2021年10月30日土曜日

恵まれた人が「親切にする」ということを言った場合、恵まれてない人の状況を根本的に無視する

 『人に親切にする』って、たとえば、どういうことなのかということを考えてみる。

たとえば、迷子になって困っている人に道を教えてあげる。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って「落としましたよ」と言って、渡す。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って、警察に届けてあげる。

たとえば、誰かが「それをとって」と言ったから、とって渡してあげる。

たとえば、だれかが「肩がこった」というので、その人の肩をもんであげる。

たとえば、道をゆずってあげる。

たとえば、重いものを持っている高齢者に声をかけて、重いものを持ってあげる。

そういうレベルのことなのではないだろうか。

家族や同僚といった身近な人に、ちょっとした親切をしてあげるということだろう。見ず知らずの、ほんとうにこまっている人に直接、継続的に親切にしてあげるということを、じつは、含んでない。

恵まれたところに生まれて、恵まれた生活をしている人は、自分がどれだけ恵まれているかわかってない。

自分を中心にして考えれば、自分は普通なのだ。

そして、ほんとうにこまっている人に関しては、無視してしまう。ほんとうにこまっている人は、彼らの生活圏のなかに入ってこないのだ。たまたま、道に迷っていた人が、道を聞いてきたので教えてあげると言った場合は、もちろん、道に迷っていた人が、底辺の人で、道を教えてあげた人が恵まれた人である場合がある。

しかし、そういう例外をのぞけは、恵まれた人が底辺の人に親切にすることはない。そもそも、生活圏がちがうので、出あわないのだ。

そして、出会った場合には、「役職」をとおして出会っているので、プライベートな問題に関しては、話し合うということがない。例外を除けば」と書いたけど、その例外の特徴は、「一回きりですむ」ということだ。

継続的にずっと親切にしなくてもよいのである。

一回の親切で、親切にした気持ちになることができる……これが、重要な要素だ。

すでに恵まれた人は、恵まれた人に囲まれているので、トラブルに巻き込まれることが少ないのである。親切にしてあげたことで、トラブルに巻き込まれることが少ない。そして、相手も、恵まれているので、「そこのところはわかっている」という場合が多い。

ようするに、恵まれた人のまわりには恵まれた人がいて、一回きりの親切をした場合、その一回の親切が終わったとき、親切にした人がいい気分になれる(幸福な気分になれると)ということでしかない。

たとえば、お金の貸し借りにしても、底辺だと問題が発生しやすいのである。お金がなくてこまっている人にお金を貸してあげることは、「人に親切にする」ことになるのだろうか? ならないのだろうか?ということを考えたとする。

一般的には、「親切にしたことになる」と思う。

それはそうだろう。おカネがなくてこまっている人は、こまっている人だ。困っている人がまるまるをくれと言った場合、あげるのが、親切にすることだ。困っている人がなにかをくれと言ったにもかかわらず、あげないというのは、親切にしたなかったということになる。

しかし、おカネを貸してくれといってきた人に、おカネを貸したのに、おカネが返ってこなかったという場合を考えてみれば、おカネを貸して親切にしてあげたにもかかわらず、けっきょくは、不愉快な思いをすることになるのである……おカネを貸した人は。お金を返さないのに、何回もおカネを貸してくれという人だっている。この世にはいる。そういう人は、返さずに、何回も何回も、金を貸してくれと言ってくる。何回か金を貸してあげたあと、「金を返してくれなければ、おカネは貸してあげない」と言ったら、その金を貸してくれと言ってくる人が「けち」と言って怒ったとする。

こういうトラブルがあった場合、ほんとうに、おカネを貸してあげたことは、その人に親切にしたことになるのだろうかという問題がある。こういう話を聞けば、「そんなのはていよくぼっったくられているだけ」「そんなのは、利用されているだけ」と思う人がいるかもしれない。

「親切にした」ことでトラブルに巻き込まれることがあるし、「親切にした」ことでトラブルが発生する場合もある。

しかし、恵まれた人は、「親切にすればしあわせになる。これは絶対に正しい」と言ってしまうのである。これは、その人の親切が、まわりにいる恵まれた人に対する(継続的ではない)親切なのでそういうことが言えるのだ。生まれたときから恵まれている人は、まわりにいる人も恵まれている人なので、親切にすることで、トラブルに発展するということを経験することが少ない。

また、恵まれた人にとってみれば「人にあたえることでしあわせになる」ということも、真実なのである。しかし、これも、直接的に与える場合は、身近な人に限られていて、しかも、一回ぽっきりで終わるようなことなのである。

間接的に与える場合は、もちろん、宗教団体や慈善団体に寄付をするということが含まれている。そして、貧しい人にも間接的に与えれば、あたえたことになると言うことができる。

しかし、直接的か間接的かということは、じつは、本質的な問題なのである。あたえるものを持ってない人、あるいは、持っているものが少ない人は、あたえることで、しあわせにはならないのである。しかし、裕福な人は、そういう条件を無視して「あたえれば幸せになる」と言ってしまう。

そして、「金額の問題」や「ものをあたえるということに関する問題」を指摘されれば、無形のものでもよいということを言いだす。つまり、おカネやモノをあげなくても、親切にしてあげるだけで、あたえたことになるというようなことを言いだすのだ。

しかし、親切にしてあげるということには、問題が含まれている。ぼくがずっと言ってきたことなので、省略。

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ようするに、恵まれた人が「人に親切にすれば幸せになれる」と言った場合、ごく限られた範囲では、そういうことも発生しうるということしか言ってない。しあわせになれる」と言っても、そのとき、しあわせを感じたという話にすぎない。不幸な状態でくらしている人は、たとえ、親切にされても、不幸な状態のまま暮らすということになる。どうしてかというと、その親切というものの、中身がちがうからだ。けど、「親切」という言葉を使って、さまざまな具体的な内容を一緒くたにあつかうことで、ある種の、印象操作をしているのである。悪意はないのだろうけど、これは、すでに不幸な生活をしている人にとっては、「だまされた」と思えるような話なのである。で、その主観は、正しい。

恵まれた人は、恵まれない人に、継続的に、直接的に、親切にし続けることがない。これは、決まっている。かならず、寄付などの間接的な方法になるし、たとえ、ランダムに親切にしたとしたとしても一回きりの関係になる。寄付の場合は、末端に届かないという問題と、社会全体の貧富の差を改善するものではないという問題がある。これは、一種の免罪符だ。そして、「うら」がある。手放しに、喜べるものではない。貧富の差を「より固定するもの」として機能してしまうのである。

さまざまなトリックが仕掛けられているので、恵まれた人が「人に親切にすればしあわせになれる」と言った場合の問題点が、わからないようになっている。

ものすごいことになるぞ。

  ものすごいことになるぞ。

ものすごいことが起こる。

それは、いいことだ。

(これは、ヘビメタ騒音とは関係がありません)

2021年10月29日金曜日

そういうふうに、複合的に、俺の人間関係を破壊していくのである。

 昨日は、カスミストアまで行った。Big-Aには行かなかった。

しかし、ぼくがつらい。精神的にも肉体的にもつらい。

もう、これはないなぁ。

けど、ビオフェルミンだけ買いに行こうかな。


もう、たましいの不滅を信じるしかないな。

こんな状態で暮らしていて、楽しいわけがない。

おいつめられた。ほんとうにいろいろな出来事があった。

マイナスの出来事が多い。きちがい親父ときちがい兄貴という重荷。あいつらが、きちがいてな意地で、きちがい的なことをすると、めちゃくちゃに不愉快な気持になる。実害がしょうじる。実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持→実害→不愉快な気持と、悪のサイクルが大きくなる。負荷がでかい。処理しきれなかった負荷が、次の日に、襲い掛かる。そうなると、今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事→今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事今日処理しきれなかった負荷→今日処理しきれなかった負荷がもたらす次の日のやっかいな出来事というように、処理できなかった負荷がたまっていく。やっかいな出来事がたまっていく。

きちがい兄貴は、きちがいヘビメタ騒音をやめないし、きちがい親父は(きちがい親父の悪い性格が治ってしまうわけではないので)ヘビメタ騒音ではない個別のきちがい行為をやめない……という状態のまま、1日が終わり、それが毎日繰り返される。まあ、ヘビメタ騒音がはじまってからは、きちがい親父のことは、けっこう後方に退くのだけど、それでも、きちがい親父のきちがい精神回路が、ヘビメタ騒音の持続に影響を与えるのだ。そうなると、たとえば、「そんな音で鳴っているのに親がなにも言わないはずがない。エイリさんが大げさに言っているだけだ(エイリさんが嘘を言っているだけだ)」というような思考をしてしまうやつが、好き勝手なことを言うというようなことが発生する。そうなると、ぼくが不愉快な思いをする。こういうことを言うやつに、どれだけ、兄貴のことや親父のことを説明してもむだなのだ。そいつは、自分の考えをかえない。そいつのなかでは、ぼくが、特別に騒音に弱いやつで、そうじゃなくても、嘘を言うやつだということになってしまったままになる。そうなると、そういうふうに言うやつが、ほんとうはいいやつだったとしても、つきあう気持ちがなくなる。もし、きちがい兄貴がきちがい兄貴でなく、きちがいヘビメタにこだわってこだわってきちがいヘビメタを鳴らさなければ、こういう人だって、仲良くやれたかもしれないのだ。そういうふうに、複合的に、俺の人間関係を破壊していくのである。


ヘビメタ騒音でつらかった。ほんのちょっとでもいいから、しあわせに暮らしたかった。

 ヘビメタ騒音でつらかった。ほんのちょっとでもいいから、しあわせに暮らしたかった。

ほんとうに、つらい。ヘビメタ騒音が鳴っていた。この、朝の光のなかで、鳴っていた。ほかの人にはどうでもいいことだけど、どうしたって、つらくなる。どうしたって憂鬱になる。ヘビメタ騒音で攻撃されたあと、眠れないんだよ。その眠れないというのも、ほかの人にはわからない状態だと思う。ただ単に眠れないだけではなくて、ほんとうに、頭と体がへんな感じになって、つらい。くるしいときに、くるしいと思うだろ。それと同じなんだよ。「つらくない」と言えばつらくないとか、「つらくない」と思えばつらくないとか、どれだけ、人の状態を無視した助言か。こんなものに……。こういうレベルの発言をするやつに、ばかにされる存在になってしまうだろ。いや、もう、こういうレベルの発言を俺にしている時点で、そいつは、俺のことをばかにしている。見下している。彼らとぼくのちがいと言えば、ヘビメタ騒音の有無だ。きちがいう兄貴の有無だ。きちがい親父の有無だ。条件がちがう。俺、きちがいヘビメタ騒音・あり、きちがい兄貴・あり、きちがい親父・あり、だ。そいつらは、きちがいヘビメタ騒音、なし、きちがい兄貴・なし、きちがい親父・なし、だ。条件がちがう。しかし、条件を無視して、自分は自分の感情の制御ができる。あるいは、自分はつらい状態に「より」たえられる。そういう能力があるという、いつわりの自信を持ってしまう。見下しているだろ。俺「より」も自分(へんな助言をする人)のほうが、能力があると思っているから、思いあがった助言ができる。

自分は、そういうことがあっても、こういう方法で「いきいきと」生きていけると思っている。自分は、そういうことがあっても、こういう方法で問題を克服できると思っている。思っている間もなく思っている。

