2019年11月30日土曜日

営業してその人ができる仕事を持っていってやるというのが正しい援助のしかただ ●説得や指導は、たいていの場合意味がない

●説得や指導は、たいていの場合意味がない

うんと手短に結論だけ言っておく。『その人が余裕でできる仕事』を持って行ってやることが、『引きこもり支援』なのである。その人が余裕でできる仕事を持っていってやることが、ほんとうの支援だ。基本的に「引きこもり」とか「高齢引きこもり」と言っても、それぞれに、ひきこもりにいたった問題がちがうのである。けど、「引きこもりだから」おなじだ。「高齢引きこもりだから」おなじだと思われてしまうのである。原因がまったく違うので、原因に対する対処の仕方もちがってくる。基本、『働くように説得する』というのは、一番やってはいけない対処の仕方なのである。営業してその人ができる仕事を持っていってやるというのが正しい援助のしかただ。その時点で「できないこと」や「むりがあること」を押しつけても解決にはならない。

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説得されて、働けるのは一割か二割といったところだろう。この人たちは、ほんとうに甘えていて?やればできる人たち??だから、やればいいということになる。けど、基本的に、日本は第二次産業がぬけた状態になっているので、加齢とともに、よりきびしい状態を押しつけられるようになるということは、かわりがない。
もともと、働けない人たちは、どれだけ説得されても、働けない。説得されることで、働けない状態が改善されないからだ。虚弱体質の人ができる仕事は限られている。難治性の睡眠障害を抱えている人ができる仕事は限られている。働けない人をむりやり働かせても、けっきょくは、働けない人はからだがなれることがなく、その仕事をやめてしまうだろう。そうすると振り出しに戻るわけだし、振り出しに戻ったときには、『失敗の体験』がひとつ増えるわけだから、より悪い状態になっているといえる。虚弱体質である人は、仕事量が自分の体力の限界をこえているのであれば、何日たっても、仕事に慣れることがない。もともと、虚弱体質ではない引きこもりは仕事に慣れる可能性がある。虚弱体質である引きこもりと、虚弱体質ではない引きこもりは、わけて考えなければならないのである。睡眠障害に関しても、働き出せば、治る人たちがいる。その人たちと、働き出しても治らない人たちを一緒にすることは、賢明ではない。難治性の睡眠障害がある引きこもりと、引きこもっているからしょうじる睡眠障害を抱えている引きこもりは、わけて考えなければならない。


せいぜいのところ、「心地よい日影」を想定して、ものごとを言っている


置かれた場所で咲きなさい



生まれも育ちもいい人が、こういうことを、生まれも育ちも悪い人に言ってるんだよな。こんなの、どうしてうけるのか?



だいたい、命令形なのが気にくわない。「咲きなさい」だと? どうして、命令形を使うのか? こういう言葉は、差別を肯定するためにある言葉だ。

構造的な貧富の差を認めずに、貧しい人間に、「虐げられた場所で、がんばればいい」と言っているだけだ。



なんで、こんなのがうけるんだろうな? 自己責任論とおなじで、なんかおかしいんだよな。恵まれた人の無理解が根底にある。

しかし、そうは思っていないのである。恵まれた家に生まれて、恵まれた状態で生きてきた人には、根本的にどれだけ努力してもどうにもならない場所があるということがわかってない。努力すら、毒でできないような状態というのが根本的にわかってない。

まあ、なにを信じるかは人の好き好きなので、底辺の人が「そのとおりだ」と思ってこの人の言っていることを信じるのはかまわない。けど、それ、手短に言うと、かもになっている。



差別構造を肯定する底辺の人たちがいるんだよ。この人たちは、自分をくるしめているものがなんなのかぜんぜんわかってない。

日影でもいい場所はある。そういう場所で、ひっそりと咲くということであればなんの問題もないと思う。けど、汚染された場所がある。汚染された場所で咲こうとしても、毒にやられて死んでしまうぞ。

構造的に汚染された土地がある状態で、そんなことを言われても、汚染された土地の上に住んでいる人は、どうすることもできない。どうすることもできないというか、苦しんで死んでしまう。苦しんでいるときに、希望をすてずに努力したとしても、汚染された土地の上で生きている以上、毒にやられて死んでしまう。

毒と言ってもいろいろあるけど、まあ、放射能でも水銀でもなんでもいいとするよ。まあ、汚染された土地というのは、比喩だ。基本的に努力が一切合切実を結ばない場所というのがあるのだ。

「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」という言い方もある。こっちの方が好きだけど、差別構造を肯定していることにはかわりがない。

たとえば、カースト制度があっとして、カースト制度で下の方にいる人たちが、「置かれた場所で咲こう」と思っても、うまくいかない。いま現在は、実は、カースト制度に対する反動があった「あと」だから、逆差別のようなものも生じているのだけど、ここでは、カースト制度が確固たる制度で、その制度に対する批判や疑問があまりない社会を前提にしてものごとを考えてみよう。

ようは、カースト制度全盛時代に、カースト制度・上位の人が、カースト制度・下位の人に対して「置かれた場所で咲きなさい」と言っているのとおなじなのではないかということだ。

現在の日本には、カースト制度はない。しかし、それは、制度としてはないというだけで、実質的には、カースト制度がもたらすような経済的な差、文化的な差はある。

だから、経済的な差において上位の人が、経済的な差において下位の人に向かって、「置かれたところで咲けばいいのだ」と言うことは、カースト制度全盛時代に、カースト上位のものが、カースト下位のものに対して「差別を受け入れろ」と言っているに等しいところがある。文化的な差において上位の人が、文化的な差において下位の人に言う場合もおなじだ。(ここで言っている経済的な差というのは、うまれながらの経済的な差に限定しておく。文化的な差も同様。)


日本はこういうまやかしの言葉がはやる時代になっている。なんとしても、自己責任にして、社会を維持したいのだ。

何度も言うけど、「日影でもいい場所」はある。だから、日影にいる人がこの人の言葉……「置かれた場所で咲きなさい」ということを聞いて、日影でがんばるというのはわるいことではない。けど、汚染された土地の上にいる人が、この人の言葉……「置かれた場所で咲きなさい」ということを聞いて、汚染された土地でがんばっても、いいことにならない。いいことなんてない。

もちろん、その個体にとっていいことにはならないだけで、言っている人は汚染された土地に住んでいないのだから、普通に生きて死んでいくということになる。だから、汚染された土地に住んで、がんばったにもかかわらず、毒にやられて、苦しんで死んでいった人のことなんて、知らないままだ。

眼中にない。

汚染された土地に住んでいる人たちのことは、考えない。

せいぜいのところ、「心地よい日影」を想定して、ものごとを言っている。どうしてそうなるかというと、人間というのは、たとえ、カースト上位でも、文化的な差において上位でも、経済的な差において上位でも、人間として、ある程度の「苦労」はしているからだ。しかし、そういう人たちの「苦労」と、汚染された土地に住むしかない人たちの「苦労」はぜんぜんちがう。

けど、それがわからない。どうしてかというと、文化的な差において上位にいるのであれば、あるいは、経済的な差において上位にいるのであれば、汚染された土地の上には住んでないからだ。自分の経験した「苦労」をもとにして、ものごとを言っているからそういうことになる。

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人間というのは、どこにうまれようが苦労を強いられる存在なのだ。それは、カースト制度上位にうまれようがかわらない。しかし、カースト制度下位に産まれた場合と、カースト制度上位にうまれた場合は、苦労の質と量がちがう。
現在の日本だって、隠されてはいるけど、カースト制度のような不公平が存在している。それは、うまれながらに存在している。カースト制度上位のものが「気にする必要はない」と言っても、現実として押しつけられているほうは、気にすることになる。気にするべきことか、気にするべきことではないのかということを吟味して気にするようにしている場合は、気にする必要性がなくなれば、たしかに、気にする必要はなくなるから、気にしなくてもすむようになる。しかし、それは、事前に吟味して気にしたような、気になることに限定される。

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『置かれた場所で咲きなさい』
 単行本(ソフトカバー) – 2012/4/25
渡辺 和子

Bloom where God has planted you.
置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。
咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。

「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください」
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。
現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる。
いい出会いにするためには、自分が苦労をして出会いを育てなければならない。
心にポッカリ開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。
希望には叶わないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けること。
信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。
「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練を感謝すること。

著者 渡辺 和子 について
1927年2月、教育総監・渡辺錠太郎の次女として生まれる。51年、聖心女子大学を経て、54年上智大学大学院修了。56年、ノートルダム修道女会に入りアメリカに派遣されて、ボストン・カレッジ大学院に学ぶ。74年、岡山県文化賞(文化功労)、79年、山陽新聞賞(教育功労)、岡山県社会福祉協議会より済世賞、86年、ソロプチミスト日本財団より千嘉代子賞、89年三木記念賞受賞。ノートルダム清心女子大学(岡山)教授を経て、90年3月まで同大学学長。現在、ノートルダム清心学園理事長。
主な著書に、『愛と祈りで子どもは育つ』『目に見えないけれど大切なもの』『美しい人に』『愛と励ましの言葉366日』『幸せのありか』『マザー・テレサ 愛と祈りのことば<翻訳>』(以上、PHP研究所)他多数がある。

2019年11月27日水曜日

三本の歯をなおすことになった


歯医者に行ってきた。三本の歯をなおすことになった。しばらく時間がかかる。今日はやっぱり、麻酔を打って、歯を削った。
いやー、治療中も、ヘビメタ騒音でむなしい気分が続いた。おんなじなんだよな。七年前に治療したときもおなじ。一八年前治療したときもおなじ。むなしい。

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歯医者から帰ってきたもののやることがない。
いや、あるよ。あるはあるんだけど、ほんとうに長期騒音にやられていた頃とかわりがないなと思ってさ。帰り道……。ストアによってきた。やっぱり、ほかの人たちの生活が見えるわけ。『俺はなにをやっているんだ』という気持ちになるよ。デジャブだよ。

こっちがどれだけ切羽詰まった状態になっていても、こっちの状態がわからない


なんとか、歯医者に行ける体力を維持しなければならない。もし、死ぬのであればもちろん、歯なんてどうでもいいわけだ。長生きすることを想定して歯のことを考えている。

けど、ヘビメタ騒音にやられて、入学試験か会場に行ったような気分になる。

ぶらぶら。
不安。

この不安は、気違いヘビメタ騒音が続かなかったらなかった不安なんだよ。他の人は、試験の不安だと思っているかもしれないけど、そうじゃないんだよ。ヘビメタ騒音に三年、毎日やられた不安なんだよ。ヘビメタ騒音に六年、毎日やられ続けた不安なんだよ。日中の雰囲気が並みじゃない。深夜の雰囲気も並みじゃない。早朝の雰囲気が並みじゃない。それぞれ、気違いヘビメタの雰囲気がする。気違いヘビメタの影響を受けたからだの状態になっている。気違いヘビメタの影響って、たとえば、その日、一二時間鳴っていたとすると、午後一一時一一分に鳴りやんでいるにもかかわらず、午前一時、午前二時、午前三時、午前四時、午前五時と影響を受ける。ラッキーなことに、午前五時に眠れたとする。そして、午前七時四五分に起こされたとする。そのときの、からだの調子は、前日のヘビメタ騒音の影響を受けている。たとえ、午前七時四五分の時点でヘビメタが鳴ってないとしても、影響を受けている。一二時間というのは、日曜日だ。平日は約七時間だ。けど、おなじだ。それから、午前七時四五分に実際に鳴ってたときがあるんだよな。この世で一番嫌いな音が、ガンガン鳴っている中で、ものをそろえなければならない。前日、ちゃんと眠れたわけじゃない。……そういう状態で、ものをそろえなければならない。騒音のなかで考えがまとまらない。不注意な状態がどうしてもできあがる。で、忘れ物をする。遅刻もするだろう。そりゃ、午前七時五〇分には家を出ないと、かならず、遅刻するからな。五分……。『五分でいいからやめろ』『ものをそろえるからやめろ』と逆上して気違い兄貴の部屋に怒鳴り込んでも、一回も……一四年間で、ただの一回も、しずかにしてくれたことがない。しずかにしてくれ』と言って、すぐにやめてくれてそのあと五分間しずかにしてくれたことがない。こっちがどれだけ切羽詰まった状態になっていても、気違い親父とおなじで、こっちの状態がわからない。気違い兄貴は、俺がどれだけ切羽詰まっているかわからない。気違い兄貴には、気違い兄貴のヘビメタ騒音で、俺が切羽詰まった状態になっているということが、とことんわからない。そりゃ、どれだけ言われたってわからない。そりゃ、親父とおなじで、なにか不都合なことを言われたら、その途端に反対のことを言って本人が腹を立てるということになってしまうから、相手がこまっているということは、どれだけ言われてもわからない。言われれば言われるほど、発狂してしまう。じゃあ、しずかに言えばわかるのかというとそうじゃないんだよ。言い方に関係なく、自分にとって不都合なことは、発狂して、腹を立てて認めない。けど、認めなかったということも、頭にない状態になってしまうんだよな。直後に……。


