なぜ、ぼくは引きこもらざるを得なかったか? ぼくが引きこもりになった原因を書いています。原因は、ヘビメタ騒音です。このブログでは、引きこもりの原因となったヘビメタ騒音について、説明します。 現在、なんとかwebライターで食べています。このブログで扱う問題は「この世とはなにか」「人生とはなにか」「人間とはなにか」「強迫神経症の原因と解決法」「うつ病の原因と寄り添う方法」「家族の問題」などについてです。
2016年10月18日火曜日
どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじ
どうしても、ヘビメタ騒音のことを考えてしまう。朝の光を見たとき、そうなる。朝の雰囲気というのは、きちがいヘビメタ騒音の朝の雰囲気そのものだ。で、これはたぶんぼくが生きている限り続くと思う。脳みそに、きざまれすぎ。若いときの脳に、きざまれたものは、なかなか消えないんだな。本当に、きちがい騒音できざまれた。きちがい兄貴はまったく気にしてないけど、きちがい兄貴が「好きな音でやって良い」という法はないんだよ。きちがい兄貴は、無理矢理そういうふうに思って、そうし続けたのだけど……。これ、本当は、ひとこと、言えばわかることなんだよ。ひとこと!!! そのひとことが、一四年間も通じない。それ以降も何十年と、伝わらない。本当に、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部!!!!!……本当に全部が全部!!!……やってないと思っている状態だからな。頑固にそう思っている状態だ。で、やっているときも……まさに鳴らしている最中も……そういう状態なんだよな。だから、どれだけやったって、「ソンナノシラナイ」ということになる。どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじなのである。だから、(いまの)自分は、知らないことなのである。他の人がやったことなのに、なんで、俺に文句を言ってくるんだ」みたいな気持ちがある。本人は、やってないつもりなので、そうなのである。まさに、鳴らしているときから……そうなんだよ。で、言われたら、言われた途端に、真っ赤な顔をして怒る。これも、親父とおなじで、どれだけ、「うるさいからやめてくれ」と言われても、理解しない。「うるさい」という感情がまったくわからない……という態度なのだ。自分が鳴らしている音が「物理的にでかい音だ」ということを、まず認めない。そこからなんだよ。じゃ、本当にわかってないのかというと、そうではないのだ。実際、いま、兄貴が住んでいるマンションでは、そういう音で鳴らせない。これは、一〇年、二〇年で、一分も鳴らせない。そういう音なのである。鳴らしてない、……あるいは鳴らせないということから考えて、物理的にでかい音だと言うことは、きちがい兄貴はわかっていたと判断するべきなのである。しかし、当時の兄貴には、それがわからない。どれだけ、何回言っても、……まるで親父のように……わからない。で、「まるで親父のように」と言ったって、他の人は、本当にわからない。うちのなかで、「親父」がどういう態度だった……どういうことをしたか、他の人にはまったくわからないようになっているのである。で、これも、親父自身は、「まったくつもりもないし、やってない」と思っているのである。ごく自然に、いつもいつも、「そういう態度」で「かならず、爆発していたのに」、本人は、つもりがないし、やってないのとおなじ気分でいるんだよな。で、そういう「うそ」が日常的に成り立っている。本当に、あれだけ、こだわって、理由もないのに、何回も何回も、やったことなのに、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」ってなる。で、やっているときから、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」って言いやがるんだよ。「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上すれば、それで、「やってないことになって、親父の言い分が通った」。……殺してしまうわけにはいかないのだから、そうなる。真実として、やったとしても、きちがい親父が「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上してしまえば、親父のなかでは、「やってないのとおなじ」ということになる。認知、認識、記憶、どれをとっても、やってないのとおなじで、じっさいに「やってない」ということになってしまうのである。で、そうやって、やるんだよ。そうやって、意地を通して、わのわからないことをする。あるいは、こっちに、悪さを仕掛けてくるときも……おなじなんだよ。対象が違うだけだから。親父が、思いつきで、なにかを修理するというのも、親父が思いつきで、こっちに文句を言ってくる……八つ当たりをして逆上するというのも、まったくおなじなわけ。で、修理と言ったけど、こっちにとって、どうでもいい修理は、してもらっていいのだけど、こっちにとってどうでもよくない修理だと困るんだよ。「そういうふうにされると困る」ということがある。たくさんある。
* * *
2016年10月16日日曜日
「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない
だから、楽しい→笑うという反応のほうが先だ。楽しい→笑うということを、小さいときから繰り返してきたので、笑うと楽しく感じるだけなのだ。だから、「楽しい→笑う」という連関のほうが先。じゃあ、なんで、楽しいと笑うのかということに関しては、人間はそうできているからそうなんだとしか言いようがない。
別に笑い顔を作ろうと思っているのわけではないのである。感情に対する顔の筋肉の反応が、そうさせる。顔の筋肉の反応を見て、人が、「笑っている」と判断しているだけなのだ。人がというのは他の人がということだ。本人が、笑い顔かどうか、あんまりわからないのである。
ただ、ごく自然に、楽しいときは、そういう筋肉の反応があるので、そうしているだけだ。けど、そういうことを繰り返していると、だいたい、こういうふうに筋肉を動かせば、「笑い顔」と言える表情になるんだなということを、「学習」するのである。
これも、泣くというのは、涙が出るという生理的な反応なのだけど、悲しいときには、そういうことがよく起こるので、そういう連関ができあがっているだけだ。泣くから、悲しいというのは、そういうことを多く繰り返してきた人間だからこそ、「感覚的に」わかる話なのである。
で、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」流の言い替えが、「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」ということにも、成立してしまう。前回話したけど、生まれながらの貧富の差は、そこではまったく問題にされないのである。
ただ、「考え方」だけに、理由を求めている。「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」「楽しいことがあるから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」「不運だから不運だと感じるのではなく、不運だと感じるから不運になる」「笑う門には福来たり……笑っていると福が来る……福が来るから、笑うのではない)」……こういう言い方がはやる。
けど、こういう言い方は、それまでの文脈というのもを無視している。だから、一見正しそうに見えても、正しくない。まあ、「運・不運」とか「幸福・不幸」とか「福相・貧相」ということになると、「泣く」とか「笑う」というような表現型とは違った話になるんだよ。それこそ、「なんとだって言える」範囲が広くなる。だからこそ、「感じ方の問題だ」というのはわかる。けど、それもその人の人生上に起こった出来事というのを無視してはいけないのである。
この「笑っていれば幸福になれる」というのは、なんとなく正しいそうなんだけど、ものすごくつらい思いをしている人がやると、そんなにいいことにならない。すでに元気な人がやることなのである。あるいは、普通のことが普通にできている人がやることなのである。弱っている人が、そういうことをしたら、本当に気の毒な話になる。深く自分の心にふれあわなければならないのである。そういう時間が必要なのである。それなのに、「自分は幸福なんだ」「自分は楽しいんだ」「笑い顔笑い顔」と自分を無理矢理励ますと、不自然なことになってしまう。よけいにつらくなってしまう。
補足
「貧相」と言ったところで、なにが「貧相」なのか定義がない。Aという人とBという人がいて、Aという人が「Bさんは貧相だ」と決め付けているだけなのである。鼻の高さが、何センチ以上だと福相、それ以下だと貧相と決まっているわけではない。「なんとなく、そういうふうに感じる」と言うだけの話しだ。
2016年10月14日金曜日
まじ、やばいわぁ~~ この雰囲気~~やばい。
この雰囲気~~やばい。
やっぱりヘビメタ騒音で人生がない。この二〇年俺はなにをやってたんだ。
なんけ、げそーーっとくる。
「ナニワの金融道」を読んだのが原因か。いや、いつものことだ。このままだと、このまま死ぬ。
やっぱり風呂に入っていても、文章を書いていても、英語の勉強をしていても、全部、きちがいヘビメタ騒音の感じがする。なっている感じがする。そして、疲弊して人生がなかった。きちがい兄貴の態度に憤慨する。怒りっぱなし。普段、他のことをしていても、きちがい兄貴の態度を思い出して、一人で頭にきている。この生活……何十年も前からだけど……この生活は……きちがいヘビメタ騒音生活の延長だ。疲労をそのまま受け継いで続いている。死にたい。いや、より良く生きたい。そりゃ、そうなんだが……。
2016年10月13日木曜日
思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない
それからここで言っている「セミナー商法」というのはアフィリエイト系のセミナー商法が根底にあります。
たとえば、底辺労働をしている人が、職場で社長のふりをしていると社長になれますか? なれるのであればいいけど、なれないのであれば、むだな行動になってしまう。というか、職場で社長じゃないのにあたかも社長のようなふりをしたら、きらわれるでしょ。「なんだあいつ」と思われる可能性が高いでしょう。
けど、なんていうのかな? 人間というのは、「げんをかつぐ」といのがある。だから、行動を起こすときにお守りが必要だというのであれば、別に、お守りの効果は否定しない。そういうことなんだけど、わかってくれるかな。
まわるかどうか、というのは重要だし、この世は、なんていうのかな?まわしたもの勝ちみたいなところがある。善人が苦汁をなめて死んでいき、悪人がいい思いをしてしあわせに生きるということもある。一代限りだと、そういうことが言えてしまう。そりゃ、たましいというのものを想定して、生まれ変わりを想定すると、最終的にはバランスがとれるということを言えるのだけど。
* * *
けど、やっぱり、神様はいじわるだな。俺にこんな家族、こんな無理ゲーを押し付けやがって。あの気持ちは、ない。きちがい兄貴のヘビメタにさらされているときの、あの気持ちはない。明日、自分にとって大切な試験があるという日、一分も静かにしてくれなかったからな。きちがい兄貴よ。何回言ったと思っているんだよ??
倒錯理論について、ちょっと説明をしておく。これはもう、説明したことなんだけど、もうちょっとわかりやすく説明したい。
問題なのは、貧乏だから「貧相」になったのではなく、「貧相」だから、貧乏になったのだと言う考え方だ。「貧相」じゃなくても、たとえば、「貧乏になる考え方」でもいい。
彼ら曰く。「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」。こういうことを言う人たちがいる。で、こういう人たちは、そろって、スピリチュアリズム系のことも言う。けど、彼らのなかにながれているのは、思いやりじゃない。貧乏になっている人を救いたいわけでもない。自分が、儲けたいだけだ。たとえ、幸運の長財布の説明がなくても、そういう説明をする人は、実は、相手のことを思ってない。もう、そういう考え方自体が相手のことを無視している。だから、これは、リトマス試験紙のように使える。
どういうことかというと、どういう家に生まれたか?ということを無視しているからだ。たとえば、「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」ということを言う場合は、人生の最初の差を無視している。こういう無視が成り立っているということが問題なのだ。そして、その人のことを本当には思ってないということが、そこにあらわれている。こういう倒錯理論は、一見正しそうに見える。しかし、間違っている。お金持ちの家に生まれたか、それとも、お金がないうちに生まれたかというのは、ものすごく、大事な差だ。考え方以前の問題なのである。事実!!考え方以前の問題がある。そういう、大切な部分をないがしろにしている。そして、けっきょくは、「貧乏になる考え方をしている人」を責めている。この「貧乏になる考え方をしている人」というのは、けっきょくのところ「いま現在貧乏な人」なのだ。だから、困っている人を、さらに責めるということになる。「いまおまえが困っているのは、おまえの考え方が悪いからだ」……こういうことを言っているのである。
生まれたときに、差がある。ここを無視して、「考え方」が重要だという。これは、レトリック。生まれ育った環境を無視して、「考え方」だけを、問題にする。
わからなくてもわかっているふりをする。そうすると、わかるようになる……そんなことがありますか? 残念ながら、わかるように努力しないと、わかるようにはなりません。わかるという体験をしないと、わかるようにはなりません。
で、まあ、貧乏云々の話に戻します。生まれた家、子供時代、より高度な教育を受けられる環境……こういうことが、その人の人生に影響を与えているということを、最初から無視して、貧乏な人は、貧乏になるように考えたから悪いんだというようなことを言う人は、根本的に信頼できない。
思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない。そういう無視が、どれだけ、無慈悲な無視であるか知っているから。
2016年10月12日水曜日
ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。
あー、お母さん。あれから何年経ったんだ? 俺が一九歳の時のきちがい兄貴なんて、本当に絶対にやめてくれなかったからな。そして、この空間。この空間。やるせないーー。やるせないーー。まあ、「ニコニコ感謝法」でやれる人はドンドンやってくれ。俺には無理だ。いま、ものすごく変な気分になっている。これは、やばい。これはやばい。……やばいじゃなくて「俺は運がいい」「ついてるついてる」か? ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。
ともかく、苦しかった。
気分を変えるために、運動でもするかな。それにしても、だましだまし進んでいても、いつか終わりが来る。まあ、ワクワクしていても、終わりは来るけどね。それにしても、ぼくの人生は苦しい。きちがいヘビメタ騒音で苦しい。きちがい兄貴よ!! 兄貴はあれだけこだわって、まったくやったつもりがないのかよ???
2016年10月11日火曜日
ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから
2016年10月8日土曜日
「感謝感謝」から差別主義まで、そんなに距離が離れていない
最初の方はいいことが書いてあるんだよ。けど、だんだん、悪いことが書いてある。
たとえば、「べき」の暴君にやられる※べき※ではないということがある。このべきの暴君というのは、心理学的な一般読み物系の用語だけど、同じことが書いてある。「がんばる必要はない」「本当に必要なことは楽しみながら、ワクワクしながらすることができる」「がんばらなければならないは、無理をしているから」「がんばらなければならなくなるのは、自分の本当の気持ちに逆らうことをしているから」……というようなことが、書いてある。
しかし、あとの方になってくると、「運を引きよせることが必要だ」ということを言い出したりする。「運を引きよせる」ためには、けっきょく、がんばらなければならないのである。「流れを変える」ために、いろいろなことをしなければならなくなる。けっきょく、そういうめんどうくさいをことしなければならないというような気分にさせられるのである。がんばる必要はなかったんじゃないのか?
あとは、感謝だ。すべてのことに感謝しなければならないのである。しかし、ここでも、最初に言っていたこととはちがうことが、出てくる。たとえば、「波動が悪い人は避けなければならない」のである。何事にも感謝するべきなのではなかったのか? その主張に従うなら、波動が悪い人に出会ったということも、感謝するべきなのである。
「すべてのことに感謝」ということを語っていた時は、たとえば、事故に遭っても感謝するというようなことを、語っていたじゃないか。足を折ったら、「ここで足が折れてよかった。他のところで折れてたらもっと困っただろから」と思わなければならないのである。足を折っても「こういうことをすると足が折れるので、次からはこういうふうにして足を折ることを避けよう」と思わなければならないのである。「よかった」と言うと、脳がだまされて、「よかった」と思ってしまうと主張していたではないか。
しかし、ページを読み進めていくと、「態度の悪い人は、悪い波動を出しているから、避けるべきだ」というようなことが書かれているのである。どんなことも、悪いことではなく、悪いことだと受けとめるのは、その人の受けとめ方の問題なのではなかったのか?
しかも、「態度が悪い(人を避けろということ)」は、よくわかるけど、「波動」とか言い出す。最初の方で「感謝」とか言っておいて、あとの方になると「悪い波動を出している人は避けろ」とかそういう話になる。悪い波動を出している人にも感謝するのが、すじではないのか? 最初の方では、そう言ってた。悪いことには意味があるのではなかったのか? 最初の方では、悪いことにも意味があると言ってた。悪いことが起こっても、感謝して「脳を書き換える」「脳に上書きする」のではなかったのか?
たしかに、最初の方ではそう言ってたのに、あとの方になってくると「悪い波動を避けろ」とかそういう話になってしまうのである。実際に自分に悪いことをしてきた人を悪い人だと認識するのはかまわないけど、実際に自分に悪いことをしてこない人でも、悪い人になってしまうのである。たとえば、電車の中で悪い波動を出している人に会うことさえ、なるべく避けるべきことになる。悪い波動を出しているかどうかというのは本当はわからない。「あの人は悪い波動を出している」と感じる人がそう感じているだけかもしれないのである。しかし、「運をよくする」とかそういうことにこだわり出すと、「悪い波動を出す人は避ける」べきだというような狭い考え方に陥ってしまうのである。最初は、「悪いことが起こっても、よいことが起こったと考えよう」みたいなことを言ってたのに……。
たとえば、元気がない人は、元気がない波動を出している。元気がない人に近づくと、元気をうばわれる……だから、元気がない人には近づくべきではない……というような話になる。それだけではなくて、たとえば、きたない服を着ている人には近づくべきではないという話になる。きたない服というのは、物理的にきたない服ではなくても、きたない服に分類されることがある。たとえば、よれよれの服は、きたない服なのである。実際には、洗濯してあって、物理的にきれいな服であったとしても、よれよれの服はきたない服として認識されてしまうのである。どうしてかというと、「なんとなくきたない」と感じてしまうからだ。波動とかそういうことを言い出すとそういうことになる。たとえば、よれよれの服を着ている人は、貧乏で、お金のない波動を出している。お金の運が逃げるから、近づくべきではない……こんなふうになってくる。本の作者は考えてないけど、たとえば、うつ病の人が読んでいるかもしれない。うつ病の人だって元気になりたいわけだから。
で、たとえば、うつ病の人が、「憂鬱そうな人は避けるべきだ」という文章を読んだ場合どう感じるかというと、「自分は避けられる人間だ」と感じてしまうのである。そりゃ、そうだろう。「憂鬱な波動を出している人には近づくべきではない」と多くの人が考えるなら、憂鬱な波動を出している?自分は、多くの人から避けられると考えて当然だ。だから、憂鬱な人が、この手のスピ系の本を読むと、どこかで、気持ちが重たくなるはずなのである。
何事にも感謝とか言っておいて、最後の方になると、すごい選別思想みたいなものが出てくる。実は、これは、選別思想じゃなくて、「けがれ」の変形なのである。「けがれ」と「ことだま」はプリミティブな感情で、現代人にもある。だから、通りやすいのである。読んでいて納得してしまう部分がある。
たとえ、きたない服を着ている人でも、憂鬱な人でも、元気がない人でも、「けがれ」と「ことだま」の思想は持っている。だから、……けがれていると避けられるほうの感情だけではなくて、けがれている人を避ける方の感情も持っている。が、しかし、「感謝感謝」と言っておいて、結論が、これなんだからな。元気がない人というのは、「け」が「かれてる」状態なのである。なので、「けがれている」……「けがれているひと」には近づくな……「けがれているひと」が触ったものは触るな……こういうことになるのに、あと一歩しかない。だから、「感謝感謝」「どんなことにも感謝」「悪いことが起こっても感謝」から、ある種の「けがれ差別主義」まで、そんなに距離が離れていない。というか、むしろ、表裏一体?
