじなんだよ。きちがい的に意地をはってやった行為の時間というのが、まったくぬけているのとおなじなんだよ。これ、こまるんだよ。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音事件は、きちがい親父のすべての事件をあわせたものよりも、ずっとずっと大きな影響をあたえている。これ、ほんとう、みんなわかってない。どれだけ足をひっぱられるかみんなわかってない。ほんとうに、きちがいヘビメタ騒音があの距離で、あの音で鳴っていると、宿題ができない。けど、宿題ができないということを、俺がほかの人に……教師を含めて……ほかの人に言っても、ほかの人は、宿題ができないということを認めないである。これ、だれだって、苦手な音があの音のでかさで鳴ってたら、できなくなる。けど、ほかの人にはきちがい家族がいないので、そういうことがない。みんな、ヘビメタ騒音の話を聴いて、フォークギターや三味線ぐらいの騒音だと思っているみたいなのだ。そんなんじゃない。普通のステレオ騒音ぐらいの騒音だと思っているみたいなのだ。そんなんじゃない。そんなんじゃない。

一度スイッチが入ってしまうと

 きちがい兄貴は、きちがいなんだよ。みんな、きちがい家族がやることが、ぜんぜんわかってないなぁ。ほんとうに、殺さないと、どでかい音で鳴らし続ける。そして、これが、親父と兄貴で同じなのだけど、一度スイッチが入ってしまうと、四六時中、そのモードで暮らすことになる。どれだけ、しつこく鳴らすか、ぜんぜんわかってない。そして、どれだけ「やめてくれ」と言っても、やめないのだけど、やめなかったというつもりがまったくないという状態で生活している。生きている。こんなのも、普通じゃないのだけど、現実的に言って、毎日層う状態で暮らしているのである。

ひとづきあい

 ヘビメタ騒音以降のひとづきあいというのは、悲惨なものだ。あらそいのタネがある。あらそいのタネは、きちがいヘビメタ騒音だ。きちがいヘビメタ騒音の連続によってつくりだされた、ぼくの体調だ。睡眠不足だ。どれだけ、だるい体をひきずって、表面上はそれがわからないように、元気を出してふるまっているか? 限界がある。

どれだけきれいごとを言っても、ヘビメタ騒音が……日常のヘビメタ騒音が、体調に影響をあたえる。睡眠に影響をあたえる。どれだけきれいごとを言ったって……。

まわりの人というのは、全員、きちがい家族による、きちがい的な騒音にたたられて生きているわけではない。全員、きちがい的な家族による、毎日の、きちがい的な騒音を経験してない。経験してないで、まるで、言霊主義者のよなことを言うのだ。言霊主義者の認知と、ぼくの認知のあいだにどれだけでかいミゾがあるかということをずっと、語ってきた。そして、言霊主義者は、矛盾を指摘されたあとも、言霊理論が絶対に正しいと言ってゆずらないだろう。まさに、そういう関係だ。 きちがいヘビメタをやられると、言霊主義者に、なめられるのである。ごく自然に、「いやなこと」を言われるのである。きちがいヘビメタ騒音にやられると、……家族が鳴らすきちがい騒音にやられると……それが、決定してしまう。

 

2024年1月21日日曜日

相手の条件

 Aさんにとってあきらかなことと、Bさんにとってあきらかなことはちがう。たとえば、Aさんが、自分の部屋にいて、この部屋には蚊がいないということを、確認したとする。Aさんにとっては、蚊がいないということは、あきらかなことだ。その部屋には、窓がないか、あるいは、窓はきっちり閉めてあって、蚊がはいってくることはないとする。その場合、Aさんの認知は正しいということになる。しかし、Bさんは、条件を無視してしまう言霊主義者だとする。言霊主義者は、相手にとってあきらかな条件でも、勝手に無視してしまう。無視してしまえば、本人のなか……その言霊主義者のなかでは「ない」ことなのである。あるいは、結果に影響をあたえないことになのである。Aさんにとって、この部屋には蚊がいないということがあきらかであっても、Bさんは、蚊がいないという条件を無視ししたとする。言霊主義者は、「どんな条件でもこうだ」ということになれているので、普通に、相手の条件を無視する傾向がある。だから、Aさんにとってはあきらかな「部屋に蚊がいない」という条件を無視して、「蚊に刺される」と言えば、蚊に刺される」と自信をもって言うことができる。ただ単に、相手の事件を無視して、ありえないことについて語っているのだけど、本人は、認めない。

*     *     *

ヘビメタ騒音にさらされて七年間生活すると、通勤できなくなるということは、ぼくにとって「あきらかなこと」なんだよ。経験的に「あきらかなこと」であるわけ。けど、ほかの個体は、そういうことを経験してない。経験的に「あきらかなこと」であるということを理解できない。そうすると、言霊主義者にとっては「できると言えばできる」ことになってしまうのである。また、言霊主義者ではない者にとっても、経験的にわからないことだから、「そんなことはないのではないか」と思ってしまうことなのである。

ぼくとしては、まったく、なっとくが、いかない。なっとくがいかない。なっとくがいかない。みんな、七年間生活すると、通勤できなくなるということを理解しない。経験がないから、理解しないのだろうけど、ともかく、理解しない。こっちにとっては成り立っている条件なのに……いやというほど思い知らされている条件なのに……他人は、そういう条件を無視して、バカげたことを言うのだ。無理なことを言うのだ。けど、他人は、そういう条件を無視しているということを、認めない。無視しているのだけど、無視しているということ自体がわからない。

 

「蚊に刺される」とどれだけ言っても、蚊に刺されない

 蚊のいない部屋で「蚊に刺される」とどれだけ言っても、蚊に刺されない。言ったことが、現実化しない。蚊のいない部屋で「蚊に刺される」と言うと、どこからともなく、蚊が出現して、蚊に刺される……。そんなことはない。「蚊がこの部屋のなかに出現する」と言うと、蚊が出現する……。そんなことはない。

蚊に刺されると、刺されたところが隆起して、かゆくなる。これは、物理的な反応だ。蚊が血をすいやすくするために出した液と、体の反応だ。免疫反応なのである。

蚊がいないところで、「蚊に刺される」と言っても蚊に刺されないということを言ったけど、自分の意思では、蚊に刺されたときの反応を引き起こすことができないのだ。

実際に蚊に刺されたから、物質が体の中に入り、からだの中に入った物質と自分が供給した物質の物理的な運動により、刺されたところが隆起する。ふくらむ。このふくらみを、自分でつくることができるのかと言うと、できない。

言えば言ったことが現実化すると言っているけど、蚊に刺されるということですら、現実化しないのだ。

そして、蚊に刺されたように肌が隆起する言っても、隆起しない。蚊に刺されるということだけではなくて、蚊に刺されたようなかゆさを感じるとか、蚊に刺されたような隆起ができるということですら、言っただけでは、現実化されないのだ。

「かゆいと言うからかゆくなる」と言霊主義者は言うけど、ほんとうは、「かゆい」と言っても、かゆくならない。言霊主義者が、主張にあわせて「かゆくなった」と自己申請するだけだ。

*     *     *

「蚊に刺されるまで何回でも言えばいい」と妄想的言霊主義者は言うのだ。

「一回言っても、願いがかなわないのであれば、願いが叶うまで何回でも言えばいい」……こんなことを言う。

蚊のいない部屋にいて、「蚊に刺される」と何回言っても、蚊に刺されない。これは、決まっている。

こういう無理なことを、言霊主義者は、ほかの人におしつける。

どれだけ言ったって、現実化する要素がないところでは現実化しないのに、要素なんて関係なく、言えば現実化すると主張する。どんな条件だって、どんな状態だって、「言えば、言ったことが現実化する」と言うのだ。

悪質な言霊主義者が、ほかの人に「むだな努力をさせる」のだ。むだな努力。嘘八百。根本に嘘があることを言って、ほかの人にむだな努力をさせようとする。

*     *     *

ついでに言っておくと、意志教徒は、自分のからだのことなら、自分の意志で制御できると思っているのだけど、意志教徒にしたって、蚊に刺されたようなかゆさも、蚊に刺されたときの物質の運動を……自分の意志でつくりだすことができない。これは、自分のからだのなかを制御できないということだ。物理的な反応を、自分の意志で制御できない。

*     *     *

もう言ったことだけど、言霊主義者だって、普段は、蚊に刺されたあと、かゆいと思っているのである。かゆくないのに、かゆいと言ったから、かゆくなった……と思っているわけではないのである。かゆくないのに、「かゆい」と言うと、かゆくなる……そんなことを考えているわけではない。

蚊がいないところで「蚊に刺されてかゆくなる」と言うと、蚊に刺されるということが、言霊の不思議な力によって現実化され、さらに、言霊の不思議な力によって、かゆくなるということが現実化されるわけではない。そんなの、言霊主義者だって知っている。

*     *     *

言霊主義者の意識的な主張は「かゆいと言うから、かゆくなる」ということだ。ところが、言霊主義者だって、蚊に刺されたあと、かゆいと感じて「かゆい」と言っているのである。それには、蚊の出す液とからだの反応が必要だ。それは、「言ったから」起こることではないのである。 

「かゆいと言うから、かゆくなる」というのは、かゆいと言ったことが原因で、かゆくなるということを言っているということになる。ところが、普段は、自分の身に起こったことにかんしては、普通に、ほかの原因でかゆくなったと思っているのだ。かゆくないときに、「かゆい」と言うと、「かゆい」と言ったので、「かゆい」と言ったことが原因になって、実際にかゆくなると、言霊主義者は言っているわけだけど、普段は、言霊主義者だって、そんなことは考えてない。

普段は、蚊に刺されてかゆくなったなら「蚊に刺されたから」かゆくなったと思っている。刺されたあと、かゆくなるのである。蚊に刺されるまえに、蚊に刺されてかゆくなると言ったから、蚊に刺されるということが現実化して、かゆくなったのではない。

だいたい、蚊に刺されるとかゆくなるということは、現実化したあとに、学習することなのである。ようするに、蚊に刺されるとかゆくなるいうことを経験したあとの話なのである。

そして、蚊に刺されるとかゆくなるということは、蚊の出す液の性質とからだのしくみによって決まっている。「言ったかどうか」とは関係がない。

「言ったから」かゆくなるのか? そんなことはない。

「かゆくなると言った」というとが原因で、かゆくなるのか? そんなことはない。

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おなじことだけど、言霊主義者は頑固に認めないのでもうちょっと、説明しておく。赤ん坊のころ、かゆいという言葉を知らなかったとする。けど、赤ん坊でも、蚊に刺されれば、からだのしくみが正常なのであれば、のちに、「かゆい」と表現するような感覚がしょうじる。これは、何度も言うけど、からだのしくみによって引き起こされる反応だ。「かゆい」という言葉を知らなくても、「かゆい」という感覚はしょうじている。

竹藪のなかに入るまえに、「蚊に刺されてかゆくなる」と言った場合について考えてみよう。この場合は、蚊に刺される可能性があり、蚊に刺される確率が非常に高いので、「蚊に刺されてかゆくなる」という推量があたりやすい状態になっている。この場合でも「言ったから」ではなくて、刺されたから、かゆくなっている。「蚊に刺されてかゆくなる」と言ったということが、「原因」ではなくて、実際に蚊に刺されたということが「原因」になってかゆくなっている。蚊がたくさんいるところにはいっていったのだから、蚊に刺される確率があがっただけだ。蚊に刺されれば、体の反応によって、刺されたところがかゆくなる。「かゆくなる」と言ったことが原因で、かゆくなっているわけではない。

2024年1月20日土曜日

言霊などという、妄想を信じるだけの余裕がある

 絶体絶命的に不利な人が、絶体絶命的に不利ではない人に、ウソを吹き込まれることになる。

絶体絶命的に不利ではない人というのは、そういう状態で暮らしている。

結果的に、もし、言霊なるものを信じることができるのであれば、それは、本人がどれだけ「自分だってつらい思いをした」と言っても、絶体絶命的に不利な人が経験しているような「つらい思い」をしてないということになる。

なんでかというと、言霊理論などという、妄想理論を信じるだけの余裕があるから……。これ、そんな余裕がなくなるほど、おいつめられて、くるしい思いをする。それがずっと毎日、連続する。持続する。

それが、絶体絶命的に不利な人の状態だ。

絶体絶命的に不利な状態の人は、「言霊的な解決法が無意味だ」「言霊的な解決法は有害だ」ということに、いやおうなく、気づく。これ、気がついてしまうのだ。

気がつかないわけがない。

言霊なんて言ってられる人は、じゅうぶんに、余裕がある状態で暮らしている。本人が「つらい」と言ったって、そんなのは、絶体絶命的に不利な人が経験している「つらさ」ではない。

絶体絶命的に不利な人は、いやおうなく、気がつく!! 気がつきたくなくても、気がつく。一〇〇%で、いやおうなく、気がつく!!

気がついてないのだから、絶体絶命的に不利な状態ではなくて、余裕がある状態で「ことだまことだまことだま」と言っているだけだ。

それは、絶体絶命的に不利な状態の人が経験しているような「つらさ」じゃない。質がちがう。量がちがう。いいかげんなことを言うな!! いいかげんなことを言うな!!

