2016年10月18日火曜日

どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじ

やっぱり、起きたあと「俺はどうなってしまうんだ」と言うことを考えるなぁ~~。はっきり言って、この時間はむだだ。完全にむだ。むだむだむだ。けど、「俺はどうなってしまうんだ」と考える時間が長い。長すぎる。本当にむだな時間なんだけど、やめるわけにはいかない。

どうしても、ヘビメタ騒音のことを考えてしまう。朝の光を見たとき、そうなる。朝の雰囲気というのは、きちがいヘビメタ騒音の朝の雰囲気そのものだ。で、これはたぶんぼくが生きている限り続くと思う。脳みそに、きざまれすぎ。若いときの脳に、きざまれたものは、なかなか消えないんだな。本当に、きちがい騒音できざまれた。きちがい兄貴はまったく気にしてないけど、きちがい兄貴が「好きな音でやって良い」という法はないんだよ。きちがい兄貴は、無理矢理そういうふうに思って、そうし続けたのだけど……。これ、本当は、ひとこと、言えばわかることなんだよ。ひとこと!!! そのひとことが、一四年間も通じない。それ以降も何十年と、伝わらない。本当に、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部!!!!!……本当に全部が全部!!!……やってないと思っている状態だからな。頑固にそう思っている状態だ。で、やっているときも……まさに鳴らしている最中も……そういう状態なんだよな。だから、どれだけやったって、「ソンナノシラナイ」ということになる。どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじなのである。だから、(いまの)自分は、知らないことなのである。他の人がやったことなのに、なんで、俺に文句を言ってくるんだ」みたいな気持ちがある。本人は、やってないつもりなので、そうなのである。まさに、鳴らしているときから……そうなんだよ。で、言われたら、言われた途端に、真っ赤な顔をして怒る。これも、親父とおなじで、どれだけ、「うるさいからやめてくれ」と言われても、理解しない。「うるさい」という感情がまったくわからない……という態度なのだ。自分が鳴らしている音が「物理的にでかい音だ」ということを、まず認めない。そこからなんだよ。じゃ、本当にわかってないのかというと、そうではないのだ。実際、いま、兄貴が住んでいるマンションでは、そういう音で鳴らせない。これは、一〇年、二〇年で、一分も鳴らせない。そういう音なのである。鳴らしてない、……あるいは鳴らせないということから考えて、物理的にでかい音だと言うことは、きちがい兄貴はわかっていたと判断するべきなのである。しかし、当時の兄貴には、それがわからない。どれだけ、何回言っても、……まるで親父のように……わからない。で、「まるで親父のように」と言ったって、他の人は、本当にわからない。うちのなかで、「親父」がどういう態度だった……どういうことをしたか、他の人にはまったくわからないようになっているのである。で、これも、親父自身は、「まったくつもりもないし、やってない」と思っているのである。ごく自然に、いつもいつも、「そういう態度」で「かならず、爆発していたのに」、本人は、つもりがないし、やってないのとおなじ気分でいるんだよな。で、そういう「うそ」が日常的に成り立っている。本当に、あれだけ、こだわって、理由もないのに、何回も何回も、やったことなのに、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」ってなる。で、やっているときから、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」って言いやがるんだよ。「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上すれば、それで、「やってないことになって、親父の言い分が通った」。……殺してしまうわけにはいかないのだから、そうなる。真実として、やったとしても、きちがい親父が「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上してしまえば、親父のなかでは、「やってないのとおなじ」ということになる。認知、認識、記憶、どれをとっても、やってないのとおなじで、じっさいに「やってない」ということになってしまうのである。で、そうやって、やるんだよ。そうやって、意地を通して、わのわからないことをする。あるいは、こっちに、悪さを仕掛けてくるときも……おなじなんだよ。対象が違うだけだから。親父が、思いつきで、なにかを修理するというのも、親父が思いつきで、こっちに文句を言ってくる……八つ当たりをして逆上するというのも、まったくおなじなわけ。で、修理と言ったけど、こっちにとって、どうでもいい修理は、してもらっていいのだけど、こっちにとってどうでもよくない修理だと困るんだよ。「そういうふうにされると困る」ということがある。たくさんある。


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2016年10月16日日曜日

「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない

楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ

このように説明できるのは、一部の現象だけだ。じゃ、なぜ、一部にしろ「笑うから楽しい」と思ってしまうのかということを説明しよう。実は、楽しいから笑う機会が多かったからこそ、笑うと楽しく感じるように「なった」のだ。

だから、楽しい→笑うという反応のほうが先だ。楽しい→笑うということを、小さいときから繰り返してきたので、笑うと楽しく感じるだけなのだ。だから、「楽しい→笑う」という連関のほうが先。じゃあ、なんで、楽しいと笑うのかということに関しては、人間はそうできているからそうなんだとしか言いようがない。

別に笑い顔を作ろうと思っているのわけではないのである。感情に対する顔の筋肉の反応が、そうさせる。顔の筋肉の反応を見て、人が、「笑っている」と判断しているだけなのだ。人がというのは他の人がということだ。本人が、笑い顔かどうか、あんまりわからないのである。

ただ、ごく自然に、楽しいときは、そういう筋肉の反応があるので、そうしているだけだ。けど、そういうことを繰り返していると、だいたい、こういうふうに筋肉を動かせば、「笑い顔」と言える表情になるんだなということを、「学習」するのである。


あと、もう一つ言っておこう。

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ

これに関して言っておくと、人間というのは、悲しいから泣くだけではなく、痛くても泣く。要するに、泣くというのは、悲しいという感情だけに「対応」しているわけではない。

これも、泣くというのは、涙が出るという生理的な反応なのだけど、悲しいときには、そういうことがよく起こるので、そういう連関ができあがっているだけだ。泣くから、悲しいというのは、そういうことを多く繰り返してきた人間だからこそ、「感覚的に」わかる話なのである。

ところで、痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだということは、あまり言われない。しかし、人間は痛くても泣く。悲しいときだけ泣くわけじゃないのである。ここが、わかってないのである。「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない。だから、「表現型」→「感情」は、主なものに関して言われるだけだ。たとえば、嬉し泣きというのがある。この場合は「嬉しい(感情)」→「泣く(表現型)」という連関がまず成り立っている。しかし、嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだとは言われない。「嬉しい」→「泣く」という反応がレアだからだ。

「表現型(理由)」→「感情(結果)」は、一対多の関係なので、以下のようなことも成り立たなければならない。

(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
(二)痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだ
(三)嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだ

けど、普通は
(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
としか言わない。

痛くないのに、泣くと痛く感じるだろうか? そんな感じもしなくない?
嬉しくないのに、泣くと嬉しくなるのだろうか? そんな感じもしなくない?

「表現型(理由)」→「感情(結果)」はやはり、倒錯している。
「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、そういう理論がなんとなく、正しく感じられるだけなのである。「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、「感情(理由)」→「表現型(結果)」という連関がすでにできあがっている。だから、「表現型(理由)」→「感情(結果)」もなんとなく、正しいのではないかと思えるだけなのである。

で、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」流の言い替えが、「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」ということにも、成立してしまう。前回話したけど、生まれながらの貧富の差は、そこではまったく問題にされないのである。

ただ、「考え方」だけに、理由を求めている。「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」「楽しいことがあるから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」「不運だから不運だと感じるのではなく、不運だと感じるから不運になる」「笑う門には福来たり……笑っていると福が来る……福が来るから、笑うのではない)」……こういう言い方がはやる。

けど、こういう言い方は、それまでの文脈というのもを無視している。だから、一見正しそうに見えても、正しくない。まあ、「運・不運」とか「幸福・不幸」とか「福相・貧相」ということになると、「泣く」とか「笑う」というような表現型とは違った話になるんだよ。それこそ、「なんとだって言える」範囲が広くなる。だからこそ、「感じ方の問題だ」というのはわかる。けど、それもその人の人生上に起こった出来事というのを無視してはいけないのである。

この「笑っていれば幸福になれる」というのは、なんとなく正しいそうなんだけど、ものすごくつらい思いをしている人がやると、そんなにいいことにならない。すでに元気な人がやることなのである。あるいは、普通のことが普通にできている人がやることなのである。弱っている人が、そういうことをしたら、本当に気の毒な話になる。深く自分の心にふれあわなければならないのである。そういう時間が必要なのである。それなのに、「自分は幸福なんだ」「自分は楽しいんだ」「笑い顔笑い顔」と自分を無理矢理励ますと、不自然なことになってしまう。よけいにつらくなってしまう。



補足

「貧相」と言ったところで、なにが「貧相」なのか定義がない。Aという人とBという人がいて、Aという人が「Bさんは貧相だ」と決め付けているだけなのである。鼻の高さが、何センチ以上だと福相、それ以下だと貧相と決まっているわけではない。「なんとなく、そういうふうに感じる」と言うだけの話しだ。




2016年10月14日金曜日

まじ、やばいわぁ~~ この雰囲気~~やばい。

まじ、やばいわぁ~~
この雰囲気~~やばい。


やっぱりヘビメタ騒音で人生がない。この二〇年俺はなにをやってたんだ。

なんけ、げそーーっとくる。

「ナニワの金融道」を読んだのが原因か。いや、いつものことだ。このままだと、このまま死ぬ。
やっぱり風呂に入っていても、文章を書いていても、英語の勉強をしていても、全部、きちがいヘビメタ騒音の感じがする。なっている感じがする。そして、疲弊して人生がなかった。きちがい兄貴の態度に憤慨する。怒りっぱなし。普段、他のことをしていても、きちがい兄貴の態度を思い出して、一人で頭にきている。この生活……何十年も前からだけど……この生活は……きちがいヘビメタ騒音生活の延長だ。疲労をそのまま受け継いで続いている。死にたい。いや、より良く生きたい。そりゃ、そうなんだが……。

2016年10月13日木曜日

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない

(注意)セミナーとか集まりをすべて否定しているわけではありません。いいひとのセミナーはいいし、わるい人のセミナーはわるいでしょう。ようするに、人による!! なんか、誤解されている感じがするけど、アマゾンアンリミテッドで、女の人の本を読んだときに感じたことです。

それからここで言っている「セミナー商法」というのはアフィリエイト系のセミナー商法が根底にあります。

たとえば、底辺労働をしている人が、職場で社長のふりをしていると社長になれますか? なれるのであればいいけど、なれないのであれば、むだな行動になってしまう。というか、職場で社長じゃないのにあたかも社長のようなふりをしたら、きらわれるでしょ。「なんだあいつ」と思われる可能性が高いでしょう。

けど、なんていうのかな? 人間というのは、「げんをかつぐ」といのがある。だから、行動を起こすときにお守りが必要だというのであれば、別に、お守りの効果は否定しない。そういうことなんだけど、わかってくれるかな。

まわるかどうか、というのは重要だし、この世は、なんていうのかな?まわしたもの勝ちみたいなところがある。善人が苦汁をなめて死んでいき、悪人がいい思いをしてしあわせに生きるということもある。一代限りだと、そういうことが言えてしまう。そりゃ、たましいというのものを想定して、生まれ変わりを想定すると、最終的にはバランスがとれるということを言えるのだけど。


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けど、やっぱり、神様はいじわるだな。俺にこんな家族、こんな無理ゲーを押し付けやがって。あの気持ちは、ない。きちがい兄貴のヘビメタにさらされているときの、あの気持ちはない。明日、自分にとって大切な試験があるという日、一分も静かにしてくれなかったからな。きちがい兄貴よ。何回言ったと思っているんだよ??

倒錯理論について、ちょっと説明をしておく。これはもう、説明したことなんだけど、もうちょっとわかりやすく説明したい。

問題なのは、貧乏だから「貧相」になったのではなく、「貧相」だから、貧乏になったのだと言う考え方だ。「貧相」じゃなくても、たとえば、「貧乏になる考え方」でもいい。

彼ら曰く。「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」。こういうことを言う人たちがいる。で、こういう人たちは、そろって、スピリチュアリズム系のことも言う。けど、彼らのなかにながれているのは、思いやりじゃない。貧乏になっている人を救いたいわけでもない。自分が、儲けたいだけだ。たとえ、幸運の長財布の説明がなくても、そういう説明をする人は、実は、相手のことを思ってない。もう、そういう考え方自体が相手のことを無視している。だから、これは、リトマス試験紙のように使える。

どういうことかというと、どういう家に生まれたか?ということを無視しているからだ。たとえば、「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」ということを言う場合は、人生の最初の差を無視している。こういう無視が成り立っているということが問題なのだ。そして、その人のことを本当には思ってないということが、そこにあらわれている。こういう倒錯理論は、一見正しそうに見える。しかし、間違っている。お金持ちの家に生まれたか、それとも、お金がないうちに生まれたかというのは、ものすごく、大事な差だ。考え方以前の問題なのである。事実!!考え方以前の問題がある。そういう、大切な部分をないがしろにしている。そして、けっきょくは、「貧乏になる考え方をしている人」を責めている。この「貧乏になる考え方をしている人」というのは、けっきょくのところ「いま現在貧乏な人」なのだ。だから、困っている人を、さらに責めるということになる。「いまおまえが困っているのは、おまえの考え方が悪いからだ」……こういうことを言っているのである。

生まれたときに、差がある。ここを無視して、「考え方」が重要だという。これは、レトリック。生まれ育った環境を無視して、「考え方」だけを、問題にする。


わからなくてもわかっているふりをする。そうすると、わかるようになる……そんなことがありますか? 残念ながら、わかるように努力しないと、わかるようにはなりません。わかるという体験をしないと、わかるようにはなりません。

で、まあ、貧乏云々の話に戻します。生まれた家、子供時代、より高度な教育を受けられる環境……こういうことが、その人の人生に影響を与えているということを、最初から無視して、貧乏な人は、貧乏になるように考えたから悪いんだというようなことを言う人は、根本的に信頼できない。

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない。そういう無視が、どれだけ、無慈悲な無視であるか知っているから。

2016年10月12日水曜日

ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

パチンコには行かないけど、いまの俺が苦しい。いまの俺が苦しい。これ、おなじなんだよな。ヘビメタをやられていた頃の状態とおなじだ。今朝、「あいつ、本当にあれだけやって、やったつもりがなかったんだな」「まるで悪気がなかったんだな」「どれだけやっても、悪気がなくて、なにもやってないと思ってたんだな」と思ったら、めちゃくちゃに憂鬱な状態になった。これ、この部屋でヘビメタをやられていた一九歳の頃とおなじ気分だ。

あー、お母さん。あれから何年経ったんだ? 俺が一九歳の時のきちがい兄貴なんて、本当に絶対にやめてくれなかったからな。そして、この空間。この空間。やるせないーー。やるせないーー。まあ、「ニコニコ感謝法」でやれる人はドンドンやってくれ。俺には無理だ。いま、ものすごく変な気分になっている。これは、やばい。これはやばい。……やばいじゃなくて「俺は運がいい」「ついてるついてる」か? ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

ともかく、苦しかった。

気分を変えるために、運動でもするかな。それにしても、だましだまし進んでいても、いつか終わりが来る。まあ、ワクワクしていても、終わりは来るけどね。それにしても、ぼくの人生は苦しい。きちがいヘビメタ騒音で苦しい。きちがい兄貴よ!! 兄貴はあれだけこだわって、まったくやったつもりがないのかよ???

2016年10月11日火曜日

ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから

まあ、正直言うとつらいわけよ。あ~~、本当にヘビメタ騒音がつらかった。これ、俺だけの話で、他の人とは共有できない話しなんだよね。戦争がつらかったとか、地震でつらかったとかそういう話しじゃない。で、これが、一度の話しじゃなくて、ずっと続いているというのがつらい。たとえば、六ヶ月で本当に鳴り止んでくれたらな。きちがい兄貴のことを、きちがいみたいに書いているけど、本当は、単純に鳴らしたかったから、鳴らしたんだよ。きちがい兄貴は、鳴らしたかったから、鳴らした。それだけなんだよ。自分が鳴らしたい音で鳴らしたかった。それだけ。やめることは考えてなかったわけ。ヘッドホンをすることは考えていなかったわけ。どうしてかというと、「自分が鳴らしたい音で鳴らしたい」というこだわりが、他の人に対する配慮をこえていたから。「うち」である限り、「他の人」に対する配慮というのは、根本的にゼロにちかいほどない。絶対にやって良いことをやっているつもりでいる。「よそ」の人には気を遣うけど「うち」の人には気を遣わなくていい。そういう思い込みだけだ。だから、本人はまったく悪いことをしたつもりがない。どれだけやってもあたりまえだ思っていて、その思い込みが、とれない。ものすごく強い思い込みでとれない。自分が鳴らしたい音というのは、決まっていて、それ以外の音にするつもりはないわけ。要するに、ヘッドホンをしてしまうと、ヘッドホンでどれだけでかい音で鳴らしても、「自分が鳴らしたい音」ではないわけ。で、「自分が鳴らしたい音」とちょっとでも違うだめなわけ。だから、「自分が鳴らしたい音」以外の音では鳴らさなかった。きちがい兄貴が……最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!……ゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってやった音も「自分が鳴らしたい音」からはずれ音じゃないんだよ。だから、きちがい的などけちぶりを発揮する。音量でいえば、一〇〇の音量から、九九・九九ぐらいの音に落としてやっただけで、ものすごくゆずってやったつもりになる。そういうことを、一日に五分やってやれば、もう、一日中鳴らさないで静かにしてやったのとおなじぐらいに静かにしてやったと思ってしまう。これは、本当に自動思考で、考えるまでもなくそう感じてしまう。で、その感じ方は絶対的で、「こっち」がなにを言っても、変わらないんだよ。だから、きちがい兄貴は、入学試験の冬休みに、一日に一四時間鳴らせるなら、一四時間、「自分が鳴らしたい音」で鳴らして、「ものすごく静かにしてやった」「あり得ないぐらい、ゆずってやった」「全部静かにしてやった」と思っている状態なんだよ。で、一四時間のうち、一〇回、二〇回、「もうすぐ入試だからやめてくれ」と、こっちが、言っても、なにも感じないわけ。「静かにしてやった」「静かにしてやったのに、あとからあとから、がたがたうるさい」と思うわけ。うるさくしているやつなのに、「がたがた、言ってきてうるさい」ぐらいにしか感じない。もう、自分は十分に静かにしてやっているのだから、静かにしてやる必要がない。「がたがた言ってくる方が悪い」としか思えない。で、本当にそういう病気。そういう催眠術にかかっている。入試の時ですらそうなのだから、他の日は、当然、ずっと鳴らしている。なんと思ってない。で、きちがい兄貴はそうなんだけど、こっちは、……あのときの破滅感がずっと残っている。きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人にとっては、「そんなの、言えば静かにしてくれるだろ」ぐらいの、単純で浅い問題なわけ。「なに、ずっとぐちぐち言っているんだよ」と思うわけ。けど、頑固さが違うんだよね。で、もうひとり、きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人がいて、それが、兄貴自身なんだよ。これも、他の人にはわからないことなんだろうけど、事実そうなんだよ。そして、たぶん、これも、兄貴自身がわかってない。自分がこだわってこだわって、やったことなのに、完全に「他人事」であるわけ。で、それは、やっているときから、そういう感じなんだよ。だから、いまだに、「自分には言い分がある」みたいなことを言っている。じゃあ、一日に何時間鳴らさないで静かにしてくれたんだ?と言われると、答えられない。むすーーっとして、黙りこくるだけ。俺から、「いま住んでいるところで、鳴らせるなら鳴らしてみろ」と言われても、一日に一分も鳴らさない。鳴らせる音じゃないから鳴らせない。嫁さんに聞かれるとまずいから、鳴らせない。嫁さんや嫁さんの家族に迷惑をかけると悪いから……一日に一分だって、当時、鳴らしていた音で鳴らせない。だから、本当は、自分の音がはた迷惑なほど、うるさい音だということを知っている。「よその人には」一分もできない……そういうことを、毎日、全部の時間やっていた……可能なすべての時間を使って鳴らしていた……ということが、根本のところでわかってない。「うち」で起こったことに関しては、当時の感覚のままなのである。全部が全部、そういうことだから……。で、基本的に嘘つきなので、「弟さんが言っていることは本当なの?」と聞かれると、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」と答える。「そんなに鳴らしてない」「そんなでかい音じゃない」と答える。じゃあ、当時鳴らしていた音で鳴らしてみろと言われると、できないんだよ。一年間で一分も鳴らせない。自分がこだわりつくして鳴らしていた音が、どれだけはた迷惑な音か、本当は知っている。けど、自分にとって都合が悪いことを言われたら、怒って、顔を真っ赤にして、ムスーーっとして、なにも答えないんだよ。不機嫌な状態になって、黙りこくる。で、自分の寝室に行ってしまう。で、寝たら、もう、そういう「話し合いがあった」ということを忘れてしまう。で、毎日おなじなんだよ。いまは、鳴らしてない状態だから、問題はないけど、鳴らしている状態でも、そうなんだよ。毎日毎日、すべての可能な時間、自分が鳴らしているときも、おなじ。いま住んでいるところで鳴らしてないから、そういう、性格があんまり問題にならないだけ。鳴らしてないわけだから……自分にとって不都合なことを言われたら、黙りこくって、自分の部屋に入って寝てしまう……ということは、それほど問題にならない。けど、毎日、頑固に鳴らしている状態で……そういう性格があらわれると、問題が発生する。よそじゃ一年間で一分も鳴らせないような、でかい音で鳴らしているのに、「鳴らさないで静かにしてくれ」ということを言われると、黙りこくって、自分の部屋に入って、ドカドカ鳴らしてしまうから、問題が発生する。で、「鳴らさないで静かにしてくれ」と言われて!!!腹を立てて鳴らしているとき、「まったく鳴らしてない」つもりなんだよ。こういう、きちがい的なところがある。「鳴らさないで静かにしてくれ」と注意されたあと、自分の部屋に入って、一時間、どかどかでかい音で鳴らしたら、一時間でかい音で鳴らしたということを認識しているべきなのに、注意されたあと一時間でかい音で鳴らしているにもかかわらず、注意されたあと、自分は鳴らしてないと思っている状態が成立してしまう。そういうところがある。これが、二時間でも、一〇時間でも、おなじなんだよ。注意されたあと、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、七時間、八時間、九時間、一〇時間と、……入学試験の三日前に鳴らしても、……本人の主観としては、注意されたあと、まったく鳴らさなかったのとおなじなのである。注意されて、むすっとしたあと、黙りこくったまま、二階の自分の部屋に入って、普段通りに鳴らしても、鳴らしたつもりが生じない。注意されて怒ったあと、普段通りに鳴らしているのに、「がまんしてやった」と思っている。一〇時間鳴らすのと、まったく鳴らさないのとでは、ものすごい違いがあるのに、きちがい兄貴のなかでは、両者はおなじことなのだ。だから、「しずかにてやった」と思っている。入学試験の前に、注意されたあと、一〇時間も鳴らして!!!……こだわりつくしたでかい音で鳴らして……静かにしてやったと思っている……これがきちがい兄貴なんだよ。きちがい兄貴の毎日なんだよ。きちがい兄貴の毎日の感覚なんだよ。それが、一四年間続いて、本当に困った。これ、最初の六年間でおしまいだから。六年間毎日で、俺がどれだけがんばっても、おしまいだから、最初の六年間毎日で、俺が、どれだけがんばっても、無職にならざるを得ない状態になる。働けないし、進学もできない。普通の「通勤通学」ができない。どれだけどれだけ、がんばっても、通勤通学ができない状態になる。理由を知らない他の人から見れば、ぼくが、勝手にサボって、勝手に引きこもっているように見える。もう、全部そうだよ。ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから。

2016年10月8日土曜日

「感謝感謝」から差別主義まで、そんなに距離が離れていない

スピ系の本を読んでどうして落ち込むのかわかってきた。

最初の方はいいことが書いてあるんだよ。けど、だんだん、悪いことが書いてある。

たとえば、「べき」の暴君にやられる※べき※ではないということがある。このべきの暴君というのは、心理学的な一般読み物系の用語だけど、同じことが書いてある。「がんばる必要はない」「本当に必要なことは楽しみながら、ワクワクしながらすることができる」「がんばらなければならないは、無理をしているから」「がんばらなければならなくなるのは、自分の本当の気持ちに逆らうことをしているから」……というようなことが、書いてある。

しかし、あとの方になってくると、「運を引きよせることが必要だ」ということを言い出したりする。「運を引きよせる」ためには、けっきょく、がんばらなければならないのである。「流れを変える」ために、いろいろなことをしなければならなくなる。けっきょく、そういうめんどうくさいをことしなければならないというような気分にさせられるのである。がんばる必要はなかったんじゃないのか?


あとは、感謝だ。すべてのことに感謝しなければならないのである。しかし、ここでも、最初に言っていたこととはちがうことが、出てくる。たとえば、「波動が悪い人は避けなければならない」のである。何事にも感謝するべきなのではなかったのか? その主張に従うなら、波動が悪い人に出会ったということも、感謝するべきなのである。

「すべてのことに感謝」ということを語っていた時は、たとえば、事故に遭っても感謝するというようなことを、語っていたじゃないか。足を折ったら、「ここで足が折れてよかった。他のところで折れてたらもっと困っただろから」と思わなければならないのである。足を折っても「こういうことをすると足が折れるので、次からはこういうふうにして足を折ることを避けよう」と思わなければならないのである。「よかった」と言うと、脳がだまされて、「よかった」と思ってしまうと主張していたではないか。

しかし、ページを読み進めていくと、「態度の悪い人は、悪い波動を出しているから、避けるべきだ」というようなことが書かれているのである。どんなことも、悪いことではなく、悪いことだと受けとめるのは、その人の受けとめ方の問題なのではなかったのか? 

しかも、「態度が悪い(人を避けろということ)」は、よくわかるけど、「波動」とか言い出す。最初の方で「感謝」とか言っておいて、あとの方になると「悪い波動を出している人は避けろ」とかそういう話になる。悪い波動を出している人にも感謝するのが、すじではないのか? 最初の方では、そう言ってた。悪いことには意味があるのではなかったのか? 最初の方では、悪いことにも意味があると言ってた。悪いことが起こっても、感謝して「脳を書き換える」「脳に上書きする」のではなかったのか?