自分に対して悪いことをしてくる人……たとえば、ヘビメタ騒音を出して絶対にゆずらない人……ではなくて、ただ単に元気がない人に対してどういう態度をとるべきかというと、そういう元気がない人も思わず元気になってしまうような態度をとるべきなのだ。元気がない人が、自分に会うと元気になってしまうような人を目指すべきだろう。元気をうばわれるのではなくて、元気をあげられると考えるべきなのだ。感謝感謝と言っているのだから、元気がない人にも感謝するべきだろう。電車の中で元気がない人に出会ったのは(見かけたのは)悪いことではなくて、よいことなのではないか。「元気がない人に出会えてよかったな」と脳をだまして言い換えるべきなのではないか。もちろん、これは、「べき」論だ。だから、別にそういうことを目指す必要はない。ただ、「感謝感謝」という考え方に賛成していた人は、やはり、元気がない人に出会っても、それを悪いことだとはとらえずに、よいことだととらえて、感謝するべきなのである。
タイトルからここまで、ずっと「べき」論を言ってきたのである。どれだけ「べき」いう言葉が使われているか数えてみればいい。(俺、いまの時点で数えてないけど)。
元気がない人は避ける人になるよりも、元気がない人に元気をあげることができる人になった方がいいんじゃないのということを言いたい。「感謝感謝」という考えにこだわるのであれば……という条件付きだけど。
* * *
「わくわく」と「感謝感謝」「鏡の法則」「引きよせの法則」だと、「わくわく」の方がいい。
けがれるの「け」についてちょっとだけ説明をしておこう。「け」を漢字で書くと「気」になる。内側が、メではなくて、米のほうなんだけどね。この場合の「気」というのはなにを意味しているかというと、「生命力」を意味しているのである。「け」が枯れる状態というのは、「生命力」が枯れる状態なのである。
* * *
この、「脳」をだますというのは、エセ科学かもしれない。「脳」をだますというのはよく言われることだけど、別に検証されたわけではない。すくなくても、ぼくの知っている範囲では検証されていない。検証されたとしても、統計的な差でしかないと思う。あとで、主観をアンケートに書くとかそういうことをもとにした、検証でしかないと思う。
それから、たとえば、痛さを抱えながら、ずっと「よかった」と思うことができるのかどうか、わからない。わりと痛みが持続する場合はどうなんだろうな? ずっと、「虫歯になってよかった」と頭の中で言い続けるのだろうか? それで、本当に「虫歯になってよかった」と考えることができるのだろうか。
2016年10月7日金曜日
ぼくの冒険はここから始まる
俺は好きなことしかしないという宣言をした。けど、実際にどういうことをするのかということに関しては、たぶん、ここには書かない。
ぼくの冒険はここから始まる。
ヘビメタ騒音に関してだって、俺が書かなきゃ、誰も書けないだろ。俺は、他の誰かが書けることを書いているわけじゃない。たとえ、ネガティブだと言われても、書かなきゃならないのである。この世で実際にあったことだしな。けど、フィクションにしておかなければならないのである。どうしてかというと、フィクションにしておかなければ、自由な文章を書けないという問題があるからだ。実際、どういう文章が書けなくなるかということに関しては、ちょっと考えればわかることだと思う。
これは、これで、ライフワークとして取り組むつもりだから、他の人から「ネガティブだ」「暗い」と言われても、書き続けるよ。
しかし、「本当に疲れたな」というのはある。ヘビメタ騒音をやられて、本当に疲れたよ。あの生活は地獄だ。で、いまでも、朝起きたとき、部屋の中を移動しているとき、ドアを開けるとき、道を歩いているとき、自転車に乗っているとき、「あの生活」を思い出してしまうのである。これは、本当につらい。本当にキチガイ兄貴なんて、適当でいい加減で、しつこいよな。
あのキチガイ的なつたわらなさと、キチガイ的な意地はなんだ? 絶対にやめない。絶対にでかい音なのに、でかい音だということを、最後の最後まで、認めなかった。そういうことを、平気でする。まったく気にしてない。兄貴の部屋に遊びにきた兄貴の友達が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」ということを言ったのに、その友だちがいる間も、その友達が帰ったあとも、ずっと、普段通りに、ちょっとだけ来た人が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」と思うようなでかい音で鳴らしていた。一緒に住んでいる人間がこれなのである。横の部屋で、可能な限りでかい音で、可能な限り長い時間、絶対の意地でヘビメタを鳴らすのである。
どれだけ言われても、ぜんぜん気にしない。それが兄貴の態度だったんだ。その時だけではなくて、毎日毎日、そういう態度で、毎時間毎時間鳴らしてた。一日に一分もゆずってくれなかったというのが本当の話だ。しつこくなるのは、俺がどれだけ言っても、キチガイ兄貴がまったく認めなかったからだ。この認めなさがひどいんだよな。人間とは思えない認めなさで、ふつーーーに、ひどいことをやりやがる。しかも、本人は一分もやったことがないつもりなのである。「まったくやってない」と思っているのである。こんなのない。
まあ、ともかく、俺は自分がやりたいことしかしないと誓った。
ネガティブな文書(本)は存在価値がないかというと、存在価値はある。かならず、それを必要としている人たちがいる。たとえネガティブであっても、問題が問題であれば、問題を理解するために、それが必要になる。ぼくは、かつて、岸田秀の本を読んでいるときに救われた。この人は、まあフロイト派の心理学者だ。岸田秀は、みずからが神経症者だと言っている。
で、神経症に関してフロイトの精神分析的な立場からいろいろなことを述べている。岸田秀と彼の母親の関係についてめちゃくちゃにネガティブなことを書いているのである。けど、それが、ものすごく役に立った。「そういうことなのか」と腑に落ちることが多かった。それまでは、きちがい親父の行動を説明することができなかった。岸田秀を読んで、フロイトを読んではじめて、きちがい親父の行動を説明できた。「きちがい親父という不可解な現象」を説明することができた。不可解な現象が説明できる現象になった。それまでは、なんとなくわかっていたのだけど、言語化することができなかったのである。
まあ、いいや。ともかく、ぼくは岸田秀の本によってすくわれたのだ。
たとえ、ネガティブでも、存在意義はある。
価値がわからない人は価値がわからないけど、それはそれでいい。その人の人生なのだから。その人の人生のなかで、あんまりわからないことなのだから。これは、わからないから悪いと言っているのではなくて、要するに、「かかわりがなかった」ことなのである。かかわりがあったひとには、わかる。それだけ。
* * *
やりたいことって八割が金儲け。あとは、女か。
にしても、疲れた。ワクワクできない。
長い間ワクワクしてない。ヘビメタ騒音が始まった一一歳の時からずっと苦しい。
苦しいまま年を取って、最後には、アパートの一室で……。
辻潤って知ってる? 辻潤の作品はいいよ。
* * *
俺はどうすればいいんだろう。
本当にヘビメタ以来、ずっとつかれている。
けっこうさみしい。追い詰められてしまった。
きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境……どれだけなにを言っても、きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境のなかで疲弊してしまった。もう、どうにもなんねぇ。
* * *
金の制限がなければやりたいことはある。ハングライダーで空を飛びたい。あれは、もう、制限されちゃっているのかな。パラグライダーよりもいいんだよな。飛行機の操縦はどうでもいいや。
やっぱり、好きな女と京都あたりに行きたいな。
ヘビメタ騒音でぐたーーーっときていても、気にしない女。俺はすぐぐたーーっとなっちゃうからね。本当に、苦しかった。毎日のヘビメタが苦しかった。何度言っても、一分もやめてくれなかった。なんで俺だけヘビメタ騒音のハンディがあるんだよ? そんなハンディがなければ、楽勝だったのに……。
2016年10月5日水曜日
一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである
2016年10月2日日曜日
「考え方を変えればすべてが変わる」系の本に書いてあること
寿司屋でも行くかなぁ~~~
はら、へったなぁ~~~
あー、どうしたもんだ。
だるさを数値化すると、60ぐらいか。かなりだるいな。けど、外に出れないほどだるいわけではない。さっきまで寝ていたんだけど、午後1時ぐらいは、だるくて外に出れなかった。
回転寿司は、混んでるかな。日曜日はやばいんだよな。
どうするかな。人それぞれの日曜日なんだろうな。実は、「考え方を変えればすべてが変わる」系の本を読んだ。これ、言っちゃなんだけど、かなり鬱になる。この人たちが言っていることは、みんな同じ。引き寄せ、鏡の法則、思ったことが現実化する。で、この人たちが、「挫折した失敗した、不幸だった」と言っているのだけど、それがみんな普通の挫折、普通の失敗、普通の不幸なんだよな。これ、本当に違う。
仕事をしている状態で自分が空回りして、失敗したとか、そういうレベルなんだよ。大学受験に失敗したことだって、一応、高校まで好きなときに勉強できる状態で失敗したという話で、中学三年間、高校三年間、ずっと毎日、勉強することを邪魔されて、勉強することができなかったというような状態じゃない。「自分が心を開いたら、相手も心をひらいてくれた」とか、全部、健常者の話なんだよ。健常者の家族の話。家族にサイコパスがいるやつはどうだ?
サイコパスの反応なんて、自分の態度が「うつっている」わけじゃないのである。サイコパスはこっちの態度に関係なく、こっちの気持ちに関係なく、サイコパスなんだよ。サイコパス的な常識、サイコパス的な優先順位、サイコパス的な気持ちで、動いている。こういうことが、ぜんぜんわかってない。
たとえば、鏡の法則と言った場合、その鏡の法則は、どんな場合でも成り立つ「普遍法則」なのである。成り立たないのは、相手がサイコパスではなく、自分がこころを開かないから(あるいは、自分のこころが相手に反映している)と考えるわけだからさ。
ふたりとも、女で、旦那がどうだ、彼氏がどうだという話になる。小さい頃からハワイに住みたいなと思っていた。突然、旦那がハワイに転勤を命じられた。(引き寄せだ。思いは現実化した)って話だったり、気分を変えるために、アメリカに行ったら、ものすごく金を持っている彼氏ができて、その人と豪華な暮らしている(引き寄せだ。思いは現実化した)……だからね。日本で残業をして働いていた頃には考えることさえできないような生活をしている……。こういう話は、本当に悩んでいる人には、参考にならない。本当に不幸な人には参考にならない。
本当に最初からレベルが違う。すべてがすべて、「普通の話」なのである。家族が健常者じゃないやつで、こういうことを言っている人は少ない。言っているとしたら、本人が病人である場合だ。
スピリチュアリズムだと、こういうことを言えば、霊界の話が出てくる。そして、要するに「選んだ」という話になる。サイコパス家を選んだのはあなただ。サイコパス家を選んで、あなたはこの世に生まれてきたという話になる。もっとも、はやりの「引き寄せ」「鏡の法則」「思いは現実化する」に関しては、そこまでは、話が進まない場合が多い。普通の失敗、普通の不幸、普通の挫折で話が止まっているから。
たとえば、大学を卒業したあと普通に会社で働いている人が感じる失敗なんだよ。何十年も引きこもっている人が感じる失敗じゃない。「自分も失敗ばっかりだった」「考え方を変える前は、こんなに不幸だった」と言っているけど、それは、普通に働いて普通に家庭生活を送っている上での、不幸、失敗なんだよ。ぜんぜん、わかってない。
まあ、俺は、強烈な幸運の持ち主だから、回転寿司に行っちゃうけどね。
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あるいは無慈悲に、「あなたがサイコパスを引き寄せた」という話になるわけだから。
2016年9月30日金曜日
一五年間かけて……弟の進学と就職を邪魔したことは……破壊したことは、まったく気にしてないからな
削られていなければ、たとえば、八〇から一〇〇の間で変動しているものが、削られてしまったあとは、〇から二〇の間で変動しているようなものだ。普通の人にとって体調が悪いときが八〇なのに俺にとっては、体調の良いときですら二〇でしかないというような状態になってしまった。これが、かなりでかい。ヘビメタ騒音で失ったものはいっぱいあるけど、そのなかで、いくつかの大きなものがある。
体調……普通の体調は、二番目か三番目あたりだ。キチガイ兄貴は、ヘビメタを鳴らすけど、鳴らしている最中は鳴らしてないのと同じだという気持ちがある。というか、そういう認識で、実際に鳴らす。鳴らしてきた。そういう態度が、腹立たしい。中学一年生のときだけを考えても、どれだけ、「注意した」と思っているんだよ。「知らない」「知らなかった」わけがないだろ。全部こういう調子だからな。
嫁さんとの結婚式には、総額六〇〇万から八〇〇万ぐらいは使っているんだよ。嫁さんの親が数百万出したわけだけど。自分が弟の人生を破壊しておいて、弟に払う慰謝料は〇円で、結婚式に数百万使っている。何百万出したのか知らないけど、数百万の単位であることは確かだ。本当に自分が一五年間かけて、……毎日毎日……一五年間かけて……弟の進学と就職を邪魔したことは……破壊したことは、まったく気にしてないからな。「そんなの知らなかった」の一言で済ます。じゃ、あ、試験前に静かにしてくれたのかと言ったら、どれだけ言っても、静かにしてくれなかった。試験前の冬休みなんて、一日に一四時間鳴らしている状態だ。
昨日も書いたけど、本当に、午後四時から午後六時までの二時間でもつらい。つらすぎる。発狂状態になって、一日の体力を使ってしまう。これは、午後四時から、午後六時までの二時間でヘビメタが終わったということではない。その後も続いている。けど、二時間でお・し・ま・い、ということ。
他の人は「うち」のなかのことは、わからない
そうしたら、やれなかったことをやろう。けど、本当に気持ちが曇っている。朝起きて感じることがヘビメタ騒音でつらかったということだ。昼起きて感じることが、ヘビメタ騒音でだるかったということだ。夜起きて感じることが、ヘビメタ騒音で死にたいということだ。深夜、「あの感覚はいいようがない」と絶叫したくなる。夕方「いま鳴ってたんだぞ!!」と絶叫する!
午後四時から午後六時までの二時間だけでも、つらかった。あの空間はいいようがない。本当に、きちがい騒音空間だ。だから、「鳴らすな」「静かにしろ」とさんざん、怒鳴り込んだだろ。怒鳴り込んだのにまったくわかってない状態なんだからな。あれは本当におかしい。自分にとって不都合なことをいわれたら、むかっときて、腹を立てて、頑固に、その「やるな」といわれたことをする。していれば、当然していることになるのに、本人は、「してない」つもりになるらしい。頭がおかしい。で、これ、親父がやり始めたんだよな。午後五時台とか、お母さんの部屋というか、親父とお母さんの寝室??で、鏡台の端に腰をかけて、「きちがいヘビメタで困った」とお母さんに、ずっと愚痴っていた。相談していた。お母さんは、病気で横になっている状態よ。まあ、いつも元気がないんだよね。その頃は、なんとか起きて、料理を作ってたんだな。中学の時は、まだ、お母さんが料理を作ってたんだよな。あのときは小学六年生の時よりも症状が軽いのか? リュウマチだからな。小学四年生から小学六年生頃までは、薬の副作用がひどかったんだよな。(これは、母さんの話)。
何度も言うけど、うちは、アパート形式になっている。昔、貸してた。六畳間プラス三畳間(台所?)で一セットという感じで、三セット貸していた。その家賃で、土地と家のローンを払っていた。だから、一軒家としては、作りがおかしいんだよね。親父が土地を買った頃は、まだ、土地が安かったんだよね。これがあだになるとは。マンションとかだったら、絶対に兄貴は鳴らせない!! 四時台、五時台、六時台、七時台、八時台、九時台、一〇時台の音で鳴らせない。わりと家の敷地が大きなところなんだよな。昔、ひとつの家だったところに、三軒建っているからな。これは、お隣じゃなくて、道路を出たところだけど。まわりの家は、わりと一軒ずつの敷地が大きい。いまの感覚でいうと……。親父の収入だと、普通は家なんて買えないんだけど、人に部屋を貸すことで、ローンを払ったんだよ。だから、収入と家の大きさはつりあってない。
兄貴の部屋を考えた場合、ちょうど、空間があいているんだよな。
あ~、朝の日ざしがさしてきた。この日ざし。
本当にきつかったな。一番眠りが深いときに起こされて、めちゃくちゃにしんどい状態で、着替えて、髪の毛もとかさず、飯も食わないで、外に出た。で、へろへろな状態なんだけど、バス停まで走った。僕は全力疾走しているつもりなんだけど、普通の人から見れば、のたのた、マラソンをしているような状態にしか見えないんだろうな。要するに、そんなに早く走ろうとしてない状態に見える。腹が痛くて、意識がもうろうとしてつらかった。きちがいヘビメタに「昨日の晩」やられてつらかった。午後四時から、午後一一時まで強制的にヘビメタを聞かされたので、夜眠れなくてつらかった。死にたかった。中学一年生時から、こうだ!! ともかく、苦しい状態で、ひきつって走っている状態なんだよな。それなのに、人に「遅い」といわれたり「遅刻すんな」といわれたり、「ちゃんと宿題をやってこい」「もっとちゃんと走って」といわれる状態なんだよ。ヘビメタ騒音にやられながら、学校に通うというのはそういう状態なんだよ。
で、きちがい兄貴は、どれだけ、俺が「やめろ」「静かにしろ」と怒鳴り込んでも、絶対にやめない状態だ。これ、ここで書くか迷うけど……なんていうのかな? 本当にきちがいなんだよな。
「やめろ」「静かにしろ」と注意されると、怒って、鳴らし続ける。自分にとって不都合なことをいわれたら、催眠術にかかったように、むきになって、頑固に無視して頑固に、やり続ける。これ、親父とおなじなんだよな。……昨日考えたんだけど、やっぱり、いわれた途端に、「やってないこと」になっているんだな。そのあと一〇〇%自分の意地を通して、絶対にゆずらないで、全部の時間、どでかい音で鳴らしているのに、本人は、「まったく鳴らさなかった」のとおなじ気持ちなんだよね。同時に、「なにも言われなかった」というような認知が成り立っている。言われた途端に、怒って無視する。もう、顔を真っ赤にして、目を三角にして怒るんだよ。自分にとって不都合なことを言われた」というのが、発狂するほど腹が立つことなんだよ。兄貴と親父はそう。基本的に、全部自分が鳴らしたいように鳴らしたいという欲求がある。その欲求は、きちがい兄貴には自覚されないことなんだけど、すべての認知を押しのけて、成立する。言われたらやばいこと、は、どれだけ言われても、無視した瞬間に、いわれてないことになっているんだよな。けど、本当は伝わっている。これ、親父や兄貴のこういう状態見たことがない人は、「そんなひといるかな」なんていうけど、ものすごい、意地なんだぞ。本当に顔を真っ赤にして、怒り狂って、不退転の決意で、やる。兄貴の場合は、からだをこわばらせて、あぶらあせをかいてというのはないけど、顔が真っ赤になる、目が三角になるというのはおなじだ。強烈な意地でやろうとする。で、その時に、こっち側の言い分を通そうとすると、やっぱり、殺さなければならなくなる。そんくらい、強烈な意地なんだよ。からだをこわばらせてというのはないけど、なんて言うかな、それに近い部分はあるよ。動いているけど、明らかにむきになってやっている状態になるから。動きに余計な力が入る。どれだけ、邪魔されたって、絶対にやってやるぞという気持ちになって、頑固にやる。むきむきになってやる。だから、そういうスイッチが入ってしまうのだから、言われたことがわかるんだよ。わかっている。わかってなければ、ごく自然に動いているわけだから……。動きが不自然。全身に力が入って、むきになって、やる。あぶらあせはないけど、親父とおなじなんだよな。顔だけじゃなくて、たぶん、からだもマッカッカになっている。首も赤いからな。
だから、そういうふうにむきになってやったことなら、「やったつもり」があると思うだろ。けど、むきになってやったことは、「まったくやってない」という認知が成り立ってしまうのだ。本当に「やったってやってない」ことなのである。で、「やったって」の部分がとれて「やってない!!やってない!!」ってなる。本人は、つもりがない。しかも、言われたということも忘れてしまう。忘れてしまうというよりも、「やめろ」と言われて無視した途端に、「そんなの言われてない」ということになってしまう。そういうしくみなんだよな。だから、それを何十万回、何億回と繰り返していても、いつも、「つもりがない」状態なのである。無視してやり続けたという部分が完全に抜け落ちてしまう。それは、兄貴にとって都合がいいことで、僕にとって都合が悪いことなのである。で、こういうのが普通に成り立つのが「うち」なんだよ。他の人は「うち」のなかのことは、わからない。
兄貴は、兄貴にとってだけ都合がいいこの認知システムを、「うちにいるかぎりは」なげなかった。「うちにいるかぎりは」ずっとそうしていた。だから、「そんなの知らなかった」とか「静かにしてやった」とか言うことになる。自分がやったことを知っていれば絶対にそんなこと言えないのに、そういうことを、平気で言う。頭がおかしい嘘をつく。頭の作りが当時とおなじで、過去のことに関しては、当時やったように、自分にとってだけ都合がいい認知が成り立っているんだよ。
無視した途端に、言われなかったことになって、
無視した途端に、どれだけやったって、やってないことになる。
「そういうふうにむきになってやったことなら、「やったつもり」があると思うだろ」って書いたけど、こういうの、主語がわからないから、意味が通じないってことがあるのかな?
むきになってやったのは兄貴だ。ここでは、兄貴がヘビメタを鳴らして、エレキギターを弾くということだ。で、兄貴がやっていることなのだから、当然兄貴は、そうしているという自覚……確かに自分がヘビメタを鳴らし、エレキギターを弾いているという自覚……があるはずだと、「僕」が思うわけ。「兄貴がそういうふうにむきになってやったことなのだから、兄貴にはやったつもりがあると、僕が(こっちが)思って当然だろ」ということになるんだけど、無理矢理主語を入れると、やっぱり、ところどころ修正しないと日本語としては不自然になる。
2016年9月29日木曜日
今日は気分が「秋葉原系」だから、パソコンの本でも書こうかな
なんか、秋葉原行こうかな。行ってもしかたがないんだけどな。昔は、マザーボードを見るのが好きでよく行ってたよ。
俺の人生、本当に、どうなってしまうのだろうか???
今日はもう、二回、外に出てきたので、あとはなにもしなくてもいいや。
なにをやっていてもヘビメタ騒音でつらいというのはかわりがない。もう、何十年もそうだ。毎日、そうだ。そうでない日が一日もなかった。そういう影響をきちがい兄貴は俺に与えている。けど、きちがい兄貴は、自分が五〇〇〇日以上にわたってやったことを、まるで、憶えてないという感じだ。憶えてないというか、やっているときから、俺にとって困ることだという認識がないのである。
だから、「どれだけやったっていいことをやっている」というような気持ちしかない。どれだけ、「困るからやめろ」「勉強するからやめろ」「明日テストだからやめろ」「宿題をするからやめろ」と言っても、自分がやりたい分だけはかならずやって、ゆずらない。
自分がやりたい分というのは、「全部!!!」なんだよ。
頑固に精密に几帳面に全部!!