絶体絶命的に不利な状態で暮らしていると、ぜんぜんわかってない凡人に、えらそうなことを言われるようになる。それ自体が、不愉快なことだ。

ほんとうーー、つかれたなぁ

  ほんとうーー、つかれたなぁ。いきているだけでほんとうにつかれたわぁーー。あーーあ。ほんとうにくるしい一生だったなぁ。だれもわかってくれないけど、きちがい家族の騒音がくるしかった。あの生活はない。鳴らされている最中も、鳴らされたあとも、ずっとずっと、影響がある。影響をうける。きちがい家族と一緒に住んだことがないやつが『影響をうける必要はない』などと言ったって、だめなのだ。こういうレベルの発言なんだよなぁ。ぜーーんぶが、ぜんぶ。他人の発言は、こういうレベルの発言だ。自分が一倍速で経験してみろって言うんだ。

普通の人が鬼になって、うまれながらに絶体絶命的に不利な人をおいつめるようになる

 何度も何度も言うけど、「人間はすべておたがいさま」とか「すべては自己責任」とか「努力をすれば成功する」とか「言ったことが現実化する」とか「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」とかということは、全部、うまれながらに絶体絶命的に不利な人を、おいつめるための言葉だ。

「もう、むりだ」と言わせないための言葉だ。

こういう、見かけはいいけど、ほんとうは、きちがい的に悪い意味をもっている言葉をはやらせたのは、悪魔側の人間だ。これ、じつは、悪魔側が洗脳用に提供したコンセプトだ。

これを「いいものだ」と思っていると、普通の人が鬼になって、うまれながらに絶体絶命的に不利な人をおいつめるようになる。

こういう考えが、じつは悪い考え方だということに気がつくには、「連鎖」を考える知性が必要なんだよ。けど、普通の人は、そんな知性をもってない。「単純なのが正しい」と言って、考えることをやめてしまう。「矛盾がある」ということを指摘されても、「矛盾なんてない」という考え方を保持したまま、生きていく。

2024年1月19日金曜日

これ、くるしんでいる人にとってみれば、侮辱的な言葉なんだよ

 言霊主義者というのは、状態や原因を無視してしまう。相手が、有機水銀で水俣病になってくるしんでいても、相手がくるしいという状態や、有機水銀によってくるしみを感じる状態になったということを、無視してしまう。無視して「つらいと言うからつらくなる」「くるしいと言うからくるしくなる」とアホなことを言う。これ、くるしんでいる人にとってみれば、侮辱的な言葉なんだよ。こんな妄想が、正しいこととして、流通しているということは問題だ。

本人だって、階段から落ちれば、痛いと感じたあとに、痛いと言っているのに、「痛いと言うから痛くなる」という理論を信じているのだ。時系列的な出来事の順番を無視して、まったく関係がない理由を探してきて?「言ったから、そうなった」と言うのである。こんなの、屈辱。ちゃんと理由がある人にとってみれば、こういうことを言われるのは、屈辱でしかない。

2024年1月18日木曜日

これは、言霊主義者がでたらめを言っているということを意味している

 自分が言わなかったことが、現実しかなかった場合については、自分が思っても、言わなかったことがあるかもしれないので、そのまま、自分が言わなかったことが現実しなかった場合という項目を書いたけど、自分が思わなかったことが現実化しなかった場合については、不定になる。

だって、自分が思わなかったことが、現実化しなかったとき、どうやって、現実化しなかったということを知覚・認識できるのかという問題がある。こんなの、項目としても、入れていいのかどうか、まよう。

自分の思いが、外面に反映するはずだという感覚は、幼児的万能感がもたらすものだ。

幼児的万能感にしたがえば「自分の内面に一致して、自分の外面(外界)が、動くべき」なのである。けど、これは、事実ではない。自分の内面に一致しないことが、自分の外面で、たくさん発生している。

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言ったことが現実化すると言うけど、自分が生まれるまえに、「生まれる」と言ったから、うまれるということが現実化したのかという問題がある。もちろん、言葉を知らない赤ん坊は「うまれる」と言うことができない。

自分が言わなくても、母親が言えば、「言ったことが現実化したことになる」と言霊主義者は言うけど、自分にとって母親というのは、他者だ。

言霊主義者の場合、ご都合主義なので、突然、他者が言ったことでも、言ったことが現実化するということを言い出すけど、ほんとうは、自分が言ったことが、外界で現実のものになるという意味で、「言ったことが現実化する」と言っているのだ。

他者が言ったことまで、現実化すると言うのであれば、見境なく、いろいろなことが発生するということになる。これは、自分が言わなかったことが発生する可能性があるということを意味している。

実際、自分が言わなかったのに、だれが他者が言ったので、その他者の言ったとおりになったというのは、自分にとっては、「言わなかったことが現実化した」ということになる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。このふたりが、勝負をする予定があるとする。

結果の可能性としては、(一)Aさんが、勝つ (二)Bさんが勝つ (三)引き分けになる (四)勝負がおこなわれない という四つの可能性があるとする。この場合、試合続行不可能というような状態になった場合は、(三)の引き分けになるということにふくめるとする。

ともかく、この四つ以外の可能性がないとする。

まあ、じゃあ、五目として、四つ以外のことが起こるという項目を設けておこう。その場合、かならず、五つの項目のうちどれかになる。

自分がAさんが勝つと言った場合、普通の意味で、言霊思考というのは「自分が言ったことが、現実化する」ということだから、もちろん、Bさんが勝ったときは、言ったことが現実化しなかったということになる。

けど、Dさんが勝負のまえに、Bさんが勝つと言ったとしたら、「Bさんが言ったことが現実化した」ということになる。どんな場合でも、「だれかが言った」ということにすると、どんな結果が出も、「言ったことが現実化した」のだから、言霊理論は正しいはずだと(言霊主義者は)思うことになる。

けど、だれかが言ったということをどう証明するのか?

そして、こっちのほうが肝心なのだけど、どんな結果が出ても、だれかが言ったから、「言ったことが現実化するということは正しい」と主張するなら、「言ったことが、現実化する」と、わざわざ言う意味があるのかということになる。

そりゃ、なにが起こっても、「だれかが言ったから現実化したのだ」ということになれば、特に「自分が」言ったことが現実化するということについてのべなくてもいいことになる。

そして、「だれかが言った『から』現実化したのだ」と書いたけど、それはほんとうに、だれかが言ったから、現実化したのかという問題がしょうじる。

「Bさんが勝つ」とDさんが言ったから、Bさんが(言霊のすごい力で)勝ったのか?

Dさんの発言とは関係なく、Bさんが、勝ったのではないか。なんで、Dさんの発言が、そんなに大きな影響をあたえると考えるのだ。BさんがAさんよりも、いろいろな点ですぐれていたから、Bさんの実力で、Bさんが勝ったということにはならないのか?

Dさんの発言というのは、そんなにも力があることなのか。Dさんは、BさんともAさんとも関係がない、一個人だ。Bさんがどれだけ弱くても、Dさんがひとこと「Bさんが勝つ」と言えば、Bさんが勝ってしまうものなのか?

Dさんが「Bさんが勝つ」といった「あと」、Bさんが別の原因で勝ったのではないのか。Dさんが「Bさんが勝つ」と言ったということ、Bさんが勝つ原因になってないのではないか。

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AさんとBさんが試合をして、Aさんが勝つか、Bさんが勝つかどっちかになるという場合について考えてみよう。その場合、Eさんが、Aさんが勝つと言い、FさんがBさんが勝つと言ったとしよう。Bさんが勝って、Aさんが負けたとする。その場合、Eさんが言ったことは現実化しなかったということになる。まさに「言ったことが現実しかなかった」ということになる。「言ったことが現実化しない」場合もあるということになる。「言ったことが現実化する」と、どの口で言うのだ?

言ったことが現実化することもあるし、現実化しないこともある……。それなら、現実化しないこともあるのだから「言ったことが現実化する」とは言えない。これは、ほんとうは、言霊主義者が言う「言ったことが現実化する」というのは、「一〇〇%の言ったことが、一〇〇%現実化する」という意味なのだけど、言霊主義者が卑怯にも、「言ったことが現実化しない場合だってある」という意味を 「言ったことが現実化する」という言葉のなかにふくめているので、言霊主義者は、正反対の結果に遭遇しても、まったく矛盾を感じないのだ。

ある言霊主義者が「アバウトでいいんだ」と言ったことがある。「言ったことが現実化する」「言ったことが現実しかないときだって、ある」「アバウトでいいんだ」……と言っているのである。これは、言霊主義者がでたらめを言っているということを意味している。

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「言ったことが現実化する」→「言ったこととは、正反対のことが現実化する」→「言った通りになる場合もあるし、言ったと通りにならない場合だってある」→「言ったことが現実化する」→「アバウトでいいんだよ」

まあ、だいたいこんな流れになる。それから、「単純だから正しい」と言う。

ようするに、「言ったことが現実化する」という言霊理論は、単純なので正しいと言うのだ。これは、正しさにこだわてっいるということにはならないのか?

「言霊理論の矛盾を指摘したものは、正しさにこだわっているからダメなんだ」などと言うのだ。自分が、「単純なのが正しい」「言霊理論は単純だから正しい」と正しさにこだわりまくりなのに、なにを言うのか? まあ、実際には言霊主義者は「言霊は単純だから正しい」と言ってしまうのだけど、今回は、この問題については言及しない。

だいたい、「アバウト」という言い方にも、ごまかしがある。「アバウトなのが正しい」「こんなのは、アバウトでいいんだ」という意味で、言霊主義者が「アバウト」という言葉を使うのだけど、「アバウト」という言葉であらわされていることは、程度が、たいして、ちがわないということなのである。程度において、さしてちがいがない場合は、「アバウト」という表現でいいと思うけど、正反対のことが成り立っている場合は、「アバウト」という表現は不適切だ。

どれだけ、アバウトに言っても、言霊理論は正しくない。どれだけアバウトに言っても、言霊主義者の発言には矛盾したところがある。アバウトに言えば、「矛盾してない」ということにはならない。

この場合の「アバウト」という言葉は、矛盾を正当化するために使う言葉になっている。

どれだけでたらめなことを言っていても、アバウトに考えれば、正しいのである。言霊主義者はそういうふうに考えるのだろう。そのわりには、「言霊は絶対に正しい」「言霊は絶対だ」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」などと言うのだ。「絶対に正しい」と言って、正しさにこだわっている。「アバウトでいい」ということは、「正しさにこだわらなくてもいい」ということだ……。……ある言霊主義者にとっては、そういうことだ。その言霊主義者が、正しさにこだわって「言霊は絶対に正しい」と言っているのだ。こういうところでも、矛盾しているなぁ。

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言っちゃ、悪いけど、「矛盾を指摘されても、でたらめなことを言い続ける」「自分は矛盾してないと思っている」ということころが、ほんのちょっとだけ似てるんだよなぁ。言霊主義者と、うちの親父やうちの兄貴は、そういう点で、ほんのちょっとだけ似ているところがある。どれだけ指摘されても、「矛盾」は頑固に無視。頑固に無視。頑固に無視。ずっと、矛盾したことを言い続ける。矛盾は、頑固に無視。矛盾は、頑固に無視。

普通の人は、「ふり」をするだけだ。

 ともかく、ほかのやつが「まったく想像することができないような」不愉快な出来事を経験するようになる。それも、日常茶飯事だ。「わかってないやつ」が勝手に、ヘビメタの影響を過小評価して、きちがい的なことを言ってくる。そいつだって、おなじ状態でやられたら「できなくなる」のに、やられてないからわからない。ほんとうに、きちがい兄貴のやり方が異常なんだよ。きちがい兄貴の感覚が、きちがい親父と似ていて、異常なんだよ。あんなの、「ふりをして」やろうとしても、できないことだからな。ほんとうは、自分が「よその家で鳴らせないようなでかい音」で鳴らしているのに、「フォークギターぐらいの音」で鳴らしているように思うこと、なんてできない。普通の人は、「ふり」をするだけだ。ところが、きちがい兄貴は、きちがいとして完全なので、自分の都合がいいように、感覚器を書き換えてしまう。耳が聞こえにくくなってしまう。そのときだけ、耳の感度が、きちがい的におちるのである。

ともかく、そういうことで、ほかの人がまったくわからないようなことが発生すると、ほかのやつが、これまた、自動的に誤解するようになるんだよな。

 

 

 

「地球が存在する」とだれかが言ったから、地球が存在するようになったのではない

 言霊主義者だって、階段から落ちるまえに、階段から落ちると言ってないし、痛いと感じるまえに、痛いと言ってない。

物理的な理由により、痛さを感じたあと、痛いと言っている。ほぼ同時である場合もあるけど、痛さを感じたあとに、痛いと言っているのだ。

「痛いと言う『から』痛くなる」と、言霊主義者はよく言うけど、痛さを感じたあと、痛いと言っている。言霊主義者だって、痛くないのに、「痛い」ということは少ないはずだ。そして、痛くないのに痛いと言うと、痛いと言ったから、痛くなるというケースは、ほとんどないはずだ。

ただ単に「痛いような気がする」というような感じだろう。実際に痛くなくても、「なんとなく、痛いような感じがするんじゃないかな」というような、めちゃくちゃに弱い痛さしか感じていない。「痛いと言ったから感じる痛さ」は、そういうレベルの痛さだ。

自己申告制なので、「痛いと感じた」と言っているだけだ。

ほんとうは、痛さなんて感じていない。「痛い」ということ以外に、痛いと感じる理由がない場合は、痛さの度合いが、弱いのである。もう、微弱で、ほとんど、ゼロだ。「なんとなく、そんな感じがする」「なんとなく、そんな感じがするような気がする」というレベルの痛さしか感じていない。

「足が痛いと言うと、足が痛くなる。言うから痛くなる」……そうなんでしょうかね。

骨折したら痛く感じるけど、骨折したという物理的な理由があるから、痛いと感じているんじゃないかな? 感じたとあとに「痛い」と言っているのじゃなのかな?