ヘビメタ騒音がなかったらこんな『ひえひえの気分』になってない。やる気も、特にやる気を出そうとしなくても、いまの一〇〇〇倍ぐらいあった。だいたい、俺は、気違いヘビメタ騒音のなかで、五〇〇〇日以上こういう状態で生きてきたから、「もうまるまるしたい』という気持ちになっているんだぞ。「だれだって試験日は不安だ」……ちがうんだよ。ヘビメタ騒音が数千日鳴っていたから、試験日に不安なんだよ。ちがうんだよ。「歯医者に行くのはだれだっていやだ」……そりゃそうだろうけど、ヘビメタ騒音で人生がない状態で行くからいやなんだよ。

ヘビメタ騒音を経験してない人が「ヘビメタで働けないなんて甘えだ」とか「ヘビメタ騒音で遅刻するなんて、そんな言い訳が成り立つわけがないだろ」とか「ヘビメタ騒音が鳴っていると忘れ物をしてしまうなんて、そんなのは、言い訳だ」とか言うのが気にくわない。

これで、「じゃ、言われないように遅刻しなければいいだろ」「じゃ、言われないように忘れ物をしなければいいだろ」と言い返したくなる人がいると思うけど、そういう人たちは、みんな、数千日にわたるヘビメタ騒音を経験してない。俺の部屋で、気違い兄貴のヘビメタの音を聞いてない。世界で一番嫌いな音に六時間四五分から一三時間さらされる毎日というのを経験してない。それじゃあ、わからないよ。「わからないのに、がたがた言ってんじゃない」と言いたくなるね。

で、気違い兄貴が親父の態度で『無視して』鳴らしていると……つまり、自分は鳴らしてないつもりで鳴らしていると……ヨソの人と俺とのあいだで、こういう「いいあい」が発生してしまうのだ。ぜーーんぜん、わかってないんだからな。それは、昨日も書いたけど、親父が気違い的な意地でハンダゴテを押しつけたにもかかわらず、兄貴の話を聞いても、兄貴が(親父が押しつけたハンダゴテのことで)他の人から悪く言われたということがまったくわからないのとおなじなのである。現実否定して『使える使える』とさわげば、それで親父のなかではすんでいる。気違い兄貴も、『がたがた言ってくるな』と言えばそれで、気違い兄貴のなかでは、終わってしまう。あるいは、気違い親父のように、無視してやり続ければ、それで「やってないこと」になってしまう。おなじなんだよ。全部……。ほんとうに……。これ、ヨソの人にはまったくわからないことなんだよな。

それから、相手が文句を言った場合、親父にしてみれば文句を言われたということになるのだけど、時間がたてば、相手が文句を言ってきたということを忘れてしまう。最初から、認知されてないのとおなじ状態になってしまう。兄貴も、俺がどれだけ(兄貴のヘビメタについて)文句を言っても、『そんなのぜんぜん知らなかった』という状態になってしまう。まるで、覚えてない状態なになってしまう。そりゃ、一日もたてばそうなんだよ。あるいは、一〇秒もたてば、そうなんだよ。だから、常に『文句を言われてない状態で』自分は鳴らしているということになってしまう。本人が怒って、はねのけたら、もう、それでおしまいだから……。言われなかったことになってしまう。そもそも、相手は文句言ってこなかったということになってしまう。気分的にはそうだ。もうちょっと時間がたてば、記憶的にもそうなる。

   *   *   *


いろいろな意味で限界だ。
限界を感じる。
あのときも、このときも、ヘビメタ騒音で切羽詰まって、つらかったな。

なんかどこかで、どうにかしなければならないと思うけど、からだが重い。一つ一つが重い。

   *   *   *

むなしいので限界です。
これから、歯医者に行くけど、……。
まだ時間がある……。
けど、この雰囲気。あああ。
俺の人生、意味 なかったな。


2019年11月26日火曜日

歯医者の予約をしてきた


歯医者の予約をしてきた。ほんとうは、今日、やってもらうつもりだったけど、そうはいかなかった。歯医者に行く道は、高校の時駅まで行く道とおなじなんだけど、むなしい。人間関係がまだ不通に成り立ってる人たちの、会話を聞いてむなしくなった。俺にもそういう時があった。家族の騒音のことでもめて、グチャグチャだけどな。家族の騒音って学力と進路にもろに影響を与えるから、いろいろなことが積み重なる。毎日のことだから。
一〇年ぐらい毎日鳴りっぱなしだと、やはり友達ともめることになる。進路だってパッとしないものになる。だいたい、鳴っているわけだから、通うとなると、鳴っている状態が続く。前に書いたけど、基本的に言って一八歳の時にはもう、だめになっていた。修復不能。どのみち、一八歳の時には、もう通勤、通学ができない状態になっていた。だから、たとえば金を稼いで、家を出るということができない状態なのだ。ということは、鳴らされたまま、いままでとおなじように、通勤通学するということになる。そりゃ、やめてくれればそれですむけど……。兄貴は気違いだから、まったくやってないつもりで、ガンガンやる。すべての可能な時間鳴らすけど、まったく鳴らしてないと思っている状態で生きている。頭がおかしいからそういうことができる。どれだけ強く言われても、まったく関係がない人として鳴らすことができるわけだから、まったく関係がない人として暮らすことができる。


気違いヘビメタが小学六年生時から毎日鳴っている状態でなければ、通勤通学できるからだだった。そういう普通のからだを維持できた。前投稿に書いたけど、ともかく、過小評価する人はヘビメタ騒音なんてどれだけ鳴ってたって、遅刻をしないで通うことができると考えているから『ヘビメタ騒音が鳴っているから遅刻したなんて、いいわけをするな』と言うことを平気で言う。そういうふうに言う人は、一日も気違いヘビメタ騒音を経験してない。俺の部屋で、気違いヘビメタ騒音がどれだけの音で鳴っているかわかってない。七時間も、気違いヘビメタ騒音にさらされ続けたら、どれだけがんばったって、眠れなくなるということがわかってない。もう、ほんとうに、踏んだり蹴ったりだよ。気違い兄貴にどれだけ言ってもわからないと思うけど、俺の毎日というのは、気違い兄貴が(親父のハンダゴテのことで)人から文句を言われてバカにされている日とおなじなんだよ。「そんなの、いえばいい」「ちゃんと説明すればわかるはずだ」「説明のしかたが悪いんだ」「そんなのが、使えると思っているのか?」「そんなのが使えると思っているなんて、バカだな。使えるわけないだろ」ということ言われた日とおなじなんだよ。そういうふうに他の人に言われたという兄貴の説明を聞いて、親父は、発狂していただけだ。「なんだそんなの!!」と怒り狂えば、気違い親父は『関係がない人』になれる。気違い兄貴の無視とおなじなんだよ。『しずかにしてくれ』と言われたら、『このハンダゴテは使えない』といわれた親父のように、怒り狂ってたんだよ。『そんなつもりはまったくない』などと言うかもしれないけど、それは、もう結婚したあとで、鳴らすつもりがないからそういうふうに言うだけだ。けど、『つもりがない』のはたしかだ。親父だって、怒り狂って否定しても、時間がたてば『つもりがない』という意識を持つ。兄貴もおなじだ。怒り狂って否定したあとは、『つもりがない』状態になる。どれだけ、意地になってやってたって、つもりがないのだ。それから、親父は、ハンダゴテのことをいわれて、怒り狂って防衛したあとは、『関係がないひとになってしまう』わけだけど、それも、兄貴と親父でまったくおなじだ。
ほんとうにすべてが、普通の人が想定している世界じゃないのである。すべてが、普通の人が想定している人間の反応じゃない。

こころがさめてしまって、どうにもならない


こころがさめてしまって、どうにもならない。そして、これまた、他の人には絶対にわからないだろうけど、この世の感じがヘビメタ騒音にたたられている感じなのだ。ヘビメタ騒音にたたられている時に認知したこの世の感じがそのまま、続いている。だから、どこに行っても楽しくない。さっき、ダイヤ君といろいろなところに言ったときたのしかったと書いたけど、ヘビメタ騒音でうすらよごれている。ほんとうに楽しかったけど、ダイヤ君といっしょにいるあいだも、ヘビメタ騒音のことが頭の隅というか、ほぼ中央にあり、くるしかった。気違いヘビメタが続いている以上、はげましは毒にしかならない。終わってくれないとだめなんだよ。実際終わった……。一四年と四ヶ月後に、気違い兄貴が引っ越すことによって終わった。終わった。けど、一四年は長い。長すぎる。終わっても、毎日やられたので、続いている。これも、実際に七年以上毎日やられてない他人にはわからない。ぼくは他の人にはわからないことを言っている。それはわかる。わからないというのがわかる。これ、遺書として書いておくけど、認知療法的な言説アドラー心理学的な言説、精神世界に片足を突っ込んでいる人が使う説明は、俺をくるしめるだけで少しも楽しませてくれなかった。楽にしてくれなかった。


ともかく、ヘビメタ騒音の影響を過小評価するやつらの言い方がひどかったな。言い分がひどい。こいつらは、カルマしか生み出してない。認知療法的な言説に基づいた意見というのは、ヘビメタ騒音の影響を過小評価する意見だ。気違いヘビメタにたたられなかった人たちはまったくわかってない。そういう意見を言う人は、俺とおなじヘビメタ騒音にたたられなかったので、その人のなかでは、実際に影響がゼロなのである。実際に影響がゼロという立場から、『ヘビメタ騒音とやらの影響』を考えるので、実際の影響からすれば、とてつもなく微少な影響しか考えられないのである。これは、俺の『実際』を無視している『現実』認知なのである。

ともかく、もう、つかれたな。


ほんとうにつまんない。
とりあえず、DVDを返しにいった。雨が降っていた。雨の中をわざわざ傘をさして歩いていったわけだ。

そのあと風呂に入った。風呂に入るのもけっこうたいへんだ。俺はちょっと限界に達している。あとは、体中がかゆかったりする。いま思うと、家族による騒音があったものの、ダイヤ君といろいろなところにいってたのが、楽しかったな。家族による騒音によって、ダイヤ君との仲もさけてしまうのだけど……。

ともかく、俺はいろいろと限界なんだよ。それは、長期騒音によってもたらされたものだ。で、これも、書いても、他の人の誤解をさそうだけのことなんだよな。もう、つかれた。いったいどれだけの人が正しく理解できるのか? 二割ぐらいだと思う。八割は常識にとらわれて理解できない。ぼくは、不幸なことに共同幻想のそとにいるから、共同幻想にどっぷりつかっていたい人にとっては、耳が痛い話をしなければならなくなる……ことがある。
ともかく、もう、つかれたな。

あとは、SNSなどに発生する虫が問題なんだよな。害虫。長期騒音で虫にも弱くなった。
どうするかな? 俺の人生……。ほんとうに、つらい。ヘビメタ騒音がはじまってからずっとつらい。
どれだけ書いてもむだなんだよな。けど、書かざるをえないのだが……。

楽しみがない。楽しみがない。

こっちのブログに関しても、アクセス数なんてどうでもよくなってきた。

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どうしても、不愉快な体験のほうがのこりやすいんだよな。あとは、ヘビメタ騒音が常に鳴っている状態というのは本当につらい。そういう状態が何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続く、一日というのは、本当につらい。他の人は、経験がないからわからない。そういう一日が、一年、二年、三年、四年、五年、六年、七年、八年、九年、一〇年、一一年、一二年、一三年、一四年と……毎日……続くとつらい。他の人にはわからない。軽いことだと思ってしまうんだよな。

2019年11月25日月曜日

つまんない

つまんない。限界だ。
とりあえず、長期騒音のことは横において、人づきあいを再開するか?