一分だって本当に我慢するのはいやなんだから。ニセの我慢ならいい。本当はまったく我慢しない、ニセの我慢なら、ちょっとだけやってやる。けど、本当の我慢は、たとえ、一秒だろうがやってやらない。
こういう態度だ。
どうしてやってやらないかというと、やりたくないからやってやらないということなのだろう。で、一切合切「本当には」ゆずらないでやったのに、やったつもりがまったくないんだよな。
そういうマジックだ。そういうきちがいだ。
きちがい的な意地でやったことは、全部やってないのとおなじなのである。やっているときからそう。一秒ずつ、そう。一ピコ秒ずつそう。だから、ずーーーーーっとやっているのに、ぜんぜんやったつもりがしょうじないのである。だから、逆に「悪いとも思ってない」のである。だから、逆に、「悪いと思わずに全部やりきる」のである。そうやって、回転する。うちにいるあいだは、ずっとそうなのである。
だから、「うち」でやったことに関してはまったく悪いと思ってない。まったく関わったと思ってないんだよな。兄貴がやっていることで、こっちが困っているのに。そして、兄貴がやったことというのは、よそでは、一日に一分だってできないようなひどいことなのに……。きちがい兄貴は、自分が意地を張ってやったことがまったくわかってない。いま住んでいるところで、当時と同じように、最大限ゆずって鳴らせば、どういうことだかすぐわかるよ。譲歩しているつもりで鳴らしていた音は、普通の基準でいえば、爆音で、非常に!うるさい音だということがわかるよ。
けっきょく、そういう音では、あまりにも迷惑すぎて、一日に一分だって鳴らせないんだよ。嫁さんの親がこわくてできない。隣の部屋の人がこわくてできない。そういう常識外れなことは、できない。うちは、離れていたからな。幼稚園の敷地と、うちの敷地と、隣の家の敷地で、距離がある。だから、やれた。同じことを兄貴がいま住んでいるマンションでやってみろ。自分がどれだけ迷惑をかけていたかわかるから。
これ、兄貴は親父にやられたから、自分がやってもいいという無意識を持っている。そういう「踏み台」があるんだよ。だから、うちでやったことは、いまだに悪いことだと思えないのである。そうやって、俺の人生を破壊して、まったく破壊したつもりがない。つもりがなければ、どれだけやったってやってないのとおなじなのである。……これ、親父が兄貴にたたきつけたことなんだよ。俺にもたたきつけているけどな。
じゃ、親父は、そういうことを「たたきつけた」つもりがあるかというと、これまた、まったくないんだよ。そんなのは、知らない。じゃあ、普通に押し付けてきたときに……たたきつけてきたときに、やめてくれるかというとそれはぁ!!!ないんだよ!! これが、他の人にはわからないんだろうな。あとは、※強烈な催眠術※を自分にかけているから、本人は、他の人以上にわからない。やられたやつだけが、わかるというしくみが成り立っている。こんなの、ほんとうにない。ふつうの家じゃ、こんなのはない。本当に、こだわってこだわって頑固にやったことは、全部「やったってやってないこと」だからな。外見上、普通の頭がついているのにそういう認知だ。
きちがい親父が「おしつけてきたこと」というのは、相手にとって屈辱的なことなんだよ。ずるをして、人をいじめるようなものだ。
で、ずるをして、それを認めない。で、やってないことになっている。けど、それは、やっているときは、「あたりまえ」なんだよ。絶対にやめない。いつまでも、親のことをせめてないで、なんとかなんとかと言う人がいるでしょ。そういう人だって、俺に、そういうことをちょっとでもやられたら、「なんだぁ、おまえはぁ!!」と言って、ずっと怒っているよ。ずっと怒るよ。
親父がやったこと、一回分の、一万分の一でも、俺が他の人にやったら、他の人は怒る。怒って当然なのである。やられた方にしてみれば、屈辱的なことだからだ。だいたい、「やったってやってない」というのが、頭にくることなのである。そういう親父側のきちがい認知は、やられた方にしてみれば、許しがたいことなのである。
だから、「親をゆるしましょう」などと言っている人も、なんらかのことをやられれば、「なんだあいつは!!」って怒って、ゆるさない。で、そういう人は、家族じゃないから、絶交して関わりを持たないようにすれば、そういう「害」から身を守ることができる。
それに、やられたところで、一回ぐらいだろ。「親」という単語に惑わされている。これ、本当に、前も説明したけど、違う。「ひきこもり」とか「親」というような集合的な単語を使ったらダメだよ。個別の人間が重要だから。これ、つねに理論的な誤謬がある。で、理論的な誤謬について説明すると、いやな顔をするから、しないけど、理論的な誤謬がある。
個別の人間と集合名詞が、おなじレベルで使われている。内容が違う。本当は内容が違う。
* * *
占いだけど、僕の占いは「言いがたい家族」と「休日のような一生」というのがキーワードになるんだよ。休日のようにすごしてやる!!!
2016年9月27日火曜日
兄貴には絶対に注意しないで、顔を真っ赤にして「チカシツ!!!チカシツ!!!」って言うんだよ
力が出ない。
これどれだけ言ってもしかたがないんだけど、三年続いた時点で、すべてが終わっている。たとえば、高校入試の結果とか大学入試の結果などというのは、気にする必要がないという意見を持っている人もいるだろう。で、その人が言いたいことはわかる。けど、「結果」というよりも、高校入試までの三年間ずっと毎日、ヘビメタを普通に鳴らされ続けたということがでかすぎる。
これ、違うんだよな。
三年間、きちがいヘビメタ騒音に毎日邪魔されずに、入試に失敗した場合とは、違う。これ、本当、毎日というのがでかすぎる。マインドセットがどうしても鬱になる。ヘビメタ騒音生活というのがつらすぎる。どうしても、鬱になる。鬱というか、……なんていうのかな……ともかく、苦しい。先が見えない苦しさもあるけど、そういうことを全部抜いたとしても、一日に約七時間やられる平日は苦しすぎる。一日に一二時間やられる……普通にやられる……普通に鳴らされ続ける休日は苦しすぎる。どーーしても、どれだけ希望を持っても、……希望を持とうとしても……無理なんだよね。ふにゃけた感じになる。好きなことも嫌いになってしまう。ヘビメタ騒音のなかで、好きなことをやると、嫌いになってしまうんだよ。頭がこんがらがるし。
いまの季節、幼稚園が運動会の練習をしている。で、これは、けっこうでかい音が出ている。けど、幼稚園ぐらいの騒音だったら、なんとかなったのにな。俺が騒音に敏感だと思っている人は、ちょっと、でかい幼稚園とか小学校の真横に住んだ方がいいよ。かなりうるさい。で、俺はそういう騒音に絶えられる人間なのだから、普通の意味で騒音に弱いとは言えない。本当にヘビメタ騒音が破格だった。あんなの、ない。きちがい兄貴だって、目の前がでかい幼稚園で、隣の家と離れているような状態でなければ、あの音のでかさでならすことなんて、一日に一分だってできないことなんだよ。
けど、うち、は、幼稚園の敷地と、自分の家の敷地と、道路と、隣の家の敷地の都合上、離れていた。隣の家とけっこう距離があるんだよ。で、隣の家の、兄貴のスピーカーから、一番と奥の部屋に入った場合どのくらいの音で聞こえるのか、ぼくはわからない。
けど、それは、きちがい兄貴の騒音が、小さかったということではないんだよ。これ、わからないのかもしれないけど。ともかく、距離がでかい。音のでかさは距離の二乗に反比例しているから。二乗。思った以上に距離が演じている役割がでかいんじゃないかなと思う。そんな音で鳴っているのに、隣の人が文句を言わないのはおかしいと思う人がいるんだけど、隣の家が離れている。
あとは、目の前にでかい幼稚園の敷地がある。この敷地は、本当にけっこうでかい。隣の家の人は、隣の家の人が庭に出ていたとき、塀越しに「あの音がうるさい!!」と言ったことがあるんだよ……親父に聞こえるように。で、親父は「せっかく、人の息子が鳴らしているのになんだ」というようなことをつぶやいて、顔を真っ赤にして、ゴミ燃やしだよ。そういうところがあるんだよ……。親父は一つ一つのものの感じ方が、根本的におかしい。
騒音に関する法律というのは、実は、条例しかない。条例というのは、市が制定する法律だ。で、また、騒音に関する項目があいまいなんだよね。そうなる理由はある。そうしておかないと、工事などができなくなる恐れがあるからだ。たとえば、昼間八〇デシベル以上の音を出してはいけないという法律を作ると、工事などができなくなってしまうのだ。
で、八〇デシベルと定めた場合、それなら、七九デシベルでずっと鳴らすのはよいということになってしまう。八〇デシベルと七九デシベル、大差はない。条例に決まりがない場合、刑法じゃなくて民法の世界になる。で、民法というのは拘束力が弱い。しかも、「家族の構成員が出している騒音」というのが、ものすごくやっかいな問題になる。これ、いまは、「そんなことないんじゃないの」という話になると思うけど、昔は、「家のことは家で解決してください」というスタンスが一般的だった。家族の構成員による暴力と、まったく関係がない他人による暴力は、感覚的に扱いが違っていた。
まあ、ともかく、きちがい兄貴の騒音というのは、二〇メートル離れれば、家の外壁二枚、部屋の壁数枚を隔てて離れれば、そんなに気になるような音ではないのかもしれない。けど、それは、壁の後ろにきちがい兄貴のスピーカーがあるような僕の部屋では、まったく、成り立たない。話が違う。これ、なんて言うのかな、そんなでかい音で鳴っているなら、二〇メートル離れていても問題になるだろうと思うかもしれないけど、違うんだよね。二〇メートル離れているところでもんだにならないような音なのであれば、たいした音ではないのだから、三〇センチ横で鳴っていてもたいした音ではないということが言えるかというと言えない。まあ、二〇メートル離れていれば、問題にならない音のでかさなのかもしれないと僕が言ってしまうと、それなら、そんなにでかくない音なんだろうと思うかもしれないけど、違う。これ、本当に距離でぜんぜん違う。聞こえるけど、作業ができないほどの音ではないというレベルまで減衰するのに、一五メートル、必要じゃないのかもしれない。
まあ、ともかく、よそのうちでは一分だって鳴らせない音で、毎日鳴らしてあたりまえだと思って、きちがい兄貴は、一五歳から三〇歳まで暮らしていたわけで、それが僕に与えた影響というのがでかすぎる。ともかく、兄貴がいま住んでいるところでならせないほどでかい音なのは確かなんだよ。兄貴に言っておく。かつて自分が自分の部屋で鳴らしていた音が普通の音だ(そんなにうるさくない音だというのであれば)いま住んでいるところで鳴らしても問題はないわけだから、鳴らしてみろ!!! 一日に三〇分でいいから鳴らしてみろ。横の部屋の人から、絶対に文句が出る。
で、おなじ階の一五メートル離れた部屋の人から文句が出るかどうかはわからない。おなじマンションのおなじ階であったとしても、二〇メートル離れれば、たぶん文句は出ないと思う。けど、じゃ、隣の部屋の人にとってそれが騒音でないかというと違う。
ともかく、兄貴はいま住んでいるマンションで、当時「あたりまえ」だと思っていた音で、鳴らしてみろ!!と言いたい。そうすれば、僕の言っていることが正しくて、兄貴の騒音に関する……あるいは音のでかさに関する感覚が間違っているということが、明らかになるから。すくなくても、兄貴のマンションの住民には明らかになるから。で、別のところに住んでいる人にも明らかになるかというと、それは違うんだよね。そりゃ、一キロ離れているところに住んでいる人は、兄貴の騒音がどういうものかわからない。
ともかく、兄貴は「よそ」じゃ、一日に一〇分だって鳴らせないようなでかい音で、一日中、鳴らしてたんだよ。で、「うち」の人がどれだけなにを言っても、聞かなかった。それは、親父譲りなのである。親父とまったくおなじ。「うちでなら、このくらいの音で鳴らしていい」という決めつけがあって、どれだけなにを言われても、一分だって、鳴らさないで静かにしてやるつもりにはなれなかったのである。だから、一四時間鳴らせるなら、自動的に一四時間鳴らして、どれだけなにを言われても、ゆずらなかった。これが兄貴のしてきたことで、同じことを、よそでできるのか?と言ったらできない。兄貴には都合がいいズレがあるから、自分でぜんぜん気がつかないだけ。うちでは、自分が思ったとおりの音で鳴らせて、あたりまえだという、思い込みがあって、その思い込みに反することは、意地でも認めなかった。そして、認めなかったということも認めてない状態なのである。こういう、状態。これは、誰が「うち」でやり始めたことかというと、親父がやり始めたことだ。
で、親父がやったことを、兄貴がヘビメタでやっているだけ。やり方は全部おなじだから。そこで成り立っている「やっていい」「やってあたりまえだ」という感覚がおなじ。自分が認めるとなると不都合なことになる場合は、まったく認めなくていいいという感覚がまったくおなじ。どれだけなにを言われても……「うち」のひとにどれだけなにを言われても、自分がひどいことをしているという感覚がない。自分が非常識なことをしているという感覚がない。自分はあたりまえのことをしているまでだという感覚のまま、やりきる。
で、「やった」と言われると「やってないやってない」となる。これ、本当、ビョーーーキだから。頭の病気に近い。けど、使い分けができるのだから、器質的な病気じゃないんだよな。これ、どういうことかというと、たとえば、認知症の症状が出ている場合、「うち」と「よそ」を使い分けて、「よそ」では、認知症の症状が出ないようにするということができない。脳の機能障害の場合は、「うち」と「よそ」を使い分けて、症状を出すということができないのである。うちでもよそでも同じことをするから、よその人にわかりやすいのである。
一方、脳の器質的な障害ではない場合は、使い分けができる。「うちでは」こう。「よそでは」こう。うちの人には、これであたりまえ」「よその人には、これであたりまえ」というような使い分けができる。使い分けができるということは、どんなに器質的な異常に見えても、けっきょく、ソフトウエアの異常なんだろうなと思う。けど、ソフトウエアの異常だからどうにかなるかというと、ならないんだよね。「うち」にいる限り、どうにもならない。
兄貴が、あそこの廊下で、「鳴らしたっていいだろ」という感じで、振り向いて、自分の部屋に入ろうとして歩いているときの、破滅感といったらない。俺、体調が悪いとき、いつも、そのシーンを思い出す。本当に殺して静かにさせたかった。警察官が帰ってしまったら、いつものように鳴らすのだろうけど、それでも、警官を呼べばよかった。家族で話し合ってください」って、親父は、兄貴の味方をして、絶対に注意しないという状態だ。それから、頭がおかしいから、どれだけ、でかい音で鳴っているといっても、自分で確かめるために帰ってこない。きちがい親父は、日曜の午前中の音しか知らない。日曜の午後は、それよりも、音がでかいのである。で、これまた、一四年間ずっと言い続けても、そこのところが、「通じない」という状態なんだよ。頭がおかしいから!!
こんなの本当に、よその人にはわからない。「お兄さんと相談すればいい」「家族で話し合えばいい」「親はなんていっているの?」「親がなにもいわないんだったらたいした音じゃないんじゃないの」とこうだよ。死にたい。お母さんは、まったく頼りにならないし、親父はむしろ妨害する。親父が関わったら、ちゃんとまとまるものもまとまらないということになる。これは一〇〇%そうなる。で、もともと、まとまらないものだと、なんていうのかな? もっとひどい目に遭わされるんだよ。
きちがい兄貴のことで精一杯なのに、余計なことをされて、面倒が増える。俺のピンチをさらに、ピンチにするようなことしかしない。で、そういうことだって、親父としては、「助けてやる」つもりでやるんだよ。意識上は。けど、違うんだよね。ここでも、こっちが頼んでいることは、絶対にやらないで、きちがい親父が思いついたことしかしない。
で、きちがい親父が思いついたことというのは、「このハンダゴテを持っていけ」みたいに無意味で腹立たしいことなんだよ。で、一回言い出したら、聞かない。こっちを困らせているのに、……親父の提案?でこっちが困るのに、困るということを、どれだけ説明しても、認めないんだよ。
で、いったんそっちの方向に向かって、エンジンがかかると、きちがい的な意地で余計なことをやろうとする。だから、ただでも、きちがい兄貴の騒音で困っているのに、親父のきちがい的な提案の「火を消す」ということをしなければならなくなる。これが、もう、本当に、死にたい気持ちになる。火事で、焼き出されて、ボロボロになって歩いていると、盗賊がやってきて、身ぐるみはがれて、困りまくるというような状態になる。
親父は、一〇〇%の確率でこっちが困ることしかしない。親父の提案というのが、「それじゃぜんぜん解決しない」ということなんだよ。大学入試の時だって、「地下室を作る」とか言い出して、「地下室を作ることに」こだわりまくる。もう、入試一週間前
で、そんなことしている暇なんてないのに、「地下室を作る!地下室を作る」「地下室!!地下室!!」って言いまくる。
(こっちが)兄貴に注意してくれと言うと、兄貴には絶対に注意しないで、顔を真っ赤にして「チカシツ!!!チカシツ!!!」って言うんだよ。これは、兄貴に注意するが嫌だから、そういう風なことを思いついて、そういうふうに言い出す。こっちが注意してくれと言ったら、「チカシツチカシツ」と言えば、もう、注意しなくてもいいことになる。注意をする代わりに、地下室を作ってやるということだから、注意してくれ」と言われたら「チカシツ!チカシツ!!」って言えば、それで、言い逃れることができる。
「注意してくれ」という要求をはねのけることができる。そういうことをして、実は、兄貴に注意をしなかった。そうやって、大学入試の前に、注意してくれなかったのに……いま、「注意してくれなかった」と(こっちが)言うと顔を真っ赤にして「チュウイシタ!!チュウイシタ!!」って言う。
おなじ!! まったくおなじなんだよな。
やっていることが!!!