ヘビメタ騒音がない世界で暮らしたかった。

あの子となかよく暮らしたかったな。ヘビメタが鳴っているとそうもうことも、かなわなくなってしまう。どれだけひきつった生活をしているか。どれだけのことがヘビメタ騒音でじゃまされているか。これ、やられてない人はわからないと思うけど、前の日のヘビメタ騒音が次の日に影響を与える。「やられた」からだで、生きていかなければならなる。影響を受けている。次の日のすべての時間、影響を受けている。その体力でやらなければならないからだ。寝不足と、前の日のヘビメタ騒音つかれが残っている状態で、生きていかなければならないからだ。これは、その日のすべての出来事に影響をあたえる。これは、イ・ラショナルな思考じゃない。けど、やつらは、「影響がないものとして」きりわけて、イ・ラショナルだとしてしまうのだ。これも、傲慢。やられてないから、やられてないからだで「自分は」すごすことができたというだけの話だ。けど、これも、「精神力」とか「能力」のちがいだと思ってしまう。



2021年10月27日水曜日

なんとなくの、正しさ

 なんとなくの、正しさ……と、実行してもしあわせにならない人がいるということの乖離について、ずっと述べてきたのである。それは、実行してもしあわせにならない人が悪いのではなくて、理論が最初からおかしい。理論が最初から、自分を中心とした理論なのだ。


もともと、しあわせな人がいるとする。その人は、人生の最初から、ずっと恵まれている人だ。この人と、人生の最初からずっと、恵まれてない人の差はでかい。人生の最初から、ずっと恵まれている人は、基本的に、しあわせな生活をしている。……トートロジーになってしまったけど、ともかく、長い間、しあわせな生活をしている。すでに幸せな生活をしているところで、たまたま、人に親切にしたら、しあわせを感じたということなのだ。これが、「人に親切にすると、しあわせになる」という理論を裏付ける根本的な体験だ。すでに、しあわせに暮らしている人が、親切にしたら、より、しあわせを感じた……こういうことだ。すでに不幸な人は、人に親切にしても、しあわせを感じる力が弱くなっている。あるいは、人に親切にしたことで、トラブルに巻き込まれて、いやな思いをする。すでに不幸な人は、生まれたときからずっと、不幸な生活をしているのだ。苦難の連続なのである。

しかし、「苦難」という言葉で、抽象化されると、すでに幸福な人も、「自分だって、苦難の連続だった」「自分だって、苦難を経験した」と言ってしまえるところが出てくる。しかし、生まれたときから幸福な人が経験した「苦難」と、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」はちがう。ぜんぜんちがう。しかし、生まれたときから幸福な人は、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」を経験することができないので、経験をとおして、知ることがない。経験をとおして知ることができない。不幸な人の話を聞いて、話として理解しているだけだ。「そんなこともあるのかな」ぐらいの理解度だ。ほんとうの部分は理解してないし、経験がないので、そのときの「感情」がわからない。そのときの感情というのは、具体的な不幸な経験をしているときの感情だ。これは、時間を含んだ経験だ。あんがい、時間の長さというのが、影響を与えているように思える。それは、度合(強度)や回数(頻度)が、基本的な感じ方に影響を与えるように、時間も影響を与えるのだろう。回数が増えれば、基本的には時間がなかなくなる。けど、回数には還元できない時間の長さも重要だと思える。基本的な感じ方というのは、ようするに、たとえば、「自分は不幸だ」とか「自分は幸福だ」という感じ方のことだ。


問題なのは、もともとしあわせに暮らしている人が「まるまるをしたら、幸福を感じたので」〇〇をすると幸福になると言ってしまうことだ。幸福を感じるということと、幸福な生活をするというのは、ちがう。しかし、ずっと、幸福な生活をしている人は、その幸福な生活のなかで、「幸福感を感じること」を経験してしまうと、その幸福なことをすれば、「だれでも」しあわせになると、まちがった推論をしてしまう。


ずっと、不幸な生活をしている人が、おなじことをしても、それ以降幸福に暮らせるわけではない。多数派の理論で書いたけど、多数派が快をえられることに関しては、多数派に理解されやすい。つまり、その行為をやったとき、しあわせ感は、あるのだ。たしょうの快を感じる。満足感を得る。その満足感が、どの程度持続するのかは、状況によってちがう。しかし、ほかのこともあるので、不快な感情を呼び起こす出来事が発生すると、そこで、とりあえず、満足感が消失してしまうのである。すでに、しあわせな状態でくらしている人は、満足感を消失してしまう出来事が少ないし、満足感を消失してしまっても、別のことでしあわせを感じることができるので、全体としては、満足感がある生活が持続しているのである。別のことでしあわせを感じるというのは、良好な家族関係などから生じる出来事によって、満足感が充当されるということだ。この満足感は、たとえば、ラーメンを食べたときに感じる満足感や、人に(たまたま)親切にしたときに感じる満足感とはちがう満足感だ。これは、満足感自体に違いがあるということを言っているのではなくて、ちがう出来事(単体によって)引き起こされる満足感だから、ちがう満足感として考えようと言っているのである。ようするに、Xとして、とりあげられたことではなくて、別のことで、満足感を感じ続けているので、全体の生活として「しあわせだ」と感じることができるのである。それは、生まれたときから恵まれた環境で育ってきたからこそ、できあがる状態だ。しあわせな生活と、単体のしあわせ感はちがうということに、気がついてない。単体のしあわせ感は、短ければ3分ぐらい、長くても二日ぐらいで消えてしまう。しあわせな生活をするには、満足感をもたらす出来事が、ある程度、連続的に発生しなければならないのである。そして、ここが肝要なところなのだけど、不快をもたらす出来事が連続的に発生してない状態でなければならないのである。たとえ、一回、ラーメンを食べてしあわせ感を得たにしろ(満足感を得たしろ)それをうわまわる不愉快な出来事が、何回も何回も連続して発生する生活をしている場合、「幸せな生活をしている」という気持ちにはなれない。








しかし、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということと「ラーメンを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということは、基本的な差がない。さらに言えば「親切にすれば、だれだって、しあせになる」ということと「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」いうことには、基本的な差がない。


(以下省略)

2021年10月26日火曜日

ヘビメタ騒音でくるしい。 どこまで行ってもおなじだ。昼も夜もおなじだ。

 ヘビメタ騒音でくるしい。

どこまで行ってもおなじだ。昼も夜もおなじだ。

ヘビメタ騒音でくるしい。

おなじだ。ヘビメタ騒音でくるしい。

あのときも、このときも、いまも、ヘビメタ騒音でくるしい。

他人?

他人にわかるわけがない。どれだけ親しい人だってわからない。

そりゃ、つらいんだろうなということはわかるかもしれないけど、別の個体だから、わからない。ぼく以外の人は、わからないところで、ぼくにものを言う。すべての基準がちがってしまったんだよ。ヘビメタ騒音生活がどれだけくるしいか。その積み重ねが、どれだけ、ぼくの人生を破壊してしまったか。

破壊してしまったか、ぼく以外の人にはわからない。

2021年10月25日月曜日

ほんとうに睡眠回路が破壊されていると、こういうところでめちゃくちゃになるんだよ。

  風呂に入ったけど、やっぱり、どれだけ気をつけても、足をダニに刺されてしまう。足首のところを負傷した。あとは、普段見ないようにしているのだけど、裸になるとわかる傷がある。ねむのところをだいぶひっかいたみたいで、ひっかき傷がある。地味にこたえるなぁ。手首のところは相変わらず、10箇所ぐらい、残っているなぁ。


で、部屋に帰ってきて、かゆい思いをしながら、これを書いている。基本的には、なんとかして、風呂場のダニを退治しなければと思っているのだけど、あんまり、決め手はない。あとは、きちがい親父の部屋をどうにかしないと、居間と西の間の畳をかえたとしても、どのみち、親父の部屋にあるものを運ぶときに、ネズミの糞がぽろぽろとおちるので、また、振出しに戻ってしまう。(親父の部屋にあるものは半分ぐらいこのあいだ持って行ってもらったけど、タンスが三つ残っているし、ベッドやその他のものがある)


風呂には、電池式のアース蚊取り器を置くことにして、いま注文をしたけど、風呂には通気口があるので、これを置いても、片づくような感じがしない。あとは、煙を出す普通の蚊取り器をセットして、自分は外に出るという方法があるのだけど、火を使うので、さすがに抵抗がある。


自分が二階にいる状態でやると、煙が見えない状態でもガスがきて、のどや鼻の奥がおかしくなるので、いやだ。


やはり、借りるしかないのだけど、なんていうのか、手短に言えば、転院の繰り返しで、エネルギーがなくなった。病院1から病院2に転院するとき、病院1の退院手続きをして、病院2の入院手続きをしなければならない。逆の場合は、逆。これを、何回も繰り返した。もともと、ヘビメタ騒音で、睡眠回路が破壊されているので、48時間ぐらい眠れなくなる二日間、三日間が、何回もあったのでくるしかった。いちおう、48時間ぐらい眠れなくなる状態を一セットとして、回数でかぞえることにする。そうしないと、何日もあってというところで、誤解を招くんだよな。ほんとうに睡眠回路が破壊されていると、こういうところでめちゃくちゃになるんだよ。


で、ともかく、転院の繰り返しと、親父の老人ホームを探すのでくたびれた。ネズミ系の話をするかどうかでまようんだよ。きちがい親父が、熱心にネズミを餌付けして、ネズミの侵入を受ける日々が続いた。ネズミ対策工事に反対して、何年間もネズミの侵入を受けたので、たいへんなことになっている。で、今日、起きてから一番目にやったことというのが、西の間のげろにアルコール消毒液をがんがん掛けるということだった。このげろというのは、たぶん、ネズミのげろだ。で、これは、ずっと気がつかなかった。これも、いろいろとあるのだけど、このあいだ粗大ごみ処理をするまで、そのエリアになにがあるのかわからなかったから、粗大ごみ処理をしたときに、業者の人が、それを見て「これは?」と訊いてきたわけ。で、ぼくは「わかりません」と答えたわけ。ほんとうにわからないから。で、業者の人によると、「これは、ものすごくあぶない」ということだった。ようするに、こういうのを放っておくと、病気になるのだ。けど、掃除をすると言っても、俺が掃除をすることになるわけだよ。いやだよ。そんな掃除……。掃除中に、ダニに刺される可能性はとても大きいし、掃除中に、そのげろから出ているばい菌で病気になる場合がある。「だから!!」言ったんだよ。「だから!!」言ったの。きちがい親氏が、頑固に無視をする。


そんなことを言えるのは、ヘビメタ騒音を経験してないやつだ

 楽しくない。こんな生活、楽しくない。楽しくない。




じゃあ、楽しくすればいいじゃない……。


そんなことを言えるのは、ヘビメタ騒音を経験してないやつだ。楽しめない。


けど、いっしょにいる人が「楽しくない」「つまらない」と言っていると、いっしょにいて、おもしろくないという気持ちになるというのは、わかる。わかる。むかし、ぼくを元気づけてあげようとした人が何人かいて、その人たちといるときも、じつは、おもしろくなかった。ヘビメタ騒音で、不安で、不安で、不愉快で不愉快で、腹が立って腹が立って……おもしろくない。おもしろくなかった。

