2023年4月30日日曜日

「受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいるけど、あれは、ペテンだ

 「受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいるけど、あれは、ペテンだ。「受け止め方をかえればいい」と言っている人たちだって、「受け止め方をかえよう」とは思わない場面がたくさんある。

たとえば、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこるという反応をする場合が多い。受け止め方をかえればいいのだから、いい話を聞いたと、受け止め方をかえて、よろこべばいいのだ。「勉強になった」と思って、感謝すればいい。ところが、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこる。

たとえば、ある人は、「つま先をタンスにぶつけたときに、頭をぶつけなくてよかった」と思うらしい。つま先をぶつけることよりも、頭をぶつけることのほうが、いやなことなので、つま先をぶつけたときは、頭をぶつけたことと比較して、つま先をぶつけたという『いやなこと』をそんなに『いやなことに』しなくてもすむという、説明をする。

「道路で、ころんだときは、車にひかれなくてよかった」と思うらしい。「ころんだので、ひざがいたい。しかし、それは、車にひかれるいたさとくらべたら、なんでもない」というようなことを、説明する。

けど、この人、ほかのことでは、けっこう軽くおこったりする人なのである。ちょっとでも、自分の考え方を否定されるとおこる。「受け止め方をかえればいい」のだから、おこる必要がない。

この人は学生時代、教師が右をむけ言ったら、左むいて、教師が左をむけと言ったら、右をむくような性格だったらしい。学生時代だからそうなのか?

ちがう。

今でも、あまのじゃくなところがあり、人にさからうようなところがある。

ほかの人から指図されたときには、絶対に、ほかの人の指図にはしたがわず、指図されたこととは、ちょうど逆のことをやるとという性格は、まったくなおってないのである。むしろ、そういう性格が強くなっている。

「この人は、なおす必要性も認めてない」と、ぼくは思う。

人に指図されたとき、かっとなっておこらずに、受け止め方をかえて、指図されたとおりにするということは、この人の場合……ない。この人の言うとおりに、「受け止め方をかえればよい」のであれば、受け止め方をかえて、したがえばよいのである。ところが、本人は、そうしない。

はっきり言ってしまえば、この人が「受け止め方をかえればいい」ということを説明するときの『例』は、選ばれた『例』だ。

この人が、普段からそう考えているわけではないのである。この人が、すべての事柄に関して「受け止め方をかえればいい」と思って行動しているわけではないのだ。

ところが、ひとつ、ふたつの『例』を一般化して話すというくせがある。

ほんとうは、自分だって「受け止め方をかえればいい」と思って行動しないときがある。

むしろ、例外なのである。「受け止め方をかえればいい」と思って行動することのほうが、例外なのである。

普段は、指図されたら……この人が普段感じるように……おこって、指図にしたがわない。思い方をかえればいい……受け止め方をかえればいいと思うような出来事というのは、むしろ、例外的な出来事なのである。

しかし、二項目文のように、法則化して言ってしまう。『法則』であるかのように言ってしまう。権威がある人がそういうことを言った場合、言われたほうは、多数の出来事において、その『法則』を成り立たせようとすることになる。もし、「あの人の言っていることは正しい」「自分も、そういうふうにしよう」と思ったなら、日常的な出来事においても、それを当てはめようとするのである。

けど、言っておくけど、当の本人は、例外的なことをのぞいて、日常的な出来事において、それを当てはめようとは、してない。ほんとうに、意識にのぼったところだけ、そうしているだけ……。そういう関係性が意識にのぼったときだけ、注意して、そうしている。

「そういう関係性が意識にのぼったとき」というのは、どういうときなのかとうと、「そういうふうに思う条件がそろっているとき」なのである。おわかりかな?

指図されて、怒っているときは、そういうときではないのである。条件が成り立ってないときなのである。条件が成り立ってないときのほうが、実際には、多い。本人が、意識してないだけだ。

自分がおこったときこそ、「受け止め方をかえればいい」ということを実行すればよいのだけど、自分がおこったときは、「受け止め方をかえればいい」ということは実行されてない。普通におこる。普通に、おこったときの反応をする。

本人にしてみれば、腹をたてるだけの、理由があるのである。

あるいは、腹をたてるだけの理由があると「当の本人が」思っているのである。受け止め方をかえれば、腹がたたなくなるのに、「受け止め方をかえる」ということを思い出さずに、普通に腹をたてている。

ほんとうは、本人にとって腹をたてるだけの理由があるときこそ、「受け止め方をかえる」べきなのだ。「受け止め方をかえる」必要性がある。けど、実行しない。「受け止め方をかえればいい」と人に言っている人が、実際に「受け止め方をかえる」必要性があるときは、「受け止め方をかえずに」普通におこっている。

だから、「受け止め方をかえる」という方法は、本人によっても、普段は、実行されてないものだ。受け止め方の総体というのは、自我と深く結びついている。

あるいは、自我の基準そのものだ。これは、部分部分にきりきざめるものではないのである。かえるならかえるで、自我の基準をかえなければならないものなのである。

けど、そういうふうには考えないで、部分部分に切り離せるものだと考えて、そういうことを言うのである。もちろん、実際にそういうことが適応されている範囲というのは、非常に、狭い範囲だ。狭い範囲の出来事にしか、意識的にそういうことがで適応されない。

自分はすべてにそういうことを適応していると思っているのは、その人が『うぬぼれ屋』だからだ。

もちろん、これは、きちがい兄貴やきちがい親父の構造とはちがう。昨日、ちょっと、似たような話をしたので、「おなじことを言っているのかな」と思う人がいるかもしれないけど、ちがうことを言っている。

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「そんなのは、受け止め方をかえればいい」というような言い方についてのべてきたわけだけど、いまの日本というのは、やられたほうが、ボコボコにされる状態が成り立っている。かならず、やられたほうが「わかっようなことを」言われることになる。やったほうが、言われるのではなくて、やられたほうが、言われる。説教をされる。やったほうの責任は、だれも問わない。やられたほうが、やられたということに関する責任は、めちゃくちゃに追及される。これが、日本だ。

生まれの格差「上の上の上」がまきちらしていることが、生まれの格差「下の下の下」まで浸透しているのである。 

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もうひとつ、立場についてのべておきたい。「その人」という言い方だと、問題があるので、Aさんという言い方にする。Aさんは、成功した経営者で、自分が主催するセミナーで「受け止め方をかえればいい」ということを言っているとする。教師の言うことを聞かなかったAさんが、どうして、「受け止め方をかえればいい」ということを言えるかというと、自分が自分の会社で、てっぺんだからだ。Aさんに指図する人がいないのである。Aさんがほかの人に指図をするのである。Aさんに説教をする人がいないのである。Aさんがほかの人に説教をするのである。そして、セミナー会場には、Aさんの信者が集まるので、ここでも、Aさんにさからう人はいない。「受け止め方をかえればいい」と言っているけど、Aさんは、頑固なところがあり、実際の生活のなかで、受け止め方をかえることは、ほとんどない……などと指摘する人はいないのだ。立場……。立場……が「ものを言う」。立場がものを言う。Aさんが例として挙げたものは、どっちも、自分ひとりの話だ。道ですっころんだのは、自分。タンスにつま先をぶつけたのも自分。自分が勝手にへまをして、自分がいたいと思っただけだ。人が介在してない。「教師」が「指図」をした話ではない。その話のなかには、「教師」という他者が存在している。自分が指図をされない立場であり、自分が人に指図をする立場なのである。Aさんが経営する会社の会社員も、セミナーに集まっている人も、自分より「立場がした」。うえじゃない。そういうことが条件として成り立っている。ようするに、例として挙がっているものは、自分が失敗した話であり、自分一人で失敗したときの話だ。そういう条件が成り立っている。そして、自分が「指図」されたときに、指図に従いたくない気持ちになり、指図にしたがわないということにも、条件が成り立っている。しかし、「受け止め方をかえればいい」という言い方のなかには、条件が存在しない。あたかも、どんな条件でも「受け止め方をかえればいい」と言っているような状態になる。そして、このことこそ、ぼくが二項目文であつかってきたことなのだ。「受け止め方をかえればいい」というのは、二項目文ではない。しかし、「腹が立ってしかたがないときは、受け止め方をかえればいい」というような言い方にすると二項目文に近くなる。「Xのときは、Yをすればいい(問題が解決する)」という言い方に還元できるからだ。問題なのは、法則性なんてないのに、あたかも、法則性があるような話になっているというところだ。実生活のなかでは「受け止め方をかえればいい」とは言えない問題がある。「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できる問題と、「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できない問題があるのである。ようするに、解決できる問題の条件と、解決的ない問題の条件がちがう。ところが、「どんな条件」でも「受け止め方をかえればいい」のだという意味が成り立ってしまっている。「どんな条件」でもというとは、明記されていないのだけど、明記されないがゆえに、普遍性を帯びてしまうのである。ほんとうは、条件で、いろいろとちがう。


2023年4月29日土曜日

張本人がすっとぼけた発言をする……どれだけ腹がたつか、ほかの人にはわからない。

 『きちがい的な意地で鳴らしている』と言っても『きちがい的な意地』というのがどういう意地なのか、ほかの人にはわからない。こともあろうに、きちがい兄貴もわかってない。きちがい兄貴に、もし、ほんのちょっとでもそれがわかる部分があったら、あんなことになってない。ほかの人に言ってもつたわらないし、「なおさら」きちがい兄貴に言ってもつたわらないのである。もちろん、そういうきちがい兄貴とおなじ型の脳みそをもっている、きちがい親父にもつたわらない。もともと、きちがい兄貴の『きちがい的な意地』というのは、きちがい親父の『きちがい的な意地』を脳みそ的に引き継いだものだと思う。そういう意味で、兄貴は親父のコピーなのである。で、このことは、一家にふたり!!そういう型の脳みそをもっている人がいるということを意味しているのだけど、これがまた、ほかの人にはまったくわからない効果があるのである。こっちは、死にたくなる。きちがいが、毎日毎日、何時間も何時間も……繰り返しになるけど……きちがい的な意地でやっていることを、認めない。当の本人が認めない。当の本人が「まったくやってないつもりでいる」。その「まったくやってないつもりでいる」ところが、きちがいだと言っているわけ。まったくやったつもりがないから、不適切な発言をするのである。きちがい以外の人だったら、どれだけ意地をはってやったとして絶対に言わないことを言ってしまう。それが、殺したいほど腹がたつことなんだよ。そして、死にたくなるほど腹がたつことなんだよ。そういうことを、毎日毎日、がまんして、暮らしているのだからたまったものではない。けど、ほかの人は、そういうきちがいがいるということがわからないので「不適切な発言」というのがわからない。やられたらわかるのだけど、きちがい家族がいるわけではないからわからない。毎日、きちがい的な意地でやっているのに、まったくやってないのとおなじ意識をもっているのである。まったくやってないのとおなじ記憶をもっているのである。だから、ほかの発言も、まったくやってないという前提で、言うのである。そのすっとぼけた発言に、怒りを感じるのである。それは、そうだろ。だって、ずっとこまっていて、ずっとこまっているということを何万回も言っているのに、相手は、まったく知らない状態で話しているんだぞ。きちがい的な意地でやったことを、やってないつもりで話しているんだぞ。「張本人」がしらばっくれている状態なんだぞ。これが、たえられるか?