親父は兄貴に「鳴らさないで静かにしてやれ」「一日中鳴らさないで我慢しろ」ということを一切合切言ったことがない。俺が設けた、家族会議の場で、兄貴の顔を見ないで、「静かにしてやれ」とぼそっとヒトコト言っただけだ。
高校入試の時に一回、大学入試の時に一回、計二回しか言ってない。それから、兄貴は、あれで、「静かにしてやったつもり」だから、「静かにしてやれ」だと、まったく意味がないんだよ。鳴らさないで!!とか、ヘッドホンをつけて静かにしてやれということじゃないと意味がない。きちがい兄貴の基準だと、一日に五分間、一万分の一音を下げてやればそれで「静かにした」ことになるので、「静かにしろ」じゃまったく意味がない。実際に、家族会議のあと、二階に上がって、その日も、一分だって、鳴らさないで静かにしてくれなかった。
どでかい音で鳴らして、きちがい兄貴が「静かにしてやった」と思うだけだ。そういうことになって、何千日経過していると思っているんだよ? これ、本当に、きちがい親父に関わると、全部そういうことになる。きちがい兄貴のやり方が、きちがい親父とおなじだから、きちがい親父は、浄化することができない。で、きちがい兄貴をきちがい兄貴にした、元のやり方で、俺を困らせることしかできない。地下室を作ったとしても、きちがい兄貴が全部の時間、鳴らさないで静かにしないと困るんだよ。地下室を作るのに、いくらかかると思っているんだよ。もう、家が建っているのに、そういうことを言い出す。
きちがい兄貴が、一日中ヘッドホンをして我慢すれば、それでおしまいなのに……問題解決なのに、きちがい兄貴が一日中ヘッドホンをつけて我慢するというのは、可能性としても、考えれることがなかったのである。それがうちの家族会議の中身だ。親父と兄貴が、「兄貴が少なくても入試が終わるまでは、一日中ヘッドホンをして静かにする」ということについて、可能性すら考えない……これが、家族会議の結果だ。ヘッドホンをすることなんてできるのに、絶対にできないこととして考えられている。
で、それは、親父も兄貴もおなじなのである。親父は、その家族会議では、言わなかったけど、「一日中静かにしろと言ったら(兄貴が)かわいそうだぁ」なんてことを言ってたのである。それはどうしてかというと、「絶対に、兄貴に注意したくないから」なんだよ。「兄貴に注意したくない」ということに一旦なると、もう、絶対にそうしない。無意識的な要求が「兄貴に注意しない」ということになると、頭がおかしい理由をつけて、注意しないのである。
で、これまた、本当はそういうふうに意地を張って、なんだろうが注意してないのに、注意する必要がなくなったら……(兄貴がうちを出て、よその人になったら)……「チュウイシタ!!!チュウイシタ」の一点張りになる。おなじなんだよ!!! 「注意してくれなかった」というと「注意した注意した」って始まる!! 兄貴も、本当は、静かにしてくれなかったのに、……入試だろうがなんだろうが、一日一分だって「本当には」静かにしてくれなかったのに、「静かにしてくれなかった」というと、「静かにした静かにした」って始まる。どっちも、嘘をついているつもりがない。じゃあ、あの意地はなんなんだと言うことになるんだけど、意地を張ってやっていることに関しては、本人は、つもりがないことになってしまうのである。一度つもりがないということになってしまうと、「やってない」ということになってしまう。これもおなじなんだよね。そういうことで、俺がどれだけ困ったか!!!! そういうことで困らされている最中、入学試験に行ったんだよ。
前日も、普通の日と同じように、可能な時間は、全部きちがい兄貴が、ぜんぜん我慢しないで鳴らしまくる。試験から帰ってきたきも、ヘビメタが鳴っている。次の週にもうひとつ別の大学入試がひかえているというのに、一分だって「本当には」静かにしてくれない。
きちがい兄貴の静かにしたというのは、本人がまったく我慢しないで、思いっきり鳴らして、静かにしてやったということだから、静かにしてない。これ、本当に、よその人は信じないかもしれないけど、五分間、一億分の一音を下げてやれば、一日に一四時間、どでかい音で鳴らしていても、本人のなかでは「一日中静かにしてやった」ということになってしまうのである。
だから、そういう「静かにする」ではなくて……兄貴が思いっきり鳴らしたい音で鳴らして静かにするとかそういうことではなくて、「鳴らさないで静かにする」ということが、一分も、一秒も成り立たない。きちがい兄貴の頭の中でだけ、静かにしたということになっていて、実際には、きちがい兄貴が……ヘビメタが好きなカオ君も驚くようなでかい音で!……ずっと一日中鳴らしまくるということになってしまう。。そういうきちがいじみたことが平気で行われる。きちがいの意地が一〇〇%成り立って、困らされている人の意地が〇%しか成り立たない。まったく、無視されて、おなじように「や・ら・れ・て・い・る」状態になってしまうのである。そういう一日だ。どれだけ、もめたって、そういう一日になる。
2016年9月24日土曜日
元の刺激がなくなれば、元に戻る地点というのを、こえてしまった
これは、閾値があるんだと思う。リターン可能な状態とリターン不可能な状態というのがあると思う。続きすぎて、リターン可能な状態をこえてしまったんじゃないかなと思う。
リターン可能な状態というのは、元の刺激がなくなれば、元に戻るという状態だ。元の刺激がなくなれば、元に戻る地点というのを、こえてしまった。これは、地点じゃなくて、時間でもよいわけだけど、ともかく、リターン可能なポイントというのがあって、そのリターン可能なポイントをこえてしまったら、騒音障害の場合は、ダメなんじゃないかと思う。
昔は、チェーンソーを長く使っていた人は、チェーンソーを使うのをやめたあとも、手が震えるという症状に悩まされていた。職業病というのだろうか。いまは、どうだか知らない。チェーンソーが改善されたかもしれないし、一日に使う時間を制限されているかもしれない。あまり、いまはそういう話しは聞かない。
あまりにも長い期間(毎日)騒音にさらされ続けると、はっきり言うと、「虚弱体質」みたいになるんじゃないかなと思う。あとは、あまりにも長い期間、毎日、ある一定の時間の長さ、ある一定の音量の騒音にさらされ続けると、「睡眠回路」が壊れるのではないかと思う。
で、その睡眠回路の異常というのは、元の刺激(ヘビメタ騒音)がなくなっても続くんじゃないかなと思う。からだのしんどさとか、他の人にはわからないけど、ぼくにはわかる。で、これ、ヘビメタ騒音のしんどさだから。ヘビメタ騒音が鳴っていた期間に感じたのと同種類のしんどさだから。だから、ヘビメタ騒音がこのしんどさと深い関係があると思う。
* * *
本当に、なんでこんなに通じないんだろう。きちがい兄貴にも、よその人にも。もう、つかれた。わかる人は一発でわかるのに、どうしてわからない人は、どれだけ説明してもわからないのだろう。おかしい。まあ、「全部読め」とは言わないけど……。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っていた期間に関しては、そのまま、さっき書いたままの設定(事実)で説明しているから、矛盾が生じるということはないはずなんだけどな。説明がたりないか。
それにても、レビューがひどいな。半々であるはずなんだけど、肯定的な人がぜんぜんレビューを書かない。否定的な人ばかりレビューを書く。僕が生きてきたなかで、複数の人がいるところで、ヘビメタ騒音のことを説明すると、だいたい半々に割れたんだけどな。なんで、肯定的な人はレビューを書かないのか。そもそも、読んでないのかもしれないけど。
おまえ、足かけ一五年間(一四年と数ヶ月)毎日やられてみな。わかるから。まるで俺が、ひとりでこだわっているように思うかもしれないけど、きちがい兄貴がこだわりつくして、一四年と数ヶ月、毎日、可能な時間はすべて使って、鳴らしたんだ。それが影響しないわけないでしょ。俺の人生は俺の人生で他の人の人生じゃない。他の人にとって僕の人生はどうでもいいことかもしれない。僕の人生がどうでもいいという人から見れば、僕が、きちがい的にヘビメタ騒音にこだわっているように見えるのだろうけど、それ、違うよ。
一〇代の九年(これ、一一歳から一九歳までの九年でという意味で九年)ヘビメタを鳴らされていたら、人生全部に影響があるよ。で、九年と言って、一四年と数ヶ月と言わないのは、一〇代にこだわった言い方だからそうなる。
これ、一四年間鳴っていたのか、九年間しか鳴ってなかったのか、疑問に思う? 「年数が違う」のは、そういうことだから。試しによく読んでみな。ちゃんと、そういうふうに書いてあるから。
それから、柳荘(まるまる荘)に出る前と、出たあとを、わけて書いているときがあるんだよ。まるまる荘ってアパート。(まるまる荘に出たのは二一歳の時)(で、まるまる荘を借りたんだから、いいじゃないかということになりそうなんだけど、そうじゃないんだよ。
風呂と夜ご飯のために家に帰っていた。これ食費を浮かすため。だいたい、一日に一食しか食べない時期もあったんだよな。柳荘時代。で、家に帰って、僕がご飯を食べたあと風呂に入るわけだけど、その三〇分間、きちがい兄貴がヘビメタをやめてくれない。その三〇分やめてくれれば、ぼくは、一日中ヘビメタから解放されることになるんだけど、飯を食っているあいだ、風呂に入っている間、ヘビメタ騒音にたたられることになる。
で、そのヘビメタ騒音というのは、二一歳まで苦しんだヘビメタ騒音そのものなんだよ。たぶん、曲もおなじなんじゃないかな。きちがい兄貴は本当にこだわりつくしておなじ曲を何回も何回も、何万回も聞きやがって。どうして、一日にたった、三〇分なのに、それも俺がいるあいだの三〇分なのに、その三〇分ですら、一分たりとしてやめてくれないのか。「鳴らしてたっていいだろ」というおなじ理屈で鳴らしている。
もう、二一歳の時に、(三浪で)人生がぶっ壊れていた。どうして、三浪しなければならなくなったかというと、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、小学六年生の時から鳴ってたからだ。中学三年間と、高校三年間ずっと毎日、鳴らされている。休みの日なんて、ヘビメタの時間が長くなってしまう。中間期末試験中もずっと鳴らされた。早帰りでかち合うと、鳴ってるんだよね。まあ、かち合わなくても、きちがい兄貴が五時に、家に帰ってきたら、五時から、容赦なくヘビメタが鳴ってしまうわけで、つらかった。
五時から、どれだけ何回文句を言いに行っても、一分もやめてくれなかった。それが、きちがい兄貴の態度だ。で、この六年間のことを「六年間」と言っているのであって、矛盾してない。ちゃんと、「中学三年間と高校三年間、合計六年間ずっと毎日鳴ってた」と書いたでしょ。これは、六年しか鳴ってないというわけではなくて、中学高校の六年間毎日鳴ってたということを言いたいわけ。だから、「一四年と言ったり、六年と言ったり、矛盾している」というわけではない。実際には、最初の高校入試前日だけ、静かにしたから、六年マイナス一日なんだけど、そういうことも、ちゃんと書いてある。繰り返しになるけど、「六年と言ったり、一四年と言ったり矛盾している」というわけではないんだよ。
僕がこだわりつくしているように見えるんだろうけど
やられれば、わかるよ。やられれば。同じようにこだわると思うよ。
人生の一番大切な時間を、時期を、つぶされた。いまだにくるしい。こだわらないという方がおかしいのではないか。もっとも、他人は他人で、他人事は他人事だから、わからないのだろうけど。たとえば、僕のしんどさが、その人に直(ジカ)に伝わるわけじゃないから。これ、直(じか)に伝わったらわかるよ。「この人がこだわるには理由があるんだな」「不自然なことじゃないんだな」とわかるよ。もっとも、僕のいま現在のだるさが、他の人に直に伝わることがないから、わからないのだろうけど。
直に伝わらなくても、だいたい、半年間やられて、その半年間、学校に通っていたら、わかる。これ、もうリターン可能地点をすぎたあとだから、あんまり、違いがわからなくなっているのだけど、ヘビメタ騒音をおなじ時間帯におなじ時間の長さやられて、なおかつ、「通っていたら」わかる。通っているのと通っていないのとでは、違うんだよね。通っているときのつらさかが半端じゃない。朝のつらさが半端じゃない。日頃のつかれが半端じゃない。日頃の切迫感、不安が半端じゃない。どうしても、絶対にやめない兄に対するいらだちが半端じゃない。これ、本当に鳴らされているときだけ、うるさくてつらいというのではなくて、通って行った先で、つらい思いをする。学校でつらい思いをする。別に学校じゃなくてもいい。職場でもいいんだけど、ともかく、「通っている」場合と「通っていない」場合は違う。
六年間と半年、足かけ七年間、通っていたから!!通えないからだになってしまったというわけ。「七年と言ったり、一四年と言ったり、矛盾している」というわけじゃないんだよ。
* * *
いま、ヘビメタ騒音にこだわっているのは、異常なことじゃない。直に僕のだるさが伝わるのなら、いまこだわってい理由がわかる。自分が本当に、ヘビメタ騒音を一四年間もやられて、仕事ができない状態になれば、いま!!!こだわる理由がわかる。いまこだわる理由がわからなかったり、いまこだわっている僕が「異常」に見えるのは、君と僕が、違う個体だからだと思う。直に僕の苦しみが伝わらないからだと思う。かつての苦しみじゃなくて、「いま」の苦しみね。人生なんていくつからでもやり直せるとか言う人がいるけど、いま!僕はくるしいんだよ。いまでも、どこかに時間通りに行かなければならなくなるとなると、ものすごくくるしい。
いま、睡眠回路の異常で困っている。いま!!いま!!! 現在進行形で困っているわけだから、そりゃ、「こだわる」でしょ。いまの問題なのだから。どこかに時間通りに行かなければならなくなったときの朝の状態が直に伝わるなら、その人だってわかるよ。ヘビメタ騒音生活が、七年間続く前は、朝がつらいと言っても、つらいのつらいが違うんだよ。
七年間と言っているのは、七年間持続したあとは、おなじだという意味。ヘビメタ騒音生活が七年間しか続かなかったというわけではなくて、七年間続いたら、そういう状態になるという意味。鳴っていたのは一四年間と数ヶ月だけど、遅くても七年目には、だめになるという意味。それ以降治ることがない異質な朝のつらさを経験することになるという意味。
七年目以降は、どれだけがんばってもだめ。だめになる。だから、ヘビメタ騒音が七年間しか鳴ってなかったという意味ではない。わかるかな? ちゃんと、全部使い分けているから。そういう視点を持って読み直して!!
ヘビメタ騒音は、合計で一四年と六ヶ月だ。きちがい兄貴の意地って、本当に、他の人にわからないから!!!!!
六年とか七年と言っているのは、ヘビメタ騒音が鳴っていて、なおかつ、「俺」が学校に通わなければならなかった期間だ。一〇年と言っているのは、「俺」がまるまる荘に出るまでだ。なにも矛盾してない。
それから、家の前がでかい幼稚園(小学校ぐらいの敷地がある)で、道路や敷地の関係から言って、(隣の)家が離れている。(ちなみに、西の隣の家に関しては、西の隣の家の人が絶叫しても僕には聞こえません)。北はちょっと違うんだよね。けど、当時は、北の家も離れていた。いまの北の家は、違うけど。南はずーーっと幼稚園の敷地で、きちがい兄貴は子供たちや職員がいない時間に鳴らしている。日曜日は幼稚園は休みで誰もいなかった。東は、当時空き地。(僕が高校三年生になるまで空き地。いまは違う。)なにも矛盾してない。全部読めばわかる。矛盾してないんだよ。これ、本当に、なんていうのかな? 家の外壁と空気がある空間(なにもない空間)があると、だいぶ違うんだよね。俺の部屋のすぐ横に、スピーカーが設置してあるような感じだから。外壁があると、だいぶ違うんだよね。床が「地続き」なのと、外壁がある場合は、音の伝わり方、でかさがぜんぜん違う。兄貴の部屋の床と俺の部屋の床は、つながっているから。
ヘビメタ騒音のことを説明しなければ説明しないで、「俺」が勝手にサボっているように思われるわけだからな。まあ、説明したって半信半疑である人が、半数ぐらいいると思う。その人たちは、しあわせな家に育ったのだろう。
「そんなでかい音で鳴っていたら、いっくらなんでも、問題になる」と思う人がいるかもしれないけど、そうじゃないんだよ。音の伝わり方というのがわかってない。居酒屋に入ればわかるだろ。一号室でものすごい音で鳴っているとする。それが、一三号室では、たいして聞こえないだろ。じゃあ、一号室の室内や、となりの二号室でものすごい音じゃないかと言えば、ものすごい音なんだよ。
居酒屋じゃなくてアパートで考えてもいい。一号室で鳴っている音は、二号室で聞くのと、一三号室で聞くのはぜんぜん違う音なんだよ。広域放送が遠いところでも聞こえるのは、高いところにスピーカーがあるからです。真横で、二つの部屋の位置関係が平行である場合とは違います。(一三号室でも聞こえるかもしれないけど、そんなに問題にならない音になっている)
いずれにせよ、「兄」はいま住んでいるところで、ヘビメタを鳴らせない。うちで鳴らしていたようには鳴らせない。どうしてかというと、ものすごくでかい音だからだ。「兄」の部屋から外を見ると、でかい幼稚園の敷地と、その後ろにある林が見える。だから、本当に場所的には、横の部屋のことさえ考えなければ、鳴らせる。(当時の横の人から証言は得ている。けど、巻き込まないでくれとも言われている)
もし、マンションだったら、絶対に、うちで鳴らしていたような音では鳴らせない。当時の「兄」でも鳴らせない。実際、いま、どれだけ「俺」が(「兄」に)「鳴らせ」「ならせるなら鳴らしてみろ」と言っても、鳴らさない。鳴らせない。いま兄が住んでいるマンションでは、一分だって、うちで鳴らしていた音では鳴らせないのである。文句が出るからな。
「うち」の文句は、親父のように腹を立てて、握りつぶしていたのである。「よそ」の人に対する態度と「うち」の人に対する態度が違うと言っているだろ。本当に、催眠術にかかったように違うんだよ。本当に「よそ」の人たちは、わかってないな。だから、証言を集めただろ。本当に「うちでの」親父の態度と兄貴の態度は、「よそ」の人に説明しても、わかってくれない。
警察に相談しなかったのは、僕の失敗だけど、兄貴は、「よそ」の人が帰ってしまったら、そのまま鳴らす。ずっと、監視してくれるわけではないので、警官が帰ったら普通に(でかい音で)鳴らしていたのではないかと思う。当時は、「うち」のことは、「うち」で解決してくださいという風潮があった。DVも認められてなかった。(警察が)そのうち、こなくなってしまうのではないかという恐れがあった。けど、電話をするべきだったと思っている。(親父とお母さんの態度というのは、ベクトルはまったく違うけど、警察には相談しない。親父は、まったくわかってない状態だからね。兄貴のようにまったくわかってない。兄貴がでかくなったら、文句を言えない状態になってしまって、それからは、一切合切無視だよ。お母さんは、当時も病気で(リュウマチ・膠原病・薬の副作用)、俺の話を聞いて、困っているだけだった。たぶん、元気でも警察に相談するとかそういうことに関しては、まったく力になってくれないと思う。)
もう、死ぬかな。この警察に関してだけは、本当に、そのうちこなくなるにしろ、何回も相談するべきだったと思う。親父を無視して、相談するべきだった。で、法律を調べたら、騒音に関しては条例でしか決まってなくて、まるまる市の騒音に関する条例が非常にあいまいなもので、あんまり頼りにはならなかった。当時の僕は、まず物理的な「音量」の測量が必要だと考えてしまった。
本当に死のうかな。なにもあんなに意地になって鳴らさなくてもいいのに。
親父にやられたことを、全部俺にやり返している。親父がやったのとおなじやり方で、やり返している。本当につらい。
きちがい兄貴の意地って、本当に、他の人にわからないから!!!!!
* * *
今週は、ずっと、風邪気味で、寝てたんだけど、その時に去来することが、……。本当にくるしかった。ともかく、死にたいな。これ、本当にそんなにわかりにくいことかな? いやだな。俺が当時六年間、普通の友達にはヘビメタ騒音の愚痴を言わないで、誤解されたまま耐えてたんだよな。親友にはずっと言ってたけど。それに、親友は僕の部屋に入って、どのくらいの音で鳴っているか知っているから。で、俺、薬局の前で、兄貴が将来すっとぼけたことを言ったら証言してくれと、頼んだから。あのときに、ぼくはもう、兄貴の将来のすっとぼけた態度を予言してたんだな。
本当に、俺が悪く言われる。死にたい。どっちにしろ、俺が悪く言われるんだよな。兄貴の「うちでの」感覚が異常だから。これ、本当に、平日も休日も、騒音でつらい……。うちの前がでかい幼稚園だということや、家が離れているということが、ものすごく影響を与えている。これが本当に、マンションだったら。絶対に、兄貴は、うちで鳴らしていたような音では、一分も鳴らせない。午後一〇台の音だって、家が離れていたから、鳴らせていたわけで、家が近かったら絶対に鳴らせない。午後一〇時台の音は、九時台の音よりは下げている。けど、それだって、気分が乗っていたら、下げないわけだよ。じゃ、きちがい兄貴よ、当時の一〇時台の音で、いま住んでいるマンションで鳴らしてみろ。一日でいいから鳴らしてみろ。鳴らせないだろ。一〇台の音も、うるさいからね。普通の感覚で言えば、じゅうぶんうるさい音なんだよ。当時の兄貴にはこれがわかってない。それから、「うち」でやったことに関しては、絶対に悪いと思わないんだよ。そういう感覚の持ち主だ。いま現在、他の人には、一分だってできないことでも、うちでは、一日中やって平気だった。俺とお母さんなら、まったく気にしなかった。そういうことだ。
もう、本当に死にたい。これが、兄貴のヘビメタ騒音を実際に聞いたことがない人には、わからない。わかりにくいことなんだよな。騒音って、本当に音の伝わり方で、違うんだよ。でかい音は、同じようにでかい音だというような感覚があるけど、位置によってぜんぜん違う。
兄貴が、普通の感覚だったら、うちでも、一日に一分だって、そういう音では鳴らせない音なんだよ。「うち」では、やってもいいとふんでやったから、まったく悪いと思ってないだけで……。壁のすぐ後ろにあるスピーカーから出ている音というのは、外壁を挟んで離れた家で聞いている音とは違う。
で、他の人は、当時の俺には影響があったかもしれないけど、いまの俺には影響がないと思うんだよね。「いま鳴っているわけじゃないんだから」と。けど、これも違うんだよな。一四年間鳴らされて、人生を破壊され、生活体力をうばわれ、睡眠回路を破壊され、すぐに疲れるような体にされ……。これ、本当に、他の人にはわからないんだろうな。俺がいま感じているだるさ、つかれやすさというのがわからない。一四年……まるまる荘に出たあとも含めて……だるくてだるくてしかたがない。それで、けっきょく大学には通えず、アルバイトもできず、就職もできず、……。もう、通うということ自体が、ヘビメタを七年間やられたあとは、ダメなんだよ。ここで、七年間というと、一四年間じゃないじゃないかと言われるけど、七年でダメなんだよ。からだがだめになるまでの時間というのは、一四年間じゃなくて七年間。一応俺のなかでは、わけて書いているから、他の人にはわかりにくくなっているか。通勤通学ができないからだになるまでの期間が七年間。小学六年生から高校三年生までの七年間。死にものぐるいで通学していた七年間。(六年と半年)足かけで七年間。六年と半年死にものぐるいで通っていたから、通えないからだになってしまった。そういう話しだ。矛盾してない。
幼稚園の子供が絶叫しても、勉強ができないということはない。聞こえるは聞こえるけど、うるさくて勉強できないという感じではない。どうしてかというと、離れているから。幼稚園とうちでは、うちの庭と幼稚園の園庭のぶんだけ離れている。けど、幼稚園の校舎は、かなり境界線に近い位置にある。それでも、幼稚園生が絶叫しているからといって、奇声をあげているからといって、勉強できないほどではないんだよ。この距離ですら、そうなんだよ。実際、僕は、幼稚園生の声には、元気をもらっている。別にうるさいと思わない。実際音量的にも、ヘビメタ騒音とは比べものにならないほど、静かだから。けど、それは、距離の問題でそうなっている。耳元で幼稚園生が毎分毎秒、絶叫していたら(奇声をあげていたら)うるさいと思うのである。勉強できないほどうるさいと思うのである。ヘビメタ騒音の音のでかさが、幼稚園の園舎の中でどのくらい聞こえるのかわからないけど、僕の位置を中心にして考えると、ものすごく大きな違いがある。たとえ、幼稚園生の絶叫が、耳元では騒音であったとしても、庭の分だけ離れているから、そんなに聞こえない。別に、邪魔だとは思わない。幼稚園生が絶叫する声の音が、物理的におなじだったとしても、距離で聞こえ方がぜんぜん違う。幼稚園の園舎の方が、当時の隣の家よりも、近いんだよね。どの隣の家よりも近い。どの隣の家といっても、二軒しかないけど。
いま、複数の幼稚園生が園舎の中で、同時に絶叫していたとしても、「元気があるな」ぐらいにしか感じないけど、耳元で(毎分毎秒続けて絶叫されたら)やっぱり、腹が立つと思う。そういう違いがある。うちのヘビメタ騒音に関しても、そういう違いがある。兄貴が鳴らしている時間、園舎には人がいない状態だったけど、園舎の中にいるのであれば、兄貴のヘビメタ騒音はそれほど気にならない音なのかもしれない。離れているから。「聞こえはするけど、うるさくて勉強ができない」というような音ではないのだろう。園舎の中にいれば……。兄貴がうちでヘビメタを鳴らしていて、その時僕が、幼稚園の園舎の中で勉強できるなら、それほど問題にはならなかったんだろうな。兄貴のヘビメタは、耳元で絶叫されているとおなじだから。距離の問題なんだよ。それに幼稚園だって、つねにうるさくしているわけだから、幼稚園が、うちを騒音で訴えるということはないんだよ。兄貴の部屋でならしているヘビメタが、園舎なかでどのくらいの音で聞こえるのかわからない。けど、園舎の中で絶叫している子供の声を考えると、そんなにでかい音では、聞こえないんじゃないかなと思う。ともかく、よそのうちで聞こえるヘビメタ騒音と、俺の部屋で聞こえるヘビメタ騒音は、違うと思う。幼稚園と僕の部屋の距離というのは、わからないけど、一〇メートルぐらいだ。一〇メートルでこの違いだ。
……そりゃ、夏休みだって冬休みだって、普通に休みだからな……
全部、嘘。ホネガラミの嘘
この一週間、風邪でひどかった。睡眠時間がずれる病気にかかっているので、昼間に寝て、夜に起きるということがあるんだけど、この時期は、昼間は暑いけど夜になると急に寒くなるという日がある。この間、そういう日に風邪を引いてしまった。
だから、なんか、今週は、いきなり土曜日になったような気がする。まだ感覚としては、月曜なんだよね。で、薬を買いに行く元気がないので、ビタミン剤などを飲んで横になってたんだけど、ヘビメタ騒音の記憶ばかりがよみがえってくる。くるしい。一〇年、毎日、つもったときのあの感じはない。あの感じはないなどと言っても、人類のなかで、あの一〇年間を経験したのは、僕だけなので、他の人にはまったくわからないという問題がある。
これが、公害とか、基地の騒音問題だったら、わかる人がいるのにな。俺だけなんだよな。音のでかさは、距離の二乗に反比例するから、至近距離か二〇メートルぐらい離れているかで、ぜんぜん違う。広域放送の音がよく聞こえるのは、スピーカーが高いところにあるからね。俺の部屋と兄貴の部屋の床は、つながっているんだよ。で、至近距離だからほとんど、兄貴の部屋で聞いているのとおなじ音で聞こえる。畳の上に布団を引いて寝ていたので、頭に響く。
一度、というか何回も、学校から帰ったらまず寝てしまって、そのあと、午前四時ぐらいに起きて、勉強しようとしたときがあるんだけど、頭にガンガンヘビメタが響いて、眠れなかった。
一度、実はあまりにもつかれていたので、寝たときがあるんだけど、起きたあとのだるさが並みじゃない。本当にはきそうなぐらいつらい。なんていうのかな、あのだるさも、また、説明できない。説明したって、わからないだろ。眠っているときに、強制的にあの音をガンガン聞かされている状態で、目を覚ましたときの、気持ち悪さというのがない。で、その時は、午後一〇時ぐらいだったので、まだ鳴ってたんだよね。で、「やめろ!!やめろぉ!!!鳴らすな!!!鳴らすな!!!」って発狂して怒鳴り込んだ。けど、きちがい兄貴がキチガイなので、一分だってやめてくれなかったよ。その場で殺さなければ絶対の意地で鳴らし切る。で、鳴らし切って良いと思っているだよな。鳴らし切って当然だと思ってる。そういう兄貴なんだよ。そういう、「家」なんだよ。
「家」というのは、きちがい親父がそうやって、きちがい親父の意地を通してきたから、「家」ではそうしていいというのが、影の伝統(無意識的な伝統)として成り立っていた。しかも、やったやつは「やってないやってない」となる。これも、影の伝統で、頑固にきちがい的な主張を通す。自分がやってたことを認めない。自分がやってきたことを、絶対に認めない。認めるのが都合が悪くなったら、絶対になんだろうが認めないのだ。
で、そういう時の認めない態度が、なにかをやっているときの態度とおなじなんだよ。「うち」のひとに、「やめてくれ」と言われることをやっているときの態度が、そういう態度。だから、さかいめなく、つねにそういう状態なんだよね。
こんなの、教師をやっているような人にはわからない。教師をやっているような人の家というのは、普通の常識がなりたっいてるところだから。キチガイが、キチガイの意地を通せば、キチガイ本人は、やってないと思うような家じゃないんだよ。
で、これは、教師以外のひとでも普通の人には通じない。「そんなことないんじゃないの」と言われてしまう。けど、うちでは、そうじゃないんだよ。キチガイがきちがい的な意地でやったことは、(あとになれば)やってないことになってしまう。どれだけの意地で、どれだけのこだわりでやったと思っているんだよ!!」とこれまた、一〇〇〇回、一〇〇〇〇〇回言ったって、当の本人は、しらんぷりなんだから。この、シランプリ(黙って無視)(目を三角にして顔を真っ赤にしてあぶら汗をかいて、腹を立てて無視)というのは、やっているときもそうなんだよ。だから、全部が全部、態度がおなじなんだよな。
これ、普通の人、わからないだろ。で、普通の人以上に、当の本人が、わからないんだよ。あれだけ意地になって、「やめてくれ」と言われているのに頑固にやったことを、「やってない」なんて言い出す。全部、嘘。ホネガラミの嘘。頭がおかしいから、嘘を嘘だと思わない。つねにそういう認知の差があるんだよな。つねに、そういう意地になったところで、なんていうのかな、認知症ではない認知症のような症状がある。自分にとって都合よく、誤解しているんだよな。で、そういう嘘を通せば!!やりきれる。だから、影の目標は「やりきる」ということなんだよ。
だから、どうしても、やりたいことは、そういう態度でやりきる。で、そういう態度でやりきったことは、何万回やっていようが、何万時間やっていようが、「やってない」ことになっているらしいんだよな。頭がおかしいから。……これ、頭がおかしい、以外にどうやって、説明するんだよ?? で、自分がそうやって押し通したことに関しては、まったく、悪いと感じないんだよね。最初からあたりまえで、一〇年間毎日そうしてもあたりまえで、二〇年間毎日そうしてもあたりまえなんだよ。だったら、やっているわけで、やっているのに、「やった」と言われると、「そんなんじゃな!!そんなんじゃない!!」って始まる。
一〇年間、二〇年間毎日やってたことでも、そうなる。いや、一〇年間二〇年間、他の家族の思いを踏みにじってやったことなら、一〇〇%そうなる。そうならざるを得ない。問題にならないことは、やったって文句を言われないわけだから。「やるな」と文句を言われることについて、そうなる。かならず、そういう態度でやりきる。
で、かならず、キチガイ認知構造を使って、「やってない」と言い出す。全部こういう毎日なんだぞ。他の人がわかるわけがない。こんなうちの「常識」なんて他の人がわかるはずがない。だから、こういうことに関する記述はまるでうけない。なまくらな「引き寄せ」とか「鏡の法則」とかそういう話しがうける。けど、これ、違うんだよね。これ、宗教だから、違うもくそもないんだけど、違う。
さらに、「そういううちに生まれてきたのは、おまえが選んだからだ」というような理論をいう人まで出てくる。これは、人間が人間に言ってしまってはいけないことなんだぞ。まあ、個人にむけた話しではなくて、一般論として言うのはいいけどさ。宗教なんだから。けど、この世の人が、この世の人に向かっていう言葉じゃないんだよ。……いま、これだけ言って、わかる人とわからない人が出てくると思うけど、わからない人は、ぜんぜんスピリチュアルじゃない。これも、リトマス試験紙のように使えるな。
ワカッテナイノハオマエラダって言いたくなるな。まあ、それは、この世でさんざん言っておこう。
2016年9月22日木曜日
「使えないハンダゴテ」=「きちがい兄貴の基準で静かにした音」
きちがい兄貴がやったことが以上だということがわかるよ。
ハンダゴテ事件で、親父が使えないハンダゴテを渡したんだけど、それと同じなんだよな。きちがい兄貴の『静かにした』というのは、それとまったく同じ。まったく変化がない程度静かにしたわけで、ぜんぜん静かになってない。親父に対して、そのハンダゴテじゃダメなんだ、使えないんだということをどれだけ言っても、認めない。認めなかった。それと同じで、そういう『偽の静かにした』じゃ、ぜんぜん意味がないということを言っても、ぜんぜん認めない。同じなんだよな。
全部が!