2021年10月23日土曜日

なにが、ヘビメタ騒音だって言ったやつ



なにが、ヘビメタ騒音だって言ったやつ、でこパッチンしてやりたい。ほんとうに頭にくる。いま、午後10時25分か。午後10時25分も、毎日、鳴っていた。何十回、きちがい兄貴の横で、「やめろ」「やめろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」「しずかにしろ」と怒鳴っても、一分も、しずかにしてくれなかった。きちがい兄貴がきちがいおやじとおなじ態度で、勝手にやりやがる。殺さなければやめさせることができない状態を、つきつける。こんなの、ない。きちがい家族による、きちがい的な騒音でこまったことがないやつが「なにが、ヘビメタ騒音だって」言いやがった。まるまるまるまるしてやりたくなる。「なにが、ヘビメタ騒音だ」って言ったやつは、中学のときのクラスメイトで、本人が、ヘビメタ好きで、がんがん鳴らすやつなんだよ。もっとも、俺はそいつと一緒に住んでいたわけじゃないから、そいつがどれだけヘビメタを鳴らしても、かまわないけどな……。きちがい兄貴の意地というのが、ほかの人にはわからないし、感覚器をだまして、普通の音のつもりで、やってしまうというのが、ほんとうに、頭の病気なんだよ。普通の人が、ほんとうに鳴らしている音のでかさで聞こえているけど、それは、認めないで、「普通の音で鳴らしている」と言い張っている状態じゃないのだ。その場合は、感覚器が正常だから、自分がどのくらいの音で鳴らして言か知っている。きちがい兄貴の場合は、自分のやりたい気持ちにあわせて、「普通の音」と思う音のでかさが、かわってしまう。それを、意識的にやっているのではないという問題がある。それは、きちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことなのである。ほんとうはひどいことをやっているのに、ひどいことをやっているという気持ちが生じない。やっているつもりがないまま、ずっとやり続けることができる。こんなの、でかい音で鳴らしたいきちがい兄貴にとってだけ、都合がいいことだ。そして、そのしわ寄せは、全部こっちにきてしまうのである。だから、きちがい兄貴本人は、どれだけ「迷惑をかけても」迷惑をかけたつもりがまったくないという状態でくらすことができる。これが、兄貴のやったことなのである。で、それは、うちのばあい、兄貴だけがやったことじゃなくて、親父もやっている。どっちも、生きているあいだ、こういうところが、なおらない。言えば、注意してくれるところじゃないのである。言えば、なおしてくれるところじゃないのである。シニモノグルイ。ホネガラミ。きちがいの無意識。きちがいのきちがい的な意地。きちがいのきちがい的な無視。本人が無視してしまえば、どれだけいじになってやってたって、まったくやってないことになってしまうのである。……意識的には……。そういうことが、続く、10年間。20年間でいいわけがないだろ。そりゃ、きちがい兄貴が、以後に興味を持って、ヘビメタを思いっきり鳴らすことには興味を持たなければ、別だけだ。で、これが、ほかの人にはわからないことなのである。ほかの人にはわからない。ほか人はほかの人で、「そんなのはかんけいがない」「そんなのはどうでもいい」と思っている。けど、俺には、ヘビメタ騒音を鳴らされたときにできあがった、くやしい気持ちがある。疲労がある。崩壊的な気持がある。

2021年10月22日金曜日

しかし、ほんとうに生まれの格差がでかいな …… 幸福論と生まれの格差について

 しかし、ほんとうに生まれの格差がでかいな。生まれの格差が与える影響がでかすぎる。能力や努力の差じゃないのである。あるいは、努力してこう感じるようにすることができるかどうかの差じゃないのである。積み上げられてきたことがちがう。実際に、積み上げられてきた経験……。実際に積み上げられてきた経験のほうが「こういうふうに感じるようにしましょう」というようなきれいごとよりも、深く深く、「実際の感じ方」に影響を与える。すっとぼけた人たちは、これがわからない。すっとぼけた人たちは、みんな、恵まれた側の人で、生まれたときから、恵まれた経験を積み上げてきた人たちなのである。その恵まれた経験というのは、単に、金額の上下で評価されるようなものではないのである。金額というのは、親が自分にかけた金額であり、もうちょっと軽く言えば、親の年収と貯金だ。まあ、実際の貯金額に関係なく、きちがい的にケチな人がいる。そういう人は、子供のために金を払うとなると、たとえ、10円でも逆上してしまう。なんくせをつけて、怒り狂って、怒り狂って払わないことに成功する。自分がやってやりたいことというのは、子供の感情に関係なく、自分がやってやりたいので、勝手に、エンジンがかかる。そうなると、子供が「やめてくれ」と言っているのに、その発言を無視してやってしまうのである。その場合、金がかかることでもやってしまう。けど、これは、ムダ金だ。子供としてはそんなところに、金を使うのではなくて、あのとき、10円払ってほしかったという気持ちになる。たとえ、なにかを買ってもらったにしろ、きちがい的な親が思いついで買ってやったものは、子供にとっていらないもので、屈辱的なものなのである。ともかく、「子供の言う通りには絶対になにがあっても動いてやらない」という無意識を持っている親がいて、この親の場合は、実際の収入とか、実際の貯金額というのは関係がない。けど、一般的には、やはり、子供の(金における格差)ということを考える場合は、親の収入と貯蓄額が重要になる。あるいは、住宅ローンや車のローンといった負債額が重要になる。普通は、貯蓄額について言及る場合、負債額のことは、考えてない。まあ、もちろん、負債額を考慮して、貯金額について考えることもできるけど、それは、一般的ではないなぁ。けど、実際の生活には、ローンは影響を与えるかもしれない。ようするに、親の金銭感覚には影響を与えるだろう。けど、ローンなどの負債額について、あんまり考えないことにして、貯蓄額を考えることにしよう。で、その場合、やはり、生まれの格差は、単純に親の年収や、親の貯蓄額と関係があるものとして話されているのだけど、親の年収や親の貯蓄額には、あらわれない要素も、ほんとうは、重要だ。

こんなのは、恵まれた人にはわかるわけがない。さらに、親が人格的にまともなのだけど、収入が低い層に分類される親に育てられた人にもわからない。収入が低い層に分類される親は、だいたい、年収200万円以下かな。まあ、ゆるくとって年収280万円以下か。けど、これも、時代によってちがうんだよな。子供の人数も影響する。


2021年10月21日木曜日

俺にえらそうなことを言うやつは、みんな、騒音装置をつけて、15年間暮らしてからにしろ。

  幼稚園が運動会の練習をし始めたから、うっっっさい。うっさいわ。幼稚園は、やっぱり、うっさい。スピーカーで「よーーい、どん」とか言っているからな。


しかし、この世。このくそ世界。


むかしは、よかったんだよ。幼稚園の運動会なんて、きちがいヘビメタ騒音がはじまるまでは、どうでもよかった。俺が、幼稚園の騒音に特別に文句を言っているのは、きちがいヘビメタ騒音で、俺の人生がぶっ壊れたあとだから。俺の体がぶっ壊れたあとだから。


幼稚園がうるさいから、騒音耐性が特別に強い人ばかり、うちの横にいるという可能性がある。それだって、文句は言われた。けど、きちがい親父が「うちの息子がやっていることに文句を言うな」みたいなことを言って、怒って怒って、はねかえした。きちがいだから……。きちがいなんだよ……。反応しかたが……。


あと、幼稚園の騒音で思い出すことは、ここで、「元気をもらっている」と書いてしまったことだ。これは、子供の足音騒音に悩んでいる女の人に失礼だった。けど、ヘビメタ騒音はそんなもんじゃないという気持ちもあった。あったんだよ。


それから、みんな、ヘビメタ騒音並の騒音が鳴る、騒音発生装置を脳内につけるべきだ。そうじゃないと俺の言っていることがわからない。座頭(仮名)や幸雄(仮名)だって、騒音発生装置を脳内につけられて暮らせば、俺のような体になるのである。そういうことがわかってないやつらが、くそ発言をしやがって。たまたま、ヘビメタ騒音もなく、脳内騒音発生装置もつけてないから、働けるだけなのに、えらーーそーーなことを言いやがって。

きちがい兄貴のヘビメタ騒音というのが、ほんとうにうるさくて、幼稚園の騒音並の騒音ではない。座頭が考えられるような騒音じゃない。一分で心が引き裂かれてしまうような騒音だ。これ、ほんとうに、位置によってちがうんだな。近所の人と俺とでは、きちがいヘビメタのスピーカーからの距離がちがう。ちょっとした距離のちがいでどれだけちがうかわかってないな。押し入れのうしろ、きちがいヘビメタのスピーカーがあった。本人の耳が悪くなるような音でずっと、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も聞かされればこたえる。俺にえらそうなことを言うやつは、みんな、騒音装置をつけて、15年間暮らしてからにしろ。騒音装置をつけて、毎日暮らしてから、文句を言え。えらそうなことを言え。

で、一般の人に対して、そういう気持ちにならざるを得ないという、騒音体験が、どういうものなのか、きちがい兄貴は思い知れ。

*     *     *

やっぱり、不愉快だ。もう、まるまるまるまるか。

ほんとうに、自分勝手なバカばかり。俺がヘビメタ騒音について説明したにもかかわらず、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分が思っていることを言ってきやがって……。自分がもしやられていたらできないことを、できると言ってきやがって……。どれだけ自分勝手なら気がすむのか。だいたい、ほんとうに、きちがい兄貴がきちがい親父のような態度で、きちがいヘビメタを夢中になって鳴らさなかったら、こんなことになってない。きちがい兄貴がやったことがあまりにも異常だから、ほかの人はそういうことにさらされてないし、無頓着だ。

こういう世の中。こういう世界。

2021年10月20日水曜日

親切にしたり、感謝することでしあわせになるのであれば、みんなしあわせになっている(ふしあわせな人がいない世の中になっている)

  俺っ、むかしっから、成功した経営者や、なんだか知んないたけど恵まれた環境で育ってきた人や、有名な学者や、有名な宗教指導者が「親切にすると、しあわせになる」とか「感謝すると、しあわせになる」とかと言っているとき、「なんかおかしいな」と思ってきたんだよな。

そんなことで、しあわせになるなら、みんなしあわせになっている。だれだって、しあわせになるのであれば、不幸な人なんていない。不幸だと思っている人なんていない。くるしいと思っている人なんていない。くるしくてくるしくて、いきているのがつらいとおもっているひとなんていない。

そりゃ、親切にしたり、感謝をすれば、しあわせになるからだ。

つらい状態から解放されて、しあわせになるはずだ。けど、つらい状態でくらしている人が親切にしたり、感謝をしたりしても、しあわせにならない。あるいは、しあわせにならない場合のほうが、しあわせになる場合よりもずっと多い。

「どうしてかな」って、ずっと思ってきた。

それから、しあわせサイドから、「感謝をすればしあわせになる」とか「親切にすればしあわせになる」と言っている人には、わからないだろうけど、まわりのやつにやられて、つらくてつらくてしかたがない人が、そういうことを試みて、しあわせにならないときの、打撃がすごいのだ。

これも、しあわせサイドの人が完全に無視していることだ。

しあわせサイドの人が無視しているのは、つらい人の状態、つらい人の状況、つらい人の履歴だ。現実場面だけを輪切りにして、「こうすればしあわせになる」と言っているだけだからだ。こういう人は、まったくわかってないので「パンがなければ、パンをつくればいい」「パンがなければ、ケーキを食べればいい」「パンもケーキもなければ、ステーキを食べればいい」とパンも、小麦粉も、ケーキもステーキも、その他のパンらしきものをつくるための粉もない人に言ってしまう。小麦粉の代わりに米粉を使ったケーキをつくりましょうという場合だってあるから、いちおう、その他のパンらしきものをつくる粉もない人と書いておいた。

これは、状況の無視なんだけど、しあわせサイドの人は、ふしあわせサイドの人の、生まれ格差や生まれの格差から不可避的にしょうじる時系列的な経験というものを無視してしまう。履歴は大切だ。そりゃ、不幸な体験が積もり積もっている。一回の親切や感謝でくつがえせるものではない。もちろん、こういうことを言えば、「一回じゃなくて、何回も何回もやればいいじゃないですか」というようこなとを言い出すと思う。

全部がその調子だ。

実践的とか言い出したときには、まるまるまる。一番、実践的じゃないよ。まるで状態がわかってないから、言える言葉。これは、ほんとうにある意味、こまっている人をばかにしている。不幸な人を、侮辱している。不幸な人やこまっている人を……さきに……ばかにしたり、侮辱したのは、しあわせサイドの人。