別に隠すわけじゃないけど……。

にしても、つらいなぁ。
これ、ほんとうにどれだけたたっているか。
鳴っている感じがする……。
ヘビメタ騒音の雰囲気だ……。
どんだけ長く鳴ってたか。どれだけ多くの人に誤解されたか。どれだけデカイ音で鳴っていたか。どれだけ多くの人に誤解されたか。あんな音で鳴ってたら、だれだって眠れなくなる。●にたくなる。それが道理だ。それが、気違い兄貴の態度で気違い兄貴のヘビメタを聞かされたことがない人は、わからない。やられてないやつは、『自分だったら平気だ』『どれだけ鳴っていると言ったってたいした音じゃないんだろう』『騒音なんて、そんなの俺だってある』と思って俺にものを言う。どれだけ誤解されているか。その人たちが経験した騒音と、俺が経験した騒音はちがう。気違い兄貴の気違い感覚がわからない人には、わからない。やられてないやつは『俺だったら、お兄さんをしずかにさせることができる』と思って、ものを言う。気違い兄貴の気違い感覚がわからない人には、わからない。うちのことが、まるでわかってないんだよな。

普通の人は、気にしすぎるから、そういう言葉が必要になる

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はぁー。鳴っている感じがする。いましずかだけど、鳴っている感じがする。あのとき、このくらいにしずかだったら……。「やめてくれ」と言ったら、やめてくれたら……。「しずかにしてくれ」と言ったら、しずかにしてくれたら……。まったく、関係なしにガンガンステレオを鳴らして、キーキーエレキギターをひきやがって。ステレオの音にまけないぐらいの音で、エレキギターをずっとひきつづけやがって……。どれだけくるしいか。どれだけ、その日の深夜に影響を与えるか。次の日の、午前一時、二時、三時、四時、五時、六時に影響を与えるか。試験日の午前六時の気分に影響を与えるか?



もーーう、ぼろぼろだったよ。俺が小学生のころからそういう生活をしているということが、他の人にはわからない。ほかの人たちは、「言えばしずかにしてくれる」と思っている。『言えばしずかにしてくれるはずだ』と思っている。なので、『言わないエイリが悪い』ということになってしまう。そういう思考をするやつらが、俺のことをバカにする。どんだけ、不名誉なことか。だいたい、そういう人たちは、常識的な家族に囲まれて生きてきたので、サイコパス家族のことがわからない。(中略)もともと、現実を否定しているところがあるから、「やってない」というもうひとつの現実でものを考える。自分がやりたくてやっているさいちゅうに、相手から「(その行為を)やめてくれ」と言われたら、なにか自分がひどいことをされたような気分になって、発狂してやってしまうのだ。やり続けてしまう。けど、そういう場合でも、「やっているつもり」だけはない。だから、時間がたったあと「兄貴がこういうふうにしてたのでこまった」ということを言われても、まるでわからないのである。「やってない」という気持ちになる。「やってない」という気持ちになったら、自分のなかではやってないということになってしまうのである。親父もおなじで、「親父がこういうふうにしてこまった」ということを言われれば、「やってない」という気持ちになる。そのときだけ、相手の言っていることを否定して、おしまいだ。あとにはなにも残らない。だから、こまる。道徳観や正常な現実認識という問題をぬかせば、「人の言うことなんて気にしないでやった方がいいんです」というようなアドラー風の意見とかわらない状態になってしまう。けど、普通の人は、気にしすぎるから、そういう言葉が必要になる。人の言うことを気にしすぎるから、「人の言うことなんて気にしないでやった方がいいんです」というような意見にひかれる。道徳観や正常な認識が成り立っている人であれば、それでいい。けど、兄貴や親父のように道徳観や正常な認識が成り立ってない人間だったらどうか? まわりの人が被害を受けてこまる。これも、『感じ方の問題だ』なんてことになってしまうのである。アドラーや認知療法家の意見というのは、気にしないでやってしまうひとのことをとめられない。むしろ、気にしないでやってしまう人たちことを応援している。普通は、道徳観や正常な認識が成り立っているからそれでいいけど、道徳観や正常な認識が成り立っていない家族がいる家では、それだと、やられているやつがやられっぱなしということになってしまう。
そして、日常生活ができない状態になれば、当然、無職になる。無職期間が続けば「そんなのは、受けとめ方の問題だ」「過去なんて関係がない」と説教をされるような状態になってしまうのである。やられたほうが。そして、「やられた」という感じ方がそもそも問題なんだと、やられた方が気にするから悪いんだと説教をされるような状態になってしまうのである。こんなとがゆるされるのか?

2019年11月24日日曜日

おまえら、能力一〇の一でやってみろ

ほんとうにすべてが、ちがっちゃったんだよな。

すべてが、ちがっちゃった。

気違い兄貴の行為ですべてが、ちがっちゃった。一四年と四ヶ月は、長すぎる。成長期の一四年と四ヶ月は長すぎる。どんだけのハンディで社会に出なければならないか。ゆるせない。

おまえら、能力一〇の一でやってみろ。毎日、気違いヘビメタを聞かされて、どれだけがんばっても、虚弱体質になっていく状態で暮らしてみろ。一四年後どころか、七年後には、完全な虚弱体質だよ。睡眠障害はもっとひどい。けど、疲れや睡眠障害に関しては、人は「がんばればどうにかなる」と思っている。虚弱体質になって睡眠障害を抱えて、能力一〇分の一でやってみろ。どれだけ屈辱が積み上がるか。どれだけ情けない思いをしなければならないか。


2019年11月23日土曜日

「過去のことは忘れる」というマインドフルネス的言葉と記憶障害(1)

(実はこの前に長い話があるのだけど、それを書いてしまうと、傷つく人が出る可能性があるので、書かない)

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「過去のことは忘れる」という場合は、『自分にとって不都合な過去のことは忘れる』ということであって、別に、自分にとって不都合なことでなければ、忘れる必要がないのである。楽しい過去でも、その他の楽しい記憶が自分の成長を妨げるものであるのであれば、楽しい過去の記憶もいまの自分にとって「不都合なこと」になるのである。それは、『不効率』といってもいい。

過去の楽しい記憶があるから、いま現在のことに力が入らないということであれば、いま現在の自分にとって『過去の楽しい記憶』は『不都合なもの』であり『不効率なもの』なのである。いま現在の自分にとって、その楽しい記憶が『不都合なもの』であり『不効率なもの』になってしまうから、楽しい記憶であっても必要がないということになってしまうのである。

『楽しい過去を思い出す』ということが、現在の自分にとって『不必要なもの』であると現在の自分が判断しているなら、『楽しい過去を思い出すこと』は時間のむだなので、避けるべきことなのである……その人にとっては!! 

それは、実際に過去のことを忘れるということではない。ちゃんと日常生活に必要な分は、覚えている。『いま現在の効率』『(究極まで効率を考えた)時間の使い方』を考えるから、過去のことについて考える時間がむだな時間になるのである。

しかし、実際には、そういうことをやっている人は、『過去』について、ちゃんと、記憶している。

なので、ちゃんと仕事ができる状態を維持している。健忘症や認知症の記憶障害というレベルで『過去の記憶がない』わけではない。
たとえば、誰かと話して『明日の午後二時に●●病院に来てください』と言われたとする。あるいは、『明日の午後二時にミーティングをするので、第一会議室に来てください』と言われたとする。それを忘れてしまったらどうなるか? 

日常の業務に差し障りが出るレベルで『過去の記憶がない』ということになる。なら、「明日の午後二時に第一会議室に行く」というようなメモを書いておけばよいということになる。

しかし、メモを書いたということを忘れたらどうなるか? 適切な時間にも目を見ることができないので、第一会議室に行けないということになる。じゃあ、メモを書いたということは覚えておけばよいということになるかも?しない。

けど、書いたにしろ、今度はどこにメモを置いたか覚えていなければ、『書いたことは覚えているけど』肝心のメモがどこにあるかわからないということになってしまうのである。

メモを書いたという記憶も、メモを机の上に置いたという記憶も、実は、『過去の記憶』に他ならないのである。

この場合の記憶は、『現在の自分にとって』有益だから、『過去の記憶なんてどうでもいい』『過去の記憶なんてどうでもいい』なんてことにはならないのである。

いま現在の会議に参加するには、過去においてその会議について情報を得たから、その会議に参加しているのだ。そして、その情報を忘れなかったから、その会議に参加しているのだ。

別に、どうでもいい会議であればどうでもいいけど、これが重要な会議だったらどうなるか? 重要な会議なら出る必要があるのではないか。

現在の自分にとって重要な会議に出れるということは、その会議に関する情報の記憶があると言うことなのである。なので、『過去のことなんてどうでもいい』とは言えない。

この人たちが言っている『過去のことはどうでもいい』とか『過去のことは忘れる』というのは、自分にとって不都合な過去のことはどうでもいいということであり、いま現在の自分にとって『必要ではない』過去の記憶は忘れるほうがいいということなのである。

別に『過去のことは忘れる』と言っても、すべての過去のことを忘れてしまうわけではない。

だいたい、会議の時間のことについて述べたけど、『時間の読み方』だって、おぎゃーとうまれた時点ではわからない。おぎゃーとうまれた時点で、時計の読み方を知っているわけではないのだ。一日は二四時間で、一時間は六〇分だということを知っているわけではない。

午後二時の会議に出るには、午後一時五八分には、自分がいつもいるオフィスの部屋を出なければならないというのは、時間を計算していることになるから、時間の計算もできないとなると、そもそも、そういう行動をとれないということになる。

時間の概念も時間の計算もともに、過去の記憶を保持しているから可能なことなのだ。

たとえば、会議室ではなくてその会社に行くことを考えるとする。その場合、自分のうちからその会社にいまでの時間を考えなければならない。会社の会議室に午後二時に行くには、少なくても、午後一時には家を出なければならないということは、時間の計算方法がわからなければわからないことなのだ。そして、これは、記憶の成果だ。学習というのは、記憶に他ならないのだから。つまり、『過去なんて関係がない』とか『過去のことは忘れる』というような『格好いい』言葉さえ、過去の記憶がなければ発することができないものなのである。

