2016年10月18日火曜日

どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじ

やっぱり、起きたあと「俺はどうなってしまうんだ」と言うことを考えるなぁ~~。はっきり言って、この時間はむだだ。完全にむだ。むだむだむだ。けど、「俺はどうなってしまうんだ」と考える時間が長い。長すぎる。本当にむだな時間なんだけど、やめるわけにはいかない。

どうしても、ヘビメタ騒音のことを考えてしまう。朝の光を見たとき、そうなる。朝の雰囲気というのは、きちがいヘビメタ騒音の朝の雰囲気そのものだ。で、これはたぶんぼくが生きている限り続くと思う。脳みそに、きざまれすぎ。若いときの脳に、きざまれたものは、なかなか消えないんだな。本当に、きちがい騒音できざまれた。きちがい兄貴はまったく気にしてないけど、きちがい兄貴が「好きな音でやって良い」という法はないんだよ。きちがい兄貴は、無理矢理そういうふうに思って、そうし続けたのだけど……。これ、本当は、ひとこと、言えばわかることなんだよ。ひとこと!!! そのひとことが、一四年間も通じない。それ以降も何十年と、伝わらない。本当に、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部!!!!!……本当に全部が全部!!!……やってないと思っている状態だからな。頑固にそう思っている状態だ。で、やっているときも……まさに鳴らしている最中も……そういう状態なんだよな。だから、どれだけやったって、「ソンナノシラナイ」ということになる。どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじなのである。だから、(いまの)自分は、知らないことなのである。他の人がやったことなのに、なんで、俺に文句を言ってくるんだ」みたいな気持ちがある。本人は、やってないつもりなので、そうなのである。まさに、鳴らしているときから……そうなんだよ。で、言われたら、言われた途端に、真っ赤な顔をして怒る。これも、親父とおなじで、どれだけ、「うるさいからやめてくれ」と言われても、理解しない。「うるさい」という感情がまったくわからない……という態度なのだ。自分が鳴らしている音が「物理的にでかい音だ」ということを、まず認めない。そこからなんだよ。じゃ、本当にわかってないのかというと、そうではないのだ。実際、いま、兄貴が住んでいるマンションでは、そういう音で鳴らせない。これは、一〇年、二〇年で、一分も鳴らせない。そういう音なのである。鳴らしてない、……あるいは鳴らせないということから考えて、物理的にでかい音だと言うことは、きちがい兄貴はわかっていたと判断するべきなのである。しかし、当時の兄貴には、それがわからない。どれだけ、何回言っても、……まるで親父のように……わからない。で、「まるで親父のように」と言ったって、他の人は、本当にわからない。うちのなかで、「親父」がどういう態度だった……どういうことをしたか、他の人にはまったくわからないようになっているのである。で、これも、親父自身は、「まったくつもりもないし、やってない」と思っているのである。ごく自然に、いつもいつも、「そういう態度」で「かならず、爆発していたのに」、本人は、つもりがないし、やってないのとおなじ気分でいるんだよな。で、そういう「うそ」が日常的に成り立っている。本当に、あれだけ、こだわって、理由もないのに、何回も何回も、やったことなのに、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」ってなる。で、やっているときから、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」って言いやがるんだよ。「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上すれば、それで、「やってないことになって、親父の言い分が通った」。……殺してしまうわけにはいかないのだから、そうなる。真実として、やったとしても、きちがい親父が「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上してしまえば、親父のなかでは、「やってないのとおなじ」ということになる。認知、認識、記憶、どれをとっても、やってないのとおなじで、じっさいに「やってない」ということになってしまうのである。で、そうやって、やるんだよ。そうやって、意地を通して、わのわからないことをする。あるいは、こっちに、悪さを仕掛けてくるときも……おなじなんだよ。対象が違うだけだから。親父が、思いつきで、なにかを修理するというのも、親父が思いつきで、こっちに文句を言ってくる……八つ当たりをして逆上するというのも、まったくおなじなわけ。で、修理と言ったけど、こっちにとって、どうでもいい修理は、してもらっていいのだけど、こっちにとってどうでもよくない修理だと困るんだよ。「そういうふうにされると困る」ということがある。たくさんある。


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2016年10月16日日曜日

「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない

楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ

このように説明できるのは、一部の現象だけだ。じゃ、なぜ、一部にしろ「笑うから楽しい」と思ってしまうのかということを説明しよう。実は、楽しいから笑う機会が多かったからこそ、笑うと楽しく感じるように「なった」のだ。

だから、楽しい→笑うという反応のほうが先だ。楽しい→笑うということを、小さいときから繰り返してきたので、笑うと楽しく感じるだけなのだ。だから、「楽しい→笑う」という連関のほうが先。じゃあ、なんで、楽しいと笑うのかということに関しては、人間はそうできているからそうなんだとしか言いようがない。

別に笑い顔を作ろうと思っているのわけではないのである。感情に対する顔の筋肉の反応が、そうさせる。顔の筋肉の反応を見て、人が、「笑っている」と判断しているだけなのだ。人がというのは他の人がということだ。本人が、笑い顔かどうか、あんまりわからないのである。

ただ、ごく自然に、楽しいときは、そういう筋肉の反応があるので、そうしているだけだ。けど、そういうことを繰り返していると、だいたい、こういうふうに筋肉を動かせば、「笑い顔」と言える表情になるんだなということを、「学習」するのである。


あと、もう一つ言っておこう。

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ

これに関して言っておくと、人間というのは、悲しいから泣くだけではなく、痛くても泣く。要するに、泣くというのは、悲しいという感情だけに「対応」しているわけではない。

これも、泣くというのは、涙が出るという生理的な反応なのだけど、悲しいときには、そういうことがよく起こるので、そういう連関ができあがっているだけだ。泣くから、悲しいというのは、そういうことを多く繰り返してきた人間だからこそ、「感覚的に」わかる話なのである。

ところで、痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだということは、あまり言われない。しかし、人間は痛くても泣く。悲しいときだけ泣くわけじゃないのである。ここが、わかってないのである。「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない。だから、「表現型」→「感情」は、主なものに関して言われるだけだ。たとえば、嬉し泣きというのがある。この場合は「嬉しい(感情)」→「泣く(表現型)」という連関がまず成り立っている。しかし、嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだとは言われない。「嬉しい」→「泣く」という反応がレアだからだ。

「表現型(理由)」→「感情(結果)」は、一対多の関係なので、以下のようなことも成り立たなければならない。

(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
(二)痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだ
(三)嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだ

けど、普通は
(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
としか言わない。

痛くないのに、泣くと痛く感じるだろうか? そんな感じもしなくない?
嬉しくないのに、泣くと嬉しくなるのだろうか? そんな感じもしなくない?