しあわせサイドの人にはまったく見えてないところがある。そして、見えてないところが、ふしあわせな人のふしあわせな感じに影響を与えている。この影響は小さな影響ではないから、無視することはできない。小さなことではなくて、つらさの本体、ふしあわせ感の本体だからな。

2021年10月19日火曜日

「ヘビメタ騒音なんてそんな大げさなことか」と言う、一般人とあらそいになってないのである


その人がすでに不幸であった場合、「Xをすれば、幸福になる」というようなことを言うことは、侮辱なんだよ。その人が不幸である理由について、まちがった認識を持っている。

ぼくが不幸なのは、きちがいヘビメタにたたられた体。きちがいヘビメタ生活が約一五(じゅうご)年間続いたからだ。その一五(じゅうご)年間のあいだ、いつでも、きちがいヘビメタを鳴らさないようにするということが、できたのに、きちがい兄貴はそうしてくれなかった。

これが、不幸の『もと』なのである。これが不幸の『原因』なのである。これが、ぼくの体力が根本的なところで落ちた理由なのである。これが、ぼくが通勤通学できなくなった理由なのである。

通勤通学できなくなると、無職、ひきこもりというたいへん不名誉な称号を得ることになる。たいへん不名誉なレッテルをはられることになる。これは必然なんだよ。

ヘビメタ騒音を一五年間、あの態度で、あの時間の長さ鳴らされたら、だれだって、通勤通学ができなくなる。しかし、そとの人から見れば、ヘビメタ騒音と無職引きこもりの関係性が見えない。

ぼくが説明しても、普通の人は、まったく理解しない。

なので、そういう事態におちいったなら、そういう普通の人たちとも、うまくいかなくなる。そりゃ、普通の人間たちは……きちがいヘビメタ騒音にぼくとおなじようにたたられたなかった人間は……ヘビメタ騒音を「やられれば」……あるいは、ヘビメタ騒音生活が続けば……通勤通学ができなくなるという必然性が見えない。

見えない以上は、ないんだよ。

そうすると、ぼくが、「さぼって」働いてないようにしか見えない。必然性が見えない。ぼくが説明しても、きちがい兄貴のヘビメタ騒音という経験がない人には、それが、根本のところで理解できない。自分の体の問題ではないので、わからない。経験して、実際に体が「ぶっこわれた」わけではないので、ぼくが「ぶっこわれた」体をひきずって、やっと生きているということがわからない。

普通の人たちには、ぼくが普通の人に見えるのである。普通の人というのは、「ヘビメタ騒音やられてない人」のように見えるということだ。それは、ヘビメタ騒音をやられたとしても、そんなのは、関係がないのだからヘビメタ騒音をやられた人とヘビメタ騒音をやられてない人の見分けがつかない。

ヘビメタ騒音をやられた人とヘビメタ騒音をやられてない人の違いがわからない。ヘビメタ騒音やられてない普通の人とヘビメタ騒音をやられた普通の人は、ヘビメタ騒音をやられてない普通の人にとって、「等価」なのだ。

だから、そういう文脈で、ものを言ってくる。それは、まちがった発言だ。経験がないからわからないというだけのことなのだけど、わからない以上は、まちがった認識をして、まちがった発言をするということになる。

「ヘビメタ騒音なんて、そんな大げさなことか?」ときちがい野郎は言うのである。けど、このきちがい野郎は、普通の人から見れば普通の人だ。言っていることがまちがっているとは認知しない……普通の人は、このきちがい野郎が言っていることがまちがいだとは認識しないのである。

こんな、生きにくい世の中があるか? 座頭(仮名)の生きにくさ……。大学教授の生きにくさ……。そんなものじゃないのである。だから、ヘビメタ騒音のことを最初に説明しただろ。こいつら、なにを聞いているんだ? きちがい兄貴が、普通の人にとって理解できないほどのきちがいなので、俺がおかしいことを言っているように、普通の人は認識するのである。こんな、世界で、生きられるはずがない。じょーだんは、よせ。

きちがい兄貴が、きちがい的な意地で、ほかの人がにわかには信じられないような音で、きちがいヘビメタを毎日毎日、長時間鳴らすということにこだわって、こだわって、実際に鳴らしたので、ぼくの世界はこうなっている。きちがい兄貴が、この世で、実際に鳴らさなければ、こんなことにはなってないのである。「ヘビメタ騒音なんてそんな大げさなことか」と言う、一般人とあらそいになってないのである。どんだけ、こういうむだなあらそいがしょうじたか?

2021年10月18日月曜日

『不幸なうまれ』の人がより不幸になって、『幸福なうまれ』の人がより幸福になる。人に親切にしたぐらいでは、ひっくりかえせない、事情があったのだ

 じつは、氏ムシメという人について書かれた、ブログを読んだ。いろいろなことを感じたよ。特に、幸福論と生まれの格差について、いろいろと考えた。ほんとうに、生まれの格差についてまった考えてないタイプの幸福論はだめだと思う。現実を輪切りにしたって、だめだ。「親切にした」という場面だけ考えてもだめだ。どうして、こういうすっとぼけた話が、正しいこととして、まかり通ってしまうのだろう。

小さいときから、経験していることに差がある。生まれてからずっと、差がある。どうして、そういう差を無視してしまうのか?

まあ、恵まれたところに生まれてきたから、これが普通だと思って無視してしまうのだろう。けど、恵まれた人は無視できるけど、恵まれない人は、無視できないことがある。経験として積みあがっている。出来事としてつみあがっている。

幸福論者の子供時代と氏ムシメさんの子供時代……ぜんぜん、ちがう。

このちがいを無視して、「こうすればしあわせになれる」ということについて語るなんて……。正直に言ってしまえば、ひどいことだと思う。

これ、抑圧装置を維持する言論なんだよ。『不幸なうまれ』の人がより不幸になって、『幸福なうまれ』の人がより幸福になる。そういう不公正なシステムを維持するのに役立つ。

不幸なうまれ』の人が小さいときからずっと、不幸な思いをしてきて、それでも頑張って生きているのに、小さなときから幸福な人が「人に親切にすれば幸せになる」とか言ってしまう。

前に書いたけど、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということは、すでにふしあわせな人は、人に親切にしてこなかったから、ふしあわせなんだということを、暗示している。

人に親切にすれば、しあわせになる」というのは、未来に向かった言葉だ。

「……すれば」これから「しあわせになる」というのは、その発言がなされたときから考えれば、未来の話なのである。

「人に親切にしたから、しあわせだ」というのは、過去において、人に親切にしたから、(自分は)いましあわせなのだという話になる。なら、ふしあわせな人はどうなのだろうか? ふしあわせな人は、人に親切にしてこなかったのではないかということになる。

氏ムシメさんは、人に親切にしたことがないのかというと、そんなことはなくて、母親の代わりに家事をして、父親や妹二人をささえてきたのだ。さらに、妹にプレゼントをしている。くるしい思いをしてバイトをして、バイト代で、プレゼントを買っている。親切じゃないか。親切にしたことがある。

しかし、けっきょく、親切にしても、それではしあわせになれず、けっきょく、自殺してしまう。自殺するまでのあいだ、どれだけ、氏ムシメさんががんばったか。

彼はがんばったと思う。

人に親切にしたぐらいでは、ひっくりかえせない、事情があったのだ。人に親切にしたぐらいでは、こえられない、壁があったのだ。幸福論の人には、この壁がない。最初からない。別にこえようと思わなくても、すっと、通り抜けて、さきにすすむことができる。

そもそも、幸福論の人には氏ムシメさんが経験したような困難それ自体がない。幸福論の人が言っている「自分が経験した困難」と氏ムシメさんが経験した困難は、おなじ困難と言う言葉で表現されているけど、困難の困難がちがうのだ。

まったくちがったものだ。

同じ言葉で表現するべきものではない。けど、人間の認知の限界と、人間の抽象化の限界で、同じ言葉を使うことになる。幸福論の人にとって困難と言えば、幸福論の人が経験したような困難なのである。

手短に言うと、氏ムシメさんの前には、800メートルぐらいの壁がそびえたっているのである。そして、その200メートルうえには、裕福な人用の道路がある。この道路は地上1000メートルのところにある道路だ。そして、その道路のうえにも、1メートルの壁がある。1メートルぐらいなら、なんとか、乗り越えることができるよね。あとは、ハードル競走用のハードルがいつくか置いてある。普通に、走って通れるよね。こえられるよね。あるいは、走ることは強制されてないので、歩いてまたぐこともできる。裕福な人の壁が1メートル。氏ムシメさんの壁は800メートル。800メートルのすべすべの壁なんて、だれだって、こえられない。どれだけ努力してもこえられない。けど、壁は壁だ。裕福な人が「壁なんてこえられる」と言う。そりゃ、1メートルの壁だからな。壁を困難という言葉に言い換えれば、ぼくが言いたいことがわかると思う。さいしょから、ぜんぜんちがう。困難の困難がちがう。けど、同じように「困難」と言う言葉で言い表されてしまう。だから、混乱がしょうじる。この混乱は認知の混乱だ。誤解が普通にしょうじる。どっちも、困難という言葉を使っているのだから、あたりまえだ。

はっきり言えば、氏ムシメさんのような人が人に親切にすることで、しあわせになることはない。こういう一見、よさそうな言葉が、氏ムシメさんのような人を、追い込むのである。自殺に追い込む。

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それにしても、うけがわるいね。みんな、これがどれだけすっとぼけた発言がわかってないんだろうな。これって「人に親切にすれば幸せになる」……という発言さ。どれだけのことを無視している発言かわってない。ずっと前から、おかしいおかしいと思っていたけど、どういうふうにおかしいのか説明ができなかった。ぼくが今言っていることは、だいたい、20歳のときに考えていたことだ。ずいぶん、時間がたったなぁ。一見よさそうに見えて、文句の付け所がないのだけど、こういうのは、おかしい。はっきり言えば、「生まれの格差を固定化することに寄与する。生まれの格差を固定化して、生まれの格差を再生産する仕組みのうちのひとつだ。たとえば、生まれの格差・上の人が、生まれの格差・下の人に親切にしてあげれば、それで、お互いがしあわせになるわけだから、いいと思うでしょ。ところが、そういうことにはならない。そして、生まれの格差・下の人が、生まれの格差・下の人がいっぱい集まっているところで、生まれの格差・下の人に親切にすると、かなりの高確率で、トラブルがしょうじるのである。こういうことを、生まれの格差・上の人はまったく考えてない。

これ、そういうことだったのかと、やっとわかるようになった。これは、説明しずらい。

2021年10月17日日曜日

はっきり言ってしまえば、幸福論者は、人に親切にしなくても、しあわせなのである

 たとえば、線分ということについて考え見よう。この線分は、関係性の線分だ。「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という場合は始点(A)と終点(B)をむすぶ、線分だと仮定しよう。

その場合、実際の世界には、ほかのこともいっぱいある。一日のなかですら、実際には、無数の線分が、あらわれている。

しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまった場合は、無数にある線分のうち、ひとつの線分に焦点をあてて、あたかも、現実生活において、線分ABしかないような印象を与える。これが、言語化の問題だ。

あるいは、ずっと野へできたように抽象化の問題でもある。そうなると、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということを読んだ人は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分を考えて、生活のなかのさまざまな線分を無視して、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分だけを考えるということになってしまう。

もし、自分が人に親切にした場合は、自分はしあわせになる「はず」なのである。ほかの、線分は見えなくなってしまうのである。けど、ほかの線分こそが、しあわせ感にとって重要なことかもしれないのである。