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ともかく、ヘビメタ騒音でくるしい。
いまもくるしい。気違い兄貴のやつ、まったくつもりがないまま、鳴らしたのか。何万回も言ったのに、何万回ももめたのに、「まったくつもりがないまま」なのか。親父と兄貴なら、そういうことも可能だろうな。態度を考えると、気違い兄貴の場合、ほんとうに、ひどいことをしているつもりがまったくないんだろうな。気違い的な意地でひどいことをしまっていたのに……。いま住んでいるところでやってみろ。一〇分でわかるよ。それを、一日に十数時間やっても、家族なら、まったく気にしないでいることができた。そういう「家族」なんだよ。



2019年11月20日水曜日

「眠らなきゃいけない」と思っているのに、眠れない状態になる


あー、まじでつかれた。もう動きたくない。つかれた。つかれた。

横になっているとき、こんなことばかり、考えている。
ほんとうに動きたくないのだ。いまは、起きて、ズボンなどの熱処理を行ったあと、洗濯をして、さらにそのあと、こうやってパソコンに向かい文章を書いているのだが。

ダニ対策として熱処理が必要なわけ。バルサンをやっても、ネズミが出現してしまったら、全部振り出しに戻る。もう、つかれた。ほんとうにつかれた。

ネズミ、ダニ、ナメクジ、全部、めちゃくちゃにつかれることをしいる。俺にしいる。あとは、睡眠時間がずれているときに、付き添いで病院に行かなければならなかったときは、ほんとうにつかれた。頭がおかしくなる寸前。「もうだめか」と思ったけど、朝の七時から九時まで眠れたときはほんとうにたすかった。

けど、ほんとうに限界なんだよな。これ、ヘビメタ騒音で睡眠回路が壊されてないひとは「なにを言ってるんだ」というような感じしかしないと思うけど、ほんとうに死にそうになる。ほんとうに、動けなかった。義理の姉が、電話をかけてくれたけど、二時間でも眠れなかったらほんとうにやばかった。

じゃあ、全部義理の姉にやってもらえばいいといいのではないかと思う人がいるのかもしれないけど、保険証からなにからなにまで、俺が持っている。「全部、渡すから行ってくれ」と言ったんだけど、それは無理だった。だいたい、義理の姉が住んでいるところが、遠い。

ともかく、俺がものすごく眠たいにしても、俺が動かなければ、手術やその他の処理が進まないのだ。全部、持っているわけだから。

ともかく、ネズミ対策と入院の世話で、くるしかった。どうしてそんなにもくるしくなるかというと、やはり、ヘビメタ騒音で睡眠回路がくずれているから、くるしくなる。

調節のための夜も、ヘビメタ騒音で眠れない夜の再現になってしまう。前日まで、午前九時から午後五時まで寝ていたひとが、当日は、午前七時から、動かなければならなくなったときの、つらさが、半端じゃない。

これ、ヘビメタ騒音で午前四時ぐらいまで、眠れないですごしたときの記憶がすべてよみがえるように、くるしい。毎日俺がどれだけくるしんでいたか。毎日俺が、人知れずどれだけくるしんでいたか。

これ、みんなわかってないけど、ヘビメタ騒音に、日中と夜、ずっと七時間ぐらい、さらされると、眠る時間になっても眠れなくなる。

「眠らなきゃいけない」と思っているのに、眠れない状態になる。

これは、ほんとうに、腕をナイフで切ったら、血が出るというような反応に等しい。けど、みんなわかってないんだよな。「午後一一時一一分には、鳴りやむのであれば、夜は眠れる」と思ってしまう。そんなんじゃないのに。自分がこの世で一番嫌いな音が、七時間、八六デシベル付近の音でずっと鳴っている状態を経験してみろ。

それも、なにを言っても話が通じない、気違い家族が鳴らしている音だ。腹が立つ。家族にやられているということは、重大な要素だ。これも、他のひとには、わからない。要素として、見逃す。他人にやられているのも、家族にやられているのもかわりがないと思ってしまう。

けど、「うち」でずっとやられつづけるということは、想像以上につらいものがある。だいたい、ヨソの人たちは「家族だから、言えばやめてくれる」と前提してしまうわけで、こういうのも、俺の首をしめる要素のひとつになる。

ともかく、他のひとは無視するけど、「眠れない夜」というのは半端じゃない破壊力を持っている。その人の人生を破壊する。「ちょっと気をつければ、いい」「過去のことは関係がない」なんて言ってられない。「ちょっとのことじゃないんだ」と言っても、実際に経験したことがないやつにはわからない。

一〇〇〇日、二〇〇〇日、三〇〇〇日、四〇〇〇日、五〇〇〇日と毎日!!続いた場合の状態を経験したことがない人には、経験としてはわからない。「たるんでいるから、眠れないんだ」「健康管理は自己責任」なんてことをか考えている。俺は自分の意志で「よふかし」をしていたわけじゃない。あまえてもいないし、たるんでもいない。

けど、「夜眠れなくて」ということを言えば、まるで、俺が、好きで夜更かしをしているように考えるやつが、どれだけ多いか。一〇年、一五年、何時間も何時間も、毎日、こっちにとって重要なことがあっても、ずっと鳴っている騒音がどれだけひとの人生を傷つけるか、破壊するかわかってない。

気違い兄貴は、俺の都合というのをまったく考えてない。俺がどれだけ言っても、通じない。

それは、言わなかったのと等価だ。気違い兄貴のなかで、なにも残らないということになっていれば、なにも残らない。いつも通りに、ロボットみたいに、ずっと鳴らし続ける。鳴らすことに鳴っている」から鳴らすという態度で、遠慮なく、気遣いなく、ずっと鳴らす。

どれだけ言っても、まったく気にしないで鳴らす。これも、言われたときだけ、親父のように怒っておしまいなのだ。自分が言われたから、自分が傷ついたというような反応しかない。現実を否定して、おしまいだ。

ほんとうは、ヨソの家では三〇秒だって鳴らせないようなデカイ音で鳴らしているのに、「しずかにしろ」ということを言われたら、「腹を立てる」。それは、親父が、金を使いたくないのに「ハンダゴテを買ってくれ」と言われたときの怒りに相当する。自分の感情しかない。親父も兄貴も、自分の感情しかないから、壊れたロボットのようにおなじことをし続ける。

こっちの都合なんて、考えない。
どれだけ言われたって、考えない。
考えないと決まっているように考えない。

最初から受け付けない。言われたら、発狂して、おしまいだ。現実否定したことを言っておしまい。それで、もう、なにもなかったことになってしまう。こういう態度が、ヨソの人にはわからない。そして、ロボットのように頑固にそうしている人間にもわからない。ようするに、親父と兄貴にはわからない。


(注)義理の姉には相当に助けられている。二人で付き添うことが多かった。そのときもそうだったんだけど、じゃあ、義理の姉だけでいいかというと、そうではない。ようするに、「俺」か「俺と義理の姉」のふたつの選択肢があるわけで、「義理の姉だけ」は、ない。
基本的に、気違い兄貴がうるさくして俺の人生を破壊したのは、義理の姉と結婚する前のことなので、義理の姉にはうらみがない。兄貴の嫁さんだから、うらんでいるということはない。「だから」ね。原因について常にまちがうやつがいるんだよな。兄貴は俺に悪いことをさんざんしているけど、義理の姉は俺に悪いことをひとつもしてない。だから、俺が義理の姉をうらむということはない。こういうことも、いろいろと誤解するやつがいる。

2019年11月18日月曜日

「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」


気違い親父がやりたくなったことは、こっちがどれだけとめても、やってしまう。


勝手にエンジンがかかってしまったことは、こっちがどれだけ「やめてくれ」「やめろ」と叫んでもやめてくれない。



これは俺が大人になってからだけど、「やらなくていい」ということは、血相を変えて、顔を真っ赤にしてやってしまうというところがある。俺が、あるとき、手をすべらせて皿を割ってしまったんだよ。



で、その皿の破片は、ぼくが片付けるから、いじらなくていいといったんだよ。その途端に、スイッチが入って「やってやるやってやる」と言って、皿の破片を片付け出すんだよ。で、ぼくが「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!!!!!」「やらなくていいよ!!!」「やらなくていいよ!!!!!!」と、動いている親父を見て、絶叫したんだよ。



「やらなくていいと言っただろ!!!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」「やらなくていいと言っただろ!!!」とさらに続けて絶叫したんだよ。

これ叫んでいるあいだ、ずっと、ちょこまかちょこまか、動いて、まるで聞いてないような状態で、やってしまう。

「やらなくていい」「やってくれるな」ということは、へんな状態でスイッチが入ってやっちゃう。

相手が必死しなって、言っているのに、からだをマッカッカにして、やってしまう。

これが病気で、頭がおかしい。

それから、ぼくはもうその時、大人になっていたわけだけど、本当に、かたづけて欲しくなかったんだよ。

親父がやると、ろくなことにならないから、いやなんだよ。

そういうことを親父がやると、破片が足に刺さったりしていやなんだよ。どれだけ、注意を払って、破片などがないことを確認しても、あらぬところに破片が落ちていて、それを(親父がいないときに)(ぼくが)踏んでしまうというようなことがあるわけ。

これ、もう、本当に呪われているんだよな。

いやなんだよ。これ、本当に、おかあさんもこまってたけど、「やらないでください」「いじらないでください」「さわらないでください」というようなことを言われると、相手が本当に!!!!やって欲しくないときは!!! 自動的に動いてしまう。親父は、相手がやめてくれとずっと横で、言っているのに、顔を真っ赤にしてやってしまう。

これ、言いたくないんだけど、「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と一〇回、二〇回、絶叫しても、かまわずにやってしまう。エンジンがかかって、あぶらあせをかいて、一生懸命に、急いでやってしまう。相手が、言い終わる前にやってしまおうというような考えにとりつかれているとしか言いようがない態度で、切羽詰まった状態でやってしまう。これを、とめるとしたら、本当に、ぶっ殺してとめるしかない状態になってしまうんだよ。本当に、親父にいじって欲しくないとき、親父にかかわって欲しくないときは、それを、「よみとって」勝手にエンジンがかかって、むりやりやってしまう。皿の破片を拾ってくれたならいいじゃないかと思うかもしれない。そうじゃないんだよ。「やってほしくないこと」「親父に手出しして欲しくないこと」「自分であとでやると決めたことは」……くだらないことでも、自分でやる必要があるわけ。自分でやりたいわけ。この場合、俺が皿を落として割ったわけだから、自分でかたづける必要があったわけ。俺の中で、そういう必要性感じたわけ。だから、「皿の破片は、ぼくがかたづけるからそのままにしておいて」と言ったんだよ。そのままにしておいた欲しかったわけ。俺はその時、別の皿を持っていて、手がふさがっていたから、その皿を部屋のテーブルに一度置いて、ガムテープや新聞紙をとってきてガラスの破片の処理をしようと思ったわけ。
普通なら、「それは、ぼくがあとでやるからやめてください」というようなことを言われたら、やめるものだ。けど、「やめてください」と言われると、スイッチが入ってしまう。で、相手が言っていることを、全部無視して、顔を真っ赤にしてやってしまう。首のしたも真っ赤だから、たぶん、からだじゅうが真っ赤になっていると思う。で、本人は、意地悪でやっているつもりはないわけ。けど、これは、意地悪なんだよ。兄貴のヘビメタもまったくおなじで、「やめてくれ」と言われたら、スイッチが入ってしまうところがある。そのときだけ、相手の状態や言い分を無視してやってしまう。で、やってしまったら、もう関係がないわけ。こういうのも、親父と兄貴でそっくりおなじなんだよ。「そのときだけ」なんだよ。相手がいやがることを、血相を変えて夢中になってやったつもりがないんだよ。けど、現実はそうだ。相手が、横で「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」「やめてくれ」と絶叫し続けていることを、やり続けてしまう。顔を真っ赤にしてやってしまう。頭がおかしいから、相手が必死になって言っていることがまったくわからない。自分の気持ちしかない。『やってやりたくなったら』どれだけ相手がいやがっても、やってやりたいのだからやってしまうのである。これが、気違いのやりかたなんだよ。精神的な暴力なんだよ。力でやめさせようとしたら、殴り合いになる。殺し合いになる。すべてがすべてそういうテンションだ。親父は、子供が小さいときは(家のなかで)テッペンだから、気違い親父がやりたくなったら、気違い的な意地でやってしまうのである。そのときはそのときで、「俺のほうがうまいからやらせろ」という気持ちしかない。工作の宿題だって、プラモデルだって、気違い親父が「やってやる」と言ったら、ものすごいしつこさでやってしまう。これ、ほんとうにやらせてあげないと、いつまでも食らいついて、怒り狂ってやろうとする。で、理由を言っても、それは、聞かないんだよ。「これは、自分の宿題だからやらなくて良い」と理由を言っても、「どうしてだ」と聞いてくるところがある。コントじゃないけど、このやりとりを何十回も繰り返すようなところがある。理由を言っているのに、「どうしてだ」と怒り狂って聞いてくる。顔を真っ赤にして、「やらせろ」「やらせろ」とうるさい。プラモデルだって、とりあげて、やってしまうところがある。この場合のやってしまうというのは、部品を母体になる部品につけるということなのだけど、ともかく、やらしてあげるまで、横にぴったりくっついて、逆上する。理由なんて言ったって、ガン無視だ。頭がおかしいから、「自分がやってやる」「自分がうまいところを見せたい」という気持ちしかない。相手の気持ちなんて、どれだけ、相手が正確に言ったって、まるで通じない。頭がおかしいから、ほんとうに「自分がやってやりたい」という気持ちしかない。あとのことは、どれだけデカイ声で言われたって、無視なのである。無視しているということも無視してやってしまう。