そして、この「言語を理由にする理論」というのは、言語を習得するまえに成り立っていたのかどうかということが問題になる。

「痛い」という言葉の意味と、実際の痛さの感覚が本人のなかでむすびつけられていない場合は、実際に痛さの感覚がしょうじた場合ですら、「痛い」とは言えない。

日本語を習得したあとに、「痛さ」と「痛いという言葉の意味」がむすびついて、痛さを感じたときは、思わず、「痛い」と言うようになったのだ。

痛さを感じるときに、かならず、「痛い」と言うかというと、言わない場合もある。しかし、言わない場合も痛さを感じているのである。

これは、「痛いと言うから痛くなる」という理論では、説明できないことなのである。

これまでの話は、個人が言語を獲得する前の話だけど、人類が誕生するまえはどうなのかという話をしたい。地球の発生のほうが、人類の発生よりも、時間的にまえの出来事だ。

別に、人類が言葉を使い始めて、そして、「地球がある」とか「地球が存在する」とかと言ったから、「地球が存在」するようになったわけではない。

あきらかに、人類が発生するまえに、地球が発生している。あきらかに、人類が言葉を習得するまえに、地球が発生している。地球が発生したという出来事は、人類が言葉を習得するという出来事のまえに発生したことだ。

繰り返しになるけど、「地球が存在する」とだれかが言ったから、地球が存在するようになったのではない。

これは、「言えば、言ったことが現実化する」という理論では、説明できないことなのである。

2024年1月17日水曜日

けど、原因は別なんだよ。原因は別。

 たとえば、ふるい自転車を使ってる人は、職質をうけやすいとする。あくまでも仮定だ。ふるい自転車を使っている人は、おカネにこまっているだろうから、犯罪を犯しやすいと警察官が考えている場合は、そうなる。ある人が、大学を中退して無職になったあと、ふるい自転車に乗っているときに職質されたとする。おなじような状態で、何回か、職質されたとする。その場合、「職質をうける」という暗いことを考えたから、職質をうけたのだろうか。ちがうのである。ふるい自転車を使っているから職質をうけやすい状態になっている。職質をうけやすい状態で、時間が経過すると、時間の経過とともに、職質をうける回数が増える。なので、「暗い考えをもっている」と「暗いことが起こる」と思ってしまう。この人が、明るい言霊主義者だったとしよう。その場合、「暗いことが起こるので、暗いことを考えないようにしよう」と思ったとする。で、それとはまったく関係なく、ある日、タイヤがパンクしたので、ふるい自転車を新しい自転車に買い替えたとする。その場合、新しい自転車を使ってからは、職質をうけなくなったとする。タイヤがパンクすることは、「暗いことが起こった」ということになるのだけど、そのことについては、今回は考えないことにする。ともかく、新しい自転車に乗っている人は、おカネに余裕があるので、犯罪を犯しにくいと警察官が考えているなら、とりあえず、新しい自転車に乗っているその人は、職質の対象からははずれる。これは、ふるい自転車を新しい自転車にかえるということによってしょうじたことだ。外部環境は、この場合、自転車と警察官だ。その人が「暗いことを考えているかどうか」とは関係がない。行動が変化したことによって……どうのこうのという場合もあるけど、この場合は、自転車が変化したことによって、職質をうけなくなったのだ。けど、その人は、「暗いことを考えないようにしたから、職質をうけなくなった」と思うかもしれない。ほんとうは、別の原因で職質をうけなくなったのだけど、本人は、そう思っているとする。だれも、「別の原因で職質をうけなくなったんだよ」と教えてくれない場合は、そういう考えをもち続けることになる。本人がほんとうの理由に気がつくまでは……「(職質という)暗いことを考えないようにしたら、(職質という)暗いことが起こらなくなった」と思うのである。ようするに、本人は意識してないのだけど、原因が消失する場合がある。その悪いことに対応した原因が消失したあとの期間と、本人が「暗い考えをもたなければ、暗いことは起こらない」と思っている期間が、かさなる場合がある。その場合は、そういう考えを、強化してしまう。けど、原因は別なんだよ。原因は別。

ようするに、「暗い考えを頭の中から排除すれば、暗いことは起こらない」と思っている期間中に、実際にほんとうの原因が消失した場合は、「暗い考えを頭の中から排除すれば、暗いことは起こらない」という考え方が強化さる。ほんとうの原因が消失して、そのあと、そういう状態が続いた場合の話だ。「暗いことを自分のなかから排除したら、暗いことが起こらなくなった」と思える場合はある。けど、それは、「暗い考えを頭の中から排除すれば、暗いことは起こらない」と思っているあいだに、本当の原因が消失したからだ。ほんとうの原因が消失しない場合は、「暗い考えを頭の中から排除しても、暗いことが起こる」ことになる。あくまでも、その本当の原因によって、それ……その暗いことがもたらされている場合の話だ。

暗い考えというのは、ひとつじゃない。多数の暗い考えが同時進行している場合だってある。それから、外部の原因というのは、無数にある。ひとつじゃない。身体という内部の原因も、たくさんある。 ひとつじゃない。ようするに、実際には、ひとつの原因として「きりわけられること」が複数あるということになる。そして、同時進行している。

「暗いことが起こる」と思っている期間と、実際にそういうことが起こらなくなった期間が、かさなる場合

 問題なのは、「暗いことを考えるから暗いことが起こる」という考え方だ。ほんとうに「暗いことを考えるから」なのかどうかということについて考えてみたらどうかということを書いたわけだ。たとえば、何回か、階段から落ちているとする。そうすると「階段から落ちるのではないか」という暗い考えが浮かぶのである。数回落ちたあと、「階段から落ちるのではないか」という暗い考えが浮かぶのはあたりまえのことだ。人間には、学習機能がある。だから、暗いことを考えて、そういう行動をさけようとするわけだ。けど、「暗いことを考えるから暗いことが起こる」と考える人は、「階段から落ちることはない」となんの根拠もなく「明るいこと」を考えて、階段を使い続けてしまうのである。その結果、落ちたとする。けど、やはり、「暗いことを考えるから暗いことが起こる」という考え方を捨てることができないので、暗いことを考えないで、階段を使ってしまうのである。だから、落ちる。これは、「理由」についてどういう考え方をもつかという問題だ。明るい思霊主義者は、暗いことを考えるから、暗いことが起こると考えてしまうのだけど、ほんとうに、そういう理由なのかということを、ぼくは言いたかったのだ。階段から落ちやすいという場合、いくつかの理由が考えられる。ひとつは、厚底ブーツなど落ちやすい靴を履いている場合だ。もうひとつは、階段自体に物理的な問題がある場合だ。もうひとつは、本人の三半規管に障害がある場合だ。「思うから」ではなくて、ちゃんと、物理的な理由があるのではないかということを言いたかったのである。三半規管の問題にしても、けっきょくは、三半規管を構成している物質の物理的な問題になる。三半規管というのは、総称で、「外側半規管」「前半規管」「後半規管」の三つを意味する。だから、「外側半規管」「前半規管」「後半規管」や神経や信号を受けとる脳みそに問題があると、バランスをくずしやすく、階段から落ちやすくなる。ほかにも、一時的に意識を失いやすいというような場合も、階段から落ちやすくなる。あるいは、普通の状態では、普通の階段で、特に落ちにくいというわけではないのだけど、雪が降った日だと落ちやすくなるというような場合も考えられる。ともかく、人間は、落ちることが続けば、落ちるということを学習して、「落ちるのではないか」と考えることになる。「落ちること」を暗いことだと考えると、たしかに「暗いことを考えやすくなる」のである。そして、自分が落ちやすい状態が続いた場合、人によっては……「落ちるという暗いことを考えるから落ちるのだ」と考えてしまう。だから、落ちやすい期間と、落ちるという暗いことを考える期間が、かさなる場合がある。それが、「暗いことを考えると、暗いことが起こる」という考えにつながるんじゃないかな。ようするに、その考えが強化されるのである。実際に、落ちているので、「落ちるということを考えたから落ちた」と考えている人はまさしく、自分の考えがあたったと思うことになる。けど、暗いことを考えているからそういうことが起こるのではなくて、物理的な理由があって、そうなっているのである。外部の環境の問題と自分自身の感覚器、神経、脳の問題で、落ちやすくなっているのである。暗い考えを排除すると、おなじ行動をするわけだから、おなじ行動をすると、おなじことが起こる確率が高くなる。けど、三半規管が自然になおった場合や、別の理由でその階段を使わなくなった場合は、暗いことが起きなくなるのである。その場合、「暗いことを考えるから暗いことが起こる」と思っている期間と、実際にそういうことが起こらなくなった期間の一部が、かさなる場合がある。かさなる場合は、「暗いことを考えない」ということで、「暗いことが起こるのをふせいだ」と思ってしまうのである。しかし、これは、誤解だ。

2024年1月16日火曜日

こんなの、言葉のトリック。言語的な詐欺。

 どういう文脈の中で、  「できると言えばできる」という言葉が発せられるかということを考えることは、重要なことだ。

たとえば、ブラック社長が、名前だけ店長に、いままで通りに残業を続けることは可能だという意味で 「できると言えばできる」ということを言うのであれば、それは、「できる」と言って、残業を続けろ(それが、私があなたに望むことだ)ということを言っているのである。

  「できると言えばできる」と「努力すればできる」は、別のことだ。

けど、ブラック社長のような言霊主義者の頭のなかでは、これが不可分にくっついているのである。

なので、相手が、ひとこと「できる」と言ってしまうと、「そうする努力」をすることを強いられてしまうのである。

労働時間外の労働をすることができるかどうかが問題になっているのである。

「できる」と言ってしまうと「時間外の労働すること」になってしまうのである。

「できる」と言ってしまうと、「努力すること」が必要になってしまうのである。普通の労働時間内の労働ではなくて、普通の労働時間外の労働をするということになってしまうのである。

「それが、できない」と名前だけ店長が、ブラック社長に言っているのである。

「いままで、そうしてきたけど、もう、つかれて、これ以上、サービス残業をすることはできない」と言っているのである。それに対する、ブラック社長の答えが「できると言えばできる」ということなのだ。こんなの、言葉のトリック。言語的な詐欺。

 「できないと言う『から』できない。できると言えば、できる」……これが、ブラック社長の返事だ。けど、ほんとうに「できない」と言うから、できないのだろうか。

「もう、これ以上できないから、できない」と言っているだけなのではないか。これは、名前だけ店長が「もう限界だ」と判断して言っていることなのである。

ところが、ブラック社長は、相手の条件や相手の状態を考えることができない人間なのだ。言霊的な助言をする人は、ぼくの知っている限りでは、みんな、相手の条件を無視して言霊的な助言をしている。ほとんどの言霊主義者は、相手の条件を、ガン無視してしまう。

そりゃ、相手の条件を考える言霊主義者もいるかもしれないけど、数は少ないと思う。相手の条件を考えると言ったって、本人はじゅうぶんに相手の条件を考えているつもりでも、ほんとうは、相手の条件を軽く見ている場合が、あると思う。

多くの言霊主義者には、相手の条件を軽く考える傾向があると思う。多くの言霊主義者には、相手にとって、それがどれだけたいへんなこと無視してしまう傾向があると思う。ぼくの知っている範囲では、そういうふうに、みえる。

「できると言えばできる」と「努力すればできる」は、それぞれちがうことなんだよ

  「できると言えばできる」と「努力すればできる」と「できると言って努力すればできる」は、それぞれちがうことなんだよ。

ところが、言霊主義者の頭のなかでは、おなじことになっているのである。「できると言えばできる」……この場合、「できる」と言えば言っただけで、努力なんかしなくても、できるようになるんだよ。

「努力すればできる」……この場合は、言霊とは関係がないことなんだよ。言霊の力でできるようになるわけではないんだよ。

「できると言って努力すればできる」……この場合は、できると言うことと、努力をするということを両方しなければ、できるようにならないということだ。

「できると言えばできる」という言霊理論の場合、ほんとうに、言っただけでできるようになるのである。努力なんてまったくまったく、必要がない。

「努力しなければ、どれだけできると言ったって、できるようにならない」と言うのであれば、「どれだけできると言ったって、できるようにはならない」ということを言っているということになるのである。

ようするに、「どれだけできると言ったって、努力しなければ、できるようにならない」と言っているのだから、言霊のすごい力を、否定していることになる。

「言ったって、言っただけじゃ、できるようにならない」「言ったって、言っただけじゃ、効果がない」という意味のことを言っているのだ。

言霊主義者なのに「努力をしないと、どれだけ言ったって、現実化しない」ということを言っているのである。「どれだけ言ったって、現実化しない」のだから、「言霊のすごい力はない」と言っているのとおなじなのである。「言葉には、言葉の内容を現実化させるようなすごい力は宿ってない」と言っているのとおなじなのである。

宿っているなら、言っただけで、できるようになる。ほかの要素は必要がない。言っただけで、そうなる。言っただけで、言葉の内容通りになる。言っただけで、言葉の内容通りにならないのであれば、その理論がまちがっているということだ。 


2024年1月15日月曜日

「人間ができることなら、できると言えばできる」

 まあ、言霊主義者は「瞬間移動とか、死者をよみがえらせるとかというようなことじゃなくて、人間ができることなら、言えばできるようになる」と言うかもしれない。

けど、これがちがうんだよ。

人間にとって不可能かどうか?

「人間にとって不可能だと普通の人が考えることにかんしては、言ったって現実化しない」と考えているのであれば、「できると言えばできる」ではなくて、「人間ができることなら、できると言えばできる」と言えばいいのだ。

なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」というのが、ほんとうは、言霊主義者が言っていることだ。そういう意味で、言霊主義者は、じつは、無理なことを言っているのである。

ほんとうの意味では、「瞬間移動できると言えばできる」のだし「生き返ると言えば、死者が生き返る」と言っているのだ。

ところが、こういうところでは、言霊主義者も、「現実」にまけるのである。

だから、「瞬間移動できると言えばできる」とか「生き返ると言えば、死者が生き返る」とかと言うのは、はずかしいと感じている。瞬間移動や死者を生き返らせることは、普通の言霊主義者は、できないことだと認めている。

けど、ほかの人にえらそうにものを言うときは、完全に、なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」と思っている。そういう前提でものを言っている。

相手がなにかの条件について言及すれば「そんなのは、いいわけだ」「そんなのはあまえだ」「そんなのは関係がない」と言ってしまえば、それでおしまいだ。

内側にもっている、非現実的な妄想……なんだろうがかんだろうが、どんな条件だろうが、「できると言えばできる」という……妄想は、表面に出なくてすむ。

ようするに、そういう前提でものを言っているけど、それ自身については言及しなくてもいいということになっている。

どういう前提で自分がものを言っているのかということについて、明言しなければ、自分の意見を言えないということはない。自分がもっている、内なる妄想については、言及しなくても、ちゃんと意見が言える。

そういう「前提」でものを言うことができる。

「人間ができることなら、できると言えばできる」とか「人間ができることなら、できると言えばできるようになる」とかと、トーンを落としてもむだだ。

人間ができることでも、すべての人間ができるわけではないからだ。

たとえば、走り幅跳びで八メートル以上とぶことを考えてみよう。

オリンピックのような大会では、走り幅跳びで八メートル以上とべる人は、何人かは、いる。彼らは人間だ。だから、「人間は、走り幅跳びで八メートル以上とぶことができる」と言えるのだろうか?

言えない。

人間という集合のなかには、さまざまな人間がいるんだよ。

人間は、ひとりひとりちがうんのだよ。

たとえば、Aさんと、BさんとCさんがいるとする。Aさんができることは、Bさんもできるか?

いや、Aさんが人間で、Bさんも人間だから、Aさんができることは、Bさんもできる……という推論はまちがっている。

AさんもBさんも人間でも、Aさんができることと、Bさんができることはちがう。もちろん、AさんもBさんも両方ともできることはある。

けど、それは、『人間だから』ではない。

AさんができるからAさんができるわけだし、BさんができるからBさんができるわけだ。Cさんができなかったら、Cさんは人間ではないということはない。

人間だから、できるわけではないのだ。

基本的にそういう問題がある。

言霊主義者はトーンを落として「人間ができることなら、言えばできる」と言うけど、「それじゃあ、あなたは走り幅跳びで八メートル以上、とぶことができるのか?」と問いただしたい。

「走り幅跳びで八メートル以上とぶことができる」と言えば、言っただけで、走り幅跳びで八メートル以上、とぶことができるようになるのか?