あるいは、ほかの線分が、ふしあわせ感をつくっていて、そのふしあわせ感をつくっている、線分をなくすということが、実際には、その人のしあわせ感を増大することになるのかもしれない。

しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまったがために、意識が「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」に集中してしまう。

無数にあるほかの線分が、しあわせ感に影響与えているのに、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」だけを考えてしまう。人に親切にしたかどうかで、自分のしあわせが決まると思ってしまう。

しかし、人に親切にしかたかどうかで、自分の幸せが決まるわけではないのだ。

うまれてから、ずっと、いろいろなことを経験してきたのだから、そういう経験によってつちかわれてきたものが影響を与える。


「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」は現実の『うつし絵』にはならないのだけど、今度は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」というところから、現実を考えてしまうのである。しかし、現実はそんなに単純なものじゃない。


では、どうして、幸福論者は「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」などということを言ってしまうのか? 幸福論者にとってみれば、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということは、ひとつのことでしかない。

はっきり言ってしまえば、幸福論者は、人に親切にしなくても、しあわせなのである。

恵まれたところに生まれて、いろいろな恵まれた経験をしてきた。

なので、しあわせなのだ。

しあわせに暮らしているとき、たまたま、人に親切にしたとき、しあわせを感じただけだ。「理由」ではないのだ。

その日、すでにしあわせしあわせである理由ではないのだ。

これは、しあわせに暮らしている人が、たまたま、タマムシを食べたら、これはうまいと、満足感を得たということに似ている。

これ、満足感と幸福感はちがうのだけど、ある程度、似ている。満足感に、「幸福だ」という思考がくわわるとし幸福感になるのだ。

話をもとにもどす。

ある人が、恵まれた家に生まれて、成長して、今度は自分の家族をつくって、しあわせに暮らしているとする。生まれた家も、自分がつくった家でもしあわせに暮らしているとする。

しあわせに暮らしている人が、タマムシを食べたとき、しあわせを感じたとする。タマムシを食べたとき、しあわせになった。……こういう経験があるとする。

その場合、しあわせな生活をしている人は、『タマムシを食べれば、しあわせになる』と思ってしまう。それは、もともと、しあわせな生活をしているのだけど、タマムシを食べたとき、幸福感を得たのだから、そういうふうに言っても、おかしくはない。

けど、不幸な生活をしている人が、タマムシを食べれば、しあわせになれるのかというとそうではない。あるいは、『案外、うまかった』と一時的には、しあわせ感を感じるかもしれない。

しかし、そのしあわせ感がいつまで続くのか?

すでに、しあわせな生活をしている人は、タマムシを食べたあとだけではなくて、次の日も、家族といっしょにすごして、しあわせを感じているわけだ。別に、タマムシを食べなくても、「家族団らんで楽しかった」「子供をカヌーに連れて行ったら、俺も楽しかった」と幸福を感じることができる。

なので、タマムシを食べたあとも、しあわせ感があり、しあわせな生活が続くと思うことができる。それは、タマムシを食べて幸福感を得たという経験のあとに、もっとしあわせだとと感じる出来事が、持続的に発生しているからそう思えるのである。そう思えるだけなのである。幸福な人にとって、タマムシを食べて幸福感を得たという経験は、さまざまな幸福感を与える経験の一部でしかない。タマムシを食べたあとも、しあわせ感がある生活が続くのである。タマムシを食べたとき、特に幸福を感じたけど、そのあとも、さまざまな幸福を感じる出来事がたくさんある。そういう生活が、成り立っている。だから、「つづく」ような感じがしているのである。

けど、もともと不幸な生活をしている人は、かりに、一時的に、タマムシを食べて幸福を感じたとしても、店から帰ったころには、その幸福感はかなり減衰している。だれもいない安いアパートの一室に帰り、明日の通勤のことを考えて、不安になったりする。しあわせじゃないのである。もともと、不幸な生活をしている人は、一時的に、幸福感を得たとしても、その幸福感は長くは続かない。


2021年10月15日金曜日

「そんなひとは、いない~~」とか「そんなことはない~~」と思ってしまう。

 ヘビメタ騒音のことは、そんなにも、わかりにくいことなのか。……わかるわけがないよな。

わかるわけがない。

俺だってもし、自分の身の上に起こらないことだったら、同じように誤解していたかもしれない。基本、実際に自分の身の上に起こらなければ、なんべん話を聞いても、わからないことというのは、ある。

わからないよな。

けど、わからないからといって、ヘビメタ騒音の影響を無視して、自分の意見を語りだすのはどうかと思うぞ。

自分の意見というのは、「人間は働かなければならない」といったことだ。これは、バージョンが案外、限られている。

一般に、引きこもりの人や無職の人に、言いたくなるようなことだ。説教したくなるようなことだ。それは、その人にとっては、正しいことなのだろうけど、きちがいヘビメタにやられたぼくにとっては正しいことではない。

はっきり言えば、あの態度で七年間、やられ続けたら、だれだって!!……これはほんとうに、だれだって!!……通勤、通学できなくなる。

一〇〇%の人がおなじことをやられれば、通勤通学できなくなる。

言っておくけど「騒音」だからね。きちがい兄貴にとっては騒音じゃない。毎日毎日、七年間にわたってあのレベルの騒音を聞かされ続ければ、……そして、そのあいだ通学していれば、だれだって、通勤通学できなくなる。

一一(じゅういち)歳からはじまったんだけどな。ヘビメタ騒音がはじまったのは一一(じゅういち)歳のときだ。で、普通の人は、「通学できたのであれば、だいじょうぶだ」「通学していたのであれば、たいしたことはない」と思ってしまうのだけど、そうじゃないんだよ。


たえてたえて、七年間、学校に通った……これが、通勤・通学できなくなった理由だ。もう、まったく、考え違いをしている。


けど、この考えちがいをしている人たちが、俺の説明を聞いて、考え違いをただすことができるかのというと、できないと思う。どうしてなら、この人たちは、あのレベルの騒音が鳴っている毎日を経験してない。

で、うちの場合、親父と兄貴が、特殊な人なんだよ。特殊すぎて、ほかの人がわからない。「そんなひとは、いない~~」とか「そんなことはない~~」と思ってしまう。


けど、実際、そういう人はいるのぉ~~。


どれだけへんな父親か、普通の人は、わからない。どれだけ、へんな、自分勝手な、頭がおかしいあにか、普通の人はわからない。わからないんだよ。わからないところで、常識の範囲で考えて、自分の意見を言う。自分の意見というのは、共同幻想に近い意見だ。だ

から、特殊じゃない。

共同幻想に近い意見を言う人たちは、みんな!!ヘビメタ騒音の影響を過小評価している。あるいは、完全に無視している。自分だって!おなじことを経験したら、この日本で働けなくなって無職になるのに、『自分は鳴らされたって平気だ』『自分は鳴らされたって無職にはならない』という前提で、ものを言ってくる。

えらそうなんだよ。

はっきり言って、それは俺に対する侮辱だ。侮辱というなら、ほんとうに侮辱だよ。けど、侮辱しているつもりはないだろう。自分にとって正しいと思っていることを言っているだけだから。きちがい的な家族に……きちがい的な兄に……ほかの人が理解できないような態度で騒音を鳴らされると、こういうことになってしまう。

じつは、必然性がある。

けど、共同幻想にしたがって、自分の意見を言っている人は、そういう必然性に気がつかない。どうしてなら、「ヘビメタ騒音なんて、どれだけ鳴ってたって自分なら通勤通学できるから」だ。


けど、それは、やられてないから、言えること。


経験してないから言えること。


現実世界でそういうことが発生しなかったから、言えることなんだよ。

けど、俺がそういうふうに言っても、そいつらは、ぜーーぜん、認めないだろうけどな。




*     *     *


2021年10月14日木曜日

普通の人は、旅行に行けば楽しい。俺は、憂鬱だ。

 掃除をしているけど、ほんとうにつまらない。けっきょく、ヘビメタ騒音で憂鬱だ。ヘビメタ騒音で体がだるい。ヘビメタ騒音で人生がない。そして、けっきょく、ぼくは、人に理解されない。

人に理解されたところで、「ヘビメタ騒音で憂鬱だ。ヘビメタ騒音で体がだるい。ヘビメタ騒音で人生がない」という部分はかわらない。わからない。なので、精神的にはつらい。たとえば、普通の人なら、あそべば楽しいわけだけど、楽しくない。仕事をしなくてもいい状態になれば、仕事をしたくない人は、ハッピーになれるのだけど、俺は別に仕事をしなくてもいい状態になっても、ハッピーじゃない。それは、ヘビメタ騒音の影響で、精神も体も、とても消耗した状態になっているからだ。だから、普通の人が仕事をやめれば、しあわせなるというのとはちがう。旅行に行けば気晴らしになる……。普通の人は、旅行に行けば楽しい。俺は、憂鬱だ。


2021年10月12日火曜日

「どんな人だって、タマムシを食べると、しあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べると、しあわせになる」

  タマムシを食べるとしあわせを感じる人がいるとする。とりあえず、この人をAさんだとする。「タマムシを食べると、しあわせになる」とAさんが言ったとする。

Aさんのなかでは、これは、絶対に正しいことだ。主体がAさんである限りは、それで問題はない。

けど、Aさんが「どんな人だって、タマムシを食べるとしあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べるとしあわせになる」「これは正しい」とほかの人に言ったとする。

ちなみに「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」というのは、「どんな人だって、タマムシを食べると、しあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べると、しあわせになる」ということを含んでいる。


「どんな人だって」という言葉が入っていない場合も、人は、タマムシを食べればしあわせになると言っているのだから、「どんな人だってタマムシを食べればしあわせになる」ということを含んでいる。

「どんな状況だって」ということに関しても、「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」ということを言ったとき、状況について触れていないのだから、「どんな状況でも」「いかなる状況でも」そうなるということを言っているのとおなじだということになる。

すべての状況においてそうなると言っているのだから、特殊な状況も含んでいるということになる。

ラーメンだと、不思議に感じない人も、タマムシだと、不思議に感じる人がおおくなると思う。ちなみに、タマムシは、調理して食べないとだめだ。生で食べただめだ。タマムシのほかにも、イナゴ、バッタ、コオロギなども、適切な調理をすれば食べられる。

話を元に戻す。ラーメンを食べたとき、しあわせを感じる人は多いけど、タマムシを食べたときしあわせを感じる人は少ないので、多くの人にとっては、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」とか「どんなにつらくても、タマムシを食べれば、しあわせになる」とか「どんな状況でも、タマムシを食べれば、しあわせになる」というような文言は、嘘のように聞こえる。

けっきょく、「Xをすれば、しあわせになる」というのは、多数派の理論だ。あなたが、少数派なら、まったく意味がないということになる。まあ、多数派に属していても、いろいろな問題があるとぼくは言っているのだけど……。つまり、多数派に属している人にとっても「Xをすれば、しあわせになる」とは言えないと思っている。その理由は、ずっと書いてきた。


2021年10月10日日曜日

自殺を考えている人だって、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう傾向がある

 あー、金曜日の午後5時8分。ヘビメタが鳴っている感じがする。どれだけ「やめろ」「静かにしてくれ」と言っても、一秒も静かにしてくれなかった。一秒しずかにならないまま、けたたましい音が続く。そのひとつひとつのけたたましい音が、俺の睡眠回路を破壊する。けど、そういう経験がない人は、「鳴り終わったら関係がない」と言う。こいつら、でこパッチンC。

どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の学力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の体力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の精神に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の睡眠力に影響を与えたかわからない。