不適切な発言と、ぼくが言っても、ほかの人にはわからない。どうして、それがそんなに腹がたつ発言なのか、ほかの人にはわからない。これも、きちがい兄貴には、もっとわからないわけだけどな。張本人のきちがい兄貴が、ほかの人よりも、もっとわからない……。これが、意味することがどういうことなのかわかるか? これが、どれだけ屈辱的で腹がたつことかわかるか? わからないと思う。

2023年4月28日金曜日

「その程度のものだ」と、ごく自然に思ってしまう。

 まあ、だれもわかってはくれないけど、怒りがあるんだよね。きちがい兄貴の態度に対する怒りがある。それは、ずっとつみかさなったものだ。つみかさなりすぎている。きちがい兄貴が、きちがいだから、きちがい的な態度でやり続ける。あれ、自分がやっているつもりがないんだよね。これは、きちがい親父もおなじなんだよね。だから、きちがい兄貴ときちがい親父にやられたということになる。これ、脳みその構造だから、かわらない。どれだけ言っても、脳みその構造だから、かわらない。で、一般の人……ヘビメタ騒音が鳴った人……きちがい的な親にたたられなかった人は……影響の大きさと、影響の深さと、影響の不可避性がわからない。『影響をうけない』と決心すれば、影響をうけないことが可能だと思っている。ところが、どれだけ決心をしても、うける。影響をうける。これ、日常だからね。生活しているわけだから、影響をうける。きちがい兄貴ときちがい親父がかかわるところだけ、「学習機能」をオフにするなんてことはできない。学習機能と言ったけど、脳みその機能だ。この、基本的な脳みその機能は、脳みその機能である「意志」によって、勝手にオンオフを切り替えられるようなものではない。もし、勝手にオンオフを切り替えることができるなら、それはそれで、脳みその機能障害がうたがわれる。だから、普通の人は「いい」とか「悪い」ということを判断して、そのあと、恩にしたりオフにしたりすることができるということを、前提にしているのだけど、それは、「なかったから」できると思っているだけだ。ようするに、そういうレベルでしか「考えたことがない」だけだ。「なかったから」というのは、きちがい兄貴ときちがい親父がいるうちに生まれて、そういう人たちの行為と態度の影響をうけることがなかったからという意味だ。なかったこと人たち……一般の人たちにしてみれば、そういうのは、空想の範囲内にしかないことなのである。だから、空想して、こたえる。自分の経験の範囲で考えて、「その程度のものだ」と、ごく自然に思ってしまう。実際の生活とは無関係だ。実際の生活のなかには、そういう人たちがいないので……きちがい兄貴やきちがい親父という人たちがいないので……きちがい兄貴やきちがい親父とおなじような人がいないので……勝手に、影響をうけないことは可能だと思っているだけだ。しかし、一般の人は、自分は影響をうけない能力をもっていると考えてしまう。エイリさんは、影響をうけない能力をもってないから影響をうけるけど、自分は、影響をうけない能力をもっているので、影響をうけないと考えてしまう。能力の差だと思ってしまうのだ。けど、これは、能力の差ではない。家族のなかに、うちのきちがい親父や、うちのきちがい兄貴のような脳みその構造をもった人がいるかどうかの、差だ。だから、能力差ではないのである。まさしく、環境の差だ。条件の差と言ってもいい。環境の差と、条件の差はだいたいおなじ意味で使える。複数の「条件の差」のことを、「環境の差」と言っているだけだから、それで正しい。

自分の人生にしょうじなかったことだから、好き勝手なことを言えるだけ。

えば、走っているようなときの、血の流れと似ている。勝手に、オフにすることができない。どうしたって、十時間たったあとも、影響をうける。それが、十数年も毎日つみかさなったら、どうしたって、からだ自体も脳みそ自体も、影響をうける。うける。基本、なんていうか、人生のなかで、俺とおなじヘビメタ騒音が鳴ってなかった人は、ヘビメタの影響を、オフにできると思っているのだ。それは、その人の人生のなかに、ヘビメタ騒音がないからだ。きちがい家族による、きちがい的なヘビメタ騒音の記憶がないからだ。学習がしょうじてないからだ。記憶がないからだ。実際の記憶、実際の学習、これらが、影響をあたえるのである。今現在に影響をあたえる。しかし、「なかった人」は「なかった人」だから、それが、根本的にわからない。彼らにしてみれば、意思で、自由にオフにできるようなものなのだ。『影響をうけないと思えば、影響をうけない』なんて、言える。この人たちは、きちがいヘビメタの、きちがいヘビメタのなんたるかを知らない。知らないだけなんだよね。きちがい兄貴の、きちがい兄貴のなんたるかを知らない。知らないだけなんだよね。殺さなかった……。それだけで、大手柄だ。それ以外のなにを求めるのか? 自分の人生にしょうじなかったことだから、好き勝手なことを言えるだけ。

 

2023年4月25日火曜日

けっきょく、正常な家族にかこまれて育った人にはわからない

ワクチン後遺症の人が、「ワクチンを打つ前の何も症状もなく、普通にご飯とおやつを食べて、倦怠感もなく仕事もできるからだに戻りたい」と書いているけど、ぼくの場合、ヘビメタ騒音数千日で、普通のからだではなくなった。けど、それが、普通の人にはわからない。ヘビメタ騒音数千日を経験してない人にはわからない。経験してない人は、経験してないから、わからないだけなのだけど、経験してないからだの基準でものを言う。なので、溝がある。ふっかい、ふっかい溝がある。けど、溝があることで、不愉快な思いをするのが、こっちだけなのだ。相手は普通に、働けるからだで動いているわけだから……。そして、「俺だってつらいことはあった」と言いつつも、とりあえず、出勤できるからだをもっている。ヘビメタ騒音で通勤できないからだになったということが、普通の人にはわからない。普通の人は、「ここにこれるなら、通勤できるはずだ」と思ってしまう。ところがちがうのだ。これ、毎日のことと、月に一回のことはちがうのに、おなじだと思っている。毎日というのは、厳密に言えば平日という意味だ。きちがい兄貴が、異常なのだ。正常じゃない。そうなると、正常な家族にかこまれて、生まれ育った人は、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音を人生のなかで経験しないということになる。そりゃ、異常な家族がいなければ、異常な家族がどういう態度でどういうことを、やり続けるかということも、わからない。自分の経験ではないから、わからない。「エイリさんがそう言っているだけだ」ということになってしまう。そうなると、正常な家族にかこまれて育った人が、ぼくを「なめる」ことになるのである。これが、あたまにくる。ほんとうは、だれだって、異常な家族に、あれだけやられれば、通勤できないからだになるのに、そういうことが、その人には発生しなかったので、通勤できないからだになるということがわからないまま生きている。その基準で言えば、その人から見て、ぼくが通勤できると思うので、「エイリさんがあまえたことを言っている」と思ってしまうのだ。これ、きちがい家族にやられた人には、よくおこることなんだよ。異常な家族がやることなんて、正常な家族にかこまれて育った人にはわからない。どうしても、正常な家族の基準でものごとを考えてしまう。そして、実際に、異常な家族にやられて……毎日毎日ずっと、十数年間やられて……被害がしょうじたということがないわけだから……軽い問題としてあつかってしまう。そりゃ、正常な家族同士でも、「軽い」もめごとはある。けど、その軽いもめごとと、一方が異常な家族てある場合の「軽くない」もめごとは、ちがうんだよ。ちがうと、どれだけ、ぼくが言っても、けっきょく、正常な家族にかこまれて育った人にはわからないと思うけど……。

数千日にわたる過酷な生活が、その後のからだに影響をあたえないはずがないのだ。数千日にわたる過酷な生活が、その後の精神に影響をあたえないはずがないのだ。けど、そういう生活をしなかったやつが……そういうことが人生のなかでしょうじなかったやつが……「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とか「じじょにからだをならしていけば、通勤して働けるようになる」とかと言う。こいつらは、バカ。わかってないだけなのに、えらそうに言うバカ。そんなことじゃないからこまっているのに……。そうじゃないということが、経験的に証明されているんだよ。こっちのなかでは、完全に証明されているの!!! こいつらがわかってないだけなんだよ。……こういう溝の芽のようなものは、最初からあった。仕事とか通勤ではないけど、学校生活や通学に関係して、そういうやりとりがしょうじてしまうのである。ぜんぜん、ちがうのに、えらそうなことを言うな。

からだが分解しそうなほど、こまって暮らしていたのに、ひとから……俺が経験していることを経験してない人から……わかったようなことを言われる。そういう状態になる。言われやすい立場に追い込まれる。きちがい兄貴が、きちがいで、きちがい的な意地で、きちがいヘビメタを鳴らしやがるから……。きちがいヘビメタを、あの態度で、連日鳴らされると、どうしても、こまった立場に追い込まれる。だから、必死になって「鳴らすな」「鳴らすな」「こまるから鳴らす」と言っているのに、きちがいだから、まったく気にしないで、鳴らす。きちがい親父とおなじで「言われたら」腹をたてるだけなんだからな。相手がこまっているというとがわからない。根本的にまったくわかってない。何万回言われても、わからない。まったくわからない。そういうきちがい的な頭の持ち主なんだよ!! けど、そういう人間と一緒に住んでない人は、そういう人間がいるということがわかってない。からだで、わかってない。

そして、二項目文を言う。どんな条件だって、その二項目文が成り立つというのだ。二項目文は、条件を無視した言い方だ。これが、腹にこたえるのである。腹立たしいのである。こういう言い方が、さも正しいように、「悪魔の容器」のなかで流通している。共同幻想は、その二項目文を是認している。……こんなのはない。

せ・い・か・つ。生活! 生活!!

  きちがい親父のもたらした、ダニでからだがかゆい。きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、からだがだるい。生まれの格差はある。感情はある。きちがい兄貴が、きちがいヘビメタ騒音がでかいということを無視して、きちがい的な意地で、すべての時間、鳴らす。すべての時間というのは、きちがい兄貴が鳴らせるすべての時間という意味だ。そりゃ、きちがい兄貴だって、家にいない時間はあるので、家にいない時間は、家で鳴らすことができなぃ。けど、家にいて鳴らすことができる時間はすべて鳴らす。そして、まったく悪いと思ってない。自分が鳴らしている音がでかいと思ってない。自分だって、もし、ほかの音がヘビメタ騒音と同じ音のでかさで鳴っていたら、一秒で文句を言うくせに、頭がおかしいから、そこがわからない。ヘビメタ騒音は、どれだけなにを言っても、大きなハンディになる。けど、世間の人……兄貴のきちがいヘビメタ騒音にやられてない人にとっては、そんなことは問題ではない。なので、きちがい兄貴のように、ヘビメタ騒音のことを認めない。ヘビメタ騒音のことというのは、ヘビメタ騒音の影響のことだ。きちがいヘビメタが一日中鳴っている場合の、効果を認めない。俺のからだにあたえる効果を認めない。そんなのは、「あったってない」ことなのである。そういう条件……ヘビメタ騒音という条件を認めない。自分には成り立ってない条件なので、無視しできる。これは、別に能力の差ではない。けど、能力の差だと思ってしまう。これは別に性格の差ではない。けど、性格の差だと思ってしまう。そして、「ヘビメタ騒音のことで文句を言っているのはあまえだ」と思ってしまう。きちがい兄貴が、「無視」をして、ほかの人にはない条件をつくりだすと、ほかの人は、その条件が生まれながらにないので、その条件を無視して、勝手なことを言いだす。きちがいヘビメタ騒音は毎日続いた。毎日成り立っている条件だった。俺には絶対に成り立つ条件なのに、ほかの人にはまったく成り立ってない条件だった。毎日毎日、差ができる。その差というのは、うめようがない。きちがいヘビメタのなかでもがけばもがくほど、差がついてしまう。「せいかつ」……せ・い・か・つ。生活! 生活!!

感情というのは、日常生活を離れて、個別に存在しているものではないのである。きちがいヘビメタがなかった佐藤の条件と、きちがいヘビメタがあった俺の条件はちがうのである。きちがいヘビメタがなかったダイヤの条件と、きちがいヘビメタがあった俺の条件はちがうのである。

2023年4月24日月曜日

生まれの格差を無視して、きれいごとを言うというのが、おかしい

 「道徳」というのが、悪いやつらの「道徳」でしかない。悪いやつらが、きれいごとを言っているだけだ。悪いやつらの、行動というのは、そのきれいごとに合致しない行動だ。毒しか入ってないまるまるを、人のために打てというきれいごととおなじだ。毒だということを知っているのに、人に打てというやつの道徳だ。だいたい、生まれの格差を無視して、きれいごとを言うというのが、おかしい。それは、正しいおこないじゃない。きれいなことじゃない。生まれの格差を無視して、きれいごとを言うということ自体が、悪いおこないだ。人の条件を無視して、きれいごとを言って、本人が、いい気持になりたいだけだ。

カルマ論こそが、『悪の道徳』の理論的な礎だ。いいかげん、気がつけ。


2023年4月23日日曜日

ほんとうに、「おしだされるもの」がある

 ヘビメタ騒音を鳴らされると、ほんとうに、「おしだされるもの」がある。どうしたって、そうなるというものがある。

しかし、ほかの人は、ヘビメタ騒音生活をしているわけではないから、それが、わからない。関連性がないと思ってしまう。そうなると、生きづらくなる。「生きづらさ」を、シンポジウムの議題としてあつかっていた、佐藤(仮名)が、ヘビメタ騒音から発生した「生きずらさ」に関しては、がん無視だよ。そういうレベルの生きづらさじゃない。佐藤(仮名)が感じているレベルの生きづらさじゃないんだよ。

ほかの人がまったくわからない、生きづらさが、不可避的に、必然的に、生じてしまう。何度も言うけど、それは、他人が理解できないことなのである。他人の頭のなかには、入ってないことなのである。

こっちがどれだけ説明しても、ヘビメタ騒音との関連性がわからないことなのである。正確に、イメージが伝わるということがないことなのである。これが、どれだけ、俺の足をひっぱったか?