よく考えてみたら、ヘビメタを鳴らしているときの兄貴の態度がおなじなんだよ。ヘビメタを鳴らしているときに「やめてくれ」と言われ取る、親父みたいな態度で、顔を真っ赤にして無視してやり続ける。

で、兄貴も親父もそうなんだけど、そういうことがあっても、そういうことがあったということが、わ・か・ら・な・い。記憶にない状態になってしまう。

兄貴は、あいてにやってやるやってやる」という部分はなかったけど、自分が勝手にやりたくなってやったことをとめられるという場合は、親父とおなじなんだよ。親父は、「やってやるやってやる」と言うときがある。そのときは、「自分がどんだけすごいか」「じぶんがどれだけうまいか」ということを見せつけたいからやる。で、ほんとうに、自分の側のそういう気持ちしかない状態になってしまう。頭の中に、自分の気持ちしかない状態になってしまう。自分の頭に一〇〇個のものをつめられるとすると、「やってやる」という気持ちだけで、一〇〇個つまっている状態になって、相手が言っていることが入ってくるスキマがなくなってしまう。普通のひとは、どれだけやりたく立って、一〇〇個入るうち、七〇個ぐらいしか埋まらない。三〇個ぐらいは、相手が必死になって言ってくれば、相手が言っていることが三〇個ぐらい、頭のなかにはいる。けど、一〇〇個中一〇〇「自分がやりたい気持ち」でうまっているから、相手がどれだけ言ったって、〇個しか入らない。で、これがおそろしいことなんだけど、自分がそうしたという記憶があたかもないような状態になる。
だから、気違い親父が「やってやるやってやる」と言うと、かならず、その手のトラブルがしょうじる。やった本人は、やってしまえば、関係がないひとになってしまう。
あとで、「親父がやってやるといってやってしまったので、こまった」ということを言ったって、親父は「そんなんじゃない」「やってないやってない」と言い出す。で、「やってないやってない」と言うときの頑固さが、「やってやるやってやる」と言うときの頑固さとおなじなんだよ。
「やってやる」と言っているときは、「やめてくれ」と言っている相手の現実を無視するのである。「やってないやってない」と言っているときは、「やった」という相手の記憶を無視するのである。実際には、やっているので、やったという現実も無視する。けど、現実稼働かなんて言うのは、関係がないんだよ。そのとき、気違い親父が否定したくなったら、現実とは関係なく否定したいわけで、否定する。で、その時間がすぎてしまえば、そういうことがあったということを忘れてしまう。自分にとって不都合なことは、どれだけ言われたって認めない。そういうことの繰り返しになる。そりゃ、時間がたっているわけだからそうなる。
兄貴もおなじで、ゆずってくれなかったのに、「ゆずってやったゆずってやった」と言うことになる。ものすごくデカイ音で鳴らしていたのに「そんなにデカイ音で鳴らしてない」と言うことになる。全部おなじなんだよ。やっているさいちゅうから、現実を無視している。自分にとって都合がいい現実しか見てない。それは、実際には現実じゃない。兄貴の頭のなかでの現実だ。はっきり言えば、妄想だ。よその家じゃ絶対に一分だって鳴らせないようなデカイ音で鳴らしているのに、自分が鳴らしたい時は、「そんなにデカイ音じゃない」「普通の音だ」と言うことになっているのである。気違い兄貴が、ほんとうに、自分の騒音を「三味線ぐらいの音」「フォークギターぐらいの音」だと思っていたから、いろいろなところに矛盾が生じる。けど、そんなのは無視だ。気違い親父とおなじで、「そのとき」自分にとって都合が悪いことは、どれだけわかっていても、わかることでも、わからないことになってしまうのである。正反対のことになってしまうのである。

これ、他のひとにはわからないんだろうな。

どれだけこまるか、ぜんぜんわからないんだろうな。

俺は、まるまるたい。俺は、まるまるたい。俺は、まるまるたい。

2019年11月17日日曜日

影響のデカさが普通のひとにはまったくわからない


気違い兄貴のヘビメタノやり方というのが、普通のひとにはわからないし、気違い兄貴のヘビメタを一日中浴びたとき、どれだけの影響が出るか普通のひとには、まったくわからない。

けっきょく、そういうことのギャップが、いろいろなことに影響を与える。佐藤氏の誤解だって、けっきょくは、気違い兄貴のヘビメタのやり方と気違い兄貴のヘビメタの影響の度合いについて、佐藤氏が理解してないということからしょうじることにすぎない。しょうじることにすぎないのだけど、でかすぎる。

ほんとうにヘビメタ騒音がなければ、貧乏でも特待生で進学できた。

影響のデカさがわかってない。中学時代、高校時代とヘビメタ騒音にずっとたたられ続けるということの意味が、他のひとにはわからない。

気違い兄貴にもわからない。気違い兄貴がまったくわかってないということに関しては、怒りを感じる。

そりゃ、気違い兄貴なんて、ほかのまったく関係がない人よりも、無頓着なんだから。

それは、もう、ほんとうに親父の態度、そっくりなんだよな。親父がかかわっていることに関する親父の態度とおなじ。気違い的な意地を張ってやったからしょうじることに関する親父の態度とおなじ。

本人はまったくやったつもりがないのである。「まったくやってない」と認識しているひとの態度おなじなのである。気違い兄貴も、自分がこだわってこだわって、どんな時間も、自分のこだわりの音で鳴らしているのに、「そんなことはまったくやってない」という認知が成り立っている。気違い的な意地でやりきったことに関しては、ほんとうにまったく関係がない人のつもりでいるのだ。

一方で、たとえば、「鳴らした」ということに関しては、気違い兄貴は、記憶があるのである。ものすごくデカイ音で鳴らしたという記憶はない。

どうしてなら、ものすごくデカイ音で鳴らしているとき、「たいした音で鳴らしていない」という認知が成り立っているからだ。だから、鳴らしたという記憶はあるけど、デカイ音で鳴らしたという記憶はないということになる。

けど、もうひとつ言っておくと、たとえ、デカイ音で鳴らしたにしろ、「まったく鳴らしてないのとおなじ態度」なのである。これは、まったく鳴らしてない場合とおなじ気持ちでくらしているということだ。そのくらいに、関心がない。どれだけ言われても関心がない。関心がしょうじない。自分がやることは決まっているので、それを絶対の意地でやり続ける。

けど、相手に与えた影響というのはほんとうに、無視しているのである。ゼロだと思っているのである。どれだけ何万回、強く言われたって、「やったってやってないのとおなじ」態度なんだよ。おなじ認知が成り立っている。

そのくらいに、相手のことについて考えることができない。これは、気違い親父の態度とおなじだ。一家にふたりそういう人がいるんだぞ。これがどういうことかわかるか?

気違い兄貴が、以後に夢中になるならまったく問題はないけど、気違い兄貴が、デカイ音でヘビメタを鳴らすことに夢中になったら、こっちの生活が壊れてしまう。その深刻さが、また、他のひとにはまったくわからない。俺がどういう気持ちで暮らしているかわからない。

2019年11月15日金曜日

自分が本当におれて、自分が本当に我慢してやるということはない


たいしたこと、やってない。
つかれた。横になるとする。
どうするかな?

この雰囲気のまま、クリスマス、年末大晦日、なんだろうな。ほんとうに長期騒音で楽しむ能力をなくした。これ、ほんとうに長い間騒音生活が続いた人じゃないわからないと思うけど、学生時代もそれ以降も、追い詰められて、くるしくなる。人といてもくるしい。なにか、たすかるとか、気持ちいいとか楽しいといった感情がなくなる。だれといてもくるしいということになる。ヘビメタ騒音でくるしい。くるしい。じゃ、だれもいないとせいせいしていいかというと、そういう時間もあるのだけど、そういう時間ですら、けっきょくは、きちがいへびめたにやられているわけだから、くるしい。他の人にはわからない。ヘビメタ騒音で……兄貴が鳴らす、強烈にでかいヘビメタ騒音で勉強がまったくできなくなったことはくるしいことなのだけど、仮に勉強のことをぬいたとしても、くるしい。要するに、勉強しているか、勉強していないかに関係なくくるしい。勉強していなくても、強烈な騒音刺激で、ものすごくくるしい。あの時間を経験してないやつが、ヘビメタ騒音の影響を過小評価して、えらそうなことを言う。これがゆるせない。どんだけの騒音だと思っているんだよ。気違い兄貴の態度も、ゆるせない。あの態度はない。あんだけででかい音で鳴らしておいてまったく鳴らしてないのとおなじ認知・認識なんだよな。気違いじゃないと無理な認知・認識なんだよ。あまりにも、おかしいので、他の人が信じない。そして、おそろしいことに、他の人以上に、気違い兄貴が信じないのである。そういうところで、二重、三重に、倒錯している。あるいは、二重三重に、すっとぼけている。これが頭にきてしかたがない。気違い兄貴だって、ヘビメタ騒音以外の音を、あの音のデカさで、鳴らされたら一秒で腹を立てるんだよ。自分が意図してない音を、あのデカさで鳴らされたら、怒る。五分間、鳴らされたら、五分間、やきもきして、たまらない気分になる。そういうデカイ音で鳴らしているのに、自分のヘビメタだと、気持ちがよいのだ。で、気持ちよくなりたければ、弟のことはどうでもいいと思っている。思っているのだけど、これまた、『そんなふうに思ってない』ということになっているのである。で、これは、どれだけ言われても、気がつかない。気違い親父とおなじで、そのときの気持ちしかないのである。そのとき、思いっきりデカい音で鳴らしたいなら、絶対に、思いっきりデカい音で鳴らすわけで、ちゃんと静かにしてやるなんてことはないのである。ちゃんと、普通の基準に基づいて自分が我慢してしずかにしてやるなんてことは、ないのである。なのに、気違い兄貴は気違いだから、勝手に?『しずかにしてやった』ことにしている。これがまた、腹が立つ態度なんだよな。腹が立つ認知・認識なんだよな。
兄貴の認知というのは親父の認知とおなじなんだよ。最初から、自分が本当におれて、自分が本当に我慢してやるということはない。それは、無意識的に絶対にさけるのである。だから、相手にとってまったく意味がない譲歩をするということになる。これが、また、親父が何十年間に渡って、何万回も、何十万回もやったこととおなじなのである。本人は、そりゃ、これまた、やったつもりがない。けど、これが、かならず、そうなる。だから、これは構造的に成り立つことであって、たまたま、成り立つことじゃない。認知療法だと、『たまたま、成り立ったこと』にしてしまうのである。それこそ、認知がおかしい。また、認知療法の世界では『たまたま、成り立ったことじゃないにしても、意味はない』ということにしてしまうのである。これも、ほんとうは非合理的な反応なのである。効率的な反応ではあるけど、非合理的な反応だ。効率的な反応になるときは、実際に、『構造的に成り立つことではなかった場合』だ。このちがいを無視して、がたがた言いやがる。