きちがい兄貴!!ハンダゴテのことですら、めちゃくちゃに腹を立てたのに、……サイコパスオヤジの、そういった「つたわらない態度」に腹を立てたのに、同じことを俺に何千回も、何万回も、一四年間にわたって毎日毎日やりやがって!!!
つたわらない態度でやりきる。自分の意地を押し通す。
そして、自分の意地を押し通したということを認めない。
やったという事実そのものを認めない!!!
そして、何回言っても同じ態度で同じ反応が返ってくる……ってこれ、ハンダゴテ事件の時と同じなんだけど。はんだごて事件は、一回だけだ。おまえ、一日中腹を立てていたけど、ハンダゴテ事件は一回だけだ。しかも、一週間以内にお母さんがハンダゴテを買ってくれたので(金を渡したので)解決している。それなのに、あんだけ腹を立てて、「もう、親父とは絶交だ」『無視する』と鼻息を荒くしてたよな。目を三角にして怒ってたよな。一度だけだぞ。
使えないクソハンダゴテを学校に持っていて、恥をかいた」というのは、「
きちがいが意地を通したら、通ってしまうのがきちがい家だ。
これがわかってない。他の大勢の人には、これがわかってない。
他の大勢の人にとっては「ないことになっている」。だから、「そんなことは……」「そんなのは……」「人のせいにするな」『親兄弟のせいにするな」『自己責任自己責任』「ともかく、やらなきゃだめでしょ……」『過去のことはいいから……」『過去は買えられない……」『過去に関する認識を変えればいい・・」『他人はかえられない……自分がかわるしかない……」ということになる。本当に、どれだけ……。きちがい兄貴の認知構造、頭の構造を変えられなかったのは俺だけど、それは、本当に俺のせいなのか?
「そんなことは、お兄さんに言えばいい」と言った教師だって、実際にどのくらいの音で鳴っているか、うちに確かめにきてくれて、ものすごい音で鳴っているのを確認したら、兄貴に注意して、それでも兄貴が無視して鳴らしているなら、羽交い締めにして静かにさせてくれるというわけではないだろ。
そこまで、介入して関わってくれるか?
しかも、自分(教師)が帰ってしまったら、きちがい兄貴が普通に(普段通りのでかい音で鳴らす)から、泊まり込みで、きちがい兄貴を監視して、ずっと静かにさせるということをしてくれる人がいるか? 外部の人がいるときだけ静かになってもしかたがない。
一日中、鳴っているということが問題。きちがい兄貴の場合、外部の人に注意されたら、その人がいる間は、静かにするかもしれないけど、その人が帰ってまったら、普段のモードになって、普段通りの音で鳴らすわけだから、その人が一日中いないと、意味がないんだよ。
そういう人がいるあいだは静かにするけど、そういう人が帰ってしまったら、普通モードに戻って、普通に鳴らす……けど、この場合、モードの切換している「つもり」はないんだよね。だから、普段の音(クソうるさい音で)鳴らすことには問題があるとまったく思ってない状態なんだよ。どれだけでかい音で鳴らしていても、きちがい兄貴が「こんなの普通の音だ」「こんな音、たいしてでかくない」と感じたら、兄貴にとっては、「普通の音」で「たいしてでかくない音」なんだよ。こういう、あ・た・ま!! こういう頭が治らない。どれだけ言っても、あいつの頭は、あいつの頭のままなんだよ。親父の頭がそうであったように……。
『使えないハンダゴテ』=「きちがい兄貴の基準で静かにした音」なんだよね。
あんなでかい音で鳴らして『静かにしてやった』と思える精神構造がおかしい。本当に、どれだけ、どけちなんだよ。『静かにした音』が人が絶叫するのよりもずっとずっとでかい音だ。ピアノよりずっとずっとでかい音だ。何倍もでかい音だ。物理的な音で言えば、何十倍もでかい音だ。ふざけるな。きちがい兄貴よ、俺が言っていることが嘘だと思うなら、きちがい兄貴が『静かにした音』で、いま住んでいるうちで鳴らしてみろ。それがどれだけうるさい音か、わかるから。一緒に住んでいる嫁さんにも、どれだけうるさい音で鳴らして「静かにしてやったつもりでいたか」わかるから。
『そんな音で鳴らして、静かにしてやったとか、信じられない』と嫁さんは思うだろうから。きちがい兄貴は、キチガイ秋だから、『そんなにたいした音で鳴らしてない』とか思っているんだろうけど、それが、おかしいって言っているんだよ。何十年も。一緒に住んでいるは、兄貴は、『でかい音で鳴らしている』という自覚、認識があるものだと思っていた。
そりゃ、ギャグじゃなければ、あれだけ物理的にでかい音で鳴らして、『たいした音じゃない』と思っていると言うことは、あり得ないからな。ヘビメタじゃなくて、メトロノームの音をあの音のでかさに増幅して、聞いてみろ。五分で、頭がおかしくなる。
きちがい兄貴だって、「くそうるさい音だ」と思うはずだぞ。そういう音で鳴らしているやつに『静かにしろ』と言ったら「こんなのたいした音じゃないだろ」と言ってきた場合の、腹立たしさを経験してみろ。きちがい兄貴の場合は、黙りこくって、そういうつもりで鳴らして、鳴らしてないと思っているという、もっと複雑な状態だけどな。顔を真っ赤にして、目を三角にして、黙りこくって、鳴らし続けるやつが横の部屋にいたら、どう思うよ?
きちがい兄貴が、「静かにしてやった」と言っているそうだけど、そうじゃない。これが通じないというのがおかしい。そういう認知構造だから、兄貴は一日中鳴らしてなにも感じなかったんだろ。たとえば、「宿題をやるから静かにしてくれ」と言われた後、一時間、二時間、三時間、ヘッドホンをして静かにしてくれたことが一日でもあるか? 鳴らさないで静かにしてくれたことが一日でもあるか? そんな日は一日もない。だから、ずっと「うるさくしている」。なのに、「静かにしてやった」と思えるきちがい兄貴の頭はなんなんだと言っているんだよ!
親父の頭と同じ。オヤジアタマ。父親にやられて、悔しくて悔しくて悔しくて、しかたがなかったことを、俺に毎日毎日、毎秒毎秒や・り・か・え・し・て・い・る。で、きちがい親父と同じように「つもりがない」ままだ。一度、「つもりがない」回路ができあがると、どれだけ続けてやっていても、「つもりがないまま」になっている。こういう、しくみ!
こんなの、普通の家で生まれ育った人にはわからないことだ。だから、共感されることがなく、ただ単に「お兄さんに言えばいいのに、わたし(相談相手)に愚痴言っている」と思われる。俺が兄貴のヘビメタ騒音について相談するとそうなる。毎日、三時間はヘッドホンをして静かにしてくれたなら、俺はちゃんと「一日に三時間は静かにしてくれたけど、他の時間はでかい音で鳴らしていた」と書く。かならず「「一日に三時間は静かにしてくれた」ということについて言及する。
そういう言及がないのは、実際にきちがい兄貴が、一分も静かにしないままやり通したからだ。毎日! 毎日のことが大切なんだよ。人生にとって、毎日ことが大切なんだよ。一〇代の毎日が大切なんだよ。一〇代の毎日を、ヘビメタ騒音にやられ続けて、いいわけがないだろ! そんなんじゃ、どれだけ才能がある人だって、うもれて、育たないよ。
そういうことをして、熱心に人生の邪魔をしているのに、本人は「まったくやったつもりがない」という主観を維持したままなんだからな。これ、ここに書いてあることをどれだけ送っても、本人は(きちがい兄貴は)そ・の・ま・ま、なんだよ。いま住んでいるところで一日中鳴らすのはやばいから、やらないのだけど、そういうことをしなかったということは、まるで後悔してないんだよ。そういうあたりまえのことを「うち」ではまったくやってやらなかった……自分が好きなように全部の時間!!不退転の決意で「知っているのに」「苦情が出ているのに」鳴らし切った……ということについて、ぜんぜん悪いと思ってない!!! そのままなんだよ。当時のままなんだよ。感覚が!! どれだけ言われたって!! そういう感覚で、入試のときだって、鳴らしてるんだよ!! なにも、わかってない!!
2016年9月20日火曜日
ロボット化の波と生活保護(感想断片)……もしphaさんが生活保護をもらっていたら
貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 というサイトの
まだ武士やってるの?~問題なのはレールに乗っかる生き方が本当に「オワコン」なのかどうかだ
http://etrip.blog.fc2.com/blog-entry-1406.html
という記事
を読んだときの感想です。トラックバックが使えないので、こういう旧式のやり方になります。
たぶんだけど、そんなに早くはロボットがやってくれる状態にはならない。まあ、50年後を考えれば、ロボットがかなりのことをやってくれる状態になるとは思うけど。
世界のことを考えると富は均一ではないから、ロボット化の波も速度に違いがあると思う。
ぶっちゃけ言ってしまうと、生きている間は、「生活保護などを受けずに働くべき」というような考えを持っている人が、攻撃してくる状態は、変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では。けど、本人の年齢が、80才90才になったらそういうことを言う人は、必然的に減るだろうから、本人から見れば同じ状態になる。
ロボット化の波の話は、「社会の荷物になるな。働け」と言ってくる人たち向けの話なのだと思うけど……。まあ、時間の問題で、単純作業と知識集約的な作業は、ロボットがやってくれるようにはなると思う。けど、まだまだ、時間がかかる。たぶんだけど、ぼくらが生きているうちは、そういう仕事はロボットがやるから、人間はやらなくていいということにはならないんじゃないかな。
そうなる前に、たとえば、90才になっているから、言われなくて済むよ。
たとえば、phaさんが自活してなかったら(経済的に自立してなかったら)phaさんを支持している人たちだって、phaさんを支持しなくなるだろという話と、ここで話されていることは、同じわけでしょ。phaさんが生活保護をもらいながら、ああいう本を書いていたら、批判されるだろうという話と根っこは同じ話だよね。
これに関しては、いまの日本という、条件がそのまま反映されていると思うよ。いまの日本の労働観が問題なのだから。いま(時代的条件)の日本(地理的条件)という条件が成り立っていなければ、そもそも、問題にもならない。
* * *
まだ武士やってるの?~問題なのはレールに乗っかる生き方が本当に「オワコン」なのかどうかだ
これを読んだだけでは、上の話はわからないと思うけど、貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅 というサイトの記事を50%ぐらい読めば、どうして上のような話しをするかわかる。
* * *
あーー、それにしてもヘビメタ騒音が鳴ってたな。この時間は~~~。つらい~~。
この雰囲気!!!
2016年9月18日日曜日
妄想的な勝手な不満の場合は親のせいではない
その子供が持ってる不満というのは、妄想的な勝手な不満だから、親のせいではない。こういう場合は、どれだけ不満をちゃん記述しても、いいことにはならない。親の方にずれがあって(認知のずれがあって)子供が神経症になっている場合は、子供の方は、不満を抱えるわけだけど、子の不満は、(認知のズレをもとにしているから)神経症的な症状としてあらわれるしかないのである。
2016年9月17日土曜日
特殊不満理論 サイコパスのもとに生まれた子供は、基本的に、不満を抱えることになる
不満なことが生じても、不満を言わずに感謝の言葉を述べると、事態が好転して、人からも好かれるようになる。
よくある、不満に関する考え方です。まあ、スピ系のことや宗教系のことが好きな人は、こういう考え方を聞いたことがあると思います。感謝理論ですね。で、これは、正しいようでいて無慈悲なところがあります。
こういうひとが設定しているのは、一般的な話しなんです。しかも、例外がないという話になっている。例外があるなら、例外があると最初に述べておかなければならない。けど、例外があるとは述べない。だから、一般法則の話になります。一般法則においては、例外がないので、本当に苦しんでいる人を追い詰める話になります。
こういう人たちが言う「不満」というのは、普通の不満なのである。普通の人によってもたらされる「不満」なのだ。しかし、世の中にはサイコパスがいるように、サイコパスからもたらされる「不満」というのがある。しかも、サイコパスが親になる場合があるので、サイコパスのもとに生まれた子供は、基本的に、不満を抱えることになる。その場合の不満というのは、一般的な不満とは違うので、不満を言う権利がある。
サイコパスの親の元に生まれた子供が、「不満を言うべきではないという一般理論」におかされたばあいは、もっともっともっと、悲惨なことになってしまうのである。不満を言葉にできた方が、その子供は、精神的な安定を得られるのである。一般理論だと「不満を言うべきではない」ということになるのだけど、特殊理論だと、「不満を言うべきではないという※べき※の暴君にやれる※べき※ではない」ということになる。「べきべき」になるわけだけどさ。
一般理論は、一般人を相手にした場合の話しだ。家の中にサイコパスがいる場合は、まったく違う。ここが、わかってない。こういうことを言う人たちは、まったくそういう気持ちがないのだろうけど、実は、サイコパス的な親にやられて、苦しんでいる子供を、もっと不幸にしてしまうという問題がある。
サイコパスは、かわらない。
だから、不満を述べてもかわらない。相手に不満を言ってもかわらない。サイコパスはサイコパスの人格構造を通してサイコパス的な行動をしてサイコパス的なことを言うわけだから。そのサイコパス的な行動のなかには、当然、サイコパス的な攻撃が含まれている。
※このサイコパス的な攻撃に対して、不満を持つなと言うのが間違っているのである※。もし、サイコパスにやられている子供が、そういうことにこだわった場合どうなるかというと、神経症になってしまう。これがわかってない。サイコパスにやられているこどもが、「不満を言うべきではない」というような一般理論を学んだ場合、神経症になってしまうのである。まじめに、そういう言葉を実行すればするほど、深刻な、根の深い神経症になってしまう。
一般人が感じる「不満」と、特殊な環境にいる人が感じる「不満」は違う。そもそも、質が異なる。なので、一緒にしてはいけない。これ、わかるかな? たいていの人は、一般理論でとまってしまう。一般理論は、例外がないという状態で流布される。
けど、本当は、その一般理論で傷つく人間がいる。そういう一般理論を信じたがゆえに、神経症になってしまう人間が一定数いる。一般理論を実行しようとすると神経症になってしまう人というのは、特殊な人間にやられている人間なのである。
サイコパス的な親の元に生まれた子供と、一般的な親の元に生まれた子供だと、不幸の量が最初から違う。対処不能なサイコパスが親だったらどういうことになるか、たいていの人は、まるでわかってない。これは、経験を通して学ぶことなので、そう言う経験がない人はわからない。人は誰でもゆがんだところがあるので、理想の親はいない。しかし、健常者と精神異常者の違いがあるように、一般的な親とサイコパス的な親の違いはある。そういう違いを無視して、「不満を言うべきではない」「不満を言うともっと不幸になるぞ」とおどしをかけるべきではない。
あっ、おどしと言ってしまった。こういうスピ的なことを言う人は、別におどしをか.けているつもりはないのだろう。けど、努力目標になってしまうと、奇妙な現象が生じてしまうのである。奇妙な現象というのは、その子供が、神経症になってしまうということだ。一般理論の存在は、神経症発生に関して、まったく影響がないように思われているけど、実は、影響がある。一般理論というのは、この場合は、「きれいごと」だ。よくある、スピ的なきれい事だ。たとえば、「不満を口にするべきではない」とか。「どんなにひどいことが起こっても、感謝するべきだ」というような一般に流布されているきれい事のことだ。
ひどい状態というのがあって、そのひどい状態は、相手の感覚のズレによって引き起こされる。そして、相手は、それに気がつかない。あたりまえのように、その感覚のズレを押し付ける。サイコパスが、認識してない、サイコパス側の理論、理屈というのがある。サイコパス側はつねにその理論に従って行動しているのだけど、「そういう理論に従って、あることをなした」ということを認めないという状態になっている。で、この「認めない」ということも、実は、その理論に従っている。なので、これは、切りがない状態になっている。
* * *
じゃあ、どうすればいいのかというと、サイコパス的な親にやられたことはしっかりと記述した方がいい。サイコパス的な親にやられたことから生じる「不満」に関しては、口に出した方がいい。一般人にやられたことから生じる「不満」に関しては、不満を口にしない方がいい。一般人と、サイコパス的な親をわける。サイコパス的な親に育てられた場合、兄弟がいる場合は、兄弟とももめることになる。ローシナジーが発生するからだ。父親が長男をいじめて、長男がおなじやり方で次男をいじめるということが生じてしまう。三男がいれば、次男が三男をいじめるということになる。なので、となりあえず、サイコパス的な親にやられたことは記述した方がいいと言ったけど、これは、別に親に限ったことではない。家族にやられたことは、記述した方がいい。不満を言った方がいい。不満をうまく言えないと、神経症になる。しかも、理論療法、認知療法、認知行動療法などは基本的に、「きれいごと」で成り立っているので、不満の部分は無視される傾向がある。というか、きれい事が支配する世界なのである。一般不満理論と特殊不満理論を区別せずに、きれい事を押し付けてくる。神経症が発生するには、サイコパス的な親が押し付けてくる異常なルールの他に、きれい事に基づいたルールが必要なんだよ。これがわかってない人が多い。だから、サイコパス的な親にやられて神経症になっている人は、認知療法に近づかない方がいい。認知療法は、一般的な不満を相手にした、一般理論で成り立っている。特殊理論は、ない。
2016年9月16日金曜日
毎日毎日、毎分毎秒、きちがい的な意地でやったことも、「やってないこと」になっている
2016年9月14日水曜日
騒音で人生がないという話し11
騒音で人生がないという話し11。
だるいけど、がんばって出した~~
作風が暗すぎてあんまり宣伝できない。
みんな詐欺師みたいな人の言うことには賛成して、ゼミに行って、3万円も4万円もみつぐのに。
まあ、騒音サイコパスは、お得情報はないけどさ。
しかし、お得情報を求めている人は、本当に喜んで騙されに行くからな。
まあ、哲学系人間学系の話はあんまり、うけないよな。
自己実現、気付き、SNSのうまい使い方(もうけかた・ビジネス)といった感じのところには、金を出すのにね。けど、その人達が言っていることというのは、0円で落ちている。メンターとかマインドセットとか虚業のキーワード。しかし、本当に、そこでビジネスをするしかないようなところがあるな。
けっきょく、後発組の自営業が飯を食っていくには、そこらへんで儲けるしかないのかな。
人気云々を考えても、なんていうのかな、出し惜しみする人が、最初から騙すつもりで、話を作っている場合のほうが、だんぜんうけるんだよね。おかしいだろ。マインドセットって、騙すマインドセットだったりする。けど、やっぱり、そっちのほうが、旗色がいい。人気が出る。おかしい。
まあ、今日感じたのは、そんなところ。
あと、何万時間もやられたから、やっぱり、だるい。
もう、そういう点で、人気がある方には行けない。
そりゃ、明るくて、やる気がある人のほうがモテるからな。
これは、本当にそうだよ。
2016年9月13日火曜日
「譲歩した」とか頭がおかしいだろ!