あれだけやられて、人生がないとなると……人生が台なしになったとなると……音に敏感になる。腹立たしさが、倍増する。きちがい兄貴が無視して鳴らした時間の、ヘビメタ騒音に対する腹立たしさが、いま鳴っている……むかしだったらたいして気にしない騒音に……集中的にむけられるのである。

「自分が我慢してきた」という気持がある。「自分だけ、がまんされられた」という気持がある。

さらに、きちがい兄貴の態度がある。このきちがい兄貴の態度も、ほかの人に、どれだけ説明したってわからない態度なのだ。完全に自分をだましている人間なんて、身近にいるはずがない。

そういう……身近にいるはずがない存在が、ヘビメタをでかい音で鳴らすことにこだわっている確率というのは、相当に低いはずだ。きちがい兄貴の態度自体が、ほかの人には、まったくわからない態度なのである。

そして、ここが肝心なところなのだけど、きちがい兄貴も、まったくわかってない。頑固に、きちがい的な意地で、「そうする」のに、そうしたということもわかってないし、そういう頑固な態度があるということも、わかってないのである。きちがい兄貴にとって、きちがい兄貴というのは、鳴らしてない気ちがい兄貴なのである。

これ、きちがい親父のことまで、話すと話がひろがってしまうのだけど、きちがい親父もそういうところがある。これ、四人家族なのに、ふたりがこういう人間なんて、ぼく以外にありえるのかよ?

障害というのは、ほんとうは、こういう障害だ。これ、本人はまったく気にしてないけど、まわりの「家族だけ」が傷つくのである。その傷つき方は、家族以外の人には絶対にわからないことなのである。

そして、たとえば、きちがい親父はともかく、きちがい兄貴が、ヘビメタを鳴らすことに夢中になって、つねに、鳴らしているとなると、こっちが、障障害になってしまうのである。

しかし、もとはノーマルで……普通の障害者とは、また、ちがうのである。頑固な睡眠障碍だって、障害と言えば障害なのだけど、きちがい騒音の連続が十何年間も続いた人間なんて、めったにいないので、睡眠障害と言っても、また、ちがうタイプの睡眠障害者ばかりなのである。普通の人だって、夜、眠れないということはあると思うけど、それともちがうのである。

ともかく、普通の人から見れば、頑固な、特殊な……睡眠障害じゃなくて、普通の……普通の人が理解できる睡眠障害でしかないわけだから……「かるいもの」だと思えてしまうのである。そして、現に、今目の前にいてあっているなら、「出てこれるんだな」と普通に思ってしまうのである。

けど、それは、まちがった理解のしかたなのである。まちがったことを思い浮かべて、そうだと思っているだけなのである。

まあ、睡眠障害の話は横に置いておこう。ほんとうは、きちがいあと期の頭にこそ、障害があって、普通の人が理解できない態度と普通の人が理解できない認識でずっと鳴らしてしまうのだけど、それが「レア」なことだから、だれも、ぼくの状況を理解できないのである。

たとえば、ぼくから、ヘビメタ騒音で働けないという話を聞いた人は、「少しずつからだを鳴らして働けばいい」ということを、気楽に言うわけ……。

不可能だからこまっているのに、不可能ではないと思っているわけ。

その場合、不可能だということを、ノーマルな生活しかしてない人……ヘビメタ騒音が十四年間つもってない人……が……わかるとというとわからないのだ。

どれだけ言ったって、本当はわからないまま、自分のアイディア(提案)にこだわる。その人のなかでは、ぼくが、できる限り、じゅうぶんに、ヘビメタ騒音障害について説明したとしても、その人が思い浮かべるレベルのヘビメタ騒音障害しか思い浮かべることができない。そうすると、俺を下に見て、侮辱するのである。

自然に、侮辱している。ほんとうは、本人だって、俺とおなじ状態になれば……きちがい家族と一緒に住んでいれば……きちがい家族がきちがい的な特性をいかして、きちがい的な感覚できちがい的にでかい騒音を鳴らせば……おなじような症状が出て、おなじように働けなくなるのに……自分は、だいじょうぶだ……たとえ、やられたとしてもそんなふうにはならない……たとえ、騒音が鳴っていても勉強はできるし、働ける……と思って、そういう前提でものを言ってくるわけだから、屈辱以外のなにものでもない。

ほんとうは、だれだって、あの態度で、あの長い時間、毎日毎日、自分がきらいな音を聞かされ続けたら、七年間ぐらいで、通学も通勤もできなくなるのに、みんながみんな、くそえらそうなことを言う。自分なら、たとえ鳴らされたとしても、通学も通勤もできるという前提で、きちがい的な発言をする。こっちからすれば、むかつく発言をする。あたまにくる。

 

ヘビメタ騒音は「ものすごい」問題なのに、「かるい」問題としてあつかわれる。理由のひとつは、だれも、ぼくのようにはヘビメタ騒音をあびてないということがあると思う。あびてないから、それがどういうことなのか、経験としてわかってない。きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじで、頑固にやったことは、まったくやってないことになってしまうのである。そういう精神的な?脳みその機能障害があるのである。けど、この脳みその機能障害は、非常にマレで、多くの人が、そういう家族にやれてこまっているというわけではないのである。そして、そういう感覚……そういう脳みその機能障害をもっている……兄貴が、夢中になったことが、自分が満足できる音でヘビメタを鳴らし続けるということなのである。こんなの、ない。うち、以外に、ない。ぼく以外に、経験してない。そうなると、よくある、みんなが経験するような影響ではない影響があらわれてしまうのである。だれだって、騒音はいやだ。けど、持続時間とやっている相手がちがう。だから、「騒音」と言っても、ぼくが経験した、きちがい兄貴が根源である騒音と、ほかの人が経験した普通の騒音はちがうのである。だから、効果も影響もちがう。ぼく以外、経験してないのだから、ほかの人にわかるわけがない。ほかの人は、わかってないということもわからずに、適当にわかったつもりになって……俺のことを批判する。下に見る。下に見て、一般的なアドバイスをする。けど、そのアドバイスというのが、言ってみれば、まったく役に立たないアドバイスなのである。いずれにせよ、今世紀の日本では、通勤できないと、めちゃくちゃに、バカにされるのである。無職だとバカにされるし、引きこもりだとバカにされる。

これ、ほんとうは、経験してないから、わからないだけなのに、能力や性格の問題としてとらえてしまうのである。これが、あたまにくる。あたまにくる。

2023年4月21日金曜日

いらだっているけど、他人に攻撃されやすい状態

 帰れば、かならずヘビメタ騒音が鳴っている生活だと、ストレスをため込むことになる。この、ストレスが、なんとなく、攻撃にむかうときがあるんじゃないかと思うわけだ。ともかく、感情的にズタボロで、常に腹がたっている状態なのだから、人間関係はうまくいかない。もちろん、ずっとたてまえは維持してきたけど、なんていうのかな? 常にそういう状態だと……ほころびがあるんだよね。いろいろなところで……。なにを言っているのかわからないと思うけど。そして、いらだっているけど、他人に攻撃されやすい状態になっているわけだ。どうしてかというと、ヘビメタでつかれまくっているからだ。そして、勉強することもできないので、当然、「あたまがいい」というようなおさえがきかない。家で、勉強することができない……勉強したいのに……勉強することができないというのが、また、爆音とともに、すごいストレスなんだよな。やはり、いらだっているわけだから……。だから、まあ、いらだったり、猛烈に鬱になったりするわけだけど、それが……その出所が、ヘビメタ騒音なんだよね。きちがい兄貴の態度なんだよね。きちがい兄貴の態度と言ったらない。だから、なにも気にしないで鳴らしているわけだから、ぼくの感情を、常に、音で踏みにじっている。そういう態度でなければならせない音で、ずっと鳴らしているということは、音で、ぼくの感情を常に荒らして、常に踏みにじっているということだ。やはり、これは、どれだけ我慢しても、ストレスだ。いま考えてみると、「どうしてそういうことになっちゃったのかな」と思うようなことがある。そういうやりとりがある。

「やっちゃいけないことをやっている」わけなんだけど、「やっちゃいけないことをやっている」という感覚がきちがい兄貴にはまったくない。腹だたしいことだ。

「やっちゃいけないことをやっている」と言うけど、ほんとうにやっちゃいけないことなの?と思う人がいるだろう。たいした音で鳴らしているわけじゃないのではないかとぼくの言っていることをうたがっているやつだ。そいつだって、きちがい兄貴みたいな態度で、自分のきらいな音を、あのでかい音!!で聞かされたら、おこるし、そういう生活がずっと続けば、『きちがい兄貴はやっちゃいけないことを、まったく気にしないでやっている』と思うようになる。 うち以外じゃ、ありえない音だ。きちがい兄貴だって、もし、おばあちゃんの家にいそうろうしていたら、鳴らせない音だ。けど、「うちなら」鳴らしていいというスイッチが、入ってしまう。このスイッチは無意識的なスイッチだから、ほんとうに、よその家じゃ鳴らせない音で鳴らしていても、気にしない。鳴らしていい音で鳴らしていると、意識的には、心底思っている状態で鳴らすことになる。そういうところで、きちがい兄貴がきちがい的な感覚をもっているのだけど、それは、ほかの人にはまったくわからない。こういうきちがい的な状態が、どれだけ、腹立たしいものか、わからない。「ほかのうちでは鳴らせない音だ」ということは、「ほかのうちでは鳴ってない音だ」ということだ。ほかの人は、そういう音で、家族の一員が、ずっと、音を鳴らし続けるということを、経験してない。腹がたつに決まっているだろ。そして、きちがい兄貴の態度だけど、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の態度にまったく気がつかない状態で鳴らしているわけだから、こっちは腹立たしくなるだろ。へんなところでスイッチが入っているから、ほかの人が人生のなかでまったく経験しないことを、十数年にわたって、毎日経験したことになる。ほかの人は、まったくわかってない状態で「ヘビメタ騒音なんて関係がない」「過去のことなら関係がない」「鳴り終わったら関係がない」と言う。関係あるよ。そりゃ、自分の人生のなかで、家族が、きちがい的な意地でそうしなかった人の人生のなかでは、それがどういうことなのか、まったくわからないから、影響力もわからない……。鳴っているということが、未来にあたえる影響がまったくわかってない。一日の期間の長さでも、人生という期間の長さでも、わかってない。影響力がわかってない。不可避的な影響が出るということがわかってない。自分もおなじ経験をした人だって、自分のことでなければ、ひとごとだから、基本的にはわからない。けど、きちがい兄貴が無意識に問題があるきちがい的な人間なので、きちがい的な家族がいない人には、きちがい兄貴の態度自体がまったく、わからないということになる。さまざまな障害に対するケアや他者の理解というものがあるけど、きちがい家族にやられた人以外は……この障害がどれだけでかい障害かわからない。きちがい家族と一緒に住んでいるということは、個人固有の障害になってしまう。きちがい的なやり方で……つまり、きちがい的な態度でやられ続けたということが、じつは、個人固有の障害になるわけだけど、個人固有の障害としては、まったく認められない。きちがい家族が、きちがい的な態度で騒音を鳴らし続けたという……こっち側の障害に関しては、まったく理解がない。やられてない人……一般人は、このことに関する理解がない。きちがい兄貴のきちがい的な態度が、こっちの感情的な障害になってしまう。ほかの人は、きちがい兄貴がきちがい兄貴だということを理解しない。「あの態度はない」と言ったって、わからない。やられてなければわからない。いっしょに住んでなければわからない。

*     *     *

 

2023年4月20日木曜日

おいしいものを食べても、ヘビメタ騒音の問題はかわらない

 おいしいものを食べても、ヘビメタ騒音の問題はかわらない。ヘビメタ騒音の被害がかわらない。ヘビメタ騒音の影響がかわらない。「おいしいものを食べれば、気分がおちつく」と言ったやつがいたけど、そんなことじゃ、かわらない。解決しない。ヘビメタ騒音の問題が解決しない。総量というのが影響している。持続時間、持続期間というのが影響している。みんな、本当にわかってないんだよな。どれだけ長い時間だったか。どれだけの影響を不可避的に受けたか。その影響が、ぬけない。からだから、ぬけない。