ならないでしょ。

なるんですか?
 



(言霊主義者の発言)瞬間移動できると言ったって、瞬間移動なんてできるわけがないだろ。

言霊について、付け足して書いておく。

「足を骨折する」と言うと、言ったことが現実化するので、ほかになんの理由がなくても、突然、足を骨折して、痛みを感じるのである。……言霊主義者が前提にしている世界というのは、そういう世界だ。

けど、実際には、なにも理由がないのに、「足を骨折する」と言ったら、実際に足を骨折するかというと、そうではない。

ほかに理由がなければ、言霊主義者が、どれだけ「足を骨折する」と言っても、骨折しない。どれだけ熱心に、「足を骨折する」と言っても、ほかに理由がなければ、言っただけでは、足を骨折することは不可能だ。足の骨は、言っただけでは、おれない。

言ったことが、言霊主義者の身の上に起こるかと言うと、起こらないのだ。

ちゃんと、階段から落ちて、足の骨をおったというような、現実的な理由があるから、足の骨がおれるのだ。

それから、階段から落ちるまえに、「足の骨がおれる」と言ったわけではないのだ。

言わなかったことが、現実化した。

「言ったことが現実化する場合もあるし、言わなかったことが現実化する場合もある」と言うのであれば、言霊主義者の主張は、いったいなんなのかということになる。

(言霊主義者の発言)言ったことが現実化する。

(言霊主義者の発言)どれだけ「生き返る」と言ったって、死んだ人は生き返らない。

言霊主義者は「言ったことが現実化しない場合もある」ということを認めている。

(言霊主義者の発言)できると言えばできる。

(言霊主義者の発言)「瞬間移動できる」と言ったって、瞬間移動なんてできるわけがないだろ。

言霊主義者は「言ったことが現実化しない場合もある」というとを認めている。

それから、「階段から落ちて足を骨折する」と、階段から落ちるまえに、言わなかったのに、階段から落ちて足を骨折したとする。これはとりもなおさず、言わなかったことが、現実化したということだ。

言ったことが現実化する場合もあるし、言わなかったことが現実化する場合もある。

言わなかったことが現実化するのであれば、言ったことが現実化するという言霊理論はどうなってしまうのだ?

言ったことが現実化する場合もあるし、言ったことが現実化しない場合もある。言わなかったことが現実化する場合もあるし、言わなかったことが現実化しない場合もある……。これじゃあ、「言ったことが現実化する」と言う意味がないのだ。自己矛盾している。

何度も言うけど、言ったことは、言わなかったことを含んでない。言ったことであれば、それは、言ったことであって、言わなかったことではない。現実化するのであれば、現実化するのであって、現実化しないということはない。

自己責任論というのは、非常に手の込んだ「罠」だ

 自己責任……なんて、ほんとうに、洗脳された人たちしか信じていない。これ、洗脳されているんだぞ。自己責任論というのは、非常に手の込んだ「罠」だ。これは、自然に、自分を対象とした自己責任論から、他人を対象とした自己責任論にずれていくようになっている。原理として、自己責任論が、普遍的なに正しいというのであれば、もちろん、他人の身の上にもシフトしていくのである。他人のことも、自己責任論で考えてしまうのである。しかし、それは、思考の停止なのである。これは、一般人をして、他人を無責任にせめるための言説だ。説明のしかただ。他人を自己責任論で、「せめさせる」ために、もっともらしそうな、自己責任論を吹き込んだのである。しかし、最初に吹き込まれた自己責任論と言うのは、自分を対象とした自己責任論だ。基本的に言えば、自己責任論を「ふきこまれた」ものは、他人に対してつめたくなるのである。これが、真の目的だ。

一般人が自己責任論でそまると、悪い人たちが、やりやすくなるのである。悪い人たちが、洗脳用につくったコンセプトだ……。自己責任というコンセプトは、悪い人たちが、洗脳用につくったコンセプトだ……。

「みんな」は、こいつら……父や兄と接触していたわけではないし、一緒に住んでいたわけでもない

  いきさつというのがあるのだけど、いきさつについて説明するのは非常にむずかしい。どうしてかというと、父や兄が異常な人間だからだ。普通の人間じゃないのである。悪い方向に歪んでいる人たちだ。この人たちがやったことが、たとえ、過去のことであったとしても、影響をあたえる。現在に影響をあたえる。「みんな」は、こいつら……父や兄と接触していたわけではないし、一緒に住んでいたわけでもない。なので、「みんな」……こいつらのことについて、誤解をする。どうしても「みんな」は普通の人を想定して考えてしまう。普通の父、普通の兄を考えてしまう。普通の人間として行動をするはずの父、普通の人間として行動をするはずの兄……こういったものを、どうしても、考えてしまう。自分の父や……いれば、自分の兄について考えてしまう。

2024年1月14日日曜日

きちがい家族による、どでかい騒音で、毎日毎日、「時間をとられる」ということの意味

ヘビメタ騒音はほんとうに「めちゃくちゃな状態」をつくりだす。「めちゃくちゃな状態」の持続時間が長ければ長いほど、鳴ってない状態に与える影響がでかくなる。これが、事実だ。一日のなかでも、鳴っている時間が長ければ、鳴ってない時間に影響をあたえる。ところが、きちがい兄貴というしくみがわかってないやつは、あるいは、きちがい家族による長時間の騒音というものを経験してない者は、それがわかってない。自分の経験にはないことだから、簡単に無視できる。「鳴り終わったら関係がない」と言える。一日のなかでも、鳴っている時間は、鳴っていない時間に、はげしく、不可避的に影響をあたえた。これが、わかってないのである。きちがい家族による、どでかい騒音で、毎日毎日、「時間をとられる」ということの意味が、まったくわかってない。

*     *     *

「過去は現在に影響をあたえない」というきちがい的な前提でものを言うやつは、ゆるせない。ゆるせない。俺に「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」と言ったやつは、自分が言ったことについて考えたほうがいい。その発言の裏には、妄想的な前提が成り立っている。前提を疑うということを、おぼえたほうがいい。

こんな、頭の悪いやつらに、説教されるようになってしまう。きちがいが、きちがい感覚で、きちがい騒音を、でかいでかい音で、ずっとずっと、鳴らし続けると、そういうことになってしまう。やられたほうが、ほかの人から、悪く言われるようになってしまう。 「根性がない」「できないと思っているからできない」「あまえている」「意志が弱い」「言い訳をしている」……その他もろもろ。こういうことを言っている人には、『きちがい家族』がない。きちがい家族がいたにしても、そのきちがい家族が、きちがい的な感覚で、きちがい的な騒音をずっと鳴らすということが……その人の人生のなかで……なかった人だ。

「きちがい的な父」という条件や、「きちがい的な兄」という条件

 「きちがい的な父」という条件や、「きちがい的な兄」という条件は、そういう条件がない人にとっては、無色透明で、簡単に無視できるもなのだよ。「あったってない」。「あったとしても、影響なんてない」「影響があったとしても、自分の強い意志で無視できる」「それができないのは、エイリさんが甘えているからだ」ということになってしまう。

ただ単に、経験がないだけなのにえらそうなんだよ。

2024年1月13日土曜日

「靴」という条件や「道」という条件を無視した場合

 たとえば、ころびやすい靴をはいて、ころびやすい道を歩いている人は、実際にころびやすいのである。そして、ころびにくい靴をはいて、ころびにくい道を歩いている人は、実際に、ころびにくいのである。

これは、一日のことではなくて、毎日のことだとする。

「靴」という条件や「道」という条件を無視した場合、平衡感覚がおなじでも、ころびやすい人ところびにくい人が出てくる。

たとえば、Aさんには、ころびやすい靴、ころびやすい道という条件が成り立っているとする。Bさんには、ころびにくい靴、ころびにくい道という条件が成り立っているとする。

Bさんは、自分がころびにくいので、自分はころびにくいという意識のもとに、よくころぶAさんを、ころびやすいやつだとなじることができる。

ころぶかころばないかが、平衡感覚のちがいによってきまると考えている場合は、事実、ころばない自分(Bさん)は、事実ころぶ相手(Aさん)よりも、平衡感覚において優れていると思ってしまう。

そして、Bさんが思霊主義者だとすると「Aさんは、ころぶということを考えているので、実際にころんでしまう」と思ってしまうのである。

Aさんは、実際に、ころぶということについ考えているかもしれないけど、ころぶということについて考えているから、実際にころんでしまうわけではないのだ。

Aさんがよくころぶのは、ころびやすい靴をはき、ころびやすい道を歩いているからだ。

よくころぶのであれば、ころぶということに意識がいき、ころぶということについてもよく考えがちになるけど、ころぶということについて考えているからころぶのではなくて、ころびやすい靴をはいて、ころびやすい道を歩いているから、ころぶのだ。

ころぶということが、暗いことだとすると、暗いことを考えているから、実際にその暗いことが現実化してしまうというわけではない。

Bさんは、Aさんの条件を無視しているから、そういう結論に達することができるのだ。そして、その結論は、まちがいを含んでいる。

靴という条件や、道という条件なら、かえられると思うだろう。今回は、かえられないという設定で話している。

この靴とか道というのは、生まれながらの条件でかえられないとする。

そして、たしかに成り立っていることなのだけど、他人が無視することなのである。他人がその条件について、考えないのである。

なので、その条件について考えない人は、常に、考えちがいをして、まちがった考え方を前提にした考えをおしつけてくるということになる。

その他人には、そういうふうにしか見えないのだから、そういうふうに言ってくる。けど、まちがっている。

きちがい的な親は、自動的にきちがい的な行為をする

 暗いことを考えると暗いことが起こるということについて、ちょっとだけ言っておく。持続時間というものを考えなければならないのである。

たとえば、きちがい的な親が、常にきちがい的ないちゃもんをつけて、怒り狂うとする。

いやなことだ。

これは、きちがい的な親の頭が、そういうふうにできているから、そういうふうにしているだけで、子供側の人間には、これと言って落ち度がない。

つまり、「原因」はきちがい的な行為をするほうにある。きちがい的な親が生きている限り、きちがい的な親は、きちがい的な行為をするので、持続時間が長くなる。あるいは、持続期間が長くなる。

その場合、実際に「暗いことが起きている期間」と、実際に「暗いことを考える期間」が同時に進行することになる。その場合、外から見ると……あるいは、明るい思霊主義者から見ると、「暗いことを考えているから」「暗いことが発生する」ように見えるのである。

頻度ということについて言ったでしょ。

確率について言ったでしょ。

きちがい的な親がいるうちに生まれた場合、暗いことが起こる確率が(そうでない場合よりも)たかくなるのである。きちがい的な親が、きちがい的な理由で、いちゃもんをつけて虐待すれば、虐待されたほうは、暗い思いをすることになる。

不愉快な思いをすることになる。これは、きちがい的な親が、自動的につくりだしていることだ。

しかし、期間がかさなる。

期間がかさなると、あたかも、暗いことを考えるから、暗いことが発生するように見えてしまうのである。けど、暗いことを考えなくても、……子供側の人間が暗いことを考えなくても、きちがい的な親は、自動的にきちがい的な行為をするので、そのたびに、子供側の人間は暗い気持ちになるのである。

子供側の人間が暗い気持ちになる……。

きちがい的な親は、やり散らかしているだけで、自分のやっていることがわかってない状態なのだけど、怒り狂っていることはたしかだ。不満を爆発させているのである。いちゃもんをつけて、不満を爆発させている。

これは、たしかに明るい気持ちでできることではない。しかし、やられる側よりは、ストレスを発散できる。これは、ある意味、ポジティブにストレスを発散していることになる。

そして、本人は……きちがい行為をする本人は……きちがい行為について、いやな思いをするということがないのである。こまるのは、いつもやられているほうなのである。

やられた側がこまる。

きちがいが意地をとおすと、きちがいではなくて、きちがいにやられたほうが、どうしても、どうしても、不愉快な気持になるのだ。不愉快な気持になるということは、ようするに、暗いことが起こったということだ。

期間がかさなれば、不愉快なことを考えると、不快なことが起こっている……ように見える。これは、ただ単に、見えるだけだ。思霊主義の人や言霊主義の人は、「原因」について、勘違いをしているのである。自分が「明日は、晴れる」と思って晴れた。その場合、「自分が思ったので」実際に晴れたと思うのである。

ところが、自分の内面が、気象条件に影響をあたえたのではないのだ。自分の内面……自分の気持ちは、気象条件に影響をあたえなかった。自分が「明日は、晴れる」と思った「あと」晴れただけだ。まぐれあたりなのである。たまたま、晴れただけなのである。

そして、自分が「明日は、晴れる」と思ったのに、実際には雨がふった場合は、ガン無視してしまうのである。無視してしまうから「自分が思ったのに、そうならなかった」ということが記憶に残らない。

なので、自分が思ったことが「いつも」現実化していると思ってしまうのである。

ようするに、条件の無視や結果の無視は、自分の場合にも成り立っているのである。そして、あたった場合しか、記憶に残らないので、あるいは、印象に残らないので、「思ったことが現実化する」と思ってしまうのである。

それは、まちがった判断なのだけど、そういう印象が残るので、ほかの人のことについても、おなじやり方で判断してしまうのである。まったくもって、迷惑な話だ。

 

努力? 努力なんてできない状態になる。

 これ、けっきょく、きちがい的な家族にやられてないから、わからないだけなのに、えらそうに……。けっきょく、きちがい的な家族がいるところに生まれなかったから、難を免れているだけなのに、えらそうに……。毎日、きちがい家族が……自動的に……やることで、どれだけ不愉快な出来事が……自動的に……しょうじるか、わかってない。ともかく、きちがい家族はものすごいハンディになる。努力? 努力なんてできない状態になる。努力ができない状態になったことがないやつが、くそえらそうに……。

2024年1月12日金曜日

条件を無視しているから、そういうふうに見えるだけ。

階段の話だと、わかりにくいかもしれないので、もうちょっと、例を出しておく。たとえば、女の人がはいている厚底のブーツだ。厚底のブーツをはくと、ころびやすくなるのである。

平たんな道なのに、厚底のブーツをはいていた女の人が、つんのめるようにころんでしまったのである。その女の人は「はずかしいーー」と言って立ち上がっていたけど、あのころび方は、ある意味、ショックだった。