「表現型(理由)」→「感情(結果)」はやはり、倒錯している。
「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、そういう理論がなんとなく、正しく感じられるだけなのである。「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、「感情(理由)」→「表現型(結果)」という連関がすでにできあがっている。だから、「表現型(理由)」→「感情(結果)」もなんとなく、正しいのではないかと思えるだけなのである。

で、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」流の言い替えが、「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」ということにも、成立してしまう。前回話したけど、生まれながらの貧富の差は、そこではまったく問題にされないのである。

ただ、「考え方」だけに、理由を求めている。「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」「楽しいことがあるから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」「不運だから不運だと感じるのではなく、不運だと感じるから不運になる」「笑う門には福来たり……笑っていると福が来る……福が来るから、笑うのではない)」……こういう言い方がはやる。

けど、こういう言い方は、それまでの文脈というのもを無視している。だから、一見正しそうに見えても、正しくない。まあ、「運・不運」とか「幸福・不幸」とか「福相・貧相」ということになると、「泣く」とか「笑う」というような表現型とは違った話になるんだよ。それこそ、「なんとだって言える」範囲が広くなる。だからこそ、「感じ方の問題だ」というのはわかる。けど、それもその人の人生上に起こった出来事というのを無視してはいけないのである。

この「笑っていれば幸福になれる」というのは、なんとなく正しいそうなんだけど、ものすごくつらい思いをしている人がやると、そんなにいいことにならない。すでに元気な人がやることなのである。あるいは、普通のことが普通にできている人がやることなのである。弱っている人が、そういうことをしたら、本当に気の毒な話になる。深く自分の心にふれあわなければならないのである。そういう時間が必要なのである。それなのに、「自分は幸福なんだ」「自分は楽しいんだ」「笑い顔笑い顔」と自分を無理矢理励ますと、不自然なことになってしまう。よけいにつらくなってしまう。



補足

「貧相」と言ったところで、なにが「貧相」なのか定義がない。Aという人とBという人がいて、Aという人が「Bさんは貧相だ」と決め付けているだけなのである。鼻の高さが、何センチ以上だと福相、それ以下だと貧相と決まっているわけではない。「なんとなく、そういうふうに感じる」と言うだけの話しだ。




2016年10月14日金曜日

まじ、やばいわぁ~~ この雰囲気~~やばい。

まじ、やばいわぁ~~
この雰囲気~~やばい。


やっぱりヘビメタ騒音で人生がない。この二〇年俺はなにをやってたんだ。

なんけ、げそーーっとくる。

「ナニワの金融道」を読んだのが原因か。いや、いつものことだ。このままだと、このまま死ぬ。
やっぱり風呂に入っていても、文章を書いていても、英語の勉強をしていても、全部、きちがいヘビメタ騒音の感じがする。なっている感じがする。そして、疲弊して人生がなかった。きちがい兄貴の態度に憤慨する。怒りっぱなし。普段、他のことをしていても、きちがい兄貴の態度を思い出して、一人で頭にきている。この生活……何十年も前からだけど……この生活は……きちがいヘビメタ騒音生活の延長だ。疲労をそのまま受け継いで続いている。死にたい。いや、より良く生きたい。そりゃ、そうなんだが……。

2016年10月13日木曜日

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない

(注意)セミナーとか集まりをすべて否定しているわけではありません。いいひとのセミナーはいいし、わるい人のセミナーはわるいでしょう。ようするに、人による!! なんか、誤解されている感じがするけど、アマゾンアンリミテッドで、女の人の本を読んだときに感じたことです。

それからここで言っている「セミナー商法」というのはアフィリエイト系のセミナー商法が根底にあります。

たとえば、底辺労働をしている人が、職場で社長のふりをしていると社長になれますか? なれるのであればいいけど、なれないのであれば、むだな行動になってしまう。というか、職場で社長じゃないのにあたかも社長のようなふりをしたら、きらわれるでしょ。「なんだあいつ」と思われる可能性が高いでしょう。

けど、なんていうのかな? 人間というのは、「げんをかつぐ」といのがある。だから、行動を起こすときにお守りが必要だというのであれば、別に、お守りの効果は否定しない。そういうことなんだけど、わかってくれるかな。

まわるかどうか、というのは重要だし、この世は、なんていうのかな?まわしたもの勝ちみたいなところがある。善人が苦汁をなめて死んでいき、悪人がいい思いをしてしあわせに生きるということもある。一代限りだと、そういうことが言えてしまう。そりゃ、たましいというのものを想定して、生まれ変わりを想定すると、最終的にはバランスがとれるということを言えるのだけど。


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けど、やっぱり、神様はいじわるだな。俺にこんな家族、こんな無理ゲーを押し付けやがって。あの気持ちは、ない。きちがい兄貴のヘビメタにさらされているときの、あの気持ちはない。明日、自分にとって大切な試験があるという日、一分も静かにしてくれなかったからな。きちがい兄貴よ。何回言ったと思っているんだよ??