2019年11月12日火曜日

ネズミ


ほんとう、ついにこうなったかぁ……と思っている。まあ、こうなることはわかっていたのだが、こうなってみると感慨深い。
あーあ。ほんとう、おかあさんが天国に行ってしまったことはでかい。

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あーあ。石けんをかじられた。ネズミにかじられた。パティでふさいだあと、すでにかじられた石けんは使えないので、新しい石けんを下に置いたあと、かじられたのだから、やはり、床下にいるということになる。たぶん、唯一の出口は、ふさいでしまったので、床下にとどまり続けるわけだ。

で、これがやっかいなところなのだけど、内側の出口もわかった。けど、それは、見たわけじゃない。あそこは、なにか道具を使わないと、こちら側からはみえないところにあるから、確認ができない。けど、なめくじの位置から言って、あそこだと思う。

ともかく、工事の人が気をきかせて、お勝手のドアの下を工事してしまったことが原因だ。どうするかな? どうして、こういうことになる。俺は、正直言ってまるまるまるまるまる。まるまるまるまる。ネズミ、一匹? あーー。もう、いやだ。これ、なめくじだって、やばい寄生虫(虫と言っても六本足の虫じゃない)がついているんだぞ。

けど、最低でも一匹は、内側に出れる状態で、床下にいるわけだから、内側の出口をふさいでしまうと、床下で死ぬことになる。もちろん、外側の出口がひとつ残らず完全にふさがれているのならばという前提が成り立つ。

ともかく、これじゃ、風呂に入る気になれない。あそこ、風呂の横なんだよな。無防備な感じがする。まあ、どのみち、はいるけどさ。



いま、マスクをして、防塵眼鏡をかけて、殺虫剤をまいてきた。さっき、ウサギ跳びをするときのようなすわり方でしゃがんだので、けつのあたりがかゆくなった。床に近いとだめなのかもしれない。なので、殺虫剤をかたけんだけどこういうことをするときだって、防塵眼鏡で目の付近を傷つけることがある。

ほんとう、ついにこうなったかぁ……と思っている。まあ、こうなることはわかっていたのだが、こうなってみると感慨深い。
あーあ。ほんとう、おかあさんの死はでかい。

ともかく、04時21分54秒あたりに、こういう作業をひとりでしていると●にたくなる。おかあさんがいたって、寝ているだけで、ぜんぜん力を貸してくれないけど、ひとりというのがなぁ。気違い親父はいれば絶対に、邪魔をするので、だめだ。だいたい今回のことだって、一匹目のネズミが出た時点で、俺は、親父に『プロにたのもう』と言ったのに、親父が『俺がやるからいい』と言って、プロにたのまなかった。

で、親父が相手をしているのは、ネズミだけで、ネズの糞、ネズミの小便、ネズミが持ち込むナメクジ、ネズミやネズの糞から発生するばい菌や寄生虫のことはまるで考えてないんだよ。で、ずっと、ネズミの糞がうちのなかにつもることになった。

親父の部屋を片付けたのは俺だけど、親父の部屋にどれだけネズミの糞がつもっていたか。親父のベッドと押し入れのあいだのスペースにものすごい量のネズの糞がつもっていた。ああいうところに寝ていて、平気なんだからな。しかも、親父の部屋にある押し入れは、押し入れの床が抜けているんだよ。

で、ビニールを貼って、すごしていた。で、ネズミが出たら、押し入れのスペースをうたがうべきなのに、うたがわない。俺が『押し入れのところがあやしい』と言ったのに、『そこは、シートを貼ったからだいじょうぶだ』と言って、押し入れのなかにあるものを全部出して、床と側面がどうなっているか確認しなかった。

親父の部屋のことだから、親父がいると、押し入れの中のものを出して、調べるということができない。押し入れの中にいっぱいつまっているわけだから、あれを出すということができない。ともかく、床が抜けている部分にあるビニールはまるで役に立ってなかった。

やぶけて、ぺろぺろ。ネズミが、ガンガン入ってこれる状態が続いていた。ともかく、親父は、邪魔でしかない。親父が、マグロの粕漬けをずっと出しておいて、餌付けをした。

これだって、サランラップなどをかないで、テーブルの上にずっとのせておくというのがおかしいことなのに、どれだけ言っても、自分の行為をあらためようとしない。

前の日の午前中に出しておいたマグロの粕漬けを、一晩中なにもかけないで、出しておいて、次の日の朝や昼に食べようと思っているんだぜ。普通の人だったら、そんなのは、たのまれたって、ほこりがついているから、いやがる。へーーーき、なんだよ。本人のなかで、へーきなら、なにを言われたって平気なままなんだよ。

で、そういう常識とはちがったことをすると、いやなことがおこる。親父が親父のものを食べるわけだから、関係がないわけだけど、それでも、魚をなにもかけないまま、放置して、ネズミが入ってきたとなれば、関係があることになってしまうんだよ。

ともかく、親父がいたら、一切合切話が進まない状態になって、ずっと、ネズミの侵入を受け続けるわけだから、ネズミの糞がたまっていくということになる。ネズミは走りながら小便をたれながしているので、床や壁にネズミの小便がつくことになる。これは、不衛生だし、くさいし、ネズミをおびき寄せるにおいになる。

工事の人も、最後によけないことをして……。しかも、前の日まで、夜型だから、昼間どれだけ気を張って対応しても、ぬけることがあるんだよな。それは、長期騒音の影響で、ずっとくるしんでいる。他の人は、うちで鳴っていたような長期騒音を経験してないので……人生の中で経験してないので……わからない。

それがどれだけ、その後の睡眠相に影響を与えるか、わかってない。俺が、だめ人間のように見えてしまうんだぞ。気違い兄貴が鳴らした騒音をずっと浴び続ければ、だれだって、そういうことになるのに、気違い兄貴が鳴らした騒音を俺の部屋で経験した人が、この世にひとりしかないので、だれだって、そういうことになるということが、他の人にはわからない。

他の人は、自分の条件を考えて、「そんなに影響を与えるわけがない」「過去のことなんて関係がない」と言う。この発言だって、そうとうに侮辱的な発言なんだぞ。まったくわかってないだろ。

ともかく、パティのことに関しては、ドアが開くかどうかのほうが気になって、ぬけてしまった。少し気になったんだけど、眠ってない状態だったから、うまく反応できなかった。

2019年11月11日月曜日

子供の奇声は、うるさいときがあるよ


子供の奇声は、うるさいときがあるよ。けど、それとはちがう。兄貴の気違いヘビメタ騒音とそれとはちがう。けど、子供の奇声でくるしんでいる人を悪くいうつもりはまったくない。ちがうけど、まったく悪くいうつもりはない。かわいそうだと思う。『子供が奇声をあげるのはあたりまえだろ』と言って注意しない親はおかしいと思う。苦情が出たら、しずかにさせるように努力するべきだ。くるしんでいた女の人の言い分というのがあっているのである。その人のほかのことに関する考えたも道徳観もあっているのである。支持できる。深い同情を感じる。

ただ、俺が元気をもらっているとかなんとか言ったのには理由がある。それは、自分が幼稚園生の時に教室でまどろんでいるようなときの気分があるからだ。そういう時もある。けど、その人とぼくとでは、奇声に関しては、たぶん距離がちがう。おなじ距離でやられたら、うるさいと思うかもしれない。その人はほんとうに悩んでいたと思う。くるしい思いを人知れずしていると思う。その人の親が子供の奇声には寛容らしく、その人とは異なる意見を持っていたみたいなのだけど、その人の意見や感覚は、正しいと思う。(近距離なので)。

マンションの隣接する部屋における子供の奇声に苦情を言うのは、感覚として正しい。なるべくしずかにさせるように親が努力をするべきだと思う。

あの女の人は、元気でやっているだろうか? 騒音に殺されないように、なんとか方法を探してなんとかその方法を実現して欲しいと思う。

2019年11月10日日曜日

あのときのあれ、ない


あのときのあれ、ない
って気持ちがいっぱいわいてくる。ほんとうにあのときのあれないよ。気違い兄貴、おまえ、どれだけ!! 気違い兄貴のヘビメタ騒音でくるしかった。毎日毎日、いついかなるときもくるしかった!!
無視して、関係がないひとして、夢中になって、ガンガン鳴らしやがって。どれだけ言ってもやめなかったのに、「ゆずってやった」と本気で思っている。ほんとうに気違い野郎。そういう態度がおかしい。そういう感覚がおかしい。そんなの、普通なら、『嘘を言っているつもり』がなければできないことなんだぞ。ほんとうにまったく関係がない人として鳴らし続けやがって。どれだけしつこかったかぁぁ!!どれだけしつこかったかぁぁ!!

そんで、また、つねに、さみしいんだよ。あいた穴がふさがらない。こころにあいたあながふさがらない。どうやっても、ふさがらない。常に、やられた。常に、毎日やられた。毎日の連続がどれだけつらいか。なんでもない時間がどれだけつらいか。なんでもない時間というのは、本来なら『なんでもない時間』ということだ。気違いヘビメタにやられているさいちゅうも、気違いヘビメタにやられた「あとも」、強烈にくるしい時間になった。そう、なんでもない時間というのは、食べたあとのちょっとした時間とか、寝る前のちょっとした時間とか、なにもやってない時間だ。そういう、なんでもない時間が、地獄だ。くるしすぎる。強烈なさみしさを感じる。

だから、「やめてくれ」とあれほど言っただろ。気違い兄貴が、気違い親父の態度で、無視した。気違い兄貴が、気違い親父の感覚で、無視した。あんまりにも頭の構造がおなじだから、「まったくやってない」と思っているところおなじだ。毎日、つねに、十何年もやったのに、自分は関係がない『ヨソの人』なのだ。関係がない『ヨソの人』でまったくやってないのだ。どれだけしつこく頑固にやっても、「つもりだけ」はないんだよな。注意されたときは、怒って、怒ったら、〇・一秒で忘れやがる。〇・一秒後にやっているときは、『注意される前』の状態でならしているのである。注意されたということがまったくわかってない。記憶から消えている。だから、相手がいやがっていることを、自分がやりたいからやっているという自覚もない。そういう毎日だ。そういう毎時間だ。そういう毎分だ。そういう毎秒だ。これが、頭がおかしいから、全部毎日、おなじように繰り返される。……それ以外の状態がない状態なんだからな。こんなのわからない。普通、言われたら、言われたという記憶が残るということになっている。普通の人はそう思うだろ。けど、俺が気違い兄貴になにを言っても、気違い兄貴にはなんの記憶も残らない。自分にとって『不都合』な記憶は残らない。『いまの自分』にとって不都合な記憶は、残らない。『いまの自分』というのは、ヘビメタを思う存分ならしたい自分なんだよ。だから、『ならせなくなるようなこと』は事前に、効く前から排除されている。聞こえたって、聞こえてないのである。怒ったって、〇・一秒後には、すっかり忘れてしまうのである。消去消去。怒ったということは、一瞬だけど、理解したということなんだよ。あるいは、一週だけどちゃんと聞こえたということを意味しているんだよ。けど、それは、外的には、聞こえてないのとおなじなんだよ。そりゃ、〇・一秒後には『言ってこなかった』ことになってしまうのだから。あたかも、聞こえてないような態度だけど、聞こえたから、怒っている。けど、怒ったあとは、ほんとうに、聞こえなかったような態度なんだよ。