2023年4月19日水曜日

ほんとうに、きちがいヘビメタでこまったな

 ほんとうに、きちがいヘビメタでこまったな。ほんとうに、きちがいヘビメタで、ほかの人から誤解されて、こまったなぁ。ほんとうに、ちがうのに……。ちがうのに、ほかの人はぜんぜんわからない。勝手に誤解して、誤解をもとに自分の意見を言う。その意見は、基本的にまちがっている。どうしてかというと、誤解がベースにあるからだ。まちがった認識をして、そのうえで、自分の意見を言っているだけなので、意味がない。まちがっている。そして、そういう、まちがった意見を言う人が、「人の意見なんて気にする必要がない」「人がどう思っているかなんて気にする必要がない」と言う。ヘビメタ騒音のことを誤解して、好き勝手なことを言っているのに、よく言うよ。きちがい兄貴のことを誤解して、好きな勝手なことを言っているのに、よく言うよ。あれだけ、きちがいヘビメタにさらされたら……自分がこの世で一番きらいな音に毎日毎日、何時間も何時間も、さらされたら、どうしたって、常識的にはできることができなる。このできなくなるというのが、実際にそういう毎日を経験した人じゃないとわからない。実際にそういう毎日を経験してない人は……普通の他人は……そういう騒音が鳴っていたって……そういう毎日であったとしても、……常識的できることは、できるにちがいがないと思っている。これが、まちがいなのだけど、まちがいだとは思わないだろう。俺がどれだけ、それは、こういう点でちがうということを指摘しても、その人はその人で、自分の意見をかえない。ようするに、「ヘビメタ騒音が鳴っていたとしても、常識的できることは、できるちがいがない」と思ったままだ。そういう前提でものを言ってくる。

たとえば……そういう現実が、ぼくにとってどういう現実か? いやな現実に決まっているだろ。ところが、これまた、そういう現実をつくっている一方の主人公が、「現実逃避は遺憾」というきれいごとを言うのだ。どこまでバカなんだよ。どこまで、いやなやつなんだよ。どこまで、人をなめているんだよ。

自分が正しいと思っている。自分がかっこういいこと、言ったと思っている。自分がきれいごとだけど、正しいことを言ったと思っている。あほらしくて、つきあってられないよ。佐藤(仮名)のような、哲学に興味がある人だって、そういうレベルのだ。哲学に興味がないやつなんてもっとひどい。

哲学的な問題に興味がある人でも、ぼくがここに書いたことがわからない人は、哲学的な才能がないと言っていい。教育学的な問題に興味がある人でも、ぼくがここに書いたことがわからない人は、教育学的な才能がないと言っていい。「哲学だ!」「教育だ!」と言っても、まったくなにもわかってないやつらばかりだ。

2023年4月15日土曜日

いまでも、きちがいヘビメタが鳴り始めた日のことを覚えている

 いまでも、きちがいヘビメタが鳴り始めた日のことを覚えている。全力で、からだが拒否してた。これが続くならおしまいだと思った。そして、きちがい兄貴が「やめない人間だ」ということを知っていた。だから、おかあさんのところに行って、「いま、あいつをとめないとずっと鳴らし続ける」と言った。おかあさんは、おかあさんで「そのうち、あきるでしょ」というようなことを言っていた。そして、注意はしてくれたのだけど、もちろん、きちがい兄貴は、きかなかった。きちがい兄貴の感覚、きちがい兄貴の性格だと、おかあさんに注意されても、自分がやりたいことは、きちがい親父のように現実を無視してやってしまう。こいつら、嘘をついているつもりがない。自分を無意識のレベルでだましている。「普通の音で鳴らしている」と思ったら、どれだけでかい音で鳴らしたって「普通の音で鳴らしている」と思ってしまう。きちがい、無意識、催眠術。自己催眠。自分にとってだけ都合がいい、特別な自己催眠。そういうレベルの「うそ」。

きちがい兄貴が、でかいスピーカーでおモッキリヘビメタを鳴らそうと思ったときから、すべてがかわってしまった。ぼくの人生のすべてがかわってしまった。

「ヘビメタ騒音ともてるかもてないかなんて関係がない」……関係あるんだよ。おおありなんだよ。

「ヘビメタ騒音が鳴っているから、女の子とつきあえないなんてことはない」…… 関係あるんだよ。おおありなんだよ。

きちがいヘビメタなしで、あの子と、普通につきあいたかった。ヘビメタが鳴っていたら、だめなんだよ。ヘビメタが鳴っている日が毎日、つもっていたら、だめなんだよ。関係があるに決まっている。実際、関係があった。ぼくではないから、それがわからないだけだろ……ほかの人は、ぼくじゃないから、それがわかってないだけだろ。真実は、「関係がある」だ。


あの日から、本当にすべてがかわってしまった。きちがい兄貴の気まぐれ? きちがい兄貴の趣味で、ぼくの人生がすべてかわってしまった。ぼくができることと、できないことが、変化してしまった。これ、みんな、わかってない。実際に鳴っていたので、実際に鳴っていた生活の「結果」しかわからない。「働けなくなる」と言っても、「そんなことはない」と言いかえしてくる。これ、わかっているわけじゃないのだ。働けなくなるに決まっている。女の子と、普通に、普通の気持ちで、つきあえるわけがない。ヘビメタ騒音が、あの音のでかさで、ずっとずっと鳴っているのに、そんなことができるわけがない。「できるのに、おまえが、それを選んだ」ということになってしまう。自己責任。自己責任。けど、ほんとうに、鳴っていたら、ちがうんだよ。ちがうの。

もう、すべてがちがう。鳴っている状態が、続くということが、ほかの人にはわかってない。騒音で不愉快な気持になったという経験は、おそらく、だれにでもあるけど、横の部屋にいる家族が、きちがい的な意地で、でかい音で鳴らすという経験はない。何日も何日も、何千日も何千日も、つづいていいわけがない。あたりまえのように、つづていいわけがない。 

きちがい兄貴がやっていいことをやっているつもりでずっと続ける。家族もそれをゆるしている。こんなのはない。きちがい兄貴だってほかの音が鳴っていたら一分間で逆上するような状態だ。「うるさいうるさい」と叫ぶに決まっている。そういう音で鳴らしていた。

どれだけ、体力がある人だって、どれだけ睡眠力がある人だって、働けなくなる

 ヘビメタ騒音の影響というのが、すごいんだよ。きちがい兄貴の態度だと、ものすごいものになる。きちがい兄貴の態度というのは、一切合切、有効な範囲で、ゆずらないし、ゆずらないことについてまったく悪いと思わないという態度だから、問題がしょうじる。これ、普通の人の態度じゃないのである。もし、息子が、こういう態度で、騒音を出していたら、普通の父親だったら、絶対に、うち父親のような反応はしないのである。母親も、世間的な意味では、だいぶずれている母親で、普通の反応じゃないんだよね。こまってはいたのだけど……。ともかく、こういうことだから、普通の人が、誤解をしてしまうのである。そんな音で鳴っていたら、親がどうにかしようとする……そういうふうに……普通の人は……考えてしまう。だから、ぼくが言っていることに「疑問をもつ」わけ。これが、また、俺を追いつめることになるんだよ。誤解がひろがる。誤解に誤解がつけくわわる。三十歳ぐらいのころのことだけど、ぼくがとしよりも、わかく見えるので、そういうのもおかしいと思ってしまう人が多かった。ようするに、「あの人、ほんとうに三十歳なの? なんか、おかしいよ。ヘビメタの話も嘘なんじゃないか」と思う人が多かった。けど、一方では「三十歳なのに、職歴がないというのはおかしい」と思っているわけ。で、だれだって、ぼくとおなじことをされれば、三十歳で職歴がない三十歳になる。これ、本当のことだから。十一歳から二十五歳まで、あれだけ、ヘビメタをやられて、ちゃんと正社員として働ける人なんていない。みんな、実際にやられてないから……働けると思っているんだよな。ほぼ毎日、通勤できると思っている。そんなことはない。けど、ぼくは、経験があるから「そんなことはない」ということがわかっているのだけど、ほかの人は、経験がないわけだから「そんなことはない」と思わないわけだ。これは、親友に関しても言えることだ。いくら親友でも、ぼくと同じ時間の長さ、一倍速で、ヘビメタ騒音を経験したわけじゃないんだよね。「終われば」働けると思っている。けど、終わっても、働けない。十四年過ぎたあとは……というよりも、最初の七年間をすぎたあとは、働けなくなる。どれだけ、体力がある人だって、どれだけ睡眠力がある人だって、働けなくなる。あの騒音生活を、一倍速で十四年間、経験したことがない人だから、「鳴り終わったら関係がない」と思えるだけだ。これ、ぜんぜんちがうのである。なお、以前、十五年間と書いたけど、足掛けで十五年間という意味だ。実際には、十四年間と四か月間ぐらいだ。「ほぼ毎日」と書いたけど、「平日」という意味だ。

ぶんなぐられれば、ぶんなぐられたのだから、影響をうける

ぶんなぐられれば、ぶんなぐられたのだから、影響をうける。さらに、ぶんなぐったのに、ぶんなぐったということを、認めないということになると、ぶんなぐったにもかかわらずぶんなぐったということを認めないということにか相手が忘れて「ぶんなぐってない」と本気で言うのであれば、(やられたほうは)相手が「ぶんなぐってない」と思っているということを認識して、もっと腹がたつ。

きちがい的な家族と一緒に住んでいても『影響をうけないことは可能だ』と言う考え方がまちがっているのである。

「ひとごとだと思って、あたかも、影響をうけないことが可能だというような「いいかた」がはやっているけど、それは、きちがい家族と一緒にすんだことがない人が言っている、理想論だ。現実的ではない、きれいごとだ。きれいごとで、一括して語ると……たとえば、二項目文のようなものをつくると……現実一部が、とりのこされてしまうのである。その現実はきれいごとを言っているほうの現実ではないのであるっ。きれいごとを……いわば……言われているほうの現実だ。きれいごとを言われているほうは、じつは、きちがい家族……ほかの人が理解できないきちがい家族にたたられた……ということで、ハンディが生じているけど、無理解な人たちによって、もっと傷つけられる。無理解ぶりを発揮した言葉を投げかけられて、バカにされる。いま、「傷つけられる」という言葉を使ったときに、「傷つけられる」という言葉はさけるべきかなと思った。どうしてかというと、彼らは「そんなのは被害妄想だ」「悲劇のヒロインになっているだけだ」というような便利な言葉をもっているからである。しかし、無理解ぶりを発揮した言葉を投げかけられて、バカにされることは、事実だ。それで、傷つくかどうかは、別の問題ということにしておこう。


2023年4月14日金曜日

あまりにも、影響が広範囲におよぶので、わからない

 やっぱり、ヘビメタでくるしい。俺の場合、ヘビメタなんだよな。そして、このヘビメタの持つ意味が、だれにもわからない。ヘビメタ騒音生活をしたことがない人にはぜんぜんわからない。だれも、知らない。だれもわからない。誤解をうけてくるしい。中学時代の女友達には、ヘビメタのことを言ってなかったので、いろいろと誤解をうけた。自然に、あっちから見て、ぼくがへんな人に見えるようになっている。日常のヘビメタ騒音というのはそういう騒音だ。これ、きついんだよ。ちなみに、愚痴を言わなかったとしても、誤解をうけて、窮地に立たされた。そもそも、勉強に影響をあたえすぎる。けど、ほかの人はヘビメタ騒音という負の要素がない。わからない。勉強だけじゃなく、生活態度に影響をあたえるのだ。そして、日常の感情に影響をあたえる。そうなると、やはり、かなり長い時間を学校ですごしているのだから、いろいろと誤解をされる。誤解をときたかった。これ、ほんとうに、人にはわからないことなのである。きちがい家族がいて、そのきちがい家族が、鳴らしていることを無視して鳴らし続けるということをする……。でかい音で鳴らしているのにでかい音で鳴らしているということを無視してずっと鳴らす……。そういう家族がいる人じゃないと、わからない。あまりにも、影響が広範囲におよぶので、わからない。普通に考えれば、鳴っているときだけうるさいということになるだろう。鳴り終われば、影響がないと思うだろう。けど、ぜんぜんちがうのだ。もちろん、きちがい兄貴の態度は、この問題に影響をあたえている。けど、きちがい兄貴自体が、普通の態度で「ちゃんと」認識しているわけではないのだ。これ、親父とおなじように、やったってまったくやってないということになっている。きちがい兄貴の認知はそうだ。だから、影響がないということに関しては、きちがい兄貴の認知と、この問題に関係がない人たちの認知が一致してしまう。影響というのは、俺にあたえる影響のことだ。