倒錯理論について、ちょっと説明をしておく。これはもう、説明したことなんだけど、もうちょっとわかりやすく説明したい。

問題なのは、貧乏だから「貧相」になったのではなく、「貧相」だから、貧乏になったのだと言う考え方だ。「貧相」じゃなくても、たとえば、「貧乏になる考え方」でもいい。

彼ら曰く。「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」。こういうことを言う人たちがいる。で、こういう人たちは、そろって、スピリチュアリズム系のことも言う。けど、彼らのなかにながれているのは、思いやりじゃない。貧乏になっている人を救いたいわけでもない。自分が、儲けたいだけだ。たとえ、幸運の長財布の説明がなくても、そういう説明をする人は、実は、相手のことを思ってない。もう、そういう考え方自体が相手のことを無視している。だから、これは、リトマス試験紙のように使える。

どういうことかというと、どういう家に生まれたか?ということを無視しているからだ。たとえば、「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」ということを言う場合は、人生の最初の差を無視している。こういう無視が成り立っているということが問題なのだ。そして、その人のことを本当には思ってないということが、そこにあらわれている。こういう倒錯理論は、一見正しそうに見える。しかし、間違っている。お金持ちの家に生まれたか、それとも、お金がないうちに生まれたかというのは、ものすごく、大事な差だ。考え方以前の問題なのである。事実!!考え方以前の問題がある。そういう、大切な部分をないがしろにしている。そして、けっきょくは、「貧乏になる考え方をしている人」を責めている。この「貧乏になる考え方をしている人」というのは、けっきょくのところ「いま現在貧乏な人」なのだ。だから、困っている人を、さらに責めるということになる。「いまおまえが困っているのは、おまえの考え方が悪いからだ」……こういうことを言っているのである。

生まれたときに、差がある。ここを無視して、「考え方」が重要だという。これは、レトリック。生まれ育った環境を無視して、「考え方」だけを、問題にする。


わからなくてもわかっているふりをする。そうすると、わかるようになる……そんなことがありますか? 残念ながら、わかるように努力しないと、わかるようにはなりません。わかるという体験をしないと、わかるようにはなりません。

で、まあ、貧乏云々の話に戻します。生まれた家、子供時代、より高度な教育を受けられる環境……こういうことが、その人の人生に影響を与えているということを、最初から無視して、貧乏な人は、貧乏になるように考えたから悪いんだというようなことを言う人は、根本的に信頼できない。

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない。そういう無視が、どれだけ、無慈悲な無視であるか知っているから。

2016年10月12日水曜日

ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

パチンコには行かないけど、いまの俺が苦しい。いまの俺が苦しい。これ、おなじなんだよな。ヘビメタをやられていた頃の状態とおなじだ。今朝、「あいつ、本当にあれだけやって、やったつもりがなかったんだな」「まるで悪気がなかったんだな」「どれだけやっても、悪気がなくて、なにもやってないと思ってたんだな」と思ったら、めちゃくちゃに憂鬱な状態になった。これ、この部屋でヘビメタをやられていた一九歳の頃とおなじ気分だ。

あー、お母さん。あれから何年経ったんだ? 俺が一九歳の時のきちがい兄貴なんて、本当に絶対にやめてくれなかったからな。そして、この空間。この空間。やるせないーー。やるせないーー。まあ、「ニコニコ感謝法」でやれる人はドンドンやってくれ。俺には無理だ。いま、ものすごく変な気分になっている。これは、やばい。これはやばい。……やばいじゃなくて「俺は運がいい」「ついてるついてる」か? ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

ともかく、苦しかった。

気分を変えるために、運動でもするかな。それにしても、だましだまし進んでいても、いつか終わりが来る。まあ、ワクワクしていても、終わりは来るけどね。それにしても、ぼくの人生は苦しい。きちがいヘビメタ騒音で苦しい。きちがい兄貴よ!! 兄貴はあれだけこだわって、まったくやったつもりがないのかよ???