2019年11月8日金曜日

高齢引きこもり本人(だらしがない、あまえている)家族(迷惑している)という構図ばっかり


本人(悪)と書いたけど、『悪』というのは「だらしない」とか「あまえている」というような意味で『悪』なのです。そして、家族(被害者)と書いたけど『被害者』というのは、「迷惑を被っている」『迷惑している』という意味で『被害者』なのです。



『だらしがない』という言葉になにか『良い』イメージがあるかというと、ない。『だらしがない』という言葉になにか『善』であるイメージ

があるかというと、ない。「だらしがない」という言葉はすでに、悪いイメージの言葉で、『ゆっくりしている』とか『ゆったりしている』とか『他人の価値観に動じない』というような言葉ではない。他人が言っていることを気にしないという意味では中年引きこもりのような態度はむしろ歓迎されるべきなのである。もちろん、個々の中年引きこもりは、他人の価値観を『気にしている』とは思うけど、行動自体は気にしてないように思えるのである。他人がどう思っても関係がないという態度が推奨されるのであれば、中年引きこもりの態度はむしろ、推奨されるべきなのである。(他人がどう思っても)外に出て働かないわけだから。



「他人がどう思っているか気にしないようにする」とか「他人がどう思っているか気にするのはばかげている」と考える人たちは、むしろ、引きこもり中高年の『態度』をほめるべきなのである。けど、こういう文脈になると、「他人がどう思っているか気にするのはばかげている」と考える人たちは、「だらしがない」「よわすぎる」「けしからん」「あまえている」と引きこもり中高年の『態度』をけなす。



それから、SSRIなどの薬の量を増やせば、よくなると思っている程度の人は、薬の量について、精神科医と相談するべきではない。たとえば、AさんとBさんがいたとする。AさんはBさんの父親だとする。Bさんは、強迫神経症(強迫性障害)で引きこもりだとする。で、AさんがBさんに働くように説得したとする。で、Bさんが「秋になったら働く」と言ったとする。けど、Bさんは(その年の)秋になっても働かなかったとする。そこで、Aさんは、Bさんが行っている精神科を訪れて、医者に薬の量を増やすように説得したとする。医者が、Bさんの説得に負けて?Aさんの薬の量を増やしたとする。そうしたら、Aさんが失禁してしまったとする。

この場合、はっきり言えば、Aさんのしたことは批判されてしかるべきものだ。これ、父親が心配してやったことだから、いいのか。失禁したというような負のエピソートが増えてしまって、Bさんがかわいそうだろ。まず手短に言って『強迫性障害』にSSRIが効くかどうかということに関しては、そんなにたしからしいことは言えない。効く場合もあるけど効かない場合もある。脳内のシナプス間隙におけるセロトニンの放出量が問題なのである。

だいたい、セロトニンを増やしているわけではなくて、セロトニンの再取り込みを阻害して「つかいまわしている」だけなのである。セロトニンの放出量にかんしては適切な放出量がある。セロトニン過多になってもだめなのである。セロトニン過多になると、いわゆるセロトニン症候群のような状態になる。セロトニン症候群になると体温の上昇、異常発汗、緊張、高血圧、心拍数の増加、吐き気、下痢、ミオクローヌス、筋強剛、振戦、反射亢進、混乱、興奮、錯乱、頭痛、昏睡などの症状が生じることがある。失禁などもそりゃ、あるだろう。

これ、医者が父親に説得されて、量を増やしてしまうというのがおかしいと思うけど、まあ、増やしたんだろうな。薬が効かないから、薬を増やせばいいと思ってしまうような……短絡的な考え方をどうにかしたほうがいい。

手短に言うと、Aさんの強迫性障害にはBさんのそういう態度がかかわっている可能性がある。Aさんはどうも、小さいときは『いい子』だったみたいなのである。成績優秀で学級委員などをすんんでやるような子供だったのである。親の期待に過度にこたえようとするところがあるのではないかと思う。まあ、実際のところは、情報が少なすぎてわからない。けど、医者に「かけあって」息子の薬の量を増やしてもらうというような行動には、問題がある。

けど、こういう記事のなかではAさんのていたらく、ふがいなさ、だらしなさが強調される。そして、そのていたらく、だらしなさ、ふがいなさに家族が迷惑をしているというような感じが醸し出される。そして、そして、そのていたらく、だらしなさ、ふがいなさに家族が迷惑をしている家族がいろいろと手を尽くすけど、本人(Aさん)は働こうとしないということが記述される。父親がいろいろと心配してがんばっているのに、本人はだらしなく寝転んでいるだけなのだ。

これ、このケースはどうだか知らないけど、ほんとうに、親が子供に迷惑をかけて、子供を精神病に追い込んでいるケースがある。けど、そういうことは、うわべだけ見るとわからない。実は、親が子供に迷惑をかけているケースもあると思うよ。けど、そういうケースも含めて、本人が高齢引きこもりなら、本人(悪)家族(被害者)という文脈で語られると思う。

だから、なにを言いたいかというと、本人(被害者)家族(悪)というような構図で説明できるような場合が、どのくらい多いのかはわからないけど、あるはあると思うということを言いたい。割合はわからないけど、あると思う。報道は常に、本人(悪)家族(被害者)だからな。全部、そうなんだというような印象を与える。理解があるような発言が含まれていたとしても、本人(ふがいない)家族(迷惑している)というような印象を与えることに成功していると思う。たぶん、記事を書く人が、理解があるようなつもりになっていても、本人(悪)家族(被害者)という構造を頭の中に描いているからそうなるのだと思う。



2019年11月6日水曜日

『どうにかなってくれ』はない


起きたあと、お茶を飲みながら作業をしていた。作業中も、長期騒音を巡るいろいろな人とのやりとりが思い浮かんで、腹立たしい。これ、ほんとうに他の人にはわからない、不幸なことなんだよな。おまえに「どうにかなってくれ」なんて言われて、つきあえるわけがないだろ。なんでそれがわからない。どうして、「エイリがどういう目に遭ってきたか知っている」という前置きをしてそういうことをいうことができるのか? そんなこと、言われて、友達として、親友としてつきあえるわけがないだろ。これやっぱり、他人だと……別の個体だと……積み重なっているものがちがうから、本当のところがわからないんだよな。俺がどれだけがんばってきたかわからない。気違いヘビメタ騒音に耐えて普通に学校に通うということがどういうことなのかまったくわかってない。ぎりぎりのぎりぎりなんだぞ。「わかっている」だと。ふざけんな。心配してくれるだけならいいけど、『どうにかなってくれ』はない。どうにかなってくれって、通学してくれ、通勤してくれってことなんだぞ。それが俺にとってどういう意味を持っているか……。どうやってもできないことなんだよ。やろうとしたら自殺するしかないようなことなんだよ。そこまで、追い詰められるんだよ。

じゃあ、そういうふうに言えばいい?? 言っただろ。さんざん。

まあ、ともかく、ヘビメタが鳴ってなかったらこんなことにはなってない。兄貴の態度が、気違い的な態度でなければ、こんなことになってない。気違い的な態度で、気違い的な意地で無視して、頑固に鳴らしていたから、こういうことになった。普通の人が絶対に理解できない状態で、ぼくは暮らしていた。毎日暮らしていた。毎日が、限界。

ほんとうにまったく鳴らしていないと思っている状態が、続く。気違い的にデカイ音で毎日、すべての時間鳴らしているのに、まったく鳴らしてないと思っている、態度だ。感覚だ。頭がおかしいからそういうことが、普通にできる。そういうふうにセットされていたら、ずっとそうなんだぞ。これはどういう意味かというと、人格としてそうなっているということだ。常にそうなっているというとだ。これが、わかってない。どういうこだわり方で、どういう意地で、鳴らしているのか『ヨソの人』はまったくわかってない。俺が説明してもわからない。

『すべての時間鳴らしているのに』と書いたけど、それは、ほんとうにすべての時間鳴らしているということを意味していない。つまり、二四時間中二四時間鳴らしているわけではない。気違い兄貴がヘビメタを鳴らすことが可能な時間は、すべての時間鳴らしていたという意味だ。当時、毎日、鳴らしているという意味だ。『すべての時間ではない』ということを言っても、ぼくのつらさはかわらない。『すべての時間』という言葉を使ったとき、すべての可能な時間と書き直そうとしたけど、わざわざ、書き直さないで書いた。気違い兄貴が眠っている時間以外のほとんどすべての時間鳴らされて、くるしかった。俺が眠れなくなって、俺が他の人に文句を言われる状態になる。気違いヘビメタを鳴らされてないやつに、甘えているとか言われることになる。こんなのは、ない。ゆるせない。正確に言えば、すべての時間ではなくて、可能なすべての時間だ。けど、それを書き直しても、やられたことがかわらないので、ぼくのつらさがかわらない。

心配してくれることと、『どうにかなってくれ』と言うことはちがう。だから、わけて書くよ。心配してくれることはいいことだけど、『どうにかなってくれ』と言うことは、いいことじゃない。心配して『どうにかなってくれ』と言った場合は、心配することと『どうにかなってくれ』ということをわけて考えなければならない。あの状態の俺に『どうにかなってくれ』と言うことは『くるしんで死んでくれ』と言っているのとおなじなんだぞ。だから、『できない』と何度も言っているだろ。それを、『そこをなんとか』とか、食い下がりやがって。何回言わせるんだよ!!!


ほんとう、この先どうするかな?どれだけ言っても、一秒も静かにしてくれなかった


つまんねぇ。歯医者のこととか将来のことを考えると憂鬱だ。
ちなみに、昨日、缶コーヒーを飲んだので、背中に蕁麻疹ができている。背中がかゆい。

まあ、腕もかゆいんだけど。

この先、どうするかな。ほんとうに長期騒音で人生がない。

ほんとう、この先どうするかな?

他の人はいいよな。旅行に行けば憂鬱な気分が吹っ飛んでしまうのだから……。

ともかく、一〇年間ぐらい、ドクターペッパーとコーラと紅茶を飲み過ぎた。反省した。ドクターペッパーはやめよう。飲んでも、一ヶ月に一回ぐらいにしておこう。紅茶がやめらない。

実は昨日アニメを見ていたら、入試のことを思い出して、強烈にへこんだ。勉強の話しを聞くと、どうしても、気違いヘビメタ騒音を思い出してしまう。騒音にたたられながら、試験を受けたことを思い出してしまう。言っておくけど、試験中に騒音が鳴っていたのではなくて、試験期間中に騒音が鳴っていたのだ。

どれだけ言っても、一秒も静かにしてくれなかった。そういう状態で、次の日試験を受けに行かなければならなかった。


2019年11月4日月曜日

中高年引きこもり本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思わせる記事ばかり



なんか、中高年の引きこもりが働かないので、まわりの人(おもに家族)が迷惑を被っているというような話しが多い。けど、これは、ほんとうにそうなのかな? 