*     *     *

別に、ほかの人に、愚痴を言わないからよくなるということはない。ほかの人にヘビメタ騒音の愚痴を言わなかったら、ヘビメタ騒音が改善したかというと、そんなことはない。「愚痴を言うから、不幸を呼び寄せる」とか言う人がいるけど、基本的に、順番がわかってない。因果関係がわかってない。どうして、そういうふうに言って、きちがい家族にやられている人を、さらに、窮地に追い込むのだ? これ、本人がどういうことをしているのかわかってないからな。けど、そういうふうに言えば、また、ぼくが、その人たちから見て、めんどうくさい人に見えるわけ。「愚痴を言うと、不幸を呼び寄せるというのはほんとうだ」「ネガティブなことを言うからネガティブなことが発生する」とその人たちは、順序を逆にして、思っている。これは、ぼくに対する侮辱だ。そして、きちがい的な家族にやられた人に対する侮辱だ。 「ネガティブなことを言うからネガティブなことが発生する」……ちがうね。きちがい家族と一緒に暮らしているから、ネガティブなことが発生するのである。きちがい家族は、きちがい的な感覚で、迷惑行為をするのである。これは、わけのわからないことで、怒り狂って、せめるということも含まれている。きちがいの頭がそういうふうにできているから、きちがいがそういうふうに行動するのである。こっちが、ネガティブなことを考えたから、きちがい家族がきちがい行為をするわけじゃない。しかし、きちがい家族が、他になんの理由もなのに、きちがい的な理由で怒り狂ったとする。こっちに対して怒り狂ったとする。それは、こっちにとって、ネガティブな出来事なのである。そして、そういうことが続けは、きちがい家族にかかわると、ネガティブな出来事が発生するという日常的な考え方が発生するのである。この考え方は、現実に即したものであって、妄想じゃない。きちがい家族と一緒に住んでいるとどうしても、きちがい家族の行為が、被害を及ぼすことがある。自分の身に被害を及ぼすことがある。それは、さけられないことだ。けど、これも、アドラーやきちがい家族と一緒にすんだことがない人たちにわからない。影響をうけないぞという、強い気持ちをもてば、影響をうけずにすむというような……あほなことを言うのである。そいつらが影響をうけずにすんだのは、きちがい家族と一緒人でいなかったからである。正常家族といっしょに住んでいたからなのである。

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息をするようにきちがい音波を出し続ける。普通の家では鳴らせないような音のでかさで鳴らし続ける。けど、でかい音で鳴らしているということは、認めない。普通の人である場合は、認めない場合も、感覚器のレベルでは、でかい音だということがわかる。わかっていて、嘘をつく。けど、きちがい兄貴は、感覚器のレベルで、自分にうそをついてしまう。そして、自分の嘘に気がつかない。こういう、特殊な人間なんだよ。これは、ひどい。

けっきょく、すべての時間が汚染されるということになる。これは、不可避的なことだ。不可避的に汚染される。どうしたって、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間だって、ヘビメタ騒音の影響をうける。睡眠や体力消費をとおして、影響をうける。朝、だるいのに動かなければならないというのは、どういうことだろうか? これ、純粋にからだの問題だと思うか? それとも、純粋に心の問題だと思うか? 心の問題というのは、ようするに、感情障害だと思うかどうかだ? 朝、だるいのに、だるくてだるくてたまらないのに、起きて、学校に行くということをしなければならない。これは、憂鬱だろ。憂鬱だから「感情」の問題なのか?

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そして、これがまた、問題なのだけど、「精神科の薬」では、こういう体力の問題を解決できないのだ。これもまた、ワクチンのような問題がある。精神科の薬は、けっきょく、長期的にはレセプターの数を減らす。きちがいヘビメタにやられて弱っている脳みそのほかに、薬にやられて死滅してしまう脳みそ(の部分が)できてしまう。

きちがい兄貴が、一日中鳴らすなら、「普通の音」で鳴らすべきだろう。普通の音を人間の声ぐらいの大きさ、フォークギターぐらいの大きさだとすると、きちがい兄貴のヘビメタは、きちがい兄貴の耳が悪くなるぐらいに、でかいのである。実際に、きちがいヘビメタできちがい兄貴の耳が悪くなったので、きちがい兄貴が耳が正常であるという前提は崩れてしまうのだけど、これも、順番を考えれば、ぼくが言っていることを正しいことがわかる。

かりに、きちがい兄貴が一日中、好きな時間に何時間も鳴らしていいという状態で、ぼくが、精神科の薬を飲んだ場合、ぼくが、ヘビメタ騒音の問題から、解放され、身体がつかれる状態や睡眠がうまくとれない問題や勉強する時間がないという問題や、鳴らされているあいだ、ずっと腹がたつという問題を改善できるだろうか?

ぼくがクリスを飲んで、個人的な解決を求めるよりも、まず、きちがい兄貴がヘビメタを、鳴らさないようにするということがたいせつなのだ。

こういうことを、全部、無視しやがる。きちがい兄貴もきちがい親父も、この部分を無視して、すき勝手なことを言う。きちがいだから言えることしか言わなぃ。そして、その、きちがい的な発言が、これまた、ぼくを傷つけるのである。

きちがいがきちがい行為をまったくかえないで、問題解決をするということはできない。おかしい。気ちがいなら、すきなだけ、きちがいヘビメタを鳴らしていいのか? そんなことがあってたまるか。

けど、きちがい兄貴のなかでは、ごく自然にそうなのである。そして、これがまた問題を拡大するのだけど、きちがい親父のなかでも、ごく自然にそうなのである。きちがい親父のなかでは、きちがい兄貴が、すき勝手にヘビメタを鳴らしていいといいということになっているのである。これは、善悪の問題だ。正義の問題だ。道徳の問題だ。善、正義、道徳が、ふみにじられているのである。毎日毎日、毎時間毎時間、ふみにじられているのである。

他人が不幸をもたらす

 あーあ、現実社会は不愉快なことばかりだな。

他人が不幸をもたらす。いつも、他人が不幸をもたらす。この他人のなかにはもちろん、家族も含まれている。家族が不幸のもとだ。 

2023年4月12日水曜日

きちがい兄貴は、「相手がこまる」ということをまったく想像できない人間なのである

 きちがい兄貴は、「相手がこまる」ということをまったく想像できない人間なのである。自分の願望のほうが、一〇〇万倍ぐらい、大切なのである。

ほんのちょっとでも、自分が「ほんとうに」ゆずるとなったら、いやなのである。

鉄の意志? ダイヤモンドの意志? きちがいの意志で押し切る。何度も言うけど、きちがい親父もおなじだ。きちがい親父が、兄貴がこまることをしたとき、兄貴は怒っていた。

「こういうふうにこまる」ということをどれだけ説明しても、きちがい親父がきちがいの意地で認めないのである。発狂して、きちがい親父がやりたいようにやるのである。

で、本人がやられている場合は、相手がやっていることがひどいことだということがわかるのだけど、本人がやる場合は、相手がどれだけなにを言っても、きちがいの意志で押し切るということになってしまう。おやじとおなじ態度で、おやじとおなじことをする……。

兄貴は、おやじとおなじい態度で、親父とおなじように、やりきる。そして、兄貴は、やりきったあとも、やったつもりがしょうじない。本人がやりきったと同時に、やりきったということを忘れてしまう。

これも、親父とおなじだ。

おやじも、本人がやりきったと同時に、やりきったということを忘れてしまう。なので、「ぜんぜん関係がない人」になってしまう。主語? 親父と兄貴は、やりきったあと、やりきったということを忘れて、そのことと関係がない人になってしまうのである。

本人がきちがい的な意地でやったのに……顔を真っ赤にして怒り狂って、不退転の決意でやったのに、やってないことになってしまうのだ。まったく関係がない人になってしまうのだ。

意識では、まったく関係がない人になってしまう。そういうことが、同時に成り立っているから、つねに「悪気」はないのである。

常に、関係がいない人なのである。自分がやったんじゃないということになっているのである。

そして、「おまえがやった」と言われたら、「おまえがやった」と言われたとたんに、そういう状態になってしまうので、これも、怒り狂い勝ちして、認めないのである。

どんなに明らかなことでも、『自分がやったことじゃない』ということになっているのである。そのきちがい的な認識を、言葉で「こっちがつくがえす」ということができないのである。

だから、ぶっきらぼうに、暴力的に、きちがい的に、つねにつねに、プロセスや結果が「へんなことに」なってしまうのである。これは、やられたほうからすると、「空間がおかしい」と感じられるようなことなのである。これは、やられたほうからすると、猛烈に腹がたつことなのである。

だから、そういうことに関して、「認知上」影響をうけないということがない。ところが、アドラー信者のように、「(相手が)どれだけガミガミ言っても、自分が影響をうけないことは可能だ」というようなことを言うやつが出てくる。影響は、うける。

かりに、どれだけ、意識的にがんばって、影響をうけないようにしても、影響をうける。それから、たとえば、きちがい親父が門の前で、作業をはじめてしまって、門を通れないということがある。普通の人は「言えばいい」と言うけど、「言うと」きちがい的な意地で怒って、通してくれないのである。

けど、これがまた、「通してやらなかった」ということにならないのである。きちがい親父の意識のなかでは、そういう出来事自体が、怒って、勝ったときに、なくなっている。

怒って、絶対の意地で通してやらなかったのだから、通してやらなかったという認識は必要だ。普通なら、必要とかそういう問題ではなく、認知認識システムが正常なら、認識してしまうことだ。

ところが、認知認識システムが異常なので、「通してくれ」と言われたけど「通してやらなかった」というこど認識されないのである。この場合も、「言えば」通してくれると思っている人たちには、想像もできないことなのである。

そして、さらに、「通してやしなかったら、通してやらなかったということをおぼえているはずだ」と思っている人たちには、想像もできないことなのである。

想像もできないことなのか、想像できることなのかは、おいておいて、実際に同じ家に住んでいて、親が門を通してくれないとなると、親のやったことの影響をうける。

アドラー信者は例として、「どれだけ相手がガミガミ言ったとしても、影響をうけないことは可能だ」ということを言うわけだけど、いっしょに住んでいれば、どれだけ影響をうけないようにしようと思っても、影響をうけることがある。

さらに、親であれば、親が判断して(こどもにこどものものを)買ってあげるわけだから、子供側の人間は、そういう親の影響をうける。親がハンダゴテを買ってくれなかったとしたら、ハンダゴテがないわけだから、ハンダゴテがないということの影響をうける。

だれか相手が言ってくることを無視していれば、その人の影響をうけないということではないのである。実際にハンダゴテをもってないということになる、ハンダゴテをもってないということの影響をうける。


うぬぼれ屋

 これで、パチンコでもすれば、じゅうぶん、息抜きになるという性格だったらなぁ。あーー。けど、きちがい親父にたたられなかったら、性格がちがうかもしれないんだよなぁ。きちがい兄貴のヘビメタにたたられなかったら、性格がちがうかもしれないんだよなぁ。人間の性格なんて、出来事によってかわってくる。環境は、あるよ。環境は、正確に影響をあたえるよ。特に、赤ん坊から学生時代が重要だな。アドラーは、赤ん坊から学生時代を無視する。大人になったら、子供時代のこと関係がないと思っている。それは、アドラーにとって都合がいい考え方だから、そう思っているだけだ。この、人それぞれにある「環境」というものを無視して、「努力」さえすれば、だれでも成功できるというようなきちがい思考におちいるやつらは、みんな、『うぬぼれ屋』だ。自分がどれだけ、めぐまれた環境なので育ってきたのかわかってない。「みんな、そんなものだろう」と無意識的に仮定している。そういう、自分勝手なところがある。どんだけ、高い下駄をはいているのかわかってない。高い下駄をはかされていたから、きちがい家族の影響をうけないですんだ……だけなのに、それがまるでわかってないのだ。