夜、眠るべき時間に、眠れなかったら、不安になる。うまくいっているのに「なんとなく不安だ」という内因性の不安ではないのである。内因性の不安なら、認知療法家が言うことは、もっともだと思うけど、外因性の不安の場合は、認知療法家が言うことは、もっともなことではない。無理難題を押し付けているだけだ。この無理難題を押し付けているだけというのは、幸福論者にも言える。「親切にすれば、しあわせになる」……。「親切にしないから、ふしあわせなのだ」……とは言ってない。

けど、「親切にすれば、しあわせになる」といこうとは、その人がふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからだということを暗示しているのである。まあ、言うほうにしてみれば、そんなつもりはないのだろう。

ニュートラルな状態、あるいは、人よりも恵まれた状態で暮らしてきた人が、人に親切にしたとき、いい気持ちになったということだ。いい気持ちになったということは、しあわせを感じたと言い換えることができる。

自分はそうだった。なので、他人もそうだろう。

「人は、人に親切にしたとき、しあわせを感じる」というのは、心理学の実験でも確かめられたことだ。なにもおかしくはない……と推論してしまうのだろう。けど、まちがっている。まちがっているんだ。

これは、質問のしかたが悪いのだ。

かりに、自殺を考えている人だって、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう傾向がある。

俺だって、そういう「公式の場」では、ヘビメタ騒音という私的なことは持ち出さずに、ヘビメタ騒音がなかったころ、友達に親切にしたとき、いい気持ちになったという出来事を思い出して、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう。

毎日いじめられている女子中学生だって、いじめられている状態はぬきにして、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまうかもしれない。

ちなみに、そういうふうにこたえた数日後に、その女子中学生が、自殺してしまったとしても、ぼくはおどろかない。「人に親切にしたとき、しあわせを感じる」と数日前こたえた女子中学生が、自殺をしたとしても、矛盾しているとは考えない。人間は、そういうふうにできている。

*     *     *

この、生きている、空間自体が、ヘビメタ騒音に汚染されている空間なんだよ。おまえ、どれだけ、長い間繰り返されてきたか。きちがいヘビメタを、家族に!鳴らされ続けると、日本の社会では、生きていけなくなってしまう。ぎりぎりのところでぼくはいきてきた。どれだけ精一杯、生きようとして努力してきた。鳴っているなかで頑張ってきたか。一五(じゅうご)年間鳴ったあと、……もう、一五(じゅうご)年間の影響があるのに……頑張って生きてきたか。

「人に親切にすれば、しあわせになる」なんて、そんなのは、侮辱でしかない。侮辱と言うなら、侮辱だ。

けど、一方で思うことがある。

もし、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを、恵まれすぎている人が言ってたとしても、まったく気にならなかったんだろうな……と思う。

はっきり言えば、兄貴が兄貴のやり方で、こだわってこだわって、俺の存在を無視して、俺の希望を無視して、がんがんつねに、毎時間時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒鳴らさなかったら……鳴らさなかったら……「そうですねー」ですんだことだ。

「人に親切にすれば、しあわせになる」

「そうですねー」

これで、すんだ。

そういうことにおいても、たたっている。

ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、座頭(仮名)にあんな態度をとられることはなかった。あんなことを言われることはなかった。そりゃ、〇にたくもなるだろう。

ほかの人は、どうして俺が、そんなことで〇にたくなるのか、まるでわからないだろう。わからないと思う。これ、つまっているんだよ。きちがい兄貴が鳴らしていたときの、「態度」の記憶がつまっている。あの強情さはないよ。

そして、きちがい的な意地で鳴らしたのに、きちがい的な意地で「ゆずったゆずった」と言いやがる……そういう、出来事の記憶。これ、本人は、ほんとうに「ゆずってやった」つもりなのである。

これは、きちがい親父のハンダゴテ事件とまった同じ。

譲歩が譲歩になってない。譲歩が、相手に屈辱をあたえることになっている。譲歩が、相手をよりこまらせることになっている。

けど、どれだけ相手が、それを説明しても、まったくわからない。普通の人なら、説明しなくてもわかることがわからない。きちがいが、きちがいの気持ちだけで、動いている状態だ。こんなのは、ほかの人にはわからない。ほかの人はどうしたって、自分の常識で考えてしまう。


ほかの人が、自分の常識で考えるときに、基準となるのは、自分自身の家族だ。

自分自身の家族との関係だ。

自分自身の家族の態度だ。


……そういうことが、判断の基準になるのである。きちがい兄貴……具体的な「うちのきちがい兄貴」が基準になってない。きちがい兄貴の態度が、基準になってない。きちがい兄貴のやってきたことが、基準になってない。きちがい兄貴の認知・認識が、基準になってない。基準になっているのは、その人の家族の態度、その人の家族がやってきたこと、その人の家族の認知・認識なのだ。

そういうことであるのならば……そりゃ、ぼくとは、意見がちがってくる。それは、実際に経験してきたことがちがうということから生じることなのだけど、その人の「その場の判断」はその人の『信念』に近いものなので、簡単には揺らがない。ぼくの話を聞いても、ぼくの話のほうが嘘なのだと思う。ぼくの話が矛盾があるへんなことだと思う。



2021年10月8日金曜日

「ラーメンを食べれば、しあわせになる。これは絶対に正しい」と言ったら、どう思うか?

  しあわせな人が語る、幸福論。まるで、マリーアントワネットが農民に説教しているみたいだぞ。がせねた。がせねた。うそ。うそ。ニセ情報。こんなのない。こんなのは、ない。これ、ほんとうは、言っていることがずれている。

しあわせな人は、それをやったから、不幸な状態からしあわせな状態になったわけじゃないのだ。最初から、恵まれたところに生まれて、しあわせなんだよ。

それが、わからない。

それが、わかってない。

普通だと思っている。

当たり前だと思っている。

だから、「ない」人の状態がわからない。状態がわからないのだけど、知識としては、わかるということになる。たとえば、「おカネがない状態だ」ということがわかるという意味で、わかるということだ。

けど、ほんとうは、経験してない。

きちがい毒親がどういうやり方で、子供を虐待するかわかってない。わかってないんだよ。話として、わかっている場合がある。

けど、その『わかっている』というのは、ぜんぜんちがう。


親の稼ぎが少ない状態であって、なおかつ、頭がおかしい親に『たたらている状態』というのがわからない。なので、見当はずれなことを言う。

『ない』と『ある』が、ひっくり返るけど、パンもケーキもない人に、「パンがなければケーキを食べればいい」ということを言ってしまう。『ない』と『ある』が、ひっくりかえるというのは、たとえば、パンがあることは、プラスだけど、きちがい毒親がいることはマイナスだということだ。

「ある」「いる」「もっている」という言い方だと、言い方の対称性がそこなわれるので、「存在する」という言い方にかえるとパンが存在するのは、(しあわせな生活にとって)いいことだけど、毒親が存在するのは(しあわせな生活にとって)わるいことなので、パンと毒親では、意味合いがひっくりかえる。パンが存在しないこと(非存在)は、こまることだけど、毒親が存在しないこと(非存在)は、とてもいいことだ。「存在しない」ということの意味合いがひくっりかえっている。


「まるまるをすれば、幸福になる」というタイプの幸福論はみんな、詐欺。

これ、ほんとうに、「波動水を飲めば、幸福になる」と言っているのと同じレベルのこと。もっとも、ものの受け渡しがなく、幸福論者が言っていることは、形がないことなので、詐欺だとは認められない。

けど、言っていることは、同じレベル。

どういうことかというと、たとえば、「ラーメンを食べればしあわせになる」と言う人がいたとする。

その人は、ラーメンが大好きで、ラーメンを食べているさいちゅうと、ラーメンを食べたあと、しあわせを感じる。

だから、この人にとっては、『ラーメンを食べればしあわせになる』ということは、正しいことだ。

けど、このラーメンが好きな人ですら、パワハラ上司のもとで何時間も何時間も残業する日が、何年間も続けば、だんだん、ラーメンを食べても、しあわせを感じないようになってくる。

疲れはてた体で、ラーメンを食べた場合、たしょうの快は感じるかもしれない。たしょうの快を感じるとしよう。毎日、くるしいけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じる。

けど、全体的には、不幸なのである。

朝、起きたくないという状態になってしまう。さらに続けば、うつ病になってしまうだろう。うつ病なのに、しあわせ? 毎日、死にたい気持ちで暮らしているのに、しあわせ? 

毎日死にたい気持ちで暮らしているけど、ラーメンを食べたときだけは、たしょうの快を感じるということはある。あるけど、それだって、いつまで続くかわからない。あれだけ好きだったラーメンがうまく感じなくなってしまうかもしれない。

しあわせになるには、ラーメンを食べるのではなくて、パワハラ上司がいないところで、適切な量だけ働くということが必要になる。

しかし、それができなかったら、どうだ?

ふしあわせだと感じるだろう。

そのとき、パワハラ上司にたたられたことがない、しあわせな人が「ラーメンを食べれば、しあわせになる。これは絶対に正しい」と言ったら、どう思うか?

『ラーメンを食べても、この生活をしていたら、しあわせにはなれない』と感じるだろう。

しあわせではない生活をしていても、ラーメンを食べたとき、たしょうの快は感じるかもしれない。……しかし、「Xをしたとき、たしょうの快を感じる」ということと「Xをしたあと、しあわせな生活がずっと続く」ということはちがう。

たとえばの話だけど、この、パワハラ上司にたたられて、一日に何時間も何時間もサービス残業をしている会社員は、仕事をやめれば、しあわせ感が増大するかもしれない。

パワハラ上司にたたられるしかない社員生活をしているよりも、リタイアして、そういう『負の刺激』から自分を守ることができれば、パワハラ上司にたたられている生活よりは、しあわせを感じるかもしれない。あるいは、しあわせを感じないかもしれない。それは、すでに、「しあわせを感じる回路」と言うべきものが破壊されているからだ。


*     *     *


たとえば、医者として生計を立てている人がいるとする。忙しすぎるのでしあわせ感が、薄れていたとする。

ある日、リタイアすることにして、リタイアした。リタイアしたら、多忙な毎日が終わり余裕がある毎日が始まった。その元医者には、しあわせに暮らしているという実感があるとする。その場合「人に親切にした」という話はどこにも出てこない。

その元医者は、忙しすぎる仕事をやめたから、しあわせ感が増大したのである。ならば、「人に親切にするとしあわせになる」などは言わずに「リタイア生活をすると、しあわせになる」と言ったほうが、実情によく合致しているのではないかと思うのである。

その元医者は、しあわせを感じる回路と言うべきものが破壊されてない状態で、リタイア生活に移行したので、しあわせを感じるだけなのかもしれない。おなじように多忙だった人が、リタイア生活をすれば、しあわせを感じるかどうかは、ほかの条件によって異なる。なので、多忙な人がリタイア生活をすれば、かならず、しあわせになるとは言いがたい。


2021年10月7日木曜日

けど、それが普通に成り立ってしまう、「うち」だったんだよ。「うち」では、まったくおかしくないんだよ。

 ヘビメタ騒音で人生がない。どうしても、くらべてしまう。ヘビメタ騒音がなかった場合の俺の人生と、俺の人生をくらべてしまう。ほかの人にはまったくわからないことがある。それは、俺がどれだけ「ヘビメタ騒音がくるしかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなかった」「ヘビメタ騒音でこういうことができなくなった」「ヘビメタ騒音でこういうトラブルが生じた」ということを説明しても、わからない。経験してなければ、わからない。あのひどさが、わからない。俺以外の人間は、あのひどさを経験してない。どういう、朝になるかわかってない。どういう夕方になるか、わかってない。どういう、深夜になるかわかってない。きちがい兄貴が、きちがい兄貴でなく、普通の兄貴だった、あんなことにはなってない。どれだけ、ヘビメタ騒音に凝っていたとしても、あんなことにはなってない。どんだけ、ヘビメタを思いっきり鳴らそうと思っても、あんなに思いっきり鳴らせない。