家族が原因で、働けなくなった人(中高年引きこもり)が多数いると思う。けど、記事を書く場合は、どうしても、家族を『悪者』にできない。そりゃ、そうだろう。『心配して』『助言をしている』家族なのだから、悪者にはできない。しかし、ぼくの感じでと言うとだいたい四割ぐらいが、家族のほうにむしろ原因があると思う。

どうして、本人が『甘えて』働かない……というようなストーリーばかり出てくるのか? 家族が心配して『働け』と言うけど、ちょっとした障害?で働こうとしない。

ちょっとした障害?というのは、たとえば、強迫性障害や社交不安性障害だ。場面緘黙症なども、ちょっとした障害のうちに含めていいと思う。これらの障害?は、ちょっと本人ががんばればどうにかなりそうな障害?だと、一般の人は思っているのである。

だから、親が甘やかしているというような判断をすることになる。もちろん、甘えているのは、中高年の引きこもりだ。

こういうイメージができあがるようにできている……記事全体が。こういう話ししか出てこない。けど、家族がむしろ原因になっている場合があると思う。

本人は、ようするにサイコパス家族の『被害者』だ。数十年にわたって、サイコパス家族にやられて、働けなくなっている中高年の引きこもりだっているはずだ。『心配している』となると援助しているような感じになるけど、むしろ、サイコパス家族(本人たち)の問題が、その人(引きこもりの中高年者)にあらわれている場合があると思う。

ようするに、サイコパス家族が足を引っぱりきって、働けなくしている場合があると思う。サイコパス家族が長い年月をかけて、(子供を)働けないようにしたのである。だいたい、三割だと思うなぁ。

これは、『甘やかし』ではなくて、虐待なのである。
何十年も毎日続く虐待だ。

もっとも、「子供」が強迫性障害や社交不安性障害や場面緘黙症なら、家族が原因だとは言わない。けど、そういう場合もある。そういう場合もあるということを事前に排除してはいけないということを言いたい。
たとえば、強迫性障害だけど、これは、どちらかというと脳のソフトウエアの問題なのである。

脳のハードウエアには問題はないが(注)、出来事によって症状が形成されてしまう場合がある。はっきり言いたいのは、子供が強迫性障害者なら、親に問題があるとは言わないけど、子供が神経症者である場合、親に問題がある場合があるとは言えるということだ。

『親が原因』ということを言うと、一〇〇%、親が原因だと思ってしまう人がいるのだけど、それは、まちがっている。場合分けをしなければならない。なんでこれがわからないのか? すべての場合において親が原因だとは言ってないのだ。

そういう場合がありえるというとを言いたい。部分なんだよ。全体じゃなくて。逆に、子供が強迫性障害者である場合、親が原因でないと言えるかどうかなんだよ。子供が強迫性障害者であった場合、親が原因ではないとは言えない。これがわかるかな? これ、ほんとうに、まちがった推論をすると人たちが多い。

ようするに、親が原因で(親の行為が原因で)子供が強迫性障害になることある。なので、中高年の引きこもりが強迫性障害で引きこもっている場合、親の行為が原因で引きこもりなっている場合がある。親の行為とただ単に書いたけど、親の『過去の行為』だ。『出来事』と書いたでしょ。

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(注)ちょっとした障害だと考えているのは私ではなくて一般人だ。その人にとってちょとした障害だとは、私は考えていないし、考えられない。

中高年引きこもりのことを取り上げた記事では、中高年引きこもりのことは、直接!!悪くは言ってないけど、ちょっとした障害で働こうとしない(だらしがない人だ)(悪い人)というような印象を与えてしまうのである。

ようするに、本人(悪)家族(被害者)という構造があるかのように思えるのだ。悪というのは言いすぎだと思うかもしれないが、ちょっとした理由で働かないことが悪なのであれば、悪だということになる。

本人が迷惑をかける人で、家族が迷惑を被っている人だという構図が頭の中にできあがる。(記事を読んでいる人の頭の中にできあがる)。

けど、ほんとうは、家族が迷惑をかけた人で、本人が迷惑をこうむっている人であるケースがあるのではないかということだ。私がこの投稿で言いたいことはそういうこと……だ。

たぶん、世の中の九割は、本人(悪)・家族(被害者)というケースが一〇〇%だと思って、そういう記事を読んでいるのだろうなと思う。本人(被害者)家族(悪)というケースがあるということに注意を払って(そういった記事を読む人は)少ないのではないかと思う。そういった記事というのは、仕事をしない中高年の引きこもりに関する記事のことだ。
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2019年11月3日日曜日

働き出せば、からだがなれて、ハンディがゼロになると思っている


長期騒音のことで●にそうだよ。ほんとうにすべての人生を破壊した。ほんとうにすべての人生の可能性を破壊した……気違い騒音。もうやっぱりつかれた。こんなハンディ・障害がある状態じゃだめだ。


いろいろと動いてもハンディはかわらない。

ともかく、長期騒音の影響でだるい。まるまるまるたい。他の人とはまるでちがってしまったな。ほかの人は経験してないので、俺がなにを言っているかわからない。たいしたことじゃないと思ってやがる。そういうことのすべてがいやだ。

いろいろと動いてもハンディはかわらない。つかれてもっとひどくなる。気違いヘビメタにやられてない人は、まったくわかってない。気違いヘビメタに数千日やられてない人は、ぼくが、なにかをやり始めたらハンディがなくなってしまうと思っているのだ。

たとえば、普通の仕事をし始めたら、ハンディがなくなってしまうと思っている。あるいは、最初から、やはり、気違いヘビメタ騒音のハンディが見えないのだろう。当時もいま現在もゼロだと思っているのだろう。

『そんなんじゃない』と何回、言ったら、わかるんだ。

ほんとうに、ゼロだと思っているんだよな。あるいは、働き出せば、からだがなれて、ハンディがゼロになると思っている。そいつらはみんな、俺とおなじ量、ヘビメタ騒音をやられてないやつらだ。ヘビメタ騒音生活が一〇年以上続くということがどういうことなのかまったくわかってない。

そこからしょうじる障害がまったくわかってない。

俺とおなじヘビメタ騒音を一〇年以上毎日経験してから、言え。一〇年以上経験すれば、障害がどれほどひどいかわかる。「やりはじめること」でゼロになる……からだがなれるというのは、普通の人の普通の考え方だ。ぼくの経験は普通の人の経験じゃない。

もうすでに普通の人じゃなということがぜんぜんわかってないんだよな。こいつら、ヘビメタ騒音障害を過小評価して、(やられてない)自分のからだがなれたから、エイリさんのからだもなれるはずだと思ってる。やられてないから、普通の状態を維持している。自分が普通の状態を維持しているから、エイリさんも『なれる』と思ってうたがわない。

ヘビメタ騒音をやられたあとは、積み重なるだけだよ。

つかれが積み重なるだけ。

どれだけ無理をしても体はなれない。だいたい、休みの日が休みの日ではないんだよな。一〇年もやられてみろ。わかるから。新しいつかれがつもるだけになってしまう。気違いヘビメタ騒音生活をしてなかった人にはそこのところがわからない。

注『働く』というのは、決まった時間に通勤して働くという意味。決まってない時間に家で働くことは意味してない。

2019年11月2日土曜日

内向的な人のつかれと、外向的な人のつかれ


あっ、そう言えば、夢のなかの会話が楽しかったんだけど、内向的な人も、気のあった人と興味がある分野について話すのは楽しいのではないかと思った。

ようするに、『つかれない』のではないかと思った。もちろん、内向的な人は他人と接するとつかれて、外向的な人は他人と接すると楽しいというのはあると思う。

内向的な人は他人とつきあうとエネルギーをうしなうけど、外交的な人は他人とつきあうとエネルギーをえるというような傾向のちがいはたしかにあると思う。

けど、内向的な人は、あわない人とあわせているから(より)疲れるのではないかと思う。たしかに、ゲームが好きな人でも夢中になってゲームをやれば「つかれる」。車の運転が好きな人だって、ずっと車を運転しているとつかれる。そういった意味で、外向的な人だって、人とつきあっているとつかれるのだ。

それは、まあ、友達とゲームをやっているときのつかれみたいなもので、人間の身体的なつかれだ。時間とともに発生する身体的なつかれ。一方、たとえば、内向的な人がゲームをする場合、内向的な人は他人に気をつかって、ゲームをしているので、精神的に疲れてしまうのではないだろうか。内向的な人も時間とともに発生する身体的なつかれは感じていると思う。

これは、内向的な人も外向的な人もかわりがないのではないだろうか。

内向的な人が人とつきあうとつかれると感じるのは、実は、内向的な人が精神的なつかれを感じているからだと思う。もちろん、精神的なつかれを感じると、動きたくないというような身体的なつかれとも思えるようなつかれが発生する。

それが、内向的な人はつかれやすいということにつながるのではないだろうか。要するに、内向的な人でも、『気をつかわなくてもいい相手』ならば、外向的な人が感じるぐらいのつかれを感じるのではないだろうか。気をつかわずにつきあえる相手なら、内向的な人でもつかれを感じる量が少なくなるのではないかと思う。

外向的な人でも、形式的な儀式に参加すると、普段は感じないつかれを感じるのではないかと思う。たとえば、葬式などに出席するとつかれるのではないかと思う。葬式には人がいて、人とのコミュニケーションがある。その点では、たとえば、仲間内のパーティーとかわりがない。

けど、葬式の場合は、仲間内のパーティーよりも『気をつかう』はずだ。なので、仲間内のパーティーに参加するときより精神的につかれるのではないかと思う。この場合は、外向的な人であるにもかかわらず、必要以上に気をつかうので、いつも以上につかれを感じるのだと思う。

内気な人は、仲間内のパーティーに参加しているときも、あたかも外向的な人が葬式に参加しているような精神的なエネルギーを使っているのではないかと思う。

ようするに、外向的な人と内向的な人のちがいは『気をつかうかどうか』と『気をつかう程度』などだと思う。『気をつかう程度』と書いたけど、これは、項目数と深度(強度)が関係していると思う。ようするに、気をつかう項目数と深度をかけたものが気をつかう程度(気をつかう量)になるのではないかと思う。

内向的な人は普段から、気をつかう項目数が多いのではないか。たとえ、身体的に動いていなくても、こころのなかではあれやこれやといろいろと気にしてつかれてしまう。これは、そこにいる人たちの動きが読めないとか、そこにいる人たちの考えが読めないということが影響しているように思える。

読めないと言ったけど、これは、読めないわけではなくて、ひとつの事柄に関して解釈の可能性が複数あるので、解釈の可能性を巡ってしきりに考えているような状態になるのではないかということだ。要するに、動いてないようでいて精神活動は活発なのだ。その精神活動は、おもに(恐怖)から発生しているので、楽しめない。

兄貴の気違い騒音が何千日も続かなかったら、知的な会話を楽しめたかもしれない


ものすごく楽しい夢を見た。ひさびさに知的な会話を楽しんだ。いい人ばかりの世界を味わった気がした。俺が求めていたのはこういう世界なんだ。考えてみれば、俺と、性格が悪い人たちが「あう」はずがない。性格が悪いと言ったけど、自分勝手で頭が悪いやつらなことなんだけどな。自分勝手で頭が悪いやつらが常駐しているようなSNSや掲示板が、俺に「あう」はずがない。兄貴の気違い騒音が何千日も続かなかったら、知的な会話を楽しめたかもしれない。そういう人たちに囲まれてすごすことができたかもしれない。考えてみれば「あう」はずがないのだ。
小室直樹氏と心ゆくまで話したかったなぁ。若い小室氏と、知的な会話を楽しみたかった。ぼくが見た夢のなかでは、サブカル的なノリがあって、そのノリはあんまり好きじゃないのだけど、そこに集まっている人たちとの会話は非常におもしろかった。心地よかった。だいたい、三グループと話したんだけど、どのグループの人たちとも非常に心地よい会話を楽しんだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。