ころびやすい靴と、ころびにくい靴を考えた場合、ころびやすい靴を履いているところぶ確率が高くなるのである。何回か、厚底ブーツをはいてころんだ場合、「ころんでしまう」という暗い考えが浮かぶのである。暗い考えというのは、ちゃんと、根拠がある場合が多いのである。

もうひとつ言おう。たとえば、雪の降った日の、次の日、アイスバーンができて滑りやすくなっているときがある。道路のアスファルトの上を歩くことと、アイスバーンの上を歩くことをくらべた場合、アイスバーンの上をあるほうが、ころぶ確率があがる。

これは、明るいことを考えるとか、暗いことを考えるとかとは、別のことだ。

明るいことを考えるのも自分、暗いことを考えるのも自分であり、自分の思考が、外界に一致しているわけではない。

「アイスバーンの上を歩いても、ころばない」と明るいことを考えても、アイスバーンの上を歩いたほうが、滑りやすいということは、かわらないのである。アイスバーンのほうが摩擦係数がひくいから、滑りやすい。普通の道路のほうが、摩擦係数がたかいから滑りにくい。

この、物理的な現象に、自分の思考が、影響をあたえないのである。なので、自分の思考とは関係なく、摩擦係数がひくいほうが、滑りやすい。いつもいつも、アイスバーンの上を歩いている人は、ころびやすい。

たとえば、自分がアイスバーンの上を歩くか、普通のアスファルトの上を歩くか、選択できないとしよう。

その場合、「アイスバーンの上を歩くところんでしまう」と暗いことを考えたかどうかということは、ほんとうは、関係がない。

アイスバーンの上を歩くしかない人を、Aさんだとする。アスファルトの上を歩くしかない人をBさんだとする。当然、Aさんのほうが、ころびやすい。Aさんが「アイスバーンの上を歩くところんでしまう」と暗いことを考えたから、Aさんが、特別ころびやすくなって、ころんでしまうということではないのだ。

これは、条件によって決まってしまう。

けど、頻繁にころぶとなると、ころぶという経験がつみかさなることになる。あるいは、別の言い方をすると、ころぶという出来事がつみかさなることになる。

そうなると、アイスバーンの上を歩く期間中は、「ころぶ」という暗いことに考える機会が増えるのである。

なので、思霊主義者から見ると、「ころぶ」という暗いことを考えているから、ころんでしまうように、見えるのである。これは、思霊主義者の勘違いだ。

原因は、ほかにある。原因は、アイスバーンの摩擦係数が低いことだ。

アイスバーンの上を歩くという条件と、アスファルトの上を歩くという条件を無視してしまうと、あたかも、「ころぶ」という暗いことを考えている人のほうが、暗いことを考えているから、実際にころんでしまうように、「見える」のである。見えるだけ。条件を無視しているから、そういうふうに見えるだけ。 

「ころぶ」という暗いことを考えずに、「ころばない」という明るいことを考えれば、アスファルトの上を歩いても、ころばないようになるかというと、ならない。

「ころぶ」という暗いことを考えなくても、アイスバーンの状態がかわらないなら、おなじ確率でころぶことになる。「ころぶ」という暗いことを、意識的に無視しても、アイスバーンの摩擦係数がかわらない。「ころぶ」ということを無視しても、条件がかわらなければ、おなじ確率でころぶ。

むしろ、「ころぶ」という暗いことを考えて、スパイクつがついた靴など、滑りにくい靴を履くという対策をしたほうが、ころぶ確率が低くなる。この場合は、条件がかわるのである。靴の条件がかわる。

あるいは、「ころぶ」という暗いことを考えて、注意して歩くという対策をしたほうが、ころぶ確率が低くなるかもしれない。これは、歩き方がかわるので、歩き方という条件がかわるということになる。

普通の靴(ずっと使っている靴)を使って、注意をせずに歩き、「ころぶ」という暗いことを無視したとしても、おなじ確率でころぶことになる。

自分の内なる世界から「ころぶ」という考えをなくしたとしても、条件がおなじなら、おなじ頻度で、ころぶことになるから、やはり、ころぶのである。

*     *     *

思霊主義者には、自分の内的な世界が変化すれば、それに伴って、外的な世界が変化する(はずだ)という感覚が成り立っているのである。

これは、幼児的万能感がなせるわざだ。自分の内的な世界から、「ころぶ」という考えをなくせば、それに伴って、外的な世界でも「ころぶ」ということがなくなる……はずなのである。そういう考えにとらわれている。

しかし、自分の内的な世界から、「ころぶ」という考えを消去しても、アイスバーンの摩擦係数がかわるわけではないので、外界に変化が起こらず、おなじ頻度でころんでしまうということになる。

アイスバーンの摩擦係数は、アイスバーンによってちがうだろうけど、いちおう、アイスバーンというものを考えて、それは、一種類でかわらないものとする。

たとえ、アイスバーンの摩擦係数が、おのおののアイスバーンによってちがうとしても、すくなくても、「自分」の内面にあわせて、アイスバーンの摩擦係数が、かわるということがないのである。

自分の内面にあわせて、かわってくれればよいのだけど、そういうふうにはならない。

自分の内的な世界のなかから、暗いことを消去したとしても、外的なものがつくりだしている条件がかわらないなら、暗いことがおなじ頻度でおこって、暗いことを(現実世界から)消去できないのである。


 

2024年1月11日木曜日

明るい考えをもつと、あの店でケガをする確率が高くなる。

 「暗いことを考えると暗いことが起こる」ということについて考えてみよう。

たとえば、「あの店の階段は、あぶない」「あの店の階段で二回、足をすべらせて落ちたことがある」と考えたとする。

これは、根拠がある思考なのである。

普通の階段では落ちたことがないけど、あの店の階段では落ちたことがある……とする。

この場合「あの店に行くとケガをする」と考えても不思議ではない。「あの店に行くとケガをする」というのは、明るい考えではなくて、暗い考えだ。「あの店に行くとケガをする」と考えるのは、暗いことを考えているということになる。

けど、そういうふうに考えるだけの根拠があるのである。

過去において何回も発生したことは、これからも、発生する確率が高い」と考えるのは、不思議なことじゃない。

むしろ、過去において何回も発生したことなのに、「これからは絶対に発生しない」と考えるほうがおかしい。「あの店に行くとケガをする」と考えて、あの店に行かないようにするのと、「あの店に行ってもケガをすることは絶対にない」と考えて、頻繁にあの店に行くようにするのと、どっちのほうが、ケガをする確率がたかくなるか?

あの店でケガをする確率を考えるならば、「行かないようにする」と暗く考えたほうが、ケガをする確率が低くなる。あの店に行かなければ、あの店で、ケガをする確率はゼロになるだろう。行かないのだから……。

あの店に行かなくても、ケガをする確率はあるので、ケガをする確率はゼロにはならない。けど、あの店に行って、あの店でケガをする確率は、あの店に行かなければ、ゼロにできる。

「あの店に行くとケガをする」というのは、暗い考えで、「あの店に行ってもケガをしない」というのは、明るい考えだ。明るい考えをもつと、あの店でケガをする確率が高くなる。足しげく通うなら、実際にケガをする回数が増えるかもれない。

これは、根拠の問題なのである。

まったく、根拠なしに「暗いことが起こる」と考えることは、少ないのだ。たいていの場合は、根拠となる事実がある。繰り返し起こっていることは、また起こる可能性がある。


2024年1月10日水曜日

階段から落ちたときは、「階段から落ちたから、痛い」と思っているのである

 もう、これは、さんざん言ったことだから、まとめとして書いておく。

たとえば、「私は階段から落ちる」と言わなかったにもかかわらず、階段から落ちたということについて考えてみよう。

「言わなかった」のに、現実化したのである。もし、言ったことが現実化するのであれば、いつもいつも、毎回毎回、「私は階段から落ちる」と言ったあと、実際に階段から落ちて、階段から落ちるということが現実化されたということになるのである。

ところが、実生活のなかでは、「私は階段から落ちる」と言って、階段から落ちる場合は、少ないのである。そして、「私は階段から落ちる」と言ったあと、階段から落ちた場合は、落ちる意思があって、わざと、落ちたのである。

「私は階段から落ちるぞ」「階段から落ちよう」と思って、わざと、落ちたのである。

この場合は、そういう意思があったということだ。

「私は階段から落ちる」と言ったあと、落ちた場合、「私は階段から落ちる」という言霊の力によって、落ちたのではない。そうしようと思って、落ちた。

これは、自分の意思だ。意識的に、落ちようと思って、落ちたのだ。

言霊の超自然的な力によって、階段から落ちるということが、現実化したわけではない。

自分で落ちようと思って落ちただけだ。

「このままでは、落ちる」と思ったことについて考えてみよう。いちおう、いまは言霊の話をしているので、「このままでは、落ちる」といった場合について考えてみよう。

この場合、階段のステップの上で、バランスをくずして、落ちる体勢になったのだ。「このままでは落ちる」という発言は、バランスをくずしたという認識によるものなのである。別に、落ちそうではないときに「このままでは落ちる」と言ったので、言霊の超自然的な力によって、実際に落ちるということが現実化したわけではない。

あるいは、「落ちそうだ」という意味での「このままでは落ちる」という認識が頭のなかに発生したわけではない。ちゃんと、「落ちそうだ」と考える理由があるのである。そして、声に出して言う前に、落ちてしまう場合がほとんどなので、「このままでは、落ちる」と思っているうちに、落ちてしまうのである。

*     *     *

 「私は階段から落ちる」と言わなかったのに、落ちた場合について考えてみよう。からだを、階段の一部や、階段の下の一部にぶつけたとき、「痛い」と思う。「痛い」と言ったとする。

「痛い」と言ったから、言霊の超自然的な力によって「痛い」という現実が発生したのか?

ちがう。

からだのしくみによって、「痛い」と感じたのである。「痛い」と感じるからだのしくみがなければ、どれだけ「痛い」と言っても、「痛さ」を感じない。

さらに言ってしまうと、階段から落ちたという出来事は、今現在のからだの状態に影響をあたえている。「過去のなんて関係がない」というわけではないのだ。「過去は現在に影響をあたえない」ということでもないのだ。

階段から落ちたという「過去の出来事」が現在の「痛さ」に影響をあたえている。

もちろん、からだがそういうふうにできているので、そういうふうに感じるという側面もある。

けど、「過去の出来事」が現在の状態に影響をあたえているのは、まちがいがないことだ。

階段から落ちたという過去の出来事が、現在の「痛さ」に影響をあたえているのである。「痛い」と感じている現在の状態に影響をあたえているのである。過去は関係がある。過去は現在に影響をあたえている。

「過去なんて関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と考えている人を過去否定論者と呼ぶことにする。

過去否定論者にしても、階段から落ちたときは、「階段から落ちたから、痛い」と思っているのである。ちゃんと過去の出来事と現在の状態に対する認知・認識が成り立っている。

「階段から落ちたことは、からだを階段の一部にぶつけたということとは関係がない」とか「階段から落ちたことは、過去の出来事だから、今現在の状態に影響与えない」とか「階段から落ちたことは、今感じている痛さとは関係がない」と考えるわけではないのだ。

ちゃんと、「階段から落ちて、からだぶつけたので、からだが痛くなった」と「過去の出来事」の影響を認めている。

普段、自分がそうふうふうに、過去の影響について考えているのに、人に説教をするときは、「過去なんて関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」「過去の出来事は現在の状態に影響をあたえない」と言ってしまうのだ。こんなのは、おかしい。

言霊論者であり、過去否定論者である者は、二重にまちがっている。

 

 

 

条件の悪い人を「ダメ人間」にするための、一種の社会的な思考制御装置

 「言ったことが現実化する」「どんなことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」……こんな、妄想思考が正しい考え方として流通している。

これは問題だ。

けど、普通の人は、問題だと感じないのである。

正しいと考えている。

けど、これは、現実を無視している妄想的な考え方だ。はっきり言って、正しくない。

じゃあ、どうして、正しくない妄想的な考え方が、正しい現実的な考えたとして流通しているのか?

これは、やはり、洗脳の可能性がある。常に、そう思うように、誘導されてきたから、そういうふうに思っていると考えると、ある程度なっとくがいく。

これらは、けっきょく、ゴイムの道徳に通じることだ。これ、支配者側が、ゴイムの道徳としてあてがったものなのである。一見、正しいことのように思えるけど、それを信じると、他人に対してつめたくなるのである。

そして、労働への圧力をたかめる。これは、いい労働じゃなくて、悪い労働に対する圧力をたかめるのである。社会として、労働への圧力がたかまるのである。

社会という圧力容器のなかで、おしあいへしあう圧力が、たかまるのである。

「ダメ人間」生産装置なのである。

こういう考え方が、正しいこととして流通していると、「一番下」の圧力が並じゃないものになる。「一番下」にかかる圧力が、たかくなるということだ。

 「言ったことが現実化する」「どんなことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」……これらの言葉は、条件の悪い人を「ダメ人間」にするための、一種の社会的な思考制御装置なのである。

「ダメ人間」というのは、ほかの人が、ある人のことをダメ人間だと思っているから、ダメ人間になるのである。ほかの人のなかで、ある人が、「ダメ人間」になる。

ただ単に、「条件が悪い人」なのかもしれないのに、これらの「文言(もんごん)」をとおすと、条件が悪い人が、かなりの確率で、「ダメ人間」になるのである。

そして、これは、「決まり」に対する従順性をうむのである。

まさしく、奴隷の道徳だ。 

*     *     *

人をゴイムにすることに、協力するのはやめよう。

人をダメ人間にすることに、協力するのはやめよう。

どうすれば、やめることができるかというと、 「言ったことが現実化する」「どんなことがあっても、楽しい楽しいと言えば楽しく感じる」「過去は関係がない」「過去は現在に影響をあたえない」……こういう言葉が正しいと思うのをやめればいい。

こういう言葉はまちがっているということを、正しく認識すれば、社会圧力をたかめることがなく、他人をダメ人間にすることもなくなる。

みんなで、くるしい奴隷社会をつくりだしているようなものなんだぞ。

いいかげん、気がつけ。

「過去は現在に影響をあたえない」という命題が『真』であると、意識的には思っている

 「言ったことが、現実化する」という言葉とおなじように、「過去は現在に影響をあたえない」という言葉も、正しいこととして流通すると問題がしょうじる。

これ、言っているほうは、いい気分になるかもしれないけど、言われたほうは、いやな気分になることが多い。

どういう人が、どういうときに、いやな気分になるかというと、条件の悪い人が「過去は現在に影響をあたえない」と条件のいい人に、言われたときにいやな気分になるのである。

条件がいいというのは、「相対的な」ものだ。相対的に、条件が悪い人は、「過去は現在に影響をあたえない」という言葉を言われがちになる。

これは、条件がいいほうが、マウントをとるための言葉だからだ。

あるいは、おなじことだけど、これは、条件がいいほうが、説教をするときのための言葉だからだ。

「過去は現在に影響をあたえない」ということを命題としてとらえてみよう。

これは、『偽』だ。『真』じゃないのである。そして、人には「過去は現在に影響をあたえない」と言っているやつが、みんな、過去の影響をうけて生きている。ただ単に、現実を無視しているだけなのである。しかも、自分は無視しているつもりがないのだ。

「過去は現在に影響をあたえない」という命題が『真』であると、意識的には思っている。

けど、こいつらの行動は、すべて、過去の出来事に対応した行動だ。

本人は、言っていることと、まったくちがった行動をしているのに、ぜんぜん気がつかないというのは、なんなんだ?