2023年4月10日月曜日

この人たちは、「人間の真理」だと思っているのだけど、「人間の真理」じゃないんだよね

 俺はなんとか生きているけど……。ともかく、ぼろっぼろなんだよなぁ。いろいろなことを思い出す。

ともかく、つかれた。

たとえば、不動産屋に行くことを考えると憂鬱な気持になってしまうのである。これは、まあ、いままで経験してきたことを考えると、あたりまえだ。ようするに、「楽しく」できないということだ。引っ越しだって、こっちが普通の状態であれば、楽しいことだ。希望に満ちたワクワクすることだ。けど、経験から言って、もう、そんな状態じゃない。

これに関して、たとえば、「意識的な意志が自分に命令すれば、そのように感じるようになる」と言っている人たちがいるのだけど、この人たちが言っていることは、ぼくには成り立たない。この人たちは、「人間の真理」だと思っているのだけど、「人間の真理」じゃないんだよね。基本的には、この場合も、条件が成り立つ。ぽやぽや、しあわせに生きてきた人なら、意識的な意志であるていど、気持ちを書き換えることができるのだろうけど、そうじゃない人もいる。しあわせに生きてきた人と、ふしあわせに生きてきた人だと、ぜんぜん条件がちがう。「この条件を無視して、勝手なことを言うな」と言いたくなる。基本的に、意識的な意志が自分に命令すれば、そのように感じるようになると言っている人たちは、おぼっちゃん、おじょうさんなんだよ。ぜんぜん、生きてきた環境がちがうわけ……ぼくとは。だから、まだ、正常なやる気を維持できている人が言うことは、まるで、参考にならないわけ。けど、正常なやる気を維持できている人は、「人間の真理だ」と言ってしまうわけ。人間なら、だれでもそうできる……これが正しい考え方だと思っているわけ。だから、そこに、そもそもの誤謬がある。まちがった認識がある。

経験してない人は、あたかも、回避可能だと思っているのである

 なにをやるにしてもめんどうだな。ちょっと考えただけで、なえる。なにもやりたくない。だからぁ……ネズミと、ネズミのダニ、ネズミの糞という問題が生じなかったら、こんなことになってない。きちがい的な意地で、ネズミを入れやがって……。きちがい的な意地で、ネズミ対策工事を拒否しやがって……。その前に、ヘビメタ騒音の影響があるのである。ヘビメタ騒音の影響がベースになっている。

みんな勘違いしているけど、ぼくは、騒音耐性が高いほうで、なおかつ、生活体力があるほうなのである。それが、ヘビメタ騒音と通学生活で、ぼろぼろっになった。騒音耐性が低くなった。騒音全体にしたいして、敏感になった。がまんができない感情になる。ヘビメタ騒音がその時点で七年間続いていなかったら、これまた、そんなことにはなってないんだよ。これも、実際に七年間、毎日毎日、自分の嫌いな音が、ものすごい音で鳴っている生活をしてない人は、『そんなことにはなってないんだよ』と俺が言ったとき『そんなのはわからないよ』とい言うかもしれない。いや、わかるんだよ。わかってないのは、七年間毎日、あのヘビメタ騒音を経験してない君たちのほうだ。 

ほかの騒音であっても、騒音に生活を踏みにじられた経験があると……その時点で七年間、無視されて鳴らされていたとすると……きちがい兄貴に対する怒りや、きちがい騒音に対する怒りが、その「いま、鳴っている」騒音に向かってしまうのである。その騒音をいま鳴らしている人に対して、きちがい兄貴に対する怒りが向かってしまうのである。ため込んだ「騒音をがまんしているときの怒り」が向かってしまうのである。その騒音に対して、きちがい兄貴のヘビメタ騒音に対する怒りが向かってしまうのである。ため込んだ「騒音をがまんしているときの怒り」が向かってしまうのである。つもっているヘビメタ騒音に対する怒りがめちゃくちゃにでかいのである。つもりつもっているきちがい兄貴の態度に対する怒りがめちゃくちゃにでかいのである。騒音が鳴っていると、騒音が鳴っているときだけではなくて、騒音が鳴ってない時間も、いろいろなトラブルが発生してしまうのである。宿題だってなんだってそうだ。体育祭だって体育の授業だってそうだ。これ、その授業中にヘビメタ騒音が鳴っているわけではないのだけど、前日、数時間から十数時間あびたヘビメタの影響が出る。宿題をやる時間にヘビメタが鳴っていて、宿題ができなかった場合は、学校に行って、問題がしょうじるのである。学校にいる間は、ヘビメタ騒音が鳴ってない時間だ。けど、この鳴ってない時間が、鳴っている時間の影響をうけないかというと、うける。絶望的に、うける。これ、不可避なのである。経験してない人は、あたかも、回避可能だと思っているのである。それは、実際に鳴っている生活をしてないからだ。毎日に、何時間も何時間も横の部屋の狂人家族が、きちがい的な音を出している生活を経験してないからだ。

2023年4月9日日曜日

どれだけ必死になって、対応したって、「ぬけ」がある

 たとえば、眠っていて、午前三時に、たたき起こされて、必死になって対応しているような状態なんだよ。ずっとずっと、日中、そういう状態なんだよ。そして、帰れば、きちがいヘビメタ騒音が鳴っている。きちがい兄貴を殺さないと、やめさせることができない。そんな、一生でいいわけがないだろ。みんな、軽く見やがって……。必死になって対応している時間が、ずっと続いて、そのあと、鳴っている時間がずっと続いて、いいわけがない。こっちは、必死になって対応しているんだぞ。けど、どれだけ必死になって、対応したって、「ぬけ」がある。午前三時、本来なら眠っている時間に、たたき起こされて、必死になって対応している時間というのは、パニック状態で、全力で対応しているようなものなんだよ。むりなんだよ。そりゃ、一年に一回ぐらいならそういうことがあっても、全体的には問題はないけど、毎日毎日、ずっとそんな状態が続いて、いいわけがない。必死に対応していたから、生活体力をなくして、睡眠回路をなくして、楽しいと感じる気持ちをなくしたんだよ。

こっちは、ずっと、生きているあいだ地獄だ。

 きちがい兄貴が、犯人なのに、まったく関係がない人として、やり続けやがって……。入試の前じゃなくても、どれだけ、こっちのこころが、いちいち、こわれたか? 毎日毎日、そういうことの連続でいいわけがないだろ。人間のからだを使って生きていたら……生きていたら、いろいろなことがある。あんなの、毎日、何時間も何時間も、聞かされて、眠れるわけがないだろ。鳴り終わったあと、眠れるわけがないだろ。あんな態度で、ずっと鳴らしやがって……こっちは、ずっと、生きているあいだ地獄だ。

「へへっーーん、しらないよーー」という態度で鳴らし続ける。きちがい兄貴が犯人なんだぞ。この、きちがい兄貴が犯人だということが、きちがい兄貴にはまったく通じない。これ、きちがい親父もおなじなんだよな。

 

一秒の出来事も、一秒の感情も、一秒の影響も

 ヘビメタ騒音に関しては、一秒の出来事も、一秒の感情も、一秒の影響も、みんなみんな、みんなには、つたわらない。つみかさなったときの、すごい一秒というのがある。爆発だ。爆発をたえて、たえて、いろいろなものをうしなった。健康も、人生も、友だちも、親友も。

2023年4月8日土曜日

無限体力、無限能力、無限努力……こういった嘘の概念で、現実を、塗りつぶしてしまう

「上・中・下」ということを考えた場合、やはり、明るいことを考えれば、明るいことが発生するという考え方はおかしい。おかしいだけではなくて、「下」の人の条件を、さらに悪くしている。圧力容器の圧力を、さらに高くしてしまっている。

これが、まったくわかってないんだよね。

けど、まあ、そういうことをしたがる人の気持ちもわからないではない。

上の考えというのは、教育制度やアニメ、漫画、ドラマなどを通して、どばーーーっといきわたる。 この考えというのは、基本的に「上」にとってものすごく、ものすごく、都合がいいものだ。現実をかくしてしまうのである。無限体力、無限能力、無限努力……こういった嘘の概念で、現実を、塗りつぶしてしまうのである。その場合、得をするのは、めぐまれている「上」なのだ。

「上」にとって都合がいい考え方を、まさに、「上・中・下」の人が、支持するという状態ができあがる。見せかけの道徳、見せかけのラッキーなのだけど、「上」の人たちは、ものすごい洗脳能力?をもっているので、「中」や「下」の人を洗脳してしまう。

この洗脳は、完ぺきな洗脳で、洗脳されたほうが、洗脳されたということについてまったく、気がつかないタイプの洗脳だ。自分は最初からそう思っていた……と、洗脳された人たちが思っているのだ。

ほんとうは、「上」の考えのコピーなんだけど、「中」や「下」の人は、自分の考えだと思っているのだ。自分で考えて、これがいいと思っている状態……。

「上」の考えのコピーだということに、気がつかない。「上」の考えは、共同幻想になっているので、普通の人にとっては、あたりまえの考えになってしまう。そして、現実的な条件の差を無視してしまう。現実的な条件というのは、無数に成り立っている。

漫画の世界と、現実を、ごっちゃにして、努力論について語りだす

 一日が、一日だけで、ものすごい、状態なんだよ。くるしくて、くるしくて、たまらない状態なんだよ。発狂して、おさえて、発狂しておさえて、ということを、鳴っているあいだずっとずっと、やっている状態なんだよ。夜も眠れない状態になるし、昼も、ものすごくだるい体を必死になって動かしている状態になるし、くるしい。ほかの人には、まったくわからない。「ただ鳴っているあいだ、うるさいだけだろ」「騒音なんて、だれだってある」と思っている。ちがう。片鱗もわかってない。ほんとうに、すべてにおいて不利な状態になる。

*     *     *

マンガのなかでなら、不利な条件の主人公が勝つということがある。それは、マンガの話だからだ。ものすごく不利な条件が、何個も何個も重なったら、その時点で、負けだ。勝ちはない。それなのに、普通の人は、漫画の世界と、現実を、ごっちゃにして、努力論について語りだす。ありもしない、言霊の法則について語りだす。

ヘビメタ騒音のことが、言葉でしかわかってないから、「自分だったら、どんな不利な条件でも勝てる」と思っているだけだ。

「そんなんじゃないんだよ」。

 まあ、とりあえず、いま生きているということを重視するしかないなぁ。「よく生きてきた」。ほんとう、どんだけつらいことの連続か。

これ、みんな、わからないんだよな。きちがい的な家族と一緒にすんだことがない人は、まったく、まったくわからない。きちがい的な家族が、きちがい的な感覚で、ヘビメタを、しつこく、しつこく、鳴らした場合の影響度がわからない。

影響の範囲がわからない。

「鳴り終わったら関係がない」……そんなことであるはずがないだろ。ぼろっぼろだよ。

しかし、たとえば、ヘビメタ騒音で勉強できなかったとすると、当然、そういう学歴になる。

そして、「無職」や「引きこもり」に偏見がある人は、俺のことを、悪い人だと思ってしまう。ダメ人間だと思ってしまう。どうしてかというと、「無職」で「ひきこもり」だからだ(当時)。

そして、自分が働いていれば、自分が、エイリさんよりもずっと高級な人間だと、瞬間的に判断してしまうわけだ。そして、その瞬間的な判断が永続する。その主観的で瞬間的な判断は、その後の、エイリさんの行動やエイリさんの言っていることについての解釈に影響をあたえる。

「自分より下」と見下したら、その偏見がずっと続く。「自分だったら、どれだけ鳴ってたって、影響をうけない」といううぬぼれ。

「そんな音で鳴っているのに、家族が文句を言わないのはおかしいから、エイリさんは嘘を言っている」というまちがった判断。

「エイリさんの説明がへたくそだから、お兄さんがわからなかっただけだ」というきちがい的な思い込み。そういうことが、いっしょくたになって、そいつの頭にうかんでしまう。

きちがい兄貴が、普通の基準を無視して、きちがい的な基準で、きちがい的なこだわりをもって、こだわって、こだわって、こだわって、毎日毎日、普通の家では絶対に鳴らせない音で、ヘビメタを鳴らすとそういうことになってしまう。

だいたい、「ヘビメタが鳴り終わったあと眠れない」ということだって、わからないわけだろ。自分のきらいな音が、あれだけの長さ、ずっと、あれだけの音で鳴っていたら、どれだけ「無視しよう」と思っても、からだが影響をうける。

どうしてかというと、頭のまわりは、俺の「無視しよう」という思いとは関係がなく、きちがいヘビメタの波動・音の波で、みちているからだ。どうしたって、影響をうける。「自分は影響をうけない」「自分だったらそんな音は気にしない」と思うことができるのは、実際にやられなかったからだ。

実際に、君たちの家族は、そういう音のでかさでずっと毎日、こだわって、こだわって、こだわって、こだわって、君たちがきらいな音を鳴らしたのか? ちがうだろ。だったら、ちがうんだよ。

ただ単に、ぼくが経験したヘビメタ騒音に関する、想像力がないだけだろ。君たちのほうに、造像力がないだけだろ。想像力がないから、思い浮かべることができなかった、だけだ。そして、「自分だったら平気だ」「自分だったら、きちがい兄貴をしずかにさせることができる」と勝手に思い込んでいるわけだろ……。

「そんなんじゃないんだよ」。 

*     *     *

 つまーーんない。けっきょく、つまらない。どうしようかな。

完全に破壊されたなぁ。

2023年4月7日金曜日

ほかの人にどれだけ言ってもわからないと思うけど、影響がある。

ヘビメタ騒音の影響か、五Gの影響か、水道水の影響か、よくわからないけど、だるい。しんどい。まあ、ほぼ一〇〇%、ヘビメタ騒音の影響だろうな。これ、ほかの人にどれだけ言ってもわからないと思うけど、影響がある。

そりゃ、俺だって、なかったことにしたい。影響をうけない体で暮らしたい。影響がない体で暮らしたい。けど、影響があるんだよね。俺のからだは俺のからだだから、俺にとっては影響があることだ。だいたい、長期ヘビメタ騒音の影響をうけていた俺のからだは、いま、使っている俺のからだなのである。わかる?