中古マンションのことを考えているとき、「うちが、マンションだったらあんな音じゃ鳴らせないのに」と思ったりする。いかりがわく。いかりと破綻を繰り返している。どうしたって、気分がよくない。どうしたって、すっきりした気持ちになれない。

毎日の繰り返しというのがある。毎日の繰り返し……それも、成長期に数千日、毎日、繰り返されたこと。……こんなことが、影響を与えないわけがない。ところが、それをやらなかったやつは……自分の体で経験してないやつは……「騒音なんて、だれだってある」「騒音なんて、鳴り終わったら関係がない」「騒音なんて、関係がない」と言いやがる。でこパッチンBをしたくなる。

ほかの人がわからないということは、他の人は、ヘビメタ騒音の影響を認めずに、俺に圧力をかけてくるということだ。そういうことになる。こいつらは、でこパッチンB。みんな、でこパッチンC。

こういう人たちは、きちがい兄貴の態度もわからない。きちがい親父の態度もわからない。きちがい親父がヘビメタ騒音についてなんて言ったと思うよ? もう、書いてきたからここじゃかかないけど、きちがいすぎて、わからない。ほかの人の常識の範囲外。きちがい兄貴やきちがい親父は、俺がどれだけ何回言っても、俺がきちがいヘビメタ騒音でこまっているということを認めない。あんなでかい音で、普通の人は鳴らさないということを、認めない。きちがいだから「なっちゃったなっちゃったでしかたがない」だ。きちがい親父は、カラがだでかくなった兄貴に、注意ができないだけ。きちがい兄貴が小さいときは、虐待してたのに、きちがい兄貴の体が自分の体より大きなったらも、もう、完全に無視して、きちがい兄貴がやっていることに関して関心を払わない。ガン無視。絶対に注意しない。絶対に注意しないとなったら、なにがなんだろうが注意しないんだよ。「そんな音で鳴っているのに親が注しないのはおかしい」とか、なにも知らない、普通の人が普通の感覚で言う。こういうことが発生してしまう。どれだけ挟まれてきたか。きちがい親父のきちがい感覚と、世間の感覚の違いがでかすぎる。きちがい兄貴のきちがい感覚と、世間の感覚がちがいすぎる。おかあさんの言うことは、兄貴はかない。おかあさんはこまってただけだ。親父とはちがって、注意はしてくれたけど、注意したって、兄貴が聞かない。兄貴がずっと、実力行使で鳴らし続けたら、こまったまま、うなだれてしまう。自分の寝床で、横になっていた。きちがい兄貴がまったく気にしないで、がんがん鳴らす気ちがい空間。そういうものを、押し付けられた。この、騒音の影響なんだけど、ほかの人が考えるように、鳴り終わったら、すぐに、関係がなくなるようなものじゃない。それは、一日のなかでもおなじだし、一生のなかでもおなじだ。ほかの人の考えが、まちがっている。ぜんぜん、ちがう。実際は、ぜんぜんちがう。ほかの人は経験したことがないから、完全に影響を無視できるけど、実際にやられ続けた俺は、無視できない。「無視しようと思えば無視できる」……そういうことを言うやつは、でこパッチンB。だいたい、そういうことを言う人は、実際のヘビメタ騒音を聞いてない。俺の部屋で、きちがい兄貴が鳴らしていた、なまの音を聞いてない。聞かされてない。何時間も何時間も聞かされたら、夜、どうなるかわかってない。本来なら眠るべき、夜の時間、どうなるかわかってない。眠れなくなるんだよ。どれだけつかれていても、朝まで眠れなくなる。これが、一日に与える影響がでかい。帰ったら、鳴っている状態だ。鳴っていたら、どれだけ言っても、一分間もやめてくれない。きちがいがきちがいの意地てやりまくる。そのきちがいの意地というのは、きちがい親父の意地とおなじだ。きちがい兄貴の頑固な態度は、きちがい親父の頑固な態度とおなじ。きちがい親父が発狂して、頑固に「怒り狂っていた」ときと同じ態度だ。「やめろ」と言われたら、発狂して、きちがい的な意地でやり続ける。けど、きちがいだから、そういうことをした「つもり」がない。つねに、きちがい的な意地でやるけど、つねに「つもり」だけはないのだ。「つもり」がなければ、「やったってやったことにならない」のである。主観的にはそうなんだよ。だから、まったく関係がない人として、鳴らし続けるのである。主語? きちがい兄貴だよ。きちがい親父は、別にヘビメタを鳴らさなかった。あいつは、きちがい的な理由で、きちがい的な頑固さを発揮して怒り狂うということをしていた。その、意地や、態度や、自分のやっていることに関する認知が、きちがい親父ときちがい兄貴でまったく、おなじなのである。

きちがい兄貴がヘビメタでやったことというのは、世間的に見れば、どれだけ、常識はずれなことでも、うちのなかでは、「形式的に」成り立っていたことだ。ただ、やっている人間と、やっている内容がちがうだけ。しくみはおなじ。だから、普通の家では成り立たないけど、「うち」では、普通に成り立ってしまうのだ。きちがいが、きちがい的な意地でやって、今度は、きちがい的な意地で「やった」ということを認めないということが、普通に成り立ってしまう。きちがい的な意地でやって、きちがい的な意地で「やった」ということを押し流してしまう。認めない。けど、やっているときは「やったって、あたりまえ」という気持ちがあるんだよ。やっているつもりがないのと、きちがい的な意地でやり続けるのは矛盾がある。普通はそんなことはない。けど、それが普通に成り立ってしまう、「うち」だったんだよ。「うち」では、まったくおかしくないんだよ。


「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言い方のほうが「まだ」まし

 この、「言えば、それが現実になる」というのも、「Xをすれば、Yになる」というタイプの助言だ。「元気になると言えば元気になる」「楽しいと言えば、楽しくなる」「つまらないと言えば、つまらなくなる」「好きだと言えば、好きになる」「つらいと言えば、つらくなる」という言葉も、「Xをすれば、Yになる」というタイプの言葉だ。なんとなく、法則性がありそうな言葉なのだけど、じつは、法則性はない。「言ったところで、現実はかわらない」ということのほうが、法則性がありそうなのである。まあ、これに関しては、あとであつかうことにしようかな~。まあ、いいや。

ともかく、「Xをすれば、Yになる」というあたかも物理法則のような言葉なのに、例外が多すぎるのである。例外が多いというよりも、めったに成り立たないことまで、「Xをすれば、Yになる」というタイプの言い方をする場合が、多すぎる。ある条件が成り立っている場合、「Xをすれば、Yになる」というように、条件をプラスしたほうがいい。そうすれば、「Xをしても、Yにならない」場合の話が楽になる。これはまあ、一時的に楽になっただけで、本当に、「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言葉が正しいのかどうかはわからない。けど、条件をプラスすることで「傲慢さ」がある程度はなくなる。これ、「Xをすれば、Yになる」という言葉をなんの条件も付けないまま、言う場合は、相当に問題がある。どういうふうに問題があるかということについては、すでに述べてきた。たとえば「元気になると言えば元気になる」ということが成り立たない場合について、ずっと語ってきた。「Xをすれば、Yになる」ということを言った場合、無条件にそうなるということなのである。「Xをすれば、Yになる」ということは、100%成り立つことなのである。例外なく、成り立つことなのである。「Xをしたのに、Yにならないことはない」のである。そういう意味で、使っている。「Xをしたのに、Yにならない」ということが、たびたび、発生したのでは、「Xをすれば、Yになる」ということを言うことの意味がないのである。あるいは、「Xをしても、Yにならない」ということが、99%の確率で生じるなら、むしろ、「

「Xをすれば、Yになる」と言うから、試行したみたけど、99%の確率で「Xをしても、Yにならない」ということが判明したら、どうだ? むしろ、「Xをしても、Yにならない」確率が高いと言うべきなのではないかという問題が発生してしまう。もちろん、確率が100%でなければ「Xをしても、Yにならない」とは言えない。これは、すべてにおいて、どんな条件下でもそうなるということを、意味している。なので、1%でも、そうならないことがある場合は、どういう条件のときその1%が成り立つのかについて、考えるべきだ。言い方は、条件付きになる。ようするに、「Zという条件が成り立つとき、Xをすれば、Yになる」という言い方になる。


2021年10月6日水曜日

その方法では、恵まれてない人はしあわせにならないから

「まるまるをすればしあわせになる」という言い方は、わりと、不幸な人を傷つけるんだよ。けど、言っているほうは、いいことをしているつもりで言っている。「方法」を教えているだけだということになる。「方法」を教えて、なにが悪いという気持ちもあるだろう。しあわせになる方法を教えることで、社会全体のしあわせをふやして、なにが悪いという気持ちもあると思う。けど、「まるまるをすればしあわせになる」というのは、まずい問題を含んでいる。このまずい問題に関してまったく無頓着なのは、あなたが、恵まれているからだ。小さいときから恵まれた家庭のなかで育って、いまも恵まれた生活をしているからだ。これが、わかってないと、恵まれてない人を追い込むことになるんだよ。どうしてかというと、その方法では、恵まれてない人はしあわせにならないから。

「人はXをするとき、快を感じる傾向がある」ならありだけど

 こうすればしあわせになるというのは、「よたばなし」でしかないのに、学問的にどうとか、実験で証明されたというのは、どうかと思う。よくないと思う。

「うけ」がよくないのだけど、「人はXをすれば、しあわせになる」と言うのは、信仰でしかない。宗教的な信仰とおなじ。「人はXをするとき、快を感じる傾向がある」なら「あり」だけど、その違いの大きさがわかってない。

2021年10月5日火曜日

人に親切にしていたのである。じゃあ、きちがいヘビメタにやられて……中略……しあわせじゃなかったのだ。

  親切行為ということを考えた場合、どういうことが親切行為だと思えるかどうかということは重要なことだ。たとえば、ぼくは、母親のために二十数年間にわたって毎日、ご飯をつくってきたけど、これが、親切行為なのかどうかわからない。

親切行為なのであれば、ぼくは、毎日、親切行為をしていた。人に親切にしていたのである。

けど、じゃあ、きちがいヘビメタにやられて、働けない状態で、きちがい的な父親と一緒に住んでいて、しあわせだったかというとしあわせではなかったのだ。

きちがいヘビメタにやられたあと、ずっと、からだがくるしい。いまも、くるしい。

けど、きちがい兄貴ほど、夢中になってきちがいヘビメタをでかい音で鳴らした人が、まわりにいない人は、そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの、意味が、ぜんぜん、わかってない。

そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの影響のでかさがわからない。この問題に関係がない人……よその人……自分はヘビメタ騒音にやられたなかった人にとってみれば、ヘビメタ騒音がどれだけでかい音でも、鳴り終わったなら関係がないと思ってしまう。

けど、身体的に言っても精神的に言っても、関係がある。

ともかく、だるい体をひきずりながら、ご飯だけはつくっていたのである。きちがい的な父親もじつはぼくがつくったご飯を食べていた。きちがい的な父親には「たべさせない」というような意地悪はしていない。


ぼくが、母親に親切にしたにもかかわらず、ぼくは、しあわせにはならなかった。それから、母親の状態なのだけど、はっきり言ってよくないのだ。よくなかった。ずっと、超低空飛行なのである。病状がよくなるということがほとんどなかった。

たまに、調子がほーーんのすこしだけいい日があったとしても、次の日には、また前々日よりも悪くなっているという状態で、全体を通して、病気が治るということがなかった。

母親が抱えている病気は一種類ではなかった。同時に何種類もの病気を抱えていた。特に、免疫系の病気がほかの病気に影響を与えていたと思う。ともかく、どれだけ世話をしても、どれだけ、栄養がある料理つくっても、ぜんぜんよくならなかったのである。長期間にわたって……。