「過去は現在に影響をあたえない」という命題が『真』であると考えているのに、こいつらは、常に、今現在、過去の出来事を参照して、生きているのである。まるでわかってないなぁ。

2024年1月9日火曜日

朝なんて、ほんとうに、ヘビメタ騒音の朝、そのものだな

 朝なんて、ほんとうに、ヘビメタ騒音の朝、そのものだな。いま、朝に起きるサイクルになっているけど、いまだに中学時代の、強烈にくるしい朝を思い出して、めちゃくちゃに憂鬱になる。けっきょく、もう一度寝た。眠ることができるから生きているけど、これで、眠ることができない生活になったら……つまり、二度寝できない生活になったら、死ぬしかない。あれ、ほんとうに、自殺したいほどの憂鬱を毎日感じながら、生きていくことになる。

思い出すなんて、なまやさしいものではなくて、はっきりと、その状態になる。体が、鳴っていたときとおなじ状態になる。

2024年1月8日月曜日

捨てておくことができなくなる

長期ヘビメタ騒音騒音がはじまってから、ものすごく生きにくい「よのなか」になっているんだよな。これは、騒音によって、ぼくのほうがかわってしまったのだけど、それは、世の中とのかかわりあいという意味で、ものすごくマイナスなんだよ。相対的なものだし、関わり合いがある。あれだけ、ひどい時間が続くと、どうしても、世間の人とうまくいかなくなる。そういうマイナスがあるんだよ。そのマイナスは、たとえば、言霊なんかじゃ、解決できないマイナスなんだよ。これがわかってないやつがいる。そうなると、そういうところでも、マイナスが生じるわけ。言霊を信じている人は、いちおう善意で、言霊的な解決法を口にするわけだけど、それが、負担になってしまうわけ。どうしてかというと、長期ヘビメタ騒音騒音がはじまったからだ。言霊的解決法なんて、「そうですね」で、すんだことだ。特に、言霊主義者が原因について、勘違いしているということを指摘しなくても、すんだことなんだよ。けど、長期ヘビメタ騒音騒音との兼ね合いから言って、「 言霊主義者が原因について、勘違いしているということ」は、言わなければならないことになる。捨てておくことができなくなる。「こっちの名誉にかかわる問題」だからな。

言霊主義者が、ぜんぜん理解できないことがある。それは、ヘビメタ騒音が鳴っているなかで「よくなるよくなる」と言っているときのこっちの気分だ。張り裂けそうな気分なんだよ。きちがいヘビメタががんがん鳴っていて、がんがんせめてくる状態なんだよ。発狂的な状態なんだよ。切羽詰まった状態なんだよ。そのくるしい「空間」のなかで「よくなった、よくなった」とか「だいじょうぶだ、だいじょうぶだ」と言ったって、よくなるわけではないし、大丈夫あるわけではない。この苦痛な時間の長さと、言霊の無力性?が問題なんだよ。これ、言葉にも、きちがいヘビメタ騒音がまとわりつく。言霊主義者は勘違いしているけど、実験室で、「よくなった、よくなった」と言って、「なんか、よくなった気分がする」ということは、まったくちがうことなんだよ。くるしい騒音が鳴っているなかで「よくなった、よくなった」と言ったけど、まったくよくならず、言っているあいだも、ものすごくくるしい状態が続いている状態なんだよ。自分を外から見ると、きちがい的な騒音ががんがん鳴っている、部屋のなかで「よくなった、よくなった」と言っている状態なんだよ。切羽詰まった気持ちで言っている状態なんだよ。発狂しそうな、泣き出しそうな気持で言っている状態なんだよ。ちなみに、きちがい兄貴の部屋に行って、どれだけ、「鳴らすな」「宿題をやるから鳴らすな」と言っても、きちがい兄貴が、きちがい親父とおなじ反応で、無視しやがるのだ。あれ、自分が悪いことをやっているつもりというのがないんだぞ。自分だって、ほんとうは、よその家では鳴らせないような音で鳴らしているんだぞ。悪いことをしているだろ。迷惑をかけているだろ。ぜーーんぜん、悪いことをしているつもりがない。ぜんぜん、迷惑をかけているつもりがない。自分は、やっていいことをやっているというつもりしかない状態だ。ぜーーったいに、言うことをきかない。きくわけがない。まったく悪いことをやっているつもりがないわけだからな。そして、ほんとうに、自分の耳(兄貴の耳が)悪くなるようなでかい音で鳴らしているのに、本人は、フォークギターとおなじくらいの音で鳴らしているつもりなのだ。三味線とおなじぐらいの音で鳴らしているつもりなのだ。こんなのない。聴力が正常なら絶対にわかることだ。けど、きちがい的な頭の構造をもっているから、わからないのである。無意識的に感覚器を書き換えている。こういうレベルで、本人が「気がつかないまま」絶対の意地で、「悪いこと」をやってしまうというのは、普通の状態で、悪いことをやってしまうのとは、また、ちがう問題を引き起こすんだよ。これがぜんぜんわかってないんだよね。兄貴も、世間の人も、これがぜんぜんわかってない。


2024年1月7日日曜日

「現実」を無視した発言をする

実際につらいことが生じたあと、「つらい」と言っているのである。つらくないのに、「つらい」と言ったから、「つらい」状態がしょうじるということではないのである。ところが、こういう現実を無視して、「つらいと言うから、つらくなる」というようなことを言う人がいる。しかも、それが、科学的実証されたと言うのである。こんな、あほなことはない。

基本、生まれの格差はある。きちがい的な感覚で、からみつく、親がいる。きちがい的な理由で、怒り狂う親がいる。その場合、その親のもとに生まれた子供側の人間は、つらいことを経験するようになるのである。不愉快なことを経験するようになるのである。なので、経験のほうがさきなのである。ところが、言霊的な思考をする人は、「その場」のことしか見ないので、「つらいつらい」と言っているから、「つらいことが生じる」と考えてしまう。子供側の人間の「現実」を無視した発言をする。この、「その場のことしか見ない」「よく考えないで発言する」というのも、きちがい兄貴やきちがい親父と似ている部分だ。

*     *     *

「つらいつらいと言うと、もっとつらくなる」……というようなことを言い出すのだ。言霊主義者は言い出す。けど、「つらいと言うから、つらくなる」と「つらいつらいと言うと、もっとつらくなる」とは、別のことだ。別の意味をもっている。けど、言霊主義者が、ぼくの反論を聞いた場合、「つらいつらいと言うと、もっとつらくなる」と言い出す。別のことだと思ってないのだ。別のことなんだよ。

「つらいつらいと言うと、もっとつらくなる」ということについて、考えてみよう。たとえば、きちがい家族による、ヘビメタ騒音が毎日続いている状態を想定してみよう。その場合、「つらいつらい」と言わなくても、日数が増えれば、「もっとつらくなる」のである。期間というものを、言霊主義者は無視してしまう。そりゃ、毎日続いて、「つみかさなれば」もっとつらい状態になるだろう。一回だってつらいことが、一〇〇回続いたら、もっとつらくなるに決まっている。一日だけでも、寝不足ならつらいけど、一〇〇日間連続して寝不足だったら、もっとつらい状態になる。なら、「つらいつらい」と言ったから、つらくなったのか? ちがうでしょ。騒音が続いているから、「もっとつらい」状態になったのだ。一日目だってつらいけど、おなじレベルの騒音が一〇〇日続けば、一〇〇日目は、一日目よりも、つらい状態になっている。この場合、「もっともっと、つらい状態」をつくりだしているのは、この場合、毎日続く騒音だ。「つらいつらい」と言っていることが、「つらい状態」をつくりだしているのではないのである。こういうところでも、言霊主義者は「原因」について勘違いしているのである。この、言霊主義者の「勘違い癖」は、もはや、病的なレベルにたっしている。

原因が、自動的に「言ったこと」に結びつくようになっているのだ。こんな、妄想的な思考はよくない。ちゃんと、個別のことについて考えるべきだ。個別の理由について考えるべきだ。

その結果……通勤・通学ができなくなるのに、そういう経験がないから、わからない

 ほんとうに、みんな、きちがいのきちがい的な意地がわからない。きちがいの、きちがい的な感覚がわからない。みんなわかってない。みんな、わかってない。どれだけこまるかわかってない。きちがいの度合いが強いので……無意識的なずれの度合いがひどいので、俺が「へんなことを言っている」とほかの人から思われるようになる。きちがいヘビメタ騒音なんて、まさにそういうことだ。みんな、きちがい兄貴のきちがい感覚がわかってない。みんな、きちがい兄貴のきちがい的な態度がわかってない。みんな、きちがい兄貴の認識が、わかってない。わかってない。わかってない。そして、みんな、そういう家族に、やられたことがないのである。みんな、そういう特殊な家族が出す、騒音に毎日やられたわけじゃない。そうなると、「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言われるようになる。俺が言われるようになる。あれだけ長く、きちがいヘビメタ騒音期間が続けば……毎日、きちがいヘビメタを鳴らされているにもかかわらず、ずっと通学している状態が七年間ぐらい続けば、だれだって、その結果……通勤・通学ができなくなるのに、そういう経験がないから、わからない。どれだけひどい影響があるか、わからない。わからないところで、ものを言っている。こっちが実際に通勤できなくなれば、「通勤ができないなんて、あまえだ」と、きちがいヘビメタに毎日さらされたことがない人が言う……ようになる。こんな屈辱、あるか。実際に通えなくなれば、「そんなのはおかしい」「過去のことは関係がない」と言われるようになるのである。「引きこもりの言っていることは信用ができない」「無職の言っていることは信用ができない」と言われるようになるのである。けど、これが、不可避的なことなんだよ。どれだけがんばっても、人間の体だと、自分がきらいな音を、あれだけの音で毎日鳴らされれば、睡眠障害になって、通えなくなるんだよ。けど、そういうことが、わからないから、くそ凡人が「そんなのは、あまえだ」「みんな、つらいけど通勤して働いている」と言いやがる。こんなの、ない。ほんとうに、自分が、この世で一番嫌いな音を、あのでかさで毎日鳴らされたら、どーーんな人だって、通勤ができなくなる。通学ができなくなる。一定の時間に起きることができなくなる。眠ろうと思っても、眠れなくて、二四時間、四八時間起きているような状態が、「起きなければならない時期」に発生するようになる。「起きなければならない」となると、二四時間以上眠れなくなってしまう。そして、そういう状態で、「その場所に」行けば、当然、注意不足で、いろいろなトラブルが発生する。

みんな、実際に、ヘビメタ騒音を経験しているわけではない。これは、俺とおなじような状態で、ヘビメタ騒音を経験したことがないということだ。何度も言うけど、ヘビメタが好きな人の場合は、その人が一番嫌いな音が鳴っている状態を考えるべきだ。俺にとっては、ヘビメタが、この世で一番嫌いな音なのである。俺にとっては、ヘビメタは、この世で一番嫌いな音のである。だから、ヘビメタが好きな人は、自分にとって一番嫌いな音が鳴っている状態を考えるべきだ。ヘビメタが好きな人なら、そりゃ、なんの問題もないだろう。けど、好きな人でも、自分が聞きたくない時間帯に、まるで自分の部屋で、最大の音で鳴らしているような音で鳴っていたら、気になる場合がある。けど、ともかく、ヘビメタという音が、ぼくとにとって破壊的な音なのである。ヘビメタ騒音というと、失笑される場合があるけど、その人にとって、「一番嫌いな音」がずっとずっとずっと、きちがい家族によって、鳴らされている状態を考えてみろということだ。きちがい家族なんだぞ。そして、鳴らしているきちがい家族のほかに、もうひとり、鳴らすことを支援しているきちがい家族がいるんだぞ。そういう状態で暮らしてみろ。

みんな、けっきょく、そういう状態で暮らしたことがないから、睡眠障害にならず、生活体力障害にならず、通勤できるだけなのに、えらそうに、いろいろなことを言いやがって。きちがい兄貴の騒音相当の騒音を毎日鳴らされ続けたら「できなくなる」のに、「できなくなる」ということを、根本的に認めないやつが、えらそうなこと言う。「自分なら、そういう状態でもできる」と思って、えらそうなことを言う。


常にそういう状態で生きている。

 あれだけ、意地になって、むきになって、全部の時間、一秒もゆずらずに、鳴らしているのに、まったく「つもりがない状態」だからなぁ。これ、ほんとうにふざけている。普通の人なら、絶対に、ああいう音で鳴らそうと思わないんだよ。ところが、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじように、そういうところで、常識がない。自分がでかい音で鳴らしたいなら、でかい音が普通の音になってしまう。だから、「普通の音で鳴らしているのだから問題がない」ときちがい思考をしてしまうのだ。つもりがないというのは、悪意がないということなのだけど、どれだけ、「こまるからやめてくれ」と言っても、悪意なく鳴らすというのは、なんなんだ? 前にも書いたけど、ほんとうに、つもりがなかったんだよな。これがふざけている。気がつかなかったんだってさ。あれだけ意地になって、やっているのに、つもりがない。そういう状態が、毎日、すべての時間、成り立ってしまう。きちがい兄貴やきちがい親父のしくみを知らない人に、どれだけなにを言っても、これまた、通じないんだよな。その人たちは、きちがい兄貴やきちがい親父のような人といっしょに住んでいるわけではないから、常に、きちがい兄貴はきちがい兄貴のような状態だし、きちがい親父はきちがい親父のような状態だというのが、わからない。これの持つ意味がわからない。一日に、一時間だけ、でかい鳴らしているというわけではないのだ。すべての可能な時間、絶対の意地で、でかい音で鳴らすわけ。そして、全部やってないつもりで、生きている。ぜんぜん、関係がない人として鳴らして、ほんとうに、関係がない人だと思って生きているのである。兄貴が鳴らしたいから鳴らしたということを、ガン無視している。これだって、人間としては、ありえないことなんだぞ。普通の人間なら、絶対にありえないことだ。けど、きちがい兄貴はきちがい兄貴の頭を搭載しているので、常にそういう状態で生きている。