たしかに、最初の方ではそう言ってたのに、あとの方になってくると「悪い波動を避けろ」とかそういう話になってしまうのである。実際に自分に悪いことをしてきた人を悪い人だと認識するのはかまわないけど、実際に自分に悪いことをしてこない人でも、悪い人になってしまうのである。たとえば、電車の中で悪い波動を出している人に会うことさえ、なるべく避けるべきことになる。悪い波動を出しているかどうかというのは本当はわからない。「あの人は悪い波動を出している」と感じる人がそう感じているだけかもしれないのである。しかし、「運をよくする」とかそういうことにこだわり出すと、「悪い波動を出す人は避ける」べきだというような狭い考え方に陥ってしまうのである。最初は、「悪いことが起こっても、よいことが起こったと考えよう」みたいなことを言ってたのに……。

たとえば、元気がない人は、元気がない波動を出している。元気がない人に近づくと、元気をうばわれる……だから、元気がない人には近づくべきではない……というような話になる。それだけではなくて、たとえば、きたない服を着ている人には近づくべきではないという話になる。きたない服というのは、物理的にきたない服ではなくても、きたない服に分類されることがある。たとえば、よれよれの服は、きたない服なのである。実際には、洗濯してあって、物理的にきれいな服であったとしても、よれよれの服はきたない服として認識されてしまうのである。どうしてかというと、「なんとなくきたない」と感じてしまうからだ。波動とかそういうことを言い出すとそういうことになる。たとえば、よれよれの服を着ている人は、貧乏で、お金のない波動を出している。お金の運が逃げるから、近づくべきではない……こんなふうになってくる。本の作者は考えてないけど、たとえば、うつ病の人が読んでいるかもしれない。うつ病の人だって元気になりたいわけだから。

で、たとえば、うつ病の人が、「憂鬱そうな人は避けるべきだ」という文章を読んだ場合どう感じるかというと、「自分は避けられる人間だ」と感じてしまうのである。そりゃ、そうだろう。「憂鬱な波動を出している人には近づくべきではない」と多くの人が考えるなら、憂鬱な波動を出している?自分は、多くの人から避けられると考えて当然だ。だから、憂鬱な人が、この手のスピ系の本を読むと、どこかで、気持ちが重たくなるはずなのである。

何事にも感謝とか言っておいて、最後の方になると、すごい選別思想みたいなものが出てくる。実は、これは、選別思想じゃなくて、「けがれ」の変形なのである。「けがれ」と「ことだま」はプリミティブな感情で、現代人にもある。だから、通りやすいのである。読んでいて納得してしまう部分がある。

たとえ、きたない服を着ている人でも、憂鬱な人でも、元気がない人でも、「けがれ」と「ことだま」の思想は持っている。だから、……けがれていると避けられるほうの感情だけではなくて、けがれている人を避ける方の感情も持っている。が、しかし、「感謝感謝」と言っておいて、結論が、これなんだからな。元気がない人というのは、「け」が「かれてる」状態なのである。なので、「けがれている」……「けがれているひと」には近づくな……「けがれているひと」が触ったものは触るな……こういうことになるのに、あと一歩しかない。だから、「感謝感謝」「どんなことにも感謝」「悪いことが起こっても感謝」から、ある種の「けがれ差別主義」まで、そんなに距離が離れていない。というか、むしろ、表裏一体?

自分に対して悪いことをしてくる人……たとえば、ヘビメタ騒音を出して絶対にゆずらない人……ではなくて、ただ単に元気がない人に対してどういう態度をとるべきかというと、そういう元気がない人も思わず元気になってしまうような態度をとるべきなのだ。元気がない人が、自分に会うと元気になってしまうような人を目指すべきだろう。元気をうばわれるのではなくて、元気をあげられると考えるべきなのだ。感謝感謝と言っているのだから、元気がない人にも感謝するべきだろう。電車の中で元気がない人に出会ったのは(見かけたのは)悪いことではなくて、よいことなのではないか。「元気がない人に出会えてよかったな」と脳をだまして言い換えるべきなのではないか。もちろん、これは、「べき」論だ。だから、別にそういうことを目指す必要はない。ただ、「感謝感謝」という考え方に賛成していた人は、やはり、元気がない人に出会っても、それを悪いことだとはとらえずに、よいことだととらえて、感謝するべきなのである。

タイトルからここまで、ずっと「べき」論を言ってきたのである。どれだけ「べき」いう言葉が使われているか数えてみればいい。(俺、いまの時点で数えてないけど)。

元気がない人は避ける人になるよりも、元気がない人に元気をあげることができる人になった方がいいんじゃないのということを言いたい。「感謝感謝」という考えにこだわるのであれば……という条件付きだけど。


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「わくわく」と「感謝感謝」「鏡の法則」「引きよせの法則」だと、「わくわく」の方がいい。

けがれるの「け」についてちょっとだけ説明をしておこう。「け」を漢字で書くと「気」になる。内側が、メではなくて、米のほうなんだけどね。この場合の「気」というのはなにを意味しているかというと、「生命力」を意味しているのである。「け」が枯れる状態というのは、「生命力」が枯れる状態なのである。


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この、「脳」をだますというのは、エセ科学かもしれない。「脳」をだますというのはよく言われることだけど、別に検証されたわけではない。すくなくても、ぼくの知っている範囲では検証されていない。検証されたとしても、統計的な差でしかないと思う。あとで、主観をアンケートに書くとかそういうことをもとにした、検証でしかないと思う。

それから、たとえば、痛さを抱えながら、ずっと「よかった」と思うことができるのかどうか、わからない。わりと痛みが持続する場合はどうなんだろうな? ずっと、「虫歯になってよかった」と頭の中で言い続けるのだろうか? それで、本当に「虫歯になってよかった」と考えることができるのだろうか。


2016年10月7日金曜日

ぼくの冒険はここから始まる

どのみちぼくは好きなことしかしないから、これからも好きなことをして暮らしていこうと思う。けっきょく、好きなことしかしない。……しかし、キチガイ兄貴のように、他人を犠牲にしてやりたいことをやろうというのではない。そりゃ、俺は、さんざんやられたからね。どれだけ、腹が立つか!わかる。……本当に、あいつらはおかしいんだよな。絶対につたわらないはずがないのに、そのときは、つたわらないんだよね。どれだけ絶叫して、何十回言っても、まったくなにもつたわらない。で、こういう態度というのは、実際に目の当たりにした人しかわからないのではないかと思う。だから、「家族で相談すればいい」「ちゃんと言えばわかってくれる」など言われてしまうわけだから。言われるのは、「ぼく」ね。「言われてしまう」と書いてあるのだから、いちいち誰が言われるか書かなくてもわかるよね。

俺は好きなことしかしないという宣言をした。けど、実際にどういうことをするのかということに関しては、たぶん、ここには書かない。

ぼくの冒険はここから始まる。

ヘビメタ騒音に関してだって、俺が書かなきゃ、誰も書けないだろ。俺は、他の誰かが書けることを書いているわけじゃない。たとえ、ネガティブだと言われても、書かなきゃならないのである。この世で実際にあったことだしな。けど、フィクションにしておかなければならないのである。どうしてかというと、フィクションにしておかなければ、自由な文章を書けないという問題があるからだ。実際、どういう文章が書けなくなるかということに関しては、ちょっと考えればわかることだと思う。

これは、これで、ライフワークとして取り組むつもりだから、他の人から「ネガティブだ」「暗い」と言われても、書き続けるよ。

しかし、「本当に疲れたな」というのはある。ヘビメタ騒音をやられて、本当に疲れたよ。あの生活は地獄だ。で、いまでも、朝起きたとき、部屋の中を移動しているとき、ドアを開けるとき、道を歩いているとき、自転車に乗っているとき、「あの生活」を思い出してしまうのである。これは、本当につらい。本当にキチガイ兄貴なんて、適当でいい加減で、しつこいよな。

あのキチガイ的なつたわらなさと、キチガイ的な意地はなんだ? 絶対にやめない。絶対にでかい音なのに、でかい音だということを、最後の最後まで、認めなかった。そういうことを、平気でする。まったく気にしてない。兄貴の部屋に遊びにきた兄貴の友達が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」ということを言ったのに、その友だちがいる間も、その友達が帰ったあとも、ずっと、普段通りに、ちょっとだけ来た人が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」と思うようなでかい音で鳴らしていた。一緒に住んでいる人間がこれなのである。横の部屋で、可能な限りでかい音で、可能な限り長い時間、絶対の意地でヘビメタを鳴らすのである。

どれだけ言われても、ぜんぜん気にしない。それが兄貴の態度だったんだ。その時だけではなくて、毎日毎日、そういう態度で、毎時間毎時間鳴らしてた。一日に一分もゆずってくれなかったというのが本当の話だ。しつこくなるのは、俺がどれだけ言っても、キチガイ兄貴がまったく認めなかったからだ。この認めなさがひどいんだよな。人間とは思えない認めなさで、ふつーーーに、ひどいことをやりやがる。しかも、本人は一分もやったことがないつもりなのである。「まったくやってない」と思っているのである。こんなのない。


まあ、ともかく、俺は自分がやりたいことしかしないと誓った。


ネガティブな文書(本)は存在価値がないかというと、存在価値はある。かならず、それを必要としている人たちがいる。たとえネガティブであっても、問題が問題であれば、問題を理解するために、それが必要になる。ぼくは、かつて、岸田秀の本を読んでいるときに救われた。この人は、まあフロイト派の心理学者だ。岸田秀は、みずからが神経症者だと言っている。

で、神経症に関してフロイトの精神分析的な立場からいろいろなことを述べている。岸田秀と彼の母親の関係についてめちゃくちゃにネガティブなことを書いているのである。けど、それが、ものすごく役に立った。「そういうことなのか」と腑に落ちることが多かった。それまでは、きちがい親父の行動を説明することができなかった。岸田秀を読んで、フロイトを読んではじめて、きちがい親父の行動を説明できた。「きちがい親父という不可解な現象」を説明することができた。不可解な現象が説明できる現象になった。それまでは、なんとなくわかっていたのだけど、言語化することができなかったのである。


まあ、いいや。ともかく、ぼくは岸田秀の本によってすくわれたのだ。
たとえ、ネガティブでも、存在意義はある。

価値がわからない人は価値がわからないけど、それはそれでいい。その人の人生なのだから。その人の人生のなかで、あんまりわからないことなのだから。これは、わからないから悪いと言っているのではなくて、要するに、「かかわりがなかった」ことなのである。かかわりがあったひとには、わかる。それだけ。


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やりたいことって八割が金儲け。あとは、女か。

にしても、疲れた。ワクワクできない。
長い間ワクワクしてない。ヘビメタ騒音が始まった一一歳の時からずっと苦しい。
苦しいまま年を取って、最後には、アパートの一室で……。

辻潤って知ってる? 辻潤の作品はいいよ。


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俺はどうすればいいんだろう。
本当にヘビメタ以来、ずっとつかれている。
けっこうさみしい。追い詰められてしまった。
きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境……どれだけなにを言っても、きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境のなかで疲弊してしまった。もう、どうにもなんねぇ。


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金の制限がなければやりたいことはある。ハングライダーで空を飛びたい。あれは、もう、制限されちゃっているのかな。パラグライダーよりもいいんだよな。飛行機の操縦はどうでもいいや。
やっぱり、好きな女と京都あたりに行きたいな。
ヘビメタ騒音でぐたーーーっときていても、気にしない女。俺はすぐぐたーーっとなっちゃうからね。本当に、苦しかった。毎日のヘビメタが苦しかった。何度言っても、一分もやめてくれなかった。なんで俺だけヘビメタ騒音のハンディがあるんだよ? そんなハンディがなければ、楽勝だったのに……。

2016年10月5日水曜日

一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである

日中からだがだるかったので、「俺はもうダメだ」と思いながら横になっていた。横になっていれば楽かというと、楽じゃない。昨日の夜から、けっこう精神的に不安定だったな。鼻を蚊に刺された。まだ、蚊がいやがる。今日なんて、日中三二・五度あったからな。俺の部屋。
けど、まあ、人間はやったことでしか評価されない。「ヘビメタ騒音がなければできた」と言ってもしかたがない。けど、長い間!押し付けられすぎ。半年で終わるべきだったんだよ。完全に、一日に一分も鳴らせない状態になるべきだった。いまとおなじ状態なのだから「できない」わけはないだろ。けど、当時のきちがい兄貴は、そんなの、空想の話しとしてもあり得ないことだと思っていたんだよ。自分が、一分でも本当に静かにさせられそうになったら、顔を真っ赤にして発狂して鳴らしてたんだから。どれだけの意地で鳴らしていたか、本人がわかってないだ。どうしてわからないかというと、一〇〇%自分が思ったとおりにできたから。一分も「本当には」ゆずらないで、鳴らすことができたから。毎日、一分もゆずらないで鳴らすことができたから、「つもりがない」だけなんだよ。あれ、親父とおなじ。親父は親父で、兄貴に文句を言いたくないという、影の気持ちが強くて、絶対の意地で文句を言わなかった。注意をしなかった。これも、「注意されられる」となったら顔を真っ赤にして、「なっちゃったなっちゃっでしかたがないぃぃ!!!」と俺に怒鳴っていたんだよ。怒鳴って、自分の寝床に行ってしまえば、切れているわけで、なにも感じないんだよね。兄貴は兄貴で、無言のままはねのければ、なにも感じないんだよね。言われたことにすらならない。そういう、ギャグみたいな状態が、毎日毎日、同じように成立する。それだけだから!! なんの、種もない。本当はそれだけなんだよ。いまは、鳴らさなくてもいい状態だから、「そんなんじゃない」「そんのな知らなかった」と言って、顔を真っ赤にして、目を三角にして自分の部屋に行けば、それで済んでしまう。だから、そんなの、何千回何万回繰り返したって、ごくごくあたりまえのことを認めない。そういうしくみが、ほんとうーーに、素直に成り立っている。素直というか、あたりまえのように成り立っている。だから、「うち」では、俺に何万回注意されても、その都度、本人がむくれて、おしまいだった。ここで、ぼくが自分の言い分を通して、一分間でも、鳴らさせないで静かにさせようとしたら、殺さなければならない。殺さないと、絶対にやめない状態で、無視して、むきになってエレキギターを弾きながら、ヘビメタを鳴らしているんだよ。で、それを止めようとしたら、本当に、殺さなければ絶対にやめさせることができない状態なんだよ。だから、こだわっているなんてもんじゃなく、こだわっているのだけど、本人は「一〇〇%できるのであれば」……「つもりがなかった」「そんなになっているとは知らなかった」ということになる。だから、きちがい兄貴にとって「つもりがない」と言うことは、相手の言うことはまったく聞かないで、一〇〇%自分の思い通りにしたということだから。……ねじれているようだけど、本当に、まったく意識しない状態でそういう状態が成り立っている。だから、「言うこと」なんて聞かない。どれだけ、家族会議を開いてもおなじ。「お兄さんに言えばわかる」なんて世界じゃないんだよ。親父と兄貴はわかってないけどな。本当に、親父と兄貴のやり方はおなじ。きちがい的な意地でやりきると、やってないということになってしまう。じゃ、自分が本当に、やりたくないカタチで、ゆずらされるとなったら、どういう気持ちになると思っているんだよ。たとえ一分だって、発狂して発狂して発狂して、「絶対にそんなのはいやだ」という意思表示をするだろ。実際に、やめさせられずに、やりきるだろ。絶対の意地でやめないだろ。これがわかってない。一〇〇%、自分の意地を通すと、「やってない」ことになってしまう。このやってないというのは、一〇〇%やってないという意味なんだよ。一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである。だから、本人は「そういうつもりのまま」んだよ。「そういうつもりのまま」実は、でかい音で鳴らし切る。そういう状態なんだよ。こんなの、きちがいでしかないよ。こういう、自分にとって都合がいい状態を成り立たせて、「知らないつもりで」ずっと鳴らす。どれだけ何回注意されても、注意されかなったままのつもりでずっと、こだわりつくして鳴らす。で、そうやって、自分がやりたいだけ鳴らし切ることができれば、その日はまったく鳴らさなかったのとおなじ日なのである。主観としてはまったく鳴らしてないのとおなじなのである。だから、その時から、「そんなつもりじゃなかった」という嘘をつくための用意ができている。で、これは、親父のように不変で、毎日毎日おなじなんだよ。どれだけ毎日もめても、一日に何回も何回ももめても、こういう「きちがい構造」が変わらないまま、知らないつもりのまま、やってないつもりで、頑固に頑固に鳴らす。だから、入試の一週間前に、さんざんもめているのに、……そして、一週間ずっといつものようにでかい音で、すべての時間鳴らしているのに……ぜんぜん俺の入試の邪魔をしているつもりが生じない。で、これも生じないとなったら、親父とおなじで、どれだけ言われてもおなじなんだよ。こういう状態が成り立っているから他の人には、全然わからない。


なんで、ぼくより才能がないやつらの後塵を拝さなければならないのか?

2016年10月2日日曜日

「考え方を変えればすべてが変わる」系の本に書いてあること

さて、どうするかなぁ~~~

寿司屋でも行くかなぁ~~~

はら、へったなぁ~~~

あー、どうしたもんだ。


だるさを数値化すると、60ぐらいか。かなりだるいな。けど、外に出れないほどだるいわけではない。さっきまで寝ていたんだけど、午後1時ぐらいは、だるくて外に出れなかった。


回転寿司は、混んでるかな。日曜日はやばいんだよな。

どうするかな。人それぞれの日曜日なんだろうな。実は、「考え方を変えればすべてが変わる」系の本を読んだ。これ、言っちゃなんだけど、かなり鬱になる。この人たちが言っていることは、みんな同じ。引き寄せ、鏡の法則、思ったことが現実化する。で、この人たちが、「挫折した失敗した、不幸だった」と言っているのだけど、それがみんな普通の挫折、普通の失敗、普通の不幸なんだよな。これ、本当に違う。

仕事をしている状態で自分が空回りして、失敗したとか、そういうレベルなんだよ。大学受験に失敗したことだって、一応、高校まで好きなときに勉強できる状態で失敗したという話で、中学三年間、高校三年間、ずっと毎日、勉強することを邪魔されて、勉強することができなかったというような状態じゃない。「自分が心を開いたら、相手も心をひらいてくれた」とか、全部、健常者の話なんだよ。健常者の家族の話。家族にサイコパスがいるやつはどうだ?

サイコパスの反応なんて、自分の態度が「うつっている」わけじゃないのである。サイコパスはこっちの態度に関係なく、こっちの気持ちに関係なく、サイコパスなんだよ。サイコパス的な常識、サイコパス的な優先順位、サイコパス的な気持ちで、動いている。こういうことが、ぜんぜんわかってない。

たとえば、鏡の法則と言った場合、その鏡の法則は、どんな場合でも成り立つ「普遍法則」なのである。成り立たないのは、相手がサイコパスではなく、自分がこころを開かないから(あるいは、自分のこころが相手に反映している)と考えるわけだからさ。



ふたりとも、女で、旦那がどうだ、彼氏がどうだという話になる。小さい頃からハワイに住みたいなと思っていた。突然、旦那がハワイに転勤を命じられた。(引き寄せだ。思いは現実化した)って話だったり、気分を変えるために、アメリカに行ったら、ものすごく金を持っている彼氏ができて、その人と豪華な暮らしている(引き寄せだ。思いは現実化した)……だからね。日本で残業をして働いていた頃には考えることさえできないような生活をしている……。こういう話は、本当に悩んでいる人には、参考にならない。本当に不幸な人には参考にならない。

本当に最初からレベルが違う。すべてがすべて、「普通の話」なのである。家族が健常者じゃないやつで、こういうことを言っている人は少ない。言っているとしたら、本人が病人である場合だ。

スピリチュアリズムだと、こういうことを言えば、霊界の話が出てくる。そして、要するに「選んだ」という話になる。サイコパス家を選んだのはあなただ。サイコパス家を選んで、あなたはこの世に生まれてきたという話になる。もっとも、はやりの「引き寄せ」「鏡の法則」「思いは現実化する」に関しては、そこまでは、話が進まない場合が多い。普通の失敗、普通の不幸、普通の挫折で話が止まっているから。

たとえば、大学を卒業したあと普通に会社で働いている人が感じる失敗なんだよ。何十年も引きこもっている人が感じる失敗じゃない。「自分も失敗ばっかりだった」「考え方を変える前は、こんなに不幸だった」と言っているけど、それは、普通に働いて普通に家庭生活を送っている上での、不幸、失敗なんだよ。ぜんぜん、わかってない。

まあ、俺は、強烈な幸運の持ち主だから、回転寿司に行っちゃうけどね。


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あるいは無慈悲に、「あなたがサイコパスを引き寄せた」という話になるわけだから。

2016年9月30日金曜日

一五年間かけて……弟の進学と就職を邪魔したことは……破壊したことは、まったく気にしてないからな

けっきょく、体調がすべてに優先する。体調が悪いと人付き合いもできない。勉強もできない。仕事もできない。ヘビメタ騒音で「削られた」生活体力がでかいな。体調には、その日の体調と人生の体調というべきものがあって、人生の体調の上にその日の体調が成り立っている。基本的な部分を削られると、やはりだめなんだよな。

削られていなければ、たとえば、八〇から一〇〇の間で変動しているものが、削られてしまったあとは、〇から二〇の間で変動しているようなものだ。普通の人にとって体調が悪いときが八〇なのに俺にとっては、体調の良いときですら二〇でしかないというような状態になってしまった。これが、かなりでかい。ヘビメタ騒音で失ったものはいっぱいあるけど、そのなかで、いくつかの大きなものがある。

体調……普通の体調は、二番目か三番目あたりだ。キチガイ兄貴は、ヘビメタを鳴らすけど、鳴らしている最中は鳴らしてないのと同じだという気持ちがある。というか、そういう認識で、実際に鳴らす。鳴らしてきた。そういう態度が、腹立たしい。中学一年生のときだけを考えても、どれだけ、「注意した」と思っているんだよ。「知らない」「知らなかった」わけがないだろ。全部こういう調子だからな。

嫁さんとの結婚式には、総額六〇〇万から八〇〇万ぐらいは使っているんだよ。嫁さんの親が数百万出したわけだけど。自分が弟の人生を破壊しておいて、弟に払う慰謝料は〇円で、結婚式に数百万使っている。何百万出したのか知らないけど、数百万の単位であることは確かだ。本当に自分が一五年間かけて、……毎日毎日……一五年間かけて……弟の進学と就職を邪魔したことは……破壊したことは、まったく気にしてないからな。「そんなの知らなかった」の一言で済ます。じゃ、あ、試験前に静かにしてくれたのかと言ったら、どれだけ言っても、静かにしてくれなかった。試験前の冬休みなんて、一日に一四時間鳴らしている状態だ。

昨日も書いたけど、本当に、午後四時から午後六時までの二時間でもつらい。つらすぎる。発狂状態になって、一日の体力を使ってしまう。これは、午後四時から、午後六時までの二時間でヘビメタが終わったということではない。その後も続いている。けど、二時間でお・し・ま・い、ということ。


他の人は「うち」のなかのことは、わからない

いまは、だるくて、こんな状態だけどそのうち元気になるさ。
そうしたら、やれなかったことをやろう。けど、本当に気持ちが曇っている。朝起きて感じることがヘビメタ騒音でつらかったということだ。昼起きて感じることが、ヘビメタ騒音でだるかったということだ。夜起きて感じることが、ヘビメタ騒音で死にたいということだ。深夜、「あの感覚はいいようがない」と絶叫したくなる。夕方「いま鳴ってたんだぞ!!」と絶叫する!