そうやって、兄貴の嫁さんの前で言い訳してるんだろ。
じゃ、どれだけでかい音で鳴らしたら、「でかい音で鳴らした」ということになるんだ? きちがい的にデカい音で鳴らしても、きちがい兄貴の基準からすれば、「こんなのはたいしたことがない」ということになって、「たいした音で鳴らしてない」ということになるんだろう。それも、これも、全部、自分が実は、でかい音で鳴らしたいという気持ちから出ていることなんだよ。だから、自分が満足できるでかい音で鳴らしたい以上、自分が満足できるでかい音というのは、物理的にどれだけでかい音でも、「たいしたことがない音」「そんなにでかくない音」になってしまうのである。他の人が聞けば一発でわかることが、一五年間、どれだけ言われても、わからない……そういうしくみなんだよな。
だから、別に、「悪い」と思ってないんだよ。物理的に、どでかい音で鳴らしていると思ってないわけだから。普通の家でならしたらいけない音で鳴らしているつもりがないわけだから。で、きちがい兄貴は、「(弟が)そんなふうになっているなんて知らなかった」みたいなことも言っているんだけど、俺は、兄貴の騒音で、ものすごくくるしい思いをしたので、きちがい兄貴が鳴らしているとき、何回も何回も言ったからな。一四年間のトータルでいえば、本当に、何万回直接言ったかわからない。これも、もし認めてしまったら、自分が「本当に!」……嘘の情報じゃなくて、本当に譲歩しなければならないという、基本的な認知があるんだよ。無意識的な認知がある。だから、どれだけ言われても、きちがい親父のように無視して、一切合切気にしなかった。親父がやったことと同じだから。きちがい兄貴は、これまたわかってないから、「自分が親父みたいなことをしたなんて信じられない」みたいなことを言うんだろうけど、そっくりだよ!! 同じ!!! 態度が同じ!! 言っていることが同じ!! 認識が同じ!! 全部、やりきって……本人がやりたいように一〇〇%やりきって……「やったつもり」がまったく生じない。これも、もし認めてしまったら、自分がそんをするカタチで譲らなければならないからだ。自分がまったく損をしないカタチで、譲って、それで、「最大限ゆずってやった」と思っているのである。で、そういう認知のしかた自体がおかしい! 認知のしかた自体がおかしいと言われても、本人は、「やれるときは、全部やりきる」のである。一切合切認めない。困るんだよ。きちがい兄貴だって、親父の態度で困ってきただろ。親父の反応で困ってきただろ。それは、お金に換算するといくらだ? 暴力はあったか? お金に換算すれば、一番もめた金額だって二万円のことだろ。いま、二万円で、あれだけ支配されて、あれだけいちゃもんをつけられて、あれだけ我慢させられたどうなんだよ? きちがい親父が金で支配していたと言っても、社会的な視点で見れば、たいした額じゃないだろ。大人になってみればたいした額じゃないだろ。じゃ、それが、いまの金銭感覚で二万円のことだから、たいしたことじゃないと言えるのか? 当時、やられたことが、腹が立つことではないと言えるのか? そんなに重要な問題じゃなかったと言えるのか? 暴力の数だって、二回か三回だろ。それも、きちがい親父は、暴力を振るったということだけは、気にするんだよ。これも、頭がおかしい。暴力親父ったら、どれだけ話しが楽か。他の人がわかってくれるか。一発でわかるか? きちがい親父のやり方というのは、他の人に絶対わからない。しかも、親父自身がそういうことをしているつもりがないのである。じゃあ、それが、どうでもいいことかというと、違う。これ、違うんだよ。屈辱的なコードが、いっぱい盛り込まれている。それこそ、なぐられた方がどれだけ楽か。腹が立たないか。他の人にわかりやすくて、救済の手がさしのべられるか? 他の人にはまったくわからないかたちで、狂っているからものすごいことになる。で、一番問題なのは、本人は、つもりがないということだ。本人は、「やったってやってない」だからな。で、たとえば、一〇円二〇円のことでもめたにしろ、そこには、人間としてやっちゃ行けないことが含まれているので、一〇円二〇円の問題じゃないのである。これ、きちがい兄貴にしたって、こどものときに自分の言い分を通そうとしたら、親父をその場で、殺さなきゃならないんだよ。そういうことを、押し付けてきたんだよ。で、殺せないから、親父の言い分が通った。けど、これが、やった方は、自分の言い分が通ったと思ってないんだよ。これが、この問題のやっかいなところで、本当に人に屈辱的なことをして、自分の言い分を通しているのに、相手に譲ってやったと思っている。最大限ゆずってやったと思っている。これも、親父と兄貴で一緒だろ。同じだろ。同じ態度だろ。同じ言い分だろ。本当に腐っている。兄貴は、親父そっくり!! 親父がやったことを、そのまま、弟にやり返している。もちろん、つもりはない。「あたりまえのつもり」なのである。どれだけ言われたって、気がつかない。絶対の意地でやりきる。絶対の意地でやりきったのに、毎日毎日そういう制度を押し付けてきたのに、本人は、押し付けたつもりがまったくないのである。まったくまったくなにもない。だから、「こうだった」ということを言われると「そんなんじゃない!そんなんじゃない!!」となる。その時はその時で、もう、言われたことに関しては、我慢する必要がないのである。要するに、本人にとってやりたいことではないので、やろうと思ってない。だから、相手に「やるな」と言われる可能性が一〇〇%ないことなのである。そのこと!!自体!!!に関してはな。けど、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」と認めない態度が、当時の認めない態度と同じなんだよ。それで、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」怒って、おしまい。自分が怒ったら、おしまい。そのあとなにを言われても、「やった」と思わない。そういう状態なんだよな。三六五日中、三六五日、まったく同じ態度。一〇年でも二〇年でも三〇年でも四〇年でも、まったく同じ。そういうしくみ自体は、ぜんぜん変わらない。だから、問題がふくれあがる。けど、本人は、まったくわかってないのである。自分が関わっている感じすらない。本人は、本当に「ゆずってやった」「できる限りゆずってやった」と思っているのである。実際には、一〇〇%譲らなかったんだけどね。
きちがい兄貴、きちがい兄貴にわかるように言うと……わからないんだろうけど、うちではヘビメタを鳴らさない……一日に一分も鳴らさないというのが、できる限りゆずったときの量だ。分数だ。できる限りゆずったら、一日に一分も鳴らせないんだよ。ぜんぜんわかってないんだろうけど。きちがい兄貴が、趣味で鳴らしていることだからな。できる限り譲ったら、一日に鳴らせる時間は〇分だ。一日中、まったく鳴らさないで譲ってくれた日数は何日だ? 一日ある。その日以外は、一四年間、一日も、譲ってくれてないから。できる限り譲るなんて、あり得ないんだよ。譲るというのは、鳴らさないで譲るということだ。僕のほうが譲歩してやって「ヘッドホンをつけていれば」いいよということにしておいてやっても良い。一日中、ヘッドホンをつけて鳴らして、それで、やっと、一日だけ、譲歩したということに鳴るんだよ。一日中、あんな音で鳴らし続けて、「譲歩した」とか「できるだけ譲歩した」とか頭がおかしいだろ!
2016年9月10日土曜日
「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と言いたくなるようなことばかり言う
これも俺のせいにされるわけだけど、つらい。これも、俺ががんばればどうにかなる問題にされるわけだけど、どれだけがんばっても、やっぱり、つかれる。持続的につかれているわけで、どっかでよくなるということはないんだよな。本当に脳みそのどこかがやられていると思う。「騒音金属疲労」みたいな感じで、やられていると思う。睡眠回路がやられたのがでかい。休んでないから、くるしいのではなくて、休んでもくるしい。休んでないから疲れているのではなくて、どれだけ休んでも、つかれている状態だ。
これ、何回も言っているけど、普通の人が、朝起きたときのだるさをそのまま、一日中背負っているような状態だ。座ったまま姿勢を維持しようとしても、維持できないときがある。だから、横になるしかない。で、横になっていれば普通はつかれがとれるのだけど、とれない。つねに、終電のサラリーマン状態なんだよ。残業して終電に乗らざるを得ないような状態の人がいると思う。
で、それは、ただ、一日だけそうなのではなくて、何ヶ月、場合によっては何年も続いていると思う。その、五年目あたりの状態なんだよ。つねに、そういう状態。もう、ぼろぼろになって、回復能力がなくなっている……状態。だから、どれだけ休んでも、回復しない。
けど、他の人からみれば……。まあ、他の人からみても、「たるんでいる」「元気がない」「ぼーっとしている」状態にみえるわけだけど、しんどさはみえない。まあ、つかれているのはわかると思うけど。けど、それは、つかれているから休んでいいということではなくて、つかれていても、ぼやっとしないで、てきぱき、動いて欲しいということだから、意味がない。
まあ、調子がよいときに、出て行って、張り詰めて明るくみせれば、そんなに深刻な状態には見えないのだろうなと思う。けど、それは、睡眠リズムが、普通の人と合致しているときに、出て行って、がんばればということだから。一日だけだけどね。一日しか持たない。
二日目はだめだ。明らかに、やっていることに関心がないような(だらけた態度)になってしまう。これで、評判が落ちるんだよ。もう、本当、くるしいんだ。普通の人だと、二〇時間ぐらい起きている状態で、ちゃんとしようと思っても、ちゃんとできないような状態。まあ、二〇時間ぐらい起きているときでも、「ハイ」になる時はある。
こういうときは、「失敗」が多くなるから注意だ。だから、ハイになって空元気を出して動いているようなときも、本当は、元気じゃない。本当にこういうときは、不注意ミスが増える。前の日、眠らないで試験を受けているような状態だ。ものすごく、重要な試験。人生の左右してしまうような、重要な試験……。
そういう試験を受ける前、きちがい兄貴は、一二時間鳴らせなるら、絶対に一二時間鳴らして、一秒も譲ってくなかった。あれで、「静かにしてやったつもり」なのかよ。そーーいうのが、おかしいんだよ。で、きちがい兄貴もきちがい親父も、一度そういうモードになったら、こっちが、なにを、何万回言っても、そのままなんだよね。この「そのまま」度がひどいんだよ。
何万回、何十万回「静かにしろ」「鳴らすな」と怒鳴っても、本人は、まったくなにも感じないわけだから。これは、続けて、感じないということだ。言われたときだけ、怒っておしまいなのである。だから、「明日、入学試験だからやめろ」と怒鳴り込まれたあと、一〇時間、き○がい的にでかい音で鳴らしても、まーーった、く、平気なんだよ。本人は、一〇時間静かにしてやったつもりでいる。恩着せがましく静かにしてやったつもりでいる。本当は、五分間だけ、一〇〇分の一の音量だけ下げて九九の音で鳴らして、あとの一一時間五五分は一〇〇の音で鳴らしている状態。入学試験だろうがなんだろうが、そうなんだよ。一度こうなったら、何十年でも、毎日そうなんだよ。「うち」ではそうなんだよ。
本人がまったく問題を感じない。本人がまったく問題だとは思わない。自分は権利があって鳴らしている、がたがた言ってくる方がおかしい。静かにしてやったのになんだ!!後から後から言ってきやがって!!こういう気分にしかならない。こっちがどれだけ、真剣に頼んでも、こういう気持ちになって、ものすごくでかい音で鳴らす。
きちがい兄貴が、静かにしてやったつもりの音も、でかいから。
これも、どれだけ、言っても、通じないんだよな。きちがい親父のように、認めたくないことは、どれだけもめても、もめても、もめても、もめても、認めない。普通なら、絶対に、ひとことでわかりそうなことでも、わからないのである。どれだけ、何万回強く、言われても、まったくなにも言われなかったのと同じ状態を維持する。そういう認知構造。そういう神経! だから、まったく気にしないで、その日のヘビメタを、まったく譲らないで頑固に何時間も何時間も鳴らし続けることができる。
それなら、意地になって鳴らした……相手が言ってきたけど、相手のことは押さえつけて鳴らした……という認識があってよさそうなものなのに、そういう認識がまったくない。実際には、まったく静かにしないで鳴らし続けたのに、本人は、「じゅうぶんに静かにしてやった」「一日中静かにしてやった」と思っている状態なのである。だから、本当に、どれだけ、騒音のことで怒鳴り込まれても、まったくなにもやらなかったのと同じ気分でいる。その時も、そうだし、それを毎日一〇年間と一日続けても、一〇年と一日目には、まったく、なにもしてないつもりのままなのである。
だから、認知がおかしくなる。一〇年と一日、頑固に全部の時間、本当には譲らないで、兄貴の友達が驚くような音で鳴らしているのに、本人は、一〇年と一日、全部毎日、全部の時間静かにしてやったと思い込んでいる状態なのである。その一〇年と一日目に、どれだけもめても、そういう、認識システムが崩れないので、その日も、「じゅうぶん静かにしてやった」と思っている状態なのである。その日、七時間鳴らせるなら、七時間、こだわってこだわって、何回文句を言われても、何回怒鳴り込まれても、けっきょく、自分の意地を通して、自分が満足できるどでかい音で鳴らしたのに、まったくならしてない状態と同じなのである。
本人は、「全部ゆずってやった」と思っている状態で、鳴らす!! 頭がおかしい!! あれだけ、でかい音で鳴らして、そういうふうに思っているとしたら、本当に頭がおかしいと思うけど、「ごく自然に」「うちでは」「そういう状態」なのである。だから、まーーったく、疑問に思わない。本人が、疑問に思わない。で、ヘビメタが好きな兄貴の友達が「こんな音で鳴らして、うちのひとはなんか言わないの?」と兄貴に言ったその日も、そういうでかい音で鳴らして、なんとも思わないのである。その日だって、俺は、兄貴の友達が帰ったあと、さんざん「鳴らすな」「静かにしろ」とさんざん言ったからな。よその人は「一分で、普通の家で鳴らす音にしてはうるさすぎる」ということを理解しているのに、きちがい兄貴は、言われたにもかかわらず、ぜんぜん理解しないのである。
「だいじょうぶだいじょうぶ」と友達に言ってそれでおしまい。兄貴は、本当に「うちのひとは、だいじょうぶ」だと思っている。兄貴の友達が来るまで、何千日、俺がきちがい兄貴のヘビメタ騒音に文句を言っていると思っているんだよ。そういうのだって、おかしいだろ。他の人が一分間で理解することを、十数年間という長い時間鳴らして、まったく理解しない。兄貴が結婚したあとの時間を含めれば、何十年と理解してないのである。他の人が一分間で「普通の家で鳴らすには、でかすぎる」と思う音で鳴らしているのに、何十年経っても、「そんなにでかい音で鳴らしてない」とまじで思っているようなき○がいなのである。
で、そういうのが、徹底しているんだよね。「はじき」度がすごい。「認めない」度がすごい。骨がらみ。全部の認知がそうなっているんだよ。だから、本人は、普通にすごしているだけなんだよ。本当は、異常なことを、以上に長い時間繰り返してやっているのに、本人は、まったくなにもしてないのと「同じ気持ち」でいる。
だから、(兄貴は)俺に対して、特にうらみがない。自分(きちがい兄貴本人)も俺(弟)に対してそんなにひどいことをやったつもりがない。人生に影響を与えるようなことを、やったつもりがない。※やったつもりがないとなったら、「相手からどれだけ、何年間、何十年間言われても」ぜんぜんやったないつもりのままなんだよ※。だから、相手がなんで怒っているのか、ぜんぜんわからない。自分がやったことじゃないと思っている。自分はまったくうるさくしてないのに、相手が文句を言ってくる……ぐらいにしか感じない。で、鳴らしている一五年間毎日も、そういう状態なんだよ。どれだけ、激しく言われても、そういう認知が、ひっくりかえらない。ふつーーに、時間がすぎていく。ふつーーになにもしてないつもりで、時間がすぎていく。
本当は、き○がい的にでかい音で、き○がい的な意地で鳴らしているのに、そして、さんざん文句を言われているのに、相手に迷惑をかけるようなことは一切していないという気分が成り立っている。頭がおかしい。そういう程度に、排除している。だから、本当に、言われた一瞬だけ腹を立てて、頑固に鳴らして、それで、おしまいなんだよ。言われなかったことになってしまう。言われなかったことに鳴ってしまうのは、自分が、本当に静かにしてやる必要がないからだ。本当に、静かにしなければならないとなったら、本当に静かにしなければならない時間、ずっと、腹を立てている状態になる。腹が立ってしかたがない状態になる。弟が、静かにしてくれと言ってきたから、一時間静かにしてやるとなったら、一時間、ずっと腹が立つ状態ですごすことになる。
実際には、一時間我慢して静かにしてやったことなんてないから、そういう気持ちがあるということにすら、気がつかない。本当に静かにしてやらなければならなくなるのは、死んでもいやなんだよ。きちがい兄貴が、気がついているのか気がついていないのかわからないけど。三分間、本当に我慢させられたら、三分間、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になる。
三分ですら「こんなのやってられるか」「なんで我慢しなきゃらないんだ?」という気持ちになって、鳴らしまくる。感情的に爆発して、絶対に鳴らそうとする。一分だってそうなんだよ。本当に静かにさせられたら、それはそれは、もう、発狂がとまらない状態になる。「なんだ!!!」と怒り狂って、鳴らし始めてしまう。
そうしたら、そのあとはどれだけ鳴らしてたって、鳴らしてないのと同じ認識で、鳴らす。ガンガンどでかい音で鳴らしているんだけど、発狂したあとやっていることは、「ノー感じ」なのである。やっているつもりがない。やっているのに!! で、本当は毎日毎時間毎分毎秒、そうなんだよ。禁止されれば、そうなる。鳴らしたいのに、鳴らせないとなったら、そうなる。
そういう気持ちがわかなかったのは、本当に静かにしてやる時間というのが、一日に一秒もなかったから。本当に静かにしてやる時間がなかったから、そういう感情にならなくてすんだだけなのである。きちがい兄貴が静かにしてやったつもりの時間も、兄貴の友達が驚くようなでかい音で鳴らしているから。で、これ、耳が正常なら絶対にわかることなのに、わからないままなのである。
だから、いまだに、ふざけたことが言える。
家族の前で「よく言うよ」というような言い訳をすることができる。この場合の家族というのは、いまの兄貴の家族ということだ。兄貴の嫁さんと嫁さんの親の前で、「弟が言っていることは嘘だ」という言い訳をする。事情を知っている人間からすれば「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と言いたくなるようなことばかり言う。親父おんなじ。まったく同じ。親父もそうなんだよ。親父がやってきたことを知っている人間が聞けば「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と怒鳴りたくなるようことしか言わない。こんなのと、話ができるわけがないだろ。こんなやつらと、「は・な・し・あ・い」ができるわけがないだろ。本当に、こういうことがわかってないから、よその人に「うちのこと」を相談しても無駄なんだよ。よその人は「家族で話し合えば良い」「お兄さんに言えばいい」とアドバイスをくれるだけだから。
これ、いま書いたことを読んだ人ですら、「そんな人はいない」というような考えにこだわるなら、俺の言っていることが、変なことのように思えるわけだよ。俺の記述こそが嘘だと思うわけだよ。「そんな人はいない」わけだから。で、「そんな人はいない」と思っている人は、俺の文章を読んで怒る。怒りを感じるんだよね。どうしてかというと、「そんな人はいない」と思っている人の平和な世界を壊したから。その人の世界というのは、「そんな人はいない」という認識の上に成り立っているんだよ。
だから、「いる」という俺の言葉を聞けば、「そんな人はいない」認識の上に成り立っている平和な世界が、壊れる。これは、完全に壊れてしまうわけではなくて、おどしを受けるということだ。ショックを受けるということだ。いままで、地震がなかったのに、ぐらっとしたわけだ。「そういうことがある」ということを言っている人が目の前に現れるわけだから。まあ、少なくても言葉は現前するからね。それは、その人の自我に一撃を与えるのである。それが、「不愉快」「怒り」という反応をうむ。「そんなんじゃない」だけだから……。俺は「そういうこともあり得る」ということを言うわけだから……。この差なんだよ。
だから、「そんな人はいない」と思っている自我を持っている人は、俺の言葉に腹を立てる。「そんな人もいるだろう」と思っている人は、そういう自我を持ってないので、「あなたの、お兄さんとお父さんはそうなんだろうな」と思うだけだ。「そういう人もいる」と思っている人の自我は、別に傷つかない。最初からいると思っているわけだから、不安にもならない。「そんな人はいない」と思っている人は、不安になって怒る。そして、否定する。
* * *
本当に、俺が二一歳の時ですら、どれだけどれだけもめても、一分も静かにしてくれなかった。これが、きちがい兄貴がこの世で本当にやったことだ。毎日毎日、あたりまえのこととしてやっていたことだ。それが、「やってない」とか「静かにしてやった」とか……。本当に!!!そういうことだから、一秒も静かにしないで、静かにしてやったつもりでいられるんだろ。で、この鳴っている一日というのが、耐えがたい一日なんだ。これは、誰に言ってもわからないと思うけど、僕のなかでは、いまでも同じ風が吹いている。いまでも同じ空気を吸っている。いまで同じ知覚のままだ。
だから、くるしい。毎日、毎分毎秒、くるしい。こんなの、クリスを飲んでも解決しない!! きちがい兄貴が、一日目に普通に静かにしてくれることが、絶対に必要だった!!!