2016年10月11日火曜日

ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから

まあ、正直言うとつらいわけよ。あ~~、本当にヘビメタ騒音がつらかった。これ、俺だけの話で、他の人とは共有できない話しなんだよね。戦争がつらかったとか、地震でつらかったとかそういう話しじゃない。で、これが、一度の話しじゃなくて、ずっと続いているというのがつらい。たとえば、六ヶ月で本当に鳴り止んでくれたらな。きちがい兄貴のことを、きちがいみたいに書いているけど、本当は、単純に鳴らしたかったから、鳴らしたんだよ。きちがい兄貴は、鳴らしたかったから、鳴らした。それだけなんだよ。自分が鳴らしたい音で鳴らしたかった。それだけ。やめることは考えてなかったわけ。ヘッドホンをすることは考えていなかったわけ。どうしてかというと、「自分が鳴らしたい音で鳴らしたい」というこだわりが、他の人に対する配慮をこえていたから。「うち」である限り、「他の人」に対する配慮というのは、根本的にゼロにちかいほどない。絶対にやって良いことをやっているつもりでいる。「よそ」の人には気を遣うけど「うち」の人には気を遣わなくていい。そういう思い込みだけだ。だから、本人はまったく悪いことをしたつもりがない。どれだけやってもあたりまえだ思っていて、その思い込みが、とれない。ものすごく強い思い込みでとれない。自分が鳴らしたい音というのは、決まっていて、それ以外の音にするつもりはないわけ。要するに、ヘッドホンをしてしまうと、ヘッドホンでどれだけでかい音で鳴らしても、「自分が鳴らしたい音」ではないわけ。で、「自分が鳴らしたい音」とちょっとでも違うだめなわけ。だから、「自分が鳴らしたい音」以外の音では鳴らさなかった。きちがい兄貴が……最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!……ゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってやった音も「自分が鳴らしたい音」からはずれ音じゃないんだよ。だから、きちがい的などけちぶりを発揮する。音量でいえば、一〇〇の音量から、九九・九九ぐらいの音に落としてやっただけで、ものすごくゆずってやったつもりになる。そういうことを、一日に五分やってやれば、もう、一日中鳴らさないで静かにしてやったのとおなじぐらいに静かにしてやったと思ってしまう。これは、本当に自動思考で、考えるまでもなくそう感じてしまう。で、その感じ方は絶対的で、「こっち」がなにを言っても、変わらないんだよ。だから、きちがい兄貴は、入学試験の冬休みに、一日に一四時間鳴らせるなら、一四時間、「自分が鳴らしたい音」で鳴らして、「ものすごく静かにしてやった」「あり得ないぐらい、ゆずってやった」「全部静かにしてやった」と思っている状態なんだよ。で、一四時間のうち、一〇回、二〇回、「もうすぐ入試だからやめてくれ」と、こっちが、言っても、なにも感じないわけ。「静かにしてやった」「静かにしてやったのに、あとからあとから、がたがたうるさい」と思うわけ。うるさくしているやつなのに、「がたがた、言ってきてうるさい」ぐらいにしか感じない。もう、自分は十分に静かにしてやっているのだから、静かにしてやる必要がない。「がたがた言ってくる方が悪い」としか思えない。で、本当にそういう病気。そういう催眠術にかかっている。入試の時ですらそうなのだから、他の日は、当然、ずっと鳴らしている。なんと思ってない。で、きちがい兄貴はそうなんだけど、こっちは、……あのときの破滅感がずっと残っている。きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人にとっては、「そんなの、言えば静かにしてくれるだろ」ぐらいの、単純で浅い問題なわけ。「なに、ずっとぐちぐち言っているんだよ」と思うわけ。けど、頑固さが違うんだよね。で、もうひとり、きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人がいて、それが、兄貴自身なんだよ。これも、他の人にはわからないことなんだろうけど、事実そうなんだよ。そして、たぶん、これも、兄貴自身がわかってない。自分がこだわってこだわって、やったことなのに、完全に「他人事」であるわけ。で、それは、やっているときから、そういう感じなんだよ。だから、いまだに、「自分には言い分がある」みたいなことを言っている。じゃあ、一日に何時間鳴らさないで静かにしてくれたんだ?と言われると、答えられない。むすーーっとして、黙りこくるだけ。俺から、「いま住んでいるところで、鳴らせるなら鳴らしてみろ」と言われても、一日に一分も鳴らさない。鳴らせる音じゃないから鳴らせない。嫁さんに聞かれるとまずいから、鳴らせない。嫁さんや嫁さんの家族に迷惑をかけると悪いから……一日に一分だって、当時、鳴らしていた音で鳴らせない。だから、本当は、自分の音がはた迷惑なほど、うるさい音だということを知っている。「よその人には」一分もできない……そういうことを、毎日、全部の時間やっていた……可能なすべての時間を使って鳴らしていた……ということが、根本のところでわかってない。「うち」で起こったことに関しては、当時の感覚のままなのである。全部が全部、そういうことだから……。で、基本的に嘘つきなので、「弟さんが言っていることは本当なの?」と聞かれると、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」と答える。「そんなに鳴らしてない」「そんなでかい音じゃない」と答える。じゃあ、当時鳴らしていた音で鳴らしてみろと言われると、できないんだよ。一年間で一分も鳴らせない。自分がこだわりつくして鳴らしていた音が、どれだけはた迷惑な音か、本当は知っている。けど、自分にとって都合が悪いことを言われたら、怒って、顔を真っ赤にして、ムスーーっとして、なにも答えないんだよ。不機嫌な状態になって、黙りこくる。で、自分の寝室に行ってしまう。で、寝たら、もう、そういう「話し合いがあった」ということを忘れてしまう。で、毎日おなじなんだよ。いまは、鳴らしてない状態だから、問題はないけど、鳴らしている状態でも、そうなんだよ。毎日毎日、すべての可能な時間、自分が鳴らしているときも、おなじ。いま住んでいるところで鳴らしてないから、そういう、性格があんまり問題にならないだけ。鳴らしてないわけだから……自分にとって不都合なことを言われたら、黙りこくって、自分の部屋に入って寝てしまう……ということは、それほど問題にならない。けど、毎日、頑固に鳴らしている状態で……そういう性格があらわれると、問題が発生する。よそじゃ一年間で一分も鳴らせないような、でかい音で鳴らしているのに、「鳴らさないで静かにしてくれ」ということを言われると、黙りこくって、自分の部屋に入って、ドカドカ鳴らしてしまうから、問題が発生する。で、「鳴らさないで静かにしてくれ」と言われて!!!腹を立てて鳴らしているとき、「まったく鳴らしてない」つもりなんだよ。こういう、きちがい的なところがある。「鳴らさないで静かにしてくれ」と注意されたあと、自分の部屋に入って、一時間、どかどかでかい音で鳴らしたら、一時間でかい音で鳴らしたということを認識しているべきなのに、注意されたあと一時間でかい音で鳴らしているにもかかわらず、注意されたあと、自分は鳴らしてないと思っている状態が成立してしまう。そういうところがある。これが、二時間でも、一〇時間でも、おなじなんだよ。注意されたあと、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、七時間、八時間、九時間、一〇時間と、……入学試験の三日前に鳴らしても、……本人の主観としては、注意されたあと、まったく鳴らさなかったのとおなじなのである。注意されて、むすっとしたあと、黙りこくったまま、二階の自分の部屋に入って、普段通りに鳴らしても、鳴らしたつもりが生じない。注意されて怒ったあと、普段通りに鳴らしているのに、「がまんしてやった」と思っている。一〇時間鳴らすのと、まったく鳴らさないのとでは、ものすごい違いがあるのに、きちがい兄貴のなかでは、両者はおなじことなのだ。だから、「しずかにてやった」と思っている。入学試験の前に、注意されたあと、一〇時間も鳴らして!!!……こだわりつくしたでかい音で鳴らして……静かにしてやったと思っている……これがきちがい兄貴なんだよ。きちがい兄貴の毎日なんだよ。きちがい兄貴の毎日の感覚なんだよ。それが、一四年間続いて、本当に困った。これ、最初の六年間でおしまいだから。六年間毎日で、俺がどれだけがんばっても、おしまいだから、最初の六年間毎日で、俺が、どれだけがんばっても、無職にならざるを得ない状態になる。働けないし、進学もできない。普通の「通勤通学」ができない。どれだけどれだけ、がんばっても、通勤通学ができない状態になる。理由を知らない他の人から見れば、ぼくが、勝手にサボって、勝手に引きこもっているように見える。もう、全部そうだよ。ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから。