まあ、ネズミのこととか、きちがい親父のこととか、いろいろとあった。それも影響している。

まあ、ともかくだるくて、引っ越しの用意ができない。基本、なんか、破壊された部分があるから、なおらない。たとえば、不動産屋に行くことが、とてつもなく、しんどいことになっている。だから、行けない。なので、話がすすまない。なにをやるにしても、めんどうだ。普通の賃貸、UR賃貸、中古マンション、どれも、めんどうだ。

 ネズミの空気穴をあけてやらなかったのが、気になってる。すでにネズミシートの上で死んでいるのは、別に構わないのだけど、まだ、生きていて、それで、窒息死したというのがいやなんだよな。窒息、させたくなかった。だから、酒糟のついた魚を一日に二十三時間、出しておくのはやめてくれと、毎日、言ったのに、やめてくれなかった。こっちがたのんでないのに、「やってやる、やってやる」と言って、なまゴミを、毎日、物置のところにもっていくのも、やめなかった。これ、なんの意味があるんだ?と言いたくなるようなことなのだけど、きちがい親父がある日、お勝手にある生ごみを、毎日、物置に置いてある生ごみの袋に入れてやると言って、きかなかった。で、俺がたのんだことじゃないんだよ。けど、これも、「お勝手になまゴミの袋がおいてあるのはいやだろ」という考えにとりつかれて、「やってやるやってやる」と言うようになった。これ、俺のためにやってやるという気持があるのだ。俺が、どれだけ「やらなくてもいい」「そんなことは、やらなくてもいい」と言っても、本人が……親父本人がやりたくなったら、やってしまうのだ。で、この、台所に置いておいても、いい、なまゴミを毎日、物置にもっていくというのが、問題行為だった。そのときは、きちがい親父が勝手にやりたくなったことで、こっちは、ぜんぜんありがたくないのだけど、特に問題はないかなと思ってやらせてしまったのだけど、それがまずかったのだ。ようするに、物置にネズミがくるようになった。で、この、物置にネズミがくるようになったのは、親父が、酒糟のついた魚を、ほぼ一日中、テーブルの上に出しっぱなしにするという儀式を行う、まえだ。これも、へんなこだわりがあって、どれだけ言ってもやめないのである。「(酒糟がついた魚がおいてあると)におうだろ」とこっちが言うと、「におわない!!におわない!!」と鼻が正常なら絶対に言わないことを言って、自分の『きちがい的な願望』を押し通そうとする。態度がおなじなんだよ。物置になまごみをもって行ってやると言い出して、なまゴミをもって行くということも、テーブルの上にほぼ一日中、酒糟のついた魚を出しておくことも、おなじなのだ。そして、きちがい兄貴が、ヘビメタをでかい音で鳴らして、でかい音で鳴らしているということを、絶対の意地で、認めないときも、おなじことが成り立っている。頭がおなじなんだよ。

ともかく、こんなに気になるであれば、空気穴をあけてやればよかった。まあ、空気穴をあけてやったことで、ぼくが、病気になった場合は、「あけないほうがよかった」と思うわけなんだけどさ……。

*     *     *


2023年4月5日水曜日

カルマとアルコン

 基本的なことを言うと、ぼくはもっと、ほかの人に、社会に関心をもってもらいたい。基本的にこの社会は「悪魔の容器」なのである。

だから、個人的な努力でどうにかなるものではないのだ。それから、カルマだけど、カルマはない。

このカルマという考え方も悪魔側が用意した、考え方だ。

カルマという考えたを採用していると、生まれの格差・下の人が、前世や前前世でわるいことをしたから、そういうところに生まれたという考え方が自然に生まれる。これが、差別の根源になっている。また、たましいというレベルでは、前世でおかした罪が問題なのだから、自己責任だということになる。

「前世において悪いことをしたから、今世でくるしんでいるのだ……それは、当然だ」という見方が生まれるのである。

これは、ほんとうは、他人に対する軽蔑の始まりで、自己意識を低めるものだ。

波動というような言い方が好きな人用に言っておくと、そのような見方をすると、波動が低くなるのだ。実際に、この考え方をもっていると、人に対してつめたくなるのである。

とくに、こまっている人や、生まれつき不利な立場である人に対する気持ちがつめたくなる。これは、態度にあらわれるし、自分が(そういう人たちを)差別をしてもいいという根拠になる。

そりゃ、今現在、「生まれの格差・下」でくるしんでいる人は、前世でわるいことをしたからくるしんでいるのだという見方が生じれば、「くるしんで当然」なのだから、別に思いやりをもって接する必要がなくなるのである。

「自分は、前世でいいことをしたから、そうなってない」と思えば、自然に優越感が生まれる。差別をしてもいいという気持になるのだ。

しかも、「差別だ」とは思ってないのだ。

こういう状態ができあがってしまう。

「前世」「カルマ」という宗教的な妄想のせいで、そうなってしまうのである。まあ、妄想でも、幻想でも、信仰でもいいよ。けど、態度として「くるしんであたりまえ」という態度が生まれてしまうのは問題がある。

これは、悪魔側が用意した考え方だ。見方だ。しかも、悪魔側ではなくて、神側の考え方として流布しているのである。これは、やっかいだ。自称、精神世界の人……自称、波動の高い人……自称、高次元人……が、みんな、ひっかかってしまう。

ほかにも、生まれの格差に目をむけさせないよう考え方があるのだけど、「カルマ」という考え方は、問題がありすぎる。

じゃあ、どうして、人によって差があるのか?ということについて、語ってみようかな。

ははっ。

妄想には妄想。幻想には幻想。信仰には信仰。

ぼくも、妄想的なことを言うからね。

それは、アルコンがやったことなのだ。アルコンは、物理的な存在ではなくて、精神的な存在だ。このアルコンが、「人が苦しむように」いい人のたましいを、悪い親のもとに届けているのである。アルコンが、どこに生まれ変わるのかを制御している。

なので、カルマはなく、まさに、「苦悩」「絶望」「恨み」をうみだすために、悪い親のもとに送り込んでいる。とくに、善良なたましいが選ばれて、悪い親のもとに送り込まれるのである。魂を悪い親のもとに送り込むのはアルコン。

 支配者階級の人は、ずっとずっとずっと、悪いことをしてきたのである。じゃあ、どうして、支配者階級に生まれることができるのか? これも、アルコンが計画し、実行していることなのである。ようするに、魂の生まれつかさどる「支配者階級」であるアルコンが、人をくるしめるために、悪いことをしてきた魂を支配者階級(の人)に転生させるのである。地上と、霊界?というか……たましい還元世界がおなじ構造になっている。

悪いやつが、支配している。

なので、善良な人が苦しむようにできているのである。善良なたましいが苦しむように、アルコンが、わざわざ、悪い親のもとに善良なたましいを送り込むのである。被・支配者階級(の人)が苦しむように、悪い魂を支配者階級の親のもとに送り込むのである。支配者階級に生まれた人は、前世でいいことをしたから、支配者階級に生まれてきたのではなくて、前世でも同じように、支配者階級(の人)として、被・支配者階級(の人)を苦しめてきたから、支配者階級に生まれかわるのである。

逆。すべてが、逆。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きちがいヘビメタの、あしのひっぱりかた

 きちがいヘビメタの、あしのひっぱりかた、というのが、ひどいんだよな。けど、これ、どれだけ言っても、ほかの人にはわからない。どれだけ、あしをひっぱられるか、わかるわけがない。これ、ほんとうにひどいんだけど、ほかの人には影響の範囲がわからないんだよな。睡眠も含めて、すべてがダメになる。影響の範囲が大きすぎる。どれだけ根性を出してがんばってもだめなんだよな。おぼれてもがいているような状態になってしまう。だから、根性を出してどれだけがんばっても、いいことがまったくないということになる。そりゃ、おぼれてもがいている状態なのだから、そうなる。けど、実際にやられてない人には、そこのところがわからない。狂人が横に住んでいて、普通の家では絶対に鳴らせないようなでかい音で、自分がこの世で一番嫌いな音が鳴っている生活というのが、どういうものなのか、そういう生活をしたことがない人にはわからない。

きちがい兄貴は、「あしをひっぱっている」気持ちなんてないんだよ。これが、ほんのちょっとでもあれば、話がちがうのだけど、まったくない。どれだけ言われても、そんなのは、思い浮かばない。あしをひっぱっているなんてまったく思わない。思わないで、全力で鳴らす。こっちがどれだけこまっていても、一秒もゆずらずに、全力で鳴らし切る。鳴らし続ける。毎日毎日、鳴らし続ける。こっちは、つかれがたまってくる。……この「つかれ」だって、ほかの人にはわからない。だから、ほかの人は、ヘビメタの影響を無視して、俺をなめて、好き勝手なことを言ってくるということになる。ごく自然にそうなる。

*     *     *

運動して鍛えればいいという話だって、毒ガス室のなかで運動して鍛えればいいという話になってしまうんだよ。ヘビメタ騒音が鳴っていると、そういう話になる。けど、運動して鍛えればいいという話をする人は、ヘビメタ騒音が「毒ガスのようなものだ」ということが、経験としてわかってない。どうしたって、過小評価する。影響を過小評価したり、影響をガン無視したりする。その人は、実際にたたられてないから、無視できる。けど、俺は実際にたたられているので、無視できない。そういうちがいがあるんだよ。

 

2023年4月4日火曜日

おたがいさま教について、まだまだ、言っておきたいことがある

おたがいさま教の人は、やったことの強弱をまったく問題にしないのである。たとえば、AさんとBさんがいたとしよう。Aさんが、Bさんに、軽く挨拶をしたのだけど、Aさんが、Bさんの挨拶に気がつかなかった。怒ったBさんが、Aさんを、ナイフでめった刺しにした。こういう場合、AさんとBさんは、おたがいさまなのだろうか? Aさんも、挨拶を返さなかったし、Bさんもナイフでめった刺しにしただけだ。Aさんがやったことと、Bさんがやったことは、つりあっている。だから、おたがいさまだ……こういうふうに考えるのだろうか?

おたがいさま教の人が考えている「人間」というのは、抽象化された人間だということは、すでに指摘した。具体的な二者関係については、まったく考えてないのである。「人間」と言ったら、人間なのである。Aさんも、Bさんも人間なのである。AさんもBさんも人間だから、おたがいさま。

「だれだって、全力ではじめての人生を生きているだけなので、おたがいさま」「だれだって、人に迷惑をかけることがあるのでおたがいさま」……こういうことを言っているとき「だれか」と「だれか」は抽象化された「人間」なのである。

たとえば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがいたとする。のAさんも挨拶をかえさなかったのだから、Bさんに対して話いることをした。CさんとDさんは、あったことがない人間だ。あったことがないだけではなくて、SNSなどでも、まったく知らない人間同士だ。ほんとうに、まったく、CさんとDさんのあいだには関係がなかったのである。

こういう場合、「おたがいさま」だろうか? 「おたがいさま」ですらないのではないだろうか? 関係がないから、おたがいさまと言えるような間関係がしょうじなかった。CさんとDさんは、おたがいさまなのだろうか?