午後四時から午後六時までの二時間だけでも、つらかった。あの空間はいいようがない。本当に、きちがい騒音空間だ。だから、「鳴らすな」「静かにしろ」とさんざん、怒鳴り込んだだろ。怒鳴り込んだのにまったくわかってない状態なんだからな。あれは本当におかしい。自分にとって不都合なことをいわれたら、むかっときて、腹を立てて、頑固に、その「やるな」といわれたことをする。していれば、当然していることになるのに、本人は、「してない」つもりになるらしい。頭がおかしい。で、これ、親父がやり始めたんだよな。午後五時台とか、お母さんの部屋というか、親父とお母さんの寝室??で、鏡台の端に腰をかけて、「きちがいヘビメタで困った」とお母さんに、ずっと愚痴っていた。相談していた。お母さんは、病気で横になっている状態よ。まあ、いつも元気がないんだよね。その頃は、なんとか起きて、料理を作ってたんだな。中学の時は、まだ、お母さんが料理を作ってたんだよな。あのときは小学六年生の時よりも症状が軽いのか? リュウマチだからな。小学四年生から小学六年生頃までは、薬の副作用がひどかったんだよな。(これは、母さんの話)。

何度も言うけど、うちは、アパート形式になっている。昔、貸してた。六畳間プラス三畳間(台所?)で一セットという感じで、三セット貸していた。その家賃で、土地と家のローンを払っていた。だから、一軒家としては、作りがおかしいんだよね。親父が土地を買った頃は、まだ、土地が安かったんだよね。これがあだになるとは。マンションとかだったら、絶対に兄貴は鳴らせない!! 四時台、五時台、六時台、七時台、八時台、九時台、一〇時台の音で鳴らせない。わりと家の敷地が大きなところなんだよな。昔、ひとつの家だったところに、三軒建っているからな。これは、お隣じゃなくて、道路を出たところだけど。まわりの家は、わりと一軒ずつの敷地が大きい。いまの感覚でいうと……。親父の収入だと、普通は家なんて買えないんだけど、人に部屋を貸すことで、ローンを払ったんだよ。だから、収入と家の大きさはつりあってない。

兄貴の部屋を考えた場合、ちょうど、空間があいているんだよな。


あ~、朝の日ざしがさしてきた。この日ざし。

本当にきつかったな。一番眠りが深いときに起こされて、めちゃくちゃにしんどい状態で、着替えて、髪の毛もとかさず、飯も食わないで、外に出た。で、へろへろな状態なんだけど、バス停まで走った。僕は全力疾走しているつもりなんだけど、普通の人から見れば、のたのた、マラソンをしているような状態にしか見えないんだろうな。要するに、そんなに早く走ろうとしてない状態に見える。腹が痛くて、意識がもうろうとしてつらかった。きちがいヘビメタに「昨日の晩」やられてつらかった。午後四時から、午後一一時まで強制的にヘビメタを聞かされたので、夜眠れなくてつらかった。死にたかった。中学一年生時から、こうだ!! ともかく、苦しい状態で、ひきつって走っている状態なんだよな。それなのに、人に「遅い」といわれたり「遅刻すんな」といわれたり、「ちゃんと宿題をやってこい」「もっとちゃんと走って」といわれる状態なんだよ。ヘビメタ騒音にやられながら、学校に通うというのはそういう状態なんだよ。

で、きちがい兄貴は、どれだけ、俺が「やめろ」「静かにしろ」と怒鳴り込んでも、絶対にやめない状態だ。これ、ここで書くか迷うけど……なんていうのかな? 本当にきちがいなんだよな。
「やめろ」「静かにしろ」と注意されると、怒って、鳴らし続ける。自分にとって不都合なことをいわれたら、催眠術にかかったように、むきになって、頑固に無視して頑固に、やり続ける。これ、親父とおなじなんだよな。……昨日考えたんだけど、やっぱり、いわれた途端に、「やってないこと」になっているんだな。そのあと一〇〇%自分の意地を通して、絶対にゆずらないで、全部の時間、どでかい音で鳴らしているのに、本人は、「まったく鳴らさなかった」のとおなじ気持ちなんだよね。同時に、「なにも言われなかった」というような認知が成り立っている。言われた途端に、怒って無視する。もう、顔を真っ赤にして、目を三角にして怒るんだよ。自分にとって不都合なことを言われた」というのが、発狂するほど腹が立つことなんだよ。兄貴と親父はそう。基本的に、全部自分が鳴らしたいように鳴らしたいという欲求がある。その欲求は、きちがい兄貴には自覚されないことなんだけど、すべての認知を押しのけて、成立する。言われたらやばいこと、は、どれだけ言われても、無視した瞬間に、いわれてないことになっているんだよな。けど、本当は伝わっている。これ、親父や兄貴のこういう状態見たことがない人は、「そんなひといるかな」なんていうけど、ものすごい、意地なんだぞ。本当に顔を真っ赤にして、怒り狂って、不退転の決意で、やる。兄貴の場合は、からだをこわばらせて、あぶらあせをかいてというのはないけど、顔が真っ赤になる、目が三角になるというのはおなじだ。強烈な意地でやろうとする。で、その時に、こっち側の言い分を通そうとすると、やっぱり、殺さなければならなくなる。そんくらい、強烈な意地なんだよ。からだをこわばらせてというのはないけど、なんて言うかな、それに近い部分はあるよ。動いているけど、明らかにむきになってやっている状態になるから。動きに余計な力が入る。どれだけ、邪魔されたって、絶対にやってやるぞという気持ちになって、頑固にやる。むきむきになってやる。だから、そういうスイッチが入ってしまうのだから、言われたことがわかるんだよ。わかっている。わかってなければ、ごく自然に動いているわけだから……。動きが不自然。全身に力が入って、むきになって、やる。あぶらあせはないけど、親父とおなじなんだよな。顔だけじゃなくて、たぶん、からだもマッカッカになっている。首も赤いからな。

だから、そういうふうにむきになってやったことなら、「やったつもり」があると思うだろ。けど、むきになってやったことは、「まったくやってない」という認知が成り立ってしまうのだ。本当に「やったってやってない」ことなのである。で、「やったって」の部分がとれて「やってない!!やってない!!」ってなる。本人は、つもりがない。しかも、言われたということも忘れてしまう。忘れてしまうというよりも、「やめろ」と言われて無視した途端に、「そんなの言われてない」ということになってしまう。そういうしくみなんだよな。だから、それを何十万回、何億回と繰り返していても、いつも、「つもりがない」状態なのである。無視してやり続けたという部分が完全に抜け落ちてしまう。それは、兄貴にとって都合がいいことで、僕にとって都合が悪いことなのである。で、こういうのが普通に成り立つのが「うち」なんだよ。他の人は「うち」のなかのことは、わからない。

兄貴は、兄貴にとってだけ都合がいいこの認知システムを、「うちにいるかぎりは」なげなかった。「うちにいるかぎりは」ずっとそうしていた。だから、「そんなの知らなかった」とか「静かにしてやった」とか言うことになる。自分がやったことを知っていれば絶対にそんなこと言えないのに、そういうことを、平気で言う。頭がおかしい嘘をつく。頭の作りが当時とおなじで、過去のことに関しては、当時やったように、自分にとってだけ都合がいい認知が成り立っているんだよ。

無視した途端に、言われなかったことになって、
無視した途端に、どれだけやったって、やってないことになる。


「そういうふうにむきになってやったことなら、「やったつもり」があると思うだろ」って書いたけど、こういうの、主語がわからないから、意味が通じないってことがあるのかな?
むきになってやったのは兄貴だ。ここでは、兄貴がヘビメタを鳴らして、エレキギターを弾くということだ。で、兄貴がやっていることなのだから、当然兄貴は、そうしているという自覚……確かに自分がヘビメタを鳴らし、エレキギターを弾いているという自覚……があるはずだと、「僕」が思うわけ。「兄貴がそういうふうにむきになってやったことなのだから、兄貴にはやったつもりがあると、僕が(こっちが)思って当然だろ」ということになるんだけど、無理矢理主語を入れると、やっぱり、ところどころ修正しないと日本語としては不自然になる。


2016年9月29日木曜日

今日は気分が「秋葉原系」だから、パソコンの本でも書こうかな

なんか今日は気分が「秋葉原系」だから、パソコンの本でも書こうかな。
なんか、秋葉原行こうかな。行ってもしかたがないんだけどな。昔は、マザーボードを見るのが好きでよく行ってたよ。

俺の人生、本当に、どうなってしまうのだろうか???

今日はもう、二回、外に出てきたので、あとはなにもしなくてもいいや。

なにをやっていてもヘビメタ騒音でつらいというのはかわりがない。もう、何十年もそうだ。毎日、そうだ。そうでない日が一日もなかった。そういう影響をきちがい兄貴は俺に与えている。けど、きちがい兄貴は、自分が五〇〇〇日以上にわたってやったことを、まるで、憶えてないという感じだ。憶えてないというか、やっているときから、俺にとって困ることだという認識がないのである。


だから、「どれだけやったっていいことをやっている」というような気持ちしかない。どれだけ、「困るからやめろ」「勉強するからやめろ」「明日テストだからやめろ」「宿題をするからやめろ」と言っても、自分がやりたい分だけはかならずやって、ゆずらない。

自分がやりたい分というのは、「全部!!!」なんだよ。

頑固に精密に几帳面に全部!!

一分だって本当に我慢するのはいやなんだから。ニセの我慢ならいい。本当はまったく我慢しない、ニセの我慢なら、ちょっとだけやってやる。けど、本当の我慢は、たとえ、一秒だろうがやってやらない。

こういう態度だ。


どうしてやってやらないかというと、やりたくないからやってやらないということなのだろう。で、一切合切「本当には」ゆずらないでやったのに、やったつもりがまったくないんだよな。

そういうマジックだ。そういうきちがいだ。

きちがい的な意地でやったことは、全部やってないのとおなじなのである。やっているときからそう。一秒ずつ、そう。一ピコ秒ずつそう。だから、ずーーーーーっとやっているのに、ぜんぜんやったつもりがしょうじないのである。だから、逆に「悪いとも思ってない」のである。だから、逆に、「悪いと思わずに全部やりきる」のである。そうやって、回転する。うちにいるあいだは、ずっとそうなのである。

だから、「うち」でやったことに関してはまったく悪いと思ってない。まったく関わったと思ってないんだよな。兄貴がやっていることで、こっちが困っているのに。そして、兄貴がやったことというのは、よそでは、一日に一分だってできないようなひどいことなのに……。きちがい兄貴は、自分が意地を張ってやったことがまったくわかってない。いま住んでいるところで、当時と同じように、最大限ゆずって鳴らせば、どういうことだかすぐわかるよ。譲歩しているつもりで鳴らしていた音は、普通の基準でいえば、爆音で、非常に!うるさい音だということがわかるよ。

けっきょく、そういう音では、あまりにも迷惑すぎて、一日に一分だって鳴らせないんだよ。嫁さんの親がこわくてできない。隣の部屋の人がこわくてできない。そういう常識外れなことは、できない。うちは、離れていたからな。幼稚園の敷地と、うちの敷地と、隣の家の敷地で、距離がある。だから、やれた。同じことを兄貴がいま住んでいるマンションでやってみろ。自分がどれだけ迷惑をかけていたかわかるから。

これ、兄貴は親父にやられたから、自分がやってもいいという無意識を持っている。そういう「踏み台」があるんだよ。だから、うちでやったことは、いまだに悪いことだと思えないのである。そうやって、俺の人生を破壊して、まったく破壊したつもりがない。つもりがなければ、どれだけやったってやってないのとおなじなのである。……これ、親父が兄貴にたたきつけたことなんだよ。俺にもたたきつけているけどな。

じゃ、親父は、そういうことを「たたきつけた」つもりがあるかというと、これまた、まったくないんだよ。そんなのは、知らない。じゃあ、普通に押し付けてきたときに……たたきつけてきたときに、やめてくれるかというとそれはぁ!!!ないんだよ!! これが、他の人にはわからないんだろうな。あとは、※強烈な催眠術※を自分にかけているから、本人は、他の人以上にわからない。やられたやつだけが、わかるというしくみが成り立っている。こんなの、ほんとうにない。ふつうの家じゃ、こんなのはない。本当に、こだわってこだわって頑固にやったことは、全部「やったってやってないこと」だからな。外見上、普通の頭がついているのにそういう認知だ。

きちがい親父が「おしつけてきたこと」というのは、相手にとって屈辱的なことなんだよ。ずるをして、人をいじめるようなものだ。

で、ずるをして、それを認めない。で、やってないことになっている。けど、それは、やっているときは、「あたりまえ」なんだよ。絶対にやめない。いつまでも、親のことをせめてないで、なんとかなんとかと言う人がいるでしょ。そういう人だって、俺に、そういうことをちょっとでもやられたら、「なんだぁ、おまえはぁ!!」と言って、ずっと怒っているよ。ずっと怒るよ。

親父がやったこと、一回分の、一万分の一でも、俺が他の人にやったら、他の人は怒る。怒って当然なのである。やられた方にしてみれば、屈辱的なことだからだ。だいたい、「やったってやってない」というのが、頭にくることなのである。そういう親父側のきちがい認知は、やられた方にしてみれば、許しがたいことなのである。

だから、「親をゆるしましょう」などと言っている人も、なんらかのことをやられれば、「なんだあいつは!!」って怒って、ゆるさない。で、そういう人は、家族じゃないから、絶交して関わりを持たないようにすれば、そういう「害」から身を守ることができる。

それに、やられたところで、一回ぐらいだろ。「親」という単語に惑わされている。これ、本当に、前も説明したけど、違う。「ひきこもり」とか「親」というような集合的な単語を使ったらダメだよ。個別の人間が重要だから。これ、つねに理論的な誤謬がある。で、理論的な誤謬について説明すると、いやな顔をするから、しないけど、理論的な誤謬がある。

個別の人間と集合名詞が、おなじレベルで使われている。内容が違う。本当は内容が違う。


   *     *     *

占いだけど、僕の占いは「言いがたい家族」と「休日のような一生」というのがキーワードになるんだよ。休日のようにすごしてやる!!!

2016年9月27日火曜日

兄貴には絶対に注意しないで、顔を真っ赤にして「チカシツ!!!チカシツ!!!」って言うんだよ

このまま歳をとって死んでいくのかなぁ~~~
力が出ない。

これどれだけ言ってもしかたがないんだけど、三年続いた時点で、すべてが終わっている。たとえば、高校入試の結果とか大学入試の結果などというのは、気にする必要がないという意見を持っている人もいるだろう。で、その人が言いたいことはわかる。けど、「結果」というよりも、高校入試までの三年間ずっと毎日、ヘビメタを普通に鳴らされ続けたということがでかすぎる。

これ、違うんだよな。

三年間、きちがいヘビメタ騒音に毎日邪魔されずに、入試に失敗した場合とは、違う。これ、本当、毎日というのがでかすぎる。マインドセットがどうしても鬱になる。ヘビメタ騒音生活というのがつらすぎる。どうしても、鬱になる。鬱というか、……なんていうのかな……ともかく、苦しい。先が見えない苦しさもあるけど、そういうことを全部抜いたとしても、一日に約七時間やられる平日は苦しすぎる。一日に一二時間やられる……普通にやられる……普通に鳴らされ続ける休日は苦しすぎる。どーーしても、どれだけ希望を持っても、……希望を持とうとしても……無理なんだよね。ふにゃけた感じになる。好きなことも嫌いになってしまう。ヘビメタ騒音のなかで、好きなことをやると、嫌いになってしまうんだよ。頭がこんがらがるし。

いまの季節、幼稚園が運動会の練習をしている。で、これは、けっこうでかい音が出ている。けど、幼稚園ぐらいの騒音だったら、なんとかなったのにな。俺が騒音に敏感だと思っている人は、ちょっと、でかい幼稚園とか小学校の真横に住んだ方がいいよ。かなりうるさい。で、俺はそういう騒音に絶えられる人間なのだから、普通の意味で騒音に弱いとは言えない。本当にヘビメタ騒音が破格だった。あんなの、ない。きちがい兄貴だって、目の前がでかい幼稚園で、隣の家と離れているような状態でなければ、あの音のでかさでならすことなんて、一日に一分だってできないことなんだよ。


けど、うち、は、幼稚園の敷地と、自分の家の敷地と、道路と、隣の家の敷地の都合上、離れていた。隣の家とけっこう距離があるんだよ。で、隣の家の、兄貴のスピーカーから、一番と奥の部屋に入った場合どのくらいの音で聞こえるのか、ぼくはわからない。


けど、それは、きちがい兄貴の騒音が、小さかったということではないんだよ。これ、わからないのかもしれないけど。ともかく、距離がでかい。音のでかさは距離の二乗に反比例しているから。二乗。思った以上に距離が演じている役割がでかいんじゃないかなと思う。そんな音で鳴っているのに、隣の人が文句を言わないのはおかしいと思う人がいるんだけど、隣の家が離れている。

あとは、目の前にでかい幼稚園の敷地がある。この敷地は、本当にけっこうでかい。隣の家の人は、隣の家の人が庭に出ていたとき、塀越しに「あの音がうるさい!!」と言ったことがあるんだよ……親父に聞こえるように。で、親父は「せっかく、人の息子が鳴らしているのになんだ」というようなことをつぶやいて、顔を真っ赤にして、ゴミ燃やしだよ。そういうところがあるんだよ……。親父は一つ一つのものの感じ方が、根本的におかしい。

騒音に関する法律というのは、実は、条例しかない。条例というのは、市が制定する法律だ。で、また、騒音に関する項目があいまいなんだよね。そうなる理由はある。そうしておかないと、工事などができなくなる恐れがあるからだ。たとえば、昼間八〇デシベル以上の音を出してはいけないという法律を作ると、工事などができなくなってしまうのだ。


で、八〇デシベルと定めた場合、それなら、七九デシベルでずっと鳴らすのはよいということになってしまう。八〇デシベルと七九デシベル、大差はない。条例に決まりがない場合、刑法じゃなくて民法の世界になる。で、民法というのは拘束力が弱い。しかも、「家族の構成員が出している騒音」というのが、ものすごくやっかいな問題になる。これ、いまは、「そんなことないんじゃないの」という話になると思うけど、昔は、「家のことは家で解決してください」というスタンスが一般的だった。家族の構成員による暴力と、まったく関係がない他人による暴力は、感覚的に扱いが違っていた。

まあ、ともかく、きちがい兄貴の騒音というのは、二〇メートル離れれば、家の外壁二枚、部屋の壁数枚を隔てて離れれば、そんなに気になるような音ではないのかもしれない。けど、それは、壁の後ろにきちがい兄貴のスピーカーがあるような僕の部屋では、まったく、成り立たない。話が違う。これ、なんて言うのかな、そんなでかい音で鳴っているなら、二〇メートル離れていても問題になるだろうと思うかもしれないけど、違うんだよね。二〇メートル離れているところでもんだにならないような音なのであれば、たいした音ではないのだから、三〇センチ横で鳴っていてもたいした音ではないということが言えるかというと言えない。まあ、二〇メートル離れていれば、問題にならない音のでかさなのかもしれないと僕が言ってしまうと、それなら、そんなにでかくない音なんだろうと思うかもしれないけど、違う。これ、本当に距離でぜんぜん違う。聞こえるけど、作業ができないほどの音ではないというレベルまで減衰するのに、一五メートル、必要じゃないのかもしれない。

まあ、ともかく、よそのうちでは一分だって鳴らせない音で、毎日鳴らしてあたりまえだと思って、きちがい兄貴は、一五歳から三〇歳まで暮らしていたわけで、それが僕に与えた影響というのがでかすぎる。ともかく、兄貴がいま住んでいるところでならせないほどでかい音なのは確かなんだよ。兄貴に言っておく。かつて自分が自分の部屋で鳴らしていた音が普通の音だ(そんなにうるさくない音だというのであれば)いま住んでいるところで鳴らしても問題はないわけだから、鳴らしてみろ!!! 一日に三〇分でいいから鳴らしてみろ。横の部屋の人から、絶対に文句が出る。

で、おなじ階の一五メートル離れた部屋の人から文句が出るかどうかはわからない。おなじマンションのおなじ階であったとしても、二〇メートル離れれば、たぶん文句は出ないと思う。けど、じゃ、隣の部屋の人にとってそれが騒音でないかというと違う。

ともかく、兄貴はいま住んでいるマンションで、当時「あたりまえ」だと思っていた音で、鳴らしてみろ!!と言いたい。そうすれば、僕の言っていることが正しくて、兄貴の騒音に関する……あるいは音のでかさに関する感覚が間違っているということが、明らかになるから。すくなくても、兄貴のマンションの住民には明らかになるから。で、別のところに住んでいる人にも明らかになるかというと、それは違うんだよね。そりゃ、一キロ離れているところに住んでいる人は、兄貴の騒音がどういうものかわからない。

ともかく、兄貴は「よそ」じゃ、一日に一〇分だって鳴らせないようなでかい音で、一日中、鳴らしてたんだよ。で、「うち」の人がどれだけなにを言っても、聞かなかった。それは、親父譲りなのである。親父とまったくおなじ。「うちでなら、このくらいの音で鳴らしていい」という決めつけがあって、どれだけなにを言われても、一分だって、鳴らさないで静かにしてやるつもりにはなれなかったのである。だから、一四時間鳴らせるなら、自動的に一四時間鳴らして、どれだけなにを言われても、ゆずらなかった。これが兄貴のしてきたことで、同じことを、よそでできるのか?と言ったらできない。兄貴には都合がいいズレがあるから、自分でぜんぜん気がつかないだけ。うちでは、自分が思ったとおりの音で鳴らせて、あたりまえだという、思い込みがあって、その思い込みに反することは、意地でも認めなかった。そして、認めなかったということも認めてない状態なのである。こういう、状態。これは、誰が「うち」でやり始めたことかというと、親父がやり始めたことだ。

で、親父がやったことを、兄貴がヘビメタでやっているだけ。やり方は全部おなじだから。そこで成り立っている「やっていい」「やってあたりまえだ」という感覚がおなじ。自分が認めるとなると不都合なことになる場合は、まったく認めなくていいいという感覚がまったくおなじ。どれだけなにを言われても……「うち」のひとにどれだけなにを言われても、自分がひどいことをしているという感覚がない。自分が非常識なことをしているという感覚がない。自分はあたりまえのことをしているまでだという感覚のまま、やりきる。

で、「やった」と言われると「やってないやってない」となる。これ、本当、ビョーーーキだから。頭の病気に近い。けど、使い分けができるのだから、器質的な病気じゃないんだよな。これ、どういうことかというと、たとえば、認知症の症状が出ている場合、「うち」と「よそ」を使い分けて、「よそ」では、認知症の症状が出ないようにするということができない。脳の機能障害の場合は、「うち」と「よそ」を使い分けて、症状を出すということができないのである。うちでもよそでも同じことをするから、よその人にわかりやすいのである。

一方、脳の器質的な障害ではない場合は、使い分けができる。「うちでは」こう。「よそでは」こう。うちの人には、これであたりまえ」「よその人には、これであたりまえ」というような使い分けができる。使い分けができるということは、どんなに器質的な異常に見えても、けっきょく、ソフトウエアの異常なんだろうなと思う。けど、ソフトウエアの異常だからどうにかなるかというと、ならないんだよね。「うち」にいる限り、どうにもならない。



兄貴が、あそこの廊下で、「鳴らしたっていいだろ」という感じで、振り向いて、自分の部屋に入ろうとして歩いているときの、破滅感といったらない。俺、体調が悪いとき、いつも、そのシーンを思い出す。本当に殺して静かにさせたかった。警察官が帰ってしまったら、いつものように鳴らすのだろうけど、それでも、警官を呼べばよかった。家族で話し合ってください」って、親父は、兄貴の味方をして、絶対に注意しないという状態だ。それから、頭がおかしいから、どれだけ、でかい音で鳴っているといっても、自分で確かめるために帰ってこない。きちがい親父は、日曜の午前中の音しか知らない。日曜の午後は、それよりも、音がでかいのである。で、これまた、一四年間ずっと言い続けても、そこのところが、「通じない」という状態なんだよ。頭がおかしいから!! 

こんなの本当に、よその人にはわからない。「お兄さんと相談すればいい」「家族で話し合えばいい」「親はなんていっているの?」「親がなにもいわないんだったらたいした音じゃないんじゃないの」とこうだよ。死にたい。お母さんは、まったく頼りにならないし、親父はむしろ妨害する。親父が関わったら、ちゃんとまとまるものもまとまらないということになる。これは一〇〇%そうなる。で、もともと、まとまらないものだと、なんていうのかな? もっとひどい目に遭わされるんだよ。

きちがい兄貴のことで精一杯なのに、余計なことをされて、面倒が増える。俺のピンチをさらに、ピンチにするようなことしかしない。で、そういうことだって、親父としては、「助けてやる」つもりでやるんだよ。意識上は。けど、違うんだよね。ここでも、こっちが頼んでいることは、絶対にやらないで、きちがい親父が思いついたことしかしない。

で、きちがい親父が思いついたことというのは、「このハンダゴテを持っていけ」みたいに無意味で腹立たしいことなんだよ。で、一回言い出したら、聞かない。こっちを困らせているのに、……親父の提案?でこっちが困るのに、困るということを、どれだけ説明しても、認めないんだよ。

で、いったんそっちの方向に向かって、エンジンがかかると、きちがい的な意地で余計なことをやろうとする。だから、ただでも、きちがい兄貴の騒音で困っているのに、親父のきちがい的な提案の「火を消す」ということをしなければならなくなる。これが、もう、本当に、死にたい気持ちになる。火事で、焼き出されて、ボロボロになって歩いていると、盗賊がやってきて、身ぐるみはがれて、困りまくるというような状態になる。

親父は、一〇〇%の確率でこっちが困ることしかしない。親父の提案というのが、「それじゃぜんぜん解決しない」ということなんだよ。大学入試の時だって、「地下室を作る」とか言い出して、「地下室を作ることに」こだわりまくる。もう、入試一週間前
で、そんなことしている暇なんてないのに、「地下室を作る!地下室を作る」「地下室!!地下室!!」って言いまくる。

(こっちが)兄貴に注意してくれと言うと、兄貴には絶対に注意しないで、顔を真っ赤にして「チカシツ!!!チカシツ!!!」って言うんだよ。これは、兄貴に注意するが嫌だから、そういう風なことを思いついて、そういうふうに言い出す。こっちが注意してくれと言ったら、「チカシツチカシツ」と言えば、もう、注意しなくてもいいことになる。注意をする代わりに、地下室を作ってやるということだから、注意してくれ」と言われたら「チカシツ!チカシツ!!」って言えば、それで、言い逃れることができる。

「注意してくれ」という要求をはねのけることができる。そういうことをして、実は、兄貴に注意をしなかった。そうやって、大学入試の前に、注意してくれなかったのに……いま、「注意してくれなかった」と(こっちが)言うと顔を真っ赤にして「チュウイシタ!!チュウイシタ!!」って言う。

おなじ!! まったくおなじなんだよな。

やっていることが!!!