2016年10月8日土曜日

「感謝感謝」から差別主義まで、そんなに距離が離れていない

スピ系の本を読んでどうして落ち込むのかわかってきた。

最初の方はいいことが書いてあるんだよ。けど、だんだん、悪いことが書いてある。

たとえば、「べき」の暴君にやられる※べき※ではないということがある。このべきの暴君というのは、心理学的な一般読み物系の用語だけど、同じことが書いてある。「がんばる必要はない」「本当に必要なことは楽しみながら、ワクワクしながらすることができる」「がんばらなければならないは、無理をしているから」「がんばらなければならなくなるのは、自分の本当の気持ちに逆らうことをしているから」……というようなことが、書いてある。

しかし、あとの方になってくると、「運を引きよせることが必要だ」ということを言い出したりする。「運を引きよせる」ためには、けっきょく、がんばらなければならないのである。「流れを変える」ために、いろいろなことをしなければならなくなる。けっきょく、そういうめんどうくさいをことしなければならないというような気分にさせられるのである。がんばる必要はなかったんじゃないのか?


あとは、感謝だ。すべてのことに感謝しなければならないのである。しかし、ここでも、最初に言っていたこととはちがうことが、出てくる。たとえば、「波動が悪い人は避けなければならない」のである。何事にも感謝するべきなのではなかったのか? その主張に従うなら、波動が悪い人に出会ったということも、感謝するべきなのである。

「すべてのことに感謝」ということを語っていた時は、たとえば、事故に遭っても感謝するというようなことを、語っていたじゃないか。足を折ったら、「ここで足が折れてよかった。他のところで折れてたらもっと困っただろから」と思わなければならないのである。足を折っても「こういうことをすると足が折れるので、次からはこういうふうにして足を折ることを避けよう」と思わなければならないのである。「よかった」と言うと、脳がだまされて、「よかった」と思ってしまうと主張していたではないか。

しかし、ページを読み進めていくと、「態度の悪い人は、悪い波動を出しているから、避けるべきだ」というようなことが書かれているのである。どんなことも、悪いことではなく、悪いことだと受けとめるのは、その人の受けとめ方の問題なのではなかったのか? 

しかも、「態度が悪い(人を避けろということ)」は、よくわかるけど、「波動」とか言い出す。最初の方で「感謝」とか言っておいて、あとの方になると「悪い波動を出している人は避けろ」とかそういう話になる。悪い波動を出している人にも感謝するのが、すじではないのか? 最初の方では、そう言ってた。悪いことには意味があるのではなかったのか? 最初の方では、悪いことにも意味があると言ってた。悪いことが起こっても、感謝して「脳を書き換える」「脳に上書きする」のではなかったのか?

たしかに、最初の方ではそう言ってたのに、あとの方になってくると「悪い波動を避けろ」とかそういう話になってしまうのである。実際に自分に悪いことをしてきた人を悪い人だと認識するのはかまわないけど、実際に自分に悪いことをしてこない人でも、悪い人になってしまうのである。たとえば、電車の中で悪い波動を出している人に会うことさえ、なるべく避けるべきことになる。悪い波動を出しているかどうかというのは本当はわからない。「あの人は悪い波動を出している」と感じる人がそう感じているだけかもしれないのである。しかし、「運をよくする」とかそういうことにこだわり出すと、「悪い波動を出す人は避ける」べきだというような狭い考え方に陥ってしまうのである。最初は、「悪いことが起こっても、よいことが起こったと考えよう」みたいなことを言ってたのに……。

たとえば、元気がない人は、元気がない波動を出している。元気がない人に近づくと、元気をうばわれる……だから、元気がない人には近づくべきではない……というような話になる。それだけではなくて、たとえば、きたない服を着ている人には近づくべきではないという話になる。きたない服というのは、物理的にきたない服ではなくても、きたない服に分類されることがある。たとえば、よれよれの服は、きたない服なのである。実際には、洗濯してあって、物理的にきれいな服であったとしても、よれよれの服はきたない服として認識されてしまうのである。どうしてかというと、「なんとなくきたない」と感じてしまうからだ。波動とかそういうことを言い出すとそういうことになる。たとえば、よれよれの服を着ている人は、貧乏で、お金のない波動を出している。お金の運が逃げるから、近づくべきではない……こんなふうになってくる。本の作者は考えてないけど、たとえば、うつ病の人が読んでいるかもしれない。うつ病の人だって元気になりたいわけだから。

で、たとえば、うつ病の人が、「憂鬱そうな人は避けるべきだ」という文章を読んだ場合どう感じるかというと、「自分は避けられる人間だ」と感じてしまうのである。そりゃ、そうだろう。「憂鬱な波動を出している人には近づくべきではない」と多くの人が考えるなら、憂鬱な波動を出している?自分は、多くの人から避けられると考えて当然だ。だから、憂鬱な人が、この手のスピ系の本を読むと、どこかで、気持ちが重たくなるはずなのである。

何事にも感謝とか言っておいて、最後の方になると、すごい選別思想みたいなものが出てくる。実は、これは、選別思想じゃなくて、「けがれ」の変形なのである。「けがれ」と「ことだま」はプリミティブな感情で、現代人にもある。だから、通りやすいのである。読んでいて納得してしまう部分がある。

たとえ、きたない服を着ている人でも、憂鬱な人でも、元気がない人でも、「けがれ」と「ことだま」の思想は持っている。だから、……けがれていると避けられるほうの感情だけではなくて、けがれている人を避ける方の感情も持っている。が、しかし、「感謝感謝」と言っておいて、結論が、これなんだからな。元気がない人というのは、「け」が「かれてる」状態なのである。なので、「けがれている」……「けがれているひと」には近づくな……「けがれているひと」が触ったものは触るな……こういうことになるのに、あと一歩しかない。だから、「感謝感謝」「どんなことにも感謝」「悪いことが起こっても感謝」から、ある種の「けがれ差別主義」まで、そんなに距離が離れていない。というか、むしろ、表裏一体?