2024年1月6日土曜日

あの、発狂的な気持と、発狂我慢の気持ちと、見せかけの希望が入り混じった、高圧的な気持はない

 「気にしない」とか「こだわらない」とかというようことを言う人たちがいるけど、ヘビメタ宋尾のなかで、どれだけ、気にしないようにしても、だめだったのである。あのはりつめた感覚はない。どれだけ、こだわらないようにしようとしても、だめだったのである。ほんとうに、はりつめた感覚がある。あの、発狂的な気持と、発狂我慢の気持ちと、見せかけの希望が入り混じった、高圧的な気持はない。あれを繰り返していたから、「できない」状態になっちゃったんだぞ。この 「気にしない」とか「こだわらない」とかというのは、薬ではなくて、毒。 「気にしない」とか「こだわらない」とかということが、薬に見えちゃう人は、いい提案をしているつもりなのだろうけど、悪い提案だ。どれだけ、負担がかかるかわかってない。「時間がたてばちがうだろ」と思うかもしれない。「鳴っているときのことではなくて、鳴り終わったときのことを言っているのだ」と思うかもしれない。けど、おなじなんだよ。おなじなんだよ。あのはりつめた気持ちが去来する。どれだけの我慢がおこなわれてきたか。殺してしずかにさせることを我慢しているんだぞ。勉強ができないんだぞ。ほんとうに、 「気にしない」とか「こだわらない」とかというようことを言う人たちが、考えているような状態じゃないのだ。こういう人たちの誤解は絶対にとけない。だって、わからないわけだから……。こういうのも、負担だ。俺は、やられてないほかの人たちから、ずっとずっとずっと、誤解され続けている。発狂的な我慢なんだよ。常日頃から、屈辱なんだよ。

ヘビメタ騒音なしで、生きたかったなぁ。

 ヘビメタ騒音なしで、生きたかったなぁ。もう、それだけだ。

鳴っている感じがする。夕方の感じは、鳴っている感じだなぁ。

どれだけの異常な感覚が成り立っているかわからない。

エネルギーがあれば、あーーんなことも、こーーんなことも、やれるのだけど、エネルギーが枯渇しているので、あーーんなことも、こーーんなこともできない。

どうするかな?

生活維持エネルギーだけでいっぱいいっぱいなんだよな。それどころか、生活維持エネルギーがたりなくて、生活が維持できないところもある。ゴミ出しが、どれだけめんどうか?

*     *     *

そんな状態だから、まあ、旅行なんてやったら大変なことになる。まあ、いまは、シェディング祭り開催中だから、旅行なんて、考えただけでも、いやな感じがするけどね……。みんな、シェディングをおそれていないけど、シェディングは正しくおそれる必要があるんだよ~~。まあ、かってやってくれ。です。

*     *     *

だからまあ、「よくやるなぁ」と思いながら、他人の旅行ブログを見ていたりする。空想上の旅行は、やりたい気分がある。その世界では、シェディングがない。そして、きゅうに腹がいたくなったりすることもない。
そういう状態なら、旅行に行ってもいいかなという感じはある。けど、ぼくの場合、きちがい家族の特殊事情があるので、じつは、楽しくない。
これも、どれだけ人に言っても、人には理解されない。理解されないのは、しかたがないことだ。別の個体であるし、その人たちは、きちがい家族騒音を経験してない。わからないのは、当然だ。

しかし、他人が理解しなくても、他人が理解しても、けっきょく、きちがい家族の特殊事情があるので、楽しくない。ぼくの目に映るものは、きちがい家族騒音時代に感じた雰囲気をとおして、目に映っている。なので、楽しくない。道を歩いているとき、きちがい家族騒音時代に、道を歩いていたときおなじ気分になる。気分というよりも、知覚、感覚に近い。

ほんとうに、きちがい兄貴がひどい。きちがい家族がひどい。あんなのが鳴っていて、無視できるわけがないでしょ。けど、これが、きちがい家族と一緒に住んでいない人には、わからないのである。どれだけの意地で鳴らしているかわからない。どれだけの異常な感覚が成り立っているかわからない。普通なら、こんなの、一日目に解決する問題なんだよ。けど、きちがいが意地をとおす。何年も何年も、毎日毎日、「かかわりがないひと」として、意地をとおす。こんなの、きちがいだ。けど、きちがいだからやり通すのである。そりゃ、目に見える光景が、きちがい家族騒音にそまって、あたりまえだ。

ほんとうに、きちがい的な意地でこだわって鳴らしているのに、きちがい的な感覚で、無視しているのである。鳴らしてないつもりなのである。こんなのない。きちがい兄貴の態度というのは、ほんとうに「そんなの、一分もやってない」という態度だ。じゃあ、やめてくれるのかと言ったら、それは絶対にないのだ。こういう態度の矛盾に、本人かまったく気がついていないのだ。こんなのは、ない。普通はない。けど、きちがい家では、あった。常に毎日そうだった。これ、一日のなかでも、影響をうける。鳴っている時間となってない時間をわけると、鳴ってない時間も、鳴っている時間の影響をうける。これも、「やられてない人」は『影響なんて受けないだろ』「鳴り終わったら関係がない」と考えるのだけど、そうじゃないのだ。これも、どれだけ言っても、わからないんだよな。理解の浅いやつは、なにを言っても、浅い理解しかない。そいつの限界がある。けど、そいつが、普通だ。浅い理解しかしない人が、全体の九八%ぐらい、いるのである。そして、実際に経験したことがある人は、〇.〇〇〇〇〇一%ぐらいなのである。そういう、世界に住んでいるのである。そりゃ、理解されるわけがない。きちがい兄貴が特殊なら、きちがい兄貴が「じっさいにうちでやったこと」も特殊なんだよ。そして、影の条件として、きちがい兄貴の活動をきちがい親父が支援したというのがある。こんなのはない。普通なら、絶対にやめさせようとするところだ。こっち……俺が「兄貴に注意してくれ」と言わなくても、注意して絶対にやめさせようとするのが、普通の親だ。けど、きちがい的な親だから、支援してしまう。「そんなの、まったくやるなと言ったら、かわいそうだ」なんて言うんだよ。これ、普通の人は理解できない。普通の人であって、なおかつ、親父が幼児時代の俺と兄貴を虐待していたという話を聴いたことがある人だと、よけいにわからない。わかるわけがない。普通の人は、「そんな、虐待するような親がそんなことを言うわけがない」と思ってしまう。「そんなのは、不自然だ」と思ってしまう。「そんな音で鳴っていたのに、親が注意しないのはおかしい」と思ってしまう。けど、きちがい親父は、そうした。俺が言っていることが事実なのである。まず、きちがい親父は、からだがでかくなってしまった兄貴に、注意できなくなってしまったんだよ。それから、きちがい兄貴が自分でバイトをして買ったヘビメタ道具一式なので、その点でも、注意できなくなってしまった。そして、きちがい親父がうちにいる時間が極端に短いために、本人は、無視できたのだ。毎日、さらされているわけではないのだ。きちがい兄貴が鳴らす前に、うちを出て、きちがい兄貴が鳴らし終わったあとに、うちに帰ってくるので、月曜日から土曜日までは、きちがいヘビメタ騒音に一分もさらされることがなかったのである。日曜日の朝(午前中)ちょっとさらされて、あとは、日曜日も、家を出て、自分が家に帰ってきたときに、鳴りやんでいるので、さらされることがなかったのである。これ、一〇分で飯を食べて、あとは、庭に出て、きちがい兄貴の音源から離れて、庭いじりをして、パチンコ屋に行ってしまうので、ほんとうに、一週間のなかで短い時間しかさらされてない。で、その短い時間に、「あれが、うるさいと思わないのか」と俺が親父に言ったら、親父が「うるさいと思っているよ!!!」と絶叫して、怒るのである。けど、注意しない。絶対の意地で注意しない。きちがい兄貴が絶対の意地で鳴らすように、きちがい親父は絶対の意地で注意しない。一度そういう方向にドライブがかかってしまう、そうなってしまう。一度、そっちにスイッチが入ってしまうと、絶対の意地で「そうしたり」「そうしなかったり」する。無意識的なレベルで、きちがい兄貴がこわかいら、注意をするのはやめようと思って注意しなかったのである。俺が、何千回何万回注意したか、ほんとうにわかってないな。きちがい親父はわかってない。「あれがうるさいと思わないのか!!」と俺が言えば、「思ってるよ!!」と顔を真っ赤にして絶叫するくせに、絶対に注意しようとしないのだ。だから、無意識的なところで、「注意しない」と決めていたのである。けど、本人はそれがわからないから「そんなの、まったくやるなと言ったら、かわいそうだ」なんて言うんだよ。これ、ウソの理由なんだよ。
 

 

「つかれた」

 まあ、なんとか、起きた。朝起きたとき、なにを考えるかというと「つかれた」ということを考える。まじで、つかれた。なんか、ほんとうに、ボロボロ感がある。身も心も、ボロッボロ。そりゃ、つかれるよなぁ。ほんとうに、いろいろなことが人生のなかで発生した。ひとつひとつが、つかれさせることだ。もう、つかれた。

条件と確率(7)

 *     *     *

「ヤカンにふれてもやけどをしない」と明るいことを考えて、やかんにふれるということをしていた場合、熱いヤカンがある確率で、やけどをすることになる。つめたいヤカンが五〇%存在し、熱いヤカンが五〇%存在する条件だと、五〇%の確率で、やけどをすることになる。つめたいヤカンが一〇%存在し、熱いヤカンが九〇%存在する条件だと、九〇%の確率で、やけどをすることになる。だから、条件というものについて考えることが必要になる。自分がさわったヤカンがたまたま、つめたいヤカンだった。だから、「ヤカンをさわるとやけどをする」というような暗い考えをもつ必要がないと考えた場合、ほんとうに、つめたいヤカンが一〇〇%存在する条件なら、それでいいということになる。しかし、一%でも、熱いヤカンが存在するなら、一%確率で、やけどをすることになる。なので、最初に触ったヤカンがつめたいヤカンだからと言って、すべてのヤカンがつめたいと考えるのは危険だ。しかし、そういう考えがくつがえされるのは、実際に、熱いヤカンにふれてからなのである。熱いヤカンの存在を知ってからなのである。ワクチンも、「俺がだいじょうぶだったから、安全だ」とは言えない状態なのである。わかるかな?

 

ある条件ではできることが、ある条件ではできないということがある(6)

 問題なのは「言ったことが現実化する」という命題が『偽』であることだ。そして、『偽』であるこの命題を『真』であると信じている人がいるということだ。信じている人がいるということだけなら、問題は小さいし少ない。けど、「言ったことが現実化する」ということが「正しいこと」として流通している。これは、問題だ。

ほんとうは、「できるできると言って努力することが大切だ」とか「できるできると言って気合を入れることが大切だ」とか「希望をもって努力することは大切だ」とかということ言いたい人が、言霊理論をひっぱりだしてきて、言霊理論と組み合わせて、「できるできると言って努力することが大切だ」とか「できるできると言って気合を入れることが大切だ」とか「希望をもって努力することは大切だ」とかということ言っている。

条件がちがう人がいる。条件に格差がある。そもそも、生まれの条件に格差がある。ある条件ではできることが、ある条件ではできないということがある。ところが、そういう条件を無視して、「言えば、言ったことが現実化する」「できれると言えばできる」と言ってしまう。条件がいい人が、条件が悪い人に「言えば、言ったことが現実化する」「できると言えばできる」と言うと、問題が発生する。言われたほうが、不愉快な気持になるのだ。言ったほうは、マウントしていい気分になっているかもしれないけど、言われたほうは、不愉快な気分になる。条件によって「できない」のに、条件を無視したやつが「できる」と言うのだ。こんなのは、ない。これだと、条件が極端に悪い人は、条件が中ぐらいの人や、条件がいい人に、屈辱的なことを言われて、不愉快な思いをすることになる。最悪、自殺に追い込まれる。条件が極端に悪い人と、条件が悪い人をくらべた場合、条件が悪い人は、条件が極端に悪い人にくらべて、優位だ。なので、条件が極端に悪い人は、条件が悪い人にも、屈辱的なことを言われるということになる。

「できると言って、気合をいれることは大切だ」(5)

 「できると言って、気合をいれることは大切だ」ということと「言ったことが現実化する」ということはちがうことなんだよ。

ところが、言霊主義者というのはただ単に「できると言って、気合を入れることは大切だ」と言いたいだけなのに、「言ったことが現実化する」「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言ってしまう。

どれだけ、ズレがあるかわかっているのか?

わかってないのだろう。

言っても、現実化しないから、何回も言うことになるのである。たとえば、「瞬間移動ができる」と言えば、瞬間移動ができるようになるか。「会社のまえに瞬間移動する」と言ったので、会社のまえに瞬間移動する……。会社のまえに瞬間移動できたか?