親父は兄貴に「鳴らさないで静かにしてやれ」「一日中鳴らさないで我慢しろ」ということを一切合切言ったことがない。俺が設けた、家族会議の場で、兄貴の顔を見ないで、「静かにしてやれ」とぼそっとヒトコト言っただけだ。

高校入試の時に一回、大学入試の時に一回、計二回しか言ってない。それから、兄貴は、あれで、「静かにしてやったつもり」だから、「静かにしてやれ」だと、まったく意味がないんだよ。鳴らさないで!!とか、ヘッドホンをつけて静かにしてやれということじゃないと意味がない。きちがい兄貴の基準だと、一日に五分間、一万分の一音を下げてやればそれで「静かにした」ことになるので、「静かにしろ」じゃまったく意味がない。実際に、家族会議のあと、二階に上がって、その日も、一分だって、鳴らさないで静かにしてくれなかった。

どでかい音で鳴らして、きちがい兄貴が「静かにしてやった」と思うだけだ。そういうことになって、何千日経過していると思っているんだよ? これ、本当に、きちがい親父に関わると、全部そういうことになる。きちがい兄貴のやり方が、きちがい親父とおなじだから、きちがい親父は、浄化することができない。で、きちがい兄貴をきちがい兄貴にした、元のやり方で、俺を困らせることしかできない。地下室を作ったとしても、きちがい兄貴が全部の時間、鳴らさないで静かにしないと困るんだよ。地下室を作るのに、いくらかかると思っているんだよ。もう、家が建っているのに、そういうことを言い出す。

きちがい兄貴が、一日中ヘッドホンをして我慢すれば、それでおしまいなのに……問題解決なのに、きちがい兄貴が一日中ヘッドホンをつけて我慢するというのは、可能性としても、考えれることがなかったのである。それがうちの家族会議の中身だ。親父と兄貴が、「兄貴が少なくても入試が終わるまでは、一日中ヘッドホンをして静かにする」ということについて、可能性すら考えない……これが、家族会議の結果だ。ヘッドホンをすることなんてできるのに、絶対にできないこととして考えられている。

で、それは、親父も兄貴もおなじなのである。親父は、その家族会議では、言わなかったけど、「一日中静かにしろと言ったら(兄貴が)かわいそうだぁ」なんてことを言ってたのである。それはどうしてかというと、「絶対に、兄貴に注意したくないから」なんだよ。「兄貴に注意したくない」ということに一旦なると、もう、絶対にそうしない。無意識的な要求が「兄貴に注意しない」ということになると、頭がおかしい理由をつけて、注意しないのである。

で、これまた、本当はそういうふうに意地を張って、なんだろうが注意してないのに、注意する必要がなくなったら……(兄貴がうちを出て、よその人になったら)……「チュウイシタ!!!チュウイシタ」の一点張りになる。おなじなんだよ!!! 「注意してくれなかった」というと「注意した注意した」って始まる!! 兄貴も、本当は、静かにしてくれなかったのに、……入試だろうがなんだろうが、一日一分だって「本当には」静かにしてくれなかったのに、「静かにしてくれなかった」というと、「静かにした静かにした」って始まる。どっちも、嘘をついているつもりがない。じゃあ、あの意地はなんなんだと言うことになるんだけど、意地を張ってやっていることに関しては、本人は、つもりがないことになってしまうのである。一度つもりがないということになってしまうと、「やってない」ということになってしまう。これもおなじなんだよね。そういうことで、俺がどれだけ困ったか!!!! そういうことで困らされている最中、入学試験に行ったんだよ。

前日も、普通の日と同じように、可能な時間は、全部きちがい兄貴が、ぜんぜん我慢しないで鳴らしまくる。試験から帰ってきたきも、ヘビメタが鳴っている。次の週にもうひとつ別の大学入試がひかえているというのに、一分だって「本当には」静かにしてくれない。

きちがい兄貴の静かにしたというのは、本人がまったく我慢しないで、思いっきり鳴らして、静かにしてやったということだから、静かにしてない。これ、本当に、よその人は信じないかもしれないけど、五分間、一億分の一音を下げてやれば、一日に一四時間、どでかい音で鳴らしていても、本人のなかでは「一日中静かにしてやった」ということになってしまうのである。

だから、そういう「静かにする」ではなくて……兄貴が思いっきり鳴らしたい音で鳴らして静かにするとかそういうことではなくて、「鳴らさないで静かにする」ということが、一分も、一秒も成り立たない。きちがい兄貴の頭の中でだけ、静かにしたということになっていて、実際には、きちがい兄貴が……ヘビメタが好きなカオ君も驚くようなでかい音で!……ずっと一日中鳴らしまくるということになってしまう。。そういうきちがいじみたことが平気で行われる。きちがいの意地が一〇〇%成り立って、困らされている人の意地が〇%しか成り立たない。まったく、無視されて、おなじように「や・ら・れ・て・い・る」状態になってしまうのである。そういう一日だ。どれだけ、もめたって、そういう一日になる。



2016年9月24日土曜日

元の刺激がなくなれば、元に戻る地点というのを、こえてしまった

俺は、いま!!ヘビメタ騒音でからだがつらいんだよ。いま!!かつて一四年間と数ヶ月続いたヘビメタ騒音で、からだがつらい。「いまは鳴ってないのだから、影響はないだろ」ということではないのだ。そうだといいのだけど、実際にそうじゃない。

これは、閾値があるんだと思う。リターン可能な状態とリターン不可能な状態というのがあると思う。続きすぎて、リターン可能な状態をこえてしまったんじゃないかなと思う。

リターン可能な状態というのは、元の刺激がなくなれば、元に戻るという状態だ。元の刺激がなくなれば、元に戻る地点というのを、こえてしまった。これは、地点じゃなくて、時間でもよいわけだけど、ともかく、リターン可能なポイントというのがあって、そのリターン可能なポイントをこえてしまったら、騒音障害の場合は、ダメなんじゃないかと思う。

昔は、チェーンソーを長く使っていた人は、チェーンソーを使うのをやめたあとも、手が震えるという症状に悩まされていた。職業病というのだろうか。いまは、どうだか知らない。チェーンソーが改善されたかもしれないし、一日に使う時間を制限されているかもしれない。あまり、いまはそういう話しは聞かない。

あまりにも長い期間(毎日)騒音にさらされ続けると、はっきり言うと、「虚弱体質」みたいになるんじゃないかなと思う。あとは、あまりにも長い期間、毎日、ある一定の時間の長さ、ある一定の音量の騒音にさらされ続けると、「睡眠回路」が壊れるのではないかと思う。

で、その睡眠回路の異常というのは、元の刺激(ヘビメタ騒音)がなくなっても続くんじゃないかなと思う。からだのしんどさとか、他の人にはわからないけど、ぼくにはわかる。で、これ、ヘビメタ騒音のしんどさだから。ヘビメタ騒音が鳴っていた期間に感じたのと同種類のしんどさだから。だから、ヘビメタ騒音がこのしんどさと深い関係があると思う。


   *     *     *


本当に、なんでこんなに通じないんだろう。きちがい兄貴にも、よその人にも。もう、つかれた。わかる人は一発でわかるのに、どうしてわからない人は、どれだけ説明してもわからないのだろう。おかしい。まあ、「全部読め」とは言わないけど……。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っていた期間に関しては、そのまま、さっき書いたままの設定(事実)で説明しているから、矛盾が生じるということはないはずなんだけどな。説明がたりないか。

それにても、レビューがひどいな。半々であるはずなんだけど、肯定的な人がぜんぜんレビューを書かない。否定的な人ばかりレビューを書く。僕が生きてきたなかで、複数の人がいるところで、ヘビメタ騒音のことを説明すると、だいたい半々に割れたんだけどな。なんで、肯定的な人はレビューを書かないのか。そもそも、読んでないのかもしれないけど。

おまえ、足かけ一五年間(一四年と数ヶ月)毎日やられてみな。わかるから。まるで俺が、ひとりでこだわっているように思うかもしれないけど、きちがい兄貴がこだわりつくして、一四年と数ヶ月、毎日、可能な時間はすべて使って、鳴らしたんだ。それが影響しないわけないでしょ。俺の人生は俺の人生で他の人の人生じゃない。他の人にとって僕の人生はどうでもいいことかもしれない。僕の人生がどうでもいいという人から見れば、僕が、きちがい的にヘビメタ騒音にこだわっているように見えるのだろうけど、それ、違うよ。

一〇代の九年(これ、一一歳から一九歳までの九年でという意味で九年)ヘビメタを鳴らされていたら、人生全部に影響があるよ。で、九年と言って、一四年と数ヶ月と言わないのは、一〇代にこだわった言い方だからそうなる。

これ、一四年間鳴っていたのか、九年間しか鳴ってなかったのか、疑問に思う? 「年数が違う」のは、そういうことだから。試しによく読んでみな。ちゃんと、そういうふうに書いてあるから。

それから、柳荘(まるまる荘)に出る前と、出たあとを、わけて書いているときがあるんだよ。まるまる荘ってアパート。(まるまる荘に出たのは二一歳の時)(で、まるまる荘を借りたんだから、いいじゃないかということになりそうなんだけど、そうじゃないんだよ。

風呂と夜ご飯のために家に帰っていた。これ食費を浮かすため。だいたい、一日に一食しか食べない時期もあったんだよな。柳荘時代。で、家に帰って、僕がご飯を食べたあと風呂に入るわけだけど、その三〇分間、きちがい兄貴がヘビメタをやめてくれない。その三〇分やめてくれれば、ぼくは、一日中ヘビメタから解放されることになるんだけど、飯を食っているあいだ、風呂に入っている間、ヘビメタ騒音にたたられることになる。

で、そのヘビメタ騒音というのは、二一歳まで苦しんだヘビメタ騒音そのものなんだよ。たぶん、曲もおなじなんじゃないかな。きちがい兄貴は本当にこだわりつくしておなじ曲を何回も何回も、何万回も聞きやがって。どうして、一日にたった、三〇分なのに、それも俺がいるあいだの三〇分なのに、その三〇分ですら、一分たりとしてやめてくれないのか。「鳴らしてたっていいだろ」というおなじ理屈で鳴らしている。

もう、二一歳の時に、(三浪で)人生がぶっ壊れていた。どうして、三浪しなければならなくなったかというと、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が、小学六年生の時から鳴ってたからだ。中学三年間と、高校三年間ずっと毎日、鳴らされている。休みの日なんて、ヘビメタの時間が長くなってしまう。中間期末試験中もずっと鳴らされた。早帰りでかち合うと、鳴ってるんだよね。まあ、かち合わなくても、きちがい兄貴が五時に、家に帰ってきたら、五時から、容赦なくヘビメタが鳴ってしまうわけで、つらかった。

五時から、どれだけ何回文句を言いに行っても、一分もやめてくれなかった。それが、きちがい兄貴の態度だ。で、この六年間のことを「六年間」と言っているのであって、矛盾してない。ちゃんと、「中学三年間と高校三年間、合計六年間ずっと毎日鳴ってた」と書いたでしょ。これは、六年しか鳴ってないというわけではなくて、中学高校の六年間毎日鳴ってたということを言いたいわけ。だから、「一四年と言ったり、六年と言ったり、矛盾している」というわけではない。実際には、最初の高校入試前日だけ、静かにしたから、六年マイナス一日なんだけど、そういうことも、ちゃんと書いてある。繰り返しになるけど、「六年と言ったり、一四年と言ったり矛盾している」というわけではないんだよ。

僕がこだわりつくしているように見えるんだろうけど
やられれば、わかるよ。やられれば。同じようにこだわると思うよ。

人生の一番大切な時間を、時期を、つぶされた。いまだにくるしい。こだわらないという方がおかしいのではないか。もっとも、他人は他人で、他人事は他人事だから、わからないのだろうけど。たとえば、僕のしんどさが、その人に直(ジカ)に伝わるわけじゃないから。これ、直(じか)に伝わったらわかるよ。「この人がこだわるには理由があるんだな」「不自然なことじゃないんだな」とわかるよ。もっとも、僕のいま現在のだるさが、他の人に直に伝わることがないから、わからないのだろうけど。


直に伝わらなくても、だいたい、半年間やられて、その半年間、学校に通っていたら、わかる。これ、もうリターン可能地点をすぎたあとだから、あんまり、違いがわからなくなっているのだけど、ヘビメタ騒音をおなじ時間帯におなじ時間の長さやられて、なおかつ、「通っていたら」わかる。通っているのと通っていないのとでは、違うんだよね。通っているときのつらさかが半端じゃない。朝のつらさが半端じゃない。日頃のつかれが半端じゃない。日頃の切迫感、不安が半端じゃない。どうしても、絶対にやめない兄に対するいらだちが半端じゃない。これ、本当に鳴らされているときだけ、うるさくてつらいというのではなくて、通って行った先で、つらい思いをする。学校でつらい思いをする。別に学校じゃなくてもいい。職場でもいいんだけど、ともかく、「通っている」場合と「通っていない」場合は違う。

六年間と半年、足かけ七年間、通っていたから!!通えないからだになってしまったというわけ。「七年と言ったり、一四年と言ったり、矛盾している」というわけじゃないんだよ。


   *     *     *

いま、ヘビメタ騒音にこだわっているのは、異常なことじゃない。直に僕のだるさが伝わるのなら、いまこだわってい理由がわかる。自分が本当に、ヘビメタ騒音を一四年間もやられて、仕事ができない状態になれば、いま!!!こだわる理由がわかる。いまこだわる理由がわからなかったり、いまこだわっている僕が「異常」に見えるのは、君と僕が、違う個体だからだと思う。直に僕の苦しみが伝わらないからだと思う。かつての苦しみじゃなくて、「いま」の苦しみね。人生なんていくつからでもやり直せるとか言う人がいるけど、いま!僕はくるしいんだよ。いまでも、どこかに時間通りに行かなければならなくなるとなると、ものすごくくるしい。


いま、睡眠回路の異常で困っている。いま!!いま!!! 現在進行形で困っているわけだから、そりゃ、「こだわる」でしょ。いまの問題なのだから。どこかに時間通りに行かなければならなくなったときの朝の状態が直に伝わるなら、その人だってわかるよ。ヘビメタ騒音生活が、七年間続く前は、朝がつらいと言っても、つらいのつらいが違うんだよ。

七年間と言っているのは、七年間持続したあとは、おなじだという意味。ヘビメタ騒音生活が七年間しか続かなかったというわけではなくて、七年間続いたら、そういう状態になるという意味。鳴っていたのは一四年間と数ヶ月だけど、遅くても七年目には、だめになるという意味。それ以降治ることがない異質な朝のつらさを経験することになるという意味。

七年目以降は、どれだけがんばってもだめ。だめになる。だから、ヘビメタ騒音が七年間しか鳴ってなかったという意味ではない。わかるかな? ちゃんと、全部使い分けているから。そういう視点を持って読み直して!!

ヘビメタ騒音は、合計で一四年と六ヶ月だ。きちがい兄貴の意地って、本当に、他の人にわからないから!!!!!

ヘビメタ騒音は、合計で一四年と六ヶ月だ。
六年とか七年と言っているのは、ヘビメタ騒音が鳴っていて、なおかつ、「俺」が学校に通わなければならなかった期間だ。一〇年と言っているのは、「俺」がまるまる荘に出るまでだ。なにも矛盾してない。
それから、家の前がでかい幼稚園(小学校ぐらいの敷地がある)で、道路や敷地の関係から言って、(隣の)家が離れている。(ちなみに、西の隣の家に関しては、西の隣の家の人が絶叫しても僕には聞こえません)。北はちょっと違うんだよね。けど、当時は、北の家も離れていた。いまの北の家は、違うけど。南はずーーっと幼稚園の敷地で、きちがい兄貴は子供たちや職員がいない時間に鳴らしている。日曜日は幼稚園は休みで誰もいなかった。東は、当時空き地。(僕が高校三年生になるまで空き地。いまは違う。)なにも矛盾してない。全部読めばわかる。矛盾してないんだよ。これ、本当に、なんていうのかな? 家の外壁と空気がある空間(なにもない空間)があると、だいぶ違うんだよね。俺の部屋のすぐ横に、スピーカーが設置してあるような感じだから。外壁があると、だいぶ違うんだよね。床が「地続き」なのと、外壁がある場合は、音の伝わり方、でかさがぜんぜん違う。兄貴の部屋の床と俺の部屋の床は、つながっているから。


ヘビメタ騒音のことを説明しなければ説明しないで、「俺」が勝手にサボっているように思われるわけだからな。まあ、説明したって半信半疑である人が、半数ぐらいいると思う。その人たちは、しあわせな家に育ったのだろう。

「そんなでかい音で鳴っていたら、いっくらなんでも、問題になる」と思う人がいるかもしれないけど、そうじゃないんだよ。音の伝わり方というのがわかってない。居酒屋に入ればわかるだろ。一号室でものすごい音で鳴っているとする。それが、一三号室では、たいして聞こえないだろ。じゃあ、一号室の室内や、となりの二号室でものすごい音じゃないかと言えば、ものすごい音なんだよ。

居酒屋じゃなくてアパートで考えてもいい。一号室で鳴っている音は、二号室で聞くのと、一三号室で聞くのはぜんぜん違う音なんだよ。広域放送が遠いところでも聞こえるのは、高いところにスピーカーがあるからです。真横で、二つの部屋の位置関係が平行である場合とは違います。(一三号室でも聞こえるかもしれないけど、そんなに問題にならない音になっている)

いずれにせよ、「兄」はいま住んでいるところで、ヘビメタを鳴らせない。うちで鳴らしていたようには鳴らせない。どうしてかというと、ものすごくでかい音だからだ。「兄」の部屋から外を見ると、でかい幼稚園の敷地と、その後ろにある林が見える。だから、本当に場所的には、横の部屋のことさえ考えなければ、鳴らせる。(当時の横の人から証言は得ている。けど、巻き込まないでくれとも言われている)

もし、マンションだったら、絶対に、うちで鳴らしていたような音では鳴らせない。当時の「兄」でも鳴らせない。実際、いま、どれだけ「俺」が(「兄」に)「鳴らせ」「ならせるなら鳴らしてみろ」と言っても、鳴らさない。鳴らせない。いま兄が住んでいるマンションでは、一分だって、うちで鳴らしていた音では鳴らせないのである。文句が出るからな。

「うち」の文句は、親父のように腹を立てて、握りつぶしていたのである。「よそ」の人に対する態度と「うち」の人に対する態度が違うと言っているだろ。本当に、催眠術にかかったように違うんだよ。本当に「よそ」の人たちは、わかってないな。だから、証言を集めただろ。本当に「うちでの」親父の態度と兄貴の態度は、「よそ」の人に説明しても、わかってくれない。

警察に相談しなかったのは、僕の失敗だけど、兄貴は、「よそ」の人が帰ってしまったら、そのまま鳴らす。ずっと、監視してくれるわけではないので、警官が帰ったら普通に(でかい音で)鳴らしていたのではないかと思う。当時は、「うち」のことは、「うち」で解決してくださいという風潮があった。DVも認められてなかった。(警察が)そのうち、こなくなってしまうのではないかという恐れがあった。けど、電話をするべきだったと思っている。(親父とお母さんの態度というのは、ベクトルはまったく違うけど、警察には相談しない。親父は、まったくわかってない状態だからね。兄貴のようにまったくわかってない。兄貴がでかくなったら、文句を言えない状態になってしまって、それからは、一切合切無視だよ。お母さんは、当時も病気で(リュウマチ・膠原病・薬の副作用)、俺の話を聞いて、困っているだけだった。たぶん、元気でも警察に相談するとかそういうことに関しては、まったく力になってくれないと思う。)

もう、死ぬかな。この警察に関してだけは、本当に、そのうちこなくなるにしろ、何回も相談するべきだったと思う。親父を無視して、相談するべきだった。で、法律を調べたら、騒音に関しては条例でしか決まってなくて、まるまる市の騒音に関する条例が非常にあいまいなもので、あんまり頼りにはならなかった。当時の僕は、まず物理的な「音量」の測量が必要だと考えてしまった。

本当に死のうかな。なにもあんなに意地になって鳴らさなくてもいいのに。
親父にやられたことを、全部俺にやり返している。親父がやったのとおなじやり方で、やり返している。本当につらい。


きちがい兄貴の意地って、本当に、他の人にわからないから!!!!!

   *     *     *



今週は、ずっと、風邪気味で、寝てたんだけど、その時に去来することが、……。本当にくるしかった。ともかく、死にたいな。これ、本当にそんなにわかりにくいことかな? いやだな。俺が当時六年間、普通の友達にはヘビメタ騒音の愚痴を言わないで、誤解されたまま耐えてたんだよな。親友にはずっと言ってたけど。それに、親友は僕の部屋に入って、どのくらいの音で鳴っているか知っているから。で、俺、薬局の前で、兄貴が将来すっとぼけたことを言ったら証言してくれと、頼んだから。あのときに、ぼくはもう、兄貴の将来のすっとぼけた態度を予言してたんだな。


本当に、俺が悪く言われる。死にたい。どっちにしろ、俺が悪く言われるんだよな。兄貴の「うちでの」感覚が異常だから。これ、本当に、平日も休日も、騒音でつらい……。うちの前がでかい幼稚園だということや、家が離れているということが、ものすごく影響を与えている。これが本当に、マンションだったら。絶対に、兄貴は、うちで鳴らしていたような音では、一分も鳴らせない。午後一〇台の音だって、家が離れていたから、鳴らせていたわけで、家が近かったら絶対に鳴らせない。午後一〇時台の音は、九時台の音よりは下げている。けど、それだって、気分が乗っていたら、下げないわけだよ。じゃ、きちがい兄貴よ、当時の一〇時台の音で、いま住んでいるマンションで鳴らしてみろ。一日でいいから鳴らしてみろ。鳴らせないだろ。一〇台の音も、うるさいからね。普通の感覚で言えば、じゅうぶんうるさい音なんだよ。当時の兄貴にはこれがわかってない。それから、「うち」でやったことに関しては、絶対に悪いと思わないんだよ。そういう感覚の持ち主だ。いま現在、他の人には、一分だってできないことでも、うちでは、一日中やって平気だった。俺とお母さんなら、まったく気にしなかった。そういうことだ。

もう、本当に死にたい。これが、兄貴のヘビメタ騒音を実際に聞いたことがない人には、わからない。わかりにくいことなんだよな。騒音って、本当に音の伝わり方で、違うんだよ。でかい音は、同じようにでかい音だというような感覚があるけど、位置によってぜんぜん違う。

兄貴が、普通の感覚だったら、うちでも、一日に一分だって、そういう音では鳴らせない音なんだよ。「うち」では、やってもいいとふんでやったから、まったく悪いと思ってないだけで……。壁のすぐ後ろにあるスピーカーから出ている音というのは、外壁を挟んで離れた家で聞いている音とは違う。

で、他の人は、当時の俺には影響があったかもしれないけど、いまの俺には影響がないと思うんだよね。「いま鳴っているわけじゃないんだから」と。けど、これも違うんだよな。一四年間鳴らされて、人生を破壊され、生活体力をうばわれ、睡眠回路を破壊され、すぐに疲れるような体にされ……。これ、本当に、他の人にはわからないんだろうな。俺がいま感じているだるさ、つかれやすさというのがわからない。一四年……まるまる荘に出たあとも含めて……だるくてだるくてしかたがない。それで、けっきょく大学には通えず、アルバイトもできず、就職もできず、……。もう、通うということ自体が、ヘビメタを七年間やられたあとは、ダメなんだよ。ここで、七年間というと、一四年間じゃないじゃないかと言われるけど、七年でダメなんだよ。からだがだめになるまでの時間というのは、一四年間じゃなくて七年間。一応俺のなかでは、わけて書いているから、他の人にはわかりにくくなっているか。通勤通学ができないからだになるまでの期間が七年間。小学六年生から高校三年生までの七年間。死にものぐるいで通学していた七年間。(六年と半年)足かけで七年間。六年と半年死にものぐるいで通っていたから、通えないからだになってしまった。そういう話しだ。矛盾してない。

幼稚園の子供が絶叫しても、勉強ができないということはない。聞こえるは聞こえるけど、うるさくて勉強できないという感じではない。どうしてかというと、離れているから。幼稚園とうちでは、うちの庭と幼稚園の園庭のぶんだけ離れている。けど、幼稚園の校舎は、かなり境界線に近い位置にある。それでも、幼稚園生が絶叫しているからといって、奇声をあげているからといって、勉強できないほどではないんだよ。この距離ですら、そうなんだよ。実際、僕は、幼稚園生の声には、元気をもらっている。別にうるさいと思わない。実際音量的にも、ヘビメタ騒音とは比べものにならないほど、静かだから。けど、それは、距離の問題でそうなっている。耳元で幼稚園生が毎分毎秒、絶叫していたら(奇声をあげていたら)うるさいと思うのである。勉強できないほどうるさいと思うのである。ヘビメタ騒音の音のでかさが、幼稚園の園舎の中でどのくらい聞こえるのかわからないけど、僕の位置を中心にして考えると、ものすごく大きな違いがある。たとえ、幼稚園生の絶叫が、耳元では騒音であったとしても、庭の分だけ離れているから、そんなに聞こえない。別に、邪魔だとは思わない。幼稚園生が絶叫する声の音が、物理的におなじだったとしても、距離で聞こえ方がぜんぜん違う。幼稚園の園舎の方が、当時の隣の家よりも、近いんだよね。どの隣の家よりも近い。どの隣の家といっても、二軒しかないけど。
いま、複数の幼稚園生が園舎の中で、同時に絶叫していたとしても、「元気があるな」ぐらいにしか感じないけど、耳元で(毎分毎秒続けて絶叫されたら)やっぱり、腹が立つと思う。そういう違いがある。うちのヘビメタ騒音に関しても、そういう違いがある。兄貴が鳴らしている時間、園舎には人がいない状態だったけど、園舎の中にいるのであれば、兄貴のヘビメタ騒音はそれほど気にならない音なのかもしれない。離れているから。「聞こえはするけど、うるさくて勉強ができない」というような音ではないのだろう。園舎の中にいれば……。兄貴がうちでヘビメタを鳴らしていて、その時僕が、幼稚園の園舎の中で勉強できるなら、それほど問題にはならなかったんだろうな。兄貴のヘビメタは、耳元で絶叫されているとおなじだから。距離の問題なんだよ。それに幼稚園だって、つねにうるさくしているわけだから、幼稚園が、うちを騒音で訴えるということはないんだよ。兄貴の部屋でならしているヘビメタが、園舎なかでどのくらいの音で聞こえるのかわからない。けど、園舎の中で絶叫している子供の声を考えると、そんなにでかい音では、聞こえないんじゃないかなと思う。ともかく、よそのうちで聞こえるヘビメタ騒音と、俺の部屋で聞こえるヘビメタ騒音は、違うと思う。幼稚園と僕の部屋の距離というのは、わからないけど、一〇メートルぐらいだ。一〇メートルでこの違いだ。


……そりゃ、夏休みだって冬休みだって、普通に休みだからな……

全部、嘘。ホネガラミの嘘

俺はこのまま年老いて死んでいくしかないのか? あ~~。
この一週間、風邪でひどかった。睡眠時間がずれる病気にかかっているので、昼間に寝て、夜に起きるということがあるんだけど、この時期は、昼間は暑いけど夜になると急に寒くなるという日がある。この間、そういう日に風邪を引いてしまった。

だから、なんか、今週は、いきなり土曜日になったような気がする。まだ感覚としては、月曜なんだよね。で、薬を買いに行く元気がないので、ビタミン剤などを飲んで横になってたんだけど、ヘビメタ騒音の記憶ばかりがよみがえってくる。くるしい。一〇年、毎日、つもったときのあの感じはない。あの感じはないなどと言っても、人類のなかで、あの一〇年間を経験したのは、僕だけなので、他の人にはまったくわからないという問題がある。

これが、公害とか、基地の騒音問題だったら、わかる人がいるのにな。俺だけなんだよな。音のでかさは、距離の二乗に反比例するから、至近距離か二〇メートルぐらい離れているかで、ぜんぜん違う。広域放送の音がよく聞こえるのは、スピーカーが高いところにあるからね。俺の部屋と兄貴の部屋の床は、つながっているんだよ。で、至近距離だからほとんど、兄貴の部屋で聞いているのとおなじ音で聞こえる。畳の上に布団を引いて寝ていたので、頭に響く。