自分に対して悪いことをしてくる人……たとえば、ヘビメタ騒音を出して絶対にゆずらない人……ではなくて、ただ単に元気がない人に対してどういう態度をとるべきかというと、そういう元気がない人も思わず元気になってしまうような態度をとるべきなのだ。元気がない人が、自分に会うと元気になってしまうような人を目指すべきだろう。元気をうばわれるのではなくて、元気をあげられると考えるべきなのだ。感謝感謝と言っているのだから、元気がない人にも感謝するべきだろう。電車の中で元気がない人に出会ったのは(見かけたのは)悪いことではなくて、よいことなのではないか。「元気がない人に出会えてよかったな」と脳をだまして言い換えるべきなのではないか。もちろん、これは、「べき」論だ。だから、別にそういうことを目指す必要はない。ただ、「感謝感謝」という考え方に賛成していた人は、やはり、元気がない人に出会っても、それを悪いことだとはとらえずに、よいことだととらえて、感謝するべきなのである。

タイトルからここまで、ずっと「べき」論を言ってきたのである。どれだけ「べき」いう言葉が使われているか数えてみればいい。(俺、いまの時点で数えてないけど)。

元気がない人は避ける人になるよりも、元気がない人に元気をあげることができる人になった方がいいんじゃないのということを言いたい。「感謝感謝」という考えにこだわるのであれば……という条件付きだけど。


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「わくわく」と「感謝感謝」「鏡の法則」「引きよせの法則」だと、「わくわく」の方がいい。

けがれるの「け」についてちょっとだけ説明をしておこう。「け」を漢字で書くと「気」になる。内側が、メではなくて、米のほうなんだけどね。この場合の「気」というのはなにを意味しているかというと、「生命力」を意味しているのである。「け」が枯れる状態というのは、「生命力」が枯れる状態なのである。


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この、「脳」をだますというのは、エセ科学かもしれない。「脳」をだますというのはよく言われることだけど、別に検証されたわけではない。すくなくても、ぼくの知っている範囲では検証されていない。検証されたとしても、統計的な差でしかないと思う。あとで、主観をアンケートに書くとかそういうことをもとにした、検証でしかないと思う。

それから、たとえば、痛さを抱えながら、ずっと「よかった」と思うことができるのかどうか、わからない。わりと痛みが持続する場合はどうなんだろうな? ずっと、「虫歯になってよかった」と頭の中で言い続けるのだろうか? それで、本当に「虫歯になってよかった」と考えることができるのだろうか。


2016年10月7日金曜日

ぼくの冒険はここから始まる

どのみちぼくは好きなことしかしないから、これからも好きなことをして暮らしていこうと思う。けっきょく、好きなことしかしない。……しかし、キチガイ兄貴のように、他人を犠牲にしてやりたいことをやろうというのではない。そりゃ、俺は、さんざんやられたからね。どれだけ、腹が立つか!わかる。……本当に、あいつらはおかしいんだよな。絶対につたわらないはずがないのに、そのときは、つたわらないんだよね。どれだけ絶叫して、何十回言っても、まったくなにもつたわらない。で、こういう態度というのは、実際に目の当たりにした人しかわからないのではないかと思う。だから、「家族で相談すればいい」「ちゃんと言えばわかってくれる」など言われてしまうわけだから。言われるのは、「ぼく」ね。「言われてしまう」と書いてあるのだから、いちいち誰が言われるか書かなくてもわかるよね。

俺は好きなことしかしないという宣言をした。けど、実際にどういうことをするのかということに関しては、たぶん、ここには書かない。

ぼくの冒険はここから始まる。

ヘビメタ騒音に関してだって、俺が書かなきゃ、誰も書けないだろ。俺は、他の誰かが書けることを書いているわけじゃない。たとえ、ネガティブだと言われても、書かなきゃならないのである。この世で実際にあったことだしな。けど、フィクションにしておかなければならないのである。どうしてかというと、フィクションにしておかなければ、自由な文章を書けないという問題があるからだ。実際、どういう文章が書けなくなるかということに関しては、ちょっと考えればわかることだと思う。

これは、これで、ライフワークとして取り組むつもりだから、他の人から「ネガティブだ」「暗い」と言われても、書き続けるよ。

しかし、「本当に疲れたな」というのはある。ヘビメタ騒音をやられて、本当に疲れたよ。あの生活は地獄だ。で、いまでも、朝起きたとき、部屋の中を移動しているとき、ドアを開けるとき、道を歩いているとき、自転車に乗っているとき、「あの生活」を思い出してしまうのである。これは、本当につらい。本当にキチガイ兄貴なんて、適当でいい加減で、しつこいよな。

あのキチガイ的なつたわらなさと、キチガイ的な意地はなんだ? 絶対にやめない。絶対にでかい音なのに、でかい音だということを、最後の最後まで、認めなかった。そういうことを、平気でする。まったく気にしてない。兄貴の部屋に遊びにきた兄貴の友達が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」ということを言ったのに、その友だちがいる間も、その友達が帰ったあとも、ずっと、普段通りに、ちょっとだけ来た人が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」と思うようなでかい音で鳴らしていた。一緒に住んでいる人間がこれなのである。横の部屋で、可能な限りでかい音で、可能な限り長い時間、絶対の意地でヘビメタを鳴らすのである。

どれだけ言われても、ぜんぜん気にしない。それが兄貴の態度だったんだ。その時だけではなくて、毎日毎日、そういう態度で、毎時間毎時間鳴らしてた。一日に一分もゆずってくれなかったというのが本当の話だ。しつこくなるのは、俺がどれだけ言っても、キチガイ兄貴がまったく認めなかったからだ。この認めなさがひどいんだよな。人間とは思えない認めなさで、ふつーーーに、ひどいことをやりやがる。しかも、本人は一分もやったことがないつもりなのである。「まったくやってない」と思っているのである。こんなのない。