もしかりに、母親のためにご飯をつくるということを親切行為としてカウントするのであれば、親切にしたのだから、しあわせになるはずなのである。「XをすればYになる」というかたちで「親切にすれば、しあわせになる」ということを言う人は、現実的なことがまったくわかってないのではないかと思える。


一日のなかで、親切にしたときにしあわせ感を感じる回数と度合と持続時間といったものと、ほかのトラブルで不愉快に感じる回数と度合と持続時間というものを考えなければならないのだ。

どうして、親切にするということだけをとりあげて、ほかのことを取り上げないのだ。一日のなかで、かりに、あかの他人に親切にしたとしても、一日のなかで、きちがい的な家族と、108回の激しいトラブルが生じていたら、全体感情としては、やはり、しあわせだとは感じることができないのである。


介護殺人について思い出してしまった。

50代の女性が、それまで介護をしていた3人の高齢者を殺してしまったのである。それまで介護をしていたということがポイントだ。この50代の女性が、一日で、ひとりつき50回の親切行為をしたとする。

一日で150回だ。介護をはじめてから、50代の女性が3人の高齢者を殺すまでに、3000日あったとする。その場合、150回かける3000日で、合計450000回も親切にしたことになる。けど、この50代の女性のしあわせ感というものはどうだったのだろう。

親切にしてあげたから、しあわせを感じていたのだろうか。親切にしたから、しあわせになったのだろうか。けっきょく、「もうだめだ」と思って、殺してしまったのだから、くるしいものであったと想像できる。しあわせなのに、殺すか? つらかったから、殺したんでしょ。くるしかったから、殺したんでしょ。

どうして、しあわせな人、しあわせ論について語る人はそういうことを無視してしまうのか? どうして「人に親切にすると、しあわせになる……これは絶対に正しい」と思ってしまう人は、そういうことを無視してしまうのか?


2021年10月3日日曜日

ともかく、俺が恥をかくんだよ。俺が恥をかくの……。俺が……。

 「そんなとこ、人の住むところじゃない」とか思っているんだろうな。

せーーかい。せーーかいです。

親父・ネズミ・ダニ事件が、ほんとーーに、親父が俺にやってきたことを象徴している。俺が生まれるまえからこうなんだよな。どうして、生まれる前のことを知っているかというと、おかあさんが、教えてくれた。親父が俺にやってきたことというのは、ほんとうに、こういうことなんだよ。


けっきょく、俺がネズミの糞を処理しなければならない。粗大ごみ回収業者の人に、ネズミの糞がちらばっているけどいいですか」ということを訊いて、スリッパを用意してきてくださいというようなことを言わなければならなかった。けっきょく、土足で上がったけどな。けど、これは、文句を言う気になれないというか、あの人たち、よくやってくれたよなとしか思わない。バルサンをやったのだけど、どうも、効きがあまかったみたいで、たぶん、あの人たちも、ダニに刺された。で、親父の部屋に、毛の長いじゅうたんマットみたいなものがあるんだよ。あれが、ほんとうに、ぼろっぼろなんだよ。回収業者の人が、思わず「これは、いじりたくないなぁ」と言っていた。もうわけない。ネズミのことを考えると、ほんとうに、病気になる可能性があるから、ほんとうに、もうしわけなく感じた。気合を入れてまるめて持って行ってもらったけど、まるめるときだって、ほこりが出る。そのほこりのなかにはダニが入っている可能性が高い。いやじゃん」。あれ、置いてほしくなかったんだよな。「そんな、ほこりが出そうなものをおくなよ」と親父に言ったこともあったんだけど、親父は、いいじゃないかというようなことを言っていた。まあ、親父の部屋だからいいんだけどさ……。いいんだけど、ネズミの侵入という事件があるとちがってくる。どうして、俺が「ネズミ対策工事しよう」と言ったら、「そうしよう」というようなこたえをかえしてくれないんだ。「捕まえるからいい」の一点張りだ。

ともかく、俺が恥をかくんだよ。俺が恥をかくの……。俺が……。

自分は恵まれていると思ったほうがいい

  恵まれている人は、自分のことを普通だと思わないほうがいい。自分は恵まれていると思ったほうがいい。けど、人間というのは、どうしても、自分が普通だと思ってしまう。どうしても、自分が育ってきた環境が普通だと思ってしまう。どうしてかというと、自分のまわりの人もおなじような環境の人がおおいからだ。また、どうしても、自分を中心にして考えてしまうので、自分は普通だと思ってしまう。自分ができることは、他人もできてあたりまえだと思ってしまう。逆に、自分ができないことは他人もできないというような感じがしてくる。


けど、マリーアントワネットの発言の背後にあるのは、「自分は普通」という考え方だ。「自分には、パンもケーキもある。みんな、パンもケーキも持っいるんでしょ。だったら、パンにこだわらないでケーキを食べればいいんじゃないの」と考えてしまったわけだ。けど、民衆は、パンもケーキも持ってなかった。なので、その認知のギャップが、民衆の心に火をつけてしまったわけだ。もちろん、怒りという「火」だ。


侮辱

 侮辱と言うのであれば、「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言う人が、さきに、不幸な人を侮辱しているんだよ。どうして、それがわからないんだよ?


2021年10月2日土曜日

まあ、エチケットとしてマスクはするけどね。

   https://note.com/info_shinkoro/n/n4a11e20ca95c



2021/5/5更新】「マスクの効果とリスク」の徹底検証 (データで読み解くコロナ騒動,第2章)


まあ、エチケットとしてマスクはするけどね。


マスクはファクターXじゃないということだね。

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恐ろしいのはワクチンの主成分が血液脳関門をこえることができるということだ。だから、まるまるがまるまるなのか。こういう重大なことを、どうして教えてくれなかった。

Ct値ってそういうことだったのか。なら、新規感染者数の報道なんてまったく意味がない。

ゲーム感覚で楽しんでいるのだとしたら、まるまるのような人たちだな。

こうなってくると、飲み薬(経口薬)もやばいかも。


2021年10月1日金曜日

俺を追い込むようにできているのだ。

  やっぱり、顔を刺されたのがでかいな。今日はさみしい夢を見た。俺は、自転車に乗っていた。で、信号で待たされたので、ちょっと折れて、別の道で家に帰ることにした。その別の道というのは、子供のころ、よく自転車で走っていた道で、俺にとって懐かしい道だ。で、家に帰るとおかあさんがまっていると思って、走ったのだけど、……帰ってみると、だれもいないこのうちだったという夢だ。そりゃ、起きたら、家族がだれもいないうちなんだからな。家族のうち、親父と兄貴は、俺の人生を破壊した張本人なので、家にいてほしくないのだけど、おかあさんはちがうんだよ。


これ、俺じゃない人にはわからないと思うけど、親父のきちがい構造や兄貴のきちがい構造が、俺をほかの人から、孤立させるのである。ごく自然にきちがい構造に従った行為をするのだけど……それも、頑固に何年間も、何十年間も毎日毎日、きちがいしかやらないようなことをするのだけど、きちがいしかやらないようなことを、ごく自然にする……ということが、ほかの人にはわからないんだよな。ほかの人にとっては「そんなのは、言えば理解してくれるでしょ」「言えばいいでしょ」というような話なのだ。ところが、態度と認知と行動がそうじゃないのだ。これが、どれだけこたえるか?


俺を追い込むようにできているのだ。

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あと、鼻の内側をダニにされたのはショックだ。鼻の頭をダニに刺されたのはショックだ。これだって、親父が、普通の人が信じられないような行為にこだわって、やった結果だ。まず、親父は、俺がたのんでないのに、俺が料理をしていたとき、料理をするときに出たごみを、毎日、いちいち、物置に置いたごみ袋にうつすと言って聞かなくなった。俺が何十回も、そんなことをやらなくてもいいと言ったのに、けっきょく、自分(親父)が思いついたことは、やってしまうのだ。親父は……。そういうかわったことを、きちがい親父が言い出すと、かならず、いやなことが起こるので、俺は反対した。

けど、そのときは、物置に置いたごみ袋を目指して、ネズミが集まってくるということは、わかっていなかった。未来予知ができなかった。「なにか、おかしい」「なにか、いやなことが起こる」という予感はあったのだけど、理由を聞かれると、「なにか、いやなことが起こるような気がする」としかこたえられなかった。

明確な理由をこちら側が説明しても、けっきょく、きちがい親父は、自分(親父)が思いついたことはやってしまう。修正がきかない。この修正がきかないというのは、兄貴の場合もおなじで、「うるさいからやめてくれ」と言っても、兄貴の行動を修正することができない。


普通なら、「ああ、そうか」で、すむことが、何十年間も毎日、「ああ、そうか」で、すまないことになる。


絶対の意地でやってしまって、責任をとらない。関与すら認めない状態でやり続ける。きちがいが、きちがい的な意地でやっているのに、本人は、特にやっているつもりがないのと同じ認識になってしまう。

意地になってやっているのに、意地になってやっているつもりがない状態が続く。これが、ぼくが、親父や兄貴のことを、きちがいと言っている理由だけど、ほんとうにこまるんだよ。兄貴はともかく、親父のことをきちがいだと言えば、「親をきちがいと言うなんて、けしからん(おまえがきちがい)」と言うやつが必ず出てくる。

けど、そういうことを言う人は、どれだけこまるかわかってない。どれだけ、こまるかわかってない。ほんとうに、人の人生ぜんぶを破壊するちからがある。「のうのくせ」でそうしているのだから、毎日ずっと、自然にそういう状態が続いてしまう。

きちがい親父が、いつもいつも、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、きちがい的な理由で怒っている家なんて……。きちがい的な理由で怒っているにもかかわらず、そういう自覚がないんだぞ。『きちがい的な理由で怒るのはやめてくれ』と言ったら、「口答えをした。おんだされた。おんだされた。お相撲さんの世界では、親方が白と言ったら、黒でも白なんだ」とか言ってぶんなぐってくる。

時間がたったあと、親父がそういうことをしたと言えば「そんなんじゃな!!そんなんじゃない!!」と逆上してしまう。きちがい的な理由で怒るときの態度と、自分がやったことを否定して怒るときの態度がおなじなんだよ。おなじ態度、おなじ形相で、怒り狂う。きちがい的な頑固さを発揮して、ゆずらない。相手が言っていることを認めない。


ほんとうに、わかってないな。きちがい親父も、「親をきちがいと言うなんて、けしからん(おまえがきちがい)」と言うやつも、まるでわかってない。

きちがい兄貴なんて、きちがい親父の騒音バージョンだ。きちがい親父が、音を出すことにこだわったらああいうことになってしまうんだろうなという感じだ。きちがい親父は、おとをだすことにはこだわらなかった。そういう趣味が「たまたま」なかった。けど、きちがい兄貴は、ヘビメタをともかく、でかい音でがんがん鳴らしたいという欲求・欲望を持ってしまった。そうたら、『きちがい親父の騒音バージョン』のできあがりだ。きちがい兄貴の態度は、きちがい親父がヘビメタに興味を持ってしまったときの態度と、おなじだと思う。きちがい親父が、この世で、ヘビメタに興味を持つということがなかったから、親父がああいう態度で、ヘビメタを鳴らすということがなかっただけだ。

「そんなにでかい音で(お兄さんが)鳴らしているのに、親が注意をしないなんておかしい」とか、これまた、普通の家で育った普通の人が言うんだよ。わかってないのは、普通の家で育った普通の家の人なんだよ。ほんとうに、もう、涙が出てくる。くやし涙が出てくる。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。