一度、というか何回も、学校から帰ったらまず寝てしまって、そのあと、午前四時ぐらいに起きて、勉強しようとしたときがあるんだけど、頭にガンガンヘビメタが響いて、眠れなかった。

一度、実はあまりにもつかれていたので、寝たときがあるんだけど、起きたあとのだるさが並みじゃない。本当にはきそうなぐらいつらい。なんていうのかな、あのだるさも、また、説明できない。説明したって、わからないだろ。眠っているときに、強制的にあの音をガンガン聞かされている状態で、目を覚ましたときの、気持ち悪さというのがない。で、その時は、午後一〇時ぐらいだったので、まだ鳴ってたんだよね。で、「やめろ!!やめろぉ!!!鳴らすな!!!鳴らすな!!!」って発狂して怒鳴り込んだ。けど、きちがい兄貴がキチガイなので、一分だってやめてくれなかったよ。その場で殺さなければ絶対の意地で鳴らし切る。で、鳴らし切って良いと思っているだよな。鳴らし切って当然だと思ってる。そういう兄貴なんだよ。そういう、「家」なんだよ。

「家」というのは、きちがい親父がそうやって、きちがい親父の意地を通してきたから、「家」ではそうしていいというのが、影の伝統(無意識的な伝統)として成り立っていた。しかも、やったやつは「やってないやってない」となる。これも、影の伝統で、頑固にきちがい的な主張を通す。自分がやってたことを認めない。自分がやってきたことを、絶対に認めない。認めるのが都合が悪くなったら、絶対になんだろうが認めないのだ。

で、そういう時の認めない態度が、なにかをやっているときの態度とおなじなんだよ。「うち」のひとに、「やめてくれ」と言われることをやっているときの態度が、そういう態度。だから、さかいめなく、つねにそういう状態なんだよね。

こんなの、教師をやっているような人にはわからない。教師をやっているような人の家というのは、普通の常識がなりたっいてるところだから。キチガイが、キチガイの意地を通せば、キチガイ本人は、やってないと思うような家じゃないんだよ。

で、これは、教師以外のひとでも普通の人には通じない。「そんなことないんじゃないの」と言われてしまう。けど、うちでは、そうじゃないんだよ。キチガイがきちがい的な意地でやったことは、(あとになれば)やってないことになってしまう。どれだけの意地で、どれだけのこだわりでやったと思っているんだよ!!」とこれまた、一〇〇〇回、一〇〇〇〇〇回言ったって、当の本人は、しらんぷりなんだから。この、シランプリ(黙って無視)(目を三角にして顔を真っ赤にしてあぶら汗をかいて、腹を立てて無視)というのは、やっているときもそうなんだよ。だから、全部が全部、態度がおなじなんだよな。

これ、普通の人、わからないだろ。で、普通の人以上に、当の本人が、わからないんだよ。あれだけ意地になって、「やめてくれ」と言われているのに頑固にやったことを、「やってない」なんて言い出す。全部、嘘。ホネガラミの嘘。頭がおかしいから、嘘を嘘だと思わない。つねにそういう認知の差があるんだよな。つねに、そういう意地になったところで、なんていうのかな、認知症ではない認知症のような症状がある。自分にとって都合よく、誤解しているんだよな。で、そういう嘘を通せば!!やりきれる。だから、影の目標は「やりきる」ということなんだよ。

だから、どうしても、やりたいことは、そういう態度でやりきる。で、そういう態度でやりきったことは、何万回やっていようが、何万時間やっていようが、「やってない」ことになっているらしいんだよな。頭がおかしいから。……これ、頭がおかしい、以外にどうやって、説明するんだよ?? で、自分がそうやって押し通したことに関しては、まったく、悪いと感じないんだよね。最初からあたりまえで、一〇年間毎日そうしてもあたりまえで、二〇年間毎日そうしてもあたりまえなんだよ。だったら、やっているわけで、やっているのに、「やった」と言われると、「そんなんじゃな!!そんなんじゃない!!」って始まる。

一〇年間、二〇年間毎日やってたことでも、そうなる。いや、一〇年間二〇年間、他の家族の思いを踏みにじってやったことなら、一〇〇%そうなる。そうならざるを得ない。問題にならないことは、やったって文句を言われないわけだから。「やるな」と文句を言われることについて、そうなる。かならず、そういう態度でやりきる。

で、かならず、キチガイ認知構造を使って、「やってない」と言い出す。全部こういう毎日なんだぞ。他の人がわかるわけがない。こんなうちの「常識」なんて他の人がわかるはずがない。だから、こういうことに関する記述はまるでうけない。なまくらな「引き寄せ」とか「鏡の法則」とかそういう話しがうける。けど、これ、違うんだよね。これ、宗教だから、違うもくそもないんだけど、違う。

さらに、「そういううちに生まれてきたのは、おまえが選んだからだ」というような理論をいう人まで出てくる。これは、人間が人間に言ってしまってはいけないことなんだぞ。まあ、個人にむけた話しではなくて、一般論として言うのはいいけどさ。宗教なんだから。けど、この世の人が、この世の人に向かっていう言葉じゃないんだよ。……いま、これだけ言って、わかる人とわからない人が出てくると思うけど、わからない人は、ぜんぜんスピリチュアルじゃない。これも、リトマス試験紙のように使えるな。

ワカッテナイノハオマエラダって言いたくなるな。まあ、それは、この世でさんざん言っておこう。


2016年9月22日木曜日

「使えないハンダゴテ」=「きちがい兄貴の基準で静かにした音」


きちがい兄貴がやったことが以上だということがわかるよ。

ハンダゴテ事件で、親父が使えないハンダゴテを渡したんだけど、それと同じなんだよな。きちがい兄貴の『静かにした』というのは、それとまったく同じ。まったく変化がない程度静かにしたわけで、ぜんぜん静かになってない。親父に対して、そのハンダゴテじゃダメなんだ、使えないんだということをどれだけ言っても、認めない。認めなかった。それと同じで、そういう『偽の静かにした』じゃ、ぜんぜん意味がないということを言っても、ぜんぜん認めない。同じなんだよな。

全部が!

きちがい兄貴!!ハンダゴテのことですら、めちゃくちゃに腹を立てたのに、……サイコパスオヤジの、そういった「つたわらない態度」に腹を立てたのに、同じことを俺に何千回も、何万回も、一四年間にわたって毎日毎日やりやがって!!!

つたわらない態度でやりきる。自分の意地を押し通す。
そして、自分の意地を押し通したということを認めない。
やったという事実そのものを認めない!!!

そして、何回言っても同じ態度で同じ反応が返ってくる……ってこれ、ハンダゴテ事件の時と同じなんだけど。はんだごて事件は、一回だけだ。おまえ、一日中腹を立てていたけど、ハンダゴテ事件は一回だけだ。しかも、一週間以内にお母さんがハンダゴテを買ってくれたので(金を渡したので)解決している。それなのに、あんだけ腹を立てて、「もう、親父とは絶交だ」『無視する』と鼻息を荒くしてたよな。目を三角にして怒ってたよな。一度だけだぞ。
使えないクソハンダゴテを学校に持っていて、恥をかいた」というのは、「


きちがいが意地を通したら、通ってしまうのがきちがい家だ。


これがわかってない。他の大勢の人には、これがわかってない。

他の大勢の人にとっては「ないことになっている」。だから、「そんなことは……」「そんなのは……」「人のせいにするな」『親兄弟のせいにするな」『自己責任自己責任』「ともかく、やらなきゃだめでしょ……」『過去のことはいいから……」『過去は買えられない……」『過去に関する認識を変えればいい・・」『他人はかえられない……自分がかわるしかない……」ということになる。本当に、どれだけ……。きちがい兄貴の認知構造、頭の構造を変えられなかったのは俺だけど、それは、本当に俺のせいなのか?

「そんなことは、お兄さんに言えばいい」と言った教師だって、実際にどのくらいの音で鳴っているか、うちに確かめにきてくれて、ものすごい音で鳴っているのを確認したら、兄貴に注意して、それでも兄貴が無視して鳴らしているなら、羽交い締めにして静かにさせてくれるというわけではないだろ。

そこまで、介入して関わってくれるか?

しかも、自分(教師)が帰ってしまったら、きちがい兄貴が普通に(普段通りのでかい音で鳴らす)から、泊まり込みで、きちがい兄貴を監視して、ずっと静かにさせるということをしてくれる人がいるか? 外部の人がいるときだけ静かになってもしかたがない。

一日中、鳴っているということが問題。きちがい兄貴の場合、外部の人に注意されたら、その人がいる間は、静かにするかもしれないけど、その人が帰ってまったら、普段のモードになって、普段通りの音で鳴らすわけだから、その人が一日中いないと、意味がないんだよ。

そういう人がいるあいだは静かにするけど、そういう人が帰ってしまったら、普通モードに戻って、普通に鳴らす……けど、この場合、モードの切換している「つもり」はないんだよね。だから、普段の音(クソうるさい音で)鳴らすことには問題があるとまったく思ってない状態なんだよ。どれだけでかい音で鳴らしていても、きちがい兄貴が「こんなの普通の音だ」「こんな音、たいしてでかくない」と感じたら、兄貴にとっては、「普通の音」で「たいしてでかくない音」なんだよ。こういう、あ・た・ま!! こういう頭が治らない。どれだけ言っても、あいつの頭は、あいつの頭のままなんだよ。親父の頭がそうであったように……。



『使えないハンダゴテ』=「きちがい兄貴の基準で静かにした音」なんだよね。

あんなでかい音で鳴らして『静かにしてやった』と思える精神構造がおかしい。本当に、どれだけ、どけちなんだよ。『静かにした音』が人が絶叫するのよりもずっとずっとでかい音だ。ピアノよりずっとずっとでかい音だ。何倍もでかい音だ。物理的な音で言えば、何十倍もでかい音だ。ふざけるな。きちがい兄貴よ、俺が言っていることが嘘だと思うなら、きちがい兄貴が『静かにした音』で、いま住んでいるうちで鳴らしてみろ。それがどれだけうるさい音か、わかるから。一緒に住んでいる嫁さんにも、どれだけうるさい音で鳴らして「静かにしてやったつもりでいたか」わかるから。

『そんな音で鳴らして、静かにしてやったとか、信じられない』と嫁さんは思うだろうから。きちがい兄貴は、キチガイ秋だから、『そんなにたいした音で鳴らしてない』とか思っているんだろうけど、それが、おかしいって言っているんだよ。何十年も。一緒に住んでいるは、兄貴は、『でかい音で鳴らしている』という自覚、認識があるものだと思っていた。

そりゃ、ギャグじゃなければ、あれだけ物理的にでかい音で鳴らして、『たいした音じゃない』と思っていると言うことは、あり得ないからな。ヘビメタじゃなくて、メトロノームの音をあの音のでかさに増幅して、聞いてみろ。五分で、頭がおかしくなる。

きちがい兄貴だって、「くそうるさい音だ」と思うはずだぞ。そういう音で鳴らしているやつに『静かにしろ』と言ったら「こんなのたいした音じゃないだろ」と言ってきた場合の、腹立たしさを経験してみろ。きちがい兄貴の場合は、黙りこくって、そういうつもりで鳴らして、鳴らしてないと思っているという、もっと複雑な状態だけどな。顔を真っ赤にして、目を三角にして、黙りこくって、鳴らし続けるやつが横の部屋にいたら、どう思うよ?

きちがい兄貴が、「静かにしてやった」と言っているそうだけど、そうじゃない。これが通じないというのがおかしい。そういう認知構造だから、兄貴は一日中鳴らしてなにも感じなかったんだろ。たとえば、「宿題をやるから静かにしてくれ」と言われた後、一時間、二時間、三時間、ヘッドホンをして静かにしてくれたことが一日でもあるか? 鳴らさないで静かにしてくれたことが一日でもあるか? そんな日は一日もない。だから、ずっと「うるさくしている」。なのに、「静かにしてやった」と思えるきちがい兄貴の頭はなんなんだと言っているんだよ!

親父の頭と同じ。オヤジアタマ。父親にやられて、悔しくて悔しくて悔しくて、しかたがなかったことを、俺に毎日毎日、毎秒毎秒や・り・か・え・し・て・い・る。で、きちがい親父と同じように「つもりがない」ままだ。一度、「つもりがない」回路ができあがると、どれだけ続けてやっていても、「つもりがないまま」になっている。こういう、しくみ!

こんなの、普通の家で生まれ育った人にはわからないことだ。だから、共感されることがなく、ただ単に「お兄さんに言えばいいのに、わたし(相談相手)に愚痴言っている」と思われる。俺が兄貴のヘビメタ騒音について相談するとそうなる。毎日、三時間はヘッドホンをして静かにしてくれたなら、俺はちゃんと「一日に三時間は静かにしてくれたけど、他の時間はでかい音で鳴らしていた」と書く。かならず「「一日に三時間は静かにしてくれた」ということについて言及する。

そういう言及がないのは、実際にきちがい兄貴が、一分も静かにしないままやり通したからだ。毎日! 毎日のことが大切なんだよ。人生にとって、毎日ことが大切なんだよ。一〇代の毎日が大切なんだよ。一〇代の毎日を、ヘビメタ騒音にやられ続けて、いいわけがないだろ! そんなんじゃ、どれだけ才能がある人だって、うもれて、育たないよ。

そういうことをして、熱心に人生の邪魔をしているのに、本人は「まったくやったつもりがない」という主観を維持したままなんだからな。これ、ここに書いてあることをどれだけ送っても、本人は(きちがい兄貴は)そ・の・ま・ま、なんだよ。いま住んでいるところで一日中鳴らすのはやばいから、やらないのだけど、そういうことをしなかったということは、まるで後悔してないんだよ。そういうあたりまえのことを「うち」ではまったくやってやらなかった……自分が好きなように全部の時間!!不退転の決意で「知っているのに」「苦情が出ているのに」鳴らし切った……ということについて、ぜんぜん悪いと思ってない!!! そのままなんだよ。当時のままなんだよ。感覚が!! どれだけ言われたって!! そういう感覚で、入試のときだって、鳴らしてるんだよ!! なにも、わかってない!!

2016年9月20日火曜日

ロボット化の波と生活保護(感想断片)……もしphaさんが生活保護をもらっていたら

えーっと、以下

貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅  というサイトの

まだ武士やってるの?~問題なのはレールに乗っかる生き方が本当に「オワコン」なのかどうかだ

http://etrip.blog.fc2.com/blog-entry-1406.html

という記事
を読んだときの感想です。トラックバックが使えないので、こういう旧式のやり方になります。



たぶんだけど、そんなに早くはロボットがやってくれる状態にはならない。まあ、50年後を考えれば、ロボットがかなりのことをやってくれる状態になるとは思うけど。

世界のことを考えると富は均一ではないから、ロボット化の波も速度に違いがあると思う。
ぶっちゃけ言ってしまうと、生きている間は、「生活保護などを受けずに働くべき」というような考えを持っている人が、攻撃してくる状態は、変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では。けど、本人の年齢が、80才90才になったらそういうことを言う人は、必然的に減るだろうから、本人から見れば同じ状態になる。

ロボット化の波の話は、「社会の荷物になるな。働け」と言ってくる人たち向けの話なのだと思うけど……。まあ、時間の問題で、単純作業と知識集約的な作業は、ロボットがやってくれるようにはなると思う。けど、まだまだ、時間がかかる。たぶんだけど、ぼくらが生きているうちは、そういう仕事はロボットがやるから、人間はやらなくていいということにはならないんじゃないかな。
そうなる前に、たとえば、90才になっているから、言われなくて済むよ。

たとえば、phaさんが自活してなかったら(経済的に自立してなかったら)phaさんを支持している人たちだって、phaさんを支持しなくなるだろという話と、ここで話されていることは、同じわけでしょ。phaさんが生活保護をもらいながら、ああいう本を書いていたら、批判されるだろうという話と根っこは同じ話だよね。
これに関しては、いまの日本という、条件がそのまま反映されていると思うよ。いまの日本の労働観が問題なのだから。いま(時代的条件)の日本(地理的条件)という条件が成り立っていなければ、そもそも、問題にもならない。


   *     *     *

まだ武士やってるの?~問題なのはレールに乗っかる生き方が本当に「オワコン」なのかどうかだ
これを読んだだけでは、上の話はわからないと思うけど、貧BPの人生オワタ\(^o^)/旅  というサイトの記事を50%ぐらい読めば、どうして上のような話しをするかわかる。


   *     *     *


あーー、それにしてもヘビメタ騒音が鳴ってたな。この時間は~~~。つらい~~。
この雰囲気!!!

2016年9月18日日曜日

妄想的な勝手な不満の場合は親のせいではない

けど、俺は学んだ。親が健常者なのにこどもが普通におかしくなる場合がある。これは、脳の機能障害だからしかたがない。別に、子供が不満を持ったならば、親が悪いと言っているわけではないんだよ。色々なタイプがあるからね。普通におかしくなるというのは、時間の経過とともにおかしくなるということだ。こういう場合もある。
その子供が持ってる不満というのは、妄想的な勝手な不満だから、親のせいではない。こういう場合は、どれだけ不満をちゃん記述しても、いいことにはならない。親の方にずれがあって(認知のずれがあって)子供が神経症になっている場合は、子供の方は、不満を抱えるわけだけど、子の不満は、(認知のズレをもとにしているから)神経症的な症状としてあらわれるしかないのである。


2016年9月17日土曜日

特殊不満理論 サイコパスのもとに生まれた子供は、基本的に、不満を抱えることになる

自分にとって不満なことが生じた場合、不満を言うと、その人は不満の塊になってしまう。不満の塊になった人を、人は避けようとするので、ますます不満がたまるようになる。

不満なことが生じても、不満を言わずに感謝の言葉を述べると、事態が好転して、人からも好かれるようになる。



よくある、不満に関する考え方です。まあ、スピ系のことや宗教系のことが好きな人は、こういう考え方を聞いたことがあると思います。感謝理論ですね。で、これは、正しいようでいて無慈悲なところがあります。

こういうひとが設定しているのは、一般的な話しなんです。しかも、例外がないという話になっている。例外があるなら、例外があると最初に述べておかなければならない。けど、例外があるとは述べない。だから、一般法則の話になります。一般法則においては、例外がないので、本当に苦しんでいる人を追い詰める話になります。

こういう人たちが言う「不満」というのは、普通の不満なのである。普通の人によってもたらされる「不満」なのだ。しかし、世の中にはサイコパスがいるように、サイコパスからもたらされる「不満」というのがある。しかも、サイコパスが親になる場合があるので、サイコパスのもとに生まれた子供は、基本的に、不満を抱えることになる。その場合の不満というのは、一般的な不満とは違うので、不満を言う権利がある。

サイコパスの親の元に生まれた子供が、「不満を言うべきではないという一般理論」におかされたばあいは、もっともっともっと、悲惨なことになってしまうのである。不満を言葉にできた方が、その子供は、精神的な安定を得られるのである。一般理論だと「不満を言うべきではない」ということになるのだけど、特殊理論だと、「不満を言うべきではないという※べき※の暴君にやれる※べき※ではない」ということになる。「べきべき」になるわけだけどさ。

一般理論は、一般人を相手にした場合の話しだ。家の中にサイコパスがいる場合は、まったく違う。ここが、わかってない。こういうことを言う人たちは、まったくそういう気持ちがないのだろうけど、実は、サイコパス的な親にやられて、苦しんでいる子供を、もっと不幸にしてしまうという問題がある。

サイコパスは、かわらない。

だから、不満を述べてもかわらない。相手に不満を言ってもかわらない。サイコパスはサイコパスの人格構造を通してサイコパス的な行動をしてサイコパス的なことを言うわけだから。そのサイコパス的な行動のなかには、当然、サイコパス的な攻撃が含まれている。

※このサイコパス的な攻撃に対して、不満を持つなと言うのが間違っているのである※。もし、サイコパスにやられている子供が、そういうことにこだわった場合どうなるかというと、神経症になってしまう。これがわかってない。サイコパスにやられているこどもが、「不満を言うべきではない」というような一般理論を学んだ場合、神経症になってしまうのである。まじめに、そういう言葉を実行すればするほど、深刻な、根の深い神経症になってしまう。

一般人が感じる「不満」と、特殊な環境にいる人が感じる「不満」は違う。そもそも、質が異なる。なので、一緒にしてはいけない。これ、わかるかな? たいていの人は、一般理論でとまってしまう。一般理論は、例外がないという状態で流布される。

けど、本当は、その一般理論で傷つく人間がいる。そういう一般理論を信じたがゆえに、神経症になってしまう人間が一定数いる。一般理論を実行しようとすると神経症になってしまう人というのは、特殊な人間にやられている人間なのである。

サイコパス的な親の元に生まれた子供と、一般的な親の元に生まれた子供だと、不幸の量が最初から違う。対処不能なサイコパスが親だったらどういうことになるか、たいていの人は、まるでわかってない。これは、経験を通して学ぶことなので、そう言う経験がない人はわからない。人は誰でもゆがんだところがあるので、理想の親はいない。しかし、健常者と精神異常者の違いがあるように、一般的な親とサイコパス的な親の違いはある。そういう違いを無視して、「不満を言うべきではない」「不満を言うともっと不幸になるぞ」とおどしをかけるべきではない。

あっ、おどしと言ってしまった。こういうスピ的なことを言う人は、別におどしをか.けているつもりはないのだろう。けど、努力目標になってしまうと、奇妙な現象が生じてしまうのである。奇妙な現象というのは、その子供が、神経症になってしまうということだ。一般理論の存在は、神経症発生に関して、まったく影響がないように思われているけど、実は、影響がある。一般理論というのは、この場合は、「きれいごと」だ。よくある、スピ的なきれい事だ。たとえば、「不満を口にするべきではない」とか。「どんなにひどいことが起こっても、感謝するべきだ」というような一般に流布されているきれい事のことだ。

ひどい状態というのがあって、そのひどい状態は、相手の感覚のズレによって引き起こされる。そして、相手は、それに気がつかない。あたりまえのように、その感覚のズレを押し付ける。サイコパスが、認識してない、サイコパス側の理論、理屈というのがある。サイコパス側はつねにその理論に従って行動しているのだけど、「そういう理論に従って、あることをなした」ということを認めないという状態になっている。で、この「認めない」ということも、実は、その理論に従っている。なので、これは、切りがない状態になっている。



   *     *     *

じゃあ、どうすればいいのかというと、サイコパス的な親にやられたことはしっかりと記述した方がいい。サイコパス的な親にやられたことから生じる「不満」に関しては、口に出した方がいい。一般人にやられたことから生じる「不満」に関しては、不満を口にしない方がいい。一般人と、サイコパス的な親をわける。サイコパス的な親に育てられた場合、兄弟がいる場合は、兄弟とももめることになる。ローシナジーが発生するからだ。父親が長男をいじめて、長男がおなじやり方で次男をいじめるということが生じてしまう。三男がいれば、次男が三男をいじめるということになる。なので、となりあえず、サイコパス的な親にやられたことは記述した方がいいと言ったけど、これは、別に親に限ったことではない。家族にやられたことは、記述した方がいい。不満を言った方がいい。不満をうまく言えないと、神経症になる。しかも、理論療法、認知療法、認知行動療法などは基本的に、「きれいごと」で成り立っているので、不満の部分は無視される傾向がある。というか、きれい事が支配する世界なのである。一般不満理論と特殊不満理論を区別せずに、きれい事を押し付けてくる。神経症が発生するには、サイコパス的な親が押し付けてくる異常なルールの他に、きれい事に基づいたルールが必要なんだよ。これがわかってない人が多い。だから、サイコパス的な親にやられて神経症になっている人は、認知療法に近づかない方がいい。認知療法は、一般的な不満を相手にした、一般理論で成り立っている。特殊理論は、ない。



2016年9月16日金曜日

毎日毎日、毎分毎秒、きちがい的な意地でやったことも、「やってないこと」になっている

やっぱり、なんだかんだ言ってつらいな。
いま、強烈にからだがだるい。で、このだるさが、ヘビメタ騒音が鳴っていて、鳴り終わったときのだるさと同じなんだよな。何千日もヘビメタ騒音が鳴っていて、その日のヘビメタ騒音が鳴り終わったときのだるさと同じだ。「鳴り終わったからいいんじゃないの」と普通の人は思うかもしれないけど、そうじゃない。あのだるさはない。そして、このだるさも、ない。「ない」というのは、この世にはないはずのものだという感じで使っている。「ない」というのは、「ほかにはない」という意味で使っている。こんなのは、あるべきではないのだけど、ある。ヘビメタ騒音疲労以外にはないけど、ヘビメタ騒音をやられたあとは、このだるさがある。というわけで、つかれる。

このだるさが、他の人には伝わらないわけだろ。まあ、伝わったところでしかたがないのだけど……。けど、だるい。で、まあ、「だるいだるい」「しんどいしんどい」と言っている人は……いつも言っている人は、そ・れ・な・り・に、嫌われる。あまりよく思われない。相手の立場はわかる。感じ方もわかる。けど、ヘビメタ騒音疲労でだるい。

こういうのが、人付き合いに深くて大きな影響を与える。「ヘビメタ騒音」と「孤独」はあんまり関係がないように思われるかもしれないけど、実際にはそうじゃない。生活のすべてだから……。ヘビメタ騒音が生活のすべてになってしまう。ヘビメタ騒音が、生活のすべてに、不可避的に、影響を与えてしまう。その影響のでかさがすごい。これも、実際に、何百日、何千日とヘビメタ騒音か、それに類する騒音が続いた人じゃないとわからない。

それに類する騒音というのは、いくつかの条件を満たさなければならない。
まず第一に、その人にとってその音が苦手な音であること、第二に人が絶叫した声よりもずっとでかい音で鳴っていること(ピアノよりもでかい音で鳴っていること)、第三に至近距離で鳴っていること(音源の位置が一メートル以内とか)、第三に、その音を鳴らしている人間がサイコパスであること(なにを言ってもつたわらないし、一億分の一でも静かにしてやったら、一億分の一億静かにしてやったと信じ込んでしまう性格であること)を満たした場合、その騒音は、僕が言う「それに類する騒音」ということになる。