まあ、ともかく、俺は自分がやりたいことしかしないと誓った。


ネガティブな文書(本)は存在価値がないかというと、存在価値はある。かならず、それを必要としている人たちがいる。たとえネガティブであっても、問題が問題であれば、問題を理解するために、それが必要になる。ぼくは、かつて、岸田秀の本を読んでいるときに救われた。この人は、まあフロイト派の心理学者だ。岸田秀は、みずからが神経症者だと言っている。

で、神経症に関してフロイトの精神分析的な立場からいろいろなことを述べている。岸田秀と彼の母親の関係についてめちゃくちゃにネガティブなことを書いているのである。けど、それが、ものすごく役に立った。「そういうことなのか」と腑に落ちることが多かった。それまでは、きちがい親父の行動を説明することができなかった。岸田秀を読んで、フロイトを読んではじめて、きちがい親父の行動を説明できた。「きちがい親父という不可解な現象」を説明することができた。不可解な現象が説明できる現象になった。それまでは、なんとなくわかっていたのだけど、言語化することができなかったのである。


まあ、いいや。ともかく、ぼくは岸田秀の本によってすくわれたのだ。
たとえ、ネガティブでも、存在意義はある。

価値がわからない人は価値がわからないけど、それはそれでいい。その人の人生なのだから。その人の人生のなかで、あんまりわからないことなのだから。これは、わからないから悪いと言っているのではなくて、要するに、「かかわりがなかった」ことなのである。かかわりがあったひとには、わかる。それだけ。


   *     *     *

やりたいことって八割が金儲け。あとは、女か。

にしても、疲れた。ワクワクできない。
長い間ワクワクしてない。ヘビメタ騒音が始まった一一歳の時からずっと苦しい。
苦しいまま年を取って、最後には、アパートの一室で……。

辻潤って知ってる? 辻潤の作品はいいよ。


   *     *     *

俺はどうすればいいんだろう。
本当にヘビメタ以来、ずっとつかれている。
けっこうさみしい。追い詰められてしまった。
きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境……どれだけなにを言っても、きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境のなかで疲弊してしまった。もう、どうにもなんねぇ。


   *     *     *

金の制限がなければやりたいことはある。ハングライダーで空を飛びたい。あれは、もう、制限されちゃっているのかな。パラグライダーよりもいいんだよな。飛行機の操縦はどうでもいいや。
やっぱり、好きな女と京都あたりに行きたいな。
ヘビメタ騒音でぐたーーーっときていても、気にしない女。俺はすぐぐたーーっとなっちゃうからね。本当に、苦しかった。毎日のヘビメタが苦しかった。何度言っても、一分もやめてくれなかった。なんで俺だけヘビメタ騒音のハンディがあるんだよ? そんなハンディがなければ、楽勝だったのに……。

2016年10月5日水曜日

一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである

日中からだがだるかったので、「俺はもうダメだ」と思いながら横になっていた。横になっていれば楽かというと、楽じゃない。昨日の夜から、けっこう精神的に不安定だったな。鼻を蚊に刺された。まだ、蚊がいやがる。今日なんて、日中三二・五度あったからな。俺の部屋。
けど、まあ、人間はやったことでしか評価されない。「ヘビメタ騒音がなければできた」と言ってもしかたがない。けど、長い間!押し付けられすぎ。半年で終わるべきだったんだよ。完全に、一日に一分も鳴らせない状態になるべきだった。いまとおなじ状態なのだから「できない」わけはないだろ。けど、当時のきちがい兄貴は、そんなの、空想の話しとしてもあり得ないことだと思っていたんだよ。自分が、一分でも本当に静かにさせられそうになったら、顔を真っ赤にして発狂して鳴らしてたんだから。どれだけの意地で鳴らしていたか、本人がわかってないだ。どうしてわからないかというと、一〇〇%自分が思ったとおりにできたから。一分も「本当には」ゆずらないで、鳴らすことができたから。毎日、一分もゆずらないで鳴らすことができたから、「つもりがない」だけなんだよ。あれ、親父とおなじ。親父は親父で、兄貴に文句を言いたくないという、影の気持ちが強くて、絶対の意地で文句を言わなかった。注意をしなかった。これも、「注意されられる」となったら顔を真っ赤にして、「なっちゃったなっちゃっでしかたがないぃぃ!!!」と俺に怒鳴っていたんだよ。怒鳴って、自分の寝床に行ってしまえば、切れているわけで、なにも感じないんだよね。兄貴は兄貴で、無言のままはねのければ、なにも感じないんだよね。言われたことにすらならない。そういう、ギャグみたいな状態が、毎日毎日、同じように成立する。それだけだから!! なんの、種もない。本当はそれだけなんだよ。いまは、鳴らさなくてもいい状態だから、「そんなんじゃない」「そんのな知らなかった」と言って、顔を真っ赤にして、目を三角にして自分の部屋に行けば、それで済んでしまう。だから、そんなの、何千回何万回繰り返したって、ごくごくあたりまえのことを認めない。そういうしくみが、ほんとうーーに、素直に成り立っている。素直というか、あたりまえのように成り立っている。だから、「うち」では、俺に何万回注意されても、その都度、本人がむくれて、おしまいだった。ここで、ぼくが自分の言い分を通して、一分間でも、鳴らさせないで静かにさせようとしたら、殺さなければならない。殺さないと、絶対にやめない状態で、無視して、むきになってエレキギターを弾きながら、ヘビメタを鳴らしているんだよ。で、それを止めようとしたら、本当に、殺さなければ絶対にやめさせることができない状態なんだよ。だから、こだわっているなんてもんじゃなく、こだわっているのだけど、本人は「一〇〇%できるのであれば」……「つもりがなかった」「そんなになっているとは知らなかった」ということになる。だから、きちがい兄貴にとって「つもりがない」と言うことは、相手の言うことはまったく聞かないで、一〇〇%自分の思い通りにしたということだから。……ねじれているようだけど、本当に、まったく意識しない状態でそういう状態が成り立っている。だから、「言うこと」なんて聞かない。どれだけ、家族会議を開いてもおなじ。「お兄さんに言えばわかる」なんて世界じゃないんだよ。親父と兄貴はわかってないけどな。本当に、親父と兄貴のやり方はおなじ。きちがい的な意地でやりきると、やってないということになってしまう。じゃ、自分が本当に、やりたくないカタチで、ゆずらされるとなったら、どういう気持ちになると思っているんだよ。たとえ一分だって、発狂して発狂して発狂して、「絶対にそんなのはいやだ」という意思表示をするだろ。実際に、やめさせられずに、やりきるだろ。絶対の意地でやめないだろ。これがわかってない。一〇〇%、自分の意地を通すと、「やってない」ことになってしまう。このやってないというのは、一〇〇%やってないという意味なんだよ。一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである。だから、本人は「そういうつもりのまま」んだよ。「そういうつもりのまま」実は、でかい音で鳴らし切る。そういう状態なんだよ。こんなの、きちがいでしかないよ。こういう、自分にとって都合がいい状態を成り立たせて、「知らないつもりで」ずっと鳴らす。どれだけ何回注意されても、注意されかなったままのつもりでずっと、こだわりつくして鳴らす。で、そうやって、自分がやりたいだけ鳴らし切ることができれば、その日はまったく鳴らさなかったのとおなじ日なのである。主観としてはまったく鳴らしてないのとおなじなのである。だから、その時から、「そんなつもりじゃなかった」という嘘をつくための用意ができている。で、これは、親父のように不変で、毎日毎日おなじなんだよ。どれだけ毎日もめても、一日に何回も何回ももめても、こういう「きちがい構造」が変わらないまま、知らないつもりのまま、やってないつもりで、頑固に頑固に鳴らす。だから、入試の一週間前に、さんざんもめているのに、……そして、一週間ずっといつものようにでかい音で、すべての時間鳴らしているのに……ぜんぜん俺の入試の邪魔をしているつもりが生じない。で、これも生じないとなったら、親父とおなじで、どれだけ言われてもおなじなんだよ。こういう状態が成り立っているから他の人には、全然わからない。