事実は、十数年間にわたって、シランプリで鳴らしまくった。一日に一秒も静かにしないで鳴らしまくった。……そういう人生だ。で、これ、いま書いているけど、一一歳の時には、書けたわけだからな。うまく説明できるとは思えないけど……。本当に聞き手が、俺みたいな経験をした人じゃないと、一一歳の俺が、どれだけ説明してもわかってくれないんだよな。それから、うちにきて、兄貴を羽交い締めにして、静かにさせてくれるわけでもない。監視をするために、うちにとまってくれるわけでもない。けど、きちがい兄貴が、一日に一分だって静かにしないわけだから、そういう人がいなければ静かにならない。まあ、外部の人がいても、静かにするかどうかわからないけどね。その外部の人だって、「うち」にずっといるなら、「うちの人」になってしまうわけだから。「うちの人」の言うことは、絶対に聞かない。これが、親父が作った、うちの伝統だ。で、こんなの、ほかのひとにはわからないだろ!!
2016年9月6日火曜日
そういう「あたま」は、こっちがどれだけなにを言っても、どれだけ激しく喧嘩しても、言い合いをしても、まったく変わらないんだよ
だれか、他の人がやったことのように感じるよな。あるいは、自分はやってないのに、やったと言われる」と感じるわけだ。これ、おかしいよ。これ、本当、きちがい兄貴は普通に無視して、鳴らしてたけど、普通の家だったら、一日でもひ・ど・い・こ・とだから。
こんなの、中間試験期間中に鳴らしてたら、普通の家だったら、一喝されておしまいなんだよな。一喝されて、一日中鳴らさないで!静かにするしかなくなる。実際、よその家……「うち」以外の家じゃ、普段の日だって鳴らせないわけだろ。一分だって!! これ、おかしい。本当に、きちがい兄貴が自己催眠で、たいしたことじゃないことにしてしまったんだよな。で、それは、親父と同じなんだよな。本当に親父のやり方で無視して、親父やり方でこだわって、親父のやり方で頑固に、全部やりきる。で、親父のやり方で、「まったくやってない」と思っている。「譲らなかった」と言われたら「ゆずったゆずった」。
「静かにしてくれなかった」と言われたら「静かにした静かにした」だ。一〇年後、二〇年後三〇年後の態度がまったく同じ。きちがい親父は、一五年間で二回しか注意してないのに、「注意した注意した」だよ。小学六年生から、中学三年生の入試前日まで、一度も注意してない。だから、小学六年生から、中学三年生の入試前日まで、一度も注意してないと、親父に言ったんだけど、そうしたら「注意した!注意した」って言いやがった。
病気なんだよな。頭の病気。
これ、嘘をついているつもりがないんだからな。その、鳴らし始めてから、三年と数ヶ月後に、一回だけ注意したときだって、俺が!「家族会議!!!家族会議」と騒いでやっと、実現した家族会議の席で、きちがい兄貴のほうをみないで「静かにしてやれ」と、ぼそっと言っただけなんだよ。小学六年、中学一年、中学二年、中学三年の入試直前まで、どれだけ何回言っても、「なっちゃったらしかたがない」と言って、注意しなかった。俺に、怒ってたんだからな。「裁判するから、測量の金を出してくれ」と言ったときだって、「そんなのできるわけないだろ!!」「裁判なんてできるわけがないだろ!!」と言って、怒って、お・し・ま・い・だ。
注意できるときに、どれだけ言っても、言うたびにそんな調子だったんだぞ。毎日そういう調子だ。だから、三年間と数ヶ月、一回も注意したことがないのに、「注意したことがない」と言うと、「いっぱい注意した!!いっぱい注意した!!」と興奮して言う。かわらないんだよね。あそういう頭が!!! ぜんぜんわからない。だ!!!か!!!ら!!!!困っているんだよ。兄貴も同じ。兄貴のヘビメタで困っているのに、どれだけ何回言われても、自分はまったく関係がないつもりでいる。
これも、兄貴の頭だと、そうなんだよ。で、どれだけ何回言っても、そういう構造がわからない。だから、それと似たような感じ方で、実際にやっているときは、押し切る!! これ、本当に、お・し・き・る。親父のように押し切る。「試験だから困る。だからやめてくれ」と言われても、自分が精一杯、でかい音で鳴らしたい以上、絶対に、でかい音で鳴らすのである。で、それは、一分だってゆずらないということになっている。
これはもう、そうなっているから、そうなっているというような頑固さで、絶対にどんなことがあっても、どんなことを言われても、譲らない。だから譲ってないのに、本人は、「ゆずってやった」「ゆずってやった」「静かにしてやった」「静かにしてやった」と言って、ゆずらないことになるのである。譲らないんだよ。これもまた。
で、親父と同じで、自分がそういうふうに言って「切れちゃったら」それで、お・し・ま・い・なんだよ。どれだけもめてたって、それでおしまい。兄貴は、むすーーっとした顔をして、二階に行って鳴らす。普段通りに、ばかでかい音で鳴らす。だから、鳴らしているのに、……入学試験の前だって、中間期末試験中だって鳴らしているのに、「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」って!!なる!!!! じゃあ、ヘッドホンをして静かにしてくれるのか、鳴らさないで静かにしてくれるのかというと、それは、一秒だろうが絶対にない!!
そういう毎日だ。で、本人が思う存分、好きなだけ、鳴らすことができるなら、一秒も我慢しないで、普段のでかい音で鳴らし続けることができるなら、「そんなのやってない」「静かにした」「静かにした」ということになる。で、そういう「あたま」は、こっちがどれだけなにを言っても、どれだけ激しく喧嘩しても、言い合いをしても、まったく変わらないんだよ。
一〇年、二〇年、三〇年、ずっと、毎日そういう「あたま」だ。毎日毎日、そういう「あたま」ですごしていて、まったくなにも変わらない。「やめてくれ!うるさい!!静かにしろ!!」と怒鳴り込んだ最初の日から、一四年と六〇日目まで、まーーーったくなにもわからない。
だから、一四年と六〇日間やっているのに……どかどか非常識なでかい音で鳴らしているのに、一四年と六〇日間どかどか非常識なでかい音で鳴らしたと言われると、「そんなんじゃない」「静かにしてやった」とむすーっとした不機嫌な顔で言うことができるのである。ぜんぜん、悪いと思ってないんだよ。こういうしくみがズーーーっと成り立っている。毎日毎日ずーーーーっと成り立っている。
こまるーーーー。ほんとうにそっくり。無視すれば、どうにかなることじゃなかったんだよ。無視しているあいだも、きちがいヘビメタが俺の体をむしばんだ。そして、むしばまれた結果、生まれたあれやこれやに関して、俺が、だめ出しをされる。責任追及される。「最初からそんなものだ」と思われる。「ヘビメタ騒音?がなくたって、そんなものだ」と思われる。こんな屈辱のなかで、生きていけるわけがないだろ。けど、これも、僕とは違う個体にとっては、どうでもいいことなんだよ。本当にどうでもいいことであるわけ。
2016年9月4日日曜日
これと、朝のしんどい状態がある以上、だめだな
なんか、野菜が欠乏している感じがする。ビタミン剤は飲んでいるんだけど、効かないのかな? いや、そういう問題じゃないか。ヘビメタ騒音騒音問題に絡んだ意欲の問題なんだよな。だって、からだの調子が、「騒音で疲労ピーク状態」と同じだから。この雰囲気、この雰囲気……。
「もうやっぱ、だめか」と思う。もう何回も思っているんだよな。小便に起きたとき、思った。小便をしようと思って、体が動かないので横になっているとき、そう思った。本当に地面にたたきつけられているようなしんどさがある。くるしいんだなぁ~~。
ダイヤ、同じだよ。ヘビメタ騒音……。
あのときと同じだよ……。しんどい。死にたい。つかれた。
本当、つかれたな。このつかれは、どうにかなんないのかぁ??
これと、朝のしんどい状態がある以上、だめだな。これ、本当、言いようがないんだよな。ヘビメタ騒音生活五年目あたりからの、ひどい疲労が……積み重なっている。累積赤字。日に日に良くなっているんじゃなくて、日に日に累積赤字がたまっていく状態なんだよな。
もう、回復機能がフル回転して、それで、ヘビメタ騒音五年目あたりに、こわれちゃったんじゃないかな。そんな感じがしてならない。で、この疲労とか、朝のだるさと言っても、他の人にはわからないんだよね。そりゃ、多少の騒音を経験したことはあるだろうし、だれだって、通勤に二時間かかるようなところに通っていたら、累積疲労がたまってくるわけだけどさ。けど、そういう人でさえ、きちがいヘビメタ騒音に、ずっとさらされているわけじゃないんだよな。何年間もずっとさらされていたわけじゃないんだよな。帰れば、ちゃんと眠れるんだよな。ひどい残業常態は抜かして。
だいたい、きちがいヘビメタが、日曜日と土曜日に、増えてしまうというのが問題だ。これが、地味に問題だ。一番問題だ。き・れ・め・な・く、続いているわけだからな。休みの日が、休みにならない。休みの日に、きちがいヘビメタ騒音を浴びて、狂ってしまう。つかれてしまう。きーーってなっている状態だ。ヘビメタ騒音も、高音のキーーーーという音があるけど、こっちの気持ちがキーーーってなるんだよ。なりっぱなしなんだよ。なっているあいだずっと……。くるしいんだよ。鳴っているだけでくるしいんだよ。
あれ、きちがい兄貴は、「鳴らしてないつもり」だったのか? 俺は、夏休みもそのあとも、一日に、何回も何回も怒鳴り込んで、さんざん言ったからな!!! こういう、マジック。一日に何回も何回も、言われているのに、本人は「知らなかった」「そんなの知らなかった」とまじめに言える。頭がおかしいから。
どれだけの意地で鳴らしたと思っているんだよ。どれだけの意地で排除してきたと思っているんだよ。これ、親父の態度と、ほんとうに~~~に、同じなんだよな。自分にとって不都合なことを言われたときの態度と同じ。自分がやっていることを、やめてくれと言われたときの態度と同じ。血相を変えて、顔を真っ赤にして、目を三角にしてして、黙りこくって、やるんだよ。
それで、「やったつもりがない」。「やった」と言われると、「やってないやってない」ってなる。頭がおかしい。本当に、頭がおかしい。そういう態度で、やりきる。その時、こっちが意地を通して、やめさせるとしたら、殺さなきゃだめなんだよ。問答無用で……。
だいたい、相手は、発狂して、一切合切口を利かないで、やりきるわけだから……それで、「やってやってない」「そんなんじゃないそんなんじゃない」だからな。これ、親父がやり始めたことなんだよな。些細なことで、全部、そうする。きちがい的な維持がかかっている。どんな些細なことでも、きちがい的な意地がかかっている。絶対におれない。
きちがい的ないいわけをして、やりきる。……やっている最中は、口を利かないけど……都合が悪いから口を利かないけど……前後の会話かある……場合がある。電球事件だって、自転車事件だって、ハンダゴテ事件だって、そりゃ、前後の会話がある。か・い・わ?? 会話とは言えないものなんだけど、やりとりはある。で、それがまた、頭がおかしい前提があるんだよな。自分が認めたくないものは、どれだけ明らかなことでも、やったことでも、やってないことになっている前提というのがあって、本人は、嘘をついているつもりがない。
けど、それは、いっくらなんでもおかしいという前提なんだよな。けど、そういう前提があるということは、本人よって、明言されない。隠された前提なんだよね。で、その隠された前提というのは、普通に、自分がやったことを認知できるのであれば、おかしいことなんだよ。けど、ぜんぜん、おかしくないと思っている。で、話がずれる。頭がおかしいから。頭がおかしい人の、隠された前提っていうのは、知覚・認知システムを無視している。おりまげている。
本当に、「やったってやってない」が成り立っている。頭がおかしい。強烈に自分にとって都合がいい前提で、現実を無視する。もちろん、現実を無視しているということは、本人にはわからない。だから、本人は、矛盾に気がつくことが永遠にないんだよね。……そういうやり方なんだけど……親父がやりはじめて、きちがい兄貴が、ヘビメタ騒音に応用した。※ヘビメタ騒音をやっているときの態度というのが、親父の態度と同じなんだよ※。ヘビメタ騒音を鳴らしているときに、「やめてくれ」「静かにしてくれ」と言われたら、親父と同じ態度で、対応してくる。
対応してこないといった方が良いのか? ともかく、些細なことに関する親父の態度は、ヘビメタ騒音に関するきちがい兄貴の態度とまったく同じ。で、本人がまったく気がついてないというのもまったく同じ。こういう態度でやったことは、本当に「やったってやってない」が成り立っていて、自分がやったことじゃないのである。じゃあ、やめてくれるのかというと、それは、絶対にないという困った態度なんだよな。
そりゃ、そういう人間が家族にいない人にとってみれば、「そんなのどうでもいいじゃない」「無視すればいいじゃない」ということになるんだろうけど、そうはいかない。きちがい兄貴は、きちがい親父のことは、ものすごい意地で無視したんだよ。それこそ「無視すればいいじゃない」というような助言を実行したわけ。「無視しなければ」、本当に自分の心が壊れてしまう。
これ、本当に、こわれる。
尋常なシステムが成り立ってないわけだから。しかも、相手は、親という特権的な立場を持っている人間なのだから。そして、こどもと親の年齢差がある。こども側の人間が小さいときのこの年齢差は圧倒的だ。で、親父の一番「みにくい部分」が、小さいこどもの上に、のしかかる。暴力がともわなくても、暴力的なんだよ。発狂状態なんだから。
きちがい親父にとっては、絶対の意地で通したいことなんだから。この、絶対の意地で通したいことというのが、むちゃくちゃなんだよね。これ、絶対、普通の人にはわからないんだよな。一〇〇〇〇分の一でも、当時の親父にやられたら、わかるんだけどね。「なんだ!!あいつはぁ!!!」と発狂して、ゆるせない状態になる。普通の人だってゆるせることじゃないのである。
けど、そういうことを何万回、何億回、何兆回とやられた人間に、「親をゆるせ」ということをいってくる場合があるんだよな。「親をゆるせ」と強要してくる場合がある。本当にぜんぜんわかってないんだからな。だから、エセスピ系(似非スピリチュアリズム系)の人は……。嫌なんだよな。本当にわかってないから。似非じゃなくて、スピリチュアリズム系の人はわかっている。わかっている人は、わかってるんだよな。だから、似ているようでも、言っていることが一八〇度違うということになる。
2016年9月1日木曜日
自我は感知してない。自我の記憶には残らない。
2016年8月31日水曜日
どうしたらいいんだろうな? このつかれやすさは……
本当につまんねぇ。
横になるか。つかれた。めちゃくちゃにつかれている。
どうしたらいいんだろうな? このつかれやすさは……。
本当、ボロボロだよな。旅行なんて行きたいとも思わない。いや、ちょっと行きたいかも。けど、これは、なんて言うかな本当に行きたいわけじゃない。実際には行かない状態で、「そんなのもいいかもな」と考えるだけだ。具体的な話しじゃないんだよ。
俺の生命力は、きちがいヘビメタに吸い取られたからな。本当にくるしい。
あれからずっとくるしい。くるしいだけだな。
ああっ、そうだ。ビタミン剤を買ったよ。あとは、ローヤルゼリーというのをはじめて買った。元気が出ればいいな。期待!
お弁当でも買ってくるかと思ったけど、お弁当は本当に揚げ物が多いな。昔の俺にとっては、一番安い「のり弁」を買うのも勇気がいったことだけどな。いまは、揚げ物弁当をみても、なんと思わない。というか、あんまり食いたくない。冷凍食品のほうがうまい。
2016年8月28日日曜日
夏はなんかMOT(マイクロソフトオフィシャルトレーナー)の試験を受けてた
そういえばさぁ~~。夏はなんかMOT(マイクロソフトオフィシャルトレーナー)の試験を受けてたな。けっきょく、ヘビメタ騒音で睡眠回路を壊れていたから、むだになっちゃったよ。あの朝の感覚はない。何年我慢したと思っているんだ。ヘビメタ騒音がなかったら、MOTなんて受けてないと思うけど、受けたら楽勝だ。そして、通勤できる状態だったら、通勤してたんだろうな。
ヘビメタ騒音がなかったら俺は普通に大学講師かあるいは教育関係の仕事をしていただろうから、(あのとき)NHKにも出れた。それから、そういう立場であれば、商業出版も楽だっただろう。
つまんない。全部、ボロボロだ。
いまでもまぶたに浮かぶ、きちがい兄貴の態度!!! 本当に、入学試験の前にどれだけ頼んでも、一分だって静かにしてくれないんだからな。あれで、「静かにしてやったつもり」なのかよ。だから、きちがい兄貴!!おまえは、そういうところで、ズレてるんだよ!!!! きちがい兄貴は、親父と同じ!! 本人はまったくそのつもりがないし、そんなんじゃないと言い出すだろうけど、まったく同じ。まったく同じ態度だ。どれだけなにを言っても、自分の「はいっちゃった」考えにこだわって、一切合切認めずに、自分がやりたいことをやる! それで、本人はゆずってやったつもり」なんだよな。
そういうの、何十年もやられてみろよ。そういうの、何千日、何万日とやられてみろよ。どれだけのことが積み重なるか。やられた方には積み重なる。だって、本当に「毎日」同じようにそういうふうになってしまうのだから。毎日、なにかと、そういこうとになってしまうのだから。
それで、やっている本人は、蚊帳の外で、自分はまったく関係がないつもりでいる。
じゃ、譲ってくれるのかというと、それはもう、絶対にないんだよね。だから、絶対に譲らないと言うことを常に選択しているのに、常に本人は、譲ってやらなかったという意識がない。だから、対人関係がめちゃくちゃになる。けど、そういうことをやるのは、家族に対してだけなんだよ。「うちでだけ」なんだよ。
「よそ」じゃ、ゆずっている。「よそ」でゆずったぶんだけ、「うち」では、死んでもゆずらないのである。しかし、自分がそういうことを、強い意志で「選択している」という気持ちがない。認識もまったくない。だから、やられた方は、ものすごく、いやな思いをする。そりゃ、やられっぱなしなのに、……相手はやったつもりがまるでないということになっているのだから、やってられないだろ。
ガチゴチにはまっているのに、「それだけ」は絶対に無視なんだよ。ガチゴチにはまってやったことは、どれだけなにを言われても、「そんなのは知らない」「そんなんじゃない」と真顔で言えるようなことなんだよ。で、その真顔で言った一分後に、その問題行為をしても、まったく矛盾を感じない。そういうところで、精神異常者なんだよ。これ、本当、やられた人じゃないとまったくわからない。ふーーーつーーーーに!!そうだから。毎日ずっとふつーーーにそうなんだよ。そうじゃないときがないんだよ。「うち」にいるのに、そうじゃないときがない。そうじゃないモードになっているときがない。普通に全部やりきる。
で、まったくなにもやったことになってない。必要以上にゆずってやったと思っている。本当は、自分のやりたい気持ちが傷つくようなカタチで、我慢するということがない。これは、まったくないんだよ。だから、やっているのだけど、本人だけは、絶対になにもやってないつもりなんだよ。「つもり」だけは。
だから、そういう人が家族のなかに二人いる状態だと、普通の人は、全然わからない話になる。「そんなの、本人に言えばいいのに。なに、ぐちぐち言ってんだ」という気持ちになる。死にたい。二人いるんだからな。一人じゃないんだからな。二人いる。四人家族で二人。どれだけの確率か。あーー、死にたい。で、意地になってやったことは、たとえ、一〇年間毎日やっていても、二〇年間毎日やっていても、ぜーーーぜん、やったつもりがしょうじないんだよ。「そんなんだったのかなぁーー」みたいな感じしかない。これ、最大限相手に譲歩して、これだからな。自分がまったく責任を追及されないなら、「そんなんだったのかなぁ~~」みたいな気持ちになるときは、あるみたいなんだよな。けど、自分にちょっとでも責任がかかるとなったら、そういう気持ちすら、一切合切沸かないのである。
自分がちょっとでも責任追及されそうなら「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!なんだぁ!!!なんだぁぁ!!!」とあれまくる。……そういう態度で、鳴らしたんだよ。そういう態度でやりきったんだよ。やっているときに、「やめてくれ」「ゆずってくれ」と言われたら、もう、逆上して、顔を真っ赤にして、発狂して、やっちゃう。兄貴よ、おまえ、全然わかってないだろうけど、きちがいヘビメタをやっているときに、「やめてくれ」と言われたときの態度、状態は、ハンダゴテ事件の時の親父の態度、状態そのものだよ。あぶらあせをかいて、顔を真っ赤にして、発狂して自分の言い分を通す。やりたいことをやる!!