まあ、こんなこと言っても、だるいのはかわらない。どうすっかな? ほんと?? どうすんだよ?? この夜! いつもこんな感じだからな。こういう感じが嫌だから、俺は、まるまる荘で、最大限の努力をしていた。最大限の努力をしようとしていたということか。もう、まるまる荘時代は、ヘビメタ騒音が一〇年積み重なったあとで……一〇年毎日積み重なったあとで……横になって寝ているだけで、つかれた。この、疲労感がやっぱり並みじゃないのである。で、じゃ、まるまる荘時代に、心療内科に行って薬を飲んだらよくなったかというと、たぶん良くならなかったんじゃないかなと思う。一〇年間毎日あの生活を続けた時点で、僕は終わっている。そういう破壊力がある。そういうことを……人の一生を台無しにすることを……家族なのに……しっかりやりきって、なにも感じないのがきちがい兄貴だ。一切合切なにも感じない。「こういうふうに迷惑をかけた」「鳴らしていた」と言われたら、真っ赤な顔をして、無視するだけなのである。だいたい、まるまる荘時代は、僕は食費節約のために、夜は帰ってご飯を食べていた。その夜、僕がご飯を食べる三〇分のあいだですら、絶対に一秒も静かにしてくれなかったのがきちがい兄貴だ。これ、きちがい兄貴は、静かにしてやったつもりなのかよ? 「飯食うんだからいいだろ」と言って、無慈悲に、俺を廃人まで追い込んだ、きちがいヘビメタを、一分も譲らないで鳴らしてたよ。そういう態度なんだよ。俺が二一歳の時ですら。きちがい兄貴よ。これがきちがい兄貴がこの世でやった、本当のことだ。これ、きちがい兄貴にしてみれば、「そんなのは知らない」「あいつが勝手に言っているだけ」「そんなに鳴らしてない」「そんなんじゃない」と言い訳したくなるようなことなのである。で、兄貴の嫁さんの前で、ずっと何十年も毎日そういう言い訳をしている。反省なんてしているわけがないだろ。で、これがまるで、「じゅうぶん静かにしてやった」「できる限り静かにしてやった」というような恩着せがましい態度なのである。頭にくる。そういうことだから、毎日一〇年、一一年と困っているわけだろ。本当に、み・と・め・な・い。やっている最中はやっている最中で、絶対に譲らないんだけどね。絶対に譲らないけど、絶対に譲らなかったことは絶対に譲らないということになっている。もう、はじめっから、そういうふうに「なっている」。で、必ず、自分がやりたい時間は、自分が鳴らしたいでかい音で鳴らす。譲歩なんてしてない!! 一分でも譲歩しようとしたら、一分間腹が立って腹が立って、「どうして、俺がそんなこと、してやんなきゃいけないんだ!!」と爆発するような気分なのである。だから、「そんなことしてやるか」ということになって、ガンガン鳴らす。それなのに、「静かにしてやった」つもりでいる。恩着せがましい態度で、絶対に譲らない。これは、親父がやったことだけど、兄貴もやっている。そっくりなんだよ。全部、同じ。で、きちがい兄貴は、親父にやられたことだけはわかってるんだよな。そういう態度がどれだけ腹立たしいものか、自分の体験を通してわかっている。けど、自分が弟にそういう態度で接した。親父と同じ態度で、自分の言い分を通して、やってやらなかったにもかかわらず、やってやったつもりでいるということは、まったくわかってないんだよ。親父と同じでまったくわかってない。普通なら、これ、絶対にわかることなんだぞ。普通の人だったら絶対に、嘘をつく必要がないほど、わかることなんだよ。本当に親父と同じで、ま・っ・た・く・わかってない。その「わからない」度がすごい。人間のそれじゃない。まあ、普通の人のそれじゃない。だれだって、そうやってしらばっくれたいことはあるけど、そうじゃないんだよ。普通の人の場合は、やったことは、どれだけ本人が嘘をついても「知っている」。きちがい兄貴ときちがい親父は、知らない。それで、都合が悪いことに関しては「いつもいつも」そうなのである。毎日毎日、毎分毎秒、そうなのである。だから、毎日毎日、毎分毎秒、きちがい的な意地でやったことも、「やってないこと」になっている。で、自分はそんなことは一回もやってない」というような認知が成立している。だから、こっちにしてみれば「ゆるせないこと」を平気で言う!! もう、そればかりになる。それで、一〇年二〇年通しても……毎日そうしても、本当に毎日やってないのと同じことになっているのである。そういう認知!! そういう態度!! 頭にくる。頭にきて、死にそうなほど頭にくるよ!!

2016年9月14日水曜日

騒音で人生がないという話し11





騒音で人生がないという話し11。
だるいけど、がんばって出した~~


作風が暗すぎてあんまり宣伝できない。

みんな詐欺師みたいな人の言うことには賛成して、ゼミに行って、3万円も4万円もみつぐのに。
まあ、騒音サイコパスは、お得情報はないけどさ。

しかし、お得情報を求めている人は、本当に喜んで騙されに行くからな。

まあ、哲学系人間学系の話はあんまり、うけないよな。
自己実現、気付き、SNSのうまい使い方(もうけかた・ビジネス)といった感じのところには、金を出すのにね。けど、その人達が言っていることというのは、0円で落ちている。メンターとかマインドセットとか虚業のキーワード。しかし、本当に、そこでビジネスをするしかないようなところがあるな。

けっきょく、後発組の自営業が飯を食っていくには、そこらへんで儲けるしかないのかな。

人気云々を考えても、なんていうのかな、出し惜しみする人が、最初から騙すつもりで、話を作っている場合のほうが、だんぜんうけるんだよね。おかしいだろ。マインドセットって、騙すマインドセットだったりする。けど、やっぱり、そっちのほうが、旗色がいい。人気が出る。おかしい。

まあ、今日感じたのは、そんなところ。

あと、何万時間もやられたから、やっぱり、だるい。
もう、そういう点で、人気がある方には行けない。
そりゃ、明るくて、やる気がある人のほうがモテるからな。
これは、本当にそうだよ。


2016年9月13日火曜日

「譲歩した」とか頭がおかしいだろ!

横になっているとき、「兄貴、どうしてくれるんだよ?」という気持ちになる。これ、鳴らされているときから、ずっと保っていた気持ちなんだよな。で、それをガンガンぶつけたわけだけど、キチガイ認知の壁があって、まったく通じなかった。通じてなかったんだな。やっぱり、キチガイとしか言いようがないと思うけど。あれだけ言われてなにも感じないとか、やっぱりおかしい。あれだけでかい音で鳴らしていて、「そんなにでかい音で鳴らしたつもりがない」とかいまだに思っているんだろ。

そうやって、兄貴の嫁さんの前で言い訳してるんだろ。

じゃ、どれだけでかい音で鳴らしたら、「でかい音で鳴らした」ということになるんだ? きちがい的にデカい音で鳴らしても、きちがい兄貴の基準からすれば、「こんなのはたいしたことがない」ということになって、「たいした音で鳴らしてない」ということになるんだろう。それも、これも、全部、自分が実は、でかい音で鳴らしたいという気持ちから出ていることなんだよ。だから、自分が満足できるでかい音で鳴らしたい以上、自分が満足できるでかい音というのは、物理的にどれだけでかい音でも、「たいしたことがない音」「そんなにでかくない音」になってしまうのである。他の人が聞けば一発でわかることが、一五年間、どれだけ言われても、わからない……そういうしくみなんだよな。

だから、別に、「悪い」と思ってないんだよ。物理的に、どでかい音で鳴らしていると思ってないわけだから。普通の家でならしたらいけない音で鳴らしているつもりがないわけだから。で、きちがい兄貴は、「(弟が)そんなふうになっているなんて知らなかった」みたいなことも言っているんだけど、俺は、兄貴の騒音で、ものすごくくるしい思いをしたので、きちがい兄貴が鳴らしているとき、何回も何回も言ったからな。一四年間のトータルでいえば、本当に、何万回直接言ったかわからない。これも、もし認めてしまったら、自分が「本当に!」……嘘の情報じゃなくて、本当に譲歩しなければならないという、基本的な認知があるんだよ。無意識的な認知がある。だから、どれだけ言われても、きちがい親父のように無視して、一切合切気にしなかった。親父がやったことと同じだから。きちがい兄貴は、これまたわかってないから、「自分が親父みたいなことをしたなんて信じられない」みたいなことを言うんだろうけど、そっくりだよ!! 同じ!!! 態度が同じ!! 言っていることが同じ!! 認識が同じ!! 全部、やりきって……本人がやりたいように一〇〇%やりきって……「やったつもり」がまったく生じない。これも、もし認めてしまったら、自分がそんをするカタチで譲らなければならないからだ。自分がまったく損をしないカタチで、譲って、それで、「最大限ゆずってやった」と思っているのである。で、そういう認知のしかた自体がおかしい! 認知のしかた自体がおかしいと言われても、本人は、「やれるときは、全部やりきる」のである。一切合切認めない。困るんだよ。きちがい兄貴だって、親父の態度で困ってきただろ。親父の反応で困ってきただろ。それは、お金に換算するといくらだ? 暴力はあったか? お金に換算すれば、一番もめた金額だって二万円のことだろ。いま、二万円で、あれだけ支配されて、あれだけいちゃもんをつけられて、あれだけ我慢させられたどうなんだよ? きちがい親父が金で支配していたと言っても、社会的な視点で見れば、たいした額じゃないだろ。大人になってみればたいした額じゃないだろ。じゃ、それが、いまの金銭感覚で二万円のことだから、たいしたことじゃないと言えるのか? 当時、やられたことが、腹が立つことではないと言えるのか? そんなに重要な問題じゃなかったと言えるのか? 暴力の数だって、二回か三回だろ。それも、きちがい親父は、暴力を振るったということだけは、気にするんだよ。これも、頭がおかしい。暴力親父ったら、どれだけ話しが楽か。他の人がわかってくれるか。一発でわかるか? きちがい親父のやり方というのは、他の人に絶対わからない。しかも、親父自身がそういうことをしているつもりがないのである。じゃあ、それが、どうでもいいことかというと、違う。これ、違うんだよ。屈辱的なコードが、いっぱい盛り込まれている。それこそ、なぐられた方がどれだけ楽か。腹が立たないか。他の人にわかりやすくて、救済の手がさしのべられるか? 他の人にはまったくわからないかたちで、狂っているからものすごいことになる。で、一番問題なのは、本人は、つもりがないということだ。本人は、「やったってやってない」だからな。で、たとえば、一〇円二〇円のことでもめたにしろ、そこには、人間としてやっちゃ行けないことが含まれているので、一〇円二〇円の問題じゃないのである。これ、きちがい兄貴にしたって、こどものときに自分の言い分を通そうとしたら、親父をその場で、殺さなきゃならないんだよ。そういうことを、押し付けてきたんだよ。で、殺せないから、親父の言い分が通った。けど、これが、やった方は、自分の言い分が通ったと思ってないんだよ。これが、この問題のやっかいなところで、本当に人に屈辱的なことをして、自分の言い分を通しているのに、相手に譲ってやったと思っている。最大限ゆずってやったと思っている。これも、親父と兄貴で一緒だろ。同じだろ。同じ態度だろ。同じ言い分だろ。本当に腐っている。兄貴は、親父そっくり!! 親父がやったことを、そのまま、弟にやり返している。もちろん、つもりはない。「あたりまえのつもり」なのである。どれだけ言われたって、気がつかない。絶対の意地でやりきる。絶対の意地でやりきったのに、毎日毎日そういう制度を押し付けてきたのに、本人は、押し付けたつもりがまったくないのである。まったくまったくなにもない。だから、「こうだった」ということを言われると「そんなんじゃない!そんなんじゃない!!」となる。その時はその時で、もう、言われたことに関しては、我慢する必要がないのである。要するに、本人にとってやりたいことではないので、やろうと思ってない。だから、相手に「やるな」と言われる可能性が一〇〇%ないことなのである。そのこと!!自体!!!に関してはな。けど、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」と認めない態度が、当時の認めない態度と同じなんだよ。それで、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」怒って、おしまい。自分が怒ったら、おしまい。そのあとなにを言われても、「やった」と思わない。そういう状態なんだよな。三六五日中、三六五日、まったく同じ態度。一〇年でも二〇年でも三〇年でも四〇年でも、まったく同じ。そういうしくみ自体は、ぜんぜん変わらない。だから、問題がふくれあがる。けど、本人は、まったくわかってないのである。自分が関わっている感じすらない。本人は、本当に「ゆずってやった」「できる限りゆずってやった」と思っているのである。実際には、一〇〇%譲らなかったんだけどね。

きちがい兄貴、きちがい兄貴にわかるように言うと……わからないんだろうけど、うちではヘビメタを鳴らさない……一日に一分も鳴らさないというのが、できる限りゆずったときの量だ。分数だ。できる限りゆずったら、一日に一分も鳴らせないんだよ。ぜんぜんわかってないんだろうけど。きちがい兄貴が、趣味で鳴らしていることだからな。できる限り譲ったら、一日に鳴らせる時間は〇分だ。一日中、まったく鳴らさないで譲ってくれた日数は何日だ? 一日ある。その日以外は、一四年間、一日も、譲ってくれてないから。できる限り譲るなんて、あり得ないんだよ。譲るというのは、鳴らさないで譲るということだ。僕のほうが譲歩してやって「ヘッドホンをつけていれば」いいよということにしておいてやっても良い。一日中、ヘッドホンをつけて鳴らして、それで、やっと、一日だけ、譲歩したということに鳴るんだよ。一日中、あんな音で鳴らし続けて、「譲歩した」とか「できるだけ譲歩した」とか頭がおかしいだろ!

2016年9月10日土曜日

「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と言いたくなるようなことばかり言う

俺もうつかれた。つかれた。ほんとーーーに、つかれた。いつもつかれているんだよな。これは、いまの問題だから。昔の問題じゃないから。ヘビメタ騒音を鳴らされていたとき、めちゃくちゃにつかれたけど、いまは鳴ってないのでつかれていないということじゃない。一五年……成長期の七年、八年、九年が与える影響がでかすぎる。本当にヘビメタ騒音をやられてから……ヘビメタ騒音生活七年目から……ずっと、つかれがとれない。

これも俺のせいにされるわけだけど、つらい。これも、俺ががんばればどうにかなる問題にされるわけだけど、どれだけがんばっても、やっぱり、つかれる。持続的につかれているわけで、どっかでよくなるということはないんだよな。本当に脳みそのどこかがやられていると思う。「騒音金属疲労」みたいな感じで、やられていると思う。睡眠回路がやられたのがでかい。休んでないから、くるしいのではなくて、休んでもくるしい。休んでないから疲れているのではなくて、どれだけ休んでも、つかれている状態だ。

これ、何回も言っているけど、普通の人が、朝起きたときのだるさをそのまま、一日中背負っているような状態だ。座ったまま姿勢を維持しようとしても、維持できないときがある。だから、横になるしかない。で、横になっていれば普通はつかれがとれるのだけど、とれない。つねに、終電のサラリーマン状態なんだよ。残業して終電に乗らざるを得ないような状態の人がいると思う。

で、それは、ただ、一日だけそうなのではなくて、何ヶ月、場合によっては何年も続いていると思う。その、五年目あたりの状態なんだよ。つねに、そういう状態。もう、ぼろぼろになって、回復能力がなくなっている……状態。だから、どれだけ休んでも、回復しない。

けど、他の人からみれば……。まあ、他の人からみても、「たるんでいる」「元気がない」「ぼーっとしている」状態にみえるわけだけど、しんどさはみえない。まあ、つかれているのはわかると思うけど。けど、それは、つかれているから休んでいいということではなくて、つかれていても、ぼやっとしないで、てきぱき、動いて欲しいということだから、意味がない。

まあ、調子がよいときに、出て行って、張り詰めて明るくみせれば、そんなに深刻な状態には見えないのだろうなと思う。けど、それは、睡眠リズムが、普通の人と合致しているときに、出て行って、がんばればということだから。一日だけだけどね。一日しか持たない。

二日目はだめだ。明らかに、やっていることに関心がないような(だらけた態度)になってしまう。これで、評判が落ちるんだよ。もう、本当、くるしいんだ。普通の人だと、二〇時間ぐらい起きている状態で、ちゃんとしようと思っても、ちゃんとできないような状態。まあ、二〇時間ぐらい起きているときでも、「ハイ」になる時はある。

こういうときは、「失敗」が多くなるから注意だ。だから、ハイになって空元気を出して動いているようなときも、本当は、元気じゃない。本当にこういうときは、不注意ミスが増える。前の日、眠らないで試験を受けているような状態だ。ものすごく、重要な試験。人生の左右してしまうような、重要な試験……。

そういう試験を受ける前、きちがい兄貴は、一二時間鳴らせなるら、絶対に一二時間鳴らして、一秒も譲ってくなかった。あれで、「静かにしてやったつもり」なのかよ。そーーいうのが、おかしいんだよ。で、きちがい兄貴もきちがい親父も、一度そういうモードになったら、こっちが、なにを、何万回言っても、そのままなんだよね。この「そのまま」度がひどいんだよ。

何万回、何十万回「静かにしろ」「鳴らすな」と怒鳴っても、本人は、まったくなにも感じないわけだから。これは、続けて、感じないということだ。言われたときだけ、怒っておしまいなのである。だから、「明日、入学試験だからやめろ」と怒鳴り込まれたあと、一〇時間、き○がい的にでかい音で鳴らしても、まーーった、く、平気なんだよ。本人は、一〇時間静かにしてやったつもりでいる。恩着せがましく静かにしてやったつもりでいる。本当は、五分間だけ、一〇〇分の一の音量だけ下げて九九の音で鳴らして、あとの一一時間五五分は一〇〇の音で鳴らしている状態。入学試験だろうがなんだろうが、そうなんだよ。一度こうなったら、何十年でも、毎日そうなんだよ。「うち」ではそうなんだよ。

本人がまったく問題を感じない。本人がまったく問題だとは思わない。自分は権利があって鳴らしている、がたがた言ってくる方がおかしい。静かにしてやったのになんだ!!後から後から言ってきやがって!!こういう気分にしかならない。こっちがどれだけ、真剣に頼んでも、こういう気持ちになって、ものすごくでかい音で鳴らす。

きちがい兄貴が、静かにしてやったつもりの音も、でかいから。

これも、どれだけ、言っても、通じないんだよな。きちがい親父のように、認めたくないことは、どれだけもめても、もめても、もめても、もめても、認めない。普通なら、絶対に、ひとことでわかりそうなことでも、わからないのである。どれだけ、何万回強く、言われても、まったくなにも言われなかったのと同じ状態を維持する。そういう認知構造。そういう神経! だから、まったく気にしないで、その日のヘビメタを、まったく譲らないで頑固に何時間も何時間も鳴らし続けることができる。

それなら、意地になって鳴らした……相手が言ってきたけど、相手のことは押さえつけて鳴らした……という認識があってよさそうなものなのに、そういう認識がまったくない。実際には、まったく静かにしないで鳴らし続けたのに、本人は、「じゅうぶんに静かにしてやった」「一日中静かにしてやった」と思っている状態なのである。だから、本当に、どれだけ、騒音のことで怒鳴り込まれても、まったくなにもやらなかったのと同じ気分でいる。その時も、そうだし、それを毎日一〇年間と一日続けても、一〇年と一日目には、まったく、なにもしてないつもりのままなのである。

だから、認知がおかしくなる。一〇年と一日、頑固に全部の時間、本当には譲らないで、兄貴の友達が驚くような音で鳴らしているのに、本人は、一〇年と一日、全部毎日、全部の時間静かにしてやったと思い込んでいる状態なのである。その一〇年と一日目に、どれだけもめても、そういう、認識システムが崩れないので、その日も、「じゅうぶん静かにしてやった」と思っている状態なのである。その日、七時間鳴らせるなら、七時間、こだわってこだわって、何回文句を言われても、何回怒鳴り込まれても、けっきょく、自分の意地を通して、自分が満足できるどでかい音で鳴らしたのに、まったくならしてない状態と同じなのである。

本人は、「全部ゆずってやった」と思っている状態で、鳴らす!! 頭がおかしい!! あれだけ、でかい音で鳴らして、そういうふうに思っているとしたら、本当に頭がおかしいと思うけど、「ごく自然に」「うちでは」「そういう状態」なのである。だから、まーーったく、疑問に思わない。本人が、疑問に思わない。で、ヘビメタが好きな兄貴の友達が「こんな音で鳴らして、うちのひとはなんか言わないの?」と兄貴に言ったその日も、そういうでかい音で鳴らして、なんとも思わないのである。その日だって、俺は、兄貴の友達が帰ったあと、さんざん「鳴らすな」「静かにしろ」とさんざん言ったからな。よその人は「一分で、普通の家で鳴らす音にしてはうるさすぎる」ということを理解しているのに、きちがい兄貴は、言われたにもかかわらず、ぜんぜん理解しないのである。

「だいじょうぶだいじょうぶ」と友達に言ってそれでおしまい。兄貴は、本当に「うちのひとは、だいじょうぶ」だと思っている。兄貴の友達が来るまで、何千日、俺がきちがい兄貴のヘビメタ騒音に文句を言っていると思っているんだよ。そういうのだって、おかしいだろ。他の人が一分間で理解することを、十数年間という長い時間鳴らして、まったく理解しない。兄貴が結婚したあとの時間を含めれば、何十年と理解してないのである。他の人が一分間で「普通の家で鳴らすには、でかすぎる」と思う音で鳴らしているのに、何十年経っても、「そんなにでかい音で鳴らしてない」とまじで思っているようなき○がいなのである。

で、そういうのが、徹底しているんだよね。「はじき」度がすごい。「認めない」度がすごい。骨がらみ。全部の認知がそうなっているんだよ。だから、本人は、普通にすごしているだけなんだよ。本当は、異常なことを、以上に長い時間繰り返してやっているのに、本人は、まったくなにもしてないのと「同じ気持ち」でいる。

だから、(兄貴は)俺に対して、特にうらみがない。自分(きちがい兄貴本人)も俺(弟)に対してそんなにひどいことをやったつもりがない。人生に影響を与えるようなことを、やったつもりがない。※やったつもりがないとなったら、「相手からどれだけ、何年間、何十年間言われても」ぜんぜんやったないつもりのままなんだよ※。だから、相手がなんで怒っているのか、ぜんぜんわからない。自分がやったことじゃないと思っている。自分はまったくうるさくしてないのに、相手が文句を言ってくる……ぐらいにしか感じない。で、鳴らしている一五年間毎日も、そういう状態なんだよ。どれだけ、激しく言われても、そういう認知が、ひっくりかえらない。ふつーーに、時間がすぎていく。ふつーーになにもしてないつもりで、時間がすぎていく。

本当は、き○がい的にでかい音で、き○がい的な意地で鳴らしているのに、そして、さんざん文句を言われているのに、相手に迷惑をかけるようなことは一切していないという気分が成り立っている。頭がおかしい。そういう程度に、排除している。だから、本当に、言われた一瞬だけ腹を立てて、頑固に鳴らして、それで、おしまいなんだよ。言われなかったことになってしまう。言われなかったことに鳴ってしまうのは、自分が、本当に静かにしてやる必要がないからだ。本当に、静かにしなければならないとなったら、本当に静かにしなければならない時間、ずっと、腹を立てている状態になる。腹が立ってしかたがない状態になる。弟が、静かにしてくれと言ってきたから、一時間静かにしてやるとなったら、一時間、ずっと腹が立つ状態ですごすことになる。

実際には、一時間我慢して静かにしてやったことなんてないから、そういう気持ちがあるということにすら、気がつかない。本当に静かにしてやらなければならなくなるのは、死んでもいやなんだよ。きちがい兄貴が、気がついているのか気がついていないのかわからないけど。三分間、本当に我慢させられたら、三分間、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になる。

三分ですら「こんなのやってられるか」「なんで我慢しなきゃらないんだ?」という気持ちになって、鳴らしまくる。感情的に爆発して、絶対に鳴らそうとする。一分だってそうなんだよ。本当に静かにさせられたら、それはそれは、もう、発狂がとまらない状態になる。「なんだ!!!」と怒り狂って、鳴らし始めてしまう。

そうしたら、そのあとはどれだけ鳴らしてたって、鳴らしてないのと同じ認識で、鳴らす。ガンガンどでかい音で鳴らしているんだけど、発狂したあとやっていることは、「ノー感じ」なのである。やっているつもりがない。やっているのに!! で、本当は毎日毎時間毎分毎秒、そうなんだよ。禁止されれば、そうなる。鳴らしたいのに、鳴らせないとなったら、そうなる。

そういう気持ちがわかなかったのは、本当に静かにしてやる時間というのが、一日に一秒もなかったから。本当に静かにしてやる時間がなかったから、そういう感情にならなくてすんだだけなのである。きちがい兄貴が静かにしてやったつもりの時間も、兄貴の友達が驚くようなでかい音で鳴らしているから。で、これ、耳が正常なら絶対にわかることなのに、わからないままなのである。

だから、いまだに、ふざけたことが言える。

家族の前で「よく言うよ」というような言い訳をすることができる。この場合の家族というのは、いまの兄貴の家族ということだ。兄貴の嫁さんと嫁さんの親の前で、「弟が言っていることは嘘だ」という言い訳をする。事情を知っている人間からすれば「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と言いたくなるようなことばかり言う。親父おんなじ。まったく同じ。親父もそうなんだよ。親父がやってきたことを知っている人間が聞けば「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と怒鳴りたくなるようことしか言わない。こんなのと、話ができるわけがないだろ。こんなやつらと、「は・な・し・あ・い」ができるわけがないだろ。本当に、こういうことがわかってないから、よその人に「うちのこと」を相談しても無駄なんだよ。よその人は「家族で話し合えば良い」「お兄さんに言えばいい」とアドバイスをくれるだけだから。

これ、いま書いたことを読んだ人ですら、「そんな人はいない」というような考えにこだわるなら、俺の言っていることが、変なことのように思えるわけだよ。俺の記述こそが嘘だと思うわけだよ。「そんな人はいない」わけだから。で、「そんな人はいない」と思っている人は、俺の文章を読んで怒る。怒りを感じるんだよね。どうしてかというと、「そんな人はいない」と思っている人の平和な世界を壊したから。その人の世界というのは、「そんな人はいない」という認識の上に成り立っているんだよ。

だから、「いる」という俺の言葉を聞けば、「そんな人はいない」認識の上に成り立っている平和な世界が、壊れる。これは、完全に壊れてしまうわけではなくて、おどしを受けるということだ。ショックを受けるということだ。いままで、地震がなかったのに、ぐらっとしたわけだ。「そういうことがある」ということを言っている人が目の前に現れるわけだから。まあ、少なくても言葉は現前するからね。それは、その人の自我に一撃を与えるのである。それが、「不愉快」「怒り」という反応をうむ。「そんなんじゃない」だけだから……。俺は「そういうこともあり得る」ということを言うわけだから……。この差なんだよ。

だから、「そんな人はいない」と思っている自我を持っている人は、俺の言葉に腹を立てる。「そんな人もいるだろう」と思っている人は、そういう自我を持ってないので、「あなたの、お兄さんとお父さんはそうなんだろうな」と思うだけだ。「そういう人もいる」と思っている人の自我は、別に傷つかない。最初からいると思っているわけだから、不安にもならない。「そんな人はいない」と思っている人は、不安になって怒る。そして、否定する。

   *     *     *

本当に、俺が二一歳の時ですら、どれだけどれだけもめても、一分も静かにしてくれなかった。これが、きちがい兄貴がこの世で本当にやったことだ。毎日毎日、あたりまえのこととしてやっていたことだ。それが、「やってない」とか「静かにしてやった」とか……。本当に!!!そういうことだから、一秒も静かにしないで、静かにしてやったつもりでいられるんだろ。で、この鳴っている一日というのが、耐えがたい一日なんだ。これは、誰に言ってもわからないと思うけど、僕のなかでは、いまでも同じ風が吹いている。いまでも同じ空気を吸っている。いまで同じ知覚のままだ。

だから、くるしい。毎日、毎分毎秒、くるしい。こんなの、クリスを飲んでも解決しない!! きちがい兄貴が、一日目に普通に静かにしてくれることが、絶対に必要だった!!!