たとえば、BさんがAさんをナイフでめった刺しにしたとする。その結果、Aさんが死んだとする。Cさんは、Aさんの父親だったとする。その場合、AさんとCさんは、「おたがいさま」なのだろうか?

AさんがCさんにあたえた影響と、CさんがAさんにあたえた影響はつりあっているのだろうか?

こういう具体的な二者関係を抜きにして、「人間」なるものについて考えて、「人間はみんなおたがいさま」だと決めつけて、二者関係における行為の質を問わずに、二者関係においても「おたがいさま」だと決めつけてしまうのは、問題がある行為なのではないか?

二者関係における行為の質を問わない理由は、その二者が「人間」だからなのである。「人間」だからおたがいさまなのである。おかしいとは思わないのか?

ろくでもないやつら

俺が、「ヘビメタ騒音『で』通勤通学できなくなった」と言っているのに、「過去は関係がない」と言い出すやつはなんだ? それじゃ、俺が、そいつのことを、なぐってなぐってなぐってなぐって、全身不随になって、動けなくなったら、どうなのか? 動けなくなって、通勤して働けなくなった。そうやって、五年間、ベッドの上で、暮らしていた。……ある日、ぼくが、そいつの枕元に立って「過去は関係がない」と言ったら、そいつは納得するのか? あなただったら、納得するのか?


あるいは、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ったら、納得するのか? 「元気だ元気だ」と言っても元気にならなかったとする。納得するのか? 「動く動く」「自分のからだは動く」と何回も言ったのに、動かなかった経験があったとする。「動く動くと言えば動くようになる」と言われて、納得するのか?  あなただったら、納得するのか?

あるいは、「人間はおたがいさま」「だから、ゆるしましょう」とぼくが言ったら、納得するのか? ぼくが、なぐってなぐってなぐって、動けなくなった。一方的に、ぼくがなぐった。ぼくが一方的になぐって、全身不随になって、動けなくなったのに、ぼくが「人間はおたがいさまだ」と言って、あなたは、納得するのか? あなただったら、納得するのか?
 

「過去にこだわるのはよくない。いまに集中するべきだ」とぼくが言ったら、あなたは、どう思う? 「過去、なぐられて、いま、動けなくなって、こまっているんじゃないか」と思わないのか? 「過去の出来事が原因で、いま、動けない」「だから、いま、こまっているんじゃないか」と思わないのか? あなただったら、「過去にこだわるのはよくない。いまに集中するべきだ」と言われて、納得するのか?

いま、できなくてこまっているんだぞ。いま、動けなくてて、こまっているんだぞ。ほんとうに、納得できるのか? こだわろうが、こだわるまいが、いま、こまっている。動こうとても、動けないのだから、いま、に集中したって動けない。

*     *     *

だいたい、相手が無職だと思って、無職に対して、説教をするなかで「 過去にこだわるのはよくない。いまに集中するべきだ」と言うやつは、説教される相手を、労働市場に送り込みたいだけだ。相手に働いてほしいだけだ。

これは、架空の話だけど……たとえば、あなたが、ぼくに、なぐられて、なぐられて、なぐられて、結果、働けなくなったとしよう。働けなくなったのは、ぼくに、なぐられたからだ。そのとき、ぼくがあらわれて「 過去にこだわるのはよくない。いまに集中するべきだ」と言ったら、どう思うのか?

毒注射であれ、事故であれ、過去の出来事が原因になって、動けなくなった場合、過去にこだわっても、現在にこだわっても、動けないことにはかわりがない。過去にこだわっている場合は、動けないけど、現在にこだわれば、動けるようになるというものではない。動けないのは、動けない状態で、動けない「いま」にこだわりつくしたとしても、かわらない。なにを言っているのか? 過去にこだわっているから、動けない。いま現在にこだわれば動けるようになる……そういうことではないのだから、いま現在にこだわってもしかたがない。まるで、今現在にこだわれば、問題が解決するような前提でものを言うな!

 


それを無視して、わかったようなことを言うな!

 きちがい兄貴の感覚というのが、ほかの人にはわからないから、ぼくが誤解をうけるんだよ。どれだけ、誤解がつみかさなるか? どれだけ、誤解だらけの人生だったか? そして、きちがい親父も、きちがい兄貴とおなじなんだよ。だから、もっと、誤解をうける。これ、ほんとうに、頭がおかしい人と、いっしょにすんだ人じゃないとわからない。だいたい、頭がおかしい人といっしょにすんだわけではない人は、きちがいが鳴らす騒音で、毎日毎日、何年間も、十数年間も、こまり続けるということがない。それなら、そういう毎日だ。俺の毎日は、ちがう。どれだけのハンディになるか? それを……。それを無視して、わかったようなことを言うな! わかったようなことを言うな!!

こいつら、下の立場のやつには、わかったようなことを言うように、しむけられている。こいつらは、たまたま、きちがい家族にやられなかったら、普通の生活ができただけなのに、えらそうに言いやがって。社会人のほとんどが、きちがい家族に、やられなかったやつなのである。普通に勉強することができたやつなのである。普通に毎日、眠ることができたやつなのである。毎日毎日、自分がこの世で、一番嫌いな音を、爆音で、何時間も何時間も、どれだなにを言っても、きかされ続ける生活を、しなかったやつらだ。基準がちがう。「つらい」と言っても、基準がちがう。「朝、つらい」と言っても基準がちがう。「夜、眠れない」と言っても、基準がちがう。理由がちがう。普通のやつらは、「夜、眠れない」と言っても、きちがい家族によって、もたらされた理由で眠れないわけではないから、自分で処理できるんだよ。毎日毎日ずっと、十数年間も続くということがないんだよ。毎日毎日、十数年間も、寝不足が続けば、だるい体になる。つかれやすくなる。ところが、そういうことを経験しなかったやつが「元気だ元気だと言えば元気になる」と言い、「健康管理が出ないのは健康管理ができないやつが悪い」と言う。

 

2023年4月3日月曜日

長期ヘビメタ騒音はそういう障害なんだよ。

 ナスの味噌汁をつくった。しかし、自炊をするとなると、ゴミが出るなぁ。なまゴミーー。なまゴミーー。なまゴミがまた、めんどうなんだよな。

そう言えば、今日は、朝、なまゴミを出せた。よかった。

ほんとう、どうするかな?

からだが、重い。どうやって、この家を建て直すんだ? あるいは、どうやって、引っ越すんだ? あーー。つかれた。からだが重い。

いま、相対的には元気だ。しかし、基本、ぼろっぼろ。なまゴミを出すとき、ものすごく、つかれていて、ものすごく暗い気持ちだった。まあ、あのあと、眠れるからいいけど、あのあと、職場に行くとか、なんらかの学校に行くとか、人に会いに行くとか、病院に行くとか……考えただけでも死にそうになるぐらいに憂鬱なことだな。どれだけ無理をして、「行ってたか」。どれだけ無理をして……。長期ヘビメタ騒音はそういう障害なんだよ。

2023年4月2日日曜日

良心なんてない。良心の呵責なんてない。まったくない。まったくない。

 きちがいヘビメタの一日の量というのが、ほかの人にはわからない。きちがいヘビメタを一分間聞かされてしまった場合の、疲労量というのが、ほかの人にはわからない。だから、勘違い発言をする。とんちんかんなのだ。けど、わからない人には、勘違い発言をしているということがわからない。そりゃ、体験したことがないからだ。自分のこととして、体験したことがない。生活したことがない。彼らにとっては、ぼくが話すヘビメタ騒音が、ヘビメタ騒音のすべてだ。「はなしのなかで」出てくるだけだ。「ヘビメタ騒音」という文字しか、きいてない。実際には、きちがい兄貴が鳴らす、きちがいヘビメタ騒音にさらされてない。そうなると、やはり、ヘビメタ騒音にさらされた生活がどうなるのかわからないのだ。実際に、自分のこととして体験しないとわからない。そして、きちがい兄貴が鳴らす」と書いたけど、きちがい兄貴が鳴らす、ヘビメタは問題がある。もちろん、音の大きさが問題なのだけど、きちがい的な態度が問題なのだ。きちがいが鳴らす騒音だから問題がある。普通のうちには、きちがいがいないからだ。この「態度」というのが、これまた、普通の人にはわからないことなのだ。だから、ぼくが、悪いように言われる。きちがい兄貴が、概念のブラックホールになっているのだ。だから、普通の人が普通に考えると、「お兄さんにちゃんと言えば解決できる問題だ」と考えてしまう。けど、これが、まちがいなのだ。おーーきな、おーーきなまちがいなのだ。しょせん、だれも、きちがい兄貴の騒音を経験してない。きちがい兄貴の態度で、きちがい兄貴が、頑固にしつこくしつこく鳴らす騒音を経験してない。自分のこととして経験してない。そうなると、「僕のからだに起こること」「こっちのからだに起こること」がわからないということになる。しかし、そういう人たちだって、騒音はうるさいと思うわけだし、「つかれ」は体験する。だから、この人たちに、「騒音」と言えば、この人たちが想像する「騒音」を想像してしまう。これ以外に想像できない。けど、ちがうのだ。騒音で眠れなくなって、つらい思いをするのだけど、眠れなくなってつらい思いをするというのは、生きていれば、だれだって、何度かは経験することではないかもしれないけど、経験する人もいる。けど、その人の経験だって、まあ、工事が終われば終わるようなことなのだ。そして、工事には大義名分がある。きちがいが鳴らしたいからやっているというわけではないのだ。これは、気持ちに影響をあたえる。まあ、騒音で眠れなくなるということではなくて、眠れなくなるということは、だれだって経験するだろう。人生のなかで経験したことがある人が多いと思う。その場合の「眠れなくなる」ということだって、ぼくの場合とはちがう。「眠れなくなって、次の日、つかれた」ということを経験した人も、いると思う。けど、ぼくとはちがう。これ、毎日毎日、つみかさなるということが、どれだけ「つかれ」の度合いに影響をあたえるか、わかってない。普通の人は、自分の経験した範囲での「(眠れなくなることによって感じる)つかれ」しか感じてない。きちがいが、頑固に鳴らし続けることのつらさや、それが、次の日の体調に影響を及ぼすということがわかっているつらさというのがわからない。きちがい兄貴のように、毎日毎日、鳴らす、同居している家族がいないからわからない。きちがい兄貴のきちがいセンスがわからない。実際に、きちがい兄貴が横の部屋にいない以上、きちがい的な感覚をもった家族が鳴らし続ける騒音の意味もわからない。「次の日」だめになるということが、経験的にはっきりしているのであれば、「騒音」のなかで、「あせる」だろ。「怒り」が倍増するだろ。実際に、学校やアルバイト先でトラブルが発生している。くるしいだろ。……きちがいだから、どれだけ言っても、まったく通じない。「つうじなさ」がおかしい。まさしく、きちがいだ。あれを、まったく気にしないでがんがん鳴らし続けるなんておかしい。弟がどれだけ文句を言ってきても、まったくなにも気にしない。弟がどれだけ「こまるから、やめてくれ」「勉強をするからやめてくれ」と言ってきても、まったく良心の呵責を感じないで、やりきることができる。これは、良心の呵責を感じている人が、悩んだすえに、「やはり自分の願望のほうがたいせつだ」と思ってやっているわけではないのである。まったく悪いと思ってない。まったく、相手がこまると思ってない。思ってない。思ってない。良心なんてない。良心の呵責なんてない。まったくない。まったくない。これが、きちがい兄貴の態度なのである。これ、普通の人の態度じゃないのだ。この態度は、頭の中でつくられるのである。きちがい的な意地で頑固に頑固にやっていることを、認めない……やっていると思わないなんて、普通の人はできない。やろうと思ってもできない。けど、うちの兄貴は、そういう頭の搭載しているので、そうではないときがないのだ。うちにいる限り、ごく自然に、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、そうする。そうなっている。すでにそうなっているし……「こっちがどれだけ言っても」……そういう感覚が、かわらない。そういう態度が、かわらない。そういう態度をうみだす、脳みそがわからない。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。