なんで、ぼくより才能がないやつらの後塵を拝さなければならないのか?

2016年10月2日日曜日

「考え方を変えればすべてが変わる」系の本に書いてあること

さて、どうするかなぁ~~~

寿司屋でも行くかなぁ~~~

はら、へったなぁ~~~

あー、どうしたもんだ。


だるさを数値化すると、60ぐらいか。かなりだるいな。けど、外に出れないほどだるいわけではない。さっきまで寝ていたんだけど、午後1時ぐらいは、だるくて外に出れなかった。


回転寿司は、混んでるかな。日曜日はやばいんだよな。

どうするかな。人それぞれの日曜日なんだろうな。実は、「考え方を変えればすべてが変わる」系の本を読んだ。これ、言っちゃなんだけど、かなり鬱になる。この人たちが言っていることは、みんな同じ。引き寄せ、鏡の法則、思ったことが現実化する。で、この人たちが、「挫折した失敗した、不幸だった」と言っているのだけど、それがみんな普通の挫折、普通の失敗、普通の不幸なんだよな。これ、本当に違う。

仕事をしている状態で自分が空回りして、失敗したとか、そういうレベルなんだよ。大学受験に失敗したことだって、一応、高校まで好きなときに勉強できる状態で失敗したという話で、中学三年間、高校三年間、ずっと毎日、勉強することを邪魔されて、勉強することができなかったというような状態じゃない。「自分が心を開いたら、相手も心をひらいてくれた」とか、全部、健常者の話なんだよ。健常者の家族の話。家族にサイコパスがいるやつはどうだ?

サイコパスの反応なんて、自分の態度が「うつっている」わけじゃないのである。サイコパスはこっちの態度に関係なく、こっちの気持ちに関係なく、サイコパスなんだよ。サイコパス的な常識、サイコパス的な優先順位、サイコパス的な気持ちで、動いている。こういうことが、ぜんぜんわかってない。

たとえば、鏡の法則と言った場合、その鏡の法則は、どんな場合でも成り立つ「普遍法則」なのである。成り立たないのは、相手がサイコパスではなく、自分がこころを開かないから(あるいは、自分のこころが相手に反映している)と考えるわけだからさ。



ふたりとも、女で、旦那がどうだ、彼氏がどうだという話になる。小さい頃からハワイに住みたいなと思っていた。突然、旦那がハワイに転勤を命じられた。(引き寄せだ。思いは現実化した)って話だったり、気分を変えるために、アメリカに行ったら、ものすごく金を持っている彼氏ができて、その人と豪華な暮らしている(引き寄せだ。思いは現実化した)……だからね。日本で残業をして働いていた頃には考えることさえできないような生活をしている……。こういう話は、本当に悩んでいる人には、参考にならない。本当に不幸な人には参考にならない。

本当に最初からレベルが違う。すべてがすべて、「普通の話」なのである。家族が健常者じゃないやつで、こういうことを言っている人は少ない。言っているとしたら、本人が病人である場合だ。

スピリチュアリズムだと、こういうことを言えば、霊界の話が出てくる。そして、要するに「選んだ」という話になる。サイコパス家を選んだのはあなただ。サイコパス家を選んで、あなたはこの世に生まれてきたという話になる。もっとも、はやりの「引き寄せ」「鏡の法則」「思いは現実化する」に関しては、そこまでは、話が進まない場合が多い。普通の失敗、普通の不幸、普通の挫折で話が止まっているから。

たとえば、大学を卒業したあと普通に会社で働いている人が感じる失敗なんだよ。何十年も引きこもっている人が感じる失敗じゃない。「自分も失敗ばっかりだった」「考え方を変える前は、こんなに不幸だった」と言っているけど、それは、普通に働いて普通に家庭生活を送っている上での、不幸、失敗なんだよ。ぜんぜん、わかってない。

まあ、俺は、強烈な幸運の持ち主だから、回転寿司に行っちゃうけどね。


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あるいは無慈悲に、「あなたがサイコパスを引き寄せた」という話になるわけだから。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。