できないのであれば、言ってもできなかったということだ。言っても、現実化しなかったということだ。言ったことが現実化するという理論はまちがっているということだ。

*     *     *

俺が「正しさにこだわっている」と批判した言霊主義者がいた。俺は、正しさにこだわっている。しかし、その言霊主義者も同様に正しさにこだわっている。「言ったことが現実化する」「言霊は絶対だ」「言霊は正しい」「言霊は宇宙をつらぬく絶対法則だ」と言っているのだから、もちろん、正しさにこだわっている。自分は正しさにこだわってないつもりか? それならどうして「言霊は正しい」と言うのだ? これも、ほんとうは、「言霊理論は正しい」と言うべきところなんだけどなぁ。その言霊主義者は「言霊は正しい」と言って、言霊理論の正しさに、こだわっている。

*     *     *

「言ったことが現実化する」と言っているのに、「瞬間移動できる」と言っても、瞬間移動ができるようにならないのは、なぜだ? 「会社のまえに瞬間移動する」と言っても、会社のまえに瞬間移動しないのはなぜだ? 言ったことが現実化するなら、「会社のまえに瞬間移動する」と言えば、会社のまえに瞬間移動する。

なので、言霊主義と想起現実主義は両立しない。(4)

「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」と考えている人のことを、想起現実主義者と呼ぶことにする。言霊主義者と想起現実主義者は、似たようなことを言っている。「明るいことを言えばと明るいことが起こり、暗いことを言うと暗いことが起こる」と置き換えれば、そのまま、言霊主義者の主張になる。しかし、ほんとうは、「言ったことが、現実化する」のだから、「すぐに」とか「一秒以内に」という言葉をつければ、すべての現実を制御できるということになる。けど、実際には「明るいことを言わなければならない」のである。明るいことを言わなければならないということは、暗いことが起こっているということだ。言霊の力によって、現実を制御できないから、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」など考えるようになる。だから、本当は、言霊主義と想起現実主義は両立しないんだよね。「明るいことを考えなければならない」と思っている時点で「自分」が現実を制御できないことを意味している。「すぐにそうなる」と言っても、そうならない。「一秒以内にそうなる」と言っても、そうならない。そういう世界に住んでいる。だから、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」などと言うようになるのだ。言霊の力では、現実を制御できないから、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」など言っているのである。もし、言霊の力で現実を制御できるなら、「明るいことを考えると明るいことが起こり、暗いことを考えると暗いことが起こる」などとは、言ってない。言っているということは、言霊の力では現実を制御できないということなのである。そして、そう言っている人が、言霊の力では現実を制御できないと思っているということなのである。なので、言霊主義と想起現実主義は両立しない。

だから、別に、「暗いことを」を考えなくても、悪いことは起こる。(3)

どうして、暗いことを考えてないのに、暗いことが起こるかというと、自分の思いとは関係なく、他者が行動し自然現象が発生するからだ。

他者と自然現象が、「暗いこと」を発生させる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんはアパートの管理人で、大学中退者に対して偏見があるとする。Bさんは、大学生だったけど、大学をやめたとする。Bさんにとっては、大学を中退した人は、すでに学生でなく、働いているわけでもないので、信用のおけない人間だということになる。

ようするに、Aさんは大学を中退した人に偏見がある人なのである。

そういう偏見をもっているので、大学をやめたBさんに「出ていってくれ」と言ったりする。Bさんの性格は善良で、悪いことをしようと思わない人なので、アパート代についてはちゃんと考えていたのだ。しかし、AさんにはBさんの内面がわからず、Aさんを、ブラブラした「信用がおけない人物だ」と思ったのである。

大学生のときのBさんの内面と、大学をやめたあとのBさんの内面がかわったわけではないのである。大学生のときはまじめな性格だったけど、大学をやめたときにふまじめな性格になったわけではない。けど、Aさんは偏見をもっているので、その偏見に対応した考えをもつようになる。それは、Aさんの偏見がなせるわざだ。

Bさんは、「出ていってくれ」とショックなことを言われることになる。ようするに、自分が考えていなかった「暗いこと」が発生したのである。

一般人から見ると、大学を中退した人ばかりではなく、無職全体が、悪いことをしそうな人に見えるのである。一般人は無職に対して偏見をもっているのである。なので、無職という範疇に「自分」がはいってしまった場合、どれだけ、善良な人であっても、人から、悪いことを言われたり、差別を受けることになる。

それは、無職という属性が問題なのだ。そして、一般の人の「無職に対する偏見」が問題なのだ。

ともかく、無職に対して偏見をもっている人が多い社会では、無職は、『いやな目にあうこと』が多くなるのである。無職に対して偏見をもっている人が多い社会では、無職は、『不愉快な思いをすること』が多くなるのである。

不愉快な出来事が発生すれば、それは、「悪いことが発生した」ということになるのである。そりゃ、不愉快なのだから、悪いことだ。

別に、とある無職さんが「暗いことが起こる」と思わなくても、暗いことが、頻繁に起こることになるのである。それは、まわりの人の偏見が原因で、その、とある無職さんが、「暗いこと」を考えたからではない。

けど、他者の偏見が理由だと思えない無職の人は、「暗いことを考えたから、暗いことが起こったんだ」と思ってしまう可能性がある。

どうしてかというと、「頻繁に」不愉快なことが発生するからだ。会う人、会う人、みんな、無職に対して偏見をもっているとする。その場合、無職であるだれかは、偏見にさらされることになる。

他者は、別に、無職に対して、あたりまえの行動をしているだけだと思っているので、「悪いことはしてない」と思っている。無職に対する当然の行動が、基本的に、無職者の『不幸』をつくっているのである。

みんながみんな、無職に対して偏見をもっている社会では、みんながみんな、無職に対して、つらくあたるということになる。

なので、無職は「頻繁に」不愉快な思いをすることになる。

だから、別に、「暗いことを」を考えなくても、「暗いこと」は起こる。偏見のある他者の態度や発言によって、不愉快になった場合、不愉快なことは、自分にとって「暗いこと」なので、「暗いことが起こると考えなかった場合」でも、「暗いこと」は、頻繁に起こるようになるのである。

「暗いことを考えると暗いことが起こる」という考え方のなかには、「他者」という存在が含まれていない。

「自分」が暗いことを考えると、「自分」の身の上に暗いことが発生すると考えているのである。自分の頭の中ことしか問題にしてない。

けど、自分が生きている社会には、他人がいるので、他人よって「暗いこと」がもたらされる場合があるのである。

なので、「自分の考え」では制御不可能なのである。暗いことを考えるのは「自分」だろ。

「自分」が暗いことを考えなければ、暗いことは起こらない……と考えているのである。そういう前提が成り立っている。けど、この前提がまちがっている。なので、自分が暗いことを考えてないのに、暗いことが起こる。

*     *     *

 「他者と自然現象が、暗いことを発生させる」と書いたけど、自分自身が、暗いことを発生させる場合もある。けど、これは、自然現象のなかに入れておいた。たとえば、熱いものに触ってやけどをした場合について考えてみよう。この場合は、物理的な現状なのである。なので、身体を含めた物理的な存在を考えて、その相互作用によって、「暗いこと」が発生する可能性がある。自然現象と書いたけど、この自然現状のなかにはすべての物理的な現象が含まれるとする。身体を構成する細胞。細胞を構成する分子。分子を構成する原子。そういったものが、物理的な運動をして、たとえば、やけどをしたという状態をつくりだしている。

*     *     *

ところで、たとえば、ヤカンにふれて、やけどしたとしよう。そのあと、「ヤカンにふれるとやけどをする」と暗いことを考える必要があるのかどうかと言えば、ある。「ヤカンにふれるとやけどをする」から「ヤカンにふれないようにしよう」と思うのである。「ヤカンにふれないようにすれば、やけどをしなくてすむ。人間は、過去の経験から、未来の出来事を推測することができる生き物なのである。「やけどをする」というのは、明るいことか、暗いことかを考えると、暗いことだ。暗いことを考えて、実際にその暗いことが起こるのをさけるのである。なので、暗いことを考えることは必要なことなのである。

いつまでもいつまでも、学習せずに、熱いヤカンにふれて、やけどをするというのは、よくないことだろ。暗いことを考えないから、何回も何回も、「暗いことを現実化」してしまうのである。


ようするに、明るいことなんて考えなくても、明るいことは起こる。(2)

(1)は都合により省略

「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる」ということについて、考えてみよう。「明るいことを考えれば明るいことが起こり、暗いことを考えれば暗いことが起こる」と言うと、なにか法則性がありそうな感じがするけど、じつは、法則性なんてない。

なにか、明るいことを考えると100%の確率で、明るいことが起こって、暗いことを考えると、100%の確率で暗いことが起こると言っているように、聞こえる。実際、そう言っているのだ。ところが、実際には、暗いことを考えてなくても、暗いことが起こる。

それは、自分の「考え」と外界が一致してないからだ。

自分の考えのなかには、きちがい的な他者の行動や、悪意がある他者の行動が入ってない。けど、実際には、きちがい的な他者がきちがい的な行動をするし、悪意がある他者が悪意がある行動をする。

それどころか、本人の主観としては、悪意がないのだけど、こっちにとっては、迷惑なをこと、命がけでするやつもいる。あるいは、天変地異とか、個人の意思とは関係がない自然現象などがある。この自然現象だって、自分の考えと一致しているわけではない。

そういう意味で、自分の考えとは、一致してないことが起こるのである。

自分の考えとは一致してないことが起こるのが、この世なのである。

ところで、あの言霊主義者だって「よし、この機器を使って、股間をいたくしよう」と思って、股間をいたくしたわけではないのだけど、股間がいたくなるということが発生したとする。その場合、股間がいたくなることが、明るいことか暗いことかと言えば、暗いことなのである。

なので、自分が予想してなかった(暗いこと)が起こる場合がある。

たとえば、体力をうけるとか、体力をつけるためにトレーニングをするということは、明るいことなのである。その機器を使って、実際に股間がいたくなるまでは、股間をいたくするためにやっていたわけではないので、暗いことを考えてなかったのである。

体力をつけよう」と明るいことを考えて行動したのに、暗い結果が待っていた。

股間がいたくなるという暗い現実が発生した。

もちろん、その現実を「暗い現実」だとは考えずに、「明るい現実」だと考えることは、できる。自分にとって、たいしたことでなければそうなる。

けど、一生を台なしにしてしまうような大きなことで、なおかつ、そのあとずっと、継続的その影響をうけることにかんしては、「明るくとらえよう」としても、明るくとらえられないことが(日々)発生する。これ、他人の状態に無関心な人や、他人の状態をうまく想像できない人は、出来事は一瞬ですむと思っているところがある。

「過去の出来事は関係がない」とか「過去の出来事は、現在に影響をあたえない」と考え人は、自分に対してだけそう思っておけばいいのに、他人に対してもそう思ってしまう。

今回の「股間がいたくなる」ということは、わりと短期間で治ることだ。その短期間のあいだ、やはり、いたいということで、行動が制限され、自分の行動に影響が出る。それは、なおってしまえば関係がないことになる。しかし、そういうことばかりではないのだ。

けど、「そういうものだ」と思っていると、他者においてでかいこと……影響を与え続けることを、過小評価してしまうのだ。影響を与え続けることも、影響がないことに思えるのだ。影響の大きさというのを、考えない人たちがいる。ようするに、自分の身体に発生している影響はわかるので、重視するけど、他人の身体に発生している影響は、自分にはわからないので、無視してしまうのである。他人における、他人が感じている「出来事の影響」を無視してしまう。

他人の身の上に起きたことは、自分の身の上に起きたことではないので自分には直接影響がない。影響がないことに関しては、根本的な想像力がさがってしまう人がいるのである。まあ、自己チューな人だ。

他人が感じている影響の大きさを考えないで「過去は関係がない」と言ってしまう。過去の出来事が、現在に状態に関係があることもある。

けど、「全体思考」と「単純思考」があわさると、「過去は関係がない」と言い切ってしまう。

話を、「明るいことを考えれば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起きる」……という文言にもどす。

問題なのは、「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こった」ということを、こういうことを言う人たちが、よく認識してないことなのである。「明るいことを考えれば、明るいことが起きて、暗いことを考えると暗いことが起きる」……ということを言う人たちだって、人生において「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こった」ということが、かずかぎりなくあったはずだ。

もし、法則性ということを考えるなら、暗いことを考えてないのに、暗いことが起きたということは、「暗いことを考えると暗いことが起きる」ということと、一致しない。

もう、すでに、法則性がないことがあきらかになってしまっている。

「暗いことを考えてないのに、暗いことが起こる」こともあるなら、「暗いことを考えると暗いことが起きる」とは言えない。言えないのに、そういうことが、自分の人生のなかで発生したにもかかわらず、「暗いことを考えると暗いことが起きる」と思っているのである。

ちょっとは、気づこうよ。ちょっとは、気がつこうよ。

明るいことを考えてないのに、明るいことが起こることはある。

そりゃ、別に、ほんとうは、特に明るいことを考えてなくても、楽しいことや、うれしいことがある。

おぎゃーと生まれてから、特に期待してないけど、親と話しているときに、楽しいことがあった。親と遊んでいるときにうれしいことがあった。友だちと、話しているときに、たのしいことがあった。友だちと遊んでいるときにうれしいことがあった」ということがしょうじる。

これをかてにして「明かるいこと」を考えているのだ。自分にとって、いいことを考えているのだ。だから、計画もしてなければ、予期もしてないことについて、楽しんできたのである。それを、考えると「明るいことがあった」ということになるのである。

別に、明るいことを考えて、明るいことが起こることを計画していたわけではないのである。むしろ、そういう意図があると、楽しめなくなることのほうが多い。そりゃ、期待して、期待通りになるときもある。

けど、「明るいこと」を考えれば、100%明るいことが発生するということはない。

「明るいことを考えること」は明るいことが起こることを保証しない。なのに、まるで、法則性があるようことを言い「明るいことを考えると明るいことが起こる」と言ってしまう。「明るいこと」のなかには、「暗いこと」は含まれてない。「起こる」ということのなかには、「起こらない」ということが含まれてない。

なので、明るいことを考えれば、100%の確率で明るいことが起こらなければならないのである。ところが、明るいことを考えても暗いことが起こることがある。あるのだから、ある。それなら、「明るいことを考えれば、明るいことが起こる」とは言えない。

明るいことが起こると考えるまえに、明るいことが起こってなければ、明るいことがなにであるのかについて考えることができないのである。

ようするに、明るいことを考えようと思う前に、人生のなかで、明るいことを経験しているのだ。明るい気持ちになったことを経験している。

それは、特に、「明るいことを考えたから」発生したことではない。

人生のなかで、生まれてから、明るいことを経験してない人は、「明るいこと」を考えることができないのである。なので、「明るいことを考える」ということができる人は、すでに、明るいことを経験したことがある人なのである。明るいことを考えるまえに、明るいことがあったので、明るいことについて考えることができるようになったのである。

この言い方でわかったかな?

発生というものを考えた場合、赤ん坊のときから、なにが明るいことであるか知っていたわけではないのである。経験のなかで、「あれが明るいことなんだな」と思えることが、何回か、何十回か、何百回か何千回か、あった。

なので、「明るいこと」について考えることができるようになったのである。

明るいことについて、考えないと、明るいことが起こらないのであれば、そういうことはないのである。

ようするに、明るいことなんて考えなくても、明るいことは起こる。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。