事実は、十数年間にわたって、シランプリで鳴らしまくった。一日に一秒も静かにしないで鳴らしまくった。……そういう人生だ。で、これ、いま書いているけど、一一歳の時には、書けたわけだからな。うまく説明できるとは思えないけど……。本当に聞き手が、俺みたいな経験をした人じゃないと、一一歳の俺が、どれだけ説明してもわかってくれないんだよな。それから、うちにきて、兄貴を羽交い締めにして、静かにさせてくれるわけでもない。監視をするために、うちにとまってくれるわけでもない。けど、きちがい兄貴が、一日に一分だって静かにしないわけだから、そういう人がいなければ静かにならない。まあ、外部の人がいても、静かにするかどうかわからないけどね。その外部の人だって、「うち」にずっといるなら、「うちの人」になってしまうわけだから。「うちの人」の言うことは、絶対に聞かない。これが、親父が作った、うちの伝統だ。で、こんなの、ほかのひとにはわからないだろ!!

2016年2月25日木曜日

「日記の魔力」 読書中感想文……「日記などというもので一つの本を書けてしまうのか?」と思って、手にした本

「日記などというもので一つの本を書けてしまうのか?」と思って、手にした本。


「日記の魔力」 この習慣が人生を劇的に変える 
表 三郎

引用開始

「親が叱った瞬間、たしかにあたなはだらしがない格好をしていたのかもしれない。だかそれは、あなた自身が「だらしない人間である」ということとは違う。それなのに、子供は自分で自分に「だらしない人間」というレッテルを貼ってしまうのだ。別に親が悪いわけではない。もちろん子供が悪いわけでもない。

引用終了

これ、健常者と精神病質者では違うんだよね。親が健常者の場合と、精神病質者の場合では違う。精神病質者のメッセージは破滅的だ。だいたい、毒親の攻撃は、毒親の中のものすごい問題から出ていることだ。で、毒親自身も、それがわかってない。

世間の人は、毒親が「家のなかで!!!」どういう状態かまったく知らないので、毒親に育てられたことがない人は、この苛酷さがわからない。健常者の親の場合は、「別に親が悪いわけではない」ということに、賛成だけど、毒親の場合は「親が悪い」わけで、「別に親が悪いわけではない」とは言えない。毒親の場合は、子供が優れていても、怒ってしまう。

たとえば、徒競走で一等賞を取ったとしよう。そうしたら、怒ってしまう。「なんだあいつは!!」「あんなやつより俺のほうが速い」と。もっとも、まわりにいる人が自分の妻とか「うち」の人である場合しかそういうことは言わないのだけど、ともかく、面白くないのである。子供が一等賞を取って、他の人に褒められたら、ものすごく面白くないのである。これが、子供が他の人から褒められた場合の基本的な態度だ。「自分のほうが速い」「自分のほうができる」……こういう病にかかっているのである。

そりゃ、相手は小さな子供なのだから、「自分のほうが速い」に決まっている。特筆すべきは、そういうことを思わずにはおれない、親父の自尊心が、どれだけ傷つけられていたかということだ。めちゃくちゃなのである。親父は、二歳になった時には、両親とも他界していたので、「よそ」のうちで育てられたんだけど、基本的に「いらない子供」だったので、虐待されていたのである。

親父の方の自尊心がめちゃくちゃだから、けなすことで、浮かび上がろうとしているのである。もちろん、浮かび上がりたいから、子供をけなすということを、親父が、意識的に選択していたわけではない。けど、いつもそうなる。親父にとって、そういう物事の解決方法が、自我に乗っていないからこそ、子供に計り知れないほどの影響をあたえるのである。ここらへん、ちょっと違うのである。

普通の親が子供を叱って、それを、自覚している場合とは、ぜんぜん違う。ぜんぜん違う心の機制がある。あとは、子供が失敗をした時は、勝ち誇ったように、なじるということがある。これも、親父の傷ついた自尊心が問題なのだ。こういうのも、親父の側の問題なんだけど、子供の側がそれを「ひきうけない」ことが可能かというと、そうでない。

服に関して言えば、「おまえは、こじきみたいだ」って親父から言われたことがあるよ。俺が乞食みたいな格好をしているのは、親父の稼ぎが悪いからだろ」とは、言い返さなかったけど、そう思った時がある。それから、これは、まったくわかってないのだろうけど、親父にかかわると、こじきみたいな格好をさせられることがある。きちがい親父の「服装に関する」感覚自体がおかしいので、本人はまったく気がついてないのだけど、一つ一つが、思い通りには行かない大変なことになる。

親父が、会社の人から子供用の帽子をもらってきてしまったことがある。そして、その帽子を俺にかぶせようしたことがあるのだけど、それが変な帽子で、絶対にかぶりたくなかったのである。それこそ、普通のTシャツを着てズボンを履いて、その帽子をかぶったら「ちんどんや」みたいなかっこうになる。ぜんぜん、トータルコーディネートができてないのである。変な格好なのである。友達に、バカにされてしまうような格好なのである。変な帽子だから。

けど、きちがい親父が、「もらってきた」となったら、もう、絶対にかぶせないわけにはいかないのである。だから、親戚のうちに行く前も、「かぶれ」「かぶらない」で喧嘩になる。その変な帽子をかぶって外に出るということが、ものすごく、ものすごーーく、屈辱的なことだった。で、よそのひとから、へんだと言われても、知らんぷりだよ。きちがい親父が、発狂して、かぶせたから、……かぶることを強要したから、こっちが恥をかいてるんだろ。まったくわかってない。

……そういうことの、羅列なのである。親父に関わっちゃったら、そういうことになる。いろいろなことでそういう思いをさせられる。それは、親父が、「間違いマシーン」で、「きちがい関数」なので、常に、間違った答えを出してるから、そうなる。

で、修正がないんだよな。何万回やったって修正がない。親父はもう、自分が帽子を「もらってきてやった」ということで、大得意になっているのである。すごいことなのである。「もらってきた」わけで、「買ってやった」わけじゃないというところにも、注目。もらってきてやったら、「どんなもんだ」というほど、誇らしい気持ちなのである。だから、トータルコーディネートはない。

普通の子供らしい格好で、あの帽子をかぶると明らかに変なのである。そういうことが、どれだけ言っても、通じない。妻が、「それは、おかしいから」「本当にちんどんやみたいで変だから……」と言っても、納得しない。「自分が、じ・ぶ・んがぁぁぁぁぁ、もらってきたやったのに、なんだぁぁぁ!!」ということになる。もう、かぶせたくなったら、かぶせたくなってしまうわけで、もう、かぶらなかったら、発狂発狂発狂、絶叫絶叫絶叫なのである。

そもそも、子供が、自分の思い通りにならないというのは、これがまた、発狂的に頭にくることなのである。どれだけ些細な事であっても、本当は、親父の方に問題があることであったとしても、親父の感覚のズレからしょうじることであったとしても、ともかく、現実に目の前にいる子供が、自分の思った通りに動かないとなったら、もう、発狂だ。

で、すべての細かいことで、そういうことになっているのである。きちがいの感覚に合わせなければならなくなる。そうしないと、発狂発狂だからだ。けど、合わせようとしても、親父の感覚がそもそも、おかしいので、どうしても合わせられないところが出てくるのである。

だから、常に親父が怒り狂っているということになる。あるいは、最初から、答えなどはなくて、子供が現実にそうであるということについて、その時、腹を立てるというのがある。これは、子供が立っていれば、「なんで立ってるんだ!」と怒り狂って、座っていれば「なんで座っているんだ」と腹を立てるというような方法なのである。だから、正解がない。

本当は、その時、相手がこうしてくれれば満足だ(腹を立てない)という状態がない。相手を見かけたら、なんだろうが、難癖をつけて、発狂するのである。怒り狂う。で、これも、また、親父の自我には乗ってないので、「そんなことはない」ということになる。これが、また、こっちにとって腹立たしいことになる。

親父が子供にやったことというのは、自分の不満をぶちまけるということだ。内部にある不満をぶちまけるということだ。対象は、どうでもよいのである。自分より目下で、自分の近くにいるものであれば、誰でも良いのである。ただ、親父にとっては、それが、「うち」の「子供」だったのである。「妻」も含まれている。「うち」では、「てっぺん」だから。

親父自身が、傷ついている。内部がズタボロなのである。だから、「見かけたら」かかっていかなきゃならないような衝動を感じる。「見かけた途端に」発狂する。そういう状態だ。きちがい親父が抱えている不満というのは、当時……親父が小さかったころ……よその家で親父が感じた不満なのである。親父が「みなしご」で、「よそ」の家で虐待されたときに感じた不満なのである。だから、死にものぐるいだ。どんな些細なことでも、死にものぐるいだ。本当に顔を真っ赤にして発狂する。

絶対に自分の言い分を通すわけで、その時に「おれる」ということがない。これは、子どもが小さいときは、ずっとそうやって押さえつけていたのである。(おれるというのは、相手の言うことを認めてゆずるということだ。)

で、兄貴がヘビメタ騒音を出して、本当は親として注意しなければならなくなったときは、ぜんぜん注意しない。兄貴は、体が大きくなって、アルバイトができるようになって、親父をはねのけることができるようになったから、今度は、親父並みの頑固さで、ヘビメタを「思った通りの音で」「やりたいときは常に」鳴らすことに、こだわったのだ。こだわりまくる。親父と同じような頑固さで、自分がやっていることを認めない。認めたら、静かにしなければならないので、認めない。

きちがい家では、ローシナジーが形成されやすいのだけど、ローシナジーとは関係なく、こういうことになる。ローシナジーといえば、それがローシナジーなんだけど、ちょっと違うんだよな。なんか、わかりやすいローシナジーとはちょっと違ったしくみがあるような感じがする。わかりにくいローシナジーか? うーん。ともかく、心的機制はともかくして、自我に乗っているかどうかは別にして、そういうところがある。

ともかく、きちがい兄貴も、絶対に、自分の言い分を押し通して、絶対に、おれるということがない。で、そういうふうにして、やっていることは、無自覚で、やってないことになっちゃってるんだよな。だから、つもりがないまま???!!!頑固に全部の時間、やりきることになる。

ともかく、「別に親が悪いわけではない。もちろん子供が悪いわけでもない。」というのは、普通の意味では認める。この人が言いたいことは、わかる。だから、毒親と健常者の区別などはどうでもいい話だ。けど、ぼ・く・はぁ!!そういうことをまず第一に考えてしまうのである。というわけで、感想文なので、「感じたこと」をそのまま書く。

実際の自分と、自分が持っている自分に対するイメージというのはズレがちだ。毒親にやられてない場合も、ズレることがある。しかし、毒親にやられた子どものずれ方と、毒親にやられなかった子どものズレ方は、ちょっと違うと思う。程度が違うのである。毒親にやられた子供の、自己否定感、自己無価値感といったら、ものすごいものがある。

単純な誤解ではなくて、かなり病的な誤解?がしょうじる。「自分が人間に見えるというのが不思議だ」という感覚を持っていた。他の人から見て、ぼくが人間に見えると言うことが、不思議だったことがある。ぼくだけではなくて、「どうして、他の人たちは親父を人間扱いしているのだろう」と不思議に思っていた。「他の人から見れば、親父も普通の人間に見るのか?」ということが、信じがたいことだった。……そのくらいに、おかしなことになってしまうのである。

だから、女の子が、自分のことを好きになってくれたとしても、それが、信じられない。なにかの間違いだろう」とか「この子は本当のぼくの姿を知らないから、誤解して好きになっただけで、真実の姿を知ったら離れていってしまうのではないか」というような危惧が生じる。感覚的に、どうしても、信じられないのである。

だから、「そっけない」態度を取ってしまう。まるで、関心がないような態度を取ってしまう。けど、本当は、その女の子のことを、かわいいと思っていた。まあ、そういうことは、どうでもいいとして、ともかく、毒親にたたられた子ども(人間)の自己無価値感は、相当に根深いものがある。

で、それが、「発達障害」に見えてしまうこともあるのではないかと思う。「発達障害」は、いま、はやっているからね。なんでも、「発達障害」に結びつけて、考えようとする。現象を説明しようとする。けど、「発達障害」ではなくて、どちらかというと、神経症領域の問題なんだよ。これは~~。わかるかなぁ。まあ、これも、いい。


で、これが、自分がもっている自分に対するイメージが低い場合だけど、自分がもっている自分に対するイメージが高い場合もある。これは、あり得ないほど、理想的な自分のイメージにこだわりを持つと言うことだ。これも、一種の防衛機制なのではないかと思う。自己イメージが高い人と、自己イメージが低い人がいる……のだけど、そのほかに、自己イメージが低くて、高い人がいるのではないかと思う。

病的に否定された子供は、どこかに、高い自己イメージを持たなければやっていけない状態になる。もともとの自己否定の方が、病的なので、高い自己イメージも病的なものになる。あるいは、なりがちだ。まさに、「あり得ないほど理想的」なのである。超人とか天才とか、強烈な優位性とかそういうことにこだわるようになる。あるいは、道徳的にすぐれている人間像にこだわる。聖者のイメージか。神経症領域の人は、低い自己イメージと高い自己イメージの両方を持っている人が多い。どっちも、極端なのである。

で、この作者が言いたいことと言うのは、そういうこととは、まったく関係がないことなのである。この作者が言いたいことと言うのは、「やってみなきゃだめでしょ」ということなのだ。

で、これは、同意する。やってみなければだめでしょ」というのは、作者が言うように、たとえば、「俺は自転車に乗るのがうまい」といくら空想しても、実際に乗らなかったら、意味がないということだ。空想するだけで、実際には、自転車に乗ろうとしない、あるいは、練習しようとしない。それでは、いつまでたっても乗れるようにはならないので、「とりあえずやってみようか」ということになる。失敗したら、失敗したという現実を受け入れて、そのあとどうすればいいか考えれば良いということなのである。

しかし、まあ、これがなかなか踏み出せない場合がある。

「日記で進路を軌道修正したK君」の話は、なかなかすがすがしい話だ。普通の家の子は、いろいろな問題を抱えていても、こうやって成長できる。しかし、毒親がいる家では、これも、スムーズには進まないだろう。自分の将来を巡って、親と対立する、あるいは違った意見を持つという場合でも、普通の家と、毒親がいる家では、だいぶ話が違ってくる。……ぼくはそう思う。理想の親はいないのだから、それぞれが、それぞれの「問題」を抱える。進路に関する問題もそのうちの一つだろう。けど、ぼくは、毒親がいる家庭と普通の家庭では、違うと思う。程度の違いはあれ、同じようなものだろうと思うかもしれないけど、程度の差ではなくて質の差があるような気がする。

あとは、マルクスにあれだけこだわっていたということは、多分だけど、人間の不平等とか経済的な格差と言うことにこだわりがあったんじゃないかなと思う。僕も、人間の不平等について考えているときに、マルクス読んだよ。もっとも、本屋に『資本論』の二巻目しかなかったから、二巻目しか読んでないけど。マルクスは、「小室直樹を読んだからいいや」ということになっている。廣松 渉の『マルクス主義の地平 』は、ものすごい勢いで立ち読みした記憶がある。あの難解な本を、正確に理解して読んでいるという自負があった。マルクスは予想をはずしたし、「疎外」について、正確に理解すると、やはり、マルクスの方が読み間違えたんじゃないかと思えるところがあったので、興味がなくなった。この作者が、マルクスを捨てた理由はわからない。

「経済的な不平等を解決するにはどうしたらいいか?」ということに関心を持って、ひとりで、勝手に経済学を学んでいたことがある。だから、経済学にこだわっていたのだけど、学部学科的には心理学科を目指すべきだったんだな。ヘビメタ騒音さえなければ……。本当に、毎日のヘビメタ騒音が、毎日、僕の足をひっぱった。とんでもなく、ひっぱった。まあ、ぼくの場合、いろいろなことを考えると、けっきょくそこに行くことが多い。おれ、本当に、人生の中で一番でかい記憶が、「兄貴のヘビメタ騒音」なんだよな。毎日、足をひっぱられた。どうしても、うまくいかなかった。どうしても、ヘビメタ騒音の中で、勉強することができなかった。ヘビメタ騒音で、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間まで、くずされてしまう。不可避的に……。で、そこでの葛藤が、半端じゃない。だれにもわからないことなのだけど、ぼくには、つらかった。

日記ということで、こんなに文章を書けるものなのか?と感心した。日記なんて……。この作者は三〇年、日記をつけ続けたそうだけど、ぼくも、三〇年、ヘビメタ騒音のことを書いている。最初は、手書きだった。鳴らされているときに書いた。いまも、もっている。あれ、本当に、どれだけ言っても、やめてくれなかった。あのとき悔しさや、破綻した気持ちはない。全部即座に倒される。鳴っていると、普通なら簡単にできることが、できない。どうしても、足踏み状態になる。イライラしたまま、発狂したまま、足踏み状態になって、疲弊する。これは、無意味な疲弊だ。で、全体的にそうなると、作戦の方も狂ってしまうのである。全体的って、「毎日」だから。毎日何年間も続いていることだから。

ぼくも、日記は嫌いで、夏休みの絵日記が、いやだった。小学生の時、作文が嫌いでなかなか、作文用紙のマスがうまらなかった。そういう意味では、日記は好きじゃない。この作者も、そういう日記は嫌いだったようである。

この作者は、「感じたままを書く」というやり方には、反感があるようだ。ぼくは、「感じたままを書く」というやり方は、好きだ。自分の精神活動を残しておきたいのである。だから、普通の日記とは違う。この作者の日記というのは、言ってみれば、行動の記録であるらしい。この日の、この時間に、こういうことがあったということを書き記す方法らしい。そういう日記に、「あーーんな使い方」や「こーーんな意味」があったのかぁ! メモメモ。


ぼくはやはりなんとしても、自分の精神活動を文章として残しておきたいという気持ちが強い。自分がこの世に存在したという……。自分は確かにこの世に存在して、こういうことを思っていたということを、残しておきたい。ぼくにとっての日記というのは、そういう日記だ。けど、この作者の日記というのは、自分の行動を記録するタイプの日記なのだ。で、ちゃんとそれが、生活の中で生きている。ぼくも「自分の行動を記録するタイプの日記」をまあ、つけてもいいかなという気持ちになった。というか、そこまで詳しくないけど、実際に書いてる。ときどき、読み返して、「へぇ~、こんなことをやってたんだ」「これは、あのときか~」「あのときは寒かったなぁ~」などと感じているので、「この作者と同じようなことはしてたんだな」と思った。

というわけで、みんな、どっちのタイプでもいいから、日記をつけましょう~~~
けど、日記といったらそれまでなんだけど、「日記」って、あんまり、興味が……。日記ということばに、込められている意味が違うんだな。



2016年1月29日金曜日

ヘビメタ騒音の影響で、常に、自殺したい気持ちで歩いていた時と同じ

俺、無理なんだなぁ。どれだけやっても、暗いわ。普通の人が五〇で普通、一〇〇で明るいという感じだと、俺は、普段から〇だもんな。ゼロというか、マイナスか。マイナスは入れないようにしよう。図書館行って帰ってきたけど、ほんとう~~、同じなんだよな。

ワタくんと、図書館に通ってた頃と同じ気持だ。ヘビメタにやられて、本格的に引きこもりはじめたまるまる荘時代と同じだ。まるまる荘に住んでいた頃、よく行っていた中華屋さんが、不動産屋になってた。あそこは、あの中華屋さんがやめたあとに、別のラーメン屋さんみたいのが入ってたんだけど、けっきょく、無理だったか。

けど、あそこで、昼飯を食っていたのが、二七年前とかだろ。年取ったぁ~~。死ぬわ~~。ぜんぜん展開がないまま、三〇年とか、アホらしすぎる。気持ちが、きちがいヘビメタにたたられていた時のまんまなんだよな。ともかく、苦しい。

あてどもなく、さまよっている。さみしくてさみしくしてしかたがないのに、ヘビメタ騒音が原因で、女の子と付き合えない。あれ、本当に、どれだけチャンスがあってもだめなんだよ。ずっと、苦しかった。ずっと、さみしかった。もう、さみしくてさみしくて、倒れそうな感じだ。五体投地だ。もう、歩けない。歩いている時、膝が折れて、五体投地のような格好になってしまい……そうなところ……を、強い意志で、無理して、頑張って歩いている。……そんな感じだ。

本当に、「彼女」にすがりついて、抱きしめたいのに、……それが、無理なんだよな。ヘビメタ騒音で、無理。これ、いまは、どうして、チャンスを活かして、つきわなかったのだろうなんて考えるような気持ちがあるけど……実際にはだめなんだよ。

それは、親父が倒れたときに、まだ面会に行かないで……あの道を……自転車で走っていた時と同じ気持だ。頼りな気持ち……。たよりない……本当に、たよりない不安な気持ち……。きちがいヘビメタにやられて、高校を落ちまくっていた時の一五歳の時の気持ちと同じなんだよな。

あの雲も、あの陽の光も……。午後二時だろうが、午後八時だろうが、朝の七時だろうが、ヘビメタ騒音で、きゅーっとくるほど、苦しい。ヘビメタ騒音の影響で、常に、自殺したい気持ちで歩いていた時と同じなんだよな。もう、限界だったんだよな。中学一年生の時には……。そんなのに苦しいなら、どうして、お兄さんに「やめて」と言わなかったんだ? なんてことになるんだけど、言ったんだよ。さんざん怒鳴って言った。

怒鳴らないと聞こえないからな。きちがい兄貴が、ヘビメタ道具の前を離れる時間というのはすごく短い。で、その短い時間に、どれだけ、静かに話しけても、冷静に話しかけても、無駄だったんだよ。あいつは無視して、テレビを見ている。あいつは、風呂の中にいる。風呂の中にいるとは、話しかけなかったけどね。どれだけ、言っても無駄だった。


ともかく、これ、同じなんだよな。際限なく同じだわ。これ、もう三〇年治らないのだから、同じなのだから、同じなんだろうな。一〇年後も、二〇年後も、三〇年後も。とことん、ヘビメタ騒音で人生かなかった。本当に、ヘビメタ騒音だけ!!だ。

ヘビメタ騒音だけ!!だ。「これ、お兄さんのヘビメタ??騒音なんて、そんなのは、お兄さ人言えばいいだろ」と軽く言われてしまうのだけど、どれだけ、毎日、合計で何万回言おうが、けっきょく、あいつがやりたいようにやった。全部やられた。全部の時間、やられた。あいつが、本当に静かにして、何時間も我慢するというのことは、ありえない。

いまは、普通にそうしているけど、うちにいる間は、たとえ一〇分だろうが、たとえ一分だろうが、本当に我慢して静かにするなんてことは、想定外なんだよな。弟が入試だろうがなんだろうが。どれだけ言っても、まったくなにも通じなかったよ。

で、毎日本当にやられた。毎日毎日ずっとやられて、くるしかった。「それがなんなんだ?」って話になると思うけど、同じなんだよ。俺が、底辺のバイトをしている時も同じ、通信制の大学に通っている時も同じ。通信制の大学の面接授業ということだけど。面接授業に一日行くだけで、どれだけ疲れているんだ???って世界だよ。本当に、グロッキーでどうにもならない。二日目がきつかった。きつくてきつくてたまらない。

自分でも「こりゃ、だめだ」って思う。ともかく、睡眠回路をやられて、起きて動いている時間が、めちゃくちゃに苦しい。自分でも「こんなんじゃだめだぁ」って思う。「こんなんじゃ、どこに行っても務められない」と思う。もう、心底そう思う。

背中がかちかち山。背中がかちかち山だ。きちがいヘビメタ騒音にやられて、追い出された時の、午後八時の気分と同じだ。あの時、ヘビメタ騒音から逃れたいから、塾に通った。けど、これは、失敗だったんだよな。

けっきょく、ヘビメタ騒音の中で、用意をして、ヘビメタ騒音の中に帰ってくるということになる。これが、一日に一回だけでも苦しかったのに、二回になるともう、ダメになる。俺は、本当は、ずっと、自習室を使えるようなところに行きたかったけど、それは無理だったんだよな。お金の問題で。きちがい兄貴が、ちょっと普通の精神を取り戻して、午後五時から、午後一一時までは鳴らさないという約束をしてくれれば、……そして、その約束を守ってくれれば、そんな思いをしなくてすんだ。……こんなことになってない。

で、一年間、二年間、三年間のつ・み・か・さ・ね・が大切なんだよ。一年間、二年間、三年間のつ・み・か・さ・ね・が、重たすぎる。一日でも、大変なことが、三年間毎日、積み重なったら、そりゃ、すごいことなんだよ。あの時!!静かになってくれなければ、ダメなんだよ。