で、それがすぎてしまえば「そんなことはない」というのが始まる。
で、これを一日に何十回繰り返しても、トータルでは、「なにもしてない」「そういう争いはまったくなかった」ということになってしまうのである。トータルで、全部やりきっているからな。自分の気が済むカタチでやり通しているから!「そんなんじゃない」「やってない」ということになってしまう。話が一切伝わらない。全部そういうことだから。毎日何十回、きちがい兄貴の部屋に「やめてくれ」「宿題をするからやめてくれ」「勉強をするからやめてくれ」と言いにいっても毎回同じだったよ。毎回同じなんだよ。きちがい兄貴が、鳴らしたいときに、「やめてくれ」と言われたから「やめてやった」なんてことは、一回もないんだよ。一五年間毎日で、一回もない。毎日同じ反応だからな。ヘッドホンをしてくれたこともない。
まあ、これは、一日だけある。一〇分間ぐらいヘッドホンをした。けど、そのあとは入試だろうが、一分もヘッドホンをしてくれなかった。「感じが出ない」からだ。ふざけんな!! そうやって、そういうレベルでこだわって、俺の勉強の邪魔をしているのに、……ずっとずっと、勉強の邪魔をしているのに、まるで、勉強の邪魔をしたつもりがないんだよ。「うるさくしていた」と言えば、きちがい親父のように、言葉だけに反応して「静かにした、静かにした」だよ。言葉だけに反応してと言うのは、自分のそれまでの行いを省みることがない状態で、ともかく、言葉だけに反応することだ。相手が言ったことを、「そうじゃない」と否定してしまえば、それで済んでしまうのである。事実を知っている人にとって見ればこういうことが、屈辱なんだよ。あれだけ、むきになって、あれだけこだわって、あれだけ長い時間、何回も何回も逆上してやっておいて、それかよ!って気持ちになる。
本当は、言われたあともずっと勉強の邪魔をしているのに、ぜんぜん勉強の邪魔をしていると思わないんだよな。たとえば、一日に一四時間鳴らした日は、一四時間全部!勉強の邪魔をしている。今日は八月二八日で、夏休み終了三日前だけど、毎年、夏休み最後の日も一四時間鳴らせるなら、フルに一四時間!……一三時間しか鳴らせない状態でも、フルに一三時間鳴らしている。だから、一日中鳴らして、一日中勉強の邪魔をしている。言わないからわからないのかというと、そうじゃなくて、俺は、一日に何回も何回も何回も「勉強の邪魔だから鳴らすな」「宿題をするから、鳴らすな』と怒鳴りこんでいる。ちゃんと、きちがい兄貴にわかるように言っている。けど、どれだけどれだけ、強く言っても、きちがい兄貴にはつうじない。
それは、きちがい兄貴がきちがい兄貴だから、通じないのである。
しかし、他の人にはそれがわからないから、「あなた(俺)が言わないから、ダメなんじゃないか。言えばわかってくれるよ』というような感想を持つ。それは、たとえば、教師にヘビメタ騒音のことを相談した時、明らかになる。常にそういう返事だった。これは、中学高校を通じてずっとそうだった。教師と言ってもひとりじゃなくて、相談した教師は、そういう反応しか返してこなかった。※普通の人には、きちがい兄貴の意地はわからない※。
どういう「あたま」でヘビメタを鳴らし続けているのか、それがわからないのである。これもしつこくなるけど、一番わかってないのが、きちがい兄貴だ。ほんーーーとーーに、不思議なんだけど、こっちがどれだけ言っても、ぜんぜん悪いと思わないんだよな。実際に一分でもゆずるのはいやだから一分もゆずってやらないという態度で、踏ん張って、こだわってこだわって、しつこくしつこく、鳴らしているのに、本人は、そうやって、一日中鳴らした時も、「鳴らしてない」という気持ちでいる。頭がおかしい。そういう構造で、俺がどれだけ苦しんだと思っているんだ。
兄貴のヘビメタ騒音なんて、子供の成績に関心がある普通の親だったら、絶対に一日目に、やめさせているんだよ。あんな音で鳴らす一日が、ずっと続くなんてことがおかしいんだよ。きちがい兄貴よ。いま住んでいるところで、むかし、夏休みに鳴らしていたような音で、夏休みに鳴らしていた時間の長さ、鳴らしてみろ。一日で、どうなると思うんだよ。
きちがい兄貴よ! 相手がどれだけ、「やめてくれ」「うるさいからやめてくれ」と言ってきても、それを無視して、あの音のでかさで、一日中鳴らしたら、どうなると思うんだよ。そういう想像力がないのか。これ、「うち」でやったことに関してはまるで悪いと思わないんだよな。本当に筋金入り。頭がおかしい。うちの兄貴は頭がおかしいレベルでそういうことがわからないということが、他人にはわからない。ヘビメタ騒音の被害者じゃない人たち!ヘビメタ騒音問題とはまったく関係がない人たちにはわからない。想像はつくかもしれないけど、本当のところはわからない。だから、俺が悪く言われる。
兄貴の認知構造がおかしいことに、責任なんて持てるわけがないだろ。親父の認知構造がおかしいことに、責任なんて持てるわけがないだろ。なにが自己責任だ! ふざけるな!!
2016年8月27日土曜日
毎日毎日、六年間鳴らされた時点で終わっている
* * *
比較的涼しい。腹も痛くないし、胸も痛くない。いいはず。けど、頭がモヤモヤするな。「時間」を壊された。ヘビメタ騒音障害のなかででかいのは、いくつかあるけど、いままで、説明してこなかったもののひとつに、「時間の破壊」がある。これは、睡眠障害と関係はあるけど、睡眠障害そのものではない。いや、そのものと言っていいのだろうか。自分の時間がもったいないという感覚と、だるいまま、暇なまま時間がすぎてしまうという感覚がある。
ああ、やっぱり、睡眠障害そのものだ。睡眠障害の一部だ。これは、強烈に人間関係に影響を与える。つきあう時間がなくってしまうのである。全部が「あわない時間」になってしまうのである。しかも、鳴らされている限り自分でどうにかするということができない。どれだけどうにかしようとしても、結果として、どうにもできない。そういう焦りやだめさがある。これも、言いがたいな。これを、説明できるほど成長してない。これ、説明できないな。
鳴っていると言えば、鳴っているというそれだけのことなのだけど、一日中鳴らされるということが、連続的な精神、連続的な生命活動に与える影響がでかすぎる。いま、夏休みだから、遅くても、朝の九時一五分から鳴らされているという状態になる。いまの時間……午前一一時五二分……きちがいヘビメタが、人が絶叫する声より何倍もでかい音でキースか鳴ってた。一四時間近くなっているんだよな。それで、「ゆずってやった」「そんなに鳴らしたつもりはない」ということになっているんだからな。じゃあ、午前一一時五二分に「やめてくれ」と言ったら「やめてくれた」のか? そんなの無視して、ずっと鳴らしてんじゃないか。そういうことの積み重ねが、俺の身体をむしばんだんじゃないか。俺の時間感覚をむしばんだんじゃないか。……これ、ほかのひとにはわからない。わかったところで、どうでもいいことだ。「ちゃんとして」「しゃっきりして」「元気出して」と言われるだけだ。けど、苦しい。苦しいから、苦しい。
自分がこだわってこだわって、細部に至るまでこだわって、絶対に譲らなかったことなのに、「ゆずってやったつもり」でいる。頭にくる。全部、そういうカタチでやりまくる。鳴らしまくる。鳴らし終わったら……午後一一時一五分になったら、一日中、静かにしてやったつもりになる。日中、二〇回、三〇回と、「鳴らす」「やめろ」と怒鳴り込まれているのに、一回も怒鳴り込まれたと思わない状態になっている。なにも言われなかった」状態なのである。横の部屋の弟は、一切合切文句を言ってこなかったと思っている状態なのである。毎日リセットだ。だから、本人は一四年間そんな状態で暮らしていても、まるで、「迷惑をかけた」と思ってないのである。そういう状態。そういう人間。
他の人には、これがわからない。言えば、静かにしてくれるものだと思っている。それが常識。「言わなかったおまえが悪い」と言ってくる。自己責任自己責任。頭にくる。
2016年8月26日金曜日
ヘビメタ騒音について、「人のせいにするな」と言ってくるやつは、みんな、「人のせいにしやすい人」
* * *
失敗する可能性がある手術を受けて、失敗したというような場合は、僕は、自己責任だとは思わない。まあ、突きつけられる現実はあるけどさ。けど、たとえば、大学に通っていて、友達ができないから別の大学に行く(受験し直す)というようなことを選択した場合は、自己責任だと思うよ。だいたい、新しく大学を受けるために金が必要だし、新しい大学に受かったら入学金を払わなければならない。
さらに、前の大学(いま現在通っている大学)の入学金がむだになってしまうのだ。これは、本当に、自分の意志で選んで、他人が関わらない場合の話しだろ。他人に「あずける」部分がある場合は、違うと思う。いまの大学に通い続けて、そのままその大学を卒業するか、新しい大学を受けてそこに入学し直すかというような、二者選択の場合と、手術など他人が関わる場合の話しは違うと思う。
しかし、厳密なことを言えば、大学に入り直すということだって、他人は関わっているとは言える。
たとえば、親が入学金を負担するのならば、親が関わってる。けど、それと、手術がうまくいくかどうかというような場合は、違うと思うな。手術の場合は、医者(他人)が関わっている。手術を受けるにしろ、受けないにしろリスクがあるのだから、それは、違うだろう。あってはならないことだけど、医療ミスだってある。だから、そういう部分で他人が関わってる場合の自己責任と、そういう部分で他人が関わってない場合の自己責任は、峻別しなければならないと思う。
だいたい、ヘビメタ騒音について、「人のせいにするな」と言ってくるやつは、みんな、「人のせいにしやすい人」なのである。
僕の立場を言っておくと、僕は、人に「自己責任」「自己責任」とは言わない人間だ。ただし、ヘビメタ騒音について、「人のせいにするな」と言ってくるやつには、その言葉を、そいつにそのまま、お返ししたい。そいつは、なんらかのことで俺に腹を立てているけど、それは、自己責任じゃないのか?と問いただしたい。
だから、まあ、そっちがそう言うなら、こっちも、という話だ。
だから、なんていうのかな、他人が関わることで不幸な目に遭っている人に、「自己責任自己責任」といった言葉を投げかけるようなことはしない。その人なりの事情がいっぱいあるわけだからさ。どこまで、自己責任なのかわからないわけだからさ。けど、俺に対して、「自己責任」と言ってくるやつがいたら、そいつに対しては、「自己責任」という言葉を投げ返してやりたいだけだ。
けど、僕のブログを読んだ人が、こいつは(自分のことについて)自己責任だと言っていると思われるのはいやなんだよな。他人が関わることに関しての選択ミスは、不当にその人を追い詰めている場合がある。この「自己責任」という言葉だけどさ、全然良いものだとは思わない。むしろ、なんか、いじめのような感じさえする。困っている人に対してその言葉を投げかけるのは、なんかフェアじゃない。困っている人に「自己責任」という言葉を投げかけること自体が、悪い行為なのではないかと思う。特に、他人が関わることに関しては……。自分の選択だけで終わらない話の場合は……。
だから、僕は、俺に対して「人のせいにするな」と言ってきた人には、「おまえの選択の結果!俺に腹を立てている。自己責任だ」と言ってやりたくなるけど、他の人には、言いたくない。そのような言葉を、気楽に使いたくない。なんてたって、本当に人にはそれぞれ事情があるからな。(俺に対して「人のせいにするな」と言ってきた人の事情は、自動的に考えなくていいことになっている。そいつが俺の事情を考慮しなかったのだから。)
2016年8月24日水曜日
選択肢と選択肢をうばう騒音
* * *
確かにヘビメタ騒音は他の人たちにとって「どうでもいい問題」なのだが、でかすぎる。でかすぎる。あの七年間はない。これ、平日七時間、休日一二時間の、連続騒音がどれだけの影響を与えるか、すぐに考えられる人と、考えられない人がいるんだよな。不思議なことに、学歴とか社会的地位とかIQはまったく関係がない。
ただ、「そういう騒音の影響があったらどんなことになるだろう」ということを普通に考えられる人と、考えられない人が出てくる。平日月曜日から金曜日まで、自分が家に帰ったときから、自分の嫌いな音が、人が絶叫するよりもずっとでかい音で鳴っている……五時に帰ったら、六時七時八時九時一〇時一一時と、ずっと鳴っているということがどれだけの影響を与えるか、わかる人とわからない人が出てくる。まあ、僕の場合は四時に帰ったらということなんだけど、一応、五時に帰ったらということにしておく。社会人の場合を考えて六時でも七時でもいい。「明日も仕事があるのに」……ガシャガシャ・ドンドン・キーキー、許しがたい音で連続で鳴っている。相手が騒音きちがいでなにを言っても通じない……。こういう状態で、会社に通うというシーンを想像できる人とできない人がいるんだよな。
次の朝、どれだけつらいか、想像できる人とできない人がいる。そういう騒音生活をしているわけではないのに……つまり、普通の生活をしているにもかかわらず、会社勤めが限界になる人なんて、そういう騒音生活が始まったら、一ヶ月ももたないだろう。土曜と日曜のことは説明してないけど、平日以上に長い時間!鳴る。土曜日に半日出勤があるか、それとも、完全に休みかでちがうのだけど、休日は、祝日を含めて、ずっと、朝の一〇時から、夜の一一時まで鳴るという生活だ。言っておくけど、週休二日で、残業なしでねをあげている人が、耐えられるようなことじゃないのである。そういう人は、どれだけがんばっても一ヶ月でつぶれると思う。俺は、六年と半年、耐えた。そういう生活に耐えたのだ。
それだけでも、普通のやつよりも、根性があると言っていい。
これ、ちがうのである。僕の身の上に、実際にそういうことが起きたので、僕が弱くなって、普通の生活ができないようになっているから、弱く思われるのだけど、じゃ、実際、上に書いたような騒音生活をして、どれだけの人が、朝七時四〇分には起きて、通勤通学できるというのだ? いったいどれだけの人が??
歴史的に見ても、そういう人が俺以外にいないから、他の人は、まったく状態がわからず、間違った判断をしているのである。週休二日の普通の出勤でねをあげる人が、実際に、そういうことが始まったら……そういう長い時間騒音にさらされるという生活が始まったら、どれだけ長く、出勤できるんだよ? 土日と、合計で二四時間以上鳴らされて、月曜日、遅くても朝の七時三五分に起きて、出勤するということがどれだけ苦しいことだと思っているんだよ?
この苦しさを、普通に想像できる人と、できないひとがいるんだよな。普通に想像できる人は、自分の体力状況やそれまでの自分の騒音体験などを考えて、リアルに「自分がそういう目に遭わされたら(こういうことになってしまうだろう)」ということが、想像できる。そうでない人は、「なんだ!そんなこと?!」と思って、自分に当てはめて考えるということをしない。こういう違いはでかい。自分に当てはめて、リアルに想像することができない人が、俺を馬鹿にする。
本当は、自分だって(その人だって)実際にそういう騒音生活が始まったら、一ヶ月でねをあげると思う。どれだけ通おうと思っても通えなくなってしまうと思う。俺は、それを、小さいからだで、何年も耐えてきた。こういうことがわかってないやつがいる。で、一番わかってないやつが、きちがい兄貴なんだよ。二番目はきちがい親父だ。一緒に住んでいるやつが、一番わかってない。張本人が、一番わかってない。どうしてかというと、こだわってこだわってやったことは、やってないことになっているからだ。こういう、しくみが……これまた、わかる人とわからない人が出てきてしまうのである。わからない人には、わからないから、わからない。「そんなのは、ないんじゃないの」というような前提が、どこまでもどこまでも、尾を引く。素直に、「そうだったら」ということが考えられない。素直に、もし、自分の身の上にそういうことが発生したら……そういう生活を、強いられたら……どんなことになるか? ということを、考えられないのである。どうしてかというと「そんなことはないから」だ。ここら辺の想像力のあるなしは、僕に対する態度に直結する。
きちがい兄貴、おまえのせいで……。きちがい兄貴、おまえが、頑固にやり切るから。頑固に無視してやりきるから、他のやつとも、対立が生じてしまうよ。そして、対立云々よりも、「普通に通うことができない」のだから、無職・引きこもりになるしかないのである。これも、きちがい兄貴は、自分がやったことが、直接影響しているということが、一五年間、わからないままやり続けた。毎日やり続けた。きちがい兄貴が発狂的な意地で毎日無視し続けたポイントだ。毎日、毎時間毎分、毎秒、どれだけ言われても、かならず!無視したポイントだ。やっている最中、どれだけ何万回言われても、自分がやっていることで弟が困っているということがわからないのである。この「わからなさ」が他の人にはわからないから、俺がとやかく言われるわけだろ。「そんなのは、言えばいいのに」とか。きちがい兄貴はきちがい兄貴だから、二〇年経っても、三〇年経っても、わからないんだよ。「そんなんだったのかなぁ……」ぐらいの気持ちでいる。あれだけ意固地になって、選択して!!!頑固に、いつも鳴らし続けたのに!!
あとは、「人のせいにするな」だけど、これを言っているやつは、ほんのちょっとの助言で「自分が傷ついた」「腹が立った」「失敗した」と、人のせいにする。助言なんて、信じるか信じないかは自分の判断でどうにでもできることだ。どれだけ言っても、鳴り止まないという状態とはちがうのである。選択肢がある。「人のせいにするな」ということを(俺に)言ってくる人は、本当に小さなことで怒るし、俺のせいにする。やつらからみて俺は、他人なので、俺のせいにするということは、人のせいにするということだ。
選択肢を持っていて、その中から、自分にとって良い結果になる選択肢を選べなかったという話しではないのである。ヘビメタ騒音の話しはそういう話しではない。けど、選択肢を持っていて、自分の意志で選んだにもかかわらず、失敗したから、人のせいにするような人が、「人のせいにするな」と言ってくる。それこそ、人のせいにしている。そういうのを、「人のせいにする」って言うんだよ。きちがい兄貴があきらめてやめない限り、ヘビメタ騒音生活以外の生活を、選ぶことができないんだよ。選択肢がないんだよ。そして、きちがい兄貴が実際にやっていること(やっていたことが)原因で、困っているんだよ。ぜんぜん違うだろ。わかってないな~~。
俺の場合は、ヘビメタ騒音だったけど、ヘビメタではなくてもいいんだよ。自分が嫌いな音が、あるいは、普通の音で鳴っていれば中立的な音が、人が絶叫する音よりもでかい音で、ずっと鳴ってたら、困るだろという話だ。そういう生活について、想像できるかどうか、これがポイントだ。もし!!自分の身の上にそういうことが発生してしまったら、普通に通うことができるだろうか? 通い続けることができるだろうか? そういうことを考えることができるかどうかで、俺に対する態度が一八〇度ちがってくる。
そういうことを考える能力が欠落しているやつは、俺とは仲が悪くなる。その人が教授だろうが無職だろうが同じだ。
2016年8月23日火曜日
おもしろくな~~~~い
おもしろくない~~~~
僕はむかし、チャンスがあったのに棒に振っている。
まあ、いいや。どうするかな。一日がなんか苦しいんだよ。
ともかく、寿司食ってくる~~~
寿司しか希望がない~~~
今日やったこと
敷きパッドの洗濯
新しい敷きパッドを布団にかける
ごはん
あ、これだけ??
しかし、どうするかな。意味がない。
なんか、いろいろ考えようとするのだけと、考えられないな。それにしても、思い通りにはいかないな。思い通りにいかないのが現実。思い通りにいかないのが人生。
ふ~~
つまんないな~~
つまんない。顔出ししたり、youtube系でもやるかな。どのみち人生なんて……。
商業出版する機会もあった、NHKに出る機会もあった。ほぼ理想通りの人とつきあう機会もあった。全部、ヘビメタ騒音でない。
自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。

●ヘビメタ騒音というのは
ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。
あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。
俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る
日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!
「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!
各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。
ぼくはまけない
「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。
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認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。

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用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。