俺が心療内科に通って、スクリを飲んだってダメなんだよ。一五年間もやられたあとに、心療内科や精神科に行ったってダメなんだよ。すぐに、辞めてれなきゃ!!! すぐにやめてくれなければ、だめだ。絶対に、やめてくれなかったけどな。一日に五分だって、やめてくれなかったけどな。実際はそうだ。

で、もめているのに、どれだけ言っても、……言われたあと、普通の気持ちで、ドカスカ鳴らしている。きちがい的にでかい音でどかすか鳴らしている。きちがい兄貴にとっては、なんでもない音なんだよ。こんなの、フォークギターぐらいの音だ」と思っているとしか思えない。

けど、フォークギターなんて、何百本鳴らしたら、きちがいヘビメタに追いつくと思っているんだよ。フォークギターを五〇〇本同時に鳴らしても、きちがいヘビメタに、追いつかない。きちがい的にでかい音で鳴らしているのに、……きちがい的にでかい音で鳴らしているということを認めると、静かにしなければならなくなる場合は……絶対に、きちがい的にでかい音で鳴らしているということを認めない。

認めないまま、鳴らし続ける。「こんなの普通の音だ」と、勝手に思ったまま鳴らし続ける。そりゃ、普通の音で鳴らしているのであれば、一四時間鳴らしたって、がたがた行ってくるほうが悪いということになる。普通の音で鳴らしているのならな!! けど、普通の音じゃなくて、きちがい的にデカい音なんだよ。いま住んでいるところでは、一分だって鳴らすことができないデカい音なんだよ。

そういう、きちがい的な言い換えがあって、絶対に認めないんだよ。そういう態度が、きちがい親父とまったく同じ!!! きちがい親父とまったく同じことをしやがって!!! 一切合切認めないでやり切るんだから。それも、毎日だよ。毎日同じなんだよ。三六五日中、三六五日、こだわってこだわって、……こっちが試験だからやめろと言っても……頑固に無視してやり切る。



2016年1月18日月曜日

パチンコに行きたくてしかたがない人がうらやましい

なにを楽しみに生きていけばいいのだろうか。散歩? ブラタモリとか路線バスの旅とかわりと好きなんだよな。けど、僕には、散歩する体力がない。バスを乗り継いで旅をする気力がない。ときどき、ブラタモリみたいなことをしたくなる。なんか、そういうサークルがあるんだよな。いろいろと詳しい人と行ったら、おもしろいかもしれない。けど、散歩体力がないから、みんなに迷惑をかけると悪いしな。写真サークルもなんかそんな感じで、躊躇していたし、躊躇している。なんか、どっかに行って写真を撮って帰ってくる……。しかし、これも、そもそも、ヘビメタ騒音にやられてから、歩くということがつらい。だから、そういうサークルに入れない。こまった。

まあ、順番からいえば、稼ぐ方が先なんだけど、……稼ぐ方が先なんだけど、「だれでもできる」アルバイトは、もう、いい。軽作業も、やりたくない。というか、できない。軽作業って書いてあるけど、軽作業だったときがない。かんざしを作るとかの方がいいな。自分の部屋で、そういう、力がいらない作業をする方がいいや。それか、web作成なんだけど、通うのは、いやだ。これも、できない。通えない。まあ、徒歩一分とかで、二四時間中、いつでも好きなときに来てくださいということだったら、できるかもしれない。途中で、ダウンするけど。だいたい、一日外に出たら、次の日、ダウンしてしまうというのが問題だ。本当、グロッキーで動けない。グロッキーって、昔の表現で、いまの人は知っているのかな? まあ、いいや。疲れてダウンしている状態だと思ってくれ。

つまらないんだよね。つまらない。けど、じゃ、どこかに行くかということになっても、激しく憂鬱で外に出れない。こんな、何十年間だよ。ヘビメタ騒音に一四年間やられてからは……。本当、毎日やられてたからな。生活体力を全部奪われた。これ、なんていうのかな、病院に行く前の日……昨日なんだけど……けっこう、眠れないで心配になった。なんとか、眠れたけど。まあ、余裕がある時間だからな。午後六時に到着すればいいんだから。

けど、午後六時に到着するには、午後四時ぐらいに家を出た方がいいという……そういう、距離だ。乗り換えはないから楽だけど。こんなの旅行だよね。俺には……。けど、通学、通勤?で使ってた電車なんだよな。あの電車を使うしかないんだよな。ヘビメタ騒音関係で、いろいろな重たい、くるしい思い出がつまっている。駅にいるのも、実はつらい。電車が来たことを知らせる音楽とか、駅のアナウンスとか、なんかくるしいんだよね。無理矢理アルバイトをしていたときに、かかってた音楽やアナウンスだから……。駅の雰囲気って、俺は、あんまり好きじゃないんだよな。もう、そこからして、旅行好きの人とは、違う。電車恐怖とかでもないけど。鬱は、鬱だね。

これから、一時間くらいしたら家を出るつもりだけど、本当、できれば行きたくない。一ヶ月に一回、やらなければならないことでも、この調子じゃ、サークルなんて無理だよね。きちがいヘビメタ騒音にたたられて七年間たった時点で……ヘビメタ騒音が七年間、ずっと毎日毎日毎日毎日、続いた時点で、こういう水準になっている。これが、普段の状態だ。こんな人は、人生を楽しめるはずがない。きちがい兄貴は、俺の人生の楽しみを……すべて奪った。人生を楽しむ能力という根本的なものを、毎日毎日、きちがいヘビメタ騒音という毒を与えることによって……浴びせかけることによって……奪った。なので、ゆるせん。ゆるせるかっていうのよ。ゆるせるわけがないだろ。けど、きちがい兄貴は、そんなことをしたつもりがないんだよね。つもりがないということは、そんなことをしてないという意識のままなんだよね。こんなんで、ゆるせるわけがないだろ。俺が納得できるひとこと、なんてあるわけがないだろ。

まじで、パンチコでも、行きたくて尻がむずむずするようなところがあるというのが、うらやましい。そんな気持ちないもん。そんなところないもん。うらやましいよ。

引きこもり問題を片付けようと言ったって、こんな状態なんだから、しかたがないだろ。朝か日中、太陽が出ているときに散歩とか……。そりゃ、それでいいけどさ。俺はドアの前で、きちがいヘビメタ騒音兄貴にやられたことを思いだしてしまう。外に出て歩いているあいだも、「気持ちいい」とかそういう感情はなくて、ただただ、きちがいヘビメタ騒音にやられていたときの……くるしい「歩行」を繰り返すだけだ。記憶というか、感覚自体がそうだ。知覚自体がそうだ。明日、散歩に出たとしても、それは、ヘビメタ騒音時代に、外を歩いているのと同じなんだよ。本当に、くるしいだけの人生だったな。


まだ行ってないけど、なんとかいい気分にならないかな。どうにかいい気分に……。いやーーだめだ。鬱だ~~~。行きたくないし、鬱だ。鬱病の人って、よく、病院に行けるなぁ……。今日は起きているから、なんとか行こう。あ~あ、けど、けど、やっぱり鬱だ。

そく、きちがい兄貴のやつ。こういう日差しの時に、きちがいヘビメタを頑固に鳴らして、一分もやめてくれなかった。そういう日々だ。そういう日々が、何千日も積み重なっていいわけがないだろ。僕は天使でも神様でも超人でもないんだよ。そんなのに、たえられるわけがないだろ。本当に……。ただちょっと、ヘッドホンをすれば済むことになのに。いま、自分の家で普通に、ヘッドホンをしているのに。なんで、「うち」にいたときだけ、毎日頑固に、ヘッドホンをしないで……そういうこだわりを持って、ヘビメタを鳴らしてたんだよ。兄貴、おまえは、鳴らしまくって、こころが晴れ晴れなんだろうけど、こっちはやられまくって、ぐしゃぐしゃだ。きちがい兄貴、本当に、自分がやったことがわかってない。毎日、やらなかったのと同じ態度だ。やったのに!!!!

腹立つね。で、歩いているときも、腹を立ててるんだよ。切符を買うときも。駅で電車を待っているときも……。いいわけがないだろ。こんなの地獄だ。

2016年1月13日水曜日

「よそ」の人にできないひどいことでも、「うち」の人にはやってあたりまえなんだよ

本当につまんねぇ。本当につまんない。
他の人のブログをもっと読みたい。いろいろと探している。別の分野のやつも、いろいろと読んでみたい。田舎暮らしとか。まあ、適当に読んでいたんだけど、……やっぱり、ブログより本のほうがいいのかな。

いま、起きたところだ。昼間横になると言ってから、眠ってしまった。けど、なんて言うのか、眠りが破綻なんだよね。きちがいヘビメタ騒音にやられていた昼間と同じなんだよね。本当にあれからずっと苦しい。いいようがない。どうしても苦しい。いつ起きても苦しい。言い様がないんだよね。特に、ヘビメタ騒音が毎日八年間積もった頃の、体の調子が……。ヘビメタ騒音生活が八年間積もった時の体の調子のまま生きている。最大限に良くなって、そのときの、体の調子だ。一九歳の頃の体の調子だ。あれ、本当、地獄なのに……。俺がサボっているように言われる。実際、浪人とか、うだつがあがらないステータスだ。

ヘビメタ騒音が八年も続くと、体がもう、なんていうのかな……放射能に汚染されているように汚染されている。ヘビメタ騒音の音波に汚染されている。貫通している。で、もやもやとずっと苦しい。あいつはぁ……本当に、ひどいことをしているのに、ぜんぜんひどいことをしているつもりがない。で、つもりがなければ、どれだけやったって、ゼロなんだ。一切、話が通じない。どれだけなにを言っても、自分がやりたい分だけは、必ずやり切る。で、それが、毎分毎秒、困るんだって……。本当に、きちがい親父以上に、まるで!!!!なにも!!!!つたわらないんだよな。どれだけ言っても、同じなんだよな。それで、一四年間毎日やって、「つもりがなかった」だからな。こんなの、頭がおかしすぎる。

自分が、他の音で一分間やられれば、どれだけひどいことかわかるのに……。本当にきちがいの音にさらされて、体中が、不愉快で生きていけない。よその家では、一分だってできないことを、家では、ずっと、やれる時間があれば、どれだけ「やめろ」と言われても、やり切る。それで、やったつもりが生じない。頭がおかしい。そういう構造なんだよね。親父にやられて、構造がまったく同じになっちゃった。で、そういう構造だということには、気が付かないんだよね。うちの人間が、どれだけ、よそとうちで、態度が違うか、本人は気がつかない。そして、それに対してまったく無頓着なんだよね。

よそだから、こうしようと思って、こうしているわけじゃない。うちだから、こうしようと思って、こうしているわけではない。けど、基準が端から違う。モードが違う。うち、であれば、絶対に、気にしない。どれだけなにを言われても気にしない。気にしないで、自分がやりたいことを、押し切る。やる。

で、やったつもりがない。相手がやめろと言っているのに、やり切ったつもりがない。いつもそうだから。で、何度も言うけど、本人が気がついてない。意識的に、切り替えているわけじゃないんだよ。「よそ」と「うち」を意識的に切り替えているわけではない。

けど、「よそ」の人にできないひどいことでも、「うち」の人にはやってあたりまえなんだよ。普通は、反対なんだよ。普通の家族は反対。うちの人には、できないことを、よそのひとする。けど、うちは、反対。よそのひとには、一分だってすることができないひどいことを、一日に何百分やったって、何百分押し付けまくっても、まるで平気。「やったってやってない」……。

「やったってやってない」の境地に立って、なにも、感じない。相手が、どれだけ何百回言ってきても、なにも!感じない。その時、怒るだけだ。自分がやろうとしていること、……やっていることに、文句が付いたということに対して、腹をたてるだけ。相手にゆずるつもりなんて一切合切ない。

けど、そういうモードでやっていることは、そのモードから抜けた時には、やってないことになってしまうんだよな。だから、本人はい・つ・も、やり切るのに、い・つ・もやったつもりがないというきちがい的な状態が発生してしまう。だから、どれだけ言ったって、無視して、無責任にやり切る。

自分が意地になって、少しでも反対されたら、怒り狂うようなモードでやっているのに、そうやって、やったことは、やってないことになってしまう。……毎日毎日。

だから、その毎日が一〇〇〇日積もっても、五〇〇〇日積もっても、本人は、やってないつもりでいられる。「知らなかった」なんてことになる。

で、その時も、要するに、モードが違うわけだから、完全にひとごと。自分がやった感じがしてない。自分がやってないことに対して、文句を言われている感じしかしない。だから、自分にも言い分があるような感じがする。そりゃ、自分がやってないことを、やったと言われて、その行為に対して文句を言われたら、言い分が出てくるだろ。

で、本当にそういうことなんだよね。頭がおかしい。本当にそういう感覚。だから、いまどれだけ文句を言われても、自分がやらなかったのに、文句を言われているというような感じしかない。「自分(兄貴)が、昔こうだった」「兄貴が昔こういうことをした」ということを言われて、腹が立つという状態だ。「よそ」の人の前では、「やってない」「そんなに鳴らしてない」「静かにしてやった」という気持ちになってしまう。「うち」の人だけに囲まれた場合は、どれだけなにを言われても、「頑固にやり切るモード」でやり切る。絶対に一分だろうがゆずらない。中断して静かにするなんてことは、絶対にありえない。しかも、静かにしたつもりで?きちがい的にでかい音で鳴らしまくる。「やったって、そんなのは知らない」のである。「やったって、そんなのはやってないのと同じ」なのである。頑固に無視してやり切る。「それであたりまえ」の毎日。なにも感じない。やったのに、やったと思わない。

そういう状態で、何十年も毎日、すごしているんだぞ。それで、ゆるせるかっていうの。ゆるせるわけがないだろ!!


2016年1月10日日曜日

一日目にやめさせなければ、どれだけ頑張っても、こういう人生だったんだ

あ~~~~~、免許講習、行ってきた。更新終了。このあいだ書き換えたのが五年前だろ。あれから、五年経つのか。しかも、なんか免許センターの近くが某大学の近くに似ているので、、バス停であった少女のことを思い出す。にしても、本当、免許書の写真て……。あーあ、俺も年をとった。で、けっきょく、きちがいヘビメタをやられてしまってはだめだったんだな。小学六年生のときに、俺の人生決まってたんだな。小学六年生のときにやめさせることができなければ、ずっとそのままだったんだな。小学六年生のときにやめさせることができなければ、どれだけあがいても、こうなることが決まってた。本当に、むなしい人生だ。腹が立つ人生だ。決まってたんだなぁ……あの時には。やられても、どうにかなる、どうにかするとがんばっていたけど、やっぱり、決まってたんだ。鳴り始めたら、どれだけやってもだめだったんだ。ずっと、あの時の気分のまますごしている。ずっと、あのときのまま、うだつのあがらない状態で生きている。もう、死にたいけど、死ねない。が、死にたい。ともかく、無理だったんだ。一日目にやめさせなければ、ダメだったんだ。どうやっても、ダメだったんだ。一日目にやめさせなければ、どれだけ頑張っても、こういう人生だったんだ。

あの子はどうしているんだろうな。あの子と、ちゃんと付き合いたかったな。なんで俺は、住所と電話番号を聞かなかったんだ。聞かなくても、なんか会えるような気がしてたんだよな。両方共合格して、キャッパスで。ともかく、自分の住所と電話番号は教えておくべきだったな。そういうことをしなしかったんだよな。一九、二〇歳の頃、付き合えてたら、たとえ、ヘビメタ騒音のことで進路が決まらず、三行半を突きつけられていたとしても、いい思い出にはなったんだろうな。関心のないふりをするんじゃなかった。ヘビメタ騒音で内側がボロボロなのを、知られたくなかった。ヘビメタ騒音が続く限り、受からない感じもしてた。……あれがもう、ずっと前のできごとなんだからな。あのあとは、同じようなことがあったけど、……なんていうのかな。ずっとこんな感じだ。

免許と行っても、原動機付き自転車の免許だから。しかも、免許を取る時だけ一度乗っただけで、そのあと、乗ってない。今日も、免許センターまで、自転車で行った。じゃ、どうして取ったかというと、マイクロソフトオフィシャルトレーナーの試験を受けるときに、写真付きの証明書が二枚必要だったから。あれ、本当、厳重で、二枚必要だった。これ、原動機付き自転車の免許を取る時も、本当に、ヘビメタ騒音を鳴らされた入学試験の時と同じ気分だったんだよな。駅まで行く時の気分も、電車に乗った時の気分も。その後の気分も、全部同じ。灰色。死にたい。

ともかく、やられてもどうにかなるというものではなかった。ヘビメタ騒音で毎日、常に足を引っ張られてたのが、でかすぎる。毎日の積み重ねだからね。毎日本当に、ずっとずっとずっと、家にいる限り、家にいる時間、全部、ずっとずっとずっと、際限なく、ずっとずっとずっと、邪魔された。常に、発狂的な音が鳴っている。本当、きちがい兄貴、自分が切らない音で、あの音のでかさで、一日に七時間から一四時間鳴っている状態が毎日続くということを、経験してみろ。それで、どこかに通ってみろ。午前七時三〇分に家を出なければならない状態で、前の日、午後一一時一〇分まで、ずっと、その音が鳴っている状態を経験してみろ。どれだけ、苦しいか。自分は一〇分だって、一分だって経験したくないことを、俺には、さんざん押し付けやがって。しかも、ぜんぜん、つもりがないんだからな。全部の時間押し付けて、それで、一秒も押し付けた「つもり」が生じない。やっているけど、「つもり」が生じない。で、生じなければやったってやってないのと同じなのである。そういうやり方で、やられたら……やられ続けたら、どれだけ、腹が立つか、経験してみろ。今からでも遅くないから経験してみろ。自分が俺にしたことを……やってもぜんぜん悪いと思ってなかったことを……俺の立場で、嫌いな音で経験してみろ。毎日ずっと、経験してみろ。あの音のでかさは、たいしたことがないんだろ。あの音のでかさでも、「静かにしてやった」つもりなんだろ。それだったら、静かにした音で鳴らすのだから、問題がないわけだろ。だったら、鳴らせよ。

きちがい兄貴は、自分はたいした音で鳴らしてないと、印象づけたいんだろうけど、だったら!自分が鳴らしていた音で鳴らしてみろよ。自分が静かにしてやったつもりの音……静かにしてやったんだからどれだけ鳴らしたって問題ないだろと思っていた音のでかさで、一日中鳴らしてみろ。今日は、日曜日だ。日曜日は、遅くても、午前一一時から、ずっと鳴らしてたね。途中、一一時、一一時三〇分、一二時、一時、二時、三時、三時三〇分、四時、五時、六時、七時、八時、九時、一〇時、一一時、俺が、どれだけ何回怒鳴りこんでも、そのまま!!鳴らしてたね。それで、静かにしてやったと思っている頭がおかしい。全部毎日、そういう状態じゃないか。それで、俺の人生にまったく影響を与えたつもりがないだからな。徹底しているよ。徹底した無視だ。きちがい親父以上に頭がおかしい。なにも感じてない。自分がやりることさえできれば!!なにもやってないつもりになる。それほど鳴らしてないつもりになる。うるさくしてないつもりになる。頭がおかしいから。そういう頭のつくりなんだよ。頭がおかしいから。そういうふうにしか、感じない。頭がおかしいから。

いま、俺に言われてたって、……言われたって、「そんなふうだったのかなぁ」とまるで、ひとごとだ。自分がやったような感じがしてない。で、そういう状態で、頑固にこだわって、全部の時間鳴らして、俺が勉強するのを、邪魔した。宿題をするのを邪魔した。夏休みだって、夏休み四〇日中、四〇日、おれがどれだけ「宿題をするから静かにしてくれ」と言っても、無視して頑固に一四時間鳴らして、ゆずってくれなかった。静かにしてくれなかった。一日に一分だって、静かにしてくれなかった。一日に一分だって、ヘッドホンをして静かにしてくれなかった。いま普通に、ヘッドホンをして、静かにできるのだから、あの時だって「できない」ということはないんだよ。けど、きちがい兄貴は、「できない」と思って、ヘッドホンをしてくれなかった。これが、一四年間の、事実だ。おまえ、きちがい兄貴、何いってんの? 「静かにしてやった」……嘘だね。一日に一分だって静かにしないで、絶対の意地で鳴らし続けたというのが、この世で、きちがい兄貴が、毎日毎日、こだわってこだわってこだわって、やったことだ。こだわってやったことなのだから、意識がある。意思がある。まるで、「そんなつもりじゃなかった」みたいに言いやがって。そういう態度で、ずっと、鳴らしてきた。ずっと鳴らしてきたのが、きちがい兄貴だ。


2016年1月7日木曜日

よく人生の先輩風を吹かしたようなことを言ってられるな

俺がここでどれだけなにを書いても、なにも変わらない。きちがい兄貴は、高いびきだ。自分が本当にやったことも認めてない。都合が悪いことは全部、「知らなかった」「そんなつもりじゃなかった」「そんなことに鳴っているとは知らなかった」で、すますわけだから。こんなのなのよ。そういう態度で、こっちがどれだけなにを言っても、鳴らしてた。こっちが、困って困って、必死になって頼んでいた時も、けっきょく、全部鳴らした。一日に何回怒鳴りこんでも、鳴らし続けた。一回怒鳴りこんだら、一〇分間は、鳴らさないで静かにしてくれるとか、そういうことすら、してない。そういうことですらない。これが、きちがい兄貴の態度だ。一〇分間、〇・〇一デシベル下げてやれば、……その下げた音が、きちがい的にうるさい音でも、「下げてやった」ということになってしまう。恩着せがましく「静かにしてやった」と思ってしまう。頭がおかしい。

俺は、さっき、自分の部屋を片付けていたら、かつて、きちがい兄貴からもらった手紙というのを発見した。使ってない机の引き出しに入ってた。これ……。

おまえのせいで、おまえが、試験期間中も、なにがなんだろうがずっと鳴らすから!!!週三回のアルバイトですらできなくなっているのに……「早く立ち直ってください」みたいなことが書いてある。社会に出るといろいろと大変なことがあります……これ、バイト先で俺が、きちがい野郎からパワハラを受けて、困った立場にいるということを書いたんだよな。さらに、そのバイト先の社長が、バックれて、最後の月のバイト料をもらってない。最後の月だけではなくて、その前の月の半分ぐらいのバイト料ももらってない。

どうして、そんなことになっちゃうのか? それは、兄貴が!!俺の人生を奪ったからだよ。何いってんの? それでよく、「社会に出れば、いろいろとストレスが溜まることもあるし、また、いい事もあるでしょう。これからの人生をよりよいものとしていくために、是非ともがんばってほしい」なんて、言えるな!!!! 頭がおかしい。完全にきちがい。兄貴がやったことなのに。兄貴が、こだわりきってこだわりきって、毎日毎日やったことなのに。兄貴がこだわりきって、毎日毎日、こっちが、毎日毎日さんざん「やめろ!!!」「静かにしろ」と言っているのに、やりきったことなのに……なに言ってんだよ!!!きちがい野郎!!!きちがい野郎!!!!!


人生の先輩風を吹かしたようなことを言ってられるな。これ、本当に、きちがい。サイコパス。頭がおかしい。まるで伝わってない。

おまえは鳴らしている時からそうだ。鳴らしている最中、そういう態度だ。そういう態度で、全部鳴らし切った。鳴らさないで我慢してゆずってくれるなんて、一日一分だってあるはずがないだろ。だから、一日に一分も譲らないで頑固に鳴らしてたんたよ。

で、これ、三六五日中三六五日、一〇年中一〇年、頑固に毎日やっている奴に、俺が言って説明しなければならない。おかしいだろ。これ!! 三六五日中三六五日、一〇年中一〇年、頑固に毎日やっている奴は、知っている」はずだよな。自分が鳴らしていることを知っているはずだ。自分が一日一分だって、本当にはゆずってないことを知っているはずだ。こういう、ことが、普通に成り立ってしまう。これが、普通の毎日。頭がおかしい。頭がおかしいやつが、絶対の意地!!鉄板の意地で、頑固に全部やりきって、「やってない」事になってしまう。これが、きちがい家の普通のできごと。毎日のできごと。毎時間、毎分毎秒のできごと。

どれだけなにを言っても、それがくつがらない。一分だってやめてくれない。一分だってなってない時間がない。一分だって、くつがえらない。

これが、きちがい家のあたりまえの状態だから。普通に、言えば、「伝わって」一時間鳴らさないで静かにしてくれる……一時間ヘッドホンをしてくれる……こんなのは、ありえないこと。異常なこと。天変地異。あったら、おかしい、異常なこと。……こういう毎日だよ。これがあたりまえなんだよ。これが、きちがい家の常識なんだよ。

で、きちがい家のやつは、やりきった人は、普通に「やってない」と嘘をつける。「やった」ということを認めるのが都合がわるいことになると、ふつーーーーに、嘘をつける。しかも、嘘を付いているつもりがない。あれだけ、がめつく、頑固に、こっちがどれだけ何回、強く言っても、怒鳴っても、絶対にやりきったことなのに……。不退転の決意で、きちがい的な意地で、やりきったことなのに……。本人が「やり切ることができた場合は」やってないことになってしまう。

本人が全部、びた一文ゆずらずにやりきったことは、やってないことになってしまう。きちがいの中では、やってないことになっているから、自分がやったことに対する批判を受け付けられない。頭がおかしいから。じゃ、実際に鳴らしている時……実際にやっているときに、やめてくれと言って、それが通るかというと、それはもう絶対にないんだよね。こういうしくみだよ。頭がおかしい。

頭がおかしい人じゃないとできないことだけど、自分がやりたいことは、完全に全部、自分がやりたいようにやることができる。そして、そうしたということについて、一切合切責任を取らなくていいことになっている……ようだ。そりゃ、本人にとっては、全部やり切れたことは、まったくやってないことと同じなんだから。主観的には「やってない」といえる事なんだから。頭にくるな。

嫁さんはまず、きちがいヘビメタ騒音を経験した方がいい。嫁さんは、もう、二五年ぐらいきちがい兄貴と住んでいるけど、一分も、きちがいヘビメタを、きちがい兄貴がかつて鳴らしていた音で、聞いてないんだよね。聞かされたことがないんだよね。だから、二五年間も「中立的な立場で、両者の言い分を……」なんてのんきなことが言える。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。